芥川龍之介 手帳8 (3) 冒頭パート(Ⅲ)及び《8-1~4》
○夫人(30歳)嘗資産家に嫁し離緣になり後僧に嫁す(眞言宗)僧は五十近し 好人物 書畫を愛す 性的に利かず 夫人曰二年間一度も安らず 夫人の妹(20―21歳)東京の女學校にゐる M と四つ違ひ 同じ小學校にあり 夫人の兄 ○温泉場へ M をつれゆき怪まざりしは上京中の妹を M と一しよにすべく M の人物を知りたい爲一しよに行つてゐた ○夫人曰 M と夫人との間をつづける爲には妹の夫となれ 且夫不能の爲別居したし 故に M と妹と一しよになれば二人を東京にすませ おのれも一しよになる M 曰そんな事は恐しくないか 夫人やや本心にかへる M 又曰結婚すべくんばもう一度見たし(小學時代に見し時は美しかりしも) 夫人と M と妹をよびよせる M 結婚する氣にならず 妹は一しよになつてもよいと思ふ ○妹再東京へかへる その時船へのるのに W の別莊へ一晩とまる方よろし(W は夫人の友人の別莊なり) 夫人妹と別莊にとまらんとす そは夫人 M ととまる事を欲せしなり されど別莊番の娘藝者にて 母のもとへ來る この女 M を先生と稱す 別莊番の妻亦娘を M ととりもたうなどと云ふ それ故 M は夫人をそこへともなひたくなし 又 M に云はせれば妹來る事夫人との關係上困る故とうとう來る事を斷る ○M その境涯に安んぜず 夫人に大島を拵へてもらひ上京す 二ケ年後には既に夫人の兄大本教信者となり その爲夫人と妹と大本教となる 而して夫人の夫の僧も大本教となる その結果本堂の本尊と大本教の神と二つ並べて禮拜し始む ○妹結婚されなくなりしは業なりとし 夫人及夫人の兄妹の體を大本教の神に捧げよと云ひ 遂に王仁三郎に獻じ 夫人亦王仁三郎のもとに走る(眞言宗との關係もあり) 大本の神をまつりし爲村をおはる ○detail 溫泉場滯在中 M Art を思ひ且その atmosphere にたへず 上京するにつき basket etc. を買ふ 夫人皆買つてくれる 立つ時下着の大島を男物にしたて直し M にきせる(金)頸にかける金鎖は舊式故 帶へまく時計にすれば半分となる その拵へ直し方をたのみ 半は M にくれると云ふ ○M 湯島天神下(封筒を走らす宿)へかへる その後二年間に M の妹上京す M の妹の友だちあり こは郷里同じにて M と一しよになりたがり娘の親及 M の妹も贊成す この女上京し大學病院の看護婦となる 又宿の女將の姪に女歌人(畫もかく)あり M 病氣にてねるとこの連中見舞に來る 但し妹は郷里にかへる 琅の妹出現(琅の汽車中
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《8-1》
[やぶちゃん注:ここから、新全集の原資料パートに底本を変更し、漢字は旧全集と校合して正字化した。]
すすめらる)結婚問題、當時 M 身神つかれ 夫人に云ひしに人參の廣告を見舞狀に封じてよこす 宿の女房の夫は移民會社の船員 女房は荒物屋兼髮結をやりをる 故に M とも關係あり 亭主の鯉口の外套を着て步く 亭主好人物にて亞米利加へ行きし時一弗の watch を買つてくれる 質に入れると二圓かす
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《8-2》
看護婦になりし女性 M を見舞ふ(果物 菓子 藥) 怜悧なり M しばしば一しよにならんかと思ふ されど琅々の妹の問題あり その後その女看護婦として進級し 後病死す 死ぬまで M を忘れず
M の支那旅行中郷里の妹より手紙をよこす M は東京の家に wife と妹(白木屋に入り裁縫にて身を立つ)と子供とをおきし故 heimat より來りしに驚く その手紙に「病氣になり郷里へかへる ×(看護婦)も死ねり」と云ふ
閏秀歌人(畫)は橫濱にあり 中流の娘 池上秀畝の門なり その同門の弟子と折合はず M の Art と同感し M に畫を見せ批評を請ふ
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《8-3》
又歌をみせ批評をこふ(露骨な歌) 繪の具の材料など M に使用せしむ この人亦肺病なり 通知來る 生前畫を約す M 行けば一家寺にあり M 畫をさげてゆく 兩親よろこぶ 娘の三脚畫の具等皆貰ふ 畫の具は他の日本畫家に賣る
夫人の妹東京にて電報をうく 妹の友だちも皆結婚問題なりと云ふ hesitation but desire to return and 幼な友だち同志相見る
男あり(農) 夫人を口どきし事あり
その男などの口より M と夫人との關係公にならんとす
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《8-4》
M と夫人と溫泉場にゆきしは(M の數年前に云ひしは)夫人が友だちの所へ遊びに行く事とし 友だちの方が萬事好いやうにしてくれる云〻
M の上京後 M の love が他にうつりし後 M の從弟(M に似る)に夫人云ひよる 出來ず 結婚後も M は夫人に逢ふ 夫人は舊好をあたためたき氣あり
○琅々と水木との話
○おちね婆さん(寶屋)の詩
[やぶちゃん注:このメモ、作品構想メモにしては異様に細部が細かく、展開も恐ろしく複雑で、しかも「大本教」(明治二五(一八九二)年に「出口(でぐち)なお」を教祖として出口王仁三郎(おにさぶろう)が組織した神道系新宗教。「なお」の「お筆先」による「艮(うしとら)の金神(こんじん)の世直し」を唱え、「みろくの世」(神の国)の到来を説いた。大正一〇(一九二一)年(このメモの数年前か)に不敬罪と新聞紙法違反で弾圧を受けている)「池上秀畝」(しゅうほ 明治七(一八七四)年~昭和一九(一九四四)年:日本画家といった実在する固有名詞が出る(こういった当時実在した問題とされた新興宗教団体や現存の著名者を小説中にもろに出すのはあまり龍之介らしくない)ことなどから見て、私は誰かの語った話に惹かれて、走り書きしたものではなかろうかと考えている。これらを素材としたと思われる芥川龍之介の小説も私は思い浮かばぬ。なお、温泉場が頻りに出る辺りは、前条までの、芥川龍之介が大正一四(一九二五)年四月十日から五月三日まで滞在した修善寺との連関も私は考えている(そこでの聞き書きの可能性、という意味で、ということである)。イニシャル「M」は縦である。
「atmosphere」芸術的(芸術への渇望の)昂揚気分の謂いであろう。
「鯉口」(こいくち)は、和服で水仕事などをする際、着物が汚れるのを防ぐために上に着る、袖口の小さい筒袖の上っ張り。
「一弗」一ドル。
「琅の妹出現(琅の汽車中すすめらる)」「琅」が不明。固有名詞であるが、名前なのかも判らず、しかも突如出るから、人物関係が判らぬ。丸括弧内の意味も判らぬ。或いは誤判読で後もそれで表示してしまったのではないかと私は疑っている。しかし、正しくどんな字だったのかも推定できない。
「結婚問題、」読点は新全集のママ。
「身神」ママ。
「琅々」ママ。旧全集は「々」がない。
「白木屋」当時東京日本橋にあった現在の東急百貨店の前身ともいえる老舗百貨店。白木屋デパート。
「heimat」不詳。私は「(小さな)村」の意の「hamlet」の誤記か誤判読ではないかと思ったが、新全集でもそう判読している。
「hesitation but desire to return
and」躊躇しているけれども帰ることを強く欲し。
「おちね婆さん(寶屋)の詩」不詳。これは前の長い話とは無関係かも知れぬ。]