芥川龍之介 手帳7 (12) 紫禁城(Ⅲ) 諸画(続き)
○集義殿 南田の牡丹 ※維城 泉林雨景のみ 臣何とか繪中よし 王蒙――長松飛瀑圖 僞? 李公麟 十六應眞 俗
[やぶちゃん字注:「※」=「金」+「義」。
「集義殿」やはり紫禁城東南部の文華殿を中心としたブロックにある。
「南田」前条で既出既注。
「※維城」不詳。読みも不詳。
「繪中よし」意味不明。『「繪」、「中」〻(なかなか)良し』の意か。
「王蒙」(一三〇八年~一三八五年)は元末の画家。黄公望・呉鎮・倪瓚(げいさん)らと並ぶ「元末四大家」の一人。ウィキの「王蒙(画家)」によれば、『呉興(現浙江省)の出身。元初期を代表する文人である趙孟頫の外孫であり、王蒙の父の王国器も黄公望や倪瓚とも親交があるほどの文人であるという名家の生まれである。王蒙は、祖父趙孟頫の影響を強く受けたが、また黄公望にも師事した。さらには、唐時代の王維、宋時代の巨然らの影響も受けて緻密ながら』、『壮大な山水画を描いたという。このため、王蒙は南宋画の大成者の一人とまで称された。元末期には、官についたといわれる。後に国が乱れて各地で騒乱が発生すると、騒乱から避難するために官を辞して杭州北部の黄鶴山に隠棲し』、一三四一年には『黄鶴山樵と号している。絵画だけでなく』、『詩作にも優れた才能を発揮した。明初期に洪武帝の招聘を受けて州知事にまで昇進したが』、「胡藍(こらん)の獄」(明初期の一三八〇年、宰相胡惟庸(いよう)の造反計画を契機として発生した粛清事件)に『連座して獄死した』とある。
「長松飛瀑圖」現在、台湾の國立故宮博物院蔵。中文サイトのこちらで画像が見られる。但し、芥川龍之介は偽作かと付記している。
「李公麟」(りこうりん 一〇四九年~一一〇六年)は北宋の画家。ウィキの「李公麟」によれば、『現在の安徽省六安市出身。字は伯時。号は龍民居士。科挙を受験し』一〇七〇年に『進士となる。官僚を務めるかたわら、考古学者として銅器など骨董品の年代確定でも活躍した。退官後の晩年は画の制作に専念した』。『東京国立博物館に、李公麟の作と伝えられる「瀟湘臥遊図巻」が所蔵されている(実際は同郷の別人が描いたものとされる)』とある。
「十六應眞」十六羅漢の図像。但し、道教の影響を強く受けたもので、このタイトルで多くの作がある。中文サイトのこちらから李公麟のその全図が見られるが、芥川龍之介が「俗」と一蹴しているのが判る気がする。]
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