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2018/01/05

原民喜作品群「死と夢」(恣意的正字化版) 迷路

[やぶちゃん注:本作品群「死と夢」は原民喜の没後、角川書店版「原民喜作品集」第一巻(昭和二八(一九五三)年三月刊)で「死の夢」という総表題で纏めた形で収録されたものである。生前に刊行されたものではないので「群」と敢えて呼称したが、角川書店版以降の原民喜の作品集・全集に於いては、一括収録される場合、この総表題が附されるのは、原民喜自身が生前にそのように分類し、総表題を附していたからであり、かく標題提示することは筆者自身の意志(遺志)と考えてよい。

 本篇「迷路」は昭和一三(一九三八)年四月号『三田文學』に発表されたものである。

 底本は一九七八年青土社刊原民喜全集「Ⅰ」を用いたが、歴史的仮名遣表記で拗音や促音が概ね無表記という事実、及び、原民喜の幾つかの自筆原稿を独自に電子化してきた私の経験に照らして、漢字を恣意的に正字化することが、原民喜自身の原稿原型に総体としてより近づくと考え、かく処理した

 一部の段落末に簡単な注を附した。【2018年1月5日 藪野直史】]

 

 

 迷路

 

 淡い藍色の山脈の上には、その山脈の幅だけの空が、蜜柑色に暈どられてゐて、重苦しい雲がそのまはりを覆つて居たが、それが宗彦の眼には何かよくない徴(しるし)のやうに映つた。列車は夕闇の軌道の上を進んでをり、時刻は呆けた冬の靄を枯木に絡ませてゐた。宗彦は虛ろな顏つきで、硝子窓の外を視凝めてゐた。冷々として身も魂も地の底へ引込まれさうになるのだが、やがて目的地に着けば、今度こそ湯に浸れて憩へるのだつた。[やぶちゃん注:「暈どられて」「くまどられて」。]

 機關車は疲れたやうな吐息をつづけ、汽笛が優しい悲鳴をあげた。夕闇に包まれた山脈はなほも次々に姿を現はし、次第に輪畫がはつきりして來た。そのうちに窓の外が妙に白らんで來て、空の一隅に故郷の山が見え出した。宗彦ははつとした。しかし、眼に見えて來るのは、たしか見憶えのある地方の風景で、外はもうすつかり朝の姿なのだつた。宗彦は山の温泉へ行くつもりで、この汽車に乘つて居たのに、そして向ふへ着く時刻は夜と決まつて居たのに――すべてが不意に喰ひ違つてしまつた。

 狼狽して宗彦は周圍の人々に血走つた眼をくばつた。しかし、車内の人物は凡て前と變りなく、澱んだ電燈の下で、穩かな旅を續けて居るのだつた。と、思ふと、電燈がパツと消えて、人々の顏は却つて活々して來た。人人はてんでに網棚から荷物を取下ろし出した。宗彦は學生帽を被り、ボストンバツグを提げて昇降口の方へ出てみた。汽車は速度を緩めて、故郷の都市の一角が今眼の前を通過して居た。そのうちに昇降口には降りる人がぞろぞろ集まつて來た。列車はホームに橫づけになり、驛の白つぽい建物が前にはあつた。宗彦はふらふらとホームに降りてしまつた。

 人々の後から從いて、地下道へ降りて行つたが、宗彦はここまで來ると、またこの間のやうに改札口には誰かが出迎へに來てゐて呉れさうな氣がした。左右のコンクリートの壁に跫音が侘しく響き、疲勞した身體はまるで泳ぐやうに進んで行つた。やがて、改札口に出ると、はたして、誰かが彼の名を呼留めた。

「宗彦さんですか」相手の聲はひどく痙攣してゐたが、宗彦は吻としたやうな顏で頷いた。すると、相手は宗彦のバツグをひつたくるやうにして受取り、「早く! 早く! 早く!」と口走りながら、自動車を傭つた。しかし、宗彦はもう急いだつて仕方がないやうに思へた。「澤田まで行け! 澤田だ。大至急!」と、相手は運轉手を呶鳴りつけて、宗彦の橫に腰掛けた。何も彼もこの前と同じで、自動車の窓越しに見える橋の景色まで同じだつた。すると、まだ母は死んではゐなかつたのかしら――と、宗彦は次第に胸騷を覺え、臨終へ駈つけて行く息詰る氣分にされた。タイヤの下で唸る砂や、窓の隙間から吹込んで來る風があつた。[やぶちゃん注:「吻と」「ほつと」。]

 間もなく宗彦の家が見えて來た。見るとやはり二三人の女達が待兼ねて出迎へてゐるので、宗彦はがつかりしてしまつた。「早く、早く、早くいらつしやい!」と、うはずつた調子で女達は宗彦を奧へ導き入れた。宗彦ほ大變急いでゐるやうにして學生帽や、ボストンバツグを玄關脇に放り出したが、ふと何か躊躇を感じて、放り出したバツグの位置を直したりした。すぐ隣室の座敷からは女達の啜泣きや、人々の囁きが洩れてゐた。宗彦は廊下から𢌞つて隣室の方へ行くごく短かい距離を、今は大變困難な氣持で進んでゐた。それで、非常に急いでゐながらも暇がかかり、――これは一體どうふしたのかしらと怪しまれるのであつた。

 しかし、眼の前に座敷の光景が現れた時、忽ち一切に明瞭になつた。母は南枕でだらりと兩手を蒲團の上に投出してゐた。その兩手を左右から醫者と看護婦が握つて、鼻に酸素吸入器をあてがつてゐた。吸入器の液體を吸ふ音がすぽすぽと鳴つた。室内の光線は大變明るかつたが、立つたり坐つたりしてゐる人々の顏はみんな茫と霞んでゐた。腕組みして立つてゐた兄が、宗彦の姿を認めると、「君が戾つて來るまで注射でもたしてゐたのだ」と低い聲で云つた。

 「さうか!」と宗彦は不意に大きな聲を放ち、がくりと母の枕頭に蹲つた。母の顏色は普段と左程變つてゐなかつたが、閉ぢた瞼のあたりに灰色の暈が淺つてゐて、頻りと齒齦を開いて喘いでゐるのは、濛々とした夢のなかを今、潛つてゐるらしく、まるで嬰兒のやうに哀れであつた。しかし、宗彦はふと、一ケ月前に死んだ筈の母がまだそこにゐるのを不審に思つた。すると、母は急に寢返りして、顏を宗彦の方から背けてしまつた。宗彦ははつとして眼を瞠つた。が、周圍の人々には何の動搖も生じなかつた。遠くの廊下をドカドカと子供達が走り𢌞つたり、何か云ひ爭ふ聲が聞えた。宗彦のすぐ眞正面には他家へ嫁いだ妹が、唇を歪めて泣いてゐた。その袖に槌つて兄の小さな娘が、可愛い聲で泣いてゐた。皆はもう長い悲嘆に慣れつこになつてゐるやうな姿で、今はいささか氣も惰れてゐるやうに見えた。宗彦はそれでも醫者の側に寄つて、「注射でもててるのですか」と、訊ねないではゐられなかつた。醫者は默つて退屈さうに頷き、母の脈をぢつと數へてゐた。のろのろと時間が移つて行つた。母は宗彦の方に肩を見せた儘、絶えず苦しさうな息をついてゐた。[やぶちゃん注:「齒齦」音は「シコン」であるが、ここは意の当て訓「はぐき」でよいであろう。「惰れて」「だれて」。訓は「おこたる」であるが、ここは音と意から「気持ちが弛んで緊張感がなくなる・だらける」の意を表した当て字である。]

 そのうちに、宗彦の後にゐた叔母が「さあ、そろそろ末期の水をあげなさい」と促した。綿を纏つた箸を受取ると、宗彦は母の枕頭の方へ𢌞つて行つた。すると、母はまた寢返りを打つて顏を背けてしまつた。瀕死の病人がかうして樂々と動けるので、宗彦は次第に怕くなつた。周圍の空氣や人物まで、どうやら少しつつ奇怪に思へて來た。しかし、酸素吸入器は確實に少しつつ費されて行つた。そして、それが無くなつてしまふと、醫者は母の顏から器具を遠ざけた。間もなく母は大きな苦しさうな呼吸をし出した。「あ、大きな息が始まつたな」と、誰かが云つた時、母の赤らんだ顏は忽ち土色に變つて行つた。醫者は母の手を離し、時計を眺めた。「大きな息は一囘きりだつたな」と、また誰かが云つた。あつちでも、こつちでも新たに啜泣く聲が始つた。母はぐつたりと呼吸をとめて、今は微動だにしなかつた。

 この時になつて、宗彦には更にぞつとすることが生じた。今迄母の顏は普通の女の大きさだとばかり思つてゐたのに、氣がつくと、それは二倍も三倍も大きいのだつた。顏ばかりではなかつた、軀全體がまるで巨人のやうに脹らんで居て、胸などは高く蒲團を突上げて聳えて居た。そして母の額には嚴しい大きな皺が一杯刻まれ、土色の頰には次第に殘忍な表情が募つて行つた。宗彦は恐怖と悲哀で、そつと眼を伏せて淚ぐんだ。

 宗彦は再び視線をあげて、母の方を覗つた。すると忽ち母の顏には激しい不可解な怒りが漲つて行つた。大きな顏は今怒りではちきれさうになり、左右に投出されてゐる母の掌の指が一本づつ靜かに開かれた。母は手を差上げた。母の眼はかつと見開かれて、爛々と燃えた。母は苦しさうに巨體を上げて、床の上に立上つた。頭髮は亂れ、天井とすれすれに在つた。暫くは何か冷たい風のやうな唸りを齒間から發してゐたが、やがて宗彦の方をきつと睥み下すと、彼を指差して云つた。「こいつが、僕を疑つてるぞ!」それはまるで兇暴な男の發する聲であつた。一瞬、宗彦の耳にはビユーと鳴る風が通過した。と、座敷中に險惡な空氣が閃いて、無數の眼で威壓されてゐた。さつきまで淚を湛へてゐた人々の眼が、まるで狼のやうな怒りに燃え狂つて、ぢりぢりと宗彦の方へ迫つて來た。しかし、その時、母の威丈高な姿勢が次第に崩れそめた。母の廣い肩から、がくりと力が脱けたかと思ふと、母は兩手を宙に泳がせながら無念さうな身悶えをつづけ、暫くはまだ立上つてゐたが、やがてふらふらと床の上に倒れてしまつた。見ると、もう母には何の變化も認められなかつた、それはたつた今、呼吸をひきとつた母の姿であつた。そして氣がつくと人々はもう座を離れて、みんなてんでに働いてゐた。宗彦は悄然と立上つて次の間へ行つた。

 其處ではテーブルが持出されて、もう兄は頻りに死亡通知の電報を書いてゐたが、すぐ側のソファには義兄が橫になつて、子供の吹く喇叭を面白さうに口にあてて居た。義兄は今にも吹いて音を立ててみたいやうな顏つきで、それが餘程娯しさうだつた。宗彦は何をしていいのかわからなく、ばんやりと柱の脇に立疎んでゐた。今、外では紫色の雨が靜かに降つて、部屋のうちは非常に薄暗く、天井や疊に虛ろな黑い影がぼそぼそと這ひ𢌞つてゐた。ふと、宗彦のすぐ前に老人がよろよろと步いて來た。宗彦の父が生きてゐた頃からずつと店にゐたその人は、暫く振りに見ると、全く老衰してゐた。眼ばかりが鋭く輝き、動作は緩慢であつた。彼は宗彦の前に來ると、細い聲で、「お母さんが……」と呟いた。宗彦は急に悲しみが崩れて、今は子供のやうに泣聲をあげた。老人は老人で眼に指をあてて靜かに淚を拭つた。それから暫く宗彦を睥むやうな顏つきで見守つてゐたが、突然、眼底に變な閃きが生じたかと思ふと、老人はワハハハハと物凄い笑ひ方をした。そして、きつと宗彦を睥みつけ、またワハハハハと笑つた。「ざまあみやあがれ! 親の罰、天の罰、思ひ知れ!」と云ひざま、彼は宗彦の胸許を摑んで、ぐつと引寄せ背負投げで疊に叩きつけた。と、思ふとまた宗彦を引寄せ、繰返し繰返し背負投げを續けて行つた。[やぶちゃん注:「ソファ」はママ。]

 その時、隣の座敷から、鐘を鳴らす音がして、次いで讀經の聲が洩れて來た。すると老人は宗彦を蹴飛ばしておいて立去つてしまつた。宗彦はふらふらと立上ると、隣室へ誘はれて行き、一番後の閾のところに、ペつたりと坐つた。と思ふと、誰かがポカリと宗彦の橫面を撲つた。「もつと前へ出ろ!」と、すぐ橫に坐つてゐた兄が呶鳴つた。宗彦が二三人前の席へ割込んで行くと、見憶えのない女が彼の顏を覗き込んでくすりと笑つた。宗彦は凝と正面に眼を据ゑた。佛壇には澤山の香奠袋が重なり合つて竝べられ、蠟燭の燈が大變美しく搖れてゐた。宗彦の視線は人々の肩を越えて、そつと母の死骸の方へ漾つて行つた。母の寢床はもう部屋の一方へ片寄せられて、顏には白い覆ひが懸けてあつた。坊さんは御經を悠長な聲で讀んでゐたが、途中から止めてしまふと、吻としたやうな顏で一同にお叩頭をした。それから坊さんは紙と筆を運ばせて、立ちどころに戒名を書き、それを佛壇の前にそつと置いた。もう人々は座を立ちてんでに何か喋り合つてゐた。

 宗彦も吻として立上つたが、次の瞬間にはもう自分が何をしていいのやら解らないので迷はされた。が、恰度いい具合に妹が聲を掛けて呉れた。「暫くでした。いいことで出逢へたのならいいのですに……かう云ふことで出逢はうなどとは……」と妹は唇を歪めて泣いた。次いで伯父が宗彦の姿を認めて、一寸會釋してくれた。すると又別の人が宗彦の前に來てお叩頭をした。それから又別の人が現れた。宗彦は見憶えのない顏も多かつたが、相手はどんどん入替つて悔みを述べた。そのうちに「お面!」と云つて誰かが宗彦の頭を撲りつけた。すると後から後から皆がそれに倣つた。そして最後に、「ヤア」と云つて義兄に手を握られた。「面白いもの見せてやるから臺所へ行かう」と、義兄は宗彦の手を引いてよろよろと進んだ。大分もう酒に醉拂つてゐるやうな足どりだつた。

 臺所には皿や鉢が一杯竝べられて、人と料理でごつた返してゐたが、ふと片隅から頓狂な聲で宗彦は呼掛けられた。「まあ宗彦さん……」と、彼の家に長らく働いてゐる老婆はさう云つたまま暫く聲を吞んだ。そしてポロポロと淚を零した。淚は老婆が手にしてゐる皮を剝がれた赤蛙の肢に落ち、赤蛙はピリピリと肢を慄はせた。老婆はそれを串に刺して七輪に掛けた。火の上でも蛙はまだピクピク動いた。「なるほど、こいつはうまさうだね」と義兄が老婆に口をきいた。老婆はにつと笑つて、「それでも人數前、集めるのには苦心しましたよ」と呟いた。見ると老婆の後の箱には澤山の赤蛙がピヨンピヨン跳ね𢌞つてゐた。宗彦は何だか空恐しくなつて、そつと臺所を拔けて行つた。

 次の間の緣側では呉服屋がいろんな反物を竝べてゐて、四五人の女達が集まつて、てんでにその反物を見はからつて居た。どうやら喪服を註文してゐるらしいのだつた。「かう云ふ際だから私はついでに訪問着が欲しいわ」と妹が云つた。と、今度は姉が、「それなら私ほ今度生れて來る赤ん坊の産衣を證文しようかしら」と云つた。「さうよ、死んだ人より、生れて來る人の方がずつと大切だと思ふわ」と、眼鏡を懸けた女學生が口を挿んだ。氣がつくと、一番向ふの端に、死んだ筈の母がちやんと坐つてゐて、皆と同じやうに反物を繰展げてゐるのだつた。母はぼろぼろの普段着を纏つてゐて、眼がよく見えないものだから、何だか氣疎さうな容子で、手に展げてゐる反物にもあんまり興味を感じて居ないらしかつた。そして、娘達の話に加はるでもなしに、唯一人でぼんやりと存在して居た。しかし、母の凭掛つてゐる後の壁は雨漏りのために處々禿げて赤土を現はしてゐたが、その邊の光線はひどく朦朧としてゐた。暫くそれが氣になるので宗彦は立留まつて眺めてゐた。そのうちに母の一番近くにゐた妹が、ふいと母の方を振向くと、母の手にしてゐた呉服を何か云ひながら引手繰ると、母は默々と妹に手渡すのであつた。[やぶちゃん注:「氣疎さうな」「けうとさうな」。ここは前後から見て「気にそまない・納得がいかない」程度の謂いであろう。]

 その時、宗彦の背後から誰か子供らしい拳が來て、膜のあたりを頻りに撲り出した。宗彦はいい加減にあしらつてゐると、子供の方では圖に乘つて到頭、宗彦の身體に攀登つて來た。それで宗彦は後へ手を𢌞して押退けようとすると、子供はすかさず宗彦の耳のあたりを引搔いた。宗彦は無性に腹が立ち、全身を搖すつて、子供を振ひ落した。疊の上に倒れた子供は姉の子供だつた。甥の眼には興奮の淚が光つた。宗彦の方でも遠かに悲しくなり途方に暮れてしまつた。ところが小さな甥は猛然と跳ね起きて來た。甥は宗彦の頰に飛びついて、ガリガリと爪を立てた。甥の小さな指は血で染まつた。宗彦がぢつと怺へてゐればゐるほど、甥は益々猛り立つて來た。[やぶちゃん注:「怺へて」「こらへて」(堪(こら)へて)。]

 とうとう宗彦は湯殿へ逃げ込んで戸を立てた。が、其處には若い女中がひとり鏡に對つて、口紅を塗つてゐた。宗彦は傷けられた顏を冷水で洗つたが、何の感覺も感じられなかつた。鏡でちらと自分の顏を眺めると、顏は醜く曇つてゐて全體の輪畫がひどく歪んでゐた。宗彦の側にゐた女中は胡亂さうに彼を眺めてゐたが、彼が愚圖愚圖してゐるのに立腹したらしく、エヘンと咳拂ひをした。恰度そこへ彼を搜しに義兄がやつて來た。「あんまり搜させるものぢやないぞ、みんなもう揃つてるのにこんな所で何してたんだ」と、義兄は宗彦の片腕をぐいと摑んだ。もうひどく醉拂つてゐるらしく、義兄は大變力強くなつてゐた。そして、ぐんぐん彼を引張つて、廣間の方へ連れて行つた。[やぶちゃん注:「胡亂さうに」「うろんさうに」。「ウ」「ロン」ともに唐音。疑い怪しんでいる様子で。胡散(うさん)臭そうに。]

 廣間には大きな食卓が持出されてゐて、其處では澤山の人が飯を食つてゐた。大概の人が意氣昂然として、箸を持つてゐる手つきまで正々堂々としてゐた。あんまりいろんな顏があるので宗彦は呆氣にとらはれたが、不思議なことには、新聞の寫眞でよく見る偉い人の顏も二三ちらついてゐるのだつた。その偉い人達は鷹揚に威嚴を保ちながら酒を飮んでゐた。そして、人々が彼等を笑はせようとして何か云ふと、ぱくりと白い齒を剝いて笑ふのだつた。宗彦はそこに居る人達がみんな偉い人に思へて來た。と何時までも彼がぼんやりして居るのに業を煮やして、橫にゐた義兄が箸で彼の頰を彈いた。「食へ、何故食はうとしないのだ」と、義兄は宗彦の前の赤蛙の皿を指差した。見ると、皆はむしやむしやと、串燒にされた蛙を賞味してゐるのだつた。宗彦もそれに倣つて食ひ始めると、暫くしてまた義兄は彼を箸で小衝いた。「飮め、何故飮まうとしないのだ」宗彦の前の盃にはなみなみと液體が盛られてゐた。

 食事はだらだらと續けられて行つた。人々はぎつしりと食卓に席を占めてゐるので、宗彦には食堂車にゐるやうな氣がした。酒の醉が𢌞つたのか、身體が動搖して居るやうで、睡氣が顏中を襲つて來るのであつた。時々、隣にゐる義兄は宗彦を覺ますために箸で活を入れて呉れた。「とにかく電氣をつけるとしようぢやありませんか」と、誰かの發案の聲がした。すると、パツと部屋中が明るくなつた。もう夜になつたのかしら、と宗彦は感心した。しかし、食卓はまだなかなか賑やかであつた。宗彦は長い退屈な旅をしてゐるやうに、また睡氣がさして來た。

 その次に目が覺めた時は、大分客も減つてゐて、廣間はしーんと寂れてゐた。今夜はお通夜だな、と宗彦は思つた。眼がチラチラして、再び睡くなつた。澤山の星が一杯輝いてゐて、大變綺麗な夢をみた。それから再び眼が覺めると、廣間では大きな物凄い鼾が生じてゐた。義兄や妹が假睡してゐる姿が宗彦には大變大きく思へた。まるで彼等が山脈か何かのやうに思へた。さうして宗彦はどうも自分は何處かの山奧にゐるやうな疑ひが生じた。しかし、母はもう何處にも居ないのだ、と今更のやうに思ふと、突然、空間が破裂するやうな感覺に陷つた。そして、猛烈な嵐が耳を擘いて響いた。「居るぞ! 居るぞ!」と、鋭い唸り聲が上の方から捲起つた。見ると大きな黑い鳥が空中高く舞上つてゐて、次第に彼の頭上をめがけて近づいて來た。そして宗彦の左右にある山脈がするすると音もなく迫め寄せて來た。[やぶちゃん注:「擘いて」「つんざいて」。]

 

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