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2018/01/11

原民喜作品群「死と夢」(恣意的正字化版) 湖水

 

[やぶちゃん注:本作品群「死と夢」は原民喜の没後、角川書店版「原民喜作品集」第一巻(昭和二八(一九五三)年三月刊)で「死の夢」という総表題で纏めた形で収録されたものである。生前に刊行されたものではないので「群」と敢えて呼称したが、角川書店版以降の原民喜の作品集・全集に於いては、一括収録される場合、この総表題が附されるのは、原民喜自身が生前にそのように分類し、総表題を附していたからであり、かく標題提示することは筆者自身の意志(遺志)と考えてよい。

 本篇「湖水」は昭和一四(一九三九)年三月号『文藝汎論』に発表されたものである。

 底本は一九七八年青土社刊原民喜全集「Ⅰ」を用いたが、歴史的仮名遣表記で拗音や促音が概ね無表記という事実、及び、原民喜の幾つかの自筆原稿を独自に電子化してきた私の経験に照らして、漢字を概ね恣意的に正字化することが、原民喜自身の原稿原型に総体としてより近づくと考え、かく処理した。

 一部の段落末に簡単な注を附した。【2018年1月11日 藪野直史】]

 

 

 湖水

 

 湖水めぐりの汽船は蟻のやうな遊覽客を滿載したまま、薄ら陽の洩れる棧橋に碇泊してゐた。

 白地に赤く『湖水めぐり』と染められた旗が寒い風に吹かれて慄へてゐる。水の中に浸された杉の丸太が、靑い波に搖られ、綱が鋭く杭を引張つてゐる。棧橋の建物から透いて見える向の道路は、黑い牛の牽く荷車や、黃色の襷をかけた團體客の姿などが、いびつに縮まつてちらちらする。

 今、幽靈のやうな顏をした靑年が切符に鋏を入れてもらふと、棧橋を渡つて、汽船の側までやつて來た。彼は甲板の上の群衆をおどおどと目で測つてゐたが、とても割込めさうな席のないのを覺ると、また切符賣場の方へのこのこと後戾りして行つた。

「これを一等に直して下さい」

「どうぞ、お乘りになつてからお拂ひ下さい」と女事務員は素氣なく應へた。そこで、彼は再びのこのこと棧橋を歩いて行き、甲板に登つた。その歩調がまるで夢遊病者のやうにおぼつかなかつた。もう彼には切符の問題が氣になつてゐるのであつた。もし、二等の切符で一等へ乘つてゐて、咎められたらどうしようか。お乘りになつてからお拂ひ下さいと、確かに女事務員はさつき彼の耳に云つたのは云つたのだが……。何だか氣疎い氣分の儘、一等室の扉を押して入ると、其處もまた恐しく滿員であつた。

 彼は窓近くのテーブルに、それでも、一脚椅子が剩つてゐるのを見つけると、吻としたやうに腰を下した。すると、一等室に陣どつてゐた船客達は、突然迷ひ込んで來た、この不吉さうな男に對つて、一勢にけげんな眸を向けた。彼は玻璃越しに見える靑い水に眼をやり、ともかく、氣持を落着けようとした。絶えず、力のない咳が出て、眼は熱のために潤んでゐた。彼は淡紅色に染まつたハンケチを鼻にあて、靴の踵で床を突張つてゐた。周圍のざはめきのなかから、

「もう、あいつは長いことないよ」といふ聲が聞えた。その聲を夢現に聞きながら、彼はぼんやりと岸の方を見とれてゐた。[やぶちゃん注:「剩つてゐる」「あまつてゐる(あまっている」。「剩」は「餘」と同義。]

 棧橋から續く、なだらかな岸の石崖は拗ずんでゐて、松の姿も落着いて見える。その石崖に繫がれてゐる一艘の船は、今頻りと船底から魚を取出して、笊に入れてゐるのだ。手づかみにされる魚は大きく跳ねて、笊の中に滑り込んで行く。さながら、それが彼には夢のなかの情景のやうに思へて來た。すると、彼のすぐ側へ一人の中年輩の女がやつて來て、何か不滿さうにもぢもぢしてゐた。

「あ、椅子が無くなりましたね、や、ここにまだありますぜ」と、黑い背廣服の胡麻塩髮の男が、早速中央の柱の側から一脚の椅子を持出して、その女に勸めた。

 ふと見ると、中央のテーブルには一升壜が四五本、白い風呂敷で包まれた嵩張つた折が二包み置いてあつた。狹い一等室であつたが、其處を占領してゐるのは、幾家族かで寄合つた一團體であることが、彼にもわかつて來た。どうやら、これから酒盛が始まるらしい形勢だつた。とんでもない場所に迷ひ込んだ彼は、いよいよ侘しげに窓の外の方へ顏を背けた。そのうちに、詰襟を着た船長が機關室の方から現れて來た。

「皆さん、間もなく船も出帆致しますが、追つて名所舊跡の御説明も申上げますから、どうか長閑なる春の一日を、心ゆくままに御淸遊下さい」と朗詠詞で挨拶をし、案内書を配つて步いた。彼が船長に切符のことを話しかけると、「いや、その後で代金は頂きます」と云つて、その儘、隅の方の棚からレコードのケースを取出した。蓄音器が行進曲を奏でだすと、船はカタカタと搖れて動き出した。

 船室は既に賑ひに滿ち、人聲で溢れた。機關室の方から、エプロンをした少女の姿が現れると、「ねいさん、お茶を御馳走しておくれよ」と誰かが號んだ。少女は大きなお盆に靑塗の藥罐を持つて來て、テーブル每にお茶を注いで步いた。しかし、隅つこの窓際にゐる陀しげな男だけは無視した。そして少女は横關室の方へ引返す時、「まあ、おいしさうな御馳走だこと、涎が零れさうになるわ」と感嘆して獨白した。その言葉に釣られて、彼が向うを振向くと、成程既にさつきの包みは開かれ、赤や白や綠の何とも見分けのつかぬ賑やかな食物が分配されようとしてゐた。

 

 陸が遠ざかつて、汽船は今、湖水のまんなか邊を走つてゐた。遙か對岸に見える山々はうつすらと熟睡んでゐて、水の色も淡くおぼつかなかつた。汽船の曳いてゆく水脈は鉛色に搖れ、その上の空氣は冷々と曇つてゐる。鷗に似た白い鳥がいくつもいくつも緩く水の上を掠めてゐた。その鳥の翼は熱に浮されたもののやうに、高く舞上つては儚い姿で波に戾つて行つた。さながら、彼は今や自分の斷末魔が、あそこで暈いてゐるやうに思へた。だが、その鳥は水にも空にも安心しきつて、甘えて振舞ふてゐるのかもしれない。[やぶちゃん注:「熟睡んで」「まどろむ」と訓じているとしか思えないが、「まどろむ」のは「熟睡」ではなく、うとうとするのであって、漢字では「微睡む」である。「ねむりこんで」と当て読みすることも出来るが、それでは上で修飾している「うつすらと」に反するから、原民喜自身の誤りと言わざるを得ない。「暈いて」もどうもピンとこない。「くらめいて」と読むしかないが、意味が通らない。前の鳥の動きからは「霹く」(はためく)とか「閃く」(ひらめく)が浮かぶが、誤字としては如何にもである。特に「閃」は「ひらめいて」の読みで後で正しく使っているから、あり得ない。]

「船長さん、浪花節のレコードはありませんか」と、彼の前のテーブルにゐる若い男が大聲で云つた。その若い優男は赤のネクタイを締め、もういくらか酩酊したらしい肩で、隣の茶の服を着た男の肩に凭掛つてゐた。間もなく、船室の隅の方から、世にも混濁した聲で浪花節の一ふしが軋みながら低迷して來た。優男の後にゐた小肥の女がくりくりと眼を輝しながら浪花節大會の噂を始め出すと、男達はぐにやぐにやの姿勢になり、浪花節の一節を繰返し繰返し唸つた。[やぶちゃん注:「優男」「やさをとこ」。]

 エプロン姿の少女が再び機關室の方から、重さうに何か抱へて現れた。少女は大きな罐のやうなものをテーブルの上に置くと、

「皆さんに申上げます。ここの湖水で獲れました貝から眞殊が出るので御座います。御遊覽の記念に一ついかがで御座いませう。大きいのでも小さいのでも出て來るまでは御試しになつて、代金は二圓頂きます」と説明し出した。するともう室内の客は殆どそのテーブルに吸寄せられて、物珍しさうに見物するのだつた。

「何だ、何だ、それで、大きいのでも、小さいのでも、とにかく、貝を剝いで出て來るまでは、いくら剝いでもいいのだらう」と、丈の高い角刈の男が聲高く少女を問ひつめる。

「左樣で御座います」

「それならば、一體、剝いでも剝いでもいくら剝いでも萬が一、出て來なかつた場合にはどうしてくれるのだい」

 さうかと思ふと、そのテーブルを白眼視して近寄らなかつた二三の年寄連中は、「あんな、人工養殖の眞殊なんかつまらない」と眞珠の話を始めた。

 

 影のやうな男は相變らず窓の外に見入つてゐる。今、雲の切間から靑空の深みが現れ、水がはてしない相を湛へた。汽船の吐く煤煙が遠のいて消えてゆく彼方に、木の葉位の舟が搖れてゐた。その舟には緋の袴を穿いた女の姿が小さく見え、袴が燃える火のやうに思へた。やがて、その火はぽつちりと消えた。と、また、彼の見てゐるすぐ眼の前を矢のやうな速さで舟が走つて來た。舟には緋の袴を穿いた振分髮の女が眩しい謎の眼ざしで立つてゐる。次いでまた一艘の舟が汽船とすれすれに現れた。その舟はのろのろと波に搖られながら、侘しい船頭の姿が段々遠ざかつて行つた。

 その時、汽笛が鳴り、船の速度が緩んで來た。

「さて、皆さん、間もなくゼビへ着きます。停船時間は十五分であります。ゼビの堰を御覽になつて下さればいい譯で、堰は堰ですから格別御説明申上げる程のこともありません」と船長が喋つてゐる間に、船は岸に橫づけになつた。船客はぞろぞろ堤防の方へ渡つて行つた。そこにはまだ櫻が咲殘つてゐて、茶店も二三軒ある。何の紀念碑か靑い石の肌に麗かな陽があたつてゐる。その紀念碑を背景にして、もうカメラを弄つてゐる連中もある。一等船客の後へ從いて、彼もぼつねんと堰堤の路を步いて行つた。そこは湖水の咽喉口にあたり、一旦喰止められた水が、その堰を潛ると、急流となつて落されて行くのだつた。堰は鐵とコンクリートの嚴しい裝置で水の上に長々と橫はつてゐた。人々は堰の背骨の上に佇み、靑く渦卷く水と、蹴落されて咆哮する水を、ぽかんとして見較べるのであつた。[やぶちゃん注:「弄つてゐる」「いぢつてゐる」。]

 早目に彼が船室の方へ引返して行くと、船長ははじめて切符の直りの金を受取つてくれた。「下の方の部屋も空いて居りますよ」と船長はこの病弱さうな靑年に教へた。見ると、さつきまで張つてあつた階段の入口の綱が今は取外されてゐた。そこで彼は階下の部屋へ降りて行つた。少し汚れた白い覆の掛つてゐるソフアが窓に添つて据附けてあり、低い天井の下はがらんとして陀しく、誂向の病室のやうであつた。彼はソフアに長々と脚を伸し、窓に凭掛つて、疲れた體を休めた。もう頭の上の方では、戾つて來た船客達がゴトゴトと床を蹈鳴らしてゐた。船は動き出した。[やぶちゃん注:「直り」「なほり(なおり)」。劇場や寄席その他に於いて、より上等な席に移ることを言う語。「誂向」「あつらへむき」。]

 水面に近い窓から遙かに上を見上げると、空が少し顫へてゐた。今、彼の見るものは、みんな微熱を帶びて顫へ出すのであつた。船の近づいて行く方角に、靑い優しい岸があつた。圓味のある丘が花鬘をかざし、怨嗟の眼ざしで水に映つてゐる。それは遠い昔の亡靈に似てゐた。と思ふと、すぐ窓の下に走る水が、さつと二つに割れ、湖底の方から石の階段や甍が閃いて現れた。昔、水底に陷沒した衢は今もまだ殷賑を極め、石疊の上をぞろぞろと人の往交ふ光景が見えた。だが、走る水は忽ち姿を變じ、人骨の破片や、魚の骨が白々と浮沈しながら從いて來た。[やぶちゃん注:「花鬘」これは「けまん」であろう。釣り環(わ)で長押(なげし)や梁に懸ける仏堂の荘厳(しょうごん)具の一つ。「衢」「ちまた」。]

 そのうちにも、靑い優しい向岸の姿は段々大きく近づいて來た。背後に鬱蒼たる山を控へてゐる白い岸を遊山客がひききりなしに蠢いてゐる。船は間もなくダビ寺の棧橋に停まつた。「今度の停船時間は三十分であります」と、船長が頻りに繰返し、船の煙突は濁つた煙を吐き出してゐる。彼も船底の部屋からふらふらと立上ると、人混のなかに紛れて步いて行つた。

 太陽が眞上から照らし、ダビ寺の山門を潛れば、石の多い山徑がうねつてゐた。その徑に人々は一杯溢れ、紅白の花や、艷々した葉が渦卷いてゐる。彼は苦しい呼吸を續けながら、漸く山徑を登り、とある空地のベンチに腰を下した。すると、耳の中がじーんとして、氣が遠くなるやうであつた。今、下に見える山門の甃石に大きな牛車が這入つて來た。烏帽子に直垂を着た男達が一杯牛車のまはりを取圍み、押合へしあひしてゐる。車の金具が燦爛と輝き、旌がひらひら飜つてゐる。と思ふと、彼のゐるベンチのすぐ脇を、一人の老人が音もなく通り過ぎた。茶色の頭巾を被り、澄んだ眼をしてゐるその人はたしか彼の記憶にある人ではあつたが、誰ともわからなかつた。すると、今度はまがふこともない一等船客の連中が現れた。古代模樣の着物を着てゐる娘を左右から押すやうにして、二人の若者が蹣跚と步いて來る。その後を桃色のシヨールをした小肥の女が何か云ひながらつけて來るのだ。[やぶちゃん注:「甃石」「しきいし」(敷石)と訓じていよう。「牛車」「ぎつしや」。「烏帽子」「えぼし」。「直垂」「ひたたれ」。上衣と袴からなる武家の衣服。「燦爛」「さんらん」。光り輝くように華やかで美しいさま。「旌」「はた」。幟旗(のぼりばた)。古来、朝廷での儀式祭礼の具として用いた。「蹣跚」「まんさん」。よろめくように歩くさま。]

 そこで彼はベンチを捨てて、麓の方へ降りて行つた。茶店や土産店の並んでゐる路は、こゝは浮れた人々の浮れた振舞ばかりであつた。手拭で踊りながらやつて來る老婆や、それに釣込まれて歌ふ老人の姿など、昔から見なれた繪の中の有樣のやうで、ぼんやりしてゐる間に三十分は過ぎてしまつた。

 そして、彼は再び船底の部屋のソフアに身を橫へた。更に氣分は重苦しく、體は熱のために震へた。船はダビ寺の岸を離れて、次第に湖水の中央へ向つてゐる。それが今、彼には長い長い旅のやうに思はれた。見ると、窓の外の水の果てに、煙突の林立した空が現れた。煤煙で汚れた空の一部が、確かあの邊に工場などあるらしいのではあつたが、それも何か不思議な過去のやうであつた。

 

 彼が孤獨の部屋を領してゐると、上にゐた乘客が到頭やつて來た。はじめ、赤ネクタイの優男とその連れの若者がふらふらの足つきで階段を降りて來て、侘しい船室を物色してゐたが、直ぐにソフアの上にごろりと橫になつてしまうた。彼等は少し辛らさうに足をパタンパタンやりながら浪花節を唸つてゐたが、間もなく赤ネクタイの方が頭を兩掌で抱へて睡むり込まうとすると、連れの男が小聲で何か絶えず話しかけるので、赤ネクタイの男はいよいよ足をパタつかせる。そのうちに古代模樣の着物を着た娘が階段から船底を覗くと、大變嬉しさうに男達の側へやつて來て、べちやくちや喋り出した。

 次いで桃色のシヨールを卷いた小肥の女が現れた。

「まあ、こんなところへ逃込んでずるいわ」と、その女は二人の男の眞中へ割込んで坐つた。すると、今度は桃色のシヨールの相棒らしい、更に元氣さうな女がやつて來た。

「なるほどこんなところがあつたのね、上の皆をここへ呼んで來ませう」と、その女は上の船室へ引戾すと、誰彼を誘つてやつて來た。[やぶちゃん注:「引戾すと」はママ。「「引き返すと」或いは「戾ると」でないとおかしい。]

「どれどれ、ほう、ここもまたよろしい」と胡麻塩鬚の親爺は呟いた。何時の間にか船底の部屋は團體客で一杯になつてしまつた。彼等は上の室から折詰や德利を運び、又改めて騷ぎ出すのだつた。すると、船長までが遂にこの船底の室へ訪れて來た。

 船底の部屋は人いきれで澱み、人聲も睡むさうになつた。船長は汚れた窓の外を差覗きながら、慣れた口調で説明しだした。

「あの向うに見えまする松原はダバの松原と申しまして、昔、戰爭があつたところです。松原の上の山もやはり戰場の跡で御座います」

 今も船長が指差す方角の岸には槍や兜がキラキラと霞の中に光り、五月人形のやうな武士達が屯してゐた。と思ふと、松原の上の山腹からワーと鯨波の聲が揚つて、騎士の一隊がなだれ落ちた。影のやうな男は船長の説明を夢現に聞きながら、妖しい戰爭に見とれてゐた。[やぶちゃん注:「屯」「たむろ」。「鯨波の聲」「ときのこゑ」と読みたい。]

「なるほどいいこと云ふなあ」と、その時、側の靑年が呟いたので、彼ははつとした。今迄何を船長が話してゐたのか、彼には不明瞭になつた。

「さて、間もなくワビに着きます。停船時間は十五分で御座いますから隨時御參拜を願ひます。ワビの御堂も去る年の颱風で吹飛ばされ、今はコンクリート建になつてをります。ここにも哀傷きはまりない昔物語があります」と、船長が話してゐるうちに、船はワビの岸へ橫づけになつた。舷から見ると、漁師の家らしいものがちらほら見える侘しい村落で、岸には蒲の穗が白く枯れたまゝ並んでゐた。[やぶちゃん注:「舷」「ふなばた」と訓じたい。]

 船客達は我勝に岸へ渡つて行つた。群衆に遲れて、彼も後から步いて行つた。見ると、もう多くの人々の足並がひどく亂れてゐるのだつた。賑やかに蹣跚けながら從いて行く、ひよつとこや、しどろもどろに男に絡みついてゐる、おかめなど、人々は狹い路に溢れて、ワビの御堂の方へ押流されて行つた。御堂の境内には年齡を經た松や石碑もあつたが、もう大概の人々は何が何だか、いゝ加減に見て步くばかりだつた。コンクリートの御堂をぞろぞろ一𢌞りしてみると、みんな納得してぞろぞろ船へ戾つて行つた。船は岸に添つて暫く航行を續けたが、やがて、ガガへ着いた。[やぶちゃん注:「蹣跚け」「よろけ」。]

「ガガで御座います。こゝは松で有名ですが、惜しいことにもう昔のは遠の昔に枯れました」と船長が云つた。

「さあ降りませう」と桃色のショールは胡麻鹽賀の腕を引張つた。

「えい、松が何ぢやい」と、もう親爺は面倒臭氣に腰を上げようとしない。

「ま、ま、ま、ま行つて見ておきませう」と角刈の男に誘はれると、不承不承立上つた。影に似た男もここが最後の停船場ときいて、人々の後から從いて行くのだつた。松はぽつんと路傍にあつた。「松もいいが櫻もいいな」と嘆じる男もあれば數珠を取出して松を拜む老婆もある。「なるほど、なるほど」と、別に感銘もなさゝうに人人は船へ引返して來た。

 船底の室は騷音に滿ちた。女達が多分ワビの御堂の境内で買つたのだらう、ピピピピと鳴る狂笛を今、口にあてゝ、男達の面前で吹鳴らす。男達が煩さがれば煩さがるだけ、女連中はしっこく吹鳴らす。ピピピピピと頰を脹らかして、頤を突出した、ふてぶてしい姿は、何だか却つて子供らしくもなるのであつた。[やぶちゃん注:「煩さがれば」「うるさがれば」。]

 ピピピピと鳴り喚く笛にのぼせてしまつたのか、向うの隅でじつと苦しさうに顏を顰めてゐた親爺が、ソフアの上に蹣跚けながら吐瀉を始めた。その橫には、これももう意氣消沈した大年增が圓くなつて身を縮めてゐた。しかし、元氣な女達は笛を吹いては、花あられをパリパリ貪り、はてしもない有樣であつた。

 船長は平然として、また窓の外の説明を始めた。

「向うに見える山の一帶は千年前賑はつた場所であります。あの白堊の建物はホテルです。この邊一帶は再び面目を一新し、やがては公園となり、今に豪華を誇る日も遠くありません」

 すると一の水上飛行機が汽船の間近を通り過ぎた。が、向うに見える山の一帶は今靜かにうつとりと過去の睡りをつづけてゐるのだつた。船長は説明を終ると吻として、風呂敷包を抱へてやつて來た。[やぶちゃん注:「吻として」「ほつとして」。]

「今日の遊覽の紀念で御座います。タオル、ハンカチーフなど取揃へてあります。お値段は普通の店より格安になつてをります」と、船長はテーブルの上に店を展げた。日はもう斜に傾いて窓に眩しく差込んで來る。何時の間にか、眞珠を賣つてゐた少女も、ここへやつて來て、箒で床を掃除し出した。掃除が濟むと少女はぽかんとしてソフアに腰を下した。船長も喋り草臥れてソフアに掛けてゐる。角刈の男は何時までも元氣で、少女の肩へ手を掛けながら、船長に對つて、

「これは私の妹ですから、よろしくお願ひします」と無駄口をきいてゐる。[やぶちゃん注:「對つて」「むかつて」。]

 ……すつかり物憂い氣持で、さまざまな情景を見せつけられてゐた影のやうな男には、しかし、今はもうこの船客達がみんな誰も彼も因果の殘骸のやうに思へた。それは遠い日の記憶に𢌞る人々とどこか似かよふところもあつたが、みんな、もう千年も昔から生き殘つてゐるのかもしれない。

「しかし、船長さん、人間の命をあづかつてゐるからには、やほり責任は重大ですな」と、角刈は續けてゐる。

 さうだ、ここの湖水も一たび怒れば船も人も吞んでしまふにちがひない。すると、今、遠く水銀色に光る水の面に、ちらりと奇怪な翳が宿つた。急に底冷えのする風が窓から侵入すると、船はくらりと一搖れした。次いで耳を擘く叫喚が汽船を目がけて押寄せて來る。汽船はキリキリと激浪に揉まれ、メリメリと窓枠が崩れた。ざざざと波が一同の顏を押流す。影のやうな男はその波の中に捲込まれて消えて行つた。

 

 それから船は最初の港へ無事で戾つたが、影のやうな男の姿は見失はれてゐた。

 

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