老媼茶話拾遺 由井正雪 (その4) / 由井正雪~了
由井正雪は、駿河の國旅籠屋梅屋庄右衞門といふものゝ方にて、七月廿五日、早天に障子を開(あけ)、東武の方を詠けるに、江戸に當(あたり)、黑雲一村(ひとむら)、眞黑に立(たち)、一天をつゝむ。しばらく有(あり)て風に吹(ふか)れ、四方へ散行(ちりゆ)けるをみて、障子、引立(ひきたて)、内へ入(いり)、水仕(みづし)の者の釜より飯を移(うつし)けるが、煙の結ぼふれ、其氣のくろく座中に滿(みち)けるを、正雪、みて、元享利貞(げんかうりてい)の要文(えうもん)三通みち、氣を鎭(しづめ)、是をみて、則(すなはち)、熊谷三郎兵衞・鵜野九郎兵衞・玉井半七・星崎岩鐵・原田次郎右衞門を召集(めしあつめ)、正雪、申けるは、
「我、忠彌を殺さずして、此謀叛、顯(あらはれ)候。東武に一村(ひとむら)の雲氣、立(たち)候を、考へみるに、忠彌、からめられ候に疑なし。後悔、今更かへるべからず。只今、討手の向ふべし。各(おのおの)、此時、臆病を働き、后(のち)の笑ひを取(とり)玉ふな。露と成(なり)煙と成(なる)も、過去遠々の因果なり。臆し給ふな。」
と諫立(いさめたて)、頭(かしら)を剃(そら)せ、身を淸め、裝束改め、香(かう)をとめ、謀叛往返(わうへん)の書通をやき捨(すて)、一通、書置、認(したため)、料紙に添(そへ)、床(とこ)に置(おき)、討手(うつて)の來(きた)るを待居(まちゐ)たり。
正雪が討手に駒井右京進、被仰付(おほせつけらる)。
右京進、早馬にて七月廿五日八(やつ)時分、駿河江缺付(かけつけ)、御城代大久保玄番頭(げんばのかみ)、町奉行落合小平次より相談致し、旅籠町江觸(ふれ)を𢌞し、旅人を押置(おしおき)、正雪人形(ひとがた)を以て改め玉ふに、梅屋庄右衞門方の、人體書(にんていがき)、正雪に究(きはま)りければ、駒井右京進、正雪かたへ人を遣はし、
「江戸表にて御家人を切殺(きりころし)、此地江隱れ居(をり)候者、有之(これあり)。きびしく御詮儀にて候。其者、手疵(てきず)負(おひ)候間、改申(あらためまうす)。町役所江出(いで)られ候樣に。」
と被申越(まうしこされ)しかば、正雪、兎(と)かく難澁して、其夜も既に明(あ)ければ、大久保玄番頭、聞へたる荒人(あらびと)なれば、大(おほき)に怒りて、
「天下に對し、大事の囚人を斯(かか)る手延(てのび)の詮義を仕(つかまつり)、萬一、取逃(とりにが)して如何可仕(いかがつかまつるべき)。併(しかし)、紀伊大納言殿御家來と申(まうす)を利不盡に搦取(からめとり)候も麁忽(そこつ)にて候。善惡、我等、罷越(まかりこし)、對面仕(つかまつる)。其上にて埒(らち)明ケ可申(あけまうすべし)。」
と、足輕、大勢、召連(めしつれ)、梅屋方へ立越(たちこし)、申入(まうしいれ)られけるは、
「此度(このたび)、武州にて天下江對し、狼籍者、有之。依之(これによつて)、度々、町役所江出られ候樣に申越候へども、兎角に出(いで)られず候。尤(もつとも)不審にて候。大久保玄番頭罷越候上は、御のがれ有間敷(あるまじく)候。御出(おいで)、御對面候へ。」
と、あらゝかに申入られける。
正雪、是を聞て、
「さらば、出(いで)て對面可仕(つかまつるべし)。」
とて、練(ねり)に桃色の裏、付(つけ)たる袷帷子(あはせかたびら)、菊水の紋所、伏縫(ふせぬひ)にしたるを着(ちやく)し、唐綾(からあや)の帶を前に結び、金龍(きんりやう)の目貫(めぬき)打(うつ)たる九寸五分の小脇差を指(さし)、杖を突(つき)、路次下駄(ろじげた)をはき、郭善坊(くわくぜんばう)とて、丈六尺餘(あまり)、面(つら)赤く、眼(まなこ)大きく、口廣(ひろき)、大力(だいりき)の入道に刀を持(もた)せ、其外、宗徒(むねと)の剛勇のもの、十人餘(あまり)も前後を圍(かこま)せ、閑(しづか)に立出(たちいで)、大久保どのに對面し、
「我等事、紀伊大納言殿家來に星崎玄正と申ものにて候。先々(まづまづ)、被仰聞(おほせられきこえ)候狼籍者の儀、家來共(ども)迄、詮義仕(つかまつり)候に、手疵負(おひ)候もの、無之(これなく)候。若(もし)疑敷(うたがはしく)思召(おぼしめし)候はゞ、爰(ここ)にて、銘々、御改め候へ。」
と申ける。
玄番殿、被申けるは、
「天下の大法にて、手疵の事は兎も角もにて候。玄番罷越候上は御供可仕。御病氣にても、苦(くるし)からず、籠にて御出候へ。町の前後をば足輕を以て十重廿重(とへはたへ)に取かこみ申候。天江上り地をくゞる神變も候はゞ存ぜず、人間の所爲(しよい)にて叶(かなふ)まじ。覺悟御究め候へ。」
と申さる。
正雪、笑(わらひ)て、
「御尤にて候。病氣にて候へば、籠の通る程、道を御明(おあけ)下され候へ。」
とて内へ入、
「もはや、遁れぬ所にて候。各々覺悟候へ。」
とて、盃を出(いだ)し、最期の酒盛を始めける。
郭善坊に盃をさし、
「御身、一度、出家得脱(とくだつ)の佛身也。介錯、賴入(たのみいり)候。死出(しで)の山の魁(さきがけ)仕(つかまつり)、各(おのおの)進(すすみ)候へ。」
とて、氷の如くなる小わきざしを拔(ぬき)て、左の腰江突立(つきたて)、右江一文字に押𢌞(おしまは)し、首、さし延(のべ)ければ、郭善坊、透(すか)さず、首、打落(うちおと)す。
殘る者ども、
「後(おくれ)じ。」
と、肌、押脱(おしぬぎ)、腹を切(きる)も有(あり)、差違(さしちがへ)、おもひおもひに念佛題目を唱(となへ)、算(さん)を亂して重り臥す。
此有增(あらまし)、表に扣(ひかへ)し足輕ども、聞付(ききつけ)て、
「すはや、自がいをするは。搦捕(からめとれ)。」
と、戸、押明(おしあけ)、押破(おしやぶり)、我先にと込入(こみいり)けるが、正雪、兼て扉をかすがいにて強く打〆(うちとめ)、細引(ほそびき)にて繩の網を張(はり)、たゝみ、ひしをさし、容易(たやすく)込入事、ならず。
見ながら、自害をとげさせける。
則(すなはち)、各(おのおの)首切(くびきり)、酒にて洗ひ、正雪を始め、徒黨の奴原(やつばら)、駿河阿部川原にて獄門にかけさせさらせり。
其ころ、狂歌、
正雪は元か紺屋てありけれはこくもんふりも見事なりけり
[やぶちゃん注:「元享利貞(げんかうりてい)の要文(えうもん)」「元享利貞」(げんりこてい)とは「易経」で乾(けん)の卦(け)を説明する語で、「元」を「万物の始・善の長」、「亨」を「万物の長」、「利」を「万物の生育」、「貞」を「万物の成就」と解して、天の四徳として春夏秋冬・仁礼義智に配する。但し、それを「三通みち」というのはよく判らぬ。先ほど見た江戸の空の黒雲と、室内の黒い湯気と煙の中に、その印(シンボル)が三つも満ち満ちているのを幻視したとでも言うのだろうか? 識者の御教授を乞うものである。
「玉井半七」不詳。
「星崎岩鐵」不詳。
「原田次郎右衞門」不詳。
「香(かう)をとめ」薫じていた香を消しであろう。後で衣裳改めるので、香を焚き染めたでは、私はおかしいと思う。
「謀叛往返(わうへん)の書通」謀叛企画のために諸方との往復の書簡類。
「料紙に添(そへ)」「認(したため)」た「書置」を書いた余りの紙で包んだものか。
「駒井右京進」不詳。甲斐武田氏の旧臣に同名の者の名を見出せるから、その末裔かも知れぬ。
「八(やつ)時分」午後二時頃であろう。
「缺付(かけつけ)」「驅けつけ」。
「大久保玄番頭(げんばのかみ)」当時の駿府城代大久保忠成(在職:寛永一〇(一六三三)年~明暦二(一六五六)年)であろうか。「絵本慶安太平記」を見ると、例の大久保彦左衛門忠教(ただたか)の弟とし、この時、七十九歳とするが、本当かどうかは確認出来なかった。
「町奉行落合小平次」旗本。駿府大手組奉行(寛永一七(一六四〇)年就任)。「川崎市立博物館だより」第三十三号(PDF)で、彼へ宛てた徳川秀忠の知行宛行(あてがい)朱印状(知行地の割り当てと、その権利保障をした文書)の画像と解説が見られ、その解説の最後に正雪一党の捕縛の事実も載る。
「人形(ひとがた)」人相書き。但し、絵ではなく、特徴を述べた文書である。絵はテレビの時代劇の真っ赤な嘘である。
「梅屋庄右衞門方の、人體書(にんていがき)、正雪に究(きはま)りければ」同も文章としてはしっくりこない。意味は「梅屋庄右衞門方の人(者)、人體書(にんていが)きの通りにて、正雪に究(きは)まりければ」で判る。
「兎(と)かく難澁して」のこのこ出て行っては、抵抗も出来ず、ただ捕縛されるだけだからである。
「伏縫(ふせぬひ)」絵革と革を突き合わせて紐状に縫ったものをかく称するが、これは非常に手間の掛かるもので、江戸時代ではそのように見せた、二本の捻り糸を並べて縫いつけたものを言うようである。
「九寸五分」約二十九センチメートル。「鎧通し」の別称でもある。
「路次下駄(ろじげた)」露地下駄(この場合は歴史的仮名遣は「ろぢげた」となる)。雨天や雪の場合に露地(茶室の庭)を歩く際に履く、柾目の赤杉材に、竹の皮を撚った鼻緒を付けた下駄。
「郭善坊(くわくぜんばう)」不詳。
「六尺餘(あまり)」一メートル八十二センチメートルほど。
「星崎玄正」出まかせの名であろう。
「人間の所爲(しよい)にて」は遁るることは「叶(かなふ)まじ」。
「差違(さしちがへ)」るも有り。
「算(さん)を亂して」占いの算木を乱り散らした如く、入り乱れて。
「自がい」「自害」。
「かすがい」ママ。「鎹(かすがひ)」。木製のものを相互に繋ぎ止めるために打ち込む両端の曲がった大釘。
「細引(ほそびき)にて繩の網を張(はり)」周囲の部屋に無暗矢鱈、縦横無尽に張り渡したのである。侵入を困難にさせる賢い方法である。
「たゝみ、ひしをさし」「疊」に「菱を刺し」。忍者のアイテムでお馴染みの鉄菱(てつびし)であろう。
「見ながら、自害をとげさせける」ただただ見物するばかりで、彼らの思う通りに、自害を遂げさせてしまったのであった。
「駿河阿部川原」駿府城西近くを流れる安倍川の河原。
「正雪は元か紺屋てありけれはこくもんふりも見事なりけり」特異的に手を加えず、底本通りに示した。整序すると、
正雪は元が紺屋(こうや/こんや)てありければ獄門振りも見事なりけり
であるが、何を掛けているのか(「こんや」と「ごくもん」)私にはよく判らぬ。単に血染めの梟首の様か或いは、染色作業の何かと関係があるか。なお、現在も静岡県庵原郡由比町由比に「正雪紺屋」として生家が現存し、今も縁者が営んでいるとこちらにある(地図附き)。]
斯(かく)て八月十日、忠彌を始(はじめ)、謀叛の輩(ともがら)、妻子一族殘らず、武州鈴ケ森にて磔(はりつけ)に行(おこなは)るゝ。
忠彌、三十七歳也。
磔に行はるゝ時、次々のもの迄も念ごろにいとま、こひ、禮を伸(のぶ)。辭世に、
雲水の行衞も西の空なれはたのむ甲斐あり道しるへせよ
[やぶちゃん注:辞世の前後は一行空けた。
「次々のもの迄も」彼の後に処刑される同志及び妻子・母並びに連座させられた親族の一人一人にまでも。
「雲水の行衞も西の空なれはたのむ甲斐あり道しるへせよ」やはり底本のままに示した。整序すると、
雲水(くもみづ)の行衞(ゆくへ)も西の空なればたのむ甲斐(かひ)あり道しるべせよ
別に「雲水」を音読みしてもよいが、硬い気がする。]
或説に、丸橋、召捕(めしとら)れ、品川へ引(ひか)るゝ折、忠彌は、はな馬にて、其跡より、だんだん、妻子同類引渡(ひきわたさ)るゝに、至(いたつ)て幼き童部(わらはべ)どもをば、切繩を結び、首にかけさせ、手に風車(かざぐるま)などの遊(あそび)物を持(もた)せ、穢太(ゑた)ども、肩車にのせ、母親どもの乘(のり)し馬の脇江付添(つきそひ)參り候。外櫻田(そとさくらだ)外(そと)、馬どまりへ、丸橋が馬の、先(まづ)のぼり參り、屆きしかども、跡の紙幟(かみのぼり)は、いまだ、糀町土橋邊江やうやう見へたり。
「斯る大勢の罪人、引晒(ひきさ)らされし事も、前前(まへまへ)、なかりし。」
と見物の諸人、申けると也。
忠彌が、品川表(おもて)にて、馬より抱卸(だきおろ)されける警固の者共江禮を云(いひ)、少も臆するけしきはなかりける。
磔柱叢江取付られ、柱、おし立(たて)ける折(をり)、忠彌、高聲(かうしやう)に念佛申けるを、母、顧(かへりみ)て、頻(しきり)にむせび入(いり)、淚を流しけるを、忠彌が女房、是を見て、母の心中、押(おし)はかり、悲しくや思ひけん、母に申樣(まうすやう)、
「此世は假の宿(やどり)にて、永き來世こそ大事にて候。何事もおもひ捨(すて)玉へ。」
と目を塞き、
「御念佛、御申(おんまうし)候へ。」
とて其方(そのはう)は念佛を申(まうし)、母にも勸(すすめ)ければ、母、打(うち)うなづき、念佛を申(まうし)けるといへり。
母子恩愛の情は、かゝる大惡人を子に持(もち)、そのあらき浮目(うきめ)に逢(あひ)ける。「子の善惡は父母の教(をしへ)による」といへば、子の父母たる人、貴賤にかぎらず、心得有(ある)べき事共(ども)也。
丸橋かかゝるしな川なりけれは安房上總まていひ捗るかな
[やぶちゃん注:「はな馬」「端馬」。ここは引き回しの先頭の馬の意。
「穢太(ゑた)」差別意識から「穢多」の字を当てた、中世以降、賤民視された一階層。特に江戸時代の幕藩体制では、民衆支配の一環として非人とともに最下層に位置づけられて差別された。身分上、「士農工商」の外に置かれ、皮革製造・死んだ牛馬の処理や、ここに見るように罪人の処刑や見張り(警固)など末端の警察業務等にも強制的に従事させられ、城下の外れや河原などの特定の地域に居住させられた。明治四(一八七一)年に法制上は「穢多」「非人」の称は廃止されものの、新たに「新平民」という呼称を以って差別され、それは現在に至るまで陰に陽に不当な差別として存続し続けている。より詳しい解説は、「小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附原文 附やぶちゃん注(16) 組合の祭祀(Ⅲ)」の注を参照されたい。
「外櫻田(そとさくらだ)」外桜田門(現在の桜田門)周辺。日比谷堀・桜田堀と外堀に挟まれた範囲で、武家屋敷が立ち並んでいた。もともとは東京湾の入江であったが、文禄年間(一五九二年~一五九六年)に江戸城西丸造営で生じた大量の残土で埋め立てられた。江戸時代を通じて諸大名の屋敷地となった。国立国会図書館のこちらの解説を使用させて戴いた。この部分「外櫻田(そとさくらだ)外(そと)、馬どまり」と一応読んだが、底本は『外桜田外馬(そとさくらだそとうま)とまり』であって、これ全体が地名や位置名を指しているかも知れぬ。よく判らぬ。ただ、「のぼり參り、屆きしかども」とあることから、この場所が周囲からは有意に高い丘状になっていたことが判る。だからずっと後ろ、列の最後の幟(次注参照)が、遠望出来たのである。
「跡の紙幟(かみのぼり)」後尾に掲げられた罪状などを書いた(と思われる)市中引き回しの紙製の幟(のぼり)。
「糀町土橋」半蔵門附近か。そこなら直線でも凡そ一キロメートルは離れている。引き回しの行列の異様な長さ、また、それだけ多量の処刑者がいたことがよく判る。八月十日に一味とその親族三十五人の処刑で一件は落着したと、小学館の「日本大百科全書」にはあり、同じ記載には正雪が計画に引き入れた浪人の数は二千人と伝えられている、とある。この時、丸橋忠弥とともに鈴ヶ森刑場で処刑された江戸工作担当のメンバー(他に小塚原刑場でも処刑されている)は後に出る「丸橋忠彌」によれば、全部で『二十六人』とある。]