子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十三年――二十四年 文学熱と野球
明治二十三年――二十四年
[やぶちゃん注:「明治二十三年」は一八九〇年。]
文学熱と野球
明治二十三年(二十四歳)の新春は松山で迎え、一月末近くなって上京した。在郷中に漱石氏と文章論を往復した手紙のうつしが『筆まかせ』に載っている。この年あたりより居士の『筆まかせ』を草すること頗る多く、かつ従前に此して長文のものが交るようになった。十九年に歿した同宿同郷の友淸水則遠氏のことを記したものなどが、その最も長い部類に属するであろう。
[やぶちゃん注:「在郷中に漱石氏と文章論を往復した手紙のうつしが『筆まかせ』に載っている」国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここ以降の複数条で総量はかなりある。
「十九年に歿した同宿同郷の友淸水則遠氏のことを記したもの」「淸水則遠」(慶応四・明治元年(一八六八)年~明治一九(一八八六)年)は子規の江ノ島無銭旅行の同行者の一人で、松山中学では子規の一年後輩であったが、大学予備門で子規が落第したために同級生となった。栄養失調を起因とする脚気衝心で十八歳で夭折した。彼の死に、子規は一時、錯乱状態にさえなったという。「筆まか勢」のそれ、「淸水則遠氏」は国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここ以降。後に「淸水則遠氏」という追記短章(ここ)も併せて読みたい。]
二月十二日、常盤会寄宿舎に「もみじ会」なるものを開いた。第一回の顔触は成田四舟、若隠居(五百木飄亭)、佐伯蛙泡、あはてやぬかり(河東可全(かわひがしかぜん))、新海非凡(はじめ非凡と号し、後非風と改む。この時分はまだ非凡であった)、伊藤鉄山、正岡子規の七名である。連月(れんげつ)題を課し、歌俳狂句短文戯画など、何ということなしに持寄ったものを集めて「つゞれの錦」と題する。作品として見るべきものはないけれども、居士を中心とした常盤会寄宿舎内の文学熱の一半は、ほぼこれを以て察することが出来る。
[やぶちゃん注:「成田四舟」不詳。
「若隠居(五百木飄亭)」「いおきひょうてい」。既出既注。
「佐伯蛙泡」不詳。
「あはてやぬかり(河東可全(かわひがしかぜん))」既出の「河東銓」。の別称。正岡子規の友人で、河東碧梧桐の兄。
「新海非凡」「後非風と改む」「にいみひぼん」「ひふう」。既出既注。
「伊藤鉄山」不詳。
「つゞれの錦」国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここから読める。]
常盤会寄宿舎内における文学熱の流行を面白く思わぬ傾向は、勿論舎内の一部にあった。それは監督の鳴雪翁よりも、舎監をつとめていた佃(つくだ)一予氏などがその急先鋒で、攻撃の目標になったのは居士と諷亭、非風両氏とであったらしい。「もみじ会」などもこの三人が雪見に行った帰途、相談して起したものなのだから、攻撃の鋒先(ほこさき)の向くのも当然であったが、居士は文学者志望だから直接には攻撃しない。諷亭氏もその時已に医者の免状を所持していたから、他の修行中の者とは違うというので、甚しくは攻撃しない。最も風当りが荒かったのは、陸軍志望の非風氏であった。一方は三人を一種の道楽者として、他の舎生に悪影響を与えるものと見る。三人の側ではまた、何を俗骨がという風で冷嘲する。『筆まかせ』の中にある「寛? 厳? 中庸?」という文章は、佃氏が大学を卒業するとともに舎監をやめた際、常盤会寄宿舎に開かれた茶話会の模様を記したものであるが、両者対立の模様、それに臨む鳴雪翁の態度などが、交錯してよく現れている。
[やぶちゃん注:「寛? 厳? 中庸?」(「寛? 嚴? 中庸?」)は私の所持する岩波文庫「筆まかせ抄」には確かに第三編として明治二十三年のパートにあるが、先の国立国会図書館デジタルコレクションには漏れているので提示出来ない(文庫本で六頁余りもある)。]
けれども当時の居士は文学に耽るといった上ころで、他の一切を抛擲(ほうてき)しているわけではなかった。ベースボールの如きは発病後といえども全く廃するに至らず、常盤会寄宿舎内にも二十人位の同好の士が出来たので、この年三月二十一日に上野公園博物館横の明地(あきち)で試合をやったことが『筆まかせ』に出ている。それによると居士は赤軍の捕手をつとめており、竹村黄塔(たけむらこうとう)を投手として白組の勝田(しょうだ)(主計(かずえ))佃のバッテリーに対峙しているようである。五百木(三塁)、新海(左翼)が居士と同じく赤軍に加わっているのは、文学党のために気を吐くものというべきであろう。居士が運動服にポールとバットを携えた写真を大谷是空に贈ったのはこの頃の話であるが、決して殊更にああいう恰好をしたのではない。野球選手として活躍するだけの余力を、一面にはまだ有していたのである。
[やぶちゃん注:「『筆まかせ』に出ている」確認出来なかった。
「竹村黄塔」竹村鍛(きたう)。河東碧梧桐の兄。河東静渓(せいけい)の第三子で、先に出た河東可全(静渓第四子)の兄。既出既注。]
喀血後一周年の五月は何事もなしに過ぎた。ただ四月初旬以来腸を害することなどもあり、筆を執ることが厭になったとあるのは、健康と関係があるのかも知れぬ。
河東碧梧桐が松山から書を寄せて、処女作の俳句の添削を乞うたのは、この五月頃の出来事である。河東静渓並に黄塔、可全両氏の関係からいって、碧梧桐氏は早くから居士を知っているはずであったが、文学方面で接近するにはやや年齢の距離があり過ぎた。居士と碧梧桐氏とを結びつけた最初のものは、小説もなければ俳句でもない、ベースボールであったと碧梧桐氏の書いたものに見えている。ボールの投げ方や受け方をはじめ、野球の一般法則に至るまで、一応居士の手ほどきを受けたのだそうである。碧梧桐氏が居士に逢うのはその帰省中に限られていたから、そう度々機会はないわけであるが、野球の話は自然爾余(じよ)の方面に及び、文学方面において居士の示教(しきょう)を乞うようになったのであろう。これまで居士の文学仲間といえば、大体常盤会の寄宿友達ときまっていたのに、ここにほじめて年少の文学志望者を待たのであった。
[やぶちゃん注:「河東碧梧桐」(かわひがし へきごとう 明治六(一八七三)年~昭和一二(一九三六)年:本名、秉五郎(へいごろう)は後に友人高浜虚子とともに「子規門下の双璧」と謳われ、子規亡き後の俳句革新運動の後継者は碧梧桐であった。当初、小説への色気を出して俳句に重きを置いていなかった虚子は、碧梧桐の新傾向俳句による定型を破った動きに俄然、反旗を翻して「守旧派」として復帰、結局、伝統的有季定型俳句の牙城の首魁となった。碧梧桐は結社を転々とし、ルビ俳句なども提唱したが、結局、支持を得られず、昭和八(一九三三)年三月の還暦祝賀会の席上で俳壇からの引退を表明した。
「爾余」自余。そのほか。]