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2018/01/31

芥川龍之介 手帳11 《11-10~11-17》 / 手帳11~了

《11-10》

Vertical relation

chemical interest ヨリモ mechanical interest ヲ多キ點ハ Majolica モ交趾も似たり Java の文字ある故――Java 住ノ支那人 交趾燒を造る(今泉説)されど交趾なる名の起りし why は説かず Hano? Annam 地方に Pottery Majolica ニ似タルもの多し 廣州(廣東)の石灣にも似たるものあり 然らばこの Pottery は僞にして Java にて支那人

《11-11》

の造りしを眞なりと云ふは question なるべし rather Java ハ後來

[やぶちゃん注:「ノ多キ點ハ」の「ヲ」は旧全集では「ノ」。その方が読める。

Annam」安南。

rather」寧ろ。]

 

○交趾も西洋傳來ならずやと思はる

○安南燒(信樂 明石)の存在(大土瓶等)(靑 or 黃に■手等をかけるもの)も安南の産たる事を示すならん icchin(?)を用ひて線を作る乎 これも ethching と關係ある乎

[やぶちゃん注:「安南燒」(あんなんやき)はベトナムの焼物の総称。小学館「日本大百科全書」より引く。但し、占城(チャンパ)国時代(一世紀~十七世紀末)の『焼物はこれに含めない。安南焼の安南とは、唐王朝がかつてこの地を治めていたとき、安南都護府を置いた』(六七九年)『ことに始まるが、今日では正式なベトナムの国名が使われ、安南と称することはなくなった。ベトナムで本格的な焼物がつくられるようになったのは、民族自立に目覚めた李朝』期の十二世紀頃からで』、『南中国の陶技を受けて、黄釉(こうゆう)陶、青磁、緑釉陶、黄釉褐彩陶などを焼き始めた。その後』十四『世紀になると、陳王朝下で新たに元』『文化の摂取が始まり、元様式の色濃い白磁、青磁、緑釉陶を焼き』、十四『世紀後半には、元時代に景徳鎮』『窯が創始した染付とよばれる下絵付磁器をいち早く導入』、『染付を焼造して』、『みごとな製品を世に送り出し、元様式直模(ちょくも)の一期を画した。この元様式は』十五世紀から十七世紀に至るベトナム陶磁の骨格をなしている』十五世紀には赤絵も工夫されたが、十七『世紀に入ると』、『隆盛も萎』『え、粗略な作風に堕したが、この時期に日本に輸入された多くの製品は、粗笨(そほん』:見かけが大雑把で粗雑なこと『)ゆえに茶人が尊ぶところとなり、俗に絞手(しぼりで)、蜻蛉(とんぼ)手とよばれる茶碗』『や水指(みずさし)をはじめとする茶具が多く伝存している』とあるから、本邦の「信樂」や「明石」には手本とするためのそれらが伝えられて現存している(していた)ということを指しているのであろう

icchin(?)を用ひて線を作る」これは陶磁器の装飾技法の一つである「イッチン描き(筒描き)」のこと。サイト「陶磁器お役立ち情報」の「イッチン描き(筒描き)の技法」によれば、「イッチン」はチューブ型若しくはスポイト型の筒を指し、泥漿(でいしょう:粘土を水で熔いたもの)や釉薬をこの中に入れて絞り出すための道具である。『イッチン描きとは、その筒に入った泥漿を作品に盛り付ける装飾技法のことで』、『平らな器面に絞り出した泥をつけると、その部分が盛り上がって模様とな』るようになっており、『粘土を水で熔いた泥漿のほか、釉薬を』そのまま『イッチンで使うこともよくあ』るとある。『イッチン描きは材料を筒に入れることから「筒描き」、スポイトで絞り出すこともあるため「スポイト描き」・「絞り描き」とも』称し、また、『盛り上がりの部分が素麺(そうめん)のように見えることから、古唐津の作品では素麺手と呼んでいる例もあ』る、とある。イッチン盛・イッチン掛・カッパなどとも称するようだ。伝来経路は不明とされている。伊藤南山氏の伊藤南山Nanzan 京焼き制作工程(2)いっちん(絞り出し)で作業動画が見られる(You Tube)。

「これも ethching と關係ある乎」「イッチン」と「エッチン(グ)」の発音は確かに似ているが、物理的に盛り上げを主とする「イッチン」技法の装飾工程と、化学薬品等の腐食作用を利用した塑形・表面加工技法である銅版腐食技法であるエッチング(最初期のものは蠟びきした銅版に針で削って下絵を描き、それを強い酸性薬剤で腐食させて原版を作る)技法は、素人の私が見ても、全く異なるものである。etch」の語源は「鮮明に描く・銘記する・~を深く刻みつける」の意のドイツ語とされる点から見ても、私には同語源とはちょっと思えない。]

 

○漢の硝子 秦の七寶等は不明なれど六朝の晋の僄子

《11-12》

隋の綠子 唐の三彩等は From West (Persia or Arabia or Rome)ノ釉藥を用ひしならん その後は宋窯赤畫なり(彫の上に赤繪を加ふ) 彫刻象嵌等に釉藥の不十分なりしを補ふ爲也 更に明淸に至れば堅きものの上へ軟きものを加ふ 軟藥も後には不透明とし soft effect を與ふ

[やぶちゃん注:「僄子」「綠子」不詳であるが、「硝子」(ガラス質様の変異ではあるのかも知れぬが(漢代には既にガラスの生産が行われていた)、ここは当て字の「がらす」ではなく「ショウシ」(現代仮名遣)と音読みしておく。されば後の「僄子」も「ヒョウシ」、「綠子」も「リョクシ」と読んで自然であるからである)「七寶」と並び、「釉藥を用ひ」たものであろう、といっているのであるから、何らかの釉薬を用いて変化させた陶磁器の表面の特殊な様態(粗密。「僄」には「粗い」の意がある)や色彩変異(或いはその変異物質)を指す語と考えられる。

soft effect主に視覚上で軟らかな質感を見る者に与える効果。]

 

《11-13》

     {素燒(低)}

○硬(藥){     }

     {本燒(高)}

 

  {しめ燒(高)}

○軟{      }西洋流ト云ヒ得

  {樂 燒(低)}

 

○卽チ軟質陶器の西來説の一因ならん

[やぶちゃん注:以上の「○」三条は纏まった一連メモであるが、錯雑を避けるために特異的に行を空けた。それぞれ三つの「{」「}」は底本では一つの大きなそれである。]

 

○七寶

○拂菻嵌

 佛郎嵌   >七寶

 發藍嵌

[やぶちゃん注:以上の二条目の「○」(「拂菻嵌」から「發藍嵌」までの記載)は旧全集には存在しない。「>」は底本では「拂菻嵌」の下及び「發藍嵌」の下まで開いた線が伸びている。

「拂菻嵌」「佛郎嵌」「發藍嵌」これは琺瑯(ほうろう)質の微妙で多様な質感を表わす語らしい。「東罐マテリアル・テクノロジー株式会社」研究開発部長の濱田利平氏の「琺瑯の歴史について」によれば、琺瑯の起源について、

   《引用開始》

 『琺瑯』の字源をたどってみると、サンスクリット語(古代インド語)で七宝質のことを言う“フーリンカン”にさかのぼるという説があります。「琺瑯」という言葉は七宝質という意味であり、七宝とは、金・銀・瑠璃(るり)・玻璃(はり)・しゃこ・珊瑚(さんご)・瑪瑙(めのう)といった7種類の宝物のことです。もともとは装飾品、美術品として製作されてきたものであるといえます。最も古い琺瑯製品らしきものが見つかったのは、エーゲ海に浮かぶミコノス島で、紀元前1425年頃に製作されたと思われるものです。その後、この技術がヨーロッパ方面とアジア方面に伝播し、16世紀頃に朝鮮半島に流れ、その後日本へと渡ってきたと言われています。

[やぶちゃん注:中略。以下で一部の記号を移動した。]

 琺瑯は、不透明ガラス質の物質であり、石灰、長石、粘土・珪石・硼砂・蛍石などを混合してこれを溶融して作り、金属器物の表面に焼き付けて装飾として、腐食を防ぐものです。瀬戸引、エナメル引などとも呼ばれ、装飾品では七宝焼きがあります。

 七宝は、七つの宝、七宝ながしという意味があります。七というのは西方を表す数字であり、「西方の宝物」という意味も含まれており、私自身も初めて知ることができました。また七つの宝を集めたような美しい宝物とも辞書に書かれています。

 また、「琺瑯」の漢字は『王』偏でありますが、実はこの『王』は『玉』(ギョク)であると言われており、宝石という意味も含まれています。

   《引用終了》

また、その後に、枠で囲った記事があり、そこに『琺瑯の語源は』として、

   《引用開始》

 「琺瑯」という言葉は七宝質という意味で、梵語で七宝質のことを払菻嵌といい、それが次のようにかわった。

 「払菻嵌(フーリンカン)→払菻(フーリン)→発藍(ハツラン)→仏郎嵌(フーロウカン)→法郎(ホーロー)→琺瑯(ホーロー)」という解釈。教科書などにもこの説が採用されています。7世紀ごろの中国の歴史家は、七宝工芸が非常に盛んであったビザンチン帝国のことをFu-linと呼んでいたためです。同様に国の名前が転化したものとされるのにフランク王国のフランクがなまったという説もあります。

   《引用終了》

と出、順序は異なるが、ここにまさに芥川龍之介が記している「払菻嵌」・「発藍」嵌・「仏郎嵌」の語が登場している。なお、ここで濱田氏がこの内容を囲み記事にしているのは、Japan Enamel Association の公式サイト内にある「ほうろうのなれそめ」の内容を元にしているからであろう。そちらも引いておく。

   《引用開始》

ほうろうは漢字では「琺瑯」と書きます。覚えてしまえば簡単ですが、一見すると難しそうな字。さて、この「「琺瑯」という言葉、どこからきたのかといえば、実は定説がないのです。最も有力なのは、日本のほうろうに関する代表的な名著である森盛一氏の「琺瑯工業」という本に載っている説で「琺瑯という言葉は七宝質という意味で、梵語で七宝質のことを払菻嵌といい、それが次のようにかわった。

「払菻嵌→払菻→発藍→仏郎嵌→法郎→琺瑯」

という解釈。教科書などにもこの説が採用されています。このほかにはビザンチン帝国から転化したのではないかという説。7世紀ごろの中国の歴史家は、七宝工芸が非常に盛んであったビザンチン帝国のことをFu-linと呼んでいたためです。(Fu-linと前述の払菻にご注目を!)同様に国の名前が転化したものとされるのにフランク王国のフランクがなまったという説があります。ただしフランク王国では七宝が盛んだったのは12世紀。時期的にはビザンチンのほうが早いといえましょう。その他諸説がありますが、何しろかの有名なイギリスのブリタニカという百科事典にも「言葉の由来そのものははっきりせず論争のまととなっています・・・」と書かれているくらい。どなたか、これぞ決定版!という説をうちたててもらえませんでしょうか。

   《引用終了》

実は以上のことを芥川は次の条で記しているのである。]

 

Rome ヨリ西 Rome に傳はる 卽 Arabia は東 Rome の傳統なり 支那は東 Rome 拂菻と云ふ 佛郎 發藍も亦然り

《11-14》

明初の佛狼機の語源も然らん 法朗 viz 琺瑯の字を生ぜし所以也 何故に Rome を拂菻と云ひしかと云ふにFrank の語の音譯ならん乎と思はるれど period 短く 土地遠く Arabia とは敵故然らざらん乎 されど Arabia Europe の盟主たる Frank Europe の名としたり 大食窯 鬼國窯共に Arabia 七寶を意味す 卽ち Arabia

《11-15》

の支那に傳はりしは Arabia による事明らかなり。(後來語洋磁)

[やぶちゃん注:「period 短く」フランク族が建てたフランク王国は四八一年にクロビスが諸支族を統一してメロビング朝を興して建国、分裂・統一を繰り返したが、七五一年にピピンがカロリング朝を創始し、その子カール大帝の時に最盛期を迎え、西ヨーロッパ全域に版図を拡大、教皇から西ローマ帝国皇帝の帝冠を受けたものの、八四三年に三分されて、ドイツ・フランス・イタリア三国の起原となった。ヨーロッパの主要国の原型ではあるものの、王国としての存続は三百六十二年に過ぎなかった。

「然らざらん乎 されど Arabia Europe の盟主たる Frank Europe の名としたり」前条の注引用や、ネット上の記載を見るに、現在ではフランク由来とするのが定説に近いようである。

「鬼國窯」ネット記載を見ると、現在、明末から清初にかけて雲南人が京師で製作した仏郎嵌を鬼国窯と言うとあったり、或いはもっと広く中国製の七宝焼をかく言うとある。]

 

Glass

{璧(支)

{玻瑠(和)

{玻璃(和)

○皆印度を中心として東西に擴がる polish の語も玻瑠より傳はる 然らばこの glass の傳來も Arabia は一手をかせしならん

[やぶちゃん注:「璧」「へき」。古代中国で祭祀器或いは威信を示すための掲揚器として使われた玉器。ウィキの「璧」によれば、多くは軟玉から作られ、形状は円盤状で中心に円孔を有する。『表面に彫刻が施される場合もある』。『璧の起源は良渚文化』(りょうしょぶんか:長江文明の一文化で紀元前三千五百年頃から紀元前二千二百年頃に存在したとされる)『まで遡り』、『当時は琮』(そう:古代中国で祭祀用に使われた玉器で、多くは軟玉から作られた。方柱状を成し、長軸方向に円形の穴が貫通しており、上下端は丸く円筒状になっている。方柱部の四隅には浮彫りや細線で幾何学文様・神面・獣面・巨眼などが彫刻された。円筒形の穴は「天」を、方形の外周は「大地」を象徴しているとされ、琮全体はは天地の結合の象徴であると一般には考えられている)とともに『神権の象徴として扱われていた』。『良渚文化が衰えたのちも、璧は主に中原龍山文化へ伝播し、中原では二里頭文化の時期にいったん姿を消すが、殷代に再び現れる』。『周代に至り、璧は礼法で天を祀る玉器として規定され』、また、「周礼(しゅうらい)」では、『諸侯が朝ずる際に天子へ献上するものとして璧を記している』。『璧は日月を象徴する祭器として、祭礼用の玉器のうち最も重要なものとされ』、『春秋戦国時代や漢代においても装飾性を加えて盛んに用いられた』とある。

「支」支那。中国製。

「和」本邦製。

「玻瑠」「玻璃」と同義で狭義に鉱物としては水晶だが、ここは七宝の様態の一つの謂い。で無色か白色のガラス質を指す。

「瑠璃」狭義に鉱物としてはラピスラズリだが、ここも七宝の様態の一つの謂い。青色系ガラス質を指す。

polish」研磨する。]

 

《11-16》

○鐡圍山叢談(宋)

鐵屑を集めて glass を作らんとせしに耳飾りのみを得たりと云ふ 陶器の既に進步せしに關らず glass は作り得ざりし その來りし土地は大食なりしや否や忘る

(中央 Asia の發掘を待つ外なし)

[やぶちゃん注:「鐡圍山叢談」宋の蔡絛(さいじょう)撰の随筆。蔡絛は徽宗時代(一一〇〇年~一一二五年)後期の高級官僚であったが、次代の欽宗になって流刑に処され、その流刑先で記したのが本書とされる。]

 

《11-17》

Contemporary authority ニ服スルハ危險ナリ co. au. の高さ未定なればなり 山陽と木米

[やぶちゃん注:以上の一条は旧全集にはない

co. au.」前の「Contemporary authority(現代の(陶磁器)の大家(と称する者)

)の略。ここでは後に「山陽と木米」を挙げているところから、恐らく研究者や陶磁器の目利きの骨董の好事家などではなく、名陶工とされている当時の人物のことを指しているように読める。

「山陽」不詳。頼山陽(安永九(一七八一)年~天保三(一八三二)年)が陶磁器を蒐集したとも聞かんしのぅ。識者の御教授を乞う。

「木米」青木木米(もくべい 明和四(一七六七)年~天保四(一八三三)年)は江戸時代の絵師で京焼の陶工。京生まれ。幼名は八十八。以下、ウィキの「青木木米から引く。『若くして高芙蓉』(こうふよう:篆刻家・画家で)『に書を学び』、『頭角を現』わし、二十九歳の『時、木村蒹葭堂の書庫で清の朱笠亭が著した』「陶説」を『読んで感銘を受けて作陶を志し』、『奥田頴川に入門』、三十歳を『境に京都・粟田口に釜を開き評判を得』た。五『年後には加賀藩前田家の招聘を受け、絶えていた加賀九谷焼の再生に尽力した。陶工としては煎茶器を主に制作。白磁、青磁、赤絵、染付などその作域は幅広い。中国古陶磁への傾倒から、中国物の写しに独自の世界を開いた。文人画系統に属する絵画にも秀作が多い』。『永樂保全、仁阿弥道八とともに京焼の幕末三名人とされる』。『木米は釜の温度を釜の中の燃える火から発せられるパチパチという音で判断していた。そのため』、『木米の耳はいつも赤く腫上がったが』、『その手法を変えることはせず』、『完治する間もないほど作陶を続けたため』、『木米は晩年、音を失くした。以後、木米ではなく聾米(ろうべい)と号していた』という。

 以上を以って「手帳11」は終わっている。]


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