芥川龍之介 手帳11 《11-7~11-9》
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《11-7》
○Italian ハ Pottery の上にて barren になれり(Rome 後の亂) At that time Majorca came to
Italy.
[やぶちゃん注:「barren」不毛な状態。オリジナルな陶器を生み出せなくなったということであろう。
「Rome 後の亂」古典的文化的な意味に於けるローマ帝国の滅亡は西ローマ帝国が滅亡した四八〇年を以ってするのが世界史上では一般的であるが、ここは陶器の問題で、「その直後にマヨリカ焼きの時代がイタリアにやってきた」と芥川龍之介は言っているから、これは形式上のローマ帝国の滅亡、一四五三年にオスマン帝国の軍がコンスタンティノポリスを陥落させた東ローマ帝国の滅亡を指している。]
○Luca della Rovia? Luca Della Robbia(Italian Sculptor)ハコノMajolica ノ術ヲ傳へタリ Thus 15―16 C. の間の陶工は maître 多し こは 17C. 支那磁器の輸入と共にその模倣行はれ陶質に磁器の design を
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《11-8》
附しその爲 decline を得たり 卽 Majolica is a new vitality to European
pottery. Viz, Vertical line of civilization ノ middle point をなす
「Luca Della Robbia(Italian
Sculptor)」ルカ・デッラ・ロッビア(Luca della Robbia 一四〇〇年~一四八一年)はイタリアのフィレンツェ出身の「Sculptor」、彫刻家。ウィキの「ルカ・デッラ・ロッビア」によれば、『テラコッタの丸皿で知られる。ルカ以降、デッラ・ロビア家は土器芸術家の名門となり、甥のアンドレア・デッラ・ロッビア、その子ジョヴァンニ・デッラ・ロッビアを輩出した』とある。ちゃおちゃお氏のサイト「Firenze美術めぐり」の彼の人物伝によれば、彼は一四三一年に『フィレンツェ大聖堂管理組合から大聖堂の聖歌隊席の発注を受け』、これが非常に高く評価されたが、その『聖歌隊席と並んでルカの名声を確かなものにしたのは、彼が創始した彩釉テラコッタ芸術である。単にテラコッタに顔料をつけるだけでなく、像の縮みを計算に入れた上で粘土像を焼き上げ、マルツァコット(融解性の高い透明なガラス性の物質)で覆った後、さらに釉薬を重ねて、低い温度で再び焼き上げるという技術を開拓した』。『このような技法は、フィレンツェで当時目にすることができたマヨルカ陶器やイスパノ・モレスク陶器、アラブ・イスラム陶器などに似たようなものがあったが』、『彫刻に応用し、独創的なものとして芸術性を高めたのはルカの功績である』とある。芥川龍之介の叙述をこれに重ねるならば、腑に落ちる。
「Thus」このように。
「maître」フランス語で音写は「メートル」。「親方・名匠」。所謂、職人気質の超絶技巧を持った名人の意味を含んでいると考えてよかろう。
「decline」表の意味では手間賃を節約でき、複雑な意匠を押しつけてプリントして安上がりに仕上げられたから「得たり」と言っているのであろうが、この後のマヨルカ焼きの急速な衰退を考えると、実はその安易な模倣が、技術の不可逆的な低下と質の劣化をも意味していたと私は深読みしてしまう。致命的なマイナス点もそこから「得」てしまったのではなかろうか?
「Majolica is a new vitality to
European pottery.」(Majolica の綴りはママ)「マヨルカ焼きはヨーロッパの陶器にとって新たな活力であった。」。
「Viz,」正しくは「viz.,」で「viz.」はラテン語の「videlicet(換言すれば)」の略語。なお、辞書によると、通例これで「namely」(即ち)と当て読みするらしい。
「Vertical line of civilizationノ middle point をなす」『「文明」という直線上の、まさにど真ん中の、重要な支持ポイントとしての正中点(middle point)を成す』。]
○Militia
>――Alchemy――磁器
Pecuniary
[やぶちゃん注:「>」の左は底本ではそれぞれの英単語の後ろに長く延びている。
「Militia」単語としては「市民兵・義勇軍・国民軍・民兵組織」であるが、ここは市民から自然発生的に生じてくる芸術的情熱・活力といったような意味ではあるまいか。それならこの図式は私には何となく腑に落ちるからである。
「Alchemy」錬金術。
「Pecuniary」財政的(金銭上の)問題。]
○Majorca ノ位置ハ ambiguous ナリ Faenza? モ亦 Majolica を造る これより France ノ Potter ヲ傳ふ 卽ち faïence より Palissy 出づ
[やぶちゃん注:「Majorca」「Majolica」の綴りの違いはママ。
「ambiguous」曖昧な・不明瞭な。
「Faenza」先にマヨルカ焼きの注で示した、フィレンツェの後にマヨルカ焼きの中心地となったファエンツァ(現在のエミリア=ロマーニャ州ラヴェンナ県にある都市。ここ(グーグル・マップ・データ))のこと。
「faïence」既注だが再掲する。ファイアンス焼きのこと、繊細な淡黄色の土の上に錫釉をかけた陶磁器を指す。北イタリアのファエンツァが名称の由来。酸化スズを添加することで絵付けに適した白い釉薬が考案され、陶芸は大きく発展することになった。この発明はイランまたは中東のどこかで九世紀より以前になされたと見られている。錫釉陶器を焼くには摂氏千度以上の温度となる窯が必要である。
「Palissy」フランス・ルネサンス期に活躍した陶工ベルナール・パリッシー(Bernard Palissy 一五一〇年頃~一五九〇年)。ウィキの「ベルナール・パリッシー」より引く。『ガラス工として各地を遍歴。ガラス工の需要が少なく、測量の仕事に従事した後、独力で釉陶の研究に取り組んだ。貧困の中、家具や床板まで燃料にして研究を続けたというエピソードがある』。『年ほどかかってようやく技法を完成し、「田園風土器」として人々に知られるようになった。その最大の作品は』『テュイルリー宮殿の庭園の一角に作られた』『陶製の人工洞窟であった』(現在は断片しか残っていない)。『プロテスタント(新教徒)であったため、度々弾圧を受けたが、才能を認めたアンヌ・ド・モンモランシー将軍やカトリーヌ・ド・メディシスの庇護を受けた。テュイルリー宮殿内の工房で、王室のために作品を制作した』。一五七五『年からパリで地質学、鉱物学、博物学など自然科学に関する講演会を約』十『年間続けた』。一五八〇年と一五八三年には『農学など、自然科学に関する論文集を出版している』。一五八五年の勅令で新教徒はカトリックへの改宗か国外亡命を迫られたが、従わなかった。庇護者のカトリーヌ・ド・メディシスが』一五八九年に亡くなった後』、『捕らえられ、バスティーユ牢獄で獄死した』。『独学で多くを学んだ自然主義者であり、啓蒙主義の先駆けの一人であった。しかし、ヴォルテールによってパリッシーの人物像は歪められて伝えられ、その事蹟は忘れ去られた』。明治四(一八七一)年に『中村敬宇が訳した』「西国立志編」第三篇『に伝記が掲載されたことにより、明治の日本人にはパリッシーの』事蹟『は有名だった』とある。]
○Quality
○viz 釉藥出づ
○土は鐵アル故ヤケバ赤シ Phenicia 釉藥出づ 珪酸 加利 曹達等よりなる硝子(珪酸アルカリ)に鉛入る(樂藥) なほ藥 transparent 故 Tin を加ふ 之を
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《11-9》
Majoria
とす(不透明なる白色) faïence ハ白い素地を用ひし故この上にもう一度透明の藥を加ふ(Palissy) 低熱にもとける故美しい色を持つ これ硝子 七寶と甚密接なり これ支那と全然反對なり 支那 hard より soft へうつる
[やぶちゃん注:「Phenicia」=Phoenicia。フェニキア。古代の地中海東岸に位置した歴史的地域名。シリアの一角でだいたい現在のレバノンの領域に相当する。
「樂藥」楽焼きの釉薬の主原料は白粉(おしろい)・白玉・珪石であるが、上に「鉛入る」とあるからこれは白粉。
「transparent」透明な・ごく薄い。
「Tin」錫(スズ)。
「Majoria」綴りママ。
「hard より soft へうつる」これは以上の釉薬の種別が生み出す見た目の硬軟感を指して言っているものと思う。]
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