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2018/02/28

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 流され王(3)

 

 長門の秋吉村には、百濟國王が漂著して勸請したと稱する八幡宮がある。其境内の一古墳を其王の臣下の靈と謂ふが如きは、卽ち八幡信仰の常の形であれば、やはり是も日本に面した對岸なるが爲に、百濟と謂ふやうになつたとも思はれ得る(長門風土記)。佐渡・常陸の新羅王の如きも、或は斯う云ふ舊傳と後世の漂著譚とが混淆したのではあるまいか。若狹遠敷郡椎崎御垣大明神は、御垣山王とも稱して山王樣であるが、社の側の塚を王塚と名づけ、曾て異國より「王ざまの人」船に乘り渡り來つて住み、死して此地に埋めたと傳へ、其船の屋形を取つて作つたと云ふ御輿が有つた(若狹國官社私考)。通例人はこの類の一部の形跡ある口碑などに接すると、或は其樣の事實が有つたのかも知れぬ、と云ふ程度で今迄は觀察を止めて居た。併し王にもせよ王子にもせよ、其樣な漂流が折々有つた筈も無し、又其が日本の信仰になるわけも無いから、塚とか神輿とかの舊物に託してこんな話の有るのは、何かさう誤傳せられるだけの事情があつたものと、考へて見る必要があつたのである。海近い村では神社を岬の山に齋き、然らざれば所謂御旅所を渚に構へた例が最も多い。祭の日に濱下(はまお)りなどゝ稱する儀式を行ふ風習は隨分奧の方の里迄行はれて居る。西部日本には殊に其海岸の一地點を宮の浦と呼び、神の最初の影向にも此から上陸されたやうに謂ふのが普通である。而も能ふべくは神を歷史上の實在の人と考へたいのが、近世一般の傾向であつたから、そこで菅公左遷の航路が大迂囘であつたり、又は神功皇后が到る處に碇泊ばかりして御出でなされたことになる。島國であつて天の神を祭つて居れば、是は殆ど當然の歸結であつて、岸から沖を見れば海の末は卽ち空だから、乃ち鳥船・磐船の神話も起り得るのである。東日本に於ては常陸の大汝少彦名の二柱の御神、伊豆の事代主神の如く誠に思ひ設けざる示現が古い世にもあつた。之を顯はし申したのは、固より神懸りの言であつた故に、篤信の人に取つては事實と擇ぶ所は無かつた。そこで對岸が三韓であつた地方には、自然に新羅王百濟王などの名前が、託宣の中にも出來ることになつたのでは無いか。高麗神渡來の話も二つは既に聞いて居る。その一つは伊豆山の走湯權現で、御船は先づ相州中郡の峯に著き、一旦高麗寺山の上に鎭座なされたと傳へて居る(關東兵亂記)。此は或は地名に由つて後に出來た説とも見られるが、越中礪波郡の高瀨神社の如きは、何のつきも無いのに亦高麗より御渡りなされた神と稱し、御著の日は七月十四日、今の御旅所のあるたび川の流は、其折御足袋を濯がせたまう故跡などゝ謂ふのである(越中國神社志料)。所謂客神蕃神[やぶちゃん注:底本は「番神」であるが、おかしいのでちくま文庫版全集で訂した。]の由來には、右の如き分子も含まれて居ることを考へて置かねばならぬ。

[やぶちゃん注:「長門の秋吉村」現在の山口県美祢市秋芳町秋吉上宿にある秋吉八幡宮。(グーグル・マップ・データ)。祭神の中に地主神百済國帝が含まれている。陰の総長氏のブログ「何処へ行くんだ! 土佐瑞山」の秋吉八幡宮に『「風土注進案」に、嘉祥年中』(八四八年~八五一年)『百済國帝、大津郡に漂着と記されているそう』だ『が、その約』二百『年前に百済國は唐によって滅ぼされてい』る、とある。柳田國男の話よりも遙かにビシッと決めていて、よい。

「日本に面した對岸なるが爲に、百濟と謂ふやうになつたとも思はれ得る」よく意味が判らぬが、或いは「くだら」を「ふだらく」、補陀落(観音菩薩の降臨するとされる伝説上の霊山)渡海のそれに擬えたものか。

「長門風土記」「長門國風土記」のことか。詳細書誌不祥。国立国会図書館デジタルコレクションはあ

「若狹遠敷郡椎崎御垣大明神」現在の福井県小浜市若狭にある椎村神社。阜嵐健氏の「延喜式神社の調査」の「椎村神社」(地図有り)によれば、「神祇志料」には『椎崎御垣明神』とある旨の記載がある。また、この神社には五月五日に行われる祭礼の中に「王の舞」という奉納舞いがあり、『獅子舞と「王の舞」が奉納され、区の繁栄と今年の豊作を祈りました。獅子退治の様子を演じる「王の舞」は飛鳥、奈良時代に中国や朝鮮から伝わり普及したと言われていますが、この若狭の「王の舞」はいかにも素朴でしみじみとした味わいがあり、市の無形民族文化財に指定されています』。『西之浦の神社から東浦の村中までの』一『キロ余りを太鼓や神輿、稚児などが行列を成し、途中、砂を盛って清めた場所で一服をしました。「お旅所」といって神様の休憩所だそうで、今では海岸道路が出来、車が行き来しますが、昔は小山を越えなければならず、』四百キログラム『以上もある神輿を担ぐには』、『神様どころか』、『人間様が一服せざるを得ません』とある。

「若狹國官社私考」江戸後期の国学者伴信友(ばんのぶとも 安永二(一七七三)年~弘化三(一八四六)年:若狭小浜藩の御馬廻組の藩士の第四子として小浜に生まれ。十四歳で同藩勘定頭石伴信当の養子となった。翌年、江戸に移って十六歳より出仕した。本居宣長没後の門人で、著作は百数十部に上り、古典の校訂や集録も多い。近世考証学の泰斗)が、若狭国式内社四十二座について記したもの。全二巻。

「齋き」「いつき」。心身の汚れを去り神に仕え、世話をし。

「鳥船・磐船の神話」「天の鳥船(あまのとりふね)」と「天の岩船」。神が乗って天空を移動すると考えられた船。古事記では伊弉諾尊・伊弉冉尊が生んだ神とする。

「大汝」「おほな」。「おおなむち」の命(みこと)。大国主。

「少彦名」「すくなびこな」の命(みこと)。大国主の国造りに際して天乃羅摩船(あめのかがみのふね)(ガガイモの実とされる)に乗って波の彼方より来訪した漂着神とされるが、私は高い確率でかの伊弉諾尊・伊弉冉尊が最初に生んだ蛭子(ひるこ)の変形と考えている。

「高麗寺山」現在の大磯町にある高麗山(こまやま)の頂上付近を指す。

「關東兵亂記」「相州兵乱記」とも言う。室町時代の関東を扱った合戦記で全四巻。著者・成立年代は未詳であるが、成立は天正八(一五八〇)年以降と推定されている。

「越中礪波郡の高瀨神社」現在の富山県南砺市高瀬にある高瀬神社。(グーグル・マップ・データ)。同神社公式サイトの歴史の記載を見ると、「創祀伝承」の部分に、「高瀬神社誌」から引いて、『在昔、大己貴命北陸御經營ノ時、己命ノ守リ神ヲ此處ニ祀リ置キ給ヒテ、ヤガテ此ノ地方ヲ平治シ給ヒ、國成リ竟ヘテ、最後』ニ『自ラノ御魂ヲモ鎭メ置キ給ヒテ、國魂神トナシ、出雲ヘ歸リ給ヒシト云フ』(恣意的に漢字を正字化した。後も同じ)とある一方、併記して「越之下草」から引用し、『此御神は住昔高麗より御渡り、此地へ御着の日』七月十四日『なりと、御神御足袋を濯せ給ふ流を、たび川と名つけ、此川の邊に暫時御休み、高瀨へ御移の間、俄に雨降、御神雨をくくると仰られしと也。よ』つ『て其處を、今に雨潛村といふ也。其後每年たひ川の邊御休の處へ御旅行なされ、其處を宮守と唱へ、今以江田村領を流るる也』とある。これは確かに神社の縁起としては、なかなか特異であると思われる。我々には大己貴命(おおむなちのみこと)の守り神が高麗より渡った神であったという逆転理解は当然、不可能なのであるが、或いは民は、柳田國男の言うように、それに不審を抱かなかったかも知れぬ、と考えると面白い。

「何のつきも無い」周辺に具体的な渡来伝承譚やそれに付随する話柄が全くないということであろう。

「越中國神社志料」佐伯有義編輯。詳細書誌不詳。]

 

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十七年 新なる不平 / 明治二十七年~了

 

     新なる不平

 

 『日本』に還った居士は、仕事の上からいうと、『小日本』時代より大分楽になった。『小日本』の廃刊については「愛子を喪(うしなひ)し如き感」があったに相違ないけれども、編輯という重責から離れたため、その方面の心労はなくなったわけである。当時飄亭氏に与えた手紙に「『日本』六頁は小生少も手をつけず、石井許りに相任せ申候。五頁だけこしらへればよき事故每日二時頃出社四時過退社致候次第にて『小日本』よりは大分樂に相成候。併し時々三段四段も埋めにやならぬには閉口いたし候」とあるが、石井というのは露月氏のことである。「文学漫言」の如きも三段四段を埋める一材料だったのであろう。

 同じ飄亭氏宛の手紙に「時々鳴雪翁をとひ中村畫伯と放談するなど此頃の快事に御座候」ということも書いてある。これは時間的に余裕の出来た証拠であるが、「地図的観念と絵画的観念」などという文章は、鳴雪翁訪問の結果として生れたものである。蕪村の「春の水山なき國を流れけり」の句を以て、鳴雪翁は蕪村集中の秀逸、俳諧発句中の上乗とし、居士はそれより一、二等下に置く。居士が鳴雪翁ほど高く評価しない理由は、「山なき國」の一語にあるので、これは目前の有形物を詠じたものでない、幾多の観念を綜合した後にはじめて生じ得べき抽象的の無形語だから、文学的感情を刺激することが薄いというのであった。一時間余も議論を闘わした後、鳴雪翁ほ地図的観念を以てこの句を見、居士は絵画的観念を以てこの句を見るという原因を突止(つきと)め得た。「地図的観念と絵画的観念」はこの原因について、更に心理学的解剖を進めたものである。

[やぶちゃん注:「地図的観念と絵画的観念」は「獺祭書屋俳話」に載り、国立国会図書館デジタルコレクションの画像でここから読める。]

 八月四日の『日本』に居士は「そゞろありき」という文章を掲げた。朝早く日暮里、三河嶋辺を彿御した俳句入の文章で、これも紙面を埋めんがためのすさびであったかも知れぬ。次いで八月十四日、鳴雪、不折両氏と王子に遊んだ時のことは、「王子紀行」一篇となって、不折氏の挿画入で『日本』に現れた。

[やぶちゃん注:「そゞろありき」は国立国会図書館デジタルコレクションの「獺祭書屋俳話」のから、「王子紀行」も同じくから読める。]

 こういう間にも日清間の戦局はどんどん進展する。飄亭氏は八月上旬に朝鮮に渡った。『日本』社中からも相次いで従軍者が出る。紙面が漸く活気を呈するにつれて、『小日本』廃刊以来の不平は、別の形になって居士の胸中に渦巻くようになった。九月になって「進軍歌五首」「凱歌五首」「海戦十首」というような俳句を『日本』に掲げて、いささか気勢を添うるところがあったが、「野に山に進むや月の三萬騎」「進め勧め角(つの)一聲(いつせい)月上りけり」「砲やんで月腥(なまぐさ)し山の上」「秋風の韓山敵の影もなし」「船沈みてあら波月を碎くかな」というような句では、到底居士の壮志を託するわけに行かぬ。鬱勃たる不平を懐きながら、居士は毎日のように根岸の郊外を散歩した。一冊の手帳と一本の鉛筆を携えて田圃野径(でんぽやけい)をさまよい、得るに従って俳句を書きつける。居士が俳句の上に写生の妙を悟ったのはこの時であった。同じような道を往来し、平凡な光景の中に新な句境を見出したのである。

 

 稻刈るや燒場の烟たゝぬ日に

 掛稻の上に短し塔の先

 掛稻や野菊花咲く道の端

 雨ふくむ上野の森や稻日和

 低く飛ぶ畔(あぜ)の螽(いなご)や日の弱り

 刈株に螽老い行く日數かな

 

 この辺の消息については小説「我が病」及『獺祭書屋俳句帖抄』の序にかなり委しく記されている。写生の妙を会得したという一事は、居士の俳句の上に一時期を劃するに足る進境でなければならぬ。日清戦争という国家の大事件に際し、胸中に無限の不平を蔵した居士が、全くかけ離れた方面において、こういう眼を開いているのだから面白い。

[やぶちゃん注:「我が病」は国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(明治三七(一九〇四)年俳書堂刊「子規遺稿 第三編 子規小説集」)から全篇を視認出来る。

「『獺祭書屋俳句帖抄』の序」の国立国会図書館デジタルコレクションの画像視認出来が、かなり長い序である。]

 京都の高等中学が解散されたため、九月から仙台の高等学校に移っていた碧、虚両氏は十一月に至り、遂に退学を決行して東京に帰って来た。碧梧桐氏は暫く子規庵に寄宿、虚子氏は非風の許にあったが、やがて共に本郷の下宿に移ることとなった。露月氏もこの夏脚気を病んで房州に転地、更に郷里へ帰った後、十月末になって出て来た。居士の身辺におけるいろいろな事柄もまた居士を慰むるに足るものが少かったように思われる。

[やぶちゃん注:「京都の高等中学が解散された」この明治二七(一八九四)年、京都の第三高等中学校は第三高等学校に改組されて本科・予科が廃止された。]

 十一月三日、居士は川崎、池上などに遊んで「間遊半日」を『日本』に掲げ、十二月はじめて開通した総武鉄道に乗って佐倉に赴き、「総武鉄道」を草した。「間遊半日」にも「総武鉄道」にも戦時下らしい空気が見えている。

 『日本』に還った後の居士は、時に竹の里人の名を以て『日本』に歌を載せる。ことがあった。

 

 嶋山を雲立ちおほひぬ伊豆の海相模の海に浪立つらしも

   三韓舟中の作に擬す

 雲かあらず烟かあらず日の本の山あらはれぬ帆檣の上に

 燒太刀を手にとり見ればが水無月の風ひやゝかに龍立ちのぼる

 

 格調は『小日本』時代のものに比して更に引緊(ひきしま)っている。居士の当時の心持はこれらの歌にも自(おのずか)ら現れているようである。

[やぶちゃん注:「三韓」神功皇后が新羅出兵を行い、朝鮮半島の広い地域を服属下においたとされる三韓征伐を日清戦争の出兵に擬えたもの。私には読みたくもないおぞましい一首である。]

栗本丹洲 魚譜 タウボコヱ (モヨウカスベ?)

 

Taubokoei

[やぶちゃん注:図版は国立国会図書館デジタルコレクションの「魚譜」からトリミングした。左端にあるのは、次の、同じエイ類の尾の末端で、本図とは関係ない。]

□翻刻

タウボコヱ

 

ガンキ

[やぶちゃん附記:地に書かれたキャプションは前の「タウボコヱ」だけなのであるが、画像を拡大して戴くと判るが、魚体上部にごく小さな付箋が逆さまに貼り付けられており、そこに、この『ガンキ』の文字を視認出来る。]

 

[やぶちゃん注:ちょっと迷ったが、これは軟骨魚綱板鰓亜綱ガンギエイ目 Rajiformes のガンギエイ類の中で、多くの和名が「~カスベ」と呼称されるガンギエイ科 Rajidae(二亜科二十六属二百三十八種を含む本目最大のグループであるが、その形態は多種多様である)の一種ではないかと思う。特に尾部の根元に多くの突起物を持つところが、ガンギエイ科 Rajinae 亜科コモンカスベ属モヨウカスベ Okamejei acutispina によく似ているように私には思われる。特に「国立研究開発法人 水産研究・教育機構」の「水生生物情報データベース」の「Okamejei acutispinaモヨウカスベ)」の画像と本図を是非、比較されたい。本種は文字通り、全身に広がる迷彩模様を特徴とする。「ぼうずコンニャクの市場魚介図鑑」の「モヨウカスベ」によれば、『関東の市場ではあまり見かけ』ず、『新潟や日本海の西部』で見かけることが多いとあり、『日本海側の市場でよく見かけるのが』、『本種とガンギエイ(Rajinae 亜科ガンギエイ属ガンギエイ Raja kenojei)の二『種ではないかと思う。市場や魚屋などでは切り身になっており、「かすべ」もしくは「かすっぺ」と呼ばれているものの』、『正体は未だ不明であるが、本種もそのひとつであると思う』とある。同種の詳細な記載は調べたところでは、椎名ブログの「モヨウカスベが最も生物学的に詳細であるので、必見である。但し、そこで椎名氏自身が、その観察対象(画像有り)とした個体を、モヨウカスベとするか、同じコモンカスベ属ツマリカスベ Okamejei schmidti とするか、識別が困難であるとされている(微弱な電流を感知する電気受容感覚器であるロレンチーニ瓶(器官)(Ampullae of Lorenzini:サメ類では頭部にあり(小さな孔が複数空いていて、その奥にゼリー状の物質が詰まった筒状の構造を持つ)、食物を探す際の一つの方法として利用しているが、ガンギエイ類では尾部にあって雌雄の交信に使われているという)の大きさによる識別が比較対象個体がないと難しいことによるとある)ので、或いは、本種の同定候補としては、それも挙げておくのがよいのかも知れない。ガンギエイ属 Raja の一般については、「西海区水産研究所」の「東シナ海・黄海のさかな」内のがよい。なお、ガンギエイは「雁木鱏」で、荒俣宏氏の「世界大博物図鑑2 魚類」(一九八九年平凡社刊)の「エイ」の項によれば、『尾にある短いとげの列を雁木』『(渡り鳥のガンの行列のようにぎざぎざの形をしたもの)にみたてたもの』とある。なお、ガンギエイ類の棘には毒はないとされる。

・「タウボコヱ」不詳。歴史的仮名遣だとすると、現代仮名遣では「トウボコエイ」となるか。孰れの文字列も検索に掛かってこないし、ガンギエイ類の地方名・流通名にも近似した呼称は発見出来なかった。当初、「タウボクヱ」で「倒木」かと思ったのだが、拡大して精査して見たが、どう見てもこれは「コ」であって「ク」ではない。お手上げ。

・「ガンキ」「雁木」。]

 

栗本丹洲 魚譜 トビヱ (トビエイ)

 

Tobiei

 

[やぶちゃん注:図版は国立国会図書館デジタルコレクションの「魚譜」からトリミングした。右端(尾部の下方)にあるのは、先に電子化したカスザメの頭部で、本図とは関係ない。マスキングも考えたが、巻子本の雰囲気を味わうのも一興であるから、そのままとした。]

刻(本体右手の尾部付根下方と本体部上部)

格致鏡源引臨海異物志云有鳶魚如鳶

鷰魚似鷰陰雨皆能飛高丈餘

右所謂二魚疑此物之類乎姑錄之備後考

壬午冬日丹洲瑞見誌 

 

トビヱ 

□やぶちゃん訓読(底本はご覧の通りの白文であるので、全くの手前勝手流である。誤りがあれば、御指摘戴ければ幸いである。無論、歴史的仮名遣を用いた。以下、この注は略す)

「格致鏡源」に引く「臨海異物志」に云(いは)く、『「鳶魚(とびうを)」有り、鳶のごとし。「鷰魚(つばめうを)」あり、鷰に似て、陰(くも)り雨(あめふ)らんとするに、皆、能(よ)く飛び、高さ丈餘たり。』と。

右の所謂(いはゆる)、二魚、疑ふらくは此の物の類か。姑(しばら)く之れを錄して後考(こうかう)に備(そな)ふ。壬午(みづのえうま)冬日(とうじつ)丹洲瑞見、誌(しる)す。

[やぶちゃん注:一部で赤みを帯びているのがやや不審であるが、突出した頭部の形状及び頭鰭の形などから、顎口上綱軟骨魚綱板鰓亜綱エイ上目トビエイ目トビエイ科トビエイ属トビエイ Myliobatis tobijei と同定してよいであろう。小学館の「日本大百科全書」より引く。『南日本を中心とした日本各地、東シナ海などに分布する』。胸鰭が頭部へ向かって前進しており、『体の最前端部で頭鰭(とうき)を形成すること、尾部に大きな棘(とげ)をもつこと』(尾部上部に尾と並行して突出しているが、本図では上手く描かれていない。或いは丹洲にところへ持ち込まれる以前に危険性(死後でも危険)を知っている漁師捕獲した際に切り捨てた可能性もあるかもしれない)、背鰭は腹鰭よりも『後方に位置することなどが特徴である。全長』一・八『メートルに達する。胎生で、夏季に』五~八『尾の子を産む。ときに』、『水上に飛び上がるところからその名がある。練り製品の原料になる程度である』とある。

・「格致鏡源」清の大学士であった陳元龍(一六五二年~一七三六年)が一七三五年に著した事物の起源を記した科学技術書。

・「臨海異物志」三国時代の呉の武将沈瑩(しんえい ?~二八〇年)が著した浙江臨海郡の地方地誌「臨海水土異物志」のこと。世界で初めて台湾の歴史・社会・住民状況を記載していることで知られる。

『「鳶魚(とびうを)」有り、鳶のごとし』これがもし、丹洲が言うように本種を指しているとするならば、「日本大百科全書」が述べるような、飛ぶから「飛び鱏(えい)」なのではなくて、鳥のトビ(タカ目タカ科トビ属トビ Milvus migrans)が飛翔する姿に似ているから「鳶鱏(とびえい)」なではあるまいか? 事実、「ぼうずコンニャクの市場魚介図鑑」の「トビエイ」の「由来・語源」によれば、『東京での呼び名。鳥を思わせ、色合いが鳶色であるため』とあるのである。そうか! 茶褐色のトビ色だからトビエイじゃないか?! 私は思わず、膝を打った。

「鷰魚(つばめうを)」「鷰」は「燕」と同じい。スズメ目ツバメ科ツバメ属ツバメ Hirundo rustica である。これは後の叙述からは、やはり、実際に海上に飛び上るというのだから、丹洲の同一ではないかとする疑いも、必ずしも牽強付会とは言えない。但し、燕同様の降雨を事前に体感する能力が本種にあるとはちょっと思えない(ツバメの方は、天気が悪くなる前に湿度が上昇し、餌として咥えている昆虫の羽根が水分で重くなり、低く飛ぶようになるからなどと言われているが、水中にいる本種には湿度は無理で、低気圧を感知するというのも甚だ苦しい)。

「丈餘」一丈余り。約三メートル。

「壬午(みづのえうま)」カテゴリ冒頭注で記した通り、本図類は基本、文化一四(一八一七)年よりも前に書かれたものであろう、とした。しかし、文化十四年以前の壬午となると、宝暦一二(一七六二)年となってしまい、当時は丹洲(宝暦六(一七五六)年生まれ。没年は天保五(一八三四)年)は満六歳で、これは絶対に、あり得まい。そこで調べてみると、これより五年後の文政五(一八二二)年が壬午であるから、これと採るべきであることが判り、さすれば、この巻子本「魚譜」は文化一四(一八一七)年四月十九日に開催された幕府医学館の薬品会に出した「垢鯊図纂」に手を加えたものであると考えられる。

「トビヱ」ママ。拡大して検証しても「ヱ」の下には痕跡もない。「エイ」は歴史的仮名遣では「えひ」(「エヒ」。正しくは「エ」で「ヱ」は誤り。但し、江戸時代にはよく混同された)であり、これを文字通り発音した場合、第二音の「ひ」は発音が頗る難しく、江戸っ子辺りは飛ばして「え」と呼んでいたかも知れぬ。また、「ヱ」は正確に発音すると「ウェ」で「うぇぃ」で現在の「とびえい」の音に近くなるから「ヱ」としたものかも知れない。というよりも、以下の鱏(エイ)類の図では一部が「ヱイ」ではなく、「ヱ」となっていることから、これで「えい」と読ませている可能性が極めて高いことが判る。従って、以降では(「エイ」と正しく書いている箇所もある)問題としないこととする。

カテゴリ「栗本丹洲」始動 / 魚譜 カスブカ (カスザメ)


 カテゴリ「栗本丹洲」を始動する。

 栗本丹洲(宝暦六(一七五六)年~天保五(一八三四)年)は医師で本草学者。幕府奥医師四代目。本名は元東・元格・瑞見等と改名し、丹洲は号。本草学者田村元雄(げんゆう)の第二子として江戸に生まれ、二十二歳の頃、幕府侍医栗本昌友(しょうゆう:三代目栗本瑞見)の養子となった。三十二歳で奥医となり、その後は幕府医学館教諭として本草学を講じた。文政九(一八二六)年四月二十五日には折から参府していた長崎出島のオランダ商館医であったドイツ人(オランダ人を詐称)医師で博物学者であったシーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold:フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・ズィーボルト  一七九六年~一八六六年)と面談し、シーボルトはその著「日本」(Nippon:一八三二年~一八八二年)の中で丹洲の膨大な図譜とその絵の素晴らしさを賞讃している。丹洲には三十数点の著作があり、その殆んどは動植物(特に動物)の写生図と解説である。

 私は既に自己サイト「鬼火」で「栗氏千蟲譜」(原文+訓読+原画画像+藪野直史注)の内、

「巻七及び巻八より――蛙変魚 海馬 草鞋蟲 海老蟲 ワレカラ ホタルムシ 丸薬ムシ 水蚤」

巻八より――海鼠 附録 雨虎(海鹿)」

巻九 全」

巻十 全」

を電子化注している(総て二〇〇七年作成・二〇一四年増補改訂。因みに、ありがたいことに、これらの仕事は、私のサイト内の作品の中では珍しく生物学の名誉教授の方及び図書館員の方などより、高い評価を戴いている)。無論、彼の膨大な博物図譜総てを電子化注することは出来ないが、私が興味を持った幾つかのそれをブログで試みてみたく思う。

 幸い、国立国会図書館デジタルコレクションの画像が豊富にある(リンク先は同コレクションの検索結果)ので、基本、それを用い、それ以外の資料をも参照することとする。それらはその書誌を各電子化注で明記する。

 構成は、まず、図版を示し、次に図内のキャプションを「□翻刻」で電子化、必要な場合は読み易くオリジナルに訓読したものを附し、その後に私の注を置き、そこで可能な限り、図版の生物を同定しつつ、諸注を附すこととする。

 まず、最初は彼の複数の魚譜の内の、巻子本(軸装)「魚譜」から入る。そこに附記された磯野直秀氏の解題によれば、丹洲は文化一四(一八一七)年四月十九日に開催された幕府医学館の薬品会に「垢鯊図纂」(こうさずさん:「垢」はエイ、「鯊」はサメの意)五十品を出品しているが、品数もほぼ同じであることから、これが本資料と推定される、とあることから、当初、本図の執筆はそれ以前と考えたが、次の「トビヱ」のキャプションの干支から考えると、それ以後に加筆された部分があることが判明した。詳細は「トビヱ」の項を参照されたい。なお、同「魚譜」は箱入で、箱書は「魚譜 丹洲」、軸装自体に標題はない。【2018年2月28日始動:藪野直史】

 

Kasubuka

[やぶちゃん注:図版は国立国会図書館デジタルコレクションの「魚譜」からトリミングした。上部にあるのは、左にあるトビエイらしき魚(当該図で再考証する)の尾部で、本図とは関係ない。]

 

カスブカ

 

[やぶちゃん注:軟骨魚綱カスザメ目カスザメ科カスザメ属カスザメ Squatina japonica。魚体が扁平でエイのように見えるが、立派な鮫で(鰓孔が体の側面にあることでサメ類と判る。エイ類は体の腹面に鰓孔を有する)、名に「ブカ(フカ)」がつくのは古名ながら、正しい。「かすざめ」とは「糟鮫」で、「ぼうずコンニャクの市場魚介図鑑」の「カスザメ」の「由来・語源」によれば、『東京での呼び名。価値のないカス(糟、粕)のようなサメの意味』とある。以下、ウィキの「カスザメ」より引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『北西太平洋の二百メートル以浅の砂底で見られる。体はエイのように平たく、全長一・五メートル以上になる。二基の背鰭が腹鰭より後方に位置すること、大きな棘の列が背面の正中線上にあること、胸鰭の先端の角度が小さいことで近縁のコロザメ』(カスザメ科カスザメ属コロザメ Squatina nebulosa:胡爐鮫。ここにあるように、胸鰭の外角がかなりの鈍角を成すことの他にも、後に述べられるように、腹鰭の後端が第一背鰭の起部に殆んど達することなどからも識別され、しかも全長三メートル近くにもなる点で成体はカスザメよりも比較的大きい)『と区別できる。背面には四角形の暗色の斑点が散らばり』、『保護色となっている』。『餌は魚類や無脊椎動物。夜行性の待ち伏せ型捕食者である。胎生で二~十匹の仔魚を産む。刺激されなければ』、『人には危害を加えない。肉や鮫皮が利用される』。『一八五八年、ドイツの魚類学者ピーター・ブリーカーによって』『記載された。タイプ標本は五十三センチメートルの雄で、長崎県沖で捕獲されたものである』。『二〇一〇年のmtDNA』(ミトコンドリアDNA)『を用いた分子系統解析では、本種はタイワンコロザメ』(Squatina formosa)など、『他のアジア産カスザメ類と近縁であるという結果が得られた。本種はその中でも比較的早く分岐した種であり、分子時計』(ヘモグロビンの構造の一部を構成するアミノ酸の配列異同(突然変異)から進化系譜が構築可能とするもの)『では、本種はおよそ一億年前(白亜紀)に他のカスザメ類から分岐したことが示された』。『第一背鰭が腹鰭の先端より後方に位置することで』も、『近縁のコロザメと区別できる』。『体は細く、胸鰭・腹鰭は大きく広がる。頭部側面の皮褶は葉状にはならない。眼は楕円形で、間隔は広い。その直後には三日月型の噴水孔があり、噴水孔の内部前縁には大きな箱型の突出部がある。鼻孔は大きく、小さな鼻褶』(皮膚が皺を作って蓋状或い片状になった部分)『があり、二対の髭が付属する。外側の髭は細いが、内側の髭は先端が匙状となり、その基部はわずかに房状となる。口は頭部末端に位置して幅広く、唇褶』(ある種のサメ類が有する口角部の皮膚の皺を指す)『がある。歯列は上下ともに片側十ずつで、中央には隙間がある。各歯は小さく、細くて尖る。頭部側面には五対の鰓裂がある』。『胸鰭の前端は頭部から遊離し、三角形の葉状になる。先端は角張り、後端は丸みを帯びる。腹鰭の縁は凸状になる。二基の背鰭は尖り、大きさ・形は概ね』、『同じである。腹鰭の先端より後方に位置する。尾柄は平たく、側面には隆起線が走る。尾鰭は大まかに三角形で、角は丸い。下葉は上葉より大きい。背面は中程度の大きさの皮歯』(楯鱗(じゅんりん)軟骨魚類に見られる特有の鱗。象牙質の中心に髄があり、外側はエナメル質に覆われていて、歯と相同の構造を持つことからかくも言う)『に覆われ、頭部から尾までの正中線上には大きな棘の列が走る。背面は明褐色から暗褐色で、四角形の暗色の斑点が密に存在する。この斑点は鰭上では細かくなる。腹面は白く、黒斑がある。最大全長は資料によって異なるが、一・五~二・五メートルの範囲』に留まる』。『北西太平洋の比較的寒冷な海域に分布し、本州東岸から台湾、日本海南部・黄海・東シナ海・台湾海峡で見られる。古い資料ではフィリピンに分布するとしているものもあるが、これは別種の Squatina caillieti だと考えられている。大陸棚上の浅海から水深三百メートル程度まで生息する。底生で、岩礁近くの砂底でよく見られる』。『日中は底質内で動かない』。『他のカスザメ類と同様、待ち伏せ型捕食者で、日中は底質に埋もれて過ごすが夜間は活動的になる。体色は保護色となる。餌は底生魚・頭足類・甲殻類など。単独か、同種個体と近接して見られる』。『胎生で、近縁種同様に受精卵は卵黄によって成長する。産仔数は二~十で、出産は春から夏。出生時は二十二センチメートル程度。雌は八十センチメートルで性成熟するが、雄については不明である』。『他のカスザメ類と同様、攻撃的ではないが、刺激されると噛み付き』、『裂傷を負わせることがある。分布域の大部分で底引き網によって捕獲されるが、おそらく定置網・刺し網なども用いられている。肉は食用に、皮は鮫皮として、おろし金や刀剣の鞘としても用いられる』(この利用から、本邦では古くから本種が知られていた)。『捕獲されやす』い上に、繁殖力も『低いため、商業漁業による漁獲圧に弱い。黄海やその近海で行われる底引き網は、水質汚染と合わせて地域の生態系に重大な影響を与えている。個体数はこの状況のもとで五十%以上減少していると見られ、IUCN』(国際自然保護連合:International Union for Conservation of Nature and Natural Resources)『は保全状況を危急種と評価している。中国政府が課している一部地域での底引き網漁の禁止は、本種の個体数によい影響を与えているかもしれない』とある。因みに、私は本種の煮凝(にこご)りが大好物である。]

2018/02/27

和漢三才圖會第四十一 水禽類 鵁鶄(ごいさぎ)

Goisagi

ごい   茭雞【音堅】

ごいざぎ 交矑

鵁鶄

     【和名伊微

      今云 五位鷺】

キヤ◦ウツイン

 

本綱鵁鶄大如鳧而高脚似雞長喙好啄其頂有紅毛如

冠翠鬛碧斑丹嘴青脛巢于高樹生子於穴中其母翼

飛下飮食禽經云白鷁相睨而孕鵁鶄睛交而孕人養之

玩能馴擾不去可厭火災

△按鵁鶄相傳近衞帝飮宴于神泉苑有鷺令人捕之其

 鷺將去叱曰宣旨也於是鷺伏而不動捕之以獻之叡

 感封鷺賜爵五品而令放之故名五位鷺其類有三種

背黑五位 狀似蒼鷺而小背蒼色翠鬣腹黃白色觜灰

 色脚黄項有白冠毛無亦有之此尋常鵁鶄也與本草

 之説有少異其肉味夏秋賞之冬有※氣不佳

[やぶちゃん注:「※」=「月」+「喿」。]

  星五位【則旋目鳥】 溝五位【卽護田鳥】共見于後

 凡五位鷺夜飛則有光如火月夜最明其大者如立岸

 邊猶人停立遇之者驚爲妖怪

 一種有蘆五位【一名恃牛鳥】出于原禽𪇆𪄻

 

 

ごい   茭雞〔(かうけいけん)〕【音、「堅」。】

ごいざぎ 交矑〔(かうろ)〕

鵁鶄

     【和名、「伊微〔(いび)〕」。

      今、「五位鷺」と云ふ。】

キヤウツイン

 

「本綱」、鵁鶄は大いさ、鳧〔(かも)〕のごとくして、高脚。雞〔(にはとり)〕に似て、長き喙〔(くちばし)〕。好みて啄(ついば)む。其の頂、紅毛有りて、冠のごとし。翠の鬛〔(たてがみ)〕、碧の斑〔(はん)〕、丹〔(あか)き〕嘴〔(くちばし)〕、青き脛なり。高樹に巢くふ。子を穴中に生む。〔子は〕其の母の翼を啣〔(は)〕んで、飛び下りて、飮食す。「禽經」に云く、『白鷁〔(はくげき)〕は相ひ睨〔(み)〕て孕み、鵁鶄は睛〔(ひとみ)〕を交へて孕む』〔と〕。人、之れを養ひて玩〔(もてあそ)〕ぶ。能く馴-擾〔(な)れて〕去らず。火災を厭〔(いと)〕ふべし。

△按ずるに、鵁鶄は、相傳〔す〕。『近衞帝の、神泉苑に飮宴す。鷺、有り。人をして之れを捕へせしめ〔んとするに〕、其の鷺、將に去らんとす。叱して曰く、「宣旨なり」と。是に於いて、鷺、伏して動かず。之れを捕へて以つて之れを獻〔(たてまつ)〕る。叡感して、鷺を封じて、爵五品〔(ほん)〕を賜ふ。而〔して〕之れを放たしむ。故、「五位鷺」と名づく。其の類、三種有り。

背黑五位〔(せぐろごゐ)〕 狀、「蒼鷺」に似て小さく、背、蒼色。翠〔の〕鬣〔(たてがみ)〕。腹、黃白色。觜、灰色。脚、黄。項〔(うなじ)〕に、白き冠毛、有り。無きも亦、之れ、有り。此れ、尋常の鵁鶄なり。「本草」の説と少異有り。其の肉の味、夏・秋、之れを賞す。冬は※〔(なまぐさき)〕氣〔(かざ)〕有〔りて〕佳ならず。

[やぶちゃん注:「※」=「月」+「喿」。]

「星五位〔(ほしごゐ)〕」【則ち「旋目鳥〔(せんぼくてう)〕」。】

「溝五位〔(みぞごゐ)〕」【卽ち、「護田鳥〔(おすめどり)〕」。】

 共に後〔(しり)〕へに見ゆ。

 凡そ、五位鷺、夜、飛ぶときは、則ち、光、有り、火のごとし。月夜、最も明なり。其の大なる者、岸邊に立ちては、猶ほ、人の停立するがごとく、之れに遇ふ者、驚きて、妖怪と爲す。

 一種、「蘆五位(よし〔ごゐ〕)」有り【一名、「恃牛鳥(こてい〔てう〕)」。】。原禽〔(げんきん)〕の𪇆𪄻〔(さやつどり)〕の下〔(もと)〕に出づ。

 

[やぶちゃん注:本文原文の「ごい」は総てママ。歴史的仮名遣は「ごゐ」が正しい。鳥綱 Avesペリカン目 Pelecaniformesサギ科 Ardeidaeサギ亜科 Ardeinaeゴイサギ属ゴイサギ Nycticorax nycticoraxウィキの「ゴイサギによれば、アフリカ大陸・北アメリカ大陸・南アメリカ大陸・ユーラシア大陸・インドネシア・日本・フィリピン・マダガスカルに分布し、本邦では『夏季に北海道に飛来(夏鳥)するか、本州以南に周年生息する(留鳥)。冬季に南下する個体もいる』。全長は五十八~六十五センチメートル、翼開長一メートル強から一メートル十二センチメートル、体重は四百~八百グラム。『上面は青みがかった暗灰色、下面は白い羽毛で被われる。翼の色彩は灰色』を呈する。『虹彩は赤い。眼先は羽毛が無く、青みがかった灰色の皮膚が露出する。嘴の色彩は黒い。後肢の色彩は黄色』。『幼鳥は上面が褐色の羽毛で被われ、黄褐色の斑点が入る。この斑点が星のように見える事からホシゴイの別名がある。下面は汚白色の羽毛で被われる。虹彩は黄色がかったオレンジ色。眼先は、黄緑色の皮膚が露出する』(下線やぶちゃん)。『繁殖期には後頭に白い羽毛が』、三本、『伸長(冠羽)し、後肢の色彩が赤みを帯びる』。河川・湖・池沼・湿原・水田・海岸などに『生息する。単独もしくは小規模な群れを形成して生活する。夜行性で、英名』(Black-crowned night heronNight heron)『の由来になっている。昼間は水面に張出した樹上などで』、『ひっそりと休』んでいる。『食性は動物食で、両生類、魚類、昆虫、クモ、甲殻類などを食べる。夜間水辺を徘徊しながら』、『獲物を捕食する』。『繁殖形態は卵生』で、『サギ科の他種も含めた集団繁殖地(コロニー)を形成する。樹上に雄が巣材となる木の枝を運び、雌がそれを組み合わせた巣を作る』。本邦では四~八月に三~六個の卵を、年に一、二回に『分けて産む。雌雄交代で抱卵し、抱卵期間は』二十一から二十二日で、『育雛は雌雄共同で行う。雛は孵化してから』二十日から二十五日で『巣を離れるようになり』、四十~五十日で『飛翔できるようになり独立する。生後』一~二『年で性成熟する』。「平家物語」(巻第五「朝敵揃(てうてきぞろへ(ちょうてきぞろえ))」)等では、『醍醐天皇の宣旨に従い』、『捕らえられたため』、『正五位を与えられたという故事が和名の由来になって』おり、『また、能楽の演目「鷺」は』、『その五位鷺伝説に由来するものである』(能では捕獲した蔵人(くろうど)もともに五位を得ている)。『夜間、飛翔中に「クワッ」とカラスのような大きな声で鳴くことから「ヨガラス(夜烏)」と呼ぶ地方がある。昼も夜も周回飛翔をして、水辺の茂みに潜む。夜間』、『月明かりで民家の池にも襲来し』、『魚介類・両生類を漁る。主につがいや単独で行動する』とある。「平家物語」の「卷第五」の「朝敵揃」のそれ(同章の後半全文)を以下に示す。

   *

 この世にこそ王位も無下(むげ)に輕(かろ)けれ。昔は宣旨(せんじ)を向つて讀みければ、枯れたる草木(くさき)も花咲き實なり、飛ぶ鳥も隨ひき。

 近頃の事ぞかし。延喜の御門(みかど)、神泉苑(しんぜんゑん)に行幸(ぎやうがう)なつて、池の汀(みぎは)に鷺の居(ゐ)たりけるを、六位を召して、

「あの鷺、とつて參れ。」

と仰ければ、如何(いかで)か捕らるべきとは思へども、綸言(りんげん)[やぶちゃん注:詔(みことのり)。天子の言葉。「礼記」の「緇衣(しい)」に由来。「綸」は組み糸で、天子の口から出るときは糸のように細い言葉が、下に達するときは組み糸のように太くなるという意を持つ。]なれば、步(あゆ)み向ふ。鷺、羽繕(はづくろ)ひして、立たんとす。

「宣旨ぞ。」

と仰(おほ)すれば、ひらんで[やぶちゃん注:平伏(ひれふ)して。]飛び去らず。卽ち、これを取つて參らせたりければ、

「汝が宣旨に隨ひて參りたるこそ神妙(しんべう)なれ。やがて五位になせ。」

とて、鷺を五位にぞなされける。

『今日(けふ)より後(のち)鷺の中(なか)の王たるべし』

と云ふ御札(おんふだ)を、自(みづか)ら遊(あそ)ばいて、頸につけてぞ放たせ給ふ。全くこれは鷺の御料(おんれう)にはあらず、只(ただ)、王威の程を知ろし召さんが爲なり。

   *

さて「延喜の御門」とは第六十代天皇である醍醐天皇(元慶九(八八五)年~延長八(九三〇)年/在位:寛平九(八九七)年~延長八(九三〇)年)である。ところが、「和漢三才図会」本文ではこれを近衛天皇のエピソードとするが、これは良安の誤認と思われる。確かに「平家物語」から「近き頃」となれば、第七十六代天皇近衛天皇(保延五(一一三九)年~久寿二(一一五五)年)は相応しいように一見、見えてしまうのだが、実は彼の在位は永治元年十二月七日(一一四二年一月五日)から久寿二年七月二十三日(一一五五年八月二十二日)と短く、しかも崩御した時は未だ満十六歳であった。加えて、彼は十四歳以降は病勢が悪化し、一時は失明の危機に陥っていて、凡そ、このエピソードにはあまり相応いとは思われない病気がちの少年なのである。正直、私は秘かに、良安先生、「延喜」と「近衞」の崩し字を誤って記憶したのではないかと思っている

 

「啣〔(は)〕んで」実は原典底本は字が擦れていてよく見えない。東洋文庫訳では『子は母の翼にのり』と、この「啣」とした字を「乗る」の意で採っているのであるが、少なくとも、この字にはそんな意味はないので採れない。「漢籍リポジトリ」の「本草綱目」では「」となっているが、この漢字は私も見たこともないもので、検索を掛けても、中文サイトでもよく判らないのである。しかし、「維基文庫」の「本草綱目」を見てみると、ここを「銜」としているのを発見した。これなら判る。(口に)「銜(くわ)える」である。しかも「くわえる」という漢字には「啣」がある。この漢字は「和漢三才圖會」の原典の字に頗る似ているのである。最後に、中外出版社の明治三五(一九〇二)年刊の「和漢三才圖會」の活字本の当該項(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの当該ページの画像)を調べてみると、やはり「啣」となっていた。しかもやはり確かに送り仮名は『ンデ』なのだ。そうだとすれば、これはもう、「はんで」(囓(は)んで)で、雛鳥が母鳥の羽を口で銜(くわ)えてそこに攀じ登り、或いは、銜えたところを母鳥が翼を広げて高みに揚げたところで、飛び降りて摂餌をする、と続くのだと読んだ

「禽經」既出既注であるが、再掲しておく。春秋時代の師曠(しこ)の撰になるとされる鳥獣事典であるが、偽書と推定されている。全七巻。

「白鷁〔(はくげき)〕」これも既注であるが、「鷁」は「」(ゲイ)と同じで、鷺(さぎ)に似た大形の水鳥で、船首にこの水鳥を象った飾りを付けることで知られる想像上の大鳥である。その白色のものとなる。

「相ひ睨〔(み)〕て孕み」見つめ合うことで子を孕む。

「鵁鶄は睛〔(ひとみ)〕を交へて孕む」瞳、視線が一瞬互いに合っただけで孕む。こりゃ、

凄い!

「馴-擾〔(な)れて〕」「擾」は「騒擾(ソウジョウ)罪」のように専ら今は「騒ぐ」の意で知られるが、他に「なつける・ならす」の「馴れる」と同じ意があり、「擾化」「擾馴(ジョウジュン)」という熟語もある。

「火災を厭〔(いと)〕ふべし」これは火難を避けることが出来る、則ち、この鳥を飼っていると火難除けになるということを意味している。

「相傳〔す〕」以下のような名称由来伝承を伝えている。

「其の類、三種有り」以下の「背黑五位」・「星五位」・「溝五位」ということであろう。

「背黑五位〔(せぐろごゐ)〕」これは良安も「尋常の鵁鶄」なり」と言っているように、実は前で言う別種なのではなく、ゴイサギの成鳥のことを指している。

「蒼鷺」ペリカン目サギ科サギ亜科アオサギ属アオサギ Ardea cinerea。後(五つ後)で独立項で出る。

『「星五位〔(ほしごゐ)〕」【則ち「旋目鳥〔(せんぼくてう)〕」。】』これも別種ではない。ゴイサギの幼鳥の別名。体の上面が褐色の羽毛で被われており、そこに黄褐色の斑点が入っているが、この斑点が、星のように見えることに由来する。冒頭注の引用の下線部を参照。

『溝五位〔(みぞごゐ)〕【卽ち、「護田鳥〔(おすめどり)〕」。】』これは立派な別種で、サギ科ミゾゴイ属ミゾゴイ Gorsachius goisagi である。ウィキの「ミゾゴイ」より引いておく。中国南東部・日本(本州以南)・フィリピン・台湾に分布。『主に日本で繁殖し(台湾でも繁殖した例があ』る『)、冬季になると』、『フィリピンへ南下し』、『越冬するが』、『台湾や日本(九州、南西諸島)でも少数個体が越冬する』。全長四十九センチメートル、翼長二十五~二十九センチメートル、翼開長八十~九十センチメートルで、体重は四百九十グラム。『頭部の羽衣は濃赤褐色や黒褐色』、『上面の羽衣は暗赤褐色』、『体下面の羽衣は淡褐色』を呈する。『喉には細く黒い縦縞が入り、下面中央部には赤褐色の縦縞が入』り、『風切羽は暗褐色で、先端が赤褐色』。『上嘴は黒や黒褐色、下嘴は黄色』、『後肢は黒緑色』。『繁殖期の個体は眼先の裸出部が青くなる』。『平地から低山地にかけての森林に生息』し、『暗い森林を好む』。『単独もしくはペアで生活する』。『渡来直後のオスは夕方から夜間にかけて鳴くため』、『夜行性と考えられていた』が、『繁殖期の給餌時間や飼育下での非繁殖期の活動時間の観察例から』、『本種を昼行性とする説もある』。『危険を感じると』、『頸部を伸ばして上を見上げ』、『外敵に向かって下面を向け、木の枝に擬態する』。『食性は動物食で、魚類、昆虫、サワガニなどの甲殻類、ミミズなどを食べる』。『森林内の河川、湿原、地表などを徘徊し』、『獲物を捕食する』。『繁殖形態は卵生。太い樹上に木の枝を組み合わせた巣を作り』、五~七月に三、四個の卵を産む。抱卵期間は二十から二十七日、雛は三十四日から三十七日で巣立ちする。『鳴き声からウシドリ、ウメキドリ、ヤマイボなどの方言名がある』とある。「ヤマイボ」とは鳴き声が「イボォー、イボォー」と聞こえるかららしい。鳴き声はこれ。なお、前と合わせて、孰れも「共に後〔(しり)〕へに見ゆ」とある通り、この後に独立項(次の「旋目鳥(ほしごい)」及び、その次の「」(おすめどり/みぞごい:別名・護田鳥)として出る。

「夜、飛ぶときは、則ち、光、有り、火のごとし」これはサギの鳥体が夜間に青白く発光するもので、江戸時代から妖怪或いは怪異現象として「青鷺火(あおさぎび)」「五位の火(ごいのひ)」などと呼ばれている。ウィキの「青鷺火」より引く。『「青鷺」とあるが、これはアオサギではなく』、『ゴイサギを指すとされる』。『江戸時代の妖怪画集として知られる鳥山石燕』の「今昔畫圖續百鬼」や「繪本百物語」などにも『取り上げられ、江戸時代にはかなり有名な怪談であったことがわかる。また江戸後期の戯作者』桜川慈悲功作・歌川豊国画の「變化物春遊(ばけものはるあそび)」(寛政五(一七九三)年刊)にも、大和国で『光る青鷺を見たという話がある。それによると、化け柳と呼ばれる柳の大木に毎晩のように青い火が見えて人々が恐れており、ある雨の晩』、一『人の男が「雨の夜なら火は燃えないだろう」と近づいたところ、木全体が青く光り出し、男が恐怖のあまり気を失ったとあり、この怪光現象がアオサギの仕業とされている』(原典の当該箇所を国立国会図書館デジタルコレクションのここの画像で視認出来る)。『新潟県佐渡島新穂村(現・佐渡市)の伝説では、根本寺の梅の木に毎晩のように龍燈(龍神が灯すといわれる怪火)が飛来しており、ある者が弓矢で射たところ、正体はサギであったという』。『ゴイサギやカモ、キジなどの山鳥は夜飛ぶときに羽が光るという伝承があり、目撃例も少なくない。郷土研究家』更科公護の論文「光る鳥・人魂・火柱」(『茨城の民俗』昭和五六(一九八一)年十二月)にも、昭和三(一九二八)年頃に『茨城県でゴイサギが青白く光って見えた話など』、『青鷺火のように青白く光るアオサギ、ゴイサギの多くの目撃談が述べられている』。『サギは火の玉になるともいう』。『火のついた木の枝を加えて飛ぶ、口から火を吐くという説もあり、多摩川の水面に火を吐きかけるゴイサギを見たという目撃談もある』(ここに本書の記載の紹介がでるが、省略する)。『また一方でゴイサギは狐狸や化け猫のように、歳を経ると化けるという伝承もある。これはゴイサギが夜行性であり、大声で鳴き散らしながら夜空を飛ぶ様子が、人に不気味な印象をもたらしたためという説がある。老いたゴイサギは胸に鱗ができ、黄色い粉を吹くようになり、秋頃になると青白い光を放ちつつ、曇り空を飛ぶともいう』。『科学的には水辺に生息する発光性のバクテリアが鳥の体に付着し、夜間月光に光って見えるものという説が有力と見られる。また、ゴイサギの胸元に生えている白い毛が、夜目には光って見えたとの説もある』とある。また、そこでも紹介されているが、「耳囊 卷之七 幽靈を煮て食し事」(リンク先は私の電子化訳注)も是非、参照されたい

「其の大なる者、岸邊に立ちては、猶ほ、人の停立するがごとく、之れに遇ふ者、驚きて、妖怪と爲す」つげ義春も漫画にしているが、事実、本当に人のように見えるものだ。私は何度か、ゴイサギを人と錯覚したことがあるのだ。

「蘆五位(よし〔ごゐ〕)」これも別種。サギ亜目サギ科サンカノゴイ亜科ヨシゴイ属ヨシゴイ Ixobrychus sinensisウィキの「ヨシゴイ」より引く。東アジア・東南アジア及び南洋諸島など、広く分布する。本邦には夏季、繁殖のために『飛来(夏鳥)するが、本州中部以南では越冬例もある』。全長三十一~三十八センチメートル、翼開長五十三センチメートル。『上面は褐色、下面は淡黄色の羽毛で覆われる。小雨覆や中雨覆、大雨覆の色彩は淡褐色、初列雨覆や風切羽の色彩は黒い』。『虹彩は黄色。嘴の色彩はオレンジがかった黄色』。『幼鳥は下面が白い羽毛で覆われ、全身に褐色の縦縞が入る。オスは額から頭頂にかけて青みがかった黒い羽毛で覆われる。また』、『頸部から胸部にかけて』、『不鮮明な淡褐色の縦縞が』一『本入る』。『メスは額から頭頂にかけて赤褐色の羽毛で覆われ、額に暗色の縦縞が入る個体もいる。また頸部から胸部にかけて不鮮明な褐色の縦縞が』五本、入っている。『湿原や湖、池沼、水田などに生息する。ヨシ原に生息することが和名の由来。単独もしくはペアで生活する。薄明薄暮性。開けた場所には現れず、ヨシ原を低空飛行し獲物を探す。危険を感じると上を見上げて頸部を伸ばし、静止したり左右に揺れる。これにより下面の斑紋がヨシの草と見分けづらくなり、擬態すると考えられている』(これは鳥の巧妙な擬態の典型例として知られる。私の幼い頃の鳥類図鑑にも載っていたのを懐かしく思い出す)。『食性は動物食で、魚類、両生類、昆虫、甲殻類などを食べる。水辺や植物の茎の間で獲物を待ち伏せし、通りかかった獲物を頸部を伸ばして捕食する。『繁殖形態は卵生。茎や葉を束ねた皿状の巣に』、本邦では五~八月三~七個の『卵を産む。雌雄交代で抱卵し、抱卵期間は』十七日から二十日。雛は孵化後、約十五日で巣立つ。

「恃牛鳥(こてい〔てう〕)」東洋文庫訳はこの「恃」を誤字とし、「特牛鳥」とする。「特牛」は「牡牛」とも書き、「ことひうし・こというし、・こってうし・こっとい」などとも読み、古くは「こというじ」とも称したという。「強く大きな牡牛」の意と、Q&Aサイトの回答にあった。鳴き声も幾つか聴いて見たが、雄牛の鳴き声のようには聴こえないので、呼称の意味は判らなかった。識者の御教授を乞う。

「原禽〔(げんきん)〕の𪇆𪄻〔(さやつどり)〕」次の「卷第四十二 原禽類」の掉尾に独立項として出る。「原禽類」とは野原・平野を棲息域とする鳥類の意と推定され、「𪇆𪄻」の項を見ても、良安もお手上げ状態であるが、彼自身、その文中で「𪇆𪄻」は、実はこの「蘆五位」と同一種ではないか、と推理している。そこに行ったら、再度、考証し直す。]

 

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十七年 『日本』に還る

 

     『日本』に還る

 

 『小日本』廃刊後の居士は、もとの通り『日本』に還った。不折、露月両氏も居士と一緒に『日本』へ移ることになった。紅緑氏が俳句を作り出したのは、居士が『日本』へ還って編輯室に机を並べるようになってからである。

 『日本』に復帰して第一に居士の書いた文章は「文学漫言」であった。これは前年の「文界八つあたり」をまた異った角度から筆を進めたものと見られる。「外に対する文学」「内における文学」「文学の本分」「文学の種類」(内国と外国、古文と今文、韻文と散文、天然と人事)「和歌」「俳諧」「和歌と俳句」の琴目に分れ、七月十八日からはじまって八月一日に了った。

 「和歌」の項において「年の内に春は來にけり一年(ひととせ)を去年(こぞ)やいはん今年とやいはん」の歌を引き、「單に言葉の上の洒落にして何らの趣味をも含まざるにあらずや。而して後世の歌人は多くこの種の無風流の歌を以て秀逸とするに至る」と評したこと、「定家と同時に源実朝出で專ら『萬葉』を學び古今獨步の秀歌をさへ多く詠み出でたりと雖も、是れ唯實朝一人が特に卓出せしに過ぎずして、天下曾てこれに倣(なら)ふ者無かりしは實に眞成の歌人の世に絶えたる證(あかし)にして、一方より見れば實朝が大見識を觀るに足る」と述べたことは、明に後の歌論に関連するものを持っている。また「俳諧」の項において天明期の俳諧を和歌の定家時代に此し、「然れども天明の俳諧師は和歌における定家りも多くの事を爲したり。其俗氣を脱せし點に於て筆力雄健なる點に於て實朝に似たりと雖も、恐らくは實朝よりも多くの事を爲したらん。實朝は和歌の上に一機軸を出したれども(恰も蕪村が天明に於けると同一樣に)其大半は『萬葉』の模倣に過ぎざりしなり。天明の俳諧は元祿の古に法(のつと)りしかども、實際は元祿以外に一新體を開きたる者にして、蕪村・曉臺・闌更の徒は敢て元祿の糟粕を嘗めたる者に非ず。而して實朝歿後一人の之を模倣する者なかりし如く、蕪村等の歿後亦殆ど一人の之を學ぶ者なかりしは實に不思議にも暗合したる事實なり」と論じている。居士の天明の俳句に対する態度は漸く積極的になった。しかし蕪村を暁台、闌更らと併せ論じているのを見れば、それほど深く推重するに至っておらぬのである。

[やぶちゃん注:本段落の「文学漫言」からの引用は、「子規居士」原本と合わせて校合したが、一部の記号は底本のままに用いた。以下の「文界八あたり」等も同じ処置を施した。]

 「文学漫言」においてもう一つ注意すべきものは、和歌と俳句の調和に関する説である。当時の和歌と俳句とは全く風馬牛の立場にあった。和歌には和歌の長所があり、俳句には俳句の長所があり、終に相奪うべからざるものであるが、古今東西を通じ各種の美術の上に共通する意匠がなければならぬ。形の上で最も近似した和歌と俳句との相異点は、自ら異ったまでのもので、敢て異らざるべからざるものがあるわけではない。居士がこの文章において「意匠の上より言へば本邦普通の和歌ほど意匠に乏しき者あらず。言語の上より言へば本邦普通の俳句は言語の卑俗なる者あらず」といった「普通」なる言葉は、旧派の和歌、月並の俳句を指すのである。俳句において言語の卑俗を離れることは、已に居士らの新運動によって或程度まで歩を進めることが出来た。残されたものは和歌の問題である。前年の「文界八つあたり」の中で「要するに今日和歌といふものゝ価値を回復せんとならば、所謂歌人(卽ち愚癡なる國學者と野心ある名利家)の手を離して之を眞成詩人の手に渡すの一策あるのみ」と喝破した居士は、「文学漫言」においてまた「試みに見よ、專門家の著作に係る文學美術は俗氣紛々見るべからずして、却て素人の文學美術時に高尚の趣を得たるものあるを」といい、新なる機運の奈辺より動き来るかを暗示している。居士のこの時の結論は、改良の第一著手(ちゃくしゅ)として和歌俳句の調和を図らなければならぬ、調和を図るには和歌の言語に俳句の意匠を用いるを以て一とする、「一言にして之を云はゞ三十一文字の高尚なる俳句を作り賢さんとするに在るなり」というのであった。和歌の革新に対する居士の意見は、この数行の文字から大体これを看取することが出来る。

 「文学漫言」の署名は獺祭書屋主人であった。文中和歌及俳句について、特に力説するところがあったのは偶然でない。

 

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 流され王(2)

 但し確信と眞實が往々にして一致せぬと同じく、單純なる懷疑も亦決して學問とは言はれぬ。故に自分は些しく歩を進めて、右の最近の現象が何事を意味するのかを、他の一側面から考へて見みようと思ふ。先づ第一に心付くのは、白髭明神の祭神が啻[やぶちゃん注:「ただ」。]に神職の家の始祖と謂ふだけで無く、特に之を異國の王と傳へて居る點である。人は餘り言はぬが同じ武藏の内でもずつと東京に近く、舊新座郡の上新倉(にひくら)には新羅王の居跡がある。昔新羅の王子京より下つて住むと稱し、其地牛蒡山と謂ふ村の山田上原大熊の三苗字は、其隨從者の後裔と傳へて居るが(新編武藏國風土記稿四四)、是などは以前は單に王又は王子と謂つたのを新座郡だから新羅王とした形がよく見えて居る。日本の來てから新羅王も訝しいが、殊に珍なのは近く天文の元年にも、佐渡の二見港へ上陸した新羅王があつた。玉井と云ふ井戸はこの王が掘らせたという事と、每日々々大文字を書いては、とかく墨色が面白くないと謂つて反故にして居たと云ふ話とが殘つて居る(佐渡土産中卷)。相川の高木氏其子孫と稱して家號をシイラ屋と呼んだ。島には往々にして新羅王と署名した揮毫も傳へている(郷土研究二卷六號)。此だけでも誤聞輕信とは認めにくいのに、かけ離れた常陸の太田附近にも、同じく新羅王と署名をした書を持つ者が多く、是もさして古からぬ時代に、船に乘つて到著した氣狂のやうな人であつたと謂ひ、其書には諺文かとおぼしく、讀めぬ文字が多かつたそうである(楓軒偶記三)。旅の朝鮮人ならば書でも書くより他は無かつたらうが、如何なる動機から新羅王などと自ら名のつたものか。これが一つの不思議である。

[やぶちゃん注:「舊新座郡の上新倉」現在の埼玉県和光市北西附近(グーグル・マップ・データ)。

「新羅王の居跡」「牛蒡山」現在の午王山遺跡。(グーグル・マップ・データ)。

「新編武藏國風土記稿」文化・文政期(一八〇四年~一八二九年)に昌平坂学問所地理局で編纂された武蔵国地誌。

「王又は王子と謂つたのを新座郡だから新羅王とした形がよく見えて居る」先の「牛蒡山」からは牛頭天王(ごずてんのう:神仏習合神。釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされ、また、蘇民将来説話の武塔天神と同一視されて、薬師如来の垂迹であるとともに素戔嗚命(すさのおのみこと)の本地ともされた)の護符牛王宝印(ごおうほういん)の訛化が疑われるし、「王子」は王子信仰の王子神(おうじがみ:本邦の古い信仰では本宮と呼ばれる神社の主神から、その子どもの神として分かれ出た神格を祀ったり、巫女的な性格を持った母神と、その子神を合わせて祀る信仰があり、これを「若宮(わかみや)」或いは「御子神(みこがみ)」と呼んでいたが、後に神仏教習合が進むと、それが仏教の神格の一つに変形され、「子」から、仏に扈従する童子の姿で表現される「童子」が「若宮」とさらに習合して「王子」と呼ばれた)のニュアンスも濃厚に感じられる。柳田の言うように、「新座」は新しい「座」(ま)す地の意を含み、渡来した「新羅王」伝承と合わせるには市井の民の誰もが安易に納得しまう分かり易さが、確かに、ある。

「天文の元年」一五三二年。室町末期。

「佐渡の二見港」現在の大佐渡の西端の真野湾内の新潟県佐渡市二見。(グーグル・マップ・データ)。

「玉井と云ふ井戸」不詳。

「佐渡土産」不詳。原本を確認出来れば、玉井という井戸の位置も判るのだが。後の叙述からは相川地区内の可能性が高いように感じられる。

「シイラ屋」不詳。私などは、つい、佐渡で晩秋に捕れる条鰭綱スズキ目スズキ亜目シイラ科シイラ属シイラ Coryphaena hippurus を想起してしまうのだが。

「郷土研究二卷六號」大正三(一九一四)年九月或いはそれ以前の発行かと思われる。

「常陸の太田」現在の茨城県常陸太田市。(グーグル・マップ・データ)。

「諺文」「オンモン」と読む。李氏朝鮮第四代朝鮮国王世宗(一三九七年~一四五〇年)が制定した文字体系「訓民正音」(くんみんせいおん)、現在のハングルの古称。現在は卑語と見做され、現地ではこの呼称は使用されないので注意が必要。

「楓軒偶記」小宮山楓軒著で文化四(一八〇七)年の序を持つ随筆。同書を所持するが、巻之三には以上の記載を今のところ、見出せない。発見し次第、追記する。]

進化論講話 丘淺次郎 第十三章 古生物學上の事實(2) 一 古生物學の不完全なこと

 

     一 古生物學の不完全なこと

 

 化石は古代の生物の遺體で、各地層の出來る頃に生活して居たものの化石が、その層の中に含まれてあるわけ故、若し昔住んで居た動植物が總べて化石となつて、そのまゝ完全に今日まで殘つて居たと想像すれば、生物進化の徑路は之によつて明に知れる筈であるが、實際には化石といふものは人の知る如く珍しいもので、一つ發見しても直に之を博物館に陳列する位故、之を今日まで長い間に地球上に生活して居た生物個體の數に比べれば、實に九牛の一毛にも及ばぬ程である。それ故、化石によつて生物進化の系圖を完全に知ることは、素より望まれぬことである。

 先づ如何なる動物が如何なる場合に化石になつて後世まで殘り得るかと尋ぬるに、介殼とか骨骼とかの如き堅い部分のある動物でなければ、化石となることはむづかしい。尤も海月(くらげ)の完全な化石が一つ發見になつたことはあるが、之は極めて稀なこと故、例外とせねばならぬ。また善く保存せられるときには、微細な點まで殘るもので、魚類の化石の筋肉の處を少し缺き取り、砥石で磨つて極薄くし、顯微鏡で見ると、生の魚の筋肉に於ける通りに判然と筋肉纖維の橫紋までが見えた例もあるが、通常は腐敗し易い體部は殘らぬもので、貝類・海膽(うに)類ならば介殼ばかり、蝦・蟹の類ならば甲ばかり、魚類・鳥類・獸類等ならばたゞ骨骼ばかりが化石となつて殘るものである。どこの博物館に行つて見ても、化石といへば皆かやうな物だけに過ぎぬ。

[やぶちゃん注:「尤も海月(くらげ)の完全な化石が一つ發見になつたことはある」刺胞動物であるクラゲのゼラチン質の柔らかく透明な体の九十五%以上は水であるが、海岸に打ち上げられたクラゲ(この場合、それらを餌として啄む動物や分解して摂餌する小動物及び急速にそのように作用する細菌類がいないことも条件となる)がの表面が泥や砂で蔽われて、まず、押し型痕が採られ(前の条件がクリアー出来ないと、押し型痕が形成される以前にクラゲが消失してしまう)、例えば、それが出来上がった直後に、火山噴火等の急激な環境変動が発生し、極めて短い時間内でさらにそこに広汎な土砂が比較的静かに堆積した場合、クラゲの本体は既に乾燥して消失していても、そこに化石(印象化石)が生ずることになる。しかし、これはかなりレアな条件がたまたま揃った場合の極めて奇跡的な出来事であることには変わりはない。これは丘先生が次の段落で述べている。

 また如何に堅い部分のある動物でも、死んでから、風雨に曝(さら)されては總べて碎けてしまつて化石とはならぬ。介殼でも、骨骼でも、凡そ動物身體の中で堅牢な部分は、大抵石灰質のもので、風雨に遇へば漸々白堊[やぶちゃん注:「はくあ」。土質性石灰石の一種。貝殻や有孔虫などの化石を含むこともあり、灰白色で軟らかい。主成分は炭酸カルシウム。西ヨーロッパに分布し、ドーバー海峡の両側に露出する地層は最も知られる。チョーク(chalk)。]の如くに脆くなる故、細かい泥の中に埋もれでもせなければ、形を崩さずに化石になることは出來ぬ。而して細かい泥に埋もれることは、水の底に落ちなければ殆どないことであるから、大體からいへば、動物は水中に沈んだものでなければ化石とはならぬ。所が、動物の生活の有樣から考へて見ると、死體が水の底に沈んで、泥によつて全く埋められるといふ機會は決して澤山はない。特に陸上に住む鳥類などに就いて論ずれば、老て死んでも、弱つて死んでも、凡そ靜な天然の死方[やぶちゃん注:「しにかた」。]をしたものは、水の底に落つることがなかなかないから、皆碎けてしまつて化石とはならぬ。尤も火山の灰に埋もれたり、沙漠の塵埃に被はれたりして、化石となつたものがないではないが、之は極めて稀な場合故、陸上の動物は洪水でもあつて溺死した處へ、速に泥が被さるやうなことでもなければ、先づ化石となつて後世まで殘る機會はないといふて宜しからう。それ故、實際生存して居た動物個體の何萬分の一か何億分の一かだけより化石とはならぬ筈であるが、その化石を我々が見出す機會がまた甚だ稀である。

 

Naumanzou

[東京附近から出た象の齒と牙]

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像を補正した。右の牙はやや縁の部分の角張った感じが不審ではあるが、ナウマンゾウ(後注参照)の牙であろうか。グーグル画像検索「ナウマンゾウ牙」に出る幾つかの画像と類似はする。]

 

 近頃は西洋諸國は素より我が國にも、政府で立てた地質調査所などがあり、化石の採集に靈力する人もなかなか多くなつて、古生物學は著しく進步したが、地球の表面全體に比べていへば、今までに化石を掘り出した處は、實に僅少で、たゞヨーロッパに若干とアメリカアジヤに數箇所とあるだけで、一般にはまだ全く手が著けてない。殆ど廣い座敷を二三箇所、針の先で突いた位により當らぬ。その上、化石は皆不透明な岩石の中に隱れて居るから、網や鐵砲を持つて昆蟲・鳥類などを追ひ廻すのとは違ひ、狙ふ目的がないから、偶然に發見するのを樂[やぶちゃん注:「たのしみ」。]に、たゞ無暗に岩を割つて見るより外に仕方がない。たとひ表面から僅に一分(ぶ)[やぶちゃん注:三・〇三ミリメートル。]だけ内に隱れて居ても、外から少しも解らぬから、容易に發見は出來ぬ。化石となつて殘る者が既に少い上に、之を調べた場處がまだ極めて少く、然も發見するのは總べて偶然であるから、今日知れてあるだけの化石の種類は、實際過去に生存して居た生物の種類の數とは、殆ど比較にもならぬ程少いのは無論のことである。尤も今日西洋の博物館で化石の多く保存してある處に行つて見ると、その種類の多いことは實に驚くべき程で、皆集めて調べると、獸類などは化石として知れて居る種類の數は、殆ど現在生きて居る種類と同じ程もあり、貝類の如きは化石の種類の方が遙に多いから、この有樣を見ると、過去の動物は最早十分に知れ靈してあるかの如くに感ずるが、過去の時の長さを考へ、各時代に皆動物の種類の異なることを思ひ、且以上述べた如き事情を考に入れると、これらは眞に過去の動物界の極めて僅少な一部分に過ぎぬことが解る。我が國などでも、東京や橫須賀邊から大きな象の骨が掘り出されたり、美濃の國からは何とも知れぬ奇態な獸の頭骨が發見せられたことなどもあるから、過去には種々樣々の動物が棲んで居たに違ひない。然るに獸類の化石の掘り出されたことは極めて稀で、然も皆破片ばかりに過ぎず、鳥類に至つてはまだ一つも化石の發見せられたことを聞かぬ。これらから推しても、古生物學の材料の不完全なのを察することが出來る。

[やぶちゃん注:「東京や橫須賀邊から大きな象の骨が掘り出された」後者は現在の米海軍横須賀基地である横須賀製鉄所の敷地内から慶応三(一八六七)年に二ヶ所からナウマンゾウ(哺乳綱獣亜綱真獣下綱アフリカ獣上目長鼻目ゾウ科パレオロクソドン属 Palaeoloxodon ナウマンゾウ Palaeoloxodon naumanni)の下顎の化石が発見されている。横須賀市自然・人文博物館の上から二番目の歯化石(但し、これは広島県(瀬戸内海)産)は挿絵の右のそれとよく一致する。上記の出土データは博物館に記載がある。ウィキの「ナウマンゾウによれば、『最初の標本は明治時代初期に横須賀で発見され、ドイツのお雇い外国人』の地質学者『ハインリッヒ・エドムント・ナウマン』(Heinrich Edmund Naumann 一八五四年~一九二七年:明治八(一八七五)年から明治一八(一八八五)年まで日本に滞在した。東京大学地質学教室初代教授)『によって研究、報告された』とあるが、同一のものと考えてよかろう(既に発掘されていた化石を比定したという意味でとっておく)。前者は未詳。公的に知られ、比定同定されたものは本書の刊行(大正一四(一九二五)年九月)より後のものしか調べ得なかった。同ウィキのナウマンゾウの学名の変遷の箇所には Elephas namadicus naumannni(槇山次郎による一九二四年の論文記載)及びLoxodonta (Palaeoloxodon) namadicus naumannni(松本彦七郎による同じ一九二四年の論文記載)が載るが、これが東京での出土であるかどうかは調べ得なかった。

「美濃の國からは何とも知れぬ奇態な獸の頭骨が發見せられた」これは明治三一(一八九八)年に現在の岐阜県瑞浪市内で発見され、後に獣亜綱真獣下綱アフリカ獣上目束柱目 † Desmostylia デスモスチルス科 †  Desmostylidae デスモスチルス Desmostylus 属に比定されたデスモスチルス類(中新世中期から後期にかけて棲息した半海棲哺乳類)の頭骨のことであろう。これは日本で初めて絶滅哺乳類の新種として記載された標本で、ウィキの「デスモスチルス当該頭骨画像がある。]

 

2018/02/26

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十七年 盆に死ぬ仏の中の仏

 

 

     盆に死ぬ仏の中の仏

 

 

 

 居士が『小日本』に移ると同時に、『日本』における居士の仕事は挙げて『小日本』紙上に移った。従来「文苑」に載せていた俳句の外に、題を課して俳句を募集するようになったのも、『小日本』における新な出来事であるが、もう一つ注意すべきは竹(たけ)の里人(さとびと)の名を以て時に和歌を掲げていることである。

 

 

 

 棚橋に駒たてをれば薄月夜梅が香遠く匂ふ夕ぐれ

 

 朝な朝な鶯來鳴く窓のうちに何物請人の讀むらん

 

 大海原八重の潮路のあとたえて雲井に霞むもろこしの船

 

牛に乘りていづくに人の歸るらん柳のちまた梅の下道

 

   上野公園

 

 御佛のいとも尊しくれなゐの雲か櫻の花のうてなか

 

 

 

[やぶちゃん注:一首目の「棚橋」というのは、明治三三(一九〇〇)年の春の句に、

 

 

 

 今もある戀の棚橋鳴く蛙

 

 

 

とあるから、何らかの地名或いはある特定の属性を持った場所を意味するものらしいが、全く不詳である。識者の御教授を乞う。]

 

 

 

 これらはいずれも二月から三月へかけて『小日本』に掲げられたものである。こういう歌は直に後年の作品に接続するわけではないけれども、何らか旧套に慊(あきた)らぬものが底にほのめいている。竹の里人の名はこれ以前には用いられていない。歌に関する居士の業績を辿る場合には、やはりこの辺まで遡らなければならぬであろう。

 

 俳句方面に関する文字としては、三月九日に「雛の俳句」があり、同二十四日に「発句を拾ふの記」がある。後者は虚子氏と共に「名もなき梅を人知らぬ野邊に訪(と)はん」とした小紀行で、千住から草加に打て西新井を経て王子に松宇氏を訪ねている。

 

 

 

 梅を見て野を見て行きぬ草加迄

 

 栴檀(せんだん)のほろほろ落つる二月かな

 

 

 

居士としては久しぶりの吟行であった。

 

[やぶちゃん注:「栴檀(せんだん)」ムクロジ目センダン科センダン Melia azedarach の花。一名センダンノキ。初夏五~六月頃に若枝の葉腋に淡紫色の五弁の小花を多数円錐状に咲かせる。古名を「花樗(はなおうち)」とと呼ぶ。因みに、「栴檀は双葉より芳し」の「栴檀」はこれではなく、白檀の中国名(ビャクダン目ビャクダン科ビャクダン属ビャクダン
Santalum album)なので全く関係がないので注意(しかもビャクダン Santalum album は植物体本体からは有意に強い自然芳香は発しないから、この諺自体がもともとあまり正しくないのである。なお、切り出された心材の芳香は精油成分に基づくものである)。]

 

 次いで四月二十六日から「俳諧一口話」を掲げはじめた。標題の示すが如き小俳話で、『獺祭書屋俳話』を更に短くしたものであるが、俳話の材料として天明の作家が用いられていることに注意すべきであろう。蕪村・暁台(きょうたい)・闌更(らんこう)・白雄(しらお)・蓼太(りょうた)の五作家の比較において、漢語を多く用いる者は蕉村、和語を多く用いる者は白雄であるといい、「佳句の最も多きは蕪村にして最も少きは蓼太なるべし」ともいっている。「蕪村の特色は芭蕉以後一人として賞揚すべきもの」ともあるが、いまだ全面的に蕪村を推すに至っていない。

 

 石井露月氏が『小日本』へ入社することになったのは、この四月中の出来事であった。露月氏は当時浅草の三筋町(みすじちょう)で医者の薬局生をしていたので、調剤をやりながら文学者たらんとする志願を懐いていた。この人が子規居士と相識るに至るまでには自ら径路がある。露月氏の友人に麓(ふもと)という早稲田専門学校の生徒があり、その同窓の長田という人が藤野古白を知っていた。麓が長田に話し、長田が青白に話した結果、古自は麓を子規居士に紹介してくれたので、露月氏は麓氏の紹介で小日本社に居士を訪ねた。露月氏の書いた文章も居士は一見した上、即座に採用ということにもならなかったが、十日ばかりたった後、急に話が進んで入社の運びになった。但(ただし)この時分の露月氏はまだ俳人ではない。俳句は居士と机を並べるようになって、自然にその感化を受けたのである。

 

[やぶちゃん注:「石井露月」(明治六(一八七三)年~昭和三(一九二八)年)は俳人。本名は祐治。ウィキの「石井露月」によれば、『秋田県河辺郡女米木(めめき)の農家石井常吉の二男』。『幼時に祖父与惣右衛門から実語教を口伝で習って覚えた』。『祖父はまた発句もよくしたので、それも覚えた』。『少年時代は』、『とにかく』、『読書欲旺盛で、川向かいの村落に小舟で渡り』、『本を借りてきて読んでいたという』。『小学校では成績優秀で、文部省から賞品に論語の本を贈られるほどであった』。また、十二『歳頃から既に盤虎・李花園・雲城・芥郎などと号して文筆に親しんでいた』という。明治二一(一八八八)年、『秋田中学校に入学。中学時代は江帾澹園に漢詩漢籍を習い』、『創作の添削指導も受けるなどしていたが、脚気を患い』、三『年で退学。退学後は自宅で農業を手伝いながら』、『療養に努めた』。この頃、『雨に濡れた若葉に月影が差すのを見て露月と号するようになった』。『中学時代の友人が上京進学した話などを聞くにつけ』、『鬱々とした日々を過ごしていたが』、明治二六(一八九三)年の秋、『ようやく健康を回復し、蔵書を友人たちに買い取ってもら』うことで『旅費と生活費を工面して、文学を志し』、『上京した』。『しかし特に目指す師が定まっているわけでもなく、浅草三筋町の医院の薬局生となり、漢詩や随筆を書いていた』が、『そのうち』、『友人の勧めで坪内逍遙を訪ね』、『文学修行の志を訴えたが、文学で身を立てるには天分と資本の両方が必要であることを説かれ、入門を断られ』ている。『露月には第』二『の条件である資本が決定的に欠けていた』のであった。『塞ぎ込む露月に心を痛めた友人の計らいで、次に正岡子規を訪ねること』となり、『面談の結果、子規とは相認め合うこととなり』、新聞『小日本』、次いで新聞『日本』の『記者となって子規に師事』することとなった。『子規は露月に対し』、『文章のみならず』、『句作についても懇切丁寧に教え導き、露月は本格的に俳句を学ぶようにな』る。『しかし折角これ以上はない師に巡り会ったところで再び脚気を発病し、上京からわずか』一年後の翌明治二十七年秋には、『帰郷療養せざるを得なくなった』。『郷里での生活で露月は健康を回復するが』、この頃、『文士から医業へと志を変えている』。明治二八(一八九五)年に『子規にこのことを打ち明けると、露月の才能を高く評価していただけに子規は呆然として、翻意を促すが』、『徒労であった』。その後、『露月は郷里で座学の勉強を行い』、明治二九(一八九六)年に『医師前期試験に合格』を果たし、新聞『日本』に『在籍しながら』、『済生学舎で実技の勉強を行い、明治三十一年四月に『医師後期試験に合格』した。『受験勉強の間も句作には精励し、子規に見てもらっていた』。『子規は「漢語が多く雄壮警抜」な露月の句風を好んだようで』、翌明治三十年の新聞『日本』に『連載した俳句評論では、碧梧桐、虚子、鳴雪の次に露月を取り上げ、「碧、虚の外にありて、昨年の俳壇に異彩を放ちたる者を露月とす」と評している』。『露月は医師後期試験後』の明治三十一年七月に『帰郷し、一時』、『秋田市内の新聞社に在籍して文を書きながら、県内俳壇の様子を子規に報告したりしてい』たが、俳誌『ホトトギス』の『全国的な拡張を目論んでいた子規は、遊軍となって協力することを露月に求めた』、丁度その折りの明治三十一年八月、既に同人「北斗吟社」を設立し、俳誌『北斗』を発行して『秋田県内で活躍していた日本派の俳人佐々木北涯、島田五空らと知り合い、句会に出』、『互いに刺激を与え合った』。『露月は医師としての臨床実習のため、明治三二(一八九九)年の五月から十月まで京都市の東山病院の医員を務めるたが、その『実習が終わり』、『秋田へ帰るまでの間、一時東京に寄』った。そこで『碧梧桐、虚子、鳴雪、鼠骨らの東京の俳友』らは『これを歓迎』、『また、じきに郷里へ帰る露月との別れを惜しんで、句会はもとより、闇汁会、柚子味噌会などを催した。子規も病を押して』、『これらに参加している』。明治三十二年の暮、『露月は帰郷し、自村・戸米川村(とめかわむら)と隣村・種平村の村医となった』。『村医としての露月は病人の求めに応じ』、『昼夜を問わず精勤したが』、『そのかたわら句作にも精を出し、頻繁に子規に句を送ってい』る。また、『秋田県内の俳人とも交友を重ね』、明治三三(一九〇〇)年には、『北涯、五空とともに新たな俳誌を創刊、『これを聞いた子規は欣喜し、誌名を』『俳星』と名付けている。同『創刊号には、碧梧桐、虚子、鳴雪、紅緑らの日本派の俳友や、同時代に秋田県内で活躍した俳人安藤和風らが句を寄せている』。明治三十四年、『露月は妻を娶り、医院も新築、生活の基盤は固ま』ったが、この頃、『子規の病状はいよいよ』悪化し、翌明治三五(一九〇二)年九月十九日、白玉楼中の人となった。『露月は悲嘆にくれたが』、『一方で』、この頃より、『貧困に疲弊した村の生活指導を行うようにな』り、詩悦の文庫を創設、したり、村の青年団長となって、没するまでの二十年に亙って、『村会議員を務め、夜学会や農事品評会などを通じての村民の指導や村政の刷新に尽力した』。同ウィキの注によれば、『露月は終生子規を慕い続け』大正五(一九一六)年『には村の玉龍寺で子規忌を、大正一三(一九二四)年『には自宅で子規の二十三回忌を営み、また』、昭和二(一九二七)年、『五空らと吉野巡りをした帰途には』、『東京の子規庵を訪れ、懐かしさに滂沱と涙したという』とある。]

 

 六月十五日から居士は三たび筆を執って『小日本』紙上に小説を草した。標題は「当世媛鏡(とうせいひめかがみ)」署名は「むらさき」とある。これは「一日物語」よりも更に新聞小説らしいもので、不満の裡に世を去った幕人の子が、人生の浮沈を経験することが大体の筋になっている。居士はこの切抜を綴じた表紙に「當世比賣(たうせいひめ)かがみ、一名嶋田(しまだ)と束髮(そくはつ)」と題したが、嶋田及(および)束髪によって新旧両様の女性を現し、嶋田の女性が恩誼(おんぎ)のために身を退いて悲劇的一生を了(おわ)るのを全篇の結末とした。「媛鏡」は勿論嶋田の女主人公を指すのである。新聞の材料として筆を執ったまでで、居士らしい色彩の最も稀薄なものであるが、大磯の松林館を舞台にしたあたり、居士曾遊の経験が全然取入れられていないでもない。

 

 六月飄亭氏は看護卒として召集された。朝鮮事件の突発と共に、日清間の風雲が急になったためである。それ以前から『日本』は堂々の筆陣を張って内閣に肉薄する。発行停止の厄(やく)に遭えば、今度は別働隊たる『小日本』を以てこれに代える。従って『小日本』もやられる。日本新聞社と小日本社とが向い合って発行停止の看板を出していたこともあるというから、経済的に成立たなくなったのであろう。遂に廃刊せざるを得なくなった。

 

[やぶちゃん注:「朝鮮事件」日清戦争の端緒となった一八九四年(明治二十七年)に朝鮮国内で発生した農民の内乱「東学党の乱」(甲午農民戦争)を指す。]

 

 廃刊に先って居士は「妄山寺梅龕(ばいがん)」を紙上に掲げた。梅龕は山寺清三郎、『俳諧』に句を投じて居士に認められた人である。相見たのは子規庵に催した小会の席上だけで、その時も病を押して出席したのであったが、「はてしらずの記」旅行に出ている間に歿した。享年二十七、居士の身辺に集った俳人のうち、最早く世を去り、居士をして追悼の文を草せしめたのは梅龕であった。居士はこの文章に次いで「梅龕遺稿」の題下に、百余の俳句を採録している。居士後年の句に「梅龕の墓に花なし霜柱」とあるのは、即ちこの人の事である。

 

[やぶちゃん注:「山寺梅龕(ばいがん)」「山寺清三郎」「山寺」はママ。これは俳人山本梅龕(慶応三(一八六七)年~明治二六(一八九三)年)のこと。詳細事蹟不詳。]

 

 紀元節に生れた『小日本』ほ孟蘭盆を以て廃刊の運命に遭った。七月十日、諷亭氏に送った手紙にはこうある。

 

[やぶちゃん注:以下は底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。本「子規居士」原典で校訂したが、一部の記号は底本のママとし、読みは一部を底本に従がって添えた。「幡隨院長兵衞」は正岡子規が『小日本』に連載していたものらしいが、詳細不祥。]

 

 

 

拜啓大略昨夜御報(おしらせ)申上候、御覽の事と存候。卽ち『小日本』は經濟上の一點より本月十五日を以てあへなく最期を遂ぐる事と相成申候。幡隨院長兵衞も今一册で終り媛鏡もその日を以て無殘の最期、歌川氏募集發句も皆結了の都合、而して臨終の日は卽ち七月十五日玉祭の日に相當り候。奇なり妙なり、天命の定まる處と存候。

 

 

 

 「俳諧一口話」も「梅龕遺稿」も同じく七月十五日の紙上で完結した。「俳諧一口話」は「孟蘭盆会」と題して古人の句数章を挙げ、最後に「盆に死ぬ佛の中の佛かな」という智月の句を特に三号活字で大きく組ませたのは、『小日本』廃刊の意を寓したのである。

 

 半歳にわたる居士の事業はこうして倒れた。豊嶋沖の一発によって日清戦争の火蓋が切られたのは、それから十日の後であった。

 

[やぶちゃん注:「豊嶋沖の一発」「豊嶋」は「ほうとう」。豊島沖海戦のこと。一八九四年(明治二十七年)七月二十五日、朝鮮半島中部西岸の牙山湾の西にある豊島(現在の京畿道安山市檀園区豊島洞)沖に於いて日本海軍連合艦隊と清国海軍北洋水師(北洋艦隊)の間で行われた海戦。日清戦争宣戦布告前に発生した(宣戦布告は七日後の同年八月一日に日清両国によって成された)。]

 

 

博物学古記録翻刻訳注 ■17 「蒹葭堂雑録」に表われたるギンザメの記載

 

「蒹葭堂雑録」に表われたるギンザメの記載

 

Gizame

 

[やぶちゃん注:「蒹葭堂雑録(けんかどうざつろく)」(正字表記「蒹葭堂雜錄」)は既に本ブログの『海産生物古記録集■3 「蒹葭堂雑録」に表われたるスカシカシパンの記載』(「海産生物古記録集」は本シリーズの旧標題)で述べたが、改めて記す。大坂の文人・画家・本草学者にしてコレクターであった木村蒹葭堂(元文元(一七三六)年~享和二(一八〇二)年:家は大坂北堀江瓶橋北詰の造り酒屋で、後に大坂船場呉服町で文具商として財をなした。蔵書家としても知られ、彼の死後、その膨大な蔵書は幕命によってほとんどが昌平坂学問所に納められた)の著になる、安政六(一八五九)年刊の五巻から成る考証随筆。各地の社寺に蔵する書画器物や、見聞した珍しい動植物についての考証及び珍談奇説などを書き留めた原稿を、著者没後、子孫の依頼を受けた大坂の著述家暁鐘成(あかつきかねなり)が整理抜粋したもの。池大雅の印譜や下鴨神社蔵三十六歌仙絵巻などの珍品が雑然と紹介されており、挿画は大阪の画家翠栄堂松川半山の筆になる(以上は主に「世界大百科事典」及びウィキの「木村蒹葭堂」に拠った)。

 本記載は同書の「二之卷」の五項目に「阿州異魚之圖」(目次は「阿波國異魚之圖」)として見開きで載る。ここではその見開き全体の画像を国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにある原典画像を冒頭に掲げた(トリミングしてある)。魚体が左右に切れてしまっているのが悩ましい。実は私の所持する吉川弘文館随筆大成版(第一期十四巻)では、ほこの項の本文を含めた全体がそのまま図版の形で例外的に掲載されており、しかも、そこでは魚体が非常に綺麗に接合されており、一枚の絵として気持ちよく視認出来るのであるが、同書は無断で複写複製(コピー)を禁じていることから、その図をお示し出来ないのは非常に残念ではあるが、致し方ない。先の『海産生物古記録集■3 「蒹葭堂雑録」に表われたるスカシカシパンの記載』の方では、同書の挿絵を利用したのに今回それをやめた理由は、この魚体の接合されている部分には編集権が発生していると私が考えたからで、これは、パブリック・ドメインの絵図を平面画像としてただ写し撮っただけの果実には著作権は発生しない、という文化庁規定は適応出来ないと私が認識したためである。また、そのままでは裏の文字が透けて見えてしまうため、強い補正をかけた。右ページが黄変しているが、これぐらい補正をかけないと、原図の薄い部分がより薄くなってしまい、視認での細部の観察が甚だ難しくなってしまうからである。

 以下、本文箇所は吉川弘文館随筆大成版も参考にしながら、電子化した。最初に原典のルビ附きの本文を完全に電子化した「□本文1」を、次に、難読と判断される箇所以外のルビを排除し、逆に読みの一部を本文に出したり、〔 〕で読みや本文を補い、記号も挿入して整序した「□本文2」の二種を配した。字の一行字数は「□本文1」では一行字数を原典に一致させ、「□本文2」では続く箇所は改行せずに示して、読み易さを考え、禁欲的に句読点を打った。略字か正字か迷うもの及び表現不能な略字体の箇所は正字化した。「ハ」「ミ」がカタカナらしく見えはするが、総て平仮名として判読した。]

 

□本文1

阿州異魚之圖(あしうゐぎよのづ)

 

長二尺四五寸許(ばかり)首(かしら)は方(かた)にして

匾(ひらたき)身(み)あり全體(ぜんたい)白(しろき)光(ひかり)有(あり)て

太刀魚(たちうを)の如(ごと)し目睛(めのひとみ)黄(き)にして

鮫目(さめのめ)に似(に)たり一説(いつせつに勢州(せいしう)

津(つ)の方言(はうげん)には箔鮫(はくさめ)と云

紀州(きしう)にて天狗鮫(てんぐざめ)といふ

卽(すなはち)劍尾沙魚(けんびざめ)の属(たぐひ)

      なり

[やぶちゃん注:以下、キャプション(一キャプション毎に頭に※を打った)を右から左へ電子化した。]

※此(この)鰭(ひれ)鳥(とりの)翎(はね)の

  ごとし

※肉色(にくいろ)

※薄白(うすしろ)

※此(この)鰭(ひれ)背(せ)白(しろ)く縁(ふち)より紅(あかみ)あり

※此(この)黒條(くろすぢ)少(すこ)し

     勒(きざ)あり

 

[やぶちゃん注:上記のキャプションは、ただ、魚体の中央下部に書かれており、他のキャプションと異なり、指示線が全くない。しかし、これが見開きに中央であること、本異魚の側線らしき部分が濃い黒で、しかも波を打ってギザギザに描かれているのが視認出来ることから、これはこの側線らしき箇所へのキャプションと私は推定している。

※腹(はら)白(しろ)し

※歯(は)白(しろ)く微(すこし)青(あをみ)を帶(を)ぶ

※鼻頭(はなかしら)白く微(すこし)紅(あか)を帶(を)ぶ小孔(ちいさきあな)数点(かず)あり

 條(すぢ)を貫(つらぬ)きたる孔(あな)は條(すぢ)なき孔(あな)より少(すこ)し大(だい)なり

 

 

□本文2(ルビを概ね排除し、句読点を打ったもの)

阿州異魚之(の)圖

 

長〔ながさ〕、二尺四、五寸許(ばかり)。首(かしら)は、方(かた)にして、匾(ひらたき)身あり。全體、白き光り有りて、太刀魚の如し。目の睛(ひとみ)、黄(き)にして、鮫の目に似たり。一説に、勢州津の方言には「箔鮫(はくさめ)」と云〔ふ〕。紀州にて「天狗鮫(てんぐざめ)」といふ。卽ち、「劍尾沙魚(けんびざめ)」の属(たぐひ)なり。

※此の鰭、鳥の翎(はね)のごとし。

※肉色。

※薄白。

※此の鰭、背、白く、縁(ふち)より紅みあり。

※此の黒條(くろすぢ)、少し勒(きざ)あり。

※腹、白し。

※歯、白く、微(すこ)し青を帶ぶ。

※鼻頭(はなかしら)、白く、微し紅(あか)を帶ぶ。小さき孔(あな)、数-点(かづ)あり。條(すぢ)を貫きたる孔は、條なき孔より、少し、大なり。

 

[やぶちゃん注:これはもう、脊索動物門 Chordata脊椎動物亜門 Vertebrata軟骨魚綱 Chondrichthyes全頭亜綱 Holocephaliギンザメ目 Chimaeriformesギンザメ科 Chimaeridaeギンザメ属 Chimaeraギンザメ Chimaera phantasma Jordan and Snyder, 1900(英名:Silver chimaera)に同定してよい。全頭亜綱ギンザメ目(Chimaeriformes)にはギンザメ科 Chimaeridae とテングギンザメ科Rhinochimaeridae の二科があるが、後者は先頭部が天狗の鼻のように異常に長く張り出しているから、ここは間違いなく前者である。また、本邦に棲息するギンザメ科は八種が確認されているが、最も普通に見かけるのは本種であるから、それに同定した。

 同種は地方名では「ギンブカ」(或いは単に「フカ」)「ウサギザメ」「ウサギ」などとも呼ばれる。英名は「銀色のキマイラ」(chimaera Chimaira と同じ)で、「銀色をした妖獣キマイラ」(キマイラはギリシア神話のハイブリッドの怪物で、ライオン・山羊・蛇の三つの頭を持ち、口から火を吐く。小アジアのカリア地方に住んでいて周辺の土地を荒したが、リュディア王イオバテスの命を受けたベレロフォンが、天馬ペガソスの助けを借りて退治した)の意。但し、私はくるんとした丸い目といい、とても可愛いと思う。事実、荒俣宏氏の「世界大博物図鑑2 魚類」の「ギンザメ」によれば、ギンザメ類をノルウェーでは『体色の美しさから〈金銀魚〉とよぶ』とさえある。

 和名は無論、「銀鮫」であるが、「さめ」がついているが、軟骨魚綱 Chondrichthyes板鰓亜綱 Elasmobranchiiサメ類とは異なり、実はより原始的な全頭亜綱 Holocephali(軟骨魚類の中で古くに板鰓類(サメ・エイ類)と分かれて出来たグループ。分岐年代は定かではないが、古生代デボン紀(約四億千六百万年前から三億五千九百二十万年前)にはこの全頭類の化石が見つかっているから、それより以前である。そもそもが現生の全頭類はこのギンザメ目のみである。板鰓類との大きな相違は鰓の開口部の形状で、板鰓類が鰓裂を五対以上持つのに対し、全頭類では鰓を一枚の鰓蓋が覆い、鰓裂は一対である)に属する「生きている化石」クラス(実際、私の小学校時代の魚類図鑑にはそう書いてあった)である。以下、ウィキの「ギンザメ」によれば、『太平洋北西部に広く分布し、水深』五百メートル『以浅で見られる。また』、『インド洋東部やニューカレドニア近海にも分布するが、太平洋の個体群よりも』、『やや深い所に生息する。日本近海では、日本海を含む北海道以南に分布する』。属名は前に記した通りで「キマイラ」に由来し、『種名 phantasma は、「幽霊」「幻影」といった意味』である。全長は七十センチメートル(ぼうずコンニャク市場魚貝類図鑑」ギンザメ」の数値)から一メートル十センチメートルほどで、『体色は銀白色』で、既に述べた通り、『サメやエイなどの板鰓類と異なる点は、鰓孔(外鰓孔)を一対しかもたないことである。大きな胸鰭をもち、海底付近を上下に羽ばたくようにして遊泳する。背鰭前縁に』一『本の毒腺のある棘をもつ。刺されると痛むが、人に対する毒性は弱い。歯は癒合し、硬いものをすり潰すのに適している。餌は底性の貝や甲殻類である』。『卵生』で、『雄の頭部には鈎状の突起があり、交尾時に雌を押さえ付けるのに用いられる』とある。荒俣宏氏の「世界大博物図鑑2 魚類」の「ギンザメ」によれば、この鉤状突起はの頭部額部分にあるとあり、とすると、本図は有意な突出点が見当たらないことから、ギンザメのである可能性もでてくるとも言える。『底引き網などにかかることがあるが、水産上は重要でな』く、『かまぼこや練り製品になる』。『深海底に生息しているため、生きている姿を目にすることは稀である。水圧等の影響により水から揚げると死んでしまうことが多い』。第一『背鰭にある棘は大きく、毒をもつので取り扱いには注意を要する』とある。珍しい生体動画は(水族館)。

・「阿州」阿波国。現在の徳島県。

・「二尺四、五寸」七十三~七十五・七五センチメートル。

・「首(かしら)は方(かた)にして」頭部は方形であって。事実、ギンザメ類は頭部は左右に角ばっている(特に鰓孔辺りで)が、それより以下の体幹は上下に平べったい。

・「太刀魚」条鰭綱スズキ目サバ亜目タチウオ科タチウオ属タチウオ Trichiurus lepturus

・「目の睛(ひとみ)、黄(き)にして」生体のそれは黄色くないように思われる。或いは死んで、腐敗が始まって水晶体に濁りが生じていたものかも知れない。

・「勢州津」伊勢国の津。現在の三重県津市。

・「箔鮫(はくさめ)」銀箔で腑に落ちる。

・「紀州」紀伊国。現在の和歌山県。

・「天狗鮫(てんぐざめ)」単に本種だけを見ても目が大きく、それより前の頭部の突出は鼻に擬え得るから、本ギンザメ科 Chimaeridae をかく呼んでもおかしくはない。しかし前に述べた通り、テングギンザメ科Rhinochimaeridae のテングギンザメ類のフォルムを見てしまうと、これはそっちに譲りましょうという気にはなる。はレアな自然状態のギンザメの動画であるが、これはその鼻部から見てテングギンザメ科Rhinochimaeridae の一種のように思われる。グーグル画像検索「Rhinochimaeridae」(テングギンザメ科を示しておく。

・「劍尾沙魚(けんびざめ)」これは本ギンザメを指す名として、後の栗本宝暦六(一七五六天保五(一八三四(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの画像。必見!)として出る。

・「翎(はね)」羽に同じい。以下、細部の形状と色は、かなり正確に記述している。グーグル画像検索「Chimaera phantasmaの各画像と比較されたい。

・「肉色」ピンク色。

・「勒(きざ)」刻み。凸凹。「勒」には「刻む・彫る」の意がある。

・「数-点(かづ)あり」二字でかく当て読みしている。数多くある。]

 

□現代語訳

阿波の国で捕れた異魚の図 

長さは二尺四、五寸ほど。首の部分は角ばっていて、それに平たい身が続いている。全体に白い光りがあって、太刀魚(たちうお)のようである。目の瞳は黄色で、鮫の目に似ている。一説に、伊勢の国の津の方言では、この魚を「箔鮫(はくさめ)」と言うとも伝える。また紀伊の国では「天狗鮫(てんぐざめ)」と称するとも言う。ともかくも則ち、これらは皆、「劍尾沙魚(けんびざめ)」の類いである。

※ここの鰭は鳥の羽に似ている。

※肉色を呈する。

※薄い白色。

※ここの鰭は、背の部分が有意に白く、その縁(ふち)の部分からグラデーションがかかって赤みがかっている。

※この黒い筋状の線には、少し刻みがある。

※腹は白い。

※歯は白く、少し青みを帯びている。

※鼻頭(はながしら)の部分は白く、少し赤みを帯びている。頭部には小さな孔(あな)が数多く開(あ)いている。その内、表面に筋があってそこを貫いて体(頭部内部)に開いている孔は、頭部の筋のない孤立した単独の孔よりも、少し大きい。

 

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 流され王(1)

 

   流され王

 

 武州高麗本郷の白髭社に、修驗道を以て仕へて來た舊家の當主、自分も大に白い髭あり、近來その苗字を高麗氏と名のり、さうして古い系圖が傳はつて居て、見に行くほどの人は皆感心をする。此だけは正しく事實である。次に今より約千二百年前に、東日本に散在する高麗の歸化人千八百人ばかりを、武藏國へ遷したこと、及び高麗人中の名族にして、或は武藏守に爲つたこともある高麗氏が、本貫を此郡に有して居たことは正史に出て居る。歷史が如何に想像の自由を基礎とする學問であるにしても、かほど顯著なる二箇の證跡は、共に之を無視して進むことを許されぬであらう。併し右の二史實との間には茫漠たる一千餘年が橫はつて居る。從つて彼から此へ絲筋の引くものが、あるかと思ふのは或は野馬陽炎である。此關係は之を決定する必要があるとすれば、今後に於て之を證明せねばならぬ。

[やぶちゃん注:「武州高麗本郷の白髭社」埼玉県日高市高麗本郷にある白髭神社。ここ(グーグル・マップ・データ)。サイト「龍学」の「武蔵高麗行」も参照されたい。

「約千二百年前に、東日本に散在する高麗の歸化人千八百人ばかりを、武藏國へ遷したこと、及び高麗人中の名族にして、或は武藏守に爲つたこともある高麗氏が、本貫を此郡に有して居た」高句麗王族と高句麗国の人を祖先とする渡来系氏族である高麗氏については、ウィキの「高麗氏」に、六六八年に起こった『唐・新羅連合軍との戦い(白村江の戦いなど唐の高句麗出兵)で高句麗が滅亡したあと、王族を含む多数の高句麗人が日本に亡命している。また、それ以前から』、『高句麗から日本列島に移住し定着した人々も存在した。彼らの一部が「高麗」の氏姓を称したものと推測されている』とし、大宝三(七〇三)年(「約千二百年前」本論考「流され王」は大正九(一九二〇)年七月発行の『史林』に発表されたもの)に『高句麗の王族と推測される高麗若光が王(こにきし)の姓(カバネ)を与えられる。武蔵国高麗郡(埼玉県日高市)の高麗神社の宮司は若光の子孫を称しており、現在の宮司は若光から数えて』六十『代目とされる。若光系の高麗氏としては、この家系が知られているのみである。高麗神社には若光を祖とする「高麗氏系図」が伝来している』とある(下線やぶちゃん)。Tokiwa Kanenari氏のサイト「日本氏族大鑑」の「高姓 高麗氏系図」にも、始祖を高麗王若光とし、本貫(ほんがん/ほんかん:律令制下に於いて戸籍に記載された土地)を『武蔵國高麗郡』とし、『世系」』の項に、『高麗氏は高句麗の王族』『高氏にして、高麗王若光の後裔なり。 武蔵國高麗郡(現 埼玉縣入間郡)を領して大寳』三年四月『高麗王姓を賜ふ』とある。以下、『歴史』の項に『高麗氏は、歴世武蔵國高麗郡新堀村 高麗神社(現』『埼玉縣入間郡日高町)の祠官にて、世々著名なり。 第』四十四『代高麗良道は』、天正一九(一五九一)年』、『小田原落城の後、徳川内府様へ早々に御祝賀参上』、同年十一月、『先規之通り、御朱印』『之有りて大宮領寄進之御書付を下し置かる。 第』四十五『代高麗良海は』文祿二 (一五九三) 年、攝『州大坂表へ上り、高句麗の後裔』『高麗國を不忠謀反にて滅せる仇敵』『李氏朝鮮征伐の御勝利に御祝儀を申上げり。また』、『聖護院門跡に』參上、『金襴地御免許を賜ふ』ともある。

「正史に出て居る」例えば、「続日本紀」の大宝三(七〇三)年四月乙未の条に『乙未。從五位下高麗若光賜王姓』と出、霊亀二(七一六)年五月辛卯の条には『辛卯。以駿河・甲斐・相摸・上總・下總・常陸・下野七國高麗人千七百九十九人、遷于武藏國、始置高麗郡焉』とあり、下って延暦八(七八九)年十月乙酉には『乙酉。散位從三位高倉朝臣福信薨。福信武藏國高麗郡人也。本姓背奈。其祖福德屬唐將李勣拔平壤城、來歸國家、居武藏焉。福信卽福德之孫也。小年隨伯父背奈行文入都、時與同輩、晩頭往石上衢、遊戲相撲、巧用其力、能勝其敵、遂聞内裏、召令侍内竪所。自是著名、初任右衞士大志、稍遷、天平中授外從五位下、任春宮亮。聖武皇帝甚加恩幸、勝寶初、至從四位紫微少弼、改本姓賜高麗朝臣、遷信部大輔。神護元年、授從三位、拜造宮卿、兼歷武藏近江守。寶龜十年、上書言、臣自投聖化。年歳已深。但雖新姓之榮朝臣過分、而舊俗之號高麗未除、伏乞、改高麗以爲高倉、詔許之。天鷹元年、遷彈正尹兼武藏守。延暦四年、上表乞身、以散位歸第焉。薨時八十一』と記す。

「野馬陽炎」ちくま文庫版全集では『のまかげろう』とルビするが、私はこの四字で「かげらふ(かげろう)」と読ませていると考える。何故なら、江戸以前は「かげろふ」を「野馬」と表記することが多かったこと、それを文字通りの「野の馬」と読まれては困るので、柳田は「陽炎」を後にわざわざ附したと読むからである。なお、「野馬」を「かげろふ」と当てたのは、逃げ水のような陽炎現象が一見、野を走る馬に似ていることに由来するもののようである。]

 自分は試みにその間題の一小部分、すなわち白髭樣だと自稱する新堀村の大宮明神が、果して高麗の王族を祀つたものと、解することを得るか否かを考えて、地方の舊傳をもてあつかつて居る人々の參考に供してみたいと思ふ。

[やぶちゃん注:「新堀村の大宮明神」先の高麗本郷の東北直近の、現在の埼玉県日高市新堀(にいほり)にある高麗神社のこと。ウィキの「高麗神社」によれば、『現在の埼玉県日高市の一部および飯能市の一部にあたる高麗郷および上総郷は』霊亀二(七一六)年に『武蔵国高麗郡が設置された地である。中世以降、郡域が拡大し、日高市・鶴ヶ島市のそれぞれ全域と、飯能市・川越市・入間市・狭山市のそれぞれ一部が高麗郡の範囲となった』。天智天皇七(六六八)年に『唐・新羅に滅ぼされ』、『亡命して日本に居住していた高句麗からの帰化人を朝廷はこの地に移住させた』。大宝三(七〇三)年には『高麗若光が朝廷から王姓が下賜されたという話が伝わっている。高麗若光が「玄武若光」と同一人物ならば、高句麗王族の一人として王姓を認められたということになる。この高麗若光も朝廷の命により』、『高麗郡の設置にあたって』、『他の高句麗人とともに高麗郡の地に移ってきたものと推定されて』おり、『高麗神社は、この高麗若光を祭っている。神仏習合の時代には高麗家は修験者として別当を勤めていた』天正一八(一五九〇)年、『徳川家康が関東に入国すると、翌年』、『社領として高麗郷内に』、『石を寄進され』ている。『また、高麗大宮大明神、大宮大明神、白髭大明神と称されていた社号』(下線やぶちゃん)『は、明治以降は高麗神社と称されるようになった。境内隣接地には江戸時代に建てられた高麗家住宅がある』とある。]

 古い證據が必しも確實で無い一例は系圖である。古くから有つたとすれば後の部分が氣になる。そんなら新しい程安全かと申せば、元はどうであったかゞやはり疑を招く。二者何れにしても繼目の處は每に難物である。其と言ふのが系圖には、千年間の書込みと云ふことが想像し得られぬ故で、紙筆と文字とが昔から有つたとても、之を書かせる人又は家はさうは續き能はぬからである。第一には系圖を傳へる動磯が時代に由つて一樣では無かつた。或時は部曲を統御し又は代表する爲、或時は所領の相傳を證する爲、或は信仰上の由緒を説く爲、或は單に舊家の名聞の爲と、其都度恰も此の如き必要に遭遇して居た家で、零落や早死の不幸が些しも無かつた場合でも、尚且つ後代の主人に一種の編輯力とも名くべき能力が入用である。卽ち身を後世に置き心を上古に馳せても、只徒らに舊傳に忠誠で有つては、寧ろ不可解の誤謬を生ずるのが普通である。其が右の高麗郷に限り、近世的に鍔目がよく合つて居るとすれば、おそらく春日阿蘇を始めとして、各地の舊社の信條を爲すところの、神孫が神に仕へ來たつたと云ふ思想が、溯つて久しい七黨繁榮の時代に迄、一貫して居た爲であらう。卽ち現今の所謂武藏野研究者が、寄つてたかつて一つの白髭樣を重々しくしたと同じ外部の影響が、二百年前にも三百年前にも、何度か繰返されて來たのかも知れぬ。高麗の一郷は離れ小島では無かつた。之を取り圍んだ武藏國原には樣々の衝動が有つた。名族の去來盛衰も多かつた間に、法師も入込み浪人も遊行したのである。此を一々に想像し試みる迄も無く、白髭と云ふ神の御名が既に適切に昔を語つて居る。この神の分布は日本の殆ど半にも及んで居て、固より武藏を以て發源地と目することは出來ぬ上に、此名を流行させた原因かと思ふ信仰の樣式は、外蕃歸化の盛であつた時代のものでは無いやうである。從つて高麗氏家傳が古い歷史の儘と云ふことは、まだ中々信を執り難い。

[やぶちゃん注:Tokiwa Kanenari氏のサイト「日本氏族大鑑」の「高姓 高麗氏系図」の最後には、『譜文の註記に曰く「正元元』(一二五九)年十一月八日、『大風の時、出火ありて系譜、併びに高麗國より持來の寶物等』『多数焼失せる。依りて、第』二十八『代高麗永純は、高麗爾來の一族郎黨たる 高麗、高麗井、新、新井、本所』、神田、『中山』福泉、『吉川、丘登、大野、加藤、岩木等諸家を』參『集し、其諸記』錄『を取調べして系譜を再修したる」と云ふ。また「概ね復元せしも猶々不詳の』處『之有り。 而して以降の系譜は』歷『世傳來せしめて誤り無く致す可ものなり」と』とあるのである。

「部曲」(ぶきょく/かきべ)は古代の中国を起源とする、私有民や私兵などの身分を指す。日本では「民部」とも書く。実体の多くは賤民であり、隷属的な集団の謂いでもある。

「阿蘇」阿蘇(古くは「阿蘓」とも記した)神社は現在の熊本県阿蘇市にあり、多大な恩恵と災禍を齎す活火山の阿蘇山への信仰から発したものと考えられるが、現在、全国に約四百五十社を数える阿蘇神社の総本社である。ウィキの「阿蘇神社によれば、この神社は、孝霊天皇九年六月、『健磐龍命の子で、初代阿蘇国造に任じられた速瓶玉命(阿蘇都比古命)が、両親を祀ったのに始まると伝え』、『阿蘇神社大宮司を世襲し、この地方の一大勢力となっていた阿蘇氏は、速瓶玉命の子孫と称している』とある。]

2018/02/25

細道

地圖には敏感な細い道が無數にある――それが恐るべき斷崖へと僕らを導く――
 

あの日は二度來ず――さうして僕らはただ――茫然と「無」の海邊に立ち盡くす自分を傍觀者として「皮相的」に眺める――
 

彼女の泣き聲が今も聽こえる――それは永劫の呪詛であると同時に永遠の私だけの福音書の祈禱である――


しかし殘念なことには私は墜ちることも無い――何故なら――私は何者をも信じないからである――私は――ただ「無」の「宙」にぶら下がる――それで結構だ――

 

私は

私は私の邪悪性に極めて敏感だが、同時に誰よりも自分が正当だ思っている他者の邪悪性にはもっと敏感である。

進化論講話 丘淺次郎 第十三章 古生物學上の事實(1) 序

 

    第十三章 古生物學上の事實

 

[やぶちゃん注:以上の章標題(但し、これは目次で確認出来る)及び冒頭第一段落(『【】』から『【】』まで)は底本とした国立国会図書館デジタルコレクションの画像では、原資料自体のページが欠損しているので、同じ国立国会図書館デジタルコレクションの中の、一番底本に直近の前の版である、開成館(底本の東京開成館の旧社名と思われる)大正(一九一四)年十一月発行の修正十一版の当該部を参考にし、講談社学術文庫版とも校合して推定復元した。]

 

 以上第九章より第十二章までに述べた如く、解剖學上・發生學上・分類學上・分布學上の事實を調べて見ると、生物種屬の進化し來つたことは疑ふべからざることであるが、以上の事實は唯進化論を認めなければ如何しても説明することが出來ぬといふ性質のもので、所謂事情の上の證據である。それ故、此等の事實ばかりを以て生物の進化を論ずるのは、卽ち現在の有樣を基として、過去の變遷を推察するといふに止まるが、本章に説く所は大いに之と違ひ、古代に生存して居た動物の遺體に就いて、生物進化の事蹟を述べるのであるから、議論でなくて單に記載である。今までに略述しただけでも進化の證據は十分であるが、今から説くことは進化の事實其の物で、例に掲げる標本は、皆、アメリカヨーロッパ諸國の博物館に陳列して、誰にも見せて居るのであるから、如何しても疑ふことの出來ぬ性質のものである。

 古生物學上の事實を述べるに當つて、特に初から注意して置かなければならぬのは、時の長さに關して正確な觀念を持つことである。この觀念が間違つて居ては、生物進化の事蹟を正當に理解することは出來ぬ。古生物學で研究するものは所謂化石であつて、化石はいふまでもなく、古代に生活して居た動植物の遺體であるが、この化石といふものは、一體いつ頃如何なる事情の下に出來たかと詳しく論ずるには、先づ一通り地殼の變遷のことから考へてかゝらねばならぬ。

 今日地球の表面を見るに、山が海になり、海が山に變ずるやうな劇烈な大變化は極めて稀で、それも極めて狹い區域に限られてあるから、全體から論ずれば、急劇な變化は先づないといはねばならぬが、細かに注意すれば、徐々の變化は日夜絶えず行はれて居ることが解る。例へば雨が降れば直に河の水が濁るが、水の濁るのは何處かの山や野から泥砂が澤山に流れ込んだ結果で、水の流れて居る間は浮んで居るが、海へ出れば重いものは總べて沈んでしまふから、大きな河の出口には、かやうな泥砂が漸々堆積して三角形の洲が出來る。支那の黃河や揚子江が絶えず濁つて居るのも皆かやうな泥のためであるから、年々これらの河が陸から海へ持ち出す土の分量は隨分夥しいことであらう。世界中どこへ行つても理窟はこの通りで、大きな河でも、小な河でも、絶えず陸から幾らかの土を海へ流し出すが、その中、粗い砂粒は河口に近い處で沈み、細かい泥は遠い沖まで漂うて行き、終にはやはり沈む故、海の底には絶えず泥が積つて、新しい層が出來る。斯かる層は最初は無論柔いが、厚く積れば下の方の部分は上からの壓力によつて段々凝(かた)まり、終には堅牢な岩石となつてしまふ。またかやうな層は初め水平に出來るが、地殼の昇降により、一方が上り、一方が下つて斜に傾き、一部分は海面より現れて陸となり、他の部分は海の底に隱れたまゝで留まる。水上に現れた處はまた漸々雨風に壞され、泥砂となつて、海へ出て、更に沈んで海底に新しい層を造り、絶えずこの順序によつて地殼に變化が起るが、斯かる泥砂の凝(かた)まつて出來た岩は、水の底に出來たもの故、之を水成岩と名づける。水成岩は皆層をなして居るは、勿論であるが、生物の死體が化石となつて保存せられたのは、總べて水の底に泥の溜まるとき、その中へ落ちて理もれたものばかりに限るから、化石を含んで居るのは水成岩のみである。

 

Sameisi

[鮫石]

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像を補正して用いた。]

 

 水成岩はかやうに漸々出來たもの故、一層每にその出來た時が違ひ、下に敷かれて居る方は古く出來た層で、上に重なつて居る方は新しく出來た層である。また孰れの層にも多少の化石が含まれてあるが、每層含む所の化石が違ひ、殆ど一層每に固有の化石の種類が一つや二つは必ずある故、離れた處にある水成岩でも、同じ化石を含むものは同じ時代に出來たものと見倣し、之を標準として他の層の新古の順序を定めることが出來る。この方法により、今日知れてあるだけの水成岩を研究し、その全體の厚さを測つて見ると、日本の里程に計算して十里以上になるが、海の底に泥砂が漸々に積り、それが凝まつて厚さ十里以上の堅牢な岩石が出來るには、凡そ如何程の時を要するであらうか、百年か二世紀と名づけて、時の最も長い單位として用ゐて居る我々では、到底想像して見ることも出來ぬ。

[やぶちゃん注:「同じ化石を含むものは同じ時代に出來たものと見倣し、之を標準として他の層の新古の順序を定めることが出來る」所謂、「示準化石」(index fossil)である。放射年代測定が登場するまでは唯一の離れた地域間での地層対比同定法であったが、乱泥流などによって、堆積後、有意に時間が経過した後、堆積物ごと大きく移動してしまったケースや、生物擾乱(バイオターベーション:bioturbation)によって擾乱された場合には役にたたない。これは微化石の場合に於いて特に顕著に起こる(以上はウィキの「示準化石に拠った)。]

 右は單に陸地から海に泥砂が流れ入るだけで、水成岩が出來る如くに書いたが、實際はかやうなものが流れ込まずとも、海の底に新な層の積り生ずる原因は他にも種々ある。例へば海の表面・水中ともに微細な蟲類・藻類などが、幾億とも數へられぬ程に浮いて居て、常に水中より石灰・珪酸等を吸ひ取つて殼を造り、死んでしまへば殼だけが底に沈むから、深い海の底では常に上から斯かる蟲や藻の殼が雨の如くに降つて、之ばかりでもなかなか大きな地層が出來る。大西洋の中央には餘程廣く、全くかやうな殼ばかりで底の出來て居る處があるが、後には之が凝まつて、固い岩石となる。岐阜縣赤坂から出る有名な鮫石などは、かやうにして生じた岩石の一例であるが、エジプトのピラミッドは、殆どこの類の岩石ばかりを用いて造つてある。

[やぶちゃん注:「鮫石」特に岐阜県大垣市赤坂町(あかさかちょう)金生山(きんしょうざん)付近((グーグル・マップ・データ)。良質な石灰岩・大理石があることから江戸時代より採掘が行われてきた。航空写真に替えると、その無残に削られ引き剥かれてしまった山容がよく判る。ここからは多様な化石類が発掘されて、「日本の古生物学発祥の地」とも呼ばれる)から多く産する石灰岩の一種。暗灰色で中に多数のフズリナ(fusuline:紡錘虫。古生代石炭紀に始まり、二畳紀末に絶滅した原生動物の一群で、現在はリザリア界 Rhizaria レタリア門Retaria有孔虫亜門 Polythalamea 綱フズリナ目†Fusulinida に分類されている高等有孔虫類。名称は「紡錘」の意のラテン語「fusus」に由来当初はフィッシャー・ド・ワルトハイムが一八二九年にソヴィエトのモスクワ盆地の上部石炭系地層から産する米粒様化石(初めは極微小な頭足類と考えられた)に与えた属名Fusulinaであったが,しだいに近縁の属。種多く発見・認可さられ、群全体を指す語としても用いられるようになったもの。グーグル画像検索fusulineをリンクさせておく)を含有する。花瓶や灰皿などに加工する。]

 以上述べた所は、今日地質學に於て確に解つてあることの中から、一部だけを極めて簡單に説いたに過ぎぬが、これらのことを詳細に論ずるのは、地質學の範圍内で、こゝに述べた如きことは如何なる地質學書にも尚明細に記載してあるから、本書には略する。こゝ ではたゞ化石を含む水成岩が出來たのは、我々の考へられぬ程の昔からであることが解りさへすれば、それで宜しい。地球が出來てから今年で何年になるとか、人類が初めて現れてから何年になるとかいふことが、往々雜誌などに出て居るが、總べて全く架空の考ばかりで、一として信ずべきものはない。今日我々の斷言の出來ることは、たゞ地球の歷史は非常に長いといふことだけで、數字を以てその長さを示すことなどは到底出來ぬ。倂し長い短いといふのは比較的の言葉で、たゞ長いといふたばかりでは、何の位長いのか解らぬから、之を人間の歷史に比べて見るに、エジプトのピラミッドなどは六千年以上の昔に造つたもので、先づ最も古い人間の遺物であるといふが、地球の歷史から見れば、六千年位の短い年月は到底勘定にも入らぬ程である。總べて大きな物を測るには、大きな單位を用ゐなければならぬもので、書物や机の寸法は尺と寸とでいひ表せるが、國と國との距離は里を單位に取らなければならず、また星と星との距離を測るには里では到底間に合わぬ故、三千七百萬里もある地球と太陽との間の距離[やぶちゃん注:一億四千九百六十万キロメートル。]を單位としていひ表し、尚遠い星の距離を測るには更に地球・太陽間の距離の百六萬九千倍もあるシリウス星までの距離[やぶちゃん注:八・六一一光年。おおいぬ座にあるシリウスを基準にしたのは、太陽・月及び近い惑星を除いて全天で一番明るい星だからである。但し、それよりも、太陽に距離が最も近い恒星ケンタウルス座α星(アルファ・ケンタウリ)約四・三光年を基準にした方が私はいいように思う。因みに、一光年は単純換算すると約九兆五千億キロメートルであるが、一光年の距離に馴染み深い星がないもんだろうかとも思う。]を取つて單位とせなければならぬのと同じ理窟で、時の長さを測るに當つても、所謂萬國史位には年を單位に取るのが相應であるが、眞に地球の歷史を論ずるに當つては、到底、年を單位にするやうなことでは間に合はぬ。地質學で地殼變遷の歷史を述べるには之を若干の代に分ち、各代を更に數多の紀に分つて論ずるが、この紀と名づけるものは、決して皆同一の長さのものではなく、一と十、又は一と百位の割合に長さの違ふものがあるかも知れぬ。倂し孰れにしても一萬年や十萬年位の短いもので無かつたことは確である。西洋の曆には尚往々天地開闢紀元六千何百何十年などと書き入れたものがあるが、今日の地質學上の知識を以て見れば、實に滑稽の極といはねばならぬ。地球の歷史はかやうに長く、隨つて生物の歷史も同じく長い時を經て來たものであるが、生物種屬の起源などを論ずるに當つては、この事は少時も忘るべからざることである。

 

進化論講話 丘淺次郎 第十二章 分布學上の事實(8) 七 津輕海峽と宗谷海峽 / 第十二章 分布學上の事實~了

 

     七 津輕海峽と宗谷海峽 

 

[やぶちゃん注:標題の「津輕海峽」は底本では『輕津海峽』と転倒している。訂した。また、『【】』から本章の最後『【】』までは底本とした国立国会図書館デジタルコレクションの画像では、原資料自体のページが欠損しているので、国立国会図書館デジタルコレクションの一番底本直近であ開成館底本東京開成社名る)大正一九一四)十一発行修正十一の当該部を参考にし、講談社学術文庫版とも校合して推定復元した。]

 終りに我が國の動物分布の有樣は如何と見るに、全體からいへば無論アジヤ産のものに似たものばかりであるが、本州・四國・九州産の動物には日本固有のものが頗る多い。狸・熊・穴熊などは支那・チベットの方に産するものと極めて似て居て、之を同種と見倣す人もある位であるが、日本の猿・猪・羚羊・鹿・狐・鼬等の如きは、日本以外には何處にも産せぬ。然るに津輕海峽を越えて北海道に渡ると、鳥類・獸類ともに大に異なり、日本[やぶちゃん注:差別的な謂い方である。本州以南とすべきであろう。後の「内地」というのさえも私は厭だ。]に固有なものは大に數が減じ、こゝに居るものの中にはシベリヤ地方に産するものと同種のものが幾つもある。熊も日本固有の月輪熊でなくて、北方に普通な熊であり、鼬も蝦夷鼬といふ冬は白くなる種類であるが、之はシベリヤからヨーロッパまでも普通なものである。鳥類に就いていへば、雉子・「やまどり」などは日本固有の鳥であるが、北海道には産せず、北海道に産する鳥類は皆シベリヤ地方と共通なものばかりで、その多數は内地にも居るが、津輕海峽以南には全く産せぬ種類も七種ばかりある。斯くの如く本州・四國・九州産の動物には、日本固有のものが頗る多いが、北海道のみに固有な動物といふては一種もない。また日本固有のものはどこの産に最も似て居るかと尋ねると、北海道産のものに似るよりは、遙に朝鮮・支那産の方に善く似て居る。また北海道から宗谷海峽を超えて樺太へ行つて見ると、馴鹿や、麝香鹿の如き北海道には決して居ぬ獸類が居て、蛇・蜥蜴・蛙の類も全く違ひ、北アジヤと共通のものばかりである。北海道には本州・四國・九州と共通の種類も相應にあるが、樺太にはかやうなものは殆どない。これ等のことも動物各種が皆その場所に別々に造られ、少しも變化せずに今日まで續いたものとしたならば、たゞ何の意味もないことであるが、進化論から見れば頗る興味のあることで、且明瞭にその意味が解る。日本が極昔にアジヤ大陸の一部であつたことは疑もないが、後に至つて、津輕海峽・宗谷海峽などが生じて、大陸と離れ、樺太も之と同じく大陸から離れたと假定すれば、動物分布の模樣は是非とも今日の通りにならざるを得ぬ次第で、最初大陸と連絡のあつた間は、各部ともに大陸と共同種類の動物が居たが、連絡が絶えてからは、獨立に進化して固有の種類が出來たのであり、また南方から移り來つた種類は、本州だけに止まるものと、北海道まで進み住するものとがあり、北方より入り來るものには、樺太で止まつて北海道までは移り得ぬもの、宗谷海峽を渡つて北海道まで達したもの、稀には津輕海】[やぶちゃん注:以下、本章の最後【】まで底本は頁欠損している。冒頭注参照。]峽をも渡つて本州まで入り込んだものもあつて、今日見る如き分布の狀態を呈すべき筈である。北海道の鳥獸と内地の鳥獸とが、この樣に違ふことは、前年函館に住んで居たブレキストンといふ英國人が初めて調べた故、津輕海峽に於ける動物分布の境界線を往々ブレキストン線と名づけるが、同じ一列をなせる日本群島が動物分布學上此の線によつて判然と南北二組に分かれるといふ事實は、進化論によれば、以上の如くに想像して、一通りその理を解することが出來る。當今の所では、此の外には説明の仕樣もない樣であるから、先づ之を取るの外はなからう。日本に限らず、何處の國でも詳に調べさへすれば、この類の事實は幾らもあるが、進化説によれば、是が總べて説明が出來るに反し、進化説を認めなければ、是が皆偶然のこととして少しも理窟が解らぬ。

[やぶちゃん注:「ブレキストン」イギリス出身の軍人・貿易商で、探検家・博物学者でもあったトーマス・ライト・ブレーキストン(Thomas Wright Blakiston 一八三二年~一八九一年)。ウィキの「トーマス・ライト・ブレーキストンによれば、『幕末から明治期にかけて日本に滞在した。津軽海峡における動物学的分布境界線の存在を指摘、この境界線はのちにブラキストン線と命名された。トマス・ブラキストンとも表記する』。『イングランド、ハンプシャーのリミントンに生まれる。少年時代から博物学、とりわけ鳥類に関心をもつ。陸軍士官学校を卒業後、クリミア戦争にも従軍した』一八五七年から一八五八年に『かけてパリサー探検隊に参加し、カナダにおける鳥類の標本採集やロッキー山脈探検などを行な』い、一八六〇年には『軍務により』、『中国へ派遣され、揚子江上流域の探検を行な』った。一八六一年(万延元年十一月二十一日から万延二年二月十八日までと、文久元年二月十九日から文久元年十二月一日に相当)、『箱館で揚子江探検の成果をまとめた後、一旦帰国』した。翌年には『揚子江の調査の功績に対して、王立地理学会から金メダルを贈られ』ている。彼はこの時の帰国の後に、『シベリアで木材貿易をすることを思い立ち、アムール地方へ向かうが、ロシアの許可が得られなかった。そのため、彼は蝦夷地へと目的地を変更』し、一八六三年(文久二年十一月十二日から文久三年十一月二十一日相当)に『再び箱館を訪れ、製材業に従事、日本初となる蒸気機関を用いた製材所を設立した。ただし、蝦夷地では輸送手段が未開発であったために、大きく頓挫することとなった。箱館戦争』(慶応四・明治元(一八六八)年~明治二(一八六九)年)『などの影響もあり、事業の成果ははかばかしくなかったが、そこで、貿易に力を入れることにした彼は』『友人とともにブラキストン・マル商会を設立』(設立自体は一八六七年)、『貿易商として働いた。彼は』二十『年以上にわたって函館で暮らし、市の発展に貢献した。函館上水道や、函館港第一桟橋の設計なども手がけ、また、気象観測の開始に寄与し、福士成豊が気象観測を受け継いだ(日本人による最初の気象観測)』。『この間、北海道を中心に千島にも渡り、鳥類の調査研究を行なった』。明治一七(一八八四)年に『帰国、のちにアメリカへ移住し』、『カリフォルニア州サンディエゴで肺炎のため』に没した。彼は一八八〇年(明治十三年相当)に『共著で「日本鳥類目録」を出版』しており、一八八三年には、『津軽海峡に分布境界線が存在するという見解を発表、お雇い外国人教師ジョン・ミルン』(John Milne 一八五〇年~一九一三年:イギリス・リバプール出身の鉱山技師で地震学者・人類学者・考古学者。東京帝国大学名誉教授。日本に於ける地震学の基礎を作った人物として知られる。明治九(一八七六)年に工部省工学寮教師に招かれて来日、明治二八(一八九五)年に帰国している。なお、彼は明治一一(一八七八)年にモースやブラキストンらとともにに函館の貝塚を発掘し、根室市の弁天島では貝塚を発見している。この時のことは私の日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 23 丘からの眺め、及び日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十四章 函館及び東京への帰還 2 函館にて(を参照されたい。以上は主にウィキの「ジョン・ミルンに拠った)『の提案でこれをブラキストン線と呼ぶこととした。『ブレーキストンが北海道で採集した鳥類標本は開拓使に寄贈され、現在は北海道大学北方生物圏フィールド科学センター植物園(北大植物園)』に所蔵されている。

ブレキストン線」Blakiston Line。私はやはり「ブラキストン線」の表記が親しい。ウィキの「ブラキストン線より引く。『ブラキストン線(ブラキストンせん)とは、動植物の分布境界線の一つで』、『津軽海峡を東西に横切る』ことから、『津軽海峡線』とも称する。『この線の提唱者は』前に注したトーマス・ブレーキストンで、『彼は日本の野鳥を研究し、そこから津軽海峡に動植物分布の境界線があると』見て、『これを提唱した。また、哺乳類にも』、『この海峡が分布境界線になっている例が多く知られる』。『この線を北限とする種はツキノワグマ、ニホンザル、ムササビ、ニホンリス、ニホンモモンガ、ライチョウ、ヤマドリ、アオゲラなどがある。逆にこの線を南限とするのがヒグマ、エゾモモンガ、エゾヤチネズミ、エゾリス、エゾシマリス、ミユビゲラ、ヤマゲラ、シマフクロウ、ギンザンマシコなどである』。『また、タヌキ、アカギツネ、ニホンジカ、フクロウは』、『この線の南北でそれぞれ固有の亜種となっている』。但し、『エゾシカとホンシュウジカはかつては別亜種と見られていたが、近年の遺伝子研究では、どちらもニホンジカの東日本型に属するとされ、地域個体群程度の差でしかないとされるようになってきている』。『その他、現在でも北海道の一般家庭ではゴキブリがほとんど見かけられないことから、かつてはゴキブリもブラキストン線を境界に北海道に棲息していないと言われていた』(現在は侵入してかなり繁殖している)。『最終氷期』(約七万年から一万年前)『の海面低下は最大で約』百三十メートル『であり、最も深い所で』は百四十メートル『の水深がある津軽海峡では中央に大河のような水路部が残った。このため、北海道と本州の生物相が異なる結果となったと考えられている』。一九八八年の『青函トンネルの開通により、動物が歩いて津軽海峡を渡ることが可能となり、北海道と本州北部の生態系に変化があることが懸念されて』おり、『事実』、二〇〇七『年には青森県でキタキツネの棲息が確認されている』とある。

 因みに、講談社学術文庫版はこれを以って上下二巻の上巻が終わっている。やっと本「進化論講話」藪野直史附注は半分まで辿りついた。]

進化論講話 丘淺次郎 第十二章 分布學上の事實(7) 六 ウォレース線

 

     六 ウォレース

 

Doubutubunpuzudai

Doubutubunpuzu

[動物分布圖]

[やぶちゃん注:文字の読み易さや全体の把握の視認の便宜から、底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像の露光量違いで捕られた二枚を、大・小とサイズを変えてダウン・ロードそ、それぞれトリミング・回転して補正を加え、示した。小さい方が見易いが、その一部の字が読み難いところは大で補えるものと思う。

 

 アジヤオーストラリヤとの間には、大小種々の島が恰も飛石の如くに列んであるが、その中ジャヴァの東に當つてバリロンボクといふ二つの小い島がある。この島の間の距離は十里にも足らず、殆ど兩方から見える位であるが、その産物を調べると大に違ひ、バリの方に産する動物は、總べてアジヤ産のものに類似し、ロンボクの方に産するものは、これと全く異なりて、明にオーストラリヤ産のものに似て居る。この二島を中心として、その兩側にある島々の動物を比べて見ると、バリより西北に當るボルネオジャヴァスマトラ等には、象・犀の類を始として、總べてアジヤに固有な獸類・鳥類ばかりが産し、ロンボクより東にある島々にはオーストラリヤ大陸と同樣で、普通の獸類は一種もなく、たゞ「カンガルー」の族ばかりが生活し、鳥類も全くオーストラリヤ産に似たもののみである。尤もセレベス島の如きは、孰れの組に屬するか、判然せぬ點もあるが、先づ大體からいへば、バリロンボクとの間に線を引けば、その線によつてこの邊にある澤山の島を、アジヤに屬する組とオーストラリヤに屬する組とに分けることが出來る。このことは數年間この地方に留まつて、動物分布の有樣を調べたウォレースの發見に係る故、通常之をウォレース線と名づけて、動物分布區域の境界線の中、最も有名なものとなつて居る。この邊の諸島は孰れも氣候・風土は善く相似たもので、どの島の動物を、どの島に移しても差支なく生活の出來るやうな處であるのに拘らず、斯くの如くウォレース線によつて明に二組に分れ、各産物を異にするのは、如何なる理によるかと考へるに、生物種屬を以て全く不變のものと見倣さば、少しも理窟が解らぬが、生物種屬は漸々進化するものとすれば、次の如くに想像して容易に之を説明することが出來る。卽ち最初はアジヤオーストラリヤとは全く陸續であつたのが、或る時先づバリロンボクとの間にて切れ離れ、それより遥に後になつて、他の島々が皆離れたものと假定したならば、動物分布の有樣は、丁度今日の實際の通りになるべきわけである。而して試にこの邊の海圖を開いて見ると、アジヤ組の島々とアジヤ大陸との間の海は甚だ淺くて百尋[やぶちゃん注:水深の一尋(ひろ)は六尺。百八十一・六メートル。]にも足らず、またオーストラリヤ組の方でも、大きな島と陸地との間は同じく海が淺くて百尋にも足らず、而してこの二組の間はなかなか深く千千尋[やぶちゃん注:千八百十六メートル。]、二千尋[やぶちゃん注:三千六百三十二メートル。]以上に達する所もあるから、この想像は單に空想ではない。地質學上から推せば最も實際にあつたらしいことであるが、若しその通りであつたとしたならば、世界中にまだ「カンガルー」の如き類ばかりで、他に獸類の無かつた頃に、この線の處でオーストラリヤアジヤから切れ離れ、オーストラリヤの方では「カンガルー」の類が獨立に進化し、諸方の島々の邊に分布して居た頃に及んで、これらの島々が本大陸から切れ離れ、またアジヤの方では、他の獸類が出來で、象や犀などが今のボルネオジャヴァ等のある邊まで廣まつた後に、これらの島が大陸から離れて、その結果今日の如き分布の有樣を生ずるに至つたものと考へることが出來る。斯くの如く、生物の進化を認めさへすれば、この邊の奇態な動物分布の有樣を、最も自然に且最も明瞭に説明することが出來るのである。之も進化論の有力な證據の一といふべきものであらう。

[やぶちゃん注:「ジャヴァ」インドネシア(但し、本底本刊行時である大正一四(一九二五)年九月時点ではオランダが統治するオランダ領東インドであった日本による軍政統治を経て、インドネシア共和国(インドネシア語: Republik Indonesia)として独立が承認されたのは一九四九年十二月であった。以下の島も同じ)を構成する島の一つであるジャワ島(インドネシア語:Jawa/英語:Java)。スマトラ島の東、カリマンタン島の南、バリ島の西に位置する。ここ(グーグル・マップ・データ)。以下は、このリンク先を拡大して探されたい。判るように注したつもりではある。

バリ」バリ島(インドネシア語:Pulau Bali)。非常に狭いバリ海峡(南北の長さ約二十キロメートルで北部が最も狭くて幅は約二・五キロメートルほどしかない)海を隔てて、ジャワ島のすぐ東側にある。

ロンボク」ロンボク島(Pulau Lombok)。バリ島の東隣りにロンボク海峡(最も狭いところで幅十八キロメートル。水深は以西のマラッカ海峡やスンダ海峡より深く、二百五十メートルほどある。後で丘先生の言う「バリロンボクとの間」とは現在のここでの原分離を指し、大スンダ列島の南のウォレス線はここを通る)を挟んで位置する。

ボルネオ」ジャワ海を挟んでジャワ島の北方にある巨大な島。オランダ語と英語ではボルネオ(Borneo)で恐らく日本ではこちらが普通の認識島名であろうが、インドネシア語ではカリマンタン(Kalimantan)島の呼称を使うのが一般的であり、私はそれで呼ぶべきだと考えている(グーグル・マップ・データでもその呼称で示されてある。なお、「ボルネオ」の語源は、かつて島の北半分を占めていた「ブルネイ」が訛ったものと言われる)。面積は七十二万五千五百平方キロメートルで日本の国土の約一・九倍の大きさがあり、世界の島の中では、グリーンランド島・ニューギニア島に次いで面積第三位の島である。現在はインドネシア・マレーシア・ブルネイの三ヶ国が分割して所有する領土であり、世界で最も多くの国の領地がある島となっている(ここはウィキの「ボルネオ島」に拠った)。

スマトラ」ジャワ島と海峡を挟んで西北に伸びるスマトラ島(Pulau Sumatera)。

「象」ここは哺乳綱長鼻(ゾウ)目ゾウ上科ゾウ科アジアゾウ属アジアゾウ Elephas maximus。現在、同種はインドゾウ Elephas maximus bengalensis・セイロンゾウ Elephas maximus maximus・スマトラゾウ Elephas maximus sumatrana・マレーゾウ Elephas maximus hirsutus のの四亜種に分けられている。

「犀」ここはマレーシアとインドネシアの限られた地域に吞のみ棲息している哺乳綱奇蹄目有角亜目 Rhinocerotoidea 上科サイ科 Rhinocerotidae の内、スマトラサイ属スマトラサイ Sumatran rhinoceros(或いはDicerorhinus sumatrensis)及びジャワサイ属ジャワサイJavan rhinoceros(或いはインドサイ属ジャワサイ Rhinoceros sondaicus)を挙げておけばよいであろう(インドサイ Indian rhinoceros(或いはRhinoceros unicornis)を挙げてもよいが、インド北部からネパール南部にしか棲息しないから、この章のここでの「犀」の謂いにはちょっと含まれないと私は考えるからである)。

『「カンガルー」の族』丘先生はこの章で、ここ以下のこの謂いは、狭義のカンガルーではなく、哺乳綱獣亜綱後獣下綱有袋上目 Marsupialia に属する有袋類種群の意で用いている。

セレベス島」現在のスラウェシ島(Sulawesi)。カリマンタン島の東でマカッサル(Makassar)海峡(幅広の海峡で最狭部でも約百キロメートルの幅がある。北のウォレス線はここを通る)を挿んで位置する島。植民地時代はセレベス島(オランダ語:Celebes)と呼ばれたが、インドネシア独立後はスラウェシ島と呼ばれるのが普通である(グーグル・マップ・データでは島名としてはセレベスを採っている)。

ウォレース」イギリスの博物学者・生物学者アルフレッド・ラッセル・ウォレス(Alfred Russel Wallace 一八二三年~一九一三年)。既出既注

ウォレース線」Wallace LineWallace's Line。ウィキの「ウォレス線」を引く。『インドネシアのバリ島、ロンボク島間のロンボク海峡からスラウェシ島の西側、マカッサル海峡を通りフィリピンのミンダナオ島の南に至る東に走る生物の分布境界線のこと。これより西の生物相は生物地理区のうちの東洋区に属し、東はオーストラリア区に属するというもの』。一八六八年(本邦は慶応四から明治元年相当)、『アルフレッド・ラッセル・ウォレスが発見したことからこの名がついた』。『氷期には海面が下降し、東南アジア半島部からボルネオ島、バリ島までの一帯がスンダランドと呼ばれる陸続きとなっていた。同様に、パプアニューギニアとオーストラリアはサフルランドを形成していた。しかし、スンダランドの東側とサフルランドの西側は陸続きにはならなかったことから、生物相が異なる状態が現在に至るまで続いているものと考えられている』。]
         

進化論講話 丘淺次郎 第十二章 分布學上の事實(6) 五 飛ばぬ鳥類の分布

 

     五 飛ばぬ鳥類の分布

 

Datyou

[駝鳥]

 

Dodoo

[愚鳩]

[やぶちゃん注:二枚とも底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像を補正して用いた。後者は本文でルビする通り、「おろかばと」で所謂、知られた「ドードー」(後注参照)である。]

 

 現今生存して居る飛ばぬ鳥はアフリカの駝鳥、南アメリカのアメリカ駝鳥、印度諸島の「火食鳥」、オーストラリヤの「エミウ」、ニュージーランドの「鴫駝鳥」などであるが、從來は單に孰れも飛ばぬといふだけの理由で、これらを合して走禽類といふ一目としてあつた。倂し善く考へて見ると、之はたゞ運動法のみによつた分類で、恰も鯨を魚類に數へ、蝙蝠を鳥類に入れるのと同樣なこと故、近來は比較解剖の結果、構造の異同を標準として正當な自然分類に改めたが、之によると、産地の異なるものは構造も著しく違ひ、各々獨立の一目を成すベきもので、特に「鴫駝鳥」の如きは全く他の類と違ひ、寧ろ鴫などの方に近い位である。斯く飛ばぬ鳥類は世界の諸地方に散在し、何處でも略々同樣な生活を營んで居るにも拘らず、産地が違へば構造が著しく違ふのは何故であるかと考へるに、これも生物の進化を認めれば容易に了解することが出來るが、生物種屬を不變のものと見倣せば少しも理窟が解らぬ。特にたゞ一の神が總べての動物を各々別々に造つたなどと思ふてかかれば、同樣の生活を營んで居る鳥が、外形は互に善く似ながらあちらとこちらとでは全く別の目に屬すべき程に内部の構造の違つて居ることは、愈々譯が解らぬ。

[やぶちゃん注:以下、複数回既出で既注のものばかりであるが、分類上の遠さを理解するために、分類と学名のみを再掲する。

「駝鳥」鳥綱ダチョウ目ダチョウ科ダチョウ属ダチョウ Struthio camelus

「アメリカ駝鳥」レア目レア科レア属レア Rhea Americana(五亜種)とダーウィンレア Rhea pennata の二種。

「火食鳥」ヒクイドリ目 Struthioniformesヒクイドリ科 Casuariidae ヒクイドリ属ヒクイドリ Casuarius casuarius

「エミウ」ヒクイドリ目ヒクイドリ科エミュー属エミュー Dromaius novaehollandiae

「鴫駝鳥」古顎上目キーウィ目キーウィ科キーウィ属 Apteryx のキーウィ(Kiwi)類の旧和名(最多説で五種(内一種に二亜種)であるが、この内、コマダラキーウィ Apteryx owenii  複数の島で全部で約千四百羽ほどが確認されているだけで、国際自然保護連合(International Union for Conservation of Nature and Natural ResourcesIUCN)のレッド・リストでは準絶滅危惧(Near threatenedNT)に指定されてしまっている)。ニュージーランド固有種で国鳥。かつては一千万羽ほどいたが、今では三万羽ほどにまで減少してしまった。次の段で「遠からぬ内には孰れ種が盡きるであらう」と丘は述べている。本書初版刊行は明治三七(一九〇四)年、本底本新補改版(第十三版)の刊行は大正一四(一九二五)年九月である。しかし、丘先生、不幸中の幸い、先生がそう語ってより九十三年後の二〇一八年の今、まだ彼らは辛くも絶滅していません

「走禽類」ウヘエェ! 今も生きてる! この言葉! “runners”で、飛べない代わりに脚力に特化した鳥。他に平胸類・走鳥類という言い方もあるらしい。]

 動物は總べて自然淘汰によつて絶えず少しづゝ進化し、形狀も變じて行くものとすれば、鳥が飛ばずに生活の出來る處では、翼の發達の度は生存競爭の際に勝敗の標準とはならず、却つて他の體部の發育したものが勝を制する譯故、代々その方面に進んで翼の方は漸々退化し、短く小くなつてしまふ筈である。それ故、何處でも若し鳥が飛ばずに無事に生活の出來る事情が生じたと假定したならば、その處に居た鳥の子孫が次第に飛ぶ力を失ひ、翼が小くなつて、遂に駝鳥の如き形になる譯で、決して總べての飛ばぬ鳥が共同の飛ばぬ先祖から降つたのではない。また飛ばぬ鳥は飛ばずに無難に生活の出來る區域より以外には容易に出られぬに極まつたもの故、一且翼を失つた鳥が遠く離れた處に移り行くことは、到底出來ぬ。それ故、今日諸方に散在して居る飛ばぬ鳥は、恰も各地の洞穴内の動物と同樣各々その先祖を異にするものと見倣さねばならぬ。鳥類諸屬の進化の系圖を樹の枝に譬へて見れば、飛ばぬ鳥はあの枝の先に一屬、この枝の端に一屬といふ具合に相離れてあつて、決して一本の枝から皆出たものではない。尤も追ひ廻す敵のある處で、飛ばぬ生活を營むには、初めから足が相應に達者でなければならぬから、翼の既に發達した足の弱い鳥がこの方面へ向つて進化することはないであらうが、かやうな敵のない處では、隨分鳩の如き種類でさへ飛ばぬやうになる。マダガスカル島の東にあるモーリシアス島には二百年許前まで、「愚鳩(おろかばと)」というて七面鳥より稍々大きな頗る肥えた鳥が住んで居たが、翼が甚だ小く、飛ぶ力が全く無く、運動が至つて緩慢であつたため、その頃この島に立ち寄つた水夫等が面白半分に無暗に打ち殺したので、忽ちの中に種屬が斷絶してしまふた。骨骼も寫生圖もあるが、惜しいことには全身の剝製標本が何處にもない。この鳥などは、實に如何なる鳥でも飛ぶ必要が無くなれば、漸々飛ばぬ鳥になるといふことの甚だ好い例である。ニュージーランドの鴫駝鳥も幾分か之に似た例で、鳥類の大敵である獸類の居ない處故、夜間、蟲などを搜し步いても、狐や鼬(いたち)に出遇ふ恐もなく、無難に生活して居たが、西洋人が入り込んでから、獵犬なども澤山に殖えたので、この鳥の運命は餘程危くなり、年々著しく減少するから、遠からぬ内には孰れ種が盡きるであらう。これらの事情から考へて見ると、先祖は如何なる形の鳥であつたか解らぬが、兎に角、全く敵が無くて飛ぶ必要が無かつたために、今日の如きものになつたと見倣さねばならぬ。つまる所、動物種屬は絶えず漸々進化するもので、その主なる原因は自然淘汰にあるとすれば、飛ぶ必要のない處には何處でも飛ばぬ鳥が生じ得る譯であり、且飛ばぬ鳥は離れた國々に移住することの出來ぬもの故、世界各地に産する飛ばぬ鳥は各々祖先を異にするものと見倣さなければならぬが、實際を調べた結果は、全くこの豫想と一致したのである。之も確に進化論の正しい證據といつて宜しからう。特に前に述べた高さが二間[やぶちゃん注:三メートル六十四センチメートル弱。]以上もある大鳥は、たゞ獸類の全く居ないニュージーランドと、擬猴類ばかりで獸らしい獸の居ないマダガスカルに限つて生存して居たことを考へると、益々生物の進化の眞なることを感ぜざるを得ない。

[やぶちゃん注:「愚鳩(おろかばと)」所謂、「ドードー」(dodo)。マダガスカル沖のモーリシャス島((グーグル・マップ・データ)。現在はモーリシャス共和国(Republic of Mauritius)であるが、本底本刊行当時はイギリス領モーリシャスであった。一九六八年に英連邦王国として独立、一九九二年になって立憲君主制から共和制に移行した)に棲息していた絶滅鳥類。鳥綱 Avesハト目 Columbiformesドードー科 Raphidae Raphus属。単に「ドードー」と言った場合は、

(モーリシャス)ドードー Raphus cucullatus

を指すが、実際には以下の二種を加えた三種が存在した(蜂須賀正の提唱した四種説があるが、甚だ無理がある)。

ロドリゲスドードー Pezophaps solitaria

レユニオンドードー Raphus solitarius

以下、ウィキの「ドードーより引く。『存在が報告されてから』八十三年『で目撃例が途絶え』、『絶滅した』。『大航海時代初期の』一五〇七年(本邦の永正四年相当。室町後期)、『ポルトガル人によって生息地のマスカリン諸島が発見された』。一五九八年に八隻の『艦隊を率いて航海探検を行ったオランダ人ファン・ネック提督がモーリシャス島に寄港し、出版された航海日誌によって初めてドードーの存在が公式に報告された。食用に捕獲したものの』、『煮込むと肉が硬くなるので船員達はドードーを「ヴァルクフォーゲル」(嫌な鳥)と呼んでいた』『が、続行した第二次探検隊はドードーの肉を保存用の食糧として塩漬けにするなど重宝し、以降は入植者による成鳥の捕食が常態化した』。『隔絶された孤島の環境に適応して天敵らしい天敵もなく生息していたドードーは』、『空を飛べず地上をよたよた歩く』・『警戒心が薄い』・『巣を地上に作る』といった生態から、『外来の捕食者にとって都合のいい条件がそろっており』、『侵入してきた人間による乱獲と人間が持ち込んだ』、『従来』は『モーリシャス島に存在しなかったイヌやブタ、ネズミなどに雛や卵が捕食され、さらに森林の開発』『により生息地が減少し、急速に個体数が減少した。オランダ・イギリス・イタリア・ドイツとヨーロッパ各地で見世物にされていた個体はすべて死に絶え、野生のドードーは』一六八一年の『イギリス人ベンジャミン・ハリーの目撃を最後に姿を消し、絶滅した』。『ドードーは、イギリス人の博物学者ジョン・トラデスカントの死後、唯一の剥製が』一六八三年に『オックスフォードのアシュモレアン博物館に収蔵されたが、管理状態の悪さから』一七五五年に『焼却処分されてしまい、標本は頭部、足などのごくわずかな断片的なものしか残されていない』。『しかし、チャコールで全体を覆われた剥製は、チェコにあるストラホフ修道院の図書館に展示されている』。『特異な形態に分類項目が議論されており、短足なダチョウ、ハゲタカ、ペンギン、シギ、ついにはトキの仲間という説も出ていたが、最も有力なものはハト目に属するとの説であった』。『シチメンチョウよりも大きな巨体』『で翼が退化しており、飛ぶことはできなかった。尾羽はほとんど退化しており、脆弱な長羽が数枚残存するに過ぎない。顔面は額の部分まで皮膚が裸出している』。『空を飛べず、巣は地面に作ったと言う記録がある』。『植物食性で果実や木の実などを主食にしていたとされ』、『また、モーリシャスにある樹木、タンバラコク(アカテツ科のSideroxylon grandiflorum、過去の表記はCalvaria major〈別称・カリヴァリア〉であった)と共生関係にあったとする説があり』、一九七七年、『サイエンス』誌にレポートが載った。その『内容は、その樹木の種子をドードーが食べることで、包んでいる厚さ』一・五センチメートル『もの堅い核が消化器官で消化され、糞と共に排出される種子は発芽しやすい状態になっていることから、繁茂の一助と為していたというものであった。証明実験としてガチョウやシチメンチョウにその果実を食べさせたところ、排出された種子に芽吹きが確認された記述もあった。タンバラコクは絶滅の危機とされ』一九七〇『年代の観測で老木が』十『数本、実生の若木は』一『本とされる。ただし、この説は論文に対照実験の結果が示されていないことや、『サイエンス』誌の査読が厳密ではなかったと推測する人もおり、それらの要因から異論を唱える専門家も存在する』。『ドードーの名の由来は、ポルトガル語で「のろま」の意味』由来ともされる。]

 

2018/02/24

進化論講話 丘淺次郎 第十二章 分布學上の事實(5) 四 洞穴内の動物

 

     四 洞穴内の動物

 

Mekurauo

[盲魚]

Horaimori

[洞蠑螈]

[やぶちゃん注:孰れも講談社学術文庫版の絵を用いた。前者は「めくらうを(めくらうお)」、後者は「ほらゐもり」と読む。前者は一般的に知られるそれは、

脊索動物門脊椎動物亜門魚上綱硬骨魚綱カラシン目 Characiformesカラシン科 Astyanax 属ブラインドケーブ・カラシン Astyanax jordani

であるが、後に示すウィキの「マンモス・ケーブ国立公園」によれば、このアメリカの洞窟に棲息する盲目洞窟魚類は、

条鰭綱新鰭亜綱側棘鰭上目サケスズキ目ドウクツギョ科Typhlichthys 属サザンケイブフィッシュ Typhlichthys subterraneus

及び同じドウクツギョ科Amblyopsis 属ノーザンケイブフィッシュ Amblyopsis spelaeaAmblyopsis

であるとある。なお、差別和名であるとして「メクラウオ」は現在使用しない傾向にある。しかし私は声を大にして言いたいが、日本語の「盲魚」の代わりに「ブラインドケーブ」などと冠する和名が差別でないなどとは私は毛頭、思わない人間である。言葉狩りでリベラルになったと思う科学者は救いようのない差別主義者だとさえ思っている。なお、ウィキの「ブラインドケーブ・カラシン」によれば、『原産国はメキシコ』で、一九三六年に『中部メキシコの洞窟内で発見された。メキシカンテトラ』(Astyanax mexicanus)『が洞窟内で生息するうちに、視覚を失うなどして洞窟内での生活に適応したもの』で、体長は約八センチメートル。『洞窟で生活している』ことから、『目が退化しており、本来なら目のある部分は鱗で覆われている』。『さらに、前述と同じ理由で、体からメラニン色素が失われており、皮膚は白っぽい肌色で鰓の部分は赤くなっているのが特徴』。『視覚が無い代わりに、側線などが発達して視覚を補っており、岩などの障害物にぶつかることはなく普通に泳』ぎ、『鋭敏な嗅覚を持つので、餌を見つけるのは得意である』。なお、『明るい地上でも問題なく生活できる』とある。後者は、

両生綱有尾目ホライモリ(洞井守)科ホライモリ属ホライモリ Proteus anguinus

である。これは既に「第九章 解剖學上の事實(4) 四 血管並に心臟の比較」に登場し、注してあるので参照されたい。]

 

 ヨーロッパ・北アメリカなどには、處々に天然の大きな洞穴が發見せられてあるが、その中の最も有名なのがアメリカ合衆國ケンタッキー州のマンモス洞で、奧までは何里あるやら解らず、中には廣い河があつて、魚・蝦などが住んで居る。またオーストリヤ領のクライン地方の山には大きな洞があつて、その中に住する一種の蠑螈[やぶちゃん注:「ゐもり(いもり)」。]は血球が非常に大きく、蟲眼鏡でも見える程故、動物中でも有名なものである。その外にも稍々小い洞穴は幾つもあるが、かやうな所は無論全く闇黑であるから、常にその中ばかりに住んで居る動物は、普通の明い處に住するものとは違つて、總べて盲目で、目は形だけがあつても、全く役に立たぬやうに退化して居る。世界の方々からこのやうな洞穴の中に産する動物を集めて調べて見ると、眼の退化する具合に注意しても面白いことを見出すが、その分布を考へても、進化論によらなければ説明の出來ぬやうな面白い現象を發見する。元來この種の洞穴はアメリカのもヨーロッパのも、石灰岩の中に出來たもので、その中の溫度・氣候などは全く同一で、凡この位に互に相似た場所は、他には稀であると思はれる程であるが、實際その中に産する動物を檢すると、相離れた處の洞穴には、一種として同じ種類はない。卽ちアメリカの洞穴にもヨーロッパの洞穴にも産するといふやうな種類は一つも無く、アメリカの洞穴に居る盲目動物は何に最も似て居るかと調ベると、却つてその地の普通動物中の或るものに似て居る。之は進化論を基として考へれば、素より斯くなければならぬことで、各地の洞穴の間には直接の連絡は少しもなく、またその中に住む動物が自分で明い處に出ることは決してないから、各洞穴に産する盲目の動物は皆別別にその洞穴のある地方の普通の動物から進化して出來たものと見倣せば一通りは理窟も解るが、若しこれらの動物は各々最初から今日居る通りの暗い處に出來て、そのまゝ少しも變化せずに現今まで代々生存して居るものと考へたならば、この位、わけの解らぬことはない。始終闇黑な處に住んで居るに拘らず、皆目を有して居て、然もその目の構造を調べて見ると、肝心な部分がなくて、單に形を具へて居るといふに過ぎず、その上全く同樣な狀態の洞穴の中に、あの地とこの地とでは全く相異なつた種類が住んで居て、然もその種類は相互に似るよりは寧ろ各々その地の普通の目の明いた動物の方に近いといふに至つては、誰が考へても不思議といはざるを得ぬであらう。

[やぶちゃん注:「アメリカ合衆國ケンタッキー州のマンモス洞」現在のケンタッキー州中央部にあるマンモス・ケーブ国立公園(Mammoth Cave National Park)内の、世界で最も長い洞窟群であるマンモス・ケーブ。洞窟群の正式名称は一応、「マンモス・ケーブ・システム」(Mammoth Cave system)である。ウィキの「マンモス・ケーブ国立公園によれば、『古生代ミシシッピ紀(前期石炭紀)の厚い石灰岩層中に形成されている。石灰岩層の上には砂岩層が水平にかぶさっている。このために全体が非常に堅固な岩層となって』おり、『洞窟の長さは』実に五百九十一『キロメートル』『以上知られているが、新たな通路や他洞窟との接続箇所が今も発見されつづけ、毎年』、『長さが延びている』。伝承では最初の発見は一七九七年とされる。

オーストリヤ領のクライン地方」スロベニア中央部地方の地名カルニオラ(スロベニア語:Kranjska)のドイツ語表記(Krain)。位置はウィキの「カルニオラ」を参照されたいし、序でにウィキの「ホライモリ」と合わせて読まれれば(同種はクロアチア南西部及びボスニア・ヘルツェゴビナに分布するとある)、腑に落ちるものと思う。]

 生物學者の中で、生物種屬不變の説を守つた最後の人はアメリカルイ・アガシーといふ人であるが、他の學者が皆進化論の正しいことを認めた頃に、尚獨り動物各種は神が別々にその産地に適當な數に造つたものであると主張して居た。マンモス洞から盲目の魚が發見になつたのは、丁度その頃であつたから、アメリカの學術雜誌記者がアガシーに向ひ、この魚も斯かる姿に神によつて造られたものであるか、決して元來目の見える魚が闇黑な洞穴に入つて、盲目になつたものとは考へぬかと尋ねた所、アガシーは之に對して、やはりこの魚は今日の通りの姿に、今日居る場所に今日居る場處に、今日居る位に神が造つたものであると答へた。尤もこのアガシーも死ぬる時分には、遂に進化論の正しいことを承認したとの噂であるが、この人以後には生物學者で生物の進化を否定した人は一人もない。斯かる問答が雜誌に出た故、洞穴の動物を尚一層注意して調べるやうになり、その結果、こゝに述べたやうなことが解つて來たのである。今日知れてあるだけの事實から論ずれば、到底以上の如き考の起らぬことはいふに及ばぬであらう。

[やぶちゃん注:「ルイ・アガシー」(Jean Louis Rodolphe Agassiz 一八〇七年~一八七三年)はスイス生まれのアメリカの海洋学者・地質学者・古生物学者。ハーバード大学教授。氷河期の発見者と知られている。ウィキの「ルイ・アガシーによれば、当初は『地質学、氷河学に関する研究を行っていたが』、一八四六年に渡、翌年、『合衆国沿岸測量局の調査船で観測する機会を得て以後、海洋学の研究に没頭した。数度に渡る西インド、南米沿岸の調査でドレッジによる底生生物の採集を行い、その調査から大洋と大陸は太古と変わらぬ位置を占め』、『恒久的な存在であるという説を出した』。『水産学に対する貢献も大きく、またチャールズ・ダーウィンの進化論に対する有力な反対者であった』とある。彼の助手となって動物学を学び、後に進化論支持の講演で有名になったのが、かのエドワード・シルヴェスター・モース(Edward Sylvester Morse 一八三八年~一九二五年)であった。私はカテゴリ「日本その日その日」E.S.モース 石川欣一訳を完遂している。]

 

進化論講話 丘淺次郎 第十二章 分布學上の事實(4) 三 ガラパゴス島とアソレス島

 

     三 ガラパゴス島とアソレス

 

 大陸から全く離れて遠く太洋の中央にある島に就いて、その動物を調べて見ると、また生物進化の證據を澤山に見出すことが出來る。その一例としてガラパゴス島とアソレス島とに産する動物の比較を述べて見るに、アソレスといふ群島はポルトガルから西へ五百里餘りも隔たつた所の大西洋の眞中にあるが、こゝには蛇・蜥蜴・蛙の類は一種もなく、獸類も兎・鼠等の如き人間の輸入したものの外には、たゞ蝙蝠があるだけで、主として産するものは、先づ鳥類と昆蟲とである。鳥類は總計五十種以上もあるが、その中三十種許は海鳥故、何處へも飛んで行く類で、この島ばかりに住居を定めて居るものではない。殘る二十種ばかりが常にこの島に留まつて居る鳥である。所が之を調べて見ると、總べて對岸のヨーロッパ・北アフリカ等にも産するものばかりで、この島以外には産せぬといふ固有の鳥は僅に一種よりない。而して之もたゞ種が違ふといふだけで、同屬の鳥は大陸の方に幾らも居る。元來この島は皆火山島ばかりで、何時か遠い昔に噴出して出來たものに違ひない故、その初めには動物は全く居なかつたと見倣さなければならぬが、斯くの如く鳥類は總べて南ヨーロッパ・北アフリカ邊と同樣なものであり、その他の動物も悉く風によつて吹き送られたか、或は浪によつて打ち寄せられたかと思はれる種類のみである所から推せば、今日この島に産する動物は、皆實際かやうにして對岸の陸地から移り來つたものと考へなければならぬ。

[やぶちゃん注:「アソレス島」大西洋の中央部(マカロネシア)に位置するポルトガル領の群島アゾレス(ポルトガル語:Açores)諸島。島名はポルトガル語では「アソーレス」。ポルトガルの沖約一千キロメートルの大西洋上に浮かぶ。一四二七年に発見された。リスボンからは約一千五百キロメートル、北アメリカ東端からは実に三千九百キロメートルもある。火山起源の九つから成る群島で。ピコ島の火山ピコ山は標高二千三百五十一メートルもあり、これは同アゾレス諸島のみならず、ポルトガルの最高地点である(以上はウィキの「アゾレス諸島に拠った)。(グーグル・マップ・データ)。]

 ガラパゴス島は南アメリカエクアドル國の海岸から西へ凡そ三百里も離れて、赤道直下の太平洋の眞中にある群島で、單に地圖の上から見ると、ガラパゴスの南アメリカに對する關係は、全くアソレスヨーロッパアフリカに對する關係と同じやうであるから、この島の動物は定めて南アメリカ産と同種なものが多いであらうと誰も推察するが、實際を調べて見ると、大體はやはり南アメリカ産の動物に似て居るには相違ないが、この島ばかりに居て、決して他國では見ることの出來ぬ固有の種類が甚だ多い。先づ鳥類に就いていふに、鳥類はこの島には殆ど六十種ばかりも産するが、その中四十種程は全くこゝに固有なものである。海鳥を除いて勘定すると、殆ど悉く固有なものばかりで、この島に産する陸鳥で、他にも産するものは僅に一種より無い。之をアソレスに固有な陸鳥が一種よりないのに比べると、實に雲泥の相違といはねばならぬが、更に詳細に調べて見ると、かやうな相違の起るべき原因を容易に發見することが出來る。

 アソレス島のある邊は、常から餘り海の穩な處ではないが、每年春と秋とには、極まつて何度も大暴風が吹く。その方角は東からである故、丁度ヨーロッパ大陸で、住處を換へるために大群をなして飛ぶ陸鳥が、非常に澤山大西洋の方へ吹き飛ばされ、途中で落ちて死ぬるものが勿論大部分であるが、尚若干はこの島まで達する。その頃この島と大陸との間を航海した船長の日記の中に、疲れた陸鳥が無數に飛ばされて來て、船の中へも落ちた。その種類は何々である。六十疋許は籠へ入れて置いたが、餌を與へても半分は死んでしまつたなどと書いてあるのが幾通りもある。またこの島の住民に尋ねても、每年暴風の後には、必ず見慣れぬ鳥を何種も見出すというて居るから、年々確に大陸の方から幾らかの鳥が飛ばされて來るものと見える。それ故、この鳥は大陸から四五百里を離れて居るに拘らず、大陸からの交通が絶えぬから、何時までたつても種類は大陸のと同樣で相違が起らぬのであらう。而してたゞ一種だけは如何なる理由によるかは知れぬが最早長い間一度も大陸の方から來ぬ故、この島に居たものだけで獨立に進化して、終にこの島固有の種となつたのであらう。

 ガラパゴス島の方は如何と見るに、こゝは赤道直下の有名な無風の處で、海の表面は常に鏡の如くで、微な漣(さゞなみ)もない。風の吹くことは甚だ稀で、暴風といふては何百年か何千年に一度よりないやうである。この島もアソレス同樣に火山質のもの故、いつか遠い昔に噴出して出來たものには相違なく、今日産する動物は總ベて他から移つて來たものと見倣さなければならぬが、斯くの如く靜な處故、大陸から鳥の飛ばされて來るやうなことは極めて稀で、一度この島に移つた鳥は、大陸の種類とは全く交通遮斷の有樣となり、他には關係なく、この島のものだけで獨立に進化する故、長い年月の後には全く種類の異なつたものになつてしまふのであろう。特に面白いことは、この群島は大小合せて二十ばかりの島から成り立つて居るが、その陸鳥を調べて見ると、全體は略々相似ながら、島々により皆幾らかづゝ違つて居る。之も動物は漸々進化して形狀が變化するものとすれば、容易に理解することが出來るが、若し生物が萬世不變のものとしたならば、アソレス群島の方では何の島にも全く同種が産し、こゝでは島每に少しづゝ種屬が違ふといふやうなことは、如何なる理窟によるものか、全く解することが出來ぬ。ダーウィンはビーグル號世界一週の際にこの群島にも立ち寄り、この奇態な現象を見て、生物は是非とも進化するものに違ひないといふ考が胸に浮んだといふて居るが、之は然もあるべき筈である。

[やぶちゃん注:鳥綱スズメ目フウキンチョウ(風琴鳥)科 Thraupidae に属するダーウィンフィンチ族(Darwin’s Finches)類。ビーグル号の航海の途中、ガラパゴス諸島に立ち寄ったチャールズ・ダーウィンは、この種の多様な変異から進化論の着想を得たとされ、この名称がつけられている。詳しくはウィキの「ダーウィンフィンチ類を参照されたい。]

 尚この外に大西洋のセントヘレナ、太平洋のハワイ群島などの産物を調査して見れば、どこでも生物の進化を認めなければ到底説明の出來ぬ事實を澤山に發見する。これらは略するが、單にここに述べた二群島の鳥類だけに就いて考へても、生物の種屬は漸々進化するものとすれば、總べての現象が天然普通の手段によつて生じた有樣を推察し理解することが出來るが、進化論を認めなければ悉く不思議といふだけで少しも理窟は解らぬ。且實際に調査した結果は何時も進化論を基として推察し、豫期した所と全く符合することなどを見れば、如何してもこの論を正確なものと認めざるを得ない。

 

進化論講話 丘淺次郎 第十二章 分布學上の事實(3) 二 マダガスカル島とニュージーランド島

 

    二 マダガスカル島とニュージーランド

 

Gienkourui

[擬猴類の一種]

[やぶちゃん注:以上は底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像を補正して示した。]



 地圖を開いて見るに、深い海によつて大陸から隔てられた大きな島はたゞ二つよりない。一は卽ちアフリカの東に當るマダガスカル島で、他は卽ち太平洋の南部にあるニュージーランド島であるが、この島の動物を調べて見ると、いづれも他に類のない珍らしいものばかりである。先づマダガスカルの方に就いていへば、この島から一番近い大陸は無論アフリカであるが、アフリカ産の鳥獸で、こゝにも居るものは殆ど一種もない。如何なる獸が住んで居るかと見れば、總べて擬猴類[やぶちゃん注:「ぎこうるい」。]といふ目に屬する者で、その著しい例を擧げれば、狐猿といふて狐に猫の皮を被せ、これに猿の手足を附けたやうな獸、指猿というて手足の指の細長い、目の大きな大鼠のやうな獸などであるが、この目に屬する獸類は他には何處に産するかといふに、對岸のアフリカではなくて却つて遙か遠く隔たつた東印度の諸島である。尤も東印度の方では他の獸類が澤山に居るゆから、この島に於ける如くに盛に蔓延つて[やぶちゃん注:「はびこつて(ばびこって)」。]は居ない。元來この擬猴類と稱する目はあまり種類が多くない上に、その分布の區域もマダガスカルと東印度とに限られ、その中でも東印度の方にはあまり澤山にない位ゆえ、今日この奇態な獸類の全盛を極めて居る處は全くこの島ばかりである。

[やぶちゃん注:「擬猴類」哺乳綱曲鼻猿亜目キツネザル下目 Lemuriformes のコビトキツネザル上科コビトキツネザル科 Cheirogaleidae、及びキツネザル上科キツネザル科 Lemuridae(ワオキツネザル属ワオキツネザル Lemur catta が著名)・イタチキツネザル科 Lepilemuridae・インドリ科 Indridae(タイプ種:インドリ属インドリ Indri indri)、さらにアイアイ下目アイアイ科 Daubentoniidae(タイプ種:アイアイ属アイアイ Daubentonia madagascariensis)であるが、以上の種群は孰れもマダガスカル島及びその周辺の島々にのみ棲息する固有種であるから、丘先生の叙述にはどうしても、同じ曲鼻猿亜目 Strepsirhini で、上記の連中と共通の祖先から進化したと考えられるロリス下目 Loriformes に属するロリス科 Loridae(スローロリス属のタイプ種 Nycticebus coucang がよく知られる)を是が非でも加えないといけない。彼らは、マダガスカルにはいないが、バングラデシュ・アッサムからベトナム・マレー半島・ジャワ島・ボルネオ島などの「東印度の諸島」、東南アジアに分布するからである。同下目のガラゴ科 Galagonidae を入れてもよいが、これはアフリカ大陸にのみ分布するので、正直、援護射撃には全くならないのである。]

Ootorinotamago

[大鳥の卵三種 (小いのは普通の鷄卵)]

[やぶちゃん注:これは講談社学術文庫のものを用いた。]

 

 尚その他この島には近い頃まで非常な大鳥が生活して居つた。千六百年代に西洋人が貿易のためにこの島に來た頃に、土人が時々周圍が三尺もあつて、六升も入る位な大きな卵の殼を持つて、酒を買いに來るので、驚いて歸國の後話したが、誰も信ずるものが無かつた所、今より六十年程前、完全な卵の殼を一つヨーロッパに持つて歸つた人があつたので、愈々確となり、骨骼の方は十分完全な標本はないが、卵の方はその後幾つも採れてパリーの博物館だけにも五つ陳列してある。

[やぶちゃん注:絶滅した鳥綱エピオルニス目エピオルニス科エピオルニス属 Aepyornisウィキの「エピオルニスによれば、『マダガスカル島に』十七『世紀頃まで生息していたと考えられている地上性の鳥類。非常に巨大であり、史上最も体重の重い鳥であったと言われ』る。『マダガスカル島の固有種で』、『かつては無人島であったマダガスカル島で独自の進化を遂げ繁栄していたが』、二千年ほど『前からマダガスカル島に人間が移住・生活するようになると、狩猟や森林の伐採など環境の変化によって生息数が急速に減少し、最終的に絶滅してしまった。ヨーロッパ人がマダガスカル島に本格的に訪れるようになった』十七『世紀には既に絶滅していたと言われるが』一八四〇『年頃まで生存していたとする説もある』。『翼が退化しており、空を飛ぶことは全くできなかった』『頭頂までの高さは』三~三・四メートル、体重は推定四百から五百キログラムもあり、ダチョウを遙かに大きく上回っていた(ダチョウは大きい個体でも身長は約二・五メートルで体重は百三十五キログラム程)。『また、卵も巨大であり、現在知られている最大の卵の化石は長さ約』三十三センチメートル、直径約二十四センチメートルで、ダチョウの卵(長さ約十七~十八センチメートル)の『倍近くもある。また卵の殻の厚さは』三~四ミリメートル、重さは約九~十キログラム(ダチョウの卵で約七個相当、鶏卵換算で約百八十個分)『と推定されている』とある。なお、次段に出るジャイアントモア(Giant Moa)も参照。そちらの方が、身長ではより高く、最も背の高い鳥はそちらとなる(頭頂部までの高さは約三・六メートルあったと推定されている)。]

 ニュージーランド島の方は大陸から隔たることが更に遠いが、こゝには獸類は一種も産せず、鳥類・蜥蜴類も餘程奇態なものばかりで、孰れも他國のものとは全く違ふ。「鴫駝鳥」のことは前にも述べたが、鷄位の鳥で翼は殆ど全く無く、羽毛も普通の鳥の毛よりも寧ろ鼠などの毛に似て居る。この外に今は絶えてしまつたが、近い頃まで尚幾種か翼のない大きな鳥が居たが、その立つて居るときの高さが二間[やぶちゃん注:三・六四メートル弱。]以上もある。初めてその骨を發見したのは八九十年前であるが、その後完全な骨骼が幾つも掘り出され、今では二三の博物館に陳列してある。土人間には先祖がこの大鳥と苦戰をした口碑が殘つて居るが、骨や卵殼の具合から見ると、極めて近い頃まで生存して居たものらしい。また蜥蜴の類には「昔蜥蜴」と名づける者があるが長さは二尺以上もあり、形は蜥蜴の通りであるが、解剖して見ると、鰐に似た處も、蛇に似た處も、また龜に似た處もあり、實にこれら四種の動物の性質を兼ね具へた如くに見える。尚奇妙なる點は、左右兩眼の外に頭の頂上の中央に一つ眼がある。尤も之は小いもの故、實際の役には立たぬやうであるが、構造からいへば確に目に違ひない。ニュージーランド産のものは、皆かやうな奇態なものばかりで、他の國々に居るやうな類は、一種も見出すことが出來ぬ。

[やぶちゃん注:『「鴫駝鳥」のことは前にも述べた』直前の段にも出たが、「鴫駝鳥」(しぎだちやう(しぎだちょう))はニュージーランド固有種(国鳥)で「飛べない鳥」と知られる、鳥綱 Aves 古顎上目Palaeognathae キーウィ目 Apterygiformes キーウィ科Apterygidae キーウィ属 Apteryx のキーウィ(Kiwi)類の旧和名。「第九章 解剖學上の事實 一 不用の器官で既出既注。

「近い頃まで尚幾種か翼のない大きな鳥が居た」絶滅した鳥綱ダチョウ目モア科オオモア属ジャイアントモア(和名:オオゼキオオモア/英名:Giant MoaDinornis maximus。参照したウィキの「ジャイアントモアにはDinornis maximusDinornis robustusDinornis novaezealandiaeDinornis struthioides の四つ(四種かどうかは怪しい。というよりもシノニムが私には疑われる)を挙げてはある。『鳥類ダチョウ目モア科に属し、頭頂までの高さは』大きなで『最大で約』三・六メートル、体重は二百五キログラム『ほどであったと推定されている。現存する最も大きな鳥であるダチョウよりもはるかに巨体であり、絶滅種を含め』ても、『世界で最も背の高い鳥であったとされる』(最も重いのは前に出した。『一度の産卵数は』二~四『個といわれ、また』、『長いくちばしの先が下に曲がっていた。明確な性的二型性を持ち、オスよりもメスのほうが大型で、高さで』一・五『倍、重さで』二・八『倍程度の差があったとされる』。『自然環境の温暖化や繁殖力の低さ、移住したマオリ族による乱獲(砂嚢に小石を溜める習性を利用し、焼け石を呑ませて殺す)によって』、一五〇〇『年代よりも前には絶滅していたと推測される』。『「モア」の呼称の由来については、ヨーロッパ人が原住民(モア・ハンターと呼称されるマオリ人以前の原住民)にモアの骨を集めさせた折に「もっと骨をよこせ」(More bones!)と言ったのを、原住民が鳥の名前と勘違いしたのだと言う説を始め、幾つかの巷説が存在する。ちなみにマオリ人はこの鳥の仲間を「タレポ」と呼んでいた』という。

「昔蜥蜴」爬虫綱喙頭(かいとう)(ムカシトカゲ)目ムカシトカゲ科ムカシトカゲ属 Sphenodon で、現在、Sphenodon punctatusSphenodon guntheri の二種が生存しているが、今一種の Sphenodon diversum は一九七〇年代に絶滅してしまった。小学館の「日本大百科全書」によれば、本種は三畳紀・ジュラ紀に栄えた喙頭類の唯一の遺存種で、「生きている化石」と言われる。かつてはニュージーランド全島に分布していたが、人間が持ち込んだネズミ・ネコなどの野生化によって圧迫され、現在はクック海峡のステフェンス島など、北島周辺の小島にのみ棲息している。全長六十~七十センチメートルで、頭部は大きく胴はずんぐりとしており、尾は後半部で側扁する。皮膚は敷石状の細鱗で覆われており、背中線上には飾り鱗が並んでいる。頭骨は普通に蜥蜴(とかげ)型であるが、頭頂部には退化しているように見えるレンズと網膜を備えた頭頂眼(三目の眼)が存在する。この頭頂眼は感光器官と考えられるが、他のトカゲ類では全く痕跡的である点で彼らの原始性が窺われる。肋骨中央部には鳥類や絶滅爬虫類と同様の鉤状を成した突起があり、また、腹部にはワニと同様の軟骨性の腹肋骨を有する。尾は自切し、再生するが、切断箇所は尾椎骨(びついこつ)の中央部である。雄は外部交接器を欠き、総排出腔による接触で体内受精する。産卵数は五から十五個で、二十年ほどかけて成熟し、寿命は百年を超すとも言われている。ミズナギドリなどの巣穴に同居し、夜間に行動してカタツムリ・昆虫などを捕食摂餌する。行動は鈍いが、低温でも活動する。現在はニュージーランド政府機関の厳重な保護下にある、とある。ウィキの「ムカシトカゲの記載も非常に細かく、そこに『幼体の吻端には、ワニ目・カメ目と同様の卵角(有鱗目のような卵歯ではない)があり』、『これで卵殻を突き破る』とある。]

 斯くの如く世界中で、最も奇妙な、他と變つた動物を産する處は何處かといへば、無論マダガスカルニュージーランドとであるが、中にもニュージーランドの方には獸類が一種も居ないといふのは、更に奇妙である。然も獸類が住めぬ譯では無く、今では豚も、羊も、大も、猫も、澤山にあり、豚の如きは野生で無暗に繁殖し、農業の邪魔となる程になつた。所で地圖によると、この二つの島は地理上にも他に類のない位置を占めて居る。世界中で稍々大きな島といへば、悉く大陸と接近したものばかりで、大陸との間の海も淺いものであるが、この二島だけは大陸との間の海が甚だ深くて、たとい海水が千尋[やぶちゃん注:既注。水深に用いる場合は一尋(ひろ)は一・八一六メートルであるから、千八百十六メートルとなる。マダガスカルとアフリカ大陸を隔てるモザンビーク海峡は幅は最も狭い所でも四百キロメートルあり、最深部は実に凡そ三千メートルもある。]減じても、大陸と連絡することはない。倂し地質學上及びその他の點から考へると、一度は大陸と續いて居たものらしい形跡があるが、間の海が斯く深いのから推せば、その續いて居たのは餘程古いことで、日本がアジヤから離れて島となつた時代などに比べれば、何百倍も昔でなければならぬ。若し實際かやうであつた者と假定したならば、この二島に産する動物の奇妙なことは、生物進化の理によつて、略々了解することが出來る。

[やぶちゃん注:現在のインドとアフリカ大陸に挟まれていたゴンドワナ大陸の一部が、モザンビーク造山帯の造山運動の影響を受けて分離し、原マダガスカルが出現したのは約六千五百万年前と考えられている。それに対し、原ユーラシア大陸の東周縁部が海洋プレートの形成によって完全分離し、日本列島のベースになったのは、たかだか千五百万年以降(それ以前は本邦の地層の堆積物が淡水性であることが確認されており、大地溝帯である原日本海はまだ巨大な淡水湖だったと考えられている)である。]

 動物の種屬が總べて共同の先祖から降つたものとすれば、獸類でも鳥類でも何時の中にか漸々出來た譯故、その以前にはまだ世に無かつたに違ひないが、獸類のまだ出來なかつた頃か、または獸類がそこまで移つて來ない前に、島が大陸から離れたならば、後に大陸の方で獸類が追々出來ても、その島には移ることが出來ず、遂にそのまゝ獸類なしに濟む筈である。ニュージーランドの如きは、恐らく斯かる歷史を經て來たのであらう。また擬猴類と稱する目は、獸類の中でもカンガルー族の次に最も古い類で、化石を調べて見ると、カンガルー族に次いで出て來るが、世界上にまだ他の高等な獸類が出來ず、僅に狐猿の族が蔓延つて居た頃に、島が大陸から離れたとすれば、その島には、後に至つても他の獸類が入り來ることなく、初めその島に居たものの子孫だけで、獨立に進化して行く筈である。マダガスカルは恐らくかやうにして出來たものであらう。その頃アフリカの方に續いて居たか、印度の方に續いて居たかといふやうな詳なことは素より解らず、今後地質調査や海底測量が進んでもたゞ多少推察の手掛りを得るに過ぎぬであらうが、孰れにしても不思議ならざる天然の方法によつて、今日の有樣に達したものと考へることが出來る。

[やぶちゃん注:「その頃アフリカの方に續いて居たか、印度の方に續いて居たかといふやうな詳なことは素より解らず」前段の注で私が示した通り、マダガスカルは両方に続いていたのである。だからこそ、マダガスカルにはいないが、共通の祖先から進化したと考えられるロリス下目 Loriformes に属するロリス科 Loridaeがバングラデシュ・アッサムからベトナム・マレー半島・ジャワ島・ボルネオ島などの「東印度の諸島」、東南アジアに分布するのであり、まただからこそ、アフリカ大陸のみに同下目のガラゴ科 Galagonidae が分布するのである。]

 以上は無論單に想像で、到底直接に證據立て得べき性質のことではないが、地殼の變動と生物の進化とを認めさへすれば、現今見る所の不思議な動物の分布も、自然の經過によつて出來得るものといふだけが解り、詳細の點は知れぬながらも、大體の理窟は幾分か察することが出來る。若し之に反して生物は萬世不變のものとしたならば、こゝに述べた如き奇妙な分布の有樣は、いつまで過ぎてもたゞ不思議といふだけで、少しも譯の解るべき望もない。

 

進化論講話 丘淺次郎 第十二章 分布學上の事實(2) 一 南アメリカとアフリカとオーストラリヤ

 

     一 南アメリカアフリカオーストラリヤ

Minamiamerikakoyudoubutusou

[南アメリカに固有な動物

(一)ヤマ (二)なまけもの (三)大蟻食 (四)アルマヂロ]

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像を使用。この挿絵は講談社学術文庫版では掲載されていない。各動物の注は本文注で行う。]

 

 南アメリカは大部分熱帶にあるが、南の方は溫帶で最も南の端は殆ど北に於けるカムチャッカと同じ緯度まで達して居るから、その間には氣候の隨分違つた處があり、樹木が繁茂して人の入れぬやうな森林もあれば、薪にする木がないから據なく馬糞を燃す程の廣い平原もあつて、土地の模樣は實に種々であるが、この地に産する動物界を見ると、全部に通じて一種固有の特色がある。その著しいものを擧げて見れば、前頁の圖に示した如く、森林の中には、「なまけもの」というて、猿の如き形を有し、四足の爪を樹の枝に懸け、背を下に向けて步き、木の葉を食する類があり、平地には「アルマヂロ」というて、狸位の大きさで、全身に堅牢な甲を被り、土を掘つて蟲を食ふ類があり、山の方には「ヤマ」・「アルパカ」などといふ駱駝と羊との間の如き獸類が居る。また大蟻食(おほありくひ)というて長い舌を以て蟻のみを舐めて食うて居る相應な大獸が居る。その他猿類も居るが東半球の猿とは全く違ふて、別の亞目に屬する。鳥類にはアメリカ駝鳥などが最も有名である。總べてこれらの類には多くの種類があつて、各々適宜な處に住んで居て、その地方では皆普通なものである。

[やぶちゃん注:「なまけもの」哺乳綱異節上目有毛目ナマケモノ亜目 Folivora に属し、現生種はミユビナマケモノ科 Bradypodidae のミユビナマケモノ属ノドチャミユビナマケモノ Bradypus variegatus・ノドジロミユビナマケモノ Bradypus tridactylus・タテガミナマケモノ Bradypus torquatus の三種、フタユビナマケモノ科 Megalonychidae のフタユビナマケモノ属ホフマンナマケモノ Choloepus hoffmanni・フタユビナマケモノ Choloepus didactylus の二種の計五種。図のそれは前肢の指が三本あるので(フタユビナマケモノ科の二種は前肢の指が二本で後肢のそれが三本)、ミユビナマケモノ科の孰れかである。

「アルマヂロ」哺乳綱獣亜綱異節上目被甲目 Cingulata アルマジロ科 Dasypodidae の属する種群で現生種は一目一科。見た目は爬虫類的である。ウィキの「アルマジロ」によれば、『北アメリカ南部からアルゼンチンにかけて分布し』、『最大種はオオアルマジロ』(Chlamyphoridae亜科オオアルマジロ属オオアルマジロ Priodontes maximus)で体長は七十五~一メートルに達し、尾長は五十センチメートル、体重三十キログラム。最小種はヒメアルマジロ(アルマジロ科ヒメアルマジロ属ヒメアルマジロ Chlamyphorus truncatus)で体長十センチメートル、尾長三センチメートル、体重百グラムである。『全身ないし背面は体毛が変化した鱗状の堅い板(鱗甲板)で覆われている。アルマジロ Armadillo)という英名はスペイン語で「武装したもの」を意味する armado に由来する。時には銃弾を跳ね返すほどの硬度も有して』おり、『敵に出会うと、丸まってボール状になり身を守ると思われているが、実際にボール状になることができるのはミツオビアルマジロ属 Tolypeutes の』二『種だけである』。『夜行性で、主に嗅覚に頼って餌を探し、シロアリなどの昆虫やミミズ、カタツムリ、ヘビなどの小動物を食べる。敵に襲われると』、『手足を引っ込め、硬い甲羅で身を守る。地下に穴を掘って巣を作り、暑い日中は巣穴の中で眠って過ごす。前足には長く鋭い爪があり、穴掘りに適した体の構造になっている』とある。挿絵のそれはちゃんと描かれていない可能性を視野に入れて、思うに、北米大陸南部から南米大陸にかけてアルマジロ科の中でも最も広範囲に棲息している、則ち、最も目につきやすく、知られているココノオビアルマジロ Dasypus novemcinctus ではないかと私は推測する。本種は背部に八本から十一本の帯状の部位を持つことから標準値の九本で「九帯(ここのおび)」の和名がついたとされているが、尾部の有意に下がる位置までの幅のある帯状甲を数えると、確かに十一あると見えるからである。

「ヤマ」哺乳綱偶蹄目核脚亜目ラクダ科ラマ属リャマ Lama glama。「ラマ」とも音写する。近縁の動物として、次に掲げるアルパカ・ビクーニャ(ラクダ科ビクーニャ属ビクーニャ Vicugna vicugna)・グアナコ(ラマ属グアナコ Lama guanicoe)がおり、グアナコを家畜化したものがリャマと考えられてはいる(確かに似ている)。但し、現地ではこれらの動物よりもリャマの飼育数が圧倒的に多い。

「アルパカ」ラクダ科ビクーニャ属アルパカ Vicugna pacos。初めての海外旅行のペルーでしっかり唾を吐きかけられたが、可愛い奴だ。

「大蟻食(おほありくひ)」哺乳綱有毛目アリクイ科オオアリクイ属オオアリクイ Myrmecophaga tridactyla。概ね、中米ホンジュラス以南から南アメリカ中部までに棲息する。ウィキの「オオアリクイ」によれば、体長一メートルから一・二〇メートル、尾長六十五~九十センチメートル、体重十八~三十九キログラムで、『吻端を除いた全身が粗く長い体毛で被われる。尾の体毛は』三十『センチメートルに達する』。『喉や胸部から肩にかけて白く縁取られた黒い斑紋が入る』。『尾も含めた下半身の体毛は黒や暗褐色』。『吻端は非常に長く、嗅覚も発達している。舌は細長く、最大で』六十一『センチメートルに達する』。『舌は唾液腺から分泌された粘着質の唾液で覆われる。眼や外耳は小型だが』、『聴覚は発達している。前肢の指は』五『本で、湾曲した』四『本の大きな爪があり特に』第二指及び第三指で顕著であるが、第五指は退化しており、『外観からは』、『わからない』。『代謝能力は低く、体温は摂氏三十二・七度と低い。二〇〇三年に『発表されたミトコンドリアDNA16S rRNAの分子系統解析では、本属とコアリクイ属Tamanduaは』千二百九十万年前に『分岐したという解析結果が得られ』ている。『低地にある草原(サバンナ、リャノなど)、沼沢地、開けた森林などに生息する』。地表に棲み、単独生活をする。『昼間に活動することもあるが、人間による影響がある地域では夜間に活動する』。『地面に掘った浅い窪みで』一『日あたり』十四~十五『時間は休む。寝る時は体を丸め、尾で全身を隠すように覆う。移動する時は爪を保護するため、前肢の甲を地面に付けて歩く』。『泳ぎは上手い。外敵に襲われると』、『尾を支えにして後肢だけで立ちあがり、前肢の爪を振りかざし相手を威嚇する』。『それでも相手が怯まない場合は爪で攻撃したり』、『相手に抱きつき』、『締めあげる』。『天敵としてはジャガーなどが挙げられる』。『食性は動物食で、主にアリやシロアリを食べるが、昆虫の幼虫、果実などを食べることもある』。『匂いを頼りに巣を探して前肢の爪で破壊する。その後、舌を高速で出し入れ』(一分間に百五十回)』『して捕食する』一『日で約』三万『匹のアリやシロアリを食べると推定されて』いるが、一『つの巣から捕食する量は少なく』、一『回の捕食に費やす時間も平均で』一『分ほど』と意想外に非常に短く、『複数の巣を徘徊し』ては摂餌を行う。これは、一回の捕食量を少なくすること、複数の巣を徘徊すること、によって『行動圏内の獲物を食べ尽くさないようにしていると考えられている』。直接、水を飲む『こともあるが、水分はほとんど食物から摂取する。属名Myrmecophagaは「蟻食い」の意』。繁殖様式は胎生。妊娠期間は』百四十二~百九十日で、一回に一頭の『幼獣を後肢だけで直立しながら産む』。『授乳期間は約』六『か月』で、『幼獣は生後』一『か月ほどで歩行できるようになる。生後』六~九『か月は母親の背中につかまって過ごす』。生後』三『年で性成熟する』。『寿命は約』十六『年と考えられている』。『食用とされたり、皮革が利用されることもある』。『薬用になると信じられている地域もある』。『生息地の破壊、攻撃的な動物と誤解されての駆除、毛皮用や娯楽としての狩猟などにより生息数は減少している』。『一方で、危機を感じた際には、前足にあるカギ爪をふりかざして防衛行動に出ることがあり』、二〇一四年には『ブラジルで猟師』二『名が』(別々な事例)『死亡した例がある』とある。

「猿類も居るが東半球の猿とは全く違ふて、別の亞目に屬する」現行では亜目ではなく、下目で分けられており、これらは哺乳綱霊長(サル)目直鼻猿亜目真猿下目広鼻小目 Platyrrhini に属する広鼻猿類で、南米に棲息するグループであることから、これらの群を総称して一般に「新世界ザル」(New World monkeyと呼んだりもする(これに対し、ユーラシア及びアフリカに分布する同じ直鼻猿亜目 Haplorrhini でも狭鼻小目 Catarrhini に属する狭鼻猿類の内、ヒト上科 Hominoide に属する類人猿(テナガザル・オランウータン・ゴリラ・チンパンジー類)及びヒトを除いた、オナガザル上科Cercopithecoidea に属するオナガザル亜科 Cercopithecinae・コロブス亜科 Colobinae のオナガザル類(例:マントヒヒ・ニホンザル・マンドリル等)とコロブス類(例:テングザル・ハヌマンラングール・キンシコウ等)を総称して「旧世界ザル」(Old World monkey)と呼ぶ)。以下、ウィキの「広鼻下目」より引く。クモザル(クモザル(蜘蛛猿)科 Atelidae)・マーモセット(オマキザル科マーモセット亜科マーモセット属 Callithrix)など、約五十種が現生する。『鼻の穴の間隔が広く、穴が外側に向いていること』を特徴とする。『アジアやアフリカにすむ狭鼻下目(旧世界ザル)とは独立して進化したが、両者には社会構造や習性などに共通点が見られる。これは平行進化によるものである。たとえば、旧世界ザルのコロブスと、新世界ザルのクモザルは、ともに前肢の親指が退化してしまっている。旧世界ザルのフクロテナガザル』(狭鼻下目ヒト上科テナガザル科フクロテナガザル属フクロテナガザル Symphalangus)『と新世界ザルのホエザル』(真猿下目広鼻小目クモザル科ホエザル亜科ホエザル属 Alouatta)『は、発声器官が発達し、非常に大きな声を発する。さらに、旧世界ザルのチンパンジー・ヒトと、新世界ザルのオマキザル』(広鼻下目オマキザル上科オマキザル科オマキザル亜科オマキザル属 Cebus)『は、知能がたいへん発達しており、道具を使用する。以上のように、多くの平行進化の例が、旧世界ザルと新世界ザルの間で見られる』。『新世界ザルは中新世にはアジア・アフリカに住む旧世界ザルとは既に分岐していた。この時代の南米大陸は海によって周囲から隔絶された島大陸であった。そのため新世界ザルの祖先は海を経由して他の大陸から南米に渡ってきたと考えられる。小型のサル類ならば流木等に乗って漂着できた可能性も高いためである。当時、北米大陸においてはサル類が既に絶滅していた。そのため南米の新世界ザルの祖先はアフリカ大陸から大西洋経由で南米大陸に渡って来たとの説が有力であるが(アフリカ大陸と南米大陸は当時は既に分裂していたが、両大陸間の大西洋は現在よりは狭く距離は近かった)、北米のサル類が絶滅する直前に南米に渡ってきて進化した可能性もある』。『霊長類真猿下目の狭鼻下目(旧世界ザル)と広鼻下目(新世界ザル)とが分岐したのは』三千~四千『万年前と言われている』。『広鼻下目のヨザル』(ヨザル(夜猿)科 Aotidae)は一色型色覚であるが、『ホエザルは狭鼻下目と同様に』三『色型色覚を再獲得している』『とされている。他方、ホエザルは一様な』三『色型色覚ではなく、高度な色覚多型であるとの指摘もある』。このヨザル及びホエザル類を除き、『残りの新世界ザル(広鼻下目)はヘテロ接合体のX染色体を』二『本持つメスのみが』三『色型色覚を有し、オスは全て色盲である。これは』、『狭鼻下目のようなX染色体上での相同組換えによる遺伝子重複の変異を起こさなかったためである』とある。

「アメリカ駝鳥」鳥綱レア目レア科レア属レア Rhea Americana とダーウィンレア Rhea pennata の二種(前者は五亜種)。アルゼンチン北東部や東部・ウルグアイ・パラグアイ・ブラジル・ボリビアに棲息する。ダチョウ(ダチョウ目ダチョウ科ダチョウ属ダチョウ Struthio camelus)に非常によく似ているが、全くの別種である。頭高は一・二~一・五メートル、体重二十~二十五キログラムであるが、最大三十キログラムほどまで達し、南米最大の鳥である(ダーウィンレアはやや小さめ)。羽毛は灰色を呈し、腰や翼下面は白い。参照したウィキの「レア(鳥類)」によれば、『長い首と長い脚、灰褐色の羽毛を持つ』『大型の走鳥類で』、『飛べない鳥ではあるが』、『翼は大きく、走っているときには帆のように打ち振られる』とあり、ますます見た目は駝鳥ではある。]

Afurikadoubutusou

[アフリカに固有な動物

(一)麒麟 (二)羚羊 (三)駝鳥 (四)河馬]

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像を使用。この挿絵は講談社学術文庫版ではやはり掲載されていない。各動物の注は同じく本文注で行う。]

 

 大西洋を東へ渡つて、アフリカに行つて見ると、動物界が全く違ふ。アフリカも大部分は熱帶であるが、南の方は溫帶で、日本などと氣候は餘り違はぬ。アフリカといへば直に沙漠を聯想するが、實際は深い森もあり、廣い野原もあり、單に地形からいへば、南アメリカと大同小異であるに拘らず、そこに産する動物には一種として南アメリカと共通なものはない。アフリカ産の著しい動物は獅子・象・河馬・騏麟・駱駝・大猩々[やぶちゃん注:「だいしやうじやう(だいしょうじよう)」。「ゴリラ」のこと。]・狒々[やぶちゃん注:「ひひ」。]・羚羊[やぶちゃん注:「れいやう(れいよう)」。学術文庫版では『かもしか』とルビされているが、これは厳密には非常な誤りである。後注を必ず参照されたい。以下も「れいよう」で読まれたい。]・穿山甲[やぶちゃん注:「せんざんこう」。]・駝鳥の類で、特に羚羊の如きは何百種もあるが、これらの動物は必ずしも南アメリカに移しては生活が出來ぬといふやうなものではない。生活の有樣を比較して見ると、アメリカ駝鳥と眞の駝鳥とは善く似たもので、その住處を取り換へても、差支へは餘りなからうかと思はれ、アルマヂロも穿山甲も、爪が發達して地を掘り餌を搜すもの故、略々同樣な處に生活が出來さうである。その他玲羊をラプラタの平原に移し、ブラジルの猿を西アフリカの森に移しても、氣候や食物の上には不都合もない譯であるが、實際に於ては、太洋一つを隔てれば、同樣の地勢の處に同樣の生活を營んで居る動物が皆別の目、別の科に屬するものである。

[やぶちゃん注:「獅子」 哺乳綱食肉目ネコ科ヒョウ属ライオン Panthera leo

「象」ここは哺乳綱長鼻目ゾウ科アフリカゾウ属アフリカゾウ Loxodonta africana

「河馬」哺乳綱鯨偶蹄目カバ科カバ属カバ Hippopotamus amphibius

「騏麟」鯨偶蹄目反芻亜目 Pecora 下目キリン科キリン属キリン Giraffa camelopardalis

「駱駝」ここは哺乳綱ウシ目ラクダ科ラクダ属ヒトコブラクダ Camelus dromedarius

「大猩々」哺乳綱霊長目直鼻亜目 Simiiformes 下目 Catarrhini 小目ヒト科ゴリラ属ニシゴリラ(タイプ種)Gorilla gorillaとヒガシゴリラGorilla beringei

「狒々」霊長目直鼻猿亜目高等猿下目狭鼻小目オナガザル科オナガザル亜科ヒヒ属 Papio

「羚羊」アンテロープ(Antelope)。哺乳綱獣亜綱ウシ目(旧偶蹄目)ウシ亜目ウシ科 Bovidaeの哺乳類の内、ウシ亜科 Bovinae・ヤギ亜科 Caprinae を除いたものの総称。一般には、乾燥した草原を棲息地とし、脚は細長く、走るのが速い。角の形状はさまざまで、のみが有したり、♂♀ともにある種もある。アフリカからインド・モンゴルにかけて分布する。インパラ(ウシ科インパラ属インパラ Aepyceros melampus)・エランド(ウシ亜科エランド属エランド Taurotragus oryx)・ヌー(ウシ科ハーテビースト亜科 Alcelaphinae ヌー属のオグロヌー Connochaetes taurinus 及びオジロヌー Connochaetes gnou の二種)・オリックス(ウシ科ブルーバック亜科 Hippotraginae オリックス属オリックス Oryx gazella)・ガゼル(ウシ科ブラックバック亜科 Antilopinaeブラックバック族ブラックバック亜族ガゼル属 Gazella)などがそれであるが、日本では誤ってウシ亜目ウシ科ヤギ亜科 Caprinae のカモシカ類(ヤギ族 Caprini 以外のサイガ族 Saigini・シャモア族 Rupicaprini・ジャコウウシ族 Ovibovini のに属する種群の総称)と混称されてきた。「かもしか」は漢字表記で「氈鹿」の他に「羚羊」が当てられた結果であるが、先に述べた通り、羚羊(レイヨウ・アンテロープ)の定義はヤギ亜科 Caprinae を除いているので、〈カモシカは羚羊(レイヨウ)ではない〉のである。

「穿山甲」ここは哺乳綱ローラシア獣上目有鱗(センザンコウ)目センザンコウ科 Manidae(現生種は一目一科)の内、インドから東南アジアにかけて棲息するセンザンコウ属 Manis四種を除いた、アフリカセンザンコウ類のオオセンザンコウ Manis gigantea・サバンナセンザンコウ Manis temminckii・キノボリセンザンコウ Manis tricuspis・オナガセンザンコウ Manis tetradactyla の四種となろう。全長約一メートル、尾長は四十センチメートル内外。体は鱗で蔽われ、一見、爬虫類を思わせる。歯を持たず、長い舌を使ってアリ・シロアリを舐め取る。夜行性で土中や岩の間の穴に営巣する。危険な事態に遭遇すると、体を球状に丸める性質がある。

「駝鳥」ダチョウ目ダチョウ科ダチョウ属ダチョウ Struthio camelus

ラプラタ」ここはアルゼンチンとウルグアイの間を流れるラ・プラタ川(スペイン語:Río de la Plata:カタカナ音写:リオ・デ・ラ・プラタ)の氾濫原を中心とした広大な平原を指す。]

 

Osutoraria

[オーストラリヤ地方に固有な動物

(一)大カンガルー (二)エミウ (三)鴫駝鳥]

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像を使用。この挿絵は講談社学術文庫版ではやはり掲載されていない。各動物の注は同じく本文注で行う。]

 

 更に印度洋を越えてオーストラリヤに行つて、その動物界を見ると、この度はまた實に驚くべき相違を發見する。オーストラリヤ大陸は南半球の熱帶から溫帶に跨り、北端の木曜島邊は眞の熱帶であるが、南部のシドニーメルボルン等の大都會のある處は、極めて氣候の好い處であるから、氣候の點からいへば南アメリカアフリカと著しい相違はない。然るにこの地に産する獸類は孰れを見ても總べてカンガルーと同樣に、子を腹の袋に入れて育てる類ばかりで、他の地方では決して見ることの出來ぬものである。この類は通常合して一目としてあるが、その中の種類を調べると、實に種々雜多の形をしたものがあつて、殆ど他の大陸の獸類の各種を代表して居る如くで、栗鼠(りす)の如くに巧に木に登つて果實を食ふものもあり、鼠の如くに種子を齧(かじ)るものもあり、「むささび」の如くに前足と後足との間に皮膚の膜があつて、空中を飛んで行くものもあり、猿の如くに四足を以て枝を握るものもあり、狼の如き齒を有する猛獸もあり、河獺(かはうそ)の如き蹼(みづかき)を具へて水中を泳ぐものもあつて、その種類は到底枚擧することは出來ぬ。圖に掲げてある普通の大カンガルーは廣い野原に住んで草などを食ふもの故、習性からいへば、先づ牛・羊などに似たもので、小形のカンガルーは略々兎の代りともいふべきものである。その他獸類でありながら、卵を生むので、非常に有名な「鴨の嘴」もたゞこの地方のみに産する。また鳥類も「エミウ」・「リラ鳥」・「塚造り」等を始として、殆ど他國には類のないものばかりで、河には角齒魚(第二六〇頁插圖參照[やぶちゃん注:これは先の「第九章 解剖學上の事實(4) 四 血管並に心臟の比較」の中で示した『肺魚類の一種』の図を指す。名称は後注を参照)といふ一種奇妙な肺を有する魚が居る。

[やぶちゃん注:「大カンガルー」「カンガルー」ここは言い方から、哺乳綱有袋上目双前歯(カンガルー)目カンガルー形亜目カンガルー上科カンガルー科カンガルー亜科カンガルー(マクロパス)属 Macropus としてよい。

「エミウ」鳥綱ヒクイドリ目ヒクイドリ科エミュー属エミュー Dromaius novaehollandiaeウィキの「エミューより引く。『オーストラリア全域の草原や砂地などの拓けた土地に分布している。周辺海域の島嶼部にも同種ないし近縁種が生息していたが、現生種の』一『種のみを除いて絶滅したとみられている』体高は約一・六~二メートル程で、体重は四十~六十キログラムと大きく重いが、『体重はヒクイドリ』(ヒクイドリ目ヒクイドリ科 ヒクイドリ属ヒクイドリ Casuarius casuarius:飛べない・世界一危険な鳥と知られ、インドネシア・ニューギニア・オーストラリア北東部の熱帯雨林に分布する。後脚の刃物のような鉤爪は人や犬を殺傷する力を持つ)『には及ばない。見た目はダチョウに似るが、ややがっしりした体躯で、頸から頭部に掛けても比較的長い羽毛が生えている。また、趾(あしゆび)は』三『本であり、先に丈夫な爪を備えている。幼鳥の羽毛には縞模様があるが、成長すると縞が消える。成鳥はオス、メスいずれも同様に全身の羽毛が灰褐色になるが、所々に色が剥げたり濃くなったりしている箇所があり、泥で汚れているかのように見える。エミューの羽はヒクイドリと同じく』、二本で一対という『特徴を持っている』。『翼は体格に比してきわめて小さく、深い羽毛に埋もれているため』、『外からはほとんど視認できない。ダチョウ、ヒクイドリ、レアななどと比べると、最も退化した形であり、長さは』約二十センチメートル、『先端には』一『本の爪が付いている』。『卵はアボカドのような深緑色で、長さは』十センチメートル程、重さは約五百五十~六百グラム、とある。

「鴫駝鳥」(しぎだちやう(しぎだちょう))はニュージーランド固有種(国鳥)で「飛べない鳥」と知られる、鳥綱 Aves 古顎上目Palaeognathae キーウィ目 Apterygiformes キーウィ科Apterygidae キーウィ属 Apteryx のキーウィ(Kiwi)類の旧和名。「第九章 解剖學上の事實 一 不用の器官で既出既注。

「栗鼠(りす)の如くに巧に木に登つて果實を食ふもの」双前歯目クスクス亜目 halangeroidea 科クスクス科 Phalangeridae のクスクス類か。但し、彼らは果実も食うが、主食は葉である種が多い。但し、次の「鼠の如くに種子を齧(かじ)るもの」も同じような感じで、丘先生は無論、完全に別種の生物種を想起されているわけだが、これだけでは種同定は困難である。しかも双前歯目クスクス亜目 Phalangeriformes に属する多様な小・中型の樹上動物種をオーストラリア区(オーストラリア及びニューギニア島・スラウェシ島域)では「ポッサム」(Possum)と呼び、ここに出る二種もその中に含まれるのでは、と私はちらりと思っている(何故、ちらりかというと、丘先生の「鼠の如くに種子を齧(かじ)るもの」というのは樹上性でない可能性があるからである。なお、ウィキの「ポッサム」によれば、『オーストラリアではポッサムのことをオポッサム』(Opossum)『ということがあり、北米ではキタオポッサム』(哺乳綱オポッサム目オポッサム科オポッサム亜科オポッサム属キタオポッサム Didelphis virginiana)『のことをポッサムということがある。しかし、オポッサムは分類学的にはオポッサム目オポッサム科で、同じ有袋類であるという以上には近縁ではない』とあるので注意が必要)。ところが、そのオーストラリア区でのポッサム(Possum)はクスクス科 Phalangeridae・リングテイル科 Pseudocheiridae・ブーラミス科 Burramyidae(総称ピグミーポッサム Pygmy Possum)・フクロミツスイ科フクロミツスイ Tarsipes rostratus(一属一種)・フクロモモンガ科 Petauridae・チビフクロモモンガ科ニセフクロモモンガ Distoechurus pennatus など三十種に及ぶので、同定は、これ、お手上げ万歳フクロのネズミという訳である。当初、「鼠の如くに種子を齧(かじ)るもの」は、形状から、コアラの近縁の地上性種である双前歯目ウォンバット科 Vombatidae を比定候補に考えたのだが、彼らはコアラ同様、植物の葉や根ばかり食っているので当てはまらない。

『「むささび」の如くに前足と後足との間に皮膚の膜があつて、空中を飛んで行くもの』恐らくは双前歯目フクロモモンガ上科フクロモモンガ科 Petauridae のフクロモモンガ属オーストラリア固有のマホガニーフクロモモンガ Petaurus gracilis であろう。樹間を通常三十メートル、最大で六十メートルまで滑空可能である。生物学的には全くの別系統であるムササビ(哺乳綱齧歯(ネズミ目リス亜目リス科リス亜科 Pteromyini 族ムササビ属 Petaurista

との外観上の類似性は収斂進化によるもの。

「猿の如くに四足を以て枝を握るもの」双前歯目 Vombatiformes 亜目コアラ科コアラ属コアラ Phascolarctos cinereus であろう。

「狼の如き齒を有する猛獸」ヒトが絶滅させてしまった哺乳綱獣亜綱有袋上目オーストラリア有袋大目フクロネコ目フクロオオカミ科フクロオオカミ属フクロオオカミ Thylacinus cynocephalus のことであろう。ウィキの「フクロオカミ」によれば、『オーストラリアのタスマニア島に生息していた、哺乳類・フクロネコ目の大型肉食獣』。一九三六年に絶滅した、(本「進化論講話」の初版は明治三七(一九〇四)年一月に東京開成館から発行され、底本はその新補改版の第十三版で大正一四(一九二五)年九月刊行である。まだ、その時には彼らは生きていたのである)。『タスマニアオオカミの別名があるほか、背中にトラを思わせる縞模様があることから、タスマニアタイガーとも呼ばれる。有袋類ではありながらオオカミにあたるニッチを占めている、いわば「袋を持つオオカミ」であり、収斂進化の代表例としてしばしば取り上げられる』。本種は四百万年前に『はじめて出現したが、フクロオオカミ科の他種の出現は中新世初期にまで遡り』、一九九〇『年代前半からこれまでに少なくとも』七『種の化石が、オーストラリア、クイーンズランド州北東部のローンヒル国立公園』『で見つかっている』。『見つかっている』七『の化石種のなかで最も古いのが』二千三百万年前に『出現したNimbacinus dicksoniで、それ以降の時代の同科の種よりは非常に小さかった』。最大種はThylacinus potensで、『タイリクオオカミほどの大きさにもなり』七『種のうちでは唯一』、『中新世後期まで生き延びた』。『更新世と完新世にかけては、本記事で扱うフクロオオカミが、多数ではないものの、オーストラリアとニューギニア全土に広く分布していたと考えられている』。『収斂進化の一例として挙げられる本種は北半球に生息するイヌ科』(食肉目イヌ型亜目イヌ下目イヌ科 Canidae)『の種と、鋭い歯や強力な顎、趾行性や基本的な体の構造など、様々な類似点を持っている。イヌ科の種が他所で占めているようなニッチ(生態的地位)を本種はオーストラリアにおいて占めていたため、それぞれ似通った特徴を獲得したのである。それにも関わらず』、『本種は、北半球のどんな』同形状・同生態の『捕食者とも遺伝的に近縁ではない』。『広い草原や森を主な生息地としていた』。『単独またはつがいで行動し、日中は木や岩の陰で過ごし、日が暮れてから狩りに出かけた。ワラビーなどの小型哺乳類を主に捕食していたと考えられている』。『もともとフクロオオカミは、オーストラリア大陸やニューギニア島を含めたオーストラリア区一帯に生息していたが』、三『万年前人類が進出してくると、人類やその家畜だったディンゴ』(イヌ科イヌ亜科イヌ族イヌ属タイリクオオカミ亜種ディンゴ Canis lupus dingo。と種を示し得るものの、事実上は「野犬」と同義である)『との獲物をめぐる競争に敗れ、人類の到達が遅くディンゴの生息しなかったタスマニア島のみに生き残ることになった。この状況は、タスマニアデビル』(フクロネコ目フクロネコ科フクロネコ亜科タスマニアデビル属タスマニアデビル Sarcophilus harrisii。私がタスマニアで撮った彼ら。)『同様であった』。『大航海時代が訪れ、ヨーロッパから入植者が住み着くようになると、彼らのヒツジなどの家畜を襲うフクロオオカミを目の敵にした』一八八八年から一九〇九年まで『は懸賞金がかけられ』、二千百八十四頭もの『フクロオオカミが虐殺されたという』。一九三〇年、『唯一と思われる野生個体が射殺され、次いでロンドン動物園の飼育個体が死亡し、絶滅したと思われたが』、一九三三年、『野生個体が再度捕獲。ホバートの動物園に移されるも』、一九三六年に『死亡し、絶滅となった』。

「河獺(かはうそ)の如き蹼(みづかき)を具へて水中を泳ぐもの」既出既注 の哺乳綱原獣亜綱単孔目カモノハシ科カモノハシ属カモノハシ Ornithorhynchus anatinus。現生種は一科一属一種。

「小形のカンガルー」ワラビー(wallaby)。これは先に示した有袋類(フクロネズミ目Marsupialia)のカンガルー科 Macropodidae に属する動物のうち、カンガルー類よりも小さな種に対して一般的に使われる名称で動物学的な分類ではないが、現地ではしばしば用いられ(タスマニアに旅した際には明らかに現地ガイドが「カンガルー」と「ワラビー」をあたかも種を区別するかのように使っていた。私の撮ったワラビの母子)、明確な定義付けはないものの、約三十種ほどをかく呼称している。ウィキの「ワラビー」によれば、『カンガルーに比べ、後ろ足が小さく尾が短い。しかし、後ろ足で跳躍し移動すること、育児嚢で子供を育てることなど、基本的な習性はカンガルーと同じである』とある。

は略々兎の代りともいふべきものである。その他獸類でありながら、卵を生むので、非常に有名な「鴨の嘴」もたゞこの地方のみに産する。また鳥類も「エミウ」・「リラ鳥」・「塚造り」等を始として、殆ど他國には類のないものばかりで、

「角齒魚」この名称(「かくしぎょ」と読んでおく)は脊索動物門脊椎動物亜門: 顎口上綱肉鰭綱肺魚亜綱 Dipnoi のハイギョ類が板状で非常に硬い「歯板」と呼ばれる歯を有すことによる。ウィキの「ハイギョ」によれば、『これは複数の歯と顎の骨の結合したもので貝殻も砕く頑丈なもので』、彼らは獲物の咀嚼を何度も繰り返し、一旦、口から出した後、『唾液とともに吸い込むという習性を持つ。現生種はカエル、タニシ、小魚、エビなどの動物質を中心に捕食するが、植物質も摂食する。頑丈な歯板は化石に残りやすいため、歯板のみで記載されている絶滅種も多い。ハイギョの食道には多少の膨大部はあるものの、発達した胃はない。このためにじっくりと咀嚼を繰り返す』のである、とある。なお、ここで問題としている種は分布から自動的に肺魚亜綱ケラトドゥス目 Ceratodontiformesケラトドゥス科ネオケラトドゥス属オーストラリアハイギョ Neoceratodus forsteri に同定される。]

 單に獸類だけに就いて論じても、オーストラリヤ大陸では、前に述べた通り山を見ても、野を見ても、森にも、河にも、目に觸れるものは、皆腹に袋を有する類ばかりで、他の目に屬する獸類は一種もないが、全體この大陸は他の獸類の生活に適せぬかといふに、決してさやうではない。羊を飼へば非常によく繁殖して、今では世界の主なる牧羊地となつて居る。また兎を輸入すれば忽ち一杯に繁殖して持て餘す程になつた。鼠も增加し、之に伴つて猫も增加し、兎を退治するために外國から持て來て放した鼬(いたち)も非常に殖えて、兎以外の鳥獸に大害を加へるに至つた所などから見ると、この地は實に如何なる獸類の生活にも最も適した處といはねばならぬ。然るに實際に於ては、西洋人が移往するまでは、たゞカンガルーの一族が蔓延つて居るのみで、世間普通の獸類は一種もなかつた。たゞ野犬が一種あつたが、之は確に他から紛れ込んだもので、本來この地に産したものではない。

 動物には各々固有な性質のあるもので、寒國だけに適したものもあれば、熱帶でなければ生活の出來ぬものもあり、森の中だけに棲むものもあれば、野原だけに居るものもある。それ故寒國と熱帶とで動物の違ふのは少しも不思議ではない。また森の中と野原とで動物の違ふのも全く當然である。倂し同じ氣候で、同じく生活に適した處でありながら、大洋を一つ隔てる每に、斯くの如く鳥類・獸類が全く違つて、一種として同一のものが居ないといふのは、如何なる譯であるか。之には何か特別の理由が無ければならぬことである。

 動物は總べて共同の先祖から進化し、樹枝狀に分れ降つて、今日見る如き多數の種屬が出來たもので、その進化し居る間に、土地の昇降があつて、初め陸續の處も後には切れて離れ、初め半島であつた處も後には島となつて、その開に廣い海峽が出來たりしたと見倣せば、その結果は如何といふに、獸類や陸上鳥類の如きは、陸地の連絡のない處には移住する力のないもの故、今まで廣く分布して居たものも、途中に陸地の連絡が絶えれば、そのときから交通が全く絶えて、海のあちらとこちらとでは全く無關係に別々に進化を續けることになる。斯くなれば雙方とも各々その地の狀況に隨ひ、適するものが生存し、適せぬものが死に失せて、同種内の個體の競爭によつて種屬が進化し、異種間の競爭によつて、各種の運命が定まり、敗けて亡びるものもあれば、勝つて榮えるものもあつて、長い年月を歷た後には、あちらの動物界とこちらの動物界とを比較して見ると、孰れも最も適したものが生存したには違ないが[やぶちゃん注:「ちがひないが」。「ひ」は脱字が疑われる。]、その種類は全く相違するに至るべき譯である。この考を以て南アメリカアフリカオーストラリヤ等の動物を比較して見ると、略々明瞭に理解することが出來る。

 ヨーロッパアジヤ等に於て、今まで掘り出された化石を調べて見ると、最も古いものは、皆「カンガルー」の族ばかりで、その頃には他の獸類はまだ全く無かつたらしい。尤も象程の大きさのものもあり、犬位のものもあつて、種類の數は澤山に知られてあるが、皆今日のカンガルー類に固有な特徴が具はつて居る。それ故、その頃には獸類といへば、たゞこの類ばかりであつたものと見倣すより外はないが、假にこの時代まで、オーストラリヤアジヤ大陸と地續であつたのが、この頃に至り土地の降ること、浪が土地を洗ひ取ること等によつて、その連絡が切れたと想像するに、これより後は兩方に於て全く別に進化することになるが、自然淘汰に材料を供給する動物の變異性といふものは、如何なる規則によるものか、まだ甚だ不明瞭で、突然胴の長い羊が出來たり、角のない牛が生れたりする所を見ると、どのやうなものがいつ生れるか解らず、變化の模樣は全く

豫想することが出來ぬから、たとひ同一種の動物でも、二箇所に於て全く同一の變化を現すことは、實際に於ては先づないと思はなければならず、隨つて假に兩方とも同一の標準によつて淘汰せられ、最も適したものばかりが生存するとしても、選擇の材料が既に同じでないから、生存するものも違ふ譯になるが、相隔たつた兩方の土地で、自然淘汰の標準が全く同一であるとは到底思はれぬから、尚更のこと、長い年月の間には全く別種のものとなつてしまはざるを得ない。それ故アジヤではその頃のカンガルー族の子孫の一部が進化して今日の普通の獸類となり、「カンガルー」の特徴を具へた子孫は競爭に敗けて死に絶え、ただ化石として殘り、またオーストラリヤでは之に反してその頃のカンガルー族の子孫が總べてカンガルー族の特徴を具へたまゝで、今日まで進み來つたといふ想像も出來ぬことでもない。而して斯く想像すれば、今日實際の分布の理由を略々了解することが出來る。

 以上は素より想像に過ぎぬが、總べて有り得べきことのみを組み立てた想像で、決して事實を曲げたり、實際に反したことを假想したりしてはない。それ故、現在の有樣が之で説明せられる以上は、先づこの説を取るより致し方がないが、土地の昇降は目前の事實であるから、殘る所はたゞ生物の進化ばかりで、之さへ認めれば、斯く不思議に思はれる分布上の現象も、一通りは理窟を解することが出來る。若し之に反して、生物種屬不變の説に隨つたならば、オーストラリヤアジヤ大陸とが何いつの頃離れたにもせよ、兩方に同種類の動物が居なければならず、敦れの方面を見ても、たゞ反對の事實を見出すばかりで、到底説明を與へることは出來ぬ。
 

2018/02/23

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里 一五 / 隱れ里~了

 

    一五

 

 近江の東小椋村から出て國々の山奧に新隱里を作つた人々は、米合衆國の獨立みたように、折々は郷里の宮寺にある舊記を裏切るような由緒書を作つて居る。東北では會津地方が殊に木地屋の多い處であるが、これは蒲生家が領主であつた時、郷里の近江から何人か連れて來たのを始めとするさうで、後年までこの徒は一定の谷に居住せず、原料の木材を逐うて處々を漂泊し、この地方ではそれを「飛び」といつたこと、新編風土記に詳しく出て居る。

[やぶちゃん注:蒲家云々の箇所は前章の私の「日野椀」注を参照。「新編風土記」とは「新編會津風土記」のことであろう。会津藩官選。全百二十巻。享和三(一八〇三)年から文化六(一八〇九)年にかけて編纂された。]

 一方には會津から越後へかけての山村に多い高倉宮の古傳には、やはりいろいろの右大臣大納言が從臣として來たり、猪早太輩と功を競ひ、又其子孫を各地に殘して舊家の先祖となつて居る。其中には小椋少將などと云ふ人もよく働いて居る。越後の東蒲原郡上條谷の高倉天皇御陵などは、土地の名を小倉嶺といい、山下の中山村十三戸は皆淸野氏で、御連枝四の宮の從臣淸銀太郎と云ふ勇士の子孫である。

[やぶちゃん注:「東蒲原郡上條谷の高倉天皇御陵」新潟県東蒲原郡阿賀町東山((グーグル・マップ・データ))にある古墳らしいが、見当たらない。国土地理院の地図でも見たが、それらしいものは見出せなかった。ネット上では論を書いている人はいても、その所在を明らかにするように書かれてはいない。以下の「中山村」なども判らぬ。お手上げ。識者の御教授を乞う。は「高倉宮以仁王御墳墓考」(岩城宮城三平編越後小柳傳平校再校正・「尾瀬三郎物語を守り育てる会」)というのはある。

「淸野氏」不詳。

「御連枝」(ごれんし)は貴人の兄弟を指した敬称。

「淸銀太郎」前で引いたページには清銀三郎貞方、別名尾瀬三郎房利とある。]

 又大和吉野の川上の後南朝小倉宮の御事跡は、明治四十四年に林水月氏の著した吉野名勝誌の中に委曲論評を試みてあるから、自分は次の二つの點より外は何も言はぬ。其一は此山村に充滿する多くの舊記類は何れも二百年此方の執筆であること、其二は小倉宮の御名は洛西嵯峨の小倉の地に因む筈であるにも拘らず、此宮は一時近江の東小椋村君ケ畑の土豪の家に御匿れなされ、その家の娘を侍女として王子を御儲けなされたことである。

[やぶちゃん注:「後南朝小倉宮」小倉宮聖承(おぐらのみやせいしょう 応永一三(一四〇六)年頃~嘉吉三(一四四三)年)は室町前期の皇族で、後南朝勢力の中心人物。ウィキの「小倉宮聖承によれば、小倉宮家二代であるが、個人としての「小倉宮」は、一般に、この聖承を指すことが多い。樋口宮とも呼ぶ。『聖承は出家後の法名であり、俗名は不明である。時に良泰(よしやす)や泰仁(やすひと)とされることがあるが、何れも近世に作られた南朝系図に拠るもので信用できない』。『南朝最後の天皇である後亀山天皇の孫で、小倉宮恒敦(恒敦宮)の子。子に小倉宮教尊』(きょうそん)『などがいる』。正長元(一四二八)年七月、『旧北朝系の称光天皇が嗣子なく』、『危篤状態に陥ると、その父の後小松上皇は北朝の傍流である伏見宮家から彦仁王(後花園天皇)を後継者に選ぼうとしたので、この動きに不満を持った聖承は、伊勢国司で南朝方の有力者である北畠満雅を頼って居所の嵯峨から逃亡する。満雅はこの当時』、『幕府と対立していた鎌倉公方足利持氏と連合し、聖承を推戴して反乱を起こすが、持氏が幕府と和解したことにより頓挫』、同年十二月二十一日、『満雅は伊勢国守護・土岐持頼に敗れて戦死する』。『その後も聖承は伊勢国に滞在したまま』、『抵抗を続けるが』、永享二(一四三〇)年に『満雅の弟・顕雅が幕府と和睦したため、幕府の懇望もあって京に戻されることとなる。この際の和睦条件が、聖承が「息子を出家させること」、幕府は「諸大名から毎月』三『千疋を生活費として献上させること」であったため、同年』十一『月に当時』十二『歳の息子は出家し、将軍足利義教の猶子となって偏諱(「教」の字)の授与を受け』、『「教尊」を名乗り、勧修寺に入ることとなった。しかし一方で、幕府からの生活費の保障は守られることがなく、京に戻った後の暮らしは困窮の極みだったようである。その後』、永享六(一四三四)年二月に『海門承朝(長慶天皇皇子)を戒師として出家し、この時点から「聖承」を名乗った』とある。

「明治四十四年」一九一一年。

「林水月」(安政五或いは六(一八五九)年~昭和四(一九二九)年)。大坂生まれ。名は海音、水月は号。明治中頃から末にかけて、奈良県吉野郡上北山村西原の宝泉寺、続いて同じ吉野小橡(ことち)の龍川寺の住職となり、川上・北山の後南朝史を研究した曹洞宗の僧。「吉野名勝誌」は彼の労作とされる。]

 右の二箇所の事例とは全然無關係に、自分は今左の如く考へて居る。木地屋には學問があつた。少なくとも麓にいて旅をしたことのない村民よりは識見が高かつた。木地屋の作り出した杓子や御器は如何なる農民にも必要であつて、しかも杓子の如きは山で山の神、里でオシラ神などの信仰と離るべからぎるものであつた。新たに村の山奧に入り來たり、しかも里の人と日用品の交易をする目的のあつた彼等は、相當の尊敬と親密とを求めるために、多少の智慮を費すべき必要があつた。必ずしも無人貿易をせねばならぬ程に相忌んでは居なかつた彼等も、少しも技巧を用ゐずには侵入し得なかつたのは疑いがない。そこで更に想像を逞しくすると、彼等は往々岩穴や土室の奧から、鮮やかな色をした椀などを取出して愚民に示し、是を持つて居れば福德自在などゝ講釋して彼等に贈り、恩を施したことが無いとは言はれぬ。常州眞壁の隱里から貸した椀が、金で四つ目の紋を附けたのは一つの見處である。四つ目は卽ち近江の一名族の紋所であつた。斷つておくが自分はまだ證據を捉へぬから決してこの假定を主張するのでは無い。假に鳥居氏の言はれたのに近い交通があつたとしても、此場合には相手の方が旨(うま)く遣つたので、同氏の所謂文明のステージが違ふと云ふのは、ちやうど逆樣に違ふのだから、いさゝか滑稽で無いかと言ひたいのである。

 常民が食器に白い陶器を使ふのはむろん新しい變遷である。其以前は木器であらうと信ずるが、少なくも朱椀などは手が屆かぬ上流の用であつたであらう。其が次第に容易く生産せられるやうになつたのも、さして古い事とは思はぬ。漆器の歷史を調査する人は、必ず我輩の隱里物語を其基礎の一つにせねばなるまい。又かの多情多恨の椀久と云ふ淨瑠璃曲中の好男子が、苗字は小椋で後の屋號が伊勢屋であつたか否か、これを明白にして下さるのは上方の學者方の任務である。

   (大正七年五月、東京日日新聞」)

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里 一四

     一四

 伊勢の龜山の隣村阿野田の椀久塚は、また一箇の椀貸塚であつて、貞享年中までこの事があつたと傳へて居る。土地の口碑では塚の名の起りは椀屋久右衞門或は久兵衞と云ふ椀屋から出たと云ふ。この椀久は大阪の椀久のごとく、ある時代の長者であつたらしく、數多の牛を飼ひ品物を送り五穀を運ぶ爲に、險岨の山路を道普請して牛の往來に便にしたと云ひ、今も牛おろし坂と云ふ地名が遺つて居る。椀久は農家ながら多くの職工を扶持して椀盆の類を造らせ、これを三都諸州へ送つて利を收めた。其家斷絶の後舊地なればとてその跡に塚を築きこれを椀久塚と名づけた。村民の客來などの爲に膳椀を借らんとする者は、やはり前日にこの塚へ來てこれを祈つたと云ふ事である。さて此話を解釋するためには、最初に先づ塗物師が器を乾かすために土室を要した事を考へねばならぬ。[やぶちゃん注:←ここは底本では読点であるが、特異的に訂した。]次には木地師の本國が近江の愛知郡東小椋村であつたことを注意する必要がある。龜山在から山坂を越えて行くと云へば行先は近江南部の山村である。而して東小椋村の中君ケ畑と蛭谷との二大字は、數百年以前から今日まで引き續いての木地屋村で、其住民は中世材料の缺乏して後、爭うて郷里を出で、二十年三十年の間諸國の山中を巡歴し、到る處において轆轤の仕事をしたことは人の略知る所である。諸國の木地屋は其故に今でも大多數は小椋或は大倉等の苗字をもつて居る。日本全國大抵分布せぬ地方は無い中にも、伊勢は山續きで最も行き易かつたらしく、南伊勢から紀州へかけて小椋氏の在住して木地を業とする者今も多く、色々の古文書の寫しを傳へ藏し、同族のみで山奧の部落を作る爲に、尚若干の異なる習俗を保持して居るらしい。自分は六七年前の文章世界に木地屋の話を書いたことがある。近日又少しばかりの研究を發表したいと思つて居る。近江の檜物莊の成立ち、及び中世盛んであつた日野椀、日野折敷の生産と關係があるかと思ふが、いまだ確かな證據を發見せぬ。

[やぶちゃん注:かの幻想作家澁澤龍彦の最期の机上にあったメモは木地師についてのものであった。柳田國男のインキ臭いそれらより、シブサワの書かれなかった次回作を私は切に渇仰するものである。

「阿野田の椀久塚」既出既注だが、最後に近くなったので再掲しておく。現在の三重県亀山市阿野田町(ここ(グーグル・マップ・データ))の内。三重県公式サイト内の「椀久塚」に、その伝承譚が書かれてある。

「大阪の椀久」(生没年未詳であるが、没年は延宝四(一六七六)年七月三十一日(菩提寺円徳寺過去帳に拠る)の他、翌延宝五年とも、さらに後の貞享元(一六八四)年の諸説がある)は江戸前期の実在した商人。大坂堺筋の富商で椀や皿を商った。大坂新町の傾城松山と深い仲になり、豪遊の末、発狂して水死したともいう。西沢一鳳の「伝奇作書」では、盆には正月遊びと称し、自ら年男に扮して、豆の代わりに一歩金を座敷から座敷へ撒いて歩くなどの放蕩を繰り返したため、座敷牢に押し込められて、狂死したという井原西鶴はこの稀代の放蕩者をモデルに浮世草子「椀久一世の物語」を書き、浄瑠璃・舞踊の素材としても好まれ、数多くの作品に作られた。紀海音作浄瑠璃「椀久末松山」や長唄「其面影二人椀久」が知られる。

「土室」「つちむろ」と読む。土で周囲を塗り固めて作ったムロ、或いは穴倉状に土中に掘り固めて作った保湿された特殊なムロを指す。漆は湿度が高いほど乾き易いという特殊な性質を持つ(気温が摂氏二十五度以上で、しかも湿度八十%以上であることを硬化の条件とする)。因みに、完成した漆器も適度の湿度を与えておかないと状態よく保存出来ない。

「近江の愛知郡東小椋村」滋賀県の旧愛知(えち)郡東小椋村(ひがしおぐらむら)は、現在の東近江市の愛知川上流右岸、この附近(グーグル・マップ・データ)。柳田國男の謂いは、地図を下げて行くと納得出来る。また「木地師の本國が」ここであったことは、まさにこの地に惟喬親王御陵があることからも判る(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「木地師」によれば、九『世紀に近江国蛭谷(現:滋賀県東近江市)で隠棲していた』文徳天皇の第一皇子『小野宮惟喬親王が、周辺の杣人に木工技術を伝授したところから始まり、日本各地に伝わったと言う伝説がある』のである。また、実際、この『蛭谷、君ヶ畑近辺の社寺に残っていた『氏子狩帳』などの資料から木地師の調査、研究が進んだ』。『木地師は惟喬親王の家来、太政大臣小椋秀実の子孫を称し、諸国の山に入り』、『山の』七『合目より上の木材を自由に伐採できる権利を保証する』、『とされる「朱雀天皇の綸旨」の写しを所持し、山中を移動して生活する集団だった。実際にはこの綸旨は偽文書と見られているが、こうした偽文書をもつ職業集団は珍しくなかった』。『綸旨の写しは特に特権を保証するわけでもないが、前例に従って世人や時の支配者に扱われることで』、『時とともに』その「お墨付き」なるものが『実効性を持ち、木地師が定住する場合にも有利に働いた』のであった。『木地師は木地物素材が豊富に取れる場所を転々としながら』、『木地挽きをし、里の人や漆掻き、塗師と交易をして生計を立てていた。中には移動生活をやめ集落を作り』、『焼畑耕作と木地挽きで生計を立てる人々もいた。そうした集落は移動する木地師達の拠点ともなった。
幕末には木地師は東北から宮崎までの範囲に』七千戸ほどもいたと『言われ、 明治中期までは美濃を中心に』、『全国各地で木地師達が良質な材木を求めて』、二十年から三十年の単位で『山中を移住していたという』。また、『石川県加賀市山中温泉真砂(まなご)地区』『は惟喬親王を奉じる平家の落人の村落と伝わり、時代を経て何通かの御綸旨で森林の伐採を許された主に木地師達の小村落であったり、山中漆器の源とされる。朝倉氏の庇護もあったが』、天正元(一五七三)年八月の、織田信長と朝倉義景の間で行なわれた「一乗谷城の戦い」『以降は庇護も無くなり』、『一部の木地師達は新天地を求めて』、『加賀から飛騨や東北地方に散って行ったとされる』とある。

「東小椋村の中君ケ畑と蛭谷との二大字」国土地理院の地図のこちらで、二つの集落地名を現認出来る。

「小椋或は大倉等の苗字をもつて居る」試みにその手の全国の名字分布サイトでランキングを調べると、現在は「小椋」は福島(先の引用の流れて行った東北地方と一致)・岡山・鳥取に多く、次いで岐阜・滋賀である。「大倉」は新潟・岡山、次いで三重・奈良・岐阜などが続くから、柳田の言いは当たらずとも遠からずではある。

「自分は六七年前の文章世界に木地屋の話を書いたことがある」明治四四(一九一一)年一月の『文章世界』に発表した「木地屋物語」。本「隱れ里」の初出は大正七(一九一八)年の『東京日日新聞』。

「近江の檜物莊」檜物荘(ひもののしょう)は近江国甲賀郡(現在の滋賀県湖南市。ここ(グーグル・マップ・データ))にあった荘園。野洲(やす)川流域に位置する、平安期からの摂関家領で、長櫃(ながびつ)・折敷(おしき)・柄杓などの檜製の物品を進納したところから、その名がついたものらしい。

「日野椀」ウィキの「日野椀」によれば、『滋賀県蒲生郡日野町』(ここ(グーグル・マップ・データ)。前の湖南市の東)『とその周辺で生産された漆器』で、『平安時代に日野地域が「檜物庄」と呼ばれていたという記録が残ることから、この時代には既に檜物製造が行われていたと考えられている。』天文二(一五三三)年に『領主蒲生氏が日野城下町の町割を実施し、堅地町(現金英町)・塗師町(現御舎利町)に木地師・塗師を住まわせ』た。天正一八(一五九〇)年に『伊勢松ヶ島へ転封していた蒲生氏郷が会津に移るにあたり、漆器職人を会津に招いたため、日野の漆器製造は一時期衰退する。なお、このため』、『会津塗器は日野塗の技術導入により』、『発展したと考えられている。
元和年間』(一六一五年~一六二三年)、『日野商人の活躍により、日野塗が復興』し、正保二(一六四五)年刊と『考えられている松江重頼の俳諧作法書「毛吹草」にも、近江日野の名物として「五器(ごき)」が挙げられている。その後、日野商人の主力商品が薬に代わったことや』、宝暦六(一七五六)年に発生した『日野大火(市街地の約』八『割を焼失)で打撃を受け徐々に衰微、天保年間』(一八三〇年~一八四三年)『に日野椀の製造は途絶えた』。『初期に生産され今も残存する器は祭器が多く見られ、厚手・高い高台を特徴とする。
安土桃山時代には、千利休らが愛用したという記録が残っている。 江戸時代に庶民使いの漆器として、日野商人による行商で全国へ広まった。 最近の研究によれば、日野椀は日野だけで製造されていたわけではなく、日野商人が全国に点在する木地師や塗師に技術指導をした上で製造委託をし、日野椀ブランドを付けて流通させていた可能性が指摘されている』とある。]

 伊勢にはまた安濃郡曾根村東浦の野中に椀塚と稱する丘があつた。東西十五間南北十間[やぶちゃん注:「十五間」は二十七メートル強、「十間」は約十八メートル。]で頂上に大松があつた。これには椀貸の話はあつたと云はぬが、昔は神宮の御厨(みくりや)の地で、秋葉重俊なる者近江より來たり住し、文曆元年には判官職であつた。其後片田刑部尉重時の時、兵亂に遭つて御厨は退轉した。其時は太刀神鏡輿一連及び庖厨一切の器具を埋めたのが此椀塚であつたと傳へて居る。此言傳へが、椀久系統の人の口から出たことは、僅かながら證據がある。小椋の人々はどうした譯か以前から、あまり歷史には名の見えぬ物々しい人名を引合に出す風があつた。君ケ畑蛭谷の二村に今も大事にしており、諸國の舊い木地屋が必ず一組づゝ傳寫して居る多くの古文書、それから此地の舊記や社寺の緣起類は、持主の眞摯なる態度に敬意を表し、新聞などで批評をすることは見合せる。此村では淸和天皇の御兄皇子小野宮惟喬親王、都より遁れて此山奧に入り、山民に木地挽く業を教へたまふと言ひ傳へ、此宮を祭神とする御社は今も全國木工の祖神であるが、此由緒を述べた仁和五年酉五月六日とある古記錄等には、親王に隨從して此地に落着いたと云ふ人々が、大藏大臣惟仲、小椋大臣實秀などゝ署名して居る。この實秀は太政大臣とも云ひ、今の小椋一統の先祖である。一説には小椋信濃守久良、[やぶちゃん注:←の読点は底本にはないが、読み難いので特異的に打った。]小椋伯耆守光吉、親王より此藝を教へらるゝともある。作州苫田郡阿波村の木地挽が舊記には、奧書に承久二年庚辰九月十三日とあつて、やはり大藏卿雅仲、[やぶちゃん注:←の読点は底本にはないが、読み難いので特異的に打った。]民部卿賴貞等の署名がある。伊勢でも多氣郡の藤小屋村などでは、杓子を生業として惟喬王子倉橋左大臣を伴ひ此地に匿れたまふ時、土人に此業を傳へたまふと言つて居た。右の外北近江でも吉野でも紀州でも飛驒でも、親王の曾て御巡歷なされたことを眉じて居て、あまりとしても不思議に思はれるが、既に明治の三十一年に田中長嶺と云ふ人が小野宮御偉蹟考三卷を著して、全部東小椋村の舊傳を承認し、本居・栗田等の大學者が序文や題辭を與へられた後であるから、自分には誠に話がしにくい。詳しくは右の書に就いて考へられんことを、讀者中の物好きな人に向つて希望する。

[やぶちゃん注:「安濃郡曾根村東浦」既出既注であるが、意図的に再掲する。三重県津市安濃町曽根。(グーグル・マップ・データ)。「椀塚」は確認出来ないが、同地区の北直近の安濃町田端上野には明合(あけあい)古墳(主丘が一辺六十メートルの方墳で北東と南西部に造り出しを持つ全国的に見ても希な形の双方中方墳である)を中心に、周辺に多くの古墳が存在した(一部は消滅)とウィキの「明合古墳」にあるから、この「椀塚」も古墳の可能性が濃厚である。

「御厨」本来は神饌を調理するための屋舎を意味するが、ここは神饌を調進するための領地の意。

「秋葉重俊」不詳。

「文曆元年」一二三四年。

「片田刑部尉重時」不詳。鎌倉時代で前の秋葉重俊もこれも孰れの名もヒットしないというのはかなりおかしい。「歷史には名の見えぬ物々しい人名」はやっぱり実在しなかった可能性が高いね。

「太刀神鏡輿一連及び庖厨一切の器具を埋めたのが此椀塚であつたと傳へて居る」というのを何で無批判に信じるかね? 高い確率で古墳だっっつーの!

「此宮を祭神とする御社」滋賀県東近江市君ヶ畑町にある大皇器地祖神社(おおきみきぢそじんじゃ)。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「大皇器地祖神社」によれば、『木地師の祖神として惟喬親王を祭る。神紋は十六菊』。寛平一〇(八九八)年『の創祀と伝わる。明治五(一八七二)年まで正月・五月・九月に』『国家安泰・皇家永久の祈祷符を宮中に納めていた。惟喬親王がこの地に住んでいた際、小椋信濃守久長と小椋伯耆守光吉に命じて木地の器を作らせたという。この伝承によって、当社を木地師の根源社と称している。同様に木地師の根源社と称す筒井八幡(現筒井神社)と木地師に対する氏子狩を行い、全国に散っていた木地師に大きな影響力を持っていた。「白雲山小野宮大皇器地祖大明神」とも称したが』、明治十五年に現社名に改められている、とある。

「仁和五年酉五月六日」八八九年。仁和五年は己酉(つちのととり)。

「大藏大臣惟仲」不詳。「大臣」は「おほおみ(おおおみ)」と読んでおく。

「小椋大臣實秀」不詳。木地師関連の記載には藤原実秀とか大納言とか太政大臣と書いてあるのだが、一次史料には殆んど見えない。

「小椋信濃守久良」不詳。上のウィキでは「久長」である。「良」は「なが」とも読む。

「小椋伯耆守光吉」不詳。

「作州苫田郡阿波村」岡山県の北部(苫田郡)に位置し、鳥取県と境を接していた阿波村(あばそん)。現在は津山市阿波地区。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「承久二年庚辰九月十三日」一二二〇年。確かに同年は「庚辰」(かのえたつ)ではある。

「大藏卿雅仲」大蔵卿で高階雅仲なる人物はいるが、南北朝まで生きてるから違うわね。

「民部卿賴貞」不詳。

「多氣郡の藤小屋村」三重県多気郡(たきぐん)。郡域はウィキの「多気郡」を参照されたい。「藤小屋村」は不詳。

「倉橋左大臣」不詳。

「明治の三十一年」一八九八年。

「田中長嶺」(ながね 嘉永二(一八四九)年~大正一一(一九二二)年)は在野の菌類学者で農事・林業家(椎茸栽培・製炭事業の指導者)。越後国三島郡才津村(現在の長岡市)生まれ。絵画を学ぶべく、江戸に出たが、途中で帰農。農事の傍ら、植物採集・写生・菌学を研究、明治二三(一八九〇)年には我が国初の菌類学書「日本菌類図説」(共著)を、その後さらに人工接種による椎茸栽培法について研究、「香蕈培養図説」(明治二五(一八九二)年)などを著している。また、製炭法の改善を考究、同じ明治二十五年に「十余三産業絵詞」を著し、三年後の明治二十八年には愛知県八名郡にて田中式改良窯を考案、これをもとに「炭焼手引草」(明治三一(一八九八)年)を公刊、我が国の製炭の技術的基礎の確立に貢献した。その後も椎茸栽培及び製炭技術改善のため、全国各地を行脚し、名古屋市内で客死した。

「小野宮御偉蹟考三卷」明治三三(一九〇〇)年八月近藤活版所刊。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像で全篇が読める。柳田國男の言う通りなら、読みたいとはあんまり思わないけれど、そのエネルギッシュな生き方には正直、脱帽する。「讀者中の物好きな人に向つて希望する」などという人を食った言辞で皮肉る御用学者なんぞよりは数百倍、私は敬意を表したくなる。

「本居」国学者本居豊穎(もとおりとよかい 天保五(一八三四)年~大正二(一九一三)年)。本居宣長の義理の曾孫にあたる。国立国会図書館デジタルコレクションの画像の冒頭で確認した。

「栗田」国学者・歴史学者栗田寛(ひろし 天保六(一八三五)年~明治三二(一八九九)年)。幕末には水戸藩に仕えた。元東京帝国大学教授。「大日本史」の最後まで未完であった「表」「志」の部を執筆したことで知られる。号は栗里。国立国会図書館デジタルコレクションの画像の冒頭で確認した。]

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里 一三

 

     一三

 

 福井縣大野郡の山村は、これまた平家谷口碑のいたつて數多い地方である。その中で下味見(しもあぢみ)村大字赤谷の平家堂と云ふは、崖の中腹にある二尺四方の岩穴で、穴の中は古墳である。土人最もこれを尊崇し每年二月十九日に祭をする。この窟の石戸は人力では動かぬが、世の中に何か事があると自然に開閉するのを、村民は「平家樣が出られる」と云ふ。日淸・日露兩度の戰役中、この石戸の常に開いていたことは誰も知らぬ者が無いと云ふ。此話を發表した人は自分の知人にして且つ此村の住人である。其誠實はよく知つて居るが、而も如何せん此話には傳統がある。奧羽地方に於てはこの種の岩穴を阿倍城(あべしやう)と謂ひ、岩戸の開閉の音を聞いて翌朝の晴雨を卜する例が多い。中央部では鬼ケ城などゝも云ひ、山姥が布を乾すと云ふことになつて居り、やはり里の者の神意を察知する話が少くない。更に其昔を辿ると山姫佐保姫の錦を織ると云ふ言ひ傳へにも關聯するものであらう。蓋し屋島壇浦の殘黨のみに對してならば、所謂平家樣の崇敬は些しく過分である。故に如何にしても安德天皇を奉じ來ることの能ぬ[やぶちゃん注:「かなはぬ」。]東北地方に於ては、一門の尼公と稱し又は以仁王と申上げて、其缺陷を補はんとしたのではあるまいか。併し農民は昔も今も虛言を述べ得ぬ人である。さうして最も人の言を信じ易い人である。然らば最初果して何人あつて斯くも多い平家谷の話を全國に散布したのであるか。是が椀貸傳説と交渉ある唯一つの點で、同時に鳥居氏の無言貿易説の當否を決すべき重要な材料であるように自分は思ふ。

[やぶちゃん注:「福井縣大野郡」「下味見(しもあぢみ)村大字赤谷の平家堂」現在の福井県福井市赤谷町。ここ(グーグル・マップ・データ)。現在も「平家堂」という石窟の社があり、平惟盛を安置すると伝えているという記載を見かけたので、現存するようである。ここは安心して、柳田先生、「古墳」と書いてる。椀貸伝説がないからね、それに話を頭の無言貿易の批判にあっさり戻してるからね

「阿倍城(あべしやう)」ルビはママ。ちくま文庫版全集では「あべじょう」。]

  鳥居氏の御意見と云ふものが、若し此等各地方の異傳を親切に考察した上で發表せられたものであつたならば、自分等は假令末梢の問題に於て觀察の相異があるにしても、斯樣な失禮な批評文は出さなかつたであらう。何となればいわゆる椀貸の話には限らず、多くの傳説の起源は常に複雜なもので、時代々々の變化又は新たなる分子の結合は有勝ちであるから、最初長者と打出小槌と古墳と水の神の信仰とが、この不可思議なる岩穴交通の話の基礎であつたとしても、別に又或事情の下に、鬼市若くは默市と稱する土俗の記憶が、同じ物語の中に織込まれたことは絶無と斷定し能はぬからである。民俗學の現在の進步程度では、殘念ながら消極的にも積極的にも、何の決定をも下し得ぬことが明白であるからである。

 自分が主として證明せんとしたのは、單に膳椀の持主又は貸借の相手が、アイヌその他の異民族であつたらしい痕跡がまだ一つもないと云ふ點であつた。此以外に於て何か手掛りとなるべき特徴では無いかと思ふのは、話の十中の九まで前日に賴んで置いて翌朝出してあつたと云ふこと、卽ち先方が多くは夜中に行動をしたと云ふ點である。それよりも尚一段と肝要なのは、僅かな例外を以て貸した品が、常に膳椀その他の木製品であつたことである。隱里から出すには他に物もあらうに、木地の塗物のと最も土中水中に藏置するに適しない品のみが常に貸されたことは、何か特別の仔細が無くてはならぬ。陸中の遠野などではフエアリイランドの隱里の事をマヨヒガと稱し、マヨヒガに入つて何か持つて來た者は長者になると云ふ話がある。そうして自分の採錄した話の中には、やはり其隱里の椀を授かつて富貴になつた一例がある。高知縣長岡郡樫野谷の池は、村民が元旦に此水を汲む風習あり、また村に不吉の事起らんとする時には、水底に弓を引く音が聞えたと云ひ、時としては赤い椀の水面に浮ぶことがあると云ふ、此くの如き場合に迄いつも椀といふものの附いて𢌞るのは、果して何を意味するであらうか。

[やぶちゃん注:「マヨヒガ」私が佐々木喜善の語った遠野の物語(私は「遠野物語」を柳田國男の作品とすることを認めない人間である)で最も偏愛する奇譚である。それは山中のさっきまで人がいたような長者屋敷へと迷い込む「迷ひ家(が)」の謂いであり、そこから何かを持ち出すことで、主人公が富貴となるという基本設定を持つ。但し、欲を持った者は失敗し、二度とはそこに行き当たることはないのである。佐々木喜善が自ら綴った「山奥の長者屋敷」(大正一二(一九二三)年『中学世界』)及び「隠れ里」(昭和六(一九三一)年刊「聴耳草紙」所収)の二話をウィキの「マヨイガで読める。

「高知縣長岡郡樫野谷」現在の高知県長岡郡は(グーグル・マップ・データ)。「樫野谷」は不詳。]

 

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里 一二

 

     一二

 

 播州書寫山の登路にも、袖振山の北の端を隱(かくれ)が鼻(はな)と稱して山腹に大きな岩穴があり、大昔老鼠が米を搗いた故跡と言ひ傳へて居る。東部日本でも江戸學者の隨筆によく見る越後蒲原のオコツペイの窟、あるいは羽後の男鹿半島寒風山の隱里、陸中小友の土室神社の如き、岩窟に隱れ里と云ふ老のあるものは多いのだが、それが曾て皆右樣の傳説を伴なつて居たか否かは疑はしい。ことに次に列擧する如き多くの隱里と云ふ地名などは、一々皆是であつたとも思はれぬ。恐らくは山を隔てた世に遠い小盆地で、單に年貢が輕かつたと云ふ他に、何の特長も無かつた只の隱れ里も多いこゝと思ふ。

    相摸中郡吾妻村二宮隱里

    常陸那珂郡隆郷村高部隱里

    陸前遠田郡成澤村隱里

    陸奧下北郡川内村隱里

    羽前東田川郡橫川村隱里

    羽後雄勝郡輕井澤村隱里

[やぶちゃん注:ここでちょいと、所持する松永美吉著「民俗地名語彙辞典」から「カクレザト」の項を引用してみようか(私のそれは一九九四年三一書房刊「日本民俗文化資料集成」のもので、平成元(一九八九)年刊の私家版「地形名とその周辺の語彙」の増補版。一部の字位置を変更した)。

   《引用開始》

カクレザト 隠れ里というのは各地にある。

 茨城県真壁郡開城町舟玉にある古墳。昔この塚に頼むと、なんでも必要な品物を貸してくれたが、ある時借りた物を返してくれない者がいたので、それからは貸してくれなくなった。

 下妻市高道祖にある塚。昔、この塚に頼むと膳椀を貸してくれらが、ある時不心得者が借りた物を返さなかったので、貸してくれなくなったという。ズコー塚、隠れ塚、お膳塚、十二膳ともいわれる。

 猿島郡五霞村川妻にある地名。昔、ここに山姥が住んでいて、頼むと膳椀を貸してくれたが、やはり返さない者がいて貸してくれなくなったという〔『茨城方言民俗語辞典』〕。

   《引用終了》

最後のは柳田が既に挙げているが、①②が出ないののはおかしくはないか? これは「隠れ里」+「椀貸伝説」なのに? 古墳と塚じゃね、柳田センセーにとっちゃ、都合が悪いわけよ。この章、どっかの愚劣な科学者やド阿呆な政治家がやるように、自分の御説に合わせて実証資料を操作する非学術的な柳田國男の学者としてのおぞましい一面がスケスケに見えるものと相成ったと言ってよい。非常に不快なので、早々に終らせたくなった。今日中に終らせたい。

「播州書寫山の登路」「袖振山の北の端」とは、現在の兵庫県姫路市(山吹或いは上手野)の振袖山(蛤山)の北の稜線部のことであろう。国土地理院図のここ、又は「グーグル・マップ・データ」航空写真のここを参照されたい(後者の写真で見ると、市街地に忽然とある丘陵で、それらしい岩穴がありそうな雰囲気はある)。但し、誤解してはいけないのは(私は誤解した)、書写山圓教寺はここからさらに直線でも北へ三・五キロメートル離れた位置にあり、その間は夢前川を挟んだ盆地であって、ここが尾根で書写山に繋がっているわけではない点である。

「東部日本でも江戸學者の隨筆によく見る越後蒲原のオコツペイの窟」不詳。私は越後に特化した越後の文人橘崑崙(たちばなこんろん 宝暦一一(一七六一)年頃~?)の筆になる文化九(一八一二)年春、江戸の書肆永寿堂から板行された随筆「北越奇談」(全六巻)の全電子化注をここで完遂しているが、「越後蒲原のオコツペイの窟」なんて、出て来ないし、ネット検索にも掛かってこない。識者の御教授を乞う。

「羽後の男鹿半島寒風山」秋田県男鹿市脇本富永寒風山。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「陸中小友の土室神社」岩手県遠野市小友町はここ(グーグル・マップ・データ)だが、そんな名前の神社はない。「岩窟」でここと言ったら、巌龍(いわたき)神社とその後背に凄絶に屹立する不動岩なんじゃねえかなぁ?ここ(グーグル・マップ・データ。そこには「巌篭神社」とあるが、誤り))個人ブログ「昔に出会う旅」のこちら、また、モノクロ写真故に強烈なリアリズムで迫る個人サイト「巨石巡礼」のこちらもお薦め!

「相摸中郡吾妻村二宮隱里」現在の神奈川県中郡二宮町二宮のこの附近(グーグル・マップ・データ)と思われる。

「常陸那珂郡隆郷村高部隱里」旧村名は「嶐郷村」(りゅうごうむら)が正しい。恐らくはこの中央、埼玉県に突出した一帯と推定される(グーグル・マップ・データ)。

「陸前遠田郡成澤村隱里」現在の宮城県遠田郡涌谷町成沢。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「陸奧下北郡川内村隱里」現在の青森県むつ市川内町川内。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「羽前東田川郡橫川村隱里」現在の山形県東田川郡三川町横川。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「羽後雄勝郡輕井澤村隱里」現在の秋田県雄勝郡羽後町軽井沢。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 近世の記錄に隱れ里を發見したと云ふ實例の多いことは、人のよく知る通りである。九州では肥後の五箇庄、日向の奈須及び米良(めら)などは今もつて好奇の目をもつて見られ、周防の都濃郡須々萬(すゞま)村の日比生(ひびふ)は、天文の頃獵師の發見した隱里だなどと云ふが、その多くのものやはり東の方にあつた。例へば羽前と越後の境の三面(みおもて)、岩代信夫郡の水原、同伊達郡の茂庭(もには)なども其だと云ふ。水原は谷川に藁が流れて來たので之を知り、よつて水藁と名づけたと云ふ話があり、茂庭はアイヌ語かと思ふが、始めて役人が往つてみたときには村長が烏帽子を着て居たなどゝ云ふ話もある。この茂庭の一村民が、本年の冬忰の近衞に入營するのを送つて來て電車に乘り、荷車の材木と衝突して東京の眞中で死んだ。會津と越後の境大沼郡本名村の三條と云ふ部落などは、越後の方とのみ交通していて福島縣の人は存在を知らず、明治九年の地租改正の時始めて戸籍に就いたと云ふ。語音が會津式の鼻音でないために三條の鶯言葉などと言はれて居る。江戸の鼻先の武州秩父でさへも、元文年間に、始めて見出した山中の一村があつた。雨後に谷川に椀が流れて來たのでこれを知つたと云ふなどは一奇である。此他何時となく里を慕つて世に現われた村で、地方(ぢかた)役人の冷やかな術語では隱田(おんでん)百姓と稱し、亂世に立ち退いて一門眷屬とともに孤立經濟を立てゝ居たと云ふものが、まだ幾らともなく山岳方面にはあつたやうである。

[やぶちゃん注:「肥後の五箇庄」「ごかのしょう」(現代仮名遣)は「五家荘」とも書き、現在の熊本県八代市(かつての肥後国八代郡)東部の久連子(くれこ)・椎原(しいばる)・仁田尾・葉木・樅木の五地域の総称。この一帯(グーグル・マップ・データ)。

「日向の奈須及び米良(めら)」後者は現在の宮崎県児湯郡西米良村附近(グーグル・マップ・データ)。前者は、その北の宮崎県東臼杵郡椎葉村(しいばそん)辺りか((グーグル・マップ・データ))。よく判らぬ。椎葉はウィキの「椎葉によれば、『伝承では、壇ノ浦の戦いで滅亡した平氏の残党が、この地に落ち延びたとされ』、建久二(一一九一)年、『追討のため那須大八郎宗久が下向するが、平氏に再挙の見込み無しと見て追討を取り止め帰国。椎葉滞陣中に宗久の娘を妊娠した侍女の鶴富が、後に婿を娶らせ那須下野守と名乗らせたという。また、椎葉という地名は宗久の陣小屋が椎の葉で葺かれていた事に由来するとい』い、この一帯はその後の『戦国時代には那須氏が支配して』いた。所謂、隠田集落村である。

「周防の都濃郡須々萬(すゞま)村の日比生(ひびふ)」「都濃」は「つの」と読む。。現在の周南市須々万(すすま)本郷・須々万奥。附近(グーグル・マップ・データ)。

「天文」一五三二年~一五五五年。室町末期。

「羽前と越後の境の三面(みおもて)」現在の新潟県村上市三面。(グーグル・マップ・データ)。

「岩代信夫郡の水原」現在の福島市松川町水原。(グーグル・マップ・データ)。

「同伊達郡の茂庭(もには)」現在の福島県伊達郡川俣町小島茂庭。(グーグル・マップ・データ)。

「茂庭はアイヌ語かと思ふ」ブログ「仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル」の仙台のアイヌ語地名に茂庭について、『北海道の藻岩と同じ。mo-iwa 小さい山だが、どちらかというと霊山のような所を言ったようだ』とある。

「この茂庭の一村民が、本年の冬忰の近衞に入營するのを送つて來て電車に乘り、荷車の材木と衝突して東京の眞中で死んだ」だから、何だ! 柳田國男! 厭な奴っちゃなあ! お前は! 文化から取り残された民の非業の死をかく平然と書きたてて、何が面白いかッツ!!!

「大沼郡本名村の三條」現在の福島県大沼郡金山町本名。(グーグル・マップ・データ)。三条は廃村となって現存しない。

「明治九年」一九八七年。

「三條の鶯言葉」もときち氏のブログ「tabi & photo-logue vol.2」の霧来川・三条は平家の落人集落ではないが非常に詳しく、しかもどこかの学者の記載と違い、心が籠ってしみじみとしてよい。個人ブログ「真冬本線:会津線・只見線の途中下車のシリーズ 〔ひとり旅〕」の秘境  奥会津の金山町 "廃村になった三条部落" 2016には、『この三条部落の言葉の発音は独特であり』、『北陸から京都方面の尻上がりのアクセントにどこか似て』、『三条のウグイス言葉、三条の京言葉と云』ったとある。孰れも貴重な記録である。

「元文」一七三六年~一七四一年。徳川吉宗の治世。]

 平家の落人の末と稱して小松を名乘り、あるいはまた重盛の妹が姪に當るやうな尼公の信心話を傳へ、世上の同情と尊敬とを博せんとした僻村は大部分右のごとき隱れ里の發達したものらしい。或は同じ平家でも平親王將門の子孫郎黨の末と云ふものがある。信州には三浦氏の落武者と云ふのが處々にある。御嶽南麓の瀧越部落のごときも其一であるが、地名のミウレは方言で水上を意味するらしく、ちつとも相模平氏の流れらしい證據は無い。會津の南半分から下野と越後へかけて、高倉宮以仁王御潛行の故跡充滿し、渡邊の唱や競や猪早太等、およそ賴政の家來で強さうな人は皆網羅し、しかも一方ある部分は畏れ多くも高倉天皇の御事として、其御陵の事まで云々して居るのは、西の方の府縣や平家谷と云へば忽ち安德天皇二位尼の御隱家と主張するのによく似て居る。歷史家諸先生のとんだ御迷惑をせられるのも恐らくは此點で、現に宮内省でも御陵墓參考地と云ふやうな不徹底な榜示を、何箇所となく立てゝ置かれる。蒹葭堂雜錄の中には安德帝御舊跡と云ふ地を七八箇所も擧げて居て、今日では更に若干を增加して居る。自分は之に就いても少々の意見があるが、關係地方の人たちの心持を考へると、やはり十分に之を論辯することが出来ぬ。仍て爰には只此口碑と隱里椀貸と、どうしても關係のある部分だけを述べて置き、其以外は最近の機會に、今些し閑靜な處で發表したいと思つて居る。

[やぶちゃん注:慇懃無礼な最後の謂いが甚だ気に入らぬ。

「御嶽南麓の瀧越部落」現在の長野県木曽郡王滝村滝越。(グーグル・マップ・データ)。同地図にはまさに「三浦旅館」という宿がある。

「地名のミウレは方言で水上を意味する」先に引いた松永美吉著「民俗地名語彙辞典」には、確かに、『ミウレ 中部日本の山地で水上をいう』とある。

「渡邊の唱や鼓や猪早太」ちくま文庫版全集では『唱(とのう)や競(きおう)や猪早太(いのはやた)』とルビがある。渡辺唱(となう・とのう)・渡辺競(きおう・きそう)も猪早太(いの はやた:本姓は猪鼻とも)源頼政の家臣の名。

「蒹葭堂雜錄」大坂の雑学者として聞こえた木村蒹葭堂(けんかどう 元文元(一七三六)年~享和二(一八〇二)年)の手になる江戸末期の考証随筆。安政六(一八五九)年刊。全五巻。著者没後に子孫の依頼を受けた大坂の著述家暁鐘成(あかつきかねなり)が整理・抜粋して刊行した。ここで柳田國男が言っているのは同書の巻之四の冒頭にある「筑前國長命婦人(をんな)幷(ならびに)螺(ほらの)由緒」という長大な考証の終りの方。国立国会図書館デジタルコレクションの画像ので視認できる。そこで木村は安徳天皇の墓所として、丹波・豊前(『かくれ簑の里。安德庵』としている)・肥後(二箇所)・日向・因幡・対馬の七つ(本文は肥後を一つと数えて六箇所とする)を挙げている。]

2018/02/22

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里 一一

 

     一一

 

 隱れ里の分布に至つてはこれを列擧するだけでも容易な仕事でない。只どうしても些しく言はねばならぬのは、西日本の隱れ里には夢幻的のものが多く、東北の方へ進むほど追々其が尤もらしくなつて來る點である。例で述べる方が話は早い。薩藩舊傳集には無宅長者の話がある。有馬と云ふ薩摩の武士、鹿籠(かご)の山中に入つて、四方の岩が屛風の如く取繞らす處を見つけ、獨り其内に起き伏しをした。眞冬にも雪積らず、暗夜に徴明あるに心付けば、四方の石は皆黃金であつた云々。日向では土人霧島の山中に入つて、時として隱國(かくれぐに)を見ることがある。地を淸め庭を作り柑子の類實り熟し、佳人來往し音樂の聲聞ゆ、重ねて其地を尋ぬれば如何にするも求め得ず。[やぶちゃん注:←句点は底本にはないが、私が特異的に補った。]肥後では舊合志(かはし)郡油古閑(あぶらこが)の群塚(むれづか)と云ふ邊に昔仙家があつて、仙人の井と云ふが獨り遺つて居る。今も元旦日の出の時刻に阿蘇の山頂から遠望すると、一座の玉堂の雲霞の中に映々たるを見ると云ふ。佐渡の二つ山とよく似た話である。

[やぶちゃん注:「薩藩舊傳集」「さっぱんきゅうでんしゅう」(現代仮名遣)と読む。薩藩叢書刊行会が「薩藩叢書」の第一編として明治四一(一九〇八)年に刊行したもの。

「無宅長者」不詳。しかしどうもこの話、胡散臭い。後に出る「鹿籠」というのは鹿籠村で現在の枕崎市であるが、ここには天和年間(一六八一年~一六八三年)に郷士有川夢宅なる人物によって鹿籠金山が発見されて、島津藩が開発している。「眞冬にも雪積らず」なんて言ってるが、もともと鹿児島のこの辺り、雪なんざ、十数年に一度降るか降らぬかだ。「暗夜に徴明あるに心付けば、四方の石は皆黃金であつた」ってのもイヤに金山と絡むぜ! 椀貸伝説なんぞより、そっちの方が文字通りの「金」気(きんき)がプンプンでおはんど! 柳田っつサ!

「日向」「霧島の山中」「隱國」不詳だけどね、しかし、このフレーズ、一目瞭然、「天孫降臨」「日向」「高千穂」「天の岩戸」じゃあねえの?! 柳田っサ! これはそっちの神話で解明した方がよかごはんど!

「肥後」「舊合志(かはし)郡油古閑(あぶらこが)の群塚(むれづか)」現在の熊本県合志(こうし)市幾久富(きくどみ)油古閑(あぶらこが)。ここ(グーグル・マップ・データ)。「群塚」は不明。何だか、この名前、古墳群クサくね? しかも、柳田先生、先生の嫌いな、先生が椀貸伝承では結びつけるのを激しく嫌悪してた古墳が、この地域の北西には群れ成して、ありますゼ!(このグーグル・マップ・データを見よ! 地図上の右中央下(東南)部分が油古閑)

「佐渡の二つ山」既出既注。]

 能登で有名なる隱里は、鹽津村の船隱し人隱し、これは單に外から見ることのできぬ閑靜な山陰があるので、之に託して色々の話を傳へたものと見えるが、別に又同國小木の三船山の如きは、全山空洞の如く踏めば響あり、一方に穴あつて甞て旅僧が之に入り宮殿樓閣を見たと云ふ話もある。尾張名古屋の隱里と云ふのは、近頃の市史に出たのは謎のやうな話であるが、別に安永三年の頃高木某と云ふ若侍が、鷹狩に出て法(かた)の如き隱里を見たこと沙汰無草の中に見えて居る。伊勢では山田の高倉山の窟に隱里の話のあつたこと、古くは康永の參詣記にあると神都名勝志に之を引用し、さらに多氣郡齋宮村の齋宮の森に、除夜に人集まつて繪馬に由つて翌年の豐凶を占う風あること京の東寺の御影供などゝ同じく、昔はその繪馬を隱里から獻上したと云ふ話が勢陽雜記に出て居る。近江では犬上郡長寺の茶臼塚に鼠の里の昔話があつた。京都でも東山靈山の大門前の畠地を鼠戸屋敷と謂ひ、鼠戸長者鼠の隱里から寶を貰ひ受けて富み榮えたと云ふ口碑があつた。因幡岩美郡大路村の鼠倉は、山の岸根に在つて亦一個の鼠の隱里であつたと云ひ、「昔此所に鼠ども集まり居て、貴賤主從の有樣男女夫婦のかたらひをなし、家倉を立て財寶を並べ、市町賣買人間浮世の渡らいをまなぶ云々」と因幡民談にあるのである。

[やぶちゃん注:「鹽津村」現在の石川県七尾市中島町(なかじまちょう)塩津(しおつ)、七尾西湾の湾奧北の位置。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「船隱し人隱し」不詳。

「同國小木の三船山」鳳珠(ほうす)郡能登町(のとちょう)字小木(おぎ)の御船神社のある丘のことか? ここ(グーグル・マップ・データ)。

「近頃の市史」東京帝国大学教授上田萬年を顧問として大正四(一九一五)年から翌年にかけて刊行された「名古屋市史」全十巻。本「隱れ里」の初出は大正七年の『東京日日新聞』である。但し、同書を国立国会図書館デジタルコレクションの画像で視認したが、地名として出るそれは少しも「謎のやうな話」ではなかった。不審。

「安永三年」一七七四年。

「沙汰無草」「さたなしぐさ」。随筆。詳細書肆不明。

「伊勢」「山田の高倉山」不詳。関係あるかどうか知らんが、伊勢神宮北境内外の三重県伊勢市八日市場町に「神宮司庁神宮高倉山幼稚園」というのはある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「康永」南北朝期北朝方の元号。一三四二年から一三四四年まで。

「神都名勝志」東吉貞・河崎維吉(いきち)著。明治二八(一八九五)年吉川弘文館刊。

「多氣郡齋宮村」「さいくうむら」と読む。現在の三重県多気郡明和町の南半分に相当する。素敵な「齋宮(さいくう)の森」は明和町斎宮に一応「斎王(さいおう)の森」(ここ(グーグル・マップ・データ))として現存する。私は正直、「いつきのもり」と読みたかったなぁ。

「御影供」「みえく」と読む。東寺のそれは真言宗祖弘法大師御影供で、空海が入定(にゅうじょう)した三月二十一日(承和二(八三五)年)の「正(しょう)御影供」法会のそれ。これは祖師空海の御影を奉安し、その報恩謝徳のために修するものである。この叙述から見ると、東寺のそれでは隠れ里から何かの供物を搬入して供えたということらしいが、よく判らぬ。

「勢陽雜記」江戸後期の山中為綱の編輯になる伊勢地誌。

「近江」「犬上郡長寺の茶臼塚」現在の滋賀県犬上(いぬかみ)郡甲良町(こうらちょう)長寺(おさでら)。ここ(グーグル・マップ・データ)。「茶臼塚」は不詳。

「東山靈山」ようわかりまへんけど、今の京都府京都市東山区下河原町の、京都東山霊山観音(りょうぜんかんのん)はんのあるとこ辺りでっしゃろか? ここでおす(グーグル・マップ・データ)。

「因幡岩美郡大路村の鼠倉」現在の鳥取市の、この附近(グーグル・マップ・データ)であろうと思われる、旧米里(よねさと)地区である。「鼠倉」と「米里」とは相性の好い地名ではないか。

「因幡民談」「因幡民談記」因幡国に関するものとしては最古とされる史書。貞享五・元禄元(一六八八)年完成し。全八部十巻。原本は焼失して現存しないが、写本が複数伝えられている。作者は鳥取藩の小泉友賢(元和八(一六二二)年~元禄四(一六九一)年)元は岡山藩の池田光仲の家臣の家に生まれたが、光仲が岡山から鳥取藩主へ国替えになってそれに従い、因幡国へ移った。二十歳の頃、『京都で諸子百家や稗史など文学・史学を修め、江戸へ出て儒学者林羅山に師事し、さらに医術を学んだ』。三十一歳から五年に亙って『鳥取藩で典医として仕えたあと、病を得て辞職した。その後は鳥取に暮らして在地の文化人と交わり、江戸時代初期の鳥取における文化を担った』という。彼は二十年を『費やして因幡国各地をめぐり、現地に伝わる史料や古書、伝記を収集し』それを纏めたものが本書である(以上はウィキの「因幡民談記」に拠った)。電子化画像が複数あるが、管見下限りでは今のところ、見出せない。発見し次第、追記する。孰れにせよ、これは所謂、「鼠浄土」譚の一つであることは間違いない。]

 何故に鼠ばかりに此の如き淨土があるのか、これと佐渡の團三郎貉とはどれだけの關係があるのか、ここでは不本意ながらまだ詳しく答へ得ぬ。ただし鼠倉又は長者の倉のクラは岩窟を意味する古い語であつて、多くの府縣の椀貸傳説とともに、隱里が洞の奧乃至は地の底にあつたと云ふ證據にはなるのである。攝陽群談の傳ふる所に據れば、大阪府下にも少なくも一箇所の隱里はあつた。卽ち豐能郡池田の北、細川村大字木部(きのべ)の南に當つて、昔此地に長者あり、萬寶家に滿ちて求むるに足らずと云ふこと無しと雖も、終に亡滅して名のみ隱里と云へり。今も此地にて物を拾ふ者は必ず幸ありとある。神戸に近い武庫郡の打出にも、打出の小槌を拾ふと云ふ話があつて、今でも地上に耳を伏せて聞くに、饗應酒宴の音がするなどゝ記して居る。後世に至つて隱里の愈々人界から遠ざかるは自然の事であつて、多くは元旦とか除夜とかの改まつた時刻に、何處とも知れぬ音響を聞き、之に由つてせめて身の幸運を賴んだのである。朱椀を貸したことのある駿州大井川入の笹ケ窪でも、享保の始頃、ある百姓雨の夜に四五人で拍子よく麥を搗く音を聞き、翌朝近所の者に問ふに之を知る者がなかつた。或僧の曰くこれ隱里とて吉兆である。先年三河にもこの事があつたと。其家果して大に富み、後は千石餘の高持となつたと云ふ。今でも子供の話に鼠の淨土の歌を聞いて居た男、猫の鳴聲を眞似て難儀をしたことを言ふのは、考へて見るとやはり椀をごまかして怒られたと云ふ結末と、同調異曲の言傳へのやうである。

[やぶちゃん注:「攝陽群談」岡田溪志が伝承や古文献を参照に元禄一一(一六九八)年から編纂を開始し、同一四(一七〇一)年完成した摂津国の地誌。全十七巻。江戸時代の摂津地誌としては記述が最も詳しい。

「豐能郡池田の北、細川村大字木部(きのべ)」恐らくは現在の大阪府池田市木部町(きべちょう)であろう。(グーグル・マップ・データ)。

「武庫郡の打出」不詳。武庫郡は現在の西宮市の大部分と、尼崎市の一部及び宝塚市の一部に当るが、「打出」という地名は見出せなかった。

「笹ケ窪」既出既注であるが、再掲しよう。現在の島田駅から、大井川の少し上流の静岡県島田市伊太に笹ケ久保という地区を認める。ここであろう(グーグル・マップ・データ)。

「享保」一七一六年~一七三六年。]

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十七年 世に出た「月の都」

 

     世に出た「月の都」

 

 『小日本』には創刊号から斎藤緑雨の小説「弓矢神(ゆみやがみ)」が作者不詳として連載された外、居士も卯之花舎(うのはなや)の署名の下に「月の都」を掲げた。自ら「まづ世に出づる事無かるべし」といった「月の都」が、意外な機会で世に出ることになったのである。この原稿は露伴氏の一閲を乞うたり、羯南翁や自恃(じじ)居士、二葉亭四迷の手に渡ったという稿本のままであるが、『小日本』に掲げるに当って更に推敲を重ねたものか、その辺の消息はわからない。とにかく現在伝わっている「月の都」は『小日本』所載のものである。二年前全力を傾注して世に問おうとした小説が、自己の主宰する新聞紙上に現れる様子を、居士はどんな気持で眺めつつあったか、当時の書簡などを点検しても、この点に触れたものは見当らぬように思う。「月の都」は三月一日を以て完結した。「弓矢神」と違って、挿画は時折入るに過ぎなかったようである。

[やぶちゃん注:「斎藤緑雨」(慶応三(一八六八)年~明治三七(一九〇四)年)は小説家・評論家。本名は賢(まさる)。伊勢国神戸(かんべ。現在の三重県鈴鹿市内)の生まれ。別号に「江東みどり」「正直正太夫,」「登仙坊」など。仮名垣魯文に認められて『今日新聞』『めさまし新聞』に執筆、坪内逍遥・幸田露伴・森鷗外らとも相識った。本格的な批評は「小説八宗」(明治二二(一八八九)年発表)からで、当時の作家を見事に裁断、「初学小説心得』」「正直正太夫死す」(とも翌明治二十三年)もパロディ精神旺盛である。明治二四(一八九一)年に小説「油地獄」を『国会』に、「かくれんぼ」を『文学世界』に書き、力量を示した。油の鍋に女の写真を投げ込む趣向など、思わず息を呑む。鷗外らとの合評時評『三人冗語』『雲中語』に参加し、樋口一葉とも僅かな期間であったが、交友があり、一葉没後の「一葉全集」は緑雨の校訂になる。『万朝報』に連載「眼前口頭」(明治三一(一八九八)年から翌年)を書く。「按ずるに筆は一本也、箸は二本也。衆寡敵せずと知るべし」(「青眼白頭」明治三三(一九〇〇)年)の文句は当時の彼の心意気を示す言葉として、よく知られる。転居を繰り返し、本所横網町で病没する直前には、友人馬場孤蝶に「僕本月本日を以て目出度死去致候間此間此段廣告仕候也」という広告文を口述している(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「自恃(じじ)居士」元官僚でジャーナリストであった高橋健三。既出既注。当時は大阪朝日新聞客員論説委員(主筆と同格待遇)。]

 「月の都」に次いで居士は「一日物語」という小説を、三月二十三日から『小日本』に掲げはじめた。これは新聞に載せるため、新に稿を起したので、「月の都」の如く惨澹たる苦心の余に成ったものではない。「月の都」の文章は句々鍛錬の迹が著しく、『風流仏』的小説を書くことが一の目的になっていたという居士の言も、慥に首肯し得るものであったが、「一日物語」は新聞に連載する必要に迫られて筆を執ったので、その筋の如きも進むに従って次第に変化して行ったのではないかと思われるところがある。当時学業を一擲して上京していた虚子氏の記すところによれば、小説の執筆は大概夜牀(とこ)に入ってからであり、口授して虚子氏に筆記せしめたものであるという。忙しい新聞事業に携っている居士としては、小説に思(おもい)を凝(こら)しているような時間を持合せなかったのであろう。

 新聞小説としての「月の都」は、西鶴張の文章に馴れていた当時にあっても、相当むずかしかったに違いないが、「一日物語」の方は最初から新聞の読者を対象としただけに、文章も大分わかり易くなっている。居士が前年歩いた奥州の天地を舞台にしてあるけれども、得体の知れぬ女に導かれて山中の孤屋に宿る一段は、固より居士の空想に成ったもので、この辺に漂う空気は露伴氏の『対髑髏(たいどくろ)』あたりと哀相通ずるものであろう。「一日物語」の筋は発展しそうで発展せず、結末において最初の筋に還るのであるが、場面に何らかの山を作り、場面に変化あらしめたのは、新聞小説における用意だろうと思う。この時の署名は黄鸝村人(こうりそんじん)であった。

[やぶちゃん注:「対髑髏」幸田露伴が明治二三(一八九〇)年年一月から二月にかけて雑誌『日本之文華』に発表した、私の好きな幻想怪奇短篇小説(初出時のタイトルは「縁外縁」)。菊池真一サイト内で読める。

「黄鸝」は高麗鶯(ススズメ目コウライウグイス科コウライウグイス属コウライウグイス Oriolus chinensis)の漢名。]

 居士はこの時分比較的健康状態がよかったらしい。こういう小説を執筆する傍、原稿の検閲、絵画の註文をはじめ、編輯上の仕事に鞅掌(おうしょう)しながら、余力があると艶種(つやだね)の雑報などにも筆を執ったという。二月十七日虚子氏宛の端書に「東京圖書館へ御出掛の節火事消防火消し等に關する書物御調査被下(くだされ)まじくや、もし出來るなら早き方よろしく御坐候。是非ともと申わけには無之候」というのがあるのは、『小日本』の材料として必要だったのであろう。日々の仕事を渋滞なく処理するが如きは、むしろ居士得意のところで、筆硯匇忙(ひっけんそうぼう)の裡(うち)に安(やすん)じて自己の責任を果して行ったに相違ない。

[やぶちゃん注:「鞅掌(おうしょう)」名]忙しく立ち働いて暇(いとま)のないこと。この場合の「鞅」は「担う」の意。

「艶種(つやだね)」男女間の情事に関する話題。

「筆硯匇忙(ひっけんそうぼう)」物を書くのに慌ただしく忙しいこと。]

 『小日本』の編輯に任ずるようになって、居士の生活にも多少の余裕を生じた。三月八日大原恒徳氏宛の書簡に「私月俸三十圓迄に昇進仕候故(つかまつりさふらふゆゑ)どうかかうか相暮し可申(まうすべく)とは存候得共(ぞんじさふらえども)、こんなに忙がしくては人力代に每月五円を要し、其外社にてくふ辨當の如きものや何やかやでも入用有之(これあり)、又交際も相ふゑ(芝居抔にも行き申候)候故三圓や五圓は一朝にして財布を掃(はら)ふわけに御座候。近來は書物といふもの殆んど一册も買へぬやうに相成申候」とある。社会の人となるに及んで、書物が買えなくなるというのは、必ずしも居士のみの歎でないような気がする。

小泉八雲 神國日本 戶川明三譯 附やぶちゃん注(30) 禮拜と淨めの式(Ⅷ) 一年神主

 

 起原の上から、淨めの式と關聯して、神道の種々な禁慾的な行ひがある。神道は必らずしも本來禁慾的な宗敎てはない。則ち神々に肉と酒とを捧げる位である。そしてその定めたる克己の形は、たまたま古來の慣習と普通の品位とが要する位の程度のものに過ぎない。が、それにも拘らず、信者の中には、特別な場合に、非常な峻嚴な事を行ふものもある、――峻嚴とはその内に冷水浴の事が多く包藏されて居るのである。熱心なる禮拜者が、裸體で、冬の最中に氷の如くに冷い瀧の下に立つて、神に祈るといふやうな事は決して珍らしい事ではない……。併しこの神道の禁慾主義の尤も不思議な點は、今なほ邊陬の地方に行はれて居る慣習に依つてよく解る。この慣習に依ると社會の組合は年每にその市民の一人を選び、其者をして他のものに代つて、全然身を神々に捧げさすのである。その獻身の期間、此仲間の代表者は、その家族から分かれ、婦人に近づかず、戲れ、慰みの場所を避け、神の火を以て料理された食物のみを食ひ、酒を禁じ、一日幾囘も新鮮な冷い水の中に浴し、或る時間の間特別な祈禱をあげ、或る夜には徹宵祈願をしなければならないのである。そのものが特殊の時期の間、上記のやうな禁慾と淨めの務を果たし終ると、それは宗敎上自由の身となり、つづいて別の人がそれに代って選ばれる。それでその地方の繁榮はその代表が、定められたる務を正確に守るに依ると考へられて居り、若し何か公共の不幸が起る事があれば、その代表者が誓を破つたのてはないかと疑はれる。昔は共同の不幸の起つた場合、代表者は殺されたものである。私が此慣習を始めて聞いたのは、美保關の小さな町に於てであつたが、その地方の代表は Ichinen gannushi 『一年願主』 one-year god-master. と呼ばれて居り(ガンヌシならば願主と考へられるが、ゴッド・マスタなれば神主である、暫くそのままにして置く)、その代表となって贖ひをする期間は十二箇月である。私の聞いた處に依ると、この務に選ばれるものは、通例年長者であつて――靑年は減多に選ばれないさうである。古代にあつてはこの代表者は『禁慾者』といふ意味をもつた名を以て呼ばれて居た。この慣習に關する說話は、日本についての支那の記錄の內にあつて、それは日本の有史以前に始まつた事であるといふ。

[やぶちゃん注:丸括弧部分は訳者戸川(秋骨)明三の割注である。非常に正しい疑義で、これは「一年神主」が正しいのである。なお、「である」の後の読点はママである。これは別に「当屋」「頭屋」などとも称し、八雲も微かに、民俗社会的な合理的好意的解釈として「昔は共同の不幸の起つた場合、代表者は殺された」と仄めかしているように、古代に於いては、或いは、地域によっては、祭祀が終了した時点で、追放されたり、殺されたりしたケースも多々あったと考えてよい。実際、「一年神主」には、そういう属性を本質として持った場合が私は多かったと考えており、そうした生贄としての結末を用意する時には、共同体の内部からその人物を選ぶのではなく、外界から訪れた放浪者や異邦人を特に選び(その殆どは賤民として差別された階級に属すると見做される者)、それが生贄であることを神は無論、共同体内の誰が見ても一目瞭然であるような処理を施した。それが例えば、片眼を潰すスティグマであったのであろう。柳田國男も、そうした識別的行為が古えにあったことを「一目小僧その他」で(リンク先は私の同著作の電子化注の一部)、微かにシンボライズして述べているし、実際、近世及び近代初期の地方の祭祀の中には、そうした形で「一年神主」ならぬ、即席の消耗品としての生贄用の代替人を作って、村落の境界(現実とは異なり、日常とは無関係な異界へのトバ口に相当)である橋や河原に於いて無残に突き落したり、暴行を加えて半殺しにして置き去りにしたブラッキーな祭りが、現に行われていた。或いは、心優しい八雲に、それらを語らせることを、彼の周囲の誰彼は遠慮したかも知れず、また、八雲自身も、そうした残虐性を肯定し得ないであろうから、幸いにも、そうした言及には至っていないが、しかし、塞(さい)の神の古形ともされる(私は寧ろ、さらに溯った、ごくごく古形のアニミズム信仰と思われる)ミシャグジウィキ記載には、『この神を祀っていた神社では、神官に憑依して宣託を下す神とされた。また』一『年毎に八歳の男児が神を降ろす神官に選ばれ、任期を終えた神官が次の神官が決まると同時に』、『人身御供として殺されるという「一年神主」の伝承も残る』ともする。八雲は「一年神主」には「靑年は減多に選ばれない」と記している。四歳で母と生き別れ、父方の大叔母の下で厳格なカトリック教徒として強いて育てられた孤独な彼が、この伝承を知ったら、きっと、卒倒したのではないか、とも私は想像するのである。

「私が此慣習を始めて聞いたのは、美保關の小さな町に於てであつた」昭和五〇(一九七五)年(四十七版)東京堂出版刊柳田國男監修「民俗学辞典」の「神役(カミヤク)」の項に、『今日では神主は單なる職員の一人ということになつているが、出雲美保神社の一年神主の如き、祭祀の中樞におかれて忘我の境に入り、時に託宣を傳えるというのが本來の神主である』とある(現代仮名遣いはママ。変な本である。大学(國學院大學)に入学した際、半ば強制的に買わされたものである)。

「古代にあつてはこの代表者は『禁慾者』といふ意味をもつた名を以て呼ばれて居た」相当する呼称は確かではないが、前に引いた「民俗学辞典」の同じ「神役」の項に出る、「日本書紀」の「神代記」や「神武記」に出る「齋主」(いはひぬし(いわいぬし))・「齋(いはひ(いわい))の大人(うし)」を指すか。

「日本についての支那の記錄」不詳。卑弥呼の妖しい宗教的祭儀を記した「魏志倭人傳」を指すとしても、ここに記された内容とは一致しない。]

進化論講話 丘淺次郎 第十二章 分布學上の事實(1) 序

 

    第十二章 分布學上の事實

 

Kajitutosyusitonosanpu

[果實と種子との散布]

[やぶちゃん注:この図は講談社学術文庫版ではカットされている。キャプションは右上から左下へ、

「もみぢ」・「ぬすびとはぎ」・「ほんせんくわ」

「なんてん」・「きんみづひき」・「こくさぎ」

「かたばみ」・「やぶじらみ」・「すみれ」

「あれちのぎく」・「やし」

である。以下、総て学名を示す。丸括弧内は漢字表記の一例を示す。

「もみぢ」(楓・紅葉)植物界被子植物門双子葉植物綱ムクロジ(無患子)目ムクロジ科カエデ属 Acer に属する種群の総称。多くはアジアに自生し、約百二十八種が記載されている。

「ぬすびとはぎ」(盜人萩)マメ目マメ科マメ亜科ヌスビトハギ連ヌスビトハギ亜連ヌスビトハギ属亜種ヌスビトハギ変種ヌスビトハギ Desmodium podocarpum subsp. oxyphyllum

「ほんせんくわ」(鳳仙花)フウロソウ目ツリフネソウ科ツリフネソウ属ホウセンカ Impatiens balsamina

「なんてん」(南天)キンポウゲ(金鳳花)目メギ(目木)科ナンテン亜科ナンテン属ナンテン Nandina domestica

「きんみづひき」(金水引)バラ目バラ科バラ亜科キンミズヒキ属シベリアキンミズヒキ変種キンミズヒキAgrimonia pilosa var. japonica

「こくさぎ」(小臭木)ムクロジ目ミカン科コクサギ属コクサギ Orixa japonica

「かたばみ」(方喰・酢漿草)カタバミ目カタバミ科カタバミ属Oxalis亜属 Corniculatae 節カタバミ Oxalis corniculata

「やぶじらみ」(藪虱)バラ亜綱セリ目セリ科ヤブジラミ属ヤブジラミ Torilis japonica

「すみれ」(菫)

「あれちのぎく」(荒地野菊)キク目キク科キク亜科 Astereae 連イズハハコ(伊豆母子)属アレチノギク Conyza bonariensis

・「やし」(椰子)被子植物門単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科 Arecaceae に属する種群の総称。熱帯地方を中心に二百五十三属約三千三百三十三種がある。本邦でもシュロ(シュロ属 Trachycarpus)など六属六種が自生する.

 

 動植物各種の地理的分布を調べて見ると、生物進化の證據といふべき事實を發見することが頗る多い。先づ動植物の移動する方法を考へるに、之には自ら進んで移るのと、他物のために移されるのとの二通りがある。植物は通常固著して動かぬもの故、その移動は總べて他物によるが、種子などは種々の方法によつて隨分遠方までも達することが出來る。「たんぽぽ」の種子の風に飛ばされることは人の知る通りであるが、種子にはかやうな毛が生じたり、翅狀の附屬物が附いてあつたりして、特に風に吹き散らされるに都合の好い仕掛けの出來たものが多い。また或る種類では果實の色が美しく、味が甘いので鳥が之を食ひ、種子だけが諸方へ散るやうになつて居る。その他椰子の果實などは、海に落ちたものが潮流に隨つて非常に遠い島まで流れて行くこともある。種子の時代には活動もせぬ代りに何年も何十年も死にもせず、全く浪や風次第で何處へでも生きながら移される故、植物は自身に運動の力が無くてもその傳播することは却つて動物よりは容易で、迅速である。動物の方には通常かやうな時代がないから、運動の力はあつても種々の事情で制限せられ、何處までも行くことの出來ぬものが多い。小い蟲類は隨分遠方までも風に吹かれるもので、陸地から何百里も隔てた大洋の中央にある汽船に、蝶が澤山に飛び込んだこともあるが、稍々大きな動物になると、風に吹き飛ばされて遠方へ行く望のあるのは、鳥と蝙蝠だけに過ぎぬ。また常に陸上に生活する動物は長く水中に居れば溺死を免れぬから、到底潮流に隨つて遠方まで流されて行くことも出來ぬ。それ故、植物の傳播に最も有力な風と潮流とは稍々大きな動物に對しては全く無功である。倂し之はたゞ一般から論じただけのことで、尚詳細に調べて見ると隨分思い掛けぬやうな方法により、動物が一地方から他の地方に移ることがある。陸上の獸類が廣い海を越えて隣の島に移ることは先づ出來ぬことであるが、絶對にないとは斷言が出來ぬ。また現に熊の如き身體の重い獸類でさへ、北海道の岸から五里ほども隔つたリシリ島へ游いで渉つた所を獵師に補へられたことがある。熱帶地方の大河では、洪水の際に上流の岸が壞れ、そこに生えて居た樹木が筏の如くなつて流れ下ることが常にあるが、或る時南アメリカモンテヴィデオ市の眞中にかやうな筏に乘つて黑虎が四疋も漂着し、市中大騷ぎをしたこともあるから、獸類が之に乘つたまゝで海へ流れ出し、隣の島に著したとすれば、隨分移住の出來ぬこととも限らぬ。その他木片が海岸に流れ著くことは常のことで、千島邊では之を拾ひ集めて一年中の薪とし、尚餘る位であるが、若し斯かる木片に昆蟲の卵などが附いて居て、萬に一も尚生活力を保つて居たならば、之も打ち上げられた處で繁殖せぬとも限らぬ。特に今日では人間の交通が盛になり、荷物の運輸が夥しいから、之に紛れ込んで知らぬ間に或る地方に入り込んだ動植物も既に澤山にある。

[やぶちゃん注:「熊の如き身體の重い獸類でさへ、北海道の岸から五里ほども隔つたリシリ島へ游いで渉つた所を獵師に補へられたことがある」二〇〇九年八月、礼文島と利尻島に行った際、「利尻島郷土資料館」で、そのヒグマの剥製を見た。こちらでその「解説シート」(PDF)が読める。それによれば、渡って来たのを発見されて撲殺されたのは(リンク先にその際の写真が載る)、明治四五(一九一二)年五月二十四日のことで、の成獣で体長は二・四メートル、体重三百キログラムであったという(当時の新聞記事によれば、同年五月二十二日頃には既に渡島していたらしく、推定では利尻島の対岸天塩から島に泳ぎ渡って一度上陸、その後に再び海に入り、再び上陸しようと海岸に向かって泳いでいたところを漁師たちに発見されたものらしい)。最終捕獲地である北海道利尻郡利尻富士町鬼脇旭浜(ここ(グーグル・マップ・データ))から利尻隧道を最短で北海道内地と計測しても十九キロメートル強ある。私は剥製になった彼を見ながら、彼がどんな思いとどんな目的でこの海を渡ったのかを考え、その悲惨な最期に思いを致した時、何か、しみじみとした思いに沈まざるを得なかったのを思い出す。

モンテヴィデオ市」モンテビデオ(スペイン語: Montevideo)は南アメリカ南東部に位置するウルグアイ東方共和国(República Oriental del Uruguay)の首都。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「黑虎」発見された場所から見て、人の飼っていたものが逃げ出したものでないとするなら、哺乳綱食肉目ネコ型亜目ネコ科ヒョウ亜科 Pantherini 族ヒョウ属ジャガー Panthera oncaのに黒変種個体(比較的しばしば見られる)群(家族群)か。

 

Sigikarasugai

[鴨の足に挾み著いた烏貝]

[やぶちゃん注:脚が挟みこまれたしまったもので、事実として他者から聴かれたものではあろうが、この絵を挿入する際の丘先生には、当然、かの「戦国策」の「燕策」に載る故事「漁夫の利」が念頭にあられたことは想像に難くない。これは講談社学術文庫の絵を採った。

「鴫」チドリ目チドリ亜目シギ科 Scolopacidae

「烏貝」「からすがい」であるが、これは斧足綱古異歯亜綱イシガイ目イシガイ科イケチョウ亜科カラスガイCristaria plicata 及び同属の琵琶湖固有種メンカラスガイCristaria plicata clessini (カラスガイに比して殻が薄く、殻幅が膨らむ)と、イシガイ科ドブガイ属 Sinanodonta に属する大型のヌマガイ Sinanodonta lauta(ドブガイA型)と、小型のタガイ Sinanodonta japonica(ドブガイB型)の二種を広義に指す。カラスガイとドブガイとは、その貝の蝶番(縫合部)で識別が出来る。カラスガイは左側の擬主歯がなく、右の後側歯はある(擬主歯及び後側歯は貝の縫合(蝶番)部分に見られる突起)が、ドブガイには左側の擬主歯も右の後側歯もない。私の電子テクスト寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部」 の「蚌(どぶがい)」及び「馬刀(からすがい)」の項の注で詳細に分析しているので参照されたい。]

 

 特に意外の傳播法の具はつたものは、淡水産の動物で、微細な下等動物のことは略し、稍々大きなものだけに就いていつても、その例は隨分多い。貝類の子は何にでも介殼を以て挾み著く癖のあるもので、水鳥の足・羽毛等に附著して、なかなか遠方まで行くことが常であるが、嘗て鴫の足に大きな鳥貝の挾み著いて居るのが、獵で取れたこともあるから、生長し終つたものでも往々この方法で移轉するものと見える。また魚類の卵も同じく鴨や雁の足に泥と共に附著して遠方へ行くもので、これらの水鳥の足を水で洗ひ、その水を器に入れて置くと、實に種々の動物がその中で生ずるが、之は孰れも卵・幼蟲等の形で泥の中に混じてあつたものである。また颱風の際に貝や魚が水と共に卷き上げられ、他の場所に降つて落ちることがある。著者の友人は現に斯くして降つた泥鰌を拾ひ取つた。斯くの如く種々の傳播法があつて、常に諸地方のものが相交るから、淡水産の動物はどの國のも大同小異で、同一の種類がヨーロッパにも日本にも居ることが決して珍しくない。鯉・鮒などはその例である。ダーウィンも世界週航の際、南アメリカで淡水産の微細な動物を採集して、そのイギリス産のものに餘り善く似て居るのに驚いたというて居るが、かやうな微細な種類になると、恰も植物の種子に相當する如きものが生じ、この物が風に吹かれて何處へでも達する故、世界中到る處に同種同屬のものが産する。

 斯くの如く、動物の傳播のためには種々の手段があるが、淡水産の動物を除き、陸上の鳥類・獸類だけに就いて考へて見るに、獸類が狹い海峽を游いで渡ることは往々あるが、廣い海を越えて先の島まで行くことは偶然の好機會が無ければ出來ぬこと故、實際に於ては先づないといふて宜しい。また鳥の方は獸類に比べると移轉は遙に容易であるが、同じ鳥類の中にも飛ぶ力の強いものもあり、弱いものもあり、翼の力には各種にそれぞれ制限がある故、遠く隔たつた處に移るには、風の力によらなければ、到底出來ぬものが多い。かやうに鳥獸の類では、海を越えて移ることは餘程困難で、一地方の産と他の地方の産とが混じ合ふことも隨つて甚だ少いわけ故、動物分布の有樣を調べるに當つては、先づこれらの動物から始めるのが便利である。次に述べる所も、主として鳥類・獸類の分布に關することである。

 動物の分布を論ずるに當つて豫めいうて置くべきは、土地の昇降、海陸形狀の變遷のことである。今日陸である處は決して昔から始終陸であつたとは限らず、また今日海である處も決して昔から始終海であつたとは限らぬ。桑田の變じて海となることは古人も既に注意した所で、我が國でも東海岸の方には年々新しい田地が出來るが、西海岸の方は少しづ降つて海となり、有名な安宅(あたか)の關も今では海から遠い沖の中程になつてしまつた。それ故、今日は相離れて居るが、昔陸續(りくつゞき)であつた處もあれば、もと相離れて居た處が後に連絡する處もある。今日の地質學者一般の説によれば、地殼の昇降は遲いながら曾て絶えぬが、大洋の底が現れて大陸となつたり、大陸がそのまゝ急に降つて大洋の底となる程の大變化は無かつたらしい。卽ち今日の大陸の大體の形だけは、既に餘程古い頃から定まつて、その後はたゞ地殼の昇降により、海岸線の模樣が常に變化し來つただけのやうに思はれる。之によつて考へて見ると大陸と島との間、または島と島との聞の海の深さを測つて見て、餘り深くない處は元は地續であつたものと見倣して差支なく、また、間の海が非常に深ければ之は元來全く離れて居て一度も互に連絡しなかつたものと見倣すのが至當である。たゞ表面から見ると、どこの海も單に深いと思はれるだけであるが、その深さを數字で表せば、處により實に非常な相違で、日本・支那などの間はどこでも大抵百尋[やぶちゃん注:長さの単位である「尋」(ひろ)は五尺(約一・五一五メートル、乃至、六尺(一・八一六メートル)であるが、水深に用いる場合は六尺とされるので、ここは百八十一・六メートルとなる。]位に過ぎぬが、奧州の海岸を少し東へ距つた處では、海の表面から底までの距離が二里[やぶちゃん注:七千八百五十四・五二メートル。]以上もある。尤も二里以上といふ深さの處は餘り多くはないが、凡そ大洋と名の附く處ならば、大概一里[やぶちゃん注:三千九百二十七・二六メートル。]以上の深さは確にある。二里と百尋とではその間の割合は四十倍以上に當るから、殆ど四尺と一寸程の相違であるが、大洋に比べると大陸沿岸の海の深さは實に斯くの如くで、殆ど比較にもならぬ。それ故、假に海水が二百尋も低く下つたと想像すると、日本の列島は勿論、ジャヴァスマトラボルネオ等の東印度諸島は皆アジアと陸續になつてしまひ、島として殘るのは遠く陸地を離れた、グァムサイパンマーシャル群島の如き所謂南洋の孤島ばかりである。大陸の岸に沿うた島は、かやうに考へて見ると、大陸と頗る關係の密なもので、實際種々の點から見ても、もと大陸の一部であつたものが後に離れたといふのが確なやうである。

[やぶちゃん注:「安宅(あたか)の關も今では海から遠い沖の中程になつてしまつた」現在、かの安宅の関所跡は石川県小松市安宅町の(グーグル・マップ・データ)に史跡としてあるが、丘先生の言われるように、海岸線の変動などによって、ここよりも二、三里沖の海中であったとも言われている。]

 以上はその道の專門學者の研究した結論で、今日皆人の信ずる所であるが、現在の動物分布の有樣を調べ、それをこの考に照し合せて見ると、生物進化の證據といふべき事實を、到る處に發見することが出來る。例へば生物各種は皆共同の先祖より樹枝狀に進化して分かれ降つたものとすれば、獸類も蛙類も各々その一枝をなすこと故、世界中の獸類・蛙類は各々その共同の先祖から降つたものでなければならず、而してその子孫たるものは生活の出來る處ならば、何處までも移り廣がるべきであるが、兩方とも飛ぶことも、長く泳ぐことも出來ぬもの故、海濱に達すれば、そこで移住力が止まり、最早進むことは出來ぬ。それ故、大洋の眞中にある如き、初めから大陸と全く離れて居た孤島には、到底移ることが出來ぬ理窟である。所で、實際分布の有樣は如何と調べて見ると、全くその通りで、大洋中の離れ島には、發見の當時、獸類・蛙類の居た例がない。海鳥は隨分多く居るが、その他は風で飛んで來る昆蟲の類か、然らざれば蟹・寄居蟹[やぶちゃん注:「やどかり」。]の如き海から陸上に移つたものばかりである。之は決して斯かる島は獸類・蛙類の生活に適せぬからといふ譯ではない。後に牛・山羊等を輸入した處では、孰れも盛に繁殖したのを見ると、寧ろ或る獸類の生活には最も適當な場所といはねばならぬ。斯く適當であるに拘らず、實際全く獸類を産せぬといふことは、進化論から見れば必然のことであるが、天地開闢の際に適當の場所に各々適當の動物が造られたといふ説とは全然矛盾する事實である。

2018/02/21

進化論講話 丘淺次郎 第十一章 分類學上の事實(5) 四 所謂自然分類 / 第十一章 分類學上の事實~了

 

     四 所謂自然分類

 

 動植物の種屬を分類するには、如何なる標準によつても出來ることで、恰も書物を分類するに、出版の年月によつても、版の大きさによつても、國語分けにも、著者の姓名のいろは分けにも出來る如く、雄蘂の數・雌蘂の數・葉の形または外形・住處、運動法等の孰れを取つても出來ぬことはないが、斯くして造つた分類表は、所謂人爲分類で、檢索に多少の使があるだけで、單に目錄としての外には何の意味もない。之に反して、當今、分類學を研究する人の理想とする所は、所謂自然分類で、完成した曉には各種屬の系圖を一目瞭然たらしめる積りの分類法である。今日の所では生物學者であつて生物進化の事實を認めぬ人は人もないから、分類に從事する人も單に種類の數を多く列擧するばかりでは滿足せず、その進化し來つた路筋に就いて自分の推察する所を述べ、之によつて種屬を組に分ち、同じ枝より起つたものは同じ組に入れ、別の枝より生じたものは別の組に離して、恰も樹の枝を起源によつて分類するのと同樣な心持ちで分類して居るが、之が卽ち所謂自然分類である。素より孰れの方面でもまだ研究の最中故、詳網の所まで少しも動かぬやうな自然分類は到底出來ぬが、大體の形だけは略々定まつたものと見て宜しい。當今の動物學書・植物學書の中に用ゐてある分類は、各々その著者の想像した自然分類で、彼此相比[やぶちゃん注:「かれこれあひくら(かれこれあいくら)」。]べて見ると尚隨分著しく相違した處もあるが、生物全體を一大樹木の形に見倣して分類してあることは、皆一樣である。之だけは最早動かぬ所であらう。また脊椎動物・節足動物・軟體動物等を各々太い枝と見倣すことも皆一致して居るが、之も先づ動くことはない。今より後の研究によつて確定すべきは、之より以下の點のみである。

 この自然分類といふものは生物進化の事實を認めて後に、初めて意味を有するもの故、之を以て直に生物進化の證據とすることは出來ぬが、今日までの分類法の進步を調べると、進化論を認めると認めないとに拘らず、一步づゝ理想的自然分類に近づき來つたことが明である。初は單に外形によつて分類して居たが、解剖學上の知識が進んで來ると、内部の構造を度外視するのは無理であるといふ考が起り、之に基づいて分類法を改め、次に發生學上の知識が進めば、また發生學上の事實を無視した分類は眞の分類でないといふ考が生じ、更に之に隨つて分類法を改め、漸々進んでいつとなく今日の自然分類になつたので、生物進化論が出てから、急に分類法を一變して組み改めた譯ではない。今日では分類を試みるに當つて、初めから進化の考を持つてかゝるが、所謂自然分類の大體は進化論の出る前から既に出來て居て、單に最も適當な分類法として用ゐられて居た、その所へ進化論が出て、それに深遠な意味のあることが初めて解つたといふだけである。

 自然分類その物だけでは、生物進化の證據といへぬかも知れぬが、進化論に關係なく、たゞ一般の生物學知識の進步の結果として出來た分類が、進化論を基礎とした理想上の分類と丁度一致したことは、やはり進化論の正しい證據と見倣さなければならぬ。

 

進化論講話 丘淺次郎 第十一章 分類學上の事實(4) 三 所屬不明の動植物

 

     三 所屬不明の動植物

 

 現今生存して居る動植物の種類は實に何十萬といふ程であるが、この中から最も相似たものを集めて、各一屬に組み合せ、屬を集めて科を作り、科を集めて目を造ろうと試みると、實際孰れの方へ編入して宜しいやら判斷の出來ぬやうな屬・科・目等が幾らもあることを發見する。それ故、全動植物を二大分類系統の中に奇麗に組み込んでしまはうとすれば、その際所屬の解らぬ屬・科等が幾つか剩つて[やぶちゃん注:「あまつて(あまって)」。余って。]大いに困ることが屢々ある。かやうなものは據なく[やぶちゃん注:「よんどころなく」。]孰れかの綱・目に附屬として添へて置く位より致し方もないから、今日の動物學書・植物學書を開いて見ると、その類の部には必ず若干の所屬不明の動植物の例が擧げてあるが、その各々を何類の附屬として取扱うかは、全くその著者の鑑定のみによることで、その見る所が各々違ふ、結果同一の動植物が甲の書物と乙の書物とでは、分類上、隨分相隔たつた處に編入してあることが往々ある。現今の多數の動植物學者の著書を比べて見るに、分類の大體は既に略々一定した有樣で、脊椎動物・節足動物・軟體動物といふやうな明な門或はその中の明な各綱等に就いては、最早何の議論もないやうであるが、こゝに述べた如きものになると、その分類上の位置に關する學者の考がまだ樣々で、少しも確なことは知れぬ。

 

Kagimusi

[かぎむし]

 

Hoya

Hoyakoudansyagakujyu

[海鞘]

[やぶちゃん注:前者は底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像を補正して用いた。後者はその国立国会図書館デジタルコレクションの画像と講談社学術文庫版の両方を並べた。底本が写真で、後者が絵で、異なるからでもあるが、実は私はホヤを激しく偏愛しているからというのが正直な理由である。例外的に「カギムシ」も「ホヤ」も種明かしは段落後の注に回そう。その方が面白いからね。]

 

 かやうな動植物の例は今日相當に多く知れてあるが、その大部分は人間の日常の生活には何の關係もない類故、普通の人は氣が附かぬ。一二の例を擧げて見ると、我が國の海岸の泥の中などに澤山に産する「いむし」と稱するものなどもやはりこの仲間で、何の類に入れて宜しいか善くは解らぬ。この蟲は、鯛を釣るための餌として漁夫の常に用ゐるものであるが、恰も甘薯[やぶちゃん注:サツマイモ。]のやうな形で、表面にも内部にも少しも節はないから、通常、蚯蚓・「ごかい」などの類に附屬させてはあるが、この類の特徴ともいふベき點は全く訣けて居る。また西印度・アフリカニュージーランドなどに産する「かぎむし」といふものは、恰も蜈蚣(むかで)と「ごかい」との間の如き蟲で、一對の觸角を有し、陸上に住して空氣を呼吸する點は、蜈蚣と少しも違はぬが、足に節のないこと、その他内部の構造などを考へると、寧ろ「ごかい」の方に近いかと思はれる位で、いづれに組み入れて宜しいか全く曖昧である。またこゝに圖を擧げた海鞘(ほや)の如きも、單に發生の途中に一度脊椎動物らしい形態を具へた時期があるといふだけで、その生長し終つた後の姿は少しも脊椎動物に似た處はない。それ故その分類上の位置に就いては種々の議論があつて、なかなか確定したものと見倣す譯には行かぬ。

[やぶちゃん注:ここと次の段落は私にとっては恍惚となるほど嬉しい箇所である。私の偏愛する海産生物が立て続けに登場するからである。

「いむし」現行の正式和名は「ユムシ」で、ここは諸叙述から、動物界 Animalia 冠輪動物上門 Lophotrochozoa ユムシ動物門 Echiura のユムシ目 Xenopneusta ユムシ科 Urechidae ユムシ属 Urechis ユムシUrechis unicinctus に同定してよい。漢字では「螠虫」で「ゆむし」と表記する。ここでは主に小学館の「日本大百科全書」から引こう。環形動物門ユムシ綱Echiuroideaに属する海産動物の総称(ユムシ類は世界で約百五十種ほど)、又はその中の上記した一種を指す。ユムシ類は総てが海産で、泥の中に掘ったU字形の穴や岩の隙間などに棲む。体は円筒状又は卵状を成し、吻部と胴部とに分かれる。体の表面には多くの小さな疣(いぼ)状の突起があるが、環節や疣足・触手も持たない。口のやや後方の腹側に、一対の腹剛毛があり、さらに肛門の周りに一つか二つの環列を成した尾剛毛を有する。頭部の先端には箆(へら)状の吻があるが、これは体内に引き込むことは出来ない。吻が長いものではキタユムシ目Echiuroineaキタユムシ科Echiuridae イケダ属 Ikeda サナダユムシIkeda taenioidesのように、体長四十センチメートルに対して、吻の長さが一・五メートルにも及ぶものもいる。多くの種では吻の表面に繊毛が密生しており、海水や微小な餌が繊毛溝を伝わって口へ運ばれるようになっている。消化管は長く、螺旋状に巻いており、体の末端にある肛門に続く。排出器は一~四対であるが、例外的に上記のサナダユムシには二百~四百対もある。雌雄異体で、卵は海中に放出され、ばらばらに海底に沈んで受精される。幼生は軟体動物門の貝類に特徴的なトロコフォラ型である、浮遊生活をした後に変態して成体となる。また、キタユムシ目ボネリムシ科Bonellidae ボネリアBonellia を代表とするボネリムシの類は、著しい性的二型を示すことで知られ、は非常に小さく、の咽頭或いは腎管中に寄生しており、は幼生の状態のままにとどまって、精巣だけが発達している幼体成熟(ネオテニー:neoteny)の最たるものである。ユムシ類は環形動物の多毛綱 Polychaeta・貧毛綱 Oligochaeta・ヒル綱 Hirudinoideaなどとは体制が非常に異なっていることから、分類学上、独立した一つの門 Echiura とする学者もいるが、ユムシの発生の途中で体節構造がみられることから、環形動物門 Annelida に含める学者も多い。私も現時点では前者を支持する。但し、近年の分子生物学的研究では完全に環形動物門多毛類に属しているとする主張もあるという。一方、種としてのユムシUrechis unicinctusは、体長十~三十センチメートルで、吻は短い円錐状を成し、体表は赤みを帯びた乳白色で、多くの皮膚乳頭を有する。口のすぐ後方に一対の腹剛毛があり、肛門の周囲にも九本から十三本の尾剛毛が一環列に並んでいる。北海道から九州までの沿岸の砂泥中にU字状の穴を掘ってすみ、穴の両端は低い襟状に隆起している。非常に古くから、タイ・カレイ・クロダイなどの釣り餌として用られている。最後はウィキの「ユムシ動物」も参考にして述べよう。そうした有用魚の餌としての利用の古さから地方名が多く、「アカナマコ」・「カキムシ」・「ユ」・「ムジ」・「コウジ」・「ルッツ」(北海道)・「イイ」(和歌山)・「イイマラ」(九州)などとも呼ばれる。この「マラ」は形状が男根に酷似することに由来すると考えてよいであろう。丘先生の「いむし」も単に「ゆむし」の訛りともとれるが、最後の二つの異称などとの親和性もある。「イイ」「イイマラ」は私は矢張り、男根を意味する「㔟(セイ)」の「イ」ではないかと推理している。『体部は細長い円筒形で、前端に吻をもち、その吻の付け根に口がある。付属肢も疣足もないが、わずかに剛毛がある』。『干潟などの浅い海域の砂地に棲息し、縦穴を掘ってその中に生息し、干潮時には巣穴に隠れる』。『韓国では、砂地の海底で鈎状の漁具を曳いて採り、「ケブル(개불)」と称して沿岸地域で刺身のように生食したり、串焼き、ホイル焼きなどにされ、割と一般的に食される。中国の大連市や青島市などでは「ハイチャン(海腸、拼音: hǎicháng)」と称して、ニラなどと共に炒め物にしたり、茹でて和え物にして食べる。日本でも北海道の一部などで、刺身、酢味噌和え、煮物、干物など食用にされるが、いわゆる珍味の一種であり、一般的な食材ではない』。『グリシンやアラニンなどのアミノ酸を多く含むため、甘味があり、コリコリした食感で、ミル貝に似た味がする』。『クロダイやマダイ釣りの釣り餌としても使われる』。私はさる本邦の店で特に予約注文をして取り寄せて貰い、刺身を食してみたが、まことに美味であった。すこぶる附きでお薦めの食材である。また、二十数年前、金沢八景の海の海岸で潮干狩りをした際、岸から程遠からぬ場所で数十センチメートルの本種を巣ごと現認、何か、とても嬉しかったことを覚えている。以下に、廣川書店平成六(一九九四)年刊の永井彰監訳 Thomas M.Niesen“The MARINE BIOLOGY COLORING BOOK”「カラースケッチ 海洋生物学」の「海産環形動物 ユムシ類」のレジュメと私が彩色した図を掲げる。こんなカラーリングを三十七歳の高校国語教師が嬉々としてやっていたさまを想像して見るがいい。私が如何にとんでもない海産無脊椎動物フリークであったかがお分かり戴けるであろう。

 

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「かぎむし」現在は独立した動物界 Animalia真正後生動物亜界 Eumetazoa脱皮動物上門 Ecdysozoa有爪(ゆうそう)動物門 Onychophora に、彼らだけで同門にカギムシ綱 Onychophoridaカギムシ目 Euonychophora として単独で配されている(ペリパツス科 Peripatidae・ペリパトプシス科 Peripatopsidae の二科)を作っている。ウィキの「有爪動物」によれば、『森の落ち葉の下などに棲んでいるカギムシ類のみが知られ』、『細長くて柔らかい動物である。全身は赤褐色、黒、緑など様々だが、黒紫色のものが多いらしい。発見当初はナメクジの』一『種として記載された』。『体は細長く、やや腹背に扁平、背面は盛り上がり、腹面は平らになっている。全身がビロード状の柔らかい皮膚に覆われる。頭部には』一『対の触角があり、その基部には眼がある。頭部の下面には口があって、その側面に』一『対の付属肢がある』。『頭部以降の胴体には、対を成す付属肢が並ぶ。付属肢は円錐形に突出し、先端には鈎爪がある。腹部末端に肛門がある。生殖孔は最後の附属肢の間の腹面中央か、もう一つ前の附属肢の間に開く』。『呼吸は気管によって行われる。体表のあちこちに気門が開き、その内部にはフラスコ型の気管嚢がある。気管はここから』二~三『本が体の内部へと伸び、それらは互いに癒合することがない』。『雌雄異体で、体内受精によって生殖する。雄は精包を雌の体表に貼り付け、精子はその皮膚を貫いて雌の体に侵入し、卵を受精させる。卵を産み出す場合と、体内で孵化するものがある。また、一部の種では胎盤が形成される胎生を行う』。『熱帯多雨林の地表や朽ち木の中などに生息する。肉食性で、小型の昆虫等を捕食する。餌をとるときは口のそばにある粘液腺から白い糸のように見える粘液を噴出し、これを獲物に引っかけて動けなくする。場合によっては』三十センチメートル『ほども飛ぶ。この粘液は防御のためにも使われる』。『触角や付属肢の配置等は節足動物のそれにほぼ一致する。体内の構造にも腎管の配置などに体節制を感じさせるものがある。しかし、見掛け上も内部構造にも体節が存在せず、付属肢も関節が無い。節足動物に似た点が多いもののこのような点で異なることから、緩歩動物、舌形動物(五口動物)と併せて』、『側節足動物という群にまとめられることもある』。『環形動物の多毛類に似ている点として、付属肢が疣足状であること、平滑筋であること、生殖輸管や腎管に繊毛があることなどが挙げられる。かつては節足動物が環形動物から進化したと考えられたため、この両者をつなぐ位置にあるものと考えられたこともある』。『バージェス動物群の一つであるハルキゲニア(Hallucigenia)やアイシュアイア(Aysheaia)は、この有爪動物門に属するものと考えられ』てい『る。バージェス頁岩だけでなく、中国などのカンブリア紀の地層からも類似の動物化石が見つかっている。節足動物と類縁の原始的な動物門と考えられている』但し、『ハルキゲニアやアイシュアイアは海に生息していたが、現生種では海中に生息しているものは』一『種も存在しない』とある。ここに出るカギムシの捕食行動は多くの動画で見ることが出来る。私が昔見たのは、“Bizarre Slime Cannon Attack | World's Deadliest”でその技に大いに感動した。但し、ワーム(蠕虫)系が苦手な方は見ない方がよかろうとは思う。

「海鞘(ほや)」ここに掲げられた個体は、写真も図も孰れも、動物界 Animalia脊索動物門 Chordata尾索動物亜門 Urochordataホヤ綱 Ascidiaceaマボヤ目 Pleurogona マボヤ亜目 Stolidobranchiaマボヤ科 Pyuridae マボヤ属 Halocynthia マボヤ Halocynthia roretzi である。あげな、不可思議な形をしよるに、我々、人間に近い生物なんやで! 要するに、微小な幼生期(オタマジャクシ型を成す)に我々の脊髄の元となるものと同じ脊索が形成されるんやで! 私が本種及び海鞘類について語り出すと、徹夜になるから、これはこれ、自粛致すこととしよう。そこで例えば、以下の私の記載を読まれんことをお薦めする。しかし、それらの私の注に目を通すだけでも、夜が明けてしまうかも知れぬ。

海産生物古記録集2 「筠庭雑録」に表われたるホヤの記載

海産生物古記録集4 後藤梨春「随観写真」に表われたるボウズボヤ及びホヤ類の記載

海産生物古記録集5 広瀬旭荘「九桂草堂随筆」に表われたるホヤの記載

大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 ホヤ

『博物学古記録翻刻訳注 13 「本朝食鑑 第十二巻」に現われたる老海鼠(ほや)の記載』

毛利梅園「梅園介譜」 老海鼠このマボヤの絵は絶品!

『武蔵石寿「目八譜」の「東開婦人ホヤ粘着ノモノ」』これには実は私は副題で「真正の学術画像が頗るポルノグラフィとなる語(こと)」というのを添えてある。しかし私は非常に美しいと思っている

『神田玄泉「日東魚譜」老金鼠(ホヤ)』

最後の三つの絵だけを見るのも一興であろう。]

Gibosimusi

[ぎぼしむし]

[立体感があるので、底本の国立国会図書館デジタルコレクションの図を採用した。]

 その他海岸の砂の中に住む「ぎぼしむし」といふものがあるが、この蟲は恰も紐の如き形で、長さが一尺から三尺位までもあり、極めて柔で切れ易く、殆ど完全には捕れぬ程で外形からいへば、少しも脊椎動物と似た點はないが、これを解剖してその食道・呼吸器等の構造を調べて見ると、多少魚類などに固有な點を見出すことが出來る。食道から體外へ鯉孔が開いて、こゝで呼吸の作用を營む動物は、魚類の外には先づ皆無といふべき有樣であるが、この「ぎぼしむし」は食道が多數の鰓孔で直に、體外に開いて居る外に、詳しく比較解剖して見ると、なお脊椎勤物に似た一二の性質があるから、現今ではこれをも脊椎動物に近いものと見倣す人が甚だ多い。倂し、この動物と普通の脊椎動物との間の相違は如何にも甚だしいから、これを以て脊椎動物に最も近いと見倣す考が正しいか否かは、まだ容易に判斷することは出來ぬ。

[やぶちゃん注:「ぎぼしむし」新字で漢字表記するなら、「擬宝珠虫」である。あの橋などの欄干の飾りの「擬宝珠」(ぎぼし・ぎぼうしゅ)である。動物界 Animalia半索動物門 Hemichordata腸鰓(ギボシムシ)綱Enteropneusta に属する純海産の動物群の総称。ギボシムシを知っている方は殆どおられぬであろうから(ウィキにさえ「ギボシムシ」の項はない)、ここに主に保育社平成七(一九九五)年刊「原色検索日本海岸動物図鑑[]」の西川輝昭先生の記載から生物学的な現在の知見を詳述する。

  半索動物門の現生種にはもう一つ、翼鰓(フサカツギ)綱Pterobranceiaがあるが、そこに共通する現生半索動物門と二綱の特徴は以下の通り(西川氏の記載に基づき、一部を省略・簡約し、他資料を追加した)。

体制は基本的に左右相称。前体(protosome)・中体(mesosome)・後体(metasome)という前後に連続する三部分から成り、それぞれに前体腔(一個)・中体腔(一対)・後体腔(一対)を含む。これらは異体腔であるが、個体発生が進むと体腔上皮細胞が筋肉や結合組織に分化して腔所を満たすことが多い。前体腔及び中体腔は小孔によってそれぞれ外界と連絡する。

後体の前端部(咽頭)側壁に、外界に開き繊毛を備えた鰓裂(gill slit)を持つ。鰓裂を持つのは動物界にあって半索動物と脊索動物だけであり、両者の類縁関係が推定される[やぶちゃん注:下線やぶちゃんウィキの「半索動物」によれば現在、18SrDNAを用いた解析結果などによると、ギボシムシ様の自由生活性動物が脊索動物との共通祖先であることを支持する結果が得られている。この蚯蚓の化け物のようにしか見えない奇体な生物は、正しく我々ヒトの祖先と繋がっているということなのである。]。

口盲管(buccal diverticulum)を持つ。これは消化管の前端背正中部の壁が体内深く、円柱状に陥入したもので,ギボシムシ類では前体内にある。口盲管はかつて脊索動物の脊索と相同とされ、そのため半「索」動物の名を得た。現在ではこの相同性は一般に否定されているが(ウィキの「半索動物」によれば、例えば脊索形成時に発現するBra遺伝子が口盲管の形成時には認められないなどが挙げられるという)、異論もある。

神経細胞や神経繊維は表皮層及び消化管上皮層の基部にあり、繊維層は部分的に索状に肥厚する。中体の背正中部に襟神経索(collar nerve cord)と呼ばれる部分があるが、神経中枢として機能するかどうかは未解明である。

開放血管系を持ち、血液は無色、口盲管に付随した心胞(heart vesicle)という閉じた袋の働きで循環する。

排出は前体の体腔上皮が変形した脈球(glomerulus)と呼ばれる器官で行なわれ、老廃物は前体腔を経て外界に排出される。

消化管は完全で、口と肛門を持つ。

一般に雌雄異体。生殖腺は後体にあり、体表皮の基底膜と後体腔上皮とによって表面を覆われている。外界とは体表に開いた小孔でのみ連絡する。但し、無性生殖や再生も稀ではない。

体表は繊毛に覆われ、粘液で常に潤っている。石灰質の骨格を全く欠き、体は千切れ易い。

 腸鰓(ギボシムシ)綱 Enteropneusta は、触手腕を持たず、消化管が直走する点で、中体部に一対以上の触手腕を持ち、U字型消化管を持つ翼鰓(フサカツギ)綱Pterobranceiaと区別される。

以下、西川先生の「ギボシムシ綱 ENTEROPNEUSTA」の記載に基づく(アラビア数字や句読点、表現の一部を本テクストに合わせて変更させて戴き、各部の解説を読み易くするために適宜改行、他資料を追加した)。

  細長いながむし状で動きは鈍く、砂泥底に潜んで自由生活し、群体をつくることはない。全長数センチメートル程度の小型種から二メートルを超すものまである。

 前体に相当する吻(proboscis)は、外形がドングリや擬宝珠に似ており、これが本動物群の英俗称“acorn worm”[やぶちゃん注:“acorn”は「ドングリ」。]や「ギボシムシ」の名の由来である。吻は活発に形を変え、砂中での移動や穴堀りそして摂餌に用いられる。

 中体である襟(collar)は短い円筒形で、その内壁背部に吻の基部(吻柄)が吻骨格(proboscis skeleton:但し、これは基底膜の肥厚に過ぎず、石灰化した「骨格」とは異なる)に補強されて結合する。吻の腹面と襟との隙間に口が開く。
 後体は体幹あるいは軀幹(trunk)と呼ばれ、体長の大部分を占めるが、その中央を広いトンネル状に貫いて消化管が通る。途中で肝盲嚢突起(hepatic saccules)を背方に突出させる種もある。

 生殖腺は体幹の前半部に集中し、ここを生殖域と呼ぶが、この部分が側方に多少とも張り出す場合にはこれを生殖隆起、それが薄く広がる場合にはこれを生殖翼と、それぞれ呼称する。

 彼等は砂泥を食べ、その中に含まれる有機物を摂取するほか、海水中に浮遊する有機物細片を吻の表面に密生する繊毛と粘液のはたらきにより集め、消化管に導く。この時、鰓裂にある繊毛が引き起こす水流も役立つ。消化し残した大量の砂泥を紐状に排出し、糞塊に積みあげる種も少なくない。

 鰓裂は水の排出経路としてはたらくだけでなく、その周囲に分布する血管を通じてガス交換にも役立つ。鰓裂は背部の開いたU字形で、基底膜が肥厚した支持構造を持つ点、ナメクジウオ類の持つ鰓列と似る[やぶちゃん注:「ナメクジウオ類」は、やはり我々脊椎動物のルーツに近いとされる「生きた化石」の、脊索動物門頭索動物亜門ナメクジウオ綱ナメクジウオ目ナメクジウオ科ナメタジウオ Branchiostoma belcheri とその仲間を指す。]。鰓列は種によって異なるが(十二から七百対)、鰓裂のそれぞれは鰓室という小室を経て触孔(gill pore)と呼ぶ小孔で外界と連絡する。各鰓裂に、微小な鰓裂架橋(synapticula)がいくつか備わることもある。

 本種の際立った特徴である、虫体が発するヨードホルム臭と形容される独特の強いにおいは、ハロゲン化フェノール類やハロゲン化インドール類によるものである。

 また、過酸化型のルシフェリンルシフェラーゼ反応による発光がみられる種もある。

 雌雄異体で体外受精する。トルナリア(tornaria)と呼ばれる浮遊幼生の時期(最長九ヶ月を超す)を経た後、適当な砂泥底に降りて変態する種のほか、こうした時期を経ず直接発生する種も知られている。後者では、一時的に肛門の後ろに尾のような付属部(肛後尾 postanal tail)が現れ、その系統学的意味づけが議論を呼んでいる。有性生殖のほか、一部の種では再生や,体幹の特定の部分から小芽体が切り離される方式による無性生殖も知られている。

 体腔形成の様式はまだよくわかっていない。[やぶちゃん注:中略。]

 潮間帯から深海にいたる全世界の海域よりこれまでに七十種以上が知られ,四科十三属に分類される(目レベルの分類は提唱されていない)。わが国からは三科四属にわたる七種が記録されているが、調査はまだきわめて不十分であり、将来かなりの数の日本新記録の属・種が報告されることは確実である。[やぶちゃん注:二〇〇八年の“An overview of taxonomical study of enteropneusts in Japan. Taxa 25: 29-36.”によると全十六種を数える。]

 以下、本邦四科を示す。

  ハネナシギボシムシ科 Spengeliidae

 ギボシムシ科 Ptychoderidae

 ハリマニア科 Harrimaniidae

 オウカンギボシムシ科 Saxipendiidae

 以上、「原色検索日本海岸動物図鑑[]」の西川輝昭先生の記載に基づく引用を終わる。実は以上は既に私が六年前、「生物學講話 丘淺次郎 六 泥土を嚥むもの~(1)」で注したものを援用したものである。そこで私は以下のように擱筆した。その思いは今も変わらぬので、そのまま引いておく。『刊行されてすぐに購入したこの二冊で五万円した図鑑を、今日、初めて有益に使用出来た気がした。本書をテクスト化しなければ、私はこの、素人では持て余してしまう』、『とんでもない図鑑を使う機会もなかったに違いない。再度、丘先生と西川先生に謝意を表するものである』。]

 海鞘・「ぎぼしむし」などには實際少しも脊椎といふものがないから、これらまでを脊椎動物に合して、之を總括した門を置くとすれば、之を脊椎動物と名づける譯には行かぬ。それ故、別に脊索動物門といふ名稱を造り、脊索動物門を分ちて幾つかの亞門とし、第一の亞門には海鞘類、

點が發見になると、之をもその部類に附け添えるが適當であるとの考が起るが、さて之を加へ込むと、その第二亞門には「ぎぼしむし」を當て嵌め、第三の亞門を脊椎動物と名づけて、更に之を哺乳類・鳥類云々と分けるやうにして居る人が今日ではなかなか多いが、斯くすれば分類の階段がこゝにも一つ增す。前の節にも述べた通り、研究の進むに隨つて分類の階段を漸々增さざるを得ぬに至る理由は多くはこの通りで、所屬の明でない動物の解剖・發生等を取調べた結果、從來確定して居る或る動物の部類に多少似た點が發見されると、之をもその部類に附け添へるが適當であるとの考が起るが、さて之を加へ込むと、その部類の範圍が廣くなる故、先づ之を大別してかからなければならず、終に新な階段を設ける必要が生ずるのである。また植物の方でも、從來顯花植物と隱花植物とは、その區別が割合に判然で、種子を生ずるのは顯花植物のみである如くに思はれて居たが、近來の化石植物研究の結果によると、古代の外形が羊齒類に極めてよく似ている或る種の大木は、確に種子を生じたものであることが明に知れた。今日ではこれらの化石植物を「羊齒種子植物」と名づけて居る。

[やぶちゃん注:植物界 Plantae シダ種子植物門 Pteridospermatophyta シダ種子植物綱 Pteridospermopsida。丘先生の言うように現生種はなく、化石種(絶滅種)のみからなる。ウィキの「シダ種子類」によれば、約二億五千万年前の『デボン紀後期から栄え、白亜紀に絶滅した。典型的なものでは』、『現生のシダに似た葉(栄養葉と胞子葉が分化していない)に種子がついているが、その他に形態的には異なるが関連すると考えられる多数の種類を含む』。『胞子は雌雄の区別(大胞子と小胞子)があり、大胞子は葉上で発生して胚珠を形成し、ここに小胞子が付いて発生し受精が行われたと思われる。より進化したとされるものでは栄養葉と胞子葉が分化している』。『系統関係は明らかでなく、現生裸子植物の祖先もしくは近縁と考えられるものや、被子植物の祖先に近いともいわれるものを含み、原始的な種子植物からなる側系統群と見られている』とある。私は化石種の場合、琥珀に丸ごと閉じ込められたものや、完全冷凍になった遺体といった特殊なケースを除いて、概ね、旧態然とした形態比較からしか分類が出来ないことから、現行の最新の分類学と同等に扱うことは出来ないと考えているので、ここでは綱以下の学名を示さないこととする。]

 

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[羊齒植物(復元圖)]

[やぶちゃん注:講談社学術文庫の図を採った。]

 

 分類といふことは、元來人間が勝手に行ふことであるから、個體を集めて之を種に分ちとき、種を集めて之を屬に分つとき、屬を集めて之を科に分つときなどに、若干の曖昧なものが後に剩つたからというて、之を以て直に生物進化の證據と見倣すベからざるは勿論であるが、斯かる所屬不明の動植物が皆他の大きな綱目等の特徴を一部分だけ具へ、中には二個以上の大きな綱目の特徴を一部分づゝ兼ね具へて、恰も二個以上の綱目を繋ぎ合せる如き性質を帶びて居るものがあるのは如何なることを意味するものであらうか。例へば動物を脊椎動物と無脊椎動物とに分けようとすれば、海鞘・「ぎぼしむし」の如き脊椎動物の特徴の一小部分だけを具へたものがその間にあつて、孰れにも明には屬せず、分類の標準の定め方次第にて、或は脊椎動物の方へも或は無脊椎動物の方へも入れられるといふことは、何を意味するものであらうかと考へるに、生物各種を全く互に關係のないものとすれば素より何の意味もないが、生物は總べて同一の先祖から分かれ降つたとすれば、斯かる曖昧な種類は、二個以上の綱目の共同の先祖の有して居た性質をそのままに承け繼いで降つた子孫、或は一綱・一目の進化の初期の性質をそのままに承け繼いで來つたものと見倣して、その存在する理由を多少理會することが出來る。一々例を擧げて説明すれば、こゝに述べたことを尚明に示すことは出來るが、所屬不明の動物の最も面白い例は多くは海産・淡水産等の下等動物で、顯微鏡で見なければ解らぬやうな類もあり、普通に人の見慣れた動物とは餘程違ふものが多い故、こゝには略して置くこととした。

 

進化論講話 丘淺次郎 第十一章 分類學上の事實(3) 二 幾段にも分類を要すること

 

     二 幾段にも分類を要すること

 

 分類の單位なる種の定義を確に定めることは、なかなか容易でなく、場合によつては到底出來ぬこともあるが、實際分類するに當つては、兎に角、種といふものを定めて之を出發點とし、更に屬に組み、科に合せて、系統に造つて居る。而してその系統といふものを見れば、孰れも大群の内に小群を設け、小群を更に小な群に分ち、每段斯くの如くにして數段の階級を造り、最下級の群の中に各種類を編入してあるが、追々研究が進み、分類が細かになつた結果、門・綱・目・科・屬・種等の階級だけでは到底間に合はなくなり、今日の所では門の次に亞門を設け、綱の次に亞綱を置き、亞目・亞科・亞屬・亞種等の階段までも用ゐ、尚足らぬ故、更に區とか、部とか、組とか、隊とか名づける新しい階段までを造つて、十數段にも分類してある。似たものは相近づけ、異なつたものは相遠ざけるといふ主義に從うて、澤山の種類を分類すれば、その結果として組の中にまた組を設け、終に斯く多數の階段を造らなければならぬに至ることは、抑々如何なる理由によるものかと考へて見るに、之は生物種屬不變の説と敢へて雨立の出來ぬといふ譯ではないが、生物各種を初めから全く互に無關係のものとすれば、たゞ何の意味もないことになる。然るに、生物各種は皆共同の先祖から樹枝狀に分かれて進化し降つたものと見倣せば、分類の結果の斯くなるのは必然のことで、理窟から考へた結論と、實物を調査した結果とが、全然一致したことに當る故、理窟の正しい證據ともなり、また之によつて分類といふことに尚一層深い意味のあることが解る。

[やぶちゃん注:現行の旧来の階級分類でも「」((界の下層階でウイルスのみに使用。英語はgroup/一部の細菌で門の下層階に使用。英語はsection))、及び綱の下層で「」、その下で「」(これは魚類分類ではよく見かける)、科の下で「」(植物では「」)、植物のみで「連」の下に「」を、そのさらに下に同じく植物のみで「」や「」をよく見かける。また、他に「」(超科は貝類分類ではしばしば見かける)「」(後掲するカンガルを見よ)・「」や「」(上(下)目や上科は一般的)の他、魚類の「上目」と「目」の間の「」(近年(と言ってもこの魚類の「系」自体の初提唱は一九六六年)の魚類分類で、棘鰭上目 Acanthopterygii とスズキ目 Perciformesの間に、スズキ系 Percomorpha を見かけることが多くなった。調べてみると、棘鰭上目は現行ではボラ系 Mugilomorpha・トウゴロウイワシ系 Atherinomorpha と、このスズキ系の三群に分けられているようである。まあ、確かに魚類の大部分が十把一絡げにスズキ目だったのには正直、疑問はあった)なども見る。また以前に述べた通り、今はまだ一般人は聞き慣れない「スーパーグループ(supergroup」という階級単位様群集団が、ドメインの下層階や、それ以下の階級に顔を出し始めている。]

 元來天然に實際存在してあるものは、生物の各個體ばかりで、種とか屬とかいふものは素より天然にはない。個體の存在して居ることは爭はれぬ事實であるが、種とか屬とかいふのは、たゞ我々が若干の相似た個體を集め、その共通の特徴を抽象して腦髓の内に造つた觀念に過ぎぬ。屬・種以上の階段も無論同樣である。而して我々が初めて造る觀念は、分類の階段中孰れの段かと考へるに、最上でもなく、最下でもなく、中段の處で、それより知識の進むに隨ひ、上の段も下の段も追々造るやうになつた。恰も望遠鏡が良くなるに隨ひ、益々大きな事も知れ、顯微鏡の改良が出來るに隨つて、益々小い事も知れるに至るのと同樣で、何事も先づ最初は手頃な邊から始まるものである。本州の熊は黑いが、北海道の熊は赤いなどといふときの熊といふ考は、決して今日の所謂一種ではなく、寧ろ屬か科位な所であるが、初めは皆この位な考で、多數の動植物を知つてもたゞ之を禽・獸・蟲・魚位に區別し、一列に竝べて置くに過ぎなかつた。然るに研究が進むに隨つて、一方には尚之を細に分つて、屬・種・變種等に區別し、一方には之を合して目・綱等に組立て、組の中にまた組を設ける必要が生じて、リンネーの「博物綱目」には綱・目・屬・種の四段分類を用ゐてあるが、尚その後に門を設け、科を置きなどして、遂に今日の如き極めて複雜な分類法が出來るに至つたのである。分類は斯くの如く全く人間のなす業で、四段に分けようとも十六段に分けようとも、天然には素より何の變りなく、學者の議論が如何に定まらうとも、柳は綠、花は紅であることは元のまゝ故、一々の分類上の細かい説を敢へて取るに及ばぬが、解剖學上・發生學上の事實を基として似たものを相近づけ、異なつたものを相遠ざけるといふ主義で行ふ今日の分類法に於て、斯く幾段にも組の中にまた組を造らねばならぬことは、卽ち生物各個體の間の類似の度が斯かる有樣であることを示すもの故、之は生物種屬の起源を尋ねるに當つては、特に注意して考ふべき點である。

[やぶちゃん注:「本州の熊は黑いが、北海道の熊は赤いなどといふときの熊といふ考は、決して今日の所謂一種ではなく、寧ろ屬か科位な所である」正直、この譬え話は適切とは思われない。何故なら、本邦の「本州」には動物界 Animalia脊索動物門 Chordata脊椎動物亜門 Vertebrata哺乳綱 Mammalia食肉目 Carnivoraクマ科 Ursidaeクマ属 Ursusツキノワグマ Ursus thibetanus しか棲息しておらず、北海道にはツキノワグマは棲息せず、クマ属 Ursusヒグマ Ursus arctos亜種エゾヒグマ Ursus arctos yesoensis しかいないからで、この「本州の熊は黑いが、北海道の熊は赤い」という命題は地名を出すことによって、存在する熊の種自体が完全に限定され、相互に誤認しようがないわけで、しかも黄褐色系個体がよく見られるのは確かに後者であるのだから、自ずと、結果的には全く異なる生物種を示していることに他ならない(誤認や誤解やいい加減な言説(ディスクール)たりえない)からである。寧ろ、同一種を違うとする誤った見解例(例えば、「本土狐と四国・九州の狐では警戒心が違う」とか「本州の狸と佐渡島の狸では毛並が違う」(私が勝手に作った作文である))を示すべきであると私は思う。

『リンネーの「博物綱目」には綱・目・屬・種の四段分類を用ゐてある』既注であるが、大分前(「第二章 進化論の歷史(1) 序・一 リンネー(生物種屬不變の説)」)なので、再掲しておくと、「分類学の父」と呼ばれるスウェーデンの博物学者カール・フォン・リンネ(Carl von Linné:ラテン語名:カロルス・リンナエウス Carolus Linnaeus 一七〇七年~一七七八年)が一七三五年、二十八歳の時に、動物・植物・鉱物の三界を扱って、分類を試みた「自然の体系」(Systema Naturae 第一版。ここで言っている「博物綱目」)を出版、「動物命名法」の基準は、その二十三年後に出た第十版(一七五八年刊)に発表され、他に一七三七年の「植物の属」(Genera Plantarum)、一七五三年の「植物の種」(Species Plantarum:この第一版が「植物命名法」の基準となった)といった著作の長い期間に亙る刊行と、その流布の結果として近代分類学の一大改革は行われた。]

 生物は總べて共同の先祖より漸々進化して分かれ降つたものとすれば、その系圖は一大樹木の形をなすべきことは、既に度々言つた通りであるが、假に一本の大木を取つて、その無數にある末梢を各起源に潮つて分類し、同じ處から分かれたものを各々一組に合せ、同じ枝から生じたものを各々一團として、全體を分類し盡したと想像したならば、如何なる有樣の分類が出來るかと考へるに、幹が分れて太い枝となる處もあり、また細い枝が分かれて梢となる處もあり、股に分かれる處は幹の基から梢の末に至るまでの間に殆ど何處にもあるといふわけ故、最も末の股で分かれたものを束ねて各々小い一組とすれば、次の股で分かれたものは更に合せて梢々大きな組とせなければならず、全體を分類し終るまでには、實に多數の階段が出來るに相違ない。これと同樣の理窟で、生物各種が皆進化によつて生じたものとすれば、これを分類するに當つて夥多の階段の出來るのは必然のことである。今日實際の分類法に於て門・亞門・綱・亞綱等の多數の階段を用ゐ、常に組の中にまた組を設けて居るのは、進化論の僅期する所と全然一致したことといはなければならぬ。

 

Kamonohasi

[鴨の嘴とその卵]

[やぶちゃん注:学術文庫版の絵を用いた。「鴨の嘴」とは無論、動物界 Animalia 脊索動物門 Chordata 脊椎動物亜門 Vertebrata 哺乳綱 Mammalia 原獣亜綱 Prototheria 単孔目 Monotremata カモノハシ科 Ornithorhynchidae カモノハシ属 Ornithorhynchus カモノハシ Ornithorhynchus anatinus。現生種は一科一属一種。ウィキの「カモノハシによれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、『オーストラリア(クイーンズランド州東部、ニューサウスウェールズ州東部、ビクトリア州、タスマニア州)』のみに分布し、『分布域内では、熱帯雨林、亜熱帯雨林、ユーカリなどの硬葉樹林、高山地帯などの淡水の河川や湖沼などに生息している』。『カモノハシがヨーロッパ人により最初に発見されたのは一七九八年のことであり、カモノハシの毛皮やスケッチが第二代ニューサウスウェールズ州総督であったジョン・ハンターによりグレートブリテン王国へと送られた。イギリスの科学者達は、当初はこの標本は模造品であると考えていた。一七九九年に』“Naturalist's Miscellany”へ『この動物について最初に記載をおこなったジョージ・ショーは、「それが本物であることを疑わずにはいられない」と主張し、ロバート・ノックスはアジア人の剥製師による物と信じていたという。誰かがビーバーのような動物の体にカモのくちばしを縫い付けた物であると考えられ、ショーは縫い目がないかどうかを確認するために、毛皮に切り込みを入れた』という。『英語の一般名である“platypus”はギリシア語で「平たい」を意味する』語と、『「足」を意味する』語と『からなり、「扁平な足」を意味する。ショーは記述に際して、リンネの分類の属名としてplatypusを当てたが、この語はすぐにキクイムシ科の昆虫のPlatypus属につけられていることが分かったため、一八〇〇年にヨハン・ブルーメンバハにより、ジョゼフ・バンクスから送られた標本に基づき Ornithorhynchus paradoxus として記述され、後に先取権の原則により Ornithorhynchus anatinus と学名がつけられた。 Ornithorhynchus anatinus という学名はギリシア語で「鳥の口吻」を意味する』種名と、『ラテン語で「カモのような」を意味する』種小名『anatinusからなる』。『全長はオスで最大六十三センチメートル、メスで最大五十五センチメートル、尾長は八・五~十五センチメートル、体重はオスで一~三キログラム、メスで〇・七~一・八キログラム。全身には一立法センチメートル当たり六百本以上の柔らかい体毛が生えている。体毛の色は背面は褐色から茶褐色で、腹面は乳白色である。外側の毛は水を弾き、内側の毛は保温性に優れている』。『名前の通りカモのように幅が広く、ゴムのような弾性のあるくちばしを持ち、外見上の大きな特徴の一つとなっている。このくちばしには鋭敏な神経が通っていて、獲物の生体電流を感知することができる。一方、カモノハシには歯がなく、長らく謎とされてきたが、三重大学などの共同研究チームの調査で、くちばしの向きや電気感覚を脳に伝える三叉神経が発達したために』、『歯の生える空間が奪われ』、『歯の消滅につながったと考えられている』。『四肢は短く、水掻きが発達している。オスの後脚には蹴爪があり、この蹴爪からは毒が分泌されている。メスも若い時には後脚に蹴爪があるが、成長の過程で消失する』。『哺乳類ではあるが乳首は持たず、メスが育児で授乳の際は、腹部にある乳腺から乳が分泌される』。『カモノハシはオスもメスも蹴爪を持って生まれるが、オスのみが毒の混合物を分泌する蹴爪を持っている。この毒は主にディフェンシンのようなタンパク質類(DPL)で構成されており、その中の三種はカモノハシ特有のものである』。『このディフェンシンのようなタンパク質はカモノハシの免疫機構により』、『生産されている。イヌのような小動物を殺すのには十分な強さの毒で、ヒトに対しては致死的ではないものの、被害者が無力になるほどの強い痛みがある。その痛みは大量のモルヒネを投与しても鎮静できないほどであるという。毒による浮腫(むくみ)は傷の周囲から急速に広がり、四肢まで徐々に広がっていく。事例研究から得られた情報によると、痛みは持続的な痛みに対して高い感受性を持つ感覚過敏症となり、数日から時には数ヶ月も続くことが指摘されている。だが、ヒトがカモノハシの毒で死亡した例は報告されていない。毒はオスの足にある胞状腺で生産されており、この腎臓の形をした胞状腺は後肢の踵骨の蹴爪へ、管によってつながっている。メスのカモノハシは、ハリモグラ類と同じで、未発達の蹴爪の芽があるが、これは発達せずに一歳になる前に脱落し、足の腺は機能を欠いている』。『毒は哺乳類以外の種によって生産される毒とは異なった機能を持つと考えられている。毒の効果は生命に危険を及ぼすほどではないが、それでも外敵を弱めるには十分な強さである。オスのみが毒を生産し、繁殖期の間に生産量が増すため、この期間に優位性を主張するための攻撃的な武器として使われると考えられている』。『群れは形成せず単独で生活し、夕方や早朝に活動が最も活発になる薄明薄暮性である』。『水中では目を閉じて泳ぐが、くちばしで生体電流を感知し獲物を探す。動かなければ最大で十一分ほど』、『水中に潜っていることができるが、通常は一~二分程度である。食性は肉食性で昆虫類、甲殻類、貝類、ミミズ、魚類、両生類等を食べる』。『陸上を移動する場合、前足が地面に着く時に水掻きのある指を後ろに折りたたむようにして歩く』。『水辺に穴を掘り巣にする。巣穴の入り口は水中や土手にあり、さらに水辺の植物等に隠れ、外からはわからないようになっている』。『繁殖期は緯度によるが八月から十月である。繁殖形態は哺乳類では非常に珍しい卵生で、巣穴の中で一回に一~三個の卵を産む。卵の大きさは約十七ミリメートルで、卵殻は弾性があり』、『かつ』、『粘り気のある物質で覆われている。卵はメスが抱卵し、約十~十二日で孵化する』。『子供はくちばしの先端に卵嘴を持ち、卵嘴を使用して卵殻を割って出てくる。成体の四分の三程度の大きさになるまでに離乳し、約四ヶ月で独立する』。『メスは約二年で成熟する。寿命は最大で二十一年』とある。]

 

 また知識の進むに隨つて、分類に用ゐる階段の追々增加することも進化論の豫期する所である。前の樹木の枝を分類する譬によるに、昨晩薄暗い時に分類して置いたものを今朝明るい處で見れば、或は一旦二本に分かれ、更に各々二本に分かれて居る枝を、同時に四本に分かれたものと見誤り、單に一束として、階段を一つ飛ばしてあつたことを發見することもあれば、或は細い枝が一本橫へ出て居るのに氣附かずして、そのため階段を一つ脱(ぬ)かしたことを見出すこともあつて、細かく調べる程、階段の數は增すばかりであるが、實際の分類法が次第に變遷して複雜になり來つた模樣は全く之と同樣である。一二の例を擧げれば、從來脊椎動物門を分つて哺乳類・鳥類・爬蟲類・兩棲類・魚類と平等に五綱にしてあつたが、發生を調べて見ると、蛙・蠑螈[やぶちゃん注:「ゐもり(いもり)」。]等を含む兩棲類は甚だ魚類に似て、蜥蜴[やぶちゃん注:「とかげ」。]・蛇・龜の類を含む爬蟲類は甚だ鳥類に似て居ることが解つたので、脊椎動物を直に以上の五綱に分けるのは穩當でないとの考から、今日では先づ之を魚形類・蜥蜴形類・哺乳類の三つに分け、魚形類を更に魚類と兩棲類とに分ち、蜥蜴形類を更に爬蟲類と鳥類とに分つことになつて、分類の階段が一つ增した。また哺乳類も從來は單に猿類・食肉類云々と云ふ十二三の目に分けて、孰れも悉く胎生のものとしてあつたが、今より三十五年程前にその中の或る種類は卵を産むといふことが確に發見せられた。卵を産む獸といふのはオーストラリヤタスマニヤ邊に産する「鴨(かも)の嘴(はし)」といふ猫位の動物で水邊に巢を造り、恰も河獺[やぶちゃん注:「かはうそ(かわうそ)」。]の如き生活を營んで居るが、鷄卵よりも稍々小い卵を産む。また同じく胎生するものの中でも、詳細に調べて見ると、發育の模樣に大きな差があり、人間の胎兒は九箇月間も母の胎内に留まつて發生するが、殆ど人間と同じ大きさ位の「カンガルー」の胎兒は、僅一箇月にもならぬときに生み出され、殘後の八箇月分は母の腹の前面にある特別の袋の内で發育する。この獸の生れたばかりの幼兒は實に小なもので、我々の親指の一節程よりない。之が袋の中で、乳首に吸ひ著き、親の乳房と子の口とが癒着して一寸引いても離れぬやうになる故、初めて之を發見した人は誤つてこの獸は芽生すると言ひ出した。これらの獸類はたゞ子の生み方ばかりでなく、他の點に於ても著しく異なつた處が多いから、斯かるものを皆平等に一列に竝べて分類するのは、理に背いたことであるといふ考から、今日では哺乳類を別つて原獸類・後獸類・眞獸類の三部とし、第一部には「鴨の嘴」を入れ、第二部には「カンガルー」の類を入れ、第三部には總べて他の類を入れて、更に之を從來の如く十何目かに分けるやうになつたので、こゝにも一段分類の階段が增した。かやうな例は各門・各綱の中に幾らでもあるが、分類の階段の增して行く有樣は皆この通りで、先に樹木の枝に譬へたことと理窟は少しも違はぬ。

[やぶちゃん注:『今日では哺乳類を別つて原獸類・後獸類・眞獸類の三部とし、第一部には「鴨の嘴」を入れ、第二部には「カンガルー」の類を入れ、第三部には總べて他の類を入れて、更に之を從來の如く十何目かに分けるやうになつたので、こゝにも一段分類の階段が增した』現行ではこれがまた修正されている。現在の動物界 Animalia 脊索動物門 Chordata 脊椎動物亜門 Vertebrata 四肢動物上綱 Tetrapoda 哺乳綱 Mammalia原獣亜綱原獣亜綱 Prototheria 及び後獣下綱 Metatheria真獣下綱 Eutheriaの階級の異なる三群に分かれている。これは当初作った異獣亜綱 Allotheria が絶滅種の亜綱に変更され、現生種の原獣亜綱原獣亜綱以外の哺乳類を獣亜綱 Theria に移して後獣下綱及び真獣下綱に配したからである。既に示した通り、カモノハシは原獣亜綱単孔目 Monotremata へ(カモノハシ目は現生種ではハリモグラ科 Tachyglossidaeハリモグラ属 Tachyglossusの四種と合わせて五種しか現存しない)、一般に呼ばれるところのカンガルーは後獣下綱オーストラリア有袋大目 Australidelphia 双前歯目 Diprotodontia カンガルー形亜目 Macropodiformes カンガルー上科 Macropodoidea カンガルー科 Macropodidae に配されている。]

 斯くの如く、種の境の判然せぬものが澤山にあることも、分類するには數多の階段を設けて、組の中にまた組を造らねばならぬことも、また研究の進むに隨つて分類の階段の增すことも、總べて進化論から見れば必然のことであるが、實際に於ても現にその通りになつて居る所から考へると、我々は是非とも生物進化の論を正しいと認め、これらの分類上の事實を生物進化の證據の一と見倣すより外は致し方がない。自分で何か或る一目・一科の標本を集め、實物に就いて解剖・發生等を調べ、之を基としてその分類を試みれば、誰も生物進化の形跡を認めざるを得ぬもので、今日斯かる研究に從事した人の報告を讀んで見ると、必ず、解剖上・發生上の事實から推してその進化し來つた系圖を論じてある。つまり、生物種屬の不變であるといふ考は、何事も細かく研究せぬ間は不都合も感ぜぬが、聊でも詳細な事實を知ることとなれば、到底之を改めざるを得ぬものである。

 

進化論講話 丘淺次郎 第十一章 分類學上の事實(2) 一 種の境の判然せぬこと

 

     一 種の境の判然せぬこと

 

 以上述べただけから見ると、動植物を分類するのは何でもないことで、誰にでも直に出來そうであるが、實際澤山に標本を集めてして見ると、非常に困難で、決して滿足に出來るものではない。種類を知ることの少い間、標本の多く集まらぬ内は、蹄の一つあるものは馬である、角に枝のあるものは鹿であると、簡單にいうて居られるが、今日の如くに種類の多く知られて居る時代に、十分に標本を集めて調べ始めると、分類の單位とする種の境を定めることが、既になかなか容易でない。

 既に第五章でも説いた如く、動植物には變異性と名づける性質があつて、溫帶のものを熱帶に移したり、海濱のものを山奧に持つて行つたりすると、著しく變化するもので、風土が異なれば、假令同種のものでも多少相異なるを免れぬ。靑森の林檎を紀州に移し、紀州の蜜柑を靑森に植ゑ換へれば、種は一つでも全く異なつたものとなつてしまふ。土地每に名物とする固有の天然物のあるのは、つまり他に移しては、そこの通りに出來ぬからである。されば博く標本を集めると、一種の中でも種々形狀の異なつたものがあり、往々別種かと思はれる程に違つたものもあるが、斯かる場合には分類上之を如何に取扱ふかといふに、中開に立つて相繫ぎ合せるものが存する限りは、兩端にあるものが如何に相異なつても、その間に判然と境が附けられぬから、總べてを合せて一種となし、形狀の相違するものを各々その中の變種と見倣すのが、殆ど學者間の規約になつて居る。それ故今日二種と思ふて居るものも、その中間に立つものが發見せられたために、明目は一種中の二變種と見倣されるに至ることも甚だ屢々で、その例は分類學の雜誌を見れば、每號飽くほどある。また實際中間に立つものが無く、境が判然解つて居ても、その間の相違が他の種類の變種の相違位に過ぎぬときは、之を一種中に收めて單に二變種と見倣すことも常であるが、この場合には二種と見倣すか一種中の二變種と見倣すかは、分類する人の鑑定次第で、孰れともなるもの故、人が違へば説も違つて、爭の絶えることがない。

 斯くの如き有樣故、種とは決して一般に世間の人の考へる如き境の判然と解つたものではない。この事は諸國の動物志・植物志などを開いて見さへすれば、直に氣の附くことで、同一の實物を研究しながら、甲の學者は之を十種に分け、乙は之を二十種に分け、丙は之を五十種に分けるとか、また丁は之を總べて合して一種と見倣すとかいふことは幾らもある。ヨーロッパで醫用に供する蛭の如きも、當時は先づ一種二變種位に分ける人が多いが、一時は之を六十七種にも分けた學者がある。樫類の例、海綿類の例は前にも擧げたが、特に海綿の類などは、種の範圍を定めることが非常にむずかしく、之を研究した學者の中には、海綿にはたゞ形狀の變化があるだけで、種の境はないと斷言した人もある位で、現に相州三崎邊には、俗に「ぐみ」及び「たうなす」と呼ぶ二種類の海綿があつて、一は小い卵形で、恰も「ぐみ」の果實の如く、他は球を扁平にした形で、全く「たうなす」の名に背かぬが、一年餘もこの研究ばかりに從事した人の話によると、如何に調べても區別が附かぬとの事である。種とは何ぞやといふ問題は、昔から幾度となく繰り返して議論せられたが、ここに述べた如き次第故、何度論じても決着するに至らず、今日と雖も例外を許さぬやうな種の定義を下すことは到底出來ぬ。

[やぶちゃん注:「醫用に供する蛭」現行では環形動物門 Annelida ヒル綱 Hirudinoidea ヒル亜綱 Hirudinea無吻蛭(顎ヒル)目 Arhynchobdellidaヒルド科 Hirudidae ヒルド属 Hirudo ヒルド・メディシナリス Hirudo medicinalis をタイプ種としており、ほかに同属のHirudo orientalisHirudo troctinaHirudo verbena の三種、また別属らしい Hirudinaria manillensisMacrobdella decora という二種の名を英文ウィキのHirudo medicinalisに見出せる。後者二種が前の三種のシノニムでないとするならば、現在の医療用ヒルは六種を数えることが出来ることになる。

「樫類の例」直前の「第十一章 分類學上の事實 序」を参照。

「海綿類の例」「第五章 野生の動植物の變異」の「三 他の動物の變異」の冒頭であるが、『下等動物には變異の甚だしいものが頗る多い。中にも海綿の類などは餘り變異が烈しいので、種屬を分類することが殆ど出來ぬ程のものもある。現に海綿の或る部類は種屬識別の標準の立て方次第で、一屬三種とも十一屬百三十五種とも見ることが出來るといふが、これらの動物ではたゞ變異があるばかりで、種屬の區別はないといつて宜しい』とあるだけで、ちょっとしか述べられていない。

「ぐみ」動物界Animalia海綿動物門 Porifera 普通海綿綱 Demospongiae四放海綿亜綱 Tetrectinomorpha螺旋海綿目Spirophoridaマルガタカイメン科Tetillidae Tetilla 属グミカイメンTetilla japonica。形状の類似からの「茱萸海綿」である。所持する保育社平成四(一九九二)年刊西村三郎編著「原色検索日本海岸動物図鑑[]」の記載に基づいたものを示す。高さ一~三・五センチメートル、径〇・五~二センチメートル。煉瓦色から橙黄色の卵形の単体を成し、頂端に一個の大きな孔が開く。下端には根毛様の束があり、これによって海底の砂上に起立している。内部は大孔から胃腔へ向かって溝が放射状に分かれており、鞭毛室に続いている。骨格を形成する主な大骨片は、桿状体・前向きの三叉体・後ろ向きの三叉体が束になって、体中央のやや上部の一点を中心にして放射状に配列する。根毛束には長さ二センチメートルに達する長い後ろ向きの三叉体がある。本州沿岸の浅海に普通に見られ、卵は体外に放出されて体外受精して、直接、発生する。グーグル画像検索「グミカイメン」をリンクさせておくが、原物写真は初めの五枚ぐらいしかない。

「たうなす」同じTetilla 属のトウナスカイメンTetilla serica。「トウナス」はやはり形状類似からの「唐茄子海綿」(南瓜(かぼちゃ))である。同じく西村三郎編著「原色検索日本海岸動物図鑑[]」により記載する。高さ五~六センチメートル、径八~九センチメートルに達する単体の海綿で、色彩も形も本邦のカボチャに似ている。生時は赤褐色から黄褐色を呈し、上端中央の窪んだ部分に大きな孔が開いており、そこから放射状に溝がある。下端には房状の根毛束があり、これによって砂泥上に定座している。骨格を形成している主な大骨片は桿状体と前向きの三叉体で、放射状に束になって配列している。根毛束には長さ六センチメートルに達する後ろ向きの三叉体がある。本州沿岸の浅海の砂泥底に普通に棲息し、前種と同じく卵生で、直接、発生する。同じくグーグル画像検索「トウナスカイメンをリンクさせておくが、やはりそれらしいのは数枚しか見当たらない。解剖学的所見は酷似するが、見た目の形状と色は全くの別種としか思われないところが、非常に興味深いではないか

「一年餘もこの研究ばかりに從事した人」これは恐らく、研究場所は現在の東京大学三崎臨海実験所で、研究者は確定は出来ないものの、海綿研究の嚆矢として知られる生物学者飯島魁(いいじまいさお 文久元(一八六一)年~大正一〇(一九二一)年)ではなかろうか? 彼は近代日本の生物学黎明期の学者で、鳥類や寄生虫に関する研究も多く、日本動物学の前進に大きな役割を果たした(海洋生物フリークの私にとっては)著名な人物である。]

 さて斯くの如く分類の單位なる種の範圍・境界が判然せぬ場合の多くあるのは何故であるかと考へるに、動植物各種が初めから別々に出來たものとすれば、少しも譯の解らぬことである。元來博物學者が種の境の判然せぬことを論じ始めたのは、割合に近い頃で、殆どダーウィンが自然淘汰の説を確めるために、野生動植物の變異性を研究したのが發端である。その以前の博物家は、動植物各種の模範的の形狀を腦中に畫き定め、採集に出掛けても、之に丁度當て嵌まるやうな標本のみを搜し求め、之と少しでも異なつたものは出來損じの不具者として捨てて顧みぬといふ有樣であつたから、目の前に幾ら變異性の證據があつても、之に注意せず、隨つて種の範圍の判然せぬことにも氣が附かなかつた。生物種屬の不變であるといふ考は、地球が動かぬといふ考と同じく、知識の狹い間は誰も免れぬことで、いつ始まつたといふ起源もなく、誰が主張し始めたといふ元祖もなく、たゞ當然のことと信じて濟ませて居たもの故、無論種の境の判然せぬことに氣の附かぬ前からのものであるが、今日から見ると極めて不都合で、最早到底維持することは出來ぬ。天地開闢のときに境の判然せぬ種類が澤山造られ、そのまゝ降つて今日に至つても尚境の判然せぬ種類があるといへば、それまでであるが、初の考は素よりさやうでは無く、たゞ若干の明に區別の出來る種類が造られて、そのまゝ今日まで存して居るといふ簡單な考であつたので、實際種の境の解らぬものが澤山に見出された以上は、決してそのままに主張し續けられるものではない。之に反して生物各種は共同の先祖から進化し來つたものとすれば、今より將に二三種に分かれようとする動植物は、恰も樹の枝の股の處に當るもの故、總體を一種と見ればその中の相違が甚だし過ぎるから、若干の變種を認めなければならず、また形の異なつたものを各々獨立の一種と見倣せば、その間に中間の形質のものが存在して、判然と境を定めることが出來ぬといふ有樣になるのは、當然のことである。この考を以て見れば、所謂變種といふものは、皆種の出來かゝりで、現在の變種は未來は各々獨立の一種となるべきものである。樹の枝の股の處は一本から二本または三本に分かれかゝる處で、一本とも二本或は三本とも明には數へられぬ如く、二三の著しい變種を含める動植物の種は一種から二三種に分かれかゝりの途中故、一種とも二種或は三種ともいへず、その間の曖昧な時代である。それ故斯かるものまでも込めて種の定義を下そうとするのは、到底無理なことで、今日まで議論の一定せぬのも素より當然のことといはねばならぬ。

 

進化論講話 丘淺次郎 第十一章 分類學上の事實(1) 序

 

    第十一章 分類學上の事實 

 

 動植物の中には、殆ど區別の出來ぬ程に相似たものもあれば、また少しも類似の點を見出すことの出來ぬ程に全く相異なつたものもあつて、その間には相類似する程度に無數の階級がある。鰈(かれひ)と比目魚(ひらめ)とは隨分間違える人があり、楢(なら)と樫(かし)との區別の出來ぬ人も澤山あるが、また一方で橙[やぶちゃん注:「だいだい」。]と昆布とを比べ、人間と蚤とを比べなどして見ると、殆ど共通の點を見出すことが出來ぬ程に違ふ。所で、何十萬もある動植物の種類を一々識別することは出來もせず、また生活上必要もないが、動植物は日夜我々の目に觸れるもので、食物も衣服も悉く之から取ること故、普通のものだけは是非區別して名を附けて置かねばならぬ。犬・猫・牛・馬・鳥・雀等の如き、一種每に全く別の名の附いてあるのは斯かる類であるが、このやうなもののみでも相應に數が多い故、尚その中でも相似たものを合せて、總括した名を造つて置かぬと極めて不便が多い。從來毛を以て被はれ、四足を用ゐて陸上を走るものを獸と名づけ、羽毛を以て被われ、翼を用ゐて空中を飛ぶものを鳥と名づけ、鱗を以て被はれ、鰭を用ゐて水中を泳ぐものを魚と名づけたのも、斯かる必要に應じてなした分類の初步である。

[やぶちゃん注:以下の生物では比較を明確にするために各分類階層のラテン名も示した。但し、比較対象と同一の階層のそれではラテン名は省略し、区別される上位の同一階層を和名のみで示した。

「鰈(かれひ)」動物界 Animalia 脊索動物門 Chordata 脊椎動物亜門 Vertebrata 魚上綱 Pisciformes条鰭綱 Actinopterygii カレイ目 Pleuronectiformes カレイ科 Pleuronectidae 或は上位のカレイ目に属する多様な種群の通称。

「比目魚(ひらめ)」カレイ目亜目カレイ亜目 Pleuronectoideiヒラメ科 Paralichthyidaeヒラメ属 Paralichthysヒラメ Paralichthys olivaceus 或はヒラメ科に属する種群。一般に「左ヒラメに右カレイ」と言われ、実際、通称のヒラメ類の目は多くの種で成体では両眼ともに頭部の左側半分に偏ってついているから区別出来ると言われるが、実際には、カレイ類に属するもので左側眼の種や個体はいるので、これは絶対の識別法ではない。例えば、カレイ科ヌマガレイ属 Platichthys ヌマガレイ Platichthys stellatus(本邦に北部分に広く分布するが、食用価値が低いために流通しない)はカレイであるが、眼は左につく。また、和名でも流通でも「カレイ」の和名を持っているカレイ目ダルマガレイ科 Bothidaeは全種で眼は左側につく。他にも頭部の左側に目を持つカレイもおり、更に、カレイ目ボウズガレイ亜目 Psettodoidei ボウズガレイ科 Psettodidae(一科一属三種。捕獲報告はあるようであるが恐らくは本邦には産しないようである。但し、近くでは台湾に分布するから、迷走個体は南西諸島にいないとは言えない。背鰭の起き始める部分が眼の位置よりも有意に後ろにあって、カレイ目の中では最も原始的な特徴を残す)は右側眼の個体と左側眼の個体がほぼ同数で出現する。別な形状で言うと、ヒラメはカレイに比べて口が大きいこと、歯も一つ一つが大きくて鋭いという点で、対称比較的な特徴は持つ。

「楢(なら)」植物界 Plantae 被子植物門Angiosperms 双子葉植物綱 Magnoliopsida ブナ目 Fagales ブナ科 Fagaceae コナラ属 Quercus コナラ亜属subgenesis Quercus に属する中で、落葉性の広葉樹の総称。英語名はオーク(oak)。本邦ではコナラ(小楢)Quercus serrata を指すことが多い。秋には葉が茶色くなることで知られている。

「樫(かし)」植物界被子植物門双子葉植物門ブナ目ブナ科コナラ属 Quercusの中の、常緑性の種を「カシ」と呼ぶが、本邦では、また、同じブナ科のマテバシイ(馬刀葉椎)属 Lithocarpus のシリブカガシ(尻深樫)Lithocarpus glaber も「カシ」と呼んでいる。また、身近なシイ属 Castanopsis も別名でクリガシ(栗樫)属と呼び、これらを「カシ」と呼んでいる人も実際に多いのが事実である(私はかつてアリスの散歩の途中で出逢った、地方出身の私より年若の婦人が落ちている「椎の実」を頻りに「樫の実!」と言っていたのを思い出す)。また、全く異なる種であるクスノキ類(被子植物綱クスノキ目 Laurales クスノキ科 Lauraceae)の一部にも葉の様子などが似ていることから、「カシ」と呼ぶものがある(以上はウィキの「カシ」に拠る)から、丘先生の「區別の出來ぬ人も澤山ある」というのは、民俗社会では少し厳し過ぎる謂いと言える。植物学的な詳細な相違は、「広島大学」公式サイト内の「地球資源論研究室」の「ブナとナラとカシ」がよい。必見!

「橙」植物界 Plantae 被子植物門 Magnoliophyta 双子葉植物綱 Magnoliopsida ムクロジ目 Sapindales ミカン科 Rutaceae ミカン属 Citrus ダイダイ Citrus aurantium。正月飾りに用いられる、お馴染みの柑橘類である。

「昆布」植物界ストラメノパイル群Stramenopiles 不等毛植物門 Heterokontophyta 褐藻綱 Phaeophyceae コンブ目 Laminariales コンブ科 Laminariaceae のコンブ類。生物学的分類以前からの呼称であり厳密な定義は不能であるが、葉の長細い食用のものが「昆布」と呼ばれる傾向はある。

「人間」動物界 Animalia 真正後生動物亜界 Eumetazoa 新口動物上門 Deuterostomia 脊索動物門 Chordata 脊椎動物亜門 Vertebrata 四肢動物上綱 Tetrapoda 哺乳綱 Mammalia 真獣下綱 Eutheria 真主齧上目 Euarchontoglires 真主獣大目 Euarchonta 霊長目 Primate 直鼻猿亜目 Haplorrhini(真猿亜目 Simiiformes)狭鼻下目 Catarrhini ヒト上科 Hominoidea ヒト科 Hominidae ヒト亜科 Homininae ヒト族 Hominini ヒト亜族 Hominina ヒト属 Homo ヒトHomo sapiens

「蚤」動物界節足動物門 Arthropoda 昆虫綱 Insecta 隠翅(ノミ)目 Siphonaptera のノミ類。ここは隠翅目ヒトノミ科 Pulicidae Pulicinae亜科ヒトノミ属 Pulexヒトノミ Pulex irritans としてよかろう。但し、本種はヒトだけに寄生するわけではなく、哺乳類や鳥類等を広く寄生主としている。]

 

 動植物學に於ても、初めは之と同じ位な分類法を用ゐ、植物を分ちて喬木[やぶちゃん注:「けうぼく(きょうぼく)。高木(こうぼく)。]・灌木[やぶちゃん注:「くわんぼく(かんぼく)。低木。]・草の三部とし、動物を分ちて、水中に住むもの、地上に住むもの、空中を飛ぶものと僅に三部にした位に過ぎなかつたが、漸々知識の進むのに隨つて、分類の標準も追々に改まり、單に外部の形狀のみによらず、内部の構造をも斟酌するやうになつて、今日に於ては比較解剖學上・比較發生學上の事實を標準として分類の大體を定めるに至つた。この間の分類方法の變遷を調べて見ると、知らず識らず一步づゝ生物進化論に近づいて來た形跡が歷然と現れて、頗る興味のあることであるが、之を詳しく述べるには、高等から下等まで動物・植物の主なる部類を殘らず記載せなければならず、到底本章の範圍内に於ては出來ぬ故、省略するが、初め魚類の中に編入してあつた鯨を後には哺乳類に移し、初め貝類の中に混じてあつた「ふぢつぼ」を後には甲殼類に組み入れたこと、初め人間だけを別物としてあつたのを後には哺乳類中の特別な一目と見倣し、更に降つては猿類と合して同一中に入れるやうになつたことなどは、たゞその中の一斑に過ぎぬ。

[やぶちゃん注:既に私の注に述べたが、現代の分類学は、分子生物学の急速な発展によって、アイソザイム(Isozyme:酵素活性がほぼ同じでありながら、タンパク質分子としては別種(アミノ酸配列が異なる)酵素)分析(アイソザイムは遺伝子型を反映していることから、間接的な「遺伝子マーカー」として利用出来る)や直接のDNA解析が進み、その新知見に基づく最新の科学的系統学の知見を反映させた新体系に組み替える動きが盛んである。]

 

 今日我々が動植物を分類するには、先づ全部を若干の門に大別し、更に各門を若干の綱に分つことは、一度述べたが、尚その以下の分類をいへば、各綱を更に若干の目に分ち、目を科に分ち、科中に若干の屬を置き、屬の中に種を收め、斯くして、世界中にある總べての動植物の種類を一大分類系統の中に悉く編入してしまふ。而して斯く分類するに當つては、何を標準とするかといふに、解剖上・發生上の事項を比較して、異同の多少を鑑定し、異なるものは之を離し遠ざけ、似たものは之を近づけ合せるものである。例へば犬と狐とは無論二種であるが、頗る相似たもの故、之を犬屬といふ中に一所に入れ、猫と虎とは素より種は違うが、甚だ相似た點が多い故、之を猫屬といふ中に一所に入れる。世界中を搜すと、犬屬とも違ふが他の動物屬によりも遙に犬屬の方に近いといふやうな動物が幾らもあるが、これらと犬屬とを合せて更に犬科とし、猫屬の外にも猫に稍々似た類が種々あるが、これらと猫屬とを合せて更に猫科とする。犬科の動物と猫科の動物とは素より著しく相異なる點はあるが、之を牛・馬等に比べて見ると、遙に相似たもの故、犬科・猫科等を合せて食肉類と名づけ、之を哺乳類といふ綱の中の一目とする。されば分類の單位とする所のものは犬・猫・虎・狐といふやうな種であつて、その以上の屬・科・目・綱の如きものは、たゞ若干の種を倂せ稱する名目のみである。

[やぶちゃん注:「綱」英語で“class”、ラテン語で“classis”

「目」英語で“order”、ラテン語で“ordo”

「科」英語で“family”、ラテン語で“familia”

「屬」英語・ラテン語ともに“genus”

「種」英語・ラテン語ともに“species”

「犬」動物界 Animalia 真正後生動物亜界Eumetazoa 新口動物上門 Deuterostomia 脊索動物門 Chordata 脊椎動物亜門 Vertebrata 口上綱 Gnathostomata 哺乳綱 Mammalia 獣亜綱 Theria 真獣下綱 Eutheria ローラシア獣上目 Laurasiatheria 食肉(ネコ)目 Carnivora イヌ亜目 Fissipedia イヌ下目 Cynoidea イヌ科 Canidae イヌ亜科 Caninae イヌ族 Canini イヌ属 Canis タイリクオオカミ Canis lupus 亜種イエイヌ Canis lupus familiaris。以下では共通する最後の上位階層を除いて、省略する。

「狐」明確な生物学的定義は実はないが、イヌ亜科 に属するキツネ類で、現行現生種ではキツネ属 Vulpes・オオミミギツネ属 Otocyon・カニクイキツネ属 Cerdocyon・クルペオギツネ属 Pseudalopex・ハイイロギツネ属 Urocyon に含むキツネ類である。但し、狭義には、この中のキツネ属 Vulpes を指すことが多く、我々の馴染みの「狐」はそのキツネ属のアカギツネ Vulpes vulpes の亜種ホンドギツネ Vulpes vulpes japonica である。

「猫」食肉目Carnivoraネコ型亜目 Feliformia ネコ科 Felidae ネコ属 Felis ヨーロッパヤマネコ Felis silvestris 亜種イエネコ Felis silvestris catus

「虎」ネコ科 Felidaeヒョウ属 Pantheraトラ Panthera tigris

「牛」哺乳綱 Mammalia 鯨偶蹄目Cetartiodactyla 反芻(ウシ)亜目 Ruminantia ウシ科 Bovidae ウシ亜科 Bovinae ウシ族 Bovini ウシ属 Bos オーロックス Bos primigenius 亜種 ウシ Bos primigenius Taurus

「馬」哺乳綱 Mammalia 奇蹄(ウマ)目 Perissodactylaウマ科 Equidae ウマ属 Equus ウマ Equus caballus。]

2018/02/20

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十七年 『小日本』創刊

 

   明治二十七年

 

     『小日本』創刊

 

 明治二十六年は「芭蕉雑談」執筆中に暮れた。『日本』に俳句を載せはじめたのを第一として、『俳諧』の発刊、「はてしらずの記」旅行、「芭蕉雑談」の執筆など、居士の身辺は頗る多事であったが、この年居士は句を作ること最も多く、「寒山落木」に存する句数が三千に垂(なんな)んとしている。それも少からざる抹消を経た結果であるから、元来はよほどの数だったので、『獺祭割書屋俳句帖抄』の序に「明治二十六年最(もつとも)多く俳句を作つた年でその數は四千以上にもなつた」とあるのが原数に近いものであろう。一年三千句という例は居士の一生を通じて他にない。

[やぶちゃん注:「明治二十七年」一八九四年。]

 二十七年(二十八歳)を迎えると共に、居士の身辺は前年よりまた多事になった。それは『小日本』創刊の事で、一月八日大原恒徳氏宛の手紙に「私身の上に付ては内々心配致し居候ところこの度(たび)一事業起り一身をまかすやうに相成申候。一事業とは日本新聞社にて繪入小新聞を起す事に御座候(勿論表向きは別世帶に御座候)。ついては私が先づ一切編輯担當の事とほぼ内定致し來月十一日より發行のつもりに御座候」とある。『小日本』の刊行は『日本』の頻々たる発行停止に備えるため、別働隊として計画されたのであるが、同時に上品な家庭向の新聞を作ろうという目的であった。多士済々たる日本新聞社中にも、家庭向の新開となると存外適任者がない。仙田重邦氏を事務総裁とし、編輯主任には思いきって居士を抜擢することになった。古嶋一雄氏などが推薦者であったが、成果を危む人は社内にも少くなかったそうである。

[やぶちゃん注:「古嶋一雄」ジャーナリストで後の衆議院議員・貴族院議員となった子規の盟友古島一雄(慶応元(一八六五)年~昭和二七(一九五二)年)であろう。但馬国豊岡(現在の兵庫県豊岡市)生まれ。古島家は旧豊岡藩士で勘定奉行を務める家柄であった。小学校を卒業した後、明治一二(一八七九)年に上京、濱尾新の元で共立学校、同人社などに学んだ。明治一四(一八八一)年に郷里に一度戻って漢学私塾の宝林義塾に学んだが、その後、再度上京、明治二一(一八八八)年に三宅雪嶺主宰の雑誌『日本人』(後に『日本及日本人』に改題)の記者となり、ジャーナリズムに身を置いた。さらに日本新聞社の記者となり、日清戦争では同僚の正岡子規と従軍、戦況を報道した。明治三一(一八九八)年、玄洋社系の『九州日報』の主筆を一年半つとめた後、日本新聞社に復帰、明治四一(一九〇八)年)には『万朝報』に移った。後、衆議院議員に当選、以後、当選六回を数えた。立憲国民党・革新倶楽部を経、立憲政友会に所属した。一貫して犬養毅の側近として行動をともにし、また、玄洋社の頭山満と組んで、孫文を援助、辛亥革命を蔭から助けた。大正一〇(一九二一)年の「宮中某重大事件」にも介入、山縣有朋の権威失墜に一役買っている。第二次護憲運動では犬養を補佐し、政友会・憲政会との護憲三派連合の成立に尽力した。大正一三(一九二四)年には犬養逓信大臣の下で逓信政務次官となったが、初の普通選挙となった昭和三(一九二八)年の衆議院議員総選挙で落選した。後、昭和七(一九三二)年に貴族院議員に勅選され、昭和二二(一九四七)年の貴族院廃止まで在職した。戦後の幣原内閣の組閣の際には入閣を要請されたが固辞、昭和二一(一九四六)年五月に日本自由党総裁鳩山一郎が公職追放となった際には後継総裁の一人に擬され、鳩山ら自由党首脳から就任を懇請されるが、老齢を理由に固辞し、幣原内閣で外相であった吉田茂を強く推薦、以後、占領期の吉田の相談役となり、「政界の指南番」と称された。「創価教育学会」(創価学会の前身)の設立にも積極的な役割を果たしたことでも知られている(以上はウィキの「古島一雄」に拠った)。]

 『小日本』に従事するに先って、居士は二月一日に上根岸八十二番地――現在の子規庵――に居を移した。はじめて根岸に来た時から算えると満二年、母堂令妹を迎えて一家の主人になってから一年余、八十八番地の家に住んでいたわけである。移転といっても車で運ぶ必要のないほどの近距離だから、直ぐ片づいたことと思われるが、羯南翁の玄関にいた佐藤紅緑氏が手伝に行って、自筆の写本の量に一驚を喫したというのはこの時であった。紅緑氏は引越が済んでから、居士と飄亭氏と三人で新宅で昼飯を食ったという。飄亭氏は前年末除隊、帰郷の途次京都に碧、虚両氏を訪れて、見るもの悉く句になる連吟に両氏を驚かしたりしたが、一月中上京、『小日本』に入社することになっていた。『小日本』入社を勧めた者は無論子規居士で、飄亭氏はこれを機会に、開業免状まで持っていたにかかわらず、厭で堪らなかった医者というものを抛擲したのである。

[やぶちゃん注:「子規庵」現在の東京都台東区根岸二丁目内。

「佐藤紅緑」(こうろく 明治七(一八七四)年~昭和二四(一九四九)年)はジャーナリストで劇作家・小説家・俳人。現在の青森県弘前市親方町生まれ。本名は洽六(こうろく)。父佐藤弥六は幕末に福沢諭吉の慶應義塾で学び、帰郷して県会議員となって産業振興に尽力、また、「林檎圖解」「陸奥評話」「津輕のしるべ」などの著作もあり、森鷗外の史伝「澁江抽齋」にも郷土史家として登場する弘前を代表する人物であった。明治二三(一八九〇)年に東奥義塾を中退して青森県尋常中学校(現在の弘前高等学校)に入学。明治二六(一八九三)年、遠縁に当たる陸羯南を頼って上京し、翌年には日本新聞社に入社した。その頃、先輩の正岡子規の勧めで俳句を始めた。明治二八(一八九五)年に病により、帰郷、東奥日報社に入社して小説・俳句などで活躍、その後、東北日報社・河北新報社の主筆を経て、明治三三(一九〇〇)年、報知新聞社に入社、大隈重信に重用された。記者活動の他、俳人としても活躍、また、大デュマやヴィクトル・ユーゴーなどの翻訳なども手掛けた。明治三十八年に記者を止め、「俳句研究会」を起こし、小説「あん火」「鴨」など自然主義風の作品を発表して注目を浴び、明治四一(一九〇八)年には創作集「榾(ほだ)」を刊行している。一方、明治三九(一九〇六)年から大正三(一九一四)年までの足掛け八年の間は新派「本郷座」の座付作者も勤めている。大正四(一九一五)年、劇団「新日本劇」の顧問となり、大正一二(一九二三)年に映画研究のために渡欧した後、翌年には「東亜キネマ」の所長に就任している(二年後、退任)。大正八(一九一九)年から昭和二(一九二七)年にかけては新聞雑誌に連載小説「大盜傳」・「荊の冠」・「富士に題す」を書いて一躍、大衆小説の人気作家となった。昭和二(一九二七)年からは『少年俱樂部』に少年小説「あゝ玉杯に花うけて」を連載して好評を博し、その後も「少年讚歌」「英雄行進曲」などで同誌の黄金期を築いた。また、編集長加藤謙一に漫画の掲載を進言して田河水泡の「のらくろ」が誕生する契機も作っている(以上はウィキの「佐藤紅緑」に拠った)。]

 『小日本』は『日本』と同じく紀元節を以て世に生れた。この時分の事に関して、居士自身はあまり語っておらぬが、後年飄亭氏の話されたところによると、日本新聞社の筋向――中川という牛肉屋の並びに蕎麦屋があった、その隣の角家(かどや)で奥に土蔵がある、その土蔵の二階が『小日本』の編輯室だったので、八畳あるかなしの狭い部屋だったそうである。ここに陣取った顔触(かおぶれ)は、居士と飄亭氏の外に、古嶋一雄、斎藤信両氏が二面担当、仙田重邦氏が会計経営の外に、多少貰経済記事を書く。外に荒木という相場記者一人、三面担当の飄亭氏が探訪を二人ほど使う、という程度の小人数であった。建物は別になっているけれども、工場は勿論日本新聞社のを使う。こういう段取(だんどり)の下に『小日本』は呱々(ここ)の声を挙げることになった。

[やぶちゃん注:「斎藤信」不詳。

「荒木という相場記者」不詳。

「探訪」「たんぼう」。明治時代の新聞記者の下で、実地取材に当たった担当者を指す語。「出省方」(「しゅっしょうがた」と読むか)などとも呼ばれ、記者とは厳然と区別された。記者自身は余程の大事件・難事件でない限り、取材はせず、記者はこうした探訪が見聞してきた資料や報告を記事にしたり、英字新聞の翻訳・投書の取捨選択・論説の執筆などに当たっていた(平凡社「世界大百科事典」の「新聞記者」の記載に拠った)。

「呱々(ここ)の声を挙げる」赤ん坊が産ぶ声をあげることで、転じて、新しく物事が始まること、発足することを言う。]

 『日本』は侃々諤々(かんかんがくがく)の筆陣を張る傍(かたわら)、「文苑(ぶんえん)」に詩歌俳句の如き閑文字(かんもじ)を載せることは怠らなかったが、紙面は一切振仮名なしで、小説などは全然これを闕(か)いていた。『小日本』はその別働隊であるというものの、最初から家庭向の新聞たることを標榜していたから、全面ルビ付であるのは勿論、小説もあれば挿画(させ)もある。挿画は浮世絵系統の人によって間に合すのもあったが、どうしても社内に画家を必要とするというので、浅井黙語(もくご)(忠(ちゅう))氏推挙の下に入社したのが中村不折氏であった。後年居士が『墨汁一滴』に書いたところによると、「余の始めて不折君と相見(まみえ)しは明治廿七年三月頃の事にして其場所は神田淡路町小日本新聞社の樓上にてありき」とある。不折氏が挿画に腕を揮ったのは『小日本』創刊以来ではなかったけれども、新進の洋画家を採用するなどということは、従来の新聞社の敢てしなかったところであろう。当時まだ下宿屋の一隅にくすぶっていた不折氏の画がはじめて新聞に現れたのは実に『小日本』紙上においてであった。一たび相識った居士と不折氏との関係が、新聞編輯者と挿画画家の程度にとどまらなかったのはいうまでもない。『墨汁一滴』に「後來(こうらい)余の意見も趣味も君の教示によりて幾多の變遷を來(きた)し、君の生涯も亦此時以後、前日と異なる逕路(けいろ)を取りしを思へば此會合は無趣味なるが如くにして其實前後の大關鍵(だいかんけん)たりしなり」とあるように、慥に重要な意義を有する出来事であった。

[やぶちゃん注:「侃々諤々(かんかんがくがく)」正しいと思うことを堂々と主張するさま。又、盛んに議論するさま。

「文苑(ぶんえん)」新聞『日本』の文芸欄の名であろう。

「閑文字(かんもじ)」「かんもんじ」とも読み、原義は無意味な文字・文章・無益な言葉であるが、ここは投稿を含めた文芸作品や肩肘張らないコラムの謂いであろう。

「浅井黙語(もくご)(忠(ちゅう))」(安政三(一八五六)年~明治四〇(一九〇七)年)は洋画家。江戸生まれ。父は佐倉藩士。明治八(一八七五)年に国沢新九郎に師事し、翌年、工部美術学校に入学、お雇い外国人でイタリアの画家アントニオ・フォンタネージ(Antonio Fontanesi 一八一八年~一八八二年)に師事、明治二二(一八八九)年、日本初の洋画団体「明治美術会」を創立し、明治三一(一八九八)年には東京美術学校教授に就任した。明治三三(一九〇〇)年からフランスに二年間、留学。帰国後、京都高等工芸学校教授に就任して「関西美術院」を創立した。渡欧後は印象派の画風を取り入れ、また、水彩画にも多くの佳作を残した。門下に安井曾太郎・梅原龍三郎らがいる。

「中村不折」(慶応二(一八六六)年~昭和一八(一九四三)年)は洋画家で書家。太平洋美術学校校長で、裸体画や歴史画を得意とした。書家及び書の収集家としても著名で、六朝風を得意とし、書道博物館(現在の台東区立書道博物館)の創設者でもある。また、島崎藤村「若菜集」、夏目漱石の「吾輩は猫である」、伊藤左千夫の「野菊の墓」の挿絵なども描いている。

「余の始めて不折君と相見(まみえ)しは明治廿七年三月頃の事にして其場所は神田淡路町小日本新聞社の樓上にてありき」「墨汁一滴」の六月二十五日の条に出る。後の引用も合わせて、国立国会図書館デジタルコレクションにある、初出の切貼帳冊子を参照して訂した。読みは私が新たに歴史的仮名遣で追加した

「大關鍵(だいかんけん)」物事の最も大きな重要な場面・要所。]

 

進化論講話 丘淺次郎 第十章 發生學上の事實(5) 五 生物發生の原則 / 發生學上の事實~了

 

     五 生物發生の原則

 

 動物各種の發生中に現れる性質を丁寧に調べて、彼此相比べて見ると、前節に説いた如く、先祖代々の性質が、子孫の發生の中に順を追うて現れると考へるより外に致し方がないが、動物學者は多數の動物の發生を研究した結果、之より歸納して一の原則を造つた。この原則は生物發生の原則と名づけるもので、短くいへば、個體の發生はその種屬の進化の徑路を繰り返すといふのであつて、尚詳しく言へば、凡そ生物は皆共同の先祖から漸々進化して分かれ降り、終に今日の姿に達したものであるが、今日の一粒の卵から動物の一個體が出來るときには、何億年か何兆年かの間にその動物の種屬が經過し來つた通りの變化を、極めて短く略して繰り返すもので、例へば鯨が今日の姿までに進化し來る途中に一度齒のある時代があつたとすれば、鯨の卵から鯨の兒が發生する途中にも一度齒の現れる時期があり、人間が今日の姿までに進化し來る途中に一度鰓孔のある時代があつたとすれば、人間の卵から人間の兒が發生する途中にも一度鰓孔の生ずる時期があるといふのである。この原則は今日でも種々の學科に應用せられ、心理學・社會學・兒童研究などでも、常に之を唱へるやうになつたが、元は動物學者が動物の發生を調べていひ出したものである。

 若しこの原則を文字通りに解釋して間違ひのないものならば、一種の動物の發生を十分に調べさへすれば、その動物の進化し來つた徑路が明細に解る筈であるが、天然はなかなかさやうな簡單なものではない。實際に於てはたゞ各種の動物の進化歷史中の若干の著しい性質が飛び飛びにその發生の中に現れるだけで、決して發生中の各々の時期が進化歷史中の各時代を寸分も違へずそのまゝに寫し出して居るとは思はれぬ。之は素よりさもあるべきことで、生物が何億年・何兆年の間に漸漸進化し來るときには、その間の各個體は餌を求め、敵から逃れ、且生殖の作用をもなしながら代々極めて少しづゝ變化し來たものであるに反し、數日間或は數週間という極めて短い時の間に、卵から一個體の生ずるときには、敵から逃げることも無く、滋養分は他から供給を受け、生殖作用は全く知らずに、たゞ迅速に形が變化して出來ること故、その間の事情や境遇が全く違ひ、境遇事情が違へば勢い變化の模樣にも著しい相違のあるのは、先づ當然と考へなければならぬ。されば詳細の點までこの原則に照して論じようとするのは無理であるが、この原則を認めなければ説明の出來ぬことが甚だ多くあり、またこの原則を認めさへすれば、初め不思議に思はれたことも多くは容易に理窟が解る所から考へれば、大體に於てはこの原則は正確なものと見倣さなければならぬ。然るにこの原則は生物進化の事實を認めた後に初めて意味を有するもの故、この原則を正確なりといふのは、卽ち生物の進化は無論のこととして、尚その一つ先の點を論じて居る譯に當る。生物種屬不變の説とこの原則との兩立せぬことは、素よりいふまでもないことである。

 本章に述べた事實は、この原則によれば總べて一應理窟が解るものばかりである。發生の途中に一度或る性質が現れて後に再び消えることも、退化した動物が發生の途中に却つて高等の體制を有することも、同門・同綱に屬する動物は生長後如何に形狀の異なるものでも、發生の初めには著しく相似ることも、また發生の進むに隨うて動物の形狀が漸漸樹枝狀に順を追うて相分かれることも、皆この原則の中に含まれたことで、總べて之によつて説明が出來る。尚この原則はたゞ卵殼内または親の胎内に於ける間の發生に適するのみならず、生れて後の變化も之によつて支配せられるもので、南アメリカのペングィンが生長し終れば、ただ泳ぐばかりで、飛ぶ力はないが、雛の頃には能く飛ぶこと、また人間の幼兒が猿類の如くに足の裏を互に内側へ向け合せて居ることなども、この原則に隨つた事實であらう。尚一層推し擴げると、兒童の心理、社會の發達等も之によつて幾分かその理を察することが出來る。實に原則の名に背かぬ生物學上最も重大な一法則といはねばならぬ。

 

進化論講話 丘淺次郎 第十章 發生學上の事實(4) 四 發生の進むに隨ひて相分れること

 

     四 發生の進むに隨ひて相分れること

 

 同じ部類に屬する動物は、如何に形の異なつたものでも、發生の初期には極めて相似た形狀を有することは、前に述べた通りであるが、この相似た形を有する時代から漸々發生して種々の異なつた動物の出來上るには、如何なる順序に變化して進むものであるか。例へば第三〇〇頁の圖[やぶちゃん注:前章「三 發生の初期に動物の相似ること」『脊椎動物の胎兒の比較』の図を指す。キャプションと一緒に前のリンクで参照されたい。]に示した如く、初人間も、兎も、牛も、豚も、鷄も、龜も、蠑螈[やぶちゃん注:「ゐもり(いもり)」。]も、魚も皆殆ど同一の形をして居るが、何時頃から相分れて、人間は人間、牛は牛と區別の出來るやうになるものであるかといふに、多少の例外と見えるものはあるが、先づ相異なつたもの程、早くその間に相違が現れ、相似たもの程同一の形狀を保つ時代が長く續くのが、一般の規則のやうである。

 

Sekituidoubutuhatuseihikaku

[脊椎動物の發生經過の比較]

[やぶちゃん注:立体感がある底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をやや補正して示した。図中のキャプションは左から、

「魚類」・「ゐもり」・「龜類」・「にはとり」・「ぶた」・「うし」・「うさぎ」・「人間」

である。]

 

 こゝに掲げた脊椎動物發生比較の圖は、以上八種の脊椎動物の發生の中から、略々相當した時代を三つづゝ選んで、竝べて畫いたものであるが、上の段は既に前に一度掲げたもの[やぶちゃん注:やはり、前章「三 發生の初期に動物の相似ること」『脊椎動物の胎兒の比較』の図を指す。]と同じで、人間で云へば先づ一箇月の末位の所で、中の段は一箇月半、下の段は三箇月位の所に相當する。上の段では皆總べて相似て居るが、中の段ではは魚と蠑螈とだけは既に識別が出來る。倂し、龜以上のものはまだ略々同樣である。然るに下の段になると魚と蠑螈とは素より、龜も鷄も明に區別が出來、哺乳類は尚甚だ相似ては居るが、既に各種の特徴が現れて居る。之は僅に三段だけの比較であるが、尚詳細にこれらの動物の發生を比べて見ると、略々次の如くである。

 先づ最初暫くの間はこれら八種の動物は、殆ど識別も出來ぬ位に相似て居るが、少し發生が進むと魚と蠑螈とは一方へ、餘の六種は他の方へ向うて進むので、二組に分かれる。一方の幼兒は魚か蠑螈かになるといふことだけは解るが、その中、孰れになるかはまだ解らず、他の方の組は魚または蠑螈にはならぬといふことだけは解るが、他の六種の中の何になるかは、まだ全く解らぬ。尚少し發生が進むと、魚と蠑螈との區別が出來て、圖の中段の如き有樣となる。また少し先へ進むと、他の六種の中、龜と鷄とは一方へ、餘の四種は他の方へ進んで二組に分れるが、その頃には一方は龜か鷄かになるといふことだけは解るが、孰れが龜になるか孰れが鷄になるか、まだ解らず、また他の方は哺乳類になるといふことだけは解るが、その中の何になるかはまだ少しも知れぬ。更に發生が進めば龜には固有の甲が現れ、鷄の前足は翼の形となつて、二者の間に明な區別が生じ、また哺乳類の方にも一種每に特徴が見えるやうになつて、終には前の圖の下段に示した如くに、牛・豚・兎・人間と識別の出來るやうな姿になるのである。

 

Hasseihikakunohyou

[發生比較の表]

[やぶちゃん注:キャプションがある関係上、底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像を補正して用いた。図中のキャプションは左から、

「魚」・「蠑螈」・「龜」・「鷄」・「豚」・「牛」・「兎」・「人」

である。この図の原図は進化論生物学者ジョージ・ジョン・ロマネス(George John Romanes 一八四八年~一八九四年)が一八九二年にDarwin, and After Darwinに描いたものである。サイト「永井俊哉ドットコム」の個体発生は系統発生を繰り返すのかを参照されたい。]

 

 右の有樣を表に書いて示すと、略々上の圖の如くである。この表では下端を古とし、上端を新とし、時は下より上へ向うて進み行くと假定し、形の似たものは相近づけ、形の異なるに隨つて之を相遠ざけ、各種の發生の徑路を線で現してあるが、これらの種類は發生の進むに隨ひ、順を追うて互に相分かれるから、この方法によつて表を作れば、勢い斯くの如き樹枝狀のものが出來る。また表中に書き加へた三本の橫線は前圖に示した位の發生の時代を現す積りのもので、最下の橫線は圖の上段、中の橫線は同じく中段、上の橫線は同じく下段に示した位の發生の時期に相當する積り故、前の圖と照し合せて見たならば、尚この表の意味が明に解るであらう。

 斯くの如く發生の有樣を比較して表に作れば、樹枝狀のものが出來ることは、無論以上の動物に限る譯ではなく、何門・何綱の動物を取つても皆この通りである。また如何なる動物と雖も、その發生の最初は皆一粒の卵であるから、こゝまで溯つて比較すれば、總べての動物は皆同一の形を有するといはねばならぬ。卵には鷄の卵の如く大きなものも、人間や犬・猫の卵の如く小いものもあるが、抑々鷄卵の中で眞に卵といふべきはどの部であるかといふに、牝鷄の卵巢の内で出來るのは、たゞ蛋黃ばかりで、これが輸卵管を通過して出て來る間に、その周圍に蛋白が附け加わり、生れる前に少時輸卵管の末端に留まる間に、その外面へ卵殼が出來るのであるから、鷄卵の中で眞に卵と名づけて他の動物の卵と比較すべきものは、ただ蛋黃ばかりである。その蛋黃が鷄では直徑七八分[やぶちゃん注:二・一~二・四センチメートル]もあり、人間・犬・猫の卵は僅に一分[やぶちゃん注:三ミリメートル。]の十五分の一[やぶちゃん注:〇・二ミリメートル。]も足らぬが、之は何故かと尋ねるに、全く滋養分を多く含むと含まぬとによることで、またその理由を探ると、各々發生の場所及び發生の狀況が違ふのに基づくことである。人間の子は母の胎内で、母の血液に養はれながら發生すること故、午前に母の食ふた滋養物は午後は既に子の養となるといふ具合に、絶えず母から滋養分が廻つて來るから、最初から卵の中に澤山の滋養分を備へて置く必要はないが、鷄の方は之と反對で、まだ少しも發生の始まらぬ卵が早くも母の體から離れて生み出され、その後は全く卵の中にある滋養分ばかりに賴つて發生し、酸素だけは空中から取るが、その他には何も外界から取らずに雛までに生長するのであるから、最初から餘程十分に滋養分が貯へられてなければならぬ。人間は極めて小い卵から發生しながら、生れる時は既に八百匁[やぶちゃん注:三千グラム。]位もある相當に大きな幼兒となるが、鷄の方は初め卵の大きなのに聯らず、雛以上の大きさになれぬのは、全くこの理窟に原因することである。つまる所、卵の大小の相違は、その中に含む滋養分の多少に基づくだけのこと故、大きな卵と小な卵とは、恰も饀の多い饅頭と饀の少い饅頭との相違だけで、斯かる副貳的[やぶちゃん注:「ふくじてき」。「副次的」に同じい。]の性質を省き、眞に卵たる點だけを比べて見ると、何動物の卵も殆ど全く同一で區別は出來ぬ。それ故、若し動物の發生を極最初まで溯つて比較したならば、その出發點に於ては、如何なる動物も皆同樣な形狀を有するものと考へなければならぬ。

[やぶちゃん注:現行のヒトの出産時の正常出生体重は二千五百グラムから四千グラム未満とされる。

「副貳的」「副弐(ふくじ)」と同義であるが、元来「副弐」とは正本に対して、その写本を意味した。]

 同門・同綱に屬する動物の發生を比較して表に示せば、樹枝狀に分岐した圖が出來ることは、前に述べたが、尚溯つて發生の極最初卽ち卵の時代までを比較すると、總べての動物が皆略々一樣の形狀を呈し、發生の根本はたゞ一の形に歸する故、若し假に現今地球上に住する動物各種の發生が、悉く完全に調べられたと考へて、その發生の徑路を前に述べた方法によつて圖に作つたと想像したならば、その結果は一大樹木の形となり、根本は發生の初期なる卵時代を現し、太い枝は各門・綱等の基部を示し、末梢端は各一種の生長した動物種屬を代表するものが出來る筈である。今日直に斯かる圖を誤らぬやうに作ることは勿論出來ぬが、研究が十分屆いた後にはかやうなものが出來るといふことだけは疑がない。

[やぶちゃん注:所謂、「系統樹」である。旧来の形態比較上の系統分類学の時代は主に進化を示すために描かれたが、近年の分岐分類学(分岐学)における系統樹は「分岐図」乃至は、「クラドグラム」(cladogram)と呼ばれる厳密なものとなり、分子生物学の発達によって旧来の楽観的な「生命の木」的発想は驚異的に大きな変更を迫られ、一部は無効となってさえいる。]

 動物發生の研究は前にも述べた如く、なかなか容易なことではなく、材料も十分になければならず、時間も餘程掛けねば出來ず、また之に從事して居る學者は決して少いとはいへぬが、動物の種類は何十萬もあること故、今日略々完全に發生の知れてあるものは、まだ甚だ小部分だけに過ぎぬ。倂し犬の發生が解れば、狐・狸の發生は之より推して略々想像することが出來、鷄の發生が解れば、雉・孔雀の發生も之より推して察することが出來るから、動物各種の發生が悉く調べ上げられるまで待たなくても、各綱目から若干づゝの代表者の發生が解りさへすれば、ここに述べた動物發生の大樹木の枝振りの大體は知れる筈で、既に今日までに學者の研究した種類だけから論じても、大體の形だけは確めることが出來る。今日發生學者の間に議論の一致せぬ點は、たゞ何の枝の分かれる處が上であるか下であるかとか、或は某の小枝は甲の枝から分かれたものか、乙の枝から分かれたものかといふやうなことばかりで、全體が樹枝狀を呈するといふ點に至つては、疑を懷く人は一人もない。

[やぶちゃん注:一般的な系統樹が楽天的に適用することが不可能なケースが既に判っている。則ち、生物進化の過程の中で生じた非常に重要な寄生・共生による進化の実際である。ウィキの「系統樹」によれば、『今日の進化的知見に基づく、系統樹作成の問題の一つが、細胞内共生説で』、『つまり』、『葉緑体やミトコンドリアが独立生物起源であり、独自のゲノムを持つことがわかったことである』。『これまでの進化論では生物進化は種分化の積み重ねと考えられてきた。したがって、その系統を図示すれば樹状になるのは当然と考えられてきた。しかし、共生によって二つあるいは三つの生物が一つにまとまるとすれば、この根拠は崩れる。ただし、当初はこの共生は、真核細胞形成段階の一回きりのものと見なされ、それ以外の部分での変更はなかった。むしろ、葉緑体やミトコンドリアの系統を明らかにすることで、新たな展開が開けた部分がある』。『しかし、その後、共生がさらに何度も独立に起こったらしいことが知られるようになった。しかも細胞内共生をおこなった真核細胞が細胞内に共生している例など、大変に入り組んだことが起こっているのがわかってきた。個々の部分ではとにかく、これによって原生生物全体の系統樹は非常に描きにくいものとなった』。『さらには、遺伝子の水平伝播も細菌などでは普遍的に起こっていることが明らかになり(他の生物にもそれらしい例がある)、これを厳密に考慮すれば、系統「樹」ではなく甚だ複雑なネットワークとなってしまう』のである。『ヘッケルの描いた系統樹は広葉樹の大木のようだった。太い幹は何度か枝分かれしつつも、上に向かって伸びていた。ジャン=バティスト・ラマルクが』、『もし』、『系統樹を書いていれば、多分』、『針葉樹のようなものを描いたであろう』。植物生態学の専門家で、植生分布の環境傾度分析の手法を確立して極相パターン説を提唱、「五界説」の提唱者でもあった二十世紀後半を代表するアメリカの生物学者『ホイッタカーの系統樹は、根元で枝分かれした灌木の形であった』。しかし、『現在では、生物進化が本質的に枝分かれだけで表現できないことを踏まえ、車輪樹法という系統樹表現法も提唱されている』。『また』、『類似の問題として、同一種内の亜種や人類集団のように互いに混合が』生じ得る或いは実際に生じる『集団の場合、従来の枝分かれのみの系統樹では近縁度のみを示すだけで、複雑な分岐、混合を経た歴史を表すことはできない。系統樹上で姉妹関係と出た』二『つの集団が』、『純粋に共通集団から分岐した後に他集団と全く混合していないか』、『別ツールの集団の双方に共通の集団が混合したため』、『見かけ上の姉妹関係のように表されているか』、という現象は、実は『全く判別できない』、分岐図を示せない、のである。従って、しばしばまことしやかに見かける、例えば、人類集団に於けるそうした頻繁に生じた『混合を無視して』、『単一祖先からの分岐のみで説明しようすることは実態を反映していない』のである。『単一祖先からの分岐のみを仮定する系統樹は』、『生殖隔離が成立している種間の系統のみで適用可能であり、生殖隔離が成立していない種内の集団については個体レベルでは系統樹を描くことは原理的に不可能である』『(単一の遺伝子指標のみでは可能である』)(下線やぶちゃん)という点も〈整然とした幸福な〉「系統樹」は、はなはだ非科学的なのである。]

 前にはたゞ脊椎動物中から八種を選んで例に擧げただけで、煩を避けるために、他の例は全く省いたが、孰れの門・綱を見ても略々同樣なことを發見する。前に掲げた甲殼類の發生でも、二枚貝・卷貝類の發生でも、また「ひとで」・「うに」・「なまこ」類の發生でも、之を表に現せば、皆基は一本で、先が分れた樹木の形となる。特に種類の數を尚少し增して、甲殼類の例に「かめのて」・寄居蟹[やぶちゃん注:「やどかり」。]・「しゃこ」・船蟲の如きものを添へなどすれば、その中には或は早く相分かれるもの或は晩くまで相伴うて進むもの等があつて、全く脊椎動物の例で見たと同樣な圖が出來る。倂し多數の動物の中には例外と思はれるものがないでもない。例外の例を一つ擧げれば、前にも述べた通り、軟體動物は總べて發生の初期に於ては、幼蟲が纖毛を動かして水面を泳ぐものであるが、章魚・烏賊の類は發生の初から、他の動物と違ひ、かやうな時代を經過せずに、直に章魚・鳥賊の形に發生する。また田螺(たにし)はかやうな時代を親の殼内で經過し、田螺の形に出來上つた頃に始めて生れ出る。されどかやうな例外は甚だ少數で、且多くは例外となつた特殊の理由を多少察することの出來るもの故、これらを論據として全體の形勢を否定することは勿論出來ぬ。

[やぶちゃん注:私は頭足類が何ゆえにトロコフォアやベリジャー幼生期を経ないのか、また、腹足綱原始紐舌目タニシ科 Viviparidae のタニシ類が何故に卵胎生なのかという「特殊の理由を多少」なりとも「察すること」は「出來」ない。識者の御教授を乞うものである。]

 さて斯くの如く動物各種は發生の初には皆相似て、發生の進むに隨ひ、樹枝狀に追々相分れることは、如何なる意味を有するものかと考へるに、若し動物各種が最初より全く互に關係なく、別々に出來たものとしたならば、少しも解らぬことで、前に掲げた數多の事實と同樣に、いつまで過ぎても理窟の知れる見込もない。若し天地開闢の際から、人間は人間として、牛は牛として、鷄は鷄として、魚は魚として出來たものならば、これら四種の動物が發生の初に於て殆ど同樣な形狀を呈し、人間も、牛も、鷄も、魚同樣に數對の鰓孔を有し、少し進むと魚だけは區別が附くが、他は尚同樣で、皆左右の動脈弓を備へ、更に進めば鷄には右の大動脈だけ、人間・牛には左の大動脈だけとなつて區別が生じ、尚餘程後になつて牛は五本の指の中で、中指と藥指のみが特別に發達して殆ど二本指となり、人間は五本の指がその儘に發達して、孰れが牛、孰れが人間と識別が出來るやうになることは、實に不可思議極まることである。之に反して、若し動物は皆共同の先祖より進化し降つたものと見倣さば、發生中に現れる性質は、皆先祖の性質が遺傳によつて傳はつたものとして、この現象も一通りは理窟が解る。卽ち先祖といふ中には千代前の先祖も五千代前・一萬代前または一億代前の先祖もあるが、古い先祖の有して居た性質は發生中の早い時代に現れ、後の先祖の性質は發生中梢々遲く現れ、先祖代々の性質が順を追うて子孫の發生中に現れるものとすれば、同じ子孫の中でも古く相分れて今は既に著しく相異なるものは、その發生に於ても早く相分れ、比較的近頃になつて相分れて、今尚餘程相似たものは、その發生に於ても晩くまで相伴ふ筈故、發生比較の表が斯く樹枝狀となるのは當然のことである。實に發生學上の事實は、生物の進化を認めなければ理窟の解らぬことばかりであるから、今日の發生學上の知識を少しでも有するものは、到底生物不變の説を信ずることは出來ぬ。

[やぶちゃん注:ドイツの生物学者エルンスト・ハインリッヒ・フィリップ・アウグスト・ヘッケル(Ernst Heinrich Philipp August Haeckel 一八三四年~一九一九年)の「個体発生は系統発生を繰り返す」という「反復説」である。これは次章で続いて語られる。未だに、これを非科学的学説として退ける輩が多いが、私は敢然と正しいと表明する。ここでそれを語ることは控えるが、先に示したサイト「永井俊哉ドットコム」の個体発生は系統発生を繰り返すのかは是非、読まれたい。「個体発生は系統発生を繰り返す」という命題の在り方そのものが確かに真であると私は信じて疑わない。なお、ヘッケルはまた、分類上の「門」や皆さんお好きな「生態学」などの用語の最初の提唱者でもある。]

進化論講話 丘淺次郎 第十章 發生學上の事實(3) 三 發生の初期に動物の相似ること

 

     三 發生の初期に動物の相似ること

 

 凡そ甲殼類は、蝦・蟹の如く生涯活潑に運動する類でも、「ふぢつぼ」の如く岩石の表面に固著して生活する類でも、また他の動物に寄生して何か解らぬやうな形に退化したものでも、その發生の初期には孰れも三對の足を有し、形狀の極めて相似た時代のあることは前に述べたが、之は甲殼類に限ることではない。總べて他の動物の部類でも全く之と同樣である。

 當今の動物分類法では、先づ動物總體を大別して若干の門とし、各門を更に綱・目に分つが、同門・同綱に屬する動物は、皆その發生の初期には形狀が頗る相似て、容易に識別の出來ぬ位なものである。門の數は分類者の意見によつて多少違ふが、通常八つか九つと見倣して置いて差支へはない。その中には形が小くて見えぬために、普通人の知らぬものもあれば、また人間の生活に直接の利害の關係の少いために、人の注意せぬものもあるが、その主なるものを擧げれば、第一には人間を始め鳥・獸・蛇・蛙・魚類等の如く、身體の中軸に脊骨を有する動物を總括する脊椎動物門、第二には蝦・蟹類・昆蟲類・蜘蛛・百足等の如き身體の表面が堅くて澤山の節があり、足にも各々若干の關節を具へた動物を總括する節足動物門、第三には蜆・蛤・榮螺・田螺または章魚(たこ)・烏賊(いか)の如く、身體は柔くして全く骨骼なく、單に表面に介殼を被るだけの動物を總括する軟體動物門、第四には、「うに」・「ひとで」・「なまこ」等の如く、皮膚の中に夥多の石灰質の骨片を具うる動物を含む棘皮動物門、第五には蚯蚓・「ごかい」等の如き、骨がなくてたゞ身體に節ある動物等を含める蠕形動物門などである。これらの中から同門・同綱に屬する動物を幾つか取出して、その發生を調べて見ると、多少の例外はないこともないが、大部分は全く前に述べた通りで、その初期に當つては極めて相類似して居る。

[やぶちゃん注:「動物分類法」現代の分類学は分子生物学の急速な発展によって、アイソザイム(Isozyme:酵素活性がほぼ同じでありながら、タンパク質分子としては別種(アミノ酸配列が異なる)酵素)分析(アイソザイムは遺伝子型を反映していることから、間接的な「遺伝子マーカー」として利用出来る)や直接のDNA解析が進み、その新知見に基づく最新の科学的系統学の知見を反映させた新体系に組み替える動きが盛んであるが、基本的には丘先生の時代の旧来のリンネ式の生物分類は、概ね、一般的には有効に維持されてはいる。以下、丘先生は分類階層を動物の「門」(英語:phylum, division/ラテン語:phylum, divisio)から始めておられる。我々の日常の生物分類では、この「門」の上の階層は植物と動物と何となく細菌みたようないい加減な認識であって、あまり問題とされないが、現代の生物分類学に於いては最上階に「ドメイン」(英語:domain/ラテン語:regio(レギオー))があり、そこでは基礎的なゲノムの進化の違いを反映して、現行で一般的なものとしては、三つのタクソン(taxon:生物分類に於いて「ある分類階級に位置づけられる生物の集合」を指す。分類群)に分け、「真核生物ドメイン」・「真正細菌ドメイン」・「古細菌ドメイン」とする(嘗ては「域」と訳されたが、現行では「ドメイン」が一般化した)。次に「門」の上の「界」(英語:kingdom/ラテン語:regnum)となる。伝統的にはここで「動物界」と「植物界」の二つのみが長く認められてきた(二界説)が、これはある意味で最早、科学的とは言えなくなりつつあり、その後、動物界・植物界・原生生物界の三界説を経て、一九六九年以降の五界説が登場する。これは「モネラ界 Kingdom Monera」(原核生物の細菌類及び藍藻類。後の一九七七年以降にリボソームRNAの研究で原核生物が「真正細菌界」と「古細菌界」に分けられ、それがさらに最上階層の「ドメイン」に上層変更された)・「原生生物界 Kingdom Protista」・「植物界 Kingdom Plantae」・「菌界 Kingdom Fungi」・「動物界 Kingdom Animalia」に分けられる。少なくとも、現行の論文等でもこの五界説に拠る記載を見ることが多いので、我々一般人はこの説の分類認識で特に困ることはないと私は考えている。なお、私は私の好きな海産生物の正式な分類や種同定では、「国立研究開発法人海洋研究開発機構(JAMSTEC)」の「BISMaL」(Biological Information System for Marine Life:海洋の生物多様性情報、特に生物地理情報を扱うデータシステム)を使用することにしているが、その分類では二〇〇五年の「国際原生動物学会」で示された真核生物の新しい見た目六つのスーパーグループ(supergroup:旧来の「界」ではなく、一九八〇年代頃より提唱され始めた真核生物の高次分類群)にほぼ基づいたツリーで分けられている。

「門の數は分類者の意見によつて多少違ふが、通常八つか九つと見倣して置いて差支へはない」というのは、文脈から動物に限っての謂いであるが、現行の「門」のタクソンは生物全体では百門近くに分けられている。詳しくはウィキの「門」を参照されたいが、そこを見ても三十五門を数える。例えば、高等学校の生物学の参考書と冒頭から筆者が謳う岡村周諦著「生物學精義」(大正一四(一九二五)年瞭文堂刊)の(国立国会図書館デジタルコレクションの画像)の動物の分類」(リンク先はその冒頭頁)を見ても、「原生動物」(多様な原始的な微細な単細胞生物で動物的なものの投げ入れ場所。現在では分類群名としては使われず、大まかな総称として生き残っているだけである)・「海綿動物」・「腔腸動物」・「扁蟲動物」(現在の扁形動物門)・「圓蟲動物」(現在の線形動物門)・「環蟲動物」(現在の環形動物門)・擬似軟体動物(シャミセンガイ等の腕足動物門やコケムシ(外肛動物門)等をゴチャ混ぜにしたトンデモ玩具箱のような門)・棘皮動物・環蟲動物(現在の環形動物門)・節足動物・軟體動物・脊索動物門の十二にしか分類していないしかも、この内の原生動物と特に擬似軟体動物はご覧の通りの生物学者自身が口にしたくないブラック・ボックス的存在であり、そうポピュラーな生物たちではなかった。また、原生動物や環蟲動物は一般的には微細であって虫眼鏡や顕微鏡によらないと細かな観察出来ないから、それら三つを外すと「九つ」となり、丘先生の謂いがしっくりくる。実際、小学生の頃の私も、その程度の認識だった。本書「進化論講話」の初版は明治三七(一九〇四)年、底本は、その同じ大正一四(一九二五)年九月刊の『新補改版』(正確には第十三版)で、そもそもが、これは御大層な教科書ではなく、一般大衆向けの進化論の解説書なのである。

「章魚(たこ)・烏賊(いか)の如く、身體は柔くして全く骨骼なく、單に表面に介殼を被るだけの動物を總括する軟體動物門」やや問題がある。ウミウシのような後鰓類やイカ類の場合は表面ではなく、体内に殻(の痕跡)を有するからである。

「夥多」「くわた」。おびただしく多いこと。或いは「あまた」と当て訓している可能性もある。

「蠕形動物門」現在の環形動物門。]

 

Sekituidoubutunotaiji

[脊椎動物の胎兒の比較

(上段左より)魚 蠑螈[やぶちゃん注:「ゐもり(いもり)」。] 龜

(下段左より)豚 牛 兎 人間]

[やぶちゃん注:底本はブラック・バックでおどろおどろしく見えてしまう(と私が判断し)、講談社学術文庫版の画像を用いた。]

 

 人間の一二箇月の胎兒と鷄卵を、二三日溫めた頃の雛の出來かゝりとが互に相似て居ることは、既に前にいうたが、人間と鷄とだけに限らず、他の鳥類・獸類は素より、蛇でも、龜でも、魚類でも、凡そ脊椎動物なればその發生の初期には大體に於て皆相似たものである。こゝに掲げた八つの圖は脊椎動物の中から八つの違つた種類を選み出して、その發生中、人間の一箇月位の胎兒に相當する頃の形狀を列べ寫したものであるが、上の段の左の端にあるのが魚、次が蠑螈[やぶちゃん注:「ゐもり(いもり)」。]、次が龜、右の端が鷄で、下の段では左の端が豚、次が牛、次が兎、終りが人間の胎兒である。孰れも實物から寫生したものであるから、略圖ではあるが決して間違ひはない。この通り萬物の靈と自稱する我々人間も、我々の常に打ち殺して食ふ牛・豚・鳥・魚なども、この時代にあつては殆ど區別は附かぬ位で、あれとこれとを取り換へて置いても容易には解らぬ位に好く似て居る。

 節足動物中の甲殼類のことは前に例に擧げたが、次なる軟體動物は如何と見るに、之も同樣で、蛤でも牡蠣でも榮螺でも鮑でも、發生の初期には皆極めて小い幼蟲で、體の前端にある纖毛の輪を振り動かして海面を泳いで居るが、その狀は孰れも同じやうで、なかなか識別は出來ぬ。寒冷紗[やぶちゃん注:「かんれいしや(かんれいしゃ)」荒く平織に織り込んだ布。織り糸には主に麻や綿などが用いられたが、現在ではナイロンにとって変わった。ここは所謂、プランクトン・ネットのことである。]で囊を造つて海の表面を引いて步くと、目に見えぬ程の小いものが澤山に入るが、之を顯微鏡で調べると、かやうな幼蟲が幾らでも見える。その中には蛤になるべきものも、牡蠣になるべきものも、榮螺になるべきものも、鮑になるべきものもあらうが、形が似て居るから實際生長させて見なければ何になるか前からは解らぬ。特に蜆・蛤の如き二枚の介殼を有する類と、榮螺・鮑の如きたゞ一個の卷いた介殼を有する類とに別けて論ずるときは、かやうに相似た時期が更に長くて、愈々二枚貝の幼蟲とか卷貝の幼蟲とかいふことが解るだけに生長してからも、尚餘程の間は二枚貝の中の何といふ種類の子であるか、卷貝の中の何といふ種類の子であるか解らぬ。海岸に打ち上げられて居る介殼だけを見ても、貝類には形狀の異なつたものの甚だ多いことが直に解るが、その發生の初め幼蟲として海面を泳ぐ時代に互に善く似て居る具合は、人間・牛・豚などが胎内發生の初めに暫時同じ形を呈するのと毫も違はぬ。

[やぶちゃん注:ここに出る貝類のそれは、軟体動物の殆んど(頭足類は除く。次の章で丘先生も例外として挙げられておられる)で見られるトロコフォア(Trochophore:担輪子(たんりんし)。軟体動物や環形動物の幼生に多く見られるライフ・ステージの一時期)及び、通常ではその次のステージであるベリジャー幼生(veliger larva:被面子幼生。概ね、鰭のように広がった部分に繊毛を生やして浮遊生活を行う)を指している。特にここでは後者を指示していると読むべきであろう。]

 

Kyokuhidoubutu

[棘皮動物の例

 一 ひとで  二 うに  三 なまこ]

[やぶちゃん注:キャプションの数字が画像の中に打たれており、講談社学術文庫とは指示数字が異なることによる。国立国会図書館デジタルコレクションの画像を補正(異様に暗いのでハレーションのように明度を上げた)して示した。ちょっと見づらいが、ヒトデは「一」の左下に一個体、その左後方の岩(或いは海綿か)の上に一個体が描かれている。但し、ナマコはいいとして、左のウニは口器を正面に向けており、生態画としてはあり得ない、おかしな絵である。]

 

 棘皮動物の中に含まれてゐる「うに」・「ひとで」・「なまこ」は生長の終つたものを互に比べて見ると、隨分甚だしく違つたものである。「うに」は稍々扁平な球形をなし、表面全體に棘が生えて恰も刺栗[やぶちゃん注:「いがぐり」。]の如く、「ひとで」は五本の腕を有し、圖に書いた星の通りであるから、西洋諸國では之を海の星と名づける。また「なまこ」は細長い圓筒形で、澤山の細かい突起が縱に五本の線をなして列んで居る故、頗る胡瓜に似て居る。斯く互に違ふものであるが、その發生を調べると、初めの間は實に甚だしく相似たもので、孰れも親とは全く形狀が違ひ、纖毛の列を振り動かして、海の表面に浮いて居る。貝類の幼蟲でもこの類の幼蟲でも、極めて小い透明なもの故、實際生きたものを顯微鏡で見なければ、なかなか想像することもむずかしい。

[やぶちゃん注:棘皮動物の発生初期の幼生は概ね、ウニとクモヒトデ類(棘皮動物門 クモヒトデ(蛇尾)綱 Ophiuroidea)ではプルテウス幼生(pluteus larva)と呼び、特にウニのそれはエキノプルテウス幼生(echinopluteus larva:当初は四本の腕を持ち、六腕期を経過後、八腕期で変態して稚ウニとなる)、クモヒトデではオフィオプルテウス幼生(Ophiopluteus larva:「く」の字型の中央に、短い六本の腕が付いた形状を成す)と呼ぶ。通常のヒトデ類ではビピンナリア幼生(bipinnaria larva:体表面に複雑な曲がりくねった形の繊毛帯を有し、その一部が三対の突起となって突き出した状態を指す。後にそれが有意に長い突起として伸び出したものを別にブラキオラリア幼生(brachiolaria larva)と呼ぶ)、ナマコ類ではアウリクラリア幼生(auricularia larva:五対の突起を有し、各突起の基部には球状体がある。さらに最後端の両側の突起の基部には星形の骨片を持つ。この幼生はさらに樽形のドリオラリア幼生(doliolaria larva)となり、さらに変態して触手をもったペンタクラ期(pentacularia)を経て成体となる)と呼んで区別する。

「うに」は英語で“sea urchin”(海の針鼠)が一般的だが、“sea chestnut”(海の栗)とも呼ぶ。

「ひとで」は英語通称で“sea star”“star fish”“starfish”(海の星)。

「なまこ」は英語通称で“sea cucumber”(海の胡瓜)。]

 以上は極めて簡單に、動物は發生の初めに當つて互に著しく相似るものであることを説いたに過ぎぬ。詳細なことに至つては素より白身で實物を研究しなければ到底明に知ることは出來ぬが、大體は先づこゝに述べた通りに考へて誤はない。そこで斯くの如く、生長してしまへば全く異なる動物が、發生の初めだけ揃つて相似るといふことは、決して偶然なこととは思はれぬ。一つか二つより例のないことならば、或は何か偶然の原因で生じたかとも思はれるが、孰れの門、孰れの綱の動物を取つても、その大部分が、かやうな性質を示すのを見れば、之には何か全部に通じた一大原因が無ければならぬ。若し同門・同綱に屬する動物は皆共同の先祖より降つたものとしたならば、この原因は直に解るが、生物各種を萬世不變のものと見倣すときは、斯かる現象の起る理由は到底何時までも解らぬであらう。

復活のアリス――

昇天から二ヶ月後に舞台に復活したアリス――
 
父原作の「ひとみ座」公演「ぼくらのジョーモン旅行」より。
 
ひとみ座提供(©ひとみ座)
 

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2018/02/19

北條九代記 卷第十二 後醍醐帝踐祚

 

      ○後醍醐帝踐祚

正和五年七月に、北條高時、十四歳にして、初(はじめ)て將軍守邦親王の執權となりて、評定の座に出でらる。北條相摸守基時、執權の職を辭す。後に入道して信忍(しんいん)と號し、普恩寺と稱す。翌年三月に改元有りて文保元年と號す。高時、十五歳にして相摸守に任ず。然るに、高時は其天性(うまれつき)、甚(はなはだ)輕忽(きやうこつ)にして、智慮、尤(もつとも)、後れたり。頗る執權の器量に相應せすといへども、前代武州泰時より以来、嫡子相續の掟(おきて)あるを以て、秋田〔の〕城〔の〕介時顯、長崎』〔の〕入道圓喜、是を守立(もりた)てんとし、様々、計略を致し、諸人の心を執宥(とりなだ)め、高時の行跡(かうせき)を教へ參らせ、世を靜め、家を齊(ととの)ふとはすれども、兩人の内管領(ないくわんれい)、私欲深く、奢侈(しやし)を好み、權威を振ふ事、邪(よこしま)多かりければ、人望(にんぼう)に背く事、少からず。恨(うらみ)を負ふ、報(むくひ)を待つ者、近習、外樣(とざま)に、いくらも、あり。同二年二月二十六日、京都には御讓位の御事あり。主上、今年二十二歳、春宮(とうぐう)は既に三十歳に餘り給ふ。是は後宇多院第二の皇子、尊治(たかはるの)親王と申し奉る。御母は談天門院参議忠繼卿の御娘なり。皇子、既に春宮に立ちて、御年三十一歳に成らせ給へば、後宇多法皇を初め奉り、其方樣(かたさま)の人々は待兼(まちか)ねさせらるべし、とて、關東より計ひ申して、同二十九日、尊治親王、御位に卽(つ)き給ふ。先帝は花園〔の〕院と號し、萩原〔の〕院と稱す。時移り、事改(あらたま)り、此君、御位に卽き給ひ、内には仁慈の思(おもひ)深く、外には萬機(ばんき)の政(まつりごと)を施し、近代の明君、當世の賢王にておはしましければ、遠くは延喜天曆の跡を慕ひ、近くは後三條延久(えんきう)の例(れい)に任せ、記錄所(きろくしよ)へ出御(しゆつぎよ)有りて、直(ぢき)に訴陳(そちん)を決し給ふ。德澤(とくたく)、一天に覆ひ、恩惠、四海に蒙(かうぶ)り、絶えたるを繼ぎ、廢れたるを興し、悪を宥(なだ)めて、善を賞し給ひしかば、儒佛の宏才(くわうさい)、皆、共に望(のぞみ)を達し、寺社の碩學(せきがく)、各(おのおの)、既に所を得たり。誠に是(これ)、天に受けたる明君(めいくん)、地に奉ぜる聖主(せいしゆ)なりとて、上下、其化(くわ)に誇り、遠近(ゑんきん)、具德を仰がざるは、なかりけり。卽ち、是を、後醍醐天皇とじ申し奉りける。

[やぶちゃん注:「正和五年」一三一六年。

「北條高時」(嘉元元(一三〇四)年~元弘三/正慶二年五月二十二日(一三三三年七月四日)は第十四代執権(在職:(正和五(一三一六)年~正中三(一三二六)年)。ウィキの「北条高時」より引く。第九代執権北条貞時三男。延慶二(一三〇九)年に七歳で元服している。『元服に際しては烏帽子親の偏諱』『を受けることが多いが、「高時」の名乗りを見て分かる通り、将軍の偏諱(守邦親王の「守」または「邦」の』一『字)は受けなかったようである。同時代(の上の立場)の者で「高」の字を用いる人物はおらず、研究では祖先とされる平高望(高望王)に肖』(あやか)『ったものとする見解が示されている。元々は細川重男がこの説』『を唱えたものの』、『根拠なしとして論文等では示してはいなかったが、角田朋彦が根拠付きでこれを支持している。これは、細川が著書で、北条時宗(高時の祖父)の代に、得宗家による政治支配体制を確立させるにあたり』、『その正統性を主張するために、祖にあたる北条義時を武内宿禰になぞらえる伝説が生まれて流布していたこと』『や、時宗とは不可分の関係にあった平頼綱(貞時の乳母の夫にあたる)が自らの家格を向上させるため、次男・資宗(助宗とも書く)の名字(名前の』一『字)を平資盛に求めた可能性があること』『を述べており、こうした考え方が可能ならば、同様に時宗が自分の嫡男の名字を平貞盛に、貞時も嫡男の名字を高望王に、それぞれ求めたと考えることができるのではないかという理由によるものである。加えて角田は、貞時・高時の代には将軍→御家人という偏諱の授与の図式は存在せず』、『得宗家当主である貞時の「貞」の字や高時の「高」の字が他の御家人に与えられる図式が』、『この時代に成立していたことが御家人の名前から窺え』、『これは得宗権力が確立していたことの徴証の一つとして読み取れるとする見解を示している』。応長元(一三一一)年、九歳の『時に父貞時が死去。貞時は死去の際、高時の舅・安達時顕と内管領・長崎円喜を幼い高時の後見として指名した。その後高時まで三代の中継ぎ執権』『を経て』、この正和五(一三一六)年に父と同じ十四歳で、第十四代執権となった。しかし、『その頃には』既に『円喜の嫡男・長崎高資が権勢を強めていた』。『在任中には、諸国での悪党の活動や、奥州で蝦夷の反乱、安藤氏の乱などが起き』正中元(一三二四)年、『京都で後醍醐天皇が幕府転覆を計画した正中の変では、倒幕計画は六波羅探題によって未然に防がれ、後醍醐天皇の側近日野資朝を佐渡島に配流し、計画に加担した者も処罰された』。しかし二年後の正中三年には病と称して二十四歳で『執権職を辞して出家』して崇鑑(すうかん)と名乗った。『後継を巡り、高時の実子邦時を推す長崎氏と、弟の泰家を推す安達氏が対立する騒動(嘉暦の騒動)が起こ』り、三月には非得宗の『金沢貞顕が執権に就任する』もたった十日で辞任、四月に非得宗の最後の執権(第十六代)赤橋守時が『就任することで収拾』した。元弘元(一三三一)年には、『高時が円喜らを誅殺しようとしたとして高時側近らが処罰される事件が起こる』。同年八月、『後醍醐天皇が再び倒幕を企てて』、『笠置山へ篭り、河内では楠木正成が挙兵する元弘の乱が起こると』、幕府は『軍を派遣して鎮圧させ、翌』年三月には、再び、『後醍醐天皇を隠岐島へ配流し、側近の日野俊基らを処刑する。皇位には新たに持明院統の光厳天皇を立て』ている。元弘三/正慶二(一三三三)年閏二月、『後醍醐天皇が隠岐を脱出して伯耆国の船上山で挙兵すると、幕府は西国の倒幕勢力を鎮圧するため、北条一族の名越高家と御家人の筆頭である下野国の御家人足利高氏(尊氏)を京都へ派遣する』が四月に『高家は赤松則村(円心)の軍に討たれ、高氏は後醍醐天皇方に寝返って』、五月七日に『六波羅探題を攻略。同月』八『日、関東では上野国の御家人新田義貞が挙兵し、幕府軍を連破して鎌倉へ進撃する』十八『日に新田軍が鎌倉へ侵攻すると』、二十二『日に高時は北条家菩提寺の葛西ケ谷東勝寺へ退き、北条一族や家臣らとともに自刃した。享年』二十九の若さであった。『後世に成立した記録では、闘犬や田楽に興じた暴君または暗君として書かれる傾向にあり、江戸時代から明治にかけての史学でもその傾向があった』が、『高時の実像を伝える当時の史料は少なく、これらの文献に描出される高時像には、足利尊氏を正当化し』、『美化するための誇張も』多く『含まれている』。「太平記」では、『高時が妖霊星を見て喜び踊り、一方で藤原仲範が妖霊星は亡国の予兆であるため』、『鎌倉幕府が滅亡することを予測したエピソードが挿入されている』。『更に、北条氏の礎石を築いた初代執権の北条時政が江島に参籠したところ、江島の弁財天が時政に対して時政から』七『代の間』、『北条家が安泰である加護を施した話を記載し、得宗で』七『代目に当たる高時の父貞時の代にその加護が切れたと記載する』。「太平記」は『高時は暗愚であった上、江島弁財天の加護まで切れてしまったのだから、鎌倉幕府の滅亡は至極当然のことであった、と断じている』。こうした「太平記」に於ける『高時像は、討幕を果たした後醍醐天皇並びにその一派が、鎌倉幕府の失政を弾劾し、喧伝する中で作り上げたものという側面もある』。『では』、『実際の高時はどのような人物だったのかというと』、「保暦間記」は『高時の人物像について』、『「頗る亡気の体にて、将軍家の執権も叶い難かりけり」「正体無き」と記している。一族である金沢貞顕が残した』金沢文庫古文書でも『彼が病弱だったことが強調されており、彼の病状に一喜一憂する周囲の様子をうかがわせる。また貞顕の書状には「田楽の外、他事無く候」とも書かれており、田楽を愛好していたことは確かである。彼の虚弱体質の原因として、祖父・時宗さらには高祖父・時氏まで遡る安達氏を正室とした血族結婚にあると思われる。実際、彼の正室も安達氏である。また』、二条河原の落書には『「犬・田楽ハ関東ノホロ()フル物ト云ナカラ」と書かれており、鎌倉幕府滅亡から間もない時から高時が闘犬・田楽を愛好したことが幕府を滅ぼした要因の一つだとされてきたことが伺える』とある。『父の貞時の場合、その父である時宗が没した時には』十四『歳であり、政務に勤しむ父親の姿を知っており』、二十三『歳の時に平禅門の乱で実権を掌握してからは政務に勤しんで得宗専制を確立したが、高時の場合は彼が』三『歳の時に起きた嘉元の乱以来』、『貞時が政務に対する意欲を失って』、『酒浸りの生活になっていたうえ、高時が』九『歳の時には父は世を去っていたため、高時は政務を行う父の姿を知らなかった』。『また、晩年の貞時が酒浸りになって政務を放棄したため、高時が家督を継いだ頃には幕府は長崎円喜らの御内人・外戚の安達時顕・北条氏庶家などの寄合衆らが主導する寄合によって「形の如く子細なく」(先例に従い形式通りに)運営されるようになっており、最高権力者であったはずの得宗も将軍同様装飾的な地位となっていたため、高時は主導的立場を取ることを求められていなかった』。『その一方で』、『高時は夢窓疎石らの禅僧とも親交を持ち、仏画などにも親しんだことが知られている』。また、「増鏡」でも、『高時が病弱であり、鎌倉の支配者として振る舞っていたものの、虚ろでいることが多かった、体調が優れている時は、田楽・闘犬に興じることもあったと記して』あり、『また、田楽・闘犬を愛好したのは執権を退い』て『以降であったと記している』とある。実は彼もまた、権力闘争の中にあって形骸だけが利用された滅びの一族の一人であったのである。

「翌年三月に改元有りて文保元年と號す」「二月」の誤り。正和六年二月三日(ユリウス暦一三一七年三月十六日)に大地震などにより、改元。

「輕忽(きやうこつ)」軽率。

「兩人の内管領(ないくわんれい)」この場合は(元)内管領長崎円喜とその嫡男で(現)長崎高資を指す。現在では正和五(一三一六)年頃に、父から内管領の地位を受け継いで、幕府の実権を父とともに握ったと考えられている。文脈から秋田城介時顕と円喜と採っては誤りである。安達時顕は名門御家人の一族であって内管領ではない

「同二年二月二十六日」文保二年は一三一八年。

「主上」花園天皇。

「談天門院参議忠繼卿の御娘」後醍醐天皇の母五辻忠子(いつつじちゅうし 文永五(一二六八)年~元応元(一三一九)年)。「談天門院」(だんてんもんいん)は彼女の院号。後宇多天皇の後宮、女院(にょういん)。大覚寺統。

「後宇多法皇」大覚寺統。

「花園〔の〕院と號し、萩原〔の〕院と稱す」彼の御所は仁和寺の花園御所であったが、ここを寺に改めて妙心寺を開基している。正平三(一三四八)年十一月に、この花園萩原殿で死去した。

「萬機(ばんき)の政(まつりごと)」「萬機」は政治上の多くの重要な事柄であるが、特に帝王の政務を指す。

「延喜天曆」「延喜」醍醐天皇の治世。この時代は形式的ながらも天皇親政が行われたことから、後に「延喜の治」と呼んで理想的な治世として賞賛されるようになった。「天曆」村上天皇の治世。彼は天慶九(九四六)年に即位した後、暫くは藤原忠平を関白に置いていたが、天暦三(九四九)年に忠平が没すると、以後は摂関は置かず、天皇親政の形をとった。後世、「延喜の治」と並称して聖代視された。しかし、ウィキの「天暦の治」によれば、『忠平の後に実際に政務をリードしたのは』、『太政官筆頭である左大臣藤原実頼であり、村上治世を天皇親政の理想の時代とするのは』、十一『世紀以降に摂関政治で不遇をかこった中下流の文人貴族による意識的な喧伝だったのだと考えられている』とある。

「後三條延久(えんきう)」後三条天皇(長元七(一〇三四)年~延久五(一〇七三)年/在位:治暦四(一〇六八)年~延久四(一〇七三)年)の「延久の親政」。ウィキの「後三条天皇」によれば、彼は『桓武天皇を意識し、大内裏の再建と征夷の完遂を打ち出した。さらに大江匡房らを重用して一連の改革に乗り出』し、『画期的な延久の荘園整理令を発布して記録荘園券契所を設置』、『絹布の制』・『延久宣旨枡や估価法の制定等、律令制度の形骸化により弱体化した皇室の経済基盤の強化を図った。特に延久の荘園整理令は、今までの整理令に見られなかった緻密さと公正さが見られ、そのために基準外の摂関家領が没収される等』、『摂関家の経済基盤に大打撃を与えた。この事が官や荘園領主、農民に安定をもたらし』、「古事談」では、『これを延久の善政と称えている。一方、摂関家側は頼通・教通兄弟が対立関係にあり、外戚関係もなかったため』、『天皇への積極的な対抗策を打ち出すことが出来なかった』。『また、同時代に起きた延久蝦夷合戦にて、津軽半島や下北半島までの本州全土が朝廷の支配下に入る等、地方にも着実に影響を及ぼすようにな』った、とある。

「記錄所(きろくしよ)」政務実務室相当。

「訴陳(そちん)」訴人の告訴内容と被告側の弁明陳述。

「宏才(くわうさい)」広汎な知識を学んだ才人。]

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十六年 『警鐘「芭蕉雑談」』

 

    警鐘「芭蕉雑談」

 

 明治二十六年は芭蕉歿後二百年に相当する。この年しばしば旧派俳人に接触した居士は、到る処で二百年忌に関する話を耳にしたのであろう。十一月六日の『日本』に地風升の名を以て「芭蕉翁の一驚(いっきょう)」なる一文を掲げた。芭蕉が地獄と極楽の中頃の処からぶらりと出て、俳諧師のところへ来て見ると、そこに集った連中が、今年の二百年忌には廟を建てようか、石碑にしようかという相談をしている。芭蕉が癇癪(かんしゃく)を起して中に入り、「汝ら集りて何をか語る、われこそ松尾芭蕉なれ」と叱りつけたところ、一同喜んで「誠に善くこそ御光來下された、先づさしあたり今年の儲(まう)けは廟が善いか石碑が善いか御當人樣の御差圖(おさしづ)を願いとうござります」といったので、芭蕉もあっけに取られて匇々(そうそう)立去ってしまった。その翌日六道の辻の黄泉社(こうせんしゃ)より発行する『冥土日報』第十万億号を見ると、二号活字で

[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。「芭蕉翁の一驚」のこの箇所は、セセエト氏のブログ「林誠司 俳句オデッセイ」の正岡子規「芭蕉翁の一驚」についてで前略されているが、読める。そこをも参考にしつつ、本文を校訂し、さらに正字化を行った。]

 

近頃拙者名義を以て廟又は石碑抔を建立する由言ひふらし、諸國の俳人にねだり金錢を寄附せしむる者有之由聞き及び候得共、右(みぎ)者(は)一切拙者に關係無之候得(これなくさふらえば)左樣御承知被下度(くだされたく)この段及広告(くわうこくにおよび)

也。

 大日本明治二十六年 月 日  松尾桃靑 白

 

という広告が出ていたというのである。当世の宗匠連(そうしょうれん)の愚劣を諷したもので、一場の戯謔(ぎぎゃく)に過ぎぬようであるが、居士が次いで筆を執った「芭蕉雑談」を読む前に、先ずこの文章を一瞥する必要がある。

[やぶちゃん注:「明治二十六年は芭蕉歿後二百年に相当する」松尾芭蕉は寛永二一(一六四四)年生まれで、元禄七年十月十二日(グレゴリオ暦一六九四年十一月二十八日)に亡くなっている。明治二十六年は西暦一八九三年であるが、数えで二百年となる。

 「芭蕉雑談」は十月十三日から『日本』に現れて、翌年の一月二十三日に漸く了った。前後二十五回の長篇である。名は雑談であるが、居士が古俳人に対して下した最初の評論と見るべく、『獺祭書屋俳話』よりも更に響(ひびき)が大きい警鐘であった。

 居士は「芭蕉雑談」において、その佳句を称揚するより前に、悪句を指摘した。「芭蕉の俳句は過半悪句駄句を以て埋められ、上乗と称すべき者はその何十分の言る少数に過ぎず。否、僅に可なる者を求むるも寥々(れうれう)晨星(しせい)の如し」という劈頭(へきとう)の断案は、月並宗匠の胆(きも)を奪ったのみならず、世人を瞳目せしめたに相違ない。居士はその理由として、芭蕉の俳諧は古を模倣したのでなく自ら発明したのである、貞門、談林の俳諧を改良したというよりも、むしろ蕉風の俳諧を創開したという方が当っている、その自流を開いたのは歿時を去る十年前、詩想いよいよ神(しん)に入ったのは三、四年前であろう、「この創業の人に向つて僅々(きんきん)十年間に二百以上の好句を作出せよと望む。また無理ならずや」といっているが、当時にあってこれを読む者は、こういう推論に耳を傾けず、一国に大胆なる放言としたものと思われる。

 居士は具体的な実例として、世に喧伝せらるる芭蕉の句十余を挙げ、その多くは悪句であると断定し、「さまでに名高からぬ句を取(とり)てこれを評せんには、芭蕉家集は殆ど駄句の掃溜(はきだめ)にやと思はるゝほどならんかし」とまで極言した。これは正に破天荒の言で、芥川龍之介氏の評した通り「芭蕉の円光を粉碎し去つた」ものでなければならぬ。居士は先ず如是(にょぜ)の断案を与えて置いて、然る後徐(おもむろ)に佳句を列挙した。最も特筆大書したのは豪宕(ごうとう)雄壮なる種類のもので、「夏草やつはものどもの夢のあと」「五月雨を集めて早し最上川」「あら海や佐渡に橫たふ天の川」以下数句を以て俳詩壇上を潤歩するものとし、「吁嘻(ああ)芭蕉以前已に芭蕉なく芭蕉以後芭蕉なきなり」と歎賞しているのである。

[やぶちゃん注:「芥川龍之介」底本は「芥川竜之介」であるが、こればかりは気持ちが悪いので、原本通りに訂した。

「芭蕉の円光を粉碎し去つた」これは芥川龍之介の草稿「芭蕉雜記」の「偶像」の一節であって、生前に発表された「芭蕉雜記」(初出形は「芭蕉雜記」及び「續芭蕉雜記」として大正一二(一九二三)年十一月・十三年五月・同年七月発行の『新潮』各号に分載)中のそれではない

   *

 この偶像崇拜に手痛い一擊を加へたのは正岡子規の「芭蕉雜談」である。「芭蕉雜談」は芭蕉の面目を説盡したものではないかも知れない。しかし芭蕉の圓光を粉碎し去つたことは事實である。これは十百の芭蕉堂を作り、千萬の芭蕉忌を修するよりも、二百年前の偶像破壞者には好個の供養だつたと云はなければならぬ。

   *

「豪宕(ごうとう)」気持ちが大きく、細かいことに拘らず、思うままに振る舞うこと。豪放。]

 居士が芭蕉の佳句と認めるものは、固よりただ豪宕雄壮の世界に限られたわけではない。自然、幽玄、繊巧(せんこう)、華麗、奇抜、滑稽、蘊雅(うんが)、羈旅の実況を写せる者、やや狂せる者、字余りの句、格調の新奇なる者、一瑣事一微物の実景実情をありのままに言い放してなお幾多の趣味を含む者、その他の諸項について芭蕉の句百十余を挙げた上、「百種の變化(拙劣なる者をも合して)盡(ことごと)くこれを一人に該(か)ぬる者は實に芭蕉その人あるのみ。けだし常人の觀念において兩々全く相反し到底並立すべからざるが如き者も、偉人の頭腦中にありては能くこれを包容混和して相戾るなきを得るがためなり」と評している。果然居士が悪句を抑えるに急であったのは、後の佳句を揚ぐるに力あらしめんがためであった。

[やぶちゃん注:「蘊雅(うんが)」よく判らぬが、奥底に潜む雅(みや)びなものの謂いか。]

 「芭蕉雑談」の所論は世人を驚かすと共に、多少の疑問を招いたらしい。「惑問(わくもの)」の項を設けて言これに答えたのは、その反響を語るものである。居士は「芭蕉雑談」における自己の態度について、「芭蕉を文學者とし俳句を文學とし、これを評するに文學的眼孔を以てせば則ち此の如きのみ」といい、「佳句を埋沒して惡句を稱揚する者、滔々たる天下皆然り。芭蕉豈(あに)彼らの尊敬を得て喜ぶものならんや」と喝破している。要するにこの一篇は「主として芭蕉に對する評論の宗匠輩に異なる所を指摘せし者」で、豪宕雄壮なる趣味について力説したのも、逆に宗匠輩の短所を衝いたものに外ならぬ。俳壇に新旗幟(しんきし)を翻さんとする居士の面目は、何よりも「芭蕉雑談」に強く現れている。後に居士は人の問に答えて、「拙著芭蕉談も隨分亂暴なる著述にて自ら困り居候」といったことがあるが、語気の強かったのは警鐘乱打の意味でやむをえまいと思う。芭蕉二百年忌を記念する仕事として、「芭蕉雑談」以上のものはどこにもなかったはずである。

小泉八雲 神國日本 戶川明三譯 附やぶちゃん注(29) 禮拜と淨めの式(Ⅶ)

 

 近代の家族の祓の形は極めて簡單である。各神道の敎區の社は、その敎區の者則ち氏子に『人型』といふ影繪のやうな男、女、子供の姿を現はす小さい紙の切れをくれる――この紙は白紙で、不思議な折り方をしたものてある。家々はその家の人數に應じて幾個かの人型を貰ふ――男と男の子には男の形をしたのを、女と娘とには女の形をしたのを。家の各人は、其人型を一つ取つて、自分の頭や、顏や、手足、身體にそれを觸はらす、其間神道の祈禱を唱へ、神々に向つて、知らずし爲したる犯行のために被る不幸や病氣の(神道の信仰に從ふと病氣と不幸とは、神罰てあるといふのであるから)神樣の慈悲に依つて除けられるやうにと祈るのである。人型の上には、それを受け取つた人の年齡と男女孰れかといふ事が書かれる(名は書かない)。そしてその上で人型はすべて敎區の社にかへされる。すると其處で淸めの式と共にそれが燃やされるのである。こんな風にして社會は六箇月每に『不淨を拂はれる』のである。

[やぶちゃん注:「觸はらす」やや不審。原典は単に“touches”であるから「觸貼らす」では無理がある。「觸(ふ)れ這(は)はらす」ではあるまいか? 平井呈一氏は『をなでて』と訳しておられる。]

 

 昔のギジシヤ、ラテンの都會にあっては淨めの式に伴なつて人名登簿といふ事があつた。式への各市民の出席は、極めて必要な事で、故意に出席しないものは、笞刑に處せられ、または奴隷として賣られた程であつた。これに缺席するのは市民權の喪失となるのである。古い日本に於ても、社會の各員は、式に出席する事を以て責任とされて居た。併し私はその折に人名登簿が爲されたかどうかまだ知らない。恐らくそれは不用な事であつたらう、日本の個人は官廰の方からは認められなかつたのであるから。家族の一團のみが責任を有したので、その家の各個の出席は、家の一團の責任に依つてきめられた事であらうと思はれる。人型を用ふる事――それに禮拜者の名を記さず、只だその男女孰れかと年齡とをのみ記す――は恐らく近代的の事で支那起原の事であらうと思ふ。官廳の登簿なるものは極古い時代にもあつた、併しそれは御祓ひとは何等特別な關係はなかったらしい。そしてその登簿なるものは、神道でもつて居たのではなく、佛敎の敎區の僧に依つて保存して居たらしい……。御祓ひについての、これ等の意見を終るにあたつて、私は偶然に宗敎上の汚れを招いた場合、竝びに或る一人が公共の祭祀の規則に關して罪を犯したと判斷された場合には、特別な儀典がそのために爲されたのは言ふまでもない事てある事を一言する。

[やぶちゃん注:「各市民」は底本では「各 民」と植字が落ちている。原文は“The attendance of every citizen at the ceremony”なので「市民」とした。平井氏も『市民』である。

「その登簿なるものは、神道でもつて居たのではなく、佛敎の敎區の僧に依つて保存して居た」檀信徒の名簿となる過去帳、及び、切支丹や日蓮宗の不受不施派を取り締るために江戸幕府が強制していた宗門改帳を指している。]

明恵上人夢記 58

 

58

一、同二月廿七日の夜、夢に云はく、上師、賀茂に於いて、一帖の紙上をふまへて、墨を以て之に點ず。神主、傍に在りて之を見る。卽ち、兩人共に相(あひ)談話すと云々。案じて云はく、釋迦・明神と云々。

 

[やぶちゃん注:前の「57」を建保七(一二一九)年と推定したので、これも同年二月二十七日と採っておく。

「上師」ここまでの私の考え方から、これは、母方の叔父で出家最初よりの師である上覚房行慈ととっておく。明恵は建仁二(一二〇二)年二十九歳の時、この上覚から伝法灌頂を受けている。上覚は底本の別な部分の注記によると、嘉禄二(一二二六)年十月五日以前に八十歳で入寂しているとある。この頃はまだ生きていたことになる。

「賀茂」既に注した通り、賀茂別雷神社の後背地の塔尾の麓に賀茂別雷神社の神主松下能久が建てて明恵に施与した僧坊がある。ここはそこであろう。

「神主」松下能久と採る。

「ふまへて」「強く押さえて」と採る。

「墨を以て之に點ず」限り無く濃い墨の一点を真っ白な紙にただ一つ確かに打った。これは永遠の時空間のシンボルと私は採る。だからこそ、そこに居合わせた二人が真の実在を示すところの神仏と認識されるのである。これはそういう意味では、前の「56」と強い確信の連関を有しているように思われる。]

□やぶちゃん現代語訳

58

 同年二月二十七日の夜、こんな夢を見た。

 

 上師上覚房さまが、賀茂の僧坊に於いて、一帖の大きな紙を広げられてそれを強く押さえておいて、墨を以ってこれに、

――タン!

と一点を打たれた。

 神主の松下能久さまが、その傍らに在られて、これを凝っと見ておられる。

 と、その直後、御両人ともに、互いを正視せられ、徐(おもむろ)にお互いに何かを談話なさっている……。

 夢の中で、その時、私は思った。

『――これは――上覚房さまと能久さま――ではない。……御釈迦様と大明神様なのだ――』と……。

 

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里 一〇 

      一〇

 椀貸の穴が水に接すれば龍宮と云ひ乙姫と云ひ、野中山陰に在るときは隱里と云ひ隱れ座頭と云つたのは、自分には格別の不一致とも思はれぬ。龍宮も隱里もともに富貴自在の安樂國であつて、容易く人間の到り得ぬ境であつた。浮世の貧苦に惱む者の夢に見うゝつに憧れたのは、出來る事なら立ち歸りにでも一寸訪問し、何か貰つて歸つて樂しみたいと云ふに在つたこと、兩處共に同樣である。否寧ろ龍宮は水中に在る一種の隱里に外ならぬ。話が長くなつたが此事を今些し言はうと思ふ。

 三河の渥美半島福江町の附近、山田の鸚鵡石と云ふ石は亦昔膳椀を貸したさうである。人の惡い者が返さなかつた爲に中止となつたこと例の通りである。鸚鵡石は人の言語を答へ返す故に起つた名で、是又國々に多い話であるが、椀を貸したのは爰だけかと思ふ。人のよく知る鸚鵡石は伊藤東涯翁の隨筆で有名になつた伊勢度會郡市之瀨の石であるが、此附近にも尚二三の同名の石があつた外に、江州の蒲生郡、越前敦賀の常宮浦、東國では伊豆の丹那村、武州御嶽の山中等にもあり、飛驒の高原郷で鳴石、信州伊那の市之瀨同じ更級の姨捨山で木魂石(こだまいし)、福島縣白河附近の小田倉村でヨバリ石、さては南津輕の相澤村でホイホイ石、西部にあつては、土佐の穴内の物言石、備後安藝山村に多い呼石の類、或は言葉石と云ひ答へ石と云ひ、又は三聲返しの石と云ふが如きも皆同じ物である。元は恐らく反響をコダマ卽ち木の精と信じた如く、人の口眞似するのを鬼神の所爲としたのであらうが、其はあまり普通の事と分つてから後は、いやコダマではなく返事をするのだとか、又は一度呼べば三度呼び返すとかいつて、強ひて不思議を保持せんとして居る。甚しきに至つては和漢三才圖會に、會津若松城内の鎭守諏訪明神の神石、八月二十七日の祭の日に限り、人がこれに向つて「物もう」と言へば「どうれ」と應へるなどゝいつて、醴酒と芒の穗を供へたとさへも傳へて居る。

[やぶちゃん注:「三河の渥美半島福江町の附近、山田の鸚鵡石」現在の愛知県田原市福江町ではなく、その東方の愛知県田原市伊川津町(ここ(グーグル・マップ・データ))であろう。サイト「おでかけトヨタ」のこちらに『愛知県伊川津の山中にある岩石』とし、『岩が音を反響させる様子がおうむの人まねに似ていることから名づけられ』たもので、高さ・幅ともに約十五メートルほどあるという。『昔、この地方の郡司であった渥美大夫重国の娘玉栄(たまえ)には婚約者がい』たが、『婚約者の心が次第に離れてしまい』、『玉栄には憎しみの気持ちが芽生え』、『やがて』、『玉栄は母の形見の唐竹でできた横笛とともに岸上から投身自殺を図り、それ以来』、『この岩は笛の音だけは反響しないという昔からの言い伝えがあ』るとする。また、サイト「東三河を歩こう」の「鸚鵡石(おうむせき) 愛知県田原市伊川津町鸚鵡石」では画像で当地が見られる。

「伊藤東涯」(寛文一〇(一六七〇)年~元文元(一七三六)年)は江戸中期の儒学者。名は長胤(ながつぐ)、東涯は号。知られた儒学者伊藤仁斎の長男で、その私塾古義堂二代目。古義学興隆の基礎を築き、父仁斎の遺した著書の編集・刊行に務め、自らも「訓幼字義」などを刊行した。中国語・中国制度史・儒教史などの基礎的な分野の研究にも力を入れ、また、新井白石・荻生徂徠らとも親交が深かった。彼の随筆は「秉燭譚」が知られるが、ざっと見たところでは見当たらない。発見し次第、追加する。

「伊勢度會郡市之瀨の石」【2020年11月9日全面改稿】実は当初、現在の志摩市磯部町恵利原にある鸚鵡岩(ここ(グーグル・マップ・データ))であろう(ここも旧度会郡域ではある)と考えた。「伊勢志摩きらり千選」のこちらこちらでもここが「鸚鵡石」として詳しく説明されており、伊勢の鸚鵡石としては、現在はここがとみに知られているからであるさても、そのまま二年九ヶ月の間、誰からも内容への問い合わせも意見も貰っていない。それどころか、二年ほど前には、恵利原の鸚鵡岩のドキュメント番組を見て、「ああ、ここで注したところだなぁ!」と懐かしく思うたばかりであった。

ところが、今日、必要があって堀内元鎧 信濃奇談 卷の上 鸚鵡石」に注するため)、ここをもう一度、検証してみた。すると――どうもおかしい――のだ。何がおかしいかと言えば、この「度會郡市之瀨」という地名が旧地名としてここと全く一致しないことである。都市辺縁部の急速な変化を示す場所や新興市街地ならいざ知らず、正直、このような山間部で、何もかもごっそり地名が変わってしまうということは普通はあり得ないからである。

そこで再度、調べ直して見ると――旧三重県度会郡にはちゃんと「一之瀨村」という村域が嘗て存在し、そこは現在の上記の志摩市磯部町恵利原とは全く別な場所、西南西に二十キロ以上も離れた場所にあったことが判ったのである。そうして「一之瀬」という地名で現在もあることも判明したのである。

旧「三重県度会郡一之瀬村」域を示す「歴史的行政区域データセットβ版」を見られたい。

さて――しかも――ここからが大問題なのだ!――

ここの度会町が作ったとしか思われない、『南中村「おうむ石(せき)」(鸚鵡石(おうむせき))』(PDF)という解説がネット上にあるのを発見したのだ! そうして、そこには何んと! 別な「鸚鵡石」について書かれてあったのだ!

昔、山仕事の人たちがひと休みしていると、岩の中から話し声が聞こえてくるので大変驚き、山霊(さんれい)(山の精)のしわざだと恐れて逃げ帰ったと言い伝えられています。やがて音や声が岩によく反響することがわかり、鸚鵡のような岩として徐々に評判になっていきました』。『江戸時代の』正徳五(一七一五)年、『芭蕉の門人露川(ろせん)や燕説(えんせつ)らが南中村の「おうむ若」を見物し、一之瀬の俳句愛好者たちと交流しました』。享保一五(一七三〇)年には、『当代隨一の学者であった伊藤東涯が南中村を訪れて「おうむ石(せき)」の詩を詠み、『勢遊志』を著しています』。『東涯の詩は霊元上皇(れうぃげんじょうこう)の知られるところとなり、画工の山本宗仙にその情景を屏風(びょうぶ)に描かせました。東涯がその序文を書いています。また、大阪の浄瑠璃(じょうるり)作家竹田出雲の浄瑠璃が演じられ、南中村「おうむ石(せき)」が広く世に知られるようになりました』。『その後も名所として、斎藤拙堂(せつどう)(津藩の学者)、伊勢俳諧の麥林舎乙由(ばくりんしゃおつゆう)をはじめ文人墨客(ぶんじんぼっきゃく)など多くの人が訪れております』。『この巨岩は、高さ』十八メートル、幅四十メートル『余で、「チャート」と呼ばれる石英質堆積岩です』。『反響面は垂直で、真北を向いています』とあるのである。

若干の心許無さを感じるとすれば、そこには『度会町指定文化財(名勝)』と記されてあるのだが、その『指定日』が『平成』三〇(二〇一八)年十月二十三日と、えらくごく最近の指定であることなのであるが、まあ、それは問題にするのはやめておく。

ともかくも、そこには地図も載っているのだ。それによって確認すると、そこは、

三重県度会郡度会町南中村

となるのである。さて、そのPDFの地図を見ると、 西から流れてきた一之瀬川が大きく南に蛇行して北へと向きを変えて行く箇所から南西に稜線を登ったところ、

国土地理院図の三百六十一メートルのピーク附近の少し手前辺り

に「おうむ石」があることが判るのである。そこで、今度はグーグル・マップ・データでその付近を拡大してゆき、切り替えて、

同航空写真のここ

で、ストリート・ビュー・マークを画面中央にスライドさせると、青いドットが、まさに!――その辺りに――四つほど――点ずる。そこの左上の点が密集する真ん中にストリート・ビュー・マークを移して見給え!――

すると!――

巨大な岩壁が眼下に出現する

左角にある画像タイトルを見ると――

おうむ石(鸚鵡石/オウムセキ)」

とある。実は、その群から少し離れた右にある点にストリート・ビュー・マークを落すと「おうむ石」と書かれた看板と、尾根の奥に続く階段の画像が出る)。そうだ! そうなのだ! これこそが、真の昔の「鸚鵡石(おうむせき)」なのだ! 恵利原のそれは、その後に発見された新しい「鸚鵡岩(おうむいわ)」だったのだ!

「越前敦賀の常宮浦」この附近(グーグル・マップ・データ)。

「飛驒の高原郷」岐阜県北西部。現在の飛騨市神岡町・高山市上宝町・奥飛騨温泉郷附近に該当する。

「信州伊那の市之瀨」現在の長野県伊那市長谷市野瀬(はせいちのせ)か。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「福島縣白河附近の小田倉村」福島県西白河郡西郷村小田倉。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「南津輕の相澤村」青森県浪岡町大字相沢か。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「土佐の穴内」高知県安芸市穴内(あなない)。この附近(グーグル・マップ・データ)。

「和漢三才圖會に、會津若松城内の鎭守諏訪明神の神石……」「卷第六十五」の「陸奥」にある以下。原本より訓読して引く。一部読みを歴史的仮名遣で補った。但し、「ものも(う)」のルビは原典のママ。【 】は割注。

   *

諏訪大明神 會津若松に在り【城内の鎭守と爲す。】

祭神 健御名鋒命(たけみなかたのみこと)【大巳貴(おほむなちの)命の子(みこ)。信州の諏訪と同じ。】

社の傍(かたはら)に神石有り。髙さ六尺、幅三尺許(ばかり)。籬(いかき)をを以つて之を圍ふ。八月二十七日、祭の日に限り、人、之れに向(むかひ)て、「物申(ものも)う」と謂へば、石、答へて、「誰(どれ)」と曰(い)ふの音、有り。此の日、醴酒(あまざけ)に芒(すゝき)の穗(ほ)を挿(はさ)んで、之れに供す。

   *]

 其鸚鵡石がさらに進んで膳椀借用の取次までもしたと云ふのである。是などは多分他の家具の岩屋などゝは異なり、地下にも水底にも通ずる穴が無かつたであらうから、コロボツクルとも土蜘蛛とも説明はし難かろうと思ふ。白山遊覽圖記に引用した異考記と云ふ書に、今より六百八十何年前の寛喜二年に、六月雪降りて七日消えず、國中大凶作となつた時、白山の祝(はふり)卜部良暢、窮民を救はんがために山に上つて斷食し、幣を寶藏石と云ふ岩に捧げて禱ること三日、忽ち白衣玉帶の神人現れ、笏をもつてその石を叩けば石門洞然と開いて、内は丹楹碧砌の美しい宮殿であつた。其時一條の白氣其中より出でゝ麓の方に靡き、村々の竹林悉く實を結んで餓ゑたる民、食を繋ぐことを得た云々。亞刺比亞夜譚の隱里の物語と、日を同じくして談ずべき奇異である。之に就いて更に考へるのは、上州利根の奧で食器を貸したと云ふ龍宮の出張所が、其名を吹割瀧と呼ばれたことである。是は亦水で造つた仙俗二界の堺の塀であつたのが、時あつて二つに開くことあるべきを意味したものであらう。廣島縣山縣郡都志見の龍水山に、駒ケ瀧一名觀音瀧と稱して高さ十二丈幅三丈の大瀧あり、其後は岩窟で觀音の石像が安置してあつた。始め瀑布の前に立つ時は水散じて雨の如く、近づくことは出來ぬが、暫くして風立ち水簾轉ずれは、隨意に奧に入り佛を拜し得る、之を山靈の所爲として居たさうである。日光の裏見の瀧などは十餘年前の水害の時迄は、水後にちやんと徑があつたが、又以前は此類であつたらう。美濃長良川の水源地にある阿彌陀の瀧も、自分は嘗て往つて見たが、同じく亦水の簾が深く垂れ籠めてあつた。これを繪本西遊記風に誇張すれば、やがて又有緣の少數者にのみ許された隱里に他ならぬ。現に今昔物語の中の飛驒の別天地などは、浮世の勇士を賴んで猿神を退治して貰ふ程のしがない桃源ではあつたが、やはり導く者あつて跳つて入らねば、突破ることのできない程の瀧の障壁が構へられて居たのである。

[やぶちゃん注:「白山遊覽圖記」「しらやまゆうらんずき」と読む。文政一二(一八二九)年序・金(子)有斐(仲豹)撰になる加賀白山の紀行地誌。「国文学研究資料館」のこちらの画像で全篇が読める(但し、漢文白文。ADSLで表示に時間がかかるので引用箇所の探索は諦めた。ご自分でお探しあれ。悪しからず)。

「異考記」不詳。

「寛喜二年」一二三〇年。

「卜部良暢」不詳。読みは「うらべよしのぶ」或いは「うらべりょうちょう」(現代仮名遣)。

「丹楹碧砌」「たんえいへきぜい」。朱塗の柱と緑玉で出来た石畳。

「亞刺比亞夜譚」「アラビアンナイト」。

「上州利根の奧で食器を貸したと云ふ龍宮の出張所が、其名を吹割瀧と呼ばれた」既出既注

「廣島縣山縣郡都志見の龍水山」ちくま文庫版全集でも『竜水山』となっているが、これは現在の広島県山県郡北広島町中原龍頭山(りゅうずやま)の誤りではなかろうか? ここ(グーグル・マップ・データ)。北広島町都志見(つしみ)の北境界外直近がピークである。

「高さ十二丈幅三丈」高さ三十六・三六メートル、幅九メートル十センチほど。

「美濃長良川の水源地にある阿彌陀の瀧」岐阜県郡上市白鳥町(しろとりちょう)(前谷まえだに)にある阿弥陀ヶ滝(あみだがたき)。(グーグル・マップ・データ)。

「繪本西遊記」文化三(一八〇六)序~天保八(一八三七)年頃に最終刊行か。口木山人(西田維則)訳。大原東野(とうや)/葛飾北斎ら絵。

「今昔物語の中の飛驒の別天地」「今昔物語集」の「卷第二十六」の「飛驒國猿神止生贄語第八」(「飛驒の國の猿神(さるかみ)、生贄(いけにへ)を止(とど)むる語(こと)第八)。「やたがらすナビ」のこちらで原文が読める。]

 此等の事柄を考へ合せて見ると、膳椀の貸借に岩穴あり塚の口の開いたのがあることを必要とし、中に人が居て出入を管理する筈と考へるやうになつたのは、或は信仰衰頽の後世心かも知れぬ。これを直ちに元和寛永の頃まで、その邊に姿を見せぬ蠻民がいた證據の如く見るのは、或は鳥居氏の御短慮であつたのかも知れぬ。

[やぶちゃん注:「元和寛永」一六一五年から一六四五年。

「後世心」「ごしやうごころ(ごしょうごころ)」。後生の安楽を願う心。来世の安楽の種になるような功徳(くどく)をしたいと思う気持ち。「後生気(ごしょうき)」とも言う。ここは要は信仰が廃れた結果として後世(ごぜ)だけでなく、専ら現世でも悪影響が及ぶことを恐れた人心の謂いであろう。]

和漢三才圖會第四十一 水禽類 鸂𪄪(おほをしどり)〔オシドリの大型雌雄個体か〕

Ooosidori

大をしとり 紫鴛鴦

      溪鴨

𪄪

 

キイ チヨツ

 

本綱鸂𪄪狀大于鴛鴦而色多紫人家畜之毛有五采首

有纓尾有毛如船柁形性尋邪而逐害此鳥專食短狐乃

溪中勑逐害物者其游于溪也左雄右雌羣伍不亂似有

式度者

△按鸂𪄪【鴛鴦之類大者】未見之

 

 

大〔(おほ)〕をしどり 紫鴛鴦

           溪鴨〔(けいあう)〕

𪄪

 

キイ チヨツ

 

「本綱」、鸂𪄪の狀、鴛鴦〔(をしどり)〕より大にして、色、多〔くは〕紫。人家、之れを畜ふ。毛に五采有り、首に纓〔(えい)〕有り。尾に、毛、有りて、船の柁〔(かぢ)〕の形のごとし。性、邪〔(よこしま)なる〕を尋ねて害を逐ふ。此の鳥、專ら、短狐〔(いさごむし)〕を食ふ。乃〔(すなは)ち〕、溪中〔にて〕物を害する者を勑〔(いまし)め〕逐ふ〔ものなり〕。其の溪〔(たに)〕に游〔する〕ことや、左は雄、右は雌。羣伍〔して〕亂れず、式度〔(しきど)〕有る者に似たり。

△按ずるに、鸂𪄪【鴛鴦の類の大なる者。】未だ之れを見ず。

 

[やぶちゃん注:これは良安も見たことがないと言っており、辞書類でも「鸂𪄪(けいちょく)」はオシドリ(鴛鴦)よりも、やや大型で雌雄の仲睦まじいとされる、紫がかった色を訂した水鳥とあるばかりで、特に現代中国でも特定種を指示していないようであるから、鳥綱 Avesカモ目  Anseriformes カモ科 Anatidae オシドリ属オシドリ Aix galericulata の大型の雌雄個体と採るしかないようである。附図もオシドリにしか私には見えない。

 

「纓〔(えい)〕」冠の後ろに突き出ている巾子(こじ)の根元を締めた紐の余りを背に垂れ下げたもの。東洋文庫訳では『くびげ』とルビする。腑に落ちる。

「短狐〔(いさごむし)〕」蜮(こく)。想像上の動物で、形は亀に似て三足を有し、水中に住んで、砂を含んでは、それを人に吹きかけて害を与えるという有毒虫。「射工」「射影」などとも称した。私は種々の人体寄生虫症、卵や幼虫・成虫の経口感染のみならず、皮膚から直接侵入するタイプのフィラリア症及び日和見感染でも重篤な症状を引き起こす他生物の寄生虫の感染症などを含むものと推理している。私の和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蜮(いさごむし) 附 鬼彈を参照されたい。

「羣伍」整然と並び連なって群れること。

「式度」法式や節度。]

譚海 卷之二 勢州豬を狩幷獵法事

勢州豬を狩幷獵法事

○勢州下村といふ邊(あたり)、山中に田畑多し、猪(ゐの)しゝ・鹿(しし)など、麥(むぎ)くふを追ふとて、里の子、犬をひきて山へゆく事也。鹿は人に怖れてにげ去れども、猪はいかりもがきてをり、人におそるゝ事なし。犬二疋ばかりにて驅(かく)れば、犬にたしなめられて、猪、うろたへる所を、獵師、鐡炮にて打(うち)て取る事也。

[やぶちゃん注:標題は「勢州、豬(ゐのしし)を狩(かる)、幷びに、獵法の事」と読む。

「勢州下村」三重県伊勢市矢持町下村か。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

甲子夜話卷之四 24 鎗の鞘の説

 

4-24 鎗の鞘の説

鎗は古代は皆ぬき身なり。今用る鞘の始め不詳。或人曰。其始は油紙にて包たるなるべし。今、井伊家の黃革の鞘、本多中書の油革の鞘など中結をせし製、乃油紙にて包たる時の形歟と。いかさま御開創の舊家なれば然るべし。

■やぶちゃんの呟き

 当時の鎗は既に木製の鞘(布や革で覆われていることが多い)や革製の鞘で、一部には金属が使われてもいた(刃先の差入口や鞘の先(鐺:こじり)の部分は損傷し易いため、金属で補強された(ウィキの「鞘」に拠る)。

「不詳」「つまびらかならず」。

「包たる」「つつみたる」。

「井伊家」家康の功臣で「徳川四天王」の一人で、井伊家を再興した上野国高崎藩初代藩主・近江国佐和山藩(彦根藩)初代藩主井伊直政(永禄四(一五六一)年~慶長七(一六〇二)年)は槍の名手でもあり、ウィキの「井伊直政によれば、天正一二(一五八四)年の『小牧・長久手の戦いで、直政は初めて赤備え』(あかぞなえ:戦国から江戸にかけて行われた軍団編成の一種で、主に構成員が使用する甲冑や旗指物などの武具を赤や朱を主体とした色彩で整えた編成集団を指す)『を率いて武功を挙げ、名を知られるようになる。また小柄な体つきで顔立ちも少年のようであったというが、赤備えを纏って兜には鬼の角のような立物をあしらい、長槍で敵を蹴散らしていく勇猛果敢な姿は「井伊の赤鬼」と称され、諸大名から恐れられた』とある。

「本多中書」同じく家康の功臣で「徳川四天王」の一人として槍の名手でもあった、上総大多喜藩初代藩主・伊勢桑名藩初代藩主本多忠勝(ほんだただかつ 天文一七(一五四八)年~慶長一五(一六一〇)年)。彼の官位は従五位下・中務大輔で中務省の唐名は中書省。彼の戒名も西岸寺殿前中書長誉良信大居士である。

「製」「つくり」と訓じていよう。

「乃」「すなはち」。

「油紙にて包たる時の形歟と」以上から、「井伊家の黃革の鞘」や「本多中書の油革の鞘など」「中結をせし」というのは、鞘が木製であるにも拘わらず、黄色の皮で表面を蔽ったり、油革で蔽った上に中結びを施した(或いは描いた)鞘はその名残なのではないか? という意味であろうか。それらの鞘を現認出来ないのでなんとも言えぬ。識者の御教授を乞う。

 

2018/02/18

進化論講話 丘淺次郎 第十章 發生學上の事實(2) 二 退化せる動物の發生

 

     二 退化せる動物の發生

 

Nauplius

[甲殼類の幼蟲]

Hujitubo

[ふぢつぼ]

[やぶちゃん注:二枚とも講談社学術文庫版をトリミングした。前者は所謂、甲殻類に共通した最も初期の幼生ノープリウス幼生(Nauplius)である。]

 

 所謂退化の現象に就いては既に第八章に述べたが、斯かる退化した動物の發生を研究して見ると、また極めて面白いことがある。先づ前に例に擧げた「ふぢつぼ」に就いてその發生の有樣を見るに、卵から出たばかりの子は、上の圖に示す如く三對の足を具へて活潑に海水中を泳ぎ廻つて、聊もその親に似た處はない。「ふぢつぼ」は前にもいうた通り、蝦・蟹等と同じく甲殼類といふ部類に屬するが、この類のものは總べて發生の初期には斯かる形を有し、他の動物の幼蟲とは直に識別することが出來る。蝦・蟹等の中でもこの時代を卵殼の内で經過し、孵化したときには、既に尚一步進んだ形態になつて居るものもあるが、大體この幼蟲から如何に變化して蝦・蟹等の生長した姿が出來るかといふに、この幼蟲は生長の進むに隨ひ、體の大きくなると同時に、初三對あつた足の後(うしろ)に新しい足が何對も出來て、最初水中を泳ぐ役を務めた足は、漸次働が變じ、第一對は二岐に分れた短い方の鬚となり、第二對は枝分かれせぬ長い方の鬚となり、第三對は物を嚙むための顎となつてしまひ、新に生じた方の足の中で幾對かが眞に後まで步行する足となる。「ふぢつぼ」の發生も最初はこの通りで、三對ある足の後に續々新しい足が生じ、暫くの間は海水の中を泳いで廻るが、やがて岩の表面・棒杭等に頭の方で附著し、周圍には石灰質の介殼を分泌して、終に生長した「ふぢつぼ」の形となつてしまふ。而して數對あつた足は孰れも役目が變り、たゞ海水を口の方へ跳ね送り、その中に浮べる微細の藻類等を口に達せしめる働きを務めるやうになるが、働が變れば形も之に應ずるやうに變ぜざるを得ぬ譯故、この類の足は蟹や蝦の步くための足と違ひ、恰も「ぜんまい」か葡萄の蔓の如くに見える。「ふぢつぼ」の生きて居るのを海水の中に飼ふて見て居ると、介殼の口の如き處から絶えずこの足を澤山に出したり入れたりし續けて休むことはない。その動く具合から考へると、多分呼吸器の役をも兼ね務めるらしく思はれる。

[やぶちゃん注:『前に例に擧げた「ふぢつぼ」』「第八章 自然淘汰(4) 四 所謂退化」を参照されたい。「生物學講話 丘淺次郎 一 止まつて待つもの」も楽しい。]

 斯くの如く出來上つてしまへば、「ふぢつぼ」は殆ど牡蠣や蛇貝の如き固著した介殼と紛らわしい位なものになるが、その發生の初めには足もあり、目もあつて、餌を追ひ敵を避けて、活溌に運動する有樣は、到底親の及ぶ所ではない。所謂退化した動物は總べてこの通りで、發生の初め或は途中の方が、生長したときより遙に高等の體制を示すものである。退化したといはれる動物は大抵固著の生活を營むもの、或は他の動物に寄生するもの等であるから、かやうな動物の發生を調べると、幾つでもここに述ベた如き事實を見出すことが出來るが、その中でも最も甚だしいのは、甲殼類の中で寄生生活をなす類である。

[やぶちゃん注:「蛇貝」狭義には、軟体動物門腹足綱前鰓亜綱盤足目ムカデガイ科に属する巻貝 Serpulorbis 属オオヘビガイ Serpulorbis imbricatus などを指すが、一般的な認識の中では、形状からは、同目ミミズガイ科に属する巻貝ミミズガイ Siliquaria (Agathirses) cumingi なども「ヘビガイ」と通称される範囲に含まれるであろう。オオヘビガイ Serpulorbis imbricatus は北海道南部以南を生息域とし、沿岸の岩礁などに群生する。螺管が太く一二~一五ミリメートルに達し、最初は右巻きであるが、後は不規則に巻いて他物に固着する。和名は恰も蛇がとぐろを巻いているように見えることがあることに由来する。表面は淡褐色で、結節のある螺状脈と成長脈を持つ。殻口は円形を成し、口内は白色で蓋はなく、潮が満ちて来ると、蜘蛛のように殻口から粘液糸を伸ばして有機性浮遊物を捕捉・摂餌する。一方、ミミズガイ Siliquaria (Agathirses) cumingi はオオヘビガイよりも遙かに小さく、螺管は六~七ミリメートル以上には太くならず、初めは徐々に増大して小さく巻き込むが、その後方は巻き方が大きくなり、幾分、曲った直管になる。螺管自体は巻くものの、密着することはなく、従って、層を形成しない。縦の螺脈の成長襞も不規則である。蓋は角質の円形で、厚く縁取られており、中央は折り畳み状に螺旋している。多くは海綿の体内に棲息し、しばしば微少貝類に交じって打ち上がったものを採取することが出来る(以上の貝類学的記載は主に保育社昭和三四(一九五九)年刊の吉良哲明「原色日本貝類図鑑」に拠った)。]

 

Uokiseikoukakurui

[魚に寄生する甲殻類]

[やぶちゃん注:講談社学術文庫版をトリミングした。私は実は海棲のこうした寄生性生物はかなりの守備範囲と自負はしているのだが、ここに示された二種の寄生虫は、なかなか同定が難しい。それでも試みる。

 まず、右のそれはその特徴的形状から推して、高い確率で節足動物門甲殻亜門顎脚綱カイアシ亜綱新カイアシ下綱後脚上目シフォノストム目 Siphonostomatoidaヒジキムシ(ペンネラ)科 Pennellidae ウオノカンザシ属ホシノノカンザシ Cardiodectes asper か、或いは同じヒジキムシ(ペンネラ)科のメダマイカリムシ属Phrixocephalus の一種ではないかと考える。上の部分が頭部の突起で根状を成し、中央にあるのが胴部、下に伸びる二つのコイル状のものは卵囊である。

 次に左のそれであるが、下部はやはり卵囊と思われ、ここのそれは、まさにヒジキによく似ているから、やはりヒジキムシ(ペンネラ)科 Pennellidae の一種で、頭部が少しシンプルであること、卵囊の先にある翼状体が不審であるが、幾つかの画像と比べて見ると、イカリムシモドキ(レルナエエニクス)属Lernaeenicus の一種ではないかと私は推測する。]

 

 抑々甲殼類の身體は前後に列んだ多數の節より成り、これより生ぜる數多の足にはまた幾つもの關節があり、一對の眼と二對の鬚とを具へ、運動は活潑で、感覺も鋭敏な方故、無脊椎動物の中では餘程高等なものである。然るにこの類の中でも他の動物に寄生する種類になると、實に非常な退化の仕樣で、眼は勿論足も全くなくなり、體の節の境まで消えて、一寸見ては甲殼類か否か解らぬのみならず、一疋の動物であるか否か知れぬ位になつてしまふ。ここに圖を掲げたのはその二三の例であるが、その右圖は鯒(こち)・鰈(かれひ)等の眼に屢々附著して居るもので、その形は恰も小い[やぶちゃん注:「ちひさい」。]碗豆に二本の撚絲[やぶちゃん注:「ねりいと」。]を附けた如くに見える。その左圖の方も、同じく他の大形の魚類の皮膚に附著して居るものであるが、これはまた鳥の羽毛一本と殆ど同じやうな形を呈して居る。孰れも甲殼類に屬するものであるが、斯く生長し終つたときには、甲殼類の特徴ともいふべき點は一つも見えぬ。また次頁の圖に示したのは、蟹類の胸と腹との境の處に時々附著して居る寄生物であるが、單に團子の如きもので、眼・鼻は固より足もなければ尾もなく、背と腹との區別もなく、どちらが前やらどちらが後やらも解らぬ。たゞ一箇處で蟹の體に附著して居るが、この處から蟹の體内へ探つて行くとこの動物の身體の續きは恰も植物の根の如くに屢々分岐し、各々細く長く延びて蟹の全身に行き渡り、足の爪から鋏(はさみ)の先までに達し、到る處で蟹の血液から滋養分を吸ひ取つて生活して居る。これらに至つては誰に見せても、之が甲殼類であらうといふ判斷は出來ぬ。然るにこれらの動物の發生を調べると、孰れも卵から出たばかりには數對の足を有し、頭の前端には目を具へ、自由白在に水中を游泳して、その時の有樣は「ふぢつぼ」・蝦・蟹等の幼蟲と殆ど同様である。たゞ生長が稍々進んで他の動物の身體に寄生し始めると、忽ち形狀が變化し、今まであつた運動・感覺の器官は追々無くなり、寄生生活に必要な部分のみが發達して終に斯くの如きものになつてしまふのである。今日、分類上これらの動物を甲殼類の中に編入してあるのも、畢竟かやうな發生を調べた結果で、まだ發生の模樣の解らぬ頃には、皆誤つて他の部類に入れてあつたのを、一旦發生を研究して見ると、その獨立生活をなし居る幼蟲時代には如何しても蝦・蟹類の幼蟲と分離することが出來ぬから斯く改めたのである。

 

Hukuromusi

[蟹に寄生する甲殼類

右圖の「寄」は寄生蟲 左圖は寄生蟲のみ取離したもの]

[やぶちゃん注:ここでは指示線入りのキャプションがあるので、国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングし、補正して示した。

 この蟹の寄生虫は顎脚綱鞘甲亜綱蔓脚下綱根頭上目Rhizocephala のケントロゴン目 Kentrogonida 及びアケントロゴン目 Akentrogonida に属する他の甲殻類に寄生する寄生性甲殻類であるフクロムシ類である。本邦での分類学的研究は昭和一八(一九四三)年以降、殆んど行われていないが、ここで丘先生が挙げておられるのは、日本固有種で主にイワガニ類に寄生するケントロゴン目フクロムシ科ウンモンフクロムシ Sacculina confragosa と考えてよいと思う。何故なら、丘先生が「生物學講話 丘淺次郎 四 寄生と共棲 二 消化器の退化」でこれを挙げておられ、そこで示しておられる種と、私は基本的に同一のものと判断されるからである。なお、これは、多くの人は卵を持った蟹と誤認しているケースが多いと思われる(何故なら、その付着部位や見た目の形状・色彩が個体によって蟹の抱卵する卵塊と酷似する場合があるからである)。西村三郎「原色検索日本海岸動物図鑑[]」(保育社)の記載によれば、空豆形で、個体によって白・黄・茶色などの多彩な色を持つ。柄は短く、外套口(丘先生の左図の瓶の口のような上部)は中央にあり、突出する。表面には棘を欠き、一面に波模様の隆起を持つ。周囲も波形に縁どられている。大きさは宿主の腹部の大きさによって変化し、長径五ミリメートルから三センチメートル前後と幅がある。複数個体が附く場合も稀ではない。本文の記載を読んだ方は気がつかないだろうか?――私は最初に映画の「エイリアン」を見た時――あの幼虫期の寄生性のエイリアンの寄生形態は、このフクロムシがヒントだな、と思ったものである。]

 

 以上二三の例によつても解る通り、固著生活・寄生生活等を營む所謂退化せる動物の發生を見ると、皆初は獨立の生活をなし、運動・感覺の器官をも具へて居て、然もその頃の形狀は他の終生運動して獨立の生活を營む動物の幼時と、殆ど寸分も違はぬ程に似て居ることが甚だ多いが、この現象は生物種屬不變の説から見れば眞に譯の解らぬことである。芝蝦も「ふぢつぼ」も蟹の腹に附著して居る團子も、卵から出たときには、皆揃つて三對の足を有し、額の中央に眼を具へて、水中を泳ぎ廻ることは、若しこれらの動物が互に初から緣のないものとしたならば、單に不思議といふに止まるが、共同の先祖より進化し降つたものと見倣せば、斯く發生の途中に同一の性質の現れるのも無理でないと思はれ、漠然ながらその理由を察することが出來る。

 

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十六年 「春色秋光」

 

    「春色秋光」

 

 「はてしらずの記」を草した後、少しの間居士は『日本』紙上に沈黙を守っていたが、十月九日から地風升の名を以て「春色秋光」を連載、二十八日十回を以て了った。春と秋との比較を種々の点から論じたもので、漢詩、和歌、俳句をほじめ、西洋文学の一端にも及んでいる。春といえば直(ただち)に愉快、活潑(かっぱつ)、隆盛、生成、綺麗、繁華などを聯感(れんかん)し、秋といえば直に悲哀、沈衰、零落、殺伐、雅潔(がけつ)、寂寞(せきばく)などを聯感するようになっているけれども、こういう感情は太古より一般に有し来ったものでなく、後世に至って次第に発達したもので、「支那にては唐朝以後に盛んに、我邦にては『古今集』以後に盛んなるが如し」といい、「試みに唐以前の詩歌、『古今』以前の國詩を繙(ひもとき)て見よ。春光の熙々(きき)たるを喜ぶ者多かれど、秋色の凋落を悲む者は少し。秋色の凋落を悲まざるのみならず、秋光を喜ぶこと春色に等しきもの亦少からず。唐以後『古今』以後は春色を愛するも其熙々雍々(ようよう)の處を愛するに非ずして濃艷華麗の處を愛するなり、秋光を悲むも一陰漸く現れて濃艷褪(たい)し華麗休むを悲むに非ずして金氣(きんき)肅殺(しゆくさつ)木摧(くだ)け消ゆるの極處を悲むなり」といったのは傾聴すべき言である。殊に『古今集』の「世の中に絶えて櫻のなかりせば春の心はのどけからまし」を以て愉快の極を反言したるもの、「月見れば千々にものこそかなしけれわが身一つの秋にはあらねど」を以て悲哀の極を直叙したるものとし、

[やぶちゃん注:以上の引用文は、原典に当たることが出来ないため、「子規居士」原本(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの当該頁画像)によって正字化した。但し、鍵括弧はあった方が読み易いので、底本のママとした。また「艷」は「艶」かどうかを拡大しても判らなかったので、正字で表記した。読みも原本にはないが、底本に従って歴史的仮名遣で一部を挿入しておいた。

「雅潔(がけつ)」目にしない熟語であるが、現代中国語では存在し、「質素で奥ゆかしいこと」の意である。それでよかろう。

「熙々」広がっていて如何にも和らいでいて楽しめる感じ。

「雍々」落ち着いていて和らぐさま。

「金氣」秋の気配。五行説では「金」が秋に当たる。

「肅殺」秋の気が草木を枯らすことを謂う。

「極處」底本はルビを振らぬから、「きよくしよ(きょくしょ)」と読むのであろう。

「世の中に絶えて櫻のなかりせば春の心はのどけからまし」「古今和歌集」の「巻第一 春歌上」(五三番歌)の在原業平の著名な一首。『渚(なぎさ)の院にて櫻を見てよめる』の前書を持つ。

「月見れば千々にものこそかなしけれわが身一つの秋にはあらねど」「百人一首」の二十三番に採られている、「古今和歌集」の「巻第四 秋歌上」(一九三番歌)の大江千里の著名な一首、「古今集」では『是貞のみこの家の歌合(うたあはせ)によめる』の前書を持つ。

 以下は、底本では全体が二字下げである。前後を一行空けた。同前の仕儀で訂した。]

 

これを『万葉集』中の春を喜び秋を悲むの歌に比すれば甚だその差あるを見ん。『万葉』の歌に

 いはばしる垂水の上の早蕨(さわらび)のもえいづる春になりにけるかも

 けさのあさけかりがね聞きつ春日山もみぢにけらし我心いたし

春光は和氣洋々、秋色は西風寂寞、敢て『古今集』の一は雀躍し一は悲泣するが如く甚しからざるなり。

 

と道破したのは、簡単ながら詩歌の妙諦に触れている。この時代における居士の歌に対する意見は、後年の如く確立していなかったかも知れぬが、この春色秋光に対する『万葉』『古今』の比較を見れば、後の歌論の萌芽と認むべきものは已に存在しているように思う。

[やぶちゃん注:「いはばしる垂水の上の早蕨(さわらび)のもえいづる春になりにけるかも」「万葉集」の「巻第八」巻頭(「春の雜歌(ざうか)」)を飾る、志貴皇子(しきのみこ)の一首(一四一八番)。『志貴皇子の懽(よろこび)の御歌(みうた)一首』の前書を持つ。

「けさのあさけかりがね聞きつ春日山もみぢにけらし我心いたし」同じく「万葉集」の「巻第八」の、「秋の雜歌」に載る、『穂積皇子(ほづみのみこ)の御歌二首』の前書を持つ第一首目(一五一三番)。詠み易く整序すると、

 今朝(けさ)の朝明(あさけ)雁(かり)が音(ね)聞きつ春日山(かすがやま)黃葉(もみぢ)にけらしわが情痛(こころいた)し

である。]

 

 「春色秋光」における春秋の比較は、かなり多方面にわたっているにかかわらず、俳句の引例が甚だ少く、むしろ他の足らざるところを補う程度に止っているのは、俳句が季節を生命とする詩である関係上、殊更にこれを避けたものであろう。ただ「近者(きんしや)古俳句を取(とり)てこれを四季に分類し見たる結果は、春季の句最も多く秋季之に次ぎ夏季之に次ぎ冬季之に次ぐ事を發見したり。其比例は概略春八、秋六、夏五半、冬五位なるべし」といったのは、俳句分類の経験より得来った実際の言として注目に値する。居士はまた西洋人を評して「人事の刺激を受くる事多きが爲に天然界の觀察精細ならず」といい、彼らの大多数が艶麗なる春色を愛して冷淡なる秋光を愛せざる理由をそこに帰し、一転して「秋光を愛すとは秋光を悲む事につきて愉快を感ずるなり。卽ち秋光のあはれを愛するなり。快を快とするは則ち普通なり。哀を快とするに至りては則ち普通ならず」と論じ、「快を快とするの快と哀を快とするの快と快の種類を異にす。故に敢て秋光を以て春色に勝れりとは言はず。然れども春を愛するを知(しり)て秋を愛するを知らざるは其趣味に於て未だ發達せざる所ありと明言するを憚らざるなり。而して此の一事に於ては西洋よりも東洋の早く發達したるを見る」と断言している。書物や他人の訳によって意見を立てず、どこまでも自己の見解を以て進む居士の態度は已にこの頃から顕著になっているように思う。「春色秋光」の看過すべからざる所以は、主としてこの点にある。

 

北條九代記 卷第十二 金澤家譜 付 文庫

 

      金澤家譜  文庫

 

同月二十八日、北條相摸守基時、同修理大夫貞顯、執権と成りて連署せらる。基時は、是(これ)、相摸守重時には曾孫たり。彈正少弼業時には孫にて、新別當(しんべつたう)時兼が嫡男なり。貞顯は、又、是、義時の五男に五郎實泰と云ひし人なり。後に龜谷殿(かめがやつどの)と稱して、溫良仁慈の聞(きこえ)あり。その子越後守實時は、金澤に居住す。後に稱名寺とぞ號しける。その子越後守顯時より、金澤を家號とし、稱名寺の内に文庫を立てて、和漢の群書を集められ、内外兩典、諸史、百家、醫、陰(おん)、神(しん)、歌(か)、世にある程の書典には、殘る所なし。金澤の文庫といふ印を拵へ、儒書には黑印(こくいん)、佛書には朱印、卷(まき)每ごと)に押されたり。讀書講學望(のぞ)みある輩は、貴賤道俗、立籠(たちこも)りて、學文(がくもん)を勤めたり。金澤の學校とて、舊跡、今も殘りけり。越後守顯時は、文武の學を嗜みて、書典の癖(へき)とぞなりにける。その子、貞顯、本(もと)より、學業の勤(つとめ)、怠らず。作文、詩章には、當時に名を得し人なりければ、執權の職に居しても恥(はづか)しからずとぞ聞えける。

 

[やぶちゃん注:「同月二十八日、北條相摸守基時、同修理大夫貞顯、執権と成りて連署せらる」月日及び表現に誤まりと問題がある。非得宗の先の執権熈時が病没し、北条基時が第十三代執権(非得宗)となったのは、正和四(一三一五)年七月十一日で、言わずもがなであるが、基時が「執權」であり、その「連署」となったのが「貞顯」である。判り切っていても、表現がおかしいものはおかしいと言わねばなるまい。

「金澤家譜」底本では標題には「かなざはかふ」とルビするが、本来は「かなさは」が正統。北条氏の一族金澤(かねさわ)流北条氏のこと。「金澤」は鎌倉時代の武蔵国久良岐郡(くらきのこおり)六浦庄(むつうらのしょう)金沢郷(かねさはごう:現在の神奈川県横浜市金沢区)の地が家名の由来とされているが、通称として使われるのは南北朝以後のことである。第二代執権北条義時の五男北条実泰(初名は実義)から分かれ、家格は実泰の同母兄であった政村(義時の五男)の嫡系に次ぐもので、実泰の嫡男実時が政村の娘を、その子の貞顕が時村(政村の子)の娘を正室に迎えて姻戚関係を形成している。居館は、顕時が鎌倉赤橋邸を賜り、以後も使われ、菩提寺は「金澤文庫」のある真言律宗金沢山(きんたくさん)称名寺である。以下、参照したウィキの「北条 (金沢流)」より引くが、言葉で理解するより、系図で見るのが一発で理解出来るので、リンク先にある「系図」をまずは参照されたい。『始祖は実泰であるが、実泰は若くして出家しているため、家勢の基礎を形成した』金沢流二代目に当たる『実時が実質的初代ともされる。実時は北条氏の総領得宗家の庇護を受けて有力御家人となり、叔父にあたる政村の娘を正室に迎える』。第三代『顕時は、執権・北条時宗の死後に幕政を主導していた安達泰盛の娘婿』となっていたため、弘安八(一二八五)年、『得宗家被官の内管領・平頼綱の策謀で泰盛派が粛清される霜月騒動が起こると、事件に連座して失脚、出家して隠棲している』が、永仁元(一二九三)年に第九代得宗執権の『北条貞時が頼綱を滅ぼして得宗家主導の幕政を復活させ、失脚していた泰盛派を復権させ、顕時も幕政に復帰』している。第四代『貞顕は連署として北条高時政権を支え、一時的に第十五代執権に就任している(後注参照)。『学問の家柄としても知られる金沢氏は明経道』(みょうぎょうどう:律令制の大学寮に於いて儒学を研究教授した学科)の『清原氏の家説に学び、実時は隠居した後に別居した金沢郷に和漢書を収集し、金沢文庫の基礎を作』り、『六波羅探題として京都に赴任した貞顕も本格的に文献収集している』。『金沢氏の家名とされる六浦庄は、六浦郷、釜利谷郷、富岡郷、金沢郷から構成される』建保元(一二一三)年の和田合戦以降に『北条氏の所領となり、はじめは将軍家の関東御料で、金沢氏はその地頭職を勤めていたと考えられている。実政が鎮西探題として赴任』(文永一二・建治元(一二七五)年)『して以来は九州にも所領を持ち、幕府滅亡に際して鎮西探題が滅ぼされた後も、規矩高政』(きくたかまさ(北条高政) ?~建武元(一三三四)年七月?:父は金沢流で鎮西探題を務めた北条政顕(実政の子)であったが、鎌倉幕府最後の第十六代執権北条(赤橋)守時の弟で鎮西探題であった北条英時の養子となった。豊前国規矩郡 (現在の福岡県北九州市)を領したのでかく呼ばれる)『らが北九州を中心に北条残党を集めて抵抗している(規矩・糸田の乱)』。『初代・実義は将軍・源実朝を烏帽子親としてその一字を与えられたが、のちに得宗家の当主である長兄・泰時の一字を受けて「実泰」と改名している。以降も』第二代『実時が同じく泰時を』、第三代『顕時が時宗を』、第四代『貞顕が貞時を烏帽子親として一字を付与されていることから、北条氏一門の中で将軍を烏帽子親として一字を与えられていた得宗家と赤橋流北条氏に対し、金沢流北条氏の当主は大仏流北条氏の当主とともに』、『それよりも一段階低い』、「得宗家を烏帽子親とする家系」と『位置づけられていたことが指摘されている』(下線やぶちゃん)。

「文庫」「金澤文庫」。北条実時が設けた日本最古の武家の文庫。当時の建築物は現存しない。ウィキの「金澤文庫」によれば、成立時期は実時が晩年に金沢の館で過ごした建治元(一二七五)年頃と推定されている。『北条実時は明経道の清原氏に漢籍訓読を学ぶ一方で嫡系の北条政村の影響で王朝文化にも親しんでいた文化人で、実時は鎌倉を中心に金沢家に必要な典籍や記録文書を集め、収集した和漢の書を保管する書庫を金沢郷に創設』、『文庫は実時の蔵書を母体に拡充され、金沢貞顕が六波羅探題に任じられ京都へ赴任すると、公家社会と接する必要もあり』、『収集する文献の分野も広がり、貞顕は自らも写本を作成し』、『「善本」の収集に努めた。また、貞顕は菩提寺の称名寺を修造しているが、貞顕が文庫の荒廃を嘆いていたとされる文書が残り、また貞時を金沢文庫創建者とする文書も見られることから、貞顕が文庫の再建を行っている可能性も指摘される。金沢氏を含め北条氏の滅亡後は、称名寺が管理を引き継』ぎ、『室町時代には上杉憲実が』一度、『再興して』はいるものの、その後、文庫施設そのものは廃滅、やはり称名寺』が資料の管理を行った。現在の「神奈川県立金沢文庫」はその資料を受け継いだ県立歴史博物館であって当時の文庫そのものではない。私の電子テクスト「新編鎌倉志卷之八」の「稱名寺〔附金澤文庫の舊跡 御所が谷 金澤の八木〕」前後の本文と私の詳しい注を参照されたい。或いは、私の「『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より金澤の部 金澤文庫」も、特に近世近代以降の視点から参考になるはずである。

「北條相摸守基時」(弘安九(一二八六)年~正慶二/元弘三年五月二十二日(一三三三年七月四日)は第十三代執権(非得宗:在職:正和四年七月十一日(一三一五年八月十一日)~正和五年七月九日(一三一六年七月二十八日))。「普恩寺(ふおんじ)基時」とも呼ぶ。ウィキの「北条基時」によれば、『父は普恩寺流の北条時兼』(北条義時三男の重時の子業時(なりとき)の子)で、『子に最後の六波羅探題北方となった北条仲時がいる』。正安三(一三〇一)年六月七日に『六波羅探題北方として上洛』、乾元二(一三〇三)年十月二十日、『六波羅探題職を辞職し、鎌倉に戻り』、『評定衆に列する(評定衆になっていない』とする『説もある)』嘉元三(一三〇五)年八月二十二日に引付衆となり、延慶三(一三一〇)年には『信濃守護に任命された』。この時、執権として就任し』ているのは、煕時と彼が第七代執権(非得宗)『北条政村を曽祖父に持』ち、『血縁的にはとこの関係にあった』ことに拠るか。七日後の七月十九日を以って『正五位下相模守に転』じた。しかし既に何度も述べている通り、『幕政の実権は内管領の長崎高資に握られていた』。しかも、翌正和五(一三一六)年になると、早くも『得宗家の北条高時を執権に就けるための準備が行なわれ』、この年の七月九日に、僅か満十一歳の『北条高時に執権職を譲り』、十一月二十日に出家、『以後は一線から離れたようで』、『中央政界に活動の様子は無い』。元弘元(一三三一)年九月、『後醍醐天皇の倒幕計画から元弘の乱が起こると、北条高時が畿内の反幕勢力討伐に派遣した討手に加わっている』。元弘三/正慶二(一三三三)年五月、『鎌倉幕府に反旗を翻した新田義貞らが上野で挙兵して鎌倉に攻め上ってくると、北条貞顕や安房・上野・下野の御家人らと共に化粧坂の守備を務めた』。『基時はよく防衛したが』、五『日間の激戦の末に極楽寺坂や巨福呂坂など別の攻め口から突破した新田軍が鎌倉市街に侵入したため』、この合戦の二週間前、『近江番場で自害した嫡子の仲時の後を追うように、残り少なくなった部下と共に自害した』。享年四十八歳で、辞世の歌は、

 待てしばし死出の山邊の旅の道同じく越えて浮世語らん

『であり、この歌は先に自刃した仲時の事を思って詠じたと言われる』とある。

「同修理大夫貞顯」北条(金澤)貞顕(弘安元(一二七八)年~元弘三/正慶二年五月二十二日(一三三三年七月四日))はここに出る通り、第十二代連署となり、そのままそれに続けて、第十四第執権高時が病気で職を辞したのを受けて、形の上で、たった十日間だけの第十五代執権(非得宗:在職:正中三年三月十六日(一三二六年四月十九日)~正中三年三月二十六日(一三二六年四月二十九日))となった。父は金沢流北条顕時(実時の子)。ウィキの「北条貞顕」によれば、『名の貞顕は北条貞時の「貞」と顕時の「顕」を組み合わせたものといわれる』。永仁二(一二九四)年十二月二十六日に『左衛門尉・東二条院蔵人に輔任された』但し、『この官職は北条一門では低い』方『で庶子扱いであり、出仕が』十七『歳の時というのも遅いものである。これは』弘安八(一二八五)年十一月の『霜月騒動で父の顕時が連座して失脚(顕時の正室は安達泰盛の娘・安達千代野である)していたことが影響していたとされる』。永仁四(一二九六)年四月十二日に『従五位下に叙され』、直近の四月二十四日に『右近将監に輔任されるに及んで、ようやく他家の嫡子並に扱われることになった』。五月十五日には『左近将監に転任されたため、通称は越後左近大夫将監と称されることになる』。正安二(一三〇〇)年十月一日には『従五位上に昇進し、これにより』、『霜月騒動以来の昇進の遅れを取り戻した』、正安三(一三〇一)年三月に『父が死去すると、北条貞時より』、『兄らを飛び越えて』、『嫡子に抜擢されて家督相続を命じられた。これは父の顕時に対する貞時の信任の厚さと貞顕の器量が兄より上と認められた処置とされる』。正安四(一三〇二)年)七月、『六波羅探題南方に就任』し、その後、『中務大輔に転任』、嘉元元(一三〇三)年に『探題北方が北条基時から北条時範に交代すると、事実上の執権探題として京都の政務を仕切った』。『在京時代には叔父で鎮西探題であった北条実政が死去したため』、『金沢一門に訃報を伝えたり、後深草院の崩御により』、『時範と共に弔問に訪れたりして』、『後伏見上皇より勅語を授かったりしている。また多くの公家や僧侶と交遊して書写活動を行うなど』、『文化的活動を精力的に行なっている』(ここに「嘉元の乱」の際の話が載るが(貞顕の正室は北条時村の娘)、省略する)。延慶元(一三〇八)年十二月、『大仏貞房と交替して六波羅探題南方を辞任』、延慶二(一三〇九)年一月に『鎌倉へ帰還した』。延慶二(一三〇九)年一月二十一日の北条高時の元服の式では『御剣役(元服する者の傍で御剣を侍して控える役)を務めた』。『この役は北条一門の中でも要人が務めることが常であったため、貞顕は北条一門の中で重要な人物と見られていたことがわかる。その後』、三月には引付頭人三番に『任命されたが、六波羅探題を辞任して鎌倉に帰還して』三『ヶ月ほどの貞顕が』『兄の甘縄顕実(』七『番)より上位にあることは』、『貞顕が北条一門の中でも特別待遇の地位にあったことを物語っている』。四月九日には『北条煕時と共に寄合衆に任命され、引付・寄合兼務により幕府の中枢を担当する一員になった』。延慶三(一三一〇)年二月十八日に引付衆の再編によって『貞顕は引付頭人を辞職』、六月二十五日には、再び、『六波羅探題北方として上洛、その後、正和三(一三一四)年十二月に六波羅探題を退任して、帰鎌、翌正和四年七月十一日、ここにある通り、北条基時が執権になると同時に、貞顕は連署に就任している(以下は、以降で再び注することとする)。

「彈正少弼業時」北条業時(仁治二(一二四一)年又は仁治三(一二四二)年~弘安一〇(一二八七)年)は六波羅探題北方や連署を勤めた北条重時(義時三男)の四男。ウィキの「北条業時」によれば、『兄弟の序列では年下の異母弟・義政の下位に位置づけられ、義政が四男、業時が五男として扱われた。しかし』、第八『代執権北条時宗の代の後半の義政遁世以降からは、義政の死により空席となっていた連署に就任し』、第九『代執権北条貞時の初期まで務めている。同時に、極楽寺流内での家格は極楽寺流嫡家の赤橋家の下、弟の義政(塩田流)が(業時(普恩寺流)より上位の)』二『番手に位置づけられていたが、義政の遁世以降は業時の普恩寺家が嫡家に次ぐ』二『番手の家格となっている』とある。

「新別當(しんべつたう)時兼」北条(普恩寺)時兼(文永三(一二六六)年~永仁四(一二九六)年)父は業時。母は北条政村の娘。父が陸奥守であったことから「陸奥三郎」と呼ばれた。弘安九(一二八六)年に四番引付頭人、永仁三(一二九五)年に評定衆であったことが確認される。「新別當」の呼称の意は不詳。普恩寺は所在地不詳の鎌倉御府内にあった寺(廃絶)であるが、これは彼の子である基時の創建であるから、実際の寺との関係性はない。或いは、基時が普恩寺を創建し、一門の名を「普恩寺」とした際、想像であるが、一流の始祖である祖父北条業時を初代「別当」と擬え、その息子の父を「新別当」と呼んだのかも知れない

「貞顯は、又、是、義時の五男に五郎實泰と云ひし人なり」意味は取り違えようがないが、「なり」がまずい。「貞顯」(が一門の濫觴)「は、又、是、義時の五男に五郎實泰と云ひし人」の「あり」、「この方」、「後に龜谷殿(かめがやつどの)と稱して、溫良仁慈の聞(きこえ)あり。その子越後守實時は、金澤に居住す」と続いて意味が通る。北条実泰(承元二(一二〇八)年~弘長三(一二六三)年)は北条義時四十六歳の時の子。ウィキの「北条実泰」によれば、元は実義(さねよし)を名乗った。元仁元(一二二四)年、十七歳の時に『義時が急死し、母伊賀の方が同母兄政村を後継者に立てようとした伊賀氏の変が起こり、政村・実義兄弟は窮地に立たされる。伊賀の方は流罪となるが、政村と実義は異母兄泰時の計らいによって連座を逃れ、実義は父の遺領として武蔵国六浦荘(現在の横浜市金沢区)に所領を与えられた。泰時から偏諱を与えられて実泰に改名した』『のもこの頃とみられる』。寛喜二(一二三〇)年三月四日、『兄重時の六波羅探題就任に伴い』、二十三『歳で後任の小侍所別当に就任する』。『しかし』、『実泰は伊賀氏の変以降の立場の不安定さに耐えられず、精神の安定を崩したと見られ』、四年後の天福二(一二三四)年六月二十六日の朝には、『誤って腹を突き切って度々気絶し、狂気の自害かと噂されたという』(「明月記」同年七月十二日条)。また、彼には怪異現象や妖しい発言などがあったらしく、「明月記」の著者藤原定家は「北条一門は毎年六月に事が起きる」と述べているという。同六月三十日、『病により家督を』十一『歳の嫡男・実時に譲って』二十七『歳で出家した』とあるから、「溫良仁慈の聞(きこえ)」どころか、尋常な様子でさえ、ない。「越後守實時」(元仁元(一二二四)年~建治二(一二七六)年)は金澤流北条氏の実質初代で、母は天野政景(石橋山の戦いに父と参戦した直参の御家人)娘。ウィキの「北条実時」によれば、天福元(一二三三)年、十歳にして、伯父で得宗家当主・鎌倉幕府第』三『代執権の北条泰時の邸宅において元服』、『烏帽子親も務めた泰時から「時」の字を受けて実時と名乗る(「実」字は父から継承したもの)』。翌文暦元(一二三四)年、『出家した父から小侍所別当を移譲される。若年を理由に反対の声があったが、執権泰時はそれを押さえて実時を起用した。その頃、泰時の子時氏・時実が相次いで早世し、泰時の嫡孫北条経時が得宗家の家督を継ぐ事になっており、泰時は経時の側近として同年齢の実時の育成を図ったのである。泰時は』二『人に対し』、『「両人相互に水魚の思いを成さるべし」と言い含めていた』(「吾妻鏡」に拠る)以後、三度に『わたって同職を務め』さらに第四代執権北条経時及び第五代北条時頼の『政権における側近として引付衆を務め』、建長五(一二五三)年には評定衆となっている。文永元(一二六四)年には『得宗家外戚の安達泰盛と共に越訴頭人となり幕政に関わり』、第八代執権の『北条時宗を補佐し、寄合衆にも加わった』。『文永の役の翌建治元』(一二七五)年『には政務を引退し、六浦荘金沢(現在の横浜市金沢区)に在住』、『蔵書を集めて金沢文庫を創設』したが、翌年に逝去した。『文化人としても知られ、明経道の清原教隆に師事して』、『法制や漢籍など学問を学び、舅の政村からは和歌など王朝文化を学』んだ。『源光行・親行父子が校訂した河内本』「源氏物語」『の注釈書を編纂する』などもしている。

「顯時」金澤(北条)顕時(宝治二(一二四八)年~正安三(一三〇一)年)は、正室が安達泰盛の娘千代野で安達泰盛が霜月騒動で粛清されたことにより、縁戚連座で逼塞を余儀なくされたが、その後に第九代執権北条貞時の信頼を回復して復権、顕時の代に、金沢流北条氏は全盛期を迎えている。ウィキの「北条顕時によれば、文応元(一二六〇)年に『将軍家庇番衆となって宗尊親王に仕え、歌学などの学問を学』んだ。弘安八(一二八五)年十一月の「霜月騒動」では』、『金沢家の領地であった下総埴生庄に隠棲』、『出家して「恵日」(えにち)と名乗ったが、実際は謹慎処分であり』、『出家したため』、『助命されている』。永仁元(一二九三)年四月に『執権北条貞時が平禅門の乱で頼綱を滅ぼし』、その僅か五日後の四月二十七日、『顕時は鎌倉に戻って幕政に復帰』(「武家年代記」)、十月には『貞時が引付を廃止して執奏を新設し、顕時は北条宗宣らと共に任命された』。永仁二(千二百九十四)年には引付四番頭人、二年後には三番頭人となって、『赤橋館を与えられ』ている。『晩年は長年の激務から胃病を患って政務を退くが、貞時の信頼は厚く度々諮問を受けたという』。『顕時は父に似て好学で』、『金沢文庫の成立に寄与した』。彼の死去後は、『跡を子の貞顕が継ぎ、金沢北条家は引き続いて』、『得宗家の厚い信任と抜擢を受け続けることになる』のであった。

「内外兩典」仏教の正式なものと認められた経典である「内典」と、仏教以外の書物である「外典(げてん)」。本来はインドの外道(げどう)の書物を指したが、日本では主としてフラットな意味での仏教経典以外の参考に供し得る儒学書を指す。

「陰(おん)」陰陽道(おんみょうどう)の関係書。

「神(しん)」神道系の関係書。

「歌」和歌集や歌学書。

「殘る所なし」余す所なく、蒐集した。

「金澤の文庫といふ印を拵へ、儒書には黑印(こくいん)、佛書には朱印、卷(まき)每ごと)に押されたり」私の「鎌倉攬勝考卷之十一附錄」「金澤文庫舊跡」に印像があるので見られたい。但し、そこには『或はいふ、儒書には黑印、佛書には朱印を押たるといえども、今希に世に有ものは、皆黑印にてぞ有ける。又黑印も、大小のたがひも有けるといふ』とあり、そこで私は注して、『これらは幕府崩壊後、室町時代に称名寺が蔵書点検を行った際に押された蔵書印とも言われるが、日本最古の蔵書印であることに変わりはない』とも述べた。

「學文(がくもん)」「學問」に同じい。

「書典の癖(へき)」愛書家。古書蒐集家。読書家。]

 

北條九代記 卷第十二 北條相摸守貞時卒す 付 高時執權家督 竝 北條凞時病死

 

 ○北條相摸守貞時卒す  高時執權家督  北條凞時病死

同十月二十六日[やぶちゃん注:応長元年。ユリウス暦一三一一年十二月六日。この年は閏六月があったために西暦とのズレが大きい。執権師時の死後三十三日後(前月九月は小の月)で、ほぼ一ヶ月後でまさに後を追うように亡くなっている。]、北條相摸守貞時入道宗瑞[やぶちゃん注:既注通り、「崇演」の誤り。]病死し給ふ、年四十一歳[やぶちゃん注:誤り。享年数えでも四十歳。満三十九歳。]、最勝園寺(さいしようおんじ)と號す[やぶちゃん注:正式な戒名は「最勝園寺覺賢」。]。年來、所勞[やぶちゃん注:病気がちであること。]の氣に依て、引籠られけれども、天下の政理を大事に思はれ、世の怨(うらみ)、人の憤(いきどほり)負をはぬやうに、と思はれければ. 小大となく遠慮深(ふか)くおはしましけるに、終(つひ)に行く道は誰(たれ)とても遁れざる事なれば、是非なく、白日(はくじつ)の本(もと)を辭して、九泉(きうせん[やぶちゃん注:「幾重にも重なった地の底」の意で、死後の世界。黄泉(こうせん)。黄泉路(よみじ)。])に赴き給ふ。去ぬる弘安七年[やぶちゃん注:一二八四年。]より、正安三年[やぶちゃん注:一三〇一年。]に至る、執權の當職十八年、剃髪の後十ヶ年、首尾二十八年、晝夜に心を勵(はげま)し、思(おもひ)を凝(こら)して、世を取靜(とりしづ)め給ひけり。嫡子太郎高時、僅に九歳なり。北條陸奥守宗宣(むねのぶ)、同じく相摸守の熈時(ひろとき)、兩人、執権、連署(れんじょ)致されしに、内管領(ないくわんれい)長崎入道圓喜と、高時の舅(しうと)秋田城介時顯(あいだのじやうのすけときあき)と貞時入道の遺言を受けて、高時を輔佐す。圓喜は平左衞門賴綱が甥にて、光綱と云ふ者の子なり。然るに、正和元年六月[やぶちゃん注:一三一二年。]に北條宗宣、俄(にはかに)に死去せられしかば、諸事の政理、悉く、熈時一人、是を勤めらる。長崎圓喜、城〔の〕介時顯、漸々に威を振ひ、京、鎌倉の支配、大名、小名の式禮、皆、既に濫吹(らんすゐ[やぶちゃん注:致命的に秩序が乱れること。斉(せい)の宣王は竽(う)という笛を聞くのが好きで、楽人を大勢、集めていたが、竽を吹けない男が紛れ込み、吹いている真似をして俸給を貰っていたという「韓非子」の「内儲説 上」の故事に基づく故事成句。「濫竽(らんう)」とも言う。])して賄(まひなひ)に耽り、私欲に陷り、侈(おごり)を好みて肆(ほしいまゝ)なり。萬(よろづ)、往始(そのかみ)にもあらず覺えて[やぶちゃん注:万事が以前とはすっかり様変わりしてしまったように感ぜられて。]、古(いにしへ)を慕ひ、今を恨むる人も多かりけり。か〻る所に、同四年[やぶちゃん注:正和四(一三一五)年。]七月上旬の比より、北條熈時、瘧病(ぎやくへい)[やぶちゃん注:瘧(おこり)。マラリア。]の患(うれへ)に罹り給ひ、其、發(おこ)る時には、寒戰(かんせん)[やぶちゃん注:振戦(しんせんせん)。激しい痙攣的な震(ふる)え。]の甚しき事、屋室(おくしつ)も共に震動し、壯熱(さうねつ[やぶちゃん注:激しい発熱。])する事は、火に燒くが如し。時々、譫言(せんげん[やぶちゃん注:うわごと。所謂、アルコール中毒症状の後期などに見られる振戦譫妄(せんもう)様状態と同じ。])ありて、鬼物(きぶつ)を見るに似たり[やぶちゃん注:熈時自身が恰も物の怪を見て恐れ戦いているかのようにさえ見受けられた、の意。]。典藥頭(てんやくのかみ)盛國、藥石の妙術を盡し、順逆(じゆんぎやく)二劑[やぶちゃん注:体温を下げる作用を持つ薬と、その逆に、体温を上昇させる作用を持つ薬の二剤。]、攻補(こうほ)[やぶちゃん注:熱を積極的に下げる治療に、下がり過ぎる体温を一定値で保持することを言っているか。]、兼用(かねもち)ひて、百計すれども、効(しるし)なし。陰陽師(おにゃうじ)泰元(やすもと)、符(ふ)を書きて、禳祭(じやうさい)の法[やぶちゃん注:「禳」は「厄を払う」こと。]を行ひ、諸社寺、諸社の祈禱、肝膽(かんたん)を碎きけるに、靈鬼の形(かたち)、幻(まぼろし)に見えて、恐しさ、限なし[やぶちゃん注:熈時自身の気持ちになって書いている。明らかに彼は怪しい霊や悪鬼を幻覚に見て恐れているのだと筆者は理解しているように読める。]。辛うじて瘧病(ぎやくへい)は截(き)りたりけれども[やぶちゃん注:マラリア(の激しい発作症状)は断ち切ることが出来たけれども。但し、マラリアは回帰性で、無論、これは快癒したのではない。]、食事、打絶えて、起臥(おきふし)も叶はず。只、朦々(もうもう)として[やぶちゃん注:朦朧として。ぼんやりと腑抜けのようになってしまって。]、漸々、病勞羸瘦(びやうらうるゐそう[やぶちゃん注:病的に異常に瘦せ細って。])し、同二十六日[やぶちゃん注:誤り。七月十一日(一三一五年八月十一日)。]に、遂に卒去し給ひけり。極樂寺に葬送して、新(あらた)に一堆(たい)靑塚(せいちよ)[やぶちゃん注:一山(ひとやま)の新しい塚(つか)。]の主(ぬし)となし參らせ、法名をば道常(だうじやう)とぞ號しける。近比(このころ)、京都鎌倉の有樣、何事に付きても心を延(のぶ)る樂(たのしみ)はなく、眉(まゆ)を顰(ひそ)め、息(いき)を伏(ふく)し、冷笑(にがわらひ)にて月日を送り、打續きたる無常の憂(うれひ)[やぶちゃん注:訃報。]に、世は末になり、運は傾(かたぶ)きぬと、未然を計つて[やぶちゃん注:これからのこの世の暗雲立ち込めたるようなる行く末を思って。]、歎く人も、ありとかや。

[やぶちゃん注:「北條陸奥守宗宣(むねのぶ)」かっちりと独立して注していないのでここで掲げておく。基本はウィキの「北条宗宣に拠った。北条(大仏(おさらぎ))宗宣(正元元(千二百五十九)年~正和元(一三一二)年七月十六日)鎌倉幕府第十一代執権(非得宗:在職:応長元年十月三日(一三一一年十一月十三日)~正和元年五月二十九日(一三一二年七月四日))。北条宣時(彼は北条大仏流の祖である朝直の子であり、朝直は北條時政の子で義時の異母弟時房(幕府初代連署))の子である)。『大仏家の総領として、弟や子らと共に、幕府の要職を歴任した。元服時に得宗家当主の北条時宗より一字を賜り、宗宣と名乗』った。弘安九(一二八六)年に引付衆となり、永仁五(一二九七)年からは、『六波羅探題南方に就任』、乾元元(一三〇二)年まで在京した。嘉元三(一三〇五)年四月二十二日に発生した北条宗方の謀叛、『嘉元の乱においては得宗の北条貞時』『の命令で北条宗方を討っ』ている。同年七月二十二日、『その戦功により』、『連署となる』。応長元(一三一一)年九月二十二日、『執権であった北条師時の死去により』、十月三日に『連署から昇格して第』十一『代執権に就任した』。実際には永年、『貞時と対立した宗宣』であったが、そ『の執権就任は貞時がすでに病身だったためと思われる。しかし幕政は内管領・長崎円喜に実権を握られ』、事実上は全く『政治をみることができなかった』と言ってよい。正和元(一三一二)年五月二十九日に『執権職を北条煕時に譲り』、出家、六月十二日に享年五十四で逝去している。歴史学者『細川重男は嘉元の乱の背景』自体『に宗宣の蠢動があったことを指摘し、宗宣は貞時に反抗的であったという論陣を展開している。この理由に関しては大仏家の始祖は第』三『代執権である北条泰時の叔父に当たる北条時房にまで遡り、時房は泰時を補佐する連署として幕政に重きを成したが、その後は』、『時頼・時宗・貞時と得宗家』三『代にわたって幕政で軽んじられた存在に甘んじていたので、嘉元の乱を契機として』、『大仏流の巻き返しを目論んで貞時と対立したとしている』。『これに対しては』『鈴木宏美が』「北条氏系譜人名辞典」で『反証して』おり、『時房の子・朝直は泰時の娘を妻としたことで』、『北条一族のなかで重んじられていたとする』のであるが、『実際は伊賀氏の変に伴う泰時の意向に屈服して愛妻(前妻の伊賀光宗の娘)との離縁を余儀なくされているようであり(朝直が当初、泰時の意向に反対していたことが史料にみられる』『)、朝直以降の大仏流北条氏の当主も、代々』、『幕府政治の要職に就くことはできた』『ものの、将軍を烏帽子親として一字を与えられる得宗家と赤橋流北条氏の当主に対して、家格的にはそれよりも一段低い、得宗家を烏帽子親とする家と位置づけられていたことが指摘されている』。『宗宣の後も貞宗(のち維貞)―高宣と同じく得宗の偏諱を受けている』。『ことから、要職には就ける代わりに』、『得宗への臣従を余儀なくされていた可能性があり、内管領・平頼綱を排除した(平禅門の乱)後』、『貞時が得宗家への権力集中を目指した政治を行った』『ことに宗宣が反感を抱いていた可能性も否定はできない』とある。

「長崎入道圓喜」(?~元弘三/正慶二年五月二十二日(一三三三年七月四日)北条氏得宗家被官である御内人(みうちにん:北条得宗家に仕えた武士・被官・従者の総称)の内管領(ないかんれい:北条得宗家の執事で得宗被官である御内人の筆頭位置の者を指し、「御内頭人(みうちとうにん)」とも称した。「得宗の家政を司る長」の意で、幕府の役職名ではない)。長崎氏(平清盛の孫資盛の系統と称した北条得宗家の家令となった平禅門の乱で知られる平盛綱を祖とする)の一族。父は長崎光綱(平頼綱の近親者とされるが、頼綱の弟(父は平盛綱又は平盛時)とする説や、長崎光盛の子で頼綱の甥又は従兄弟とする説があって確定していない)。円喜は法名で、俗名は系図類では高綱(たかつな)とされるが、当時の文書では盛宗(もりむね)と記されている。以下、概ね、参照したウィキの「長崎円喜より引く。「太平記」「保暦間記」において、『嫡子高資と共に、北条得宗家以上の絶大な権力をふるった様子が描かれている』。『史料上の初見は一族である平頼綱が滅ぼされた平禅門の乱の翌年』、永仁二(一二九四)年二月、第九代執権『北条貞時の使者として御持僧親玄を訪れた記録である。同年、貞時の側室播磨局の着帯の儀式に父光綱と共に主席者筆頭として参列している』正安四(一三〇二)年には『得宗家の分国である武蔵国守護代を務めている記録がある』。永仁五(一二九七)年に『父光綱が没しているが、光綱が務めた世襲の職である得宗家執事(内管領)・侍所所司は工藤杲禅』(こうぜん)と『尾藤時綱が任じられており、高綱は父の地位を継ぐ事はなく、光綱没後の数年間は長崎氏不遇の時代であった』。嘉元三(一三〇五)年、『嘉元の乱で貞時が内管領の北条宗方を滅ぼした後』、徳治二(一三〇七)年頃には『宗方に代わって高綱が内管領・侍所所司に就任し』ていると推定される。延慶二(一三〇九)年四月には『尾藤時綱と共に寄合衆を務めており、この頃には出家して円喜と号し、「長入道」と称された。出家により侍所所司を長男の高貞に譲ったと見られる』。応長元(一三一一)年の『貞時死去にあたり、安達時顕と共に嫡子高時の後見を託され、幼主高時を補佐して幕政を主導した。老齢により』、正和五(一三一六)年頃には『内管領の職を嫡子高資に譲っている』ようである。『長崎氏は幕府の軍事・警察権を握る侍所所司、執事として得宗家家政の財政・行政・司法権を一族で掌握し、円喜は子息が実権を握る侍所所司と内管領の権力を背景に寄合衆を主導した。表面的には集団指導体制で運営される高時政権の一員であるが、世襲によって侍所所司・内管領・寄合の三職を一家で独占したことで、それぞれの機関本来の職権以上の権力を行使し、鎌倉の政権を左右する権力を握ったのである』。正中元(一三二四)年に『正中の変を起こした後醍醐天皇の弁明のため、鎌倉へ下向した万里小路宣房に安達時顕と共に対面し、時顕の詰問に宣房が狼狽したことが』、「花園天皇宸記」に出る『が、京都ではこの際に比較的穏便な処置がなされたのは、円喜の意向によるものと噂された』。『鎌倉幕府が滅亡した際、北条一族とともに鎌倉東勝寺で自害した』。

「秋田城介時顯(あいだのじやうのすけときあき)」安達時顕(?未詳(弘安八(一二八五)年頃か?)~元弘三/正慶二年五月二二日(一三三三年七月四日)幕府の有力御家人。ウィキの「安達時顕より引く。『安達氏の一族で、父は霜月騒動で討たれた安達宗顕(むねあき、顕盛の子)』。弘安八(一二八五)年の『霜月騒動で』、『父宗顕をはじめ』、『一族の多くが滅ぼされたが、幼子であった時顕』『は乳母に抱かれて難を逃れた。その後は政村流北条氏の庇護下にあったようであり』、徳治二(一三〇七)年『までには』、『その当主・北条時村を烏帽子親に元服し』、『「時」の字を賜って時顕を名乗ったとされている』.永仁元(一二九三)年の「平禅門の乱」で『平頼綱が滅ぼされた後に安達一族の復帰が認められると、やがて時顕が安達氏家督である秋田城介を継承したが、これを継承できる可能性を持つ血統が幾つかある中で時顕が選ばれたのも』、『政村流北条氏、すなわちこの当時』、『政界の中枢にあった北条時村の影響によるものとされている』。『史料で確認できるところでは、時顕の初見は』「一代要記」徳治二(一三〇七)年一月二十二日の条であり、翌徳治三年(後、延慶元年に改元。一三〇八年)『の段階では秋田城介であったことが確実である』。応長元(一三一一)年、第九代『執権北条貞時の死去にあたり、時顕は貞時から長崎円喜と共に』九『歳の嫡子高時の後見を託された』。文保元(一三一七)年には、『霜月騒動で討たれた父宗顕の』三十三『回忌供養を行』っている。正和五(一三一六)年、十四歳で『執権職を継いだ高時に娘を嫁がせ』、『北条得宗家の外戚となり、また時顕の嫡子高景は長崎円喜の娘を妻に迎え、内管領とも縁戚関係を結んで』、『権勢を強めた』。正中三(一三二六)年三月の、『高時の出家に従って』、『時顕も出家し』、『法名の延明を称する。高時の後継者を巡り、高時の妾で御内人の娘が産んだ太郎邦時を推す長崎氏に対し、高時の舅である時顕と安達一族が反対して高時の弟泰家を推す対立が起こり、北条一門がそれに巻き込まれる事態となっている(嘉暦の騒動)。最終的には邦時が嫡子の扱いとなっている』。『幕府滅亡に際し、東勝寺で北条一門と共に自害した』。

「極樂寺」鎌倉市極楽寺にあるは真言律宗霊鷲山(りょうじゅさん)極楽寺。正式には霊鷲山感應院極樂律寺。開基は北条重時(北条義時の三男)開山は忍性。]

2018/02/17

北條九代記 卷第十二 北條師時頓死 付 怨靈

 

      ○北條師時頓死 付 怨靈

 

北條貞時入道宗瑞[やぶちゃん注:既に注した通り、「崇演」の誤り。]は、出家の身として、政事を執行ふに及ばず。師時、凞時(ひろとき)、既に執権の連署を勤めらる[やぶちゃん注:この言い方もやはりおかしい。師時は既に正式な執権であるのに、これでは貞時が執権のままであるように読めてしまい(実権は事実上はそうであるが)、師時と凞時が執権の連署を勤めているようにしか読めないからである。増淵氏もここの記載の奇妙さを感じて、『師時』『と凞時』『とがすでに執権・連署の核を勤めらた』と訳しておられる。]威勢高く、門前に市をなし、出入る輩(ともがら)、日夜に絶間(たえま)なし。然るに、師時、如何なる故かありけん、鶴ヶ岡の別常総正を初(はじめ)て、眞言師(しんごんし)の僧に仰せて、各(おのおの)七日の護摩を修(しゆ)せしめ、門戸(もんこ)には符(ふ)を書きて、押させらる。何事と知る人なし。後に聞えしは、去ぬる七月[やぶちゃん注:後の場面から応長元(一三一一)年七月と読める。]の比より、北條宗方[やぶちゃん注:卷第十一 貞時出家 付 北條宗方誅伐参照。師時とは従兄弟同士。]が亡靈、來りて、師時に怨(うらみ)を報ずべき由、喚(よば)はる聲、餘人の耳には聞えず、師時一人是を聞くに、定(さだめ)て狢(むじな)狐(きつね)の致す事かと思はれしに、後には形(かたち)を現(あらは)し、蜻蛉(かげろふ)[やぶちゃん注:ここは「陽炎」と表記する方が判りがよい。]の如く、あるかなきかのやうに見えたりければ、師時、是(これ)に依(よつ)て、祈禱を致し、鎭祭(ちんさい)、護摩を修せらる〻に、その效(しるし)なし。他人に向ひて語らば、臆病神の俤(おもかげ)に立ちたるもの、と笑はんも口惜しかるベし、如何(いか)にもして、禳鎭(はらひしづ)めばや、と思はれけるが、漸々(ぜんぜん)に憔悴せられ、諸人、奇しみ思ひけり。同九月十一日[やぶちゃん注:応長元(一三一一)年。]、師時、只一人、亭に坐して、庭を見ておはしける所に、宗方が怨靈、形(かたち)顯(あらはし)て、長刀を橫(よこた)へ、直(ぢき)に廣庇(ひろひさし)に走掛(はしりかゝる)。師時も太刀押取(おつと)りて、立たれしが、胸の邊(あたり)を刺(さゝ)れたりと覺えて打倒(たふ)れ、血を吐(はく)事、一斗(と)計(ばかり)にして其儘、絶入(ぜつじゆ)し給ひけり。家内上下、周章慌忙(あはてふため[やぶちゃん注:「周章慌忙」四字へのルビ。])き、扶起(たすけおこ)しければ、少し、人心地付きて、只、口惜(くちをし)さよ、とのみ、云はれしが、其日の暮程に、遂に事切れにけり[やぶちゃん注:応長元年九月二十二日(ユリウス暦一三一一年十一月三日)の誤り。また、貞時の死(次章)の凡そ一ヶ月前に当たるこの日に出家し、同日に死去したとされる。享年三十七歳で、ウィキの「北条師時によれば、『評定中』、『その座でそのまま』、『死去したと伝わる』とあるから、この怨霊話は如何にも作り話臭い。]。世には頓死と披露しけれども、實(じつ)には怨靈の所爲(しわざ)とぞ聞えける。昔、周の宣王(せんわう)、その臣杜伯(とはく)を殺しければ、亡魂、形を顯(あらは)し、宣王を射て、中心を貫くと覺えし、王、果(はたし)て、崩ぜらる。後秦(ごしん)[やぶちゃん注:底本は「後奏」とあるが、原典を確認して誤植と判明したので訂した。後も同じ処理をした。]の姚萇(えうちやう)、既に前秦の苻堅(ふきん[やぶちゃん注:原典もママ。「ふけん」であろう。])を伐ちければ、怨靈、顯れて、白晝に姚萇を刺すに、血を吐きて死す、と云へり。師時、如何なれば、か〻る怨(うらみ)の報(むくい[やぶちゃん注:ママ。])を受けて、生年三十七歳にて卒去せらる。昔も今も例なき事ならず、と恐(おそれ)、思はぬ人は、なし。

 

[やぶちゃん注:「周の宣王(せんわう)、その臣杜伯(とはく)を殺しければ、亡魂、形を顯(あらは)し、宣王を射て、中心を貫くと覺えし、王、果(はたし)て、崩ぜらる」周朝の第十一代宣王(せんおう ?~紀元前七八二年)に纏わる伝承。ウィキの「王(周)によれば、父厲(れい)王は前八四二年に暗殺を主眼とした暴動のために国から『逃亡し、以後は王が不在のまま』、『共和制が敷かれていた。紀元前』八二八『年に厲王が崩御した後、厲王の子である』彼『が王として立てられた。治世前期は周定公』と『召穆公』『を輔政とし』、『国勢が中興し、宣王中興と称される時期を築いた。 他にも、新興諸侯として弟の王子友(桓公)を鄭に封じたことが事蹟として挙げられる』が、『軍事面では秦仲や杜伯といった大夫たちに命じて積極的な異民族征伐に乗り出した』ものの、『こちらは徐々に劣勢となり、紀元前』七八九『年の千畝(せんぽ)の役で姜戎』(きょうじゅう)『に大敗するなど、あまり思わしくなかった。 治世後期には政治面でも』、父『厲王にみられ』たような『君主独裁化が進み、魯の継嗣問題介入、杜伯の処刑など』、『諸侯への圧迫を強めていったため、周王朝の求心力は徐々に低下へと向かう。その末路は定かではないが』、「墨子」の「明鬼篇」によれば、『杜伯を処刑した』三『年後に、鬼神の力を借りた杜伯によって射殺されている。賛否両論の分かれる王ではあるが、結果から言えば』、『父の厲王や子の幽王と同じく、周王朝の滅亡を早めた暴君・暗君と言わざるをえない』とある。墨子」原文で読めるが、個人ブログ「七つの回廊」の霊魂が、死後も実在していることの証明? その一で、その箇所の非常に分かり易い現代語訳が載るので、引用させて戴く。

   《引用開始》

 周の宣王(せんおう)は、臣下の杜伯を死罪としたが、それは無実の罪であった。そこで、杜伯は、(死の直前)次のように復讐を誓った、

『わが主君は、私を処刑しようとしているが、私は無実である。もし、死者には知覚する霊魂がないのであれば、(復讐も)やめる他はない。だが、もし、死後も知覚があるのならば、三年以内に、必ずや、わが君に死者の怨念を思い知らせてやろう』

 三年目のある日、周の宣王は、諸侯を集め、圃田(ほでん)で大掛かりな狩りを催した。(その総勢は)戦車が数百台、お供の者が数千人で、狩り野は人であふれた。

 その真っ昼間に、杜伯は、白馬に牽かせた白木造りの戦車に乗って、突然、姿を現した。朱の衣服をまとい、朱の冠をかぶり、朱塗りの弓を手に取り、朱塗りの矢を小脇にはさんで、周の宣王を追いかけ、車上の宣王を狙撃した。

 杜伯の放った矢は、宣王の心臓に命中し、さらに、背骨までも打ち砕いた。宣王はもんどり打って車の中に倒れ、弓袋に突っ伏して絶命した。

 この時、直接、宣王につき従っていた周の人々で、杜伯の姿を目撃しなかった者はなく、また、離れた所にいた人々でも、事件の物音を聞かなかった者はいなかった。

 (そこで、この事件は、紛れもない事実として)記録されて、周の歴史記録である『春秋』に今も見ることができる。

 君主の立場にある者は(周の『春秋』をひもとき)、この事件を材料に臣下を教導し、父の立場にある者は、この事件を教訓に息子たちを教戒して、次のように諭した、

『慎めよ、戒めよ。罪なき人を殺す者は、皆、不吉な出来事に見舞われる。鬼神が降す誅罰は、こんなにも迅速だぞ』

 この周の『春秋』の記録から判断するならば、『鬼神』の実在は、どうして、疑ったりできようか」

   《引用終了》

「後秦の姚萇(えうちやう)、既に前秦の苻堅を伐ちければ、怨靈、顯れて、白晝に姚萇を刺すに、血を吐きて死す」「姚萇」(ようちょう 三三一年~三九四年)は五胡十六国時代の後秦の創建者で羌(きょう:古代より中国の西北部に住んでいる民族)の出身。ウィキの「姚萇」によれば、『父』『は羌の勢力を率いる後趙の将であった。兄の姚襄が羌の勢力を受け継いで独立を試みたが、前秦の苻堅と戦って敗死した。姚萇はこの後に苻堅に降ったが、苻堅が淝水の戦いで大敗を喫すると独立して苻堅を弑し、後秦を建国した。姚萇時代の後秦は』、『おもに西燕の慕容沖や前秦の残党の苻登と戦った。「苻堅」(ふけん 三三八年~三八五年)は同じ五胡十六国時代の前秦の第三代皇帝(大秦天王)ウィキの「苻堅によれば、氐(てい)族(古代より中国の青海湖(現在の青海省)周辺にいた民族)出身で、『宰相の王猛を重用し』、『前燕や前涼等を滅ぼし、五胡十六国時代において唯一の例である華北統一に成功した上』、『東晋の益州を征服して』、『前秦の最盛期を築いた。中国統一を目指し』、三八三『年に大軍を南下させたが、諸因により』、「淝水(ひすい)の戦い」で『東晋に大敗した。以後』、『統治下の諸部族が反乱・自立する』に及んで、『前秦は衰退』し始め、三八五年、『羌族の部下』であった『姚萇に殺害された』とある。ウィキの「姚萇」の「晩年」の条に、『死の直前、長安に移動する途中』、『病床にあった姚萇が夜に見た夢に、苻堅が天官の使者の鬼兵数百を連れて訪れた。宮人がそれを迎え撃ったが、宮人が持っていた矛が』、『誤って』、姚萇の『陰部に刺さった。鬼兵が急所だ、と言い、矛が抜かれて』、『大量に出血したところで目が覚めると、陰部が大きく腫れ上がっていて夢の中と同じように出血していた。錯乱した姚萇は』、『苻堅の命を奪ったのは姚襄』(姚萇の兄)『であると叫んだという』とある。]

 

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十六年 「はてしらずの記」旅行

 

     「はてしらずの記」旅行

 

 六月になって居士は瘧(おこり)を病んだ。八日に鳴雪翁と共に今戸に鋳地蔵を尋ね、帰来発熱甚しかったが、数日後にその瘧なることを知った。二十日以後出社したところ、二十六日に至りまた瘧を発し、連日これに悩まされた。三十日の日記に「瘧落」とあって「瘧落ちて足ふみのばす蚊帳かな」の句を録しているから、この時全く退散したものであろう。この月は「時事俳評」を掲げた外、何も『日本』に筆を執っていない。

[やぶちゃん注:「瘧」数日の間隔を置いて周期的に悪寒や震戦、発熱などの症状を繰り返す熱病。本邦では古くから知られているが、平清盛を始めとして、その重い症例の多くはマラリアによるものと考えてよい。戦中まで本邦ではしばしば三日熱マラリアの流行があった。太平洋戦争終結後、一九五〇年代には完全に撲滅された。病原体は単細胞生物であるアピコンプレクサ門胞子虫綱コクシジウム目アルベオラータ系のマラリア原虫Plasmodium sp.で、昆虫綱双翅(ハエ)目長角(糸角/カ)亜目カ下目カ上科カ科ハマダラカ亜科のハマダラカAnopheles sp.類が媒介する。ヒトに感染する病原体としては熱帯熱マラリア原虫Plasmodium falciparum、三日熱マラリア原虫Plasmodium vivax、四日熱マラリア原虫Plasmodium malariae、卵形マラリア原虫Plasmodium ovaleの四種が知られる。私と同年で優れた社会科教師でもあった畏友永野広務は、二〇〇五年四月、草の根の識字運動の中、インドでマラリアに罹患し、斃れた(私のブログの追悼記事)。マラリアは今も、多くの地上の人々にとって脅威であることを、忘れてはならない。]

 七月十九日、居士は飄然奥州旅行の途に上った。今少し早く出発するつもりであったのが、病のため遷延したものらしい。奥羽は居士に取って未知の天地である。出発に先(さきだ)って「蕉翁の『奥の細道』を寫しなど」しているのを見ても、『奥の細道』の迹(あと)をたずねる意味のあったことはいうまでもない。芭蕉は出発に当って「前途三千里の思ひ胸にふさがりて幻のちまたに離別の淚をそゝぐ」といい、「人々は途中に立ならび後かげの見ゆるまではと見送るなるべし」という有様であったが、「鐡道の線は地皮(ちひ)を縫ひ電信の網は空中に張る」明治の世の中にあっては「行く者悲まず送る者歎かず。旅人は羨まれて留まる者は自ら恨む」わけで、上野駅に居士を送った者は、折ふし来合せた飄亭氏一人、居士自身も「松嶋の風に吹かれんひとへ物」とか「みちのくへ涼みに行くや下駄はいて」とかいうほどの気軽さであった。

[やぶちゃん注:明治二六(一八九三)年七月一九日から翌八月二十日までの約一ヶ月間、正岡子規は東北地方を旅した。]

 居士はこの旅行に上るに先って、林江左(こうさ)(和一)を介して三森幹雄(春秋庵)に逢っている。幹雄の添書を貰って各地に旧派の俳人を訪ねたのは、不案内の地において便宜を得るためもあったろうが、旧派俳人の実際がどの程度にあるかを打診する意味があったのではないかと思う。しかし出発後三日目、郡山の旅宿から碧梧桐氏に宛てた左の手紙を見ると、このこころみは全く失望を繰返すに過ぎなかった模様である。

[やぶちゃん注:「林江左(こうさ)(和一)」林和一(文化一五・文政元(一八一八)年~明治二九(一八九六)年:子規より四十九歳も年上)は江戸生まれで旧幕臣、衆議院議員。江左は俳号。

「三森幹雄(春秋庵)」(文政一二(一八二九)年~明治四三(一九一〇)年:子規より三十八歳も年上)十一世春秋庵。ウィキの「三森幹雄によれば、福島県石川町(当時は形見村)の『農家に生まれた。本名は三森寛、幼名は菊治。染物屋で徒弟を務めた後、半田銀山や宮城県岩沼の藍染商人の手代として働いた。その間、地方の師匠のもとで俳句を学ぶ』。二十六『歳で、江戸に出奔』、『志倉西馬に弟子入りし』、明治六(一八七三)年、幹雄四十四歳の時、明治政府が『文化政策として大衆教化のために教導職を設け、俳諧師も教導として選考することになり、試験が行われることになった。当時の有名な俳諧師匠が受験に消極的な』中で、『幹雄は俳人としては鈴木月彦とともに訓導として選ばれることによって、俳句界での地位を得ることになった。明倫講社を組織し』、明治一三(一八八〇)年、雑誌『俳諧明倫雑誌』を創刊した。明治一七(一八八四)年、『教導制度が廃止されると「神道芭蕉派明倫協会」に改組』して教派『神道の一派として独立させ、教導資格の発行という方法で会員を増やした。明倫講社の経営が独善的であったことや、政府の意向をうけて俳句を国民教化という目的で解釈することなどが』正岡子規の『攻撃対象となった。それでも明治』三十『年代の都新聞や、雑誌「太陽」での俳人の人気投票では上位をしめた』(この奥州行以前のことであるから、正岡子規自身、必要なところではちゃっかり彼の援助を受けていることが判る)。この明治二六(一八九三)年に春秋庵を継いだ、とある。所謂、旧派俳人の権威の象徴的存在であった。

 以下は底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。]

 

小生この度の旅行は地方俳諧師の内を尋ねて旅路のうさをはらす覺悟にて、東京宗匠の紹介を受け已に今日までに二人おとづれ候へども、實以て恐入つたる次第にて何とも申やうなく、前途茫々最早宗匠訪問をやめんかとも存候ほどに御座候。俳諧の話しても到底聞き分ける事も出來ぬ故、つまり何の話もなくありふれた新聞咄どこにても同じ事らしく、そのくせ小生の年若きを見て大(おほい)に輕蔑し、ある人はぜひ幹雄門へはいれと申候故少々不平に存候ところ、他の奴は頭から取りあはぬ樣子も相見え申侯。まだこの後どんなやつにあふかもしれずと恐怖の至(いたり)に候。

 

 この新旧両者の対坐は明に滑稽を帯びている。「文界八つあたり」の中で「何ぞ近時の宗匠の無學無識無才無智卑近俗陋平々凡々なるや」と罵倒した居士は、旧派俳人の現状について、全然予備知識を欠いていたわけではないが、なおかつ驚かされるものがあったと見える。居士は一転して「せめてはこれらの人々に内藤翁の熱心の百分の一をわけてやりたく候」といい、旅中の自己を省みて次のように述べている。

[やぶちゃん注:以下は底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。]

 

半(なkば)紳士半行脚の覺悟故氣樂なれども面白き事はなく第一名句は一句とても出來ぬに困り候。小生は今日において左の一語を明言致し申候。

 名句・菅笠を被り草鞋を著けて世に生るゝものなり。

 

 居士のこの旅行は宇都宮、那須を経て福島県に入り、白河、須賀川(すかがわ)、郡山、本宮(もとみや)、福嶋、飯坂(いいざか)、桑折(こおり)、岩沼、笠嶋などの各地を歴遊、仙台から松嶋に及んだ。以上が七月中の事で、この間に浅香沼(あさかぬま)とか、満福寺とか、荵摺(しのぶずり)の石とかいうような名所故蹟をも一見、『日本』に五回ほど「はてしらずの記」を送っている。仙台に一週間ほど滞在したのは、旅中の疲労を医(いや)するためと、槐園(かいえん)という文学上の談敵がいたためと、両様の理由によるものらしい。八月五日より出羽に向い、作並、楯岡(たておか)を経て大石田に到り、川船によって最上川を下った。途中古口(ふるくち)一泊、九日に酒田に達している。十日下駄を捨てて草鞋を穿(うが)ち、吹浦に沿うて歩いた結果、行暮れて大須郷というところに泊った。海岸の松原にある怪しげな宿屋に泊って、どんなものを食わされるかと憂慮していたら、膳の上に酢牡蠣がある、椀の蓋を取るとこれも牡蠣で、非常にうまいのに驚いたという『仰臥漫録』の中の話は、この大須郷のことであるらしい。象潟(きさかた)一見の後、本庄、道川(みちかわ)を経て秋田に入った。このあたりは大分疲れて、人力車、馬車などの便を利用したようである。十五日秋田を発して大曲(おおまがり)一泊、六郷(ろくごう)から岩手へ出る新道を辿り、路傍の覆盆子(いちご)を貪り食いながら麓(ふもと)に下って、湯田(ゆだ)という小さな温泉に宿った。黒沢尻(くろさわじり)に著いた翌日は七夕であったが、風雨のために終日降込(ふりこ)められてしまった。翌日汽車で水沢に向い、夜汽車でまた東京に向った。上野駅に着いたのは二十日の正午であった。

[やぶちゃん注:サイト「俳聖 尾芭蕉・みちのくの足跡で、山形県内における八月六日から九日までの「はてしらずの記」(楯岡・東根・大石田・最上川下り(烏川・本合海・古口・仙人堂・白糸の滝・清川)の抜粋が読める。

「槐園」国学者で歌人として知られる落合直文の実弟で、歌人であった鮎貝槐園(あゆかいかいえん 文久四(一八六四)年~昭和二一(一九四六)年:正岡子規より三つ年上)。陸前国気仙沼(宮城県)生まれ。本名は鮎見房之進。槐園は号。東京外語朝鮮語科卒。兄落合直文がこの明治二十六年に「あさ香社」を創設した際、与謝野鉄幹とともに活躍した。『あさ香社詠草』に多くの歌を発表し、『二六新報』の和歌欄の選者もした。翌年に渡鮮し、京城に五つの小学校を創設、その総監督を務めた。後に京城で実業家となり、朝鮮総督顧問も務めた。その一方で、朝鮮の考古学・古美術研究にも力を注いだ(日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠る)。

「仰臥漫録」のそれは九月十九日の条に出る。ブログ「土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べもの)」の子規が食べた奥州の牡蠣に当該箇所の引用がある。]

 

 以上が「はてしらずの記」の旅程の概略である。『日本』紙の紀行は前後二十一回にわたり、九月十日に至って漸く完結した。「歌風や旅の浮世のはてしらず」というのが結末の一句であるが、居士としては未曽有の大旅行であり、また前後にない長篇の紀行でもあった。紀行は松嶋の条に最も多くの紙数を費しているけれども、全篇にわたり実景実情より得た句が多く、前年のそれに比して慥に数歩を進めている。

 

 短夜の雲をさまらずあだゝらね

  飯坂溫泉

 夕立や人聲こもる溫泉(ゆ)の煙

  松嶋

 涼しさや嶋かたぶきて松一つ

  作並山中

 山奇なり夕立雲の立めぐる

 鳥海にかたまる雲や秋日和

  湯田溫泉

 山の溫泉(ゆ)や裸の上の天の川

 

[やぶちゃん注:「はてしらずの記」の全文は国立国会図書館デジタルコレクションの「獺祭書屋俳話から読める(そこでは「はて知らずの記」と表記されている)。]

芥川龍之介 手帳補遺 / 芥川龍之介 手帳~全電子化注完遂!

 

手帳補遺

 

[やぶちゃん注:以下は、岩波旧全集に上記名称で載るもので、岩波新全集では第二十三巻の『ノート』パート(同巻には既に電子化注した手帳「1」から「12」が載るが、それは『ノート』パートの後に『手帳』パートとして別に項立てされている)に仮題『細木香以ノート』として「手帳」扱いせずに載るものである。新全集がこれを『手帳』ではなく『ノート』扱いにした理由は、この原本が所謂、手帳タイプのものに記されたものでないからで、新全集『後記』によれば、便箋三枚に黒インクで書かれたものだからで、この扱いは、手帳でないという事実からして至当ではある

 以上の理由から、これを私の芥川龍之介の手帳電子化注の最後に入れるに際しては、やや戸惑った。

 しかし、は今まで、芥川龍之介の電子化については概ね、正字正仮名の旧全集を唯一の正統な拠り所として来た経緯があり、これを新字正仮名という如何にも中途半端な気味の悪い(私は芥川龍之介が見たら、「これが私の全集?」と首を傾げると受け合う)新全集の、その区分けに従って外すということ自体が、旧知の盟友を裏切るのと同じ気がして如何にも増して気持ちが悪いのである

 そうして何より、最早、正しき正字体の以下の旧全集「手帳補遺」は、旧全集でしか読めなくなってしまっているのである。新字体正仮名という、途轍もなく気持ちの悪い新全集仮題『細木香以ノート』というヘンなものを我々は読むしかないということに、私は絶望的な思いがするからである

 しかも、実は新全集は写真版原資料(山梨県立文学館編「芥川龍之介資料集・図版1・2」(一九九三年同文学館刊)を底本として(私は非常に不思議に思うのだが、新全集では新たに起された多くの新資料がこの本の写真版を元にしているというのは何故だろうと感じる。原物は同文学館が所蔵しているはずなのに、何故、次代の大衆に残すべき全集の校訂のために原資料に当たっていないのか? という素朴な疑問である。万一、同文学館が保存主義で閲覧を拒否しているからとすれば、これは文学館としてあるまじき仕儀だと思う。劣化や損壊を恐れて死蔵保管を目的として誰も見ることが出来ない資料など、あってもないのと同じだからである)いるが、その写真版にはない部分が旧全集には現に存在しているからである。新全集は無論、そこの部分は旧全集に拠って新字正仮名で記号を挿入して活字化している。最後の「*」以降の部分がそれであるが、それらを読んで戴くと判るが、これは明らかに――細木香以関連の記載ではない――。また、この「*」は芥川龍之介が打ったものとは思われず、旧全集編者が「手帳一」から「手帳十一」(旧全集には「手帳12」は存在しない。詳しくは「手帳12」冒頭の私の注を参照を作成した後に、それらから脱落してしまってどの手帳にあったものか分らない、或いは、紙質から見て全くのバラの手帳断片(一連のものとは読めるように思える)が見つかり、それを編者が「*」を附して「手帳補遺」の最後に付け足したと考えるべきものである。さればこそ、この「*」以下は、寧ろ、新全集の仮題『細木香以ノート』なんぞに附すべきものではなくて、真正の「手帳補遺」として新全集の「手帳12」の後にこそ、旧全集からとして、附すべきものだったのではないかと私は深く感ずるのである。

 以上の三つ、「*」以下が細木香以との無関係性の一件を独立させるならば四つ、の思いから、2014年3月7日から開始した、芥川龍之介の手帳類のオリジナル電子化注の掉尾を、敢えて、この資料を以って飾りたいと考えるものである。

 以下、芥川龍之介とこの大半のメモの対象者である細木香以の関係について述べる。

 芥川龍之介の養母儔とも:しばしばカタカナ表記の「トモ」を見かけるが、それは芥川家の女性の名の表記に合わせた誤りである)の母須賀は細木(さいき)藤次郎の娘であるが、その弟藤次郎(父の名の二代目を継いだ。本名は鱗(りん))は森鷗外の史伝で知られる、幕末の江戸の大通として「山城河岸(やましろがし)の津藤(つとう)」「今紀文(いまきぶん)」の呼び名で知られた、細木香以(さいきこうい 文政五(一八二二)年~明治三(一八七〇)年)であった。彼は通称、摂津国屋藤次郎(二代目)、一鱗堂と号し、俳号を仙塢(せんう)、狂名を桃江園(とうこうえん)、鶴の門雛亀(つるのとひなかめ)などと称した。新橋山城河岸の酒屋摂津国屋藤次郎龍池(りゆうち)の子。儒学を北静廬に、書を松本董斎に、俳諧を鳳朗・逸淵に学び、俳諧師の善哉庵永機・冬映、役者の九代目市川団十郎、狂言作者の河竹黙阿弥、合巻作者の柳亭種員のほか、書家・画工・関取などと広く交わった。その末、家産を失って晩年は千葉の寒川に逼塞し、四十九歳で没した(以上は主に「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。則ち、芥川龍之介の養母儔は香以の娘須賀と伊三郎(本文に出る)の子であるから、香以の姪であり、龍之介から見ると、系譜上は香以は(養母方の)大叔父(祖母弟)に当たる。しかも、これは孰れの龍之介研究書も全く問題としていないのだが、実は、龍之介の実父新原(にいはら)敏三の末の弟元三郎の妻ゑいの父は細木香以の息子桂二郎の娘である。則ち、芥川龍之介の実の叔父の義理の祖父が、やはり細木香以なのである(新全集宮坂覺年譜に附された系図及び翰林書房「芥川龍之介新辞典」の系図を見よ)。則ち、姻族を含む親族及びその中で行われた養子縁組上の関係を合わせると、芥川龍之介は生家である新原家及び養家である芥川家ともに、二重に細木香以と所縁(ゆかり)があるということになるのである。

 なお、芥川龍之介には主人公『自分』と細木香以との関係を冒頭で明記した上で、彼を主人公にした語り風一人称小説「孤獨地獄」(『新思潮』大正五(一九一六)年四月)があり(「青空文庫」のここで読めるが、新字正仮名である)、本資料はその直接の構想メモではないものの(同作の草稿は別に存在する)、それに先立つ記録メモであることは間違いなく、幾つかの部分が「孤獨地獄」に生かされている(私の本文注を確認されたい)。また、香以については、事実を述べた随想「文學好きの家庭から」(大正七(一九一八)年一月発行の雑誌『文章倶樂部』に「自傳の第一頁(どんな家庭から文士が生まれたか)」の大見出しで、表記の題で掲載された・リンク先は私の電子テクスト)でも『母は津藤の姪』と、ちらっと述べている。そもそもが、森鷗外の「細木香以」(『大阪毎日新聞』『東京日日新聞』大正六(一九一七)年九月から十月初出。「青空文庫」のこちらで新字新仮名なら読める)では末尾に細木香以の縁者として芥川龍之介が鷗外自らによって紹介されているのである。なお、ここは別な意味で非常に興味深い。それは鷗外のその後書きを読む限り、芥川龍之介は儔を実母として鷗外に説明している点である(そこでは鷗外は事前にそのことは小島政二郎から聞いていたとするが、私はこれは芥川龍之介が小島に鷗外には実母であると言っておいてくれと頼んだのだと考えている)。しかもその直後、鷗外が香以の墓に詣でる老女のことを彼に尋ねると、龍之介は、それは『新原元三郎といふ人の妻』で、『ゑいと云』い、彼女は『香以の嫡子慶三郎』(桂三郎の誤り)の娘であると鷗外に教授しているのである。これだけのことを言っておきながら、龍之介は実の父新原敏三の末の妹がそのゑいだとは言わない(言えない)というわけである。言えない訳は龍之介が実母の発狂のことを医師である鷗外には決して伝えたくなかったのだと読めるのである。

 以下の資料は、新全集『後記』によれば、『このメモがいつ頃記されたのかは判然としないが、養母か親戚の誰かから聞いた事の覚書と推察される』とある。

 底本は基本、原資料画像をもととした新全集に拠りつつ、旧全集を参考にして総てを概ね正字漢字表記に復元したもので示す。従って、これは旧全集の「手帳補遺」とも、新全集の仮題『細木香以ノート』とも、実は異なる電子データということになる

 改行毎にオリジナルの注を附したが、内容が通人の関連描写なので、判らぬ部分も多々ある。識者の御教授を俟つ。なお、ここでは注の後の一行空けを附さなかった。

 以上を以って私の「芥川龍之介 手帳」電子化注の総てを終了する。四年に及ぶお付き合い方、忝く存ずる。【2017年2月17日 藪野直史――六十二歳の第二日目に――】]

 

 

梅が香の句

[やぶちゃん注:森鷗外の「細木香以」の後書きで、芥川龍之介が鷗外に教えた、細木香以の真の辞世の句(鷗外は本文の「十三」で仮名垣魯文の記した「おのれにもあきての上か破芭蕉」を掲げていた)、

 梅が香やちよつと出直す垣隣

である。]

                 
モト山王町

山城河岸四番地 家も地面も賣りて 日吉町十番地に來る 兩家とも火事に燒く 二三日に死す 夜十二時 若紫コトお房に腹がへつた故 むすびを三つ拵へてくれろと云ひ それを食ふ 芝居話をし 「河竹も老いこんだな ××に信乃をさせることはない」 十二時すぎに寐 三時に起上る おフサお上水ですかと云ふ バタリと仆れる 鼾つよし だんだん靜かになる 鍼醫をよぶ 駄目と云ふ 棺は別拵へにしたり 湯灌する時に見れば兩腕に彫ものあり 一は鳥かごの口あき小鳥立つところ(田舍源氏の若紫) 一は牡丹に揚卷の紐のかかれるところ 朱の入りしホリモノ 葬式はさびし 一切伊三郎 願行寺に葬る

[やぶちゃん注:「山城河岸四番地」筑摩書房全集類聚版の「孤獨地獄」の「山城河岸の津藤」の脚注に『中央区銀座五丁目に住んでいた豪商津国屋藤兵衛』とある。の地区内(グーグル・マップ・データ)。

「モト山王町」は「日吉町」の右注。「日吉町」は不詳だが、旧山王町は恐らく現在の銀座八丁目(先の五丁目の南西直近の新橋寄り)のことではないかと思われる。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「若紫」「お房」「おフサ」は香以が吉原から引いた妾(めかけ)の一人で後妻となった女性の源氏名及び呼び名であろう。森鷗外の「細木香以」の「八」に(岩波の選集をもとに漢字を正字化した)、

   *

 香以は暫く吉原に通つてゐるうちに、玉屋の濃紫(こむらさき)を根引(ねびき)した。その時濃紫が書いたのだと云つて「紫の初元結に結込めし契は千代のかためなりけり」と云う短册が玉屋に殘つてゐた。本妻は濃紫との折合が惡いと云つて木場へ還された。濃紫は女房くみとなり、次でふさと改めた。これは仲の町の引手茶屋駿河屋とくの抱(かゝへ)鶴が引かせられたより前の事である。

   *

とあるからである。

「河竹」歌舞伎作家河竹黙阿弥(文化一三(一八一六)年~明治二六(一八九三)年)。

「××」底本新全集にはママ注記がある。

「信乃」滝沢馬琴の「南總里見八犬傳」の八犬士の一人である犬塚信乃(いぬづかしの)か? 河竹黙阿弥作では慶応四(一八六八)年五月市村座初演の「里見八犬傳」(三幕)や明治七(一八七四)年七月東京守田座初演の「里見八犬士勇傳」などがあるが、後者は香以の没後だから、前者ととっておく。黙阿弥は若い頃に馬琴を読み漁った。

「田舍源氏」柳亭種彦の未完の長編合巻(ごうかん)「偐紫田舍源氏(にせむらさきいなかげんじ)」(挿絵・歌川国貞/文政一二(一八二九)年~天保一三(一八四二)年刊)。種彦の筆禍事件(本作が江戸城大奥を描いたと噂され、「天保の改革」によって版木没収となった)とその直後の死によって、第三十八編(百五十二冊)で終わった。時代を室町時代に移し、将軍足利義政の妾腹の子光氏(みつうじ)を主人公とした「源氏物語」の翻案パロディ。

「伊三郎」香以の姉須賀の夫で、山王町の書肆であった伊三郎。香以は晩年をこの夫婦の家に送った。冒頭注で述べた通り、この夫婦の間にできた娘が芥川龍之介の養母儔である。

「願行寺」現在の文京区向丘にある浄土宗の既成山願行寺(がんぎょうじ)。ここ(グーグル・マップ・データ)。香以の墓がある。]

 バラ緒の雪駄 唐棧の道行 五分サカユキ 白木の三尺 襦袢をきし事なし 單ものの重ね着 チヂミでもマオカでも荒磯 足袋をはかず

[やぶちゃん注:「バラ緒の雪駄」江戸時代の上方製の「下り雪駄(せった)」(江戸製のものは「地雪駄」と称した。裏革に「ハ」の字形にそれぞれ三ヶ所、左右六ヶ所を切って、裏に縫って尻鉄(しりがね)をつけたもの)に竹の皮を繩になった鼻緒をすげたものを「ばら緒」と称した(「創美苑」公式サイト内の「きもの用語大全」のこちらを参照した)。

「唐棧の道行」「唐棧」(とうざん)は紺地に浅葱(あさぎ)・赤などの縦の細縞を織り出した綿織物。江戸時代、通人が羽織・着物などに愛用した。呼称は、もと、インドのサントメから渡来したことに由来する。「道行」は和装用のコート風のものの一種。襟を四角に繰り、小襟を額縁に仕立てたもの。「道行きぶり」などとも呼ぶ。

「五分サカユキ」当初、前後が衣服であるから、「ユキ」は「裄」で衣服の背縫いから袖口までの長さのことかとは思ったが、「五分」(一センチ五ミリ)はあまりに短い。「或いはこれは『サカヤキ』(月代)のことではないか?」と思って調べてみたところが、「孤獨地獄」の中に(岩波旧全集より引く)、

   *

大兵肥滿で、容貌の醜かつた津藤は、五分月代に銀鎖(ぎんぐさり)の懸守(かけまもり)と云ふ姿で、平素は好んでめくら縞の着物に白木(しろき)の三尺をしめてゐたと云ふ男である。

   *

とあった。但し、「月代」を「さかゆき」と訓ずるケースもあるので誤記ではない。筑摩書房全集類聚版の脚注に『月代が五分程に伸びたた髪。浪人・病人に扮する芝居の髪』とあって、思わず膝を打った。

「白木の三尺」前の「孤獨地獄」の引用に出る。筑摩書房全集類聚版「孤獨地獄」の脚注に『白木屋で売り出した柔小紋の三尺帯』とある。「白木屋」は「しろきや」と読み、現在の東京都中央区日本橋一丁目にあった江戸三大呉服店の一つ(法人自体としては現在の株式会社「東急百貨店」の前身に当たる)。「柔小紋」は不詳。正絹の小紋のことか。「三尺帯」は男物の帯の一種であるが、この「三尺」は鯨尺の三尺なので、一メートル十四センチ弱である。

「單」「ひとへ(ひとえ)」。

「チヂミ」「縮織(ちぢみを)り」。布面に細かい皺(しぼ)を表した織物の総称。特に、緯(よこ)糸に強撚(つよねり)の糸を用いて織り上げた後、湯に浸して揉み、皺を表したものを指し、綿・麻・絹などを材料とする。夏用。越後縮・明石縮などがある。

「マオカ」「眞岡木綿」で「もおかもめん」のこと。綿織物の一種で現在の栃木県真岡(もおか)市付近並びに茨城県下館市にかけて織られていた丈夫な白木綿の織物で、真岡を集散地とした。浴衣・白足袋の地などに用いた。現在は全国的に生産されている。

「荒磯」荒磯緞子(あらいそどんす)であろう。波間に躍る鯉を金糸で織り出した豪奢な緞子(繻子(しゅす:経(たて)糸と緯(よこ)糸の交わる点を少なくして布面に経糸或いは緯糸のみが現れるようにした織物。布面に縦又は横の浮きが密に並んで光沢があって肌ざわりがよい)の一つで、経繻子(たてしゅす)の地に、その裏組織の緯(よこ)繻子で文様を表わした光沢のある絹織物。室町中期に中国から渡来した。「ドン」「ス」ともに唐音。]

    

ツンボの粗中――旅役者

[やぶちゃん注:「素」は「粗」のミセケチ(見せ消ち)であろうが、「素中」も「粗中」も不詳。その旅役者の芸名か。]

                母10

                千代40

千枝――女の俳諧師       藝者 婆さん

          >越後の人

木和――千代の夫           爺さん

[やぶちゃん注:「10」「40」は正立縦書。

「千枝」不詳。

「木和」不詳。

「千代」不詳。或いは次段の最後に出る香以のところに「居候」する者の一群か。]

津藤 小使ひのない時には鐡の棒(鍔のつきし木刀)を持つて「伊」へ來る(この棒は棺へ入れる) 「向う橫町から叔父さんが來たよ」と云へば 子供 奉公人の terror. 米でも何でも「伊」より仕送る 「伊」へ來れば鰻が好いとか鮨が好いとか云ふ 十圓位小使を持たせてやる 居候三四人ゐない事なし

[やぶちゃん注:「津藤」冒頭注で出した通り、細木香以の俗称の一つ。

「伊」は伊三郎。

terror」「恐怖の種」の意。

「十圓」明治初期(香以は明治三(一八七〇)年没)のそれは現在の三十万円から四十万円は優にする。

「居候三四人ゐない事なし」香以の気風から、宿無しの芸人や俳諧師、壮士やヤクザ者が溜まっていたものであろう。]

                   
おせき

吉原の河東節の老太夫連中(三味線びきは婆藝者)來り 「伊」方にて語る これは「伊」に馳走や何か持たせる爲なり 「津」竹の棒にて老太夫のつけ髷をとる 「ダンナ およしなんしよ」と云ふ(伊の妻河東を語る)

[やぶちゃん注:「河東節」(かとうぶし)は浄瑠璃の流派名。十寸見(ますみ)河東(江戸太夫河東)が享保二(一七一七)年二月に江戸で始めた代表的な江戸浄瑠璃。語り口は上品で力強く、三味線もまた、強い弾き方を特徴とする。

「おせき」は「婆藝者」の名であろう。

「伊の妻」芥川龍之介の養母儔の母で香以の姉須賀。]

毛氈をひき 見臺をおき 太夫二人 三味線ひき一人 「助六」などかけ合ふ 百目蠟燭 眞鍮の燭臺 うちのものだけ(親夫婦兄弟三人 婆や二人 店の番頭一人 若いもの四人 小僧二人) 他の家のものを呼ばず 津が何をするかわからぬ故

親類の鳥羽屋(三村淸左衞門 十人衆 義太夫に凝る 三味線ひきは花澤三四郎)「伊」の家に床をかけ 義太夫の揃ひをなす 三四郎の弟子は皆旦那衆 龍池と津伊と相談し 河東節をよぶこととす されど向うの義をきくも詮なしとて三人にて義太夫の急稽古す 鳥羽屋へは祕ミツ 野澤語市を師匠 阿古屋琴責め 三人及び三味線の名貼り出す 三人 肩衣をつけ 龍池 重忠 伊 岩永 津 阿古屋 をやる 義太夫の連中のうち これをやる人椽側よりころげ落つ 「こちのや」と云ふ狂歌師なり

[やぶちゃん注:「鳥羽屋」「三村淸左衞門」香以の父龍池(龍也が本名らしい)の後妻(香以の母かよではない。かよはそれ以前に離縁されている)の実家の継嗣であろう。森鷗外の「細木香以」に『鳥羽屋三村淸吉の姉すみを納(れ)て後妻とし』とあり、また、この直後、香以=『子之助は』数え二十歳の『年十二月下旬に繼母の里方鳥羽屋に預けられた』とある。

「花澤三四郎」不詳。

「龍池」既に述べた通り、香以の父。

「津伊」香以(「津」藤)と、彼の姉須賀の夫「伊」三郎。

「義」義太夫。

「野澤語市」不詳。

「阿古屋琴責め」浄瑠璃「壇浦兜軍記(だんおうらかぶとぐんき)」(全五段。文耕堂と長谷川千四の合作。享保一七(一七三二)年大坂竹本座初演)の三段目口(くち)の通称。平家の残党平景清の行方を探す鎌倉方の畠山重忠が、遊女の阿古屋に琴・三味線・胡弓を弾かせ、その音色が乱れていないことから、嘘をついていないことを知るという場面。

「肩衣」「かたぎぬ」。ここは太夫が着る裃(かみしも)のこと。

「龍池 重忠 伊 岩永 津 阿古屋」これは義太夫で、「龍池」が畠山「重忠」を演じ、「伊」三郎が「岩永」(重忠とともに景清を探索する岩永左衛門)を、「津」藤香以が「阿古屋」を演じた、ということを指す。

『「こちのや」と云ふ狂歌師』不詳。

 冒頭注で述べた通り、以下の部分は、新全集の原資料になく、旧全集のものであるが、ここまでの原資料や旧全集の「手帳」の電子化で判明した通り、芥川龍之介は句読点を実際には附していないケースが殆んどである。されば、旧全集のそれらも総て除去して、読点は一字空けとした。総て一字下げはママである。]

 

     *

 

 町を通ると叫聲

 瓶にさした花ありと云ふ なし かへればある

 窓ガラスの外に空中に寢た人

 メヂアム・妙な本の line をよむ

[やぶちゃん注:「メヂアム」“medium”なら、伝達・通信・表現などに関わる「手段・媒体・機関・媒介物・媒質・中間物」の意。“Median”なら「中央値」(有限個のデータを小さい順に並べたとき中央に位置する値)であるが、芥川龍之介は後者の「メジアン」を「メヂアム」とは表記しないように私は思う。

line」文字列・行・短詩。]

 家中が水になつた

 床にはつてゐる男を見る

 收容所の俘虜(支那人)日本軍人の死を見る

 足のかかとでものを見る★

Kakatotetyouhoi

[やぶちゃん注:★の部分に足先を上にした小さな上記の手書き図が入る。]

 外を通る 實在せざる stone-balustrade を見る 後數日實在する

[やぶちゃん注:「stone-balustrade」「石製欄干」。

 これらは――あたかも――アンドレイ・タルコフスキイの映像のようではないか!!!――


 

2018/02/15

芥川龍之介 手帳12 《12―22~12-24》 / 手帳12~了

《12―22》

[やぶちゃん注:以下、最後まで、総てが住所記録欄となり、実際に住所と名前(姓だけが殆んど)となるので、気になる一部のみ(姓名フルに書かれたものは総てに亙って検証した)に注をすることとする。その場合は、今までのようには注の後を一行空けないこととした。中には、芥川龍之介の親しい友人の誰それではないかと思われるありきたりな姓も含まれているが、書簡の記載の住所照らし合わせて一致を見ないものも多いので、比定推定注はごくごく一部に限ってある。]

○榛名  近藤

○阿蘇(神戸氣附)  淸水

[やぶちゃん注:「神戸」の地名気付で「阿蘇」という人物に出すと、「淸水」という人物に渡るというのか? 意味がよく判らない。]

M. 1e Prof. R. R. l'Ecole normale supérieure Paris

[やぶちゃん注:フランスのエコール・ノルマル・シュペリウール(École Normale Supérieure:「高等師範学校」の意)の教授である。]

○京都萬里小路一條上ル 關内上内方  菊地

[やぶちゃん注:菊池寛であろう。彼は明治四三(一九一〇)年に第一高等学校第一部乙類に入った同期には芥川龍之介(但し、菊池は四つ年上。これ以前、東京高等師範学校で授業をサボっていたことから除籍処分を受け、明治大学法科に入るも、第一高等学校入学を志して中退、徴兵逃れのために早稲田大学に籍のみを置いて受験勉強するといった経緯があった)や井川恭(一高卒業後は同じ京大に進んだ芥川龍之介の盟友で後の法学者恒藤(婿養子で改姓)恭)がいたが、卒業直前に「マント事件」(菊池寛が友人が盗んだと推定されるマントを質入れし、窃盗の犯人の身代わりとなったもの)原因となって退学(大正二(一九一三)四月)、その後、友人成瀬正一(芥川の友人でもあった)の実家から援助を受け、京都帝国大学文学部英文学科に入学、大正五(一九一六)年七月に京大を卒業している。本手帳の記載推定上限は、大正五(一九一六)年或いは前年度末(東京電力株式会社の前年大正四(一九一四)年発行の手帳で、一九一五年のカレンダーなどが附されてある)からであるから、この住所欄の初めの方に菊池寛の京都の下宿先が書かれていても、何ら、不思議はない。]

麻布六本木31 長岡 Jones

[やぶちゃん注:31」は正立縦書。以下、二桁半角表記のそれは総て正立縦書なので本注は略す。

Jones」既出既注のアイルランド人の友人でジャーナリストの Thomas Jones(一八九〇年~一九二三年)。岩波版旧全集の第七巻月報に所収する長岡光一氏の「トーマス・ジョーンズさんのこと」によれば(光一氏の父君長岡擴氏は大蔵商業(現・東京経済大学)の英語教師でジョーンズを自宅に下宿させていた)、大正四(一九一五)年の来日の際には、『新橋驛まで出迎え』、『六本木の家について、二階で皆と話をしている時、雷鳴と夕立が上って遠くに青空がみえたと記憶しているから多分夏のころであったと思う』(下線太字やぶちゃん)と述べておられるから、間違いない。大正八(一九一九)年にはジョーンズは長岡家を出て、『麻布三の橋近くのペンキ塗りの洋館に移』ったともある。彼をモデルとした名品「彼 第二」の注で、私は、芥川龍之介とジョーンズとの邂逅を大正五(一九一六)年の冬に措定したが、これは作品の中の描写によるもので、大正五(一九一六)年年初であっても何ら、問題はない(鷺只雄氏の年譜は同年冒頭の部分に、彼らが知り合ったという漠然とした記載がある)。しかもそうすると、前の菊池の住所記載の時期とも矛盾なく一致するからである。]

麻布不二見町31 Playfair

[やぶちゃん注:「Playfair」(プレイフェア)というのは外国人の姓として実際に存在する。]

淺草駒形町61  久保田

○麹町區飯田町三丁目十三番地 中島  市川

○京都上京區聖護院町上リ■■  洛陽館5

[やぶちゃん注:「■■」は底本の判読不能字。]

○下谷谷中淸水町十二  依田誠

[やぶちゃん注:「依田誠」(生没年未詳)芥川龍之介の府立第三中学校時代の同級生。二人の担任で英語教師であった広瀬雄(たけし 明治七(一八七四)年~昭和三九(一九六四)年)と龍之介の三人で明治四一(一九〇八)年(或いは前年)の夏休み七月、関西旅行に出かけ、高野山などを訪れている。彼の名は、芥川龍之介の怪談蒐集録「椒圖志異」の「怪例及妖異」の「4」及び「魔魅及天狗」の「3」で、怪談話者(提供者)としても出る(リンク先は私の非常に古い電子テクスト)。]

○府下柏木四三三 聖書學院前  西條

本郷西片町1ノ三 本田  小宮

○横濱市  矢代

○大森不入斗402  加藤

[やぶちゃん注:「不入斗」「いりやまず」と読む。東京府荏原(えばら)郡旧入新井町(いりあらいまち)現在の大田区大森北付近。]

○本郷森川町四七 最上  山宮

○牛込餘丁町一〇九  森口

[やぶちゃん注:東京都新宿区余丁町(よちょうまち)として現存する。]

○〃〃津久戸九 廣井家方  日夏

[やぶちゃん注:後の詩人で英文学者の日夏耿之介(明治二三(一八九〇)年~昭和四六(一九七一)年)であろう。彼は芥川龍之介より二歳年長である(早稲田大学英文科・大正三(一九一四)年卒)が、芥川龍之介は第一短編集「羅生門」(大正六年五月二十三日発行)を彼に贈呈しており(大正六年六月十六日佐藤春夫宛書簡・旧全集書簡番号二九五)、日夏は大正六年六月二十七日の『羅生門』出版記念会にも出席している。]

○神奈川縣三浦久里濱ペルリ  小川傳六

[やぶちゃん注:ペリー上陸記念碑(明治三四(一九〇一)年七月十四日に除幕。太平洋戦争中の昭和二〇(一九四五)年二月八日に引き倒され、その半年後の敗戦から三ヶ月後の十一月に再建)のある、現在の神奈川県横須賀市久里浜七丁目附近と考えられる。「小川傳六」なる人物は不詳。機関学校時代の知人か。]

〇千葉縣東葛飾郡市川町字板木三千二百二十  鈴木定吉

[やぶちゃん注:「鈴木定吉」不詳。同姓同名の児童文学者がいるが、明治四二(一九〇九)年生まれで若過ぎる。]

○府下大久保西大久保四九二  矢内原

[やぶちゃん注:経済学者で後の東京大学総長となる矢内原忠雄(明治二六(一八九三)年~昭和三六(一九六一)年)である可能性を否定出来ない。彼は芥川龍之介と一高の同期であり、無教会主義キリスト教の指導者としても知られ、後に出る室賀文武とも知り合いであったからである。但し、彼は大正六(一九一七)年に東京帝国大学法科大学政治学科を卒業後、住友総本店に入社するや、別子銅山に配属されており、大正九(一九二〇)年に母校の経済学部に呼び戻され、助教授となるも、同年秋には欧州留学に出ており、東京にいた時期が非常に限定されるから、そうだとも言えない。]

○本郷森川町四七 最上方  山宮

○小石川スワ町三七 番所  久米

○岡山門内一一〇二 崇雅院  平塚

[やぶちゃん注:「崇雅院」は目を引く固有名詞であるが、全く不詳である。]

○本所淸水町二二  平松

[やぶちゃん注:後に芥川龍之介が帝国ホテルで心中未遂をする芥川の妻文子の幼馴染みであった平松素麻子(ひらまつすまこ 明治三一(一八九八)年~昭和二八(一九五三)年)である可能性は、住所からみて、極めて低い。また、彼女が「秋」(大正九(一九二〇)年四月『中央公論』)の情報(女性の手紙の書き方・髪型の種類など)提供者として妻文によって紹介されて、急速に親しくなる時期は本手帳の推定下限より後である。寧ろ、芥川龍之介の幼少・少年期の「本所」であるから、その頃の友人か知人である可能性が高い。]

○東糀町飯田町三ノ一一三 中島  市川

《12―23》

○芝區下高輪五十五  塚本

〇本郷千駄木五七  山本

○中澁谷四二四  ■■

[やぶちゃん注:「■■」は底本の判読不能字。]

○橫濱住吉町二ノ三二  矢代

○千葉縣送船隊第六中隊  長島

○松江南殿町内中原御花畑一六七  井川

[やぶちゃん注:盟友井川恭の実家。]

○田端西大通五三三  廣瀨

○牛込天神町一三  松浦

○宇和島町神田川原112  藤岡

○小石川區小日向臺町二ノ二七  奧野

○本郷元町一ノ三 安達  平塚

○森川町一谷三〇三  山本

○駒込曙町十一 はノ八號  奧野

〇牛込廿騎町卅 純勝舍  矢羽

○白山御殿町110  眞心寮■■

[やぶちゃん注:「■■」は底本の判読不能字。]

○上海四川路三物  西村

[やぶちゃん注:芥川の府立三中時代の同級生の友人西村貞吉(ていきち 生没年未詳)でんはなかろうか。東京外国語学校(現在の東外語大学)卒業後、各地を放浪の後、中国安徽省蕪湖唐家花園に居を定めていた。芥川龍之介は中国特派の際に彼に逢っており、「長江游記 一 蕪湖」の冒頭から実姓名で登場している(リンク先は私のブログ版。「長江游記」全篇サイト版はこちら)。帰国直後の大正一〇(一九二一)年九月に『中央公論』に発表した「母」は、蕪湖に住む野村敏子とその夫の物語であるが、この夫は明らかに彼をモデルとしている。]

○目白臺高田村松木田四八七  平田義雄

[やぶちゃん注:「平田義雄」不詳。]

田バタ吉田牛ノ宮田バタ方

○相州鎌倉坂の下十一  奧野

○小石川戸崎町一二  山宮

○本郷五 廿  松岡

○椛町區須田町6-19  紀愛

[やぶちゃん注:「紀愛」は苗字としては特異だが、読みさえ不詳。「きあい」か。]

○本郷區曙町十三 はノ八  オクノ

○府淀橋町字柏木湖  石田三治

[やぶちゃん注:「石田三治」明治二三(一八九〇)年~大正八(一九一九)年)はトルストイの研究で知られる評論家。北海道に生まれで、青森県七戸町で育った。東京帝国大学哲学科(美学専攻)を卒業、日本基督教青年会同盟主事を務める傍ら、ヨーロッパ文化に対する博識を駆使し、月刊誌『トルストイ研究』を始めとして、『新潮』『帝国文学』『心理研究』『新人』『日本評論』『大学評論』『開拓者』『六合雑誌』等に、客観的且つ実証的な論文及び随想を精力的に発表した。芥川龍之介・菊池寛・豊島与志雄・内村鑑三・南原繁・矢内原忠雄といった著名な作家・政治家・学者らとの多彩な交友関係があったが、病に倒れ二十九歳で夭折した。著書に「トルストイ書簡集』」(大正七(一九一八)年新潮社刊)や「全トルストイ」(大正八年大鐙閣刊)などがある(以上は「青森県近代文学館」公式サイト内のこちらのページを参照した)。]

○本所小泉町30  山内

○麻布市兵工町1の7  長岡 J.

〇四谷北伊賀町17  山宮

○小石川大塚仲町廿七  渡邊半

Schinbashi Komparu Terajimaya Kyobashi Minami Kinroku 1 Tateishi K.

[やぶちゃん注:それぞれ「七番地」「金春」「寺島屋」「京橋」「南」「金六 一」(?)「立石」(最後のイニシャルは名前か)か? この内、南金六町(みなみきんろくちょう)は当時、東京府東京市京橋区に存在した町丁名である。しかもここの旧十四番地と旧十五番地内には「金春屋敷跡」(江戸幕府直属の能役者として土地や俸禄を与えられていた(他に観世・宝生・金剛の四家)の中で最も歴史のある金春家の屋敷跡。現在も「金春通り」として名が残る)があった(現在の銀座八丁目七番五号及び十三号)。]

○西片町 10(下919  滝田哲太郎

[やぶちゃん注:「滝田哲太郎」は芥川龍之介も多くの作品を発表した『中央公論』の名編集長として知られ、多くの新人作家を世に送り出した滝田樗陰(明治一五(一八八二)年~大正一四(一九二五)年)の本名。]

○糀町下六番町27  林原耕三

[やぶちゃん注:「林原耕三」(明治二〇(一八八七)年~昭和五〇(一九七五)年)は英文学者で俳人。福井県出身で旧姓は岡田。在学中から夏目漱石に師事し、芥川龍之介らを漱石に紹介したことで知られる。東京帝国大学英文科で芥川龍之介の先輩(七つ年上)であったが、大正七(一九一八)年卒と、年下の芥川らが東大を卒業してもなお、数年も在学したことから、「万年大学生」と呼ばれた。臼田亜浪に俳句を師事し、俳号は耒井(らいせい)と称した。大正一四(一九二五)年に松山高等学校教授となり、その後、台北高等学校教授・台湾総督府在外研究員として欧米に滞在、帰国後は法政・明治・専修・東京理科大学の教授を務めた(以上はウィキの「林原耕三」に拠った)。]

〇本郷彌生町3 はノ三  後藤末雄

[やぶちゃん注:「後藤末雄」(明治一九(一八八六)年~昭和四二(一九六七)年)は作家でフランス文学者。芥川龍之介からは『新思潮』の先輩に当たる。東京生まれ。ウィキの「後藤末雄」によれば、『「金座の後藤」と言われる工芸の旧家に生まれ、幼くして母を失う。府立三中、一高を経て、東京帝国大学英文科在学中、和辻哲郎、谷崎潤一郎、木村荘太らと』、第二次『新思潮』の『創刊に参加し、小説家として出発』した。大正二(一九一三)年、東大仏文科を卒業。華々しくデビューした谷崎に対し、他の同人が創作から脱落していく中』、森鷗外らの『愛顧を得て創作を続け』た。大正六(一九一七)年から翌年にかかけて、大作「ジャン・クリストフ」の初訳を刊行したが、『同時期に創作の』方の筆は絶った。大正九(一九二〇)年、『永井荷風の世話で慶應義塾の教員となり』、後、『慶應義塾大学教授』に就任した。昭和八(一九三三)年の博士論文「支那思想のフランス西漸」では、『儒教のフランス近代思想への影響を解明して、比較思想史の先駆的研究となった』とある。]

○東片町111  豐島

[やぶちゃん注:作家でフランス文学者となった豊島与志雄(とよしまよしお 明治二三(一八九〇)年~昭和三〇(一九五五)年)の可能性が高い。東京帝大在学中の大正三(一九一四)年に芥川龍之介・菊池寛・久米正雄らと第三次『新思潮』を刊行、その創刊号に処女作「湖水と彼等」を寄稿し、注目された。]

○谷中初音町4の141 大久保方  金子保

○小石川大塚仲町廿七  渡邊

〇谷中土三崎南町40 保阪新三郎方

○御宿六軒町26

○橫濱市南太田町二の一六六 米澤方  山内

○府下千駄ヶ谷544 渡邊  蔭山

○牛込矢來町三

〇駒込林町二二  堀義二

[やぶちゃん注:同姓同名の彫刻家はいるが、同一人物かどうかは分らぬ。]

〇京橋加賀町18  新公論社

○本郷追分町19  大學評論社

○東大久保23  室賀文武

[やぶちゃん注:「室賀文武」(むろがふみたけ 明治元或いは二(一八六九)年~昭和二四(一九四九)年)は芥川龍之介の幼少期からの年上(二十三歳以上)の知人。後に俳人として号を春城と称した。山口県生まれ。芥川の実父敏三を頼って政治家になることを夢見て上京、彼の牧場耕牧舎で搾乳や配達をして働き、芥川龍之介が三歳になる頃まで子守りなどをして親しんだ。しかし明治二八(一八九五)年頃には現実の政界の腐敗に失望、耕牧舎を辞去して行商の生活などをしつつ、世俗への夢を捨て去り、内村鑑三に出逢って師事し、無教会系のキリスト教に入信した。生涯独身で、信仰生活を続けた。一高時代の芥川と再会して後、俳句やキリスト教のよき話し相手となった。芥川龍之介は自死の直前にも彼と逢っている。俳句は三十代から始めたもので、彼の句集「春城句集」(大正一〇(一九二一)年十一月十三日警醒社書店刊)に芥川龍之介は序(クレジットは先立つ大正六年十月二十一日。これは室賀が出版社と揉めたためである。なお、その「序」でも芥川龍之介は彼の職業を『行商』と記している)も書いている。晩年の鬼気迫る「歯車」の(リンク先は私の古い電子テクスト)、「五 赤光」に出る「或老人」は彼がモデルであり、晩年の芥川にはキリスト教への入信を強く勧めていた。]

○海岸通 野間榮三郎方

○本郷區駒込千駄木町70 池内藤兵エ方  上瀧

[やぶちゃん注:「上瀧」龍之介の江東小学校及び府立三中時代の同級生上瀧嵬(こうたきたかし 明治二四(一八九一)年~?)であろう。一高には龍之介と同じ明治四三(一九一〇)年に第三部(医学)に入り、東京帝国大学医学部卒、医師となって、後に厦門(アモイ)に赴いたと関口安義氏の新全集の「人名解説索引」にある。龍之介の「學校友だち」では巻頭に『上瀧嵬 これは、小學以來の友だちなり。嵬はタカシと訓ず。細君の名は秋菜。秦豐吉、この夫婦を南畫的夫婦と言ふ。東京の醫科大學を出、今は厦門(アモイ)の何なんとか病院に在り。人生觀上のリアリストなれども、實生活に處する時には必ずしもさほどリアリストにあらず。西洋の小説にある醫者に似たり。子供の名を汸(ミノト)と言ふ。上瀧のお父さんの命名なりと言へば、一風變りたる名を好むは遺傳的趣味の一つなるべし。書は中々巧みなり。歌も句も素人並みに作る。「新内に下見おろせば燈籠かな」の作あり』とある。]

○永井祐之

[やぶちゃん注:不詳。]

《12―24》

○京都市上京區吉田町 神前阪吉野館

[やぶちゃん注:以上で「手帳12」は終わっている。]

芥川龍之介 手帳12 《12―21》

《12―21》

Croce : Æthetic as science of expression & general linguistics

[やぶちゃん注:ヘーゲル哲学と〈生の哲学〉を結びつけ、ヨーロッパ思想界に大きな影響を与えたイタリアの哲学者・歴史学者ベネデット・クローチェ(Benedetto Croce 一八六六年~一九五二年)の一九〇二年の著作L'Estetica come scienza dell'espressione e linguistica generale(「表現の科学及び一般言語学としての美学」)の英訳(以上はウィキの「ベネデット・クローチェ」を参考にした)。英訳全文をこちら(PDF)で読める。芥川龍之介よ、凄い時代になったろ?]

 

Stevenson Thrawn Janet

[やぶちゃん注:「ジキル博士とハイド氏の奇妙な事件」(The Strange Case of Dr. Jekyll and Mr. Hyde(一八八六年出版)で知られるイギリスの作家ロバート・ルイス・バルフォア・スティーヴンソン(Robert Louis Balfour Stevenson 一八五〇年~一八九四年)が一八八一年に発表した短篇怪談「捩じけ首のジャネット」。彼の作品の中でも秀逸のホラーである。]

 

6月14

[やぶちゃん注:今までの記載から見て、恐らくは、予定していた洋書の注文日。]

Russe1, Engravings of W. B.

同上

[やぶちゃん注:編者注で『W.B. William Blake の略』とある。イギリスの詩人で画家(銅版画家)として知られるウィリアム・ブレイク(William Blake 一七五七年~一八二七年)の「Engravings」はここでは銅版画。イギリスの美術史家アーキバルド・ジョージ・ブラームフィールド・ラッセル(Archibald George Blomefield Russell 一八七九年~一九五五年)の一九一二年の著作。]

 

Naidu : Golden Threshold

 Mysteries of Paris   Eugéne Sue

 Wanderring Jew Eugéne Sue

Thomas Y. Crovell & Co. (The Popular Library of Notable Books)

[やぶちゃん注:二つの「{」は底本では大きな一つ。

Naidu」インドの女流詩人で政治(活動)家でもあったサロージニー・ナーイドゥ(Sarojini Naidu 一八七九年~一九四九年)。個人ブログ「トーキング・マイノリティ」のインドの女性活動家たちによれば、彼女は『ベンガル出身のバラモン女性で、南インドの非バラモンと恋愛結婚』したが、当時、『異なるカースト間の結婚でも』、『女のカーストが高い場合は逆毛婚と呼ばれ』て、『特に忌み嫌われたにも係らず、自分の意思を貫いた』人物で、『イギリス留学中から詩人として有名とな』り、『ガンディーの信奉者として民族運動に参加』、一九二五年の『インド女性初の国民会議派議長に選出され、インドにおける女性運動の指導者でもあった』とある。彼女はその詩によって「インドのナイチンゲール」と呼ばれたという。

Golden Threshold」(「黄金の敷居(戸口)」)は彼女の一九〇五年にイギリスで刊行した詩集。“Internet Archive”で英語原典が読める。

Mysteries of Paris」「Eugéne Sue」はフランスの小説家ウージェーヌ・シュー(Eugène Sue 一八〇四年~一八五七年:ウィキの「ウージェーヌ・シューによれば、パリ生まれで、父はナポレオン軍の軍医として知られ、ジョゼフィーヌ皇后が名付け親となったとされる。後、自身も海軍の軍医として働き、一八四二年から翌年にかけて新聞で連載したこの「パリの秘密」(Les Mystères de Paris)で絶大な人気を博した。同作は『パリの貧民や下層社会を描いた社会主義的な作品で、当時』、『その人気はアレクサンドル・デュマ』に匹敵したが、『大衆小説作家とみなされ、その後』は『あまり読まれなくなった』とある(下線やぶちゃん)。

Wanderring Jew」「彷徨(さまよ)えるユダヤ人」。ウージェーヌ・シューの一八四四年から翌年にかけて発表された小説。芥川龍之介には同伝承を素材とした、大正六(一九一七)年六月『新潮』発表の、ペダンチックな随想「さまよえる猶太人(ゆだやじん)」(ルビは以下に示した同作本文に拠る)があり、その冒頭で(岩波旧全集を用いた)、

   *

 基督教國にはどこにでも、「さまよへる猶太人(ゆだやじん)」の傳説が殘つてゐる。伊太利でも、佛蘭西でも、英吉利でも、獨逸でも、墺太利でも、西班牙でも、この口碑が傳はつてゐない國は、殆一つもない。從つて、古來これを題材にした、藝術上の作品も、澤山ある。グスタヴ・ドオレの畫は勿論、ユウジアン・スウもドクタア・クロリイも、これを小説にした。モンク・ルイズのあの名高い小説の中にも、ルシフアや「血をしたたらす尼」と共に「さまよへる猶太人」が出て來たやうに記憶する。最近では、フイオナ・マクレオドと稱したウイリアム・シヤアプが、これを材料にして、何とか云ふ短篇を書いた。

   *

と、彼の名(ユウジアン・スウ)を出している。同随想は「青空文庫」ので読める(但し、新字新仮名)。

Thomas Y. Crovell & Co. (The Popular Library of Notable Books)」最初は出版社名で、括弧内は叢書名(「著名書の大衆図書館」?)であろう。]

 

Félicien Rops: Verlag von Maroquardt & Co. Berlin

[やぶちゃん注:ベルギーのエッチングやアクアチント技法を得意とした版画家で、世紀末の象徴主義やデカダン派の文学運動と関係を持ち、そうした作家たちの詩集にイラストを好んで描いたフェリシアン・ロップス(Félicien Rops 一八三三年~一八九八年)の画集か評論書であろう。後半はベルリンの書店であるが、恐らくは「Maroquardt」の綴りはは「Marquardt」が正しい。]

 

○7月15

[やぶちゃん注:同じく注文予定日と推測される。]

 

Ricket : Pages on Art

Ricket : Gustave Moreau

Ricket : Degas

[やぶちゃん注:綴りが違うが、イギリスのイラストレーターとしてビアズリーと並称される画家チャールズ・リッケッツ(Charles de Sousy Ricketts 一八六六年~一九三一年)ではなかろうか? 英文のグーグルブックスの複数の本の注リストに、彼と思しい名とともに一九一三年の著作としてPages on Art、一八九三年の著作としてA Note on Gustave Moreauを見出せるからである。「Degas」はフランスの印象派の画家エドガール・ドガ(Edgar Degas 一八三四年~一九一七年)であろう。]

 

Butcher : Some Aspects of Greek Genius

[やぶちゃん注:アイルランドの古典学者で政治家でもあったサミュエル・ヘンリー」ブッチャー(Samuel Henry Butcher 一八五〇年~一九一〇年)の一九〇四年の著作(「ギリシャ精神の諸相」)。]

 

Andreev, The sorrow of Belgium Mac millan

[やぶちゃん注:ロシアの作家で第一革命の高揚とその後の反動の時代に生きた知識人の苦悩を描き、当時、世界的に有名な作家となったレオニド・アンドレーエフ(Леонид Николаевич Андреев:ラテン文字転写:Leonid Nikolaevich Andreev 一八七一年~ 一九一九年)の一九一七年(?)の戯曲「ベルギーの哀しみ」(侵攻するドイツに果敢に戦ったベルギーを讃えたもの)。最後は書店名。]

 

308 急 1932

[やぶちゃん注:意味不明。]

ブログ・アクセス1060000突破+満61歳誕生日記念 梅崎春生 遠足

 

[やぶちゃん注:昭和三五(一九六〇)年九月号『新潮』に発表。

 底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集」第四巻を用いた。

 作中、教師の音頭で歌われるのは軍歌「元寇」。明治二五(一八九二)年に発表された旧日本陸軍軍楽隊士官永井建子(けんし(男性) 慶応元年九(一八六五)年~昭和一五(一九四〇)年)の作詞・作曲。敗戦まで頻りに歌われた。

 主人公の家庭設定は梅崎春生のそれとは全く異なるが、ロケーションは福岡と考えてよい。それが軍歌「元寇」と響き合うからであり、「大きな寺」は不詳だが、出てくる砂浜と松原は福岡市西区姪浜の白砂青松の景勝地で歌枕でもある、元寇防塁跡がある「生の松原(いきのまつばら)」(神功皇后が新羅遠征の折りに松を植えたとされる)と考えられる。

 本テクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが本日2018年2月15日に1060000アクセスを突破した記念と、たまたま本日が私の満61歳の誕生日であることの記念として公開した。【2018年2月15日藪野直史】]

 

 

   遠足

 

 朝は曇って、五月にしては寒かった。

 お母さんははやばやと起きて、台所のかまどの前にしゃがんで、火吹竹などを使って、御飯をたいていた。お母さんの火吹竹の使い方はぎごちない。竹の長さをもて余しているような恰好で、また吹き込む息がどこかで洩れているらしく、へんなところで灰神楽(はいかぐら)が立ったりする。ふだんお母さんは御飯をあまりたかないのだ。たくのは働き女のおふさで、今日はおふさは出来立てのカマボコとか、その他おかずの材料を買いに出かけている。

 今日は僕の遠足の日なのだ。

 だからおかずも、タクアンやそこらで間に合わせるわけには行かない。質屋というれっきとした商売をやっているのに、貧弱なおかずを持たせてやっては、こけんにかかわるというのがお母さんの考え方で、そのくせ誰も見ていない家の中での食事は、たいへん質素だった。かまどの下はちろちろと火がふき、煙は土間を這ってしずかに動いている。釜からぶくぶくと泡がはみ出して来たので、お母さんほあわててかまどの薪を引いた。火消桶の中で、それらはじゅうと音を立てながら、いがらっぽい煙をはいた。上り框(かまち)に立っている僕に、お母さんはつんけんした声で言った。

 「何をしてんだよ。早く顔を洗う!」

 僕は土間に降りて、顔を洗った。うちの土間は広かった。内井戸もあったし、かまどもあるし、その他水がめとか流しとか、いろんな道具が置いてあるのに、まだがらんとした余地がある。井戸の水はつめたかった。僕は耳のうしろを特に念入りに洗った。子供が顔を洗ったかどうか、どのくらい丁寧に洗ったかそそくさと洗ったか、耳のうしろを見れば判るのだ。妙なところが標準になると思うが、大人たちがそう言うのだから仕方がない。

 おふさが買物から戻って来た。なぜか足音を忍ばせるようにして、火の消えた土間の薄暗がりに向って、おびえた声で言った。

「ごりょんさん。こんなのが裏木戸に――」

 おふさは折りたたんだ紙片をひらひらさせた。

 お母さんはしゃがんだ姿勢から立ち上って、立っていた僕をはね飛ばすような動きで、つかつかとおふさに詰め寄った。

 「何があったんだい。何が?」

 答えも待たずに、おふさからその紙片を引ったくった。がさがさと拡げて、窓から入る外光にさらし、眼を近づけた。眠がもう吊り上っている。お母さんがいらいらしているわけは、僕には判っている。お爺さんの姿が一昨日から見えなくなったせいだ。僕は呼吸を詰めてお母さんの顔を見ていた。

「まあ。お前んとこの爺だなんて――」

 お母さんの眼は寄り眼になって、その眼が上下に忙しく動いた。唇の端を嚙んだ。じろりとおふさの顔を見ると、上り框に飛び上り、お父さんの部屋の方にかけて行った。お母さんは肥っているくせに、動作がはやい。学校に参観に来ると、友達が、お前んちのオートバイが来たぞ、などと冗談を言う。お母さんがかけて行ったあと、おどろおどろとした空気が残った。しばらくして、僕はおふさに訊ねた。

「あの紙、どこにあったんだ~?」

「裏木戸の桟(さん)にはさまっていた」

「そして、何て書いたった?」

「読みませんよ、あたしは」

 もうウソを言っている。読まないわけがないじゃないか。そう思って、僕がにらみつけると、

「くねくねしたむつかしい字でしたよ」

 そう言い捨てて、おふさはかまどの方に歩き、釜の蓋をとって、ちよいと中の具合をのぞいた。そこらの薄暗がりから、がさごそと七厘を引っぱり出した。

 向うの部屋から、妹がぐずる声が聞えて来る。

 来年はもう小学校だというのに、妹は寝起きが悪くて、宵っぱりで、いつも朝はねむたがって、泣いたりぐずったりするのだ。それを叱りつけるお母さんの声がした。いつもの声と違って険があるので、ぐずり声は渋々やんだ。

 

 朝食の用意がととのった。それで皆茶の間にあつまった。ふだんならお爺さんの箱膳をつくって、部屋に届けねばならないのだが、今日はお爺さんがいないからその必要はない、僕の弁当をお母さんはつくるつもりだったが、さっきの手紙で気分をこわしたのだろう。弁当つくりはおふさにまかせて、もっぱら茶の間の給仕役に回っていた。お父さんとお母さんは低い声で会話を交していた。お父さんの声は心配げな声というより、何かうんざりした、迷惑そうな声だった。もっともお父さんは、酔っぱらった時を別にすれば、いつもそんな声を出す。営業所に坐っていて、お客が質種(しちぐさ)を持って入って来ると、ひどく気のない迷惑そうな声で応対する。質屋という商売は、調子のいい声を出しては、高貸しするおそれがあると、ある時酔ってお父さんが説明して呉れたのだが。

「何度家出すれば、気がすむんだろうな。実際しようのないお爺さんだなあ」

 お父さんは何だか気のない声を出す。ほんとに気がないのだ。迷惑声を出すのは、実際に迷惑しているからだ。

「誰だろう、あんな変な手紙を書いたのは? 爺さんの身柄は預っただなんて。身柄を預って、どうしようというんだろう?」

 お父さんは顔をしかめる。やせているから、しかめると、頰骨が目立つ。

「今日の御飯は、少しシンがあるなあ」

 お母さんの火の引き方が早通ぎたし、むれている最中におふさが蓋をとったりしたためだ。

「この間から、三度目ですよ、これで」

 飯のことでなく、家出のことだ。

「よそ様に恥かしくてしようがない。まるでお爺さんを虐待しているようで――」

「虐待されているのは、むしろおれたちだよ」

 お父さんは箸を置いて、爪楊枝(つまようじ)を取り上げた。御飯は一杯しか食べなかった。

「警察に届出無用だなんて、黙ってりや警察に届けるとでも思ってるのか――」

 お父さんは小首をかしげて、爪楊枝をしきりに使った。今までの例では、放っといてもお爺さんは三四日目あたりに、とことこと戻って来た。届けなくても、戻って来るから、誰にも届ける必要はない。こつそりと秘密にして置けばいいのだ。しかし、秘密にしても、お爺さんの家出の噂は、すぐに近所にひろまってしまう。それがお母さんの嘆きの種なのだ。

「しかし今度は、へんな男につかまっているらしいな。お爺さんがあんな手紙を書くわけがない」

「お爺さんの筆跡とは違うし――」

 何気なく御飯を嚙むふりをしながら、僕は聞き耳を立てていた。つまり、あの手紙を裏木戸にはさんだのが、そのお父さんの言うへんな男というわけだな。どんな男だろう。あんなお爺さんなんかの身柄を預って、今頃はうんざりしてやしないか。おふさが障子をあけて首を出した。

「遠足のお弁当が出来ました」

「遠足?」

 お父さんがきょとんとした顔で、興味なさそうに僕を見た。

「ふうん。お前、遠足か?」

「犬の食事は、どうしましょう?」

「犬?」

 お父さんは軽蔑的に鼻を鳴らした。

「昨夜の残りの焦げ飯があるだろ。あれをやれ」

 犬というのは、うちの犬じゃない。いや、うちに住んではいるが、飼い主はお爺さんなのだ。お爺さん個人が飼っているのだ。三日前お父さんとお爺さんといさかったのも、その犬のことからだった。一年ほど前、お爺さんがどこからか拾って来た。恰好(かっこう)も悪いし、気持もひねくれている。この間も妹に嚙みついた。着物の上からだから、傷はつかなかったけれども。

「お爺さんは?」

 その妹が間の抜けた質向をした。すこし頭が悪いんじゃないかと思う。

「どこに行ったの?」

 お爺さんがいなくなったことを、やっと今気付いたみたいだ。

「お爺さんはだな、わるい奴に――」

 お父さんはぎろりと眼を剝(む)いて、続く言葉を探した。効果的に妹をおどす言葉を。

「つまりだな、さらわれて行ったんだ。判るな。悪人に連れられて行ったのだ」

「よそに行って、誰にもしゃべるんじゃないよ」

 お母さんも負けずに声を張って、妹をにらみ、次に僕をにらんだ。

「お前もだよ。お爺さんのことを、一言もいうんじゃないよ。おふさ。お前もだ!」

「はい」

 おふさはおそれ入ったように、敷居で頭を下げた。ほんとはおそれ入っていないのだ。ふりをしているだけだ。お父さんが注意した。

「今日は寒いようだから、すこし厚着をさせて、遠足に出しなさい。風邪をひかれちゃ、困る。薬代がかかってしようがない」

 

 朝は寒かったのに、日が登り始めてからだんだんあたたかくなり、登り切ったらひどく暑くなった。厚着をさせられたのがうらめしく、だらだら流れる汗を手拭いでふきふき歩いた。僕だけでなく、たいていの者もそうだった。どうして大人たちは、何かというと、僕たちに厚着をさせるのだろう。やっとのことで市街地を抜けて田舎道に入る。

「上衣を取りたい者は、取ってもよろし!」

 と先生が号令をかけたので、皆よろこんで上衣を脱いだ。思い思いに手に提げたり、腰に巻きつけたりして歩いた。やがて海の見える峠まで来ると、潮風が涼しく正面から吹きつけるので、僕たちはすっかり元気になった。足を引きずるような歩き方はやめて、下り坂になるとひとりでに、足がぴょんぴょんとはねるような気がする。先生の音頭で『四百余州をこぞる十万余騎の敵』という歌を、どなりながら歩いた。いつも遠足というものは、帰り道よりは行きの方がたのしい。僕はうちのこともお爺さんのことも忘れて歩いた。僕は海のにおいが、海風のにおいが大好きだ。

 やがて大きな寺に着いた。参詣(さんけい)をすませ、境内(けいだい)を抜けて、裏の松原に出た。松原の向うは海だ。その松原で昼食ということになった。毎日潮風に吹かれつけているから、松はごつごつと背が低く、海と反対の側にひね曲っていて、根ももりもりと盛り上っている。その板のひとつに腰をおろし、弁当を開きかけたら、棒屋の幸善がやって来て、僕のそばに膜をおろした。棒屋というのは、棒をつくる商売で、幸吉はその家の息子なのだ。

「お爺さん、またいなくなったそうだな。今朝、斑犬がひとりで歩いとったぞ」

 幸吉は僕の弁当をのぞき込んだ。仕方がないから、カマボゴを一片やった。

「あの犬、瘦せてるなあ。餌はちゃんとやっているのかい?」

 餌はちゃんと与えてある。この二三日はお爺さんがいないから、ろくなものは食わせてないが、お爺さんがいると、犬は上等の餌をふんだんに食っている。僕たちよりもおいしい飯を食っている。この間お父さんといさかったのも、それが原因だ。

 お爺さんは少し威張り過ぎるのだ。

 離れの上等の部屋を自分の居間にして、食事も僕たちとはいっしょに食べない。箱膳にして、おふさに持って来させて食べる。食事が済むと、時々茶の間に僕たちの食膳を見に来て、僕たちのおかずがお爺さんのより多かったら、ぷんぷんして、あご鬚(ひげ)をふるわせて怒り出す。

「ろくなものは食わせないで、わしをバカにするのか。わしをいじめるつもりか!」

 その度におふさが叱られて、また箱膳を新しくつくって、離れに持って行かねばならない。だからおふさはお爺さんを嫌っている。面と向き合っては『御隠居さま』と呼ぶが、僕ら子供の前では『爺さん』と呼ぶ。誰もいないところでは『爺い』と言っているらしい。『あの爺い』『ひちやの爺い』[やぶちゃん注:句点や記号なしで終わっているのは、底本のママ。]

 お爺さんが怒ると、一番おろおろするのがお母さんで、放って置くとお爺さんは近所中に聞えるような大声を出すから、おろおろせざるを得ないのだ。お父さんはたいていの場合、知らぬふりをしている。迷惑そうな顔でそっぽ向いている。お爺さんはお父さんから言うと、義父に当るのだ。それではお母さんの実父かというと、そうでない。養父になるのだそうだ。父にもいろいろ種類があって、どうなっているのかはっきりしないが、お爺さんが威張るのも、その辺に関係があるらしい。

 ひとりで威張っているくせに、お爺さんはいつも自分が『いじめられている』『バカにされている』と思っている。だからお爺さんはいつも、とがめるような眼をしているのだ。それが僕にはよく判らない。僕たち子供に対しても、お爺さんはそんな眼付きをする。

 お爺さんは何も仕事をしない。御隠居とは仕事をしない人のことだ。飯だけうちで食べて、あとは将棋さしに行ったり、魚釣りに行ったりする。お爺さんは釣り好きだが、あまり上手じゃない。釣って来た魚も、よほど大漁の時でなければ、僕たちの口に回って来ない。

 この間は一日がかりで、鮒(ふな)を十四五匹釣って来た。城址の堀で釣って来たのだ。お爺さんはそれをおふさに煮させ、おふさの報告によると、五匹は自分で食べ、残りはどうしたかと言うと、全部犬に食わせてしまったのだそうだ。だからお父さんが厭味を言った。れいの迷惑そうな調子で言うから、なおのこと効果があるのだ。

「あんな駄犬に食わせるくらいなら、子供に回して貰えませんかねえ」

 ふたことみこと言葉のやりとりがあって、お爺さんは突然いきり立った。

「わしが釣って来た魚にまで、お前は干渉するのか。それほどわしが憎いのか」

 お爺さんは弾丸のように身体を丸めて、お父さんめがけて突進して行ったが、お父さんが身体をかわしたので、いきなり茶の間の障子にぶち当り、桟(さん)をばらばらにこわしてしまった。お母さんがおろおろと取りしずめている間に、お父さんはぷいと家を出て行ってしまった。障子屋に修繕をたのみに行ったのだ。やがて障子屋がやって来て桟を修繕しているのを、お爺さんは離れから出たり入ったりして、横眼でそれを眺めていたが、ついにたまりかねたと見え、今度はお爺さんがぷいと家を出て行ってしまった。

 それから今日までお爺さんは戻って来ない。つまり、家出をしてしまったのだ。

 

 海岸でしばらく遊んで、帰校ということになった。午後からはますます暑くなり、風もなくなった。弁当は食べたから、それだけ身軽になったわけだが、いっこう身軽になった気がしない。(それにしてもおふさがつくって呉れたお握りの大きかったこと!)足がぼたぼたと重い。足を海にひたして歩いたせいだ。海水の塩がしみ込んで、足がむくんでいる。歩いて行く足並もそろわない。その僕たちを元気づけようとして、先生が『われは海の子』の音頭を取ったが、皆の合唱がひょろひょろ声で、全然揃わないから、先生も呆れたと見え、ついに途中でやめてしまった。

 こんな具合で、行進の速度も遅く、学校についた時は、もう日は沈んでいた。校庭で訓示があって、解散した。妹への土産(みやげ)に海岸で拾った貝殻を、ポケットにじゃらじゃらさせながら、僕はとぼとぼと家路についた。遠足だの運動会だのというものは、始まると気がのびのびするのに、終ってしまうと、何故こんなにいつも気分が滅入ってしまうのだろう。ふだんの日よりもっと心持が沈んでしまう。だから、遠足なんか、やらなければいい。やるとするなら、毎日々々遠足をやる他はないのだ。しかし、毎日遠足をやるような学校は、どこにもないだろう。今のままで我慢する他はない。そんなことを考えながら、僕は裏口から入り、そっと台所に足を踏み入れた。台所には誰もいなかった。土間のかまどのあたりは薄暗い。朝の薄暗さと、薄暗さが違う。そこらからぬっと大入道みたいなものが出て来そうだ。

「お爺さんは帰って来たのかな。それとも、まだかな」

 しんとした周囲の空気を、全身で計るようにしながら、僕は井戸端で足を洗った。長時間歩いたせいか、足指が白くふやけて、自分の足でないような気がする。

心中宵庚申

昨日、観た文楽「心中宵庚申」のエンディングには思わず落涙した。

2018/02/14

芥川龍之介 手帳12 《12―19/12-20》

《12―19》

1219

[やぶちゃん注:突然、説明文のない地図。前後との関係もない謎めいたものである。怪しいぞ! 右上部のそれは「寺」だが、指示線のそれの「下」の下にある字は判読出来ない。「所」「勝」か? しかし、そもそもが、目指す家は中央の斜線の家であるわけだから、その前の「○」のように(電信柱か巨木か?)、「下■」も目安になる「何か」でなくてはならず、その場合、一般人家の名ではなく、一見して分かる何かを意味していると考えるのが妥当であるが、どうも「下」で始まるそれが浮かばない。だから、ますます妖しくなってくる! 後の洋書リストと強いて関係づけるなら、洋書専門店であるが、この時代、洋書を注文出来る書店はごく限られているから、違う気がする。洋書も多く扱う古本屋かも知れない。]

 

Cardinal Farrar  Darkness & Dawn

[やぶちゃん注:「Cardinal Farrar」不詳。

Darkness & Dawn」はアメリカのSF作家ジョージ・アラン・イングランド(George Allan England 一八七七年~一九三六年)の連作“Darkness and Dawn Series”(「暗黒と黎明のシリーズ」)のことか? 英文の彼のウィキによれば、“The Vacant World”(「空虚世界」一九一二年)・“Beyond the Great Oblivion”(「大いなる忘却の彼方へ」一九一三年)・“The Afterglow”(「残光」一九一四年)がある(訳は私のいい加減なもの。以下、同じ)。]

 

Heine  Die Götter im Exils

[やぶちゃん注:ドイツの詩人で作家のクリスティアン・ヨハン・ハインリヒ・ハイネ(Christian Johann Heinrich Heine 一七九七年~一八五六年)の一八五三年の「亡命者の神々」。]

 

Grierson : La Révolte Idéaliste

[やぶちゃん注:「Grierson」はイギリス人の作曲家・ピアニストで、作家でもあったベンジャミン・ヘンリー・ジェシー・フランシス・シェパード(Benjamin Henry Jesse Francis Shepard 一八四八年~一九二七年)のペンネーム、フランシス・グリエルソン(Francis Grierson)である。「La Révolte Idéaliste」はフランス語で「理想主義の革命」で、恐らく一八八九年の作品。内容は不詳。]

 

Grierson : The Humour of the underman

[やぶちゃん注:前注のフランシス・グリエルソンの、恐らく一九一三年の作品。「従属者のユーモア」(?)。内容不詳。]

 

John Pentland Mahaffy : What have the Greeks done for modern Civilization? ": The Lowell Lectures of 1908―1909

[やぶちゃん注:アイルランドの古典主義の学者ジョン・ペントランド・マハフィー(John Pentland Mahaffy 一八三九年~一九一九年)の一九〇九年の著作。「ギリシャ人は現代文明のために何をしたか?」。]

 

William Barry  Heralds of Revolt, studies in Modern Literature & drama

[やぶちゃん注:底本の編者によって、最後の単語は『正しくはdogma』と注がある。イギリスのカトリック司祭で作家であったウィリアム・フランシス・バリー(Barry William Francis 一八四九年~一九三〇年)の一九〇四年の著作。「反乱の先駆者・現代文芸とそのドグマ(主張)の考察」。]

 

H. H. Boysesen : Earl Siguand's Xmas Eve

[やぶちゃん注:ノルウェー生まれでアメリカで作家となったヒャルマー・ヒョルス・ボワイエセン(Hjalmar Hjorth Boyesen 一八四八年~一八九五年)のことであるが、「Earl Siguand's Xmas Eve」(アール・シグアンドのクリスマス・イヴ)は不詳。]

 

Addams Civilization during the Middle Ages

[やぶちゃん注:アメリカの歴史学者ジョージ・バートン・アダムス(George Burton Adams 一八五一年~一九二五年)一八九四年の著作「中世の文明」。]

 

J. A. Symonds : Renaissance in Italy

[やぶちゃん注:イギリスの文芸評論家ジョン・アディントン・シモンズ(John Addington Symonds 一八四〇年~一八九三年)の最初期の一八六三年の評論。]

 

《12―20》

1011

[やぶちゃん注:不詳。大正五(一九一六)年から大正八年までの年譜の当該日を調べたが、特別な予定はない。因みに、大正八年(私がこの手帳の閉区間の下限と考えている年)のその日、路上で自転車とぶつかり、左足を挫いてはいる。まあ、以降の記載から見て、洋書の注文日か、入荷日であろう。]

 

Mauclair  Rodin

[やぶちゃん注:フランスの芸術批評家カミーユ・モークレール(Camille Mauclair 一八七二 年~一九四五年)のフランスの彫刻家フランソワ=オーギュスト=ルネ・ロダン(François-Auguste-René Rodin 一八四〇年~一九一七年)の評論か。フランス語の彼のウィキに、一九〇四年に書かれたそれらしいもの(複数の芸術家評の一部か)は、ある。]

 

Dunsany  The Book of Wonder

[やぶちゃん注:アイルランドの作家ロード・ダンセイニ(Lord Dunsany 一八七八年~一九五七年)の一九一二年の短編集The Book of Wonder(「驚異の書」)。]

 

Aeschylus   Drama

[やぶちゃん注:古代アテナイの三大悲劇詩人の一人で、ギリシア悲劇の確立者とされるアイスキュロス(ラテン文字転写:Aischylos 紀元前五二五年~紀元前四五六年)のことであろう。]

 

Sapho Crackar shop Wreckage

[やぶちゃん注:「Sapho」古代ギリシアの女性詩人サッポー(ラテン文字転写:Sapphō 紀元前七世紀末~紀元前六世紀初)。英語では「Sappho」とも表記され、「サッフォー」とも呼ばれる。

Crackar shop Wreckage」不詳。「Crackar」は意味不明(クラッカー(cracker)とは綴りが違う)。「Wreckage」は「漂着物・残骸・破片」。]

 

Chaucer Weininger's sex & character

  Feoria Mac's Sin Eater

[やぶちゃん注:「Chaucer」イングランドの詩人で、「カンタベリー物語」(The Canterbury Tales)で知られる、小説家のジェフリー・チョーサー(Geoffrey Chaucer  一三四三年頃~一四〇〇年)。ウィキの「ジェフリー・チョーサーによれば、『当時の教会用語であったラテン語、当時』、『イングランドの支配者であったノルマン人貴族の言葉であったフランス語を使わず、世俗の言葉である中』世『英語を使って』、『物語を執筆した最初の文人とも考えられている』作家である。

Weininger's sex & character」二十三歳で自殺したオーストリアのユダヤ系哲学者オットー・ヴァイニンガー(Otto Weininger 一八八〇年~一九〇三年)が死の直前(一九〇三年)に著した「性と性格」(ドイツ語:Geschlecht und Charakter)の英訳本。チョーサーの名と並べて書いている理由は不詳。

Feoria Mac's Sin Eater」書名っぽいが、不詳。「sin-eater」というのは「罪食い人」で、昔、英国で死者への供物を食べることによって死者の罪を引き受けてもらうために雇われた人を指す。]

 

l’œvre de Gustave Moreau

[やぶちゃん注:フランス語で「ギュスターヴ・モローの仕事」であるが、誰の本か判らぬ。ギュスターヴ・モロー(Gustave Moreau 一八二六年~一八九八年)は言わずもがな、フランスの象徴主義の画家。]

 

Reliure amateur, coins maroquin du Levant, tête dorée, en plus 40 fr. I. E. Bulloz, Paris

[やぶちゃん注:意味不明。全体では一向分らぬので、分解し、そのフランス語の語句からを推理してみると、「Reliure amateur」は「素人(アマチュア)の製本」でいいだろう。だとすると、「coins maroquin du Levant」というのは、地中海東部及びそこのレバント島或いは沿岸諸国で産した山羊・羊・アザラシなどを用いた高級モロッコ革で出来た、「本のカバー」とか、「本を閉じ収めるベルト」か、或いは、「挿むブック・マーク」か、はたまた、「本の背」ではないか(「coin」は「角・隅・側面」の意があるからな)?! 「tête dorée」は「tête doré」で、こりゃ、もう、天金だろ! となると、豪華だから、「en plus 40 fr.」は並装の値段に「四十フラン追加料金」という意味じゃあるまいか? 「I. E. Bulloz, Paris」はパリの古書店名ということでどうよ?! この僕の解釈、とんでもないかなぁ?……実はそういう、フランス人の素人の方が、並装のフランス語版のボード―レールの「悪の華」を、革装にした、天金に仕上げ、それにオリジナル彩色画挿入を数枚挟んで製本したものを、僕は三十年も前に、古本屋から三万五千円払って買って、今も持ってるんですけど……

 

1)The life of Mary Mag

 2)Work of Apuleius

 3)Andersen's Danish L.

[やぶちゃん注:ここには底本の編者注で『L. Legends の略』とある。]

 4) Chronicles of the Crusades

 5) Gesta Romanorum

 6)Plays of A. S.

[やぶちゃん注:ここには底本の編者注で『A.S. Arthur Symonds の略』とある。]

 7) Bjørnson's Arne

[やぶちゃん注:以上は、一冊の本としては私は不詳。

1」の「The life of Mary Mag」は福音書に登場する、かの「マグダラのマリア(ラテン語:Maria Magdalenaの生涯」だろう。

2」の「Work of Apuleius」は帝政ローマの弁論作家で、奇想天外な小説や極端に技巧的な弁論文によって名声を博したというルキウス・「アプレイウスLucius Apuleius 一二三年頃~?)。代表作とされるMetamorphoses(「変容」)はローマ時代の小説の中で完全に現存する唯一のものだそうである(ウィキの「アプレイウス」に拠る)の仕事」

3」は「Andersen's Danish Legends」だから、デンマークの作家ハンス・クリスチャン・アンデルセンHans Christian Andersen 一八〇五年~一八七五年:デンマーク語のカタカナ音写:ハンス・クレステャン・アナスン)の「デンマークの民話」

4」は「Chronicles of the Crusades」は「十字軍編年史」。作者不詳。

5」は「Gesta Romanorum」「ゲスタ・ロマノルム」で、十三~十四世紀にイングランドで集められた、民間のラテン語による物語集「ローマ人物語」を指すようだ(執筆者は不詳)。

6」は「Plays of Arthur Symonds」だから、イギリスの詩人・文芸批評家「アーサー・ウィリアム・シモンズArthur William Symons 一八六五年~一九四五年)の事蹟(活動)」。]

 

○六月卅日

[やぶちゃん注:不詳。前と同じく、年譜は見てみた。]

 

Plato:Apology

    {Bannquet――Simposium

    {Cristo

    {Phaedo(phaedorus)

[やぶちゃん注:四つの「{」は底本では大きな一つの「{」。


Plato」古代ギリシアの哲学者プラトン(ラテン語転写:Plato 紀元前四二七年~紀元前三四七年)。ソクラテスの弟子でアリストテレスの師。

Apology」は「ソクラテスの弁明」(ラテン語転写:Apologia Socratis/英語:Apology of Socrates)で、プラトンの著名な初期対話篇。

Cristo」キリスト。キリスト教にもプラトンの思想はよく取り入れられているとされる。

Phaedo(phaedorus)」「パイドロス」(英語:Phaedrus)であろう。プラトンの中期対話篇の一つ(そこに登場する人物の名称で、副題は「美について」)。因みにプラトンの著作では私が最も愛するものである。]

 

○1月註文

[やぶちゃん注:前後孰れかの洋書の注文であろう。]

 

Delacroix

[やぶちゃん注:フランスのロマン主義を代表する画家フェルディナン・ヴィクトール・ウジェーヌ・ドラクロワ(Ferdinand Victor Eugène Delacroix 一七九八年~一八六三年)。]

 

Zangwill Dramas 3

[やぶちゃん注:イギリスの作家イズレイル・ザングウィル(Israel Zangwill 一八六四年~一九二六年)。ウィキの「イズレイル・ザングウィル」によれば、『父親はロシアから亡命したユダヤ人、母親はポーランド人であった』。『初期のシオニストの一人で指導者ヘルツルのもと、ユダヤ国家樹立のために活動した。その傍ら、ユダヤ人の生活に取材した小説や戯曲を書き好評を博した。しかし』、仲間内の対立から、『シオニズム活動から遠ざかり、世界のどこであれ』、『適切な場所にユダヤ人の国を持とうという領土主義を唱えた』。『アメリカ合衆国のアイデンティティに対し』、『「メルティング・ポット」論(原型が溶かされて一つになる)を唱え、それが』一九〇八年発表の戯曲The melting pot(「坩堝(るつぼ)」)『に表れている。ここから』アメリカを評する『「人種のるつぼ」などといった表現』も『生み出された』という。イギリスの作家で「SFの父」とされる『ハーバート・ジョージ・ウェルズ』(Herbert George Wells  一八六六年~一九四六年)『とは親友であった』とある。『推理小説もいくつか書いており、なかでも』、一八九二年に発表した中篇The Big Bow Mystery(「ビッグ・ボウの殺人」)『は最も古い密室殺人ものとして』、『欧米では有名である』とある。「Dramas 3」とあるから、一つはThe melting potと考えてよいのではあるまいか。]

 

○來月注文

[やぶちゃん注:やはり、前後孰れかの洋書の注文であろう。]

 

Hugo 1

      >Bohn’s Library

 Racine 2

[やぶちゃん注:「Hugo」はフランス・ロマン主義の詩人で小説家のヴィクトル=マリー・ユーゴー(Victor-Marie Hugo 一八〇二年~一八八五年)であろう。

Racine」はフランスの劇作家でフランス古典主義を代表する悲劇作家ジャン・バティスト・ラシーヌ(Jean Baptiste Racine 一六三九年~一六九九年)であろう。但し、意味不明の「Bohn’s Library」(「ボーンの図書館」)とともに、後のユーゴを「1」とし、先行するラシーヌを「2」とする意味も不明。]

 

○同月11

[やぶちゃん注:洋書注文日か、入荷日か。]

 

1)The Tidings brought to Mary  Paul Claudel

2)The Note Book of L. & V.

3)Tolla, the Courtesan by E. Rodocanachi

[やぶちゃん注:「1」はフランスの劇作家で外交官でもあったポール・ルイ・シャルル・クローデル(Paul Louis Charles Claudel 一八六八年~一九五五年)の一九一〇年発表の中世風奇跡劇であるL'Annonce faite à Marie(英訳:The Tidings brought to Mary(「マリアへのお告げ」)。

2」の「The Note Book of L. & V.」は不詳。

3」の「Tolla, the Courtesan by E. Rodocanachi」はフランスの歴史家で作家でもあったと思われるエマヌエル・ピエール・ロドカナチ(Emmanuel Pierre Rodocanachi 一八五九年~一九三四年)の一七〇〇年のロマン主義的書簡体小説“Tolla, la courtisane, esquisse de la vie privée à Rome en l'an du jubilé”(「トラにて、クルチザンヌ、ローマでの私的生活に就いてのエスキス(スケッチ)」。一八九七年発表)か。フランス語の彼のウィキからで、訳はいい加減。「トラ」はよく判らぬが、サルジニア島の北のトレス島の地名ではないかと私は思う。「クルチザンヌ」はフランス語で「高級娼婦」の意であり、特にロマン主義の文学作品などで主題としてしばしば取り上げられた対象である。]

2018/02/13

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十六年 『俳諧』『獺祭事屋俳話』

 

    『俳諧』『獺祭事屋俳話』

 

 二月十四日の日記に「痰有血、夜宮本國手(こくしゆ)來」とある。翌十五日には「血痕甚淡」とあり、十七日には、「不見血(ちをみず)」となっているから、大した事もなかったのであろうが、居士は臥褥(がじょく)して外に出なかった。二十五日に至り「仙田氏來、到廣小路(ひろかうぢにいたる)」とあって、

 

 うらゝかや空を見つめる病み上り

 

の句が記されている。仙田氏とあるのは仙田重邦氏であろう。この病臥の間(二月二十日)に一茶、凡兆、素堂、尚白、来山、去来ら古人の調に擬した句を作った。一茶調を除くの外は、「燈火十二カ月」以来の十二カ月の形式を以て、三月以後の『日本』に発表された。

[やぶちゃん注:「仙田重邦」松本島春(とうしゅん)主宰の俳誌『春星』のサイト内の中川みえ氏の「子規の俳句」のこちらの『子規の俳句(九)』に拠るなら、新聞『日本』社の事務総裁(総務・経理部長か)らしい。]

 居士が社へ出るようになったのは、二月二十八日からであるが、その前二十六日の日記に「片山、伊藤(半)二氏来談、俳諧之事」という記事がある。片山、伊藤は即ち桃雨、松宇の二氏で、『俳諧』というのは新に出すべき雑誌の名である。鬱勃たる居士身辺の俳句熱は、遂に雑誌刊行の機運にまで到ったのであった。

[やぶちゃん注:『俳諧』既注。「桃雨」「松宇」も同リンク先の私の注を参照されたい。]

 『俳諧』という推誌については、居士自身あまり語っていない。後年『ホトトギス』が第四巻第一号を出すに当り、感想を述べた居士の文章の中に「明治二十六年にある本屋の発起で始めて、自分はその一部分を担当したが、二号で潰れてしもうた」とあるのと、『ホトトギス』を東京へ移すに際し、虚子氏に与えた手紙に、ちょっとその事が見えるに過ぎぬ。今日から考えると、『日本』紙上の俳句も掲げられるようになったばかりであり、時期尚早の観があったかと思うが、新派俳句凝議の先鞭を着けたものは、実にこの『俳諧』だったのである。

 『俳諧』第一号は三月二十四日を以て生れた。もしこの雑誌が健全に発達したならば、『日本』の俳句と相俟って、車の両輪の如く進み得たかも知れぬが、遺憾ながら二号で挫折してしまった。五月に入ってからの日記に、二度ほど俳諧雑誌社を訪うことがあり、同二十日松宇氏宛の手紙に「小生獨斷にて新選佳調二頁だけ相ふやしその代り富士をやめ申候。右御諒承奉願(ねがひたてまつり)候。罪はいくらにても小生が負ふつもりに御座候。いまだ校正にも來らず不屆至極に御座候」と見えている。これは『俳諧』第三号のことと思われるが、多分校正も出ず、そのまま廃刊になってしまったものであろう。

[やぶちゃん注:「新選佳調」「富士」孰れも『俳諧』の中の特集かコラムの名であろう。]

 『俳諧』の発刊は椎の友の諸家と盛に往来した二十六年度の一産物で、明治俳諧史の上からいえば慥に注目すべき出来事であったが、居士が何らか痕迹ある仕事を遺すには、あまりにその挫折が早過ぎた。いわゆる新派俳句勃興の機運は已に動いていたにしても、これによって直に一旗幟(きし)を樹立するほどの勢力にはなっていなかったものと思われる。

[やぶちゃん注:「旗幟(きし)」表立って示す立場や態度。主義主張を述べる行動。]

 『俳諧』第一号が出た翌日、居士は鎌倉に赴いた。終列車で藤沢に到り、宿屋に一泊の後、一番列車で鎌倉に行っているのは、交通機関の整備した今日からちょっと想像しにくい事柄であろう。鎌倉には二月の半から羯南翁が病後静養のため滞在中であった。帰来居士の草した「鎌倉一見の記」に「由井が濱に隱士をおとづれて久々の對面」とあるのが羯南翁のことである。

[やぶちゃん注:「由井が濱」実は底本「山井が浜」である。話にならない酷い誤りである。原典当該箇所確認が、ちゃんと「井が濱」となっている。現在の由比ヶ浜であるが、当時はいろいろな表記はした。しかし「山井が濱」などとは逆立ちしても言わない。これは、恰も、原本をOCRで読み込み、それを性能の低劣な、私の持っているような読取ソフトでやったものを修正するのを忘れたかのようじゃないか!? 私も実はよくやるがね……。特異的に訂した。

『日本』明治二六(一八九三)年三月。「青空文庫」ので読める。]

 高等中学生だった虚子氏が京都から徒歩旅行を計画し、刈谷以東は汽車で上京したのもこの三月末のことであった。春の試験休を利用したはじめての上京であったが、滞在十日ほどにわたり、その間俳句の小集なども催されたようである。学校を一擲(いってき)して社会の人となった居士の身辺は、慥に前年より賑になって来た。

[やぶちゃん注:「刈谷」知多半島の東の根っこの現在の愛知県刈谷市か。(グーグル・マップ・データ)。流石は私の嫌いな虚子だね、全く、根性、ねえな。せめて半分ぐらい歩けよ!]

  三月二十二日、地風升(ちふうのぼる)の名を以て「文界八つあたり」を『日本』に掲げた。地風升は通称の升(のぼる)に因んで、居士のしばしば用いた署名である。「文界八つあたり」は緒言、和歌、俳諧、新体詩、小説、院本(いんぽん)、新聞雑誌、学校、文章、結論の諸項に分れ、五月二十四日に至って完結した。俳句以外に及ぶ文学評論はこの文章を以てはじめとする。居士が「俳諧」の条下に月並宗匠の凡愚庸劣(ぼんぐようれつ)を罵倒し、書生仲間から新俳人の出たことを挙げて「俳諧のために太白(たいはく)を浮べて賀せんと欲する所」といっているのは、自ら期する所ある言葉でなければならぬ。

[やぶちゃん注:「院本(いんぽん)」義太夫節の浄瑠璃正本(しょうほん)のこと。「丸本(まるほん)」とも呼ぶ。これは「行院本」の略で、「行院」は中国の金・元代の俳優の居所(楽屋)を指し、そこから同時代に演じられた演劇の一つの名称となり、その脚本の意として用いられたものが、本邦で転訛したもの。

「太白」太白星(金星)のことであろう。新境地開拓の明星の意と採った。]

 居士の最初の著述たる『獺祭書屋俳話』が「日本叢書」の一として刊行されたのはこの五月二十一日であった。前年『日本』に掲げた俳話三十余篇につき、種類によって編次を改め、単行本としての体裁をととのえたのである。僅々七十三頁の小著ではあるが、新派俳句最初の警鐘たる意味において、長く忘るべからざるものであろう。

[やぶちゃん注:「獺祭書屋俳話」日本新聞社の「日本叢書」の一刊行国立国会図書館デジタルコレクションの画像全篇。]

 

北條九代記 卷第十二 後二條院崩御 付 花園院御卽位

 

鎌倉 北條九代記卷   第十二

 

      ○後二條院崩御  花園院御卽位

 

德治三年、主上、御惱(ごなう)に罹らせ給ひ、朝政(てうせい)の御事も叶はせ給はず。御位を東宮富仁(とみひとの)親王に讓りて、同八月二十五日に崩じ給ふ。御年二十四歳なり。在位僅に六年、一朝にして鼎湖(ていこ)の雲を攀(よ)ぢ、蒼梧(さうご)の霞(かすみ)に隱れさせ給ひ、一天、既に諒闇(りやうあん)の有樣、愁(うれへ)の色を見せ侍り。後二條院とぞ申しける。北白川に葬送し奉る。東宮は、是(これ)、伏見院第二の皇子、御母は山階(やましなの)左大臣實雄(さねを)公の御娘、顯親門院藤原厚子(あついこ)とぞ申しける。同年十月に改元あり。延慶(えんきやう)と號す。同十一月二十六日、御年十二歳、寶祚(ほうそ)を踐(ふ)んで御位に卽(つ)きたまふ。花園院と申すは、この君の御事なり。九條關白師教(もろのり)公、攝政たり。伏見上皇、院中にして政道を知(しろ)しめす。武家より計(はからひ)申して、後宇多法皇第二の皇子尊治(たかはるの)親王を春宮(とうぐう)に立參(たてまゐ)らせらる。九條師教公、攝政を辭退あり。鷹司(たかつかさの)左大臣冬平(ふゆひら)公、攝政と成り給ふ。同三年十一月に北條越後守貞房、六波羅にして卒す。越後守時敦(ときあつ)、その代(かはり)として上洛す。貞房は武藏守朝直の孫なり。時敦は北條左京兆政村の三男、駿河守政長の嫡子なり。今年十二月、主上、十四歳に成らせ給ふ。御元服の事あり。御加冠(かくわん)の役人は、先(まづ)、太政大臣に補任せらる〻は舊例なり。是(これ)に依(よつ)て、鷹司冬平公、豫て太政大臣に任じ、應長元年正月、主上、御元服あり。冬平公、加冠たり。理髮(りはつ)は近衞〔の〕左大臣宗平公、勤めらる。

 

[やぶちゃん注:「德治三年」一三〇八年。

「主上」後二条天皇。

「東宮富仁(とみひとの)親王」持明院統の伏見天皇の第四皇子で第九十五代天皇となる花園天皇(永仁五(一二九七)年~正平三(一三四八)年/在位:延慶元年十一月十六日(一三〇八年十二月二十八日)~文保二年二月二十六日(一三一八年三月二十九日)。即位した時は十二歳。

母は、左大臣洞院実雄の娘、顕親門院・洞院季子。鎌倉時代の2つの皇統のうちに属する。

「在位僅に六年」後二条天皇の在位は正安三年一月二十一日(一三〇一年三月二日)から徳治三年八月二十五日(一三〇八年九月十日)であるから、七年半であるから、誤り

「鼎湖(ていこ)」中国の神話時代の帝王で五帝の一人である黄帝は首山(山西省浦阪県とする)の銅を採掘して荊山(河南省閿郷県とする)の麓で一つの鼎を鋳造した。すると、一匹の龍が髯を垂らして迎えに下り、黄帝はそれに乗って昇天して仙人となったという伝承がある。その場所を「鼎湖」と呼んだ。ここは極楽へ昇天されたことを述べたもの。

「蒼梧(さうご)」湖南省寧遠県にある山に比定され、五帝の一人である舜(太陽神)がここから天に昇ったとされ、彼の墓もその山中にあるとされる。同前。

「諒闇(りやうあん)」「諒」は「まこと」、「闇」は「謹慎」の意で、本来は天皇がその父母の死に当たって喪に服する期間を指すが、後の広義に天皇・太皇太后・皇太后の死に際して喪に服する期間を指した。

「北白川」現在の京都府京都市左京区北白川追分町。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「山階(やましなの)左大臣實雄(さねを)」山階左大臣洞院実雄(承久元(一二一九)年~文永一〇(一二七三)年)。娘三人が孰れも三人の天皇(亀山天皇・後深草天皇・伏見天皇)の妃となり、しかも孰れも皇子を産み、これがまた、孰れも即位したことから、さらに三人の天皇(後宇多天皇・伏見天皇・花園天皇)の外祖父となって長く権勢を誇った。

「顯親門院藤原厚子(あついこ)」「厚子」は季子(すえこ/きし 文永二(一二六五)年~延元元(一三三六)年)の誤り

「同年十月に改元あり。延慶(えんきやう)と號す」徳治三年十月九日(一三〇八年十一月二十二日)に花園天皇即位のために改元。

「寶祚(ほうそ)を踐(ふ)んで」天子の位(宝祚)に「就く(践)」こと。践祚。

「九條關白師教(もろのり)」九条師教(文永一〇(一二七三)年~元応二(一三二〇)年七月十三日))。延慶元(一三〇八)年八月の花園天皇の践祚に際して、摂政に補されたが、同年十一月に辞任している。彼は正安三(一三〇一)年八月に富仁親王(後の花園天皇)が立太子すると、その東宮傅(とうぐうのふ:東宮教育官)に補任されているから、花園天皇とは親しかったはずである。理由は不明だが、ウィキの「九条師教」の注によれば、『大才人であり』、『漢籍の才に富み賢く、廉直の人である、と評している。何度も摂関に還補するよう打信があっても』、『固辞し続けた、とある』(「花園天皇宸記」等に拠るらしい)から、何らかの個人的な思いがあったものらしい。花園天皇は持明院統であるが、師教の母が大覚寺統の祖亀山天皇の皇女であったことが私にはちょっと気になる

「武家より計(はからひ)申して」大覚寺統の嫡流を継ぐべき後二条天皇の第一皇子邦良親王がわずか九歳であったこと、彼が当時、歩行が不自由であったらしいこと(ウィキの「邦良親王」に拠る)などから、大覚寺統と持明院統とが交互に皇位継承していくという幕府裁定の両統迭立原則が機能しない事態が生じたことに拠る。邦良(くによし/くになが 正安二(一三〇〇)年~正中三(一三二六)年)親王は叔父である後醍醐天皇(次注参照)の皇太子となるが、これ以降では皇位継承については持明院統・大覚寺統の対立以外に、大覚寺統内に於いて、後二条と後醍醐系とが互いに反目し合うこととなり、正中二 (一三二五) 年には幕府に人を遣わして即位を謀ったものの、翌年、即位することなく没している。

「後宇多法皇第二の皇子尊治(たかはるの)親王」後の後醍醐天皇(正応元(一二八八)年~延元四(一三三九)年)。大覚寺統後宇多天皇の第二皇子。生母は内大臣花山院師継の養女藤原忠子(談天門院。実父は参議五辻忠継)。持明院統の花園天皇の即位に伴って幕府の中継ぎ工作として、後二条天皇の異母弟であった彼が皇太子に立てられたのであった。後の文保二年二月二十六日(一三一八)年三月二十九日の花園天皇の譲位を受けて三十一歳で践祚し、後醍醐天皇となる。

「鷹司(たかつかさの)左大臣冬平(ふゆひら)」鷹司 冬平(建治元(一二七五)年~嘉暦二(一三二七)年)。この後、三度に亙って関白を歴任、「後照念院関白」と号した。関白鷹司基忠の子。鷹司家第三代。歌人としても優れていた。

「同三年」延慶三年であるが、延慶二(一三一〇)年の誤り

「北條越後守貞房」(文永九(一二七二)年~延慶二(一三一〇)年)通称は大仏(おさらぎ)貞房。父は大仏流北条宣時(彼は大仏流北条氏の祖北条朝直の子)。元服時に得宗家当主北条貞時より偏諱を受けて貞房と名乗った。当初は、引付衆や評定衆を歴任し、徳治三(一三〇八)年には従五位上となるなど、昇進を重ねた。延慶元(一三〇八)年十一月二十日より、六波羅探題南方として上洛・赴任していたが、十二月二日、京で三十八歳で死去した。歌人としても優れていた。

「越後守時敦(ときあつ)」(弘安四(一二八一)年~元応二(一三二〇)年)は北条氏政村流。父は北条政長(彼は第七代執権北条政村(非得宗家)の五男(推定))。徳治元(一三〇六)年、引付衆の一員として幕政に参画、延慶三(一三一〇)年には従五位上に叙位され、六波羅探題南方に就任、五年後の正和四(一三一五)年には北方に転任した。ウィキの「北条時敦によれば、この頃、『持明院統と大覚寺統の間で皇位継承を巡る紛糾があり、時敦は大仏維貞と共に朝廷と折衝し』、『問題の調停に尽力した。六波羅探題の北方は摂津と播磨の守護を兼備しており、時敦も摂津と播磨の守護職にあったようである。更に佐藤進一の指摘によれば加賀国の守護職も担当していた』。彼もしかし京で四十歳で死去している。以前にも述べたが、鎌倉後期の幕政担当者は思いの外、若死にが多い。想像以上に政務が過激であったものと思われる。

「今年十二月」延慶三(一三一一)年でここは正しくなる

「加冠」元服の儀式の際に元服する者に冠を被せる役のこと。

「豫て太政大臣に任じ」同年同月十五日。

「應長元年正月」正しくは、まだ、延慶四年。延慶四年四月二十八日(一三一一年五月十七日)、疫病を理由に応長に改元される。

「理髮(りはつ)」元服まの際に頭髪の末を切ったり、結んだりして整える役。

「近衞左大臣宗平」不詳。]

幾つかのサイト版についてのお断り

労多くして、讃辞のない「北條九代記」サイト版のほか、「耳囊」「生物學講話」(後者二本はブログ版は完成済み)のサイト版は、既公開分は残すが、以降の版は作成をしないことに決した。悪しからず。

実は讃辞などなくてもいいのだが、問題はルビ・タグの不具合が頻繁に起こってイライラすることと、外部リンク付け作業が大変だからである。されば向後、

「北條九代記」(オリジナル電子化注の残りは「卷第十二」のみ)

「耳囊」(二〇一五年四月二十三日附・オリジナル電子化訳注完成済み)

「生物學講話」(二〇一六年三月三日附・オリジナル電子化注完成済み)

は、それぞれ、以上のリンク先のブログ版で読まれたい。悪しからず。

北條九代記 卷第十一 後宇多上皇御出家 付 將軍久明親王歸洛 / 卷第十一~了

 

      ○後宇多上皇御出家 付 將軍久明親王歸洛

 

 嘉元の年號、既に改元有りて、德治とぞ號しける。同二年七月に國母遊義門院、薨じ給ふ。御年三十八。後宇多上皇最愛の御事なれば、殊に悲歎の色深く、龍顏(りうがん)、日夜、御淚の乾く隙なし。世の中の事、今は絶(たえ)て、何をか御心に、露、慰み給ふべき。必ず一度は別離(わかれはな)るべき浮身の習(ならひ)、せめて後の世には、同じ蓮(はちす)の緣を結ばん爲、朝暮(てうぼ)の讀經も、只、此君にと、御囘向ましましけるぞ忝(かたじけな)き。同月二十六日、御落飾有りて、法名金剛性(こんがうしやう)とぞ申しける。睿算(えいさん)未だ四十歳に盈ち給ふ。法皇の尊號、蒙(かうぶ)らせ給ひ、是より、眞言祕密の窓(まど)に籠り、法流を汲(くん)で瑜伽三摩耶(ゆがさんまや)の口訣(くけち)を傳へ、嵯峨の大覺寺を造營し、寛平(くわんぺい)法皇の跡を慕ひ、世を逃れて行なはせ給ふこそ有難けれ。關東には如何なる子細にや、北條貞時入道の計(はからひ)として、將軍久明(ひさあきら)親王を都へ返し奉らんとて、同三年七月に鎌倉を出し參らせ、京都に歸しければ、力なく上洛あり。嘉暦三年十月に五十五歳にして薨ぜらる。摠(そう)じて天下の武將といへども、只、その名計(ばかり)にて、大小の政事は、皆、北條の掌握に落ちて、漸く年紀(ねんき)も久しければ、武職(ぶしよく)を替へて新(あらた)にせん、との事なるべし。其御跡は、前將軍久明親王の御子守邦(もりくにの)親王、今年、僅に七歳になり給ふを、征東大將軍に仰ぎて、鎌倉の主(しゆ)と册(かしづ)き奉る。貞時は剃髮の身なれば、北條相摸守師時と、陸奧守宗宣を執權の代(かはり)とし、連署の判形(はんぎやう)を致されけり。時世のみならず、人も亦、改(あらたま)り、内外に付きて物侘しく愁勝(うれひがち)なる世の中なり。

 

[やぶちゃん注:これが卷第十一の最終章である。「北條九代記」は残す所、一巻。鎌倉幕府の滅亡が遂にやってくる。

「嘉元の年號、既に改元有りて、德治とぞ號しける」嘉元四年十二月十四日(ユリウス暦一三〇七年一月一八日) 天変による災異改元とされている。

「同二年七月に國母遊義門院、薨じ給ふ」後深草天皇の皇女で後宇多天皇妃であった姈子内親王(れいしないしんのう 文永七(一二七〇)年~徳治二年七月二十四日(一三〇七年八月二十二日))。生母は中宮東二条院西園寺(藤原)公子。正応四(一二九一)年八月、院号宣下により、遊義門院となった。急病による。ウィキの「姈子内親王」によれば、「増鏡」によると、『後深草上皇(持明院統)の秘蔵の愛娘であった姈子内親王を後宇多上皇(大覚寺統)が見初め、恋心止みがたくついに盗み出してしまったという。持明院統と大覚寺統は当時朝廷を二分して対立していたため、これは大事件だったようである。事件の詳細は不明だが、その後』、『上皇は数多い寵妃の中でも姈子内親王を別格の存在としてこの上なく大切に遇したといい、後に彼女の急逝を悼んで葬送の日』(ここに出る通り、没後二日後の七月二十六日)『に出家したことから見ても、上皇が姈子内親王を深く寵愛したのは事実であったらしい』とある(下線やぶちゃん)。

「龍顏(りうがん)」天子の顔。「りよう(りょう)がん」とも読む。

「世の中の事」上皇としての院政の政務。但し、後宇多天皇は実際には第一皇子である後二条天皇の治世を翌徳治三(一三〇八)年の後二条天皇崩御まで院政を行っている。その後、天皇の父(治天の君)としての実権と地位を失い、後醍醐天皇即位までの間、政務から離れたが、後、持明院統の花園天皇を挟んで、彼の第二皇子である尊治親王(後醍醐天皇)が文保二(一三一八)年に即位すると、再び、院政を開始している。元亨元(一三二一)年、院政を停止し隠居し、以後は後醍醐天皇の親政が始まった。元亨四(一三二四)年六月、大覚寺御所にて崩御、満五十六歳であった(以上はウィキの「後宇多天皇」に拠った)。

「浮身」浮世の身。「憂き身」を掛ける。

「睿算(えいさん)」以前に出た宝算と同じ。天子の年齢を謂う。

「未だ四十歳に盈ち給ふ」当時、後宇多天皇は数え四十二であるから、ここは「未だ」を外し、「四十歳に盈ち給ふたるばかりなりけり」ぐらいが正しい。底本頭書には『給はずの誤り』とするが、これもまた、誤りである。

「眞言祕密の窓(まど)に籠り、法流を汲(くん)で瑜伽三摩耶(ゆがさんまや)の口訣(くけち)を傳へ」ウィキの「後宇多天皇」によれば、『仁和寺で落飾(得度)を行い、金剛性と称した。そのとき、大覚寺を御所とすると同時に入寺、大覚寺門跡となった。翌徳治』三(一三〇八)年『には後二条天皇が崩御したため、天皇の父(治天の君)としての実権と地位を失い、後醍醐天皇即位までの間、政務から離れる。この頃から、真言密教に関心を深め』、五年後の正和二(一三一三)年、『かねてからの希望であった高野山参詣を行った。参詣の途中、山中にて激しい雷雨に遭い、気を失うほど疲労してしまい、供をしている者が後宇多法皇に輿に乗られるように勧めたが、高野山に到着するまで輿に乗らなかったという。真言密教に関する著作として』「弘法大師伝」や「御手印遺告」などを著わしている。『大覚寺で院政を執った』際、『法印・法眼・法橋などの称号・位階を設け、この称号の授与に関する権限を大覚寺に与える永宣旨』(永代に亙って有効とする宣旨)『を出した』(但し、この「永宣旨」は明治維新を迎えると同時に廃止されている)。『また、仁和寺の御室門跡が法性法親王の没後、寛性法親王が後任に決まるまで、別当を代行していた禅助(中院通成の子)に迫って』、『門跡だけが知り得る秘儀「密要抄」の内容の伝授を受けようとして法性に阻止されている(「密要抄」のような秘儀の相承は門跡の正統性の要件の』一『つであり、師弟関係にない他寺の人間に流出することは』、『門跡の存続に関わる事態であった)。これは後宇多院による御室門跡の事実上の乗っ取り策であったとみられているが、これが失敗に終わったために』、『自らを祖とする「大覚寺法流」と呼ばれる新たな門跡の素地となる法流を作りだした』のであった、とある(下線やぶちゃん)。「瑜伽三摩耶(ゆがさんまや)」「瑜伽」は「ヨーガ」と同義で、意識を完全に制御して、心の神秘的な合一を図る行法を指し、「三摩耶」とは、その論理に基づいて三密加持〈自己の身体的動作によって諸尊の動作を模し(「羯摩(かつま)印」と称する)、口にそれらの真言を誦し(「法印」)、意識の中でそれらを象徴する形象(「三昧耶形(さんまやぎょう)」)を観想(「三昧耶印」)すること〉によって、自己を唯一の実在界であるところの仏世界の一個の象徴(「大印」)と化して即身成仏をするという密教の根本の実現を指す。「口訣(くけち)」は「口伝」と同義で、奥義・秘伝などを口伝えに伝授することを謂い、ここはそれを伝授されたと称している(先の下線部参照)ことを指す。

「嵯峨の大覺寺を造營」「造營」は正確には「再興」とすべきところ。現在の京都府京都市右京区嵯峨大沢町(ここ(グーグル・マップ・データ))にある、時代劇の撮影でお馴染みの大覚寺(だいかくじ)。現行では真言宗大覚寺派大本山で山号を「嵯峨山」と称する。正式には旧嵯峨御所大本山大覚寺。本尊は不動明王を中心とする五大明王で、開基は嵯峨天皇。嵯峨天皇の離宮を寺に改めた皇室所縁の寺。ウィキの「大覚寺」によれば、『嵯峨野の北東に位置するこの地には、平安時代初期に在位した嵯峨天皇が離宮を営んでいた。嵯峨天皇の信任を得ていた空海が、離宮内に五大明王を安置する堂を建て、修法を行ったのが起源とされる。嵯峨天皇が崩御してから』三十数年後の貞観一八(八七六)年、『皇女の正子内親王(淳和天皇皇后)が離宮を寺に改めたのが大覚寺である。淳和天皇の皇子(嵯峨天皇には孫にあたる)恒貞親王(恒寂(ごうじゃく)法親王、仁明天皇の廃太子)を開山(初代住職)とした』。その後のこの時、『後宇多法皇が大覚寺を再興』、『法皇は伽藍の整備に力を尽くしたため、「中興の祖」と称されている。また、ここで院政を行ったため嵯峨御所』『とも呼ばれ、法皇の父である亀山法皇』『から続く系統は当寺にちなんで「大覚寺統」と呼ばれ、後深草天皇の系統の「持明院統」と交代で帝位についた(両統迭立)』。『この両系統が対立したことが、後の南北朝分裂につながったことはよく知られる』。元中九(一三九二)年になってやっと『南北朝の和解が成立し、南朝最後の天皇である後亀山天皇から北朝の後小松天皇に「三種の神器」が引き継がれたのも、ここ大覚寺においてであった』。但し、『南北朝時代を通じて南朝方寺院であったというのは事実ではなく、南北朝分裂後に南朝方の性円法親王(後宇多法皇の皇子)と北朝方の寛尊法親王(亀山法皇の皇子)が相並ぶ分裂状態が続いたものの、南北朝が和解した時期には北朝・室町幕府方の有力寺院となり、後に室町幕府』三『代将軍であった足利義満の子・義昭を門跡に迎える素地となった』とある。

「寛平(くわんぺい)法皇」第五十九代天皇宇多天皇(貞観九(八六七)年~承平元(九三一)年)。彼の在位は仁和三年八月二十六日(八八七年九月十七日)から寛平九年七月三日(八九七年八月四日)までで、寛平(八八九年~八九八年)を主たる治世としたことによる呼称。彼は寛平九(八九七)年七月、皇太子敦仁親王(醍醐天皇)を元服させて即日、譲位している。ウィキの「宇多天皇」によれば、『この宇多の突然の譲位は、かつては仏道に専心するためと考えるのが主流だったが、近年では藤原氏からの政治的自由を確保するためこれを行った、あるいは前の皇統に連なる皇族から皇位継承の要求が出る前に実子に譲位して己の皇統の正統性を示したなどとも考られている』とある。譲位後は『仏道に熱中し始め』、昌泰二(八九九)年十月に『出家し、東寺で受戒した後、仁和寺に入って法皇となった。さらに比叡山や熊野三山にしばしば参詣』する。(この間、「昌泰の変(しょうたいのへん):昌泰四(九〇一)年一月に左大臣藤原時平の讒言によって醍醐天皇が宇多天皇の寵臣であった右大臣菅原道真を大宰員外帥として大宰府へ左遷し、道真の子供や右近衛中将源善らが左遷又は流罪となった事件)が起こっている)。延喜元(九〇一)年十二月、『宇多は東寺で伝法灌頂を受けて、真言宗の阿闍梨となった。これによって宇多は弟子の僧侶を取って灌頂を授ける資格を得た。宇多の弟子になった僧侶は彼の推挙によって朝廷の法会に参加し、天台宗に比べて希薄であった真言宗と朝廷との関係強化や地位の向上に資した。そして真言宗の発言力の高まりは宇多の朝廷への影響力を回復させる足がかりになったとされる』。。延喜二一(九二一)年十月二十七日には『醍醐から真言宗を開いた空海に「弘法大師」の諡号が贈られているが、この件に関する宇多の直接関与の証拠はないものの、醍醐の勅には太上法皇(宇多)が空海を追憶している事を理由にあげている』とある。

「有難けれ」恐れ多い滅多にないことである、であるが、以下の久明更迭を考えると、筆者は「残念なことである」と言っているようにも読める。

「北條貞時入道の計(はからひ)として」既に執権を師時に譲っているが、実権は得宗である彼にあった。

「久明(ひさあきら)親王」「久明親王征夷將軍に任ず」の私の注を参照されたい。

「同三年七月に鎌倉を出し參らせ」京都に歸しければ、力なく上洛あり」京都現着は八月。

「嘉暦三年」一三二八年。

「五十五歳」五十三歳の誤り

「年紀(ねんき)も久しければ」傀儡としての将軍職在位期間も長くなったので。解任時、数え三十三歳。第七代将軍就任・下向は正応二(一二八九)年で十四歳の時であった。

「武職(ぶしよく)」将軍職。

「守邦(もりくにの)親王」(正安三年五月十二日(一三〇一年六月十九日)~元弘三年八月十六日(一三三三年九月二十五日)は鎌倉幕府第九代、最後の征夷大将軍。鎌倉幕府将軍の中で二十四年九ヶ月と在職期間は最長。ウィキの「守邦親王によれば、徳治三(一三〇八)年八月(この年は後の徳治三年十月九日(一三〇八年十一月二十二日)に花園天皇即位のために延慶に改元している)、『父に代わってわずか』八『歳で征夷大将軍に就任した。当時幕府の実権は執権の北条氏(中心は得宗家)が握っており、将軍は名目的な存在に過ぎなかった』。後、『その北条得宗家の当主である北条高時の地位すら』、『形骸化し、真の実権は長崎円喜ら御内人が握ることとなった。そのため、『将軍としての守邦親王の事績もほとんど伝わっておらず』、文保元(一三一七)年四月に『内裏(冷泉富小路殿)造営の功によって二品に昇叙されたことがわかることくらいである』。『また、題目宗』(ここは日蓮宗を指す)『の是非を問う問答対決の命を』、『亡き日蓮の六老僧の一人日朗(武蔵国長栄山池上本門寺住職)に下している。日朗は高齢ゆえに弟子日印を出し』、文保二(一三一八)年十二月二十日から翌元応元(一三一九)年九月十五日にかけて』、『題目宗と日本仏教全宗派と法論を戦わせた(鎌倉殿中問答)。結果、日印は仏教全宗派を論破し、幕府は題目宗の布教を正式に認め』ている。元弘三(一三三三)年、『後醍醐天皇による倒幕運動(元弘の乱)が起きたが、その際』、『後醍醐天皇の皇子護良親王が発した令旨では討伐すべき対象が「伊豆国在庁時政子孫高時法師」とされており、守邦親王は名目上の幕府の長としての地位すら無視されていた』。元弘三年五月二十二日、『足利義詮や新田義貞の攻撃により』、『鎌倉は陥落』、『鎌倉幕府は滅亡した。同日に得宗の高時以下北条一族の大半は東勝寺で自害して果てた(東勝寺合戦)が、その日の守邦親王の行動は何も伝わっておらず、ただ将軍職を辞して出家したという事実のみしかわかっていない。守邦親王は幕府滅亡後の三カ月後に薨去したと伝えられているが、その際の状況も全くわかっていない』とある。死去は鎌倉とされるが、それも不確かで、埼玉県比企郡小川町(おがわまち)の現在の曹洞宗大梅寺(たいばいじ。(グーグル・マップ・データ))で病没し、ここに葬ったという伝承もある。

「册(かしづ)き」大切に養育し。本書では前に用例有り。

「貞時は剃髮の身なれば、北條相摸守師時と、陸奧守宗宣を執權の代(かはり)とし、連署の判形(はんぎやう)を致されけり」これはおかしな謂いである。師時はこの七年も前の正安三(一三〇一)年八月、貞時の出家に伴って執権職に就いているのだから、「代」わりであるはずがない。

北條九代記 卷第十一 貞時入道諸國行脚 付 久我通基公還職

 

      ○貞時入道諸國行脚 付 久我通基(こがのみちもと)公還職(げんしよく)

 

夫(それ)、四海を靜め、天下治むる事は、仁を本(もと)とし、義を進め、禮を專(もつぱら)にして德を修め、威を逞(たくまし)くして道を正しくす。その行ふ所には、無欲を以て奢(おごり)を愼む。萬民、是に靡きて、かの道德を仰ぎ、士農工商その安(やすき)に居て、上下、和融(くわゆう)し、遠近(ゑんきん)、相隨ふ。 然れども、氣質の禀(う)けたる事、又、齊(ひと)しからざるを以て、非法濫行の者、その間に在りて、人の愁(うれへ)、世の害となり、政道の邪魔となる事、堯舜も猶、病めり。是に依(よつ)て、年來(としごろ)、囘國の者を出して、諸國郡邑(ぐんいふ)の間に濫惡(らんあく)をなす輩(ともがら)を誡めらるといへども、その人、若(もし)、病に罹り死するに於ては、餘人を入替へて回(めぐ)らされけるに、後に出ける者共、奸曲を構へ、利分を貪り、却(かへつ)て囘國の者よりして、惡事起る故に依て、この事をも留(とゞ)められ、相州貞時、出家の後、自(みづから)、身を窶(やつ)して、只、一人、鎌倉を忍び出て、諸國を囘(めぐ)り、時賴入道の跡を追ひて、非道惡行の輩を、潛(ひそか)に伺ひ記(しる)して、四ヶ年を經て皈り給ふに、六十餘州の間に六百七十八人とぞ聞えける。皆、鎌倉に召寄(めしよ)せ、罪の輕重に隨ひて、刑罸を行はる。囘國の使三人は頭を刎ねられ、賄(まひなひ)を入れて惡行を隱しける國人(くにうど)、百三十八人は罪に行ひ給ふ。二階堂道仙(だうせん)、申されけるは、「今度、諸國の罪科人、既に一千に及べり。是を皆、刑せられんは、仁政にあらずとやいはん、末々(すゑずゑ)の者をば淸められて、然るべきか」とあり。貞時入道、仰せけるは、「是、更に世の人の態(わざ)ながら、我が政道の怠(おこたり)より起る。この恥しさ、限なし。千人を捨てて、萬民を助け、後世(こうせい)を懲(こら)す爲なれば、只今、嚴(きびし)く拵(あてが)ふものなり。又、行跡(かうせき)の宜(よろし)き者には、賞を與へ侍るなり」とて、淚を流してぞ恥ぢられける。貞時入道、囘國の次(ついで)、城南(せいなん)の離宮を經て、山崎に掛り、西國へ通りたまひしに、小枝河の東に恠(あやし)げなる茅屋(かやゝ)あり。草深く鎖(とざ)して、蓬(よもぎ)の垣、疎(まばら)なり。貞時入道、立寄りて、水を求め給へば、流石に賤からぬ男の、 破(やぶ)れたる單衣(ひとへぎぬ)に、剝げたる烏帽子著て、自(みづから)立ちて水を汲みて參らせらる。貞時入道、熟々(つくづく)と見給へば、此男、面映(おもはゆ)げに打笑ひける。鐡漿(かね)黑く、年は未だ三十計(ばかり)と覺えたり。「是は如何なる人の引籠りて住ませ給ふ御事ぞや」と問ひ給へば、此男、「誠に此有樣にて、行脚の聖に狎々(なれなれ)しく語り侍らんは、恥かしけれども、慚愧懺悔(ざんぎさんげ)の功德にも成れかし、我は久我内大臣通基と聞えし者の成(なれ)る果(はて)にて候。或人の讒言(ざんげん)に依て、仙洞の御氣色(ごきしよく)を蒙り、領知(りやうち)を沒收(もつしゆ)せられ、官職を削られ、か〻る住居になりて候。讒言を蒙(かうぶ)りたりと申さば、君に咎を掛け奉るになり候へば、そら恐しく侍る。只、我世の運、傾(かたぶ)き、家の亡びん時、至れり、と存ずれば恨(うらみ)はなく、力及ばず候なり」とぞ語られける。貞時、委細に尋聞きて、申されけるは、「させる御科(おんとが)にもあらず。仰(おほせ)の趣、忠節有りて私(わたくし)なし。天道の憐(あはれみ)、神明の守(まもり)、爭(いかで)か空しからん、只一時(じ)の變災と思召給へ、この聖(ひじり)も鎌倉方(がた)の者にて候。若、故郷(こきやう)に皈り候はゞ、北倏殿にも對面致し、御事の有樣を語り申さん」とて立出でられ、その後、關東に皈りて、この事を奏聞(そうもん)ありしかば、仙洞にも大に驚かせ給ひ、舊領を返付(かへしつ)けられ、久我(こが)の官職、相違なく二度、榮え給ひけり。

 

[やぶちゃん注:全く以って、時頼回国譚(「卷第九 時賴入道諸國修行 付 難波尼公本領安堵」)の二番煎じで厭になる。隠密の回国の巡察使の奸曲の話は既に「卷第十一 囘國の使私欲非法 付 羽黑山伏の訴」に出た。

「城南(せいなん)」洛南。

「山崎」現在の大阪府三島郡島本町山崎。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「小枝河」不詳。「東に」と言っている以上、小流れという一般名詞ではない。当該地は宇治川・木津川・桂川・水無瀬川などの合流地であるが、私の知識では比定出来ない。ただ、架空の話なれば、拘って探す気にもならぬ。

「鐡漿(かね)黑く」平安末期には元服・裳着を迎えるに当たって、女性のみならず、男性貴族・平氏などの武士及び大規模寺院に於ける稚児も鉄漿(おはぐろ)を行った。特に皇族や上級貴族は袴着を済ませた少年少女も化粧やお歯黒・引眉を行うようになり、皇室では幕末まで続いた。

「慚愧懺悔(ざんぎさんげ)」「慚愧」は現行では「ざんき」と読むが、古くは「ざんぎ」と濁っても読み、底本及び濁点が見えるので「さんぎ」とした。但し、原典では「ザンキ」と清音のように見える。底本表記を支持した。「慙愧」も同字で、自己の見苦しさや過ちを反省し、心に深く恥じることを指す。普遍的な常識や倫理に基づくもので、特定の宗教的な意味は本来は持たない。「懺悔」は原典では濁点が見え「ザンゲ」であるが、底本は擦(かす)れの可能性もあるものの、「さんげ」と判じ、やはり底本を支持する。何故なら、本邦では「懺悔」は江戸期に至っても「さんげ」と濁らないのが普通であるからで、現行で一般的なキリスト教の「ざんげ」とは明確に異なったものとして使用されてきたからである。本来は仏教用語で、「自分の以前の行いが悪い事だったと気づき、その罪を悔いて仏・菩薩や高僧らに許しを請うこと」で、「懺」はサンスクリット語の「忍」の意の漢訳で、「罪を許して忍ぶようにと他人に要請すること」を指し、「悔」は「過去の罪を悔いて仏・菩薩・目上の者・信者である会衆の前に告白して詫びること」を示す語である。具体的には半月ごとに行われたウポーサタ (「布薩」と漢訳) の集会で罪を犯した比丘が懺悔を行なった。本邦では神仏習合にによって土着神や神道の神に対しても行われた。

「久我内大臣通基」公卿久我通基(こがみちもと 仁治元(一二四〇)年~延慶元(一三〇九)年)。ウィキの「久我通基」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、『父は正二位大納言右近衛大将久我通忠、母は唐橋通時の娘、または北条義時の娘』『建長七年(一二五五年)二月十三日、従三位に叙される。左中将は元の如し。康元二年(一二五七年)二月二十二日、正三位に昇叙。正元元年(一二五九年)九月二十八日、参議に任ぜられる。正元二年(一二六〇年)三月二十九日、権中納言に任ぜられる。同年四月六日には帯剣を許され、十一月十五日には従二位に昇叙。弘長三年(一二六三年)一月六日、正二位に昇叙。文永五年(一二六八年)十二月二日、中納言に転正。文永六年(一二六九年)三月二十七日、権大納言に任ぜられる。建治四年(一二七八年)二月二十五日、右近衛大将を兼ねる。同年八月二十日には右馬寮御監が宣下される。弘安八年(一二八五年)八月十一日、大納言に転正。弘安一〇年(一二八七年)六月五日、右大将を止められるが、同年十月四日に右大将に復帰。正応元年(一二八八年)七月十一日、内大臣に任ぜられ、右大将は元の如し。同年九月十二日には奨学院別当に補され』、『源氏長者の宣下を受けた。しかし』、同正応元(一二八八)年十月二十七日に内大臣と右大将を止められており、そこから、九年後の永仁五(一二九七)年十月一日にやっと従一位への昇叙を受けている。『建長二年(一二五一年)に』彼の『父久我通忠が没した時には十一歳で』あったが、『祖父久我通光は後室三条に遺産の大半を託したため、父からの遺領は唯一、久我荘』(山城国乙訓(おとくに)郡の荘園。現在の京都市伏見区久我一帯。十二世紀初めにこの地に久我家別邸が営まれ,十二世紀末に同家領となった。その後、久我本荘(下荘)と久我新荘(上荘)に分かれたが、久我家領のまま近世を迎えている。桂川右岸一帯(グーグル・マップ・データ))『のみであった。このため、父の死後、経済的危機に立たされることとなった。しかし、父通忠の後室である平光盛の娘である安嘉門院左衛門督局(池大納言平頼盛の孫)が、父光盛から継承した池大納言領を久我家に譲与し、その経済的危機を救った』。『源通親の子供たちが薨去して各家の分立が始まり、各家の第二世代第三世代となるに従い、久我家が村上源氏中の嫡流として確固たる地位を確立できなくなってきていた。建長二年(一二五〇年)には堀川具実が内大臣となったことを手始めに、文永六年(一二六九年)には中院通成が内大臣に、弘安六年には堀川基具が従一位に、そして正応二年(一二八九年)には准大臣から太政大臣に、正応五年(一二九二年)には土御門定実が従一位准大臣に、そして永仁四年(一二九六年)には内大臣に、と相次いで従一位や大臣に昇っている。通基の父通忠が大納言右大将のまま』で『早世したことや』、『祖父通光の所領の大半を久我家が引き継げなかったなかで、通基が危機感を抱き』、『村上源氏一門の中で優位性を確立する事を』狙って、『源氏長者の宣下を望んだのであろう。しかし』、『せっかく源氏長者を得た直後に、前年に即位した伏見天皇のもとに入内し』、『女御、さらに中宮となった西園寺鏱子の父である西園寺実兼を大臣大将に任じるため』、『通基は』、『内大臣だけでなく』、『約十年間』、『在任した右大将も止めさせられてしま』ったのであった。『近衛大将には』、『通基の時代までは村上源氏一門』からでは、『久我家からしか就任していないが、通基薨去の二年前である嘉元四年(一三〇六年)には』、堀川『基具の息男である具守が右大将に就任』しており、『そのような状況の中で』、『通基の息男通雄の時代に』、『再び』、『所領問題を発生させることになり、鎌倉時代を通じて久我家は困難な状況が続いたのであ』った(下線やぶちゃん)。『一方で、通基は四人の息男を公卿に昇らせることができた。嫡男の通雄は二位中将から権中納言に任ぜられ、通基自身の右大将在任期間は通算約十年間になる。源氏長者の宣下と合わせて、通基は村上源氏一門の中で久我家が一歩抜きん出ることができるよう』、『着々と手を打っていたと見ることができる』とある。この太字下線及び下線部が彼の不遇期や彼に始まる久我家の問題の時期を示すわけだが、どう逆立ちしても、本章に描かれたような茅屋に住むまで、彼が落魄(おちぶれ)よう、はずはないから、これは、貞時側ばかりでなく、通基の方の事実から見ても、あり得ようはずのない架空の話であることが判る。思うに、ウィキにもこの後に出るが、「徒然草」の第百九十五段に出る通基(次の第百九十六段にも登場する)の奇体なシークエンスを換骨奪胎したのが、この章の元ではないかと私は思う。第百九十五段を引く。

   *

或(ある)人、久我繩手(こがなはて)を通りけるに、小袖(こそで)に大口(おほぐち)着たる人、木造りの地藏を田の中の水におし浸して、ねんごろに洗ひけり。心得難く見るほどに、狩衣(かりぎぬ)の男、二、三人、出で来て、「ここにおはしましけり。」とて、この人を具して去(い)にけり。久我内大臣殿(こがのないだいじんどの)にてぞ、おはしける。 尋常におはしましける時は、神妙に、やんごとなき人にておはしけり。

   *

則ち、彼は「尋常におはしましける時は」(精神状態が普通であられた折りは)「神妙に、やんごとなき人にておはしけり」(まことに優れて類いなき知性の持ち主(事実、次の第百九十六段では彼の有職故実の細部への知識が披瀝されるエピソードとなっている)であられたので御座いますが)というのである。則ち、吉田兼好の叙述をまともに受けるなら、久我道基は、正応元(一二八八)年十月の内大臣・右大将の停止(ちょうじ)前から永仁五(一二九七)年十月一日に従一位昇叙を受けるに至る、この九年余りの間、何らかの精神変調を来していたのではないか、ということが疑えるとも言える。そう考えると、「或人の讒言(ざんげん)に依て」とは、そうした精神疾患等からの被害妄想であったと考えると、如何にも腑に落ちるようにも思われるのである。但し、彼の精神変調を記した一次史料がないので、ここまでとしておく。

「仙洞の御氣色(ごきしよく)を蒙り」増淵勝一氏はここに『伏見天皇』と割注する。伏見天皇の在位は弘安一〇年十月二十一日(一二八七年十一月二十七日から永仁六年七月二十二日(一二九八年八月三十日までであるから、通基が内大臣と右大将を停止させられた正応元(一二八八)年十月二十七日当時及び従一位昇叙を受ける永仁五(一二九七)年十月一日当時は、確かに孰れも伏見天皇在位中である。但し、貞時が出家したのは正安三(一三〇一)年で、それから回国したと宣うちゃう訳だから、この事実よりずっと後に茅屋の通基と身を窶した貞時は逢ったことになる。しかもその時は、もう、大覚寺統のわが世の春の後二条天皇の御世でっせ? ちょっとも話が合いませんがな!

「領知(りやうち)を沒收(もつしゆ)せられ」事実に反する。

「官職を削られ」停止されていたであるから、かく言っても、これは実質上の愁訴としては腑に落ちる。

「か〻る住居になりて候」事実に反する。]

2018/02/12

北條九代記 卷第十一 貞時出家 付 北條宗方誅伐

 

      ○貞時出家  北條宗方(むねかた)誅伐

 

同八月二十三日、相摸守貞時、出家して、法名を宗瑞(そうずゐ)と號し、最勝園寺(さいしようをんじの)入道と稱す。執權をば、師時にぞ讓られける。是は時賴入道の孫として、父は武藏守宗政と號す。又、時村は政村の嫡子なり。新相摸守に任じて、師時に差副(さしそ)へて加判連署せしめらる。京都には、當今(たうぎん)、後二條院御位に卽(つ)き給ひ、正安四年を乾元元年と改め、翌年、又、改元有りて嘉元と號す。同三年の春、北條駿河守宗方と、相摸守師時と、權(けん)を爭うて、中、不和なり。宗方は修理〔の〕大夫宗賴が次男なり。共に是(これ)、最明寺時賴入道には、孫なり。殊更、師時は貞時の婿なり。又、相摸守凞時(ひろとき)は婭(あひむこ)にて侍りければ、時村と師時とは至りて親く睦びけり。宗方、深く妬む心あり、先(まづ)、時村を討(うつ)て後に、師時、凞時を討たばやと思ひ、同四月十一日、宗方が與力同心の軍兵を集め、久明將軍の仰(おほせ)なりと詐(いつは)りて、時村を夜討にして攻殺(せめころ)す。時村、今年六十四歳、思(おもひ)も寄らぬ事にてはあり、家子、郎從、起合(おきあは)せ、暫く防戰(ふせぎたゝか)ふといへども、叶はずして、時村、既に討たれければ、郎從、家子、或は討たれ、或は落失(おちう)せて、宗方が兵ども、勝鬨(かちどき)を揚げて引返す。貞時入道、大に怒(いかつ)て、北條陸奧守宗宣と宇都宮貞綱に四百餘騎を差副へて、宗方を討たせらる。宗方も、豫て用意しける事なれば、軍兵を手分して門を差固めて防戰ふ。内より射出す所の矢に疵を蒙り、[やぶちゃん注:ここ、底本句点であるが、訂した。]射伏(いふせ)らる〻者、五、六十人に及べり。是(これ)にては叶(かな)ふまじ。只、四方より攻入(せめい)れとて、兩隣後(どなりうしろ)の町より、垣(かき)を崩し、壁を倒(たふ)して攻入りしかば、兵共、防兼(ふせぎか)ねて、散々に落行(おちゆ)く所を、打伏せ、切倒(きりたふ)し、館(たち)に火をさしければ、宗方は奧に走入(はしりい)り、腹、搔切(かきき)りて死にたりけり。一門の中、何れか疎(うと)からん、無用の妬(ねたみ)に軍(いくさ)を起し、數多(あまた)の人を損(そん)しけるのみならず、身を亡(ほろぼ)し、家を失ふ淺ましさよと、彈指(つまはじき)をしてぞ惡(にく)みける。一味同類を探出(さがしいだ)し、皆、悉く、殺され、軈(やが)て、宗宣を師時に副へて、執權の加判せしむ。同九月十五日に龜山法皇、崩じ給ふ。去年七月十六日には後深草院、崩御あり。今年、又、打續(うちつゞ)きてこの法皇、隱れさせ給ふ。御年五十七歳とぞ聞えし。御葬送の時には、後宇多院も供奉(ぐぶ)し給ふ。公卿、殿上人、數多、出給ひけり。此法皇は、御在位の初(はじめ)、十三歳より御子(みこ)出來て、御讓位の後までも、年々(としどし)に男女の御子(みこ)、數々(かずかず)おはしましけるとかや。

 

[やぶちゃん注:「貞時出家」第九代執権北条貞時(文永八(一二七二)年~応長元(一三一一)年)の晩年は乱れたものとなった。ウィキの「北条貞時」によれば、『元寇による膨大な軍費の出費などで苦しむ中小御家人を救済するため』、永仁五(一二九七)年に「永仁の徳政令(関東御徳政)」を『発布するが、これは借金をしにくくなるという逆効果を招き、かえって御家人を苦しめた』。正安三(一三〇一)年八月、『鎌倉に彗星が飛来(現在のハレー彗星にあたる)、これを擾乱の凶兆と憂慮した貞時は出家し、執権職を従兄弟の北条師時に譲ったが、出家後も幕府内に隠然と政治力を保った』。嘉元三(一三〇五)年四月二十二日、『貞時は鎌倉の宿館が焼失したため師時の館に移ったが、その翌日に内管領の北条宗方によって貞時の命令として連署の北条時村が殺害される事件が起こった』(後注参照)。貞時は五月二日、『時村殺害は誤りとして』、『五大院高頼らを誅殺』、五月四日には『宗方の陰謀と』断じて、『宗方とその与党を誅殺した(嘉元の乱)』。『この事件に関しては執権の師時と宗方の対立、さらに得宗の貞時と』、『歴代にわたって冷や飯を食わされて』きた北条(大仏(おさらぎ))宗宣(正元元(一二五九)年~正和元(一三一二)年:後の第十一代執権。大仏家は第三代執権北条泰時の叔父に当たる北条時房を始祖とする)『の対立が背景にあったとされている』。徳治三(一三〇八)年八月四日には『将軍の久明親王を廃して子の守邦親王が擁立された』。また、『幼い息子である北条高時の足場固めの布石として長崎円喜・安達時顕を登用し彼ら』二『人を高時を補佐する両翼として備えようとした』延慶二(一三〇九)年一月には未だ満五歳であった『高時の元服式を行っている』。だが、『幕府の内外に問題を抱え、家庭的にも息子』二『人に先立たれた貞時の政治は』、『次第に精彩を欠いて情熱は失われた。貞時は次第に政務をおろそかにし』、『酒宴に耽ることが多くなり、御内人の平政連(中原政連)から素行の改善を願う趣旨の諫状を提出されている』。応長元(一三一一)年九月二十二日には『高時が成長するまでの中継ぎであった執権の師時が死去』、『嘉元の乱で貞時と対立した宗宣が執権に就任するなど』、『最晩年の貞時政権下では世代交代と』『得宗権力の弱体化が進行し、貞時が平頼綱を滅ぼして以降』、『築いてきた得宗による専制的な体制は崩壊していった。一方、最高権力者であるはずの貞時が政務を放棄しても』、『長崎氏らの御内人・外戚の安達氏、北条氏庶家などの寄合衆らが主導する寄合によって幕府は機能しており、得宗も将軍同様装飾的な地位に祭り上げられる結果となった』とある。

「北條宗方(むねかた)」(弘安元(一二七八)年~嘉元三(一三〇五)年)は長門探題で第八代執権北条時宗の異母弟北条宗頼の次男ウィキの「北条宗方」によれば、時宗の甥であるが、その猶子となっている(誕生の翌年に父宗頼が長門国で死去したため)。二十歳で六波羅探題北方となり、正安二(一三〇〇)年に鎌倉へ戻って評定衆に就任している。『五位への叙爵は』十七『歳だが、このときまだ兄兼時は存命であり、それでも兄よりは』二『歳早い。評定衆となった歳は』二十三『歳であり、従兄弟で北条貞時のあと』に『執権となった北条師時(』十九『歳)よりは若干遅いが、それでも』永仁三(一二九五)年に『没した兄兼時の』三十二『歳よりもずっと早い。また』、『北条庶流の名門で貞時執権時の連署大仏北条宣時の嫡子で、嘉元の乱で宗方を討った大仏北条宗宣が評定衆となったのは』二十九『歳、赤橋北条久時は』二十七『歳である。これは兄弟の居ない北条貞時が成人してから、もっとも近い血縁としての従兄弟、かつ父時宗の猶子として義兄弟ともなる師時、兼時、宗方の官位や昇進を早めたものと推測され、貞時には庶流というより』、『得宗家の一員として扱われていたと思われる』。正安三(一三〇一)年には『引付頭人を経て越訴頭人とな』り、更に三年後の嘉元二(一三〇四)年十二月には、『平禅門の乱以降』、『人事が迷走した得宗家執事(内管領ともいわれる)に北条一門として初めて就任』、『同時に幕府侍所所司に』も就いている。この時、二十七歳である。「保暦間記」によれば、『執権職への野心を抱いて挙兵し』、嘉元三(一三〇五)年四月、『貞時の有力重臣で連署を務めていた北条時村を殺害。さらに貞時殺害も目論んだが』、同年五月四日に『貞時の命を受けた北条宗宣率いる追討軍によって殺されたとされる(嘉元の乱)』。但し、「保暦間記」『の記述は、霜月騒動や平禅門の乱の原因についてもあまり信憑性はなく、嘉元の乱についても、京の公家の日記等と突き合わせると如何にも不自然であり疑問視されている。動かしがたいのは以下の範囲である』。四月二十二日、『既に執権職を退きながらも』、『実権を握っていた北条貞時の屋敷で火災があり、貞時は従兄弟で執権であった北条師時の屋敷に移る』。翌二十三日、『貞時の「仰せ」とする得宗被官、御家人が当時連署であった北条時村の屋敷を襲い』、『殺害、屋敷一帯は炎に包まれた』。五月二日、『時村討手の者』十二『人の内、逐電した和田茂明を除く』十一『名が首を切られた』。五月四日、『連署に次ぐ地位にあった一番引付頭人北条宗宣らが貞時の従兄弟で得宗家執事、越訴頭人、幕府侍所所司の北条宗方を討つ。宗方は佐々木時清と相討ちとなり、二階堂大路薬師堂谷口(現在の鎌倉宮の左側あたりか)にあった宗方の屋敷には火』が『かけられ』、『宗方の多くの郎党が戦死した』。『乱の後、幕府に捕らえられた宗方の遺児は、武蔵国六浦の海に籠に入れられて沈められた』という。また、ウィキの「北条宗宣」によれば、歴史学者(日本中世政治史)『細川重男は嘉元の乱の背景に宗宣の蠢動があったことを指摘し、宗宣は貞時に反抗的であったという論陣を展開している。この理由に関しては』、『大仏家の始祖は第』三『代執権である北条泰時の叔父に当たる北条時房にまで遡り、時房は泰時を補佐する連署として幕政に重きを成したが、その後は時頼・時宗・貞時と得宗家』三『代にわたって幕政で軽んじられた存在に甘んじていたので、嘉元の乱を契機として大仏流の巻き返しを目論んで貞時と対立したとしている』。『これに対しては鈴木宏美が反証している』が、そこで『時房の子・朝直は泰時の娘を妻としたことで北条一族のなかで重んじられていたとするが、実際は伊賀氏の変に伴う泰時の意向に屈服して愛妻(前妻の伊賀光宗の娘)との離縁を余儀なくされているようであり(朝直が当初、泰時の意向に反対していたことが史料にみられる』『)、朝直以降の大仏流北条氏の当主も、代々幕府政治の要職に就くことはできた』『ものの、将軍を烏帽子親として一字を与えられる得宗家と赤橋流北条氏の当主に対して、家格的にはそれよりも一段低い、得宗家を烏帽子親とする家と位置づけられていたことが指摘されている』。『宗宣の後も貞宗(のち維貞)―高宣と同じく得宗の偏諱を受けている』『ことから、要職には就ける代わりに得宗への臣従を余儀なくされていた可能性があり、内管領・平頼綱を排除した(平禅門の乱)後』、『貞時が得宗家への権力集中を目指した政治を行った』『ことに宗宣が反感を抱いていた可能性も否定はできない』とある。

「相摸守貞時、出家して、法名を宗瑞(そうずゐ)と號し」法号は「崇演(すうえん)」の誤り

「師時」北条師時(建治元(一二七五)年~応長元(一三一一)年)鎌倉幕府第十代執権(非得宗家)。父は第八代執権北条時宗の同母弟北条宗政。母は第七代執権(非得宗家)北条政村の娘。父の死後に伯父・時宗の猶子となったウィキの「北条師時」によれば、永仁元(一二九三)年、十九歳で評定衆(五月三十日)、直後六月五日に三番引付頭人、同年十月二十日には執奏、十二月二十日に従五位上を叙任されるなど、『鎌倉政権の中枢に抜擢される。従兄弟である執権・北条貞時が平頼綱を永仁の鎌倉大地震に乗じて誅殺して実権を取り戻した平禅門の乱の直後である。引付衆を経ずに評定衆となるのは、得宗家一門と赤橋家の嫡男のみに許される特権とされる。これにより師時は北条氏庶流というより得宗家の一員と見なされていたとされる。またそれが平禅門の乱の直後であり、また父宗政を凌ぐ要職であることから、単に家格だけではなく、兄弟の居ない貞時が、自分にとって一番近い血縁である師時や、もう一人の従兄弟である北条宗方を政権の中枢に引き上げることによって、周りを固めようとしたとも見られている』。『貞時の出家に伴い』、『執権に就任。貞時の嫡男である北条高時(後の』十四『代執権)が成人するまでの中継ぎ役として期待されたが、幕政の実権は貞時に握られていた』。なお、『補佐役の連署には母方の伯父である北条時村が任じられている』とある。

「時村」北条時村(仁治三(一二四二)年~嘉元三(一三〇五)年)は第七代執権北条政村(第二代執権義時の五男)の嫡男。既出既注であるが、大分、前の注なので再掲しておく。ウィキの「北条時村(政村流)」によれば、『父が執権や連署など重職を歴任していたことから、時村も奉行職などをつとめ』、建治三(一二七七)年十二月に(本書では翌建治四年としか読めないが、それが現地への着任実時であるなら、問題あるまい)『六波羅探題北方に任じられた。その後も和泉や美濃、長門、周防の守護職、長門探題職や寄合衆などを歴任した』。弘安七(一二八六)年、第八代『執権北条時宗が死去した際には鎌倉へ向かおうとするが、三河国矢作で得宗家の御内人から戒められて帰洛』。正安三(一三〇一)年、『甥の北条師時が』次期の第十代『執権に代わると』、『連署に任じられて師時を補佐する後見的立場と』なっている。ところが、それから四年後の嘉元三(一三〇五)年四月二十三日の『夕刻、貞時の「仰せ」とする得宗被官』や御家人が、当時、『連署であった北条時村の屋敷を』突如、襲って『殺害、葛西ヶ谷の時村亭一帯は出火により消失』したとある。『京の朝廷、及び六波羅探題への第一報はでは「去二十三日午剋、左京権大夫時村朝臣、僕被誅了」』(権大納言三条実躬(さねみ)の日記「実躬卿記」四月二十七日の条)、『「関東飛脚到著。是左京大夫時村朝臣、去二十三日被誅事」』(大外記(だいげき:朝廷の高級書記官)であった中原師茂の記録)とあって、孰れも「時村が誅された」と記している。この時、『時村を「夜討」した』十二人は、それぞれ、『有力御家人の屋敷などに預けられていたが』、五月二日に『「此事僻事(虚偽)なりければ」として斬首され』ている。五月四日には『一番引付頭人大仏宗宣らが貞時の従兄弟で得宗家執事、越訴頭人、幕府侍所所司北条宗方』(北条時宗の甥)『を追討、二階堂大路薬師堂谷口にあった宗方の屋敷は火をかけられ、宗方の多くの郎党が戦死し』た。「嘉元の乱」と『呼ばれるこの事件は、かつては』「保暦間記」の『記述により、野心を抱いた北条宗方が引き起こしたものとされたが、その解釈は鎌倉時代末期から南北朝時代のもので』、同時代の先に出た「実躬卿記」の同年五月八日条にも『「凡珍事々々」とある通り、北条一門の暗闘の真相は不明である』とする。なお、生き残った時村の『孫の煕時は幕政に加わり』、第十二代『執権に就任し』ている。

「北條駿河守宗方と、相摸守師時と、權(けん)を爭うて、中、不和なり」言葉で見ていると判り難いが、要は宗方も師時も時頼の孫(前者は傍系、後者は直系得宗)に当たるのである。ウィキの「北条の「北条氏系図」(詳細版)を表示させて御覧になられるとよい。

「師時は貞時の婿なり」師時の正室は北条貞時の娘であった。

「相摸守凞時(ひろとき)」後に第十二代執権となる北条煕時(弘安二(一二七九)年~正和四(一三一五)年)父は北条為時で、煕時は第七代執権北条政村の曾孫、時村の孫に当たる。初名は貞泰(さだやす)であった。ウィキの「北条煕時」によれば、『引付衆などを務め』、嘉元三(一三〇五)年に『長門探題となる。同年の』四『月に嘉元の乱が起こり、祖父(政村の子で為時の父)の時村が討たれ、続いて北条宗方らが貞時らに滅ぼされたが』、『煕時は生き残った。この嘉元の乱では煕時も宗方に命を狙われたとされている』、『なお、この頃までには貞時の娘と結婚していたとされている』。延慶二(一三〇九)年三月に『引付再編が行なわれて』一『番頭人となり、直後の四月九日には『金沢貞顕と共に寄合衆に加えられ』、『この頃から煕時は得宗の北条貞時や金沢貞顕らと共に幕政を実質的に主導する立場の』一『人になった』。応長元(一三一一)年九月に第十代執権の『北条師時が死去して連署だった大仏宗宣が第』十一『代執権に就任すると』、十月三日、『煕時は連署に就任した』。正和元(一三一二)年六月二日に『宗宣が出家すると』、第十二代執権に就任したが、この頃には既に『実権は内管領の長崎円喜に握られていた』とある。

「婭(あひむこ)」姉妹の夫同士を謂う。前注で示した通り、北条熙時の室は(「南殿」と称した)、やはり、貞時の娘であった。なお、熙時は師時より四つ下である。

「四月十一日」既に注した通り、二十三日の誤り

「北條陸奧守宗宣」前の方の複数の注を参照されたい。或いはウィキの「北条宗宣をどうぞ。

「宇都宮貞綱」(文永三(一二六六)年~正和五(一三一六)年)は御家人宇都宮氏第八代当主。母は安達義景の娘・名は北条貞時の偏諱を受けたもの。ウィキの「宇都宮貞綱によれば、弘安四(一二八一)年の元寇の「弘安の役」で第八代執権『北条時宗の命を受けて山陽、山陰の』六『万もの御家人を率いて総大将として九州に出陣した』。『その功績により戦後、引付衆の一人に任じられ』ている。『時宗の死後は北条貞時に仕え』た。

「宗方を討たせらる」五月四日。

「疎(うと)からん」疎外されているなどということがあろうか。反語。

「去年」嘉元二(一三〇四)年。

「男女の御子(みこ)、數々(かずかず)おはしましけるとかや」ウィキの「深草天皇で、ざっと数えても十七人いる。]

 

北條九代記 卷第十一 後伏見院御讓位

 

       ○後伏見院御讓位

 

正安三年正月に、鎌倉よりの使節として隱岐〔の〕前司時淸(とききよ)、山城前司行貞、上洛して、主上の御位を下(おろ)し奉り、東宮へ讓り奉り給ふ。主上今年未だ十四歳、御在位僅に三年にして、何の御事もおはしまさざりけるを、押下(おしおろ)し奉ること、天道神明(しんめい)の照覽も如何(いかゞ)恐(おそろ)しとぞ、心ある人は申合(まうしあは)れける。太上天皇の尊號、蒙らせ給ひけり。王道、久しく癈れて、政事(せいじ)に付きては、萬(よろづ)、叡慮に任せられず、天下は、是(これ)、天子の天下にもあらず、又、天下の天下にもあらず、關東より計(はから)ひ奉り、武家の天下となりける事よ、と申す人も多かりけり。邦治〔の〕親王、御位に卽(つ)き給ふ。寶算十七歳、二條〔の〕太政大臣兼基公、關白たり。龜山〔の〕法皇、後宇多〔の〕上皇、既に院中にして御政務を聞召(きこしめ)す。伏見、後伏見の御在位の時には參仕(まゐりつか)ふる人も希(まれ)なりけるに、今は又、貴賤共に集參りて賑ひぬる有樣、天下は市道に似て、交態(かうたい)、是、賴難(たのみがた)し。門外、往昔(そのかみ)、雀羅を張るが如くなりしを、忽(たちまち)に引替て、鼎(かなえ)に足あり、柱に礎(いしずゑ)あり。雍熙(ようき)、高く耀きて、門楣(もんぴ)、弘(ひろ)く開け、異類、皆、臣屬となり、朽根(きうこん)、悉く芬芳(ふんぱう)を吐く、誠に移代(うつりかは)るは、世の中の風情なり。

 

[やぶちゃん注:「正安三年正月」正安三(一三〇一)年一月二十一日年。

「隱岐〔の〕前司時淸(とききよ)」御家人隠岐(佐々木)時清(仁治三(一二四二)年~嘉元三(一三〇五)年)。頼朝以来の名門佐々木氏の子孫。北条時頼が得宗家当主であった頃(寛元四(一二四六)年~弘長三(一二六三)年)に元服をし、その偏諱(「時」の字)を授かったとみられる。「吾妻鏡」によれば、弘長三年正月十日条で左衛門少尉・検非違使として名が見え、翌文永元(一二六四)年十一月に従五位下に叙爵されている。建治元(一二七五)年、引付衆、弘安六(一二八三)年、評定衆。永仁三(一二九五)年に評定衆を辞している。次章の「嘉元の乱」で北条宗宣の率いる追討軍に従軍したが、北条宗方と相討ちになり、死去している(ウィキの「隠岐時清」に拠る)

「山城前司行貞」これは名門二階堂氏の子孫である二階堂行藤(ゆきふじ 寛元四(一二四六)年~乾元元(一三〇二)年)の誤りではないかと思われる。鎌倉後期の幕府の文官で評定衆二階堂行有の子。永仁元(一二九三)年、政所執事となり、越訴奉行や五番引付頭を勤め、永仁三年には評定衆となっている。正応三(一二九〇)年の浅原為頼による伏見天皇殺害未遂事件(卷第十一 淺原八郎禁中にして狼藉を参照)やこの後伏見天皇譲位問題に代表される皇位継承をめぐる弐皇統の抗争に対して、幕府の使者として交渉に当った、と平凡社の「世界大百科事典」にあり、一緒に行った佐々木時清とのバランスから考えても、評定衆或いはその経験者でないとおかしいからである。彼はこの時、現役の評定衆である。

「邦治〔の〕親王」第九十四代天皇後二条天皇(弘安八(一二八五)年~徳治三(一三〇八)年/在位:正安三年一月二十一日(一三〇一年三月二日)。後宇多上皇第一皇子。

「天下は、是(これ)、天子の天下にもあらず、又、天下の天下にもあらず、又、天下の天下にもあらず、關東より計(はから)ひ奉り、武家の天下となりける事よ」中国の代表的な兵法書で「六韜(りくとう)」(「韜」は剣や弓などを入れる袋の意)の一巻の「文韜」に、

   *

天下非一人之天下、乃天下之天下也。同天下之利者、則得天下、擅天下之利者、則失天下。

(天下は一人の天下に非ず、乃(すなは)ち、天下の天下なり。天下の利を同じくする者は、則ち、天下を得、天下の利を擅(ほしいまま)にする者は、則ち、天下を失ふ。)

とあるのに引っ掛けて批判したもの。

「寶算」天子を敬ってその年齢をいう語。聖寿。聖算。

「二條〔の〕太政大臣兼基」関白二条良実の子二条兼基(文永四(一二六七)年~建武元(一三三四)年)。兄師忠の養子となって二条家を継いだ。

「貴賤共に集參りて賑ひぬる有樣、天下は市道に似て」大覚寺統の天下となって、胡散臭い連中までが宮中に入り込んでは、恰も内裏の内も、京の市中の巷間のような有様の如くになって。

「交態(かうたい)」そういった一癖も二癖もある連中が往ったり来たりする様子。

「雀羅を張るが如くなりしを」「門前雀羅を張る」の故事成句に基づく。「雀羅」は「じやくら(じゃくら)」と読む。雀を捕えるための「かすみ網」のこと。訪れる人もなく、門の前には雀が、これ、沢山、群れ飛んでいて、網を張れば容易に捕えられるほどだ、という謂いで、「訪れる者もいなくなってしまい、ひっそり如何にも寂れてしまっている」ことの喩え。これはもと、司馬遷の「史記」汲・鄭(てい)列伝が元であるが(昔、翟(てき)公が官をやめたとたん、誰も来ずなって、「廢門外可設雀羅」(門を廢し、外に雀羅を設くべし)というありさまに成った)、かの白居易の「寓意詩五首」の一節(高位高官が左遷されてしまい、主の居なくなった屋敷は「賓客亦已散、門前雀羅張」(賓客亦(ま)た已(すで)に散じ、門前、雀羅張る。))によって広く知られるようになったものである。持明院統の二代の伏見・後伏見天皇の頃は、すっかり衰微して閑散としていた宮中が、大覚寺統の院政と同統の後二条天皇即位によって。

「鼎(かなえ)に足あり、柱に礎(いしずゑ)あり」脚を持った青銅器の鼎は君主などの権力の象徴であり、建物を支える柱に礎石があるというのは盤石な権勢をシンボルする。

「雍熙(ようき)」「雍」は「和やかに保つ」、「熙」は「恩徳が広く行き渡る」の意。大覚寺統の皇族らが如何にもわが世の春を大いに楽しみ。

「門楣(もんぴ)」具体には「門の上の梁(はり)」であるが、ここは一族の棟梁・首領及びその一門で、大覚寺統の皇族らの前途を指す。

「異類」これまで無関係であった者ども。

「朽根(きうこん)、悉く芬芳(ふんぱう)を吐く」根まで朽ち腐ってしまったはずの木が、再び花を咲かせて、えもいわれぬ香しい香りを放つかのようで。]

北條九代記 卷第十一 寧一山來朝

 

      ○寧一山(ねいいつさん)來朝

 

同六年十月十日、東宮胤仁(たねひと)、御位に卽(つ)き給ふ。御年十一歳なり。主上は御讓位の後に院號蒙らせ給ひて、伏見院と稱し奉る。この時に當(あたつ)て、後深草、龜山、後宇多、伏見、何れも皆、存(ながら)へおはしまして、仙院の御所、四家まで相竝び給ひけり。同八月に後宇多〔の〕院第一の皇子(みこ)、邦治(くにはるの)親王を東宮に立て給ふ。御母は久我(こがの)太政大臣源〔の〕具守(とももり)公の御娘(むすめ)、西華門院基子(せいぐわもんゐんもとこ)とぞ申しける。一條〔の〕左大臣兼基公、攝政たり。同七年に改元ありて、正安とぞ號しける。この年、元朝より一寧といふ僧を遣して、日本に來らしむ。又は一山と號す。元の國王の密詔(みつせう)を受けて、日本間諜(かんてふ)の爲とぞ聞えし。抑(そもそも)、一山は宋の臺州(たいしう)の人なり。姓は胡氏、幼稚の古(いにしへ)は郡(ぐん)の鴻福寺の融無等禪師(ゆうむとうぜんじ)の席下に投じ、律を應眞寺に習學し、台宗[やぶちゃん注:底本「臺宗」であるが、これは天台宗のことであり、その場合は旧字で示さないのが正しいので、特異的に訂した。]を延慶寺(えんきやうじ)に傳授せり。然れども義學(ぎがく)を嫌ひ、禪搨(ぜんとう)を扣(たゝ)きて、疑慮を天童寺の堂頭(だうとう)敬簡翁に質(たゞ)し、遂に、一法(ほふ)の人に與ふるなし、と云ふに依て、豁然(くわつぜん)として契當(けいたう)す。元朝、既に靜謐(せいひつ)に革命するに及びて、祖印寺(そいんじ)に住して、弘法(ぐほふ)する事、十年なり。其よりして、補陀落山(ふだらくせん)に移りて、禪坐(ぜんざ)せり。元の國主、この日本を伺ひて、討取(うちとら)んと思ふ心を捨てすずして、奇謀を囘(めぐ)らし、一山を本朝に遣し侍りけり。正安元年に舶(ふね)を筑紫(つくし)の太宰府に入れたりけるを、相州貞時、是を聞き給ひ、蒙古の王、既に日本を伺ふ術(てだて)なりと知りて、一山を捕へて伊豆國に流すといへども、この僧の道法(だうほふ)、學德の譽(ほまれ)あるを以て、貞時、元より、禪法を好み給ふ故に、召返(めしかへ)して鎌倉に請じ、建長寺に居らしめ、日每に相看(しやうかん)して法要を問はれけり。後宇多天皇も、深く佛心の宗流(しりう)を重(おもん)じ、京都に招きて、南禪精舍(なんぜんしやうじや)に住せしめ、大道の要語(えうご)を顧問(こもん)し給ふ。往昔(そのかみ)、補陀落寺(ふだらくせんじ)にありし時、大衆に垂示(すゐじ)せらんける。

[やぶちゃん注:以上の偈は底本では全体が二字下げで数字を除いて総ルビであるが、ここでは白文で示した(後注の★で返り点を改めて附し、訓読文を示した)。また、偈句は句点を挟んで続いているが、句点は除去し、句ごとに改行した。前後を一行空けた。後の辞世の偈も同じ処理をした。]

 

 白花岩前敷揚古佛家風

 從聞思修入三摩地

 盡底掲翻

 便見頭々不昧

 一十二面鼻直眼橫

 三十二身東倒西擂與麼會得

 皇恩佛恩一時報畢

 

といへり。逾に元國にも皈らず、文保元年十月に、

 

 橫行一世

 佛祖呑氣

 箭已離弦

 虛空落地

 

といふ偈を書して、奄然(えんぜん)として遷化(せんげ)あり。年七十一歳なり。

 

[やぶちゃん注:「寧一山(ねいいつさん)」(ねいいっさん)」は一山一寧(いっさんいちねい 一二四七年~文保元(一三一七)年)のこと。台州臨海県(現在の浙江省台州地区臨海市)出身の臨済僧。来朝は正和元年十月八日(ユリウス暦一三一二年十一月七日)ここに記されている通り、彼の渡来は、過去の日本遠征(元寇)で失敗した元の第六代皇帝成宗が日本を従属国とするための懐柔策として送ってきた朝貢督促の国使としてであった。妙慈弘済大師という大師号も、そのために成宗が一寧に贈ったものである。以下、参照にしたウィキの「一山一寧」によれば、『大宰府に入った一寧は元の成宗の国書を執権北条貞時に奉呈するが、元軍再来を警戒した鎌倉幕府は一寧らの真意を疑い』、『伊豆修禅寺に幽閉し』てしまう。『それまで鎌倉幕府は来日した元使を全て斬っていたが』、『一寧が大師号を持つ高僧であったこと、』一寧が門人一同の外に滞日経験を持つ西澗子曇(せいかんしどん:彼は文永八(一二七一)年から八年間の来日し、鎌倉の禅門に知己が多かった)『を伴っていたことなどから』、『死を免ぜられたと思われる』。『修善寺での一寧は禅の修養に日々を送り、また』、『一寧の赦免を願い出る者がいたことから、貞時はほどなくして幽閉を解き、鎌倉近くの草庵に身柄を移した』。『幽閉を解かれた後、一寧の名望は高まり』、『多くの僧俗が連日のように一寧の草庵を訪れた。これを見て』、『貞時もようやく疑念を解き』、永仁元(一二九三)年の火災以降、衰退しつつあった『建長寺を再建して住職に迎え、自らも帰依した。円覚寺・浄智寺の住職を経』、正和二(一三一三)年『には後宇多上皇の招きにより上洛、南禅寺』三世となり、そこで没している。

「同六年十月十日、東宮胤仁(たねひと)、御位に卽(つ)き給ふ」「同六年」は永仁六(一二九八)年。「十月十日」は七月二十二日(一二九八年八月三十日)の誤り。「胤仁」伏見天皇の第一皇子の第九十三代天皇となった後伏見天皇(弘安一一(一二八八)年~延元元(一三三六)年)。しかし次章で見るように、勢力を巻き返した大覚寺統や幕府の圧力を受けて、三年後の正安三(一三〇一)年、大覚寺統の後宇多上皇の第一皇子後二条天皇(後注参照)に譲位することとなった。

「主上」伏見天皇(文永二(一二六五)年~文保元(一三一七)年)。第九十二代天皇。後深草天皇第二皇子。

「後深草」寛元元(一二四三)年~嘉元二(一三〇四)年。第八十九代天皇。持明院統の祖。

「龜山」建長元(一二四九)年~嘉元三(一三〇五)年。第九十代天皇。大覚寺統の祖。

「後宇多」文永四(一二六七)年~元亨四(一三二四)年。第九十一代天皇。亀山天皇第二皇子。

「仙院」上皇・法皇

「同八月」永仁六(一二九八)年八月十日。

「後宇多〔の〕院第一の皇子(みこ)、邦治(くにはるの)親王」後の第九十四代天皇後二条天皇(弘安八(一二八五)年~徳治三(一三〇八)年/在位:正安三年一月二十一日(一三〇一年三月二日)。後宇多上皇第一皇子。

「久我(こがの)太政大臣源〔の〕具守(とももり)」堀川具守(建長元(一二四九)年~正和五(一三一六)年。従一位内大臣左近衛大将。太政大臣堀川基具の長男で、後の第九十四代天皇となる後二条天皇の外祖父となる。

「西華門院基子(せいぐわもんゐんもとこ)」(文永六(一二六九)年~正平一〇/文和四(一三五五)年)。後宇多天皇の宮人で後二条天皇の生母。准三后。ここに書かれている通り、堀川具守の娘であるが、太政大臣であった祖父堀川基具の養女となっている。ウィキの「堀川基子」によれば、弘安八(一二八五)年に『邦治親王(後の後二条天皇)を生む。しかし、太政大臣の孫という生まれながらも処遇には恵まれず、「増鏡」によれば』永仁六年の『邦治親王立太子後も』、また、正安三(一三〇一)年の『即位後も叙位がなく、基子が従三位に叙せられたのは』徳治三(一三〇八)年)八月に『後二条天皇が亡くなって出家して後、同じ年(元号は延慶に改元後)の』十一月二十七日、次いで同年一月二日に『准三宮・院号宣下がなされて、西華門院と称した』とある。

「一條〔の〕左大臣兼基」二条兼基(文永四(一二六七)年~建武元(一三三四)年)の誤り。関白二条良実の子。従一位。後に関白・太政大臣となった。

「同七年に改元ありて、正安とぞ號しける」永仁七年四月二十五日(ユリウス暦一二九九年五月二十五日)後伏見天皇の即位により改元。

「密詔(みつせう)」密命。

「間諜(かんてふ)の爲」スパイするため。

「臺州(たいしう)の人なり」台州臨海県(現在の浙江省台州市臨海市)の出身。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「鴻福寺」不詳。

「融無等禪師(ゆうむとうぜんじ)」臨済禅大慧派の無等慧融。詳細事蹟不詳。

「律」中国で興った仏教の一派。徹底した戒律を準拠とし、受戒を成仏の要因とする。

「應眞寺」不詳。

「延慶寺(えんきやうじ)」不詳。

「義學(ぎがく)」増淵勝一氏訳(一九七九年教育社刊)の割注に『有志の寄付金などによって設立した無月謝の私立学校』とある。

「禪搨(ぜんとう)を扣(たゝ)きて」禅門の寺に教えを乞うて。「搨」は「しじ」で牛車(ぎっしゃ)の牛を外した時、轅(ながえ)の軛(くびき)を支え、また、乗降の踏台として用いる具であるが、ここはそれを寺の門に喩えたものか。なお、この「搨」(トウ)自体にも「叩く・打つ」の意がある。

「天童寺の堂頭(だうとう)敬簡翁」「ブリタニカ国際大百科事典」の「一山一寧」に、天童山筒翁敬禅師に参禅を許された、とある。

「遂に、一法(ほふ)の人に與ふるなし、と云ふに依て」増淵氏の訳では、『遂に「一つの物で人が悟りに導かれるものはない」という教えによって』とある。

「豁然(くわつぜん)」視野が大きく開けるさま、或いは、心の迷いや疑いが消えるさま。副詞的に「忽ち」と訳してよい。

「契當(けいたう)」増淵氏は『全集と交わりを結んだ』と訳されておられる。

「元朝、既に靜謐(せいひつ)に革命するに及びて」増淵氏は『元朝がもはや南宋を滅ぼして平静になるに及んで』と訳されておられる。

「祖印寺(そいんじ)に住して、弘法(ぐほふ)する事、十年なり」「ブリタニカ国際大百科事典」の天童山筒翁敬禅師への参禅の後、育王山に登って蔵叟善珍・寂窓有照・頑極行弥 (がんぎょくぎょうみ) らに禅を学び、頑極の法を継いだ。一二八四年、四明祖印寺に住んでいた、とある(増淵氏の割注では一二七九年とする)。

「補陀落山(ふだらくせん)」補陀山観音寺。これは現在の浙江省舟山市普陀区にある普済寺(ふさいじ)の前身であろう(増淵氏もそう認識しておられる)。中国の観音霊場普陀山を代表する禅宗寺院で普済寺のある普陀山は「中国四大仏教名山」にも数えられる。この寺は日本の入唐僧恵萼(えがく 生没年不詳:平安前期の僧)によって創始されたとされる。ウィキの「恵萼」によれば、彼は八五八年、『五台山から得た観音像(『仏祖歴代通載』では菩薩の画像とする)を日本に持って帰ろうとしたが、普陀山で船が進まなくなった。観音像を下ろしたところ船が動くようになったため、普陀山に寺を建ててその観音像を安置したという。この観音は、唐から外に行こうとしなかったことから、不肯去観音(ふこうきょかんのん)と呼ばれた』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。「卷第七 下河邊行秀補陀落山に渡る 付 惠蕚法師」も参照されたい。

「元の國主」元の第二代皇帝成宗。テムル(一二六五年~一三〇七年)。世祖クビライの次男チンキムの三男。

「正安元年」一二九九年。但し、この遣使には紆余曲折の前段階がある。ウィキの「一山一寧」によれば、『二度の日本遠征(元寇)に失敗した元の世祖クビライは再遠征の機会をうかがうと共に、交渉によって平和裏に日本を従属国とするべく使者を派遣した』。『当時の日本は臨済禅の興隆期にあり禅僧を尊ぶ気風があったため、補陀落山観音寺の住職であった愚渓が使者に選ばれた』が、一二八二年(本邦の弘安五年相当)の『最初の渡航は悪天候によって阻まれ』、二年後には何とか『対馬まで辿り着くが、日本行きを拒む船員等の騒乱によって正使王積翁が殺害され』、『中止され』ている。一二九四年(永仁二年相当)、『世祖の後を継いだ成宗は』、『再び』、『日本の属国化を図り』、『愚渓に三度目の使者を命ずるが』、『老弱のため果たせず、代わりに観音寺の住職を継いでいた一山一寧を推薦した。成宗は一寧に妙慈弘済大師の大師号を贈り、日本への朝貢督促の国使を命じた』とある。

「相看(しやうかん)」面会。

「法要」禅法の肝要。

「南禪精舍(なんぜんしやうじや)」南禅寺。

「垂示(すゐじ)」「すいし」とも読む。禅宗で師が弟子たちに教えを説くこと。また、その教え。

★以下、まず返り点を打つ。

 

白花岩前敷揚古佛家風

聞思修三摩地

盡底掲翻

便見頭々不昧

一十二面鼻直眼橫

三十二身東倒西擂與麼會得

皇恩佛恩一時報畢

 

 底本訓点に従って訓読する。

 

白花(はくくわ) 岩前に古佛の家風を敷揚(ふやう)す

聞思修(もんししゆ)より 三摩地(さんまぢ)に入る

盡して底(そこ)を掲翻(けうほん)す

便(すなは)ち見る 頭々(とうとう) 不昧(ふまい)

一十二面 鼻 直(なほ)く 眼 橫(よこた)ふ

三十二身 東倒西擂(とうたうせいらい) 與麼(よも)に會得(えとく)せば

皇恩 佛恩 一時(じ)に報じ畢(をは)る

 

 とても歯が立たないので、増淵氏の訳を引用させて戴く。

   《引用開始》

白い花が岩の前で散っているのを眺めていると、壁支仏(びゃくしぶつ)〈ひとり修業する、消極的な悟りを求める小乗の修業者〉の風儀を展開しているように見える。そこで聞〈仏法を聴聞して知ること〉・思〈これをみずから思惟すること〉・修〈仏道の実践修行〉から精神を統一し、それを徹底的に推し進めてみる。すると頭がはっきりしてくる。文殊以下の三十二菩薩のお姿があちこちに浮んで来る。これを共に体得すれば、皇帝の恩にも仏の恩にも、同時に報いおわることができる。

   《引用終了》

「皈らず」「かへらず」。「歸らず」。

「文保元年十月」十月二十五日。ユリウス暦一三一七年。

★以下、まず返り点を打つ。

 

行一世

佛祖呑氣

箭已離ㇾ弦

虛空落ㇾ地

 

 底本訓点に従って訓読する。

 

一世に橫行(わうぎやう)す

佛祖の呑氣

箭(や) 已(すで)に弦(げん)を離れ

虛空 地に落つ

 

 ここも増淵氏の訳を引用させて戴く。

   《引用開始》

一生涯を自在に生きた。仏はそれを問題にしないでくださった。矢はすでに弦を離れ、大空は地に落ちた。そのように私の命もこの世を去る時が来た。

   《引用終了》

「奄然(えんぜん)」忽(たちま)ち。俄かに。忽奄 (こつえん)。]

2018/02/11

北條九代記 卷第十一 囘國の使私欲非法 付 羽黑山伏の訴

 

      ○囘國の使(つかひ)私欲非法  羽黑山伏の訴

近頃(このころ)、諸國邊邑(へんいふ)の間(あひだ)に、惡黨の者、多くして、山林嘯聚(せうじゆ)の強盜となり、嶺頭野徑(れいとうやけい)に橫行(わうぎやう)し、寺社、幽屋(いうおく)に推入(おしい)りて、財物(ざいもつ)を掠(かす)め、米穀を奪ひける程に、庶民は白浪(はくらう)の揚(あが)るを恐れ、旅客は綠林(りよくりん)の陰を厭(いと)ひ、驛路の往來も容易(たやす)からず。しかのみならず、守護、地頭なんど云はるゝ者共、私欲を專(もつぱら)として、政道、疎(おろそか)なり。百姓を責虐(せきぎやく)し、賦斂(ふれん)を重く、點役(てんやく)を滋(しげ)くしければ、或は家財を壞賣(こぼちう)り、或は妻子を沽却(こきやく)す。國、虛(きよ)し、民、疲れたる由(よし)、相摸守貞時、聞き給ひ、「我、不肖にして政理に暗く、萬事、行足(ゆきたら)ぬ故にこそ、か〻る惡事の出來(いでき)侍るなれ。天道神明(たうしんめい)の見そなはし給ふ御眥(おんまなじり)の恥かしさよ」と大に歎思(なげきおも)はれ、卽ち、諸國へ使者を遣して、國郡村里の支配、守護、地頭の行跡、民間の愁苦(しうく)、田畠(でんぱた)の有樣(ありさま)、竊(ひそか)に尋問(たづねと)はしむ。前代時宗の執權たりし時には、正直學道(しやうじきがくだう)の智士(ちじ)を撰び、兩人づつ出して囘國せさせられしかば、諸國の御家人、守護、地頭までも、世を憚り、身を愼み、威あれども、侈(おご)らず、強けれども、よわきを凌(しの)がず。重欲非法(ぢうよくひはふ)は絶(たえ)て犯す人もなかりしに、數年の後、彼(か)の囘國の者、奸曲(かんきよく)を構へ、遠國にして、親しきに逢ひぬれば、「我、今かやうの役に依て隱れて諸國を囘るぞや。穴賢(あなかしこ)、この事、人に語るな」と云ふに、漸(やうや)う漏れて知渡(しりわた)し、奉行、政所(まんどころ)、賄(まかなひ)を入れて非道を隱さしむれば、賄賂(わいろ)に依て深く隱して、非あれども、顯(あらは)さず。或は囘國者の傳馬(てんま)を取りて通り、路次(ろじ)の歎きとなるもあり、或は賣僧(まいす)の法師原(ほうしばら)、是(これ)に似せて、犯科非法(ぼんくわひはふ)の者の手より、無益の財を畏(おど)し取りて、德分(とくぶん)を付(つ)く者もあり。靑砥左衞門尉、死してより、わづかに七年に及びて、この奸曲の起りける。一人、直(なほ)ければ、威政(いせい)高く、諸奸(しよかん)を防ぐ理(ことわり)、此所(こ〻)にして知られたり。或日、荒(あら)けなく門鐘(もんしよう)を撞(つ)きけるを、何者ぞとて召入れければ、法師十八人、「是は出羽國羽黑山(はぐろさん)の山伏共なり。訟へ申すべき旨あり」とて、一通の訴狀を擎(さ〻)げたり。貞時、是を見て、大に驚き、立出でて、對面あり。子細に尋聞(たづねき)き給へば、先達(せんだち)と思しき山伏、進出でて申けるやう、「去ぬる二月に上總國より、一人の羽黑山伏を搦取(からめと)りて、鎌倉に參らせけるを、由井濱(ゆゐのはま)にて首を刎ねられて候。凡(およそ)羽黑の山伏、諸國に修行して大道を求むる輩(ともがら)、如何程(いかほど)も、是(これ)、あり。その中に、若は惡事非法あれば、搦捕りて本山に遣し、罪科を糺明して刑に行ふ作法にて候。然るに、今度、上總より直(すぐ)に鎌倉に送り、殺罪(せつざい)せられて、更に本山へは知らさせ給はず。抑(そもそも)、天下四海を治め給ふ政(まつりごと)を掌(つかさど)りながら、先規(せんき)を背(そむ)き、私(わたくし)に罪科に處せらる。その罪、何事ぞや。罪科を正(ただ)さずして殺し給はば、政道に私ありと申すべし、罪科、極(きはま)らば、先(まづ)、本山に知らさせ給ふべし、何ぞ佛法量(ぶつぽふりやう)の式(しき)を亂(みだ)り給ふや。諸國に無道の者、多く、奉行、頭人(とうにん)賄(まひなひ)に躭(ふけ)り、非(ひ)を是(ぜ)になし、惡を藏(かく)し、善を覆(おほ)ふ。この體(てい)ならば、世人(せにん)、恨(うらみ)を致し、天道、忿(いかり)をなし、國家、果(はたし)て穩(おだやか)なるべからず」とぞ訴へける。相州貞時、熟熟(つくづく)と聞き給ひ、「この事、我、更に知らず。上下の遠き事、誠に客僧達に恥しく候。諸國の無道、賄賂(わいろ)の私欲、猶、是(これ)、貞時が耳に告ぐる人なし。大に恐入(おそれい)りて候。細(こまか)に尋極(たづねきは)めん程(ほど)は鎌倉に逗留し給へ」とて萬(よろづ)の造作は貞時、賄(まかなひ)として、強く吟味ありければ、評定衆の態(わざ)に依て、下(しも)として上(かみ)を掠(かす)め、法令を破りて、罪科の山伏を本山にも知らしめず、私に誅戮(ちゆうりく)す。是(これ)、偏(ひとへ)に天下亂根(らんこん)の初(はじめ)なりとて、囘國の使、三人を召上(めしのぼ)せて、問(とは)る〻に、確(たしか)に罪科の證據、なし。是に依て、諸國に遣しける使者の惡事、忽に露顯(ろけん)して、死罪、流刑に行はる〻輩、百人に餘り、評定衆九人を遠島に處し、新評定衆十人を撰居(えらびす)ゑられしかば、羽黑山伏等、大に悦び、本山にぞ歸りけみ。その後よりは、諸國、靜(しづか)に治(をさま)り、人皆、その善政をぞ感じける。

[やぶちゃん注:「近頃」前章の北条兼時卒去が永仁三(一二九五)年九月、吉見義世の捕縛と処刑は翌永仁四年十一月、次章の冒頭の後伏見天皇即位が永仁六(一二九八)年十月であるから、本章の時制はそ閉区間を含む前後と措定してよかろう。

「邊邑(へんいふ)」片田舎。

「山林嘯聚(せうじゆ)」「嘯聚」(しょうしゅ)は「呼びあって集まること」であるから、山林を根城として屯(たむろ)った盗賊団のこと。

「嶺頭野徑(れいとうやけい)」山の峰や野道。

「橫行(わうぎやう)し」勝手気儘に横行(おうこう)し。

「幽屋(いうおく)」人里離れた一つ家(や)。

「白浪(はくらう)の揚(あが)るを恐れ、旅客は綠林(りよくりん)の陰を厭ひ」「白浪」は盗賊・泥棒のこと。「後漢書」の「霊帝紀」で、黄巾の乱の残党で略奪を働いた「白波賊(はくはぞく)」を訓読みしたものが元。「綠林」も盗賊の立て籠もる根城或いは盗賊を指す。前漢の末期、王莽(おうもう)が即位した後、王匡(おうきょう)・王鳳らが窮民を集めて湖北省の「緑林山(りょくりんざん)」に籠って盗賊となり、征討軍に反抗したという「漢書」の「王莽伝下」にある故事に基づく。孰れも固有名詞であるわけだが、ここでは筆者は「白浪」に実際の恐ろしい波濤に掛けて「揚」が「る」の「を恐れ」、「綠林の」落す不穏な「陰を厭(いと)」う、と言ったのである。

「驛路」宿駅と宿駅の間の正規の街道。

「責虐(せきぎやく)し」責めて虐待し。

「賦斂(ふれん)」租税を取り立てること。

「點役(てんやく)」,田地を対象として賦課された臨時税の総称。本来は朝廷の特別行事や寺社造営などの費用捻出のための便法であった。

「滋(しげ)くしければ」頻繁に行ったので。

「壞賣(こぼちう)り」壊して売り。家財だけでなく、建物も壊して、それを材木として売ったのである。

「沽却(こきやく)」売り払う。人身売買。女なら、女郎として売るといったもの。

「虛(きよ)し」噓に満ち溢れ。

「天道神明(たうしんめい)の見そなはし給ふ御眥(おんまなじり)の恥かしさよ」「天の神様がこの地上の悪の蔓延を見渡され、それを放置している私を見るであろう、その御(おん)目つきを思い申し上げるだけでも、恥ずかしくなるばかりだ!」。

「正直學道(しやうじきがくだう)の智士(ちじ)」正直で正しき人倫の道を学んだ知恵ある相応の人物。

「兩人づつ」二人一組にして。判断に迷った際の相互補助或いは相互監視の意味であろう。

「奸曲(かんきよく)を構へ」悪企(わるだく)みを考え。

「親しきに」親しい知人。

『「我、今かやうの役に依て隱れて諸國を囘るぞや。穴賢(あなかしこ)、この事、人に語るな」』この箇所には底本には鍵括弧はないが、特異的に附して読み易くした。「穴賢(あなかしこ)」の「穴」はこれによく使う当て字。「あなかしこ」で連語(「あな」は感動詞で、「かしこ」は形容詞「賢(かしこ)し」の語幹で、程度が甚だしいことを意味する)。下に禁止の語を伴って呼応の副詞のように用いて、「決して・くれぐれも・ゆめゆめ」の意となる。

「奉行」地方の役人。

「政所(まんどころ)」地方の役所。

「賄(まかなひ)」賄賂(わいろ)。

「囘國者の傳馬(てんま)を取りて通り」「の」は主格。その本来は身分を隠しているはずの回国の巡察使が、あろうことか、巡察使である特権によって、宿駅に備えておき、公用にのみ使用が許されていた公用馬に騎乗して、最優先で次の宿駅まで行く。こんなことをすれば、当然、必要な臨時の公務に支障が出、それをまたもとの宿駅に戻す手間も大抵ではない。だから、「路次(ろじ)の歎き」(街道・宿駅に絡んだ民草の苦労の種)となるわけである。

「賣僧(まいす)」僧形(そうぎょう)をした悪党。或いは行脚の悪僧。

「犯科非法(ぼんくわひはふ)の者」日常的に罪を犯し、不法なことをしている地方役人や豪農。

「無益の財」この場合は、仏法への布施とは真逆な、仏法には「無益」、何の益(やく)にもならぬ「德分(とくぶん)」、財貨の意。

「靑砥左衞門尉」既出既注。「卷之八 相摸の守時賴入道政務 付 靑砥左衞門廉直」及び「卷第九 時賴入道靑砥左衞門尉と政道閑談」を参照。

「威政(いせい)」政治の権威。

「諸奸(しよかん)」諸々の悪企み。

「荒(あら)けなく」静かに。

「門鐘(もんしよう)」幕府の入口にあるドア・ベル。

「出羽國羽黑山(はぐろさん)」現在の山形県鶴岡市にある標高四百十四メートルの山。出羽三山の主峰である月山の北西山麓に位置する丘陵で、独立峰ではない。修験道を中心とした山岳信仰の山として知られる。(グーグル・マップ・データ)。

「先達(せんだち)」先導する主訴者。

「大道」修験道の根本の真理。

「若は」「もしは」。万が一。

「搦捕りて」「からめとりて」。

「本山」現在の山形県鶴岡市羽黒町手向字手向にある羽黒山修験本宗の本山羽黒山荒沢寺(こうたくじ)。正善院が本坊で、本尊は大日如来・阿弥陀如来・観音菩薩。ウィキの「荒沢寺によれば、『崇峻天皇の皇子蜂子皇子(能除太子)によって開かれたと伝えられ、出羽三山(湯殿山・月山・羽黒山)に対する山岳信仰・修験道の寺として古くから信仰されてきた。もとは真言宗を中心とする寺院であったが、江戸時代に入ると天台宗に属することとなった』。『明治初年の神仏分離に伴い』、『延暦寺の末寺となり、第二次世界大戦後』、『島津伝道が独立して羽黒山修験本宗の本山となった』。『羽黒派修験は、真言宗当山派、天台宗本山派の』二『派に収斂していった修験道』二『派のいずれにも属さず、古くからの修験道と、土着の月山の祖霊信仰が結びついた独自の修験である』。『その中で、荒沢寺の修験道は、地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天人、声聞、縁覚、菩薩、仏の、世界を形成している十界を体験する「十界行」を厳密に行うことが、出羽三山神社と比した特徴である。十界行とは、行者が死に、死の世界で、山内の各行場での修行を通じて十界の苦しみを体験し、現世へと転生する行である。出羽三山神社の行は仏式ではなく』、『神式であり、行を通じて死後の追体験を行うのは同じだが、その内容は古来からの修験と比べて簡略化されたものである』とある。

「先規(せんき)」先例。

「政道に私ありと申すべし、」読点はママ。句点の方が現代の文法上はよいが、話者の義憤が絶たれるよりは、この方がいいかも知れない。「本山に知らさせ給ふべし、」も同じ。

「何ぞ佛法量(ぶつぽふりやう)の式(しき)を亂(みだ)り給ふや」強い不満を含んだ反語的疑問。教育社の増淵勝一氏の現代語訳では『どうして仏法の領分の方式を乱されるのですか』とある。

「體(てい)」(悪しき)状況。

「萬(よろづ)の造作は貞時、賄(まかなひ)として、強く吟味ありければ」増淵氏の訳では『すべてのもてなしはわいろと判断して、貞時が強く吟味されたところ』とある。

「態(わざ)」裁定。指示。

「下(しも)として上(かみ)を掠(かす)め」増淵氏は『下の者なのに上の者をごまかし』と訳しておられる。

「天下亂根(らんこん)」天下の乱れる元凶。

「召上(めしのぼ)せて」急遽、召喚し。

「確(たしか)に罪科の證據、なし」その山伏が慥(たしか)に罪を犯したという証拠は遂に見出せなかった。] 

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十六年 日本俳句創設

 

   明治二十六年

 

    日本俳句創設

 

 二十六年(二十七歳)になって第一に記さなければならぬのは、俳句方面における居士の周囲が従来よりも広くなったことである。俳句における居士の感化は、先づ常盤会寄宿舎を中心に発達し、次いで他に及ぶ程度で、同郷の人たちを除いてはあまり熱心な作者も現れなかった。飄亭氏の入営によって兵隊組なるものが生れたのも、在来の世界の延長と見るべきもので、その顔触も二、三人に過ぎない。今新に居士が接触しはじめたのは、少数ながら椎(しい)の友と称する一団の人々で、全然別箇の方角において俳句の研究を試みつつあったのである。

[やぶちゃん注:「明治二十六年」一八九三年。

「日本俳句」これは以下で判るように、彼が記者となった陸羯南の新聞『日本』に設けられた俳句欄のことを指す。ここに拠った俳人らを後に『日本』派と呼び、その俳句を『日本』派俳句と呼ぶようになる。

「二十七歳」無論、数え。正岡子規は慶応三年九月十七日(一八六七年十月十四日)生まれである。この章は最後の章を除いて、誕生日以前の内容が殆んどであるから、実際には満年齢では二十五歳の時のこととなる。

「椎(しい)の友」次の段落に冒頭に出る実業家で俳人・古俳書収集家でもあった伊藤松宇(しょうう 安政六(一八五九)年~昭和一八(一九四三)年:正岡子規より七つ年上)が明治二三(一八九〇)年に俳人森猿男(もりさるお万延二(一八六一)年~大正一二(一九二三)年:俳人。旧姓、岩淵。本名、廉次郎。江戸出身で高等商業(現在の一橋大学)卒。正岡子規・内藤鳴雪らと後に出す俳誌『俳諧』を創刊、明治二八(一八九五)年からは角田竹冷(つのだちくれい:角田真平)の「秋声会」に属した)・片山桃雨(詳細事蹟不詳)らと作った俳人結社「椎の友社」のこと。「上田市マルチメディア情報センター」が作成したサイト「上田を支えた人々 上田人物伝」の「伊藤松宇」によれば、彼は小県郡上丸子町(現在の長野県上田市上丸子)に俳人伊藤洗児の長男として生まれ、本名は半次郎。明治一五(一八八二)年に上京、家業の藍取り引きを通じて知り合った銀行家渋沢栄一に認められ、横浜第一銀行・王子製紙・渋沢倉庫などに勤め、渋沢財閥の幹部になり、実業界でも活躍した。このグループは〈新俳句〉を提唱、従来の俳諧連座形式の句会を行わずに互選方式を取り入れたりして、明治前期の俳句界の中でも斬新な結社であった。以下に見るように、正岡子規や内藤鳴雪も、この「椎の友社」に加わっており、まさにこの明治二十六年、松宇は俳誌『俳諧』を創刊している松宇は「明治初期俳壇の先覚五人衆」(尾崎紅葉・巌谷小波・大野酒竹・角田竹怜)の一人に数えられている。その後も俳誌『ひばり』を明治四四(一九一一)年に創刊(子規は既に没している(明治三五(一九〇二)年九月十九日))、従来の懸賞形式を廃止し、作品本位の編集を確立した。『実業界を退いてからは、主として研究家、古俳書収集家として活躍し、晩年の』二十『年間は小石川関口町の芭蕉庵に居住し』、『正岡子規の日本派とは異なり、連句を含めて近代俳句文芸の改革を目指した点で独自さがあ』ったとある。]

 居士と椎の友との交渉は、伊藤松宇氏からはじまるのであろう。前年十月九日、居士は大磯松林館において松宇氏宛に長文の手紙をしたため、その作るところの富士百首を評している。その中に「尊稿富士百首高津先生より御傳達被下(くださる)」とあるから、松宇氏の紹介者は高津鍬三郎氏だったと見える。十二月六日、日本新聞社へ出るようになってから、居士ははじめて松宇氏を訪ねた。その節松宇氏から俳書数部を借覧し、十日に句会があるから出席するように勧められたのであった。

[やぶちゃん注:「高津鍬三郎」既出既注。]

 鳴雪翁の『鳴雪自叙伝』によると、居士がはじめて椎の友の運座に出席したのは、明治二十六年一月で、互選ということを句会に取入れたのはそれ以来だ、ということになっている。けれども居士の日記を検(けみ)すると、二十五年十二月十日の条に「到社(しやにいたる)、訪松宇氏(しよううしをとふ)、會石山氏宅(いしやましたくにくわいす)、吟咏徹夜(よをてつしぎんえいす)」とあり、『鳴雪自叙伝』にも、居士が椎の友の連座で徹夜したことを話した旨が見えるから、二十五年十二月とすべきであろうと思う。石山氏とあるのは椎の友の同人であった石山桂山(けいざん)氏のことで、松宇氏をはじめ、片山桃雨、森猿男などという椎の友の人々が相次いで根岸に居士を訪ねている。即ち椎の友との交渉は二十五年末を以てはじまるのであるが、二十六年に入るとともに、土居藪鶯氏宅小会(七日)、岡倉氏宅根岸会(九日)、桃雨氏宅小会(十二日)、子規庵小会(十五日)という風に、頻繁に句会が催されることになった。中には最初から企てた催(もよおし)でなしに、顔を合せると直に句を作るということもあったに相連ないが、句会は俄に盛になって来た。

[やぶちゃん注:「鳴雪翁の『鳴雪自叙伝』によると、居士がはじめて椎の友の運座に出席したのは、明治二十六年一月で、互選ということを句会に取入れたのはそれ以来だ、ということになっている」国立国会図書館デジタルコレクションの「鳴雪自敍傳」大正一一(一九二二)年岡村書店刊)「十七」章のここに出る。この前の段落の記載は明治二十五年の内容である。

「石山桂山」前の国立国会図書館デジタルコレクションの「鳴雪自敍傳」(大正一一(一九二二)年岡村書店刊)の「十九」章のここに、『石山桂山氏は早くより俳句を止めて、今は消息を絶つ居る』とある以外は詳細事蹟不詳。

「片山桃雨」前段落の注の太字下線部参照。詳細事蹟不詳。

「森猿男」前段落の注の太字下線部参照。

「土居藪鶯」「どいそうおう」と読んでおく。前の国立国会図書館デジタルコレクションの「鳴雪自敍傳」(大正一一(一九二二)年岡村書店刊)の「九」章のここに、『宇和島人』で鳴雪は彼と『兼て知り合ひで、これも其頃』(明治二十五年頃)『から俳句を始めたと聞いたので、此人の在勤して居る、橫濱へも行つて共に句作し』た、と出る以外は詳細事蹟不詳。

「岡倉」「根岸会」とくるとこれは、かの岡倉天心(文久二(一八六三)年~大正二(一九一三)年:本名、岡倉覚三。正岡子規より四つ年上)しか私には浮かばぬのだが、しかし、正岡子規と彼が繋がっていたのだろうか? 私は不学にして知らない。識者の御教授を乞う。]

 十五日の小会の結果は、「叔岸庵小集の記」の題下に『日本』に揚げられた。居士を中心とする句会の記事が発表されたのは、これが最初であろう。頻繁なる句会は居士の身辺を賑(にぎやか)にはしたけれども、必ずしも居士を満足せしむるものでなかったことは、次の手紙がよくこれを証している。

[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。太字は底本では傍点「ヽ」、太字下線は底本では傍点「○」。「……」は宵曲による省略と思われる。]

 

發句會は四、五度に及び中にも二會ほどは十三人の多數集會運座を試み申候。この中には月並連中も多く候故箇樣(かやう)にして勝敗を決し候などは小生餘り好み不申候へども板挾みの姿にて無致方候。大兄及旭溪子(きよくけいし)の俳句皆々面白く感服仕候。第一俗氣のなきに驚き候。これはこの頃のやうに俳句の競爭など盛に相成候ひては在京諸友の句皆々多少の俗氣をまじへ自然または故意にあてこみなどをやりいやな事に候。(一月三十一日、碧梧桐氏宛)

この頃は椎の友といふ仲間と我們(われら)俳諧仲間と合倂致し度々大小の俳句會相開(あひひらき)申候。會とは席上運座もしくは宿題にてこれを各人判定してその點數をしめあげ優劣を判する法にてはじめは面白かりしが今は俗氣紛々として少々いや氣に相成申候……今日ふと机上に「かけはしの記」(去年新聞に載せたる拙稿)有之候故取て一讀致候ところその句よきとにはあらねどいづれも俗氣を脱し居(をり)今日の作にまさる事萬々に候故益〻感ずる所有之候。貴兄らまさかそんな事もあるまいが如何なる機會ありとも今日の俳席に臨み天保已後の俳書を播き給ふ事なかれと切に御忠告申上候。(二月二日、虚子氏宛)

 

「月並連中」の語はこの手紙にも見えている。居士は興味のために判断力を失う人でなかったから、連座の興味に牽かれながら、その弊害を看破することを忘れなかった。今日の俳席を知らぬ碧、虚両氏らの句、俳席へ出ぬ前の自己の句に俗気の少いことを認めているのもそのためである。「鶯の淡路へ渡る日和かな」という居士の句は根岸大会で高点を得たものであるが、「以て輿論の正しからざるを見るに足るべし」ともいっている。

[やぶちゃん注:「旭溪子」不詳。

「かけはしの記」既出既注。「青空文庫」のこちらで全文が読める。

「鶯の淡路へ渡る日和かな」「寒山落木 明治二十六年」の春に載る。]

 『日本』の「文苑」に俳句の一欄が設けられるようになったのは、この年の三月六日からであった。いわゆる『日本』俳句の濫觴である。当時の俳句界に何の地歩も有せぬ、いわば一個無名の青年たる居士を抜擢して、その自由に任せたのは、慥に羯南翁の英断であったといわなければならぬ。勿論最初のうちは居士周囲の人の作品を以てこれに充てる外はなかったが、居士はこの一欄によって次第に新な世界の開拓に当ったのである。

 

進化論講話 丘淺次郎 第十章 發生學上の事實(1) 一 發生中にのみ現れる器官

 

    第十章 發生學上の事實

 

 動物を解剖して見ると、種々の器官の構造に於て、その動物が漸々進化し來つたといふ形跡を見出すことが多いが、動物の發生の有樣を調べ、且之を種々比較して見ると、更に一層著しく斯かる形跡が見える。前章に於ては單に解剖學上の事實に就いて述べたが、解剖學上のことでも之を了解するには、相當の素養を要するから、稍々詳細なことは突然述べることが出來ぬ。然るに發生學上の事實は、單に一時の定まつた有樣を論ずるのではなく、時々刻々變化して行く具合を説かねばならぬから、更に數倍困難で、たゞの解剖でさへ相應に込み入つてある所へ、「時」といふ要素が新に加はり、解剖を平面に譬へれば、發生はそれに「時」といふ厚さが附いて、立體となる譯故、簡單に十分に説くことは到底出來ぬ。動物の發生の途中には生物進化の證據ともいふべき事實が殆ど無數にあるが、これらを解るやうに述べるには、先づ發生學研究の方法から説き始め、傍ら實物の標本を顯微鏡で見せたりせねばならぬ。之は無論本書に於て出來ることでないから、この章にはたゞ最も解り易い點を若干だけ選んで掲げる。

 

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[人類の卵]

[やぶちゃん注:講談社学術文庫版のそれを使用した。]

 

 一々の事實を述べる前に、先づいつて置かねばならぬのは、動物は如何なるものでも總べて卵から發生するといふことである。鷄の卵乃至魚の卵、蠶の卵は、誰も知つて居るが、その他になると、卵を人が知らぬものが多い。倂し實際を調べて見ると、犬・猫でも牛馬でも、我々人問でも、その出來始めは皆一粒の卵である。卵には鷄卵の如くに大きなものもあるが、大抵は遙に小く、人間の卵などは直徑は僅に一分(ぶ)[やぶちゃん注:三・〇三ミリメートル。]の十五分の一[やぶちゃん注:〇・二ミリメートル。ヒトの排卵時の卵子の大きさは〇・一~〇・二ミリメートルである。]に過ぎぬ。一粒の卵から複雜極まる構造を有した人間が出來るのであるから、その間の變化は實に驚くべきもので、詳しく研究して見ると、面白いことが頗る多い。我々の食用にする鷄卵はたゞ生んだ儘で、單に蛋白と蛋黃とがあるだけであるが、之を雌鷄に溫めさせると、僅に二十一日許の間に、立派な雛が出來る。斯くの如く鷄では親の體外で雛が發生するから、この間の變化を調べるには、澤山の卵を溫めさせて置き、その中から每日朝・晝・晩に一個づゝを取り出し、殼を割つて見れば宜しい。細かいことは特別の方法を用ゐて研究せねば解らぬが、大體だけはかやうにすれば知れる。その變化の有樣は極めて複雜故、ここで述ベることは出來ぬが、我々が母の胎内に九箇月居る間には、略々鷄の雛が二十一日の間に卵から出來るのと全く同樣の順序を經過し、初一粒の小な卵から終に手足の完備した幼兒となつて生まれ出るのである。一は親の體外で發生し、一は親の體内で發生するだけの相違で、初一粒の卵から起るといふには少しも違はない。

 卵から生長し終つて子を生むに至るまでの經過を調べるのが發生學であるから、なかなかその研究は容易なことでなく、一種の動物の發生を十分に調べ上げるには、材料も餘程十分になければならず、また時目も餘程長くかゝる。それ故、今日の所、十分に發生の調べの行き屆いた動物はまだ少數で、他は僅に大體の模樣が解つた位に過ぎぬ。また全く發生の調べてない動物も澤山にある。倂し發生學は今日最も盛に研究せられて居る學科で、每年每月何か新しい事實が發見になる有樣故、今日より後には尚餘程面白いことが澤山見出されるに相違ない。次に述べる事實の如きは單に極少數を選み出したに過ぎぬ。

 

     一 發生中にのみ現れる器官

 

 生長の終つた動物の體内に屢々不用の器官の存することは、既に前章に述べたが、動物の發生の途中には生長の後になれば不用に屬する器官が、度出來て後再び消え失せることが往々ある。その中には發生の途中實際用をなすものもあれば、また發生の途中にも少しも役に立たぬやうなものもある。

 牛・羊・鹿などの類には、下顎には前齒があるが、上顎には全く前齒がない。この類が草の葉などを食ふ所を見ると、下顎の前齒を上顎の齦(はぐき)に押し當て、恰も下顎の前齒を庖刀の如く、上顎の齦を俎の如くに用いて囓み切るが、そのため上顎の前部の齦は我々の足の裏の如くに堅くなつて居る。斯くの如く生れてから死ぬまで上顎には前齒はないが、この類の發生を調べて見ると、不思議なことには生れるより少し前に度あきらか に上顎に前齒が出來る。尤も齦の内に出來るだけで、表面に現れ出るには至らぬが、切り開いて見さへすれば、確に齒の列んで居るのが見える。然もこの齒は一旦は出來るが、暫くすると周圍の組織に吸收せられて、再び消えて無くなつてしまふ。少しも齦の外に現れず、特に母の胎内に居ること故、全く何の役にも立たぬ齒が、一度形だけ出來て直にまた消え失せるといふやうな無駄なことは、若し生物各種が初めから各々今日の通りに造られたものとしたならば、全く意味の解らぬことであるが、之に反して、若し牛・羊の類は漸々進化して今日の姿に達したものとしたならば、その先祖には上顎にも前齒があつて、その性質が遺傳によつて發生の途中に現れ、現在の生活上に不必要である故、再び消え失せるのであらうと考へて、幾分かその理由を察することが出來る。

 鯨類の中には海豚の如く齒を有するものもあるが、大形の鯨は多くは口の中に鬚を有するばかりで、齒は一本もない。これらの鯨は極めて小さな餌を一度に無數に取つて、そのまゝ嚥み込んでしまふもの故、齒があつても全く無用である。然るにその發生を調べると、前の牛・羊の前齒と同樣で、生まれるより少し前に、上下兩顎ともに海豚の如き細かい齒が一度澤山に出來て、また暫くすると消えて無くなる。次に掲げたのは、長さ四尺[やぶちゃん注:一・二一メートル。]許の鯨の胎兒の頭の處だけを、凡そ三分の一に縮めた寫生圖であるが、生長すれば十間[やぶちゃん注:十八・一八メートル。]以上にもなる大きな種類で、生れる頃には最早齒は一本もない。倂しこゝに示した位のときには、立派に列んで生えて居る。但し之は齦の皮を剝いて、態々齒を示すやうに製した標本を寫したもの故、實際天然には圖の如くに現れて居る譯ではない。兎に角も一度も用をなさぬ齒が斯くの如く生じてまた消えるといふことは、やはり鯨が漸々進化して今日の如き形狀のものになつたと考へなければ、少しも説明の出來ぬことである。

Kujiranoha

[鯨の胎兒の頭部竝に齒]

[やぶちゃん注:講談社学術文庫版のそれを使用した。底本では図の上下が逆転(上顎が下向き)しており、戸惑うからである。]

Gyoruinosaikou

[魚類の鰓孔

 (上)普通の魚 (下)鮫類]

Jhitotaijinosaikou

[人類胎兒の鰓孔]

[やぶちゃん注:以上の二つはキャプションがあるので、底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングし、補正して示した。]

 

 人間を始め、他の獸類でも、鳥類でも、その發生の途中には、皆一度頸の兩側に鰓孔が出來て後に再び閉じて消える。魚類は人の知る通り、總べて鰓を以て水を呼吸するが、鰓のある處は頭と胴との境の左右兩側である。口から吸い込んだ水が鰓の前後を通過する際に、鰓の内の毛細管を通る血液と、鰓の外を流れる水とが相觸れて、その間に瓦斯の交換が行はれ、血液は水より酸素を得、水はまた血液から炭酸瓦斯を受けて流れ去るが、斯く呼吸のために用ゐられた水は、鰓の間を通つてから何處へ出て行くかといふに、頸の兩側にある裂目を通つて直に體外に出てしまふ。人間の呼吸するときは、空氣は鼻口から入つて再び鼻口から出て行くが、魚類の呼吸するときには、水は口から入つて頸の兩側から出て行くのである。この水の出口が卽ち鰓孔で、鮫・「あかえひ」の類では、左右に各々五つづゝも開いてあるが、鯉・鮒・鯛・鰹等の如き普通の魚類では、鰓を保護するために鰓蓋といふ特別の骨があつて、鰓孔の上に被さつて居るから、實際外からはたゞ一つの大きな縱の裂目が見えるだけである。肴屋が料理するときには、通常こゝから指を突き込んで鰓を引き出して掃除する。斯くの如く、水を呼吸する魚類に取つては鰓孔は實に無くてならぬ必要のものであるが、陸上にあつて空氣ばかりを呼吸する鳥獸[やぶちゃん注:ここは底本では実は「鳥類」となっている。しかし、講談社学術文庫版では『鳥獣』となっており、その方が躓かないし、後で「かやうな鰓孔が人間を始め鳥獸の發生の途中に一度出來てまた消えるといふことは」とあることから、誤植と断じて特異的に訂した。]には素より何の役にも立たぬ。然るに一二箇月の人間の胎兒、二三日溫めた鷄卵内の雛の出來かゝりなどを見ると、食道から直に開く孔が明に頸の兩側に四づゝもあること、恰も鮫の通りである。尤も實際に水が通過する譯ではないから、圓く突き拔けては居ないが、之は位置から考へても、他の器官との關係から論じても、確に鰓孔に相違ない。假にこの時代の胎兒が水中へ出て水を口から吸ひ込んだと想へば、その水はこれらの孔を通つて頸の兩側から直に體外へ出ることが出來る。かやうな鰓孔が人間を始め鳥獸の發生の途中に一度出來てまた消えるといふことは、生物種屬不變の説を唱へる人は何と説明するか、若しこれらの動物が初から今日の通りに出來たものとしたならば、たゞ奇妙不可思議というて置くより外には致し方がない。

Hitotaijinosinzouhoka

[人類胎兒の心臟及び動脈基部]

[やぶちゃん注:これは図内にキャプションがあるので、底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングし、補正して示した。]

 

 鰓孔は鰓が無ければ不用なもので、鰓はその内を血液が通過しなければ呼吸の働が出來ぬに定まつて居る。鰓孔のことは前に述べた通りであるが、鰓へ行く血管の方は如何と檢するに、人間・鳥・獸等の發生の途中には、之もやはり魚と同樣な者が一度出來て、それから種々に變じて、遂に生長し終つたときに見る如き血管系が出來上るのである。丁度鰓孔の開いて居る頃の胎兒の血管系を調ベて見ると、圖に示した如くで、心臟の構造も動脈幹部の有樣も、全く魚類の通りで、たゞ細く毛細管に分かれる處が略せられてあるに過ぎぬ。この時代の心臟・血管等を詳しく述べるのは、殆ど魚類の心臟・血管に就いて前にいうたことを再び繰り返すやうなものであるが、その大體をいへば、心臟はまだ一心耳・一心室より無く、心室から出て行く大動脈は直に左右若干對の動脈弓に分かれ、各々鰓孔の間を通過して背中の方へ廻り、再び合して下行大動脈となつて居る。前章に於ては脊椎動物中から幾つかの例を擧げて、比較解剖學上から血管系の進化し來つたと思はれる徑路に就いて述べたが、人間・鳥・獸等の之から先の發生を調べると、實際各個體が發生の中に殆ど前章に述べた通りの徑路を通過して進むのを見ることが出來る。卽ち人間でも、始め血管系は圖に示した如き全く魚類と同樣なものが出來るが、鰓孔の閉じて消える頃から、血管の方にも之に伴うた著しい變化が起り、肺の方へ枝を出して居た最後の動脈弓は終には獨立して肺動脈となり、その前の動脈弓の左の分だけが、益々太くなつて大動脈となり、餘の部分は漸々細くなり、多くは消え失せて、愈々成人で見る如き血管系が出來上る。獸類では總べてこの通りで、鳥類ではたゞ最後から二番目の動脈弓の右の分が大動脈となるだけが違ふ。

 人間は生れるときは裸であるが、胎内六箇月頃には身體の全面に殘らず絹のやうな細い長い毛が生えて居て、全く猿の通りである。倂しこの毛は後に再び脱け落ちて、たゞ微な産毛(うぶげ)ばかりとなつてしまふ。また人間の胎兒に尾のあることは前の圖を見ても解るが、尚早い頃には更に一層尾が長い。これらも皆發生中のみに現れる器

官である。

 以上は皆高等の脊椎動物の中から選んだ例ばかりであるが、他の動物にもかやうな例は極めて多い。その一つを擧げて見れば、蝶でも蜂でも蠅でも蟬でも、凡そ昆蟲の類は總べて足は六本あるに定まつて居るが、その發生を調べると、尚多數の足が出來かかつて消えてしまふ。昆蟲の體は頭・胸・腹の三部より成り、六本の足は皆胸の裏から生じて、腹には一本も足がないが、卵の内で發生する模樣を見ると、度は腹にも身體の一節每に一對づゝ極めて短い足の痕跡だけが現れ、暫くしてまた消えてしまふ。昆蟲の中でも枯木の皮の下などに住む珍しい種類には、生長し終つても尚腹部の裏に幾對か足の痕跡を有するものがある。孰れにしても、實際役に立つことはない。然るに發生の途中には、斯かる無用な足の痕跡が、何の昆蟲にも一度必ず生じてまた消えることは、前に述べた牛・羊の上顎の前齒などと同樣で、生物各種屬を永久不變のものとしたならば、たゞ不思議

といふだけで、少しも理窟の解らぬことである。

[やぶちゃん注:鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目 Cucujiformia 下目ゾウムシ上科キクイムシ科 Scolytidae に属する特殊な種か(キクイムシ類は決して「珍しい種類」ではないからである)。識者の御教授を乞う。]

 

 動物が卵から發生する有樣は皆斯くの如くで、決して出來上つたときの形を目的として、初から一直線にその方へ進むものではない。途中必ず種々の無駄なものが出來たりまた消えたりすることがあるもので、生長し終つた後にもかやうな不用の器官が幾らも殘つてあることは、既に前章で述べた通りである。人形師が人形を造るときには、初から或る形をなした人形を造らうと思つて著手するから、途中に決して無駄なことをせ

ぬが、自然が動物を造るのは大いに之と違ひ、初全く異なつた形のものを造り、之より漸々造り改め、析角一度造つた齒を揉み消したり、また初步行に適する形に造つたものを、游泳に適する形に直したりなどして、甚しい廻り道を通過し、無駄な手間を掛けて、やつと造り上げるのが殆ど常である。我々人間の身體もその通りで、決して初から成人の形が小く出來るのでもなく、また一端から順を追うて出來上つて行くのでもない。先づ頸の兩側には鰓孔が幾つも開き、血管は魚類の通りで、體の後部には長い尾のあるものが出來、それから漸々に變化して人の形となるのであるが、これらの現象は總べて如何なることを示すものであらうか。

 生物種屬不變の説に從へば、これらは皆無意味のことである。否無意味といふよりは寧ろ奇怪千萬なことである。天地開闢のときから今日に至るまで、何萬年とも何億年とも知れぬ長い間、代々牛・羊の上顎に、生えぬ齒が隱れながら出來ては消え、人間の頸筋(くびすぢ)に無用の鰓孔が開いては閉じるといふやうなことは、如何に考へても理窟の解らぬことである。之に反して、若し生物各種は漸々進化して、その結果今日の如きものになつたと見倣せば、先祖の性質が遺傳によつて尚發生中に現れるものとして、これらの現象は皆一通りその理由を考へることが出來る。知らぬ中は兎も角、かやうな事實を目の前に見ながら、尚生物種屬不變の説を主張することは、思考力のある人間には到底出來ぬことであらう。

 動物發生の途中には確に無駄なものが出來るといふ例を尚一つ擧げて見るに、日本の蠑螈[やぶちゃん注:「ゐもり(いもり)」。]は水中に住み、水中に卵を生むが、ヨーロッパの山中には地上に住んで胎生する蠑螈の種類がある。この類では子は母の胎内で形が全く出來上り、生れると直に親と同樣に生活して、一度も水に入ることはないが、その發生の中には立派な鰓が出來る。他の蠑螈の幼兒は皆鰓を以て水を呼吸するが、この種類の胎兒に生ずる不用の鰓は殆ど他の種類の幼兒に於て實際の役に立つ鰓と同じ位に完全に出來るから、或る人が試に親の腹を切り開き、胎兒を取り出して水の中に入れた所、活潑に泳ぎ廻り、水底で水を呼吸して長く達者に生活した。斯くの如く若し水中に入れゝば十分呼吸の働きが出來るだけに完備した鰓が親の胎内に居る間に出來て、生れるときまでにはまた萎びて無くなることは、誰が考へても確に無駄なことに違ひない。この蠑螈の先祖は他の蠑螈と同樣に水中に住み、その幼兒は總べて水を呼吸したものと假定し、この種類は比較的近い頃に初めて地上に移り、生活法の改まると共に形狀・性質も漸々變じて終に一種を成すに至つたものと考へれば、遺傳によつて斯かることも生ずべき筈と思はれるが、若しこの種類は初めから別にこの種類として存したものとしたならば、無用の鰓が斯くまで完全に發達することは、實に不思議中の不思議といはねばならぬ。

[やぶちゃん注:「地上に住んで胎生する蠑螈の種類」両生綱有尾目イモリ亜目イモリ科サラマンドラ属 Salamandra のサラマンダー・イモリ類の一種であろう(イタリアのトレントやアルプス山中に多く、卵胎生でもある)。恐らく、同類で最も知られるのは、南欧・中欧・東欧の高地に棲息し、大きな毒腺から乳白色の有毒な液体(アルカロイド系神経毒)を噴射することで知られ、全長十五~二十五センチメートル、最大三十センチメートルにも達する個体もある、黒地に警戒色として鮮やかな黄色(稀にオレンジ色)や赤色の斑点や縞を持ったファイアサラマンダーSalamandra salamandra であろうが、同種は成体は陸生(但し、水辺近くに棲息)であるが、は水中に子を産み、その幼生は水中生活をするので残念ながら、丘先生の言っている種ではない。]

和漢三才圖會第四十一 水禽類 鴛鴦(をしどり)

Osidori

をしとり 黃鴨 匹鳥

 婆羅迦隣提

     【出槃經】

鴛鴦【寃鸎】

      【和名

ユヱンヤン  乎之】

本綱鴛鴦者鳬之類也有湖溪棲于土穴中大如小鴨黃

色有文采紅頭翠鬛黑翅黑尾紅掌頭有白長毛埀之至

尾交頸而臥其交不再其雌雄不相離人獲其一則一相

思而死故謂匹鳥

△按鴛鴦溪川多有之村里稀有其毛羽有五彩頭有玄

 纓頸有紅絲背有小羽如摺扇半邊俗稱劔羽九十月

 多至矣家家養庭池然與鳧鴨同居動逐拒鳧鴨毎食

 小魚稻麥雌蒼色而目後有白條翅尾黑腹黃赤黑紋

 能交孕生卵抱伏于菰葦間及朽木穴

  新六池水にをしの劔羽そはたてゝ妻あらそひのけしきはけしも

をしどり 黃鴨〔(くわうこう)〕

     匹鳥〔(ひつちやう)〕

     婆羅迦隣提〔(ばらかりんてい)〕

     【「槃經〔(ねはんぎやう)〕」に出づ。】

鴛鴦【〔音、〕「寃鸎〔(ゑんあう)〕」。】

      【和名、「乎之〔(をし)〕」。】

ユヱンヤン

「本綱」、鴛鴦は鳬〔(かも)〕の類ひなり。湖溪〔(こけい)〕に有り、土〔の〕穴の中に棲(す)む。大いさ、小鴨のごとし。黃色、文-采〔(あや)〕有り。紅頭、翠鬛〔(すいれふ)〕。黑き翅、黑き尾。紅掌。頭に白き長毛、有り〔て〕、之れを埀〔らし〕て尾に至る。頸を交ぢへて臥〔(ふ)〕す。其の交(つる)び、再び〔は〕せず。其の雌雄、相ひ離れず。人、其の一つを獲〔(と)〕れば、則ち、一つは相思して死す。故に「匹鳥」と謂ふ。

△按ずるに、鴛鴦、溪川(たに〔がは〕)に多く之れ有り。村里〔にも〕稀れに有るなり。其の毛羽〔(まうう)〕、五彩、有り、頭に玄〔(くろ)き〕纓〔(すぢ)〕有り、頸に紅〔く→き〕絲、有り。背に小さき羽、有り、摺-扇(あふぎ)の半邊〔(はんぺん)〕のごとし。俗、「劔羽(つるぎ〔は〕)」と稱す。九、十月、多く至る。家家、庭池に養(か)ふ。然〔(しか)れど〕も、鳧-鴨〔(かも)〕と同居すれば、動(やゝ)もすれば、鳧-鴨〔(かも)〕を逐〔(お)ひ〕拒〔(こば)む〕。毎〔(つね)〕に小魚・稻・麥を食ふ。雌は蒼色にして目の後〔(しり)〕へに、白き條〔(すぢ)〕有り。翅〔の〕尾、黑く、腹、黃に赤黑の紋あり。能く交孕〔(かうよう)〕して卵を生ず。〔それを〕菰〔(こも)〕・葦の間及び朽木の穴に〔て〕抱〔き〕伏〔す〕。

  「新六」

   池水〔(いけみづ)〕に

    をしの劔羽〔(つるぎは)〕そばだてゝ

     妻あらそひの

       けしきはげしも

[やぶちゃん注:鳥綱 Avesカモ目  Anseriformes カモ科 Anatidae オシドリ属オシドリ Aix galericulataウィキの「オシドリ」によれば、東アジアに分布し(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、『日本では北海道や本州中部以北で繁殖し、冬季になると本州以南(主に西日本)へ南下し越冬する。オシドリは一般的に漂鳥であるが、冬鳥のように冬期に国外から渡って来ることもある』。『全長オス四十八センチメートル、メス四十一センチメートル。翼長はオス二十一~二十四・五センチメートル、メス二十一・七~二十三・五センチメートル、翼開張六十八~七十四センチメートル。体重〇・六キログラム、メス〇・五キログラム』。『嘴の先端は白い。卵は長径五・三センチメートル、短径三・七センチメートル』。『オスの嘴は赤く、繁殖期のオスは後頭(冠羽)、頬から頸部にかけての羽毛が伸長し、顔の羽衣が白や淡黄色。胸部の羽衣は紫で、頸部側面には白い筋模様が左右に二本ずつ入る。腹部の羽衣や尾羽基部の下面を被う羽毛は白い第1三列風切が銀杏状(思羽、銀杏羽)で、橙色。メスは嘴が灰黒色。非繁殖期のオス(エクリプス)』(エクリプス羽(eclipse plumage)のこと。カモ類のは派手な体色を呈する種が多いが、繁殖期を過ぎた後に一時的にのような地味な羽色になる種・個体がおり、その状態を指す。言わずもがなであるが、“eclipse”は元来は日食や月食などの「食」を意味する)『やメスは全身の羽衣が灰褐色、眼の周囲から後頭にかけて白い筋模様が入る。また体側面に白い斑紋が入るが、オスのエクリプスでは不明瞭。足は橙色で指に水かきがある』。『渓流、湖沼などに生息』し、かなり高地の『周辺の水辺でも見られる。水辺の木陰を好み、開けた水面にはあまり出ない。木の枝に』とまる『こともある』。『食性は植物食傾向の強い雑食で、水生植物、果実、種子、昆虫、陸棲の貝類などを食べる。陸上でも水面でも採食を行う』。『繁殖形態は卵生。四~七月に山地の渓流や湖沼の周辺にある地表から十メートル以上の高さにある大木の樹洞(あるいはまれに地表)に巣を作り、九~十二個の卵を産む。メスのみが抱卵し、抱卵期間は弐二十八~三十日』。『オシドリが樹洞に巣を作ることは昔から知られており、孵化した雛がどうやって地表に降りるのかは長い間』、『謎であった。しかし後に、雛は自分で巣から地面に飛び降りることが、皇居の森にて確認されている』。『孵化して四十~四十五日で飛翔できるようになる。厳冬期には数十羽から数百羽の群れをつくることもある』。『仲が良い夫婦を「おしどり夫婦」と呼ぶが、鳥類のオシドリは、冬ごとに毎年パートナーを替える』。『抱卵はメスのみが行』い、『育雛も夫婦で協力することはない』。『小林一茶が『放れ鴛一すねすねて眠りけり』と詠んだように、多くの句で詠まれている』。『和名のオシは「雌雄相愛し」に由来すると考えられている。漢字標記は鴛が本種のオス、鴦が本種のメスを指す。雌雄の仲が良いと考えられ、本種を用いた夫婦の仲が良いことを指すことわざとして「鴛鴦契」「鴛鴦偶」などがある』(下線太字やぶちゃん)とある。グーグル画像検索「Aix galericulataリンクさせておく。

「婆羅迦隣提」『「槃經〔(ねはんぎやう)〕」に出づ』通常、「槃經」と言った場合は、広義にはパーリ語で書かれた上座部経典長部に属する第
十六経を指し、漢訳では「長阿含第二経」の「遊行経」及び「仏般泥 洹経」・「般泥 洹経」・「大般涅槃経」がこれに相当する(内容は釈尊の晩年から入滅と、入滅後の舎利の分配などが詳しく書かれたもので、「大般涅槃経」はそれらに基づいて大乗仏教の思想を解説したものである。そこでは仏の法身は常住であって、一切衆生には悉く仏性があり、悪人も救われることを説く)が、この場合の「
槃經」は梁の寶亮撰になる「大般涅槃經集解」であろう。検索では「婆羅迦隣提」の文字列はそれにしか出ないからである。しばしばお世話になっているサイト漢籍リポジトリより当該箇所を引く(一部の漢字の表記を変更した)。

   *

云何共聖行婆羅迦隣提云何如日月太白與歳星。

案。僧宗曰。第四重廣流通也。理之爲用。不出常與無常。真之與應。此教雙明八理相對。應除八倒。事同牝牡文中。但列六行。蓋略耳。如日月者。此四譬爲成眞應故也。日月昇天。則萬像斯見。此偏舉眞應。顯自在之德。

   *

「〔音、〕「寃鸎〔(ゑんあう)〕」原本には「音」はないが、補った。今までの本書の書き方ではそうだからである。東洋文庫訳はこれを「鴛鴦」の異名として、ほかのものと並べて示しているが、これは甚だしい誤りで、「寃鸎」は「鴛鴦」の異名ではない。「寃」は冤罪のそれで「濡れ衣・謂れなき不当な扱い」、「鸎」は鳥の名としては「鶯(うぐいす)」の異体字(或いは誤字)であって、孰れもオシドリを指さない。明らかに「鴛鴦」の「音(おん)」を示している

「湖溪」湖や谷川。

「翠鬛〔(すいれふ)〕」「鬛」(現行は「たてがみ」と訓ずる)はこの場合、鳥の頭部に生える毛を指す。オシドリの繁殖期の♂は筋状を成す前額部の毛が青緑色を呈する。

「頸を交ぢへて臥〔(ふ)〕す」誤読されると困るので言っておくと、これが鴛鴦の交尾なのである。首を交えることが、イコール、コイツスなのである。そのように古くから信じられていたのである。 

「其の交(つる)び、再び〔は〕せず」交尾は雌雄ともに一度しかしない。事実の生態からは誤りと思われる。謂わば、これが中国古来からの閨(ねや)の鴛鴦の刺繡の都市伝説(urban legend)の元凶である。オシドリの性的二型がドシロウトでも判ること、♂が縫い取るに華やかで人目につき易いこと等から、プラグマティクに相思相愛のシンボル対象として選び易かったものと思われ、それに二次的に付随した話と推定される。

「其の雌雄、相ひ離れず。人、其の一つを獲〔(と)〕れば、則ち、一つは相思して死す」冒頭注の引用を見て判る通り、総て生態学上は誤り。

「匹鳥」この「匹」は「匹敵」などの用法の意で、「二つが並ぶ・対(つい)になる・仲間」の意味である。

「紅〔く→き〕絲」原本は「ク」にしか見えないのでかく示した。

「摺-扇(あふぎ)の半邊〔(はんぺん)〕のごとし」小さな扇を開いてその半分を折って附けたような感じ。

「劔羽(つるぎ〔は〕)」オシドリの♂の両翼にあるイチョウの葉の形のような羽を指す。風切り羽の内側の一対が発達したもので、橙色で目立つ。現在もこう呼んだり、「銀杏羽(いちょうば)」「思い羽」などとも呼称する。

「動(やゝ)もすれば、鳧-鴨〔(かも)〕を逐〔(お)ひ〕拒〔(こば)む〕」オシドリはテリトリー・摂餌・パートナーを巡って、同種間でも、常時、壮絶な闘争を繰り返しているから、これは腑に落ちる。

「交孕〔(かうよう)〕」交尾して孕むこと。

「菰〔(こも)〕」単子葉植物綱イネ目イネ科エールハルタ亜科 Ehrhartoideae Oryzeae族マコモ属マコモ Zizania latifolia

「新六」「新撰六帖題和歌集」(「新撰和歌六帖」とも呼ぶ)。六巻。藤原家良(衣笠家良:いえよし。新三十六歌仙の一人)・為家(定家の子)・知家・信実・光俊の五人が、仁治四・寛元元(一二四三)年から翌年頃にかけて詠まれた和歌二千六百三十五首を収めた、類題和歌集。奇矯で特異な歌風を特徴とする(以上は東洋文庫版の書名注を参考にした)。

「池水〔(いけみづ)〕にをしの劔羽〔(つるぎは)〕そばだてゝ妻あらそひのけしきはげしも」藤原信実(安元二(一一七六)年頃~文永三(一二六六)年以降:絵画・和歌に秀で、水無瀬神宮に伝わる国宝「後鳥羽院像」は信実の作と考えられている。短い線を何本も重ねることで主体の面影を捉える技法が特色とする。大倉集古館所蔵の「随身庭騎絵巻」や佐竹本「三十六歌仙絵巻」などの作品は、信実と、その家系に連なる画家たちによって共同制作されたものと推測されている。信実の子孫はいわゆる似絵(にせえ:鎌倉から南北朝にかけて流行した大和絵系の肖像画)の家系として知られる八条家となり、室町中期頃まで続いた。勅撰歌人として「新勅撰和歌集」(十首)以下の勅撰和歌集に百二十二首が入集している。また、説話集「今物語」(延応二(一二四〇)年前後の成立)の編纂者としても知られる。ここはウィキの「藤原信実に拠った)の歌。整序すると、

池水(いけみづ)に鴛鴦(をし)の劔羽(つるぎは)欹(そばだ)てて妻爭(つまあらそ)ひの景色(けしき)激しも

これは鴛鴦の生態を確かに捉えていて素晴らしい。]

2018/02/10

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十五年 『日本新聞』入社 / 明治二十五年~了

 

     『日本新聞』入社

 

 東京へ引上げた翌々日、即ち十一月十九日に『日本』入社の事が決定した。羯南翁からの話に、別にこれというほどの仕事も無いから、いやな時は出勤しなくてもよろしい、その代り月俸は十五円である、社の経済上予算が定(きま)っているので、本年中は致方(いたしかた)ないが、来年になれば多少何とかなるであろう、それまでのところ足りなければ自分が引受けるから、ということであった。居士はこの成行を大原恒徳氏に報告し、「尤我社の俸給にて不足ならば他の『国会』とか『朝日新聞』とかの社へ世話致し候はば三十円乃至五十円位の月俸は得らるべきに付その志あらば云々と申候へども、私はまづ幾百円くれても右様の社へははいらぬつもりに御座候」という志を述べた。居士の面目はこの手紙によく現れている。就職に当って他の一切を顧みなかった居士は、『日本新聞』社員としてその一生を了えたのである。

 居士が明治十六年に上京して、はじめて訪ねた当時の羯南翁は操觚者(そうこしゃ)でなしに、官報局の役人であった。『日本』の創刊を見た二十二年二月十一日は、居士は雪を踏んで高等中学の運動場に集り、二重橋の外に鳳輦(ほうれん)を拝して万歳を三呼している。それから芝の某(なにがし)の館に催された園遊会に赴く途中、はじめて『日本』の第一号を手にした。附録の憲法の表紙に三種の神器を画(えが)いたのも、その時は非常に面白いと思ったと『墨汁一滴』の中に見えている。居士と『日本』との間には、早くから因縁がなかったわけではないが、根岸へ移るとともに羯南翁との交渉が深くなり、「かけはしの記」を振出しとして諸種の文章が紙上に現れた結果、遂に『日本』入社まで進行するに至ったのであろう。

[やぶちゃん注:「操觚者(そうこしゃ)」文筆に従事する文筆家・編集者・ジャーナリスト。この場合の「觚」は中国で、昔、文字を記した四角い木の札のことを指す。

「羯南翁は」「官報局の役人であった」既に注した通り、陸羯南は明治一六(一八八三)年に太政官御用掛となり、新設の文書局に勤めた(本文にある通り、この時、友人加藤恒忠の甥であった正岡子規の訪問を受けたのである)。二年後には文書局が廃止されて内閣官報局が誕生し、その編輯課長に昇進したものの、明治二一(一八八八)年の春に依願退職し、翌明治二十二年二月十一日に日刊紙『日本』を創刊、紙上で日本主義・国民主義の立場から政治批判を展開したのであった。

「二重橋の外に鳳輦(ほうれん)を拝して」戦前の「二月十一日」は紀元節(「古事記」「日本書紀」に於いて本邦の初代天皇とされる神武天皇の即位日をもって定めた祝日。制定は明治六(一八七三)年。この日付は「日本書紀」で神武天皇が即位したとされる神武天皇元年(西暦紀元前六六〇年に相当)の旧暦一月一日の月日を新暦に換算したもの)であると同時に、この明治二二(一八八九)年の二月十一日は「大日本帝國憲法」公布日であった。「大日本憲法発布の詔勅」が出され、天皇が黒田清隆首相に手渡すという欽定憲法の形で発布されているから、「鳳輦」(屋形の上に金銅の鳳凰を飾った輿(こし)。天皇の晴れの儀式の行幸用のもの)が二重橋を出て、国会に出向いたものかと思われる。

「『墨汁一滴』の中に見えている」明治三四(一九〇一)年二月十一日の条。短いので以下に示す。底本は国立国会図書館デジタルコレクションにある、初出の切貼帳冊子。一部、句点の脱落(組版上、古い新聞では行末にある場合は打てない)と考えられる箇所に句点を追加した。

   *

朝起きて見れば一面の銀世界、雪はふりやみたれど空は猶曇れり。余もおくれじと高等中學の運動場に至れば早く已に集まりし人々、各級各組そここゝに打ち群れて思ひ思ひの旗、フラフを翻し、祝憲法發布、帝國萬歳など書きたる中に、紅白の吹き流しを北風になびかせたるは殊にきはだちていさましくぞ見えたる。二重橋の外に鳳輦を拜みて萬歳を三呼したる後余は復學校の行列に加はらず、芝の某の館の園遊會に參らんとて行く途にて得たるは「日本」第一號なり。其附錄にしたる憲法の表紙に三種の神器を畫きたるは、今より見ればこそ幼稚ともいへ、其時はいと面白しと思へり。それより余は館に行きて假店太神樂などの催しに興の盡くる時もなく夜よ深ふけて泥の氷りたる上を踏みつゝ歸りしは十二年前の二月十一日の事なりき。十二年の歳月は甚だ短きにもあらず「日本」はいよいよ健全にして我は空しく足なへとぞなりける。其時生れ出でたる憲法は果して能く步行し得るや否や。

   *

「かけはしの記」既出既注。「青空文庫」のこちらで全文が読める。]

 当時の居士の日記を検(けみ)すると、十月二十七日の条に「到日本新聞社」ということが見えるが、この時はどういう用向(ようむき)で行ったのかわからない。いよいよ社員として社へ出るようになったのは十二月一日からである。たまたま軍艦千嶋が伊予堀江沖に沈没する事件があり、それに関して「海の藻屑」という短文を草したのが入社最初の仕事になったらしい。爾後俳句入の短文を以て時事を評したものが引続き『日本』紙上に現れている。

[やぶちゃん注:「軍艦千嶋が伊予堀江沖に沈没する事件」ウィキの「千島艦事件」より引く。明治二五(一八九二)年十一月三十日、『日本海軍の水雷砲艦千島』(ウィキの「千島 通報艦を参照。「通報艦」とは無線技術などの情報伝達手段が発達していなかった二十世紀初頭まで海軍艦船間や地上との命令・報告の伝達を担った艦を指す。ウィキの「通報艦」によれば、大日本帝国海軍では明治三一(一八九八)年から大正元(一九一二)年まで艦種区分として存在していたとあって、『海戦では戦隊の非戦闘側を併走して旗艦の旗信号を各艦に伝える任務を負っていた』とある。この記載は一八九二年に沈没してしまった「千島」の適応外となるが、公式文書(「訓令六二」)で同艦を『報知艦』としている(ウィキの「千島 通報艦)」の注2を見よ)ので後の「通報艦」と見做して問題はない。ウィキの「千島 (通報艦)」よれば、『通報艦のサイズ・能力は、水雷砲艦やコルベット』(Corvette:軍艦の艦種の一つ。一層の砲甲板を持ち、フリゲート(小型の高速帆船艦。後の巡洋艦の前身)より小さい)や『スループ』(Sloop:フリゲートとコルベットの中間に位置する軍艦。一層の砲甲板に十門から二十門の大砲を搭載するもの)『と同等であることが多いため、通報艦という独立した艦種を設けず、これらの艦に通報艦の任務を担わせることも多かった。その後、無線技術が発達したことにより、伝令任務については専任の艦艇を充当する必要性が無くなったため』、『姿を消した』ものの、通報任務が戦艦業務から消えた後も『同じ艦種名で運用された』ともある)『がイギリス商船と衝突、沈没した事件。日本政府が訴訟当事者として外国の法廷に出廷した最初の事件であり、領事裁判権の撤廃問題と絡んで』、『日本の国内外を巻き込む政治問題に発展した』。明治二五(一八九二)年、『日本海軍がフランスに発注していた砲艦千島が完成した。鏑木誠の指揮下、海軍の手により日本に回航し、長崎港を経由して神戸港に向かった。ところが』、『その途中の』同年十一月三十日、『愛媛県和気郡沖の瀬戸内海において、イギリスのP&O(当時の日本国内の呼称はピーオー汽船会社)所有のラヴェンナ号と衝突し、千島は沈没して乗組員』七十四『名が殉職した(ラヴェンナ号も損傷を受けた)』。『だが、当時の日本は安政五カ国条約によって領事裁判権が設定されており、イギリス商船に関する裁判は横浜の横浜英国領事裁判所を第一審とすることになっていた。そのため、当時の』第二次伊藤内閣は翌明治二六(一八九三)年五月六日に『弁護士の岡村輝彦(後の中央大学総長)を代理人とし、P&Oを相手として』八十五『万ドルの賠償を求める訴訟をイギリス領事裁判所に起こした。これに対してP&Oも日本政府を相手として』十『万ドルの賠償を求める反訴を起こした』。一『審は反訴のみが却下され、日本側の実質勝利とされたが、双方とも不服を抱いて』、『上級審にあたる上海の英国高等領事裁判所に控訴した。ところが、二『審ではP&Oの全面勝訴となった。この判決結果に加え、原告が元首である天皇の名義であったのか否かについての議論が湧きあがった。帝国議会では、立憲改進党の鳩山和夫らが政府を追及、同党とともに硬六派』(こうろっぱ:対外硬六派。一八九〇年代、対外強硬論を唱えていた対外硬路線を掲げる国家主義・国粋主義的な六党派の連合のこと)『を形成していた各党や世論もこれに呼応した。硬六派は領事裁判権を含めた全面的な条約改正か』、『現行条約の条文を徹底遂行して外国人の居留地に押込めるように迫った(条約励行運動)』。『これに対し』、政府は二度に亙って』、『衆議院解散を断行する一方、イギリス本国の枢密院に上告を決めた。政府内には岡村の能力を不安視して末松謙澄や金子堅太郎に代理人として派遣する構想も出されたものの、最終的には岡村に一任することとなった。一八九五(明治二十八)年七月三日、イギリス『枢密院は上海の判決を破棄して横浜領事館への差し戻しを命じるとともに、P&Oに日本側の訴訟費用約』十二『万円の負担を命じた。その後、イギリス外務省の意向を受けた領事館によって和解が図られ』、同年九月十九日に『日本政府とP&Oの間で和解が成立、P&Oは』一『万ポンド(日本円で』九万九百九十五円二十五銭『)の和解金と日本側の訴訟費用全額を負担する代わりに』、『日本政府は一切の請求権を放棄した』とあり、さらに、『俳人の正岡子規は』、同年十二月二日の新聞『日本』に千島艦事件について、「海の藻屑」と題した俳句時評を書き、

 

 もののふの河豚にくはるる悲しさよ

 

という句を詠んでいる、とある。]

 十二月七日、鳴雪翁と共に高尾山に遊び、八王子一宿、翌日百草松蓮寺(もぐさしょうれんじ)、府中、国分寺などを経て帰った。この時の紀行は「馬糞紀行」と題して『日本』に掲げられたが、後に「高尾紀行」と改められた。

 

 麥蒔やたばねあげたる桑の枝

 松杉や枯野の中の不動堂

 

などの句はこの時のものである。居士は後年『獺祭書屋俳句帖抄』の序において「冬の始に鳴雪翁と高尾の紅葉見に行た時は天然の景色を詠み込む事がやや自在になった」といい、「平凡な景、平凡な句であるけれども、こういう景をつかまえてこういう句にするという事がこれまでは気の附かなかった事であった」といっている。鳴雪翁の句もこの紀行中にあるものは「荻窪や野は枯れはてて牛の聲」「玉川の一筋ひかる枯野かな」「古塚や冬田の中の一つ松」などの如く、朗々誦(しょう)すべきものが多い。

[やぶちゃん注:「百草松蓮寺」現在の多摩丘陵の一角、東京都日野市百草にある、京王電鉄所有の庭園「京王百草園」。寺はこの当時、既に存在しない。最初のそれは、享保年間(一七一六年から一七三六年)に寿昌院殿慈覚元長尼なる尼僧が松連寺という荒れ寺を再建し、それに伴って、百草園の原型が造営されたという。江戸時代にも多くの文人・茶人などが訪れ、句会や茶会を開いたとされる。その後、松連寺は廃寺となり、明治初期には、ここ百草出身の青木角蔵という生糸商人がこの廃寺跡を買い取って、そこに庭園を造って「百草園」と名づけた。梅花で知られ、その名の通り、季節折々の名花を咲かせ、紅葉も美しい。明治には若山牧水・北村透谷・徳富蘆花などの文人も訪れている。昭和三二(一九五七)年に京王帝都電鉄(現在の京王電鉄)に移管された。私も遠い昔、恋人と訪れたのを思い出す。

『「馬糞紀行」と題して『日本』に掲げられたが、後に「高尾紀行」と改められた』初出「馬糞紀行」は明治二五(一八九二)年十二月号の『日本』。「高尾紀行」と改められたそれは「青空文庫」のこちらで読めるが、初出題「馬糞紀行」で載せる正字正仮名の「国文学研究資料館所」の同館蔵「日本叢書 子規言行録」をお薦めする。]

 十二月二十二日から三三日にわたって、居士は『日本』に「歳晩閑話(さいばんかんわ)」を掲げた。入社後執筆した最初の俳話である。歳晩の風物を題材にした俳諧雑談で、特筆するほどのものもないが、「餅搗(もちつき)」の題下に「門に月並魔の三字を大書」する宗匠(そうしょう)を持出し、古人の餅搗の句を評判することに仮託して、その俗陋(ぞくろう)を嘲(あざけ)った一篇は、いささか注目に値する。一度(ひとたび)居士によって在来と違った意味に用いられてから、天下に風をなすに至った「月並」なる言葉も、著作に現れたものとしては、この辺が最も古いのではないかと思われる。

[やぶちゃん注:「歳晩閑話」「餅搗」正岡子規没後二ヶ月後の明三五(一九〇二)年十一月弘文館刊の「獺祭書屋俳話」の国立国会図書館デジタルコレクションの画像から視認できる。]

芥川龍之介 手帳12 《12―17・12-18》

《12―17》

Söderberg : (Anatole Fran)

Strangers short

Errors  long

Martin Birk's Youth.

Dr. Glas

[やぶちゃん注:「Söderberg」ヤルマール・セーデルベリィ(Hjalmar Söderberg 一八六九年~一九四一年)はスウェーデンの翻訳家で、ストリンドベリと並ぶスウェーデンのモダニズムを代表する小説家でもある。フランスの作家で芥川龍之介が傾倒したアナトール・フランス(Anatole France 一八四四年~一九二四年)の主要な作品をスウェーデン語に訳しており、以上の丸括弧メモはその覚書きであろう。他にもモーパッサン・ミュッセ・ハイネといった作家の翻訳も手がけている。

Strangers」セーデルベリィの一九〇三年刊の短篇小説(原題)Främlingarneの英訳。

Errors」セーデルベリィの長篇小説らしいが、不詳。最初の文壇デビュー作は長篇小説で一八九五年刊の“Förvillelser”であるが、これは英文ウィキではDelusionsと訳されている。この英語は「惑わし・欺き」「迷い・惑い・妄想・思い違い」「被害(誇大)妄想」「妄想」の意であるから、当たらずとも遠からずの感じがするから、これか?

Martin Birk's Youth.」原題Martin Bircks ungdom。一九〇一年刊。

Dr. Glas」一九〇五年刊の小説。原題Doktor Glas。「医師グラスの殺意」として邦訳が出ているらしいが、とあるブログ記事()によると、訳が話にならないほど酷いそうである。]

 

La Rôtisserie de la Reine Pédauque

[やぶちゃん注:アナトール・フランスの一八九二年作のLa Rôtisserie de la reine Pédauque。「鳥料理レエヌ・ペドオク亭」という邦訳で出されたことがあるらしいが、訳の評判は良くない。ネット上の記載を読むと、錬金術やオカルティックな彼の初期の異色作らしい。]

 

○京

⑴川馬 女 弟――弟兄をたづぬ

   弟    兄は何大納言にあり

         馬をつれし男にきく

         なしと

         リレキ

⑵弟何大納言に行く 侮蔑 盜賊の噂

⑶祭

 騷動 女をすくふ    著聞集

            >

 且女を救ふ兄を見かく  鬪諍

弟捕はる 牢内 婆來る 手紙

[やぶちゃん注:これも「偸盗」の構想メモであるが、寧ろ、これは彼の「偸盗」改作用のメモかも知れない実は「偸盗」には執筆中から芥川龍之介自身、不満が相当に鬱積していた模様で、例えば、一回目の脱稿(大正六(一九一七)年三月十五日。現在の「一」から「六」までのパート)直後の三月二十九日附松岡譲宛書簡(旧全集書簡番号二七三)では『「偸盜」なんぞヒドイもんだよ安い繪双紙みたいなもんだ中に臨月の女に堕胎藥をのませようとする所なんぞある人は莫迦げていゐると云うふだらうその外いろんなトンマな噓がある性格なんぞ支離滅裂だ熱のある時天井の木目が大理石のやうに見えたが今はやつぱり唯木目にしか見えない「偸盜」も書く前と書いた後とではその位差がある僕の書いたもんぢや一番惡いよ一體僕があまり碌な事の出來る人間ぢやないんだ』と告白しており、二回目の脱稿直後(同年四月二十日。但し、その掲載は何故か、二ヶ月後の七月一日(無論、同じ『中央公論』)の同じ松岡への書簡(四月二十六日クレジット(消印は前日)・旧全集書簡番号二八一・次の二八二と連送葉書で頭に『⑴』とある)では、冒頭から『偸盜の續篇はね もつと波瀾重疊だよ それだけ重疊恐縮してゐる次第だ』『何しろ支離滅裂』だ、『僕が羽目をはづすとかう云ふものを書くと云ふ參考位にはなるだらう とにかくふるはない事夥しいよ』そのナーバスな感じは、かなり深刻なものであることが判る。しかも、同年五月七日附松岡書簡(旧全集書簡番号二八七)では、「續偸盜」を脱稿したばかりであるにも拘わらず『偸盜を大部分書き直しかけている。九月にどこかへ出してもらふつもりで』と記しているのである。しかも、それから十八日後の中根駒十郎宛書簡(旧全集書簡番号二九〇)では、『「偸盜」なるものは到底あのままで本にする勇氣はなしその上改作をこの九月に發表する雜誌まできまつてゐる』とさえ記しているしかし誠に残念なことに、この改稿草稿は現存しない)。ところが、同年七月二十六日附松岡譲宛書簡(三〇七)では急激にトーン・ダウンしてしまい、『偸盜はとても書き直せ切れないから今年一ぱい延期して九月には新しいものを二つ出さうと思つてゐる』と、諦めと新規巻き直しによる他の構想への興味の転換が起ってしまっていることが判る。それでも、彼の「偸盜」の大幅な改作意欲自体(それだけ、実は芥川龍之介にとって「偸盜」は実は捨て難い秘かな偏愛作であったのである。私も非常に好きな一作である)は内的には旺盛であり続け、書簡では三年も経った大正九(一九二〇)年四月二十六日附小島政二郎宛書簡(旧全集書簡番号七〇七)では、小島の近作(「睨み合ひ」)を褒め上げた(多少の瑕疵箇所への助言も添えている)上、最後の二伸で『僕も「睨み合」[やぶちゃん注:ママ。]に發奮して「偸盜」の改作にとりかゝりたいと思ひます』と言い添えている。しかし、またしても残念なことに、平成一二(二〇〇〇)年勉誠出版刊「芥川龍之介作品事典」の「偸盗」の須田千里氏の解説によれば、この『言及を最後に、改作は結局実現を見なかった』のであった。なお、「偸盜」は芥川龍之介生前の単行本には未収録である。

「⑴」の内容はエンディングの「丹後守何某」のシークエンスに似ているが、「大納言」は決定稿には出て来ない。もしこれが、あの最後のシーンだとするならば、「⑵」「⑶」「⑷」は現行の展開とは異なる、改作による「續偸盜」(初出の第二回の題名)の「續々偸盜」の構想の可能性さえ考え得るのである。

 

「著聞集」現行の芥川龍之介の「偸盜」は「今昔物語集」からは、複数の話(凡そ七篇)が素材とされていることが判っているが、芥川龍之介は「今昔物語集」の「卷第二十九」に「或所女房、以盜爲業被見顕語第十六」(或る所の女房、盜みを以つて業(わざ)と爲し、見顕(みあらは)さるる語(こと)第十六)という題名しか残っていないものから、欠損した本文が類話であろうされる、後の「古今著聞集」の「検非違使別當隆房家の女房大納言殿、強盗の事露顯して禁獄の事」を素材として用いる用意をしていたのではないかと私は推理する。]

 

《12―18》

⑸破牢 兄弟對面

⑹兄の話 國守の書見(父) 沙金の母 婆は乳母 witch 爺はその夫

[やぶちゃん注:明らかに改作の「偸盜」案メモと私は読む。]

 

○「それでね」「それで何さ」「それでおしまひ」

Mantle & other stories by Gogol

[やぶちゃん注:ウクライナ生まれのロシア帝国の作家ニコライ・ヴァシーリエヴィチ・ゴーゴリ(ウクライナ語:Микола Васильович Гоголь/ロシア語: Николай Васильевич Гоголь/ラテン文字転写:Nikolai Vasilievich Gogol 一八〇九年~一八五二年)の『「外套」他』という英訳の彼の短篇集(彼の名作「外套」(Шинель)は一八四二年刊)。]

2018/02/09

芥川龍之介 手帳12 《12―16》

 

《12―16》

Bain

[やぶちゃん注:不詳。]

 

Russian Fairy Tales 415

[やぶちゃん注:ロシアの民俗学者。ロシア民話研究の第一人者で、「ロシアのグリム」とも称されるアレクサンドル・ニコライェヴィチ・アファナーシエフ(Александр Николаевич Афанасьев 一八二六年~一八七一年)が一八五五年から一八六三年にかけて刊行したНародные Русские Сказки(「ロシア民話集」)の英訳本。]

 

Danish Fairy Tales

[やぶちゃん注:削除された「Danish」は「デンマークの」。]

 

Janvier  Legends of the Mexico 250

[やぶちゃん注:「Janvier」アメリカの小説家トマス・アリボーン・ジャンヴィアー(Thomas Allibone Janvier 一八四九年~一九一三年)。

Legends of the Mexico」ジャンヴィアーの一九一〇年刊のLegends of the City of Mexico。]

 

Myths & Le. of Ancient Egypt 415 Spence

[やぶちゃん注:底本編者注に『Le. Legends の略』とある。Ancient Egyptian Myths and Legendsは、イギリスのジャーナリストで作家・民俗学者であったジェームズ・ルイス・スペンス(James Lewis Thomas Chalmers Spence  一八七四年~一九五五年)の一九一五年刊の著作。]

 

Hero Tales & Legends of the Rhine 175 Spence

[やぶちゃん注:ジェームズ・ルイス・スペンスの一九一五年の刊本。

Rhine」ライン川。]

 

Mackenzie  Indian Fairy Tales 195

[やぶちゃん注:ジャーナリストで作家・民俗学者であったドナルド・アレクサンダー・マッケンジー(Donald Alexander Mackenzie 一八七三年~一九三六年)の一九一五年刊のIndian Fairy Storiesであろう。]

 

Magnus

[やぶちゃん注:人名か、書名の書き消しかは、これでは、不明。]

 

On Love Sterldhal 415 & Raleigh Style 275

[やぶちゃん注:フランスの小説家スタンダール(Stendhal 一七八三年~一八四二年:本名・マリ=アンリ・ベール Marie Henri Beyle)の一八二二年刊の随筆集「恋愛論」の英訳本。原題はDe l'Amour

Raleigh」不詳。イングランドの女王エリザベス世の寵臣にして探検家・詩人であったウォルター・ローリー(Walter Raleigh 一五五二年又は一五五四年~一六一八年:新世界アメリカに於いて最初のイングランド植民地を築いたことで知られる。信頼されていたエリザベス世が一六〇三年四月に死去すると、同年十一月に内乱罪で裁判を受け、ロンドン塔に一六一六年まで凡そ十二年監禁されている。それが解かれた同年、南米にエル・ドラド(黄金郷)を求める探検隊を指揮して向かったが、その途中、部下らがスペインの入植地で略奪を行い、一行がイングランドに帰還後、憤慨したスペイン大使がジェームズ世に彼の死刑を求め、一六一八年十月十八日に斬首刑に処せられている。以上はウィキの「ウォルター・ローリー」に拠った)のことか? しかし「Style」が繋がらない。]

 

H. J.  Notes on Novelists 415

[やぶちゃん注:底本編者注に『H. J. Henry James の略』とある。アメリカ生まれでイギリスで活躍した作家ヘンリー・ジェイムズ(Henry James 一八四三年~一九一六年が一九一四年に刊行した文芸批評。「小説家たちに就いての覚書」とでも訳すか。]

 

Pathos of D.  Huneker 440

[やぶちゃん注:底本編者注に『D. Distance の略』とある。アメリカの芸術・文芸批評家ジェームズ・ギボンズ・ハネカー(James Gibbons Huneker 一八五七年~一九二一年)の一八一三年の作品。「距離(隔たり)のパトス(情念)」?]

 

Degeneration Nordau 135

[やぶちゃん注:ハンガリー出身のシオニズム指導者で医師・小説家・哲学者・社会評論家であったマックス・ジーモン・ノルダウ(Max Simon Nordau 一八四九年~一九二三年)が一八九二年に発表した「頽廃論」(原題(ドイツ語):Die Entartung)の英訳本。ウィキの「マックス・ノルダウによれば、当時、『オーストリア帝国の一部だったペストにて、貧しいユダヤ人の家庭に生まれる。父ガブリエル・ズュートフェルトはプロイセンでラビをしていたが、ブダペストで塾講師を営む傍ら、ヘブライ語で詩を書いていた。家庭の信仰は敬虔な正統派ユダヤ教であり、ジーモンはユダヤ人小学校からカトリックの中学校を経て医学部を卒業した。学業の傍ら』、一八六三年から『文学活動を開始し、同年に詩や随筆や小説を出版している』。『ブダペストの小新聞社で記者生活を送った後』、一八七三『年にベルリンへ移住し、ノルダウと改名した。まもなく『新自由新聞』(Die Neue Freie Presse)の通信員としてパリに移り、それ以後は生涯の大半をパリで過ごした』。『本来』、『ノルダウは同化ユダヤ人の典型であり、プロテスタント女性と結婚し、ドイツ文化に親しみを感じ、「』十五『歳になった時、私はユダヤ的な生活態度とトーラーの研究を放棄した』。……『以来、ユダヤ教は単なる思い出となり、私は自らをドイツ人以外の何者でもないと感じるようになった」と記したこともあるが』一八九四『年のドレフュス事件を機にシオニストとなる』。『社会評論家としては』「文明人の因襲的な嘘」(Die Konventionellen Lügen der Kulturmenschheit 一八八三年)や、この「頽廃論」、一八九六年の「逆説」(Paradoxe)等の『著書を世に問い、議論を呼んだ。当時』、『話題となった著作の大半は』現代では顧みられることは少ないが、「頽廃論」の一作だけは、今、なお、『世人の記憶に残り、しばしば引用されている』。「頽廃論」に於いてノルダウは、『反ユダヤ主義をデカダンスの一形態として非難した』のである『が、皮肉なことに、彼の頽廃芸術批判論は後年、ナチによってユダヤ人芸術家たちへの迫害の口実として利用された』とある。]

 

Stories of R Life

[やぶちゃん注:不詳。]

 
    275
    
415
    
440
    135

 ――――――
   
 1265

[やぶちゃん注:計算式の意味は不詳。書式はこのままで全部縦書。]

 

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十五年 家族迎えの旅

 

    家族迎えの旅

 

 神戸に家族を迎うべく西下した居士は、先ず京都に到り柊屋(ひいらぎや)に投じた。京都には高等中学に入ったばかりの虚子氏がいるので、共に三尾(さんび)の紅葉を観、三軒屋に一泊したりした。この時の事は当時『日本』に掲げた「旧都の秋光」よりも、後年の『松蘿玉液(しょうらぎょくえき)』に委しく記されている。

[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。これは「松蘿玉液」(明治二九(一八九六)年四月二十一日から十二月三十一日まで新聞『日本』に連載。題名は最後の章で明かされており、それは中国産の墨の銘である(なお、たまたま、本書が面白いと勧める、とある方のブログ記事を読んだのだが、「松蘿玉液」とは正岡子規が旅で荷物を運んでもらったりして非常に世話になった中国人の号で、その人が亡くなって逢えなくなったのを寂しく思うと書かれてある、とするトンデモ記載があった。面白いと感じて述べておられる記事内容はいいのだけれど、その最後の驚天動地の読み間違いに、私は何だかひどく哀しくなったことを告白しておく。子規もこれには流石に微苦笑されることであろう。いや。確信犯のパロディであることを切に望むものの、それを信じてしまう者がきっといるであろうことを考えると、正直、憂鬱になってしまうのである因みに、松蘿サルオガセ(菌界子嚢菌門チャシブゴケ菌綱チャシブゴケ目ウメノキゴケ科サルオガセ属 Usnea:樹皮に纏わりついて懸垂する糸状の地衣類)の漢名であるが、ここは広義の松の木に絡まる蔓(つる)の意で、名墨から滴るそれはまさに神仙の筆を浸すによい。なお、この「松蘿」はその形状から、「男女の契りの固いこと」の譬えとしてもよく用いるから、私は「玉液」は、これ、また、それによく響き合うな、と昔から秘かに思っていることも言い添えておく)の十二月二十三日の「京都」の章に現われる一節。この少し前に、

 

 手拭に紅葉打ち出す砧(きぬた)かな

 

の句を示し、引用文の直後には、

 

 木老いて歸り花だに咲かざりき

 

を置いて、「京都」の条を終えている。以下の引用は、国立国会図書館デジタルコレクションの昭和七(一九三二)年春陽堂刊の「松蘿玉液」の当該箇所で校訂した。

「柊屋(ひいらぎや)」京都府京都市中京区麩屋町姉小路上ル中白山町に現存する老舗旅館。川端康成の定宿でもあったようだ。ここ(グーグル・マップ・データ)。公式サイトはこちら。但し、「松蘿玉液」には『旅籠屋』とあるだけで、固有名詞は出ない。「旧都の秋光」にも出ない。

「高等中学に入ったばかりの虚子」詳しくない年譜では出てこないが、虚子は明治二五(一八六二)年四月に松山の伊予尋常中学校を卒業後、同年九月に京都第三高等中学校に入学して、京都に下宿していた。翌二十六年九月に伊予尋常中学校の級友であった碧梧桐とともに京都の第三高等学校(現在の京都大学総合人間学部)に進学している。

「三尾(さんび)」神護寺のある高雄(高尾と書く)・高山寺の栂尾(とがのお)・西明寺(さいみょうじ)の槙尾(まきお)の総称。京都北山の紅葉の名所。

「三軒屋」現在の京都府亀岡市馬路町三軒屋(うまじちょうさんげんや)。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「旧都の秋光」明治二五(一八九二)年十一月発表。「国文学研究資料館」の「子規言行錄」に載る。]

 

此時吾れは最も前途多望に感じたりし時なり。吾れに取りては第一の勁敵(けいてき)[やぶちゃん注:強敵。]なる學校の試驗と緣を絶ちたりし時なり。況して[やぶちゃん注:「まして」と読む。]この勝地に遊び此友に逢ふ。喜ばざらんと欲するも能はず、之を抑ふればますます喜びは力を得て逬發(はうはつ)[やぶちゃん注:迸(ほとなし)り出ること。]せんとす。わが顏は喜びの顏なり、吾が聲は喜びの聲なり、吾が擧動は喜びの擧動なり。はては一呼一吸する空氣の中に喜びの小兒は兩腋(りやうわき)の羽を動かして無數に群れたるを見る。この時のわが喜び虛子ならでは知るまじ。この時の虛子が喜びも吾れならでは知るものなし。目前の何が樂しきかと問はば何が樂しきか知らず。前途に如何の望(のぞみ)かあると問はば自ら答ふる能はず。然れども人間の最も樂しき時は何かは知らず只〻樂しき時に在るなり。喜び極まりてしかも些(いささか)の苦痛を感ぜざりしは吾が今日までの經歷にて只〻此時あるのみ。既往かつ然り、今後再びこの喜びあるべしとも覺えず。

 

 旧世界は已に尽きて、新世界はいまだはじまらぬ、居士の生涯にあっては慥に二度とない時期であった。この時の句も多少伝わっているが、居士のこの喜びを盛り得たものは見当らない。

 十一月十四日、母堂及令妹を迎えた居士は、その日のうちに京都に引返して再び柊屋に投じた。虚子氏と共に愚庵和尚を訪ねたのは、翌十昔の夜であった。和尚が「順礼日記」の旅に出る前年である。居士と和尚との交渉は、この時にはじまるものと思われる。

 

 紅葉ちる和尚の留守のゐろりかな

 凩(こがらし)や自在に釜のきしる音

 浄林の釜にむかしを時雨けり

 

などの句はこの際のものであるが、愚庵訪問の模様は『松蘿玉液』に委しい。携えて行っつ柚味噌を出したら、和尚が手を拍(う)って善哉(ぜんざい)と呼んだということもその中にある。帰京後の日記に「喫柚味噌(ゆずみそをきつす)」とあり、「蓋(ふた)とれば京の匂ひの柚味噌(ゆみそ)かな」という句を記しているのは、この京都の土産であろうと思う。

[やぶちゃん注:「愚庵和尚」天田愚庵(あまだぐあん 嘉永七(一八五四)年~明治三七(一九〇四)年)は福島生まれの禅僧で歌人。漢詩や和歌に優れ、正岡子規にも影響を与えた。一時期、かの侠客清水次郎長(文政三(一八二〇)年~明治二六(一八九三)年:本名・山本長五郎)の養子となったこともある。本名は五郎。鉄眉とも称した。磐城平藩士甘田平太夫の子で、十五歳で戊辰戦争に参加したが、この戦いで父母・妹と生き別れとなり、藩閥政治への恨みと肉親捜しのため、台湾にまで足を延ばした。「西南の役」への参加や岩倉具視暗殺などを画策し、その跳ねっ返り振りに呆れた山岡鉄舟により、明治一四(一八八一)年、清水次郎長に紹介されて養子になる。明治十七年二月に博徒狩りによって次郎長が収檻されるや、四月には助命嘆願書として「東海遊侠伝」を著して出版したが、養父収檻中にも拘わらず、自由民権派の「加波山蜂起」の一カ月前の同年八月、突然、養子縁組を解消、出家して京都清水坂に庵を構え、和歌と維新の内戦で死んだ人々の菩提を弔う行脚の生活に入って、「巡礼日記」を著した(明治二七(一八九四)年日本新聞社より出版)。明治二九(一八九六)年には正岡子規を病床に見舞っている。和歌は万葉調で、正岡子規にも影響を与えた日本のインテリ・ヤクザ第一号。辞世は、

 

 大和田に島もあらなくに梶緒たえ漂ふ船の行方知らずも

 

であった(概ね、「朝日日本歴史人物事典」に拠ったが、一部でウィキの「天田愚庵」も使用した)。]

 途中静岡に一泊して東京に著いたのは十一月十七日の正午であった。京都から通しの汽車で来ると、夜半東京著ということになる。自分の家も留守中の事がわからぬし、親戚へ行くにしても夜半では困るから、静岡に一泊したのだそうである。この帰京に際し中等列車に乗ったこと、京都、神戸あたりを遊覧したことなどについて、居士は大原恒徳氏に対し、「身分不相應との御叱責は固よりさることなれども私は私の妄に二度かゝる機會あるやなきやといふことに付てむしろ無之(これなき)方(はう)に相考へ候故に候」といい、また「贅澤と知りながらことさらに賛澤したる汽車代遊覽費などは前申上候通り母樣に對しての寸志にして前途また花さかぬこの身の上を相考へ候て黯然(あんぜん)たりしこともしばしばに御座候」と繰返して述べている。

[やぶちゃん注:「黯然」悲しみや憂いに心がふさいでいるさま。暗然。闇然。]

 東京に著くと共に居士は一家の主人公となった。薦包(もづつみ)で送った荷物はまだ著かず、着京匆々(そうそう)羯南翁の家でいろいろ世話になったが、翌日は居士自身世帯道具を買いととのえに出なければならなかった。はじめて上京したばかりの母堂や令妹では一切勝手がわからぬからである。その品目をここに挙げて置こう。

  竈かまど)、七りん、帶、火箸、釘、釣瓶(つるべ)、杓(ひしやく)、杓子(しやくし)、草履(ざうり)

 書生生活に慣れた居士に取って、こういう買物は慥に変った経験だったのであろう。当日の日記には次の句が記されている。

 

 買ふてくる釣瓶の底やはつしぐれ

 

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十五年 退学決行

 

    退学決行

 居士の松山帰省中、八月十三日から五回にわたって「岐蘇雑詩三十首」(節録十五)が『日本』に出た。署名は不如帰斎(ふじょきさい)主人常規(つねのり)、茗橋老隠(国分青厓(せいがい))の評語がついている。前年旅行の見聞を、この年になって纏めたものであろう。二、三をここに抄出する。

[やぶちゃん注:「岐蘇雑詩三十首」「国文学研究資料館」の「近代書誌・近代画像データベース」の「子規言行錄」で全篇が読める。以下の三篇もそれで校訂した(但し、リンク先にある圏点は再現せず、各篇の後注に附した。各句末にある句点は再現していない。篇題(「其」に数字)はリンク先にはないが、そのまま使った)。

「岐蘇」古代の木曾地方は「吉蘇」「吉祖」「岐岨」などと書き、「木曾」が一般化する近世以降のことである。

「節録」取捨して書き抜くこと。また、その記録。「抄録」に同じい。

「茗橋老隠(国分青厓)」(こくぶせいがい 安政四(一八五七)年~昭和一九(一九四四)年:正岡子規より十歳年上)は漢詩人。本名は高胤(たかたね)、青厓は号で「青崖」とも書いた。仙台生まれで、父は仙台藩士。後年の号であったこの号は青葉城に由来する。ウィキの「国分青崖によれば、『藩学の養賢堂で、国分松嶼(しょうしょ)に漢学を、落合直亮に国学を、岡鹿門(千仞)に漢詩を学んだ』。明治一一(一八七八)年、『上京して司法省法学校に入った。その夏の関西旅行中、弊衣破帽のゆえに拘束される珍事があった。翌年、賄征伐(調理場荒らし)のいたずらがこじれ、原敬・陸羯南・福本日南・加藤恒忠らと』ともに『退校した。退校仲間とは長く親しくした』。『朝野新聞』や第一次『高知新聞』の『記者を勤めて後』、明治二二(一八八九)年創刊の『日本新聞』に、『陸羯南に招かれて参加した。日清戦争には、遼東半島に派遣された。日本新聞には、漢詩による時事評論』である「評林」を『連載したが、痛烈な批判が当局を刺激し、日露戦争前』の明治三六(一九〇三)年十一月に書いた「檜可斬(檜斬るべし)」や翌月の「植物類」は『発禁の処分を受け、その後も当局の処分を受けることがたび重なったことから、青崖は自ら、「会社の被った罰金を弁償する」と『申し出たと言う』。明治二三(一八九〇)年に『森槐南・本田種竹らと詩社『星』社を興し』、『三詩人と呼ばれた』。明治三九(一九〇六)年に『陸羯南が社長を辞した時』、十一『人の社員と共に政教社へ移り、その『日本及日本人』誌で』「評林」を続けている。大正一二(一九二三)年、『大東文化学院の創立と共に教授となった。『雅文会』・『詠社』・『興社』・『蘭社』・『樸社』・『竜社』などの詩社にかかわり、『昭和詩文』誌を主宰した』。昭和一二(一九三七)年には『帝国芸術院会員に選ばれた』昭和五(一九三〇)年に『政教社社長として『日本及日本人』誌を率いた五百木良三が』没すると、青崖がこれを受け継ぎ、』『入江種矩主幹、雑賀博愛主筆と共に雑誌を続けた。戦時下の体制に迎合せざるを得なかった』。『太平洋戦争』『の敗色が深まる中で没した』。『青崖の詩作は三万首に及んだと想像されているが、詩集は』「評林」第一集の「詩董狐」しか出版していない。『恬淡無欲な人柄だったと言われる』とある。なお、「茗橋老隠」(「みょうきょうろういん」(現代仮名遣)と読んでおく)というのは彼の別号らしいが、他には見えないもののようである。但し、幾つかの論文で彼に比定されているので間違いない。

「前年旅行の見聞」「明治二十三年――二十四年 房総行脚、木曾旅行」を参照。] 

 

  其一

 群峰如劍刺蒼空

 路入岐蘇形勝雄

 古寺鐘傳層樹外

 絕崖路斷亂雲中

 百年豪傑荒苔紫

 萬里河山落日紅

 欲問虎拏龍鬪跡

 蕭蕭驛馬獨嘶風

   其の一

  群峰(ぐんぽう)は劍(けん)の如く蒼空(さうくう)を刺し

  路は岐蘇に入りて 形勝 雄たり

  古寺の鐘は 伝ふ 層樹の外(がい)

  絕崖(ぜつがい)の路は 斷つ 亂雲の中(うち)

  百年の豪傑 苔紫(たいし)を荒らし

  萬里の河山 落日 紅(くれなゐ)なり

  虎拏龍鬪(こだりゆうとう)の跡を問はんと欲すれば

  蕭蕭と 驛馬 獨り風に嘶(いなな)く

[やぶちゃん注:総てに圏点「○」を打つ

「苔紫」シソ目ハエドクソウ科サギゴケ亜科サギゴケ属ムラサキサギゴケ(紫鷺苔)Mazus miquelii)という草花もあるが、ここは単に苔の美称であろう。

「虎拏龍鬪」「拏」は「摑む・牽(ひ)く・手で捕まえて力を籠めてずるずると引っ張る」の意。力の伯仲する二者が力を尽くして激しく戦うこと。雌雄を決するような激戦を繰り広げること。木曾・武田・上杉・今川ら、戦国武将の戦いを指すのであろう。] 

 

  其十

 阪路羊膓幾百回

 每逢奇景獨徘徊

 亂山寒削空中劍

 急峽高轟脚底雷

 雲棧蹇驢詩裏落

 煙林歸鳥畫間來

 更尋兼好曾棲處

 落日凄風玉笛哀

   其の十

  阪路 羊膓(やうちやう)として 幾百も回(めぐ)り

  奇景に逢ふ每に 獨り 徘徊す

  亂山は寒を削(そ)ぐ 空中の劍(けん)

  急峽(きふけふ)は高く轟く 脚底の雷(らい)

  雲棧の蹇驢(けんろ) 詩裏に落ち

  煙林の歸鳥 畫間より來たる

  更に 兼好曾棲(そせい)の處を尋ぬれば

  落日 凄風 玉笛 哀し

[やぶちゃん注:原典では篇末に二行割注で『吉田兼好。曾棲木曾山中故云。』とある。圏点は頷聯と頸聯(「亂山寒削空中劍」「急峽高轟脚底雷」「雲棧蹇驢詩裏落」「煙林歸鳥畫間來」)に「○」が、尾聯二句に「ヽ」が打たれてある。

「蹇驢」足運びの覚束ない驢馬。

「兼好曾棲」「吉野拾遺」(室町時代に書かれた南朝(吉野朝廷)関連の説話集)などに記されたもので、晩年の兼好法師が木曽の、現在の中津川市湯舟沢神坂(みさか)(ここ(グーグル・マップ・データ))の地に庵を結んだという、所謂、吉田兼好が後二条天皇崩御後に出家して行脚漂泊したとする伝承の一つで、ここで没したという言い伝えもあるようだ。ちらのページ(個人サイトと思われる)によれば、「兼好庵跡」として顕彰された場所があることが判る。そこに、兼好はこの地の風光に惹かれ、

 思ひたつ木曾の麻布あさくのみそめてやむべき袖の色香は

と詠んで、庵を結んで、暫し、住んでいた。ある時、国守が多くの家来を従えてこの庵の辺りまで来て、鷹狩りをする様子を見て、

 ここも又浮世也けりよそながら思ひし儘(まま)の山里もがな

と詠んで、この地を去った、とある。] 

 

  其二十五

 奇寒徹骨曉稜稜

 山到信州靑萬層

 天近雲烟濕如雨

 寺貧雞犬瘦於僧

 入雲鳥道往疑返

 隔水人家呼欲※

 薄暮鐘聲穿遠樹

 巖扉明滅佛前燈

[やぶちゃん字注(二箇所):頷聯一句目の「天近雲烟濕如雨」これは「子規言行錄」の原文に拠った。しかし、底本及び「子規居士」原本(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの当該頁画像)では、

 天近石嵒濕如雨

となっている。

「※」底本は「※」=「應」の「心」を「言」に換えた字体であるが、「子規言行錄」の原文では(まだれ)ではなく、(がんだれ)となっている。孰れもブラウザでは示せない。]

 

   其の二十五

  奇寒 骨に徹して 稜稜たるを曉(さと)り

  山 信州に到りて 靑きこと 萬層(ばんそう)たり

  天は雲烟に近くして 濕りて雨のごとく

  寺は貧にして 雞犬 僧よりも瘦せたり

  雲に入る鳥道(てうだう)は 往くも返るかと疑ひ

  水を隔つ人家は 呼べば※(こた)へんと欲す

  薄暮の鐘聲 遠樹を穿(うが)ち

  巖扉(ぐわんぴ) 明滅 佛前の燈(とう)

[やぶちゃん注:本七律は「寒」で正格(平起式)であるが、平仄を見ると「雲烟」は「○○」、「石嵒」「●(入声(にっしょう))○」である。句全体では(「近」は上声・「濕」な入声・「雨」は上声)、

天近雲烟濕如雨 ○●○○●○●

天近石嵒濕如雨 ○●●○●○●

となる。平仄上では最後の「濕如雨」は定式上では「○●●」で法に従っていない拗体(ようたい)ではあるが、これは別段珍しいことではない。しかし、一般的に守るべきとされる「二・六対(つい)」の原則(二字目と六字目の平仄は同じにする)は破られてしまっており、さらに言えば、最後の三字で平字が仄字に挟まっているのも「孤平」を忌む原則に従っていない。しかし、これは異同箇所でない部分の問題である。よく判らぬが、思うに、後者が改稿ではないかと推察する。問題は本句の与える意味と映像であって、

 天は雲烟に近くして 濕りて雨のごとく

 天は石嵒(せきがん)に近くして 濕りて雨のごとく

孰れがよいかと言えば、後者であろうとは思う。前者は如何にもな仙境染みた漢詩的マニエリスムの平板描写のように思われるの対し、後者は天が岩石に生き物のように近づき、その潤いによって巌(いわお)自体が生物のような感触を以って迫るのは李賀的でさえあると私は思うからである。なお、「子規言行錄」をみると、青崖はこの一篇の「寺貧雞犬瘦於僧」の句を『工甚妙甚。非奇想超凡』と評し、『三十首中。予最愛此一句』と絶賛している。

「稜稜」寒さが厳しいさま。

「曉」本字には動詞で「はっきりする・よく判る・悟る」の意がある。] 

 

 居士が上京したのは八月晦日(みそか)であった。「せり吟」は依然盛で、露百句、鹿百句、乞食百句、唐辛子百句の類が続出したが、この作者の中に鳴雪翁の加わっているのが注意を惹く。鳴雪翁が俳句を作られるようになったのは二十五年春からで、『猿蓑』を味読することによって、一足飛(いっそくとび)に元禄の域に達したのは秋になってからだったらしい。その他飄亭氏の日曜下宿であった青山の竜嵓寺にも、佐藤肋骨、仙田木同諸氏の句会――兵隊組と称した――がはじまり、鳴雪翁はここにも見えるという風で、居士の身辺は前年より更に賑(にぎやか)になって来た。

[やぶちゃん注:「日曜下宿」本邦の陸軍では、一般の兵士は許可なく外出することは出来ず、厳しい全寮制生活であったが、日曜だけは外出が許され、日曜日だけを悠々自適に過ごすための借りていた下宿をかく呼んだ。既に注したが、五百木飄亭(本名・五百木良三(いおきりょうぞう))は明治二三(一八九〇)年に徴兵に合格、陸軍看護長に採用されて、青山の近衛連隊に入営し、明治二五(一八九二)年まで軍隊生活をしていた。

「青山の竜嵓寺」現在の東京都渋谷区神宮前にある臨済宗古碧山龍厳寺であろう。(グーグル・マップ・データ)。ここは古くは青山地区である。

「佐藤肋骨」(明治四(一八七一)年~昭和一九(一九四四)年:旧姓は高橋。養嗣子。肋骨は本名らしい)は後、陸軍少将で衆院議員・俳人。『在外武官として』は二十『年余に及び、退役後は衆院議員、東洋協会理事、拓殖大学評議員、大阪毎日新聞社友などを務めた。支那通として知られ』、『「満蒙問題を中心とする日支関係」「支那問題」などの著書がある。近衛連隊に在職中五百木瓢亭、新海非風らに刺激されて俳句の道に入り、子規の薫陶を受けた。日清戦争で片足を失い』、別号を「隻脚庵主人」また「低囊」とも称した。『句集はないが』、『新俳句』『春夏秋冬』などに『多く選ばれている。蔵書和漢洋合わせて』三『千余冊と拓本』一『千余枚は拓殖大学に寄贈された』と、日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」にある。

「仙田木同」佐竹則和氏のブログ「Storia―異人列伝」の「回想の子規-思ひ出すまゝに 佐藤肋骨に、それが引用されており、そこに(一部の漢字が正字化から漏れているので、正字化処理を施した。記号の一部を変更した)、

   *

 私が子規居士に逢ふやうになつたのは、五百木瓢亭君と相知るに至つた機緣からである。瓢亭君も私も明治二十三年の暮に現在靑山にある近步第四聨隊に入營した。その前年あたりに徴兵令が改正されて、それまでは相續人は徴兵を免れるとか、學校へ行つてゐる者は免れるとかいふ風に、大分寛大であつたが、その年からどんな學校ヘ行つてゐる者でも採ることになつたのである。私は瓢亭君より一つ年下なのだが、一月生れと十二月生れで、今の小學校のやうに同年に扱はれたのであらう。併し學校へ行つた者が入るやうになつたと云つても、當時は未だその數が少ないので、どういふ人間がゐるといふやうなことも直ぐにわかつた。瓢亭君と私とは中隊が違つてゐたから、初めの間は無論識らなかつたが、先生は醫者の免狀を持てゐるといふので、軈て看護手になつた。身體の工合が悪いと醫務室へ往つて軍醫に診て貰ふ、といふやうなことから、多分懇意になつたのであらう。

 瓢亭君はその頃兵營の直ぐ近くに一間下宿を持つてゐた。私は家が東京に在つたから、そんな必要も無かつたが、當時は兵隊がよくさういふ下宿を持つてゐたものである。不断の日は必要は無い、日曜だけそこに行つてごろごろしてゐるといふ意味のもので、瓢亭君のは荒物屋の二階であつた。私どもの入營した時は、聨隊は今の警視廳のあたりに在つたのだが、丁度新兵教育の了つた後靑山へ移つたのである。私はよくその二階に伴はれて行つて、飯の食ひつこなどをやつたものだ。瓢亭君はその頃已に發句を作つてゐたから、その間に私も眞似するやうになつた。子規居士の噂はこの間に聞いたし、瓢亭君のところへ送つて來る發句なども屢々見てゐた。

 明治二十四年の暮に新海非風と仙田木同とが吾々の聨隊に入營して來た。木同は林學士[やぶちゃん注:林業学科出ということであろう。]で、大學を卒業してゐたのだから、大分年上だつたわけである。瓢亭君はその後下宿を原宿の龍僴寺[やぶちゃん注:ママ。]に變更した。吾々はこゝを龍僴窟と號してゐたが、こゝではじめて子規居士に會つたのである。

 明治二十五年の暮であつたか、とにかく寒い頃であつた。その時集つた連中は吾々兵隊組四人の外に子規、鳴雪、古白の三人であつたと思ふ。私が正岡といふ人から第一に受けた印象は、贅澤な人といふことであつた。吾々は無論軍服であつたが、不断なら木綿の綛[やぶちゃん注:「かすり」(絣・飛白)と読んでいよう。]に小倉の袴といふ時代である。然るに子規居士は何か柔かい絹物をぞろつと著てゐる。これが第一に異様に見えた。著物ばかりぢやない、食物でも鹽煎餅や焼藷では滿足しないやうなことを云ふ。かういふ傾向は瓢亭君にも無いではなかつたが、正岡の方が一段上であつた。年齡は吾々と三つ四つしか違はないのだけれども、その點は大分先輩に見えた。

 眼が大きく、口唇の厚い、血色は蒼白かつたが、當時はまださう憔悴してはゐなかつた。明るい朗らかな陽性的の人であつた。顏の大きい人だから、寧ろ太つてゐる位に見えた。私は今でもこれだけのことを思ひ出すことが出來る。倂し當日どんな句を作つたか、どんな話があつたか、それは全く記憶に無い。

 當時はせり吟だの、一題百句だの、何々十二ケ月だのといふことが行はれてゐたが、運座はやはり後年のやうに狀袋運座の互選式であつた。せり吟といふのは出來た者からずんずん書いて行くので、早く早くと云つて頻に促す。瓢亭君得意のところで、吾々のやうな遅吟の者は問題にならなかつた。

 藤野古白は當時の仲間では一番の優男であつた。さうして字がうまかつた。古白は穴八幡の先のところ――その頃は畠のなか――の藁葺屋根の家にゐて、そこでも句會があつた。鳴雪翁なども來られたと思ふが、子規居士はどうであつたか、はつきり思ひ出されぬ。

   *

とあって、この章の雰囲気がより具体に髣髴としてくる。肋骨の子規への「贅澤」という評は非常に共感する。私は彼のそうした側面やそうした方面の書き物に対しては、今も昔も一貫して生理的不快感を持っているからである。]

 

 十月三日、居士は大磯に来て松林館に泊った。待宵の月は晴朗であったが、中秋は生憎曇となり、徒に海浜を徘徊するより仕方がなかった。夜半雲破れて月光が明になったのは、居士が宿に帰って一睡した後であった。この間の事は『日本』に寄せた「大磯の月見」に記されている。

[やぶちゃん注:「松林館」サイト歴史町 大磯」の四十六項目の「旧松林館跡」を参照されたい。それによれば、現在の大磯町東町((グーグル・マップ・データ))字南浜岳一丁目(前山氏のサイトに位置がはっきりと数字で示されてある)にあった旅館とし、明治二二(一八八九)年の「大磯名勝誌」には『此の地は青く秀でたる老松のむらたち生い茂れる』、『此の林中に勝大美麗なる大廈(たいか)高楼を建築し、号して松林館という』と記されている。同年、正岡子規が『松林館に最初に訪れた時に、鴫立沢を訪れ』、『西行や虎御前の話を聞き、またここかしこが』、『別荘だらけであることに驚き』、『「別荘町という処になるべし」と『四日大尽』に書き残している。また海岸へ出て』、『眺望を楽しんでいる』とあって、その明治二十二年とここの同二十五年を合わせて、都合、三度、『大磯を訪れ多くの俳句を詠んでいる』とある。そこに載る大磯での句。 

 宵待ちや夕餉の膳に松の月

 潮汲みの道々月をこぼしけり

 名月やどちらをみても松ばかり

 犬連れて松原ありく月見かな

 名月を邪魔せぬ松のくねりかな

 名月や後ろに高し箱根山

また、『松林館の女中が持っていた、当時大磯特産の土産として売られていた松露についての会話も残されている』とある。ここは洋画家黒田清輝の定宿でもあり、長期滞在して何枚かの作品も描いている。明治三五(一九〇二)年十二月二十四日に起こった火事で類焼して営業を終わったらしい。]

 

 この時の大磯滞在は十日にわたり、『早稲田文学』に載せた「我邦に短篇韻文の起りし所以を論ず」などという論文もこの間に成ったのであるが、一つは雨のために行動を妨げられたものらしい。十三日漸く晴れるのを待って箱根に赴いた。三嶋、修善寺、軽井沢、熱海などの各地に遊んで大磯に帰るまでの紀行を「旅の旅の旅」という。範頼の墓に笠を手向けて

 鶺鴒(せきれい)よこの笠たゝくことなかれ

と詠んだり、軽井沢に辛じて一軒の旅宿を得て、唐黍の殻で焚く風呂に入ったりしたのも、この間の出来事であった。

[やぶちゃん注:「我邦に短篇韻文の起りし所以を論ず」の初出は正確には常磐会の回覧雑誌であった『真砂集』である。

「軽井沢」現在の静岡県函南町軽井沢。(グーグル・マップ・データ)。現在、当地に正岡子規の句碑が建ち、

 唐きびのからでたく湯や山の宿

と「旅の旅の旅」(次注参照)の句が刻まれてある。

「旅の旅の旅」明治二五(一八九二)年十月三十一日から四回に分けて『日本』に発表。「青空文庫」ので全文が読める。

「範頼の墓」源範頼の墓。伊豆修善寺にある。(グーグル・マップ・データ)。観光コースから外れるが、私は好きな場所だ。]

 

 居士が大学をやめる決心は、おおよそ前年からついていたかも知れぬが、それがいよいよはっきり形を成したのは、学年試験落第以来のように思われる。漱石氏なども手紙で頻に卒業することを勧め、十月一日の日記にも「午後高津來(きたり)、勸卒大學(だいがくそつをすすむ)」ということが見えている。高津氏というのは高津鍬三郎(たかつくわさぶろう)氏であろう。然るに最初からこの点に何ら拘泥するところなく、居士に賛成だったのは飄亭氏で、松山から飄亭氏に宛てた八月二日の手紙に「小生の落第を喜ぶもの廣き天下にたゞ貴兄一人矣」ということが書いてある。

[やぶちゃん注:「高津鍬三郎」(元治元(一八六四)年~大正一〇(一九二一)年)は尾張出身の教育者で国文学者。東京帝国大学文学部和文科を明治二二(一八八九)年に卒業、翌年、一高教授となり、翌明治二十四年には東京帝大文科大学講師を嘱託され、同二十七年からは同助教授を兼ねた。後に文部省図書審査官・明倫中学・中央大学講師などを歴任し、明治四一(一九〇八)年、大成中学校長に就任した。「愛知社」理事として育英事業にも尽力した(日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」他に拠った)。]

 

 学校を退くとなれば、今後を如何にするかという問題が起って来る。その点は居士も夙に考慮していたので、大磯で書いた大原恒徳氏宛の手紙(十月三日)に「今後方向の事は今朝も出掛(でがけ)に一寸陸氏へ依賴仕置候」とあるから、大体は已に決していたものと思われる。学生生活をやめて社会の人となれば、どんな職業にありつくかもわからぬから、その前にちょっと旅行に出たので、一定の仕事に従えば極寒極暑といえども閑暇は得がたいであろう、「それのみは今から困り居候」ということが、同じく大磯から虚子氏に寄せた手紙の中に見えている。

[やぶちゃん注:「大原恒徳」既出既注。松山在の正岡子規の叔父。]

 

 居士の文章の『日本』に現れることは漸く頻繁になった。「獺祭書屋俳話」が前後三十七回を以て了ると、今度は「旅の旅の旅」が出る。次いで十月二十九日に鳴雪翁と共に日光に遊び、紅葉を観て三十一日に帰ると、その紀行が「日光の紅葉」となって現れる。その間には文科大学の遠足会で妙義山に登ってもいるし、「日光の紅葉」が活字になるより早く、十一月九日には家族を迎えんがために出発するという風に、応接に遑(いとま)がないほど多事であった。家族というのは故山にあった母堂並に令妹で、いよいよ社会の人となるに当り、東京へ迎えることになったのである。居士の不平の一であった従来の家婦は都合で他に移り、そのあとへ居士の一家が居据(いすわ)ることになったらしい。

[やぶちゃん注:「日光の紅葉」明治二五(一八九二)年十一月発表。「青空文庫」のこちらで全文が読めるが、新字正仮名なので、「国文学研究資料館」の「子規言行錄」に載る正字正仮名版をお薦めする。]

2018/02/08

和漢三才圖會第四十一 水禽類 鸊鷉(かいつぶり)

Nihoかいつぶり 水𩿤 䴇𩾚

にほ    須蠃 油鴨

      刀鴨

鸊鷉

      【和名邇保

       俗云玆保

       又云加以

ピツテイ   豆布利】

本綱鸊鷉湖溪多似鳧而小大如鳩蒼白文多脂其膏塗

刀劔不鏽其脚如鴨脚而連尾不能陸行常在水中人至

卽沉或擊之便起其類甚多大者謂之鶻鸊也

 夫木白波の打出の濱の秋霧に絶えずもの思ふにほどりぞなく高遠

△按鸊鷉俗用鳰字但字之誤矣【音冬】好入水食似鳧

 而小【和名邇保】其頭赤翅黑而羽本白背灰色腹白觜黑而

 短掌色紅也雌者稍小頭不赤爲異肉味有※氣不佳

[やぶちゃん注:「※」=「燥」-「火」+「月」。]

かいつぶり 水𩿤〔(すいさつ)〕

にほ    䴇𩾚〔(れいてい)〕

            須蠃〔(しゆら)〕

      油鴨〔(ゆうあう)〕

      刀鴨

鸊鷉

      【和名、「邇保〔(にほ)〕」。

      俗に、「玆保〔(じほ)〕と云ひ、

      又、「加以豆布利〔(かいつぶ

ピツテイ  り〕」と云ふ。】

「本綱」、鸊鷉、湖-溪(みづうみ)に多し。鳧〔(かも)〕に似て小さく、大いさ鳩のごとし。蒼白の文〔(もん)〕あつて、脂〔(あぶら)〕、多し。其の膏を刀劔に塗れば、鏽(さび)ず。其の脚、鴨(あひろ)の脚のごとくして尾に連なり、陸行すること、能はず。常に水中に在りて、人、至れば、卽ち、沉む。或いは之れを擊てば、便〔(すなは)〕ち、起く。其の類ひ、甚だ多し。大いなる者、之れを「鶻鸊〔(こつへき)〕」と謂ふ。

「夫木」白波の打出の濱の秋霧〔(あききり)〕に絶えずもの思ふにほどりぞなく 高遠

△按ずるに、鸊鷉〔(にほ)に〕、俗、「鳰」の字を用ふ。但し、〔これ、〕「」の字の誤りか。【音、「冬」。】、好みて水に入りて食ふ。鳧〔(かも)〕に似て、小さし【和名、「邇保〔(にほ)〕」。】。其の頭、赤く、翅、黑くして、羽の本、白く、背は灰色。腹、白く、觜、黑くして短し。掌の色、紅なり。雌は稍〔(やや)〕小さくして、頭、赤からず、〔それを〕異と爲〔(す)〕。肉味、※-氣〔(なまぐさきかざ)〕有りて佳ならず。

[やぶちゃん注:「※」=「燥」-「火」+「月」。]

[やぶちゃん注:鳥綱 Avesカイツブリ目 Podicipediformesカイツブリ科 Podicipedidaeカイツブリ属カイツブリ亜種カイツブリ Tachybaptus ruficollis poggei(南大東島には固有亜種ダイトウカイツブリ Tachybaptus ruficollis kunikyonis が生息)。ウィキの「カイツブリ」より引く。『日本では、本州中部以南では留鳥として周年生息するが、北部や山地のものは冬に渡去することから、北海道や本州北部では夏季に飛来する夏鳥となる』。全長は二十五~二十九センチメートル、翼開長四十~四十五センチメートル、体重百三十~二百三十六グラムと、『日本のカイツブリ科のなかではいちばん小さい』。『尾羽は非常に短く、外観からは』、『ほぼ判別できない。翼の色彩は一様に黒褐色。嘴は短めで』、尖り、『先端と嘴基部に淡黄色の斑がある。虹彩の色は、日本の亜種は淡黄色』を呈する。『夏季には夏羽として頭部から後頸が黒褐色で、頬から側頸が赤褐色の羽毛で覆われる。体上面は暗褐色。また嘴の色彩が黒く、斑が明瞭。冬季には全体として淡色な冬羽となり、頭部から体部にかけての上面は暗褐色で、下面は淡褐色。頬から側頸も黄褐色の羽毛で覆われる。嘴の色彩は暗灰色で、斑が不明瞭。幼鳥は頭部や頸部に黒や白の斑紋が入り、嘴の色彩が赤い』。『足は体の後部の尻あたりから生えており、歩くには非常にバランスが悪いが、足を櫂のように使って潜り泳ぐ』。グーグル画像検索「Tachybaptus ruficollis poggeiをリンクさせておく。「鳰の浮き巣」(カイツブリの巣。葦の間などに作られ、それが水に浮いているように見えるので、和歌・俳諧などでは「寄る辺ない哀れなもの」として詠まれる)が知られる。

「打出の濱」滋賀県大津市松本町付近の古地名で歌枕。ここ(グーグル・マップ・データ)。「うちいでのはま」ともいう。現在は琵琶湖岸の埋立て造成地となってしまった。「枕草子」に「濱は打出濱」とあり、「大和物語」には宇多天皇が石山詣の際、この浜に行在所(あんざいしょ)を設けたとする記載が出る。「拾遺和歌集」の「近江なる打出の濱のうち出でて恨みやせまし人の心を」(読み人知らず)の歌は殊に知られる(ここは小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「高遠」藤原高遠(天暦三(九四九)年~長和二(一〇一三)年)。清慎公実頼の孫。参議斉敏(ただとし)の子。参議藤原斉敏(ただとし)の子。「中古三十六歌仙」の一人。藤原公任は従兄弟。笛の名手であったという。

「※-氣〔(なまぐさきかざ)〕」(「※」=「燥」-「火」+「月」)。「※」は「腥」と同義と思われるので、かく訓じた。]

進化論講話 丘淺次郎 第九章 解剖學上の事實(5) 五 鯨の身體構造

 

     五 鯨の身體構造

 

Kujirakokkaku

[鯨の骨骼]

[やぶちゃん注:講談社学術文庫版の挿絵は後肢の痕跡の骨の一部が消えてしまっているので、国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミング・補正して示した。]

 

 以上の數例は孰れも身體構造中の一部だけを數種の動物に就いて比較したであるが、

一種の動物の身體全部を丁寧に檢査すれば、今とは形の異なつた先祖から進化して現在の有樣に達したといふ形跡の見えることが甚だ多い。特に鯨などの類はその最も著しいもので、身體孰れの部分を見ても、或る陸上の四足類より進化し來つたことが確に見える。

 先づ身體の軸となる骨骼から述べて見るに、全身の外形は魚の通りであるが、その内の骨骼は犬・猫等の如き獸類の骨骼を基とし、一々の骨片を延ばしたり縮めたりして、魚の形に適するやうに造り直したものの如くに見える。頸の骨のことは既に前に述べたが、煎餅の如く薄い骨が七枚も重なり合つて、頭と胴との中間に挾まつてある具合は、如何に見ても、元來初めから斯くの如くに出來たものとは考へられぬ。また鰭の骨が犬・猫の前足、人間・猿の手などと少しも違はぬことも前に述べたが、上膊・前膊等の骨が極めて短くなりながら、尚その形を存し、位置を變ぜぬ所は、如何に考へても陸上獸類の前足が縮まつて出來たものとよりは思はれぬ。假に飴で犬の骨骼の模型を造り、逼(は)み出る處を壓し縮めて、無理に之を魚の形の中に詰め込んだとしたならば、頸の骨も前足の骨も、鯨類の實際の有樣と少しも違はぬやうなものが出來る。

 また頭骨に就いて考へても、昔し風來山人が天狗の髑髏にして置いた骨は、鯨類の一種なる海豚(いるか)の頭骨であるが、門人等は之を見て或は大魚の頭骨であらうとかいうた位で、嘴が長く尖つて、一見した所では決して獸類の頭骨とは見えぬ。倂し、丁寧に之を調べて見ると、犬・猫・人間等の頭骨と全く同一の骨片が同じ數だけ同じ順序に集まつて出來たもので、決して足らぬ骨もなければ、餘る骨もない。たゞ一々の骨片の大小長短の相違で、斯く全形が違ふばかりである。それ故、假に飴で犬の頭骨の模型を造り、上下の顎骨を前へ長く引き延ばし、鼻骨を頭の頂上まで押し上げなどすれば、その結果は全く海豚と同じものが出來る。同じく海中に住む魚類の頭骨などは總べて仕組が違ふ。また鯨には胸に鰭が一對あるだけで、他の獸類の後足に相當するものが全く見えぬ。倂し解剖して内部を調べると、腰の邊に肉に埋もれて後足の基部の骨だけが存してあるが、生活上には何の役にも立たぬ。全く不用の器官である。之も大蛇の後足の痕跡と同じく、後足を完全に具へた先祖から遺傳によつて傳はり來つたものと考へなければ、外には全く説明の仕樣がない。

[やぶちゃん注:「風來山人」(ふうらいさんじん)は江戸中期の物産・博物学者で戯作者・浄瑠璃作家でもあった平賀源内(安永八(一七八〇)年~享保一三(一七二八)年)の号。源内は通称で、本名は国倫(くにとも)で、風来山人人は主に戯作作者としてのペン・ネーム。]

 

 鯨類は總べて溫血・胎生で、生れた子には乳を飮ませてこれを養ふが、これらは皆陸上に住む獸類の特徴である。更に内臟を詳しく檢すれば、消化器・循環器・呼吸器・排泄器など、いづれも大體は牛・馬・犬・猫のと大差なしと言つて宜しいが、その中特に考ふべきは呼吸の器官である。海中で生れ海中で死んで、決して一度も陸上に上ることのないこの動物が、肺を以て空氣を呼吸することは、若し鯨が初めから鯨として造られたものとしたならば、實に解すべからざることといはねばならぬ。鯨が肺を以て空氣を呼吸することは、決して鯨の生活上に最も適したことではない。若し鰓で水を呼吸することが出來たならば、水中に住む鯨に取つてはその方が遙に都合が好い。鯨は空氣を呼吸せなければならぬから、一度水中に沈んでも幾分かの後には必ず水面に浮び出るが、このときを待つて鯨漁師が攻めるから、大きな鯨も比較的容易(たたす)く捕へられる。若し鯨のやうな大きなものが沈んだまゝで水面に浮んで來なかつたらば、なかなか人間の手では捕獲することは困難である。これらの點から見ても、鯨の先祖は陸上に住んで居た獸類であると考へなければ、總べて不思議なことばかりで、到底理會することが出來ぬ。

 尚その他詳しく鯨の種々の器官を一々調べると、進化の證據とも見倣すべき點が澤山にあるが、ここにはたゞ一つ耳の構造に關することを書き添へるだけに止める。哺乳類の耳の構造は人間の耳と略々同樣で、人間の耳の構造は生理書には必ず書いてあるから、改めて詳しく説くには及ばぬが、その大體をいへば先づ内耳・中耳・外耳の三部より成り、中耳と外耳との間に鼓膜がある。耳殼及び耳孔から鼓膜に達するまでが外耳で、鼓膜の内側にあつて空氣を含む鼓室が中耳、またそれより内にあつて液體に滿たされ、眞に聽神經の末端の分布して居る處が内耳である。外耳の務は外界から來た空氣の振動を鼓膜に達せしめるだけで、鼓膜が之に感じて振へば、その振動は中耳内の小骨の媒介によつて内耳に傳はり、そ處で初めて神經の末端を刺戟して響の感覺を引き起すことになるから、外耳・中耳はともに空氣の振動を内耳に感ぜしめるための傳達の道具に過ぎぬ。それ故、水中に潜つて居る間は外耳と中耳とは何の働も出來ぬ。水中では響は皮膚・骨等に傳はつて直に内耳に達するから、魚類などを解剖して見ると、耳はたゞ内耳だけで、中耳も外耳もない。鮒でも鯉でも耳はあるが、外に開く孔がない故、外からは見えぬのである。さて鯨では如何であるかといふに、鯨は魚の如くに常に水中に住みながら、耳の構造は全く陸上の獸類と同樣で、中耳もあれば鼓膜もある。倂し、その形狀を調べて見ると、何處も多少退化して、外耳道の如きも甚だ細いから、水中に於ては無論のこと、何分每にか一囘づゝ暫く水面へ頭を出すときにも、空氣の振動を内耳へ傳へる働は到底出來さうにない。鯨の中耳・外耳は先づ不用の器官と謂つて宜しい。斯く常に水中に住んで中耳・外耳が役に立たぬに拘らず、やはり陸上の牛・馬・犬・猫等と同樣な構造の耳を有することも、確に鯨が陸上の四足獸から進化して出來たものであるといふ證據の一と見倣すべきものであらう。

 

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十五年 落第のしじまい

 

    落第のしじまい

 

 居士が根岸に居を転ずるようになったのは陸羯南翁の関係である。羯南翁と加藤恒忠氏とは司法省法律学校以来の友人であったから、居士は明治十六年に上京すると間もなく羯南翁を訪ねている。十八年中の『筆まかせ』には羯南翁を訪うて夜に入り、焼藷(やきいも)を食いながら寒月の下を帰る記事が見える。駒込の家を借りる前に、羯南翁に手紙を出していることは前に記した通りであるが、多分その後であろう、根岸に羯南翁を訪ねている。居士はその時に大学はやめるつもりだといい、俳句の研究にかかって少し面白味が出て来たから、専らこれをやろうと思う、という決心だったそうである。そうして根岸に座敷を貸す家があったら世話してもらいたい、といって帰ったが、その晩「秋さびて神さびて上野あれにけり」の句を端書はがき)に書いてよこした、と『子規言行録』に序した羯南翁の文章に記されている。

[やぶちゃん注:「陸羯南翁」出既注。「駒込の家を借りる前に、羯南翁に手紙を出していることは前に記した通り」も同リンク先を参照。手紙を出したのは、前年明治二四(一八九一)年十二月。

「加藤恒忠氏」既出既注

「明治十六年」一八八三年。当本文内の子規の時制は明治二五(一八九二)年。

「十八年中の『筆まかせ』には羯南翁を訪うて夜に入り、焼藷(やきいも)を食いながら寒月の下を帰る記事が見える」「筆まか勢」の「十年の宰相」。これ(国立国会図書館デジタルコレクションの画像)。

「子規言行録」小谷保太郎編輯明治三五(一九〇二)年吉川弘文館刊で、当該原書は「国文学研究資料館」の「近代書誌・近代画像データベース」のここの「子規言行錄序」で初出が読めるが、後に再編集された河東碧梧桐編「子規言行錄」昭一一(一〇三六)年政教社刊の国立国会図書館デジタルコレクションの句の出る当該箇所(そこでは「一藝に秀でたる人」に河東によって改題されている)をリンクさせておく。]

 はじめて居士の入った家は、現在の子規庵ではない。八十八番地に老婦一人で住んでいる家があり、慥(たしか)な人に貸したいということだったので、その部屋を借りることにして移ったのである。羯南翁の門前にあった家だというから、万事その配慮を得たものであろう。

[やぶちゃん注:ここは当時の上根岸の羯南宅の西隣であった。陸の旧居は現在の台東区二丁目内であった。ここ。なお、後の子規庵も同じ地区である。]

 根岸に移った最初の印象は、河東可全、碧梧桐両氏宛の端書に尽きている。

[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が二字下げ。全体と句の前後を一行空けた。漢字の正字化はいつもの通りであるが、句読点と読みを除去した(読点はなしのままでは読み難いので一字空けとした)。老婆心乍ら、「喧しく」は「かまびすしく」。]

 

小生表記の番地へ転寓 處は名高き鶯橫町

 

  鶯のとなりに細きいほり哉

 

實の處汽車の往復喧しく(レールより一町ばかり)ために腦痛をまし候

 

  鶯の遠のいてなく汽車の音

 

あまつさへ家婦の待遇餘りよからず罪なくして配所の月の感あり(高濱氏へも御報奉願(ねがひたて)候)

 

 閑静な駒込の住居に馴れた居士に取って、最も堪え難かったのは近くを往来する汽車の響であったろうと思う。しかし当年の根岸は現在の根岸のようなものではない。鶯も鳴けば、杜字(ほととぎす)も鳴き、水雞(くいな)も鳴く。或晩羯南翁のところで話をしていると、水雞の声が頻に聞えたので、とりあえず「雨にくち風にはやれし柴の戸町何をちからに叩く水雞ぞ」と詠んだりしたようなこともあった。

[やぶちゃん注:前の地図リンクで判る通り、現在の鴬谷駅の北直近で、山手線(国有化される前の日本鉄道であるから、環状化の前で東(上野―東京間)は繋がっていない)が同地区内の西を通っている(現在は常磐線及び京成本線も通るが、当時は未開業)。

「水雞(くいな)」水鶏。鳥綱ツル目クイナ科クイナ属クイナ Rallus aquaticus であるが、本邦でかく呼ぶ場合は、クイナ科ヒメクイナ属ヒクイナ Porzana fusca を指すことが多い。ウィキの「ヒクイナ」によれば、全長は十九~二十三センチメートル、翼開長は三十七センチメートル、体重百グラムほど。『上面の羽衣は褐色や暗緑褐色』で、『喉の羽衣は白や汚白色』、『胸部や体側面の羽衣は赤褐色』、『腹部の羽衣は汚白色で、淡褐色の縞模様が入る』。『虹彩は濃赤色』、『嘴の色彩は緑褐色で、下嘴先端が黄色』を呈し、『後肢は赤橙色や赤褐色』である。『湿原、河川、水田などに生息』し、『和名は鳴き声(「クヒ」と「な」く)に由来し、古くは本種とクイナが区別されていなかった』とあり、『古くは単に「水鶏」(くひな)と呼ばれ』、『連続して戸を叩くようにも聞こえる独特の鳴き声』『は古くから「水鶏たたく」と言いならわされ』、『古典文学にもたびたび登場している』。『夏の季語』である。]

 「月の都」を脱稿すると共に、出版の野心を抛擲(ほうてき)した居士は、何々十二カ月を作るのと、厭々ながら試験勉強をするのとの外は、「俳句分類」に力を注いでいたのではあるまいかと想像する。時々露伴氏を訪うことがあっても、もう「月の都」の用でなしに、俳諧の附合(つけあい)などを試みるようになった。持寄(もちより)の小説会、合作小説の類は根岸へ来てからも続いてはいるが、「月の都」執筆以前のような熱は失われていたに相違ない。

 四月『城南評論』に「向井去来」を発表した。極めて短いものではあるが、居士の俳句に関する意見が新聞雑誌の上に現れたのは、これを出て最初とする。

[やぶちゃん注:以前にも注で引いた松本島春(とうしゅん)主宰の俳誌『春星』のサイト内の中川みえ氏の「子規の俳句」のこちらに引用(恐らくは大部分)と詳細な解説が載る。必見。]

 五月二十七日に至り、『日本』に「かけはしの記」が出た。「爰に螺子(にしこ)といふ變り者あり」云々という前書があって、木曾旅行の途中からこの紀行を送つて来たようになっているが、実際は一年前のものである。螺子という号はそれまであまり用いられなかったけれども、西子と署したことはしばしばある。「親に肖(に)ぬ子は赤螺(あかにし)の子」ということから思いついたのだという話だから、西子の代りに螺子と書いたのかも知れぬ。「かけはしの記」は六月四日に至って了った。羯南翁としばしば逢うようになったため、何か書くことを慫慂された結果であろうが、これが『日本』に文章を掲げる最初であった。

[やぶちゃん注:「かけはしの記」「青空文庫」のこちらで本文全篇を新字正仮名で読めるが、ここで宵曲が言っている前書はない。但し、『初出時の署名は「螺子」』である旨の注記が最後にある。正字正仮名の本文は国立国会図書館デジタルコレクションの正岡子規没後直後(二ヶ月後)の出版「獺祭書屋俳話(だっさいしょおくはいわ)」(明治三五(一九〇二)年十一月弘文館刊)のここから読める。

「親に肖ぬ子は赤螺の子」「親に似ぬ子は鬼子(おにご)」は知っているが、これは知らぬ。しかし腹足綱吸腔目アッキガイ科チリメンボラ属アカニシ Rapana venosa は貝殼がごつごつしており、最大十五センチメートル超える個体もあって、しかも殻口が有意に赤く染まるから、「鬼子」の代わりとなっても腑には落ちる。]

 「獺祭書屋俳話」が『日本』に連載されはじめたのは、六月二十六日からである。署名は獺祭書屋主人であった。居士は以前から獺祭魚夫の雅号を用い、自分の書斎に名づくるに獺祭書屋を以てした。俳論俳話を草するに当り獺祭書屋主人と称したのは、恐らく偶然だったろうと思われるが、爾来この署名は俳論俳話などに限って用いられることになった。

 居士はこの年の学年試験に失敗した。失敗したというよりも、最初から身を入れていなかたのであろう。『墨汁一滴』にはこう書いてある。

[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。例の国立国会図書館デジタルコレクションの初出切り貼りの当該箇所で校訂した。]

 

明治廿五年の學年試驗には落第した。リース先生の歷史で落第しただらうといふ推測であつた。落第もする筈さ、余は少しも歷史の講義聽きに往かぬ、聽きに往ても獨逸人の英語少しも分らぬ、おまけに余は歷史を少しも知らぬ、その上に試驗にはノート以外の事が出たといふのだから落第せずには居られぬ。これぎり余は學校をやめてしまふた。これが試驗のしゞまひの落第のしゞまひだ。

[やぶちゃん注:「リース先生」ドイツのユダヤ系歴史学者で「お雇い外国人」であったルートヴィヒ・リース(Ludwig Riess 一八六一年~一九二八年)。ウィキの「ルートヴィヒ・リースによれば、『ベルリン大学』『で、厳密な史料批判を援用する科学的歴史学の方法を学』び、明治二〇(一八八七)年、二十六歳の時、『東京帝国大学史学科講師として来日。科学的歴史学の方法を教えるとともに』二年後に創設された「史学会」を指導した。明治三五(一九〇二)年まで『日本に滞在し、慶應義塾大学、陸軍大学でも教えた。妻は来日時に結婚した大塚ふくで、一男四女をもうけ』ている。『帰国後はベルリン大学講師、次いで助教授となり』、『新聞に日本事情を伝える連載をもった。帰国の際には一人息子の応登(オットー)だけを伴った』とある。]

 

 この夏帰省に当って居士は漱石氏と京都まで行った。漱石氏後年の文章に、「始めて京都に來たのは十五六年の昔である。その時は正岡子規と一所であつた」とあるのがこの時のことである。居士の書いたものには格別何も見えぬが、

 

  京東山

 どこ見ても涼し神の灯佛の灯

 

などという句はこの際のものであろう。漱石氏は別れて岡山に行き、居士は例の如く松山に帰った。漱石氏が岡山から居士に寄せた書簡に「近日當主人の案内にて金此羅へ參る都合故其節一寸都合よくば御立寄可申(まうすべく)」とあるが、これはその通り実現されて、故山に居士を訪ねているようである。

[やぶちゃん注:「始めて京都に來たのは十五六年の昔である。その時は正岡子規と一所であつた」夏目漱石の随筆「京に着ける夕(ゆふべ)」(明治四三(一九一〇)年三月に『大阪朝日新聞』に掲載。但し、作品末の執筆クレジットは『明治四〇、四、九―一一』)の一節。岩波旧全集で校訂した。

「どこ見ても涼し神の灯佛の灯」「寒山落木卷一」の「明治二十五年」の「夏」の部に載る。

「近日當主人の案内にて金此羅へ參る都合故其節一寸都合よくば御立寄可申」明治二十五年八月四日に岡山市内片岡方より発信の書簡(岩波旧全集書簡番号二五)の一節。それで校訂した。「まうすべく」は無論、原書簡にはないが、続きから考えて、この読みで正しい。]

 二十五年夏の松山は賑(にぎやか)であった。居士の外に新海非風(にいみひふう)、伊藤可南(いとうかなん)、勝田明庵(しょうだめいあん)(主計(かずえ))というような人たちも帰省しており、碧、虚両氏も加わって頻に「せり吟」を試みている。数回にわたるこの収獲は「松山競吟集」として、碧梧桐氏の編んだ『子規之第一歩』に収められている。居士をはじめ、非風、碧梧桐、虚子の諸氏の手に成った半歌仙などもその中にある。

[やぶちゃん注:「新海非風」既出既注

「伊藤可南」正岡子規の友人。詳細不祥。

「勝田明庵」私の注中で示したが、正岡子規の年下の友人勝田主計(明治二(一八六九)年~昭和二三(一九四八)年)。後に大蔵官僚を経て政治家となった。

「松山競吟集」「子規之第一歩」というのは不詳だが、恐らくは、国立国会図書館デジタルコレクションの河東碧梧桐子規の」(昭和一九一九四四昭南書房刊)で、「松山競吟集」同書から読める。]

 

[やぶちゃん附記:実は今日(二〇一八年二月八日)、原典校訂のために国立国会図書館デジタルコレクションの画像を調べていたところ、この柴田の「子規居士」原本昭和一七一九四二)三省堂刊)画像にあことに気がついた(昨年以降の新しいアップと思われる)。ここで私は思わず、これに基づいて正字正仮名に今までの公開分を改訂しようかとも考えたのだが(未だ十八章であるから、その改訂仕儀は容易ではある)、見ると、原本はルビがごく一部を除いて殆んどなく、正直、若い読者のためには、読みを多量にオリジナルに附さねばならぬことが判ったので、それは残念ながら、諦めることとした。但し、向後、本文に不審のあった場合は、これと校合し、それを注することとはする。]

 

2018/02/07

芥川龍之介 手帳12 《12-12~12-15》

《12―12》

○しげみに陣をとる敵は小勢 黑く人數厚くみゆるは勝 赤くうすく見ゆるはまけ むかふ風惡し かへる風よし 貝の賣物を云ふ聲など天にびびく時に彼くる 胸づもりは騎馬一人に一間半

[やぶちゃん注:如何にも芥川龍之介の小説にありそうなのだが、どうも見当たらない。発見し次第、追記する。]

 

○左經記――二君(二禁) 二顏

[やぶちゃん注:「左經記」「さけいき」と読む。平安中期の貴族源経頼(寛和元(九八五)年又は貞元(九七六)年~長暦三(一〇三九)年):宇多源氏で左大臣源雅信の孫。正三位・参議)の日記。ウィキの「左経記」によれば、『題名は経頼が参議兼左大弁の地位にあった事に由来する』。また、名の「経頼」のそれぞれの文字の(へん)の部分から「糸束記」『(しそくき)という別称もある』。長和五(一〇一六)年より長元八(一〇三五)年まで『途中に欠失があるものの、伝存している。また、別個に』、『後世の人が』本日記から長元二(一〇二九)年から同九(一〇三六)年までの『災異記事を抽出した』「類聚雑例(るいじゅうざつれい)」『という書もある』。同時代の公卿藤原実資(天徳元(九五七)年~永承元(一〇四六)年:有職故実に精通した当代一流の学識人で、藤原道長が権勢を振るった時代に筋を通した態度を貫き、権貴に阿らぬ人との評価を受けた。最終官位は従一位・右大臣で、「賢人右府」とも称された)の知られた日記「小右記」(おうき/しょうゆうき)と『比較して簡略ではあるものの、両者の比較研究によって』十一『世紀前半の政治・社会情勢の研究に資するところが大きいとされている』とある。

「二君(二禁)」「にきび」(「面皰」)と読む。大正一一(一九二二)年四月発行の雑誌『新潮』に発表した「澄江堂雜記」(同題のものが三つ、「澄江堂雜記――「侏儒の言葉」の代りに――」も含めると四つ)あるが、その最初のもの。リンク先は私の電子テクスト。なお、その他のものの私のテクストへのリンクと読み方をガイドした記事もブログで公開している)の、「にき び」の条に(原文の傍点「ヽ」は太字とした)、

   *

 

       にきび

 

 昔「羅生門」と云ふ小説を書いた時、主人公の下人の頰には、大きい面皰のある由を書いた。當時は王朝時代の人間にも、面皰のない事はあるまいと云ふ、謙遜すれば當推量に據つたのであるが、その後左經記に二君とあり、二君又は二禁なるものは今日の面皰である事を知つた。二君等は勿論當て字である。尤もかう云ふ發見は、僕自身に興味がある程、傍人には面白くも何ともあるまい。

 

   *

「二顏」こんな当て字の用例は知らぬが、芥川龍之介はこれで「にきび」とするのはどうか、と思って書いたのかも知れない。]

 

Persia

 Slave

 Israel

Arabs

[やぶちゃん注:三つの「}」は底本では大きな一つの「}」。しかし、次の「Arabs」を前と無関係とする(柱の「○」を附す)のは私にはいただけない。敢えて纏めたものとして示しておく。]

 

《12―13》

○浮世繪4號を見よ Harunobu Kurth

[やぶちゃん注:「浮世繪4號」大正四(一九一五)年に酒井庄吉(明治一一(一八七八)年~昭和一七(一九四二)年:酒井家は江戸後期の第六代酒井平助義明より浮世絵蒐集を手掛け、現在、日本浮世絵博物館を運営している)が酒井好古堂から創刊した雑誌『浮世絵』。大正九(一九二〇)年終刊。

Harunobu」江戸中期の浮世絵師鈴木春信(享保一〇(一七二五)年?~明和七(一七七〇)年)。

Kurth」ドイツの美術研究家ユリウス・クルト(Friedrich Erdmann Julius Kurth 一八七〇 年~一九四九 年)。浮世絵の研究でも知られ、グーグルブックスの検索で英語版の浮世絵研究書の中にドイツ語であったが、彼の書いた鈴木春信の論文らしきものの書誌記載(一九一〇年のクレジットがある)があった。]

 

○酒のみつつ Lanjerin

[やぶちゃん注:「Lanjerin」人名のようであるが、不詳。]

 

○貞享日記

       >德川實記

 常憲院實紀

{御當家令條

{憲廟實錄◎

{野史參略

{甘露叢

{柳禁祕鑑

{元祿日記◎

[やぶちゃん注:六つの「{」は底本では大きな一つの「{」。

「貞享日記」貞享は一六八四年から一六八八年まで、時期から見て、「徳川実紀」に取り入れられたそれは、「常憲院殿御實紀」正式には「常憲院贈大相國公實紀」(第五代将軍徳川綱吉の治世の記録で全五十九巻・附録三巻。後に出る「常憲院實紀」「憲廟實錄」と同じ。綱吉の寵臣であった柳沢吉保が荻生徂徠らに命じて纏めた綱吉公一代記。正徳四(一七一四)年成立で、綱吉の死後に親交があった公弁法親王(後西天皇皇子・日光輪王寺門主・天台座主)の依頼で編纂されたもの)の中の一資料と推定される。

「徳川實記」誤り。「徳川実紀」が正しい。幕府編纂になる徳川家の歴史書。五百十六巻。林述斎の監修のもと、文化六(一八〇九)年に着手し、嘉永二(一八四九)年に完成した。

「御當家令條」近世中期の法令集で「令条記」「令条」などの書名でも伝わる。全三十七巻。慶長二(一五九七)年九月から元禄九(一六九六)年十月までの百年間の、主として、江戸幕府の法令約六百通を収め、他に慶長以前の数通を含む。正徳元(一七一一)年の藤原親長の序文があり、彼が編纂者と目されるものの、どのような人物であったかは未詳。成立自体は元禄九(一六九六)年から元禄一三(一七〇〇)年の間である可能性が強い(平凡社「世界大百科事典」に拠る)。

「野史參略」不詳。幕末の朱子学派の儒者で水戸弘道館教授であった青山延光(文化四(一八〇七)年~明治四(一八七一)年)の著である史書「野史纂略」の誤字と考えられる

「甘露叢」延宝九()年より元禄一六(一七〇三)年に至る二十余年の記録。内容は将軍綱吉の動静・幕府の諸行事・幕政に関する諸事・諸災害の被害状況・市井の事件等、多岐に亙る。

「柳禁祕鑑」江戸幕府の年中行事・諸士勤務の際の執務内規・格式・故事・旧例などを記した「柳營祕鑑」の誤字か誤判読と考えられる。ウィキの「柳営秘鑑」によれば、『幕臣の菊池弥門著』で寛保三(一七四三)年成立。『柳営秘鑑は、江戸幕府の年中儀礼、殿中の格式、故事、旧例、武家方の法規などが記載された書。三つ葉葵紋の由来、扇の馬印の由来、譜代の列(安祥譜代、岡崎譜代、駿河譜代など)等が記載されている。著者は菊池弥門』。全十巻であるが、『続巻が多く』存在する。『江戸幕府の教育施設で林羅山に由来する昌平坂学問所の旧蔵本が、はじめの』十『巻と続巻を含めた形で原本として存在する』。『大名の格式等に関する法曹法(役所の執務内規)として用いられた。書名にある柳営とは、幕府、将軍、将軍家を指す用語である』。但し、『内容は江戸時代を通してのものではなく、享保期中心に記載されている。

「元祿日記」この書名では限定比定出来ない。]

 

○明治18年9月

四人:紺メルントン及紺茶ぶちのせびろ わらじ

[やぶちゃん注:「明治18年」一八九五年。

「メルントン」melton(メルトン)のことであろう。毛織物の一種で、布面が密に毛羽(けば)で覆われた、手触りの暖かい紡毛(ぼうもう:羊などの比較的短い毛や再生毛などで作った糸。毛羽が多く、縮絨(しゅくじゅう:毛織物の仕上げ工程の一つで、水で湿らせて熱・圧力を加え、長さと幅を縮めて組織を密にすることを言う)し易い)織物。コート地などに用いる。]

 

○和船

○御くら島

[やぶちゃん注:現在の東京都御蔵島村に属する伊豆諸島の御蔵島。三宅島の南方洋上。ここ(グーグル・マップ・データ)。近世初期には住民がみられ、十八世紀初めに三宅島から分離して一村を形成した。江戸時代から、ツゲ材を共有・販売して生活必需品を購入し、無償で配布するという独特の扶持米(ふちまい)制度によって住民の生活が維持されてきたが、昭和一四(一九三九)年に完全に廃止された。]

 

12月中 月令中は家前の小屋に入る十二日前に瀧の水をあぶ

[やぶちゃん注:或いはこれと後総て(《12―13》終りまで)は御蔵島の民俗習俗を誰から聞き書きしてめもしたものなのかも知れない

「月令」は(がつりょう:現代仮名遣)元は漢籍分類の一つで月毎(ごと)の自然現象・行事・儀式・農作業などを記したものを指す(「礼記」の中の「月令」有名)が、ここは本邦の民俗社会の暦上のそれ(行事・儀式)を指しているようである。しかし、どうも違和感がある。「月令中」などという謂い方を少なくとも私は和書で見たことがない。「月令」の「中」で「は」~せよとある、という記載なら、判るが、どうもおかしい。そもそも「月令中は家前の小屋に入る」というのは、家の中に入ることを禁じている、則ち、禁忌(タブー)として家の前に建てた掘立小屋で過ごすという意味であろう。しかも「ある特定の日」(この場合、家から出てその小屋に入る日)の「十二日前に瀧の水をあ」びる、というのだ。新暦でも旧暦でも非常に寒い時期である。掘立小屋や瀧に打たれるなんてことをするのはとてものことに尋常ではない。されば、これは女性の「月経」、生理の誤りではないだろうか? 新年を迎えるに当たって大事な十二月に生理による血の穢れを主家から遠ざけるために行う古い日本の田舎の習俗(と推定する)を芥川龍之介はここにメモしたのではあるまいか? これは次の一条、「姙中」(妊娠中)その「夫」は「山に入る能(あた)はず」(夫も広義の出産の血の穢れのプレ状態にあるからである。さらには「山の神」は女神であるから、嫉妬するという別な意味もあろう)「入れば」タブーを犯したということで、他の仲間らに「米一升」を「罰」として差し出さねばならない、と読め、これはごく当たり前に、古くからの民俗社会に当たり前にあった禁忌の一つだからである。因みに、日本に限らず、洋の東西を問わず、出産に際しての多量の出血が非常な穢れとして認識され、出産は家とは別に設けた産屋で行うというのも広く見られる民俗である。

 

○姙中夫山に入る能はず 入れば米一升罰

[やぶちゃん注:前注参照。]

 

○十人ぎりの木――1反がだんだんへる―枝のびる爲

[やぶちゃん注:意味不明。]

 

○若者二十人十なた(始三人なりと云ふ)

{小學教員夫婦

{醫者  夫婦 月經なしと云ふ

[やぶちゃん注:「醫者  夫婦」の「夫婦」は底本では「〃〃」であるが、特異的にかく示した。

「若者二十人十なた(始三人なりと云ふ)」意味不明。]

 

○名主――開化人

                        
三島へゆく

{八丈島の長樂寺の僧(島>内地)

{同  へゆきし金物屋(4圓)┌(絹ばかり)

{女と關係す 煙草と米    └ 炭

[やぶちゃん注:「名主――開化人」その当時(明治)の名主は近代西洋知識を持った人物であったのでそれまでの民俗社会にあった血の穢れのタブーなどは、一切、問題とせず、島内の近代化を図ったとでもいうようなことか?

「八丈島の長樂寺」現在の東京都八丈島八丈町(まち)中之郷に現存する。浄土宗。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「(島>内地)」の不等記号の意味は、右に「内地」に傍注する「三島へゆく」(「三島」は無論、「内地」である静岡県東部の伊豆半島の中北端(半島の東の根っこ近く)に位置する三島であろう)を含めて不明。

「同  へゆきし金物屋(4圓)」「絹ばかり」「炭」「同」は「八丈島」だが、意味不明。八丈島では通貨がなく、絹と炭で支払われたということ?

「女と關係す」「煙草と米」これも売春しても、金ではなく「煙草」と「米」を要求するということか? まるでどうもこの見開きの後半部分のメモは今一つ、意味がつかめない。]

 

○兩に6升――3升

[やぶちゃん注:やっぱり、意味不明。]

 

《12―14》

○縮緬揃丸髷

[やぶちゃん注:或いは、これも前の《12―13》の続きかも知れぬ。]

 

○弟

  \

   \ 

    >女

   /女鼠鳴き

  /女

 兄

[やぶちゃん注:斜線と「>」は総て底本では綺麗に繋がったもの。これは「兄」「弟」(「偸盜」の太郎と次郎)で一人の「女」という図式、「女」が合図に「鼠鳴き」する(「三」で沙金(しゃきん)が太郎を熊のばばの家に招き入れるのに『鼠鳴をして、はいれと言ふ』と出る)点で、大正六(一九一七)年四月及び七月の『中央公論』に発表した「偸盜」(発表時は七月の第二回分の標題は「續偸盜」)の構想メモであることが判る「偸盜」は「青空文庫」ので読める(但し、新字新仮名)。]

 

《12―15》

       女をすてる

       女はA殿ににくまる

 祭   兄 

 │  /  隨身の見こみなし

 │ /   女の鼠鳴き

○│<

 │ \

 │  \ / 姥をすくふ

 弟  弟<

 兄    \

[やぶちゃん注:底本では直線は繋がった一本、「<」斜線とは総て綺麗に繋がったもの。「兄弟」は底本では左から右に横書。以上も同じく「偸盜」のメモ、或いは、改作用(芥川龍之介は同作執筆中から甚だ同作に展開に不満で、積極的に改作を意図していたが、遂に改作されることはなかった経緯がある。これは後に注で詳細に語る)メモ

「A殿」というイニシャルであると、「阿濃(あこぎ)」であるが、完成した「偸盗」では「阿濃」が「沙金」を憎んでいるという設定は少なくとも面には出ていないし、「阿濃」を「殿」と呼ぶのは設定上、おかしい。寧ろ、頻りに沙金を憎んでいると繰り返す(同時にアンビバレントに恋もしているのであるが)のは弟の次郎である。或いは、初期設定(又は改作案)は現在と異なるものであったのかも知れない。

「隨身の見こみなし」こんな設定は決定稿にはない。「隨身」はエンディングで、十年の後、尼となって子供を育てていた阿濃が、『丹後守何某の隨身』が通るのを見かけて、それが太郎であることに気づくシーンにしか出てこない。改作案か?

 

Russian Silhouettes

[やぶちゃん注:ロシアの影絵。ロシア人風のシルエット。]

芥川龍之介 手帳12 《12-11》

《12―11》

○女とその許嫁と女の弟 弟は姉を愚と思ふから許嫁のほれてゐるわけがわからない 最後に「姉さんは女だからだ」とさとる

{鼻くらうどの話

{宇治拾遺

[やぶちゃん注:二つの「{」は底本では大きな一つの「{」。以下は同一グループの条と推定されるが、後と混同しないようにここにこの注を入れておいた。従って、次は一行は空けない。]

{辻村の話            }

{娘にとつた養子のにげた事をはなす}今昔――隆國をかけ

{はなす興味――その後の落莫   }

[やぶちゃん注:三つの「{」及び「}」は底本では大きな一つの「{」「}」。

「鼻くらうどの話」「宇治拾遺」これは「宇治拾遺物語」の「巻第十一」の「藏人得業猿澤池龍事」(藏人得業(くらうどとくごふ)、猿澤の池、龍の事)で、王朝物の小説「龍」(大正八(一九一九)年五月『中央公論』。「青空文庫」のこちらで読める)の素材となったものである。「宇治拾遺物語」の原文では、冒頭、主人公を、

   *

 これも今は昔、奈良に、藏人得業惠印(ゑいん)といふ僧ありけり。鼻大きにて、赤かりければ、「大鼻の藏人得業」といひけるを、後(のち)ざまには、ことながしとて、「鼻藏人(はなくらうど)」とぞいひける。なほ後々には、「鼻藏(はなくら)鼻藏」とのみいひけり。

   *

と紹介する(ナビ」で原文全体が読める)。

「辻村」不詳。

「今昔――隆國をかけ」「隆國」はかつて「今昔」物語集の作者ともされていた(現在は否定的)、宇治大納言と称された公卿源隆国(寛弘元(一〇〇四)年~承保四(一〇七七)年)。彼は現存しない説話集「宇治大納言物語」の編者であったとされる(「宇治拾遺物語」序にある。著者不詳の「宇治拾遺物語」(十三世紀前半頃成立)は、「宇治大納言物語」から漏れた話題を拾い集めた物語という意)。小説「龍」の冒頭の「一」と最後の「三」にはこの源隆国が登場し、会衆らに面白い話を所望し、『陶器造(すゑものづくり)の翁』が「龍」の話(「二」パート)をするという額縁式の構造になっている。この「をかけ」とは、「宇治拾遺物語」の「藏人得業猿澤池龍事」を失われた「宇治大納言物語」の作者源隆国に引っ「掛け」て語る構成を指しているように私には読める。

「はなす興味――その後の落莫」「落莫」寂寞(せきばく)と同じで、もの寂しいさま。メモ上は「辻村の」語った「話」で、辻村は「娘にとつた養子のにげた事をはな」したが、その「はなす興味」は、話を聴いた「その後」にある種「の落莫」を抱かせる――という風に読める。しかし、ここを小説「龍」に牽強付会させて読み解くなら、「龍」の話の結末の陶器造の翁の心境、或いは聴いた隆国の心境、ひいては「龍」を読んだ読者の心境を想定して芥川龍之介は記しているようにも読める。因みに「龍」の最後は、芥川龍之介自身が自身の「鼻」を暗に宣伝する形で終わっており、「鼻」のエンディングの何とも言えない「落莫」感と繋がるようにも思われる。しかし、このメモ、頭の『女とその許嫁と女の弟 弟は姉を愚と思ふから許嫁のほれてゐるわけがわからない 最後に「姉さんは女だからだ」とさとる』とか、「娘にとつた養子のにげた事をはなす」というのが、決定稿の「龍」とは全く関係がないのが不審である。或いは、芥川龍之介現在の純粋な王朝物である「龍」とは異なった構造、額縁構造の全体がさらに現代物の入れ子になっているものを構想していた可能性があるのかも知れない。]

 

○幽靈の話(竹馬 白衣 赤昆蒻)

[やぶちゃん注:意味不明。芥川龍之介怪奇談蒐集録「椒圖志にもそれらしいものは載らぬ(リンク先は私の古い電子テクスト)。]

 

Elen House(clay Hall)

oodford Hall

Water House

[やぶちゃん注:「Elen House(clay Hall)」不詳。建物名か?

「Woodford Hall」同前。

Water House」同前。イギリスの画家で神話や文学作品に登場する女性を好んで描いたジョン・ウィリアム・ウォーターハウス(John William Waterhouse 一八四九年~一九一七年)がいるが、こんな綴り方が絶対にしないから違うだろう。イギリスの建築家にAlfred Waterhouse(一八三〇年~一九〇五年)もいるが。]

 

Tracts for the Times

[やぶちゃん注:「Tracts for the Times」「ブリタニカ国際大百科事典」の「オックスフォード運動 Oxford Movement」の項に(コンマを読点に代えた)、『トラクト運動 Tractarianism、ピュージー運動 Puseyismともいう』十九『世紀にオックスフォード大学を中心に起ったイギリス国教会内の刷新運動で、カトリック的要素の復活によって、国教会の権威と教権の国家からの独立回復を目指すアングロ・カトリシズムの運動』。一八三三年、『キーブルの説教が改革の機運をつくり、J.ニューマンを主に、時局小冊子』“Tracts for the Times”『を刊行して世論に訴え、ピュージーもこれに参加』したが、一八四一年、『反プロテスタント的内容が反発を招き』、『トラクトは終刊、理論的指導者ニューマンはローマ・カトリック教会に』戻った。一方、『ピュージーはキーブルとともに国教会を固守、運動の精神を継いで実践活動に努めた。国教会の権威を取戻させ、礼拝に生気を与えた点で,この運動は評価される』とある。]

 

Oxford Exter

[やぶちゃん注:オックスフォードにあるエクセター・カレッジか。ライト裕子氏のブログ「英国便り」のオックスフォード エクセター・カレッジに、一三一四年にエクセター司教が創設したとある。松蔭大学松浦広明氏のサイト内のオックスフォードに来たら訪ねておくといい楽しいカレッジ・ガイドも参照されたい。]

芥川龍之介 手帳12 《12-9~12-10》 

 

《12―9》

酋長の笛ふく春の日なかかな

海なるや長谷は菜の花花大根

雲ひくし風呂の窓より瓜の花

[やぶちゃん注:以上の最初の句の体(てい)を成している三句は葛巻義敏の「芥川龍之介未定稿集」にも所収し(但し、三句の順序が真逆である。やぶちゃん版芥川龍之介句集 二 発句拾遺を参照)、大正六(一九一七)年から翌年頃の作で、未発表という編者による注がある。]

《12―10》

水8―10 垣内

 火13 藤

 火8―10 芳

 水13 笠谷

 水10―12 Syntax & Prosody

 火10―12 H of E.L.

 土10―12 S

 木―1010―12 K & B

 金89 松

 木8―10 松

 金―― 太

 木―― 

 土10―12 桑

[やぶちゃん注:「」は判読不能字。冒頭注で述べた通り、この曜日と時間と人名らしき物(注は省略するが、総て不詳)及び「Syntax」「Prosody」(他の英文略字は総て不詳。同前)というメモは明らかに、横須賀の海軍機関学校教官(教授嘱託・英語)当時の即時的な授業のメモランダである(但し、その意味するところは不明である。しかし、彼の海軍機関学校時代の資料から見て数字は授業の開始時間と終了時間と見てよい)。因みに、再掲しておくと、芥川龍之介の、

海軍機関学校就任 大正五(一九一六)年十二月一日

軍艦金剛に乗艦しての横須賀から山口県由宇までの航海見学 大正六(一九一七)年六月二十日~二十四日

海軍機関学校退職 大正八(一八一九)年三月三十一日(最終授業:三月二十八日)

である。

Syntax」構文。

Prosody」作詩術。韻律法。]

 

John Harris

 金をかす

○雷門    >Johns

 愛國心

[やぶちゃん注:「>」の開いた方はそれぞれ「金をかす」と「愛國心」の下まで伸びて、以上の三点を総括する。後に述べるように、「雷門」の上の丸は私が新たに打った

John Harris」不詳。

Johns新全集編者は後の三行を前の不詳の「John Harris」とセットにしているが(底本では「」は「John Harris」の頭にしかない)、ここは「Johns」であって「John」ではないという点で、新しい柱(則ち、「John Harris」(ジョン・ハリス)なる不明の人物と「Johns」(ジョーンズ:カタカナ音写は後で詳述する)は全くの別人ととってよい、とるべきだと私は思っている。そこで恣意的にを附した

 そうした上で(即ち、John Harris」を無関係な記載として切り離して)考えてみると、

・この「Johns」に芥川龍之介が金を貸したかも知れないこと、或いは、「Johns」が誰かに金を貸した(がそれっきり戻ってこないというような話を芥川龍之介にしたかも知れないこと。

・この「Johns」は有意に「愛國心」の旺盛な人物であった可能性が高いこと。

・東京の浅草雷門界隈で芥川龍之介はこの「Johns」と初めて逢ったか、或いは「Johns」がその近くに住んでいたか、或いは「Johns」は雷門が好きだったのかも知れないこと。

を可能性として挙げることが出来る。そうして、こうした事実が芥川龍之介が知り得る、こうした事実関係と芥川龍之介が関わるということは、芥川龍之介とその「Johns」なる人物が相応に近しい人間であることを意味することは言を俟たない。

 さてそこで、本手帳記載推定閉区間(大正四(一九一五)年年初か前年末~大正八(一九一九)年四月(下限は私の独時の推定))に「Johns」或いはその発音に近い外国人の知人がいないか、以上の条件を満たし得る人物がいないかという点を述べるなら、これが、確かに、いるのである。

 但し、綴りは違って「Johns」ではなく、「Jones」ではある

 ネイティヴの発音を聴くと、「Johns」はカタカナ音写で「ヂャーンズ」或いは「ヂョンズ」、「Jones」の方は「ヂョォゥンズ」と、ある意味、明確に違って聴こえはする。しかし、これらは現行のカタカナ音写では概ね、孰れも同じく「ジョーンズ」と書かれている事実があり、外人に多い「ジョーンズ」という名の場合に英文学専攻の芥川龍之介であっても普通に思わず「Jones」を「Johns」と筆記してしまうことはあり得ることだし、少しも不審ではないと私は思う(因みに私の姓「藪野」の「藪」の字を一発で正しく書ける人間は極めて稀れで、大きく手書きして見せても、それを写し間違える人もきわめて多い。しかも私の名は「直史」であるが、これを正しく一発で読んだ人間は私は生涯でたった一人(それは教えていた生徒であった)しかいない。因みに、これで「ただし」と読む)。

 而して彼は誰か?

Thomas Jones(一八九〇年~一九二三年)

芥川龍之介の参加した第四次『新思潮』同人らと親密な関係にあったアイルランド人で、大正四(一九一五)年に来日し、大蔵商業(現在の東京経済大学)で英語を教えた。芥川との親密な交流は年譜等でも頻繁に記されてある(以上は岩波版新全集書簡に附録する関口安義らによる人名解説索引等に拠った)。

芥川龍之介には実に彼をモデルとした優れた小説「彼 第二」(大正一六(一九二七)年一月一日(実際には大正天皇の崩御によって、このクレジットは無効となり、昭和元年となる)の『新潮』に「彼・第二」の題で掲載。なお、この時、トーマス・ジョーンズは亡くなっていた。彼は三十三歳の若さで天然痘に罹患し、上海で客死、同所の静安寺路にある外人墓地に埋葬された)があり、私はそこ(上記リンク先の私の電子テクスト)で、モデルとなったこのトーマス・ジョーンズに就いてかなり詳しい注を附しているので、是非、見て戴きたいのであるが、その注で私は小説のロケーションから、芥川龍之介とジョーンズの邂逅を大正五(一九一六)年の冬と考えた(当時の芥川は大学を七月に卒業、十二月一日に海軍機関学校教授嘱託となって、同時に塚本文と婚約している。但し、これは小説であるから、事実に即しているとは限らぬので私の推定は実は無効であるとも言える)。鷺只雄氏の年譜(一九九二年河出書房新社刊「年表読本 芥川龍之介」)では、大正五年の項の頭に『このころ、トーマス・ジョーンズと知り合う』とあり、新全集の宮坂覺氏の年譜では、初会時を記さずに、大正五年九月六日の条に『夜、トーマス・ジョーンズを訪ねる』(書簡による)とある。この宮坂氏の記載から見て、この大正五(一九一六)年九月六日以前に芥川龍之介はトーマス・ジョーンズと知り合っていたことは確かなようである。]

 

○エレヴエータアと死と

――Dilettante 世事を輕んす 和泉式部を ancient love の對象として思ふ

[やぶちゃん注:「かろんす」はママ。削除されたそれは、大正六(一九一七)年一月二十九日発行の『大阪朝日新聞』夕刊に発表した掌編小説「道祖問答」のメモである。

「僧」「道祖問答」では天王寺別当の道命阿闍梨(どうみょうあじゃり(芥川龍之介の「道祖問答」では『あざり』とルビ) 天延二(九七四)年~寛仁四(一〇二〇)年)である。ウィキの「道命」によれば、『父は藤原道綱。母は源近広の娘。阿闍梨、天王寺別当。中古三十六歌仙の一人』。『若くして出家し、天台座主・良源の弟子となった』。長和五(一〇一六)年に天王寺別当に就任している。『花山上皇と親しく、上皇の死を悼む歌が残されている』。「宇治拾遺物語」(巻頭を飾る「卷第一」の「一 道命於和泉式部許讀經五條道祖神聽聞事」(一 道命、和泉式部の許に於いて經を讀み、五の道祖神、聽聞する事)で、芥川龍之介はこれを主素材として「道祖問答」を書いている、初出文末には「附記」があり、そのことを明記している。「宇治拾遺物語」の原文は「やたがらすナビ」のこちらで読める(新字正仮名))『などには、和泉式部と親しかったという説話がある』。「後拾遺和歌集」(十六首入集)『以下の勅撰和歌集に』五十七首が採られている。家集に「道命阿闍梨集」があり、また、彼は『読経の声に優れていたという』とある。「道祖問答」は多情の女和泉式部と一夜を過ごした彼が暁に床を抜け出して不浄極まりないままに「法華経」を誦経するシーンから始まる。「青空文庫」のこちらで読める(新字新仮名)。

Dilettante」(しばしば軽蔑的意味合いを以って)学問・芸能などを趣味として愛好する人。好事家。ディレッタント。もとはイタリア語で「~に喜びを見い出す人」の意。

ancient love太古の愛。人間の原初の形の愛。]

 

○師の死待つ安息

[やぶちゃん注:これは大正七(一九一八)年十月一日発行の雑誌『新小説』に掲載された枯野抄」の内藤丈草(事実は漱石の臨終の床での芥川龍之介自身がモデルと考えられる)の内心のメモと読める(リンク先は私の古い電子テクスト)。]

 

 {戰爭

○{鳩の子 鼠

 {Christian ―― etwas があつた

[やぶちゃん注:三つの「{」は底本では大きな一つの「{」。底本の編者は前の「師の死待つ安息」を以上とセットにしており、柱の「○」はないが、前のそれとこれらは、私は別物と判断し、特異的に「○」を附した

etwas」ドイツ語。エトゥワス。(何かあるもの・何かあること)に相当する不定代名詞。「何もない」のではなく、何らかは「ある」状態を指す語である。]

 

 {⑴看の爲  番人

○{⑵人と接觸 侍

 {⑶病的   醫

[やぶちゃん注:三つの「{」は底本では大きな一つの「{」。底本の編者は前の「戰爭」「鳩の子 鼠」「Christian ―― etwas があつた」を以上とセットにしており、柱の「○」はないが、前のそれとこれらは、私は別物と判断し、特異的に「○」を附した。これも枯野抄」の構想メモと推断出来る。それは「看の爲」「番人」が「看」病の「爲」めにのみ、病床の芭蕉の傍に「番人」のように寄り添っていた小説中の「老僕の治郎兵衞」(事実は青年。芥川龍之介が基本素材とした文暁著「芭蕉翁終焉記 花屋日記」(文化八(一八一一)年刊)が実は偽書(創作)であったことによる誤り)のことと考えられること、「病的」「醫」は芭蕉の門人で最期を看取った主治医木節の心内を意味していると読めるからである。]

 

2018/02/06

芥川龍之介 手帳12 《12-7/12-8》

《12―7》

梨はみてあれば

○はればれと椽にあぐらみ梨の實をわがはむ秋となりにけるかも

[やぶちゃん注:この短歌は「芥川龍之介未定稿集」に、

 

 はればれと緣にあぐらゐ梨の實をわがはむ秋となりにけるかも

 

の形で出る。末尾には編者による『(大正六、七年 未発表)』の創作推定年が示されている。やぶちゃん版編年体芥川龍之介歌集 附やぶちゃん注を参照されたい。「あぐらゐ」は「胡坐居」で、胡坐(あぐら)を組んで座って、の意。]

 

梨の實を【わ→あ→】わかはみ居ればほしけやし敷石の下に

[やぶちゃん注:以上のは「わ」を消して「あ」とし、それを抹消して、再び「わ」としたものを、かく示した。前の短歌の推敲稿と思われる。]

 

○蟻は今秋のつかれに梨の實のあまきをめぐりよろぼびにけり

[やぶちゃん注:「芥川龍之介未定稿集」に、『(大正六、七年 未発表)』として、全く相同のものが載る。やぶちゃん版編年体芥川龍之介歌集 附やぶちゃん注を参照されたい。]

 

○とほどほによする波の音より

夕渚しらじらとして暮るゝ

○夜は汝を見守るべし

○夜を見守れば

○汝何を求めむとてこゝに來れる

大風は空をふきて

[やぶちゃん注:総て、短歌稿であると私は推断する。]

 

《12―8》

○甲亂記 甲陽軍鑑 山形記 東國太平記 武田三記 北越軍記 將士美談 武邊物語 武家閑談 武者物語 武家高名記 武家盛衰記 老人雜話 故老物語 朝鮮軍記 朝鮮征伐記 淸正記 高麗陣日記 俳優全集 雨窓閑話 曾呂利記事

[やぶちゃん注:「甲亂記」著者・成立年代不詳。天正一〇(一五八二)年八月とする説有り。全一巻。天正十年の甲斐武田氏の滅亡を記した軍記物。武田勝頼に対する木曾義昌の謀反から筆を起こし、恵林寺の焼失と織田信長の入甲を以って筆を収める。

「甲陽軍鑑」甲斐国の戦国大名武田氏の戦略・戦術を記した軍学書。本編二十巻全五十九章及び末書二巻から成る。武田信玄・勝頼期の合戦記事を中心に、軍法・刑法などを記す。ここに並ぶ作品の中で数少ない私の知っている作品である。

「山形記」「山形軍記」という書名だけをネット上で何とか見い出せ、それはどうも、戦国から江戸前期にかけての出羽国の大名で最上氏第十一代当主にして出羽山形藩初代藩主最上義光(天文一五(一五四六)年~慶長一九(一六一四)年:「関ヶ原の戦い」で東軍につき、最上家を五十七万石の大大名に成長させて全盛期を築き上げた人物で、伊達政宗の伯父に当る)辺りが記載対象となっているような臭いはする。

「東國太平記」延宝八(一六八〇)年に近江の国枝清軒によって書かれた軍記物。安土桃山から江戸前期の武将であった水原親清(すいばらちかきよ 天正一一(一五八三)年~寛永八(一六三一)年)の「関ヶ原の戦い」での従軍経験の筆記録に基づくもの。ウィキの「水原親清」によれば、水原は蘆名氏家臣栗村盛胤の子として生まれたが、天正一二(一五八四)年に父盛胤が、松本行輔とともに『蘆名盛隆に謀叛を起こして討たれたため、祖父の長沼城主・新国貞通に養育された』。天正一八(一五九〇)年、『貞通が豊臣秀吉によって改易された後』、慶長三(一五九八)年の『上杉景勝の会津入封の頃までには、上杉家臣・水原親憲に出仕していたものと考えられる。上杉家臣の頃には、新国庄蔵と名乗っており』、慶長五年の「関ヶ原の戦い」では、『親憲の下で慶長出羽合戦に従軍し、長谷堂城からの撤退戦で水原隊の一員として活躍し、戦後に親憲から感状を与えられている』。元和五(一六一九年、『親憲の後を継いでいた憲胤を誘って』、ともに『米沢藩より出奔。憲胤は福井藩に仕え、庄蔵は川越藩主酒井忠利の子・忠勝(のちに若狭国小浜藩主)に仕えた。水原所左衛門親清と称したのは』、『これより以降のようである』とある。『しかし、親清が酒井家に奉公していたのはわずか数年間のことで、元和年間の内には忠勝の下を離れ、出羽国新庄藩主・戸沢政盛に仕官して知行』三百石『を与えられた』。『子孫は新庄藩士として続いた』とある。旧主の姓を名乗っているのが気になるので、注記を引用しておくと、「新庄藩系図書」『巻之七に載せる「水原家系図」では、親清は親憲の弟で、のちに養子となったとしており、米沢藩出奔後はそのように自称していたものと考えられる』とある。

「武田三記」不詳。

「北越軍記」別名「北越太平記」。恐らく「北越軍談」と同じ。寛永二〇(一六四三)年洛東隠士雲庵自序であるが、これは紀州徳川家に仕えた軍学者宇佐美定祐らしい。ウィキに「北越軍談」がある。但し、ネットでは、上杉謙信の参謀として上杉二十五将の一人に数えられる宇佐美定行という武将が知られているが、これは、この宇佐美が自分の出自を飾るために、まさにこの書でデッチアゲた架空の人物であって宇佐美は歴史偽造の偽書作家で極悪人である、とする痛烈な投稿があったことも言い添えておく。

「將士美談」「太平将士美談」。永山利貞正徳二(一七一二)年自序。戦国から江戸にかけての武辺人物物。

「武邊物語」林述斎が中心となって編纂した徳川家康の逸話集「披沙揀金」(成立は天保七(一八三六)年か翌年辺りか)に引用書目として挙げられているが、書誌情報不詳。

「武家閑談」江戸中期の幕臣で歴史家であった木村高敦(延宝八(一六八〇)年~寛保二(一七四二)年:大番組士・新番組士・西丸賄頭を歴任し、寛保元(一七四一)年、西丸広敷用人)の考証随筆。彼は徳川家康の事跡に関する史料の収集と整理に努め、家康の一代記である「武徳編年集成」を著しており、これはそれまでの官選の家康事跡録であった「武徳大成記」の記事の信憑性に不満であっ第八代将軍吉宗の注目するところとなり、寛保元年に吉宗に献上されている(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「武者物語」松田秀任(ひでとう)著の武辺咄集。承応三(一六五四)年跋。

「武家高名記」「本朝武家高名記」。大坂の小児科医で貝原益軒と交流があった樋口松士軒好運の著。になる軍書。総目録一巻・武将伝二百二十巻・武臣伝十巻、他十九巻から成る。征夷大将軍の由来から始まり、源頼朝から徳川氏までの武家の事績を記す。国文研データセット」の記載を参照した(そこでは全文を画像で読める)。

「武家盛衰記」著者・成立不詳。別名「近代武家盛衰記」。「関ヶ原の戦い」から徳川綱吉の治世までの諸大名・諸家の武家盛衰を記す。国立国会図書館デジタルコレクションの画像全篇

「老人雜話」随筆。儒医江村専斎(永禄八(一五六五)年~寛文四(一六六四)年)の談話を門人伊藤坦庵宗恕が筆録編集した書。全二巻。戦国から近世初頭にかけての武将の逸事や軍事・文事・医事・能・茶、また、京の地理などに関する話を、達意の文章で綴ったもので、特に豊臣秀吉に関する逸事は白眉の記事であるが、必ずしも総てが真実とは言い難い。但し、随筆としては優れたものである(平凡社「世界大百科事典」に拠る)。「国文研データセット」のこちらで全文(恐らく)が画像で読める(但し、写本)。

「故老物語」相同・相似の書名がかなりあり、芥川龍之介がどれを指しているのか不詳。

「朝鮮軍記」豊臣秀吉の文禄・慶長の役(壬辰倭乱:文禄元(一五九二)年~慶長二(一五九八)年:休戦を挿む)での朝鮮出兵について書かれた軍記物諸本の総称。芥川龍之介が挙げている江戸初期の堀正意の「朝鮮征伐記」(寛永二一(一六四四)年成立・万治二(一六五九)年刊)、中期の釈姓貴の「朝鮮軍記大全」・馬場信意の「朝鮮太平記」、後期の庶民の爆発的人気を博した岡田玉山の「絵本太閤記」などが知られる。

「淸正記」加藤清正に関する伝記戦記物語。古橋左衛門又玄(ゆうげん)著。全三巻。成立時期は不明だが、十七世紀中頃と推定されている。加藤美作・下川兵太夫・木村又蔵・古橋清助が、それぞれ部分的に書き残したものを編集し、清正の若年の頃から逝去までの概要を記し、清正の菩提寺本妙寺に寄進したもの。特に第一巻及び第二巻の朝鮮の役までの記事は基本史料とされ、古文書などを挿入して真を得る方法を採っており、清正の軍功についての大要を知り得る基本的な史料となっている(平凡社「世界大百科事典」に拠る)。

「高麗陣日記」(こうらいじんにっき:現代仮名遣)は梅村市郎兵衞刊の元禄一五(一七〇二)年の朝鮮出兵について書かれた軍記物。国文学研究資料館の画像で全篇が読める。

「俳優全集」博文館編輯局編校訂の「続帝国文庫第三十五編」明治三四(一九〇一)年博文館刊)のか。

「雨窓閑話」著者・成立年未詳。古今近世の事蹟雑話を集め、記事の後に著者の意見も加えてあり、多く武士道上の教訓談を主とする。織田信長・豊臣秀吉・上杉謙信等の逸話を始め、故実や観世一代能のことなどを記す。天明二(一七八一)年の序がある。刊行は嘉永四(一八五一)年十月。のデータに拠り、所持するが、詳細を語る気にならない。悪しからず。

「曾呂利記事」私も好きな寛文三(一六六三)年刊の全五巻から成る仮名草子奇談集「曽呂利物語(そろりものがたり)」の放漫な謂いであろう。]

 

梨の實をまさくさくさく

朝顏の凋む

朝顏の花をあけさびしみ

○たよりなくさく朝顏の花のむたほそぼそとしてわがなげくかも

[やぶちゃん注:総て短歌歌稿と推定される。最終歌は「芥川龍之介未定稿集」に所収する。末尾に編者には大正六(一九一七)年から翌年にかけての未発表の創作という推定年代が示されてある。やぶちゃん版編年体芥川龍之介歌集 附やぶちゃん注を参照されたい。]

 

芥川龍之介 手帳12 《12-5/12-6》 

 

《12―5》

 

Morris

 

Mは畫に

 

Forget
six centuries
……と云へど彼自ら之を忘れ得さりき

 

[やぶちゃん注:「さりき」はママ。「ざりき」の誤記であろう。

Morris」芥川龍之介が単にこう書く時は、彼の卒業論文の対象であったイギリスの詩人でマルクス主義者でもあったウィリアム・モリス(William Morris 一八三四年~一八九六年)と考えてよい。なお、芥川龍之介の卒論は「ウイリアム・モリス研究」であるが、関東大震災で草稿も含めて焼失し、現存せず、それを読むことは哀しいかな、出来ない。

「Mは畫に」削除しているが、モリスは絵画は描かなかったが、若き日は広義の芸術家志望であり、インテリア装飾や、沢山の出版物の優れた装幀を終生行っており、「モダン・デザインの父」とも呼ばれている。ウィキの「ウィリアム・モリス」によれば、『ヴィクトリア朝のイギリスでは産業革命の成果により工場で大量生産された商品があふれるようになった。反面、かつての職人はプロレタリアートになり、労働の喜びや手仕事の美しさも失われてしまった。モリスは中世に憧れて、モリス商会(Morris & Co.)を設立し、インテリア製品や美しい書籍を作り出した(植物の模様の壁紙やステンドグラスが有名)。生活と芸術を一致させようとするモリスのデザイン思想とその実践(アーツ・アンド・クラフツ運動)は各国に大きな影響を与え』、二十世紀のモダン・デザインの『源流にもなったといわれ』ている、とある。また、一八五九年に彼が結婚したジェーン・バーデン(Jane Burden 一八三九年~一九一四年)はモリスの年長の友人であった、かのイギリスの画家で詩人でもあったダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(Dante Gabriel Rossetti 一八二八年~一八八二年:詩人クリスティーナ・ジョージナ・ロセッティ(Christina Georgina Rossetti 一八三〇年~一八九四年)の実兄)をはじめとするラファエル前派画家たちのモデルでもあった。というより、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティのミューズであり、彼の知られた女性像(「プロセルピナ」(Persephone or Proserpine 一八七四年・「ベアトリーチェ、ジェーン・モリスの肖像」(Beatrice,a Portrait of Jane Morris 一八七九年)は彼女がモデルであった。さらに言えば、実は実際には、モリスと結婚した後のジェーン・モリスとダンテ・ロセッティは恋仲であり続けたのであった。

Forget six centuries……これはモリス自身の著作か、或いは、モリスの研究書一節かも知れぬ(少なくとも、検索を掛けると、モリスの複数の研究書の一節に、このフレーズは実際に出てくる)。モリスが生きた時代から六百年も前のことを皆、忘れてしまったが、モリスは中世の美を生涯、愛し続けた。彼の生きた時代から六百年前は一二〇〇~一三〇〇年前後となり、それはまさにヨーロッパ中世の最盛期で、ルネッサンス興隆の時期とも重なるのである。] 

 

Byron, Scott & Morris

Byron Morris との Poem より Prose へうつり方

[やぶちゃん注:「Byron」イギリスの詩人ジョージ・ゴードン・バイロン(George Gordon Byron 一七八八年~一八二四年)。

Scott」スコットランドの詩人で小説家のウォルター・スコット(Walter Scott 一七七一年~一八三二年)であろう。

Prose」プロゥズ。散文。]

 

 

《12―6》

○葦 芋 紙(珪艸) 甘庶 ミルクバナヽ 馬鈴薯 人參

[やぶちゃん注:「珪艸」珪藻土(けいそうど:diatomite:ダイアトマイト:藻類の一種である水生生物である珪藻(オクロ植物門 Ochrophyta カキスタ亜門 Khakista 珪藻綱 Diatomea)の殻の化石よりなる堆積物(堆積岩)。珪藻の殻は二酸化ケイ素(SiO2)から成るので、珪藻土もこれを主成分とする。多くは白亜紀以降の地層から産出される)を紙状に薄くしたものか。現在は、各種フィルターや自然環素材の新建材の壁紙として確かに「珪藻を加工した紙」として現に実用化されてはいるものの、大正期にそれが出来ていたとは思われないので、やや不審ではある。しかし、実は、珪藻土自体は、『耐火性と断熱性に優れているため建材や保温材として、電気を通さないので絶縁体として、また適度な硬さから研磨剤としても使用されている。建材としては、昔から』、『その高い保温性と程よい吸湿性を生かして壁土に使われていた』ウィキの「珪藻土」に拠る。下線やぶちゃん)から、珪藻で出来た壁「紙」様のものとして認識されていた可能性はある或いは、この一条は、この後の、先にも多量のメモが出現した、小説「猿」と関係した条々と同じで(次の条の私の注を参照)、軍艦が航海の際に備品・食糧として積み込む物品のリストではないかと私は思っている。そこには猿に与える食い物として「人參」「芋」が出るからである(後の私の注の「猿」の引用の太字下線を参照のこと)

「甘蔗」サトウキビ(単子葉植物綱イネ目イネ科サトウキビ属サトウキビ Saccharum officinarum)の漢名。「かんしよ(かんしょ)」は慣用読みで「かんしや(かんしゃ)」が本来は正しい。しかも「カンショ」の発音は「甘藷」(サツマイモ)と同音で、まずいことにサトウキビの産地とサツマイモの産地が重複していることから、紛らわしいので現在はあまり使われない。因みに、中国語のカタカナ音写では「ガンジャ」である。

「ミルクバナヽ」このメモ群の中にあって、これだけが我々の知っている加工飲料の「バナナ・ミルク」であるとは私には思われない。バナナ(単子葉植物綱ショウガ目バショウ科バショウ属 Musa の中で、果実を食用とする品種群の総称、或いはその果実)類の原種やその多くは甘くないものも多い(熟さないものには毒性がある種さえある)から、これは或いは、当時、改良されて出回っていた、実がよりミルクのように白く、又はミルクのようにある種の仄かな甘さを持つバナナ(その果実)を指しているのではなかろうか?

 

○カンガール――I don’t know.

[やぶちゃん注:「カンガール」これは、後の手書きの図の中に「カンガルー」と出るように、かの有袋類のそれではなく、周囲のキャプションから見て、何か船の甲板上の器具の名称(舷側に飛び出た巻き上げ機か?)のようだが、遂に判らなかった。識者の御教授を乞う。]

 

16――水面迄

[やぶちゃん注:「16尺」「16」は正立縦書。四メートル八十五センチメートル弱。] 

 

○鳥二十羽 ペリカン 猿 犬(4)

{上甲板の Beam Hook

{砂箱grey

[やぶちゃん注:二つの「{」は底本では大きな一つの「{」。この記載で、この見開きページは総てが、芥川龍之介の小説「猿」(大正五(一九一六)年九月発行の『新思潮』)の構想用メモであることが判明するのである。まさに「猿」の小説展開の狂言回しの素材(但し、実際の猿がメイン・ストーリーに登場するわけではない。「青空文庫」の本文で確認されたい)として語られる本物の猿の話のパートにかなりの部分が出てくるからである。岩波旧全集から引く。下線太字は私の仕儀である。

   *

 このと云ふのは、遠洋航海で、オオストラリアへ行つた時に、ブリスベインで、砲術長が、誰(たれ)かから貰つて來た猿の事です。それが、航海中、ウイルヘルムス、ハフエンへ入港する二日前に、艦長の時計を持つたなり、どこかへ行つてしまつたので、軍艦(ふね)中大騷ぎになりました。一つは、永(なが)の航海で、無聊に苦(くるし)んでゐたと云ふ事もあるのですが、當の砲術長はもとより、私たち總出で、事業服のまま、下は機關室から上は砲塔まで、さがして步く――一通りの混雜ではありません。それに、外(ほか)の連中の貰つたり、買つたりした動物が澤山あるので、私たちが駈けて步くと、が足にからまるやら、ペリカンが啼き出すやら、ロオプに吊つてある籠の中で、鸚哥(いんこ)が、氣のちがつたやうに、羽搏(はばた)きをするやら、まるで、曲馬小屋で、火事でも始まつたやうな體裁です。その中に、猿の奴め、どこをどうしたか、急に上甲板へ出て來て、時計を持つたまま、いきなりマストへ、駈け上(あが)らうとしました。丁度、そこには、水兵が二三人仕事をしてゐたので勿論、逃がしつこはありません。すぐに、一人が、頸すぢをつかまへて、難なく、手捕(てど)りにしてしまひました。時計も、硝子(がらす)がこはれた丈で、大した損害もなくてすんだのです。あとで猿は、砲術長の發案で、滿二日、絶食の懲罰をうけたのですが、滑𥡴ではありませんか、その期限が切れない中に、砲術長自身、罰則を破つて、猿に、人參を、やつてしまひました。さうして、「しよげてゐるのを見ると、猿にしても、可哀(かあい)さうだからな」と、かう云ふのです。――これは、餘事ですが、實際、奈良島をさがして步く私たちの心もちは、この猿を追ひかけた時の心もちと、可成(かなり)よく似てゐました。

   *

下線太字の語は悉く、この見開きページに記されたメモに出てくる(「砲塔」は図のキャプションにある)に書き入れられており、「鸚哥」は出ないものの「鳥二十羽」とあるのである。

「ペリカン」鳥綱ペリカン目ペリカン科ペリカン属 Pelecanus を指す。私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鵜鶘(がらんちょう)〔ペリカン〕」を参照されたい。

Beam」既出既注だが、再掲する。ビーム。海事用語。甲板・梁(りょう)。船の両肋材(ろくざい)の上部を左右に走る横材で、甲板を支えるものを指す。「猿」で士官候補生の「私」が贓品を探すシーンに『こんな事をするのは軍艦に乘つてから、まだ始めてでしたが、ビイムの裏を探すとか衣囊をのせてある棚の奥をかきまはすとか、思つたより、面倒な仕事です』と出る。

Hook」フック。引っかけるため先の曲がった鉤(かぎ)。或いは、留め金。

「砂箱」ネット上のQ&Aサイトの答えに、軍艦が戦闘状態になって被弾し、負傷者や戦死者が多く出た場合、大量の血や肉片で甲板が濡れ汚れ、それに足をとられて動作に支障をきたさないようにするため、或いは、転倒して新たな怪我をしないようにするため、さらには、負傷兵は傷口からの感染を防ぐための消毒した砂を使った、という事実が日露戦争当時にはあったらしいから、そうしたものとしてこれがあると考えられる。]

 

○副長の許可

{士官室の Hatch の上り口(上甲板)

{竹のすのこをしく(簀)   臭ひ

{箱 ★

 

126

 

[やぶちゃん注:三つの「{」は底本では大きな一つの「{」。★の部分に上記の絵図が示されてある。キャプションは「開き戸」か。

「副長」は「猿」の中で重要なバイ・プレイヤーとして登場する。

「箱」不詳。見る限りでは、何か動物を捕捉するためのもののように見える。猿か鼠か?] 

 

7月12

 8日       獨領      3

Brisbane ―→ Rabaul(New Britain) ―→

 3日  7   6日(石炭つみ)  4

Wilhemshaven  ―→  Frake  ―→

1日 3日   3

Jap. ―→パラオ(ぺリュー)―→小豆島――返る

[やぶちゃん注:以上は底本では総て繋がっている。ブログでのブラウザ上の不具合を考えて改行した。数字はすべて縦書正立。この日程通りならば、この軍艦は八月十九日にパラオを出港して日本へ向かったことになる。

Brisbane」現在のオーストラリア連邦クイーンズランド州南東部(サウス・イースト・クイーンズランド地域)に位置する州都ブリスベン。シドニー・メルボルンに次ぐオーストラリア第三の都市。オーストラリア英語の発音は「ブリズベン」が正しい。ここ(グーグル・マップ・データ)。

Rabaul(New Britain)」ラバウル。現在のパプアニューギニア独立国(英語表記:Independent State of Papua New
Guinea
)の島嶼地方の東ニューブリテン州(英語表記:East New Britain)の都市。一九一〇年にドイツが建設した街で、第一次世界大戦まではドイツの統治下にあったが(傍注の「獨領」はそれである)、一九一四年九月にオーストラリア軍が占領し(注意すべきは、このメモにある軍艦の航海は「獨領」から一九一四(大正三)年九月以前であることが確定するという点である)、その後、オーストラリアによって統治(国際連盟が認めた委任統治領)されていた(後、太平洋戦争中の一九四二年一月二十三日にオーストラリア軍と戦った日本軍が占領、東南方面への一大拠点基地が築かれ、ラバウル航空隊が置かれた。戦後、オーストラリア委任統治領に戻り、一九四九年パプアニューギニア自治政府とされ、一九七五年九月十六日に独立を果たした)。ここ(グーグル・マップ・データ)。

Wilhemshaven筑摩書房版全集類聚版の「猿」では、ドイツ本国の北海岸にあるそれを注しているが、どう考えたって、位置的におかしいだろ! これはドイツが領していた「ドイツ・ニューギニア」(Deutsch-Neuguinea)にあった「フリードリッヒ・ヴィルヘルム・ハーフェン」(Friedrich-Wilhelm-Hafen)の誤りだ。現在のニューギニア島の北岸に位置するパプア・ニューギニアのモマセ地方のマダン州の州都マダン(英語表記:Madang)である。ここ(グーグル・マップ・データ)。 ラバウルのほぼ西南西百七十キロ強。

Frake」不詳。後のパラオから考えて、ニューギニア島の西部辺りの旧地名かと思われるのだが。識者の御教授を乞う。

Jap.」思うにこれは「Yap」の誤りか誤判読ではなかろうか? ミクロネシア連邦のヤップ州の州政府が置かれているヤップ島である。ここ(グーグル・マップ・データ)。地図で判る通り、次のパラオの東北四百キロ強の位置にある。

「パラオ(ぺリュー)」現在のパラオ共和国(パラオ語: Beluu ęr a Belau/英語:Republic of Palau)にあるペリリュー島(Peleliu)。パラオ諸島の主要な島の一つで、パラオの主要諸島の南西部に位置し、ペリリュー州に属する。一八九九年、国力が衰退の一途を辿っていたスペインは「ドイツ・スペイン条約」によって、グアムを除くスペイン領東インドを四百五十万ドルでドイツ帝国に売却した。パラオもこれに含まれ、これ以降、「ドイツ領ニューギニア」(Deutsch-Neuguinea)の一部となった。当時、ラバウルがドイツ領である以上、やはりここもドイツ領であった。ところば、一九一四年年七月二十八日に第一次世界大戦が開始されると、連合国の一国であった日本が海軍を派遣し、数少ないドイツ守備隊を瞬く間に降伏させて、これを占領、同年中に赤道以北のドイツ領ニューギニア全域を占領した。日本海軍は臨時南洋群島防備隊と軍政庁をトラック諸島夏島(現在のチューク諸島トノアス島)に設置し、占領地である南洋諸島を軍政下に置いている。戦後のパリ講和会議(一九一九年一月)によってパラオは日本の委任統治領になった。コロールには南洋庁及び南洋庁西部支庁(パラオ支庁)が置かれ、パラオは周辺諸島の中核的な島となり、多くの日本人が移住、パラオ支庁管内の住民の四人に三人は日本人となった、とウィキの「パラオにあるから、さらにこの軍艦の航海は、一九一四年七月二十八日よりも前となるが、日程が七から八月に跨っていることから、一九一四年は含まれなくなり、一八九九年以降で一九一三年以前の閉区間であったことか明らかとなる。さらに言えば、軍事関係に詳しい方ならば、この軍艦(士官候補生用の練習艦と思われる)が何で、この航海が何年の夏であったかを、この航路からも必ずや、特定出来ることと思われる。是非、その方面の方の御教授を仰ぎたく思う。よろしくお願い申し上げる。]

 

○事業服――色裝

[やぶちゃん注:「事業服」海軍軍装の一種の正式呼称。正装の軍服ではないが、作業服の一ランク上のものであったらしい。ミリタリーグッズ・革ジャンの専門店「中田商店」のこちのようなものかと思われる。「襟(えり)の紐(ひも)」が確かにあるのが判る。]

 

○航海中

 

○サガニアン――トーキヨーニアン

[やぶちゃん注:「サガニアン」佐賀人か。そう思ったのは、海軍基地のある佐世保が佐賀に近いからだけのことなのだが。]

 

○候補生室 chart(3尺2間十人)

[やぶちゃん注:「候補生」実習終了後に海軍将校に任ぜられる資格を持った者。

chart」海図(台)であろう。

「3尺2間」九十一センチメートル×三メートル六十四センチメートル。海図の大きさか。

「十人」は士官候補生の人数か。]

 

○丹窯色――水平線は入道雲

[やぶちゃん注:「丹窯色」陶磁器を焼成する窯(かま)の灼熱した赤い色か。夕陽の色を言っているように読める。]

 

○長い periodic rolling

[やぶちゃん注:文字通り、船の波長の長い周期的な横揺れのこと。] 

 

○夕方短し

[やぶちゃん注:南洋からの帰路航海は当然、そうなる。] 

 

○をびの紐

 

○藤椅子(新衣服)

 

400米 from Barber

 

1261_3

[やぶちゃん注:ここに上記の図が縦に条と条との間にタイトに入っている。ナイフのように見えるが、何だかよく判らない。

400米 from Barber」「Barberは軍艦内の床屋であろうが、そこからどこまでの距離なのか、意味不明。] 

 

handrail――將官室の skylight

[やぶちゃん注:「handrail」デッキの手摺り。

skylight」天窓。]

 

Vemtilater(1) mushroom1262

[やぶちゃん注:ここに上記の手書きの図が入る。

Vemtilater」ベンチレーター。通風孔・換気装置・通風機・換気扇。

mushroom」「mushroom anchor」のことか。海事用語で、半永久停泊の際に用いる、キノコ形のアンカー(錨)を指す。

 以上の絵の指示キャプションは、右上から下へ、

   カンガルー

   stantion

   一丈二尺(海中おろす)

   桟  of Brurs

中央附近に上から下へ、

   格納

   砲塔

   wirestopper

   後

   
Bridge

左上から下へ、

   Bollard-head

   
mast pendant

である。以上は私が判読したのではなく、底本で絵図の下に底本の編者によって活字化してあるものを転写したものである。

stantion」スタンション。現行では「stanchion」の綴りが一般的。甲板の舷側等にある墜落防護用の、間に鎖やレール等を渡す柱・支柱のこと。

「一丈二尺」三メートル六十四センチ弱。

「桟  of BrursBrurs」は新全集の活字起しに従ったのだが、こんな単語自体が英語に存在しない(新全集は英語の綴りの誤りは勝手に訂しているはずなんだが?)。指示線で示しているのが、船(軍艦)の舳であることは判るから、これは思うに「Bows」の芥川龍之介の書き誤りではなかろうか。研究社の「新和英中辞典」を見ると、“the bows of a warship”という風にあって『bows と複数形になることが多い』とあるからである。とすれば、これは、非常に狭く細い「艦首の」側面に巡らした「桟」、落下保護用のガードレールのことではあるまいか?

wirestopper」ワイヤー・ストッパー。位置から見て、アンカー(錨)用のワイヤー・ストッパーであろう。

Bridge」艦橋。

Bollard-head」「Bollard」はボラードで、桟橋・埠頭・波止場などに設けられた船舶繋留用の繋柱(けいちゅう:「繋船(けいせん)柱」「係柱」及び形状から「双繋柱」などとも呼ぶ)のことで、「bitt」(ビット)とも呼ぶ。添えられた絵からもそれと判る。

mast pendant」マスト・ペンダントは船の帆桁(ほげた)やマストに掲げる旗のこと。平凡社の「世界大百科事典」商船の旗旒(きりゆう)信号では、「国際信号書」によって、旗の大きさ・信号符字の構成・信号法などが定めてあるとあるから、ここはそれに準じた軍艦用のそれであろう。]

宮澤賢治の「文語詩稿 一百篇」の巻頭にある詩篇「母」の草稿から定稿までの推敲順推定電子化

 

[やぶちゃん注:「校本 宮澤賢治全集 第五巻」(昭和四九(一九七四)年筑摩書房刊)の本文と校異を参考に作成した。
漢字は恣意的に概ね正字化した。

 本詩篇は宮澤賢治が生前に多田保子編集発行になる雑誌『女性岩手』第四号(昭和七(一九三二)年十一月発行)に同じ「文語詩稿 一百篇」に載る「祭日」「保線工手」とともに掲載された。

 現存する草稿及び清書稿と称するもの自体は全部で三種あり、底本では本文と校異での提示を含めて、詩篇としては四種が載るが、ここでは以下のような仕儀を以って、全七篇を推定復元した

 ところが、この内、「清書稿」と呼称しているものは、底本では原稿原物から起したものではなく、川原仁左ヱ衛門編著「宮沢賢治とその周辺」(私家版・昭和四七(一九七二)年刊)の口絵写真に載るものから起されたものであり(恐らくは底本編集時(昭和四十九年)に原稿提供がなされず、現存は不明なのかも知れぬ)、しかもそれは発表されたものとは微妙な違いがある(概ね、誤植と考えられはする)のである。

 しかも、ややこしいことに、底本で「定稿」と呼んでいるものは、雑誌『女性岩手』に載ったものではないことに注意しなければならない。これは「文語詩稿 一百篇」全篇を賢治が清書したのが、『女性岩手』に発表した後のことと推定されることから、その発表後の清書時に書き換えたものを以って「定稿」と呼んでいる原稿を指すのである。

 そうしてそれに追い打ちをかけるように、最後の書き直された定稿原稿は焼失したらしく、現存しない。則ち、底本で「定稿」と呼んでいるそれは、賢治の第二全集(賢治の没した昭和八(一九三三)年の翌年に文圃堂から出版された第一全集の紙型を買い取った十字屋書店がそれを増補する形で昭和一四(一九三九)年から翌年にかけて出版したもの)に掲載されているものを校訂したもので、存在しないのである。

 本電子化では、底本の校異に示された原稿の推敲痕を、解説を参考に、可能な限り、順序を推定し、種+定稿の篇を示した。但し、抹消を戻したりした箇所は再現していないし、細部の書き換えは、前後の同様の書き換えと共時的に行われたものかどうかまでは不明であるから、仮定されるヴァリェションは厳密にはもっと遙かに増える。特に底本の「下書稿(二)」の後の推敲過程(前の矢印の下に※を附した)の中の第二連部分は錯雑が異様に激しく、纏まった再現そのものが困難であった。底本の校異によれば、同じ鉛筆・別の鉛筆・藍色のインクの三種類の筆記用具による手入れが現認出来る、とある。則ち、「下書稿(二)」の原形態を含めても、そこでは最低でも四段階か、それ以上の推敲形が賢治の頭の中には存在したと考えてよい。ところが、その三種の異なった筆記用具の推敲を一つの詩句として、いくら、ジョイントしてみても(実際に五篇ほど作製してみたのだが)、上手く韻律や意味が繋がらない。されば、「※」の第二連部分については、仮定稿推敲推定表示を最終形と推定されるものの表示のみに留め、完全に諦めた

 なお、最初の下書き稿には標題がない。また、「定稿」と称するものの四行書きの一行中の中間部字空けで下部の詩句上部インデント、及び、二連構成の中間三行(程)空けという特異な表記もママである。

 「雪袴」(ゆきばかま)とは、主に雪国で用いる裾を締めた、相撲の行司が穿(は)くような括(くくり)り袴(ばかま)風の下衣のことで、「裁っ着け袴(たっつけばかま)」とも呼ぶが、「もんぺ」の地方名ととっても、強ち、誤りではない。されば、その後の「うがつ」は「穿(うが)つ」であって、その「黑」い「雪袴」を「穿(は)く」の意である。

 「喰ましめ」は後の改稿で判る通り、「はましめ」と読んでいる。「食わせる」に同じい。

 「うなゐ」は「髫」「髫髪」で、髪を項(うなじ)の辺りで切り揃えて垂らしておく、昔の小児の髪形を指し、そこから転じて「うなゐのこ」或いは単に「うなゐ」が「小児・小さい子」の意となったものである。【2018年2月6日 藪野直史】

 

 

幾重なる松の林を

鳥の群はやく渡りて

風澄める四方の山はに

うづまくや秋の白雲

 

雪袴黑くしがちし

その子には瓜を喰ましめ

みづからは紅きすゝきの

穗をあつめ野をよぎる母

 

   ↓(底本「下書稿(二)」のプレ稿推定)

 

      母

 

雪袴黑くうがちし

うなゐの兒瓜食(は)みくれば

風澄める四方の山はに

うづまくや秋の白雲

 

その身こそ瓜も欲(ほ)りせん

齡弱(としわか)きうなゐごの母は

ひたすらに紅きすすきの

穗をあつめ野をよぎりくる

 

   ↓(底本「下書稿(二)」)

 

      母

 

雪袴黑くうがちし

うなゐのこ瓜食(は)み來れば

風澄める四方の山はに

うづまくや秋のしらくも

 

その身こそ瓜も欲(ほ)りせん

齡弱(としわか)きその兒の母は

ひたすらに紅きすすきの

穗をあつめ野をよぎりくる

 

   ↓(※)

 

      母

 

雪袴黑くうがちし

うなゐの兒瓜食(は)みくれば

風澄める四方の山はに

うづまくや秋のしらくも

 

その身こそ瓜も欲(ほ)りせん

齡弱(としわか)きそのこの母にしあれば

手すさびに紅き萱穗を

折りとりて野をよぎるなれ

 

   ↓(以下が底本の「清書稿」)

 

      母

 

ゆきばかま黑くうがちし

うなゐのこ瓜(うり)食(は)みくれば

風澄めるよもの山はに

うづまくや秋のしらくも

 

その身こそ瓜も欲(ほ)りせん

齡弱(としわか)き母にしあれば

手すさびに紅(あか)き萓穗(かやぼ)を

つみ集(つど)へ野を過(よ)ぎるなれ

 

   ↓(以下が『女性岩手』掲載のもの)

 

      母

 

ゆきばかま黑くうがちし

うなゐのこ瓜(うり)食(は)みくれば

風澄めるよもの山はに

うづまくや秋のしらくく

 

その身こそ瓜も欲(ほ)りせん

齡弱としわかき母にしあれば

手すさびに紅き萱穗(かやほ)を

つみ集(つど)へ野をよぎるなれ

 

   ↓

 

   母

 

雪袴黑くうがちし     うなゐの子瓜食(は)みくれば

 

風澄めるよもの山はに   うづまくや秋のしらくも

 

 

 

その身こそ瓜も欲りせん  齡弱(としわか)き母にしあれば

 

手すさびに紅き萱穗を   つみつどへ野をよぎるなれ

 

2018/02/05

松風庵寒流(三坂春編)著「老媼茶話」目録~全電子化注終了

 

[やぶちゃん注:底本の目録には本文の標題で補塡された箇所が〔 〕で添えられてあるが、それは( )に代えて示した。【 】は二行割注。一部にある読点は除去した。無論、添えられた頁数は除去した。いちいちリンクするのは面倒なので、カテゴリ「怪奇談集」で表題で検索されたい。]

 

 

    老媼茶話卷之壱目錄

 

一 桂廣宗(太平廣記)

一 王宇窮(述異記)

一 山魅(廣異記)

一 知通(酉陽雜爼曰)

一 盧處(宣室志)

一 蘇陰(潛確居類書曰)

一 溫會(酉陽雜爼曰)

一 醉人(茅亭客話)

一 石中の人(二程全書十九

一 文淨(聞奇錄)

一 膈噎の僧(廣五行記)

一 顧光寶

一 石憲(宣室志)

一 興進(事文類聚【後集二十】)

一 小町髑髏

一 註千字文

一 齋地記

一 佛祖統記

一 三才圖會

一 群居解頤

一 保暦間記

一 琵琶法師傳

一 釜渕川猿

一 大蛇(鬼九郎左衞門事)

一 大蛇(海の恆世)

一 大蛇(船越殺大蛇

一 化佛

 

    老媼茶話卷之弐目錄

 

一 山寺の狸

一 惡人

一 敵打

一 猫魔怪

一 怨積靈鬼

一 只見川毒流

一 伊藤怨靈

一 狸

 

    老媼茶話卷之參目錄

 

一 猪苗代の城化物

一 舌長姥

一 會津諏訪の朱の盤

一 藥師堂人魂

一 亡魂

一 血脈奇特

一 酸川野幽靈

一 飯寺村の靑五輪

一 允殿館大入道

一 杜若屋敷

一 幽靈

一 天狗

一 女大力

一 如丹亡靈

 

    老媼茶話卷之四目錄

 

一 高木右馬助大力

一 大龜の怪

一 安部井強八兩蛇をきる

一 魔女

一 山伏惡靈

一 堀主水蓮女惡靈 幷 主水行末

 

    老媼茶話卷之五目錄

 

一 男色宮崎喜曾路(男色敵討)

一 男色玉川典禮

一 猪鼻山天狗

一 播州姫路城

一 嶋原城化物

一 山姥髢

一 奇病

一 窟村死女

 

    老媼茶話卷之六目錄

 

一 大鳥一平

一 水野十郎左衞門

一 尾關忠吉

一 五勇の辨

一 血氣の勇

一 老人夜話

一 磐梯山怪物

一 飯綱の方

一 狐

一 彦作亡靈

一 一目坊

一 山中の鬼女

一 狼

一 邪見の報

 

    老媼茶話卷之七目錄

 

一 釜煎

一 牛裂

一 燒松灸

一 鋸引

一 狐

一 冨永金左衞門

一 八天幻術

一 因果卽報

一 沼澤の怪

一 夢の告

一 入定の執念

 

    老媼茶話拾遺

 

一 菊渕大蛇

一 諏訪越中

一 由井正雪

一 由井正雪 丸橋忠彌が謀叛

一 丸橋忠彌

一 切支丹

一 耶蘇征罸記曰

 

老媼茶話拾遺 耶蘇征罸記曰 / 老媼茶話~全篇電子化注完遂

 

     耶蘇征罸記曰(いはく)

 

 杉浦氏正友の同心のやしき、油屋作右衞門、借地して住せる。或とき、作左衞門女房、夫に申樣、

「あきもあかれもせぬ中なれども、わらわには、いとま玉はり候へ。御身、このたび、きびしく御改めの切支丹にて候へば、本宗に歸り給へと、いくたび申候へども、合點し給はず。夫(おつと)なればとて、天下の御法度(ごはつと)を背きては、現世未來、父子親類への不孝也。」

とて、強(しい)ていとまをとり、家を出(いで)にけるが、窓の障子に古歌を書(かく)。

  いてゝいなは心かろしと云やせん世の有樣を人のしらねは

 作左衞門、耶蘇宗、改めざるにより、火罪におこなわれける。女房は法華宗たり。此故に、御ゆるしを蒙(こうむり)けり。

  或(ある)記にいわく、

 南蠻國の人、五月五日の曉(あかつき)、山へ入り、七の惡蟲(あくむし)をとり、壺に入、山に埋置(うづめおく)事、一七(ひとなぬか)夜晝(よるひる)を經て、掘出(ほりいだ)し、是を見るに、壹むし、六の惡蟲を喰殺(くひころ)して、其身(そのみ)、堅固(けんご)に、のこりあり。此壹の惡むしをも殺し、七惡のむしの、にくを、ほり、其(その)油をとり、鏡にぬり、その後(のち)、かゞみをとぎ、本朝の人に見せしむる。鬼形(きぎやう)・畜類、變體(へんたい)し、見ゆるといへり。

 

 

老媼茶話拾遺終

 

[やぶちゃん注:「或記にいわく」の二字下げはママ。本章を以って「老媼茶話」は終わっている。

「耶蘇征罸記」村田彰氏の資料『国立公文書館内閣文庫蔵『耶蘇宗門制禁大全』解題・翻刻⑴』(PDF)によれば(コンマを読点に代え、注記記号を省略した)、『姉崎正治『切支丹伝道の興廃』によれば、『耶蘇征伐記』は、「正保』(一六四四年~一六四八年)『頃、島原乱後、江戸で出来たものらしい)」とされ、「議論や叙景文なしに史料集録として出来たもので,頗る史実を捕ふべきものがある」、と肯定的に評価されている。また、訛伝としてあげられている点についても、「筆者の態度は頗る冷静に客観的であるから、此等の訛伝も、何か基くところはあつたのであらう」、と推測されている。そして,『耶蘇征伐記』に「少しづゝ増補したもの」が『耶蘇制禁大全』および『耶蘇征罰記』などであるとされる。いずれにせよ、『耶蘇宗門制禁大全』が世に出たのは『耶蘇征伐記』が出た後である、ということは明らかである』(下線やぶちゃん)とある。この「耶蘇制禁大全」というのは幕府側の手になる切支丹制禁に関わる記録集である。

「杉浦氏正友」「杉浦氏正」不詳。或いは「「杉浦氏」の「正友」(親友)の意かも知れぬ。原典を見ることが出来ないので判らぬ。

「やしき」「屋敷」。

「油屋作右衞門」不詳。

借地して住せる。或とき、作左衞門女房、夫に申樣、

「あきもあかれもせぬ中」「飽き飽かれせぬ仲」。

「わらわ」ママ。「妾(わらは)」。

「いてゝいなは心かろしと云やせん世の有樣を人のしらねは」整序して示す。

 

 出でて去(い)なば心輕しと云ひやせん世の有樣(ありさま)を人の知らねば

 

「或(ある)記」不詳。但し、以下に書かれているのは、所謂、「蠱毒(こどく)」或いは「巫蠱(ふこ)」と呼ばれる、古代中国から伝わり、道教や陰陽道等に受け継がれていった呪術であることは判る。ウィキの「蠱毒によれば、『動物を使うもので、中国華南の少数民族の間で受け継がれている』。『犬を使用した呪術である犬神、猫を使用した呪術である猫鬼などと並ぶ、動物を使った呪術の一種である。代表的な術式として『医学綱目』巻』二十五『の記載では「ヘビ、ムカデ、ゲジ、カエルなどの百虫を同じ容器で飼育し、互いに共食いさせ、勝ち残ったものが神霊となるため』、『これを祀る。この毒を採取して飲食物に混ぜ、人に害を加えたり、思い通りに福を得たり、富貴を図ったりする。人がこの毒に当たると、症状はさまざまであるが、「一定期間のうちにその人は大抵死ぬ。」と記載されている』。『古代中国において、広く用いられていたとされる。どのくらい昔から用いられていたかは定かではないが、白川静など、古代における呪術の重要性を主張する漢字学者は、殷・周時代の甲骨文字から蠱毒の痕跡を読み取っている』。『「畜蠱」(蠱の作り方)についての最も早い記録は、『隋書』地理志にある「五月五日に百種の虫を集め、大きなものは蛇、小さなものは虱と、併せて器の中に置き、互いに喰らわせ、最後の一種に残ったものを留める。蛇であれば蛇蠱、虱であれば虱蠱である。これを行って人を殺す。」といったものである』。『中国の法令では、蠱毒を作って人を殺した場合』、『あるいは殺そうとした場合、これらを教唆した場合には死刑にある旨の規定があり』、「唐律疏議」では絞首刑、「大明律」「大清律例」『では斬首刑となっている』。『日本では、厭魅(えんみ)』『と並んで「蠱毒厭魅」として恐れられ、養老律令の中の「賊盗律」に記載があるように、厳しく禁止されていた。実際に処罰された例としては』、(神護景雲二(七六九)『年に県犬養姉女らが不破内親王の命で蠱毒を行った罪によって流罪となったこと』が、また宝亀三(七七二)年には『井上内親王が蠱毒の罪によって廃されたこと』などが「続日本紀」に記されており、『平安時代以降も、たびたび詔を出して禁止されている』とある。しかしながら、ここでは「南蠻國」とあるから、以下は中国の話ではないことになる。が、これはどう見ても中国の「巫蠱」でげすよ!なお、渡来した紅毛人が長崎でいろいろな妖術を見せたという記録はある。例えば実際の鏡ではないが、水盤を鏡のように用いたケースが「耳囊 之四 蠻國人奇術の事にある。私の好きな話である。是非、お読みあれ。

「七惡のむしの、にくを、ほり」判ったようなことを平然と言っているが、生き残った一匹の悪虫から油を搾り出すことは出来ますが、消化されてしまった他の六種の虫の「肉」をそこから「掘り出す」ことは出来ないと思います! はい!

「かゞみ」底本『かゝみ』。「鏡」。

「とぎ」底本『とき』。「研ぎ」「磨ぎ」。

「本朝の人」日本人。]

老媼茶話拾遺 切支丹

 

     切支丹

 

 日本へ耶蘇(やそ)宗門の渡りけるは、人皇七十五代の御門(みかど)後白河院保元平治の頃、南蠻切支丹國より、伴天連(ばてれん)・伊留滿(いるまん)といふもの、來朝して、耶蘇といふ宗をはじめ、邪法を説く。その勒右の宗と見へたり。然れども、其頃、權化(ごんげ)の名僧多くして、萬民を化度(けど)し給ふ故、邪法にかたむく者なくして、邪法、用ゆる事、かなわずして本國へ逃歸(にげかへる)。

 そのゝち、星霜はるかに押移(おしうつり)て、人皇百六代後奈良院の御宇、天文二十年秋九月、切支丹國より、耶蘇、又、來り、平安洛陽に入り、此折も事ならずして退散せり。

 同人皇百八代後陽成院永祿年中に、再(ふたたび)、南蠻切支丹國より、奢備鬼留といふ伴天連並(ならびに)いるまん、江川(がうしう)あづちへ來り、宗門を廣め、邪法を説(とく)。此節、織田信長、安土(あづち)におわしましければ、左(さ)もあるべきに、此宗を禁じ給はず、伴天連、安土に耶蘇寺(やそでら)を建て、天帝(てんてい)を本尊とし、

「サン多摩利耶蘇須切に。」

と唱へ、丸念數を建立し、一の大鏡を雲臺(うんだい)にすへ、あまねく萬人に見せしむ。諸宗門の人人の、鏡に向ふ時は、牛馬狐狸(ぎうばこり)の面(おもて)に見へ、耶蘇宗に歸伏(きぶく)せしむもの、此鏡を見る時は、佛・菩薩の面にみへけるまゝ、愚癡無知(ぐちむち)の者共、此宗にかたむき入る事、幾百萬といふ限(かぎり)なし。其上、伴天連四民の貧敷(まづしき)者どもに、金銀をあたへ、忽(たちまち)、とめる者となし、又、富貴(ふうき)成(なる)ものには珎(めづ)らしき珎寶(ちんぱう)をあたへける間(あひだ)、此宗門を尊(たつと)み、なつく事、幼子(をさなご)の母をしたふが如し。此億萬の金銀のついへをば、日本を奪ひとつて後、日本國の諸氏にかけて、つぐのわんとの工(たくみ)也。其外、無邊法師・如路因果居士などゝいふ邪法僧、多く安土にあつまりける。伴天連の勤(つとめ)を得て、今迄、崇(あがめ)うやまひける國國の神社・佛閣・寺院・坊舍、悉(ことごとく)破却して、獅子の或(あるい)は狛犬を碎き打(うち)、薪(たきぎ)となし、阿彌陀佛・地藏菩薩の尊容を、みぞ・堀・路頭に捨(すて)、日本は既に魔國ならんとす。

 家康公、此由を聞召(きこしめ)し及(およば)れ、「是、みな、蒙古三韓の賊、干戈(かんくわ)を動(うごか)さずして日本を手に入れんとの斗(はか)りごと也。日本國中にある伴天連、ことごとく根をたち、葉を枯(から)すべき」よし尊命あるは、慶長六年辛丑(かのとうし)十月、板倉伊賀守勝重、京都の所司代たりければ、耶蘇が寺を燒拂(やきはらひ)、洛中洛外、ことごとく此宗を禁斷せしむ。切支丹改宗せざるものどもをば、俵(たはら)に入れ、卷立(まきたて)て、五條の橋づめに積(つみ)ておく事、山のごとし。そのころ、狂歌に、

  ころひふく尺八竹の吉利支丹俵にまかれこもそふとなる

 又、切支丹の宗旨を改め、本宗に歸る時は、伴天連本尊天帝を地にしき、念佛を申(まうし)、そのうへをまたぎこし、是を「轉ぶ」と云(いふ)。其後、五人組、本尊の寺請狀(てらうけじやう)を持(もち)て是を改め、所司代へ起請文を捧ぐ。其辭に曰、

[やぶちゃん注:以下の証文は底本では全体が「一」が突出して三字目にあるのを除いて三字下げ(ここでは「一」は四字目に下げた)。前後を一行空けた。]

 

  證文之事

一 御法度の切支丹宗門にて無御座(ござなく)候。もし僞り爭申(あらそひまうし)候においては、上は天公・天帝・散多摩利屋(さんたまりや)・ぜす切支(きりし)と・せうすうすの御罪を請(うけ)、陰邊留野(インヘルノ)に落(おち)、諸天狗の手にわたり、追付(おつつけ)、らさけに成り、白癩(びやくらい)・黑癩と呼(よばは)るべき物也。依(よち)て恐敷(おそろしく)、證文如斯(かくのごとき)に御座候。以上。

 

 慶長十七壬子(みづのえね)三月廿一日、駿河の阿部川原に於て切支丹改宗せざるもの、公方近士(くばうきんし)岡本大八をはじめ、數百人、國中を引(ひき)さらし、火あぶり・磔に行わるも、これのみならず、四國西國は、就中(なかんづく)此宗門に傾(かたむか)ざるはなし。尾張大納言義直卿御領内十二ヶ村の民、殘(のこら)ず、切支丹に入(いり)、極刑に逢ひ、近國遠國より搦來(からめきた)る切支丹、江戸へつれ來り、品川表(しながはおもて)の波打際へ、かきのごとくに柱をたて、數百人の切支丹を逆樣(さかさま)つるし置(おき)、滿汐(みちしほ)には、面(つら)・おとがひまで、波にひたり、則(すなはち)、息絶(いきたえ)る。汐引(しほひく)と、いきかへる。かくすれども、壱人も本宗にかへらず、ことごとく、おぼれ死す。

 長崎奉行曾我又右衞門、切支丹の男女(なんによ)大勢をからめ、出雲國より、隱岐へわたり、嶽(だけ)の熱湯へつれ行(ゆき)、湯の勢(いきほひ)烈しくして、あたりへよる事ならざれば、足輕ども、柄の長きひしやくへ熱湯をくみ入(いれ)、八、九才、十二、三才ばかりのわらべを赤裸(あかはだか)になし、溫泉の端へ引出(ひきいだ)し、父母のみる所にて、あたまより、件(くだん)の熱湯をくみかくるに、皮肉、たちまち、にへとけて、白骨と成(なる)。此有樣を眼前にみるといへども、父母兄弟、少しもかなしむ色なし。又、罪人の繩を解(とき)て熱湯のもとへあがり、黑煙のたつる湯の中へ飛込(とびいこま)しむるに、臆する氣色もなく、眞一文字に飛(とび)、一通り、うかみ出(いづ)るを見れば、瓦(かはら)のごとくにとけ、氷の如くに消へて、黑髮と骸骨、うかみ出(いづ)る。數百人の切支丹、改宗の者、ひとりも、なし。

「切支丹の宗門をあらためるものには、金銀田薗(でんゑん)を多(おほく)下され、家に歸り、妻子、安樂に過(すぐ)る。」

といへども、此宗門にかたむき入(いる)もの、老若男女・幼童に至る迄、其志(こころざし)、金鐵(きんてつ)のごとく、死をおそるゝ心、露(つゆ)程もなし。

 此前(このまへ)、國國所々に於て刑罪せらるも、切支丹幾千萬人と云(いふ)數をしらず。奧州會津にても、藥師堂といふ所にて、切支丹の男女、引出(ひきいだ)して、まづ、幼きわらわべを、父母の眼前にて、兩手を、きり落し、兩足を、またのつけ根、打(うち)おとすに、幼きわらべども、壱人も改宗せず、

「天帝・伊留滿・散多摩利屋・ぜすきりす、磔罪上天火罪明朗。」

と唱へ、われ先にぞ死をあらそふ。

 寛永十二年乙亥(きのとゐ)十二月廿日、横澤丹波と申(まうす)者の家の二重かべより、伴天連、尋出(たづねいだ)し、紙小(かみこ)ばたに六字の名號を書き、是をさゝせ、切支丹宗の大事にして、片時(かたとき)もはなさず、晝夜首にかけ尊(たつと)む「こんだつ」といふものをはづして、淨土珠數(じやうどじゆず)を首にかけさせ、伴天連をはじめ、横澤氏が一族三十餘人を馬にのせ、町町を引(ひき)さらし、此日(このひ)、藥師堂にて殺されける。本朝の人を逆磔(さかさはりつけ)にかける事、時は二日を過して死。伴天連は一七夜(ひとななよ)を經て、死したり。伴天連が着(ちやく)せし衣(い)ふく、よく伸縮(のびちぢ)みて、大人・小兒とともに能(よく)相叶(あひかな)へり。此とき、刑罪せらるゝ吉利支丹、百三十餘人。

 其頃、加藤明成の御内(みうち)の徒士(かち)寶戸太郎作(はうどたろさく)といひしもの、北方(きたかた)へ用の事ありてゆき、歸り道、夜更(よふけ)て、雨の降(ふる)に、からかさをさし、足駄(あしだ)をはき、藥師堂を通りけるに、刑罪に逢ひける切支丹の獄門の首、二、三十ありけるが、此首ども、一同にうなり出(いだ)し、獄門臺より、飛拔(とびぬけ)て、手まりの樣にはづみ上(あが)り、太郎作足もとへ、こけ來り、手足や頰へしひ付(つき)けるを、太郎作、はらいのけ、蹴ちらし、少しも動ぜず通りけるに、「惡人成佛」と書(かき)し大卒都婆(おほそとば)の元に、人(ひと)煎(い)る大釜の有(あり)けるが、其かたわらに、首なき髑骸(むくろ)六有ける。その内より一の髑骸、

「むつく。」

と起き上り、太郎作に、

「ひし。」

と、だきつきける。太郎作、ことゝもせず、力を出(いだ)し、彼(かの)死骸を突倒(つきたふ)しける。五體、ちりぢりに碎け、地に伏して、二ど、起上らず、といへり。

 唐(もろこし)にて劉先生といふ者、山へゆき、大雨に逢ふて、みちのかたはらの塚穴に入(いり)て雨をやめ、雨晴て後、月明也。邊りをみるに、白骨、一具あり。則(すなはち)、立上(たちあが)り、劉先生にいだき付(つき)たり。劉先生、力をきわめて、ふるひ打(うつ)所、倒(たふれ)て、又、起上らず。是、あやしむにたらず。劉が眞氣(しんき)盛んなるにより、枯骨、かつは附して如此(かくのごとし)。「暌事志(けいじし)」にみゆ。太郎作も此類(たぐひ)にやあらん。

 

[やぶちゃん注:「日本へ耶蘇(やそ)宗門の渡りけるは、人皇七十五代の御門(みかど)後白河院保元平治の頃、南蠻切支丹國より、伴天連(ばてれん)・伊留滿(いるまん)といふもの、來朝して、耶蘇といふ宗をはじめ、邪法を説く」も、「かなわずして本國へ逃歸(にげかへる)」「人皇七十五代の御門(みかど)後白河院」は不審。現行では第七十七代天皇である。単なる誤りか。また、「保元平治の頃」(ユリウス暦一一五六年から一一六〇年二月十八日(平治二年一月十日)まで。平治は二条天皇(但し、後白河院の院政)の即位した保元四年四月二十日(一一五九年五月九日) に始まるが、僅か八ヶ月で「平治の乱」によって永暦に改元されている)に、直接にキリスト教国から「伴天連(ばてれん)」(「父」・「神父」の意のポルトガル語「padre」(パードレ)の本邦での当て字で、トリックの宣教師のを指す切支丹用語)や「伊留滿(いるまん)」(「兄弟」・「神弟」の意のポルトガル語「irmão」の本邦の当て字。宣教師の称号の一つで、「助修士」「平修道士」などと訳す。「イルマン」が司祭職に叙階されると「パードレ」となる)が来日して、キリスト教を布教したという記録は現存しないから、これも不審である。ウィキの「日本のキリスト教史」によれば、『日本にいつキリスト教が到来したか』『ということに関しては、ネストリウス派キリスト教(中国で景教と呼ばれたもの)が』五『世紀頃、秦河勝などによって日本に伝えられたとする説・研究がある』が、『歴史的証拠や文書による記録が少なく、はっきりしない点も多い』。唐以降の中国との貿易の中で景教の存在が伝えられ、それに個人的に関心を示した人物はいるかも知れぬが、『歴史的・学問的に見て証拠が多く、日本史の文部科学省検定済教科書で、キリスト教の日本への最初の伝来となっているのは、カトリック教会の修道会であるイエズス会のフランシスコ・ザビエル』(スペイン語:Francisco de Xavier 又は Francisco de Jasso y Azpilicueta 一五〇六年頃~一五五二年:バスク人。没したのは次の布教先として上陸した明の広東省の海島上川島(じょうせんとう:現在のマカオ近くの広東省江門市台山。ここ(グーグル・マップ・データ))で病死)『による布教で』、これは言わずもがな、戦国時代の天文一八(一五四九)年『のことであり、当初は、ザビエルたちイエズス会の宣教師のみでキリスト教布教が開始された』と、我々が歴史で習った通りのことが書かれている。

「その勒右の宗と見へたり」「勒」では意味が通らぬ。或いは、布教の「勤」(つとめ)の誤記か? さすれば、その布教活動の内容から見て、右の宗教と考えられる、の謂いで意味としては附には落ちる(無論、その事実自体は不審である)。

「權化(ごんげ)の名僧」優れた権威ある仏教僧。

「化度(けど)」仏教用語。「教化済度(きょうげさいど)」の略。人々を教え導いて、迷いから救うこと。

「人皇百六代後奈良院」室町・戦国期の第百五代天皇後奈良天皇(明応五(一四九七)年~弘治三(一五五七)年/在位:大永六(一五二六)年~弘治三(一五五七)年)。この数字の違いについては前章で注したように、明治以前では神功皇后を第十五代の帝として数えた史書が多かったことによるものとすれば、腑に落ちる。

「天文二十年秋九月」一五五一年。ユリウス暦では旧暦九月一日は九月三十日である。ウィキの「フランシスコ・ザビエル」によれば、ザビエルは、明の上川島を経由して、『薩摩半島の坊津に上陸、その後許しを得て』、天文一八(一五四九)年八月十五日、『現在の鹿児島市祇園之洲町に来着した。この日はカトリックの聖母被昇天の祝日にあたるため、ザビエルは日本を聖母マリアに捧げた』。同年九月には、『伊集院城(一宇治城/現・鹿児島県日置市伊集院町大田)で薩摩国の守護大名・島津貴久に謁見、宣教の許可を得た』が、『貴久が仏僧の助言を聞き入れ』、『禁教に傾いたため、「京にのぼる」ことを理由に薩摩を去った(仏僧とザビエル一行の対立を気遣った貴久のはからいとの説もある)』。翌天文十九年八月、『ザビエル一行は肥前国平戸に入り、宣教活動を行』い、同年十月『下旬には、信徒の世話をトーレス神父に託し、ベルナルド、フェルナンデスと共に京を目指し』て『平戸を出立』、十一月上旬に『周防国山口に入り、無許可で宣教活動を行う。周防の守護大名・大内義隆にも謁見するが、男色を罪とするキリスト教の教えが大内の怒りを買い』、同年十二月十七日、『周防を立つ。岩国から海路に切り替え、堺に上陸。豪商の日比屋了珪』(『ひびやりょうけい;後に堺の切支丹の総代となった)『の知遇を得』、天文二〇(一五五一)年一月、『日比屋了珪の支援により、一行は念願の京に到着。了珪の紹介で小西隆佐』(こにしりゅうさ:堺の豪商で豊臣秀吉の家臣。熱心な切支丹宗徒となった。後にかのキリシタン大名となる小西行長の実父)『の歓待を受けた』。『ザビエルは、全国での宣教の許可を「日本国王」から得るため、インド総督とゴアの司教の親書とともに後奈良天皇および征夷大将軍・足利義輝への拝謁を請願。しかし、献上の品がなかったためかなわなかった。また、比叡山延暦寺の僧侶たちとの論戦も試みるが、拒まれた。これらの失敗は戦乱による室町幕府の権威失墜も背景にあると見られ、当時の御所や京の町はかなり荒廃していたとの記録もある。京での滞在をあきらめたザビエルは、山口を経て』、天文二十年三月には平戸に戻っている。その後、『ザビエルは、平戸に置き残していた献上品を携え、三度』、『山口に入っ』て同年四月『下旬、大内義隆に再謁見。それまでの経験から、貴人との会見時には外観が重視されることを知っていたザビエルは、一行を美服で装い、珍しい文物を義隆に献上した。献上品は、天皇に捧呈しようと用意していたインド総督とゴア司教の親書の他、望遠鏡、洋琴、置時計、ギヤマンの水差し、鏡、眼鏡、書籍、絵画、小銃などであった』という。『これらの品々に喜んだ義隆はザビエルに宣教を許可し、信仰の自由を認めた。また、当時すでに廃寺となっていた大道寺をザビエル一行の住居兼教会として与えた(日本最初の常設の教会堂)。ザビエルはこの大道寺で一日に二度の説教を行い、約』二『ヵ月間の宣教で獲得した信徒数は約』五百『人にものぼった』。その後、『豊後国府内(現在の大分県大分市)にポルトガル船が来着したとの話を聞きつけ、山口での宣教をトーレスに託し、自らは豊後へ赴いた(この時点での信徒数は約』六百『人を超えていたといわれる)』、同年九月、『ザビエルは豊後国に到着。守護大名・大友義鎮(後の宗麟)に迎えられ、その保護を受けて宣教を行った(これが後に大友家臣団の対立を生む遠因のひとつとなった)』が、『日本滞在が』二『年を過ぎ、ザビエルはインドからの情報がないことを気にし』、『一旦』、『インドに戻ることを決意』、同年十一月十五日に日本人青年四人『(鹿児島のベルナルド、マテオ、ジュアン、アントニオ)を選んで同行させ、トーレス神父とフェルナンデス修道士らを残して』日本を離れた『種子島、中国の上川島を経て』、『インドのゴアを目指し』、一五五二年二月十五日、『ゴアに到着すると、ザビエルはベルナルドとマテオを司祭の養成学校である聖パウロ学院に入学させた。マテオはゴアで病死するが、ベルナルドは学問を修めてヨーロッパに渡った最初の日本人となった』。同年四月、ザビエルは、日本全土での布教のためには』、『日本文化に大きな影響を与えている中国での宣教が不可欠と考え、バルタザル・ガーゴ神父を自分の代わりに日本へ派遣。ザビエル自らは中国を目指し、同年』九月、『上川島に到着した。しかし中国への入境は思うようにいかず、ザビエルは病を発症』、十二月三日に『上川島でこの世を去った』四十六歳であった、とある。本文では「切支丹國より、耶蘇、又、來り、平安洛陽に入り、此折も事ならずして退散せり」とあるから、事実とは齟齬していないことが判る。

「人皇百八代後陽成院」安土桃山から江戸初期にかけての第百七代天皇後陽成天皇(元亀二(一五七一)年~元和三(一六一七:グレゴリオ暦)年/在位:天正一四(一五八六)年~慶長一六(一六一一:グレゴリオ暦)年)。

「永祿」一五五八年~一五七〇年(未だユリウス暦。グレゴリオ暦は一五八二年十月十五日より開始)。

「奢備鬼留」永禄の年号と齟齬するが、これは天正七(一五七九)年七月に来日し、天正十年まで第一回目の日本滞在・布教・宣教師巡察を行い、大友宗麟・高山右近・織田信長らと謁見し、天正遣欧少年使節派遣を計画実施したアレッサンドロ・ヴァリニャーノ(ヴァリニャーニ)(Alessandro Valignano Valignani 一五三九年~一六〇六年)のことであろう。彼の邦名(漢名)は「備慈多道留」であるからである。彼はウィキの「アレッサンドロ・ヴァリニャーノ」によれば、天正九(一五八一)年の織田信長への謁見の『際には、安土城を描いた屏風(狩野永徳作とされる)を贈られ、屏風は教皇グレゴリウス』十三『世に献上されたが、現在に到るも、その存在は確認されておらず、行方不明のままである。また、従者として連れていた黒人を信長が召抱えたいと所望したため』、『これを献上し、弥助と名づけられて信長の直臣になっている』ともあるからである。

「安土に耶蘇寺(やそでら)を建て」これは信長の許可を得て、ヴァリニャーノが現在の滋賀県近江八幡市安土町下豊浦に土地を得て、天正八(一五八〇)年に創建されたセミナリヨ(ポルトガル語:seminário:イエズス会によって日本に設置されたイエズス会司祭・修道士育成のための初等教育機関(小神学校))のこと。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「サン多摩利耶蘇須切に」「蘇須切に」が今一つ判らぬが、強引に意味を持たせるならば、「さんたまりや、そ、すべからく、せつに」か。「蘇」は復活蘇生の意で採った

「丸念數」丸念珠(まるねんじゅ)で「コンタツ」、ロザリオ(rosário)のこと(ポルトガル語:contas:元は「量る・数える」の意)。キリシタン信徒が用いる数珠(じゅず)。大珠六個・小珠五十三個を鎖で繋いで輪状とし、さらにそれに十字架を繫いだもの。この珠を繰りながら唱える「ロザリオの祈り」に用いる。ロザリオの原語はラテン語「rosarium」でこれは「薔薇(rosa)で編まれた花冠」の意。これは「ロザリオの祈り」の十五の〈主の祈り〉と百五十の「アベ・マリア」が、主キリストの十五の秘義及びマリアに譬えられる教会の織りなす「祈りの花輪」に擬えられたことに基づく。

「とめる者」「富める者」。

「なつく」「懷く」。慣れ親しむ。親近感を抱いて近づき馴染む。

「ついへ」「費」。正しい歴史的仮名遣は「つひえ」。

「つぐのわん」「償(つぐの)はん」。

「工(たくみ)」企(たくら)み。

「無邊法師」不詳。識者の御教授を乞う。

「如路因果居士」不詳。識者の御教授を乞う。

「みぞ」「溝」。

「日本は既に魔國ならんとす」明治の廃仏毀釈と同じだね、こりゃ。

「蒙古三韓の賊」元(既に末期であった)と朝鮮(「三韓」は元は朝鮮半島南部にいた種族と、その地域を指し、半島南部にいた種族を「韓」と称し、言語や風俗がそれぞれに特徴の異なることから「馬韓」・「弁韓」・「辰韓」の三つに分かれていたことによる称)。

「干戈(かんくわ)」武器。武力。

「慶長六年辛丑(かのとうし)」一六〇一年。

「板倉伊賀守勝重」(天文一四(一五四五)年~寛永元(一六二四)年)は安土桃山から江戸前期にかけての旗本・大名。江戸町奉行・京都所司代(京都に駐在して京都の警備・朝廷や公家の監察及び、京都・伏見・奈良の町奉行の管理、近畿全域の訴訟の裁決、西国大名の監察などに当った。慶長五(一六〇〇)年に創設された(慶応三(一八六七)年廃止)。「所司代」の「所司は鎌倉幕府の侍所の次官で、長官である別当の補佐・代役、則ち、「代」はその別当の「代」役である「代官」の意である)。ウィキの「板倉勝重」によれば、『優れた手腕と柔軟な判断で多くの事件、訴訟を裁定し、敗訴した者すら納得させるほどの理に適った裁きで』、『名奉行と言えば誰もが勝重を連想した』。『三河国額田郡小美村』『に生まれ』、『幼少時に出家して浄土真宗の永安寺の僧となった。ところが』、永禄四(一五六一)年、『父の好重が深溝松平家の松平好景に仕えて善明提の戦いで戦死、さらに家督を継いだ弟・定重も』天正九(一五八一)年に『高天神城の戦いで戦死したため、徳川家康の命で家督を相続した』。『その後は主に施政面に従事し、天正十四年に『家康が浜松より駿府へ移った際には駿府町奉行』、同十八年『に家康が関東へ移封されると、武蔵国新座郡・豊島郡で』一千『石を給され、関東代官、江戸町奉行となる』、「関ヶ原の戦い」の後の慶長六(一六〇一)年、三河国三郡に六千六百石が与えられるとともに、『京都町奉行(後の京都所司代)に任命され、京都の治安維持と朝廷の掌握、さらに大坂城の豊臣家の監視に当たった。なお、勝重が徳川家光の乳母を公募し』、『春日局が公募に参加したという説がある』。慶長八年、『家康が征夷大将軍に就任して江戸幕府を開いた際に従五位下・伊賀守に叙任され』、同十四年『には近江国・山城国に領地を加増され』、一万六千六百『石余を知行、大名に列している。同年の猪熊事件では京都所司代として後陽成天皇と家康の意見調整を図って処分を決め、朝廷統制を強化した』。慶長一九(一六一四)年『からの大坂の陣の発端となった方広寺鐘銘事件では本多正純らと共に強硬策を上奏。大坂の陣後に江戸幕府が禁中並公家諸法度を施行すると、朝廷がその実施を怠りなく行うよう指導と監視に当たった』。元和六(一六二〇)年、『長男・重宗に京都所司代の職を譲った』とある(下線やぶちゃん)。但し、ウィキの「禁教令」によれば、江戸幕府(既に家康は隠居して慶長一〇(一六〇五)年四月一六日に秀忠が第二代将軍に就任している)は慶長十七年三月二一日(一六一二年四月二一日)に『江戸・京都・駿府を始めとする直轄地に対して教会の破壊と布教の禁止を命じた禁教令を布告』しはしたが、当初、『京都所司代であった板倉勝重はキリシタンには好意的で、そのため』、『京都には半ば黙認される形でキリシタンが多くいた』。しかし、秀忠は元和二(一六一六)年に「二港制限令」を、続けて元和五(一六一九)年に『改めて禁教令を出し、勝重はこれ以上黙認でき』なくなり、『キリシタンを牢屋へ入れた。勝重は秀忠のお目こぼしを得ようとしたが、逆に秀忠はキリシタンの処刑(火炙り)を直々に命じた。そして』同年十月六日、『市中引き回しの上』、『京都六条河原で』五十二『名が処刑される(京都の大殉教)。この』中には四人の『子供が含まれ、さらに妊婦も』一『人いた』とある通り(下線やぶちゃん)、勝重を非情残忍なる役人として見るのは誤りである。

「橋づめ」「橋詰」。

「ころひふく尺八竹の吉利支丹俵にまかれこもそふとなる」整序して示す。

 

 轉(ころ)び吹く尺八竹(しやくはちだけ)の吉利支丹俵(たはら)に卷かれ薦僧(こもさう)となる

 

「薦僧」は虚無僧(こむそう)の旧称。「轉び」は俵巻きにされて、ごろんと「転」がされて積み上げられたさまに、切支丹を棄教する「転ぶ」を掛けたもの。この俵巻き=菰(こも)巻きとそこで苦しさに呻く声から、行脚する薦僧(虚無僧:禅宗の一派である普化(ふけ)宗の僧)とその尺八の音を連想したものであろうが、こういう狂歌は正直、好きくない。

「そのうへをまたぎこし」「その上を跨ぎ越し」。踏絵の原型。

「五人組」江戸時代に領主の命令によって組織された隣保(りんぽ)制度。ウィキの「五人組(日本史)」より引く。『制度の起源は、古代律令制下の五保制(五保の制)といわれる。時代が流れ、慶長二(一五九七)年、『豊臣秀吉が治安維持のため、下級武士に五人組・農民に五人組を組織させた。江戸幕府もキリシタン禁制や浪人取締りのために秀吉の制度を継承し、さらに一般的な統治の末端組織として運用した』。『五人組制度は村では惣百姓、町では地主・家持を近隣ごとに五戸前後を一組として編成し、各組に組頭などと呼ばれる代表者を定めて名主・庄屋の統率下に組織化したものである。これは連帯責任・相互監察・相互扶助の単位であり、領主はこの組織を利用して治安維持・村(町)の中の争議の解決・年貢の確保・法令の伝達周知の徹底をはかった。また町村ごとに遵守する法令と組ごとの人別および各戸当主・村役人の連判を記した五人組帳という帳簿が作成された』とある。

「本尊の寺請狀」この「本尊」は菩提寺を指す「本寺」の誤記ではないか? 江戸幕府が宗教統制の一環として設けた寺請(てらうけ)制度。寺請証文(ここに出る「寺請狀」)を受けることを民衆に義務付けたが、これは特に禁制のキリシタン宗徒及び日蓮宗のファンダメンタリズムである不受不施派(日蓮が教義とした「法華経」を信仰しない者から布施を受けたり、法施などをしないという不受不施義を厳格に守った一派で、幕府から強い弾圧を受けていた。但し、幕閣や徳川家内部等にさえも秘かな信者がいた)でないことを菩提寺によって証明させることが主眼であったが、宗門人別改帳など、住民調査票の役割をも担った。

「所司代」この場合は代官のこと。

「せうすうす」ザビエルたちが、キリスト教の神を表わすのに用いていたラテン語「Deus」の音写「でうす」の転訛であろう(但し、本来のラテン語の「deus」は古代ローマの多神教の神々を表わす語である)。この部分は何だか非常に興味深い。切支丹でないことを、棄教した神の名に於いても(即ち、所謂、あらゆる切支丹の神の名の下に「私は切支丹の神ではない」とし、もし、それを信じていたならば、それらに邪神によっても罰せられるのだからという、驚天動地のパラドキシャルな書き方になっているからである。

「陰邊留野(インヘルノ)」ポルトガル語「Inferno」。地獄。魔界。

「らさけ」不詳。仏教でいう原型の「羅刹(らせつ)」、人を食うとされる悪鬼の転訛か(これは後に仏教に入って仏法の守護神となった)。識者の御教授を乞う。

「白癩(びやくらい)・黑癩」ハンセン病のこと。多様な皮膚変性症状を呈するハンセン病の一つの病態の古称。身体の一部或いは数ヶ所の皮膚が斑紋状に白くなる症状、黒く焼けたように見えるものを区別して呼んだ。ハンセン病は抗酸菌(マイコバクテリウム属Mycobacteriumに属する細菌の総称。他に結核菌・非結核性抗酸菌が属す)の一種であるらい菌(Mycobacterium leprae)の末梢神経細胞内寄生によって惹起される感染症。感染力は低いが、その外見上の組織病変が激しいことから、生きながらにキリスト教の煉獄や仏教の地獄などに落ちた救い難き者と見做され、洋の東西や宗教を問わず、「業病」「天刑病」という誤った認識・偏見が続いた。その中で、今現在まで不当な患者差別が行われてきている(一九九六年に悪法「らい予防法」が廃止されても、それは未だ終わっていない)。歴史的に差別感を強く纏った「癩病」という呼称の使用は当然、解消されるべきと私は考えるが、何故か、菌名の方は「らい菌」のままである。おかしなことだ。ハンセン菌でよい(但し私がいろいろな場面で再三申し上げてきたように言葉狩りをしても意識の変革なしに差別はなくならない)。]

「慶長十七壬子(みづのえね)」一六一二年。

「岡本大八」(?~慶長十七年三月二十一日(一六一二年四月二十一日))は徳川家康の側近で老中にもなった本多正純の重臣で、「岡本大八事件」で知られる(事件はかなり複雑なので、詳しくは以上のリンク先のウィキの記事を参照されたい)。ウィキの「岡本大八によれば、『江戸の与力である岡本八郎左衛門の子として生まれる。キリシタンでもあり、洗礼名はパウロという』。当初、『長崎奉行の長谷川藤広に仕えたが、やがて本多正純の家臣となった』。慶長一四(一六〇九)年、肥前日野江藩初代藩主有馬晴信が『長崎港外においてマードレ・デ・デウス号』(Madre de Deus)『を攻撃したとき(ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号(Nossa Senhora da Graça)『事件』)、晴信の監視役を務めた。ところが』、『大八は、この事件の際の恩賞を徳川家康に斡旋する』、『と偽って』、『多額の賄賂を晴信から受け取った。しかし、いつまでたっても恩賞の沙汰が無いことにしびれを切らした晴信が』、『正純と直談判したため』、『詐欺行為が発覚』、慶長一七(一六一二)年に晴信と直接対決が行なわれ』、大八は『駿府市中を引き回しの上、安倍川の河原で火あぶりの刑に処された』とある。しかし、この箇所、ちょっと不審である。大八の処刑時に、同時に切支丹信徒数百人が一緒に火炙りや磔に処せられたというのは、どうも納得がいかない。彼は切支丹であったが、彼の場合、罪科の主体は切支丹であったことよりも、収賄や詐欺の咎によるものだったのであり、彼を「はじめ數百人」の信徒が云々というのはおかしいと思うからである。サイト「家康公を学ぶ」のこちらによれば、家康によって『東海道は美しく整備され』、『街道を往来する旅人の中にはイギリス人の記録も残され』ており、そこにはしかし、『駿府で始まったキリシタン大弾圧によって、安倍川の河原に晒(さら)されたキリシタン信徒の処刑場の様子が記されて』おり、『そんな時期に徳川家康公の家臣であったキリシタン岡本大八の重大な犯罪が発覚し』、彼は『安倍川の処刑場で火刑に処せられた。岡本大八の上司であった原主水(はらもんど)もキリシタンであったことから、彼は両手の指を切られ、火印(焼印のこと)を額にあてられ』、『追放となった』(原は切支丹であったのに、ここでは死刑になっていないのである)。『藁科川右岸の牧ヶ谷の耕雲寺住職は、怪我をして空腹に苦しむ原主水を匿(かくま)っていたことが、駿府町奉行彦坂九兵衛の配下に発見され』、『住職も同罪として寺は廃寺となった。原主水は江戸送りとなって、江戸の鈴が森で処刑された(「徳川実記」)』とある。私はこの「老媼茶話」の「數百人」という数字は、別な日時の別な切支丹の処刑を含んでいるのではないかとも思うのである。識者の御教授を乞う。なお、原主水胤信(たねのぶ 天正一五(一五八七)年~元和九(一六二三)年)の凄絶な信仰人生はウィキの「胤信」を是非、参照されたい。

「引(ひき)さらし」「引き晒し」。

「尾張大納言義直」徳川家康の九男で尾張藩初代藩主(尾張徳川家始祖)徳川義直(慶長五(一六〇一)年~慶安三(一六五〇)年)

「かきのごとく」垣根の如く。

「逆樣(さかさま)」に「つるし置(おき)」。

「おとがひ」「頤」。あご。

「息絶(いきたえ)る」失神する。

「曾我又右衞門」曽我古祐(ひさすけ 天正一三(一五八五)年~万治元(一六五八)年)。奉行在任は 寛永一〇(一六三三)年から翌十一年と短い。

「嶽(だけ)の熱湯」不詳、というか、不審。隠岐に自然温泉や、融けたマグマの露出した火口なんぞは、今もないし、当時もない! 島前は確かに巨大なカルデラだけど、約五十万年前に終息してそのままんまやで、あんたぁ! 隠岐の「嶽」(「だけ」は私の推定読み)もよう判らん。これって、もしかして、隠岐の島前の西ノ島南部にある焼火山(たくひやま)って名前を勝手に活発な活火山と勘違いした噂話かなんかなんやないかいのぉ?

「あたりへよる」「邊りへ寄る」。

「ひしやく」「柄杓」。

「にへとけて」「煮え融けて」。

「熱湯のもとへあがり」の「あがり」は「あげさせ」でないとおかしい。

「うかみ」「浮かみ」。浮かんで。

「田薗」「田園」に同じい。

「奧州會津にても、藥師堂といふ所にて、切支丹の男女、引出(ひきいだ)して……こ以降の切支丹宗徒などの会津での処刑の話は既に「藥師堂の人魂」で語られており、処刑場である「藥師堂」の位置推理なども行っている。また、後掲される伴天連を二重壁の隠し部屋に匿っていた「横澤丹波」も、同じ章に「橫澤丹後」の名で登場しているので、そちらの本文及び私の注を参照されたい。

「わらわべ」ママ。「童(わらはべ)」。

「磔罪上天火罪明朗」底本の編者はルビを全く振っていないから、当然の如く、音読みせよということであろうから、「たくざいじゃうてんかざいめいらう」と読んでおく。磔刑はキリストと同じ、火炙りになっていないから「火罪」はよく判らぬ。というより、この二字は他本の校合によって追加したものであるから(その記号が底本にはある)、寧ろ、なしと考えてよいのではあるまいか? 何故なら、「藥師堂の人魂」ではこの台詞はシンプルに「死後には上天明朗」となっているからである。それなら、昇天の後には天国の永遠の晴明なる楽園に迎えられるという言葉として腑に落ちるからである。

「寛永十二年乙亥(きのとゐ)十二月廿日」一六三六年一月二十七日

「紙小(かみこ)ばた」「紙小旌」。紙で出来た小さな幟旗。通常は罪名を書くが、ここは最早、いるはずのない外国人宣教師(神父)であるから、逆にシンプルに「南無阿彌陀佛」の「六字の名號」を書いて彼の背に差し掛けさせたのである。

「こんだつ」先に注した「こんたつ」、ロザリオのこと。

「伴天連が着(ちやく)せし衣(い)ふく、よく伸縮(のびちぢ)みて、大人・小兒とともに能(よく)相叶(あひかな)へり」処刑人の着衣なので、賤民らに払い下されたか。それは驚くべき伸縮性を持った繊維で出来ており、大人が着ても、子供が着ても、孰れもきつかったり、だぶだぶだったりすることがなかった、ということとしか読めない。「伴天連」が主語でなく、日本人ではない不思議な人型の生物だったなら、これは今なら、宇宙人のスーツだ! という都市伝説になるところだ。

「加藤明成」複数回、既出既注。最初に出る猫魔怪の注を参照されたい。

「寶戸太郎作(はうどたろさく)」不詳。読みは私の勝手なもの。

「北方(きたかた)」現在の福島県喜多方市のこと。

「しひ付(つき)」「強い付く」。ぴたりとくっつくことか。

「髑骸(むくろ)」読みは私の推定。

「劉先生」不詳。出典の「暌事志(けいじし)」(読みは私の勝手なもの)自体が不詳なの「眞氣」真の正常なる陽気としての精気の謂いであろう。

「枯骨、かつは附して如此」この箇所底本は『枯骨かつは附して如此』で『勝は』の右には編者によって補正漢字として『合羽』と添えてあるのであるが、私が馬鹿なのか、この補正字の意味がまるで解らぬ(今までの述べて来ていないが、底本の「老媼茶話」の校訂者は高橋明彦氏)。寧ろ、私は、

――枯骨(ここつ)、且つは、伏(ふく)して、此(か)くの如し。

で、

――劉先生の健全なる陽気が強かった故に、陰気の籠った妖しい骸骨も、一度は立ち上ったものの、すぐに(同時に)、倒れ伏してしまって、かくの如くなったのである。

の意で読んだのだが?]

 

2018/02/04

老媼茶話拾遺 丸橋忠彌

 

     丸橋忠彌

 

 慶安四年辛卯(かのとう)七月廿三日夜、子の刻、今度の謀叛の頭人(とうにん)丸橋忠彌、召しとらるも、今宵、忠彌方へ徒黨の者、しのび來り、密事を談じける間、忠彌、酒を出しもてなしけるが、愛酒(あいしゆ)なりければ、忠彌、覺へず吞醉(のみゑひ)て、徒黨の者ども、歸りける跡にて、女房にかたりけるは、

「なんじ旬日ならずして貴人の夫人となり、翠帳紅閏(すいちやうかうけい)の内にして糸竹管弦に日を送らん。其折に、昔の賤しきになれて、水をつみ、薪をひさぎ、米をかしぎ、物がたり忘れても語り出し、かならず、數多(あまた)の官女に笑わるゝ事、なかれ。」

と心よげにたわむれて、傍(かたはら)なる枕、引(ひき)よせ、いびきをかひて臥したりしが、目を覺(さま)し起上(おきあが)り、妻に申樣、

「我、今、不思義の夢を見たり。我身、ほね、うごき、かわ、ぬけて、赤肉(あかにく)ばかりに成(なり)、供人、大勢、召連(めしつれ)、馬にのり、品川の海邊へ至り、しばらく納涼すと見たり。是は近きうち、日本國の大將軍と成(なる)べき天の告(つげ)なるべし。目出たし、目出たし。」

と、いふて、いつものふしどへ入(いり)、休(やすみ)けり。

 女房は、かねて、忠彌、目を覺(さま)し、喉を乾かし、茶をのむ事を知りければ、茶釜へ水をうつし、柴、折(をり)、くべて、にへたちけるに、釜のうちにて人の泣(なく)聲、有(あり)ければ、おどろき、かまの蓋をとり、内をみれば聞へける音とては、なし。

 忠彌母、老衰して蚊をいとひ、暮より早く紙帳(しちやう)をつりて、臥(ふし)ける。

 釣手、一同に切れ落(おち)て、紙帳、忠彌が母が伏したるうへに落かゝるに、その重き事、人のうへより押掛(おしかく)るがごとし。

 立(たた)んとすれども、起(おき)られず。聲をたつて、忠彌が女房をよびける。

 女房、いそぎ來(きたつ)て、紙帳を釣上(つりあげ)しに、釣手、切落(きれおつ)る事、三度也。

 扨、又、石谷將監(いしがやしやうげん)殿、忠彌が討手に向ひ給ひ、今日が究竟(くつきやう)の捕手(とりて)の同心五十人、其外、二百人の足輕を召連れて、忠彌が家【御茶の水といふ所也】二重三重に追取(おつとり)まき、てん手(で)に竹をわり、

「火事よ火事よ。」

と訇(ののし)りけるに、忠彌、寢耳に竹の割るゝを聞付(ききつけ)、起き直り、刀もとらず、東の障子をひらき、四方を見𢌞し、内へ入らんとする處を、一番のとり手駒込彌右衞門、走りかゝり、

「無手(むず)。」

と組(くむ)。

 忠彌、

「はつ。」

とおもひしが、彌右衞門が元首を取り、二、三間、突(つき)のくる。

 二番に、米村平六、透(すか)さず飛んでかゝりけるを、忠彌、こぶしを握り、橫山、忠彌が下手(したて)をくゞり、細腰を抱あげ、なげたをさん、とする。

 忠彌、元より、強力(がうりき)にて、橫山を押居(おしす)へんと力足(ちからあし)をふみけるが、すのこ緣(えん)、げた、ふみはなし、兩人、組(くみ)ながら、雨落(あまおち)へころびける。殘(のこり)の者ども、いやがうへに、なり重(かさな)り、忠彌を、手どり足どりして、高手小手(たかてこて)にいましめ、先(まづ)、かたわらへ引(ひき)すへける。

 此(この)橫山は、後、會津へ召(めし)かゝへられける、とか。

 忠彌が母、此騷動を聞(きき)、起上り、枕元の小長刀(こなぎなた)、追取(おつと)り、戸の口にたちふさがり、込入(いりこむ)足輕に立(たち)むかひ、とやかく問答する内に、忠彌が女房、紙帳を引(ひき)さき、連判帳をおしつゝみ、有明の灯(ともしび)をもつて、燒捨(やきすて)ける。

 忠彌が母、連判帳をやきけるを見て、長刀を投捨(なげすて)、我(われ)と、うしろへ手を𢌞し、しばられける。

 女房、色をも變せずして生捕(いけど)られける。

 忠彌下人、八藏といふ者あり。起合(おきあは)せ、隨分はたらきけるが、大勢にとりこめられ、終(つひ)に、からめられける。

 此(この)八藏は一國一城の大將分(たいしやうぶん)のものなりしが、正雪のはからひにて、所所(しよしよ)、密書の使(つかひ)をさせん爲(ため)、態(わざ)と、忠彌、下人になし置(おき)ける。

 忠彌をはじめ、四人の者ども、急ぎ、獄屋へ込置(こめおき)ける。

 忠彌が家内より出(いで)たるもの、鐵砲五挺、鑓三本、大きなる房付(ふさつき)團傘三本・但(ただし)揚(あげ)なし、五十枚程とぢたる白紙帳(はくしちゃう)一册、あり。

 其外は家さがしすれども、あやしきもの、みへず。

 かくて忠彌をは、松平伊豆守殿、獄屋へ、雜(ざふ)しきどもに申付(まうしつけ)られ、きびしく拷問にかけられけれども、終に一言の白狀に及ばず、伊豆守殿、下知として靑竹を割(わり)、皮をゆひし、是を籠に組(くみ)、忠彌をおし込(こみ)、左右に大の柱を立(たて)、上拔(ぬき)、くさりをもつて中につり上(あげ)、その下へ炭火を山の如くにおこし、雜人原(ざふにんばら)、四方より、大うちはにてあふぎたつる。折節、七月下旬、殘暑は天にこがるゝがごとくにて、只さへ、あつさ、たへがたきに、ほのう、うづまき上(のぼり)り、忠彌が形もみへず。忠彌、身よりしたゝる油、ほのうに和して、

『あび大焦熱のくるしみにもかくやあらん。』

と、みるもの、魂をうしなふといへども、忠彌は曾て物ともせず、黑煙(こくえん)内に折節、高高と念佛の聲、聞ふる斗(ばかり)也。

 信綱、役人に命じ、火をしめさせ、籠を下(おろ)し、水をたまふ。

 忠彌は、唯、眞黑になりて目斗(ばかり)働(はたらき)けるに、伊豆守殿、忠彌に向ひ、

「忠彌、さこそ、くるしかるべき。なんじ、逆徒のものども、殘らず白狀して、速(すみやか)に死を急ぐべし。然らずんば、たとへ年月ふるといふとも、彌(いよいよ)きびしく拷門にかくるべし。」

と、の給ふ。

 忠彌は、もくねんとして目をとぢ居たりけるが、此言葉を聞て、水を好みければ、伊豆守殿、手づから、錫(すず)の天目(てんもく)へ水をくみ、差出(さしだ)し給ふ。

 忠彌、つゝしんでおし戴き、水をのみ、天目をかたはらに置(おき)、畏(かしこまつ)て申けるは、

「我等如きの賤敷(いやしき)もの、此度(このたび)、謀叛の頭人に罷成(まかりなり)候はずは、いかで、當時天下の執權たる豆州(づしう)どの、御手づから、御給仕を得てみづを下さるべきや。此段、恐入(おそれいり)奉り候へば、曾(かつ)は冥土黃泉(めいどかうせん)の思ひ出に爲(な)し奉り候。又、逆徒のもの、御尋被成(なられ)候へども、此義は骨を碎(くだか)髓(ずい)を拔(ぬか)候とも、得(え)こそ申間敷(まうすまじく)候。ましてや、加樣(かやう)の責(せめ)ものゝ、數とも存(ぞんじ)候はず。天下の、あるとあらゆるせめを得て、其後(そののち)、牛裂(うしさき)に逢(あひ)候事、兼て存極(ぞんじきは)め罷在(まかりあり)候。謀叛存立(ぞんじたつる)五ヶ年の内、かたろふ所の者、四、五千人也。誰(たれ)か名を申上(まうしあぐ)べき。一僕(いちぼく)も遣わす罷在ながら、かゝる大望を存立(ぞんじたつ)る君子は刑人(けいじん)に近付不申(ちかづきまうさず)候。此已後、御尋候とも一言(いちごん)御答申上まじく候。流石、豆州公とも存奉らず、士に、ものゝ問(とひ)給(たまふ)こそあれ、御存被成(ごぞんじなされ)ざる。」

とて、其後、物言(いは)ず、あるとあらゆる拷問に懸られけれども、終に徒黨を顯さず。伊豆守殿、詮方なく、責(せめ)をさし置(おき)給ひける。

 忠彌、八月九日の朝、起(おき)て、役人に向ひ聞けるは、

「我が輩、近日、罪せらるべし。其沙汰、なきや。」

と云。

 役人、答(こたへ)て、

「何故に、かく尋(たづぬ)るや。」

と、いふ。

 忠彌、答て、

「我等、昨夜、夢に正雪來りて誘引(さそひ)、しらぬ山路を越(こゆ)る、と見たり。此故に、かくいふ也。」

と云果(いひはて)て、よく日、十日に鈴ケ森にて、此度の逆徒の者共、死刑に行れける。

 眞先に平味次郎右衞門・柴原彌五兵衞・同久兵衞・加藤市右衞門・岡野治右衞門・櫻井彦兵衞・同父三太夫・伊右衞門・淸兵衞・丸橋忠彌、以上、拾五人、跡より、柴原彌五兵衞母・龜之助【市右衞門子十五才也】・同辰之助・櫻井が母・忠彌母・同女房・淸兵衞母、其外、四人、名知れず、以上、十一人也。〆(しめ)て二十六人、磔(はりつけ)也。

 其外、七人、輕罪(けいざい)、徒黨の内、四十餘人、淺草にて刑罪(けいざい)也。

 磔に上(あげ)られ、忠彌が女房、母に向ひ問ひけるは、

「大坂落城の折、天守に火懸りて、淀殿御母子、御生害(ごしやうがい)の節も、我我、今、磔に懸られ、鳶烏(とびからす)の餌食(ゑじき)と成(なる)も、前世の宿業にて候半(さふらはん)。」

といふ。

 母、聞て、嘲(あざけ)りわらひ、

「本(もと)の儘なると、ならざると、天命也。忠彌、孤獨の牢人ものにて、天下に望みをかけ、今、斯成(かくなる)は人間の本望也。並並のもの、及ぶ所にあらず。大坂の名城へ龍り、天下の勢(ぜい)を引受(ひきうけ)、自害被成(なされ)しも、我我、此(この)磔柱(はりつけばしら)も、一事也。運命盡(つく)る期(ご)は是非に不及(およばず)。無益の事云(いは)ずとも、念佛、申(まうす)べし。」

と答へける間(あひだ)、詞(ことば)を留(とめ)、念佛申けると也。

 其頃の狂歌也。

  とろ龜と土龍は土にかくれても加藤はしんてふらふらとなる

  丸橋か蹈返へされて母親も妻もろともにしつみはてける

 會津の西に牛澤(うしざは)といふ在郷、有り。此(この)時に、大德寺といふ寺あり。延寶の頃、此寺の住職の僧、元江戸の人也。幼きころ、忠彌、刑罪せらるゝを、鈴ヶ森に行(ゆき)て見たるよし、坂下村安兵衞といふ者に語(かたり)給ひしと也。

「忠彌は眼(まな)ざし、さかつり、四角づらにて、なでつけ天窓(あたま)にて、能(よ)き男也。黑羽二重(くろはぶたへ)に丸の内にだき蝶のもん所付(つけ)し新敷(あたらしき)袷(あはせ)、着たり。唯、壱鎗(ひとやり)にて、息、たへける。」

と也。

「忠彌母と女房、問答も我は近寄(ちかより)見しに、見物、大勢にてのゝめく故、分けは聞(きこ)へざりしが、口はきゝける樣子也。足洗村、半右衞門といふ者は、血にまよひけるか、高聲に色色の口をきゝ、壱鎗每(ごと)に、念佛、申ける。」

と語られける也。

 此度(このたび)、正雪・忠彌を訴人しける奧村八郎右衞門、或とき、近くへ出(いで)て暮に歸りける折、正雪・忠彌が俤(おもかげ)、目のまへにありける樣にて、頻(しきり)に寒けだち、恐ろしかりければ、急ぎ、我宿へ歸(かへり)、伏したりしに、其夜の夢に忠彌妻女、短刀をもち來り、八郎右衞門が咽(のど)ぶへを突通(つきとほ)すと思ひしが、夢、覺(さめ)けり。是より、熱痛起り、頻に、

「忠彌、來(きたり)、我が胸を押(おさ)へ、妻女、短刀にて、わがのんどを突(つく)。」

と訇(ののし)りさけびけるが、一七日(ひとなぬか)過(すぎ)て、死しけり、といへり。此事、「望遠錄(まうゑんろく)」にもあり。

 

[やぶちゃん注:【 】は二行割注。先の「由井正雪」とも重複する箇所もあるが、カメラ・ワークが異なり、より丸橋忠弥とその女房と忠弥の母をクロース・アップして、全く、飽きさせない。

「慶安四年辛卯(かのとう)七月廿三日夜、子の刻」グレゴリオ暦一六五一年九月七日であるが、この「子の刻」は午前零時頃で、ここは後で「今宵」とも言い、前に「廿三日夜」として、しかも、「密事を談じ」、酒好き(「愛酒」)の忠弥が思わず呑み過ぎて酔っぱらって「徒黨の者ども」が「歸りける跡にて」であるのだから、ここは実は日付の変わった七月二十四日(一六五一年九月八)日の午前零時過ぎのシークエンスとなって、先の「由井正雪」で、駿河の梅屋の正雪が、その翌日の七月二十五日の曙の江戸の空の変異を見て占い、忠弥の捕縛を知った、とするのと齟齬はないドラマなら、タイトに詰めて後者を二十四日朝にするところだろうが、駿府城ジャック・テロ担当の正雪らが江戸を発ったのは七月二十二日で、紀州藩士を騙っての旅、その間に箱根の関所越えも間に挟んでいるから、二十四日に駿府着は逆に無理で不自然である。

「頭人(とうにん)丸橋忠彌」彼は、江戸城内への侵入によって起す騒擾、及び、二箇所の幕府火薬庫の爆破と、大名火消に変装して要人を無差別に狙撃して暗殺する江戸広域テロを担当した首魁である。

「翠帳紅閏(すいちやうかうけい)」夫唱婦随の翡翠を縫い取りした帳(とばり)を垂れ、鮮やかな紅色に彩り飾った貴婦人の閨(ねや)。

「内」底本本文は「ゆか」。編者の訂正の添え漢字を採用した。

「水をつみ」水を井戸から手ずから汲み揚げて持ってきてしまい。

「米をかしぎ」飯てづから炊いてしまい。

「物がたり忘れても語り出し」意味不明。底本は『物かたり忘れても語り出し』。或いは「物語(かた)り」乍ら、語ったことを「忘れて」、又「も語り出し」か。忠弥の妻が話し好きなのだが、忘れっぽい性質(たち)でもあって、同じことをたびたび彼に話したとすれば、この解釈はすこぶる腑に落ちるのである。

「たわむれて」ママ。

「いびきをかひて」ママ。「鼾をかき(い)て」。

「我身、ほねうごき、かわ、ぬけて、赤肉(あかにく)ばかりに成(なり)、供人、大勢、召連(めしつれ)、馬にのり、品川の海邊へ至り、しばらく納涼すと見たり」これは逆に恐るべき不吉な大凶の予知夢であったわけだ。彼が処刑される鈴ヶ森刑場は現在の東京都品川区南大井(ここ(グーグル・マップ・データ))にあり、それは「品川の海邊」である。「ほね、うごき、かわ」(ママ)「ぬけて」は、「骨」がぐらぐらと「動」くほどに激しい殴打で骨折をすること、「皮」膚がべろりと「脱けて」しまうような火傷を負わされること、真っ「赤」な「肉」の塊りのようになるというのは、それらに加えて以下に見るようなありとある残酷な拷問を受けた結果の、彼の惨たらしい全身の赤剝けた肉の塊りをこそ暗示させる。さすればこそ「大勢」の「供人」とは、後に出てくる、彼に、ありとある責めを加える多くの「雜(ざふ)しき」「雜人(ざふにん)」(下役人)に他ならない。そうして、そこで暫く「納涼す」るのは、彼が阿鼻叫喚地獄・焦熱地獄もかくやと人の見た、秋とは暦の上だけのこと、残暑厳しき折りから受けることとなる、残酷な炭火燻(いぶ)しの火刑の逆説的シンボルであったのである。

「ふしど」「臥所」。

「にへたちける」ママ。「煮え立ちける」。

「釜のうちにて人の泣(なく)聲、有(あり)ければ、おどろき、かまの蓋をとり、内をみれば聞へける音とては、なし」湯の沸いた音の聞き違えともとれるが、寧ろ、作者はこの直後に訪れるカタストロフを予兆させる怪異として確信犯でセットしているものと感ずる。

「紙帳(しちやう)」紙を貼り合わせて作った蚊帳(かや)。冬季でも防寒具として用いた。「釣手、一同に切れ落(おち)て、紙帳、忠彌が母が伏したるうへに落かゝるに、その重き事、人のうへより押掛(おしかく)るがごとし」「女房、いそぎ來(きたつ)て、紙帳を釣上(つりあげ)しに、釣手、切落(きれおつ)る事、三度也」これも同じく凶事(まがごと)の前の怪異として配してある。筆者の怪談に慣れた手並みが非常に効果的に生きていると言える。

「石谷將監(いしがやしやうげん)」既出既注

「究竟(くつきやう)」「くきやう(くきょう)」と読んでもよい。元は仏語で「物事の最後に行きつくところ・無上・終極」であるが、ここは選りすぐりの極めて屈強(くっきょうな「捕手(とりて)の同心五十人」ということで、私はそれも掛けてあるように読んだ。

「駒込彌右衞門」先の「由井正雪」では「間込彌右衞門」。しかし、こういう相違を、当時は作者も読者も殆んど五月蠅く言わなかったのだろうなあ、と、江戸時代の怪奇談や随筆を読んでいると、しみじみに思う今日この頃である。

「二、三間」三メートル半強から五メートル半弱。

「米村平六」不詳。

「なげたをさん」ママ。「投げ倒(たふ)さん」。

「橫山」突然、出てくる姓。しかも、底本でも独立改行一行で彼のことだけ、「此橫山は後會津へ召かゝへられけるとか」と出るのが、却って異様。しかも調べたって、別に偉くなった有名人でもないようで不詳である。

「八藏」不詳。

「團傘」「揚(あげ)なし」全く意味不詳。識者の御教授を乞う。

五十枚程とぢたる白紙帳(はくしちゃう)一册、あり。

「松平伊豆守」松平伊豆守信綱。既出既注

「皮をゆひし」底本は『ゆへし』。編者の添え訂正字で直したが、これでも何となく、おかしい。割った青竹を組み、それを「革を」以って「結」ったという意でとっておく。

「大うちはにてあふぎたつる」「大團扇にて煽ぐ立つる」。

「天にこがるゝがごとくにて」中天に太陽が焦げるかのようにギラギラと輝いているようで。

「ほのう」底本では『ほなう』。編者の補正字で直したが、それでもおかしい。「炎(ほのほ)」である。

「みるもの、魂をうしなふといへども」ここはなかなか痛烈な部分である。これを見ているのは、拷問している奉行・同心と奉行所の下役人らのみだからである。自分たちのやっている拷問の酷さに失神しそうだというのである。さればこそ、テロリストであるけれども、この後の丸橋忠弥の毅然たる態度に、読者は(少なくとも私は)強く惹かれるのである。

「しめさせ」「閉めさせ」「〆させ」「濕させ」か。

「もくねん」「默念」「默然」。凝ッと黙って何か考えている風。

「天目(てんもく)」ここは単に茶碗の意。

「得(え)こそ」「得」は当て字であろう。禁止の呼応の副詞「え」(~打消)であろう。

「誰(たれ)か名を申上(まうしあぐ)べき」反語。

「一僕(いちぼく)も遣わす罷在ながら、かゝる大望を存立(ぞんじたつ)る君子は刑人(けいじん)に近付不申(ちかづきまうさず)候。此已後、御尋候とも一言(いちごん)御答申上まじく候。流石、豆州公とも存奉らず、士に、ものゝ問(とひ)給(たまふ)こそあれ、御存被成(ごぞんじなられ)ざる」意味がよく判らぬ。「ものゝ問給こそあれ、」は底本では「ものゝ問給こそあれ。」であるが、私は「こそ」(已然形、……)の逆説用法ととった。一つ、無理矢理、訳してみるなら、

――貴方が知りたがっておられる、我等の首領は、下僕の一人をも、拙者のところに遣わすことはごく稀にには御座ったものの、このような変革の大望を心にしっかりとお持ちの君子たる人物は、凡そ、拙者のような、もともとのかくなる前科者(或いはこうして捕えられて拷問を受けている今の罪人としての自分)には、そもそも気軽に近寄ってきて、頻繁に接触するようなことは致さぬものにて御座る。これ以後は、あなたさまが如何にお訊ねになられたとしても、一言もお答え申し上ぐることは致さぬことと致しましょう。それにしても、流石に、松平伊豆守様とは存じ上げませず、私のような男に、かくも直(じか)に親しくものをお訊ねになられましたけれども、あなたさまは、どのような「男」であるか御存じには遂になれませぬ……

或意は最後は、「その頭目について、あなたは遂にお知りになることは出来ませぬ」という意味かも知れぬなどと、妄想訳した。全く自信はない。大方の御叱正と、正しい訳の御教授を切に乞うものである。

「眞先に」「由井正雪」では忠弥が引き回しの際の先頭だったが、ここは実際の鈴ヶ森での処刑の順序を言っているのであろうか。一応、そうとっておく。

「平味次郎右衞門」不詳。

「柴原彌五兵衞・同久兵衞」ともに不詳。

「加藤市右衞門」丸橋忠弥の妻の従兄という(山下昌也氏の「実録 江戸の悪党」(二〇一〇年学研刊)に拠る)。後の「龜之助【市右衞門子十五才也】・同辰之助」の二人はその叙述から彼の子となる。

「岡野治右衞門」不詳。

「櫻井彦兵衞・同父三太夫」ともに不詳。

「伊右衞門」現在の静岡県安倍郡千代田村大字下足洗の豪農足洗半左衛門の婿か。個人サイト「街角 歴史散歩」の悲運の豪農・足洗半左衛門~由比正雪事件~」に拠る。それによれば『幕府の老中指令は厳しく、「半左衛門、婿の伊右衛門とそれぞれの女房は磔、男子は斬罪、女房の腹にいて男子が生まれれば斬罪、娘なら卑しい身分に落とせ」という過酷なもの』だったとある(「慶安大平記」によるものとある)。ここには出ないが、本章の最後で「足洗村、半右衞門」が出、丸橋と一緒に処刑されていることが判る

「淸兵衞」不詳。

「丸橋忠彌、以上、拾五人」前に書かれた人名は十人分しかいないですけど(五人の内の一人は後に出る先に示した足洗村の半右衞門だ)。

「淺草にて刑罪(けいざい)也」明確に断言は出来ないが、小塚原刑場のことではないかと思う(何故、留保するかというと、同刑場の解説はまさにこの慶安四(一六五一)年のことだからである)。千住大橋南側の旧小塚原町(こづかはらまち)にあり、現在の東京都荒川区南千住二丁目に相当する。(グーグル・マップ・データ)。地図を見て戴ければ判る通り、今でこそ地名は千住であるが、浅草寺の裏(北)一・五キロメートしか離れていない。

「本(もと)の儘なると、ならざると、天命也」底本は『殊のなるとならさると本命也』。編者の補訂添え漢字で訂した。なお、「由井正雪」では人物として妻の影に隠れていた、この忠弥の母、ここでは俄然、強烈なキャラクターとしてクロース・アップされ、妻が後退している(捕縛された際も、長刀を持って捕り手の前に立ちはだかったりして、このお母さん、強い!)。

「とろ龜と土龍は土にかくれても加藤はしんてふらふらとなる」整序する。

 

 泥龜(どろがめ)と土龍(もぐら)は土に隱(かく)れても加藤は死んでふらふらとなる

 

「絵本慶安太平記」を読むと、彼は京都で捕縛されているが、剛勇の彼は不覚にも睾丸を摑まれて『眼眩みて跼々(よろめく)』ところを搦め捕られている。下の句はそれを指していよう。それ以外にも、「龜」や「土龍」に何か隠れた意味があるようだが、判らぬ。ふと思ったのは、徳川南「龍」公頼宣(南海の伏龍)が関与したが、辛くも追及を免れたのを土竜(もぐら)に掛けているとかどうだろう? しかしだとすると、「龜」も黒幕の誰かでないとおかしいことになる。判らん。

「丸橋か蹈返へされて母親も妻もろともにしつみはてける」整序する。

 

 丸橋が蹈み返へされて母親も妻もろともに沈み果てける

 

「丸橋」を、まんま、橋に掛けただけの、つまらぬもの。橋板が踏み返された結果、橋に穴が開き、母も妻もそこから諸共に奈落の水底(みなそこ)へと沈み果ててしまったというだけのことだろう。これは裏はなさそうだ。

「牛澤」後に「坂下村」が出るから、現在の会津若松の西方の福島県河沼郡会津坂下町牛川に曹洞宗大徳寺であろう。位置はを参照されたい。

「延寶」一六七三年から一六八一年まで。

「さかつり」逆吊り。目尻が吊り上っていることであろう。

「なでつけ天窓(あたま)」総髪(そうはつ)のことか。月代(さかやき)を剃らずに、前髪を後ろに撫でつけて、髪を後ろで引き結ぶか、髷を作ったもの。江戸前期では神官・学者・医師などの髪型として知られる。

「丸の内にだき蝶のもん所」「だき蝶」は「抱き蝶」○に「向かい蝶」辺りの紋か。を参照されたい。

「奧村八郎右衞門」既出既注。こいつは死なないと確かに気分が悪い。

「熱痛起り」「痛」は衍字かも知れぬ。しかし、あっても問題はない。

「望遠錄(まうゑんろく)」全く不詳。識者の御教授を乞う。]

 

老媼茶話拾遺 由井正雪、丸橋忠彌が謀叛

 

     由井正雪、丸橋忠彌が謀叛

 

 人皇百十一代後光明院、慶安四年四月也。楠正雪、駿河へおもむく折に、鈴ヶ森にてしばらく休息して、

 

 門出に鑓の穗先は尾花かな   正雪

 秋にふるれは鳴鈴ヶ森     郭然

 月のこり二千里の外年のうち  鵜野九郎兵衞

 

 由井正雪は元駿河府中紺屋次郎右衞門といふものゝ子にて、はじめ久米、後(のちに)、與四郎と云。由井正雪最期の後、旅行の荷札に、紀伊の家中の士の樣に書付けるうへ、紀伊大納言賴宣卿御判形(ごはんぎやう)あるあいだ、酒井讚岐守、賴宣卿へ參上、直(ぢき)に御判の事を申上、

「此書は謀書(ぼうしよ)にてもこそ候はめ。御墨色、大に違ひ申候。加樣の反古(ほご)、燒捨(やきすて)て能(よく)候。」

とて、卽座に引破(ひきやぶり)、火にくべ、其後、申上(まうしあげ)けるは、

「御判形などは、御身近く召し仕わるゝ人々に、御油斷被成(なされ)ざる事、肝要に候。」

と申上ける。

 賴宣、仰(おほせ)けるは、

「此判形、いささか、覺へなし。然(しかれ)ども、判形あるうへは、貴殿申さるゝ通り、向後(きやうこう)、油斷なりがたし。」

と、御小性(こしやう)中(ちゆう)の語合(かたりあひ)居たる邊(あたり)をみやり給ひけるに、加納何某(なにがし)とかや申(まうす)若輩成(なる)人、御緣先へ立(たつ)よ、とみへしかば、御目通りにて腹切(はらきり)てぞ失(うせ)にける。

 此人、知りたるにあらざれとも、主君の御難を身に引受(ひきうけ)、腹切て死にけるとぞ。

 賴宣卿御代は、其(その)子ありけるをば、熊野のおくにさし置(おか)れ、對山大納言殿に召出(めしいださ)れ、段々、立身し、加納平次右衞門と申(まうし)ける也。

 紀伊大納言賴宣卿、東照宮の十男君也。

 御心、甚(はなはだ)たくましくして、友嶋遊獵(ゆうりやう)の節は、御腰をかけられし休息、動出(うごきいで)、龍のごとき者、あらわれける。志津(しづ)の長刀(なぎなた)、蛇の頭(かしら)へ差當(さしあ)て、

「山神(せんじん)、伏木(ふしき)と變じ給ふらん。動き給はゞ、忽ち、刺殺(さしころし)申(まうす)ぞ。」

と、いわせ怒らせ給へば、元の朽木(くちき)と成(なり)し、といへり。

 その日、大雨洪水(たいうこうずい)にて、御鷹野に成(なり)かねければ、海上三里、うごきければ、こぎもどりしに、雷、御舟へ落(おち)ける。

 火の玉、御座近くころび來(きた)るを、毛氈(もうせん)をなげ、

「夫(それ)、手どりにせよ。」

と御下知也。

 御近習の何某、爰かしこ、おさへ取らんとするに、其手の下より拔出(ぬけいで)、天へのぼる。

 此(これ)、火の玉にて、水主(すいしゆ)五、六人、みぢんに成(なり)、骨(ほね)迄、碎(くだけ)たり。

 寛文年中、遠江國渡りにて、御船(おふね)を卷上げ、茶臼のまはす如く、海上、荒(あれ)けるに、平生の御顏色にて、事ともし給はざるとかや。

 寛文十一年正月十日、御逝去也。紀州鴨谷(かもだに)に葬りて、南龍院殿(なんりゆういんでん)と號し奉る。七十歳とかや。御兄弟十一人の内、長壽尤(もつとも)ましましける。御歌に、

 

  思ふ事一かなへは又二かしの世や

 

[やぶちゃん注:慶安の変絡みの逸話と事後談から、同事件で関与が疑われた徳川頼宣(慶長七(一六〇二)年~寛文一一(一六七一)年:徳川家康十男。紀州徳川家祖。常陸国水戸藩・駿河国駿府藩を経て。元和五(一六一九)年に紀伊国和歌山藩五十五万五千石に転封、藩主となった(数え十八)。慶安の変(慶安四(一六五一)年四月から七月)当時は満四十九歳。徳川家康直系の長老の生き残りで、ここのエピソードにも出る通り、性格的にも戦国武将的な一面を持っており、幕府にとっては煙たい存在であった。そこに由井正雪の遺品から頼宣の印判を偽造した文書が出てきたことから、幕閣(特に松平信綱・中根正盛ら)に謀反の疑いをかけられ、十年もの間、江戸に留め置かれて、紀州へは帰国出来なかった)の本件の逸話から、慶安の変とは無関係な彼の怪奇武勇伝にスライドして、やや「老媼茶話」の怪奇談の面影を示す。発句和歌の前後は一行空けた。

「人皇百十一代後光明院」後光明天皇(寛永一〇(一六三三)年~承応三(一六五四)年/在位:寛永二〇(一六四三)年~承応三年)は現在は第百十代天皇とする。これは、明治以前、神功皇后を第十五代の帝として数えた史書が多かったことによるものであろう。

「門出に鑓の穗先は尾花かな」整序して示す。

 

 門出(かどいで)に鑓(やり)の穗先は尾花(をばな)かな

 

正雪が駿府城ジャックのために江戸を出立したのは、前に出た通り、慶安四年七月二十一日、グレゴリオ暦では一六五一年九月五日で既に秋であった。

「秋にふるれは鳴鈴ケ森」整序して示す。

 

 秋にふるれば鳴る鈴ヶ森(すずがもり)

 

「ふる」は「経る」(時が経って決起の時となる)と「鈴ヶ森」の鈴に「触る」、及び、鈴を「振る」に掛け、恐らくは決起に「奮(ふる)ひ立つ」の「奮ふ」や「武者震ひ」の「震ふ」にも掛けていよう。しかし、ここ鈴ヶ森に、まさにこの僅か十九日後に、丸橋忠弥一党が磔にされることまでは思い至らなかったわけである。

「郭然」前章では「郭善」と出る。正雪一味であった正体不明の巨魁の怪僧。正雪の介錯役を成して後、同時に自害したものと思われる。

「月のこり二千里の外年のうち」整序して示す。

 

 月殘り二千里の外(ほか)年の内

 

何時も非常にお世話になっているかわうそ氏の「暦のページ」で当日の月没時刻を調べると、十一時六分である。「二千里の外(ほか)」は恐らくは日本国全土、帝のしろしめす国土を謂い、「年の内」には現政権を打ち亡ぼし、新たな御代が到来することを言祝いだ予祝の意味が込められていよう。

「鵜野九郎兵衞」既出既注。正雪門人の中でも高弟で大将格。

「由井正雪は元駿河府中紺屋次郎右衞門といふものゝ子にて、はじめ久米、後(のちに)、與四郎と云」ウィキの「由井正雪」によれば、『出自については諸説あり、江戸幕府の公式文書では、駿府宮ケ崎の岡村弥右衛門の子としている。『姓氏』(丹羽基二著、樋口清之監修)には、坂東平氏三浦氏の庶家とある。出身地については駿府宮ケ崎町との説もある』。『河竹黙阿弥の歌舞伎『樟紀流花見幕張』(慶安太平記)では』慶長一〇(一六〇五)年、『駿河国由井(現在の静岡県静岡市清水区由比)において紺屋・吉岡治右衛門の子として生まれたという。治右衛門は尾張国中村生まれの百姓で、同郷である豊臣秀吉との縁で大坂天満橋へ移り、染物業を営み、関ヶ原の戦いにおいて石田三成に徴集され、戦後に由比村に移住して紺屋になる。治右衛門の妻がある日、武田信玄が転生した子を宿すと予言された霊夢を見て、生まれた子が正雪であるという』。十七『歳で江戸の親類のもとに奉公へ出た。軍学者の楠木正辰の弟子となり軍学を学び、才をみこまれてその娘と結婚し婿養子となった』。『「楠木正雪」あるいは楠木氏の本姓の伊予橘氏(越智姓)から「由井民部之助橘正雪」(ゆいかきべのすけたちばなのしょうせつ/まさゆき)と名のり、神田連雀町の長屋において楠木正辰の南木流を継承した軍学塾「張孔堂」を開いた。塾名は、中国の名軍師と言われる張子房と諸葛孔明に由来している。道場は評判となり』、『一時は』三千『人もの門下生を抱え、その中には諸大名の家臣や旗本も多く含まれていた』とある。

「酒井讚岐守」老中酒井忠勝(天正一五(一五八七)年~寛文二(一六六二)年)。武蔵川越藩第二代藩主で、後に若狭小浜藩初代藩主。家光から次代の家綱時代の老中・大老。寛永元(一六二四)年十一月に土井利勝とともに本丸年寄(老中)となり、寛永一五(一六三八)年十一月に土井利勝とともに老中を罷免されて、大事を議する日のみの登城を命ぜられ、これが後の「大老」職の起こりとなった。

「判形」書き判。花押。

「謀書」偽造文書。但し、徳川頼宣の慶安の変への加担或いは彼こそが影の首謀者だったとする小説的仮説を好む者は現在でも多く、その手の小説類で以下の小姓切腹に一件も完璧な事実であるかのように、かなり流布している

「加納何某(なにがし)」不詳。この話は「徳川実紀」(幕府編纂になる徳川家の歴史書。五百十六巻。林述斎の監修のもと、文化六(一八〇九)年に着手し、嘉永二(一八四九)年完成)などに載るが、私はやや不審を感じる。さらに言えば、頼宣の信頼厚かった紀州藩家老に加納直恒(慶長五(一六〇〇)年~貞享元(一六八四)年)がいる。彼はウィキの「加納直恒」によれば、『上総に生まれ』、慶長一五(一六一〇)年、『母の姉佐阿が駿府城大奥で徳川家康の侍女を務めていた縁で、家康に小姓として召し出され』、二百『石を賜る。母の兄・加納久利の猶子として加納氏を称した』(同ウィキの注に『加納氏は、松平泰親の庶子久親の子孫で、後に、主君と同じ松平の苗字を称することを憚り、代々居住する加納を称した。また故あって、氏も藤原氏に改めた』ともある)。翌年、『上洛して二条城で家康と会見した豊臣秀頼への答礼の使者として、大坂城に赴く徳川義直、頼将(頼宣)兄弟の供をする。慶長二十年の『大坂夏の陣の際に、家康、義直、頼宣の供をして出陣。後に、頼宣付きの家臣となり』、元和五(一六一九)年、『駿河で加増を受け知行』三百『石。頼宣の紀州入りに従』って、翌年には『加増を受け、知行』二千『石』、六十『人の与力鉄砲同心を預かる。』寛永二〇(一六四三)年に大番頭、万治二(一六五九)年、『年寄列に加わる』。寛文七(一六六七)年には隠居して家督を嫡男政直に譲っているが、「慶安の変」は彼の勤仕中の出来事である。しかもウィキには、『軍学者・由井正雪が、家老・渡辺直綱を介して紀州藩に仕官を求めた際に、直綱が仕官の希望を頼宣に話したところ、直恒と協議するようにとのことで、直綱に意見を問うと、猛反対したため仕官は見送られた。後に、正雪が慶安の変を引き起こすと、「仕官を反対したのは、このようなことを懸念したからであり、反対したのは一世一代の忠勤であった」と語った』(下線やぶちゃん)と「加納五郎左衛門行状記」からとして記してまであるのである。ここに出る「加納某」は頼宣の小姓であり、主君への疑いを晴らさんがためだけに(由井正雪とは何の関係もないのに)、ただ黙って腹を切った(と筆者は考えている)とすれば、タダモノではない。とすれば、この加納直恒所縁の縁者であると考えるのが至極当然と私は思うのであるが、そんな話はどこにも出て来ない。だから不審なのである。

「御目通りにて」主君頼宣及び酒井忠勝ら貴人の御前にての意。

にて腹切(はらきり)てぞ失(うせ)にける。

「知りたるにあらざれとも」正雪との一味同心や公文書偽造に関わったわけではさらさらなかったのであるけれども、の意。

「對山大納言」「たいざんのだいなごん」と読んでおく。頼宣の長男で紀州藩第二代藩主徳川光貞(寛永三(一六二七)年~宝永二(一七〇五)年)のこと。言わずもがな、後の第八代将軍吉宗の父。「對山」は元禄一五(一七〇二)年に出家した後の号。法号も「淸溪院殿二品前亞相源泉尊義對山大居士」。

「加納平次右衞門」だからね、不審だって言うわけよ! 先に注した加納直恒は引用した通り、寛文七(一六六七)年(七月十五日)に隠居して家督を嫡男政直に譲って、それから十七年も悠々自適に生き、貞享元(一六八四)年十月四日に享年八十五で亡くなっているのだが、その息子加納大隅守政直(元和八(一六二二)年~正徳五(一七一六)年)は無論、紀州藩家老となったわけで、その通称は平次右衛門だぜ?! ウィキの「加納政直」によれば、慶安二(一六四九)年、数え二十八歳の時に『部屋住みで召し出され』、『大番与頭となり』、『名を平次右衛門と改める』。寛文七(一六六七)年七月、『父直恒の隠居により』、『家督と知行』二千『を相続し、家老となる』(直後に二千石加増で知行四千石)。貞享元(一六八四)年十月には、『生まれた藩主・光貞の四男・源六(後の徳川吉宗)を預けられ、屋敷で』五『歳まで養育』している。元禄一二(一六九九)年に隠居し、『家督を嫡男政信に譲』った。享年は九十四。『次男・久通は、本家・加納久政の養子となり』、『家督相続、吉宗に仕え、吉宗の徳川宗家相続に伴い、江戸に移り、旗本として仕え』、享保一一(一七二六)年『には大名に列し、伊勢八田藩初代藩主とな』っている、というわけよ。ここに出る加納本家というのも相応に紀州藩で幅を利かしていたんだろう。されば、腹切りした小姓加納某はその本家筋かぁ? それにしちゃ、どうにもこうにも俺にはコンガラガッちまってキモチワルイんだけど? 誰か、キモチヨク、俺に説明してクンナイかなぁ?

「友嶋」友ヶ島(ともがしま)。和歌山と淡路島の狭隘する紀淡海峡(友ヶ島水道)に浮かぶ、現在の和歌山県和歌山市加太(かだ)に属する無人島群の総称。地ノ島・神島・沖ノ島・虎島(沖ノ島北東部に連なる陸繋島)でから成る。ウィキの「友ヶ島」によれば、『江戸時代において、紀州藩の藩主であった徳川頼宣の命令を受けた紀州藩の蘭学者、李 梅渓(り ばいけい)が虎島内に葛城修験道における』五『つの「行場」を書いた文字を彫った。これを「五所の額」という。現在もその跡が残っている。なお、修験道の山伏修行では今でも虎島にあるこれらの行場へ向かい、断崖絶壁の崖を上り下りして修業を行なう』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「御腰をかけられし休息、動出」何だか、おかしい。後で「元の朽木と成し」とあるのだから、「御腰をかけ、休息せられし古木、動き出で」あたりであろうか。

「龍のごとき者」頼宣は自身を「南龍」と号し、神号も「南龍大神」、法号も「南龍院殿從二位前亞相顗永(がいえい)天晃大居士」で、世間でも「南龍公」と呼び、「南海の臥龍(がりょう)」と評した者もいるらしいから、如何にもハマり過ぎたエピソードである。

「志津の長刀」鎌倉期の刀工で正宗十哲の一人とされる志津三郎兼氏の作(伝)の長刀。因みに、近世長刀術の一流派に「静流(しずかりゅう)」と称するものがあり、この名は流祖を源義経の愛妾静御前に仮託する説がある一方、使用する長刀の形式がこの志津三郎作の小反刃(こぞりば)長刀に由来するとする(志津ヶ流)説があるというから、長刀の名刀としては知られたものであったようだ。

「蛇」友ヶ島群には蝮(マムシ)を始めとする蛇類が多く棲息することが、ウィキの「友ヶ島」から判る。

「山神(せんじん)」この読みは底本の編者ルビに従ったが、何故、「せんじん」なのかはよく判らぬ。私は「さんじん」でもよかろうとは思う。

「大雨洪水(たいうこうずい)にて」ということはそれはやはり、そんじょそこらのちょっとした妖蛇の怪だったのではなく、伏龍だったということになるわな。

「御鷹野」御鷹狩りと同義。

「海上三里、うごきければ」海上は十二キロ四方が激しく波立って時化たので、の意でとっておく。因みに、沖ノ島から直進すると、和歌山の港までは十四キロメートルほどある。

「毛氈(もうせん)」獣毛に湿気・熱・圧力・摩擦を加え、繊維を密着させて織物のようにしたもの。幅広で敷物に用いる。

「手どり」取り押さえること。

「水主(すいしゆ)」水主(かこ)。船頭や漕ぎ手。

「みぢん」「微塵」。球電(プラズマ)か。

「寛文」一六六一年~一六七三年。但し、以下にある通り、「寛文十一年正月十日」に亡くなっている。寛文は十三年まで。元年なら、満で五十九歳。

「紀州鴨谷(かもだに)」この地名は不詳だが、頼宣の墓所は現在の和歌山県海南市下津町にある天台宗慶徳山長保寺で、ここには紀州藩主紀州徳川家歴代(但し、第五代吉宗(後の第八代将軍)と第十三代慶福(よしとみ:後の第十四代将軍家茂)の墓は東京)の墓所である。ここの旧地名は紀伊国海部郡浜中荘上村で、「鴨」も「谷」も関係ないが?

「思ふ事一かなへは又二かしの世や」整序すると、

 

 思ふ事一ツ叶(かな)へば又二ツ三ツ四ツ五ツ六ツかしの世や

 

であるが、これは頼宣のものではない(戯れ歌として好んで口ずさんだことはあり得るかも知れぬ)。所謂、諺・教訓(特に坊主が宗派を問わず好むようだ)風の狂歌で、ネットを探ると、

 

 世の中に一つ叶えばまた二つ三つ四つ五つ六つかしの世や

 物事は一つ叶えばまた二つ三つ四つ五つ六つかしの世や

 憂きことの一つ二つもあらばこそ三つ四つ五つむつかしの世や

 

のヴァリエーションが腐るほど、見つかる。最後のものは、十六世紀の興福寺の僧の日記に出ると、興福寺貫首多川俊映氏の「心に響く99の言葉 東洋の風韻」(二〇〇八ダイヤモンド社刊)にあり、この手のものでは古いものの一つであろう。思うことの一つも叶えばこの世は幸せだろう。一つも叶うことなく死んでいった人々はさわにいる。こんなことをうそぶく宗教人というのは私の最も嫌う輩だ。]

 

2018/02/03

芥川龍之介 手帳12 《12-4》

《12-4》

○内外經驗の差

○紺蛇目傘をもれる光とおしろいをつけた顏

〇二枚爪のはへた如く不安

○耳に水のはいつたやうなもどかしさ

○磨く物もない石白をひく

○陶器のやうな白眼

○心は鼠花火の如く𢌞轉した

○卷莨の灰がいつ迄長くたまつたやうな不安

○キスしてさうして敷物のすみをなほす

○菊のやうな白さ

○雨と机の上のカルタ

[やぶちゃん注:通常人が見れば、これは芥川龍之介の試験的な表現集のように見えるであろうし、私もまずそれを考えはする。しかし、私のように自由律俳句の句作経験を経て来た者には、最初の「内外經驗の差」以外総てが、恰も芥川龍之介が作った自由律俳句のように受け取れるのである。自由律俳句とした時の句の間の空け方を試み示すなら、

 

紺蛇目傘(こんじやのめがさ)を/もれる光と//おしろいをつけた顏

二枚/爪のはへた如く//不安

耳に/水のはいつたやうな//もどかしさ

磨く物もない//石白をひく 〈★〉

卷莨(まきたばこ)の灰が/長くたまつたやうな//不安

キスして/さうして/敷物のすみを/なほす 〈★〉

菊のやうな白さ

雨と//机の上の/カルタ 〈★〉

 

前にも述べたが、芥川龍之介に兄事した作家滝井孝作は『層雲』の俳人でもあったし、芥川龍之介も多少、新傾向俳句に色気があり、有意な破調は勿論、明らかなや新傾向(書簡中に一時期、頻繁に出ており、それは破調ではなく、明確に新傾向俳句として創作していることを周囲の友人や自分が確信犯として認識しているケースもある)とはっきりと断じ得る句も実際にある。但し、少なくとも、俳句として公にしたものや、書簡で自信を以って複数の親しい知人に示している句の中には自由律のものは見当たらない。しかし、層雲系に限らず、自由律俳句は大正期と昭和初期(特に顕著なのはプロレタリア俳句運動の一グループの中で)には、定型俳句を圧倒するほどに流行ったから、芥川龍之介が全く無関心であったことは、寧ろ、不自然であり、自身のメモ帳の中で、『俺なら例えばこう作ってみるかも知れない』として記した可能性は十分に考えられるのである。されば、私は既に「やぶちゃん版芥川龍之介句集 五 手帳及びノート・断片・日録・遺漏」の中で、疑義としつつも、以上を芥川龍之介の自由律俳句である可能性が高いとして電子化している。特に、前の私の書き改めたものの内で、最後に〈★〉を示したものは、私はまごうことなき、確信犯の自由律俳句と考えているものである。何故なら、同時期の自由律俳句の知られた句の中に酷似した構成のものを幾らも見出せるからである。]

 

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十五年 十二カ月、せり吟

 

     十二カ月、せり吟

 

 二十五年になって居士の句を作る分量が著しく増加したということについては、何よりも句を作る機会が多くなったことを挙げなければなるまい。その一は「燈火十二カ月」を振出しとする何々十二カ月の続出である。この発端については『墨汁一滴』の中に次のように記されている。

[やぶちゃん注:以下は底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。「墨汁一滴」の六月十六日の記載から。以前と同じく国立国会図書館デジタルコレクションの初出切抜きで校訂した。踊り字「〱」は正字化した。「とうとう」はママ(底本では後半は踊り字「〱」)である。]

 

それで試驗があると前二日位に準備にかゝるので其時は机の近邊にある俳書でも何でも盡く片付けてしまふ。さうして机の上には試驗に必要なるノートばかり置いてある。そこへ靜かに坐をしめて見ると、平生亂雜の上にも亂雜を重ねていた机邊が淸潔になつて居るので、何となく心持が善い。心持が善くて浮き浮きすると思ふと、何だか俳句がのこのこと浮んで來る。ノートを開いて一枚も讀まぬ中に十七字が一句出來た。何に書かうもそらに句帳も半紙も出してないからラムプの笠に書きつけた。又一句出來た。又た一句。餘り面白さに試驗なんどの事は打ち捨てゝしまふて、とうとうラムプの笠を書きふさげた。これが燈火十二ケ月といふので何々十二ケ月といふ事はこれから流行り出したのである。

 

 十二カ月の形による句作は、駒込にはじまって根岸まで続いた。但(ただし)この事は居士も「明治二十五年の始には何やら俳句を呑み込んだような心持がして、何々十二カ月というようなものをむやみに作って見た。今見ると勿論句にはなって居らぬ」といっている通り、直接にはさのみ効果を齎(もたら)さなかったかも知れぬが、これがために多作の傾向を生じ、練磨の上に功のあったことは争うべからざるところであろう。露伴氏が『国会新聞』に出した「男女句合(くあわせ)」の如きも、この十二カ月の中の一であった。

[やぶちゃん注:「露伴氏が『国会新聞』に出した」幸田露伴(慶応三(一八六七)年~昭和二二(一九四七)年:江戸下谷三枚橋横町(現在の東京都台東区生まれ。本名は幸田成行(しげゆき)幸田家は旧幕府表坊主の家柄)彼が「露団々」や子規を驚愕させた「風流仏」を発表したのは明治二二(一八八九)年であったが、同年十二月には読売新聞客員となり、翌年には「対髑髏」「一口剣」を発表、その年の十一月に国会新聞社に入社、六年間在籍して代表作となる「いさなとり」「五重塔」「風流微塵蔵」などを『国会』紙上に発表して、尾崎紅葉と並ぶ小説家として評判になった。

「男女句合(くあわせ)」不詳。しかし、松本島春(とうしゅん)主宰の俳誌『春星』のサイト内の中川みえ氏の「子規の俳句のこちらの『子規の俳句(九)』に粟津則雄著「正岡子規」から転載された「男女句合十二ケ月」というのが載るのであるが、それを見るに、この「男女句合」は露伴のものではなく、子規のものである。中川氏もその後で子規の『試験勉強中の燈火十二ケ月を嚆矢として、男女句合十二ヶ月、風十二ケ月、煙草十二ケ月、十二支十二ケ月、鳥十二ケ月、夢十二ケ月などと、十二ケ月形式で俳句を作ることをしばらく続けた』とある後に、『子規から十二ケ月形式の句作の話を聞いた幸田露伴もこの趣向に興味をいだいて、僧十二ケ月を作った』として、それを明治二五(一八九二)年三月のこととクレジットまで記しておられる(下線太字やぶちゃん)。粟津・中川対柴田では宵曲の方が分が悪そうではあるが、子規全集も露伴全集も持たぬ故、孰れが正しいとも言えぬ。識者の御教授を乞うばかりである。]

 居士が俳譜趣味の上に眼を開いたのは、「俳句分類」の業を進めて来て、元禄に至った時であるという。殊に『猿蓑』の分類をする時は、何となく胸の躍るのを覚え、極めて短い時間で済んでしまった、「今までの事を考えるとまるで夢のようで、今僅に眠から覚めた眼に外界の物がはっきりと写る、しかも何もかも活気を帯びて来たように見えた」というのである。この開眼(かいげん)の気持は、去来が「猿蓑は新風の始なり」といったのと同じだと居士は述べている。「俳句分類」の仕事が連歌時代から『猿蓑』へ来るまで、どの位の時間を要したか明でないが、二十四年の冬から勘定し三十五年春あたりに当るのではないかと思う。新に俳句の趣味を自分に感じたところで、それが直に作句の上に現れて来るというわけには行かない。「燈火十二カ月」以後に生じた多作の傾向は、むしろ過渡期の現象と見るべきであろう。

[やぶちゃん注:「猿蓑」松尾芭蕉監修で向井去来・野沢凡兆編、宝井其角序・内藤丈草跋になる芭蕉の「俳諧七部集」の第五集。全二冊で元禄四(一六九一)年刊。蕉風俳諧の円熟期を示す名撰集とされる。発句三百八十二句・芭蕉一座の連句四巻・芭蕉の「幻住庵記」と、それについての震軒の後文・「几右日記」と題する幻住庵訪問客の発句三十五句から成る。書名は巻頭の芭蕉の名句「初時雨猿も小蓑をほしげなり」に基づく。]

 何々十二カ月と共に居士を駆って多作に赴かしめたものは「せり吟」である。駒込僑居における居士は、客を謝して「月の都」に専心するというのであったけれども、飄亭、非風両氏の如き友人たちは依然として訪問をやめなかった。「せり吟」はこの人々の間に行われたので、碧梧桐氏宛の手紙によれば一月三十日が最初の試(こころみ)であったらしい。題を出して置いて、なるべく迅速に句を作る。句の善悪を見るのではあるが、同時に連吟を競うので、「早きは十秒、遅きも一分を出でず」という勢であった。時間を競い数を争うことになるため、玉石混淆を免れぬが、句作上の練習になったことは非常なものであったに相違ない。「燈火十二カ月」の成ったのは二月十四日とあるから、順序からいうと「せり吟」の方が少し早いわけである。

 居士は駒込における一人住いのことを回顧して「極めて閑静な処で勉強には適して居る。しかも学課の勉強は出来ないで、俳句と小説との勉強になってしもうた」といっている。「月の都」の稿はこの間に成り、「せり吟」や何々十二カ月によって作句の数は激増した。一方に精力を傾注しただけ、学課の方面は下積(したづみ)にならざるを得なかったのである。

 

芥川龍之介 手帳12 《12-3》

《12-3》

○珍重拜歌次韻

[やぶちゃん注:漢詩文のための韻書と思ったが、和漢ともに見当たらないし、どうもこの「拜歌」というのは少なくとも正規の韻書の名としては何となく怪しい感じがする。「次韻」というのは、他人の詩と同じ韻字を同じ順序で用いて詩作すること或いはその詩を指す(他人の詩に和す「和韻」の中で最も縛りの強いケースで、他に二体あり、元の詩の韻の順に拘らずに用いる場合を「用韻」、同一の韻に属する他の字を用いるものを「依韻」と称する)。しかし「珍重拜歌」でも検索に掛かってこない。識者の御教授を乞う。]

 

○次永坂石埭碧雲拜歌韻

[やぶちゃん注:この中の「永坂右埭」は知っている。医師で書家・漢詩人としても知られた永坂石埭(ながさかせきたい 弘化二(一八四五)年~大正一三(一九二四)年:本名は周二)である。漢詩は森春濤門下の四天王の一人に数えられる。明治七(一八七四)年頃に上京して神田お玉ケ池の梁川星巖(やながわせいがん)の旧居跡に医院玉池仙館を開業した。書もよくし、「石埭流」と称された。晩年は郷里名古屋に戻った。芥川龍之介は若い頃から彼の詩や書を知っており、芥川龍之介の作家デビュー前の芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む)「十四」/芥川龍之介「日記より」(その一)』にもその名を記している。さすれば、この最初の「次」と末尾の「韻」を先の注の次韻だと考えると、これは「永坂石埭」の詩「歌」を敬「拜」して次韻して作った漢詩のことを指すのではないかと考え、調べて見たところ、ズバリ! あった! 石九鼎氏のサイト内の「横山耐雪」のページである。しかも、その和韻した元の石埭の漢詩、これ、儂、知っとるがね! 以上の石氏の解説によれば、横山耐雪(明治元(一八六八)年~大正一二(一九二三)年)は『島根県松江市出身』で、『家は代々・松江藩の医で、耐雪が九代目。年少、雨森精翁に就き学ぶ。のち、内村鱸香に就いた。二十三歳、岡山医学校を卒業してから(現・島根県大原郡木次町)に開業する。特に眼科に優れていた』。『詩は年少時代から作詩したが、永坂石埭に就いてから詩調が変わった。三十六歳の時、森塊南を松江に迎えて、『剪松吟社』を興し』、『終生「松社」の提挈』(ていけつ:引き連れること。或いは助け合うこと)『に当たり、郷土の古い詩人の刊行に努めた。耐雪の詩は永坂石埭の流れをよく承けて流麗である。(島根県文化人名鑑より抜粋)』。『漢詩隆盛時』、『各地に吟社は多い中で『剪松吟社』は加盟者数』が『最も多く、作者の詩風が格調高く』、流暢で『あったこと等で特色のある吟社であった』とある。そのページの最後に載る漢詩(漢字を恣意的に正字化して示し、訓読も石氏のものを参考に私の好みで変えてある)、

 

  碧雲湖棹歌

 殘夜湖光碧欲飛

 看看祠樹帶朝暉

 扁舟容與尋碑入

 一棹松風滿客衣

  殘夜 湖光の碧(へき) 飛ばんと欲す

  看(み)す看(み)す 祠樹(しじゆ)の 朝暉(てうき)を帶ぶるを

  扁舟(へんしう) 容與(ようよ)として 碑を尋ねて入らば

  一棹(いつたう)の松風(しやうふう) 客衣(かくい)に滿つ

 

この「碧雲湖」とは宍道湖の雅名で、「容與」はゆったりとしているさまを謂う。さて石氏によれば、この詩は永坂石埭の「碧雲棹歌」の詩の次韻だとあるのであるが、私は既にその詩を、『芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む)「十四」/芥川龍之介「日記より」(その一)』の注で示しているのだ。この詩は永坂石埭がまさに耐雪の創った結社「剪淞吟社(せんしょうぎんしゃ)」(私の調べた本では「松」ではなく「淞」であった)の求めに応じて、その結社名を巧みに詠み込んで作った七言絶句「碧雲湖棹歌」なのである。全体を以下に示し、自己流で訓読する。

 

  碧雲湖棹歌

 美人不見碧雲飛

 惆悵湖山入夕暉

 一幅淞波誰剪取

 春潮痕似嫁時衣

 

   碧雲湖棹の歌

  美人見えず 碧雲 飛ぶ

  惆悵(ちうちやう)す 湖山の夕暉(せきき)に入るるを

  一幅の淞波(せうは) 誰(たれ)か剪取(せつしゆ)するか

  春潮の痕(こん) 似たり 嫁時(かじ)の衣(きぬ)に

 

「美人」は先の悲劇の伝承の入水した「嫁」であり、「惆悵す」は「恨み歎く」、「湖山」は宍道湖とそれを取り囲む山並み、「夕暉」は夕陽(ゆうひ)、「淞波」は江蘇省の太湖から、長江に流れる淞江(呉淞江)の景勝(+結社名)に掛けたもので、当地松江をそれに擬え、宍道湖の松江に寄せる「波」としたものであろうと読む。しかもそれを「一幅」の山水画に譬えた趣向だろう、そうして「淞」から「松」で、その枝を「剪」る(+結社名の掛詞)、則ち、一幅の絵として全体からそれを切り「取」ることは――いや、あまりの美しさ故に出来ぬ――というのではないか? さても――春の潮の満ち引く、その浪の白い「痕」(あと)は、あたかも、嘗てここへ花「嫁」御寮(ごりょう)として幸せな思いで参った、悲劇の彼女の嫁入りの衣裳に似ているではないか――勝手な解釈であるからして、大方の御叱正を俟つ。

 最後の嫁入り云々はここで説明するのは面倒。是非、『芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む)「十四」/芥川龍之介「日記より」(その一)』の私の「嫁ケ島」の注を参照されたい。この可愛い小っちゃな島に、この石埭の「碧雲棹歌」の詩碑が建っている。]

 

○暉衣

[やぶちゃん注:これは前の永坂右埭詩と横山耐雪のその次韻の詩の韻字と一致する。さらに、検索を掛けたところ、芥川龍之介の好きな(私の古い電子テクスト芥川龍之介の「雜筆」の冒頭の「竹田」(当該章は大正九(一九二〇)年九月発行の『人間』初出)南画家の田能村竹田(たのむらちくでん 安永六(一七七七)年~天保六(一八三五)年)の以下の漢詩の韻脚でもあることが、優れた漢詩サイト「詩詞世界 碇豊長の詩詞」の「日本漢詩選」の「田能村竹田 遊山」で判明した(以下の訓読は碇豊長氏のそれを参考に私なりに読んだ)。

 

  遊山

 落落長松下

 抱琴坐晩暉

 淸風無限好

 吹入薜蘿衣

   山に遊ぶ

  落落たる長松の下(もと)

  琴(きん)を抱(いだ)きて晩暉(ばんき)に坐す

  淸風 無限に好く

  吹きて 薜蘿(へいら)の衣(い)に入る

 

碇豊長氏の解説によれば、「落落」は対象が疎(まば)らで寂しいさまの意で、「晩暉」は落暉(らっき)、夕陽の意、「薜蘿」蔓(かずら)。蔓で織った布から転じて「隠者の服」或いは「隠者の住家」の意とあって、『韻脚は「暉衣」で、平水韻上平五微』とある。]

 

123

 

[やぶちゃん注:この英文のチャートは前の条とは、どう考えても無関係なものであるからして、私独自に表題なしで○を附した。冒頭注で述べたように、これは、言葉で説明しきれず、図で示さなければ判らぬものであるからして、新全集のその部分だけを画像として読みとって、トリミングして示した(但し、これは新全集の編者によって完全に描き直されたものであるから、絵(図)としての著作権は当然あるわけで、それを云々されるかもしれない。万一、そうした指摘を受けるようであれば、完全に私が手書きで書写した画像に差し替える)。その時のために、一応、キャプションは簡単に解説して示す。

 二本の横線が上下二本引かれており、そこに円が三つ上下にはみ出て、有意に離れて三つ描かれてある。

 左手の円の上部円周外上方には「material」(物質的・肉体的)と記されている。その二本線の中間部の円内には左上に「sex」とあってその下に「-」(マイマス)のマーク、右上に「in」とあってその下に「+」(プラス)のマークが打たれている。その+と-の記号の中間部の下方から下の横線の円周外にまでやや右曲がりの指示線が曲線で示されてあって、その端(左の円の真下)には「sexal desire」(性的欲求)と書かれてある。

 中央の円の上部円周外上方には「human」(人間的)と記されている。その二本線の中間部の円内には左上に「sex」とあってその下に「+」(マイマス)のマーク、右上に「in」とあってその下に「+」(プラス)のマークが打たれている。その+と+の記号の中間部の下方から下の横線の円周外にまでやや右曲がりの指示線が曲線で示されてあって、その端(中央の円の真下)には「love proper」(これはよく判らないが、「適切な」現実の「恋人」か?)と書かれてある。

 右手の円の上部円周外上方には「spiritual」(精神的)と記されている。その二本線の中間部の円内には左上に「sex」とあってその下に「-」(マイマス)のマーク、右上に「in」とあってその下に「+」(プラス)のマークが打たれている。その-と+の記号の中間部の下方から下の横線の円周外にまで指示線がやや右曲がりの曲線で示されてあって、その端(右の円の真下)には「love」(愛)と書かれてある。

 この「in」は否定を表わす接頭辞で、「insex」(性的行為を含まない・禁じた・必要としない)の意であろう。

 私は以上のような意味でこの図式を読んだ。]

宮澤賢治の「文語詩稿 五十篇」の掉尾にある詩篇の草稿「峠」から無題の定稿までの推敲順推定電子化

 

[やぶちゃん注:「校本 宮澤賢治全集 第五巻」(昭和四九(一九七四)年筑摩書房刊)の本文と校異を参考に作成した。漢字は恣意的に概ね正字化した

 現存する草稿自体は三種であるが、校異に示された推敲痕を解説を参考に、可能な限り、順序を推定し、八種+定稿の九篇を示した。但し、細部の書き換えは、前後の同様の書き換えと共時的に行われたものかどうかまでは不明であるから、仮定されるヴァリェションは厳密にはもっと増える可能性が高い。また、最終草稿と定稿の変異の位相が非常にあることから、本篇にはその間に、数種の中間草稿があったかも知れないということも想定される。

 なお、定稿からは、ずっとあった「峠」という標題は消えており、二行書きの一行中の中間部二字空け、及び、四行(程)空けという特異な表記もママである。

 「(まみ)」は「」という漢字と同字であるが、これらは孰れも「よく見る・凝と見つめる」の意で、現行では殆んど使用されない字である。但し、賢治はそれに「まみ」と振ってはいるから、「目・眸(ひとみ)」の意と採っても誤りとは言えない。しかし、「まみ」(目見)自体が「物を見る目つき・眼差(まなざ)し」や「目元(めもと)」の意が原義あることを考え、しかも、推敲課程で賢治がここを「グリムプス」(Glimpse:英語で「一瞥」の意)と一度、言い換えている点を考えると、これを現在普通に行われている表記のように「眸」に置き換えてしまっていいかどうかについては、私は、かなり躊躇するものである。これは単に旧字を正字に換えるのとは全く訳が違うからである。【2018年2月3日 藪野直史】]

 

 

      峠

 

燃ゆる吹雪(ふぶき)のさなかにて

妖(あや)しき(まみ)のさま

 

吹雪たちまち過ぎ往きて

片雲(くも)プリズムを示したり

 

    ↓

 

      峠

 

燃ゆる吹雪(ふぶき)のさなかにて

なんぞ妖(あや)しき(まみ)のさま

 

霽れてはめぐる雪の尾根

飛雲(くも)プリズムを示しけり

 

    ↓

 

      峠

 

燃ゆる吹雪(ふぶき)のさなかにて

妖(あや)しき(まみ)も示しけん

霽れてはめぐる雪の尾根

雲プリズムをなしにけり

 

   ↓

 

      峠

 

燃ゆる吹雪(ふぶき)のさなかにて

妖(あや)しき(まみ)も示しけん

霽れてはめぐる雪の尾根

片雲(くも)プリズムをなしにけり

 

   ↓

 

      峠

 

光吹雪のさなかにて

妖しく燃ゆるグリムプス

 

冴えてはめぐる雪の尾根

片雲(くも)のプリズム漂はす

 

   ↓

 

      峠

 

吹雪かゞやくさなかとて

妖しく燃ゆるグリムプス

 

冴えてはめぐる雪の尾根

片雲(くも)のプリズム漂はす

 

   ↓

 

      峠

 

吹雪かゞやくさなかには

燃えて妖しきグリムプス

 

冴ゆれば仰ぐ尾根の上

片雲(くも)プリズムをめぐらしぬ

 

   ↓

 

      峠

 

吹雪かゞやくさなかには

燃えて妖しきグリムプス

 

冴ゆれば仰ぐ尾根の上

片雲(くも)プリズムをひるがへす

 

   ↓

 

吹雪かゞやくなかにして、   まことに犬の吠え集りし。

 

 

 

 

燃ゆる吹雪のさなかとて、   妖(あや)しきをなせるものかな。

 

 

芥川龍之介 手帳12 《12-2》

《12-2》

○偶然蟻の出てゐるのを見る

○蜂 柳の芽

○くれ方 雨あがり 大審院 柳 濠 曇天 麥畑 そのはづれに市の一部 夜 丁字のにほひ

[やぶちゃん注:「大審院」明治初期から昭和前期まで日本に設置されていた最高裁判所。現在の東京都千代田区霞が関一丁目、現在の東京高等裁判所の位置にあった(警視庁の桜田通りの斜め向かい側。ここ(グーグル・マップ・データ))。

「丁字」「ちやうじ(ちょうじ)」はクローブ(Clove)のこと。一般にはバラ亜綱フトモモ目フトモモ科フトモモ属チョウジノキ Syzygium aromaticum の蕾を乾燥したものを指し、漢方薬で芳香健胃剤として用いる生薬の一つを指し、肉料理等にもよく使用される香料であるが、ここはその精油である丁子油の匂い。その主成分であるオイゲノール(eugenol)は歯科の匂いを想起して貰うとよいか(正しくは歯科の匂いはオイゲノールに酸化亜鉛を混合した酸化亜鉛ユージノール(zinc oxide eugenol:歯科では「ユージノール」という表記に統一されているという))。また、この丁子油は江戸時代から男の髷や女性の日本髪の鬢付け油に使用されてきた歴史があるから、或いはここは日本髪を結った女性とすれ違った際に漂ってきたものかも知れない。]

 

○靑島海軍重砲隊の Boys  28珊の彈丸間に落つ

[やぶちゃん注:「28」は縦書正立。これは第一次世界大戦中の大正三(一九一四)年十月三十一日から十一月七日に発生した、ドイツ帝国の東アジアの拠点であった山東省青島(チンタオ)を日本・イギリス連合軍が攻略した「青島の戦い」の一場面であろう。ウィキの「青島の戦い」によれば、『ドイツの青島要塞攻略にあたり、日本陸軍は、十分な砲がな』かったために、白兵戦で膨大な死傷者を出した『日露戦争の旅順攻囲戦と異なり、砲撃戦による敵の圧倒を作戦の要』(かなめ)『とした。日本軍は、当初』、『計画されていた第十八師団、野戦重砲兵連隊』一『つ、攻城部隊若干という構成から、ヨーロッパでの第一次世界大戦の最新の戦況を見て』、『より強力な攻城砲を多数追加、さらに工兵独立大隊や鉄道連隊も追加していた』。十月三十一日、『「神尾の慎重作戦」と揶揄される』(主力戦力となった第十八師団の指揮官であった神尾光臣中将の作戦は、山東半島上陸から青島砲撃までに二ヶ月もの時間を要したものの、砲撃後一週間で決着がついたことから、日本国民は「弱いドイツ軍相手にだらだらと時間をかけた」という誤った印象を与え、メディアなどからもかく批判された)『程に周到な準備の上で、第十八師団と第二艦隊は攻撃を開始した。ドイツ軍兵力は約』四千三百『名であった。最新鋭の移動容易な攻城砲四五式二十四糎榴弾砲をはじめ、三八式十五糎榴弾砲、三八式十糎加農砲など、重火器による砲撃によりドイツ軍要塞は無力化され』、『ドイツ軍将校は戦後』、『「余の砲台は(陸軍の砲撃により)ほとんど破壊されてしまった!」と感嘆したほどだった』という。

「海軍重砲隊」海軍陸戦隊。日本海軍が編成した陸上戦闘部隊。元来は常設の部隊ではなく、艦船の乗員などの海軍将兵を臨時に武装させて編成することを原則とした。

28珊」一八八〇年代に大日本帝国陸軍が開発・採用した二十八糎(センチ)榴弾砲(にじゅうはちりゅうだんほう)の旧称である「二十八珊米(サンチメートル)榴弾砲」又は「二十八珊(サンチ)榴弾砲」のこと(榴弾砲とは火砲(大砲)の一種で、基本定義は同口径のカノン砲に比べ、砲口直径(口径)に対する砲身長(口径長)が短く、低初速・短射程であるが、軽量でコンパクトを利とし、高仰角の射撃を主用するものを指す)。主に日露戦争に実戦投入されたが、「青島の戦い」でも六門が投入されている。日本人には永く馴染み深い火砲となった。参照したウィキの「二十八糎砲」によれば、砲弾は堅鉄弾で重量二百十七・六六キログラム、堅鉄破甲榴弾で二百二十四キログラム、九八式破甲榴弾で二百二十一キログラム、二式榴弾で二百十八キログラムである。グーグル画像検索「二十八糎砲」をリンクさせておく。この記載は、海軍陸戦隊の少年兵(当時の)らの「間」に味方の陸軍が撃った二十八珊榴弾砲の砲弾が着弾(「落」下)し、幸いにも不発だったというエピソードであろうか。これは、芥川龍之介が教官を勤めた海軍機関学校の軍人或いは軍部の教官か職員(退役軍人)の思い出話ででもあるのかも知れないし、或いは次のメモにる小説「猿」のエピソード(次注参照)の提供者である芥川龍之介の友人からの聞き書きの一つかも知れぬ。]

 

○海軍監獄(浦賀) 8尺の距離

[やぶちゃん注:現在の神奈川県横須賀市長瀬にある横須賀刑務支所(男性受刑者専用の刑務所で、執行刑期が十年未満で犯罪傾向が進んでいない者及び日本人受刑者と異なる処遇を必要とする外国人・在日米軍兵士及びその家族を収容する)の前身。ここは明治一六(一八八三)年十一月に神奈川県三浦郡大津村(後に旧浦賀町となる)に海軍監獄として設立されている。ここ(グーグル・マップ・データ)。私は確かにこの監獄についてかなり調べた記憶があるのだが、それが何のためで、どこにそれを記したかが、どうしても判らない。判明し次第、追記する。なお、この浦賀の海軍監獄は芥川龍之介の小説「猿」(大正五(一九一六)年九月発行の『新思潮』。因みに、この九月一日、芥川龍之介は『新小説』に文壇デビュー第一作となった「芋粥」を発表しており、前月八月二十五日には塚本文(当時満十六歳)にプロポーズの手紙を書いている)の終りの方に出てくる(「青空文庫」のここで読める。但し、新字)。なお、この小説「猿」の話は、芥川龍之介の江東小学校・府立三中時代からの古い友人で海軍将校になった清水昌彦(?~昭和元(一九二五)年:喉頭結核と腸結核の併症により死去)から聞いた話が元となっていることが判っている。

「8尺の距離」「8尺」は二メートル四十二センチメートル。次のメモの頭の『鐵丸――臺より臺へ』と関連する。「猿」を読むと、意味が判る。盗みを働いた男(『信號兵』(後のメモに出る)の奈良島)が一日、『禁錮室』(後のメモに出る)に監禁された後、『翌日、浦賀の海軍監獄へ送られ』た、と話者である「私」(作者と思しい聞き役の相手)が語った後である(引用は岩波旧全集より。以下、同様)。

   *

これは、あんまりお話したくない事ですが、あすこでは、囚人に、よく「彈丸運び」と云ふ事をやらせるのです。八尺程の距離を置いたから臺へ、五貫目ばかりの鐡の丸(たま)を、繰返へし繰返へし、置き換へさせるのですが、何が苦しいと云つて、あの位、囚人に苦しいものはありますまい。いつか、拜借したドストエフスキイの「死人(しにん)の家」の中にも、「甲のバケツから、乙のバケツへ水をあけて、その水を又、甲のバケツへあけると云ふやうに、無用な仕事を何度となく反覆させると、その囚人は必自殺する。」――こんな事が、書いてあつたかと思ひます。それを、實際、あすこの囚人はやつてゐるのですから、自殺をするものゝないのが、寧、不思議な位でせう。そこへ行つたのです、私の取押さへた、あの信號兵は。雀斑のある、背の低い、氣の弱さうな、おとなしい男でしたが……。

   *]

 

兵曹(赤坊の頃)鐵丸――臺より臺へ 45時間 六七人 監守一人 雨天體操場 太い麻繩をほどく(二人) 上陸員整列(副長⦅當直將校⦆) 總員集合――皆上甲板 副長云わたし身體檢査 候補生を艙口に排置――中下甲板の檢査

[やぶちゃん注:「45」は縦に「4」「5」と正立。「⦅當直將校⦆」は底本では「副長」の右にルビ大の小ささ記載されてある。これと後に続く「赤いブイ」までの条々もやはり明らかに前条の注で示した小説「猿」の構想メモである(全文は「青空文庫」のここを参照。但し、新字)。

「兵曹(赤坊の頃)」「兵曹」は大日本帝国海軍の下士官で上等兵曹・一等兵曹・二等兵曹に分かれたから、「赤坊」というのは最下級の二等兵曹のことか。

「雨天體操場 太い麻繩をほどく(二人)」この部分は意味不明。

」これは思うに、軍隊で使われる信号ラッパ(ビューグル:英: bugle)の「ラッパ」の略であろう。「猿」の第一段落に、

   *

 私が、遠洋航海をすませて、やつと半玉(はんぎよく)(軍艦では、候補生の事をかう云ふのです)の年期も終らうと云ふ時でした。私の乘つてゐたAが、橫須賀へ入港してから、三日目の午後、彼是(かれこれ)三時頃でしたらう。勢よく例の上陸員整列の喇叭(らつぱ)が鳴つたのです。確、右舷が上陸する順番になつてゐたと思ひますが、それが皆、上甲板へ整列したと思ふと、今度は、突然、總員集合の喇叭が鳴りました。勿論、唯事(たゞごと)ではありません。何にも事情を知らない私たちは、艙口(ハツチ)を上りながら、互に「どうしたのだらう」と云ひ交はしました。

   *

とあるので判然とする。

「云わたし」言い渡し。名詞。「猿」の始めの方に、『さて、總員が集合して見ると、副長がかう云ふのです。「……本艦内で、近來、盗難に罹つた者が、二三ある。殊に、昨日、町の時計屋が來た際にも、銀側の懷中時計が二個、紛失したと云ふ事であるから、今日はこれから、總員の身體檢査を行ひ、同時に所持品の檢査も行ふ事にする。……」大體、こんな意味だつたと思ひます』と出る。

「艙口」は「さうこう(そうこう)」で、船倉に貨物を出し入れしたり、乗員が出入するために上甲板に設けられた四角いハッチ(hatch; hatchway)のこと。前の「猿」の冒頭の引用を見よ

「排置」「配置」の誤記。「猿」に『上甲板で、かう云ふ騷ぎが、始まつてゐる間に、中甲板や下甲板では、所持品の檢査をやり出しました。艙口にはのこらず、候補生が配置してありますから、上甲板の連中は勿論下へは一足でもはいれません』とある。

「中下甲板の檢査」前の引用に続いて『私は、丁度、その中下甲板の検査をする役に當つたので、外の仲間と一しよに、兵員の衣囊(いのう)やら手箱やらを検査して步きました』とある。]

 

○帽子の箱――信號兵

[やぶちゃん注:「猿」に『その中に、やつと、私と同じ候補生の牧田と云ふ男が、贓品(ざうひん)を見つけました。時計も金も一つになつて、奈良島と云ふ信號兵の帽子の箱の中に、あつたのです。その外にまだ給仕がなくなしたと云ふ、靑貝の柄(え)のナイフも、はいつてゐたと云ふ事でした』とある(「贓品」(ぞうひん)とは犯罪によって他人の財産を侵害して手に入れた、盗品の類を謂う)。

「帽子の箱」後の「○衣囊手箱 ビームの裏 衣囊の棚のおく」の私の注の最後のリンク先画像を見よ。それと思われる「帽子缶」の実物が見られる。]

 

○解散(他のものよろこぶ 機關兵のすむ場所)

[やぶちゃん注:「猿」の前の引用の次の段落は『そこで、「解散」から、すぐに「信號兵集れ」と云ふ事になりました。外の連中は悦んだの、悦ばないのではありません。殊に、機關兵などは、前に疑はれたと云ふ廉(かど)があるものですから、大へんな嬉しがりやうでした。――所が、集つた信號兵を見ると、奈良島がゐません』と続く。

「機關兵のすむ場所」後のメモ『機關兵 首のみ黑し』と関連する。]

 

○信號兵集れ

[やぶちゃん注:前の引用を見よ。]

 

○自殺

[やぶちゃん注:「猿」前の引用の次の段落二段を引いておく。

   *

 僕は、まだ無經驗だつたので、さう云ふ事は、まるで知りませんでしたが、軍艦では贓品が出ても、犯人の出ないと云ふ事が、時々あるのださうです。勿論、自殺をするのですが、十中八九は、石炭庫の中で首を縊るので、投身するのは、殆、ありません。最も一度、私の軍艦(ふね)では、ナイフで腹を切つたのがゐたさうですが、これは死に切れない中に、發見されて命だけはとりとめたと云ふ事でした。

 さう云ふ事があるものですから、奈良島が見えないと云ふと、將校連も皆流石に、ぎよつとしたやうでした。殊に、今でも眼についてゐるのは、副長の慌て方で、この前の戰爭の時には、随分、驍名を馳せた人ださうですが、その顏色を變へて、心配した事と云つたら、はた眼にも笑止な位です。私たちは皆、それを見ては、互に、輕蔑の眼を交してゐました。ふだん精神修養の何のと云ふ癖に、あの狼狽のしかたはどうだと云ふ、腹があつたのです。

   *

引用中の「驍名」は「げうめい(ぎょうめい)」で武勇の名声の意。]

 

○禁錮室

[やぶちゃん注:「○海軍監獄(浦賀) 8尺の距離」の方の注を見よ。]

 

○上甲板 Netting ハンモツクを出し上甲板でしらぶ

[やぶちゃん注:「Netting ハンモツク」網で作られた吊り床(ハンモック)。]

 

○橫須賀の時計屋 時計一(時計二 金二人)

[やぶちゃん注:前の「云わたし」の注の引用を見よ。]

 

○皆裸(機關兵 首のみ黑し)

[やぶちゃん注:「猿」の第四段落を引く。

   *

 何しろ、總員六百人もあるのですから、一通り檢査をするにしても、手間がとれます。奇觀と云へば、まああの位、奇觀はありますまい。六百人の人間が皆、裸で、上甲板一杯に、並んでゐるのですから。その中でも、顏や手首のまつ黑なのが、機關兵で、この連中は今度の盜難に、一時嫌疑をかけられた事があるものですから、猿股までぬいで、檢しらべるのならどこでも檢べてくれと云ふ恐しいやうな權幕です。

   *

無論、オイルで真っ黒なのである。]

 

○午後四時 600

[やぶちゃん注:「600は正立横書。前の引用を見よ。]

 

○ポツケツト(春畫)(なぐられる)

[やぶちゃん注:「猿」の第三段落を引く。

   *

 身體檢査ですから、勿論、皆、裸にさせられるのですが、幸、十月の初(はじめ)で、港内に浮んでゐる赤い浮標(ブイ)に日がかんかん照りつけるのを見ると、まだ、夏らしい氣がする時分なので、これはさう大して苦にもならなかつたやうです。が、弱つたのは、上陸早々、遊びに行く氣でゐた連中(れんぢう)で、檢査をされると、ポツケツトから春畫(しゆんぐわ)が出る、サツクが出ると云ふ騷ぎでせう。顏を赤くして、もぢもぢしたつて、追付(おひつ)きません。何でも、二三人は、士官(オフイサア)に擲(なぐ)られたやうでした。

   *

引用文中の「サツク」はルーデサック(オランダ語:roedezak)で、コンドームのこと。]

 

○石炭庫 舷 Crossbanker 石炭搭載後は瓦斯ある爲 穴 中下甲板 石炭積入口

[やぶちゃん注:「Crossbanker」は海事用語らしい。十字型状をした船内石炭庫の意か? 「猿」では奈良島は石炭庫へ潜り込んで自殺しようとする。]

 

○衣囊手箱 ビームの裏 衣囊の棚のおく

[やぶちゃん注:「衣囊」海軍下士官兵が衣類を整理して入れておくキャンパス製の布袋。底のサイズは約四十センチ、長さは完全に物を詰め込むと一メートル二十~三十センチメートルにもなり、重さも三十キログラム以上あった。中には軍服・事業服(作業服)・軍靴に至るまで納め、転勤などの移動の際、肩に担いで持ち運ぶ。衣嚢には黒色の外嚢(がいのう)と白い内嚢(うちのう)があり、普段は内嚢を外嚢の中に格納しておいた。参照させて戴いたルビー氏の「太平洋戦争史と心霊世界」の『衣嚢(いのう)と制裁 「蜂の巣」』が、使い方その他、映画等の写真によってよく判る。また、本物は宇佐見(亘川)寛永氏のブログ「寛永第一衣糧廠」の日本海軍 衣嚢内嚢・外嚢)」がよい。但し、画像が異様に大きいので画像だけをそれぞれ別タブで開かないと全体が見れない。一番下の写真の中央に「帽子缶」というのが出るが、これがまさに奈良島が贓品を隠していたそれである。

「ビーム」beam。海事用語。甲板・梁(りょう)。船の両肋材(ろくざい)の上部を左右に走る横材で、甲板を支えるものを指す。「猿」で士官候補生の「私」が贓品を探すシーンに『こんな事をするのは軍艦に乘つてから、まだ始めてでしたが、ビイムの裏を探すとか衣囊をのせてある棚の奥をかきまはすとか、思つたより、面倒な仕事です』と出る。]

 

ブリヂ 四 or  當直 信號兵二人 候補生 士官(6ケ月 舞鶴の海兵團)(えらくなるやうな氣)

[やぶちゃん注:「ブリヂ」Bridge。船橋(せんきょう)。航海士が操船の指揮をとる操舵室のことをいい、見通しのよい船内最上階に設けられている。軍艦では艦橋と呼ぶ。

「四 or  當直」は四時間或いは二時間担当での当直制を指す。

「舞鶴の海兵團」大日本帝国海軍において軍港の警備防衛・下士官・新兵の補欠員の艦船部隊への補充、また、海兵団教育と称するその教育訓練のために練習部を設け、海軍四等兵たる新兵、海軍特修兵たるべき下士官などに教育を施すために、鎮守府に設置されていた陸上部隊(舞鶴以外には横須賀・呉・佐世保の各鎮守府と大湊・大阪・鎮海(現在の大韓民国昌原市鎮海区にあった)・高雄(現在の台湾高雄市にあった)の各警備府に配されてあった)。舞鶴鎮守府設置と同時に中舞鶴に設置された。大正一四(一九二五)年に海軍機関学校に転用されたが(大正一二(一九二三)年からワシントン軍縮条約によって鎮守府から要港部へと格下げになったことと、関東大震災によって芥川龍之介が嘗て勤務していた海軍機関学校校舎が罹災したため、一九二三年から一九二五年まで同機関学校が江田島の海軍兵学校内に移り、臨時に同校生徒とともに教育を受けていたのが、この年に機関学校が舞鶴へ移転したことによる)、昭和一四(一九三九)年四月には再び鎮守府に格上げとなったことから、東舞鶴に再設置されている。

「士官」「6ケ月」とあるが、この「士官」は以下の「6ケ月」と「舞鶴の海兵團」及び「えらくなるやうな氣」という部分から考えて、「下士官兵」の誤りであろうと思われる。何故なら、陸軍のように制度上、兵から下士官・准士官・士官へと順次進級できる可能性があるそれとは異なり、海軍は学歴至上主義であって、「士官」と学歴がない「下士官兵」では全く別の階層であったからである。則ち、「海軍士官」と言っても、職種と任用前の経歴によって、正規の養成教育を受けた「士官」・商船学校や予備学生出身の「予備士官」の他、海軍にのみあった下士官兵から累進した「特務士官」に大別されていた(最後の特務士官というのは、下士官兵で習熟すべき実務に熟達している兵曹長(学歴がなければそこで絶対に頭打ちで昇進は出来なかった)をそのまま退役させずに、現役定限年齢も五十歳に延ばして海軍に留めておいた特殊な階級で、叩き上げの優秀なエキスパートであっても、将校には成れず、正規の士官より下位とされて「スペ公」という蔑称で呼ばれた、とウィキの「士官にある)。話を戻してウィキの「海兵から引く。海兵団ではまず、『志願兵、徴兵として海軍兵に採用された新兵は、海兵団に入団すると、数ヶ月間基礎教育を受ける。軍隊教育の基礎であり、海軍兵として進むべき基礎であるから、海軍の一般教育と同じく精神教育、技術教育、体育に分けて課せられる。精神教育は軍人精神の涵養が主眼である。技術教育は将来、海上勤務に必要な一般概念を会得させるほか、兵種によって必要な技能、概念を教える。体育は武技、体技に区別し、厳格な訓練を実施する』。そうした『新兵教育のほか、工術、軍楽術、船匠術補習生、普通科、高等科信号術練習生、掌厨術練習生、特修科軍楽術練習生に区別され』、五『ヶ月ないし』二『箇年間の教育を行ない、特修兵たるべき下士官兵の教育を施す。四等軍楽兵、軍楽術補習生、高等科信号術練習生、特修科軍楽術練習生の教育は横須賀海兵団のみで行なわれ』たとあるので、たかだか六ヶ月のそれはこの練習部教育としか思われないこと、さらにそうした特修兵たるべき下士官兵の教育を受けただけで学歴偏重の海軍の世界でちょっとばかり「えらくな」った「やうな氣」になれるという意味がこのメモでは腑に落ちるからである。但し、「猿」の主人公の私は『私が、遠洋航海をすませて、やつと半玉(はんぎよく)(軍艦では、候補生の事をかう云ふのです)の年期も終らうと云ふ時でした』とあるから、正規の士官候補生であったように読めるようには書かれている。]

 

○候補生――手玉

[やぶちゃん注:「手玉」新全集の編者に悪いのだが、これはもしかしたら、「半玉」の誤読ではありませんか? 「猿」の冒頭に『私が、遠洋航海をすませて、やつと半玉(はんぎよく)(軍艦では、候補生の事をかう云ふのです)の年期も終らうと云ふ時でした』とあるんですけど? 「半」と「手」は誤読し易いですよ……

 

○彈丸はこび(監守號令)

[やぶちゃん注:これは先の海軍監獄での「シジフォスの岩」的な無意味な懲罰のメモであろう。]

 

○赤いブイ

[やぶちゃん注:引用済みだが、再掲すると、「猿」の始めの方に『身體檢査ですから、勿論、皆、裸にさせられるのですが、幸、十月の初(はじめ)で、港内に浮んでゐる赤い浮標(ブイ)に日がかんかん照りつけるのを見ると、まだ、夏らしい氣がする時分なので、これはさう大して苦にもならなかつたやうです』と出る。]

 

2018/02/02

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里 九

 

     九

 

 日本の長者の話には、往々にして福分の相續とでも謂ふべき思想を含んで居る。卽ち前期の長老は緣盡きてすでに沒落し畢り、その屋敷は草茫々として井戶ぐらゐより殘つて居らぬのに、後日其處へ來て偶然に埋めてあつた財寶を掘出し、又掘出すかも知れぬと思つて永い間人が探したこともあつて、其後半は傳說から現世生活にまで繫がつて居る。中にも黃金の鷄の類に至つては其物自體に靈が有るやうにも傳へられ、これを手に入れ得た者の幸運は申すに及ばず、或は其地底の啼聲を聞いて出世をしたなどゝ云ふ話もある。飜つて思ふに二つ岩の團三郞は貉ながらも昔の長者である。其手元から貸出さうと云ふ膳椀であつたとすれば、之を持傳へて果報にあやかりたいと思ふのは常の情である。飛驒の丹生川の鹽屋村で膳椀を貸した故跡の名を長者の倉と云うひ、或は伊勢の椀久塚其他に於て、長老が家の跡に築いたと云ふ塚に椀貸の話のあるのも、つまりは之を借りて一時の用を足す以外に、あはよくば永久に之を我物としようの下心が、最初から有つての上の占領とも見られぬことは無いのである。

[やぶちゃん注:「飛驒の丹生川の鹽屋村」現在の岐阜県高山市丹生川町(にゅうがわちょう)塩屋。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「伊勢の椀久塚」現在の三重県亀山市阿野田町(ここ(グーグル・マップ・データ))の内。三重県公式サイト内の「椀久塚」に、その伝承譚が書かれてある。]

 

 千葉縣印旛沼周圍の丘陵地方は、昔時右樣の食器貸借が最も盛んに行はれたらしい注意すべき場所である。就中印旛郡八生(はふ)村大竹から豐住村南羽鳥(はとり)へ行く山中の岩穴は、入口に高さ一丈ばかりの石の扉あり、穴の中は疊七八疊の廣さに蠣殻まじりの石を以て積み上げてある。里老の物語に日く、往古此中に盜人の主住みて、村方にて客ある時窟に至りて何人前の膳椀を貸して下されと申し込むときは、望み通りの品を窟の内より人が出て貸したと云ふことである。大竹の隣村福田村には此から借りたと云ふ朱椀が一通り殘つて居る由云々。茨城縣眞壁郡關本町大字船玉の八幡宮は、鬼怒川の岸に近い小さな岡の上にある。石段の右手に當つて口もとは四尺四方の平石で圍み、中は前の穴に數倍する古い窟がある。以前にはこの奧に井戶があつたと云ひ、隱れ人と云ふ者が爰に住んで居て、やはり篤志の椀貸をして居つたと云ふ。それから先は他の地方のと同じ話である。

[やぶちゃん注:「印旛郡八生(はふ)村大竹から豐住村南羽鳥(はとり)へ行く山中」前者は千葉県成田市松崎附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。後者はそこから北へ三キロメートルほど行った成田市南羽鳥。ここ(グーグル・マップ・データ)。航空写真で見ると、一部が今も残るが、この二村の間には非常に多くの丘陵地が入り組んである(あった)ことがよく判る。

「大竹の隣村福田村」松崎の北に接する現在の千葉県成田市の福田地区。柳田先生、あなたは自分の椀貸伝承非古墳説に都合が悪いから言っていないのでしょうけれど、この旧八生村大竹から旧豊住村南羽鳥への直線上の、この地区の上福田には上福田岩屋古墳がありますぜ? 偶然、なんですかねぇ?

「茨城縣眞壁郡關本町大字船玉の八幡宮」思うに、これは現在の茨城県筑西市船玉周辺であろう。鬼怒川左岸にあり、しかも右岸の直近である、現在は茨城県結城市となっている久保田には八幡神社がある。ここ(グーグル・マップ・データ)。これかも知れないし、ここに合祀されたのかも知れぬ(鬼怒川越えて合祀するというのは民俗社会的にはそう簡単には行い得ないが、近代なら、容易にやったろう)。ともかくも左岸の船玉地区には神社を地図上では現認は出来ぬ。しかしだ、実はそんなことはどうでもいいんだ。上の地図をよぅく、御覧な、この八幡神社と鬼怒川を挟んで南東八百メートル弱の対称位置に、ほぅれ、船玉古墳(ここはまた、確かに先生のおっしゃる通り、「鬼怒川の岸に近い小さな岡の上」ですねぇ)ってのがありますぜ、柳田先生? これもまたまた偶然なんですかねぇ?! 因みに、この古墳、先生の嫌いな鳥居龍蔵先生が明治期に既に調査報告されてますぜ! 実に偶然とは面白いことでござんすなぁ筑西市公式サイト内のこちらを参照されたい)。]

 

 盜人と云ひ隱れ人と云ふだけではまだ正體がよく分らぬが、さらに同縣關宿附近の長洲村に於て膳椀を貸したと傳ふる岩窟は、其名を隱れ座頭の穴と稱し、やはり前夜に賴んで置いて翌朝貸出したこと、及び里人の違約に起因して其事の絕えたと云ふ話を、弘賢隨筆には二人まで別々に報告をして居る。隱れ座頭は諺語大辭典によれば茶立蟲の異名とあり、又俗說には一種の妖恠とあつて、夕方迷藏戲(かくれんばう)をして遊ぶと隱れ座頭が出ると云ふ諺のあることを記して居る。菅江眞澄の文化年中の紀行を見ると、北海道渡島の江差に近い海岸に、黑岩と稱する窟あつて圓空上人作の地藏を安置し、眼を病む人は米を持參して祈願をかけ驗あり、此穴の中には又隱れ座頭と云ふ者住み、心直き者には寶を授けたりと童の語り草とせりとある。高田與淸の相馬日記もこの時代に出來た紀行であるが、下總印旛郡松崎村の附近に三つの大洞穴があつて、其中に隱れ座頭と稱する妖恠の住んで居たと云ふ噂を載せて居る。然るにその松崎は前にいふ八生村の大字であるのみならず、洞の外に名木の大松樹があると云ふ點まで似て居るから、疑も無く今日の土地の者が、盜人が椀を貸したと云ふ穴と同じであつて、また他の一二の書には此穴の名を隱里(かくれざと)と唱へて居るを見れば、隱れ座頭と云ふ新種の化物は、其隱里の誤傳であつたことが容易に知り得られる。

[やぶちゃん注:「同縣關宿附近の長洲村」「同縣」とあるが、それでは茨城県となるが、「關宿」は現在、千葉県野田市関宿町(せきやどまち)である(ここ(グーグル・マップ・データ)。但し、東で利根川を境に茨城県と隣接し、茨城県猿島(さしま)郡境町(さかいまち)とともに県境を越えた商業中心地ではあったし、次の注の引用からも県を超えた関宿一帯(埼玉県とも江戸川を隔てて西で接する)にこのような伝承があったことは確かである)。長洲村は不詳。識者の御教授を乞う。

「隱れ座頭」はウィキの「隠れ座頭」によれば、北海道・秋田県・関東地方を中心に、日本各地に伝えられている妖怪の一種で、子供を攫う、夜中に物音を立てる、人に福を授けるなど、地方により様々な性質の伝承がある、とする。『茨城県や埼玉県秩父地方では』、『子供が行方不明になることを「隠れ座頭に連れて行かれた」といい』、『秩父ではヤドウカイ』(夜道怪。「宿かい」「やどうけ」とも称する)『に捕らえられたともいう』。『実在の昆虫であるチャタテムシ』(昆虫綱咀顎目に属するチャタテムシ類。コチャタテ亜目 Trogiomorpha・コナチャタテ亜目 Troctomorpha・チャタテ亜目 Psocomorpha の三目に分かれ、有翅と無翅の種がいる)『の立てる音がモデルとの説もあり』、『かつてはスカシチャタテムシ』(チャタテ亜目ケチャタテ下目ホソチャタテ科Stenopsocus 属スカシチャタテ Stenopsocus pygmaeus のことであろう)『の羽音を耳にした人が「隠れ座頭が子供をさらいに来た」などといって子供を脅していたともいう』。『昭和に入ってからも人をさらうという話があり、昭和』十『年代には、東京の青梅市に疎開していた少女が行方不明となり、隠れ座頭に攫われたと大騒ぎになって一大捜査が行なわれた事例がある。その少女は無事に発見されたものの、その後も何度も行方不明になったという』。『神奈川県津久井郡では、夜中に箕を戸外に出すと、隠れ座頭が箕を借りて行ったり、踏みがら(精穀器具)で物を搗く音を立てるといい、そっと行ってみると隣の家で踏みがらを搗いていたりするという。千葉県印旛郡にも似た伝承があり、米搗きに似た音を立てることから狸の腹鼓ともいわれた』。『相州の津久井(現・神奈川県津久井郡)などでは踏唐臼(ふみからうす)の下に隠れている妖怪ともいわれた』。『隠れ座頭の語源は隠れ里ともいわれるが』、『これは隠れ座頭が広く奥羽・関東に渡って巌窟の奥に住む妖怪と信じられ、常人の目に見えない巌窟などの住民と考えられたことから、そのような地底の国が隠れ里と名づけられたことが由来とされている』。『本来の隠れ里は昔話などで理想郷のように語られることが通例だったが、人々の信仰が変化して怪物と解釈されるようになり、座頭の職業に若干の神秘性を伴って隠れ座頭の伝承になったものと考えられている』。『隠れ里にいった者は裕福になれるが、隠れ座頭の足音を聞いた者も裕福になれるとされる』。『茨城県では、隠れ座頭の餅を拾うと長者になるという』。『秋田県横手市でも福を授けるという伝承があり、隠れ座頭の姿はかかとのない盲人で、市の立つ日にこれを見つけると長者になるといわれた』。『また』、『北海道の熊石町(現・八雲町)の黒岩という集落にあった洞窟には、円空上人の作った地蔵尊が安置されているが、この洞窟に隠れ座頭が住んでおり、正直者が洞窟を訪れると宝物を授けたという』とある。

「弘賢隨筆」(ひろかたずいひつ)は幕府御家人の右筆で国学者であった屋代弘賢(やしろひろかた 宝暦八(一七五八)年~天保一二(一八四一)年)の考証随筆。全六十冊。当該部は所持しないので示せない。

「諺語大辭典」(げんごだいじてん)は既出既注であるが、再掲する。国文学者藤井乙男(おとお 慶応四(一八六八)年~昭和二一(一九四六)年)の編になる明治四三(一九一〇)年有朋堂刊の俗諺の辞典。

「菅江眞澄の文化年中の紀行」多数ある(ウィキの「菅江真澄」を参照)ので比定出来ない。ただ、言えることは、文化年中(一八〇四年~一八一八年)には菅江は蝦夷地に渡航しておらず、これは伝聞或いは以前の蝦夷地探訪(天明八(一七八八)年から寛政四(一七九二)年の間)の際の追想と思われる。

「北海道渡島の江差に近い海岸に、黑岩と稱する窟あつて圓空上人作の地藏を安置」現在の北海道二海郡八雲町熊石黒岩町の「円空上人滞洞跡」。ここ(グーグル・マップ・データ)。「八雲町」公式サイト内のこちらに、寛文五(一六六五)年に『松前に渡った円空上人は約』二十『ヶ月を蝦夷地で過ごし、熊石地区黒岩の洞窟にも滞留し、いくつかの作物を残した。根崎神社のご神体・聖観音立像や北山神社、相沼八幡神社のご神体である二つの来迎観音像が円空仏である。(ただし、円空仏像は公開していない。)』とある。地蔵は現存しないと考えられる。

「高田與淸の相馬日記」国学者、高田(小山田)与清(おやまだともきよ 天明三(一七八三)年~弘化四(一八四七)年:武蔵国多摩郡小山田村生まれ。村田春海らに師事し、故実の考証学を専門とし、平田篤胤・伴信友とともに「国学三大家」と称された。天保二(一八三一)年には史館に出仕し、後期水戸学にも影響を及ぼした)が文化一四(一八一七)年八月十七日、神田川河畔を出発し、千葉まで旅行した際の十一日間の日記。題名は平将門が本拠とした城跡(現在の千葉県相馬郡)を訪ねる事が一応の目的であったことに由来する。「奈良女子大学学術情報センター」のこちらで原本画像全篇を視認出来るが、探すのが面倒。悪しからず。

「隱れ座頭と云ふ新種の化物は、其隱里の誤傳であつたことが容易に知り得られる」柳田先生、そこまで鬼の首捕ったように指摘されるのであれば、序でに古墳もあると、なんで、仰らないかなぁ?

 

 隱里から器具を借りた話は此外にも段々ある。津村氏の譚海卷四に、下總成田に近き龍光寺村とあるのは、印旛郡安食(あじき)町大字龍角寺の誤聞で、卽ち盜人とも隱れ座頭とも言うた同じ穴のことらしい。窟は大なる塚の下にあり、これを築造した石はこの地方には産せぬ石材で、これに色々の貝の殼が附いて居た。「村の者は隱里とてそのかみ人住める所にて、好き調度など數多持ちたり、人の客などありて願ひたるときは器を貸したり、今も其を返さで持ち傳へたるものありと云へり」とある。「相馬日記」より少し前に出た著書である。又同じ郡の和田村大字下勝田から同直彌へ行く路の田圃に面した崖の中腹にも、隱里と稱して道具を村民に貸した窟がある。昔は此穴の中で夜更には米を搗く音がしたと云ふ。明治三十四五年頃土木工事の時、此附近から錆た刀劔と二三の什器と二人分の骸骨とが出た。將門亂の時の落武者だと云ふことに決したさうである。又同郡酒々井(しゆすゐ)の町の北、沼に臨んで辨天を祭つてある丘の背面にも、同じ傳說ある窟があつて之を嚴島山の隱里と謂ふ。一名をカンカンムロとも呼ぶのは、この窟に入つて土の面を打つと、金石のやうな響がした爲である。維新以來この中に盜人も住み狐狸も住んで、今では到頭其址が分らなくなつた。

[やぶちゃん注:「津村氏の譚海卷四に、下總成田に近き龍光寺村とある」「譚海」は津村正恭(まさゆき)淙庵(そうあん)の著わした江戸後期の随筆。寛政七(一七九五)年自序。全十五巻。津村淙庵(元文元(一七三六)年?~文化三(一八〇六)年)は町人で歌人・国学者。名は教定。正恭は字で、号は他に三郎兵衛・藍川など。京都生まれで、後に江戸の伝馬町に移り住んで久保田藩(秋田藩)佐竹侯の御用達を勤めたが、細かい経歴は伝わらない。「譚海」は安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年の凡そ二十年間に亙る彼の見聞奇譚をとり纏めたもので、内容は公家・武家の逸事から政治・文学・名所・地誌・物産・社寺・天災・医学・珍物・衣服・諸道具・民俗・怪異など広範囲に及び,雑纂的に記述されてある。平賀源内・池大雅・石田梅岩・英一蝶・本阿弥光悦・尾形光琳などの人物についての記述も見える。多くの文人と交流のあった彼の本領は雅文和歌であったが、今、彼の名は専らこの「譚海」のみで残る(以上は、ウィキの「津村淙庵」及び平凡社「世界大百科事典」と底本解説を参照した)。私は同書の電子化注も手掛けているが、未だ「卷の二」の為体である。以下に原文(「卷の四」の「下總國成田石の岩屋の事」)を示す。一部に私が歴史的仮名遣で読みを附し、読点も追加してある(底本は一九六九年三一書房刊「日本庶民生活史料集成 第八巻」所収の竹内利美氏校訂版)。

   *

○下總成田不動尊の近きあたりに龍光寺と云(いふ)村有(あり)。夫(それ)に四つの井(ゐ)三つの岩やといふ物あり。此(この)井にて一村、飢渇に及(およぶ)事なし。岩屋は二つならびて大なる塚の裾に有(あり)、一つは別にはなれて、同じ如く塚のすそに有。岩屋の入口の大さ壹間(いつけん)に九尺、厚さも八九寸ばかりなる根府川石(ねぶかはいし)の如きを、二つをもて、扉とせり。岩屋の内、皆、大なる石をあつめて組(くみ)たてたるもの也。其石に、みな、種々の貝のから付(つき)てあり、此石、いづれも壹間に壹尺四五寸の厚さの石ども也。岩屋の内、六、七間に五、六間も有、高さも壹丈四、五尺ほどづつ也。此村邊に、すべて、かやうの石なき所なるを、いづくより運び集めて、かほどまで壯大成(なる)ものを造(つくり)たる事にや、由緖、しれがたし。村の者は隱里とて、そのかみ、人住(すめ)る所にて、よき調度など、あまた持(もち)たり。人の客などありて、ねぎたる時は、うつはなど、かしたり、今もそれをかへさで、もちつたひたるものあり、といへり。

   *

「印旛郡安食(あじき)町大字龍角寺」千葉県印旛郡栄町(さかえまち)龍角寺の内であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。安食は現在はここ(グーグル・マップ・データ)で龍角寺の北西。はい、前のリンクした地図を見ましょう! 国指定史跡の岩屋古墳がありまっせ、柳田先生?! ウィキの「龍角寺岩屋古墳」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、方墳で、これは百十四基もある龍角寺古墳群の百五号古墳を指す、とある。『印旛沼北岸の標高約三十メートルの台地上に位置する。築造年代は古墳時代終末期の世紀前半頃との説と、七世紀中ごろとの説がある。これはこれまで岩屋古墳から検出された出土品が全くなく、主に横穴式石室の構造で築造時期についての論議がなされており、築造時代を推定する材料に欠ける上に、龍角寺古墳群内で岩屋古墳の前に築造されたと考えられる浅間山古墳の造営時期が、七世紀初頭との説と七世紀第二四半期との説があることによる』。『墳丘は三段築成で一辺七十八メートル、高さは十三・二メートル、幅三メートルの周溝と周堤が巡っている。同時期の大方墳である春日向山古墳(用明天皇陵)、山田高塚古墳(推古天皇陵)をもしのぐ規模であり、この時期の方墳としては全国最大級の規模であり、古墳時代を通しても五世紀前半に造営されたと考えられる奈良県橿原市の舛山古墳に次ぐ、第二位の規模の方墳である』。『南面には二基の横穴式石室が十メートル間隔で並ぶ。西側石室は奥行四・二三メートル、奥壁幅一・六八メートル、高さ二・一四メートルを測る。東側の石室は西側よりやや大きいが、現在は崩落している。石材は凝灰質砂岩で、この地方で産出される貝の化石を多量に含んだものである。被葬者は不明』一九七〇年に『墳丘と横穴式石室の測量調査が行われている』。『岩屋古墳は現在百十四基の古墳が確認されている龍角寺古墳群に属している。龍角寺古墳群は印旛沼北東部の下総台地上に、六世紀から古墳の造営が開始されたと見られており、当初は比較的小規模な前方後円墳や円墳が築造されていたと考えられている。その後、七世紀前半には印旛沼周辺地域では最も大きな規模の前方後円墳である浅間山古墳が造営され、岩屋古墳は浅間山古墳の後に造営された』。『浅間山古墳造営までの龍角寺古墳群は、丘陵内の印旛沼に面した場所に造られた古墳が多かったが、浅間山古墳以降は古墳群の北に当時存在した、香取海方面からの谷奥の丘陵上に築造されるようになった。岩屋古墳も香取海方面からの谷の奥に当たる場所に築造されており、これは印旛沼よりも香取海方面を意識した立地と考えられている』。『岩屋古墳以降、龍角寺古墳群ではみそ岩屋古墳など、方墳の築造が七世紀後半にかけて行われたと考えられている』。『岩屋古墳は測量の結果によれば一辺約七八メートル、高さ約十三・二メートルの方墳で、墳丘は三段築成されていて、一段目と二段目が低く三段目が高くなっている。墳丘周囲には南側を除く三方に約三メートルの周溝がめぐり、周溝の外側には外堤が見られる。これらを含めると』、『全体規模は百十メートル四方に達する。また』、『二〇〇八年に行われた測量調査により、墳丘南側の谷側から墳丘に向かって、斜路が作られていたことが判明した』。『埋葬施設である横穴式石室は墳丘の南側の裾部中央に二つあり、ともに羨道をもたない両袖式の玄室だけの構造である。東側の石室は長さ約六・五メートル、幅二メートル強、西側は四・二メートルである。石室は両石室とも木下貝層と呼ばれる印旛沼近郊の狭い範囲に露出する貝の化石を含む砂岩で築造されている。軟らかい石材であることもあって、長さ六十~百センチ、幅三十センチくらいに切った石を煉瓦を積むように互い違いに積み上げている。また』、『石室内で棺を置いたと思われる場所には、浅間山古墳の横穴式石室で用いられた茨城県筑波山近郊で産出される片岩を使用している。龍角寺古墳群で岩屋古墳以降に築造されたみそ岩屋古墳などの方墳では片岩は用いられることがなく、貝の化石を含んだ砂岩のみが用いられることからも、古墳の築造順は浅間山古墳、岩屋古墳、岩屋古墳以外の方墳という順序であったことが推定できる』。『岩屋古墳の横穴式石室は、古文書の内容から一五九一年(天正十九年)にはすでに開口していたと考えられており、開口していた石室をめぐって』「貸し椀伝説」『という伝説が伝えられるなど、民間信仰の対象となっていた。古くから石室が開口していたことと、本格的な発掘がまだ行われていないため、岩屋古墳からはこれまでのところ副葬品は全く発掘されていない』とある。

「同じ郡の和田村大字下勝田から同直彌へ行く路の田圃に面した崖の中腹」現在の千葉県印旛郡栄町和田の南の、千葉県佐倉市下勝田(ここ(グーグル・マップ・データ))から同地区の南西に接する同町の直弥(ここ(グーグル・マップ・データの航空写真)で、下勝田から続く写真の中央附近が今も田園地帯である。この北側であろう。

「明治三十四五年」一九〇一~一九〇二年。

「錆た刀劔と二三の什器と二人分の骸骨とが出た」これってやっぱ「將門亂の時の落武者」なんぞではなくって、古墳の副葬品でしょう?!

「同郡酒々井(しゆすゐ)の町」現在の千葉県印旛郡酒々井町(しすいまち)はここ(グーグル・マップ・データ)だが、沼さえも現認出来ない。しかし、同町の北部には上岩橋大鷲神社古墳(ここ(グーグル・マップ・データ))とかありまっせ! 柳田先生?! そこれにこの直近には印旛沼新田という地名もあって、その西の川は北直近の印旛沼に繋がってる。印旛沼ならはっきり書くだろうから、この「沼」は印旛沼の南のこの印旛沼新田の附近に嘗てあったのではないかとも思ったりしたところが、「カンカンムロ」の方で検索に引っ掛かったぞ! やっぱり、古墳だ! 古墳! 「カンカンムロ横穴群」(グーグル・マップ・データ)だ! ここが「嚴島山の隱里」だと書いてある! 酒々井町教育委員会の『酒々井風土記「28 厳島山のカンカンムロ」』に詳しいぞ! 椀貸伝承も載ってるぞ! そんでもって、そこからの出土品の銅椀(七世紀後半と推定)の写真もそこにはあるぞえ! 柳田先生、「カンカンカムロ」の語源なんぞどうでもいい(というか、リンク先では『ある男が』借りた椀を『蔵に隠して返さずにいた。ところが』、『いつの間にか、蔵に隠したお椀とお膳は消えてしま』い、『それからというもの、いくらお願いしても品物が出てくることは無く、柏手の音が「カンカン」と「ほら穴」にひびくだけでした』。そこから、『そののち』、この『「ほら穴」は「カンカンムロ」と呼ばれるようになりました』とあって椀貸伝承と名称の因果が語られていて、こっちの方が腑に落ちる。柳田の言うように、わざわざこ『の窟に入つて土の面を打つ』何の必要があるというのか。序でに言えば、『金石のやうな響がした』のは、それこそ、その地下に古墳の玄室空間があったからかも知れんぞぅ)! これこそ椀貸の銅椀デッショウが!!

 

 利根川圖志卷二には下總猿島郡五霞村大字川妻の隱里の話を錄して居る。村の名主藤沼太郞兵衞の先祖、下野から來てこの村を拓いた頃、村に隱里あつて饗應の時は此處から膳椀を借りた。故あつて十具を留め返さず、今なおその一二を存す、朱漆古樣頗る奇品だとある。弘賢隨筆の隱れ座頭の穴はこれから近い。あるいは同じ穴の噂かも知れぬ。前に出した常州眞壁郡船玉の隱れ人の穴も、茨城名勝志にはやはりその名を隱里と稱へて居る。同郡上妻村大字尻手(しつて)の文殊院に、ここから借りて返さなかつた椀が大小二つあつた。内朱にして外黑く朱の雲形を描き、さらに金泥をもつて菊花及び四つ目の紋を書いてあつたと云ふ。四つ目の紋は我々にとつて一つの手掛である。越中市井(いちのゐ)の甲塚(よろひづか)、「越の下草」と云ふ書には甲塚の隱里とある。百五十年前既に田の中の僅な塚であつたと言へば、今では痕跡すらも殘つては居るまい。他の多くの例では前日に賴んでおくと翌朝出て居たと云ふに反して、これは一度歸つて來て暫く經つて行けばもう出て居たと言つて居る。この點だけが一つの特色である。

[やぶちゃん注:「利根川圖志卷二には下總猿島郡五霞村大字川妻の隱里の話を錄して居る」「利根川圖志」は下総国相馬郡布川村(現在の茨城県北相馬郡利根町布川)生まれの江戸末期の医師赤松宗旦(義知)(文化三(一八〇六)年~文久二(一八六二)年が著した、非常に優れた利根川の地誌で、私の愛読書でもある。以上は「卷二 利根川上中連合」の中に、「川妻」(現在の茨城県猿島(さしま)郡五霞町(ごかまり)川妻(かわつま)(ここ(グーグル・マップ・データ))附近)の項の後に、詳細な膳椀図とともに記されてある。私の所持する岩波文庫版(柳田國男校訂・昭和一三(一九三八)年刊)を読み込んでみたが、膳椀図の測定値の字が潰れてうまくないので、国立国会図書館デジタルコレクションの画像を取り込み、トリミングして示した。解説部は非常に読み易いので、電子化するまでもない。何より、膳椀図が詳細を極めて素晴らしい

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老婆心乍ら、敢えて注しておくと「畢てヽ」は「はてて」(果てて)で「使い終わって」の意、「置」の下は「けり」、「彈三郞狸」は先に出た団三郎狸と同じ。

「弘賢隨筆の隱れ座頭の穴はこれから近い。あるいは同じ穴の噂かも知れぬ」先に比定した千葉県野田市関宿町は茨城県猿島郡五霞町川妻から南東に七キロメートルほどであり、やや離れている。しかし、実は利根川の分岐点という地形的形状は異様に酷似した場所ではある。それを地図上で見るにつけ、ここは私も柳田の同一推定に賛同したくなる。

「茨城名勝志」小野直喜編で明三三(一九〇〇)年刊。

「同郡上妻村大字尻手(しつて)の文殊院」現在の茨城県下妻(しもつま)市尻手(しって)にある真言宗文殊院。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「越中市井(いちのゐ)の甲塚(よろひづか)」既出既注

「越の下草」越中国砺波郡下川崎村(現在の富山県小矢部市下川崎)生まれの武士で篤農家(農学者)宮永正運(みやながしょううん/まさかず/まさゆき 享保一七(一七三二)年~享和三(一八〇三)年)の著になる地誌三十二歳で五代目の家督を嗣ぎ、四十九歳で加賀藩より砺波・射水両郡の蔭聞横目役(かげききよこめやく:郡内の百姓の監視及び諸事の見分及び新田裁許を兼務した役らしい)・山廻役(やままわりやく:国境警備及び杉・欅・檜など樹木保全の見分役)を命じられ、新川郡を加えた越中三郡の産物裁許役をも兼ねた。著書に「荒年救食誌」「養蚕私記」「私家農業談」といった農学書があり、俳句もよくし、「桃岳句集」がある。「越の下草」は天明六(一七八六)年頃に書かれたもので、正運が加賀藩山廻役という役目柄、領内を広く廻ったことから、その折りの見聞を書き留めたもの。越中各地の地名由来・名所旧跡・神社仏閣の来歴・産物・山川湖池の様子から、伝説・奇談など、多岐多彩に亙る。流布本は三巻であるが、正運が編纂した稿本は六巻から成る。柳田の言うのは流布本で、稿本は東京大学史料編纂所で所蔵のそれ解読されて刊行されたのは一九八〇年のことであった(以上はウィキの「宮永正運」に拠った)。]

2018/02/01

進化論講話 丘淺次郎 第九章 解剖學上の事實(4) 四 血管並に心臟の比較

 

     四 血管並に心臟の比較

 

 以上は僅に二三の例を擧げたに過ぎぬが、比較解剖學上の事實は殆ど一として生物進化の證據とならぬものはなく、比較解剖學の書物を開いて見ると、殆ど每頁にかやうな事實が載せてある。倂しその中、内部諸臟腑に關することは頗る複雜で、突然説いても解りにくいことが多いから總べて略して、こゝにはたゞ一つ脊椎動物の血管系統のことを述べることとする。

 

Hitonojyunkankei

[人類の心臟及び動脈基部]

[以上は図内部に文字が記されているので、底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミング・補正して示した。]

 

 人間を始として、總べて哺乳類の心臟は左右の心耳、左右の心室より成り、左心室からは一本の大動脈が出て、頭・腕等へ血を送るべき枝を出しながら、左へ後へ向つて曲り、脊骨の前を沿うて下へ進み、内臟・脚等へ血液を送り、また右心室からは一本の肺動脈が出て、直に左右の二枝に分れて左右の肺に達する。全身を巡つた血は右心耳へ歸り、肺で淸潔になつた血は左心耳へ歸り、斯くして體内の血液循環が行はれる。之だけはどのやうな生理書にも必ず書いてあること故誰も知つて居るが、次に魚類では、血液循環の模樣は如何と見るに、之は人間等のとは全く違つて、心耳も心室も各々一個づゝよりなく、心室から前へ向つて出た一本の大動脈は、直に左右各々四五本づゝの枝に分かれて、悉く鰓の中に入つてしまひ、鰓の中で非常に細い管に分かれ、再び集まつて各々一本となるが、血液がこゝを通過するときに呼吸の働きが行はれるのである。而して各々一本づゝとなつて鰓を出た血管は、皆集まつて一本となり、脊骨の下に沿うて後へ進む。途中から種々の枝は出すが、動脈の幹部だけは先づこの通りである。斯くの如く、獸類の血管系と魚類の血管系とは、一寸見ると全く相異なり、少しも似た點がないやうである。然るに龜の血管、蛙の血管、蠑螈[やぶちゃん注:「ゐもり(いもり)」。]の血管、また外國には蠑螈に似て生涯鰓を以て呼吸する類があるが、かやうな動物の血管等を調べ、順を追うて比較すると、人間の血管の何の部は魚の血管の何の部に相當するといふことが判然と知れ、兩方とも元同一の模型によつて造られてあることが明瞭に解る。

[やぶちゃん注:「心耳」「しんじ」。解剖学上は、かく言うと、心臓の心房の一部が前方に向かって耳朶(みみたぶ)のように突出し、肺動脈の基部を前から蔽っている、心房のごく一部分を指す(当該箇所は薄い先の細い嚢状を呈していて内部には櫛状の高まりが並んでいる)。しかし、丘先生の解説を読む限り、これは「心房」と同義で用いていることが判る。

「蠑螈に似て生涯鰓を以て呼吸する類」これはまず、代表種として両生綱有尾目ホライモリ(洞井守)科ホライモリ属ホライモリ Proteus anguinus を挙げるべきであろう。一属一種で、ディナル・アルプス山脈(バルカン半島のアドリア海沿岸に北西から南東へ伸びる山脈)のカルスト洞穴(鍾乳洞)にのみ棲息する洞穴性の固有種で、スロベニアからイタリアのトリエステに流れるソカ川流域から、クロアチア南西部とボスニア・ヘルツェゴビナにのみ分布している。全個体が幼形成熟(neoteny:ネオテニー。動物に於いて、性的に完全に成熟した個体でありながら、非生殖器官に、未成熟な、則ち、幼生や幼体の性質が残る現象)することが特徴で、生涯に渡って外鰓を持ち、水から出ることは、ないウィキの「ホライモリ」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、『体はヘビのような形で、通常二〇~三〇センチメートル、最大個体は四〇センチメートル程度になる。体は一様な太さの円筒形で、筋節の境界に一定間隔で溝がある。尾は比較的短く側扁し、薄い鰭がある。四肢は小さくて細い。他の両生類と比べ指の数が少なく、前肢には三本(通常の両生類は四)、後肢には二本(通常は五)の指しかない。体は薄い皮膚に覆われ』、『黄白色からピンク色』を呈する。『体側面に入る皺(肋条)は左右に二十五~二十七本ずつ。灰色や黄色、ピンクがかる個体もいる。光の下では腹部の内臓器官が透けて見える。体色が白人の皮膚に似ていることから、いくつかの言語では「人の魚」を意味する名で呼ばれる。だがメラニン』(melanin)『の生産能は残っており、明所で飼育された個体は色素ができるため、体色が青灰色になる。幼生も着色していることがある。頭部は洋梨形で、短く縦扁した吻を持つ。口の開口部は小さく、歯は微小で篩状となり、水中の大きな粒子を濾し取る。鼻孔は判別できないほど小さく、吻端の側方に位置する。眼は退縮しており、皮膚の層に覆われる。呼吸は頭部後方にある、二つの分岐した房からなる外鰓で行われる。外鰓は酸素に富む血液が皮膚越しに見えるため、赤色である。簡易な肺も持つが、その呼吸機能は補助的なものに過ぎない。雌雄は似ているが、雄の総排泄孔は雌より膨らんでいる』。『洞穴性動物は無光環境に生息するため、他の適応と共に、視覚によらない感覚系を発達させることが求められる。本種も地下水に生息するため、他の両生類よりも視覚以外の感覚を発達させている。本種は成体でも幼生の形態を維持しているために頭部が大きく、多数の感覚受容器を持つことが可能となっている』。『眼は退化しているが、光への感受性は残っている。皮下に深く埋め込まれており、若い個体を除いては体外からは確認できない。幼体は通常の眼を持つが、すぐに成長が停止して退縮し始め、四ヶ月後には最終的に萎縮する。松果体にも、退縮してはいるが光を感じる細胞があり、眼と同様に視覚色素を保持している。松果体は生理学的プロセスの制御にもある程度』、『関わっている。行動学的実験によって、皮膚自体にも光を感じる能力があることが示されている。外皮の光感受性は特殊化した細胞(メラノフォア』(melanophore黒色素胞。動物の色素細胞の一種で細胞質内にメラニン顆粒を多数含んでいるもの。魚類・両生類・爬虫類などの真皮にあり、体色変化に関係する)『)にある光受容体(メラノプシン』(melanopsin)『)によるもので』、『予備的な免疫細胞化学的解析によってもこの結果は裏付けられている』。『頭部前方には鋭敏な化学・機械・電気受容器が存在』し、『水中の非常に低濃度の有機化合物を検出でき、質・量の両面において、他の両生類より獲物の匂いを検出する能力が高い。鼻孔の内面とヤコブソン器官』(Jacobson's organ(vomeronasal organ):鋤鼻器(じょびき)。四肢動物が嗅上皮とは別に持つ嗅覚器官)『を裏打ちする嗅上皮は、他の両生類より厚くなっている。口内の粘膜上皮には味蕾があり、ほとんどは舌の上面と鰓室の入り口に集まっている。舌上面の味蕾は餌を味わい、鰓室の味蕾は水中の化学物質を感じ取る役割があると考えられる』。『内耳の感覚上皮は非常に特殊化しており、水中の音波を地面の振動と同様に聴き取ることができる。感覚細胞の複雑な機能・形態的配置によって、音源の方向を特定することもできる。幼形成熟するため、本種が空気中の音を聴く機会は少ないと考えられる』。『本種の頭部からは光と電場に反応する新しいタイプの感覚器官が発見されており、“ampullary organ”』(電気受容器官)『と呼ばれている』。『他の基底的な脊椎動物でも見られることがあるが、本種は弱い電場を検出できる。また、いくつかの行動学的研究からは、地磁気や人工的な磁場に体を沿わせる行動を取ることも示された』。夏季の水温が摂氏九~十度、冬季水温でも五~六度はある『鍾乳洞内の水中や地下にある水たまりなどに生息する』。『卵の孵化には百四十日、性成熟にはその後十四年かかる。幼生はおよそ四ヶ月でほぼ成体と同じ外見となるが、成長は水温の影響を強く受ける。歴史的には、本種は胎生だと考えられていたこともあったが、雌の体内には魚類や卵生の両生類と同様の、卵嚢を分泌する腺が存在する。また、水温が低い時には幼体を産むとされていたこともあるが、厳格な観察から、本種は完全な卵生であると結論づけられている』。『雌は十二~七十個の卵を産む。卵の直径は約十二ミリメートルで、卵は岩の間に置かれ、雌に守られる。孵化した幼生は二センチメートル程度で、一ヶ月ほどは消化管細胞に蓄えた卵黄によって成長する』。『本種などの真洞穴性両生類は、その異時性によって特徴付けられる。本種は体細胞の成熟を遅らせ、生殖細胞の成熟を早めることで変態を行わず、幼生の特徴を残した幼形成熟と呼ばれる状態にある。他の両生類では、変態は甲状腺から分泌されるチロキシン』(Thyroxine:甲状腺の濾胞から分泌される甲状腺ホルモンの一種で成長(変態)を掌る)『によって制御される。本種の甲状腺は正常に発達して機能しており、変態が行われないのは組織がチロキシンに応答しないことによる』。『頭部は長く、外鰓を持つ』。『遊泳は体をくねらせることによって行い、四肢は補助的に用いられるのみである。肉食性で、小さなカニや巻貝、稀に昆虫を食べる。餌を噛むことはできないため』、『丸呑みする。地下環境への適応として、長期間の飢餓に耐えることができる。また、一度に大量の餌を食べることもでき、余剰の栄養は肝臓に脂質やグリコーゲンの形で沈着する。餌が少ない時には代謝と活動レベルを落とし、深刻な場合には自身の組織を再吸収することもできる。実験的には、餌なしで十年間生存した例がある』。『群居性であり、石の下や割れ目などに集合する』が、『繁殖可能な雄は例外で、縄張りを持つ。地下環境では餌が少ないため』、『直接の闘いはコストが高く、通常、雄同士の争いはディスプレイのみで行われる』。『繁殖行動は飼育下でのみ観察されている。繁殖可能な雄は総排泄孔が膨らみ、体色が明るくなり、尾の側面に線が出現し、尾の鰭が屈曲する。雌にはこのような変化は見られない。雄は雌が存在しない場合でも繁殖行動を始め、他の雄を縄張りから追い払い、雌を引き寄せるフェロモンを分泌する。雌が近づくと雄はその周りを回り、尾で水を送る。その後、雄は吻を雌の体に触れ、雌は吻を雄の総排泄孔に触れる。その後、雄は体を震わせながら前方に進み、雌はそれに続く。雄は精包を放出し、雌は総排泄孔に精包を付着させて前進を止める。精子は総排泄孔から雌の体内に入り、受精する。この行動は数時間にわたって数回繰り返される』。『寿命は五十八年程度と推定されていたが、二〇一〇年の研究では、平均で六十八・五年、最大で百年と推定されている。寿命が非常に長いため、寿命と体サイズの比において、本種は他の両生類から外れた高い値を示す』とある。また、本種は非常に古くから存在が知られており、『本種をドラゴンの幼体であるとする民間伝承もあり、ドラゴンズベビーとの呼び名もある。クロアチアの天然記念物であ』る。さて、次に挙げるべきは(但し、丘先生はイモリ(有尾目イモリ亜目イモリ科イモリ属 Cynopsに似たと言っているから、狭義に考えるなら、ホライモリだけでも本当はよいと私は考えている――概ね、私より少し若い世代より上の人ならよく記憶しているはずの、「ウーパールーパ」、両生綱有尾目トラフサンショウウオ科トラフサンショウウオ属メキシコサンショウウオ Ambystoma mexicanum――を始めとした幼形成熟したトラフサンショウウオ科 Ambystomatidaeの幼体成熟個体であろう。幼体成熟が正規のライフ・サイクルである本種メキシコサンショウウオ Ambystoma mexicanum(英名:Mexican salamander)を代表格としたたトラフサンショウウオ科の幼体成熟個体は英語で“Axolotl”片仮名音写で「アホロートル」とするが、発音は「アショロォル」が近い)と呼ばれる。「ウーパールーパー」に至っては日清食品の焼きそば「UFO」の商品PR用のメキシコサンショウウオ(の幼体成熟個体)のキャラクター名に過ぎず、本邦でしか通用しない流通名である。但し、同科の種は幼体成熟する種よりも、普通に水陸に両生出来る成体個体に成長する種の方が圧倒的に多いはずである。メキシコサンショウウオ Ambystoma mexicanum は(ウィキの「メキシコサンショウウオ」より引く。アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、現在はメキシコのソチミルコ湖(Xochimilco:はメキシコの首都メキシコシティ連邦区内にある十六の行政区(delegaciones)の一つであるが、メキシコシティ中心部からは南へ二十八キロメートル離れている。ここにはかつて広大な湖があったが、現在は極めて縮小・分散化している。運河が多い)の周辺に棲息する固有種である。『全長十 ~二十五センチメートル。メスよりもオスの方が大型になり、メスは最大でも全長二十一センチメートル。通常は幼生の形態を残したまま性成熟する。胴体は分厚い。小さい孔状の感覚器官は発達しないが、頭部に感覚器官がある個体もいる。左右に三本ずつ』、『外鰓がある。背面の体色は灰色で、黒褐色の斑点が入る』。『上顎中央部に並ぶ歯の列(鋤口蓋骨歯列)はアルファベットの逆「U」字状。四肢は短く、指趾は扁平で先端が尖る。水かきはあまり発達せず、中手骨や中足骨の基部にしかない』。『自然下では水温が低くヨウ素が少ない環境に生息し、チロキシン『を生成することができないため』、『変態しない』。『繁殖様式は卵生。十一月から翌一月(四~五月に繁殖する個体もいる)に、水草などに一回に二百~千個の卵を産む』。『開発による生息地の破壊、水質汚染などにより生息数は激減して』おり、『以前はメキシコ盆地内のスムパンゴ湖やチャルコ湖・テスココ湖にも生息していたが、埋め立てにより』、『生息地が消滅した』。『一九七五年のワシントン条約発効時からワシントン条約附属書に掲載されている』。『ペットや実験動物として飼育されることもある。国際的な商取引が規制されているため、日本ではほぼ日本国内での飼育下繁殖個体のみが流通する』。『飼育下では白化個体などの様々な色彩変異が品種として』作り『出されている』。『飼育下ではサイロキシンの投与や水位を下げて飼育することで変態した例もある』とあるが本種が幼体成熟種であることが判ったのは、確か、ある海外の飼育園で、ある日、本種が陸に上がって、緑色の立派な成体に変態したのが発見されたことに由来するはずである。確かにそう書かれた書をかつて読んだ。そこにはそのような処置は書かれていなかったから、私は本種は自然界でも成体に成熟すると考えている(現地では成熟した成体を別種として認識していたのではあるまいか、とさえ私は考えている)。発見し次第、追記したい。]

 

Haigyojyunnkankei

[肺魚類の心臟及び動脈基部]

[やぶちゃん注:同前の理由から国立国会図書館デジタルコレクションの画像を使用した。]

 

Haigyonoisyu

[肺魚類の一種]

[やぶちゃん注:これは底本画像が暗いため、講談社学術文庫版を使用したが、図版は全く異なるものである(種は同一で、以下の注で示す、オーストラリアハイギョ(ネオケラトドゥス・フォルステリ)Neoceratodus forsteri と思われる)。]

 

 尤もこれらのことは、以上諸動物の比較發生を調べれば、尚一層確に解るが、之は次の章に讓り、こゝにはたゞ解剖上の事實だけを述べて見るが、魚類では呼吸の器械は全く鰓ばかりで、心室から出た大動脈は悉く鰓を通過するから、その先は總べて呼吸の濟んだ血ばかりが身體を循環し、總べてが靜脈血となつて心耳に歸つて來る。それ故、魚類では心臟を通るのは靜脈血ばかりである。所が、魚類の中には肺魚類といふて、熱帶地方の大河に住む奇妙な類がある。この類は既に名で解る通り、鰓の有る外に肺を有し、呼吸の器官が水に適するものと、空氣に適するものと二通りになつて居るが、一體熱帶地方では我々の温帶地方と違ひ、一年が春夏秋冬の四季に分かれず、半年は雨降りが續き、半年は旱魁が續いて、一年が殆ど乾濕の二期に分かれてあるから、かやうな處に住するには最も調法な仕掛けである。卽ち水の多い時には普通の魚と同じく水中を泳いで水を呼吸し、次に旱魃が續いて水が無くなれば泥の中へ潛り込み、僅に空氣を呼吸して命を繫ぎ、また雨の降る時の來るのを待つことが出來る。而してその肺は如何なるものかと調べると、別にこの類だけにある特殊の器械ではなく、鯉・鮒等の如き普通の魚類にも常に見る所の鰓である。通常の魚類では鰾[やぶちゃん注:「うきぶくろ」。]は何の役に立つかといふに、中に彈力性に富んだ瓦斯を含んで居ること故、周圍の筋肉が收縮すれば、鰾は小くなり、體の重量は減ぜずに容積の方だけが減じて體の比重が增すから、魚の體は自然に深い方へ沈む。また筋肉が弛めば瓦斯の彈力性により鰾は舊の大きさに復し、體の比重が減ずるから、魚の體は再び表面の方へ浮び上る。金魚などを飼つて置いて見て居ると、鰭も尾も少しも動かさずにたゞ靜に浮いたり、沈んだりすることがあるが、之は全く鰾ばかりの働である。斯かる魚は死んでしまへば總べて筋肉が弛むから、鰾は中にある瓦斯の自然の彈力で脹(ふく)れ、體の比重が減ずるから、恰も木の片の如くに水面に橫に浮ぶ。斯くの如く鰾は普通の魚では水中浮沈の器官であるが、肺魚類ではこの器官が不完全ながら肺の働きを務める。そのためには管によつて食道と連絡して居る。鯉・鮒等でも全くこの連絡がないのではない。やはり鰾と食道とは明に細い管で續いて居るが、幾ら鰾を壓しても食道の方へ瓦斯の洩れぬ所から考へると、單に管があるといふだけで、實際瓦斯の通行することはないらしい。卽ち鯉・鮒等に於ては、この管は一種の不用器官に過ぎぬ。然るに肺魚類ではこの管が實際に役に立ち、空氣は口より食道に入り、この管を過ぎて鰾の中へ流通するから、鰾は肺として働くことが出來る。普通の蛙の蝌蚪[やぶちゃん注:「おたまじやくし」。]、竝にヨーロッパアメリカ等に産する一生涯水中に住んで鰓を以て水を呼吸する蠑螈の類の呼吸の有樣は、略々之と同樣である。

[やぶちゃん注:「肺魚」脊椎動物亜門肉鰭綱肺魚亜綱 Dipnoi に属し、ケラトドゥス目 Ceratodontiformes・レピドシレン目 Lepidosireniformes に分かれる。肺や内鼻孔などの両生類的な特徴を持ち、「生きている化石」と呼ばれる。約四億年前のデボン紀に出現し、化石では淡水産・海産を合わせて約六十四属二百八十種が知られるが、現生種は全て淡水産で

ケラトドゥス目ケラトドゥス科ネオケラトドゥス属オーストラリアハイギョ(ネオケラトドゥス・フォルステリ)Neoceratodus forsteri

(オーストラリア北東部にのみ分布。全長約一・五メートル。「ネオケラトダス」「ネオセラトダス」「ネオセラトドゥス」という表記もある)

レピドシレン目ミナミアメリカハイギョ科ミナミアメリカハイギョ属ミナミアメリカハイギョ(レピドシレン・パラドクサ)Lepidosiren paradoxa

(南アメリカのアマゾン川流域やラプラタ川流域に分布。全長六〇~九〇センチメートル前後。紐状の対鰭を持つ)

レピドシレン目プロトプテルス科アフリカハイギョ四種

プロトプテルス・アネクテンス Protopterus annectens

(サブサハラ・アフリカ(Sub-Saharan Africa:アフリカ大陸及び周辺島嶼の内、サハラ砂漠以南、北アフリカ以外を指す)の広域に分布。アフリカ西部と南東部で、それぞれ、亜種アネクテンス Protopterus annectens annectens・亜種ブリエニー Protopterus annectens brieni とに分けられている。全長約八〇センチメートル。紐状の対鰭を持つ)

プロトプテルス・エチオピクスProtopterus aethiopicus

(アフリカ熱帯・亜熱帯値域に分布。ナイル川流域に基亜種エチオピクス Protopterus aethiopicus aethiopicus・コンゴ川流域に二亜種コンギクス Protopterus aethiopicus congicus・メスメケルシー Protopterus aethiopicus mesmaekersi が報告されている)

プロトプテルス・アンフィビウス Protopterus amphibious

(東アフリカに分布。全長約六〇センチメートルの最小のハイギョ。胴が短い。他のアフリカハイギョと同様に対鰭は紐状であるが、胸鰭後方の放射が発達している。外鰓は成体でも痕跡が残る)

プロトプテルス・ドロイ Protopterus dolloi

(コンゴ川・オゴウェ川流域に分布。全長は一メートル以上で、プロトプテルス属中、最も胴が細長い。紐状の対鰭を持つ)

計六種(+三亜種)のみが知られる。以下、参照したウィキの「ハイギョより引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『ハイギョは他の魚類と同様に鰓(内鰓)を持ち、さらに幼体は両生類と同様に外鰓を持つものの、成長に伴って肺が発達し、酸素の取り込みの大半を鰓ではなく肺に依存するようになる。数時間ごとに息継ぎのため水面に上がる必要があり、その際に天敵のハシビロコウやサンショクウミワシなどの魚食性鳥類に狙われやすい。その一方で、呼吸を水に依存しないため、乾期に水が干れても次の雨期まで地中で「夏眠」と呼ばれる休眠状態で過ごすことができる。この夏眠の能力により、雨期にのみ水没する氾濫平原にも分布している。アフリカハイギョが夏眠する際は、地中で粘液と泥からなる被膜に包まった繭の状態となる。「雨の日に、日干しレンガの家の壁からハイギョが出た」という逸話はこの習性に基づく』。『オーストラリアハイギョが水草にばらばらに卵を産み付けるのに対し、その他のハイギョでは雄が巣穴の中で卵が孵化するまで保護する。ミナミアメリカハイギョの雄は繁殖期の間だけ腹鰭に細かい突起が密生し、酸素を放出して胚に供給する』。『ハイギョは陸上脊椎動物と同様に外鼻孔と内鼻孔を備えている。正面からは吻端に開口する1対の外鼻孔が観察でき、口腔内に開口している内鼻孔は見えない。肺魚類と四足類は内鼻孔を持つという共通項から内鼻孔類とも呼ばれた』。『ハイギョの歯は板状で「歯板」と呼ばれる。これは複数の歯と顎の骨の結合したもので貝殻も砕く頑丈なものである。獲物をいったん咀嚼を繰り返しながら口から出し唾液とともに吸い込むという習性を持つ。現生種はカエル、タニシ、小魚、エビなどの動物質を中心に捕食するが、植物質も摂食する。頑丈な歯板は化石に残りやすいため、歯板のみで記載されている絶滅種も多い。ハイギョの食道には多少の膨大部はあるものの、発達した胃はない。このためにじっくりと咀嚼を繰り返す。ポリプテルス類、チョウザメ類、軟骨魚類と同様に、腸管内面に表面積拡大のための螺旋弁を持つ。総排出腔は正中に開口せず、必ず左右の一方に開口する。糞はある程度溜めた後に、大きな葉巻型の塊として排泄する』とある。さらに、小学館の「日本大百科全書」から本叙述に関わる、「呼吸と血液循環」の項によれば、現生肺魚の鰾(うきぶくろ)は、『左右の二室に分かれている(プロトプテルスとレピドシレン)か、あるいは対をなさずに左右にくびれており(ネオケラトドゥス)、内面には胞状構造がよく発達して血管が密に分布し、肺の形状を備えている。肺魚はこの肺を用いて空気呼吸を行うが、同時に種々の程度のえら呼吸も行っている。肺呼吸への依存度はプロトプテルスとレピドシレンで高く、これらの種類は肺呼吸のみでの生存は可能であるが、えら呼吸のみでは不可能である。ネオケラトドゥスではえら呼吸の比率が高く、えら呼吸のみでの生存は可能であるが、肺呼吸のみでは不可能である。また、前二者は幼期に両生類と同様の外鰓(がいさい)がある。肺魚類は血液循環系でも条鰭類とは異なっている。条鰭類の循環系は心臓→えら→全身→心臓と一巡する単純回路であるが、肺魚ではこの回路のほかに心臓→えら→肺→心臓という回路があり、また心房と心室を左右に分ける不完全な中隔があって、肺からの血液と静脈血の混合がある程度防がれている。肺魚の循環系は、体循環と肺循環に分かれた四足動物の循環系への移行型といえよう。形態と同様に心臓の構造と肺呼吸の面でもネオケラトドゥスがもっとも原始的である』とある。]

 

 普通の魚類の鰾は素より一種の臟腑として、血液によつて養はるべきもの故、鰾を通過する動脈の中の一本から枝が分かれてこゝに來るやうになつて居るが、來るのは無論動脈血で、歸るのは靜脈血である。然るに鰾が呼吸の器官として働く種類では、血管の配置の模樣は少しも相違はないが、鰾に來た血は更に淸潔となつて心耳に歸るから、心耳の中には一方からは全身を巡つて來た靜脈血が入り來り、一方からは鰾卽ち肺から歸つた純粹の動脈血が入つて、二種の血が一所に出遇ふことになる。或る種類では既に心耳が多少左右の兩半に分かれ、右の方へは全身を巡つた血、左の方へは肺から歸つた血が入るやうになりかゝつて居る。

 倂し水の中に居るときは鰓だけが働き、陸上へ出れば肺だけが働き、一方の働く間は他の方は必ず休んで居て、決して兩方同時に働くことは出來ず、つまり孰れも半分より働けぬから、一疋で鰾と肺とを兼ね備へて居ることは使利なやうでありながら、實はさやうでない。諺にも「二兎を追うものは一兎を獲ず」といふ通り、二種の働きを兼ねるものは到底一種だけを專門とするものの如くには發達せず、所謂「虻も取らず、蜂も取らず」といふ有樣で、水中の呼吸に於てはたゞ鰓ばかりを有する魚類に及ばず、空氣を呼吸するに當つてはまた肺だけを有する蛙にも及ばず、敦れの方面でも他に優ることが出來ず、僅に特別に之に適した事情のある場處だけに生存することが出來る。鰾と肺とを兼ね備へた動物が現在甚だ少數で、その住處も狹く限られてあり、また蝌蚪が蛙に變ずる際にも、水から出れば鰓は直に衰へ、肺が急に發達して二者の兩立して働く時間の甚だ短いのも、この理によることであらう。さて、一旦陸上に出て空氣ばかりを呼吸するやうになれば、血管系に大きな變化が起るが、蛙の血管系は實際かやうな變化の結果として生じたものである。

 

Imoritokaerujyunkankei

蠑螈の心臟及び動脈基部

蛙の心臟及び動脈基部

[やぶちゃん注:以前と同じ理由で国立国会図書館デジタルコレクションの画像を用いた。]

 

 蛙も蝌蚪の時代には、心臟・血管系ともに魚類の通りで、殊にその中なる肺魚類とは少しも違はぬ位であるが、生長が進んで陸上に出るやうになると、鰓は働くことが出來ぬから忽ち萎れて無くなり、之と同時に今までは形がありながら實際呼吸の役には立たなかつた肺が急に忙しくなつて發達する。その有樣は恰も線路が壞れて汽車が不通になれば、それまで餘り人の乘らなかつた人力車が急に忙しく盛になるのと同じである。肺が發達すれば肺に血が澤山來る故、その通路なる血管も太くなるが、元來肺の方へは、大動脈から分かれて鰓を通り、背中の方へ進む數對の動脈の中の最後のものから細い枝が來て、血を送つて居た所この枝が太くなつて、却つて心臟から直接に肺に行く幹の如くになる。之が卽ち肺動脈である。之に反して鰓より背中の動脈に達する間の部は、元幹であつたのが却つて細い枝の如くになるが、この枝は後益々細くなり、終には單に索(つな)となり尚後には全く消えてしまふが、その結果として肺動脈は全く獨立し、他の動脈との連絡が絶える。

 また鰓は元來動脈の途中に挾み込まれたもので、心臟から鰓へ來るまでの管も、鰓から先へ血の進み行く管も、中を通る血液にこそ動脈血・靜脈血の差別はあるが、孰れも心臟から全身へ血の行く往路の中の一部分で、解剖上は動脈であるから、鰓がなくなればたゞ前に毛細管に分かれた處が分かれなくなるだけで、元鰓を通過した血管は各々簡單な一本の弓形の動脈となり、心臟から前へ出た大動脈は左右數對に分かれるとそのまゝ、皆體の側面に沿うて背の方へ進み、終に合してただ一本の下行大動脈となつてしまふ。これらの變化は文句で長く述べるよりも、圖で示した方が早く且明瞭に解る。

 斯くして蛙の心臟から出た大動脈は、一對の肺動脈と三四對の動脈弓とに分かれるやうになるが、動脈弓といふものは何本あつても、各側ともに忽ち一本に合して後へ向ふもの故、若しその中一對が少し太くなつたならば、他はなくても濟む譯で、實際蛙などではたゞ一對だけより殘らず、他は漸々細くなつた末、終に悉く消えてしまふ。殘つた一對が卽ち生長し終つた蛙に見る所の動脈弓である。また肺動脈と大動脈弓とは初めは根元が共同であるが、追々共同部の内面に隔壁が出來て、血の通路が二つに分かれ、終には心室を出る處から全く別の二本の血管となつてしまふ。

 動脈幹部の變化は以上述べた通りであるが、次に心臟を檢すると、ここにも著しい變化が起る。先づ肺が盛になれば肺より歸つて來る淸潔な血も多くなつて、全身を循環して歸る不潔な血と殆ど對等な分量となり、兩方から心耳に集まるが、斯く肺の發達する間に、心耳の方には内部に縱の隔壁が生じて左右の二部に分れ、心耳の内ではこの二種の血液が混合せぬやうになる。それ故、生長した蛙の心臟は二心耳・心室より成り、一個の心室へ兩方の心耳から同時に血が入る故、淸潔な血と不潔な血とは心室内で混合し、更に大動脈と肺動脈とに分かれて流れ出るやうになつて居る。

 龜などの心臟及び動脈幹部は蛙のと大同小異である。蛇のも略々同樣であるが、たゞ心室内にも多少縱の隔壁が出來掛つて、幾らか左右兩半に分かれ掛り、淸潔な血と不潔な血とが心室内で混ずることは免れぬが、淸潔な血は成るべく多く大動脈の方へ、不潔な血は成るべく肺動脈の方へ行くやうな仕組になつて居る。鰐類では尚一步進んで、左右の心室の間の壁が全く閉じ、肺靜脈によつて左の心耳へ歸つた血は、左の心室を通つて悉く大動脈の方へ出て行き、全身から右の心耳に歸つた血は、右の心室を過ぎて悉く肺動脈の方へ出て行き、心臟内でこの二種の血液が混合することの決してないやうになつて居る。次に鳥類の心臟・血管を調べると、大體に於ては之と同樣で、心臟は二心耳・二心室より成るが、左の大動脈弓が無くなつて、右一本だけよりない。また獸・人間等では之と反對で、右の方が無くなり、左の方ばかりが殘つて居るのである。

 魚と人間とだけより知らぬときは、その心臟・血管ともに全く別の仕組に出來て居ると思はれるが、斯くの如くその中間に立つ動物を澤山に解剖して、順を追うて比較して行くと、魚類の如き有樣から一步ずつ進化して、終に人間で見る如きものまでに變じ來る順序が明に解り、人間の肺動脈は魚類の數對ある動脈弓の中の最後のものに相當し、また人間の大動脈は魚の動脈弓の中の或る一對の左半分だけに相當して、人間ではたゞ之だけが殘り、魚類の他の動脈弓に相當する部は消え去つたことも確に知れる。それから心臟の方も初めて一心耳・一心室のものが肺の發達に隨ひ、先づ心耳の中に隔壁が出來て左右に分れ、次に心室の方も次第に左右の二つに分れて、終に人囘に於ける如き二心耳・二心室の複雜なものまでになる具合が明に察せられるが、この考は決して空想ではない。現に人間の子供が母の胎内で發生する際には心臟・血管ともに全くここに述べたと同樣の往路を過ぎて出來る。この事に就いては尚次の章に於て説く積りであるが、心耳などには左右の間の隔壁の最後に閉じた部分は一生涯他の部より稍々薄く、兩面凹んで明に識別することが出來る。

 心臟が二心耳・二心室より成るとか、左心室からは大動脈が出て右心室からは肺動脈が出るとかいふやうなことは、生理書で誰も學ぶが、之を學ぶものはたゞ斯くの如きものであると覺え込むばかりで、何故斯かる複雜な仕掛けが出來たかとの疑問が胸に浮ぶことも稀なやうである。倂し理窟を考へて見ると、一個の器官でありながら、心耳・心室ともに左右兩半が互に全く連絡なく、切り離しても働きの上には差支のないやうになつて居るのも不思議で、また血液が身體を循環するに當つて度は肺だけに行き、一旦心臟に歸つて、再び出直し、全身を巡つて復心臟に歸り、完全に一循環するに二度も心臟を通過するやうになつて居るのも不思議である。若し人間の身體の構造は永久不變のもので、何處まで昔へ溯つても今日と同じであつたものとしたならば、この不思議はいつまでも解けぬが、こゝに述べた如く、元來水中に生活し、水を呼吸するに適するやうに出來て居た血管系を基とし、之を空氣呼吸に適するやうに順を追うて造り直し、一步づゝ進んで出來上つたものとしたならば、是非今日の有樣の通りにならざるを得ぬことが明になる。

 

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十五年 俳句方面の新機運

 

    俳句方面の新機運

 

 明治二十四年の末から二十五年の初(はじめ)へかけて、居士は「月の都」に没頭した。家を借り、客を謝し、他の一切を擲ってかかったように見えるが、事実は必ずしもそうではない。居士は一の事に熱するが故に他を廃するというような人でなかったから、「月の都」に力を用いながら、他はこれと並行せしむるだけの余裕を持っていた。二十五年一月以降、駒込の僑居に短篇の小説持寄会(もちよりかい)を開き、遠く碧、虚両氏あたりにその作を徴(ちょう)しているのを見ても、ほぼ大体を察すべきであろう。

 俳句も二十四年あたりから漸く活気を帯びて来た。居士自身も数度の旅行により詩境を広くしたに相違ないが、新な機運はむしろ居士の身辺から動こうとした。その先鞭を着けたのは非風であったかも知れぬが、殊に二十四年秋、古白の「今朝見れば淋しかりし夜の間の一葉かな」「芭蕉破れて先住の發句秋の風」「秋海棠朽木の露に咲きにけり」などの句が出ずるに及んで、居士は瞠目せざるを得なかった。後年居士はこれらの句を評して「趣向も句法も新しくかつ趣味の深きこと當時にありては破天荒ともいふべく余ら儕輩(せいはい)を驚かせり」といい、「これらの句はたしかに明治俳句界の啓明と目すべき者なり。年少の古白に凌駕せられたる余らはこゝに始めて夢の醒めたるが如く漸く俳句の精神を窺ふを得たりき。俳句界これより進步し初めたり」といっている。

[やぶちゃん注:正岡子規の評言は古白自死から二年後の明治三〇(一八九七)年五月二十八日に病をおして独力で編纂した「古白遺稿」の「藤野潔の傳」からの引用である。

「儕輩」「さいはい」とも読む。同じ仲間・同輩・朋輩。]

 「夜長の欠び」によると、諷亭氏がはじめて俳句の趣味を解し、俳句らしいものが出来るに至ったのは二十四年の下半期であるが、非風はそれよりも一歩先んじていたとある。この事に関しては居士も「明治二十二、三年の頃より多少俳句に心ざしし者五百木諷亭、新海非風の二人あるのみ」といい、「明治二十三、四年の頃吾人の俳句はいまだ俳句を爲さゞるに當りて飄亭の句已に正を成す」と明(あきらか)に自分に先んじたことを認めている。中心人物たる居士の句よりも、居士の刺激を受けて句を作り出した人たちの方が、先ず新な境地に踏入ったということは、一見不思議のようであって、実は怪しむに足らぬ現象である。多くの句に目をさらし、大原其戎の門を敲いたりして、当時の俳諧の如何なるものかを心得た居士の方が、スタートを早く切り得なかったまでで、居士の如き長距離の走者にあっては累(るい)をなすべき性質のものでなかった。

[やぶちゃん注:「累」他から受ける災い。]

 けれど新なる機運は目に見えぬ間に動きつつある。年少の中学生たる碧梧桐氏ですら、早く奇想を捻出して人を驚かすに至り、居士の羽翼(うよく)は已に成るの観があった。「寒山落木」の句が激増するのは明治二十五年からであるが、それに先(さきだ)って二十四年にこういう空気の動きがあることは、注目に値する事実でなければならぬ。

 居士が畢生(ひっせい)の大業たる「俳句分類」に著手したのも、二十四年の冬であるらしい。現存「俳句分類」丙号の表紙に「明治廿四年冬著手」と記してあるからである。居士がこの大業に著手した動機については、自ら何も語っておらぬが、鳴雪翁の書かれたものにい一插話が伝えられている。或時居士と俳句の話をした際、居士が元日の句にはあまりいい句がないといったのに対し、翁が「元日や何にたとへん朝ぼらけ」という忠知(ただとも)の句を持出された。この句は翁が十歳以前に一読した柳亭種彦の『娘金平昔絵草紙(むすめきんぴらむかしえぞうし)』の中に出ている句なので、牢記(ろうき)するままに持出されたのであったが、居士もこの句を面白く感ずるとともに、広く古今の句を知らなければならぬということを痛感した。それが「俳句分類」を整った動機である旨を、後年翁に語ったというのである。果してこれが唯一の動機であったかどうかはわからぬけれども、小さな偶然の動機が意外に大きな結果を齎(もたら)すことは世間に往々ある。「この書中に收むる俳句はなるべく多からんことを欲するが故に完結の期あるなし。たゞ余が力盡き斃(たふ)るゝ時を以て完結の期とすべし」という覚悟を以て「俳句分類」に著手せしめた一理由が、鳴雪翁の古い記憶にとどまった「元日や何にたとへん朝ぼらけ」の句であったのは、慥(たしか)に面白い事実である。世の中に偶然ということは一つもない、という感を今更の如く深うせざるを得ぬ。

[やぶちゃん注:「俳句分類」標題は「發句類題全集」であるが、見開きに「俳句分類集」とある。厖大なその恐るべき自筆手稿は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで画像で視認出来る。但し、リンク先の国立国会図書館の書誌情報では開始推定時期を明治二二(一八八九)年に置いている

「忠知」江戸前期は、江戸時代前期の俳人神野忠知(かんのただとも 元和九(一六二三)年(講談社「日本人名大辞典」では寛永二(一六二五)年とする)~延宝四(一六七六)年(同辞典では十一月二十七日とする):芭蕉(寛永二一(一六四四)年~元禄七(一六九四)年)より十九年長)。江戸の人。井坂(井上)春清(しゅんせい)の門人。「白炭(しらすみ)ややかぬむかしの雪の枝」の句が知られ、「白炭の忠知」と呼ばれたが自刃した(後掲する「俳家奇人談」に拠る)。但し、私が参考にした岩波文庫雲英末雄校注の竹内玄玄一著「俳家奇人談・続俳家奇人談」の「人名索引」では屋号として「新井」「材木屋」を載せるから、どうも実際の彼は本来は武士ではないようである。幸い、私はこの「俳家奇人談」に載る「神野忠知」でこの「元日や」の句も知っている。そこには、

 

 元日や何に喩へん朝ぼらけ

 

で出、切腹の際の辞世として、

 

 霜月やあるはなき身の影法師

 

を載せている(出典を其角「雜談集」とする)。

「この句は翁が十歳以前に一読した柳亭種彦の『娘金平昔絵草紙(むすめきんぴらむかしえぞうし)』」内藤鳴雪の「鳴雪自敍傳」(大正一一(一九二二)年岡村書店刊)の中に(底本は国立国会図書館デジタルコレクションの当該書画像を視認した。踊り字「〱」は正字化した)、

   *

 私の八歳の時に、繼母は男の子を生んだ。大之丞と名づけられた。そこで私は始めて弟と云うふものを持つたのである。年は七つも違つて居たが、それでも弟が少し生ひ立つて來ると、隨分喧嘩もした。大之丞が私の繪本などを汚すと、いつも私は腹を立てた。

 私はもう芝居も知り草双紙にも親しんだが、かの間室から貰った草双紙の綴ぢたのゝ中に、種彦が書いた『女金平草紙(をんなきんぴらさうし)』と云ふのがあつた。この草紙は女主人公が『金平(きんぴら)のお金(きん)』で、その夫が神野忠知にしてある。この人の句で名高い『白炭や燒かぬ昔の雪の枝』と云ふのが、或る書には『白炭は』とあつて名も種知としてある。この異同から種彦が趣向を立てたものであつた。その關係からこの本には他のいろいろな句ものつて居た。

      茶の花はたてゝもにても手向かな

      軒端もや扇たるきと御影堂

      角二つあるのをいかに蝸牛

      元日や何にたとへむ朝ぼらけ

と云ふもあつた。これらを讀んで面白さうなものだと思つたが、それが三十幾年の後に『俳人』などゝ呼ばれる因緣であつたと云はゞ云へる。

 この草雙紙の筋は、忠知が或る料理屋で酒を飮んで居ると、他の席に居た侍のなかまが面會したいと云つて來た。忠知はそれを面倒に思つて、家來に自分の名を名乘せて面會させた。すると、その家來が惡心を起して、その席の一人の侍の懷中を盜んだ。それがすぐ發覺したので同席のなさけある一人が、その家來を刺殺して、忠知は過ちを悔いて自殺したと云ひ觸らした。この事が後世に傳はり、忠知は切腹したと云ふ事になつて了つた。忠知はこの異變を聞いて、もとは自分の一時の疎懶[やぶちゃん注:無精。]ゆゑと後悔したが、もはや追付かず、表向きに顏を出すことが出來ぬ身になり、その後、金平のお金と云ふ女と夫婦になり、そのお金の親の仇を討つと云ふのが大團圓になつて居る。

 こんな複雜な筋のものも段々讀み得るやうになつたので、愈々草双紙が好きになつた。私が八つ九つの頃に見たのは三册五六册ぐらゐの讀切り物で、京傳種彦あたりの作が多かつた。それから或る家で釋迦八相倭文庫を借りて來て讀んだが、これが、長い續き物を見た始まりで、斯う云ふ物は一層面白い物だと思つた。この本で釋迦の事蹟の俤を知り、後日佛教を知るその絲口はこの本で得たとも云へる。『白縫譚』『兒雷也豪傑譚』なども追々と讀んで行つた。

   *

とある。年少とは言え、師正岡子規が、彼の思い出した忠知の句に瞠目した事実を記さない彼は、実に「回也」と讃えたいと私は思う。柳亭種彦(天明三(一七八三)年~天保一三(一八四二)年)の「娘金平昔繪草紙」は文政四(一八二一)年の板行で画は歌川国貞である。]

 

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十五年 詩人とならんことを欲す

 

    詩人とならんことを欲す

 

 日は明でないが、二月の末に至り、居士は出来上った「月の都」を袖にして、谷中に露伴氏を訪ねた。その時の用向は「僕拙著一卷あり、友人皆出版を勸む、僕これに奧ぜんと欲す。而して拙著中の趣向君の著述中より偸(ぬす)み來る者多し、故に一應君の承諾を經かつ批評を乞ふ」というにあったが、傍に客あるの故を以て二十分ばかりで辞し去った。露伴氏からは翌日使を以て草稿を返し来ると共に、多少の批評を試みた一書が添えてあった。

[やぶちゃん注:ネット情報によれば、引用は「天王寺畔の蝸牛廬」(既出既注)より。]

 居士がここに「君の著述中より偸み來る者多し」といったのは、『風流仏』の影響を指すのであろう。「月の都」は明に『風流仏』の影響を受けている。しかし居士の志は最初から「『風流仏』的小説を書くこと」にあったので、その影響がなければむしろ不思議な位のものである。「月の都」は『風流仏』によって生れた――『風流仏』なしには生れなかった小説であるということは、固より否み難いところであるが、趣向を偸み来るというほどのものでもない。仮令(たとい)傾倒愛読の余(あまり)に成ったにせよ、その影響を受けながら、著者に黙って自作を出版するということは、自ら安(やすん)ぜぬところとして、遂に露伴氏訪問となったものかと思われる。

 二度目に居士が露伴氏を訪ねたのは三月一日の午後であった。「天王寺畔の蝸牛廬」が完成していたら、自然この時の事にも触れたわけであるが、未完に了ってしまったため、遺憾ながら当日の模様を髣髴することが出来ない。ただこの日は閑談三時間余にわたり、朝来(ちょうら)の脳痛も全く癒ゆるの思があったこと、その談話の内容が半ば小説の上を離れなかったことなどが、同夜碧、虚両氏に宛てた手紙に見えている。

[やぶちゃん注:「朝来」朝からずっと続いていること。

 以下の引用は底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。]

 

……貴兄らこれを讀んで何とか想像し給ふ。彼一句われ一句相笑び相怒り負けず劣らず口角の沫(あは)を鬪はせしものとや思ひ給ふらん。その實談じ去り談じ來(きた)るものは終始彼なり默々また唯々(ゐゐ)がたる者は終始我なり。(評曰囘也愚)生は多少小説家の骨を得たり(肉は未だし)きと思ふなり。これ生がかつて聞かんと欲せしところにして今において頓に悟る所あり。これ生がいつか貴兄らに話さんと欲するところにして筆紙これを盡さず山河これを阻斷(そだん)す。

[やぶちゃん注:「囘也愚」子規自身のその場で自分の姿を言ったもの。「論語」の「爲政第二」で、孔子が最も愛した高弟で「徳行第一」と評した顔淵(名は回)に対して言った、

   *

子曰、「吾與囘言終日。不違如愚。退而省其私。亦足以發。囘也不愚。」。

(子曰く、「吾(われ)、囘(くわい)と言ふこと終日、違(たが)はざること愚(ぐ)なるがごとし。退(しりぞ)きて其の私(わたくし)を省(かえりみ)れば、亦、以もつて發するに足(た)る。囘や、愚ならず。」と。)

   *

を捩って自身を卑しめたもの(下村湖人の「現代訳論語」(昭和二九(一九五四)年池田書店刊)では当該章は『先師がいわれた。――』『「回と終日話していても、彼は私のいうことをただおとなしくきいているだけで、まるで馬鹿のようだ。ところが彼自身の生活を見ると、あべこべに私の方が教えられるところが多い。回という人間は決して馬鹿ではないのだ。」』と訳している)であるが、しかし、ここで自身を顔回に模しているところに正岡子規の強烈な自負と「負けぬ気」が現れている。]

 

 露伴氏は「月の都」を評して「覇氣強し」といい、「覇氣は強きを嫌はず、僕の『風流佛』の如きも當時は後篇を書かんと樂しみをりしに今はいやになりたり」といったそうである。それと漱石氏の談話の中に、「月の都」を露伴に見せたら、眉山、漣(さざなみ)の比でないと露伴もいったとか言って、自分も非常にえらいもののようにいうものだから、その時分何も分らなかった僕も、えらいもののように思っていた、とあるのが、僅にその片鱗を伝えているに過ぎぬ。しかし「月の都」出版のことは、露伴氏訪問の後も一向積極的にならず、むしろ断念する方に傾いたものの如く見える。露伴氏と会談の模様を報じた手紙の末に

  拙著はまづ、世に出る事。なかるべし

  (以上の一行覺えず俳句の調をなす呵々)

とあるのが、何よりもその間の消息を語っているように思う。「月の都」の草稿が羯南翁から自恃(じじ)居士(高橋健三氏)の手に渡り、更に二葉亭のところまで行ったというが如きは、余沫(よまつ)的事件と見るべきで、居士としては大して関心もなかったに相違ない。

[やぶちゃん注:「漱石氏の談話」何度か出た、夏目漱石の「正岡子規」(明治四一(一九〇八)年九月一日発行の『ホトトギス』に発表)からの引用。岩波旧全集第十六巻(「談話」中に所収)から当該箇所を前後を引く。特に後の部分が面白いので長く引いた。

   *

それから「月の都」を露伴に見せたら、眉山、漣の比で無いと露伴も言つて、自分も非常にえらいもののやうにいふものだから、其時分何も分らなかつた僕も、えらいもののやうに思つてゐた。あの時分から正岡には何時もごまかされてゐた。發句も近來漸く悟つたとかいつて、もう恐ろしい者は無いやうに言つてゐた。相變らず僕は何も分らないものだから、小説同樣えらいのだらうと思つてゐた。それから頻りに僕に發句を作れと強ひる。其家の向うに笹藪がある。あれを句にするのだ、えゝかとか何とかいふ。こちらは何ともいはぬに、向うで極めてゐる。まあ子分のやうに人を扱ふのだなあ。

   *

後に並ぶもののない近代文学の巨匠となった漱石が子分扱いされる、実に小気味いい話ではある。

「自恃居士」「高橋健三」(安政二(一八五五)年~明治三一(一八九八)年)は陸羯南の盟友でジャーナリストで官僚・政治家。ウィキの「高橋健三によれば、江戸で元尾張藩士の浪人の子として生まれた。後に父が戸田氏に仕官して下総国曾我野藩士となる。明治三(一八七〇)年、曾我野藩の貢進生に選ばれて大学南校(東京大学の前身の一つ)に入学する。明治一一(一八七八)年に東京大学を中退、翌年、官途に就いた。以後、駅逓局・文部省を経て、明治一六(一八八三)年に太政官官報報告掛に任じられ、官報の創刊に参画する。内閣制度発足と同時に官報局次長に任ぜられ、明治二二(一八八九)年三月には官報局長に就任した。岡倉(天心)覚三とも親交があり、月刊美術誌『国華』の創刊にも参画している。その後、元同僚であった陸羯南とともに国家主義に転じ、明治二五(一八九二)年十一月に官報局長を辞任、翌年一月に大阪朝日新聞に入った。以前、官報局長であった時、フランスに派遣されて帝国議会の議事録制作用に最新式の印刷機を購入する際、時同じく購入交渉中であった大阪朝日新聞の分の交渉も合わせて行った経緯から、待遇は客員論説委員ながら、実際には主筆と同格に扱われたという。同年秋に同紙に連載した「内地雑居論」で内地雑居反対を主張して反響を呼び『、同紙以外にも国家主義の観点から執筆を行い、また大阪朝日新聞系の雑誌である『二十六世紀』の編集責任者となった』。明治二九(一八九六)年九月、第二次『松方内閣が発足すると、陸羯南の推挙によって内閣書記官長に任じられる。ところがその』二『ヶ月後、陸の『日本』が以前『二十六世紀』に掲載された高橋の土方久元宮内大臣を批判する記事を転載したところ、内務省より『二十六世紀』が発売禁止処分を受けた。政府高官の論文が原因で発売禁止になると言う事態に加えて、高橋はこれに憤慨して新聞紙条例の改正(新聞・雑誌の発売禁止規定の廃止)を図ろうとし、政府に参加していた進歩党も高橋を支持したため、政府内外で論争となった。内閣の崩壊を恐れる黒田清隆ら薩摩閥の計らいで』、『高橋の要求が認められ』、『事態の収拾が図られたが』、翌明治三十年十月に『進歩党が政権を離脱すると、行き掛かり上』、『高橋もこれに同調して辞任した』。『その後、大阪朝日新聞に復職するが、内閣書記官長辞任から』九ヶ月後、『肺結核のために』『没した』とある。]

 「月の都」によって文壇に打って出ようとした居士は、その志を一擲(いってき)すると共に「僕は小説家となるを欲せず詩人とならんことを欲す」る旨を手紙で虚子氏に告げた(五月四日)。この変化については同十六日碧梧桐氏宛の手紙にも「僕妄(みだ)りに詩人とならんとの大言を吐く、虛子これを解せざるものの如し、而して貴兄一言の下に大悟徹底し了(おほ)す喝(かつ)」とあり、更に五月二十八日の手紙において左のように述べている。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。太字は底本では傍点「○」。]

 

 小説家と詩家とを區別致候に付御高見拜見難有候。小生の意は二者を別物とせし譯なれども尤二者とも定義判然ならざる故いゝ加減な事を申ししものにて論理的のものにては無之候。愚意を平たくいへば卽ち尤コンクリートにいへば

  人間よりは花鳥風月すき

といふ位のことに有之候。

 

 「小説家となるを欲せず詩人となちんことを欲す」といい、「人間よりも花鳥風月がすき」ということは、居士の文芸の根本をなすもので、「月の都」執筆の一事は、はからずもこの事を明(あきらか)にしたのであった。

 

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十五年 「月の都」成る

 

   明治二十五年

 

     「月の都」成る

 

 明治二十五年(二十六歳)の新春は駒込の家で迎えた。蓑と笠とを床の間に飾り、その上に小さな輪飾(わかざり)を置いて、

 

 蓑笠を蓬萊にして旅の春

 

と詠んだ。「旅の春」は後に「草の庵」と改められている。

 

  壬辰新年作

 梅園深處獨僑居

 書卷參差繞手爐

 萬里同風冬改歳

 半生短夢我驚吾

 滿城漠漠紅塵起

 寒屋寥寥黃鳥呼

 惆悵賣文錢未得

 微酲醒盡打虛壺

   壬辰新年に作る

  梅園深き處 胴獨り僑居(けうきよ)す

  書卷 參差(しんし)して 手爐(しゆろ)を繞(めぐ)る

  萬里 風(ふう)を同じうして 冬 歳を改め

  半生の短夢 我れ 吾れを驚かす

  滿城 漠漠として 紅塵 起こり

  寒屋(かんをく) 寥寥として 黃鳥(くわうてう) 呼ぶ

  惆悵(ちうちやう)して文を賣るも 銭 未だ得ず

  徴酲(びてい) 醒め盡して 虛壺を打つ

 

というのはこの年頭の所懐である。後年居士はこの時のことを顧みて、「半生短夢我驚吾」と今までの懶惰を悔みたるもこの時なり、「惆悵賣文錢未得」と銭をほしがりしもこの時なり、といっている。人生五十を定命(じょうみょう)として、その半分の二十五年は前年までに費してしまったわけだから、感慨なきを得なかったのであろう。

[やぶちゃん注:「明治二十五年」一八九二年は壬辰(みずのえたつ)。

「僑居」仮住まい。寓居。

「參差」ばらばらに散乱し、不揃いに積み重なっていること。

「黃鳥」鶯の異名。

「惆悵」恨み歎くさま。

「微酲」微(かす)かに醉うこと。]

 年が改ってからも小説はなかなか完成しなかった。居士が小説執筆中との報を聞いて最も胸を躍らしたものは、松山中学在学中の碧梧桐、虚子両氏で、手紙のたびに進行の模様を問合せて来たらしく、居士からの返事にも必ずその消息が書いてある。一月十三日夜碧梧桐氏宛の手紙に「筆を取りそめてより殆んど二十日今宵やゝ一遍通り畢(を)へ申候(改刪(かいさん)すべき處はなほ無數なり)その間大息(たいそく)して筆を捨てしいくぼくぞ」とあるから、この時一通り稿を了えたのであろう。それが十日余を経た一月二十五日には「拙著大方荒壁までは仕あげて上塗り最中と申上候へども上塗はなかなか手間のとれるものにてまだ片側だけ外すまず。けだし貴兄も知り給ふらん荒壁の乾かぬ内は上塗はかけられぬ者なり」(虚子氏宛)となっている[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「○」。]。而して

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。]

 

拙著小説は「月の都」と題して紙數(寫本)六十枚二囘の短篇なり、而して末二囘は大方謠曲にてつゞまり居候、これら第一世人には氣に入らざるべし存居侯なり(碧梧桐氏宛)

 

と正体を明したのは二月十九日で、それから十日後にはもう駒込の家を引払って根岸に移っているから、漸く完成を見たものと思われる。

[やぶちゃん注:「月の都」国立国会図書館デジタルコレクションの(明治三七(一九〇四)年俳書堂刊「子規遺稿 第三編 子規小説集」)の画像で全篇を視認出来る。]

 居士が「月の都」に専心するようになったのは、駒込に家を借りてからであるが、執筆の志は早くから動いていたらしい。一月二十五日虚子宛の手紙には「仕方なく去年春(あるいは去年春か忘れたり)筆を取(とり)て二枚を認(したた)む。畢(をはり)て筆を抛(なげう)ちたり」とあるから、二十三年秋か二十四年春には着手していたのである。その後二十四年夏、松山で筆を執ったが、三、四枚書いたら落渋滞して進まなくなった。その後暫く抛擲(ほうてき)して置いたのを、駒込移居と共に完成しようとしたので、「今日に至てやむをえず書き畢(をは)りたりといへども、これ時機の到りしものには非ず。嗚呼(ああ)何(いづくん)ぞそれ作者になるの難(かた)きや」といっている。「月の都」一篇は居士に取っては久しい懸案の解決であった。

 居士が「月の都」を草すべく駒込に立籠(たてこも)った時は、直(ただち)にこれを世に問う決心であったに相違ない。大原恒徳氏宛の手紙に「初陣(ういじん)の事故(ゆゑ)功名のほどは固(もと)より覺束なく候へども多少の金になならぬことも有之間敷(これあるまじく)と奉存(ぞんじたてまつり)候」(二十四年十二月二十五日)とあるのをみれば、「月の都」を初陣として文壇に打って出ようとしたのである。かつて英語の答案で同級生たる居士を驚かした美妙斎は已に文壇に乗出して華々しい活動を続けている。『我楽多文庫(がらくたぶんこ)』に拠った硯友社の末輩には、居士の同級生なども加わっている。『風流仏』を産んだ『新著百種』は、その後も引続き有名無名の新作家を世の中に送りつつある。――こういう眼前の事柄に対しで、負けぬ気の居士が伎癢(ぎよう)を感ずることは、固より当然のところといわなければならぬ。

[やぶちゃん注:「大原恒徳」既出。松山在の正岡子規の叔父。

「美妙斎」既出既注。山田美妙。

「我楽多文庫」『我楽多文庫』(がらくたぶんこ)は、準公的な同人雑誌の先駆で、硯友社の機関誌であると同時に近代日本文学に於ける初の文芸雑誌となった雑誌の名。尾崎紅葉や山田美妙らが中心となり、小説・詩・短歌・川柳などを掲載したが、未だ江戸戯作的な作品が多かった。明治一八(一〇八五)年五月に肉筆回覧誌として始まり、明治二一(一八八八)年五月には活版公売本として書店販売となった。翌明治二十二年三月より『文庫』と改題したが、同年十月、廃刊となった。

「新著百種」硯友社が『我樂多文庫』の廃刊と共時的に明治二二(一八八九)年から吉岡書籍店で出し始めた文芸(小説)雑誌。その第一冊は尾崎紅葉のヒット作「二人比丘尼色懺悔」で、謂わば、この頃より、近代小説の量産化時代が始まったと言える。

「伎癢(ぎよう)」「技癢」とも書く。自分の技量を見せたくて、うずうずすること。「癢」は「痒い・くすぐったい」の意。]

 けれどもいよいよ「月の都」を脱稿してからも、果して当初の如き出版の意志を懐いていたかどうか、これは少しく疑問に属する。一月三十日碧梧桐氏宛の手紙には、出版はせぬかも知れぬということについて、「拙著は世人をあてにする者に非ず、世上の評論はどのやうにあらふとも終(つひ)に愚著に關係なし、たゞ僕は我意の滿足する所に止(とど)まるのみ」といい、「けだし僕の出板せぬかも知れぬといふは第一出板してやらふといふ人なければそれまでなり。第二原稿の買ひ手ありとも餘り安價ならば賣らぬつもりなり。何故に賣らぬや、名譽に關する故なり。何故に名譽を重んずるや。僕答ふる所をしらず」というようなことが記されているからである。居士の「月の都」に対する態度は、中途から明に消極的になった。その理由は書いて見て自ら満足せぬためもあったかも知れぬが、事をいやしくもせぬ居士の性格から来ているのであろう。

 

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