進化論講話 丘淺次郎 第十章 發生學上の事實(1) 一 發生中にのみ現れる器官
第十章 發生學上の事實
動物を解剖して見ると、種々の器官の構造に於て、その動物が漸々進化し來つたといふ形跡を見出すことが多いが、動物の發生の有樣を調べ、且之を種々比較して見ると、更に一層著しく斯かる形跡が見える。前章に於ては單に解剖學上の事實に就いて述べたが、解剖學上のことでも之を了解するには、相當の素養を要するから、稍々詳細なことは突然述べることが出來ぬ。然るに發生學上の事實は、單に一時の定まつた有樣を論ずるのではなく、時々刻々變化して行く具合を説かねばならぬから、更に數倍困難で、たゞの解剖でさへ相應に込み入つてある所へ、「時」といふ要素が新に加はり、解剖を平面に譬へれば、發生はそれに「時」といふ厚さが附いて、立體となる譯故、簡單に十分に説くことは到底出來ぬ。動物の發生の途中には生物進化の證據ともいふべき事實が殆ど無數にあるが、これらを解るやうに述べるには、先づ發生學研究の方法から説き始め、傍ら實物の標本を顯微鏡で見せたりせねばならぬ。之は無論本書に於て出來ることでないから、この章にはたゞ最も解り易い點を若干だけ選んで掲げる。
[人類の卵]
[やぶちゃん注:講談社学術文庫版のそれを使用した。]
一々の事實を述べる前に、先づいつて置かねばならぬのは、動物は如何なるものでも總べて卵から發生するといふことである。鷄の卵乃至魚の卵、蠶の卵は、誰も知つて居るが、その他になると、卵を人が知らぬものが多い。倂し實際を調べて見ると、犬・猫でも牛馬でも、我々人問でも、その出來始めは皆一粒の卵である。卵には鷄卵の如くに大きなものもあるが、大抵は遙に小く、人間の卵などは直徑は僅に一分(ぶ)[やぶちゃん注:三・〇三ミリメートル。]の十五分の一[やぶちゃん注:〇・二ミリメートル。ヒトの排卵時の卵子の大きさは〇・一~〇・二ミリメートルである。]に過ぎぬ。一粒の卵から複雜極まる構造を有した人間が出來るのであるから、その間の變化は實に驚くべきもので、詳しく研究して見ると、面白いことが頗る多い。我々の食用にする鷄卵はたゞ生んだ儘で、單に蛋白と蛋黃とがあるだけであるが、之を雌鷄に溫めさせると、僅に二十一日許の間に、立派な雛が出來る。斯くの如く鷄では親の體外で雛が發生するから、この間の變化を調べるには、澤山の卵を溫めさせて置き、その中から每日朝・晝・晩に一個づゝを取り出し、殼を割つて見れば宜しい。細かいことは特別の方法を用ゐて研究せねば解らぬが、大體だけはかやうにすれば知れる。その變化の有樣は極めて複雜故、ここで述ベることは出來ぬが、我々が母の胎内に九箇月居る間には、略々鷄の雛が二十一日の間に卵から出來るのと全く同樣の順序を經過し、初一粒の小な卵から終に手足の完備した幼兒となつて生まれ出るのである。一は親の體外で發生し、一は親の體内で發生するだけの相違で、初一粒の卵から起るといふには少しも違はない。
卵から生長し終つて子を生むに至るまでの經過を調べるのが發生學であるから、なかなかその研究は容易なことでなく、一種の動物の發生を十分に調べ上げるには、材料も餘程十分になければならず、また時目も餘程長くかゝる。それ故、今日の所、十分に發生の調べの行き屆いた動物はまだ少數で、他は僅に大體の模樣が解つた位に過ぎぬ。また全く發生の調べてない動物も澤山にある。倂し發生學は今日最も盛に研究せられて居る學科で、每年每月何か新しい事實が發見になる有樣故、今日より後には尚餘程面白いことが澤山見出されるに相違ない。次に述べる事實の如きは單に極少數を選み出したに過ぎぬ。
一 發生中にのみ現れる器官
生長の終つた動物の體内に屢々不用の器官の存することは、既に前章に述べたが、動物の發生の途中には生長の後になれば不用に屬する器官が、一度出來て後再び消え失せることが往々ある。その中には發生の途中實際用をなすものもあれば、また發生の途中にも少しも役に立たぬやうなものもある。
牛・羊・鹿などの類には、下顎には前齒があるが、上顎には全く前齒がない。この類が草の葉などを食ふ所を見ると、下顎の前齒を上顎の齦(はぐき)に押し當て、恰も下顎の前齒を庖刀の如く、上顎の齦を俎の如くに用いて囓み切るが、そのため上顎の前部の齦は我々の足の裏の如くに堅くなつて居る。斯くの如く生れてから死ぬまで上顎には前齒はないが、この類の發生を調べて見ると、不思議なことには生れるより少し前に一度あきらか に上顎に前齒が出來る。尤も齦の内に出來るだけで、表面に現れ出るには至らぬが、切り開いて見さへすれば、確に齒の列んで居るのが見える。然もこの齒は一旦は出來るが、暫くすると周圍の組織に吸收せられて、再び消えて無くなつてしまふ。少しも齦の外に現れず、特に母の胎内に居ること故、全く何の役にも立たぬ齒が、一度形だけ出來て直にまた消え失せるといふやうな無駄なことは、若し生物各種が初めから各々今日の通りに造られたものとしたならば、全く意味の解らぬことであるが、之に反して、若し牛・羊の類は漸々進化して今日の姿に達したものとしたならば、その先祖には上顎にも前齒があつて、その性質が遺傳によつて發生の途中に現れ、現在の生活上に不必要である故、再び消え失せるのであらうと考へて、幾分かその理由を察することが出來る。
鯨類の中には海豚の如く齒を有するものもあるが、大形の鯨は多くは口の中に鬚を有するばかりで、齒は一本もない。これらの鯨は極めて小さな餌を一度に無數に取つて、そのまゝ嚥み込んでしまふもの故、齒があつても全く無用である。然るにその發生を調べると、前の牛・羊の前齒と同樣で、生まれるより少し前に、上下兩顎ともに海豚の如き細かい齒が一度澤山に出來て、また暫くすると消えて無くなる。次に掲げたのは、長さ四尺[やぶちゃん注:一・二一メートル。]許の鯨の胎兒の頭の處だけを、凡そ三分の一に縮めた寫生圖であるが、生長すれば十間[やぶちゃん注:十八・一八メートル。]以上にもなる大きな種類で、生れる頃には最早齒は一本もない。倂しこゝに示した位のときには、立派に列んで生えて居る。但し之は齦の皮を剝いて、態々齒を示すやうに製した標本を寫したもの故、實際天然には圖の如くに現れて居る譯ではない。兎に角も一度も用をなさぬ齒が斯くの如く生じてまた消えるといふことは、やはり鯨が漸々進化して今日の如き形狀のものになつたと考へなければ、少しも説明の出來ぬことである。
[鯨の胎兒の頭部竝に齒]
[やぶちゃん注:講談社学術文庫版のそれを使用した。底本では図の上下が逆転(上顎が下向き)しており、戸惑うからである。]
[魚類の鰓孔
(上)普通の魚 (下)鮫類]
[人類胎兒の鰓孔]
[やぶちゃん注:以上の二つはキャプションがあるので、底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングし、補正して示した。]
人間を始め、他の獸類でも、鳥類でも、その發生の途中には、皆一度頸の兩側に鰓孔が出來て後に再び閉じて消える。魚類は人の知る通り、總べて鰓を以て水を呼吸するが、鰓のある處は頭と胴との境の左右兩側である。口から吸い込んだ水が鰓の前後を通過する際に、鰓の内の毛細管を通る血液と、鰓の外を流れる水とが相觸れて、その間に瓦斯の交換が行はれ、血液は水より酸素を得、水はまた血液から炭酸瓦斯を受けて流れ去るが、斯く呼吸のために用ゐられた水は、鰓の間を通つてから何處へ出て行くかといふに、頸の兩側にある裂目を通つて直に體外に出てしまふ。人間の呼吸するときは、空氣は鼻口から入つて再び鼻口から出て行くが、魚類の呼吸するときには、水は口から入つて頸の兩側から出て行くのである。この水の出口が卽ち鰓孔で、鮫・「あかえひ」の類では、左右に各々五つづゝも開いてあるが、鯉・鮒・鯛・鰹等の如き普通の魚類では、鰓を保護するために鰓蓋といふ特別の骨があつて、鰓孔の上に被さつて居るから、實際外からはたゞ一つの大きな縱の裂目が見えるだけである。肴屋が料理するときには、通常こゝから指を突き込んで鰓を引き出して掃除する。斯くの如く、水を呼吸する魚類に取つては鰓孔は實に無くてならぬ必要のものであるが、陸上にあつて空氣ばかりを呼吸する鳥獸[やぶちゃん注:ここは底本では実は「鳥類」となっている。しかし、講談社学術文庫版では『鳥獣』となっており、その方が躓かないし、後で「かやうな鰓孔が人間を始め鳥獸の發生の途中に一度出來てまた消えるといふことは」とあることから、誤植と断じて特異的に訂した。]には素より何の役にも立たぬ。然るに一二箇月の人間の胎兒、二三日溫めた鷄卵内の雛の出來かゝりなどを見ると、食道から直に開く孔が明に頸の兩側に四づゝもあること、恰も鮫の通りである。尤も實際に水が通過する譯ではないから、圓く突き拔けては居ないが、之は位置から考へても、他の器官との關係から論じても、確に鰓孔に相違ない。假にこの時代の胎兒が水中へ出て水を口から吸ひ込んだと想へば、その水はこれらの孔を通つて頸の兩側から直に體外へ出ることが出來る。かやうな鰓孔が人間を始め鳥獸の發生の途中に一度出來てまた消えるといふことは、生物種屬不變の説を唱へる人は何と説明するか、若しこれらの動物が初から今日の通りに出來たものとしたならば、たゞ奇妙不可思議というて置くより外には致し方がない。
[人類胎兒の心臟及び動脈基部]
[やぶちゃん注:これは図内にキャプションがあるので、底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングし、補正して示した。]
鰓孔は鰓が無ければ不用なもので、鰓はその内を血液が通過しなければ呼吸の働が出來ぬに定まつて居る。鰓孔のことは前に述べた通りであるが、鰓へ行く血管の方は如何と檢するに、人間・鳥・獸等の發生の途中には、之もやはり魚と同樣な者が一度出來て、それから種々に變じて、遂に生長し終つたときに見る如き血管系が出來上るのである。丁度鰓孔の開いて居る頃の胎兒の血管系を調ベて見ると、圖に示した如くで、心臟の構造も動脈幹部の有樣も、全く魚類の通りで、たゞ細く毛細管に分かれる處が略せられてあるに過ぎぬ。この時代の心臟・血管等を詳しく述べるのは、殆ど魚類の心臟・血管に就いて前にいうたことを再び繰り返すやうなものであるが、その大體をいへば、心臟はまだ一心耳・一心室より無く、心室から出て行く大動脈は直に左右若干對の動脈弓に分かれ、各々鰓孔の間を通過して背中の方へ廻り、再び合して下行大動脈となつて居る。前章に於ては脊椎動物中から幾つかの例を擧げて、比較解剖學上から血管系の進化し來つたと思はれる徑路に就いて述べたが、人間・鳥・獸等の之から先の發生を調べると、實際各個體が發生の中に殆ど前章に述べた通りの徑路を通過して進むのを見ることが出來る。卽ち人間でも、始め血管系は圖に示した如き全く魚類と同樣なものが出來るが、鰓孔の閉じて消える頃から、血管の方にも之に伴うた著しい變化が起り、肺の方へ枝を出して居た最後の動脈弓は終には獨立して肺動脈となり、その前の動脈弓の左の分だけが、益々太くなつて大動脈となり、餘の部分は漸々細くなり、多くは消え失せて、愈々成人で見る如き血管系が出來上る。獸類では總べてこの通りで、鳥類ではたゞ最後から二番目の動脈弓の右の分が大動脈となるだけが違ふ。
人間は生れるときは裸であるが、胎内六箇月頃には身體の全面に殘らず絹のやうな細い長い毛が生えて居て、全く猿の通りである。倂しこの毛は後に再び脱け落ちて、たゞ微な産毛(うぶげ)ばかりとなつてしまふ。また人間の胎兒に尾のあることは前の圖を見ても解るが、尚早い頃には更に一層尾が長い。これらも皆發生中のみに現れる器
官である。
以上は皆高等の脊椎動物の中から選んだ例ばかりであるが、他の動物にもかやうな例は極めて多い。その一つを擧げて見れば、蝶でも蜂でも蠅でも蟬でも、凡そ昆蟲の類は總べて足は六本あるに定まつて居るが、その發生を調べると、尚多數の足が出來かかつて消えてしまふ。昆蟲の體は頭・胸・腹の三部より成り、六本の足は皆胸の裏から生じて、腹には一本も足がないが、卵の内で發生する模樣を見ると、一度は腹にも身體の一節每に一對づゝ極めて短い足の痕跡だけが現れ、暫くしてまた消えてしまふ。昆蟲の中でも枯木の皮の下などに住む珍しい種類には、生長し終つても尚腹部の裏に幾對か足の痕跡を有するものがある。孰れにしても、實際役に立つことはない。然るに發生の途中には、斯かる無用な足の痕跡が、何の昆蟲にも一度必ず生じてまた消えることは、前に述べた牛・羊の上顎の前齒などと同樣で、生物各種屬を永久不變のものとしたならば、たゞ不思議
といふだけで、少しも理窟の解らぬことである。
[やぶちゃん注:鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目 Cucujiformia 下目ゾウムシ上科キクイムシ科 Scolytidae に属する特殊な種か(キクイムシ類は決して「珍しい種類」ではないからである)。識者の御教授を乞う。]
動物が卵から發生する有樣は皆斯くの如くで、決して出來上つたときの形を目的として、初から一直線にその方へ進むものではない。途中必ず種々の無駄なものが出來たりまた消えたりすることがあるもので、生長し終つた後にもかやうな不用の器官が幾らも殘つてあることは、既に前章で述べた通りである。人形師が人形を造るときには、初から或る形をなした人形を造らうと思つて著手するから、途中に決して無駄なことをせ
ぬが、自然が動物を造るのは大いに之と違ひ、初全く異なつた形のものを造り、之より漸々造り改め、析角一度造つた齒を揉み消したり、また初步行に適する形に造つたものを、游泳に適する形に直したりなどして、甚しい廻り道を通過し、無駄な手間を掛けて、やつと造り上げるのが殆ど常である。我々人間の身體もその通りで、決して初から成人の形が小く出來るのでもなく、また一端から順を追うて出來上つて行くのでもない。先づ頸の兩側には鰓孔が幾つも開き、血管は魚類の通りで、體の後部には長い尾のあるものが出來、それから漸々に變化して人の形となるのであるが、これらの現象は總べて如何なることを示すものであらうか。
生物種屬不變の説に從へば、これらは皆無意味のことである。否無意味といふよりは寧ろ奇怪千萬なことである。天地開闢のときから今日に至るまで、何萬年とも何億年とも知れぬ長い間、代々牛・羊の上顎に、生えぬ齒が隱れながら出來ては消え、人間の頸筋(くびすぢ)に無用の鰓孔が開いては閉じるといふやうなことは、如何に考へても理窟の解らぬことである。之に反して、若し生物各種は漸々進化して、その結果今日の如きものになつたと見倣せば、先祖の性質が遺傳によつて尚發生中に現れるものとして、これらの現象は皆一通りその理由を考へることが出來る。知らぬ中は兎も角、かやうな事實を目の前に見ながら、尚生物種屬不變の説を主張することは、思考力のある人間には到底出來ぬことであらう。
動物發生の途中には確に無駄なものが出來るといふ例を尚一つ擧げて見るに、日本の蠑螈[やぶちゃん注:「ゐもり(いもり)」。]は水中に住み、水中に卵を生むが、ヨーロッパの山中には地上に住んで胎生する蠑螈の種類がある。この類では子は母の胎内で形が全く出來上り、生れると直に親と同樣に生活して、一度も水に入ることはないが、その發生の中には立派な鰓が出來る。他の蠑螈の幼兒は皆鰓を以て水を呼吸するが、この種類の胎兒に生ずる不用の鰓は殆ど他の種類の幼兒に於て實際の役に立つ鰓と同じ位に完全に出來るから、或る人が試に親の腹を切り開き、胎兒を取り出して水の中に入れた所、活潑に泳ぎ廻り、水底で水を呼吸して長く達者に生活した。斯くの如く若し水中に入れゝば十分呼吸の働きが出來るだけに完備した鰓が親の胎内に居る間に出來て、生れるときまでにはまた萎びて無くなることは、誰が考へても確に無駄なことに違ひない。この蠑螈の先祖は他の蠑螈と同樣に水中に住み、その幼兒は總べて水を呼吸したものと假定し、この種類は比較的近い頃に初めて地上に移り、生活法の改まると共に形狀・性質も漸々變じて終に一種を成すに至つたものと考へれば、遺傳によつて斯かることも生ずべき筈と思はれるが、若しこの種類は初めから別にこの種類として存したものとしたならば、無用の鰓が斯くまで完全に發達することは、實に不思議中の不思議といはねばならぬ。
[やぶちゃん注:「地上に住んで胎生する蠑螈の種類」両生綱有尾目イモリ亜目イモリ科サラマンドラ属 Salamandra のサラマンダー・イモリ類の一種であろう(イタリアのトレントやアルプス山中に多く、卵胎生でもある)。恐らく、同類で最も知られるのは、南欧・中欧・東欧の高地に棲息し、大きな毒腺から乳白色の有毒な液体(アルカロイド系神経毒)を噴射することで知られ、全長十五~二十五センチメートル、最大三十センチメートルにも達する個体もある、黒地に警戒色として鮮やかな黄色(稀にオレンジ色)や赤色の斑点や縞を持ったファイアサラマンダーSalamandra
salamandra であろうが、同種は成体は陸生(但し、水辺近くに棲息)であるが、♀は水中に子を産み、その幼生は水中生活をするので残念ながら、丘先生の言っている種ではない。]
« 和漢三才圖會第四十一 水禽類 鴛鴦(をしどり) | トップページ | 子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十六年 日本俳句創設 »