子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十七年 新なる不平 / 明治二十七年~了
新なる不平
『日本』に還った居士は、仕事の上からいうと、『小日本』時代より大分楽になった。『小日本』の廃刊については「愛子を喪(うしなひ)し如き感」があったに相違ないけれども、編輯という重責から離れたため、その方面の心労はなくなったわけである。当時飄亭氏に与えた手紙に「『日本』六頁は小生少も手をつけず、石井許りに相任せ申候。五頁だけこしらへればよき事故每日二時頃出社四時過退社致候次第にて『小日本』よりは大分樂に相成候。併し時々三段四段も埋めにやならぬには閉口いたし候」とあるが、石井というのは露月氏のことである。「文学漫言」の如きも三段四段を埋める一材料だったのであろう。
同じ飄亭氏宛の手紙に「時々鳴雪翁をとひ中村畫伯と放談するなど此頃の快事に御座候」ということも書いてある。これは時間的に余裕の出来た証拠であるが、「地図的観念と絵画的観念」などという文章は、鳴雪翁訪問の結果として生れたものである。蕪村の「春の水山なき國を流れけり」の句を以て、鳴雪翁は蕪村集中の秀逸、俳諧発句中の上乗とし、居士はそれより一、二等下に置く。居士が鳴雪翁ほど高く評価しない理由は、「山なき國」の一語にあるので、これは目前の有形物を詠じたものでない、幾多の観念を綜合した後にはじめて生じ得べき抽象的の無形語だから、文学的感情を刺激することが薄いというのであった。一時間余も議論を闘わした後、鳴雪翁ほ地図的観念を以てこの句を見、居士は絵画的観念を以てこの句を見るという原因を突止(つきと)め得た。「地図的観念と絵画的観念」はこの原因について、更に心理学的解剖を進めたものである。
[やぶちゃん注:「地図的観念と絵画的観念」は「獺祭書屋俳話」に載り、国立国会図書館デジタルコレクションの画像でここから読める。]
八月四日の『日本』に居士は「そゞろありき」という文章を掲げた。朝早く日暮里、三河嶋辺を彿御した俳句入の文章で、これも紙面を埋めんがためのすさびであったかも知れぬ。次いで八月十四日、鳴雪、不折両氏と王子に遊んだ時のことは、「王子紀行」一篇となって、不折氏の挿画入で『日本』に現れた。
[やぶちゃん注:「そゞろありき」は国立国会図書館デジタルコレクションの「獺祭書屋俳話」のこちらから、「王子紀行」も同じくこちらから読める。]
こういう間にも日清間の戦局はどんどん進展する。飄亭氏は八月上旬に朝鮮に渡った。『日本』社中からも相次いで従軍者が出る。紙面が漸く活気を呈するにつれて、『小日本』廃刊以来の不平は、別の形になって居士の胸中に渦巻くようになった。九月になって「進軍歌五首」「凱歌五首」「海戦十首」というような俳句を『日本』に掲げて、いささか気勢を添うるところがあったが、「野に山に進むや月の三萬騎」「進め勧め角(つの)一聲(いつせい)月上りけり」「砲やんで月腥(なまぐさ)し山の上」「秋風の韓山敵の影もなし」「船沈みてあら波月を碎くかな」というような句では、到底居士の壮志を託するわけに行かぬ。鬱勃たる不平を懐きながら、居士は毎日のように根岸の郊外を散歩した。一冊の手帳と一本の鉛筆を携えて田圃野径(でんぽやけい)をさまよい、得るに従って俳句を書きつける。居士が俳句の上に写生の妙を悟ったのはこの時であった。同じような道を往来し、平凡な光景の中に新な句境を見出したのである。
稻刈るや燒場の烟たゝぬ日に
掛稻の上に短し塔の先
掛稻や野菊花咲く道の端
雨ふくむ上野の森や稻日和
低く飛ぶ畔(あぜ)の螽(いなご)や日の弱り
刈株に螽老い行く日數かな
この辺の消息については小説「我が病」及『獺祭書屋俳句帖抄』の序にかなり委しく記されている。写生の妙を会得したという一事は、居士の俳句の上に一時期を劃するに足る進境でなければならぬ。日清戦争という国家の大事件に際し、胸中に無限の不平を蔵した居士が、全くかけ離れた方面において、こういう眼を開いているのだから面白い。
[やぶちゃん注:「我が病」は国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(明治三七(一九〇四)年俳書堂刊「子規遺稿 第三編 子規小説集」)から全篇を視認出来る。
「『獺祭書屋俳句帖抄』の序」こちらの国立国会図書館デジタルコレクションの画像で視認出来るが、かなり長い序である。]
京都の高等中学が解散されたため、九月から仙台の高等学校に移っていた碧、虚両氏は十一月に至り、遂に退学を決行して東京に帰って来た。碧梧桐氏は暫く子規庵に寄宿、虚子氏は非風の許にあったが、やがて共に本郷の下宿に移ることとなった。露月氏もこの夏脚気を病んで房州に転地、更に郷里へ帰った後、十月末になって出て来た。居士の身辺におけるいろいろな事柄もまた居士を慰むるに足るものが少かったように思われる。
[やぶちゃん注:「京都の高等中学が解散された」この明治二七(一八九四)年、京都の第三高等中学校は第三高等学校に改組されて本科・予科が廃止された。]
十一月三日、居士は川崎、池上などに遊んで「間遊半日」を『日本』に掲げ、十二月はじめて開通した総武鉄道に乗って佐倉に赴き、「総武鉄道」を草した。「間遊半日」にも「総武鉄道」にも戦時下らしい空気が見えている。
『日本』に還った後の居士は、時に竹の里人の名を以て『日本』に歌を載せる。ことがあった。
嶋山を雲立ちおほひぬ伊豆の海相模の海に浪立つらしも
三韓舟中の作に擬す
雲かあらず烟かあらず日の本の山あらはれぬ帆檣の上に
燒太刀を手にとり見ればが水無月の風ひやゝかに龍立ちのぼる
格調は『小日本』時代のものに比して更に引緊(ひきしま)っている。居士の当時の心持はこれらの歌にも自(おのずか)ら現れているようである。
[やぶちゃん注:「三韓」神功皇后が新羅出兵を行い、朝鮮半島の広い地域を服属下においたとされる三韓征伐を日清戦争の出兵に擬えたもの。私には読みたくもないおぞましい一首である。]
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