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2018/02/01

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十五年 俳句方面の新機運

 

    俳句方面の新機運

 

 明治二十四年の末から二十五年の初(はじめ)へかけて、居士は「月の都」に没頭した。家を借り、客を謝し、他の一切を擲ってかかったように見えるが、事実は必ずしもそうではない。居士は一の事に熱するが故に他を廃するというような人でなかったから、「月の都」に力を用いながら、他はこれと並行せしむるだけの余裕を持っていた。二十五年一月以降、駒込の僑居に短篇の小説持寄会(もちよりかい)を開き、遠く碧、虚両氏あたりにその作を徴(ちょう)しているのを見ても、ほぼ大体を察すべきであろう。

 俳句も二十四年あたりから漸く活気を帯びて来た。居士自身も数度の旅行により詩境を広くしたに相違ないが、新な機運はむしろ居士の身辺から動こうとした。その先鞭を着けたのは非風であったかも知れぬが、殊に二十四年秋、古白の「今朝見れば淋しかりし夜の間の一葉かな」「芭蕉破れて先住の發句秋の風」「秋海棠朽木の露に咲きにけり」などの句が出ずるに及んで、居士は瞠目せざるを得なかった。後年居士はこれらの句を評して「趣向も句法も新しくかつ趣味の深きこと當時にありては破天荒ともいふべく余ら儕輩(せいはい)を驚かせり」といい、「これらの句はたしかに明治俳句界の啓明と目すべき者なり。年少の古白に凌駕せられたる余らはこゝに始めて夢の醒めたるが如く漸く俳句の精神を窺ふを得たりき。俳句界これより進步し初めたり」といっている。

[やぶちゃん注:正岡子規の評言は古白自死から二年後の明治三〇(一八九七)年五月二十八日に病をおして独力で編纂した「古白遺稿」の「藤野潔の傳」からの引用である。

「儕輩」「さいはい」とも読む。同じ仲間・同輩・朋輩。]

 「夜長の欠び」によると、諷亭氏がはじめて俳句の趣味を解し、俳句らしいものが出来るに至ったのは二十四年の下半期であるが、非風はそれよりも一歩先んじていたとある。この事に関しては居士も「明治二十二、三年の頃より多少俳句に心ざしし者五百木諷亭、新海非風の二人あるのみ」といい、「明治二十三、四年の頃吾人の俳句はいまだ俳句を爲さゞるに當りて飄亭の句已に正を成す」と明(あきらか)に自分に先んじたことを認めている。中心人物たる居士の句よりも、居士の刺激を受けて句を作り出した人たちの方が、先ず新な境地に踏入ったということは、一見不思議のようであって、実は怪しむに足らぬ現象である。多くの句に目をさらし、大原其戎の門を敲いたりして、当時の俳諧の如何なるものかを心得た居士の方が、スタートを早く切り得なかったまでで、居士の如き長距離の走者にあっては累(るい)をなすべき性質のものでなかった。

[やぶちゃん注:「累」他から受ける災い。]

 けれど新なる機運は目に見えぬ間に動きつつある。年少の中学生たる碧梧桐氏ですら、早く奇想を捻出して人を驚かすに至り、居士の羽翼(うよく)は已に成るの観があった。「寒山落木」の句が激増するのは明治二十五年からであるが、それに先(さきだ)って二十四年にこういう空気の動きがあることは、注目に値する事実でなければならぬ。

 居士が畢生(ひっせい)の大業たる「俳句分類」に著手したのも、二十四年の冬であるらしい。現存「俳句分類」丙号の表紙に「明治廿四年冬著手」と記してあるからである。居士がこの大業に著手した動機については、自ら何も語っておらぬが、鳴雪翁の書かれたものにい一插話が伝えられている。或時居士と俳句の話をした際、居士が元日の句にはあまりいい句がないといったのに対し、翁が「元日や何にたとへん朝ぼらけ」という忠知(ただとも)の句を持出された。この句は翁が十歳以前に一読した柳亭種彦の『娘金平昔絵草紙(むすめきんぴらむかしえぞうし)』の中に出ている句なので、牢記(ろうき)するままに持出されたのであったが、居士もこの句を面白く感ずるとともに、広く古今の句を知らなければならぬということを痛感した。それが「俳句分類」を整った動機である旨を、後年翁に語ったというのである。果してこれが唯一の動機であったかどうかはわからぬけれども、小さな偶然の動機が意外に大きな結果を齎(もたら)すことは世間に往々ある。「この書中に收むる俳句はなるべく多からんことを欲するが故に完結の期あるなし。たゞ余が力盡き斃(たふ)るゝ時を以て完結の期とすべし」という覚悟を以て「俳句分類」に著手せしめた一理由が、鳴雪翁の古い記憶にとどまった「元日や何にたとへん朝ぼらけ」の句であったのは、慥(たしか)に面白い事実である。世の中に偶然ということは一つもない、という感を今更の如く深うせざるを得ぬ。

[やぶちゃん注:「俳句分類」標題は「發句類題全集」であるが、見開きに「俳句分類集」とある。厖大なその恐るべき自筆手稿は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで画像で視認出来る。但し、リンク先の国立国会図書館の書誌情報では開始推定時期を明治二二(一八八九)年に置いている

「忠知」江戸前期は、江戸時代前期の俳人神野忠知(かんのただとも 元和九(一六二三)年(講談社「日本人名大辞典」では寛永二(一六二五)年とする)~延宝四(一六七六)年(同辞典では十一月二十七日とする):芭蕉(寛永二一(一六四四)年~元禄七(一六九四)年)より十九年長)。江戸の人。井坂(井上)春清(しゅんせい)の門人。「白炭(しらすみ)ややかぬむかしの雪の枝」の句が知られ、「白炭の忠知」と呼ばれたが自刃した(後掲する「俳家奇人談」に拠る)。但し、私が参考にした岩波文庫雲英末雄校注の竹内玄玄一著「俳家奇人談・続俳家奇人談」の「人名索引」では屋号として「新井」「材木屋」を載せるから、どうも実際の彼は本来は武士ではないようである。幸い、私はこの「俳家奇人談」に載る「神野忠知」でこの「元日や」の句も知っている。そこには、

 

 元日や何に喩へん朝ぼらけ

 

で出、切腹の際の辞世として、

 

 霜月やあるはなき身の影法師

 

を載せている(出典を其角「雜談集」とする)。

「この句は翁が十歳以前に一読した柳亭種彦の『娘金平昔絵草紙(むすめきんぴらむかしえぞうし)』」内藤鳴雪の「鳴雪自敍傳」(大正一一(一九二二)年岡村書店刊)の中に(底本は国立国会図書館デジタルコレクションの当該書画像を視認した。踊り字「〱」は正字化した)、

   *

 私の八歳の時に、繼母は男の子を生んだ。大之丞と名づけられた。そこで私は始めて弟と云うふものを持つたのである。年は七つも違つて居たが、それでも弟が少し生ひ立つて來ると、隨分喧嘩もした。大之丞が私の繪本などを汚すと、いつも私は腹を立てた。

 私はもう芝居も知り草双紙にも親しんだが、かの間室から貰った草双紙の綴ぢたのゝ中に、種彦が書いた『女金平草紙(をんなきんぴらさうし)』と云ふのがあつた。この草紙は女主人公が『金平(きんぴら)のお金(きん)』で、その夫が神野忠知にしてある。この人の句で名高い『白炭や燒かぬ昔の雪の枝』と云ふのが、或る書には『白炭は』とあつて名も種知としてある。この異同から種彦が趣向を立てたものであつた。その關係からこの本には他のいろいろな句ものつて居た。

      茶の花はたてゝもにても手向かな

      軒端もや扇たるきと御影堂

      角二つあるのをいかに蝸牛

      元日や何にたとへむ朝ぼらけ

と云ふもあつた。これらを讀んで面白さうなものだと思つたが、それが三十幾年の後に『俳人』などゝ呼ばれる因緣であつたと云はゞ云へる。

 この草雙紙の筋は、忠知が或る料理屋で酒を飮んで居ると、他の席に居た侍のなかまが面會したいと云つて來た。忠知はそれを面倒に思つて、家來に自分の名を名乘せて面會させた。すると、その家來が惡心を起して、その席の一人の侍の懷中を盜んだ。それがすぐ發覺したので同席のなさけある一人が、その家來を刺殺して、忠知は過ちを悔いて自殺したと云ひ觸らした。この事が後世に傳はり、忠知は切腹したと云ふ事になつて了つた。忠知はこの異變を聞いて、もとは自分の一時の疎懶[やぶちゃん注:無精。]ゆゑと後悔したが、もはや追付かず、表向きに顏を出すことが出來ぬ身になり、その後、金平のお金と云ふ女と夫婦になり、そのお金の親の仇を討つと云ふのが大團圓になつて居る。

 こんな複雜な筋のものも段々讀み得るやうになつたので、愈々草双紙が好きになつた。私が八つ九つの頃に見たのは三册五六册ぐらゐの讀切り物で、京傳種彦あたりの作が多かつた。それから或る家で釋迦八相倭文庫を借りて來て讀んだが、これが、長い續き物を見た始まりで、斯う云ふ物は一層面白い物だと思つた。この本で釋迦の事蹟の俤を知り、後日佛教を知るその絲口はこの本で得たとも云へる。『白縫譚』『兒雷也豪傑譚』なども追々と讀んで行つた。

   *

とある。年少とは言え、師正岡子規が、彼の思い出した忠知の句に瞠目した事実を記さない彼は、実に「回也」と讃えたいと私は思う。柳亭種彦(天明三(一七八三)年~天保一三(一八四二)年)の「娘金平昔繪草紙」は文政四(一八二一)年の板行で画は歌川国貞である。]

 

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