進化論講話 丘淺次郎 第十章 發生學上の事實(5) 五 生物發生の原則 / 發生學上の事實~了
五 生物發生の原則
動物各種の發生中に現れる性質を丁寧に調べて、彼此相比べて見ると、前節に説いた如く、先祖代々の性質が、子孫の發生の中に順を追うて現れると考へるより外に致し方がないが、動物學者は多數の動物の發生を研究した結果、之より歸納して一の原則を造つた。この原則は生物發生の原則と名づけるもので、短くいへば、個體の發生はその種屬の進化の徑路を繰り返すといふのであつて、尚詳しく言へば、凡そ生物は皆共同の先祖から漸々進化して分かれ降り、終に今日の姿に達したものであるが、今日の一粒の卵から動物の一個體が出來るときには、何億年か何兆年かの間にその動物の種屬が經過し來つた通りの變化を、極めて短く略して繰り返すもので、例へば鯨が今日の姿までに進化し來る途中に一度齒のある時代があつたとすれば、鯨の卵から鯨の兒が發生する途中にも一度齒の現れる時期があり、人間が今日の姿までに進化し來る途中に一度鰓孔のある時代があつたとすれば、人間の卵から人間の兒が發生する途中にも一度鰓孔の生ずる時期があるといふのである。この原則は今日でも種々の學科に應用せられ、心理學・社會學・兒童研究などでも、常に之を唱へるやうになつたが、元は動物學者が動物の發生を調べていひ出したものである。
若しこの原則を文字通りに解釋して間違ひのないものならば、一種の動物の發生を十分に調べさへすれば、その動物の進化し來つた徑路が明細に解る筈であるが、天然はなかなかさやうな簡單なものではない。實際に於てはたゞ各種の動物の進化歷史中の若干の著しい性質が飛び飛びにその發生の中に現れるだけで、決して發生中の各々の時期が進化歷史中の各時代を寸分も違へずそのまゝに寫し出して居るとは思はれぬ。之は素よりさもあるべきことで、生物が何億年・何兆年の間に漸漸進化し來るときには、その間の各個體は餌を求め、敵から逃れ、且生殖の作用をもなしながら代々極めて少しづゝ變化し來たものであるに反し、數日間或は數週間という極めて短い時の間に、卵から一個體の生ずるときには、敵から逃げることも無く、滋養分は他から供給を受け、生殖作用は全く知らずに、たゞ迅速に形が變化して出來ること故、その間の事情や境遇が全く違ひ、境遇事情が違へば勢い變化の模樣にも著しい相違のあるのは、先づ當然と考へなければならぬ。されば詳細の點までこの原則に照して論じようとするのは無理であるが、この原則を認めなければ説明の出來ぬことが甚だ多くあり、またこの原則を認めさへすれば、初め不思議に思はれたことも多くは容易に理窟が解る所から考へれば、大體に於てはこの原則は正確なものと見倣さなければならぬ。然るにこの原則は生物進化の事實を認めた後に初めて意味を有するもの故、この原則を正確なりといふのは、卽ち生物の進化は無論のこととして、尚その一つ先の點を論じて居る譯に當る。生物種屬不變の説とこの原則との兩立せぬことは、素よりいふまでもないことである。
本章に述べた事實は、この原則によれば總べて一應理窟が解るものばかりである。發生の途中に一度或る性質が現れて後に再び消えることも、退化した動物が發生の途中に却つて高等の體制を有することも、同門・同綱に屬する動物は生長後如何に形狀の異なるものでも、發生の初めには著しく相似ることも、また發生の進むに隨うて動物の形狀が漸漸樹枝狀に順を追うて相分かれることも、皆この原則の中に含まれたことで、總べて之によつて説明が出來る。尚この原則はたゞ卵殼内または親の胎内に於ける間の發生に適するのみならず、生れて後の變化も之によつて支配せられるもので、南アメリカのペングィンが生長し終れば、ただ泳ぐばかりで、飛ぶ力はないが、雛の頃には能く飛ぶこと、また人間の幼兒が猿類の如くに足の裏を互に内側へ向け合せて居ることなども、この原則に隨つた事實であらう。尚一層推し擴げると、兒童の心理、社會の發達等も之によつて幾分かその理を察することが出來る。實に原則の名に背かぬ生物學上最も重大な一法則といはねばならぬ。
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