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2018/02/22

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十七年 世に出た「月の都」

 

     世に出た「月の都」

 

 『小日本』には創刊号から斎藤緑雨の小説「弓矢神(ゆみやがみ)」が作者不詳として連載された外、居士も卯之花舎(うのはなや)の署名の下に「月の都」を掲げた。自ら「まづ世に出づる事無かるべし」といった「月の都」が、意外な機会で世に出ることになったのである。この原稿は露伴氏の一閲を乞うたり、羯南翁や自恃(じじ)居士、二葉亭四迷の手に渡ったという稿本のままであるが、『小日本』に掲げるに当って更に推敲を重ねたものか、その辺の消息はわからない。とにかく現在伝わっている「月の都」は『小日本』所載のものである。二年前全力を傾注して世に問おうとした小説が、自己の主宰する新聞紙上に現れる様子を、居士はどんな気持で眺めつつあったか、当時の書簡などを点検しても、この点に触れたものは見当らぬように思う。「月の都」は三月一日を以て完結した。「弓矢神」と違って、挿画は時折入るに過ぎなかったようである。

[やぶちゃん注:「斎藤緑雨」(慶応三(一八六八)年~明治三七(一九〇四)年)は小説家・評論家。本名は賢(まさる)。伊勢国神戸(かんべ。現在の三重県鈴鹿市内)の生まれ。別号に「江東みどり」「正直正太夫,」「登仙坊」など。仮名垣魯文に認められて『今日新聞』『めさまし新聞』に執筆、坪内逍遥・幸田露伴・森鷗外らとも相識った。本格的な批評は「小説八宗」(明治二二(一八八九)年発表)からで、当時の作家を見事に裁断、「初学小説心得』」「正直正太夫死す」(とも翌明治二十三年)もパロディ精神旺盛である。明治二四(一八九一)年に小説「油地獄」を『国会』に、「かくれんぼ」を『文学世界』に書き、力量を示した。油の鍋に女の写真を投げ込む趣向など、思わず息を呑む。鷗外らとの合評時評『三人冗語』『雲中語』に参加し、樋口一葉とも僅かな期間であったが、交友があり、一葉没後の「一葉全集」は緑雨の校訂になる。『万朝報』に連載「眼前口頭」(明治三一(一八九八)年から翌年)を書く。「按ずるに筆は一本也、箸は二本也。衆寡敵せずと知るべし」(「青眼白頭」明治三三(一九〇〇)年)の文句は当時の彼の心意気を示す言葉として、よく知られる。転居を繰り返し、本所横網町で病没する直前には、友人馬場孤蝶に「僕本月本日を以て目出度死去致候間此間此段廣告仕候也」という広告文を口述している(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「自恃(じじ)居士」元官僚でジャーナリストであった高橋健三。既出既注。当時は大阪朝日新聞客員論説委員(主筆と同格待遇)。]

 「月の都」に次いで居士は「一日物語」という小説を、三月二十三日から『小日本』に掲げはじめた。これは新聞に載せるため、新に稿を起したので、「月の都」の如く惨澹たる苦心の余に成ったものではない。「月の都」の文章は句々鍛錬の迹が著しく、『風流仏』的小説を書くことが一の目的になっていたという居士の言も、慥に首肯し得るものであったが、「一日物語」は新聞に連載する必要に迫られて筆を執ったので、その筋の如きも進むに従って次第に変化して行ったのではないかと思われるところがある。当時学業を一擲して上京していた虚子氏の記すところによれば、小説の執筆は大概夜牀(とこ)に入ってからであり、口授して虚子氏に筆記せしめたものであるという。忙しい新聞事業に携っている居士としては、小説に思(おもい)を凝(こら)しているような時間を持合せなかったのであろう。

 新聞小説としての「月の都」は、西鶴張の文章に馴れていた当時にあっても、相当むずかしかったに違いないが、「一日物語」の方は最初から新聞の読者を対象としただけに、文章も大分わかり易くなっている。居士が前年歩いた奥州の天地を舞台にしてあるけれども、得体の知れぬ女に導かれて山中の孤屋に宿る一段は、固より居士の空想に成ったもので、この辺に漂う空気は露伴氏の『対髑髏(たいどくろ)』あたりと哀相通ずるものであろう。「一日物語」の筋は発展しそうで発展せず、結末において最初の筋に還るのであるが、場面に何らかの山を作り、場面に変化あらしめたのは、新聞小説における用意だろうと思う。この時の署名は黄鸝村人(こうりそんじん)であった。

[やぶちゃん注:「対髑髏」幸田露伴が明治二三(一八九〇)年年一月から二月にかけて雑誌『日本之文華』に発表した、私の好きな幻想怪奇短篇小説(初出時のタイトルは「縁外縁」)。菊池真一サイト内で読める。

「黄鸝」は高麗鶯(ススズメ目コウライウグイス科コウライウグイス属コウライウグイス Oriolus chinensis)の漢名。]

 居士はこの時分比較的健康状態がよかったらしい。こういう小説を執筆する傍、原稿の検閲、絵画の註文をはじめ、編輯上の仕事に鞅掌(おうしょう)しながら、余力があると艶種(つやだね)の雑報などにも筆を執ったという。二月十七日虚子氏宛の端書に「東京圖書館へ御出掛の節火事消防火消し等に關する書物御調査被下(くだされ)まじくや、もし出來るなら早き方よろしく御坐候。是非ともと申わけには無之候」というのがあるのは、『小日本』の材料として必要だったのであろう。日々の仕事を渋滞なく処理するが如きは、むしろ居士得意のところで、筆硯匇忙(ひっけんそうぼう)の裡(うち)に安(やすん)じて自己の責任を果して行ったに相違ない。

[やぶちゃん注:「鞅掌(おうしょう)」名]忙しく立ち働いて暇(いとま)のないこと。この場合の「鞅」は「担う」の意。

「艶種(つやだね)」男女間の情事に関する話題。

「筆硯匇忙(ひっけんそうぼう)」物を書くのに慌ただしく忙しいこと。]

 『小日本』の編輯に任ずるようになって、居士の生活にも多少の余裕を生じた。三月八日大原恒徳氏宛の書簡に「私月俸三十圓迄に昇進仕候故(つかまつりさふらふゆゑ)どうかかうか相暮し可申(まうすべく)とは存候得共(ぞんじさふらえども)、こんなに忙がしくては人力代に每月五円を要し、其外社にてくふ辨當の如きものや何やかやでも入用有之(これあり)、又交際も相ふゑ(芝居抔にも行き申候)候故三圓や五圓は一朝にして財布を掃(はら)ふわけに御座候。近來は書物といふもの殆んど一册も買へぬやうに相成申候」とある。社会の人となるに及んで、書物が買えなくなるというのは、必ずしも居士のみの歎でないような気がする。

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