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2018/02/03

芥川龍之介 手帳12 《12-3》

《12-3》

○珍重拜歌次韻

[やぶちゃん注:漢詩文のための韻書と思ったが、和漢ともに見当たらないし、どうもこの「拜歌」というのは少なくとも正規の韻書の名としては何となく怪しい感じがする。「次韻」というのは、他人の詩と同じ韻字を同じ順序で用いて詩作すること或いはその詩を指す(他人の詩に和す「和韻」の中で最も縛りの強いケースで、他に二体あり、元の詩の韻の順に拘らずに用いる場合を「用韻」、同一の韻に属する他の字を用いるものを「依韻」と称する)。しかし「珍重拜歌」でも検索に掛かってこない。識者の御教授を乞う。]

 

○次永坂石埭碧雲拜歌韻

[やぶちゃん注:この中の「永坂右埭」は知っている。医師で書家・漢詩人としても知られた永坂石埭(ながさかせきたい 弘化二(一八四五)年~大正一三(一九二四)年:本名は周二)である。漢詩は森春濤門下の四天王の一人に数えられる。明治七(一八七四)年頃に上京して神田お玉ケ池の梁川星巖(やながわせいがん)の旧居跡に医院玉池仙館を開業した。書もよくし、「石埭流」と称された。晩年は郷里名古屋に戻った。芥川龍之介は若い頃から彼の詩や書を知っており、芥川龍之介の作家デビュー前の芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む)「十四」/芥川龍之介「日記より」(その一)』にもその名を記している。さすれば、この最初の「次」と末尾の「韻」を先の注の次韻だと考えると、これは「永坂石埭」の詩「歌」を敬「拜」して次韻して作った漢詩のことを指すのではないかと考え、調べて見たところ、ズバリ! あった! 石九鼎氏のサイト内の「横山耐雪」のページである。しかも、その和韻した元の石埭の漢詩、これ、儂、知っとるがね! 以上の石氏の解説によれば、横山耐雪(明治元(一八六八)年~大正一二(一九二三)年)は『島根県松江市出身』で、『家は代々・松江藩の医で、耐雪が九代目。年少、雨森精翁に就き学ぶ。のち、内村鱸香に就いた。二十三歳、岡山医学校を卒業してから(現・島根県大原郡木次町)に開業する。特に眼科に優れていた』。『詩は年少時代から作詩したが、永坂石埭に就いてから詩調が変わった。三十六歳の時、森塊南を松江に迎えて、『剪松吟社』を興し』、『終生「松社」の提挈』(ていけつ:引き連れること。或いは助け合うこと)『に当たり、郷土の古い詩人の刊行に努めた。耐雪の詩は永坂石埭の流れをよく承けて流麗である。(島根県文化人名鑑より抜粋)』。『漢詩隆盛時』、『各地に吟社は多い中で『剪松吟社』は加盟者数』が『最も多く、作者の詩風が格調高く』、流暢で『あったこと等で特色のある吟社であった』とある。そのページの最後に載る漢詩(漢字を恣意的に正字化して示し、訓読も石氏のものを参考に私の好みで変えてある)、

 

  碧雲湖棹歌

 殘夜湖光碧欲飛

 看看祠樹帶朝暉

 扁舟容與尋碑入

 一棹松風滿客衣

  殘夜 湖光の碧(へき) 飛ばんと欲す

  看(み)す看(み)す 祠樹(しじゆ)の 朝暉(てうき)を帶ぶるを

  扁舟(へんしう) 容與(ようよ)として 碑を尋ねて入らば

  一棹(いつたう)の松風(しやうふう) 客衣(かくい)に滿つ

 

この「碧雲湖」とは宍道湖の雅名で、「容與」はゆったりとしているさまを謂う。さて石氏によれば、この詩は永坂石埭の「碧雲棹歌」の詩の次韻だとあるのであるが、私は既にその詩を、『芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む)「十四」/芥川龍之介「日記より」(その一)』の注で示しているのだ。この詩は永坂石埭がまさに耐雪の創った結社「剪淞吟社(せんしょうぎんしゃ)」(私の調べた本では「松」ではなく「淞」であった)の求めに応じて、その結社名を巧みに詠み込んで作った七言絶句「碧雲湖棹歌」なのである。全体を以下に示し、自己流で訓読する。

 

  碧雲湖棹歌

 美人不見碧雲飛

 惆悵湖山入夕暉

 一幅淞波誰剪取

 春潮痕似嫁時衣

 

   碧雲湖棹の歌

  美人見えず 碧雲 飛ぶ

  惆悵(ちうちやう)す 湖山の夕暉(せきき)に入るるを

  一幅の淞波(せうは) 誰(たれ)か剪取(せつしゆ)するか

  春潮の痕(こん) 似たり 嫁時(かじ)の衣(きぬ)に

 

「美人」は先の悲劇の伝承の入水した「嫁」であり、「惆悵す」は「恨み歎く」、「湖山」は宍道湖とそれを取り囲む山並み、「夕暉」は夕陽(ゆうひ)、「淞波」は江蘇省の太湖から、長江に流れる淞江(呉淞江)の景勝(+結社名)に掛けたもので、当地松江をそれに擬え、宍道湖の松江に寄せる「波」としたものであろうと読む。しかもそれを「一幅」の山水画に譬えた趣向だろう、そうして「淞」から「松」で、その枝を「剪」る(+結社名の掛詞)、則ち、一幅の絵として全体からそれを切り「取」ることは――いや、あまりの美しさ故に出来ぬ――というのではないか? さても――春の潮の満ち引く、その浪の白い「痕」(あと)は、あたかも、嘗てここへ花「嫁」御寮(ごりょう)として幸せな思いで参った、悲劇の彼女の嫁入りの衣裳に似ているではないか――勝手な解釈であるからして、大方の御叱正を俟つ。

 最後の嫁入り云々はここで説明するのは面倒。是非、『芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む)「十四」/芥川龍之介「日記より」(その一)』の私の「嫁ケ島」の注を参照されたい。この可愛い小っちゃな島に、この石埭の「碧雲棹歌」の詩碑が建っている。]

 

○暉衣

[やぶちゃん注:これは前の永坂右埭詩と横山耐雪のその次韻の詩の韻字と一致する。さらに、検索を掛けたところ、芥川龍之介の好きな(私の古い電子テクスト芥川龍之介の「雜筆」の冒頭の「竹田」(当該章は大正九(一九二〇)年九月発行の『人間』初出)南画家の田能村竹田(たのむらちくでん 安永六(一七七七)年~天保六(一八三五)年)の以下の漢詩の韻脚でもあることが、優れた漢詩サイト「詩詞世界 碇豊長の詩詞」の「日本漢詩選」の「田能村竹田 遊山」で判明した(以下の訓読は碇豊長氏のそれを参考に私なりに読んだ)。

 

  遊山

 落落長松下

 抱琴坐晩暉

 淸風無限好

 吹入薜蘿衣

   山に遊ぶ

  落落たる長松の下(もと)

  琴(きん)を抱(いだ)きて晩暉(ばんき)に坐す

  淸風 無限に好く

  吹きて 薜蘿(へいら)の衣(い)に入る

 

碇豊長氏の解説によれば、「落落」は対象が疎(まば)らで寂しいさまの意で、「晩暉」は落暉(らっき)、夕陽の意、「薜蘿」蔓(かずら)。蔓で織った布から転じて「隠者の服」或いは「隠者の住家」の意とあって、『韻脚は「暉衣」で、平水韻上平五微』とある。]

 

123

 

[やぶちゃん注:この英文のチャートは前の条とは、どう考えても無関係なものであるからして、私独自に表題なしで○を附した。冒頭注で述べたように、これは、言葉で説明しきれず、図で示さなければ判らぬものであるからして、新全集のその部分だけを画像として読みとって、トリミングして示した(但し、これは新全集の編者によって完全に描き直されたものであるから、絵(図)としての著作権は当然あるわけで、それを云々されるかもしれない。万一、そうした指摘を受けるようであれば、完全に私が手書きで書写した画像に差し替える)。その時のために、一応、キャプションは簡単に解説して示す。

 二本の横線が上下二本引かれており、そこに円が三つ上下にはみ出て、有意に離れて三つ描かれてある。

 左手の円の上部円周外上方には「material」(物質的・肉体的)と記されている。その二本線の中間部の円内には左上に「sex」とあってその下に「-」(マイマス)のマーク、右上に「in」とあってその下に「+」(プラス)のマークが打たれている。その+と-の記号の中間部の下方から下の横線の円周外にまでやや右曲がりの指示線が曲線で示されてあって、その端(左の円の真下)には「sexal desire」(性的欲求)と書かれてある。

 中央の円の上部円周外上方には「human」(人間的)と記されている。その二本線の中間部の円内には左上に「sex」とあってその下に「+」(マイマス)のマーク、右上に「in」とあってその下に「+」(プラス)のマークが打たれている。その+と+の記号の中間部の下方から下の横線の円周外にまでやや右曲がりの指示線が曲線で示されてあって、その端(中央の円の真下)には「love proper」(これはよく判らないが、「適切な」現実の「恋人」か?)と書かれてある。

 右手の円の上部円周外上方には「spiritual」(精神的)と記されている。その二本線の中間部の円内には左上に「sex」とあってその下に「-」(マイマス)のマーク、右上に「in」とあってその下に「+」(プラス)のマークが打たれている。その-と+の記号の中間部の下方から下の横線の円周外にまで指示線がやや右曲がりの曲線で示されてあって、その端(右の円の真下)には「love」(愛)と書かれてある。

 この「in」は否定を表わす接頭辞で、「insex」(性的行為を含まない・禁じた・必要としない)の意であろう。

 私は以上のような意味でこの図式を読んだ。]

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