芥川龍之介 手帳12 《12-2》
*
《12-2》
○偶然蟻の出てゐるのを見る
○蜂 柳の芽
○くれ方 雨あがり 大審院 柳 濠 曇天 麥畑 そのはづれに市の一部 夜 丁字のにほひ
[やぶちゃん注:「大審院」明治初期から昭和前期まで日本に設置されていた最高裁判所。現在の東京都千代田区霞が関一丁目、現在の東京高等裁判所の位置にあった(警視庁の桜田通りの斜め向かい側。ここ(グーグル・マップ・データ))。
「丁字」「ちやうじ(ちょうじ)」はクローブ(Clove)のこと。一般にはバラ亜綱フトモモ目フトモモ科フトモモ属チョウジノキ
Syzygium aromaticum の蕾を乾燥したものを指し、漢方薬で芳香健胃剤として用いる生薬の一つを指し、肉料理等にもよく使用される香料であるが、ここはその精油である丁子油の匂い。その主成分であるオイゲノール(eugenol)は歯科の匂いを想起して貰うとよいか(正しくは歯科の匂いはオイゲノールに酸化亜鉛を混合した酸化亜鉛ユージノール(zinc oxide eugenol:歯科では「ユージノール」という表記に統一されているという))。また、この丁子油は江戸時代から男の髷や女性の日本髪の鬢付け油に使用されてきた歴史があるから、或いはここは日本髪を結った女性とすれ違った際に漂ってきたものかも知れない。]
○靑島海軍重砲隊の Boys 28珊の彈丸間に落つ
[やぶちゃん注:「28」は縦書正立。これは第一次世界大戦中の大正三(一九一四)年十月三十一日から十一月七日に発生した、ドイツ帝国の東アジアの拠点であった山東省青島(チンタオ)を日本・イギリス連合軍が攻略した「青島の戦い」の一場面であろう。ウィキの「青島の戦い」によれば、『ドイツの青島要塞攻略にあたり、日本陸軍は、十分な砲がな』かったために、白兵戦で膨大な死傷者を出した『日露戦争の旅順攻囲戦と異なり、砲撃戦による敵の圧倒を作戦の要』(かなめ)『とした。日本軍は、当初』、『計画されていた第十八師団、野戦重砲兵連隊』一『つ、攻城部隊若干という構成から、ヨーロッパでの第一次世界大戦の最新の戦況を見て』、『より強力な攻城砲を多数追加、さらに工兵独立大隊や鉄道連隊も追加していた』。十月三十一日、『「神尾の慎重作戦」と揶揄される』(主力戦力となった第十八師団の指揮官であった神尾光臣中将の作戦は、山東半島上陸から青島砲撃までに二ヶ月もの時間を要したものの、砲撃後一週間で決着がついたことから、日本国民は「弱いドイツ軍相手にだらだらと時間をかけた」という誤った印象を与え、メディアなどからもかく批判された)『程に周到な準備の上で、第十八師団と第二艦隊は攻撃を開始した。ドイツ軍兵力は約』四千三百『名であった。最新鋭の移動容易な攻城砲四五式二十四糎榴弾砲をはじめ、三八式十五糎榴弾砲、三八式十糎加農砲など、重火器による砲撃によりドイツ軍要塞は無力化され』、『ドイツ軍将校は戦後』、『「余の砲台は(陸軍の砲撃により)ほとんど破壊されてしまった!」と感嘆したほどだった』という。
「海軍重砲隊」海軍陸戦隊。日本海軍が編成した陸上戦闘部隊。元来は常設の部隊ではなく、艦船の乗員などの海軍将兵を臨時に武装させて編成することを原則とした。
「28珊」一八八〇年代に大日本帝国陸軍が開発・採用した二十八糎(センチ)榴弾砲(にじゅうはちりゅうだんほう)の旧称である「二十八珊米(サンチメートル)榴弾砲」又は「二十八珊(サンチ)榴弾砲」のこと(榴弾砲とは火砲(大砲)の一種で、基本定義は同口径のカノン砲に比べ、砲口直径(口径)に対する砲身長(口径長)が短く、低初速・短射程であるが、軽量でコンパクトを利とし、高仰角の射撃を主用するものを指す)。主に日露戦争に実戦投入されたが、「青島の戦い」でも六門が投入されている。日本人には永く馴染み深い火砲となった。参照したウィキの「二十八糎砲」によれば、砲弾は堅鉄弾で重量二百十七・六六キログラム、堅鉄破甲榴弾で二百二十四キログラム、九八式破甲榴弾で二百二十一キログラム、二式榴弾で二百十八キログラムである。グーグル画像検索「二十八糎砲」をリンクさせておく。この記載は、海軍陸戦隊の少年兵(当時の)らの「間」に味方の陸軍が撃った二十八珊榴弾砲の砲弾が着弾(「落」下)し、幸いにも不発だったというエピソードであろうか。これは、芥川龍之介が教官を勤めた海軍機関学校の軍人或いは軍部の教官か職員(退役軍人)の思い出話ででもあるのかも知れないし、或いは次のメモにる小説「猿」のエピソード(次注参照)の提供者である芥川龍之介の友人からの聞き書きの一つかも知れぬ。]
○海軍監獄(浦賀) 8尺の距離
[やぶちゃん注:現在の神奈川県横須賀市長瀬にある横須賀刑務支所(男性受刑者専用の刑務所で、執行刑期が十年未満で犯罪傾向が進んでいない者及び日本人受刑者と異なる処遇を必要とする外国人・在日米軍兵士及びその家族を収容する)の前身。ここは明治一六(一八八三)年十一月に神奈川県三浦郡大津村(後に旧浦賀町となる)に海軍監獄として設立されている。ここ(グーグル・マップ・データ)。私は確かにこの監獄についてかなり調べた記憶があるのだが、それが何のためで、どこにそれを記したかが、どうしても判らない。判明し次第、追記する。なお、この浦賀の海軍監獄は芥川龍之介の小説「猿」(大正五(一九一六)年九月発行の『新思潮』。因みに、この九月一日、芥川龍之介は『新小説』に文壇デビュー第一作となった「芋粥」を発表しており、前月八月二十五日には塚本文(当時満十六歳)にプロポーズの手紙を書いている)の終りの方に出てくる(「青空文庫」のここで読める。但し、新字)。なお、この小説「猿」の話は、芥川龍之介の江東小学校・府立三中時代からの古い友人で海軍将校になった清水昌彦(?~昭和元(一九二五)年:喉頭結核と腸結核の併症により死去)から聞いた話が元となっていることが判っている。
「8尺の距離」「8尺」は二メートル四十二センチメートル。次のメモの頭の『鐵丸――臺より臺へ』と関連する。「猿」を読むと、意味が判る。盗みを働いた男(『信號兵』(後のメモに出る)の奈良島)が一日、『禁錮室』(後のメモに出る)に監禁された後、『翌日、浦賀の海軍監獄へ送られ』た、と話者である「私」(作者と思しい聞き役の相手)が語った後である(引用は岩波旧全集より。以下、同様)。
*
これは、あんまりお話したくない事ですが、あすこでは、囚人に、よく「彈丸運び」と云ふ事をやらせるのです。八尺程の距離を置いた臺から臺へ、五貫目ばかりの鐡の丸(たま)を、繰返へし繰返へし、置き換へさせるのですが、何が苦しいと云つて、あの位、囚人に苦しいものはありますまい。いつか、拜借したドストエフスキイの「死人(しにん)の家」の中にも、「甲のバケツから、乙のバケツへ水をあけて、その水を又、甲のバケツへあけると云ふやうに、無用な仕事を何度となく反覆させると、その囚人は必自殺する。」――こんな事が、書いてあつたかと思ひます。それを、實際、あすこの囚人はやつてゐるのですから、自殺をするものゝないのが、寧、不思議な位でせう。そこへ行つたのです、私の取押さへた、あの信號兵は。雀斑のある、背の低い、氣の弱さうな、おとなしい男でしたが……。
*]
○兵曹(赤坊の頃)鐵丸――臺より臺へ 45時間 六七人 監守一人 雨天體操場 太い麻繩をほどく(二人) ○R上陸員整列(副長⦅當直將校⦆) R總員集合――皆上甲板 副長云わたし身體檢査 候補生を艙口に排置――中下甲板の檢査
[やぶちゃん注:「45」は縦に「4」「5」と正立。「⦅當直將校⦆」は底本では「副長」の右にルビ大の小ささ記載されてある。これと後に続く「赤いブイ」までの条々もやはり明らかに前条の注で示した小説「猿」の構想メモである(全文は「青空文庫」のここを参照。但し、新字)。
「兵曹(赤坊の頃)」「兵曹」は大日本帝国海軍の下士官で上等兵曹・一等兵曹・二等兵曹に分かれたから、「赤坊」というのは最下級の二等兵曹のことか。
「雨天體操場 太い麻繩をほどく(二人)」この部分は意味不明。
「R」これは思うに、軍隊で使われる信号ラッパ(ビューグル:英: bugle)の「ラッパ」の略であろう。「猿」の第一段落に、
*
私が、遠洋航海をすませて、やつと半玉(はんぎよく)(軍艦では、候補生の事をかう云ふのです)の年期も終らうと云ふ時でした。私の乘つてゐたAが、橫須賀へ入港してから、三日目の午後、彼是(かれこれ)三時頃でしたらう。勢よく例の上陸員整列の喇叭(らつぱ)が鳴つたのです。確、右舷が上陸する順番になつてゐたと思ひますが、それが皆、上甲板へ整列したと思ふと、今度は、突然、總員集合の喇叭が鳴りました。勿論、唯事(たゞごと)ではありません。何にも事情を知らない私たちは、艙口(ハツチ)を上りながら、互に「どうしたのだらう」と云ひ交はしました。
*
とあるので判然とする。
「云わたし」言い渡し。名詞。「猿」の始めの方に、『さて、總員が集合して見ると、副長がかう云ふのです。「……本艦内で、近來、盗難に罹つた者が、二三ある。殊に、昨日、町の時計屋が來た際にも、銀側の懷中時計が二個、紛失したと云ふ事であるから、今日はこれから、總員の身體檢査を行ひ、同時に所持品の檢査も行ふ事にする。……」大體、こんな意味だつたと思ひます』と出る。
「艙口」は「さうこう(そうこう)」で、船倉に貨物を出し入れしたり、乗員が出入するために上甲板に設けられた四角いハッチ(hatch; hatchway)のこと。前の「猿」の冒頭の引用を見よ。
「排置」「配置」の誤記。「猿」に『上甲板で、かう云ふ騷ぎが、始まつてゐる間に、中甲板や下甲板では、所持品の檢査をやり出しました。艙口にはのこらず、候補生が配置してありますから、上甲板の連中は勿論下へは一足でもはいれません』とある。
「中下甲板の檢査」前の引用に続いて『私は、丁度、その中下甲板の検査をする役に當つたので、外の仲間と一しよに、兵員の衣囊(いのう)やら手箱やらを検査して步きました』とある。]
○帽子の箱――信號兵
[やぶちゃん注:「猿」に『その中に、やつと、私と同じ候補生の牧田と云ふ男が、贓品(ざうひん)を見つけました。時計も金も一つになつて、奈良島と云ふ信號兵の帽子の箱の中に、あつたのです。その外にまだ給仕がなくなしたと云ふ、靑貝の柄(え)のナイフも、はいつてゐたと云ふ事でした』とある(「贓品」(ぞうひん)とは犯罪によって他人の財産を侵害して手に入れた、盗品の類を謂う)。
「帽子の箱」後の「○衣囊手箱 ビームの裏 衣囊の棚のおく」の私の注の最後のリンク先画像を見よ。それと思われる「帽子缶」の実物が見られる。]
○解散(他のものよろこぶ 機關兵のすむ場所)
[やぶちゃん注:「猿」の前の引用の次の段落は『そこで、「解散」から、すぐに「信號兵集れ」と云ふ事になりました。外の連中は悦んだの、悦ばないのではありません。殊に、機關兵などは、前に疑はれたと云ふ廉(かど)があるものですから、大へんな嬉しがりやうでした。――所が、集つた信號兵を見ると、奈良島がゐません』と続く。
「機關兵のすむ場所」後のメモ『機關兵 首のみ黑し』と関連する。]
○信號兵集れ
[やぶちゃん注:前の引用を見よ。]
○自殺
[やぶちゃん注:「猿」前の引用の次の段落二段を引いておく。
*
僕は、まだ無經驗だつたので、さう云ふ事は、まるで知りませんでしたが、軍艦では贓品が出ても、犯人の出ないと云ふ事が、時々あるのださうです。勿論、自殺をするのですが、十中八九は、石炭庫の中で首を縊るので、投身するのは、殆、ありません。最も一度、私の軍艦(ふね)では、ナイフで腹を切つたのがゐたさうですが、これは死に切れない中に、發見されて命だけはとりとめたと云ふ事でした。
さう云ふ事があるものですから、奈良島が見えないと云ふと、將校連も皆流石に、ぎよつとしたやうでした。殊に、今でも眼についてゐるのは、副長の慌て方で、この前の戰爭の時には、随分、驍名を馳せた人ださうですが、その顏色を變へて、心配した事と云つたら、はた眼にも笑止な位です。私たちは皆、それを見ては、互に、輕蔑の眼を交してゐました。ふだん精神修養の何のと云ふ癖に、あの狼狽のしかたはどうだと云ふ、腹があつたのです。
*
引用中の「驍名」は「げうめい(ぎょうめい)」で武勇の名声の意。]
○禁錮室
[やぶちゃん注:「○海軍監獄(浦賀) 8尺の距離」の方の注を見よ。]
○上甲板
Netting
ハンモツクを出し上甲板でしらぶ
[やぶちゃん注:「Netting ハンモツク」網で作られた吊り床(ハンモック)。]
○橫須賀の時計屋 時計一(時計二 金二人)
[やぶちゃん注:前の「云わたし」の注の引用を見よ。]
○皆裸(機關兵 首のみ黑し)
[やぶちゃん注:「猿」の第四段落を引く。
*
何しろ、總員六百人もあるのですから、一通り檢査をするにしても、手間がとれます。奇觀と云へば、まああの位、奇觀はありますまい。六百人の人間が皆、裸で、上甲板一杯に、並んでゐるのですから。その中でも、顏や手首のまつ黑なのが、機關兵で、この連中は今度の盜難に、一時嫌疑をかけられた事があるものですから、猿股までぬいで、檢しらべるのならどこでも檢べてくれと云ふ恐しいやうな權幕です。
*
無論、オイルで真っ黒なのである。]
○午後四時 600人
[やぶちゃん注:「600」は正立横書。前の引用を見よ。]
○ポツケツト(春畫)(なぐられる)
[やぶちゃん注:「猿」の第三段落を引く。
*
身體檢査ですから、勿論、皆、裸にさせられるのですが、幸、十月の初(はじめ)で、港内に浮んでゐる赤い浮標(ブイ)に日がかんかん照りつけるのを見ると、まだ、夏らしい氣がする時分なので、これはさう大して苦にもならなかつたやうです。が、弱つたのは、上陸早々、遊びに行く氣でゐた連中(れんぢう)で、檢査をされると、ポツケツトから春畫(しゆんぐわ)が出る、サツクが出ると云ふ騷ぎでせう。顏を赤くして、もぢもぢしたつて、追付(おひつ)きません。何でも、二三人は、士官(オフイサア)に擲(なぐ)られたやうでした。
*
引用文中の「サツク」はルーデサック(オランダ語:roedezak)で、コンドームのこと。]
○石炭庫 舷 Crossbanker 石炭搭載後は瓦斯ある爲 穴 中下甲板 石炭積入口
[やぶちゃん注:「Crossbanker」は海事用語らしい。十字型状をした船内石炭庫の意か? 「猿」では奈良島は石炭庫へ潜り込んで自殺しようとする。]
○衣囊手箱 ビームの裏 衣囊の棚のおく
[やぶちゃん注:「衣囊」海軍下士官兵が衣類を整理して入れておくキャンパス製の布袋。底のサイズは約四十センチ、長さは完全に物を詰め込むと一メートル二十~三十センチメートルにもなり、重さも三十キログラム以上あった。中には軍服・事業服(作業服)・軍靴に至るまで納め、転勤などの移動の際、肩に担いで持ち運ぶ。衣嚢には黒色の外嚢(がいのう)と白い内嚢(うちのう)があり、普段は内嚢を外嚢の中に格納しておいた。参照させて戴いたルビー氏の「太平洋戦争史と心霊世界」の『衣嚢(いのう)と制裁 「蜂の巣」』が、使い方その他、映画等の写真によってよく判る。また、本物は宇佐見(亘川)寛永氏のブログ「寛永第一衣糧廠」の「日本海軍 衣嚢(内嚢・外嚢)」がよい。但し、画像が異様に大きいので画像だけをそれぞれ別タブで開かないと全体が見れない。一番下の写真の中央に「帽子缶」というのが出るが、これがまさに奈良島が贓品を隠していたそれである。
「ビーム」beam。海事用語。甲板・梁(りょう)。船の両肋材(ろくざい)の上部を左右に走る横材で、甲板を支えるものを指す。「猿」で士官候補生の「私」が贓品を探すシーンに『こんな事をするのは軍艦に乘つてから、まだ始めてでしたが、ビイムの裏を探すとか衣囊をのせてある棚の奥をかきまはすとか、思つたより、面倒な仕事です』と出る。]
○ブリヂ 四 or 二 當直 信號兵二人 候補生 士官(6ケ月 舞鶴の海兵團)(えらくなるやうな氣)
[やぶちゃん注:「ブリヂ」Bridge。船橋(せんきょう)。航海士が操船の指揮をとる操舵室のことをいい、見通しのよい船内最上階に設けられている。
「四 or 二 當直」は四時間或いは二時間担当での当直制を指す。
「舞鶴の海兵團」大日本帝国海軍において軍港の警備防衛・下士官・新兵の補欠員の艦船部隊への補充、また、海兵団教育と称するその教育訓練のために練習部を設け、海軍四等兵たる新兵、海軍特修兵たるべき下士官などに教育を施すために、鎮守府に設置されていた陸上部隊(舞鶴以外には横須賀・呉・佐世保の各鎮守府と大湊・大阪・鎮海(現在の大韓民国昌原市鎮海区にあった)・高雄(現在の台湾高雄市にあった)の各警備府に配されてあった)。舞鶴鎮守府設置と同時に中舞鶴に設置された。大正一四(一九二五)年に海軍機関学校に転用されたが(大正一二(一九二三)年からワシントン軍縮条約によって鎮守府から要港部へと格下げになったことと、関東大震災によって芥川龍之介が嘗て勤務していた海軍機関学校校舎が罹災したため、一九二三年から一九二五年まで同機関学校が江田島の海軍兵学校内に移り、臨時に同校生徒とともに教育を受けていたのが、この年に機関学校が舞鶴へ移転したことによる)、昭和一四(一九三九)年四月には再び鎮守府に格上げとなったことから、東舞鶴に再設置されている。
「士官」「6ケ月」とあるが、この「士官」は以下の「6ケ月」と「舞鶴の海兵團」及び「えらくなるやうな氣」という部分から考えて、「下士官兵」の誤りであろうと思われる。何故なら、陸軍のように制度上、兵から下士官・准士官・士官へと順次進級できる可能性があるそれとは異なり、海軍は学歴至上主義であって、「士官」と学歴がない「下士官兵」では全く別の階層であったからである。則ち、「海軍士官」と言っても、職種と任用前の経歴によって、正規の養成教育を受けた「士官」・商船学校や予備学生出身の「予備士官」の他、海軍にのみあった下士官兵から累進した「特務士官」に大別されていた(最後の特務士官というのは、下士官兵で習熟すべき実務に熟達している兵曹長(学歴がなければそこで絶対に頭打ちで昇進は出来なかった)をそのまま退役させずに、現役定限年齢も五十歳に延ばして海軍に留めておいた特殊な階級で、叩き上げの優秀なエキスパートであっても、将校には成れず、正規の士官より下位とされて「スペ公」という蔑称で呼ばれた、とウィキの「士官」にある)。話を戻してウィキの「海兵団」から引く。海兵団ではまず、『志願兵、徴兵として海軍兵に採用された新兵は、海兵団に入団すると、数ヶ月間基礎教育を受ける。軍隊教育の基礎であり、海軍兵として進むべき基礎であるから、海軍の一般教育と同じく精神教育、技術教育、体育に分けて課せられる。精神教育は軍人精神の涵養が主眼である。技術教育は将来、海上勤務に必要な一般概念を会得させるほか、兵種によって必要な技能、概念を教える。体育は武技、体技に区別し、厳格な訓練を実施する』。そうした『新兵教育のほか、工術、軍楽術、船匠術補習生、普通科、高等科信号術練習生、掌厨術練習生、特修科軍楽術練習生に区別され』、五『ヶ月ないし』二『箇年間の教育を行ない、特修兵たるべき下士官兵の教育を施す。四等軍楽兵、軍楽術補習生、高等科信号術練習生、特修科軍楽術練習生の教育は横須賀海兵団のみで行なわれ』たとあるので、たかだか六ヶ月のそれはこの練習部教育としか思われないこと、さらにそうした特修兵たるべき下士官兵の教育を受けただけで学歴偏重の海軍の世界でちょっとばかり「えらくな」った「やうな氣」になれるという意味がこのメモでは腑に落ちるからである。但し、「猿」の主人公の私は『私が、遠洋航海をすませて、やつと半玉(はんぎよく)(軍艦では、候補生の事をかう云ふのです)の年期も終らうと云ふ時でした』とあるから、正規の士官候補生であったように読めるようには書かれている。]
○候補生――手玉
[やぶちゃん注:「手玉」新全集の編者に悪いのだが、これはもしかしたら、「半玉」の誤読ではありませんか? 「猿」の冒頭に『私が、遠洋航海をすませて、やつと半玉(はんぎよく)(軍艦では、候補生の事をかう云ふのです)の年期も終らうと云ふ時でした』とあるんですけど? 「半」と「手」は誤読し易いですよ……]
○彈丸はこび(監守⇄號令)
[やぶちゃん注:これは先の海軍監獄での「シジフォスの岩」的な無意味な懲罰のメモであろう。]
○赤いブイ
[やぶちゃん注:引用済みだが、再掲すると、「猿」の始めの方に『身體檢査ですから、勿論、皆、裸にさせられるのですが、幸、十月の初(はじめ)で、港内に浮んでゐる赤い浮標(ブイ)に日がかんかん照りつけるのを見ると、まだ、夏らしい氣がする時分なので、これはさう大して苦にもならなかつたやうです』と出る。]
« 柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里 九 | トップページ | 宮澤賢治の「文語詩稿 五十篇」の掉尾にある詩篇の草稿「峠」から無題の定稿までの推敲順推定電子化 »