子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十七年 盆に死ぬ仏の中の仏
盆に死ぬ仏の中の仏
居士が『小日本』に移ると同時に、『日本』における居士の仕事は挙げて『小日本』紙上に移った。従来「文苑」に載せていた俳句の外に、題を課して俳句を募集するようになったのも、『小日本』における新な出来事であるが、もう一つ注意すべきは竹(たけ)の里人(さとびと)の名を以て時に和歌を掲げていることである。
棚橋に駒たてをれば薄月夜梅が香遠く匂ふ夕ぐれ
朝な朝な鶯來鳴く窓のうちに何物請人の讀むらん
大海原八重の潮路のあとたえて雲井に霞むもろこしの船
牛に乘りていづくに人の歸るらん柳のちまた梅の下道
上野公園
御佛のいとも尊しくれなゐの雲か櫻の花のうてなか
[やぶちゃん注:一首目の「棚橋」というのは、明治三三(一九〇〇)年の春の句に、
今もある戀の棚橋鳴く蛙
とあるから、何らかの地名或いはある特定の属性を持った場所を意味するものらしいが、全く不詳である。識者の御教授を乞う。]
これらはいずれも二月から三月へかけて『小日本』に掲げられたものである。こういう歌は直に後年の作品に接続するわけではないけれども、何らか旧套に慊(あきた)らぬものが底にほのめいている。竹の里人の名はこれ以前には用いられていない。歌に関する居士の業績を辿る場合には、やはりこの辺まで遡らなければならぬであろう。
俳句方面に関する文字としては、三月九日に「雛の俳句」があり、同二十四日に「発句を拾ふの記」がある。後者は虚子氏と共に「名もなき梅を人知らぬ野邊に訪(と)はん」とした小紀行で、千住から草加に打て西新井を経て王子に松宇氏を訪ねている。
梅を見て野を見て行きぬ草加迄
栴檀(せんだん)のほろほろ落つる二月かな
居士としては久しぶりの吟行であった。
[やぶちゃん注:「栴檀(せんだん)」ムクロジ目センダン科センダン Melia azedarach の花。一名センダンノキ。初夏五~六月頃に若枝の葉腋に淡紫色の五弁の小花を多数円錐状に咲かせる。古名を「花樗(はなおうち)」とと呼ぶ。因みに、「栴檀は双葉より芳し」の「栴檀」はこれではなく、白檀の中国名(ビャクダン目ビャクダン科ビャクダン属ビャクダン
Santalum album)なので全く関係がないので注意(しかもビャクダン Santalum album は植物体本体からは有意に強い自然芳香は発しないから、この諺自体がもともとあまり正しくないのである。なお、切り出された心材の芳香は精油成分に基づくものである)。]
次いで四月二十六日から「俳諧一口話」を掲げはじめた。標題の示すが如き小俳話で、『獺祭書屋俳話』を更に短くしたものであるが、俳話の材料として天明の作家が用いられていることに注意すべきであろう。蕪村・暁台(きょうたい)・闌更(らんこう)・白雄(しらお)・蓼太(りょうた)の五作家の比較において、漢語を多く用いる者は蕉村、和語を多く用いる者は白雄であるといい、「佳句の最も多きは蕪村にして最も少きは蓼太なるべし」ともいっている。「蕪村の特色は芭蕉以後一人として賞揚すべきもの」ともあるが、いまだ全面的に蕪村を推すに至っていない。
石井露月氏が『小日本』へ入社することになったのは、この四月中の出来事であった。露月氏は当時浅草の三筋町(みすじちょう)で医者の薬局生をしていたので、調剤をやりながら文学者たらんとする志願を懐いていた。この人が子規居士と相識るに至るまでには自ら径路がある。露月氏の友人に麓(ふもと)という早稲田専門学校の生徒があり、その同窓の長田という人が藤野古白を知っていた。麓が長田に話し、長田が青白に話した結果、古自は麓を子規居士に紹介してくれたので、露月氏は麓氏の紹介で小日本社に居士を訪ねた。露月氏の書いた文章も居士は一見した上、即座に採用ということにもならなかったが、十日ばかりたった後、急に話が進んで入社の運びになった。但(ただし)この時分の露月氏はまだ俳人ではない。俳句は居士と机を並べるようになって、自然にその感化を受けたのである。
[やぶちゃん注:「石井露月」(明治六(一八七三)年~昭和三(一九二八)年)は俳人。本名は祐治。ウィキの「石井露月」によれば、『秋田県河辺郡女米木(めめき)の農家石井常吉の二男』。『幼時に祖父与惣右衛門から実語教を口伝で習って覚えた』。『祖父はまた発句もよくしたので、それも覚えた』。『少年時代は』、『とにかく』、『読書欲旺盛で、川向かいの村落に小舟で渡り』、『本を借りてきて読んでいたという』。『小学校では成績優秀で、文部省から賞品に論語の本を贈られるほどであった』。また、十二『歳頃から既に盤虎・李花園・雲城・芥郎などと号して文筆に親しんでいた』という。明治二一(一八八八)年、『秋田中学校に入学。中学時代は江帾澹園に漢詩漢籍を習い』、『創作の添削指導も受けるなどしていたが、脚気を患い』、三『年で退学。退学後は自宅で農業を手伝いながら』、『療養に努めた』。この頃、『雨に濡れた若葉に月影が差すのを見て露月と号するようになった』。『中学時代の友人が上京進学した話などを聞くにつけ』、『鬱々とした日々を過ごしていたが』、明治二六(一八九三)年の秋、『ようやく健康を回復し、蔵書を友人たちに買い取ってもら』うことで『旅費と生活費を工面して、文学を志し』、『上京した』。『しかし特に目指す師が定まっているわけでもなく、浅草三筋町の医院の薬局生となり、漢詩や随筆を書いていた』が、『そのうち』、『友人の勧めで坪内逍遙を訪ね』、『文学修行の志を訴えたが、文学で身を立てるには天分と資本の両方が必要であることを説かれ、入門を断られ』ている。『露月には第』二『の条件である資本が決定的に欠けていた』のであった。『塞ぎ込む露月に心を痛めた友人の計らいで、次に正岡子規を訪ねること』となり、『面談の結果、子規とは相認め合うこととなり』、新聞『小日本』、次いで新聞『日本』の『記者となって子規に師事』することとなった。『子規は露月に対し』、『文章のみならず』、『句作についても懇切丁寧に教え導き、露月は本格的に俳句を学ぶようにな』る。『しかし折角これ以上はない師に巡り会ったところで再び脚気を発病し、上京からわずか』一年後の翌明治二十七年秋には、『帰郷療養せざるを得なくなった』。『郷里での生活で露月は健康を回復するが』、この頃、『文士から医業へと志を変えている』。明治二八(一八九五)年に『子規にこのことを打ち明けると、露月の才能を高く評価していただけに子規は呆然として、翻意を促すが』、『徒労であった』。その後、『露月は郷里で座学の勉強を行い』、明治二九(一八九六)年に『医師前期試験に合格』を果たし、新聞『日本』に『在籍しながら』、『済生学舎で実技の勉強を行い、明治三十一年四月に『医師後期試験に合格』した。『受験勉強の間も句作には精励し、子規に見てもらっていた』。『子規は「漢語が多く雄壮警抜」な露月の句風を好んだようで』、翌明治三十年の新聞『日本』に『連載した俳句評論では、碧梧桐、虚子、鳴雪の次に露月を取り上げ、「碧、虚の外にありて、昨年の俳壇に異彩を放ちたる者を露月とす」と評している』。『露月は医師後期試験後』の明治三十一年七月に『帰郷し、一時』、『秋田市内の新聞社に在籍して文を書きながら、県内俳壇の様子を子規に報告したりしてい』たが、俳誌『ホトトギス』の『全国的な拡張を目論んでいた子規は、遊軍となって協力することを露月に求めた』、丁度その折りの明治三十一年八月、既に同人「北斗吟社」を設立し、俳誌『北斗』を発行して『秋田県内で活躍していた日本派の俳人佐々木北涯、島田五空らと知り合い、句会に出』、『互いに刺激を与え合った』。『露月は医師としての臨床実習のため、明治三二(一八九九)年の五月から十月まで京都市の東山病院の医員を務めるたが、その『実習が終わり』、『秋田へ帰るまでの間、一時東京に寄』った。そこで『碧梧桐、虚子、鳴雪、鼠骨らの東京の俳友』らは『これを歓迎』、『また、じきに郷里へ帰る露月との別れを惜しんで、句会はもとより、闇汁会、柚子味噌会などを催した。子規も病を押して』、『これらに参加している』。明治三十二年の暮、『露月は帰郷し、自村・戸米川村(とめかわむら)と隣村・種平村の村医となった』。『村医としての露月は病人の求めに応じ』、『昼夜を問わず精勤したが』、『そのかたわら句作にも精を出し、頻繁に子規に句を送ってい』る。また、『秋田県内の俳人とも交友を重ね』、明治三三(一九〇〇)年には、『北涯、五空とともに新たな俳誌を創刊、『これを聞いた子規は欣喜し、誌名を』『俳星』と名付けている。同『創刊号には、碧梧桐、虚子、鳴雪、紅緑らの日本派の俳友や、同時代に秋田県内で活躍した俳人安藤和風らが句を寄せている』。明治三十四年、『露月は妻を娶り、医院も新築、生活の基盤は固ま』ったが、この頃、『子規の病状はいよいよ』悪化し、翌明治三五(一九〇二)年九月十九日、白玉楼中の人となった。『露月は悲嘆にくれたが』、『一方で』、この頃より、『貧困に疲弊した村の生活指導を行うようにな』り、詩悦の文庫を創設、したり、村の青年団長となって、没するまでの二十年に亙って、『村会議員を務め、夜学会や農事品評会などを通じての村民の指導や村政の刷新に尽力した』。同ウィキの注によれば、『露月は終生子規を慕い続け』大正五(一九一六)年『には村の玉龍寺で子規忌を、大正一三(一九二四)年『には自宅で子規の二十三回忌を営み、また』、昭和二(一九二七)年、『五空らと吉野巡りをした帰途には』、『東京の子規庵を訪れ、懐かしさに滂沱と涙したという』とある。]
六月十五日から居士は三たび筆を執って『小日本』紙上に小説を草した。標題は「当世媛鏡(とうせいひめかがみ)」署名は「むらさき」とある。これは「一日物語」よりも更に新聞小説らしいもので、不満の裡に世を去った幕人の子が、人生の浮沈を経験することが大体の筋になっている。居士はこの切抜を綴じた表紙に「當世比賣(たうせいひめ)かがみ、一名嶋田(しまだ)と束髮(そくはつ)」と題したが、嶋田及(および)束髪によって新旧両様の女性を現し、嶋田の女性が恩誼(おんぎ)のために身を退いて悲劇的一生を了(おわ)るのを全篇の結末とした。「媛鏡」は勿論嶋田の女主人公を指すのである。新聞の材料として筆を執ったまでで、居士らしい色彩の最も稀薄なものであるが、大磯の松林館を舞台にしたあたり、居士曾遊の経験が全然取入れられていないでもない。
六月飄亭氏は看護卒として召集された。朝鮮事件の突発と共に、日清間の風雲が急になったためである。それ以前から『日本』は堂々の筆陣を張って内閣に肉薄する。発行停止の厄(やく)に遭えば、今度は別働隊たる『小日本』を以てこれに代える。従って『小日本』もやられる。日本新聞社と小日本社とが向い合って発行停止の看板を出していたこともあるというから、経済的に成立たなくなったのであろう。遂に廃刊せざるを得なくなった。
[やぶちゃん注:「朝鮮事件」日清戦争の端緒となった一八九四年(明治二十七年)に朝鮮国内で発生した農民の内乱「東学党の乱」(甲午農民戦争)を指す。]
廃刊に先って居士は「妄山寺梅龕(ばいがん)」を紙上に掲げた。梅龕は山寺清三郎、『俳諧』に句を投じて居士に認められた人である。相見たのは子規庵に催した小会の席上だけで、その時も病を押して出席したのであったが、「はてしらずの記」旅行に出ている間に歿した。享年二十七、居士の身辺に集った俳人のうち、最早く世を去り、居士をして追悼の文を草せしめたのは梅龕であった。居士はこの文章に次いで「梅龕遺稿」の題下に、百余の俳句を採録している。居士後年の句に「梅龕の墓に花なし霜柱」とあるのは、即ちこの人の事である。
[やぶちゃん注:「山寺梅龕(ばいがん)」「山寺清三郎」「山寺」はママ。これは俳人山本梅龕(慶応三(一八六七)年~明治二六(一八九三)年)のこと。詳細事蹟不詳。]
紀元節に生れた『小日本』ほ孟蘭盆を以て廃刊の運命に遭った。七月十日、諷亭氏に送った手紙にはこうある。
[やぶちゃん注:以下は底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。本「子規居士」原典で校訂したが、一部の記号は底本のママとし、読みは一部を底本に従がって添えた。「幡隨院長兵衞」は正岡子規が『小日本』に連載していたものらしいが、詳細不祥。]
拜啓大略昨夜御報(おしらせ)申上候、御覽の事と存候。卽ち『小日本』は經濟上の一點より本月十五日を以てあへなく最期を遂ぐる事と相成申候。幡隨院長兵衞も今一册で終り媛鏡もその日を以て無殘の最期、歌川氏募集發句も皆結了の都合、而して臨終の日は卽ち七月十五日玉祭の日に相當り候。奇なり妙なり、天命の定まる處と存候。
「俳諧一口話」も「梅龕遺稿」も同じく七月十五日の紙上で完結した。「俳諧一口話」は「孟蘭盆会」と題して古人の句数章を挙げ、最後に「盆に死ぬ佛の中の佛かな」という智月の句を特に三号活字で大きく組ませたのは、『小日本』廃刊の意を寓したのである。
半歳にわたる居士の事業はこうして倒れた。豊嶋沖の一発によって日清戦争の火蓋が切られたのは、それから十日の後であった。
[やぶちゃん注:「豊嶋沖の一発」「豊嶋」は「ほうとう」。豊島沖海戦のこと。一八九四年(明治二十七年)七月二十五日、朝鮮半島中部西岸の牙山湾の西にある豊島(現在の京畿道安山市檀園区豊島洞)沖に於いて日本海軍連合艦隊と清国海軍北洋水師(北洋艦隊)の間で行われた海戦。日清戦争宣戦布告前に発生した(宣戦布告は七日後の同年八月一日に日清両国によって成された)。]
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