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2018/02/17

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十六年 「はてしらずの記」旅行

 

     「はてしらずの記」旅行

 

 六月になって居士は瘧(おこり)を病んだ。八日に鳴雪翁と共に今戸に鋳地蔵を尋ね、帰来発熱甚しかったが、数日後にその瘧なることを知った。二十日以後出社したところ、二十六日に至りまた瘧を発し、連日これに悩まされた。三十日の日記に「瘧落」とあって「瘧落ちて足ふみのばす蚊帳かな」の句を録しているから、この時全く退散したものであろう。この月は「時事俳評」を掲げた外、何も『日本』に筆を執っていない。

[やぶちゃん注:「瘧」数日の間隔を置いて周期的に悪寒や震戦、発熱などの症状を繰り返す熱病。本邦では古くから知られているが、平清盛を始めとして、その重い症例の多くはマラリアによるものと考えてよい。戦中まで本邦ではしばしば三日熱マラリアの流行があった。太平洋戦争終結後、一九五〇年代には完全に撲滅された。病原体は単細胞生物であるアピコンプレクサ門胞子虫綱コクシジウム目アルベオラータ系のマラリア原虫Plasmodium sp.で、昆虫綱双翅(ハエ)目長角(糸角/カ)亜目カ下目カ上科カ科ハマダラカ亜科のハマダラカAnopheles sp.類が媒介する。ヒトに感染する病原体としては熱帯熱マラリア原虫Plasmodium falciparum、三日熱マラリア原虫Plasmodium vivax、四日熱マラリア原虫Plasmodium malariae、卵形マラリア原虫Plasmodium ovaleの四種が知られる。私と同年で優れた社会科教師でもあった畏友永野広務は、二〇〇五年四月、草の根の識字運動の中、インドでマラリアに罹患し、斃れた(私のブログの追悼記事)。マラリアは今も、多くの地上の人々にとって脅威であることを、忘れてはならない。]

 七月十九日、居士は飄然奥州旅行の途に上った。今少し早く出発するつもりであったのが、病のため遷延したものらしい。奥羽は居士に取って未知の天地である。出発に先(さきだ)って「蕉翁の『奥の細道』を寫しなど」しているのを見ても、『奥の細道』の迹(あと)をたずねる意味のあったことはいうまでもない。芭蕉は出発に当って「前途三千里の思ひ胸にふさがりて幻のちまたに離別の淚をそゝぐ」といい、「人々は途中に立ならび後かげの見ゆるまではと見送るなるべし」という有様であったが、「鐡道の線は地皮(ちひ)を縫ひ電信の網は空中に張る」明治の世の中にあっては「行く者悲まず送る者歎かず。旅人は羨まれて留まる者は自ら恨む」わけで、上野駅に居士を送った者は、折ふし来合せた飄亭氏一人、居士自身も「松嶋の風に吹かれんひとへ物」とか「みちのくへ涼みに行くや下駄はいて」とかいうほどの気軽さであった。

[やぶちゃん注:明治二六(一八九三)年七月一九日から翌八月二十日までの約一ヶ月間、正岡子規は東北地方を旅した。]

 居士はこの旅行に上るに先って、林江左(こうさ)(和一)を介して三森幹雄(春秋庵)に逢っている。幹雄の添書を貰って各地に旧派の俳人を訪ねたのは、不案内の地において便宜を得るためもあったろうが、旧派俳人の実際がどの程度にあるかを打診する意味があったのではないかと思う。しかし出発後三日目、郡山の旅宿から碧梧桐氏に宛てた左の手紙を見ると、このこころみは全く失望を繰返すに過ぎなかった模様である。

[やぶちゃん注:「林江左(こうさ)(和一)」林和一(文化一五・文政元(一八一八)年~明治二九(一八九六)年:子規より四十九歳も年上)は江戸生まれで旧幕臣、衆議院議員。江左は俳号。

「三森幹雄(春秋庵)」(文政一二(一八二九)年~明治四三(一九一〇)年:子規より三十八歳も年上)十一世春秋庵。ウィキの「三森幹雄によれば、福島県石川町(当時は形見村)の『農家に生まれた。本名は三森寛、幼名は菊治。染物屋で徒弟を務めた後、半田銀山や宮城県岩沼の藍染商人の手代として働いた。その間、地方の師匠のもとで俳句を学ぶ』。二十六『歳で、江戸に出奔』、『志倉西馬に弟子入りし』、明治六(一八七三)年、幹雄四十四歳の時、明治政府が『文化政策として大衆教化のために教導職を設け、俳諧師も教導として選考することになり、試験が行われることになった。当時の有名な俳諧師匠が受験に消極的な』中で、『幹雄は俳人としては鈴木月彦とともに訓導として選ばれることによって、俳句界での地位を得ることになった。明倫講社を組織し』、明治一三(一八八〇)年、雑誌『俳諧明倫雑誌』を創刊した。明治一七(一八八四)年、『教導制度が廃止されると「神道芭蕉派明倫協会」に改組』して教派『神道の一派として独立させ、教導資格の発行という方法で会員を増やした。明倫講社の経営が独善的であったことや、政府の意向をうけて俳句を国民教化という目的で解釈することなどが』正岡子規の『攻撃対象となった。それでも明治』三十『年代の都新聞や、雑誌「太陽」での俳人の人気投票では上位をしめた』(この奥州行以前のことであるから、正岡子規自身、必要なところではちゃっかり彼の援助を受けていることが判る)。この明治二六(一八九三)年に春秋庵を継いだ、とある。所謂、旧派俳人の権威の象徴的存在であった。

 以下は底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。]

 

小生この度の旅行は地方俳諧師の内を尋ねて旅路のうさをはらす覺悟にて、東京宗匠の紹介を受け已に今日までに二人おとづれ候へども、實以て恐入つたる次第にて何とも申やうなく、前途茫々最早宗匠訪問をやめんかとも存候ほどに御座候。俳諧の話しても到底聞き分ける事も出來ぬ故、つまり何の話もなくありふれた新聞咄どこにても同じ事らしく、そのくせ小生の年若きを見て大(おほい)に輕蔑し、ある人はぜひ幹雄門へはいれと申候故少々不平に存候ところ、他の奴は頭から取りあはぬ樣子も相見え申侯。まだこの後どんなやつにあふかもしれずと恐怖の至(いたり)に候。

 

 この新旧両者の対坐は明に滑稽を帯びている。「文界八つあたり」の中で「何ぞ近時の宗匠の無學無識無才無智卑近俗陋平々凡々なるや」と罵倒した居士は、旧派俳人の現状について、全然予備知識を欠いていたわけではないが、なおかつ驚かされるものがあったと見える。居士は一転して「せめてはこれらの人々に内藤翁の熱心の百分の一をわけてやりたく候」といい、旅中の自己を省みて次のように述べている。

[やぶちゃん注:以下は底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。]

 

半(なkば)紳士半行脚の覺悟故氣樂なれども面白き事はなく第一名句は一句とても出來ぬに困り候。小生は今日において左の一語を明言致し申候。

 名句・菅笠を被り草鞋を著けて世に生るゝものなり。

 

 居士のこの旅行は宇都宮、那須を経て福島県に入り、白河、須賀川(すかがわ)、郡山、本宮(もとみや)、福嶋、飯坂(いいざか)、桑折(こおり)、岩沼、笠嶋などの各地を歴遊、仙台から松嶋に及んだ。以上が七月中の事で、この間に浅香沼(あさかぬま)とか、満福寺とか、荵摺(しのぶずり)の石とかいうような名所故蹟をも一見、『日本』に五回ほど「はてしらずの記」を送っている。仙台に一週間ほど滞在したのは、旅中の疲労を医(いや)するためと、槐園(かいえん)という文学上の談敵がいたためと、両様の理由によるものらしい。八月五日より出羽に向い、作並、楯岡(たておか)を経て大石田に到り、川船によって最上川を下った。途中古口(ふるくち)一泊、九日に酒田に達している。十日下駄を捨てて草鞋を穿(うが)ち、吹浦に沿うて歩いた結果、行暮れて大須郷というところに泊った。海岸の松原にある怪しげな宿屋に泊って、どんなものを食わされるかと憂慮していたら、膳の上に酢牡蠣がある、椀の蓋を取るとこれも牡蠣で、非常にうまいのに驚いたという『仰臥漫録』の中の話は、この大須郷のことであるらしい。象潟(きさかた)一見の後、本庄、道川(みちかわ)を経て秋田に入った。このあたりは大分疲れて、人力車、馬車などの便を利用したようである。十五日秋田を発して大曲(おおまがり)一泊、六郷(ろくごう)から岩手へ出る新道を辿り、路傍の覆盆子(いちご)を貪り食いながら麓(ふもと)に下って、湯田(ゆだ)という小さな温泉に宿った。黒沢尻(くろさわじり)に著いた翌日は七夕であったが、風雨のために終日降込(ふりこ)められてしまった。翌日汽車で水沢に向い、夜汽車でまた東京に向った。上野駅に着いたのは二十日の正午であった。

[やぶちゃん注:サイト「俳聖 尾芭蕉・みちのくの足跡で、山形県内における八月六日から九日までの「はてしらずの記」(楯岡・東根・大石田・最上川下り(烏川・本合海・古口・仙人堂・白糸の滝・清川)の抜粋が読める。

「槐園」国学者で歌人として知られる落合直文の実弟で、歌人であった鮎貝槐園(あゆかいかいえん 文久四(一八六四)年~昭和二一(一九四六)年:正岡子規より三つ年上)。陸前国気仙沼(宮城県)生まれ。本名は鮎見房之進。槐園は号。東京外語朝鮮語科卒。兄落合直文がこの明治二十六年に「あさ香社」を創設した際、与謝野鉄幹とともに活躍した。『あさ香社詠草』に多くの歌を発表し、『二六新報』の和歌欄の選者もした。翌年に渡鮮し、京城に五つの小学校を創設、その総監督を務めた。後に京城で実業家となり、朝鮮総督顧問も務めた。その一方で、朝鮮の考古学・古美術研究にも力を注いだ(日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠る)。

「仰臥漫録」のそれは九月十九日の条に出る。ブログ「土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べもの)」の子規が食べた奥州の牡蠣に当該箇所の引用がある。]

 

 以上が「はてしらずの記」の旅程の概略である。『日本』紙の紀行は前後二十一回にわたり、九月十日に至って漸く完結した。「歌風や旅の浮世のはてしらず」というのが結末の一句であるが、居士としては未曽有の大旅行であり、また前後にない長篇の紀行でもあった。紀行は松嶋の条に最も多くの紙数を費しているけれども、全篇にわたり実景実情より得た句が多く、前年のそれに比して慥に数歩を進めている。

 

 短夜の雲をさまらずあだゝらね

  飯坂溫泉

 夕立や人聲こもる溫泉(ゆ)の煙

  松嶋

 涼しさや嶋かたぶきて松一つ

  作並山中

 山奇なり夕立雲の立めぐる

 鳥海にかたまる雲や秋日和

  湯田溫泉

 山の溫泉(ゆ)や裸の上の天の川

 

[やぶちゃん注:「はてしらずの記」の全文は国立国会図書館デジタルコレクションの「獺祭書屋俳話から読める(そこでは「はて知らずの記」と表記されている)。]

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