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2018/02/01

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十五年 詩人とならんことを欲す

 

    詩人とならんことを欲す

 

 日は明でないが、二月の末に至り、居士は出来上った「月の都」を袖にして、谷中に露伴氏を訪ねた。その時の用向は「僕拙著一卷あり、友人皆出版を勸む、僕これに奧ぜんと欲す。而して拙著中の趣向君の著述中より偸(ぬす)み來る者多し、故に一應君の承諾を經かつ批評を乞ふ」というにあったが、傍に客あるの故を以て二十分ばかりで辞し去った。露伴氏からは翌日使を以て草稿を返し来ると共に、多少の批評を試みた一書が添えてあった。

[やぶちゃん注:ネット情報によれば、引用は「天王寺畔の蝸牛廬」(既出既注)より。]

 居士がここに「君の著述中より偸み來る者多し」といったのは、『風流仏』の影響を指すのであろう。「月の都」は明に『風流仏』の影響を受けている。しかし居士の志は最初から「『風流仏』的小説を書くこと」にあったので、その影響がなければむしろ不思議な位のものである。「月の都」は『風流仏』によって生れた――『風流仏』なしには生れなかった小説であるということは、固より否み難いところであるが、趣向を偸み来るというほどのものでもない。仮令(たとい)傾倒愛読の余(あまり)に成ったにせよ、その影響を受けながら、著者に黙って自作を出版するということは、自ら安(やすん)ぜぬところとして、遂に露伴氏訪問となったものかと思われる。

 二度目に居士が露伴氏を訪ねたのは三月一日の午後であった。「天王寺畔の蝸牛廬」が完成していたら、自然この時の事にも触れたわけであるが、未完に了ってしまったため、遺憾ながら当日の模様を髣髴することが出来ない。ただこの日は閑談三時間余にわたり、朝来(ちょうら)の脳痛も全く癒ゆるの思があったこと、その談話の内容が半ば小説の上を離れなかったことなどが、同夜碧、虚両氏に宛てた手紙に見えている。

[やぶちゃん注:「朝来」朝からずっと続いていること。

 以下の引用は底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。]

 

……貴兄らこれを讀んで何とか想像し給ふ。彼一句われ一句相笑び相怒り負けず劣らず口角の沫(あは)を鬪はせしものとや思ひ給ふらん。その實談じ去り談じ來(きた)るものは終始彼なり默々また唯々(ゐゐ)がたる者は終始我なり。(評曰囘也愚)生は多少小説家の骨を得たり(肉は未だし)きと思ふなり。これ生がかつて聞かんと欲せしところにして今において頓に悟る所あり。これ生がいつか貴兄らに話さんと欲するところにして筆紙これを盡さず山河これを阻斷(そだん)す。

[やぶちゃん注:「囘也愚」子規自身のその場で自分の姿を言ったもの。「論語」の「爲政第二」で、孔子が最も愛した高弟で「徳行第一」と評した顔淵(名は回)に対して言った、

   *

子曰、「吾與囘言終日。不違如愚。退而省其私。亦足以發。囘也不愚。」。

(子曰く、「吾(われ)、囘(くわい)と言ふこと終日、違(たが)はざること愚(ぐ)なるがごとし。退(しりぞ)きて其の私(わたくし)を省(かえりみ)れば、亦、以もつて發するに足(た)る。囘や、愚ならず。」と。)

   *

を捩って自身を卑しめたもの(下村湖人の「現代訳論語」(昭和二九(一九五四)年池田書店刊)では当該章は『先師がいわれた。――』『「回と終日話していても、彼は私のいうことをただおとなしくきいているだけで、まるで馬鹿のようだ。ところが彼自身の生活を見ると、あべこべに私の方が教えられるところが多い。回という人間は決して馬鹿ではないのだ。」』と訳している)であるが、しかし、ここで自身を顔回に模しているところに正岡子規の強烈な自負と「負けぬ気」が現れている。]

 

 露伴氏は「月の都」を評して「覇氣強し」といい、「覇氣は強きを嫌はず、僕の『風流佛』の如きも當時は後篇を書かんと樂しみをりしに今はいやになりたり」といったそうである。それと漱石氏の談話の中に、「月の都」を露伴に見せたら、眉山、漣(さざなみ)の比でないと露伴もいったとか言って、自分も非常にえらいもののようにいうものだから、その時分何も分らなかった僕も、えらいもののように思っていた、とあるのが、僅にその片鱗を伝えているに過ぎぬ。しかし「月の都」出版のことは、露伴氏訪問の後も一向積極的にならず、むしろ断念する方に傾いたものの如く見える。露伴氏と会談の模様を報じた手紙の末に

  拙著はまづ、世に出る事。なかるべし

  (以上の一行覺えず俳句の調をなす呵々)

とあるのが、何よりもその間の消息を語っているように思う。「月の都」の草稿が羯南翁から自恃(じじ)居士(高橋健三氏)の手に渡り、更に二葉亭のところまで行ったというが如きは、余沫(よまつ)的事件と見るべきで、居士としては大して関心もなかったに相違ない。

[やぶちゃん注:「漱石氏の談話」何度か出た、夏目漱石の「正岡子規」(明治四一(一九〇八)年九月一日発行の『ホトトギス』に発表)からの引用。岩波旧全集第十六巻(「談話」中に所収)から当該箇所を前後を引く。特に後の部分が面白いので長く引いた。

   *

それから「月の都」を露伴に見せたら、眉山、漣の比で無いと露伴も言つて、自分も非常にえらいもののやうにいふものだから、其時分何も分らなかつた僕も、えらいもののやうに思つてゐた。あの時分から正岡には何時もごまかされてゐた。發句も近來漸く悟つたとかいつて、もう恐ろしい者は無いやうに言つてゐた。相變らず僕は何も分らないものだから、小説同樣えらいのだらうと思つてゐた。それから頻りに僕に發句を作れと強ひる。其家の向うに笹藪がある。あれを句にするのだ、えゝかとか何とかいふ。こちらは何ともいはぬに、向うで極めてゐる。まあ子分のやうに人を扱ふのだなあ。

   *

後に並ぶもののない近代文学の巨匠となった漱石が子分扱いされる、実に小気味いい話ではある。

「自恃居士」「高橋健三」(安政二(一八五五)年~明治三一(一八九八)年)は陸羯南の盟友でジャーナリストで官僚・政治家。ウィキの「高橋健三によれば、江戸で元尾張藩士の浪人の子として生まれた。後に父が戸田氏に仕官して下総国曾我野藩士となる。明治三(一八七〇)年、曾我野藩の貢進生に選ばれて大学南校(東京大学の前身の一つ)に入学する。明治一一(一八七八)年に東京大学を中退、翌年、官途に就いた。以後、駅逓局・文部省を経て、明治一六(一八八三)年に太政官官報報告掛に任じられ、官報の創刊に参画する。内閣制度発足と同時に官報局次長に任ぜられ、明治二二(一八八九)年三月には官報局長に就任した。岡倉(天心)覚三とも親交があり、月刊美術誌『国華』の創刊にも参画している。その後、元同僚であった陸羯南とともに国家主義に転じ、明治二五(一八九二)年十一月に官報局長を辞任、翌年一月に大阪朝日新聞に入った。以前、官報局長であった時、フランスに派遣されて帝国議会の議事録制作用に最新式の印刷機を購入する際、時同じく購入交渉中であった大阪朝日新聞の分の交渉も合わせて行った経緯から、待遇は客員論説委員ながら、実際には主筆と同格に扱われたという。同年秋に同紙に連載した「内地雑居論」で内地雑居反対を主張して反響を呼び『、同紙以外にも国家主義の観点から執筆を行い、また大阪朝日新聞系の雑誌である『二十六世紀』の編集責任者となった』。明治二九(一八九六)年九月、第二次『松方内閣が発足すると、陸羯南の推挙によって内閣書記官長に任じられる。ところがその』二『ヶ月後、陸の『日本』が以前『二十六世紀』に掲載された高橋の土方久元宮内大臣を批判する記事を転載したところ、内務省より『二十六世紀』が発売禁止処分を受けた。政府高官の論文が原因で発売禁止になると言う事態に加えて、高橋はこれに憤慨して新聞紙条例の改正(新聞・雑誌の発売禁止規定の廃止)を図ろうとし、政府に参加していた進歩党も高橋を支持したため、政府内外で論争となった。内閣の崩壊を恐れる黒田清隆ら薩摩閥の計らいで』、『高橋の要求が認められ』、『事態の収拾が図られたが』、翌明治三十年十月に『進歩党が政権を離脱すると、行き掛かり上』、『高橋もこれに同調して辞任した』。『その後、大阪朝日新聞に復職するが、内閣書記官長辞任から』九ヶ月後、『肺結核のために』『没した』とある。]

 「月の都」によって文壇に打って出ようとした居士は、その志を一擲(いってき)すると共に「僕は小説家となるを欲せず詩人とならんことを欲す」る旨を手紙で虚子氏に告げた(五月四日)。この変化については同十六日碧梧桐氏宛の手紙にも「僕妄(みだ)りに詩人とならんとの大言を吐く、虛子これを解せざるものの如し、而して貴兄一言の下に大悟徹底し了(おほ)す喝(かつ)」とあり、更に五月二十八日の手紙において左のように述べている。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。太字は底本では傍点「○」。]

 

 小説家と詩家とを區別致候に付御高見拜見難有候。小生の意は二者を別物とせし譯なれども尤二者とも定義判然ならざる故いゝ加減な事を申ししものにて論理的のものにては無之候。愚意を平たくいへば卽ち尤コンクリートにいへば

  人間よりは花鳥風月すき

といふ位のことに有之候。

 

 「小説家となるを欲せず詩人となちんことを欲す」といい、「人間よりも花鳥風月がすき」ということは、居士の文芸の根本をなすもので、「月の都」執筆の一事は、はからずもこの事を明(あきらか)にしたのであった。

 

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