子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十五年 「月の都」成る
明治二十五年
「月の都」成る
明治二十五年(二十六歳)の新春は駒込の家で迎えた。蓑と笠とを床の間に飾り、その上に小さな輪飾(わかざり)を置いて、
蓑笠を蓬萊にして旅の春
と詠んだ。「旅の春」は後に「草の庵」と改められている。
壬辰新年作
梅園深處獨僑居
書卷參差繞手爐
萬里同風冬改歳
半生短夢我驚吾
滿城漠漠紅塵起
寒屋寥寥黃鳥呼
惆悵賣文錢未得
微酲醒盡打虛壺
壬辰新年に作る
梅園深き處 胴獨り僑居(けうきよ)す
書卷 參差(しんし)して 手爐(しゆろ)を繞(めぐ)る
萬里 風(ふう)を同じうして 冬 歳を改め
半生の短夢 我れ 吾れを驚かす
滿城 漠漠として 紅塵 起こり
寒屋(かんをく) 寥寥として 黃鳥(くわうてう) 呼ぶ
惆悵(ちうちやう)して文を賣るも 銭 未だ得ず
徴酲(びてい) 醒め盡して 虛壺を打つ
というのはこの年頭の所懐である。後年居士はこの時のことを顧みて、「半生短夢我驚吾」と今までの懶惰を悔みたるもこの時なり、「惆悵賣文錢未得」と銭をほしがりしもこの時なり、といっている。人生五十を定命(じょうみょう)として、その半分の二十五年は前年までに費してしまったわけだから、感慨なきを得なかったのであろう。
[やぶちゃん注:「明治二十五年」一八九二年は壬辰(みずのえたつ)。
「僑居」仮住まい。寓居。
「參差」ばらばらに散乱し、不揃いに積み重なっていること。
「黃鳥」鶯の異名。
「惆悵」恨み歎くさま。
「微酲」微(かす)かに醉うこと。]
年が改ってからも小説はなかなか完成しなかった。居士が小説執筆中との報を聞いて最も胸を躍らしたものは、松山中学在学中の碧梧桐、虚子両氏で、手紙のたびに進行の模様を問合せて来たらしく、居士からの返事にも必ずその消息が書いてある。一月十三日夜碧梧桐氏宛の手紙に「筆を取りそめてより殆んど二十日今宵やゝ一遍通り畢(を)へ申候(改刪(かいさん)すべき處はなほ無數なり)その間大息(たいそく)して筆を捨てしいくぼくぞ」とあるから、この時一通り稿を了えたのであろう。それが十日余を経た一月二十五日には「拙著大方荒壁までは仕あげて上塗り最中と申上候へども上塗はなかなか手間のとれるものにてまだ片側だけ外すまず。けだし貴兄も知り給ふらん荒壁の乾かぬ内は上塗はかけられぬ者なり」(虚子氏宛)となっている[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「○」。]。而して
[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。]
拙著小説は「月の都」と題して紙數(寫本)六十枚二囘の短篇なり、而して末二囘は大方謠曲にてつゞまり居候、これら第一世人には氣に入らざるべし存居侯なり(碧梧桐氏宛)
と正体を明したのは二月十九日で、それから十日後にはもう駒込の家を引払って根岸に移っているから、漸く完成を見たものと思われる。
[やぶちゃん注:「月の都」国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(明治三七(一九〇四)年俳書堂刊「子規遺稿 第三編 子規小説集」)の画像で全篇を視認出来る。]
居士が「月の都」に専心するようになったのは、駒込に家を借りてからであるが、執筆の志は早くから動いていたらしい。一月二十五日虚子宛の手紙には「仕方なく去年春(あるいは去年春か忘れたり)筆を取(とり)て二枚を認(したた)む。畢(をはり)て筆を抛(なげう)ちたり」とあるから、二十三年秋か二十四年春には着手していたのである。その後二十四年夏、松山で筆を執ったが、三、四枚書いたら落渋滞して進まなくなった。その後暫く抛擲(ほうてき)して置いたのを、駒込移居と共に完成しようとしたので、「今日に至てやむをえず書き畢(をは)りたりといへども、これ時機の到りしものには非ず。嗚呼(ああ)何(いづくん)ぞそれ作者になるの難(かた)きや」といっている。「月の都」一篇は居士に取っては久しい懸案の解決であった。
居士が「月の都」を草すべく駒込に立籠(たてこも)った時は、直(ただち)にこれを世に問う決心であったに相違ない。大原恒徳氏宛の手紙に「初陣(ういじん)の事故(ゆゑ)功名のほどは固(もと)より覺束なく候へども多少の金になならぬことも有之間敷(これあるまじく)と奉存(ぞんじたてまつり)候」(二十四年十二月二十五日)とあるのをみれば、「月の都」を初陣として文壇に打って出ようとしたのである。かつて英語の答案で同級生たる居士を驚かした美妙斎は已に文壇に乗出して華々しい活動を続けている。『我楽多文庫(がらくたぶんこ)』に拠った硯友社の末輩には、居士の同級生なども加わっている。『風流仏』を産んだ『新著百種』は、その後も引続き有名無名の新作家を世の中に送りつつある。――こういう眼前の事柄に対しで、負けぬ気の居士が伎癢(ぎよう)を感ずることは、固より当然のところといわなければならぬ。
[やぶちゃん注:「大原恒徳」既出。松山在の正岡子規の叔父。
「美妙斎」既出既注。山田美妙。
「我楽多文庫」『我楽多文庫』(がらくたぶんこ)は、準公的な同人雑誌の先駆で、硯友社の機関誌であると同時に近代日本文学に於ける初の文芸雑誌となった雑誌の名。尾崎紅葉や山田美妙らが中心となり、小説・詩・短歌・川柳などを掲載したが、未だ江戸戯作的な作品が多かった。明治一八(一〇八五)年五月に肉筆回覧誌として始まり、明治二一(一八八八)年五月には活版公売本として書店販売となった。翌明治二十二年三月より『文庫』と改題したが、同年十月、廃刊となった。
「新著百種」硯友社が『我樂多文庫』の廃刊と共時的に明治二二(一八八九)年から吉岡書籍店で出し始めた文芸(小説)雑誌。その第一冊は尾崎紅葉のヒット作「二人比丘尼色懺悔」で、謂わば、この頃より、近代小説の量産化時代が始まったと言える。
「伎癢(ぎよう)」「技癢」とも書く。自分の技量を見せたくて、うずうずすること。「癢」は「痒い・くすぐったい」の意。]
けれどもいよいよ「月の都」を脱稿してからも、果して当初の如き出版の意志を懐いていたかどうか、これは少しく疑問に属する。一月三十日碧梧桐氏宛の手紙には、出版はせぬかも知れぬということについて、「拙著は世人をあてにする者に非ず、世上の評論はどのやうにあらふとも終(つひ)に愚著に關係なし、たゞ僕は我意の滿足する所に止(とど)まるのみ」といい、「けだし僕の出板せぬかも知れぬといふは第一出板してやらふといふ人なければそれまでなり。第二原稿の買ひ手ありとも餘り安價ならば賣らぬつもりなり。何故に賣らぬや、名譽に關する故なり。何故に名譽を重んずるや。僕答ふる所をしらず」というようなことが記されているからである。居士の「月の都」に対する態度は、中途から明に消極的になった。その理由は書いて見て自ら満足せぬためもあったかも知れぬが、事をいやしくもせぬ居士の性格から来ているのであろう。
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