子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十七年 『小日本』創刊
明治二十七年
『小日本』創刊
明治二十六年は「芭蕉雑談」執筆中に暮れた。『日本』に俳句を載せはじめたのを第一として、『俳諧』の発刊、「はてしらずの記」旅行、「芭蕉雑談」の執筆など、居士の身辺は頗る多事であったが、この年居士は句を作ること最も多く、「寒山落木」に存する句数が三千に垂(なんな)んとしている。それも少からざる抹消を経た結果であるから、元来はよほどの数だったので、『獺祭割書屋俳句帖抄』の序に「明治二十六年最(もつとも)多く俳句を作つた年でその數は四千以上にもなつた」とあるのが原数に近いものであろう。一年三千句という例は居士の一生を通じて他にない。
[やぶちゃん注:「明治二十七年」一八九四年。]
二十七年(二十八歳)を迎えると共に、居士の身辺は前年よりまた多事になった。それは『小日本』創刊の事で、一月八日大原恒徳氏宛の手紙に「私身の上に付ては内々心配致し居候ところこの度(たび)一事業起り一身をまかすやうに相成申候。一事業とは日本新聞社にて繪入小新聞を起す事に御座候(勿論表向きは別世帶に御座候)。ついては私が先づ一切編輯担當の事とほぼ内定致し來月十一日より發行のつもりに御座候」とある。『小日本』の刊行は『日本』の頻々たる発行停止に備えるため、別働隊として計画されたのであるが、同時に上品な家庭向の新聞を作ろうという目的であった。多士済々たる日本新聞社中にも、家庭向の新開となると存外適任者がない。仙田重邦氏を事務総裁とし、編輯主任には思いきって居士を抜擢することになった。古嶋一雄氏などが推薦者であったが、成果を危む人は社内にも少くなかったそうである。
[やぶちゃん注:「古嶋一雄」ジャーナリストで後の衆議院議員・貴族院議員となった子規の盟友古島一雄(慶応元(一八六五)年~昭和二七(一九五二)年)であろう。但馬国豊岡(現在の兵庫県豊岡市)生まれ。古島家は旧豊岡藩士で勘定奉行を務める家柄であった。小学校を卒業した後、明治一二(一八七九)年に上京、濱尾新の元で共立学校、同人社などに学んだ。明治一四(一八八一)年に郷里に一度戻って漢学私塾の宝林義塾に学んだが、その後、再度上京、明治二一(一八八八)年に三宅雪嶺主宰の雑誌『日本人』(後に『日本及日本人』に改題)の記者となり、ジャーナリズムに身を置いた。さらに日本新聞社の記者となり、日清戦争では同僚の正岡子規と従軍、戦況を報道した。明治三一(一八九八)年、玄洋社系の『九州日報』の主筆を一年半つとめた後、日本新聞社に復帰、明治四一(一九〇八)年)には『万朝報』に移った。後、衆議院議員に当選、以後、当選六回を数えた。立憲国民党・革新倶楽部を経、立憲政友会に所属した。一貫して犬養毅の側近として行動をともにし、また、玄洋社の頭山満と組んで、孫文を援助、辛亥革命を蔭から助けた。大正一〇(一九二一)年の「宮中某重大事件」にも介入、山縣有朋の権威失墜に一役買っている。第二次護憲運動では犬養を補佐し、政友会・憲政会との護憲三派連合の成立に尽力した。大正一三(一九二四)年には犬養逓信大臣の下で逓信政務次官となったが、初の普通選挙となった昭和三(一九二八)年の衆議院議員総選挙で落選した。後、昭和七(一九三二)年に貴族院議員に勅選され、昭和二二(一九四七)年の貴族院廃止まで在職した。戦後の幣原内閣の組閣の際には入閣を要請されたが固辞、昭和二一(一九四六)年五月に日本自由党総裁鳩山一郎が公職追放となった際には後継総裁の一人に擬され、鳩山ら自由党首脳から就任を懇請されるが、老齢を理由に固辞し、幣原内閣で外相であった吉田茂を強く推薦、以後、占領期の吉田の相談役となり、「政界の指南番」と称された。「創価教育学会」(創価学会の前身)の設立にも積極的な役割を果たしたことでも知られている(以上はウィキの「古島一雄」に拠った)。]
『小日本』に従事するに先って、居士は二月一日に上根岸八十二番地――現在の子規庵――に居を移した。はじめて根岸に来た時から算えると満二年、母堂令妹を迎えて一家の主人になってから一年余、八十八番地の家に住んでいたわけである。移転といっても車で運ぶ必要のないほどの近距離だから、直ぐ片づいたことと思われるが、羯南翁の玄関にいた佐藤紅緑氏が手伝に行って、自筆の写本の量に一驚を喫したというのはこの時であった。紅緑氏は引越が済んでから、居士と飄亭氏と三人で新宅で昼飯を食ったという。飄亭氏は前年末除隊、帰郷の途次京都に碧、虚両氏を訪れて、見るもの悉く句になる連吟に両氏を驚かしたりしたが、一月中上京、『小日本』に入社することになっていた。『小日本』入社を勧めた者は無論子規居士で、飄亭氏はこれを機会に、開業免状まで持っていたにかかわらず、厭で堪らなかった医者というものを抛擲したのである。
[やぶちゃん注:「子規庵」現在の東京都台東区根岸二丁目内。ここ。
「佐藤紅緑」(こうろく 明治七(一八七四)年~昭和二四(一九四九)年)はジャーナリストで劇作家・小説家・俳人。現在の青森県弘前市親方町生まれ。本名は洽六(こうろく)。父佐藤弥六は幕末に福沢諭吉の慶應義塾で学び、帰郷して県会議員となって産業振興に尽力、また、「林檎圖解」「陸奥評話」「津輕のしるべ」などの著作もあり、森鷗外の史伝「澁江抽齋」にも郷土史家として登場する弘前を代表する人物であった。明治二三(一八九〇)年に東奥義塾を中退して青森県尋常中学校(現在の弘前高等学校)に入学。明治二六(一八九三)年、遠縁に当たる陸羯南を頼って上京し、翌年には日本新聞社に入社した。その頃、先輩の正岡子規の勧めで俳句を始めた。明治二八(一八九五)年に病により、帰郷、東奥日報社に入社して小説・俳句などで活躍、その後、東北日報社・河北新報社の主筆を経て、明治三三(一九〇〇)年、報知新聞社に入社、大隈重信に重用された。記者活動の他、俳人としても活躍、また、大デュマやヴィクトル・ユーゴーなどの翻訳なども手掛けた。明治三十八年に記者を止め、「俳句研究会」を起こし、小説「あん火」「鴨」など自然主義風の作品を発表して注目を浴び、明治四一(一九〇八)年には創作集「榾(ほだ)」を刊行している。一方、明治三九(一九〇六)年から大正三(一九一四)年までの足掛け八年の間は新派「本郷座」の座付作者も勤めている。大正四(一九一五)年、劇団「新日本劇」の顧問となり、大正一二(一九二三)年に映画研究のために渡欧した後、翌年には「東亜キネマ」の所長に就任している(二年後、退任)。大正八(一九一九)年から昭和二(一九二七)年にかけては新聞雑誌に連載小説「大盜傳」・「荊の冠」・「富士に題す」を書いて一躍、大衆小説の人気作家となった。昭和二(一九二七)年からは『少年俱樂部』に少年小説「あゝ玉杯に花うけて」を連載して好評を博し、その後も「少年讚歌」「英雄行進曲」などで同誌の黄金期を築いた。また、編集長加藤謙一に漫画の掲載を進言して田河水泡の「のらくろ」が誕生する契機も作っている(以上はウィキの「佐藤紅緑」に拠った)。]
『小日本』は『日本』と同じく紀元節を以て世に生れた。この時分の事に関して、居士自身はあまり語っておらぬが、後年飄亭氏の話されたところによると、日本新聞社の筋向――中川という牛肉屋の並びに蕎麦屋があった、その隣の角家(かどや)で奥に土蔵がある、その土蔵の二階が『小日本』の編輯室だったので、八畳あるかなしの狭い部屋だったそうである。ここに陣取った顔触(かおぶれ)は、居士と飄亭氏の外に、古嶋一雄、斎藤信両氏が二面担当、仙田重邦氏が会計経営の外に、多少貰経済記事を書く。外に荒木という相場記者一人、三面担当の飄亭氏が探訪を二人ほど使う、という程度の小人数であった。建物は別になっているけれども、工場は勿論日本新聞社のを使う。こういう段取(だんどり)の下に『小日本』は呱々(ここ)の声を挙げることになった。
[やぶちゃん注:「斎藤信」不詳。
「荒木という相場記者」不詳。
「探訪」「たんぼう」。明治時代の新聞記者の下で、実地取材に当たった担当者を指す語。「出省方」(「しゅっしょうがた」と読むか)などとも呼ばれ、記者とは厳然と区別された。記者自身は余程の大事件・難事件でない限り、取材はせず、記者はこうした探訪が見聞してきた資料や報告を記事にしたり、英字新聞の翻訳・投書の取捨選択・論説の執筆などに当たっていた(平凡社「世界大百科事典」の「新聞記者」の記載に拠った)。
「呱々(ここ)の声を挙げる」赤ん坊が産ぶ声をあげることで、転じて、新しく物事が始まること、発足することを言う。]
『日本』は侃々諤々(かんかんがくがく)の筆陣を張る傍(かたわら)、「文苑(ぶんえん)」に詩歌俳句の如き閑文字(かんもじ)を載せることは怠らなかったが、紙面は一切振仮名なしで、小説などは全然これを闕(か)いていた。『小日本』はその別働隊であるというものの、最初から家庭向の新聞たることを標榜していたから、全面ルビ付であるのは勿論、小説もあれば挿画(させ)もある。挿画は浮世絵系統の人によって間に合すのもあったが、どうしても社内に画家を必要とするというので、浅井黙語(もくご)(忠(ちゅう))氏推挙の下に入社したのが中村不折氏であった。後年居士が『墨汁一滴』に書いたところによると、「余の始めて不折君と相見(まみえ)しは明治廿七年三月頃の事にして其場所は神田淡路町小日本新聞社の樓上にてありき」とある。不折氏が挿画に腕を揮ったのは『小日本』創刊以来ではなかったけれども、新進の洋画家を採用するなどということは、従来の新聞社の敢てしなかったところであろう。当時まだ下宿屋の一隅にくすぶっていた不折氏の画がはじめて新聞に現れたのは実に『小日本』紙上においてであった。一たび相識った居士と不折氏との関係が、新聞編輯者と挿画画家の程度にとどまらなかったのはいうまでもない。『墨汁一滴』に「後來(こうらい)余の意見も趣味も君の教示によりて幾多の變遷を來(きた)し、君の生涯も亦此時以後、前日と異なる逕路(けいろ)を取りしを思へば此會合は無趣味なるが如くにして其實前後の大關鍵(だいかんけん)たりしなり」とあるように、慥に重要な意義を有する出来事であった。
[やぶちゃん注:「侃々諤々(かんかんがくがく)」正しいと思うことを堂々と主張するさま。又、盛んに議論するさま。
「文苑(ぶんえん)」新聞『日本』の文芸欄の名であろう。
「閑文字(かんもじ)」「かんもんじ」とも読み、原義は無意味な文字・文章・無益な言葉であるが、ここは投稿を含めた文芸作品や肩肘張らないコラムの謂いであろう。
「浅井黙語(もくご)(忠(ちゅう))」(安政三(一八五六)年~明治四〇(一九〇七)年)は洋画家。江戸生まれ。父は佐倉藩士。明治八(一八七五)年に国沢新九郎に師事し、翌年、工部美術学校に入学、お雇い外国人でイタリアの画家アントニオ・フォンタネージ(Antonio Fontanesi 一八一八年~一八八二年)に師事、明治二二(一八八九)年、日本初の洋画団体「明治美術会」を創立し、明治三一(一八九八)年には東京美術学校教授に就任した。明治三三(一九〇〇)年からフランスに二年間、留学。帰国後、京都高等工芸学校教授に就任して「関西美術院」を創立した。渡欧後は印象派の画風を取り入れ、また、水彩画にも多くの佳作を残した。門下に安井曾太郎・梅原龍三郎らがいる。
「中村不折」(慶応二(一八六六)年~昭和一八(一九四三)年)は洋画家で書家。太平洋美術学校校長で、裸体画や歴史画を得意とした。書家及び書の収集家としても著名で、六朝風を得意とし、書道博物館(現在の台東区立書道博物館)の創設者でもある。また、島崎藤村「若菜集」、夏目漱石の「吾輩は猫である」、伊藤左千夫の「野菊の墓」の挿絵なども描いている。
「余の始めて不折君と相見(まみえ)しは明治廿七年三月頃の事にして其場所は神田淡路町小日本新聞社の樓上にてありき」「墨汁一滴」の六月二十五日の条に出る。後の引用も合わせて、国立国会図書館デジタルコレクションにある、初出の切貼帳冊子を参照して訂した。読みは私が新たに歴史的仮名遣で追加した。
「大關鍵(だいかんけん)」物事の最も大きな重要な場面・要所。]
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