芥川龍之介 手帳12 《12―22~12-24》 / 手帳12~了
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《12―22》
[やぶちゃん注:以下、最後まで、総てが住所記録欄となり、実際に住所と名前(姓だけが殆んど)となるので、気になる一部のみ(姓名フルに書かれたものは総てに亙って検証した)に注をすることとする。その場合は、今までのようには注の後を一行空けないこととした。中には、芥川龍之介の親しい友人の誰それではないかと思われるありきたりな姓も含まれているが、書簡の記載の住所照らし合わせて一致を見ないものも多いので、比定推定注はごくごく一部に限ってある。]
○榛名 近藤
○阿蘇(神戸氣附) 淸水
[やぶちゃん注:「神戸」の地名気付で「阿蘇」という人物に出すと、「淸水」という人物に渡るというのか? 意味がよく判らない。]
○M. 1e Prof. R. R. l'Ecole
normale supérieure Paris
[やぶちゃん注:フランスのエコール・ノルマル・シュペリウール(École Normale Supérieure:「高等師範学校」の意)の教授である。]
○京都萬里小路一條上ル 關内上内方 菊地
[やぶちゃん注:菊池寛であろう。彼は明治四三(一九一〇)年に第一高等学校第一部乙類に入った同期には芥川龍之介(但し、菊池は四つ年上。これ以前、東京高等師範学校で授業をサボっていたことから除籍処分を受け、明治大学法科に入るも、第一高等学校入学を志して中退、徴兵逃れのために早稲田大学に籍のみを置いて受験勉強するといった経緯があった)や井川恭(一高卒業後は同じ京大に進んだ芥川龍之介の盟友で後の法学者恒藤(婿養子で改姓)恭)がいたが、卒業直前に「マント事件」(菊池寛が友人が盗んだと推定されるマントを質入れし、窃盗の犯人の身代わりとなったもの)原因となって退学(大正二(一九一三)四月)、その後、友人成瀬正一(芥川の友人でもあった)の実家から援助を受け、京都帝国大学文学部英文学科に入学、大正五(一九一六)年七月に京大を卒業している。本手帳の記載推定上限は、大正五(一九一六)年或いは前年度末(東京電力株式会社の前年大正四(一九一四)年発行の手帳で、一九一五年のカレンダーなどが附されてある)からであるから、この住所欄の初めの方に菊池寛の京都の下宿先が書かれていても、何ら、不思議はない。]
○麻布六本木31 長岡 Jones
[やぶちゃん注:「31」は正立縦書。以下、二桁半角表記のそれは総て正立縦書なので本注は略す。
「Jones」既出既注のアイルランド人の友人でジャーナリストの Thomas Jones(一八九〇年~一九二三年)。岩波版旧全集の第七巻月報に所収する長岡光一氏の「トーマス・ジョーンズさんのこと」によれば(光一氏の父君長岡擴氏は大蔵商業(現・東京経済大学)の英語教師でジョーンズを自宅に下宿させていた)、大正四(一九一五)年の来日の際には、『新橋驛まで出迎え』、『六本木の家について、二階で皆と話をしている時、雷鳴と夕立が上って遠くに青空がみえたと記憶しているから多分夏のころであったと思う』(下線太字やぶちゃん)と述べておられるから、間違いない。大正八(一九一九)年にはジョーンズは長岡家を出て、『麻布三の橋近くのペンキ塗りの洋館に移』ったともある。彼をモデルとした名品「彼 第二」の注で、私は、芥川龍之介とジョーンズとの邂逅を大正五(一九一六)年の冬に措定したが、これは作品の中の描写によるもので、大正五(一九一六)年年初であっても何ら、問題はない(鷺只雄氏の年譜は同年冒頭の部分に、彼らが知り合ったという漠然とした記載がある)。しかもそうすると、前の菊池の住所記載の時期とも矛盾なく一致するからである。]
○麻布不二見町31 Playfair
[やぶちゃん注:「Playfair」(プレイフェア)というのは外国人の姓として実際に存在する。]
○淺草駒形町61 久保田
○麹町區飯田町三丁目十三番地 中島 市川
○京都上京區聖護院町上リ■■ 洛陽館5
[やぶちゃん注:「■■」は底本の判読不能字。]
○下谷谷中淸水町十二 依田誠
[やぶちゃん注:「依田誠」(生没年未詳)芥川龍之介の府立第三中学校時代の同級生。二人の担任で英語教師であった広瀬雄(たけし 明治七(一八七四)年~昭和三九(一九六四)年)と龍之介の三人で明治四一(一九〇八)年(或いは前年)の夏休み七月、関西旅行に出かけ、高野山などを訪れている。彼の名は、芥川龍之介の怪談蒐集録「椒圖志異」の「怪例及妖異」の「4」及び「魔魅及天狗」の「3」で、怪談話者(提供者)としても出る(リンク先は私の非常に古い電子テクスト)。]
○府下柏木四三三 聖書學院前 西條
○本郷西片町1ノ三 本田 小宮
○横濱市 矢代
○大森不入斗402 加藤
[やぶちゃん注:「不入斗」「いりやまず」と読む。東京府荏原(えばら)郡旧入新井町(いりあらいまち)現在の大田区大森北付近。]
○本郷森川町四七 最上 山宮
○牛込餘丁町一〇九 森口
[やぶちゃん注:東京都新宿区余丁町(よちょうまち)として現存する。]
○〃〃津久戸九 廣井家方 日夏
[やぶちゃん注:後の詩人で英文学者の日夏耿之介(明治二三(一八九〇)年~昭和四六(一九七一)年)であろう。彼は芥川龍之介より二歳年長である(早稲田大学英文科・大正三(一九一四)年卒)が、芥川龍之介は第一短編集「羅生門」(大正六年五月二十三日発行)を彼に贈呈しており(大正六年六月十六日佐藤春夫宛書簡・旧全集書簡番号二九五)、日夏は大正六年六月二十七日の『羅生門』出版記念会にも出席している。]
○神奈川縣三浦久里濱ペルリ 小川傳六
[やぶちゃん注:ペリー上陸記念碑(明治三四(一九〇一)年七月十四日に除幕。太平洋戦争中の昭和二〇(一九四五)年二月八日に引き倒され、その半年後の敗戦から三ヶ月後の十一月に再建)のある、現在の神奈川県横須賀市久里浜七丁目附近と考えられる。「小川傳六」なる人物は不詳。機関学校時代の知人か。]
〇千葉縣東葛飾郡市川町字板木三千二百二十 鈴木定吉
[やぶちゃん注:「鈴木定吉」不詳。同姓同名の児童文学者がいるが、明治四二(一九〇九)年生まれで若過ぎる。]
○府下大久保西大久保四九二 矢内原
[やぶちゃん注:経済学者で後の東京大学総長となる矢内原忠雄(明治二六(一八九三)年~昭和三六(一九六一)年)である可能性を否定出来ない。彼は芥川龍之介と一高の同期であり、無教会主義キリスト教の指導者としても知られ、後に出る室賀文武とも知り合いであったからである。但し、彼は大正六(一九一七)年に東京帝国大学法科大学政治学科を卒業後、住友総本店に入社するや、別子銅山に配属されており、大正九(一九二〇)年に母校の経済学部に呼び戻され、助教授となるも、同年秋には欧州留学に出ており、東京にいた時期が非常に限定されるから、そうだとも言えない。]
○本郷森川町四七 最上方 山宮
○小石川スワ町三七 番所 久米
○岡山門内一一〇二 崇雅院 平塚
[やぶちゃん注:「崇雅院」は目を引く固有名詞であるが、全く不詳である。]
○本所淸水町二二 平松
[やぶちゃん注:後に芥川龍之介が帝国ホテルで心中未遂をする芥川の妻文子の幼馴染みであった平松素麻子(ひらまつすまこ 明治三一(一八九八)年~昭和二八(一九五三)年)である可能性は、住所からみて、極めて低い。また、彼女が「秋」(大正九(一九二〇)年四月『中央公論』)の情報(女性の手紙の書き方・髪型の種類など)提供者として妻文によって紹介されて、急速に親しくなる時期は本手帳の推定下限より後である。寧ろ、芥川龍之介の幼少・少年期の「本所」であるから、その頃の友人か知人である可能性が高い。]
○東糀町飯田町三ノ一一三 中島 市川
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《12―23》
○芝區下高輪五十五 塚本
〇本郷千駄木五七 山本
○中澁谷四二四 ■■
[やぶちゃん注:「■■」は底本の判読不能字。]
○橫濱住吉町二ノ三二 矢代
○千葉縣送船隊第六中隊 長島
○松江南殿町内中原御花畑一六七 井川
[やぶちゃん注:盟友井川恭の実家。]
○田端西大通五三三 廣瀨
○牛込天神町一三 松浦
○宇和島町神田川原112 藤岡
○小石川區小日向臺町二ノ二七 奧野
○本郷元町一ノ三 安達 平塚
○森川町一谷三〇三 山本
○駒込曙町十一 はノ八號 奧野
〇牛込廿騎町卅 純勝舍 矢羽
○白山御殿町110 眞心寮■■
[やぶちゃん注:「■■」は底本の判読不能字。]
○上海四川路三物 西村
[やぶちゃん注:芥川の府立三中時代の同級生の友人西村貞吉(ていきち 生没年未詳)でんはなかろうか。東京外国語学校(現在の東外語大学)卒業後、各地を放浪の後、中国安徽省蕪湖唐家花園に居を定めていた。芥川龍之介は中国特派の際に彼に逢っており、「長江游記 一 蕪湖」の冒頭から実姓名で登場している(リンク先は私のブログ版。「長江游記」全篇サイト版はこちら)。帰国直後の大正一〇(一九二一)年九月に『中央公論』に発表した「母」は、蕪湖に住む野村敏子とその夫の物語であるが、この夫は明らかに彼をモデルとしている。]
○目白臺高田村松木田四八七 平田義雄
[やぶちゃん注:「平田義雄」不詳。]
○田バタ吉田牛ノ宮田バタ方
○相州鎌倉坂の下十一 奧野
○小石川戸崎町一二 山宮
○本郷五 廿 松岡
○椛町區須田町6-19 紀愛
[やぶちゃん注:「紀愛」は苗字としては特異だが、読みさえ不詳。「きあい」か。]
○本郷區曙町十三 はノ八 オクノ
○府淀橋町字柏木湖 石田三治
[やぶちゃん注:「石田三治」明治二三(一八九〇)年~大正八(一九一九)年)はトルストイの研究で知られる評論家。北海道に生まれで、青森県七戸町で育った。東京帝国大学哲学科(美学専攻)を卒業、日本基督教青年会同盟主事を務める傍ら、ヨーロッパ文化に対する博識を駆使し、月刊誌『トルストイ研究』を始めとして、『新潮』『帝国文学』『心理研究』『新人』『日本評論』『大学評論』『開拓者』『六合雑誌』等に、客観的且つ実証的な論文及び随想を精力的に発表した。芥川龍之介・菊池寛・豊島与志雄・内村鑑三・南原繁・矢内原忠雄といった著名な作家・政治家・学者らとの多彩な交友関係があったが、病に倒れ二十九歳で夭折した。著書に「トルストイ書簡集』」(大正七(一九一八)年新潮社刊)や「全トルストイ」(大正八年大鐙閣刊)などがある(以上は「青森県近代文学館」公式サイト内のこちらのページを参照した)。]
○本所小泉町30 山内
○麻布市兵工町1の7 長岡 J.
〇四谷北伊賀町17 山宮
○小石川大塚仲町廿七 渡邊半
○Schinbashi Komparu Terajimaya
Kyobashi Minami Kinroku 1 Tateishi K.
[やぶちゃん注:それぞれ「七番地」「金春」「寺島屋」「京橋」「南」「金六 一」(?)「立石」(最後のイニシャルは名前か)か? この内、南金六町(みなみきんろくちょう)は当時、東京府東京市京橋区に存在した町丁名である。しかもここの旧十四番地と旧十五番地内には「金春屋敷跡」(江戸幕府直属の能役者として土地や俸禄を与えられていた(他に観世・宝生・金剛の四家)の中で最も歴史のある金春家の屋敷跡。現在も「金春通り」として名が残る)があった(現在の銀座八丁目七番五号及び十三号)。]
○西片町
10(下919) 滝田哲太郎
[やぶちゃん注:「滝田哲太郎」は芥川龍之介も多くの作品を発表した『中央公論』の名編集長として知られ、多くの新人作家を世に送り出した滝田樗陰(明治一五(一八八二)年~大正一四(一九二五)年)の本名。]
○糀町下六番町27 林原耕三
[やぶちゃん注:「林原耕三」(明治二〇(一八八七)年~昭和五〇(一九七五)年)は英文学者で俳人。福井県出身で旧姓は岡田。在学中から夏目漱石に師事し、芥川龍之介らを漱石に紹介したことで知られる。東京帝国大学英文科で芥川龍之介の先輩(七つ年上)であったが、大正七(一九一八)年卒と、年下の芥川らが東大を卒業してもなお、数年も在学したことから、「万年大学生」と呼ばれた。臼田亜浪に俳句を師事し、俳号は耒井(らいせい)と称した。大正一四(一九二五)年に松山高等学校教授となり、その後、台北高等学校教授・台湾総督府在外研究員として欧米に滞在、帰国後は法政・明治・専修・東京理科大学の教授を務めた(以上はウィキの「林原耕三」に拠った)。]
〇本郷彌生町3 はノ三 後藤末雄
[やぶちゃん注:「後藤末雄」(明治一九(一八八六)年~昭和四二(一九六七)年)は作家でフランス文学者。芥川龍之介からは『新思潮』の先輩に当たる。東京生まれ。ウィキの「後藤末雄」によれば、『「金座の後藤」と言われる工芸の旧家に生まれ、幼くして母を失う。府立三中、一高を経て、東京帝国大学英文科在学中、和辻哲郎、谷崎潤一郎、木村荘太らと』、第二次『新思潮』の『創刊に参加し、小説家として出発』した。大正二(一九一三)年、東大仏文科を卒業。華々しくデビューした谷崎に対し、他の同人が創作から脱落していく中』、森鷗外らの『愛顧を得て創作を続け』た。大正六(一九一七)年から翌年にかかけて、大作「ジャン・クリストフ」の初訳を刊行したが、『同時期に創作の』方の筆は絶った。大正九(一九二〇)年、『永井荷風の世話で慶應義塾の教員となり』、後、『慶應義塾大学教授』に就任した。昭和八(一九三三)年の博士論文「支那思想のフランス西漸」では、『儒教のフランス近代思想への影響を解明して、比較思想史の先駆的研究となった』とある。]
○東片町111 豐島
[やぶちゃん注:作家でフランス文学者となった豊島与志雄(とよしまよしお 明治二三(一八九〇)年~昭和三〇(一九五五)年)の可能性が高い。東京帝大在学中の大正三(一九一四)年に芥川龍之介・菊池寛・久米正雄らと第三次『新思潮』を刊行、その創刊号に処女作「湖水と彼等」を寄稿し、注目された。]
○谷中初音町4の141 大久保方 金子保
○小石川大塚仲町廿七 渡邊
〇谷中土三崎南町40 保阪新三郎方
○御宿六軒町26
○橫濱市南太田町二の一六六 米澤方 山内
○府下千駄ヶ谷544 渡邊 蔭山
○牛込矢來町三
〇駒込林町二二 堀義二
[やぶちゃん注:同姓同名の彫刻家はいるが、同一人物かどうかは分らぬ。]
〇京橋加賀町18 新公論社
○本郷追分町19 大學評論社
○東大久保23 室賀文武
[やぶちゃん注:「室賀文武」(むろがふみたけ 明治元或いは二(一八六九)年~昭和二四(一九四九)年)は芥川龍之介の幼少期からの年上(二十三歳以上)の知人。後に俳人として号を春城と称した。山口県生まれ。芥川の実父敏三を頼って政治家になることを夢見て上京、彼の牧場耕牧舎で搾乳や配達をして働き、芥川龍之介が三歳になる頃まで子守りなどをして親しんだ。しかし明治二八(一八九五)年頃には現実の政界の腐敗に失望、耕牧舎を辞去して行商の生活などをしつつ、世俗への夢を捨て去り、内村鑑三に出逢って師事し、無教会系のキリスト教に入信した。生涯独身で、信仰生活を続けた。一高時代の芥川と再会して後、俳句やキリスト教のよき話し相手となった。芥川龍之介は自死の直前にも彼と逢っている。俳句は三十代から始めたもので、彼の句集「春城句集」(大正一〇(一九二一)年十一月十三日警醒社書店刊)に芥川龍之介は序(クレジットは先立つ大正六年十月二十一日。これは室賀が出版社と揉めたためである。なお、その「序」でも芥川龍之介は彼の職業を『行商』と記している)も書いている。晩年の鬼気迫る「歯車」の(リンク先は私の古い電子テクスト)、「五 赤光」に出る「或老人」は彼がモデルであり、晩年の芥川にはキリスト教への入信を強く勧めていた。]
○海岸通 野間榮三郎方
○本郷區駒込千駄木町70 池内藤兵エ方 上瀧
[やぶちゃん注:「上瀧」龍之介の江東小学校及び府立三中時代の同級生上瀧嵬(こうたきたかし 明治二四(一八九一)年~?)であろう。一高には龍之介と同じ明治四三(一九一〇)年に第三部(医学)に入り、東京帝国大学医学部卒、医師となって、後に厦門(アモイ)に赴いたと関口安義氏の新全集の「人名解説索引」にある。龍之介の「學校友だち」では巻頭に『上瀧嵬 これは、小學以來の友だちなり。嵬はタカシと訓ず。細君の名は秋菜。秦豐吉、この夫婦を南畫的夫婦と言ふ。東京の醫科大學を出、今は厦門(アモイ)の何なんとか病院に在り。人生觀上のリアリストなれども、實生活に處する時には必ずしもさほどリアリストにあらず。西洋の小説にある醫者に似たり。子供の名を汸(ミノト)と言ふ。上瀧のお父さんの命名なりと言へば、一風變りたる名を好むは遺傳的趣味の一つなるべし。書は中々巧みなり。歌も句も素人並みに作る。「新内に下見おろせば燈籠かな」の作あり』とある。]
○永井祐之
[やぶちゃん注:不詳。]
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《12―24》
○京都市上京區吉田町 神前阪吉野館
[やぶちゃん注:以上で「手帳12」は終わっている。]
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