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2018/02/19

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十六年 『警鐘「芭蕉雑談」』

 

    警鐘「芭蕉雑談」

 

 明治二十六年は芭蕉歿後二百年に相当する。この年しばしば旧派俳人に接触した居士は、到る処で二百年忌に関する話を耳にしたのであろう。十一月六日の『日本』に地風升の名を以て「芭蕉翁の一驚(いっきょう)」なる一文を掲げた。芭蕉が地獄と極楽の中頃の処からぶらりと出て、俳諧師のところへ来て見ると、そこに集った連中が、今年の二百年忌には廟を建てようか、石碑にしようかという相談をしている。芭蕉が癇癪(かんしゃく)を起して中に入り、「汝ら集りて何をか語る、われこそ松尾芭蕉なれ」と叱りつけたところ、一同喜んで「誠に善くこそ御光來下された、先づさしあたり今年の儲(まう)けは廟が善いか石碑が善いか御當人樣の御差圖(おさしづ)を願いとうござります」といったので、芭蕉もあっけに取られて匇々(そうそう)立去ってしまった。その翌日六道の辻の黄泉社(こうせんしゃ)より発行する『冥土日報』第十万億号を見ると、二号活字で

[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。「芭蕉翁の一驚」のこの箇所は、セセエト氏のブログ「林誠司 俳句オデッセイ」の正岡子規「芭蕉翁の一驚」についてで前略されているが、読める。そこをも参考にしつつ、本文を校訂し、さらに正字化を行った。]

 

近頃拙者名義を以て廟又は石碑抔を建立する由言ひふらし、諸國の俳人にねだり金錢を寄附せしむる者有之由聞き及び候得共、右(みぎ)者(は)一切拙者に關係無之候得(これなくさふらえば)左樣御承知被下度(くだされたく)この段及広告(くわうこくにおよび)

也。

 大日本明治二十六年 月 日  松尾桃靑 白

 

という広告が出ていたというのである。当世の宗匠連(そうしょうれん)の愚劣を諷したもので、一場の戯謔(ぎぎゃく)に過ぎぬようであるが、居士が次いで筆を執った「芭蕉雑談」を読む前に、先ずこの文章を一瞥する必要がある。

[やぶちゃん注:「明治二十六年は芭蕉歿後二百年に相当する」松尾芭蕉は寛永二一(一六四四)年生まれで、元禄七年十月十二日(グレゴリオ暦一六九四年十一月二十八日)に亡くなっている。明治二十六年は西暦一八九三年であるが、数えで二百年となる。

 「芭蕉雑談」は十月十三日から『日本』に現れて、翌年の一月二十三日に漸く了った。前後二十五回の長篇である。名は雑談であるが、居士が古俳人に対して下した最初の評論と見るべく、『獺祭書屋俳話』よりも更に響(ひびき)が大きい警鐘であった。

 居士は「芭蕉雑談」において、その佳句を称揚するより前に、悪句を指摘した。「芭蕉の俳句は過半悪句駄句を以て埋められ、上乗と称すべき者はその何十分の言る少数に過ぎず。否、僅に可なる者を求むるも寥々(れうれう)晨星(しせい)の如し」という劈頭(へきとう)の断案は、月並宗匠の胆(きも)を奪ったのみならず、世人を瞳目せしめたに相違ない。居士はその理由として、芭蕉の俳諧は古を模倣したのでなく自ら発明したのである、貞門、談林の俳諧を改良したというよりも、むしろ蕉風の俳諧を創開したという方が当っている、その自流を開いたのは歿時を去る十年前、詩想いよいよ神(しん)に入ったのは三、四年前であろう、「この創業の人に向つて僅々(きんきん)十年間に二百以上の好句を作出せよと望む。また無理ならずや」といっているが、当時にあってこれを読む者は、こういう推論に耳を傾けず、一国に大胆なる放言としたものと思われる。

 居士は具体的な実例として、世に喧伝せらるる芭蕉の句十余を挙げ、その多くは悪句であると断定し、「さまでに名高からぬ句を取(とり)てこれを評せんには、芭蕉家集は殆ど駄句の掃溜(はきだめ)にやと思はるゝほどならんかし」とまで極言した。これは正に破天荒の言で、芥川龍之介氏の評した通り「芭蕉の円光を粉碎し去つた」ものでなければならぬ。居士は先ず如是(にょぜ)の断案を与えて置いて、然る後徐(おもむろ)に佳句を列挙した。最も特筆大書したのは豪宕(ごうとう)雄壮なる種類のもので、「夏草やつはものどもの夢のあと」「五月雨を集めて早し最上川」「あら海や佐渡に橫たふ天の川」以下数句を以て俳詩壇上を潤歩するものとし、「吁嘻(ああ)芭蕉以前已に芭蕉なく芭蕉以後芭蕉なきなり」と歎賞しているのである。

[やぶちゃん注:「芥川龍之介」底本は「芥川竜之介」であるが、こればかりは気持ちが悪いので、原本通りに訂した。

「芭蕉の円光を粉碎し去つた」これは芥川龍之介の草稿「芭蕉雜記」の「偶像」の一節であって、生前に発表された「芭蕉雜記」(初出形は「芭蕉雜記」及び「續芭蕉雜記」として大正一二(一九二三)年十一月・十三年五月・同年七月発行の『新潮』各号に分載)中のそれではない

   *

 この偶像崇拜に手痛い一擊を加へたのは正岡子規の「芭蕉雜談」である。「芭蕉雜談」は芭蕉の面目を説盡したものではないかも知れない。しかし芭蕉の圓光を粉碎し去つたことは事實である。これは十百の芭蕉堂を作り、千萬の芭蕉忌を修するよりも、二百年前の偶像破壞者には好個の供養だつたと云はなければならぬ。

   *

「豪宕(ごうとう)」気持ちが大きく、細かいことに拘らず、思うままに振る舞うこと。豪放。]

 居士が芭蕉の佳句と認めるものは、固よりただ豪宕雄壮の世界に限られたわけではない。自然、幽玄、繊巧(せんこう)、華麗、奇抜、滑稽、蘊雅(うんが)、羈旅の実況を写せる者、やや狂せる者、字余りの句、格調の新奇なる者、一瑣事一微物の実景実情をありのままに言い放してなお幾多の趣味を含む者、その他の諸項について芭蕉の句百十余を挙げた上、「百種の變化(拙劣なる者をも合して)盡(ことごと)くこれを一人に該(か)ぬる者は實に芭蕉その人あるのみ。けだし常人の觀念において兩々全く相反し到底並立すべからざるが如き者も、偉人の頭腦中にありては能くこれを包容混和して相戾るなきを得るがためなり」と評している。果然居士が悪句を抑えるに急であったのは、後の佳句を揚ぐるに力あらしめんがためであった。

[やぶちゃん注:「蘊雅(うんが)」よく判らぬが、奥底に潜む雅(みや)びなものの謂いか。]

 「芭蕉雑談」の所論は世人を驚かすと共に、多少の疑問を招いたらしい。「惑問(わくもの)」の項を設けて言これに答えたのは、その反響を語るものである。居士は「芭蕉雑談」における自己の態度について、「芭蕉を文學者とし俳句を文學とし、これを評するに文學的眼孔を以てせば則ち此の如きのみ」といい、「佳句を埋沒して惡句を稱揚する者、滔々たる天下皆然り。芭蕉豈(あに)彼らの尊敬を得て喜ぶものならんや」と喝破している。要するにこの一篇は「主として芭蕉に對する評論の宗匠輩に異なる所を指摘せし者」で、豪宕雄壮なる趣味について力説したのも、逆に宗匠輩の短所を衝いたものに外ならぬ。俳壇に新旗幟(しんきし)を翻さんとする居士の面目は、何よりも「芭蕉雑談」に強く現れている。後に居士は人の問に答えて、「拙著芭蕉談も隨分亂暴なる著述にて自ら困り居候」といったことがあるが、語気の強かったのは警鐘乱打の意味でやむをえまいと思う。芭蕉二百年忌を記念する仕事として、「芭蕉雑談」以上のものはどこにもなかったはずである。

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