子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十六年 『俳諧』『獺祭事屋俳話』
『俳諧』『獺祭事屋俳話』
二月十四日の日記に「痰有血、夜宮本國手(こくしゆ)來」とある。翌十五日には「血痕甚淡」とあり、十七日には、「不見血(ちをみず)」となっているから、大した事もなかったのであろうが、居士は臥褥(がじょく)して外に出なかった。二十五日に至り「仙田氏來、到廣小路(ひろかうぢにいたる)」とあって、
うらゝかや空を見つめる病み上り
の句が記されている。仙田氏とあるのは仙田重邦氏であろう。この病臥の間(二月二十日)に一茶、凡兆、素堂、尚白、来山、去来ら古人の調に擬した句を作った。一茶調を除くの外は、「燈火十二カ月」以来の十二カ月の形式を以て、三月以後の『日本』に発表された。
[やぶちゃん注:「仙田重邦」松本島春(とうしゅん)主宰の俳誌『春星』のサイト内の中川みえ氏の「子規の俳句」のこちらの『子規の俳句(九)』に拠るなら、新聞『日本』社の事務総裁(総務・経理部長か)らしい。]
居士が社へ出るようになったのは、二月二十八日からであるが、その前二十六日の日記に「片山、伊藤(半)二氏来談、俳諧之事」という記事がある。片山、伊藤は即ち桃雨、松宇の二氏で、『俳諧』というのは新に出すべき雑誌の名である。鬱勃たる居士身辺の俳句熱は、遂に雑誌刊行の機運にまで到ったのであった。
[やぶちゃん注:『俳諧』既注。「桃雨」「松宇」も同リンク先の私の注を参照されたい。]
『俳諧』という推誌については、居士自身あまり語っていない。後年『ホトトギス』が第四巻第一号を出すに当り、感想を述べた居士の文章の中に「明治二十六年にある本屋の発起で始めて、自分はその一部分を担当したが、二号で潰れてしもうた」とあるのと、『ホトトギス』を東京へ移すに際し、虚子氏に与えた手紙に、ちょっとその事が見えるに過ぎぬ。今日から考えると、『日本』紙上の俳句も掲げられるようになったばかりであり、時期尚早の観があったかと思うが、新派俳句凝議の先鞭を着けたものは、実にこの『俳諧』だったのである。
『俳諧』第一号は三月二十四日を以て生れた。もしこの雑誌が健全に発達したならば、『日本』の俳句と相俟って、車の両輪の如く進み得たかも知れぬが、遺憾ながら二号で挫折してしまった。五月に入ってからの日記に、二度ほど俳諧雑誌社を訪うことがあり、同二十日松宇氏宛の手紙に「小生獨斷にて新選佳調二頁だけ相ふやしその代り富士をやめ申候。右御諒承奉願(ねがひたてまつり)候。罪はいくらにても小生が負ふつもりに御座候。いまだ校正にも來らず不屆至極に御座候」と見えている。これは『俳諧』第三号のことと思われるが、多分校正も出ず、そのまま廃刊になってしまったものであろう。
[やぶちゃん注:「新選佳調」「富士」孰れも『俳諧』の中の特集かコラムの名であろう。]
『俳諧』の発刊は椎の友の諸家と盛に往来した二十六年度の一産物で、明治俳諧史の上からいえば慥に注目すべき出来事であったが、居士が何らか痕迹ある仕事を遺すには、あまりにその挫折が早過ぎた。いわゆる新派俳句勃興の機運は已に動いていたにしても、これによって直に一旗幟(きし)を樹立するほどの勢力にはなっていなかったものと思われる。
[やぶちゃん注:「旗幟(きし)」表立って示す立場や態度。主義主張を述べる行動。]
『俳諧』第一号が出た翌日、居士は鎌倉に赴いた。終列車で藤沢に到り、宿屋に一泊の後、一番列車で鎌倉に行っているのは、交通機関の整備した今日からちょっと想像しにくい事柄であろう。鎌倉には二月の半から羯南翁が病後静養のため滞在中であった。帰来居士の草した「鎌倉一見の記」に「由井が濱に隱士をおとづれて久々の對面」とあるのが羯南翁のことである。
[やぶちゃん注:「由井が濱」実は底本「山井が浜」である。話にならない酷い誤りである。原典の当該箇所を確認したが、ちゃんと「由井が濱」となっている。現在の由比ヶ浜であるが、当時はいろいろな表記はした。しかし「山井が濱」などとは逆立ちしても言わない。これは、恰も、原本をOCRで読み込み、それを性能の低劣な、私の持っているような読取ソフトでやったものを修正するのを忘れたかのようじゃないか!? 私も実はよくやるがね……。特異的に訂した。
『日本』明治二六(一八九三)年三月。「青空文庫」のこちらで読める。]
高等中学生だった虚子氏が京都から徒歩旅行を計画し、刈谷以東は汽車で上京したのもこの三月末のことであった。春の試験休を利用したはじめての上京であったが、滞在十日ほどにわたり、その間俳句の小集なども催されたようである。学校を一擲(いってき)して社会の人となった居士の身辺は、慥に前年より賑になって来た。
[やぶちゃん注:「刈谷」知多半島の東の根っこの現在の愛知県刈谷市か。ここ(グーグル・マップ・データ)。流石は私の嫌いな虚子だね、全く、根性、ねえな。せめて半分ぐらい歩けよ!]
三月二十二日、地風升(ちふうのぼる)の名を以て「文界八つあたり」を『日本』に掲げた。地風升は通称の升(のぼる)に因んで、居士のしばしば用いた署名である。「文界八つあたり」は緒言、和歌、俳諧、新体詩、小説、院本(いんぽん)、新聞雑誌、学校、文章、結論の諸項に分れ、五月二十四日に至って完結した。俳句以外に及ぶ文学評論はこの文章を以てはじめとする。居士が「俳諧」の条下に月並宗匠の凡愚庸劣(ぼんぐようれつ)を罵倒し、書生仲間から新俳人の出たことを挙げて「俳諧のために太白(たいはく)を浮べて賀せんと欲する所」といっているのは、自ら期する所ある言葉でなければならぬ。
[やぶちゃん注:「院本(いんぽん)」義太夫節の浄瑠璃正本(しょうほん)のこと。「丸本(まるほん)」とも呼ぶ。これは「行院本」の略で、「行院」は中国の金・元代の俳優の居所(楽屋)を指し、そこから同時代に演じられた演劇の一つの名称となり、その脚本の意として用いられたものが、本邦で転訛したもの。
「太白」太白星(金星)のことであろう。新境地開拓の明星の意と採った。]
居士の最初の著述たる『獺祭書屋俳話』が「日本叢書」の一として刊行されたのはこの五月二十一日であった。前年『日本』に掲げた俳話三十余篇につき、種類によって編次を改め、単行本としての体裁をととのえたのである。僅々七十三頁の小著ではあるが、新派俳句最初の警鐘たる意味において、長く忘るべからざるものであろう。
[やぶちゃん注:「獺祭書屋俳話」日本新聞社の「日本叢書」の一冊として刊行されたそれは国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像で全篇が読める。]
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