芥川龍之介 手帳12 《12-12~12-15》
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《12―12》
○しげみに陣をとる敵は小勢 黑く人數厚くみゆるは勝 赤くうすく見ゆるはまけ むかふ風惡し かへる風よし 貝の賣物を云ふ聲など天にびびく時に彼くる 胸づもりは騎馬一人に一間半
[やぶちゃん注:如何にも芥川龍之介の小説にありそうなのだが、どうも見当たらない。発見し次第、追記する。]
○左經記――二君(二禁) 二顏
[やぶちゃん注:「左經記」「さけいき」と読む。平安中期の貴族源経頼(寛和元(九八五)年又は貞元(九七六)年~長暦三(一〇三九)年):宇多源氏で左大臣源雅信の孫。正三位・参議)の日記。ウィキの「左経記」によれば、『題名は経頼が参議兼左大弁の地位にあった事に由来する』。また、名の「経頼」のそれぞれの文字の(へん)の部分から「糸束記」『(しそくき)という別称もある』。長和五(一〇一六)年より長元八(一〇三五)年まで『途中に欠失があるものの、伝存している。また、別個に』、『後世の人が』本日記から長元二(一〇二九)年から同九(一〇三六)年までの『災異記事を抽出した』「類聚雑例(るいじゅうざつれい)」『という書もある』。同時代の公卿藤原実資(天徳元(九五七)年~永承元(一〇四六)年:有職故実に精通した当代一流の学識人で、藤原道長が権勢を振るった時代に筋を通した態度を貫き、権貴に阿らぬ人との評価を受けた。最終官位は従一位・右大臣で、「賢人右府」とも称された)の知られた日記「小右記」(おうき/しょうゆうき)と『比較して簡略ではあるものの、両者の比較研究によって』十一『世紀前半の政治・社会情勢の研究に資するところが大きいとされている』とある。
「二君(二禁)」「にきび」(「面皰」)と読む。大正一一(一九二二)年四月発行の雑誌『新潮』に発表した「澄江堂雜記」(同題のものが三つ、「澄江堂雜記――「侏儒の言葉」の代りに――」も含めると四つ)あるが、その最初のもの。リンク先は私の電子テクスト。なお、その他のものの私のテクストへのリンクと読み方をガイドした記事もブログで公開している)の、「にき び」の条に(原文の傍点「ヽ」は太字とした)、
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にきび
昔「羅生門」と云ふ小説を書いた時、主人公の下人の頰には、大きい面皰のある由を書いた。當時は王朝時代の人間にも、面皰のない事はあるまいと云ふ、謙遜すれば當推量に據つたのであるが、その後左經記に二君とあり、二君又は二禁なるものは今日の面皰である事を知つた。二君等は勿論當て字である。尤もかう云ふ發見は、僕自身に興味がある程、傍人には面白くも何ともあるまい。
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「二顏」こんな当て字の用例は知らぬが、芥川龍之介はこれで「にきび」とするのはどうか、と思って書いたのかも知れない。]
○Persia}
Slave }
Israel}
○Arabs
[やぶちゃん注:三つの「}」は底本では大きな一つの「}」。しかし、次の「Arabs」を前と無関係とする(柱の「○」を附す)のは私にはいただけない。敢えて纏めたものとして示しておく。]
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《12―13》
○浮世繪4號を見よ Harunobu Kurth
[やぶちゃん注:「浮世繪4號」大正四(一九一五)年に酒井庄吉(明治一一(一八七八)年~昭和一七(一九四二)年:酒井家は江戸後期の第六代酒井平助義明より浮世絵蒐集を手掛け、現在、日本浮世絵博物館を運営している)が酒井好古堂から創刊した雑誌『浮世絵』。大正九(一九二〇)年終刊。
「Harunobu」江戸中期の浮世絵師鈴木春信(享保一〇(一七二五)年?~明和七(一七七〇)年)。
「Kurth」ドイツの美術研究家ユリウス・クルト(Friedrich Erdmann Julius Kurth 一八七〇 年~一九四九 年)。浮世絵の研究でも知られ、グーグルブックスの検索で英語版の浮世絵研究書の中にドイツ語であったが、彼の書いた鈴木春信の論文らしきものの書誌記載(一九一〇年のクレジットがある)があった。]
○酒のみつつ Lanjerin
[やぶちゃん注:「Lanjerin」人名のようであるが、不詳。]
○貞享日記
>德川實記
常憲院實紀
{御當家令條
{憲廟實錄◎
{野史參略
{甘露叢
{柳禁祕鑑
{元祿日記◎
[やぶちゃん注:六つの「{」は底本では大きな一つの「{」。
「貞享日記」貞享は一六八四年から一六八八年まで、時期から見て、「徳川実紀」に取り入れられたそれは、「常憲院殿御實紀」正式には「常憲院贈大相國公實紀」(第五代将軍徳川綱吉の治世の記録で全五十九巻・附録三巻。後に出る「常憲院實紀」「憲廟實錄」と同じ。綱吉の寵臣であった柳沢吉保が荻生徂徠らに命じて纏めた綱吉公一代記。正徳四(一七一四)年成立で、綱吉の死後に親交があった公弁法親王(後西天皇皇子・日光輪王寺門主・天台座主)の依頼で編纂されたもの)の中の一資料と推定される。
「徳川實記」誤り。「徳川実紀」が正しい。幕府編纂になる徳川家の歴史書。五百十六巻。林述斎の監修のもと、文化六(一八〇九)年に着手し、嘉永二(一八四九)年に完成した。
「御當家令條」近世中期の法令集で「令条記」「令条」などの書名でも伝わる。全三十七巻。慶長二(一五九七)年九月から元禄九(一六九六)年十月までの百年間の、主として、江戸幕府の法令約六百通を収め、他に慶長以前の数通を含む。正徳元(一七一一)年の藤原親長の序文があり、彼が編纂者と目されるものの、どのような人物であったかは未詳。成立自体は元禄九(一六九六)年から元禄一三(一七〇〇)年の間である可能性が強い(平凡社「世界大百科事典」に拠る)。
「野史參略」不詳。幕末の朱子学派の儒者で水戸弘道館教授であった青山延光(文化四(一八〇七)年~明治四(一八七一)年)の著である史書「野史纂略」の誤字と考えられる。
「甘露叢」延宝九()年より元禄一六(一七〇三)年に至る二十余年の記録。内容は将軍綱吉の動静・幕府の諸行事・幕政に関する諸事・諸災害の被害状況・市井の事件等、多岐に亙る。
「柳禁祕鑑」江戸幕府の年中行事・諸士勤務の際の執務内規・格式・故事・旧例などを記した「柳營祕鑑」の誤字か誤判読と考えられる。ウィキの「柳営秘鑑」によれば、『幕臣の菊池弥門著』で寛保三(一七四三)年成立。『柳営秘鑑は、江戸幕府の年中儀礼、殿中の格式、故事、旧例、武家方の法規などが記載された書。三つ葉葵紋の由来、扇の馬印の由来、譜代の列(安祥譜代、岡崎譜代、駿河譜代など)等が記載されている。著者は菊池弥門』。全十巻であるが、『続巻が多く』存在する。『江戸幕府の教育施設で林羅山に由来する昌平坂学問所の旧蔵本が、はじめの』十『巻と続巻を含めた形で原本として存在する』。『大名の格式等に関する法曹法(役所の執務内規)として用いられた。書名にある柳営とは、幕府、将軍、将軍家を指す用語である』。但し、『内容は江戸時代を通してのものではなく、享保期中心に記載されている。
「元祿日記」この書名では限定比定出来ない。]
○明治18年9月
四人:紺メルントン及紺茶ぶちのせびろ わらじ
[やぶちゃん注:「明治18年」一八九五年。
「メルントン」melton(メルトン)のことであろう。毛織物の一種で、布面が密に毛羽(けば)で覆われた、手触りの暖かい紡毛(ぼうもう:羊などの比較的短い毛や再生毛などで作った糸。毛羽が多く、縮絨(しゅくじゅう:毛織物の仕上げ工程の一つで、水で湿らせて熱・圧力を加え、長さと幅を縮めて組織を密にすることを言う)し易い)織物。コート地などに用いる。]
○和船
○御くら島
[やぶちゃん注:現在の東京都御蔵島村に属する伊豆諸島の御蔵島。三宅島の南方洋上。ここ(グーグル・マップ・データ)。近世初期には住民がみられ、十八世紀初めに三宅島から分離して一村を形成した。江戸時代から、ツゲ材を共有・販売して生活必需品を購入し、無償で配布するという独特の扶持米(ふちまい)制度によって住民の生活が維持されてきたが、昭和一四(一九三九)年に完全に廃止された。]
○12月中 月令中は家前の小屋に入る十二日前に瀧の水をあぶ
[やぶちゃん注:或いはこれと後総て(《12―13》終りまで)は御蔵島の民俗習俗を誰から聞き書きしてめもしたものなのかも知れない。
「月令」は(がつりょう:現代仮名遣)元は漢籍分類の一つで月毎(ごと)の自然現象・行事・儀式・農作業などを記したものを指す(「礼記」の中の「月令」有名)が、ここは本邦の民俗社会の暦上のそれ(行事・儀式)を指しているようである。しかし、どうも違和感がある。「月令中」などという謂い方を少なくとも私は和書で見たことがない。「月令」の「中」で「は」~せよとある、という記載なら、判るが、どうもおかしい。そもそも「月令中は家前の小屋に入る」というのは、家の中に入ることを禁じている、則ち、禁忌(タブー)として家の前に建てた掘立小屋で過ごすという意味であろう。しかも「ある特定の日」(この場合、家から出てその小屋に入る日)の「十二日前に瀧の水をあ」びる、というのだ。新暦でも旧暦でも非常に寒い時期である。掘立小屋や瀧に打たれるなんてことをするのはとてものことに尋常ではない。されば、これは女性の「月経」、生理の誤りではないだろうか? 新年を迎えるに当たって大事な十二月に生理による血の穢れを主家から遠ざけるために行う古い日本の田舎の習俗(と推定する)を芥川龍之介はここにメモしたのではあるまいか? これは次の一条、「姙中」(妊娠中)その「夫」は「山に入る能(あた)はず」(夫も広義の出産の血の穢れのプレ状態にあるからである。さらには「山の神」は女神であるから、嫉妬するという別な意味もあろう)「入れば」タブーを犯したということで、他の仲間らに「米一升」を「罰」として差し出さねばならない、と読め、これはごく当たり前に、古くからの民俗社会に当たり前にあった禁忌の一つだからである。因みに、日本に限らず、洋の東西を問わず、出産に際しての多量の出血が非常な穢れとして認識され、出産は家とは別に設けた産屋で行うというのも広く見られる民俗である。]
○姙中夫山に入る能はず 入れば米一升罰
[やぶちゃん注:前注参照。]
○十人ぎりの木――1反がだんだんへる―枝のびる爲
[やぶちゃん注:意味不明。]
○若者二十人十なた(始三人なりと云ふ)
{小學教員夫婦
{醫者 夫婦 月經なしと云ふ
[やぶちゃん注:「醫者 夫婦」の「夫婦」は底本では「〃〃」であるが、特異的にかく示した。
「若者二十人十なた(始三人なりと云ふ)」意味不明。]
○名主――開化人
三島へゆく
{八丈島の長樂寺の僧(島>内地)
{同 へゆきし金物屋(4圓)┌(絹ばかり)
{女と關係す 煙草と米 └ 炭
[やぶちゃん注:「名主――開化人」その当時(明治)の名主は近代西洋知識を持った人物であったのでそれまでの民俗社会にあった血の穢れのタブーなどは、一切、問題とせず、島内の近代化を図ったとでもいうようなことか?
「八丈島の長樂寺」現在の東京都八丈島八丈町(まち)中之郷に現存する。浄土宗。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「(島>内地)」の不等記号の意味は、右に「内地」に傍注する「三島へゆく」(「三島」は無論、「内地」である静岡県東部の伊豆半島の中北端(半島の東の根っこ近く)に位置する三島であろう)を含めて不明。
「同 へゆきし金物屋(4圓)」「絹ばかり」「炭」「同」は「八丈島」だが、意味不明。八丈島では通貨がなく、絹と炭で支払われたということ?
「女と關係す」「煙草と米」これも売春しても、金ではなく「煙草」と「米」を要求するということか? まるでどうもこの見開きの後半部分のメモは今一つ、意味がつかめない。]
○兩に6升――3升
[やぶちゃん注:やっぱり、意味不明。]
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《12―14》
○縮緬揃丸髷
[やぶちゃん注:或いは、これも前の《12―13》の続きかも知れぬ。]
○弟
\
\
>女
/女鼠鳴き
/女
兄
[やぶちゃん注:斜線と「>」は総て底本では綺麗に繋がったもの。これは「兄」「弟」(「偸盜」の太郎と次郎)で一人の「女」という図式、「女」が合図に「鼠鳴き」する(「三」で沙金(しゃきん)が太郎を熊のばばの家に招き入れるのに『鼠鳴をして、はいれと言ふ』と出る)点で、大正六(一九一七)年四月及び七月の『中央公論』に発表した「偸盜」(発表時は七月の第二回分の標題は「續偸盜」)の構想メモであることが判る「偸盜」は「青空文庫」のこちらで読める(但し、新字新仮名)。]
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《12―15》
女をすてる
女はA殿ににくまる
祭 兄
│ / 隨身の見こみなし
│ / 女の鼠鳴き
○│<
│ \
│ \ / 姥をすくふ
弟 弟<
兄 \
[やぶちゃん注:底本では直線は繋がった一本、「<」斜線とは総て綺麗に繋がったもの。「兄弟」は底本では左から右に横書。以上も同じく「偸盜」のメモ、或いは、改作用(芥川龍之介は同作執筆中から甚だ同作に展開に不満で、積極的に改作を意図していたが、遂に改作されることはなかった経緯がある。これは後に注で詳細に語る)メモ。
「A殿」というイニシャルであると、「阿濃(あこぎ)」であるが、完成した「偸盗」では「阿濃」が「沙金」を憎んでいるという設定は少なくとも面には出ていないし、「阿濃」を「殿」と呼ぶのは設定上、おかしい。寧ろ、頻りに沙金を憎んでいると繰り返す(同時にアンビバレントに恋もしているのであるが)のは弟の次郎である。或いは、初期設定(又は改作案)は現在と異なるものであったのかも知れない。
「隨身の見こみなし」こんな設定は決定稿にはない。「隨身」はエンディングで、十年の後、尼となって子供を育てていた阿濃が、『丹後守何某の隨身』が通るのを見かけて、それが太郎であることに気づくシーンにしか出てこない。改作案か?]
○Russian Silhouettes
[やぶちゃん注:ロシアの影絵。ロシア人風のシルエット。]
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