甲子夜話卷之四 24 鎗の鞘の説
4-24 鎗の鞘の説
鎗は古代は皆ぬき身なり。今用る鞘の始め不詳。或人曰。其始は油紙にて包たるなるべし。今、井伊家の黃革の鞘、本多中書の油革の鞘など中結をせし製、乃油紙にて包たる時の形歟と。いかさま御開創の舊家なれば然るべし。
■やぶちゃんの呟き
当時の鎗は既に木製の鞘(布や革で覆われていることが多い)や革製の鞘で、一部には金属が使われてもいた(刃先の差入口や鞘の先(鐺:こじり)の部分は損傷し易いため、金属で補強された(ウィキの「鞘」に拠る)。
「不詳」「つまびらかならず」。
「包たる」「つつみたる」。
「井伊家」家康の功臣で「徳川四天王」の一人で、井伊家を再興した上野国高崎藩初代藩主・近江国佐和山藩(彦根藩)初代藩主井伊直政(永禄四(一五六一)年~慶長七(一六〇二)年)は槍の名手でもあり、ウィキの「井伊直政」によれば、天正一二(一五八四)年の『小牧・長久手の戦いで、直政は初めて赤備え』(あかぞなえ:戦国から江戸にかけて行われた軍団編成の一種で、主に構成員が使用する甲冑や旗指物などの武具を赤や朱を主体とした色彩で整えた編成集団を指す)『を率いて武功を挙げ、名を知られるようになる。また小柄な体つきで顔立ちも少年のようであったというが、赤備えを纏って兜には鬼の角のような立物をあしらい、長槍で敵を蹴散らしていく勇猛果敢な姿は「井伊の赤鬼」と称され、諸大名から恐れられた』とある。
「本多中書」同じく家康の功臣で「徳川四天王」の一人として槍の名手でもあった、上総大多喜藩初代藩主・伊勢桑名藩初代藩主本多忠勝(ほんだただかつ 天文一七(一五四八)年~慶長一五(一六一〇)年)。彼の官位は従五位下・中務大輔で中務省の唐名は中書省。彼の戒名も西岸寺殿前中書長誉良信大居士である。
「製」「つくり」と訓じていよう。
「乃」「すなはち」。
「油紙にて包たる時の形歟と」以上から、「井伊家の黃革の鞘」や「本多中書の油革の鞘など」「中結をせし」というのは、鞘が木製であるにも拘わらず、黄色の皮で表面を蔽ったり、油革で蔽った上に中結びを施した(或いは描いた)鞘はその名残なのではないか? という意味であろうか。それらの鞘を現認出来ないのでなんとも言えぬ。識者の御教授を乞う。
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