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2018/02/11

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十六年 日本俳句創設

 

   明治二十六年

 

    日本俳句創設

 

 二十六年(二十七歳)になって第一に記さなければならぬのは、俳句方面における居士の周囲が従来よりも広くなったことである。俳句における居士の感化は、先づ常盤会寄宿舎を中心に発達し、次いで他に及ぶ程度で、同郷の人たちを除いてはあまり熱心な作者も現れなかった。飄亭氏の入営によって兵隊組なるものが生れたのも、在来の世界の延長と見るべきもので、その顔触も二、三人に過ぎない。今新に居士が接触しはじめたのは、少数ながら椎(しい)の友と称する一団の人々で、全然別箇の方角において俳句の研究を試みつつあったのである。

[やぶちゃん注:「明治二十六年」一八九三年。

「日本俳句」これは以下で判るように、彼が記者となった陸羯南の新聞『日本』に設けられた俳句欄のことを指す。ここに拠った俳人らを後に『日本』派と呼び、その俳句を『日本』派俳句と呼ぶようになる。

「二十七歳」無論、数え。正岡子規は慶応三年九月十七日(一八六七年十月十四日)生まれである。この章は最後の章を除いて、誕生日以前の内容が殆んどであるから、実際には満年齢では二十五歳の時のこととなる。

「椎(しい)の友」次の段落に冒頭に出る実業家で俳人・古俳書収集家でもあった伊藤松宇(しょうう 安政六(一八五九)年~昭和一八(一九四三)年:正岡子規より七つ年上)が明治二三(一八九〇)年に俳人森猿男(もりさるお万延二(一八六一)年~大正一二(一九二三)年:俳人。旧姓、岩淵。本名、廉次郎。江戸出身で高等商業(現在の一橋大学)卒。正岡子規・内藤鳴雪らと後に出す俳誌『俳諧』を創刊、明治二八(一八九五)年からは角田竹冷(つのだちくれい:角田真平)の「秋声会」に属した)・片山桃雨(詳細事蹟不詳)らと作った俳人結社「椎の友社」のこと。「上田市マルチメディア情報センター」が作成したサイト「上田を支えた人々 上田人物伝」の「伊藤松宇」によれば、彼は小県郡上丸子町(現在の長野県上田市上丸子)に俳人伊藤洗児の長男として生まれ、本名は半次郎。明治一五(一八八二)年に上京、家業の藍取り引きを通じて知り合った銀行家渋沢栄一に認められ、横浜第一銀行・王子製紙・渋沢倉庫などに勤め、渋沢財閥の幹部になり、実業界でも活躍した。このグループは〈新俳句〉を提唱、従来の俳諧連座形式の句会を行わずに互選方式を取り入れたりして、明治前期の俳句界の中でも斬新な結社であった。以下に見るように、正岡子規や内藤鳴雪も、この「椎の友社」に加わっており、まさにこの明治二十六年、松宇は俳誌『俳諧』を創刊している松宇は「明治初期俳壇の先覚五人衆」(尾崎紅葉・巌谷小波・大野酒竹・角田竹怜)の一人に数えられている。その後も俳誌『ひばり』を明治四四(一九一一)年に創刊(子規は既に没している(明治三五(一九〇二)年九月十九日))、従来の懸賞形式を廃止し、作品本位の編集を確立した。『実業界を退いてからは、主として研究家、古俳書収集家として活躍し、晩年の』二十『年間は小石川関口町の芭蕉庵に居住し』、『正岡子規の日本派とは異なり、連句を含めて近代俳句文芸の改革を目指した点で独自さがあ』ったとある。]

 居士と椎の友との交渉は、伊藤松宇氏からはじまるのであろう。前年十月九日、居士は大磯松林館において松宇氏宛に長文の手紙をしたため、その作るところの富士百首を評している。その中に「尊稿富士百首高津先生より御傳達被下(くださる)」とあるから、松宇氏の紹介者は高津鍬三郎氏だったと見える。十二月六日、日本新聞社へ出るようになってから、居士ははじめて松宇氏を訪ねた。その節松宇氏から俳書数部を借覧し、十日に句会があるから出席するように勧められたのであった。

[やぶちゃん注:「高津鍬三郎」既出既注。]

 鳴雪翁の『鳴雪自叙伝』によると、居士がはじめて椎の友の運座に出席したのは、明治二十六年一月で、互選ということを句会に取入れたのはそれ以来だ、ということになっている。けれども居士の日記を検(けみ)すると、二十五年十二月十日の条に「到社(しやにいたる)、訪松宇氏(しよううしをとふ)、會石山氏宅(いしやましたくにくわいす)、吟咏徹夜(よをてつしぎんえいす)」とあり、『鳴雪自叙伝』にも、居士が椎の友の連座で徹夜したことを話した旨が見えるから、二十五年十二月とすべきであろうと思う。石山氏とあるのは椎の友の同人であった石山桂山(けいざん)氏のことで、松宇氏をはじめ、片山桃雨、森猿男などという椎の友の人々が相次いで根岸に居士を訪ねている。即ち椎の友との交渉は二十五年末を以てはじまるのであるが、二十六年に入るとともに、土居藪鶯氏宅小会(七日)、岡倉氏宅根岸会(九日)、桃雨氏宅小会(十二日)、子規庵小会(十五日)という風に、頻繁に句会が催されることになった。中には最初から企てた催(もよおし)でなしに、顔を合せると直に句を作るということもあったに相連ないが、句会は俄に盛になって来た。

[やぶちゃん注:「鳴雪翁の『鳴雪自叙伝』によると、居士がはじめて椎の友の運座に出席したのは、明治二十六年一月で、互選ということを句会に取入れたのはそれ以来だ、ということになっている」国立国会図書館デジタルコレクションの「鳴雪自敍傳」大正一一(一九二二)年岡村書店刊)「十七」章のここに出る。この前の段落の記載は明治二十五年の内容である。

「石山桂山」前の国立国会図書館デジタルコレクションの「鳴雪自敍傳」(大正一一(一九二二)年岡村書店刊)の「十九」章のここに、『石山桂山氏は早くより俳句を止めて、今は消息を絶つ居る』とある以外は詳細事蹟不詳。

「片山桃雨」前段落の注の太字下線部参照。詳細事蹟不詳。

「森猿男」前段落の注の太字下線部参照。

「土居藪鶯」「どいそうおう」と読んでおく。前の国立国会図書館デジタルコレクションの「鳴雪自敍傳」(大正一一(一九二二)年岡村書店刊)の「九」章のここに、『宇和島人』で鳴雪は彼と『兼て知り合ひで、これも其頃』(明治二十五年頃)『から俳句を始めたと聞いたので、此人の在勤して居る、橫濱へも行つて共に句作し』た、と出る以外は詳細事蹟不詳。

「岡倉」「根岸会」とくるとこれは、かの岡倉天心(文久二(一八六三)年~大正二(一九一三)年:本名、岡倉覚三。正岡子規より四つ年上)しか私には浮かばぬのだが、しかし、正岡子規と彼が繋がっていたのだろうか? 私は不学にして知らない。識者の御教授を乞う。]

 十五日の小会の結果は、「叔岸庵小集の記」の題下に『日本』に揚げられた。居士を中心とする句会の記事が発表されたのは、これが最初であろう。頻繁なる句会は居士の身辺を賑(にぎやか)にはしたけれども、必ずしも居士を満足せしむるものでなかったことは、次の手紙がよくこれを証している。

[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。太字は底本では傍点「ヽ」、太字下線は底本では傍点「○」。「……」は宵曲による省略と思われる。]

 

發句會は四、五度に及び中にも二會ほどは十三人の多數集會運座を試み申候。この中には月並連中も多く候故箇樣(かやう)にして勝敗を決し候などは小生餘り好み不申候へども板挾みの姿にて無致方候。大兄及旭溪子(きよくけいし)の俳句皆々面白く感服仕候。第一俗氣のなきに驚き候。これはこの頃のやうに俳句の競爭など盛に相成候ひては在京諸友の句皆々多少の俗氣をまじへ自然または故意にあてこみなどをやりいやな事に候。(一月三十一日、碧梧桐氏宛)

この頃は椎の友といふ仲間と我們(われら)俳諧仲間と合倂致し度々大小の俳句會相開(あひひらき)申候。會とは席上運座もしくは宿題にてこれを各人判定してその點數をしめあげ優劣を判する法にてはじめは面白かりしが今は俗氣紛々として少々いや氣に相成申候……今日ふと机上に「かけはしの記」(去年新聞に載せたる拙稿)有之候故取て一讀致候ところその句よきとにはあらねどいづれも俗氣を脱し居(をり)今日の作にまさる事萬々に候故益〻感ずる所有之候。貴兄らまさかそんな事もあるまいが如何なる機會ありとも今日の俳席に臨み天保已後の俳書を播き給ふ事なかれと切に御忠告申上候。(二月二日、虚子氏宛)

 

「月並連中」の語はこの手紙にも見えている。居士は興味のために判断力を失う人でなかったから、連座の興味に牽かれながら、その弊害を看破することを忘れなかった。今日の俳席を知らぬ碧、虚両氏らの句、俳席へ出ぬ前の自己の句に俗気の少いことを認めているのもそのためである。「鶯の淡路へ渡る日和かな」という居士の句は根岸大会で高点を得たものであるが、「以て輿論の正しからざるを見るに足るべし」ともいっている。

[やぶちゃん注:「旭溪子」不詳。

「かけはしの記」既出既注。「青空文庫」のこちらで全文が読める。

「鶯の淡路へ渡る日和かな」「寒山落木 明治二十六年」の春に載る。]

 『日本』の「文苑」に俳句の一欄が設けられるようになったのは、この年の三月六日からであった。いわゆる『日本』俳句の濫觴である。当時の俳句界に何の地歩も有せぬ、いわば一個無名の青年たる居士を抜擢して、その自由に任せたのは、慥に羯南翁の英断であったといわなければならぬ。勿論最初のうちは居士周囲の人の作品を以てこれに充てる外はなかったが、居士はこの一欄によって次第に新な世界の開拓に当ったのである。

 

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