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2018/02/13

北條九代記 卷第十二 後二條院崩御 付 花園院御卽位

 

鎌倉 北條九代記卷   第十二

 

      ○後二條院崩御  花園院御卽位

 

德治三年、主上、御惱(ごなう)に罹らせ給ひ、朝政(てうせい)の御事も叶はせ給はず。御位を東宮富仁(とみひとの)親王に讓りて、同八月二十五日に崩じ給ふ。御年二十四歳なり。在位僅に六年、一朝にして鼎湖(ていこ)の雲を攀(よ)ぢ、蒼梧(さうご)の霞(かすみ)に隱れさせ給ひ、一天、既に諒闇(りやうあん)の有樣、愁(うれへ)の色を見せ侍り。後二條院とぞ申しける。北白川に葬送し奉る。東宮は、是(これ)、伏見院第二の皇子、御母は山階(やましなの)左大臣實雄(さねを)公の御娘、顯親門院藤原厚子(あついこ)とぞ申しける。同年十月に改元あり。延慶(えんきやう)と號す。同十一月二十六日、御年十二歳、寶祚(ほうそ)を踐(ふ)んで御位に卽(つ)きたまふ。花園院と申すは、この君の御事なり。九條關白師教(もろのり)公、攝政たり。伏見上皇、院中にして政道を知(しろ)しめす。武家より計(はからひ)申して、後宇多法皇第二の皇子尊治(たかはるの)親王を春宮(とうぐう)に立參(たてまゐ)らせらる。九條師教公、攝政を辭退あり。鷹司(たかつかさの)左大臣冬平(ふゆひら)公、攝政と成り給ふ。同三年十一月に北條越後守貞房、六波羅にして卒す。越後守時敦(ときあつ)、その代(かはり)として上洛す。貞房は武藏守朝直の孫なり。時敦は北條左京兆政村の三男、駿河守政長の嫡子なり。今年十二月、主上、十四歳に成らせ給ふ。御元服の事あり。御加冠(かくわん)の役人は、先(まづ)、太政大臣に補任せらる〻は舊例なり。是(これ)に依(よつ)て、鷹司冬平公、豫て太政大臣に任じ、應長元年正月、主上、御元服あり。冬平公、加冠たり。理髮(りはつ)は近衞〔の〕左大臣宗平公、勤めらる。

 

[やぶちゃん注:「德治三年」一三〇八年。

「主上」後二条天皇。

「東宮富仁(とみひとの)親王」持明院統の伏見天皇の第四皇子で第九十五代天皇となる花園天皇(永仁五(一二九七)年~正平三(一三四八)年/在位:延慶元年十一月十六日(一三〇八年十二月二十八日)~文保二年二月二十六日(一三一八年三月二十九日)。即位した時は十二歳。

母は、左大臣洞院実雄の娘、顕親門院・洞院季子。鎌倉時代の2つの皇統のうちに属する。

「在位僅に六年」後二条天皇の在位は正安三年一月二十一日(一三〇一年三月二日)から徳治三年八月二十五日(一三〇八年九月十日)であるから、七年半であるから、誤り

「鼎湖(ていこ)」中国の神話時代の帝王で五帝の一人である黄帝は首山(山西省浦阪県とする)の銅を採掘して荊山(河南省閿郷県とする)の麓で一つの鼎を鋳造した。すると、一匹の龍が髯を垂らして迎えに下り、黄帝はそれに乗って昇天して仙人となったという伝承がある。その場所を「鼎湖」と呼んだ。ここは極楽へ昇天されたことを述べたもの。

「蒼梧(さうご)」湖南省寧遠県にある山に比定され、五帝の一人である舜(太陽神)がここから天に昇ったとされ、彼の墓もその山中にあるとされる。同前。

「諒闇(りやうあん)」「諒」は「まこと」、「闇」は「謹慎」の意で、本来は天皇がその父母の死に当たって喪に服する期間を指すが、後の広義に天皇・太皇太后・皇太后の死に際して喪に服する期間を指した。

「北白川」現在の京都府京都市左京区北白川追分町。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「山階(やましなの)左大臣實雄(さねを)」山階左大臣洞院実雄(承久元(一二一九)年~文永一〇(一二七三)年)。娘三人が孰れも三人の天皇(亀山天皇・後深草天皇・伏見天皇)の妃となり、しかも孰れも皇子を産み、これがまた、孰れも即位したことから、さらに三人の天皇(後宇多天皇・伏見天皇・花園天皇)の外祖父となって長く権勢を誇った。

「顯親門院藤原厚子(あついこ)」「厚子」は季子(すえこ/きし 文永二(一二六五)年~延元元(一三三六)年)の誤り

「同年十月に改元あり。延慶(えんきやう)と號す」徳治三年十月九日(一三〇八年十一月二十二日)に花園天皇即位のために改元。

「寶祚(ほうそ)を踐(ふ)んで」天子の位(宝祚)に「就く(践)」こと。践祚。

「九條關白師教(もろのり)」九条師教(文永一〇(一二七三)年~元応二(一三二〇)年七月十三日))。延慶元(一三〇八)年八月の花園天皇の践祚に際して、摂政に補されたが、同年十一月に辞任している。彼は正安三(一三〇一)年八月に富仁親王(後の花園天皇)が立太子すると、その東宮傅(とうぐうのふ:東宮教育官)に補任されているから、花園天皇とは親しかったはずである。理由は不明だが、ウィキの「九条師教」の注によれば、『大才人であり』、『漢籍の才に富み賢く、廉直の人である、と評している。何度も摂関に還補するよう打信があっても』、『固辞し続けた、とある』(「花園天皇宸記」等に拠るらしい)から、何らかの個人的な思いがあったものらしい。花園天皇は持明院統であるが、師教の母が大覚寺統の祖亀山天皇の皇女であったことが私にはちょっと気になる

「武家より計(はからひ)申して」大覚寺統の嫡流を継ぐべき後二条天皇の第一皇子邦良親王がわずか九歳であったこと、彼が当時、歩行が不自由であったらしいこと(ウィキの「邦良親王」に拠る)などから、大覚寺統と持明院統とが交互に皇位継承していくという幕府裁定の両統迭立原則が機能しない事態が生じたことに拠る。邦良(くによし/くになが 正安二(一三〇〇)年~正中三(一三二六)年)親王は叔父である後醍醐天皇(次注参照)の皇太子となるが、これ以降では皇位継承については持明院統・大覚寺統の対立以外に、大覚寺統内に於いて、後二条と後醍醐系とが互いに反目し合うこととなり、正中二 (一三二五) 年には幕府に人を遣わして即位を謀ったものの、翌年、即位することなく没している。

「後宇多法皇第二の皇子尊治(たかはるの)親王」後の後醍醐天皇(正応元(一二八八)年~延元四(一三三九)年)。大覚寺統後宇多天皇の第二皇子。生母は内大臣花山院師継の養女藤原忠子(談天門院。実父は参議五辻忠継)。持明院統の花園天皇の即位に伴って幕府の中継ぎ工作として、後二条天皇の異母弟であった彼が皇太子に立てられたのであった。後の文保二年二月二十六日(一三一八)年三月二十九日の花園天皇の譲位を受けて三十一歳で践祚し、後醍醐天皇となる。

「鷹司(たかつかさの)左大臣冬平(ふゆひら)」鷹司 冬平(建治元(一二七五)年~嘉暦二(一三二七)年)。この後、三度に亙って関白を歴任、「後照念院関白」と号した。関白鷹司基忠の子。鷹司家第三代。歌人としても優れていた。

「同三年」延慶三年であるが、延慶二(一三一〇)年の誤り

「北條越後守貞房」(文永九(一二七二)年~延慶二(一三一〇)年)通称は大仏(おさらぎ)貞房。父は大仏流北条宣時(彼は大仏流北条氏の祖北条朝直の子)。元服時に得宗家当主北条貞時より偏諱を受けて貞房と名乗った。当初は、引付衆や評定衆を歴任し、徳治三(一三〇八)年には従五位上となるなど、昇進を重ねた。延慶元(一三〇八)年十一月二十日より、六波羅探題南方として上洛・赴任していたが、十二月二日、京で三十八歳で死去した。歌人としても優れていた。

「越後守時敦(ときあつ)」(弘安四(一二八一)年~元応二(一三二〇)年)は北条氏政村流。父は北条政長(彼は第七代執権北条政村(非得宗家)の五男(推定))。徳治元(一三〇六)年、引付衆の一員として幕政に参画、延慶三(一三一〇)年には従五位上に叙位され、六波羅探題南方に就任、五年後の正和四(一三一五)年には北方に転任した。ウィキの「北条時敦によれば、この頃、『持明院統と大覚寺統の間で皇位継承を巡る紛糾があり、時敦は大仏維貞と共に朝廷と折衝し』、『問題の調停に尽力した。六波羅探題の北方は摂津と播磨の守護を兼備しており、時敦も摂津と播磨の守護職にあったようである。更に佐藤進一の指摘によれば加賀国の守護職も担当していた』。彼もしかし京で四十歳で死去している。以前にも述べたが、鎌倉後期の幕政担当者は思いの外、若死にが多い。想像以上に政務が過激であったものと思われる。

「今年十二月」延慶三(一三一一)年でここは正しくなる

「加冠」元服の儀式の際に元服する者に冠を被せる役のこと。

「豫て太政大臣に任じ」同年同月十五日。

「應長元年正月」正しくは、まだ、延慶四年。延慶四年四月二十八日(一三一一年五月十七日)、疫病を理由に応長に改元される。

「理髮(りはつ)」元服まの際に頭髪の末を切ったり、結んだりして整える役。

「近衞左大臣宗平」不詳。]

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