北條九代記 卷第十一 囘國の使私欲非法 付 羽黑山伏の訴
○囘國の使(つかひ)私欲非法 付 羽黑山伏の訴
近頃(このころ)、諸國邊邑(へんいふ)の間(あひだ)に、惡黨の者、多くして、山林嘯聚(せうじゆ)の強盜となり、嶺頭野徑(れいとうやけい)に橫行(わうぎやう)し、寺社、幽屋(いうおく)に推入(おしい)りて、財物(ざいもつ)を掠(かす)め、米穀を奪ひける程に、庶民は白浪(はくらう)の揚(あが)るを恐れ、旅客は綠林(りよくりん)の陰を厭(いと)ひ、驛路の往來も容易(たやす)からず。しかのみならず、守護、地頭なんど云はるゝ者共、私欲を專(もつぱら)として、政道、疎(おろそか)なり。百姓を責虐(せきぎやく)し、賦斂(ふれん)を重く、點役(てんやく)を滋(しげ)くしければ、或は家財を壞賣(こぼちう)り、或は妻子を沽却(こきやく)す。國、虛(きよ)し、民、疲れたる由(よし)、相摸守貞時、聞き給ひ、「我、不肖にして政理に暗く、萬事、行足(ゆきたら)ぬ故にこそ、か〻る惡事の出來(いでき)侍るなれ。天道神明(たうしんめい)の見そなはし給ふ御眥(おんまなじり)の恥かしさよ」と大に歎思(なげきおも)はれ、卽ち、諸國へ使者を遣して、國郡村里の支配、守護、地頭の行跡、民間の愁苦(しうく)、田畠(でんぱた)の有樣(ありさま)、竊(ひそか)に尋問(たづねと)はしむ。前代時宗の執權たりし時には、正直學道(しやうじきがくだう)の智士(ちじ)を撰び、兩人づつ出して囘國せさせられしかば、諸國の御家人、守護、地頭までも、世を憚り、身を愼み、威あれども、侈(おご)らず、強けれども、よわきを凌(しの)がず。重欲非法(ぢうよくひはふ)は絶(たえ)て犯す人もなかりしに、數年の後、彼(か)の囘國の者、奸曲(かんきよく)を構へ、遠國にして、親しきに逢ひぬれば、「我、今かやうの役に依て隱れて諸國を囘るぞや。穴賢(あなかしこ)、この事、人に語るな」と云ふに、漸(やうや)う漏れて知渡(しりわた)し、奉行、政所(まんどころ)、賄(まかなひ)を入れて非道を隱さしむれば、賄賂(わいろ)に依て深く隱して、非あれども、顯(あらは)さず。或は囘國者の傳馬(てんま)を取りて通り、路次(ろじ)の歎きとなるもあり、或は賣僧(まいす)の法師原(ほうしばら)、是(これ)に似せて、犯科非法(ぼんくわひはふ)の者の手より、無益の財を畏(おど)し取りて、德分(とくぶん)を付(つ)く者もあり。靑砥左衞門尉、死してより、わづかに七年に及びて、この奸曲の起りける。一人、直(なほ)ければ、威政(いせい)高く、諸奸(しよかん)を防ぐ理(ことわり)、此所(こ〻)にして知られたり。或日、荒(あら)けなく門鐘(もんしよう)を撞(つ)きけるを、何者ぞとて召入れければ、法師十八人、「是は出羽國羽黑山(はぐろさん)の山伏共なり。訟へ申すべき旨あり」とて、一通の訴狀を擎(さ〻)げたり。貞時、是を見て、大に驚き、立出でて、對面あり。子細に尋聞(たづねき)き給へば、先達(せんだち)と思しき山伏、進出でて申けるやう、「去ぬる二月に上總國より、一人の羽黑山伏を搦取(からめと)りて、鎌倉に參らせけるを、由井濱(ゆゐのはま)にて首を刎ねられて候。凡(およそ)羽黑の山伏、諸國に修行して大道を求むる輩(ともがら)、如何程(いかほど)も、是(これ)、あり。その中に、若は惡事非法あれば、搦捕りて本山に遣し、罪科を糺明して刑に行ふ作法にて候。然るに、今度、上總より直(すぐ)に鎌倉に送り、殺罪(せつざい)せられて、更に本山へは知らさせ給はず。抑(そもそも)、天下四海を治め給ふ政(まつりごと)を掌(つかさど)りながら、先規(せんき)を背(そむ)き、私(わたくし)に罪科に處せらる。その罪、何事ぞや。罪科を正(ただ)さずして殺し給はば、政道に私ありと申すべし、罪科、極(きはま)らば、先(まづ)、本山に知らさせ給ふべし、何ぞ佛法量(ぶつぽふりやう)の式(しき)を亂(みだ)り給ふや。諸國に無道の者、多く、奉行、頭人(とうにん)賄(まひなひ)に躭(ふけ)り、非(ひ)を是(ぜ)になし、惡を藏(かく)し、善を覆(おほ)ふ。この體(てい)ならば、世人(せにん)、恨(うらみ)を致し、天道、忿(いかり)をなし、國家、果(はたし)て穩(おだやか)なるべからず」とぞ訴へける。相州貞時、熟熟(つくづく)と聞き給ひ、「この事、我、更に知らず。上下の遠き事、誠に客僧達に恥しく候。諸國の無道、賄賂(わいろ)の私欲、猶、是(これ)、貞時が耳に告ぐる人なし。大に恐入(おそれい)りて候。細(こまか)に尋極(たづねきは)めん程(ほど)は鎌倉に逗留し給へ」とて萬(よろづ)の造作は貞時、賄(まかなひ)として、強く吟味ありければ、評定衆の態(わざ)に依て、下(しも)として上(かみ)を掠(かす)め、法令を破りて、罪科の山伏を本山にも知らしめず、私に誅戮(ちゆうりく)す。是(これ)、偏(ひとへ)に天下亂根(らんこん)の初(はじめ)なりとて、囘國の使、三人を召上(めしのぼ)せて、問(とは)る〻に、確(たしか)に罪科の證據、なし。是に依て、諸國に遣しける使者の惡事、忽に露顯(ろけん)して、死罪、流刑に行はる〻輩、百人に餘り、評定衆九人を遠島に處し、新評定衆十人を撰居(えらびす)ゑられしかば、羽黑山伏等、大に悦び、本山にぞ歸りけみ。その後よりは、諸國、靜(しづか)に治(をさま)り、人皆、その善政をぞ感じける。
[やぶちゃん注:「近頃」前章の北条兼時卒去が永仁三(一二九五)年九月、吉見義世の捕縛と処刑は翌永仁四年十一月、次章の冒頭の後伏見天皇即位が永仁六(一二九八)年十月であるから、本章の時制はそ閉区間を含む前後と措定してよかろう。
「邊邑(へんいふ)」片田舎。
「山林嘯聚(せうじゆ)」「嘯聚」(しょうしゅ)は「呼びあって集まること」であるから、山林を根城として屯(たむろ)った盗賊団のこと。
「嶺頭野徑(れいとうやけい)」山の峰や野道。
「橫行(わうぎやう)し」勝手気儘に横行(おうこう)し。
「幽屋(いうおく)」人里離れた一つ家(や)。
「白浪(はくらう)の揚(あが)るを恐れ、旅客は綠林(りよくりん)の陰を厭ひ」「白浪」は盗賊・泥棒のこと。「後漢書」の「霊帝紀」で、黄巾の乱の残党で略奪を働いた「白波賊(はくはぞく)」を訓読みしたものが元。「綠林」も盗賊の立て籠もる根城或いは盗賊を指す。前漢の末期、王莽(おうもう)が即位した後、王匡(おうきょう)・王鳳らが窮民を集めて湖北省の「緑林山(りょくりんざん)」に籠って盗賊となり、征討軍に反抗したという「漢書」の「王莽伝下」にある故事に基づく。孰れも固有名詞であるわけだが、ここでは筆者は「白浪」に実際の恐ろしい波濤に掛けて「揚」が「る」の「を恐れ」、「綠林の」落す不穏な「陰を厭(いと)」う、と言ったのである。
「驛路」宿駅と宿駅の間の正規の街道。
「責虐(せきぎやく)し」責めて虐待し。
「賦斂(ふれん)」租税を取り立てること。
「點役(てんやく)」,田地を対象として賦課された臨時税の総称。本来は朝廷の特別行事や寺社造営などの費用捻出のための便法であった。
「滋(しげ)くしければ」頻繁に行ったので。
「壞賣(こぼちう)り」壊して売り。家財だけでなく、建物も壊して、それを材木として売ったのである。
「沽却(こきやく)」売り払う。人身売買。女なら、女郎として売るといったもの。
「虛(きよ)し」噓に満ち溢れ。
「天道神明(たうしんめい)の見そなはし給ふ御眥(おんまなじり)の恥かしさよ」「天の神様がこの地上の悪の蔓延を見渡され、それを放置している私を見るであろう、その御(おん)目つきを思い申し上げるだけでも、恥ずかしくなるばかりだ!」。
「正直學道(しやうじきがくだう)の智士(ちじ)」正直で正しき人倫の道を学んだ知恵ある相応の人物。
「兩人づつ」二人一組にして。判断に迷った際の相互補助或いは相互監視の意味であろう。
「奸曲(かんきよく)を構へ」悪企(わるだく)みを考え。
「親しきに」親しい知人。
『「我、今かやうの役に依て隱れて諸國を囘るぞや。穴賢(あなかしこ)、この事、人に語るな」』この箇所には底本には鍵括弧はないが、特異的に附して読み易くした。「穴賢(あなかしこ)」の「穴」はこれによく使う当て字。「あなかしこ」で連語(「あな」は感動詞で、「かしこ」は形容詞「賢(かしこ)し」の語幹で、程度が甚だしいことを意味する)。下に禁止の語を伴って呼応の副詞のように用いて、「決して・くれぐれも・ゆめゆめ」の意となる。
「奉行」地方の役人。
「政所(まんどころ)」地方の役所。
「賄(まかなひ)」賄賂(わいろ)。
「囘國者の傳馬(てんま)を取りて通り」「の」は主格。その本来は身分を隠しているはずの回国の巡察使が、あろうことか、巡察使である特権によって、宿駅に備えておき、公用にのみ使用が許されていた公用馬に騎乗して、最優先で次の宿駅まで行く。こんなことをすれば、当然、必要な臨時の公務に支障が出、それをまたもとの宿駅に戻す手間も大抵ではない。だから、「路次(ろじ)の歎き」(街道・宿駅に絡んだ民草の苦労の種)となるわけである。
「賣僧(まいす)」僧形(そうぎょう)をした悪党。或いは行脚の悪僧。
「犯科非法(ぼんくわひはふ)の者」日常的に罪を犯し、不法なことをしている地方役人や豪農。
「無益の財」この場合は、仏法への布施とは真逆な、仏法には「無益」、何の益(やく)にもならぬ「德分(とくぶん)」、財貨の意。
「靑砥左衞門尉」既出既注。「卷之八 相摸の守時賴入道政務 付 靑砥左衞門廉直」及び「卷第九 時賴入道靑砥左衞門尉と政道閑談」を参照。
「威政(いせい)」政治の権威。
「諸奸(しよかん)」諸々の悪企み。
「荒(あら)けなく」静かに。
「門鐘(もんしよう)」幕府の入口にあるドア・ベル。
「出羽國羽黑山(はぐろさん)」現在の山形県鶴岡市にある標高四百十四メートルの山。出羽三山の主峰である月山の北西山麓に位置する丘陵で、独立峰ではない。修験道を中心とした山岳信仰の山として知られる。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「先達(せんだち)」先導する主訴者。
「大道」修験道の根本の真理。
「若は」「もしは」。万が一。
「搦捕りて」「からめとりて」。
「本山」現在の山形県鶴岡市羽黒町手向字手向にある羽黒山修験本宗の本山羽黒山荒沢寺(こうたくじ)。正善院が本坊で、本尊は大日如来・阿弥陀如来・観音菩薩。ウィキの「荒沢寺」によれば、『崇峻天皇の皇子蜂子皇子(能除太子)によって開かれたと伝えられ、出羽三山(湯殿山・月山・羽黒山)に対する山岳信仰・修験道の寺として古くから信仰されてきた。もとは真言宗を中心とする寺院であったが、江戸時代に入ると天台宗に属することとなった』。『明治初年の神仏分離に伴い』、『延暦寺の末寺となり、第二次世界大戦後』、『島津伝道が独立して羽黒山修験本宗の本山となった』。『羽黒派修験は、真言宗当山派、天台宗本山派の』二『派に収斂していった修験道』二『派のいずれにも属さず、古くからの修験道と、土着の月山の祖霊信仰が結びついた独自の修験である』。『その中で、荒沢寺の修験道は、地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天人、声聞、縁覚、菩薩、仏の、世界を形成している十界を体験する「十界行」を厳密に行うことが、出羽三山神社と比した特徴である。十界行とは、行者が死に、死の世界で、山内の各行場での修行を通じて十界の苦しみを体験し、現世へと転生する行である。出羽三山神社の行は仏式ではなく』、『神式であり、行を通じて死後の追体験を行うのは同じだが、その内容は古来からの修験と比べて簡略化されたものである』とある。
「先規(せんき)」先例。
「政道に私ありと申すべし、」読点はママ。句点の方が現代の文法上はよいが、話者の義憤が絶たれるよりは、この方がいいかも知れない。「本山に知らさせ給ふべし、」も同じ。
「何ぞ佛法量(ぶつぽふりやう)の式(しき)を亂(みだ)り給ふや」強い不満を含んだ反語的疑問。教育社の増淵勝一氏の現代語訳では『どうして仏法の領分の方式を乱されるのですか』とある。
「體(てい)」(悪しき)状況。
「萬(よろづ)の造作は貞時、賄(まかなひ)として、強く吟味ありければ」増淵氏の訳では『すべてのもてなしはわいろと判断して、貞時が強く吟味されたところ』とある。
「態(わざ)」裁定。指示。
「下(しも)として上(かみ)を掠(かす)め」増淵氏は『下の者なのに上の者をごまかし』と訳しておられる。
「天下亂根(らんこん)」天下の乱れる元凶。
「召上(めしのぼ)せて」急遽、召喚し。
「確(たしか)に罪科の證據、なし」その山伏が慥(たしか)に罪を犯したという証拠は遂に見出せなかった。]
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