進化論講話 丘淺次郎 第十三章 古生物學上の事實(2) 一 古生物學の不完全なこと
一 古生物學の不完全なこと
化石は古代の生物の遺體で、各地層の出來る頃に生活して居たものの化石が、その層の中に含まれてあるわけ故、若し昔住んで居た動植物が總べて化石となつて、そのまゝ完全に今日まで殘つて居たと想像すれば、生物進化の徑路は之によつて明に知れる筈であるが、實際には化石といふものは人の知る如く珍しいもので、一つ發見しても直に之を博物館に陳列する位故、之を今日まで長い間に地球上に生活して居た生物個體の數に比べれば、實に九牛の一毛にも及ばぬ程である。それ故、化石によつて生物進化の系圖を完全に知ることは、素より望まれぬことである。
先づ如何なる動物が如何なる場合に化石になつて後世まで殘り得るかと尋ぬるに、介殼とか骨骼とかの如き堅い部分のある動物でなければ、化石となることはむづかしい。尤も海月(くらげ)の完全な化石が一つ發見になつたことはあるが、之は極めて稀なこと故、例外とせねばならぬ。また善く保存せられるときには、微細な點まで殘るもので、魚類の化石の筋肉の處を少し缺き取り、砥石で磨つて極薄くし、顯微鏡で見ると、生の魚の筋肉に於ける通りに判然と筋肉纖維の橫紋までが見えた例もあるが、通常は腐敗し易い體部は殘らぬもので、貝類・海膽(うに)類ならば介殼ばかり、蝦・蟹の類ならば甲ばかり、魚類・鳥類・獸類等ならばたゞ骨骼ばかりが化石となつて殘るものである。どこの博物館に行つて見ても、化石といへば皆かやうな物だけに過ぎぬ。
[やぶちゃん注:「尤も海月(くらげ)の完全な化石が一つ發見になつたことはある」刺胞動物であるクラゲのゼラチン質の柔らかく透明な体の九十五%以上は水であるが、海岸に打ち上げられたクラゲ(この場合、それらを餌として啄む動物や分解して摂餌する小動物及び急速にそのように作用する細菌類がいないことも条件となる)がの表面が泥や砂で蔽われて、まず、押し型痕が採られ(前の条件がクリアー出来ないと、押し型痕が形成される以前にクラゲが消失してしまう)、例えば、それが出来上がった直後に、火山噴火等の急激な環境変動が発生し、極めて短い時間内でさらにそこに広汎な土砂が比較的静かに堆積した場合、クラゲの本体は既に乾燥して消失していても、そこに化石(印象化石)が生ずることになる。しかし、これはかなりレアな条件がたまたま揃った場合の極めて奇跡的な出来事であることには変わりはない。これは丘先生が次の段落で述べている。]
また如何に堅い部分のある動物でも、死んでから、風雨に曝(さら)されては總べて碎けてしまつて化石とはならぬ。介殼でも、骨骼でも、凡そ動物身體の中で堅牢な部分は、大抵石灰質のもので、風雨に遇へば漸々白堊[やぶちゃん注:「はくあ」。土質性石灰石の一種。貝殻や有孔虫などの化石を含むこともあり、灰白色で軟らかい。主成分は炭酸カルシウム。西ヨーロッパに分布し、ドーバー海峡の両側に露出する地層は最も知られる。チョーク(chalk)。]の如くに脆くなる故、細かい泥の中に埋もれでもせなければ、形を崩さずに化石になることは出來ぬ。而して細かい泥に埋もれることは、水の底に落ちなければ殆どないことであるから、大體からいへば、動物は水中に沈んだものでなければ化石とはならぬ。所が、動物の生活の有樣から考へて見ると、死體が水の底に沈んで、泥によつて全く埋められるといふ機會は決して澤山はない。特に陸上に住む鳥類などに就いて論ずれば、老て死んでも、弱つて死んでも、凡そ靜な天然の死方[やぶちゃん注:「しにかた」。]をしたものは、水の底に落つることがなかなかないから、皆碎けてしまつて化石とはならぬ。尤も火山の灰に埋もれたり、沙漠の塵埃に被はれたりして、化石となつたものがないではないが、之は極めて稀な場合故、陸上の動物は洪水でもあつて溺死した處へ、速に泥が被さるやうなことでもなければ、先づ化石となつて後世まで殘る機會はないといふて宜しからう。それ故、實際生存して居た動物個體の何萬分の一か何億分の一かだけより化石とはならぬ筈であるが、その化石を我々が見出す機會がまた甚だ稀である。
[東京附近から出た象の齒と牙]
[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像を補正した。右の牙はやや縁の部分の角張った感じが不審ではあるが、ナウマンゾウ(後注参照)の牙であろうか。グーグル画像検索「ナウマンゾウの牙」に出る幾つかの画像と類似はする。]
近頃は西洋諸國は素より我が國にも、政府で立てた地質調査所などがあり、化石の採集に靈力する人もなかなか多くなつて、古生物學は著しく進步したが、地球の表面全體に比べていへば、今までに化石を掘り出した處は、實に僅少で、たゞヨーロッパに若干とアメリカ・アジヤに數箇所とあるだけで、一般にはまだ全く手が著けてない。殆ど廣い座敷を二三箇所、針の先で突いた位により當らぬ。その上、化石は皆不透明な岩石の中に隱れて居るから、網や鐵砲を持つて昆蟲・鳥類などを追ひ廻すのとは違ひ、狙ふ目的がないから、偶然に發見するのを樂[やぶちゃん注:「たのしみ」。]に、たゞ無暗に岩を割つて見るより外に仕方がない。たとひ表面から僅に一分(ぶ)[やぶちゃん注:三・〇三ミリメートル。]だけ内に隱れて居ても、外から少しも解らぬから、容易に發見は出來ぬ。化石となつて殘る者が既に少い上に、之を調べた場處がまだ極めて少く、然も發見するのは總べて偶然であるから、今日知れてあるだけの化石の種類は、實際過去に生存して居た生物の種類の數とは、殆ど比較にもならぬ程少いのは無論のことである。尤も今日西洋の博物館で化石の多く保存してある處に行つて見ると、その種類の多いことは實に驚くべき程で、皆集めて調べると、獸類などは化石として知れて居る種類の數は、殆ど現在生きて居る種類と同じ程もあり、貝類の如きは化石の種類の方が遙に多いから、この有樣を見ると、過去の動物は最早十分に知れ靈してあるかの如くに感ずるが、過去の時の長さを考へ、各時代に皆動物の種類の異なることを思ひ、且以上述べた如き事情を考に入れると、これらは眞に過去の動物界の極めて僅少な一部分に過ぎぬことが解る。我が國などでも、東京や橫須賀邊から大きな象の骨が掘り出されたり、美濃の國からは何とも知れぬ奇態な獸の頭骨が發見せられたことなどもあるから、過去には種々樣々の動物が棲んで居たに違ひない。然るに獸類の化石の掘り出されたことは極めて稀で、然も皆破片ばかりに過ぎず、鳥類に至つてはまだ一つも化石の發見せられたことを聞かぬ。これらから推しても、古生物學の材料の不完全なのを察することが出來る。
[やぶちゃん注:「東京や橫須賀邊から大きな象の骨が掘り出された」後者は現在の米海軍横須賀基地である横須賀製鉄所の敷地内から慶応三(一八六七)年に二ヶ所からナウマンゾウ(哺乳綱獣亜綱真獣下綱アフリカ獣上目長鼻目ゾウ科パレオロクソドン属† Palaeoloxodon ナウマンゾウ † Palaeoloxodon naumanni)の下顎の化石が発見されている。横須賀市自然・人文博物館のこちらの上から二番目の歯化石(但し、これは広島県(瀬戸内海)産)は挿絵の右のそれとよく一致する。上記の出土データは同じ博物館のこちらに記載がある。ウィキの「ナウマンゾウ」によれば、『最初の標本は明治時代初期に横須賀で発見され、ドイツのお雇い外国人』の地質学者『ハインリッヒ・エドムント・ナウマン』(Heinrich Edmund Naumann 一八五四年~一九二七年:明治八(一八七五)年から明治一八(一八八五)年まで日本に滞在した。東京大学地質学教室初代教授)『によって研究、報告された』とあるが、同一のものと考えてよかろう(既に発掘されていた化石を比定したという意味でとっておく)。前者は未詳。公的に知られ、比定同定されたものは本書の刊行(大正一四(一九二五)年九月)より後のものしか調べ得なかった。同ウィキのナウマンゾウの学名の変遷の箇所には Elephas namadicus naumannni(槇山次郎による一九二四年の論文記載)及びLoxodonta
(Palaeoloxodon) namadicus naumannni(松本彦七郎による同じ一九二四年の論文記載)が載るが、これが東京での出土であるかどうかは調べ得なかった。
「美濃の國からは何とも知れぬ奇態な獸の頭骨が發見せられた」これは明治三一(一八九八)年に現在の岐阜県瑞浪市内で発見され、後に獣亜綱真獣下綱アフリカ獣上目束柱目 † Desmostylia デスモスチルス科 † Desmostylidae デスモスチルス † Desmostylus 属に比定されたデスモスチルス類(中新世中期から後期にかけて棲息した半海棲哺乳類)の頭骨のことであろう。これは日本で初めて絶滅哺乳類の新種として記載された標本で、ウィキの「デスモスチルス」に当該頭骨の画像がある。]
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