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« 老媼茶話拾遺 由井正雪、丸橋忠彌が謀叛 | トップページ | 老媼茶話拾遺 切支丹 »

2018/02/04

老媼茶話拾遺 丸橋忠彌

 

     丸橋忠彌

 

 慶安四年辛卯(かのとう)七月廿三日夜、子の刻、今度の謀叛の頭人(とうにん)丸橋忠彌、召しとらるも、今宵、忠彌方へ徒黨の者、しのび來り、密事を談じける間、忠彌、酒を出しもてなしけるが、愛酒(あいしゆ)なりければ、忠彌、覺へず吞醉(のみゑひ)て、徒黨の者ども、歸りける跡にて、女房にかたりけるは、

「なんじ旬日ならずして貴人の夫人となり、翠帳紅閏(すいちやうかうけい)の内にして糸竹管弦に日を送らん。其折に、昔の賤しきになれて、水をつみ、薪をひさぎ、米をかしぎ、物がたり忘れても語り出し、かならず、數多(あまた)の官女に笑わるゝ事、なかれ。」

と心よげにたわむれて、傍(かたはら)なる枕、引(ひき)よせ、いびきをかひて臥したりしが、目を覺(さま)し起上(おきあが)り、妻に申樣、

「我、今、不思義の夢を見たり。我身、ほね、うごき、かわ、ぬけて、赤肉(あかにく)ばかりに成(なり)、供人、大勢、召連(めしつれ)、馬にのり、品川の海邊へ至り、しばらく納涼すと見たり。是は近きうち、日本國の大將軍と成(なる)べき天の告(つげ)なるべし。目出たし、目出たし。」

と、いふて、いつものふしどへ入(いり)、休(やすみ)けり。

 女房は、かねて、忠彌、目を覺(さま)し、喉を乾かし、茶をのむ事を知りければ、茶釜へ水をうつし、柴、折(をり)、くべて、にへたちけるに、釜のうちにて人の泣(なく)聲、有(あり)ければ、おどろき、かまの蓋をとり、内をみれば聞へける音とては、なし。

 忠彌母、老衰して蚊をいとひ、暮より早く紙帳(しちやう)をつりて、臥(ふし)ける。

 釣手、一同に切れ落(おち)て、紙帳、忠彌が母が伏したるうへに落かゝるに、その重き事、人のうへより押掛(おしかく)るがごとし。

 立(たた)んとすれども、起(おき)られず。聲をたつて、忠彌が女房をよびける。

 女房、いそぎ來(きたつ)て、紙帳を釣上(つりあげ)しに、釣手、切落(きれおつ)る事、三度也。

 扨、又、石谷將監(いしがやしやうげん)殿、忠彌が討手に向ひ給ひ、今日が究竟(くつきやう)の捕手(とりて)の同心五十人、其外、二百人の足輕を召連れて、忠彌が家【御茶の水といふ所也】二重三重に追取(おつとり)まき、てん手(で)に竹をわり、

「火事よ火事よ。」

と訇(ののし)りけるに、忠彌、寢耳に竹の割るゝを聞付(ききつけ)、起き直り、刀もとらず、東の障子をひらき、四方を見𢌞し、内へ入らんとする處を、一番のとり手駒込彌右衞門、走りかゝり、

「無手(むず)。」

と組(くむ)。

 忠彌、

「はつ。」

とおもひしが、彌右衞門が元首を取り、二、三間、突(つき)のくる。

 二番に、米村平六、透(すか)さず飛んでかゝりけるを、忠彌、こぶしを握り、橫山、忠彌が下手(したて)をくゞり、細腰を抱あげ、なげたをさん、とする。

 忠彌、元より、強力(がうりき)にて、橫山を押居(おしす)へんと力足(ちからあし)をふみけるが、すのこ緣(えん)、げた、ふみはなし、兩人、組(くみ)ながら、雨落(あまおち)へころびける。殘(のこり)の者ども、いやがうへに、なり重(かさな)り、忠彌を、手どり足どりして、高手小手(たかてこて)にいましめ、先(まづ)、かたわらへ引(ひき)すへける。

 此(この)橫山は、後、會津へ召(めし)かゝへられける、とか。

 忠彌が母、此騷動を聞(きき)、起上り、枕元の小長刀(こなぎなた)、追取(おつと)り、戸の口にたちふさがり、込入(いりこむ)足輕に立(たち)むかひ、とやかく問答する内に、忠彌が女房、紙帳を引(ひき)さき、連判帳をおしつゝみ、有明の灯(ともしび)をもつて、燒捨(やきすて)ける。

 忠彌が母、連判帳をやきけるを見て、長刀を投捨(なげすて)、我(われ)と、うしろへ手を𢌞し、しばられける。

 女房、色をも變せずして生捕(いけど)られける。

 忠彌下人、八藏といふ者あり。起合(おきあは)せ、隨分はたらきけるが、大勢にとりこめられ、終(つひ)に、からめられける。

 此(この)八藏は一國一城の大將分(たいしやうぶん)のものなりしが、正雪のはからひにて、所所(しよしよ)、密書の使(つかひ)をさせん爲(ため)、態(わざ)と、忠彌、下人になし置(おき)ける。

 忠彌をはじめ、四人の者ども、急ぎ、獄屋へ込置(こめおき)ける。

 忠彌が家内より出(いで)たるもの、鐵砲五挺、鑓三本、大きなる房付(ふさつき)團傘三本・但(ただし)揚(あげ)なし、五十枚程とぢたる白紙帳(はくしちゃう)一册、あり。

 其外は家さがしすれども、あやしきもの、みへず。

 かくて忠彌をは、松平伊豆守殿、獄屋へ、雜(ざふ)しきどもに申付(まうしつけ)られ、きびしく拷問にかけられけれども、終に一言の白狀に及ばず、伊豆守殿、下知として靑竹を割(わり)、皮をゆひし、是を籠に組(くみ)、忠彌をおし込(こみ)、左右に大の柱を立(たて)、上拔(ぬき)、くさりをもつて中につり上(あげ)、その下へ炭火を山の如くにおこし、雜人原(ざふにんばら)、四方より、大うちはにてあふぎたつる。折節、七月下旬、殘暑は天にこがるゝがごとくにて、只さへ、あつさ、たへがたきに、ほのう、うづまき上(のぼり)り、忠彌が形もみへず。忠彌、身よりしたゝる油、ほのうに和して、

『あび大焦熱のくるしみにもかくやあらん。』

と、みるもの、魂をうしなふといへども、忠彌は曾て物ともせず、黑煙(こくえん)内に折節、高高と念佛の聲、聞ふる斗(ばかり)也。

 信綱、役人に命じ、火をしめさせ、籠を下(おろ)し、水をたまふ。

 忠彌は、唯、眞黑になりて目斗(ばかり)働(はたらき)けるに、伊豆守殿、忠彌に向ひ、

「忠彌、さこそ、くるしかるべき。なんじ、逆徒のものども、殘らず白狀して、速(すみやか)に死を急ぐべし。然らずんば、たとへ年月ふるといふとも、彌(いよいよ)きびしく拷門にかくるべし。」

と、の給ふ。

 忠彌は、もくねんとして目をとぢ居たりけるが、此言葉を聞て、水を好みければ、伊豆守殿、手づから、錫(すず)の天目(てんもく)へ水をくみ、差出(さしだ)し給ふ。

 忠彌、つゝしんでおし戴き、水をのみ、天目をかたはらに置(おき)、畏(かしこまつ)て申けるは、

「我等如きの賤敷(いやしき)もの、此度(このたび)、謀叛の頭人に罷成(まかりなり)候はずは、いかで、當時天下の執權たる豆州(づしう)どの、御手づから、御給仕を得てみづを下さるべきや。此段、恐入(おそれいり)奉り候へば、曾(かつ)は冥土黃泉(めいどかうせん)の思ひ出に爲(な)し奉り候。又、逆徒のもの、御尋被成(なられ)候へども、此義は骨を碎(くだか)髓(ずい)を拔(ぬか)候とも、得(え)こそ申間敷(まうすまじく)候。ましてや、加樣(かやう)の責(せめ)ものゝ、數とも存(ぞんじ)候はず。天下の、あるとあらゆるせめを得て、其後(そののち)、牛裂(うしさき)に逢(あひ)候事、兼て存極(ぞんじきは)め罷在(まかりあり)候。謀叛存立(ぞんじたつる)五ヶ年の内、かたろふ所の者、四、五千人也。誰(たれ)か名を申上(まうしあぐ)べき。一僕(いちぼく)も遣わす罷在ながら、かゝる大望を存立(ぞんじたつ)る君子は刑人(けいじん)に近付不申(ちかづきまうさず)候。此已後、御尋候とも一言(いちごん)御答申上まじく候。流石、豆州公とも存奉らず、士に、ものゝ問(とひ)給(たまふ)こそあれ、御存被成(ごぞんじなされ)ざる。」

とて、其後、物言(いは)ず、あるとあらゆる拷問に懸られけれども、終に徒黨を顯さず。伊豆守殿、詮方なく、責(せめ)をさし置(おき)給ひける。

 忠彌、八月九日の朝、起(おき)て、役人に向ひ聞けるは、

「我が輩、近日、罪せらるべし。其沙汰、なきや。」

と云。

 役人、答(こたへ)て、

「何故に、かく尋(たづぬ)るや。」

と、いふ。

 忠彌、答て、

「我等、昨夜、夢に正雪來りて誘引(さそひ)、しらぬ山路を越(こゆ)る、と見たり。此故に、かくいふ也。」

と云果(いひはて)て、よく日、十日に鈴ケ森にて、此度の逆徒の者共、死刑に行れける。

 眞先に平味次郎右衞門・柴原彌五兵衞・同久兵衞・加藤市右衞門・岡野治右衞門・櫻井彦兵衞・同父三太夫・伊右衞門・淸兵衞・丸橋忠彌、以上、拾五人、跡より、柴原彌五兵衞母・龜之助【市右衞門子十五才也】・同辰之助・櫻井が母・忠彌母・同女房・淸兵衞母、其外、四人、名知れず、以上、十一人也。〆(しめ)て二十六人、磔(はりつけ)也。

 其外、七人、輕罪(けいざい)、徒黨の内、四十餘人、淺草にて刑罪(けいざい)也。

 磔に上(あげ)られ、忠彌が女房、母に向ひ問ひけるは、

「大坂落城の折、天守に火懸りて、淀殿御母子、御生害(ごしやうがい)の節も、我我、今、磔に懸られ、鳶烏(とびからす)の餌食(ゑじき)と成(なる)も、前世の宿業にて候半(さふらはん)。」

といふ。

 母、聞て、嘲(あざけ)りわらひ、

「本(もと)の儘なると、ならざると、天命也。忠彌、孤獨の牢人ものにて、天下に望みをかけ、今、斯成(かくなる)は人間の本望也。並並のもの、及ぶ所にあらず。大坂の名城へ龍り、天下の勢(ぜい)を引受(ひきうけ)、自害被成(なされ)しも、我我、此(この)磔柱(はりつけばしら)も、一事也。運命盡(つく)る期(ご)は是非に不及(およばず)。無益の事云(いは)ずとも、念佛、申(まうす)べし。」

と答へける間(あひだ)、詞(ことば)を留(とめ)、念佛申けると也。

 其頃の狂歌也。

  とろ龜と土龍は土にかくれても加藤はしんてふらふらとなる

  丸橋か蹈返へされて母親も妻もろともにしつみはてける

 會津の西に牛澤(うしざは)といふ在郷、有り。此(この)時に、大德寺といふ寺あり。延寶の頃、此寺の住職の僧、元江戸の人也。幼きころ、忠彌、刑罪せらるゝを、鈴ヶ森に行(ゆき)て見たるよし、坂下村安兵衞といふ者に語(かたり)給ひしと也。

「忠彌は眼(まな)ざし、さかつり、四角づらにて、なでつけ天窓(あたま)にて、能(よ)き男也。黑羽二重(くろはぶたへ)に丸の内にだき蝶のもん所付(つけ)し新敷(あたらしき)袷(あはせ)、着たり。唯、壱鎗(ひとやり)にて、息、たへける。」

と也。

「忠彌母と女房、問答も我は近寄(ちかより)見しに、見物、大勢にてのゝめく故、分けは聞(きこ)へざりしが、口はきゝける樣子也。足洗村、半右衞門といふ者は、血にまよひけるか、高聲に色色の口をきゝ、壱鎗每(ごと)に、念佛、申ける。」

と語られける也。

 此度(このたび)、正雪・忠彌を訴人しける奧村八郎右衞門、或とき、近くへ出(いで)て暮に歸りける折、正雪・忠彌が俤(おもかげ)、目のまへにありける樣にて、頻(しきり)に寒けだち、恐ろしかりければ、急ぎ、我宿へ歸(かへり)、伏したりしに、其夜の夢に忠彌妻女、短刀をもち來り、八郎右衞門が咽(のど)ぶへを突通(つきとほ)すと思ひしが、夢、覺(さめ)けり。是より、熱痛起り、頻に、

「忠彌、來(きたり)、我が胸を押(おさ)へ、妻女、短刀にて、わがのんどを突(つく)。」

と訇(ののし)りさけびけるが、一七日(ひとなぬか)過(すぎ)て、死しけり、といへり。此事、「望遠錄(まうゑんろく)」にもあり。

 

[やぶちゃん注:【 】は二行割注。先の「由井正雪」とも重複する箇所もあるが、カメラ・ワークが異なり、より丸橋忠弥とその女房と忠弥の母をクロース・アップして、全く、飽きさせない。

「慶安四年辛卯(かのとう)七月廿三日夜、子の刻」グレゴリオ暦一六五一年九月七日であるが、この「子の刻」は午前零時頃で、ここは後で「今宵」とも言い、前に「廿三日夜」として、しかも、「密事を談じ」、酒好き(「愛酒」)の忠弥が思わず呑み過ぎて酔っぱらって「徒黨の者ども」が「歸りける跡にて」であるのだから、ここは実は日付の変わった七月二十四日(一六五一年九月八)日の午前零時過ぎのシークエンスとなって、先の「由井正雪」で、駿河の梅屋の正雪が、その翌日の七月二十五日の曙の江戸の空の変異を見て占い、忠弥の捕縛を知った、とするのと齟齬はないドラマなら、タイトに詰めて後者を二十四日朝にするところだろうが、駿府城ジャック・テロ担当の正雪らが江戸を発ったのは七月二十二日で、紀州藩士を騙っての旅、その間に箱根の関所越えも間に挟んでいるから、二十四日に駿府着は逆に無理で不自然である。

「頭人(とうにん)丸橋忠彌」彼は、江戸城内への侵入によって起す騒擾、及び、二箇所の幕府火薬庫の爆破と、大名火消に変装して要人を無差別に狙撃して暗殺する江戸広域テロを担当した首魁である。

「翠帳紅閏(すいちやうかうけい)」夫唱婦随の翡翠を縫い取りした帳(とばり)を垂れ、鮮やかな紅色に彩り飾った貴婦人の閨(ねや)。

「内」底本本文は「ゆか」。編者の訂正の添え漢字を採用した。

「水をつみ」水を井戸から手ずから汲み揚げて持ってきてしまい。

「米をかしぎ」飯てづから炊いてしまい。

「物がたり忘れても語り出し」意味不明。底本は『物かたり忘れても語り出し』。或いは「物語(かた)り」乍ら、語ったことを「忘れて」、又「も語り出し」か。忠弥の妻が話し好きなのだが、忘れっぽい性質(たち)でもあって、同じことをたびたび彼に話したとすれば、この解釈はすこぶる腑に落ちるのである。

「たわむれて」ママ。

「いびきをかひて」ママ。「鼾をかき(い)て」。

「我身、ほねうごき、かわ、ぬけて、赤肉(あかにく)ばかりに成(なり)、供人、大勢、召連(めしつれ)、馬にのり、品川の海邊へ至り、しばらく納涼すと見たり」これは逆に恐るべき不吉な大凶の予知夢であったわけだ。彼が処刑される鈴ヶ森刑場は現在の東京都品川区南大井(ここ(グーグル・マップ・データ))にあり、それは「品川の海邊」である。「ほね、うごき、かわ」(ママ)「ぬけて」は、「骨」がぐらぐらと「動」くほどに激しい殴打で骨折をすること、「皮」膚がべろりと「脱けて」しまうような火傷を負わされること、真っ「赤」な「肉」の塊りのようになるというのは、それらに加えて以下に見るようなありとある残酷な拷問を受けた結果の、彼の惨たらしい全身の赤剝けた肉の塊りをこそ暗示させる。さすればこそ「大勢」の「供人」とは、後に出てくる、彼に、ありとある責めを加える多くの「雜(ざふ)しき」「雜人(ざふにん)」(下役人)に他ならない。そうして、そこで暫く「納涼す」るのは、彼が阿鼻叫喚地獄・焦熱地獄もかくやと人の見た、秋とは暦の上だけのこと、残暑厳しき折りから受けることとなる、残酷な炭火燻(いぶ)しの火刑の逆説的シンボルであったのである。

「ふしど」「臥所」。

「にへたちける」ママ。「煮え立ちける」。

「釜のうちにて人の泣(なく)聲、有(あり)ければ、おどろき、かまの蓋をとり、内をみれば聞へける音とては、なし」湯の沸いた音の聞き違えともとれるが、寧ろ、作者はこの直後に訪れるカタストロフを予兆させる怪異として確信犯でセットしているものと感ずる。

「紙帳(しちやう)」紙を貼り合わせて作った蚊帳(かや)。冬季でも防寒具として用いた。「釣手、一同に切れ落(おち)て、紙帳、忠彌が母が伏したるうへに落かゝるに、その重き事、人のうへより押掛(おしかく)るがごとし」「女房、いそぎ來(きたつ)て、紙帳を釣上(つりあげ)しに、釣手、切落(きれおつ)る事、三度也」これも同じく凶事(まがごと)の前の怪異として配してある。筆者の怪談に慣れた手並みが非常に効果的に生きていると言える。

「石谷將監(いしがやしやうげん)」既出既注

「究竟(くつきやう)」「くきやう(くきょう)」と読んでもよい。元は仏語で「物事の最後に行きつくところ・無上・終極」であるが、ここは選りすぐりの極めて屈強(くっきょうな「捕手(とりて)の同心五十人」ということで、私はそれも掛けてあるように読んだ。

「駒込彌右衞門」先の「由井正雪」では「間込彌右衞門」。しかし、こういう相違を、当時は作者も読者も殆んど五月蠅く言わなかったのだろうなあ、と、江戸時代の怪奇談や随筆を読んでいると、しみじみに思う今日この頃である。

「二、三間」三メートル半強から五メートル半弱。

「米村平六」不詳。

「なげたをさん」ママ。「投げ倒(たふ)さん」。

「橫山」突然、出てくる姓。しかも、底本でも独立改行一行で彼のことだけ、「此橫山は後會津へ召かゝへられけるとか」と出るのが、却って異様。しかも調べたって、別に偉くなった有名人でもないようで不詳である。

「八藏」不詳。

「團傘」「揚(あげ)なし」全く意味不詳。識者の御教授を乞う。

五十枚程とぢたる白紙帳(はくしちゃう)一册、あり。

「松平伊豆守」松平伊豆守信綱。既出既注

「皮をゆひし」底本は『ゆへし』。編者の添え訂正字で直したが、これでも何となく、おかしい。割った青竹を組み、それを「革を」以って「結」ったという意でとっておく。

「大うちはにてあふぎたつる」「大團扇にて煽ぐ立つる」。

「天にこがるゝがごとくにて」中天に太陽が焦げるかのようにギラギラと輝いているようで。

「ほのう」底本では『ほなう』。編者の補正字で直したが、それでもおかしい。「炎(ほのほ)」である。

「みるもの、魂をうしなふといへども」ここはなかなか痛烈な部分である。これを見ているのは、拷問している奉行・同心と奉行所の下役人らのみだからである。自分たちのやっている拷問の酷さに失神しそうだというのである。さればこそ、テロリストであるけれども、この後の丸橋忠弥の毅然たる態度に、読者は(少なくとも私は)強く惹かれるのである。

「しめさせ」「閉めさせ」「〆させ」「濕させ」か。

「もくねん」「默念」「默然」。凝ッと黙って何か考えている風。

「天目(てんもく)」ここは単に茶碗の意。

「得(え)こそ」「得」は当て字であろう。禁止の呼応の副詞「え」(~打消)であろう。

「誰(たれ)か名を申上(まうしあぐ)べき」反語。

「一僕(いちぼく)も遣わす罷在ながら、かゝる大望を存立(ぞんじたつ)る君子は刑人(けいじん)に近付不申(ちかづきまうさず)候。此已後、御尋候とも一言(いちごん)御答申上まじく候。流石、豆州公とも存奉らず、士に、ものゝ問(とひ)給(たまふ)こそあれ、御存被成(ごぞんじなられ)ざる」意味がよく判らぬ。「ものゝ問給こそあれ、」は底本では「ものゝ問給こそあれ。」であるが、私は「こそ」(已然形、……)の逆説用法ととった。一つ、無理矢理、訳してみるなら、

――貴方が知りたがっておられる、我等の首領は、下僕の一人をも、拙者のところに遣わすことはごく稀にには御座ったものの、このような変革の大望を心にしっかりとお持ちの君子たる人物は、凡そ、拙者のような、もともとのかくなる前科者(或いはこうして捕えられて拷問を受けている今の罪人としての自分)には、そもそも気軽に近寄ってきて、頻繁に接触するようなことは致さぬものにて御座る。これ以後は、あなたさまが如何にお訊ねになられたとしても、一言もお答え申し上ぐることは致さぬことと致しましょう。それにしても、流石に、松平伊豆守様とは存じ上げませず、私のような男に、かくも直(じか)に親しくものをお訊ねになられましたけれども、あなたさまは、どのような「男」であるか御存じには遂になれませぬ……

或意は最後は、「その頭目について、あなたは遂にお知りになることは出来ませぬ」という意味かも知れぬなどと、妄想訳した。全く自信はない。大方の御叱正と、正しい訳の御教授を切に乞うものである。

「眞先に」「由井正雪」では忠弥が引き回しの際の先頭だったが、ここは実際の鈴ヶ森での処刑の順序を言っているのであろうか。一応、そうとっておく。

「平味次郎右衞門」不詳。

「柴原彌五兵衞・同久兵衞」ともに不詳。

「加藤市右衞門」丸橋忠弥の妻の従兄という(山下昌也氏の「実録 江戸の悪党」(二〇一〇年学研刊)に拠る)。後の「龜之助【市右衞門子十五才也】・同辰之助」の二人はその叙述から彼の子となる。

「岡野治右衞門」不詳。

「櫻井彦兵衞・同父三太夫」ともに不詳。

「伊右衞門」現在の静岡県安倍郡千代田村大字下足洗の豪農足洗半左衛門の婿か。個人サイト「街角 歴史散歩」の悲運の豪農・足洗半左衛門~由比正雪事件~」に拠る。それによれば『幕府の老中指令は厳しく、「半左衛門、婿の伊右衛門とそれぞれの女房は磔、男子は斬罪、女房の腹にいて男子が生まれれば斬罪、娘なら卑しい身分に落とせ」という過酷なもの』だったとある(「慶安大平記」によるものとある)。ここには出ないが、本章の最後で「足洗村、半右衞門」が出、丸橋と一緒に処刑されていることが判る

「淸兵衞」不詳。

「丸橋忠彌、以上、拾五人」前に書かれた人名は十人分しかいないですけど(五人の内の一人は後に出る先に示した足洗村の半右衞門だ)。

「淺草にて刑罪(けいざい)也」明確に断言は出来ないが、小塚原刑場のことではないかと思う(何故、留保するかというと、同刑場の解説はまさにこの慶安四(一六五一)年のことだからである)。千住大橋南側の旧小塚原町(こづかはらまち)にあり、現在の東京都荒川区南千住二丁目に相当する。(グーグル・マップ・データ)。地図を見て戴ければ判る通り、今でこそ地名は千住であるが、浅草寺の裏(北)一・五キロメートしか離れていない。

「本(もと)の儘なると、ならざると、天命也」底本は『殊のなるとならさると本命也』。編者の補訂添え漢字で訂した。なお、「由井正雪」では人物として妻の影に隠れていた、この忠弥の母、ここでは俄然、強烈なキャラクターとしてクロース・アップされ、妻が後退している(捕縛された際も、長刀を持って捕り手の前に立ちはだかったりして、このお母さん、強い!)。

「とろ龜と土龍は土にかくれても加藤はしんてふらふらとなる」整序する。

 

 泥龜(どろがめ)と土龍(もぐら)は土に隱(かく)れても加藤は死んでふらふらとなる

 

「絵本慶安太平記」を読むと、彼は京都で捕縛されているが、剛勇の彼は不覚にも睾丸を摑まれて『眼眩みて跼々(よろめく)』ところを搦め捕られている。下の句はそれを指していよう。それ以外にも、「龜」や「土龍」に何か隠れた意味があるようだが、判らぬ。ふと思ったのは、徳川南「龍」公頼宣(南海の伏龍)が関与したが、辛くも追及を免れたのを土竜(もぐら)に掛けているとかどうだろう? しかしだとすると、「龜」も黒幕の誰かでないとおかしいことになる。判らん。

「丸橋か蹈返へされて母親も妻もろともにしつみはてける」整序する。

 

 丸橋が蹈み返へされて母親も妻もろともに沈み果てける

 

「丸橋」を、まんま、橋に掛けただけの、つまらぬもの。橋板が踏み返された結果、橋に穴が開き、母も妻もそこから諸共に奈落の水底(みなそこ)へと沈み果ててしまったというだけのことだろう。これは裏はなさそうだ。

「牛澤」後に「坂下村」が出るから、現在の会津若松の西方の福島県河沼郡会津坂下町牛川に曹洞宗大徳寺であろう。位置はを参照されたい。

「延寶」一六七三年から一六八一年まで。

「さかつり」逆吊り。目尻が吊り上っていることであろう。

「なでつけ天窓(あたま)」総髪(そうはつ)のことか。月代(さかやき)を剃らずに、前髪を後ろに撫でつけて、髪を後ろで引き結ぶか、髷を作ったもの。江戸前期では神官・学者・医師などの髪型として知られる。

「丸の内にだき蝶のもん所」「だき蝶」は「抱き蝶」○に「向かい蝶」辺りの紋か。を参照されたい。

「奧村八郎右衞門」既出既注。こいつは死なないと確かに気分が悪い。

「熱痛起り」「痛」は衍字かも知れぬ。しかし、あっても問題はない。

「望遠錄(まうゑんろく)」全く不詳。識者の御教授を乞う。]

 

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