芥川龍之介 手帳補遺 / 芥川龍之介 手帳~全電子化注完遂!
手帳補遺
[やぶちゃん注:以下は、岩波旧全集に上記名称で載るもので、岩波新全集では第二十三巻の『ノート』パート(同巻には既に電子化注した手帳「1」から「12」が載るが、それは『ノート』パートの後に『手帳』パートとして別に項立てされている)に仮題『細木香以ノート』として「手帳」扱いせずに載るものである。新全集がこれを『手帳』ではなく『ノート』扱いにした理由は、この原本が所謂、手帳タイプのものに記されたものでないからで、新全集『後記』によれば、便箋三枚に黒インクで書かれたものだからで、この扱いは、手帳でないという事実からして至当ではある。
以上の理由から、これを私の芥川龍之介の手帳電子化注の最後に入れるに際しては、やや戸惑った。
しかし、私は今まで、芥川龍之介の電子化については概ね、正字正仮名の旧全集を唯一の正統な拠り所として来た経緯があり、これを新字正仮名という如何にも中途半端な気味の悪い(私は芥川龍之介が見たら、「これが私の全集?」と首を傾げると受け合う)新全集の、その区分けに従って外すということ自体が、旧知の盟友を裏切るのと同じ気がして如何にも増して気持ちが悪いのである。
そうして何より、最早、正しき正字体の以下の旧全集「手帳補遺」は、旧全集でしか読めなくなってしまっているのである。新字体正仮名という、途轍もなく気持ちの悪い新全集仮題『細木香以ノート』というヘンなものを我々は読むしかないということに、私は絶望的な思いがするからである。
しかも、実は新全集は写真版原資料(山梨県立文学館編「芥川龍之介資料集・図版1・2」(一九九三年同文学館刊)を底本として(私は非常に不思議に思うのだが、新全集では新たに起された多くの新資料がこの本の写真版を元にしているというのは何故だろうと感じる。原物は同文学館が所蔵しているはずなのに、何故、次代の大衆に残すべき全集の校訂のために原資料に当たっていないのか? という素朴な疑問である。万一、同文学館が保存主義で閲覧を拒否しているからとすれば、これは文学館としてあるまじき仕儀だと思う。劣化や損壊を恐れて死蔵保管を目的として誰も見ることが出来ない資料など、あってもないのと同じだからである)いるが、その写真版にはない部分が旧全集には現に存在しているからである。新全集は無論、そこの部分は旧全集に拠って新字正仮名で記号を挿入して活字化している。最後の「*」以降の部分がそれであるが、それらを読んで戴くと判るが、これは明らかに――細木香以関連の記載ではない――。また、この「*」は芥川龍之介が打ったものとは思われず、旧全集編者が「手帳一」から「手帳十一」(旧全集には「手帳12」は存在しない。詳しくは「手帳12」冒頭の私の注を参照)を作成した後に、それらから脱落してしまってどの手帳にあったものか分らない、或いは、紙質から見て全くのバラの手帳断片(一連のものとは読めるように思える)が見つかり、それを編者が「*」を附して「手帳補遺」の最後に付け足したと考えるべきものである。さればこそ、この「*」以下は、寧ろ、新全集の仮題『細木香以ノート』なんぞに附すべきものではなくて、真正の「手帳補遺」として新全集の「手帳12」の後にこそ、旧全集からとして、附すべきものだったのではないかと私は深く感ずるのである。
以上の三つ、「*」以下が細木香以との無関係性の一件を独立させるならば四つ、の思いから、2014年3月7日から開始した、芥川龍之介の手帳類のオリジナル電子化注の掉尾を、敢えて、この資料を以って飾りたいと考えるものである。
以下、芥川龍之介とこの大半のメモの対象者である細木香以の関係について述べる。
芥川龍之介の養母儔(とも:しばしばカタカナ表記の「トモ」を見かけるが、それは芥川家の女性の名の表記に合わせた誤りである)の母須賀は細木(さいき)藤次郎の娘であるが、その弟藤次郎(父の名の二代目を継いだ。本名は鱗(りん))は森鷗外の史伝で知られる、幕末の江戸の大通として「山城河岸(やましろがし)の津藤(つとう)」「今紀文(いまきぶん)」の呼び名で知られた、細木香以(さいきこうい 文政五(一八二二)年~明治三(一八七〇)年)であった。彼は通称、摂津国屋藤次郎(二代目)、一鱗堂と号し、俳号を仙塢(せんう)、狂名を桃江園(とうこうえん)、鶴の門雛亀(つるのとひなかめ)などと称した。新橋山城河岸の酒屋摂津国屋藤次郎龍池(りゆうち)の子。儒学を北静廬に、書を松本董斎に、俳諧を鳳朗・逸淵に学び、俳諧師の善哉庵永機・冬映、役者の九代目市川団十郎、狂言作者の河竹黙阿弥、合巻作者の柳亭種員のほか、書家・画工・関取などと広く交わった。その末、家産を失って晩年は千葉の寒川に逼塞し、四十九歳で没した(以上は主に「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。則ち、芥川龍之介の養母儔は香以の娘須賀と伊三郎(本文に出る)の子であるから、香以の姪であり、龍之介から見ると、系譜上は香以は(養母方の)大叔父(祖母弟)に当たる。しかも、これは孰れの龍之介研究書も全く問題としていないのだが、実は、龍之介の実父新原(にいはら)敏三の末の弟元三郎の妻ゑいの父は細木香以の息子桂二郎の娘である。則ち、芥川龍之介の実の叔父の義理の祖父が、やはり細木香以なのである(新全集宮坂覺年譜に附された系図及び翰林書房「芥川龍之介新辞典」の系図を見よ)。則ち、姻族を含む親族及びその中で行われた養子縁組上の関係を合わせると、芥川龍之介は生家である新原家及び養家である芥川家ともに、二重に細木香以と所縁(ゆかり)があるということになるのである。
なお、芥川龍之介には主人公『自分』と細木香以との関係を冒頭で明記した上で、彼を主人公にした語り風一人称小説「孤獨地獄」(『新思潮』大正五(一九一六)年四月)があり(「青空文庫」のここで読めるが、新字正仮名である)、本資料はその直接の構想メモではないものの(同作の草稿は別に存在する)、それに先立つ記録メモであることは間違いなく、幾つかの部分が「孤獨地獄」に生かされている(私の本文注を確認されたい)。また、香以については、事実を述べた随想「文學好きの家庭から」(大正七(一九一八)年一月発行の雑誌『文章倶樂部』に「自傳の第一頁(どんな家庭から文士が生まれたか)」の大見出しで、表記の題で掲載された・リンク先は私の電子テクスト)でも『母は津藤の姪』と、ちらっと述べている。そもそもが、森鷗外の「細木香以」(『大阪毎日新聞』『東京日日新聞』大正六(一九一七)年九月から十月初出。「青空文庫」のこちらで新字新仮名なら読める)では末尾に細木香以の縁者として芥川龍之介が鷗外自らによって紹介されているのである。なお、ここは別な意味で非常に興味深い。それは鷗外のその後書きを読む限り、芥川龍之介は儔を実母として鷗外に説明している点である(そこでは鷗外は事前にそのことは小島政二郎から聞いていたとするが、私はこれは芥川龍之介が小島に鷗外には実母であると言っておいてくれと頼んだのだと考えている)。しかもその直後、鷗外が香以の墓に詣でる老女のことを彼に尋ねると、龍之介は、それは『新原元三郎といふ人の妻』で、『ゑいと云』い、彼女は『香以の嫡子慶三郎』(桂三郎の誤り)の娘であると鷗外に教授しているのである。これだけのことを言っておきながら、龍之介は実の父新原敏三の末の妹がそのゑいだとは言わない(言えない)というわけである。言えない訳は龍之介が実母の発狂のことを医師である鷗外には決して伝えたくなかったのだと読めるのである。
以下の資料は、新全集『後記』によれば、『このメモがいつ頃記されたのかは判然としないが、養母か親戚の誰かから聞いた事の覚書と推察される』とある。
底本は基本、原資料画像をもととした新全集に拠りつつ、旧全集を参考にして総てを概ね正字漢字表記に復元したもので示す。従って、これは旧全集の「手帳補遺」とも、新全集の仮題『細木香以ノート』とも、実は異なる電子データということになる。
改行毎にオリジナルの注を附したが、内容が通人の関連描写なので、判らぬ部分も多々ある。識者の御教授を俟つ。なお、ここでは注の後の一行空けを附さなかった。
以上を以って私の「芥川龍之介 手帳」電子化注の総てを終了する。四年に及ぶお付き合い方、忝く存ずる。【2017年2月17日 藪野直史――六十二歳の第二日目に――】]
梅が香の句
[やぶちゃん注:森鷗外の「細木香以」の後書きで、芥川龍之介が鷗外に教えた、細木香以の真の辞世の句(鷗外は本文の「十三」で仮名垣魯文の記した「おのれにもあきての上か破芭蕉」を掲げていた)、
梅が香やちよつと出直す垣隣
である。]
モト山王町
山城河岸四番地 家も地面も賣りて 日吉町十番地に來る 兩家とも火事に燒く 二三日に死す 夜十二時 若紫コトお房に腹がへつた故 むすびを三つ拵へてくれろと云ひ それを食ふ 芝居話をし 「河竹も老いこんだな ××に信乃をさせることはない」 十二時すぎに寐 三時に起上る おフサお上水ですかと云ふ バタリと仆れる 鼾つよし だんだん靜かになる 鍼醫をよぶ 駄目と云ふ 棺は別拵へにしたり 湯灌する時に見れば兩腕に彫ものあり 一は鳥かごの口あき小鳥立つところ(田舍源氏の若紫) 一は牡丹に揚卷の紐のかかれるところ 朱の入りしホリモノ 葬式はさびし 一切伊三郎 願行寺に葬る
[やぶちゃん注:「山城河岸四番地」筑摩書房全集類聚版の「孤獨地獄」の「山城河岸の津藤」の脚注に『中央区銀座五丁目に住んでいた豪商津国屋藤兵衛』とある。この地区内(グーグル・マップ・データ)。
「モト山王町」は「日吉町」の右注。「日吉町」は不詳だが、旧山王町は恐らく現在の銀座八丁目(先の五丁目の南西直近の新橋寄り)のことではないかと思われる。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「若紫」「お房」「おフサ」は香以が吉原から引いた妾(めかけ)の一人で後妻となった女性の源氏名及び呼び名であろう。森鷗外の「細木香以」の「八」に(岩波の選集をもとに漢字を正字化した)、
*
香以は暫く吉原に通つてゐるうちに、玉屋の濃紫(こむらさき)を根引(ねびき)した。その時濃紫が書いたのだと云つて「紫の初元結に結込めし契は千代のかためなりけり」と云う短册が玉屋に殘つてゐた。本妻は濃紫との折合が惡いと云つて木場へ還された。濃紫は女房くみとなり、次でふさと改めた。これは仲の町の引手茶屋駿河屋とくの抱(かゝへ)鶴が引かせられたより前の事である。
*
とあるからである。
「河竹」歌舞伎作家河竹黙阿弥(文化一三(一八一六)年~明治二六(一八九三)年)。
「××」底本新全集にはママ注記がある。
「信乃」滝沢馬琴の「南總里見八犬傳」の八犬士の一人である犬塚信乃(いぬづかしの)か? 河竹黙阿弥作では慶応四(一八六八)年五月市村座初演の「里見八犬傳」(三幕)や明治七(一八七四)年七月東京守田座初演の「里見八犬士勇傳」などがあるが、後者は香以の没後だから、前者ととっておく。黙阿弥は若い頃に馬琴を読み漁った。
「田舍源氏」柳亭種彦の未完の長編合巻(ごうかん)「偐紫田舍源氏(にせむらさきいなかげんじ)」(挿絵・歌川国貞/文政一二(一八二九)年~天保一三(一八四二)年刊)。種彦の筆禍事件(本作が江戸城大奥を描いたと噂され、「天保の改革」によって版木没収となった)とその直後の死によって、第三十八編(百五十二冊)で終わった。時代を室町時代に移し、将軍足利義政の妾腹の子光氏(みつうじ)を主人公とした「源氏物語」の翻案パロディ。
「伊三郎」香以の姉須賀の夫で、山王町の書肆であった伊三郎。香以は晩年をこの夫婦の家に送った。冒頭注で述べた通り、この夫婦の間にできた娘が芥川龍之介の養母儔である。
「願行寺」現在の文京区向丘にある浄土宗の既成山願行寺(がんぎょうじ)。ここ(グーグル・マップ・データ)。香以の墓がある。]
バラ緒の雪駄 唐棧の道行 五分サカユキ 白木の三尺 襦袢をきし事なし 單ものの重ね着 チヂミでもマオカでも荒磯 足袋をはかず
[やぶちゃん注:「バラ緒の雪駄」江戸時代の上方製の「下り雪駄(せった)」(江戸製のものは「地雪駄」と称した。裏革に「ハ」の字形にそれぞれ三ヶ所、左右六ヶ所を切って、裏に縫って尻鉄(しりがね)をつけたもの)に竹の皮を繩になった鼻緒をすげたものを「ばら緒」と称した(「創美苑」公式サイト内の「きもの用語大全」のこちらを参照した)。
「唐棧の道行」「唐棧」(とうざん)は紺地に浅葱(あさぎ)・赤などの縦の細縞を織り出した綿織物。江戸時代、通人が羽織・着物などに愛用した。呼称は、もと、インドのサントメから渡来したことに由来する。「道行」は和装用のコート風のものの一種。襟を四角に繰り、小襟を額縁に仕立てたもの。「道行きぶり」などとも呼ぶ。
「五分サカユキ」当初、前後が衣服であるから、「ユキ」は「裄」で衣服の背縫いから袖口までの長さのことかとは思ったが、「五分」(一センチ五ミリ)はあまりに短い。「或いはこれは『サカヤキ』(月代)のことではないか?」と思って調べてみたところが、「孤獨地獄」の中に(岩波旧全集より引く)、
*
大兵肥滿で、容貌の醜かつた津藤は、五分月代に銀鎖(ぎんぐさり)の懸守(かけまもり)と云ふ姿で、平素は好んでめくら縞の着物に白木(しろき)の三尺をしめてゐたと云ふ男である。
*
とあった。但し、「月代」を「さかゆき」と訓ずるケースもあるので誤記ではない。筑摩書房全集類聚版の脚注に『月代が五分程に伸びたた髪。浪人・病人に扮する芝居の髪』とあって、思わず膝を打った。
「白木の三尺」前の「孤獨地獄」の引用に出る。筑摩書房全集類聚版「孤獨地獄」の脚注に『白木屋で売り出した柔小紋の三尺帯』とある。「白木屋」は「しろきや」と読み、現在の東京都中央区日本橋一丁目にあった江戸三大呉服店の一つ(法人自体としては現在の株式会社「東急百貨店」の前身に当たる)。「柔小紋」は不詳。正絹の小紋のことか。「三尺帯」は男物の帯の一種であるが、この「三尺」は鯨尺の三尺なので、一メートル十四センチ弱である。
「單」「ひとへ(ひとえ)」。
「チヂミ」「縮織(ちぢみを)り」。布面に細かい皺(しぼ)を表した織物の総称。特に、緯(よこ)糸に強撚(つよねり)の糸を用いて織り上げた後、湯に浸して揉み、皺を表したものを指し、綿・麻・絹などを材料とする。夏用。越後縮・明石縮などがある。
「マオカ」「眞岡木綿」で「もおかもめん」のこと。綿織物の一種で現在の栃木県真岡(もおか)市付近並びに茨城県下館市にかけて織られていた丈夫な白木綿の織物で、真岡を集散地とした。浴衣・白足袋の地などに用いた。現在は全国的に生産されている。
「荒磯」荒磯緞子(あらいそどんす)であろう。波間に躍る鯉を金糸で織り出した豪奢な緞子(繻子(しゅす:経(たて)糸と緯(よこ)糸の交わる点を少なくして布面に経糸或いは緯糸のみが現れるようにした織物。布面に縦又は横の浮きが密に並んで光沢があって肌ざわりがよい)の一つで、経繻子(たてしゅす)の地に、その裏組織の緯(よこ)繻子で文様を表わした光沢のある絹織物。室町中期に中国から渡来した。「ドン」「ス」ともに唐音。]
素
ツンボの粗中――旅役者
[やぶちゃん注:「素」は「粗」のミセケチ(見せ消ち)であろうが、「素中」も「粗中」も不詳。その旅役者の芸名か。]
母10代
千代40代
千枝――女の俳諧師 藝者 婆さん
>越後の人
木和――千代の夫 爺さん
[やぶちゃん注:「10」「40」は正立縦書。
「千枝」不詳。
「木和」不詳。
「千代」不詳。或いは次段の最後に出る香以のところに「居候」する者の一群か。]
津藤 小使ひのない時には鐡の棒(鍔のつきし木刀)を持つて「伊」へ來る(この棒は棺へ入れる) 「向う橫町から叔父さんが來たよ」と云へば 子供 奉公人の
terror. 米でも何でも「伊」より仕送る 「伊」へ來れば鰻が好いとか鮨が好いとか云ふ 十圓位小使を持たせてやる 居候三四人ゐない事なし
[やぶちゃん注:「津藤」冒頭注で出した通り、細木香以の俗称の一つ。
「伊」は伊三郎。
「terror」「恐怖の種」の意。
「十圓」明治初期(香以は明治三(一八七〇)年没)のそれは現在の三十万円から四十万円は優にする。
「居候三四人ゐない事なし」香以の気風から、宿無しの芸人や俳諧師、壮士やヤクザ者が溜まっていたものであろう。]
おせき
吉原の河東節の老太夫連中(三味線びきは婆藝者)來り 「伊」方にて語る これは「伊」に馳走や何か持たせる爲なり 「津」竹の棒にて老太夫のつけ髷をとる 「ダンナ およしなんしよ」と云ふ(伊の妻河東を語る)
[やぶちゃん注:「河東節」(かとうぶし)は浄瑠璃の流派名。十寸見(ますみ)河東(江戸太夫河東)が享保二(一七一七)年二月に江戸で始めた代表的な江戸浄瑠璃。語り口は上品で力強く、三味線もまた、強い弾き方を特徴とする。
「おせき」は「婆藝者」の名であろう。
「伊の妻」芥川龍之介の養母儔の母で香以の姉須賀。]
毛氈をひき 見臺をおき 太夫二人 三味線ひき一人 「助六」などかけ合ふ 百目蠟燭 眞鍮の燭臺 うちのものだけ(親夫婦兄弟三人 婆や二人 店の番頭一人 若いもの四人 小僧二人) 他の家のものを呼ばず 津が何をするかわからぬ故
親類の鳥羽屋(三村淸左衞門 十人衆 義太夫に凝る 三味線ひきは花澤三四郎)「伊」の家に床をかけ 義太夫の揃ひをなす 三四郎の弟子は皆旦那衆 龍池と津伊と相談し 河東節をよぶこととす されど向うの義をきくも詮なしとて三人にて義太夫の急稽古す 鳥羽屋へは祕ミツ 野澤語市を師匠 阿古屋琴責め 三人及び三味線の名貼り出す 三人 肩衣をつけ 龍池 重忠 伊 岩永 津 阿古屋 をやる 義太夫の連中のうち これをやる人椽側よりころげ落つ 「こちのや」と云ふ狂歌師なり
[やぶちゃん注:「鳥羽屋」「三村淸左衞門」香以の父龍池(龍也が本名らしい)の後妻(香以の母かよではない。かよはそれ以前に離縁されている)の実家の継嗣であろう。森鷗外の「細木香以」に『鳥羽屋三村淸吉の姉すみを納(れ)て後妻とし』とあり、また、この直後、香以=『子之助は』数え二十歳の『年十二月下旬に繼母の里方鳥羽屋に預けられた』とある。
「花澤三四郎」不詳。
「龍池」既に述べた通り、香以の父。
「津伊」香以(「津」藤)と、彼の姉須賀の夫「伊」三郎。
「義」義太夫。
「野澤語市」不詳。
「阿古屋琴責め」浄瑠璃「壇浦兜軍記(だんおうらかぶとぐんき)」(全五段。文耕堂と長谷川千四の合作。享保一七(一七三二)年大坂竹本座初演)の三段目口(くち)の通称。平家の残党平景清の行方を探す鎌倉方の畠山重忠が、遊女の阿古屋に琴・三味線・胡弓を弾かせ、その音色が乱れていないことから、嘘をついていないことを知るという場面。
「肩衣」「かたぎぬ」。ここは太夫が着る裃(かみしも)のこと。
「龍池 重忠 伊 岩永 津 阿古屋」これは義太夫で、「龍池」が畠山「重忠」を演じ、「伊」三郎が「岩永」(重忠とともに景清を探索する岩永左衛門)を、「津」藤香以が「阿古屋」を演じた、ということを指す。
『「こちのや」と云ふ狂歌師』不詳。
冒頭注で述べた通り、以下の部分は、新全集の原資料になく、旧全集のものであるが、ここまでの原資料や旧全集の「手帳」の電子化で判明した通り、芥川龍之介は句読点を実際には附していないケースが殆んどである。されば、旧全集のそれらも総て除去して、読点は一字空けとした。総て一字下げはママである。]
*
町を通ると叫聲
瓶にさした花ありと云ふ なし かへればある
窓ガラスの外に空中に寢た人
メヂアム・妙な本の line をよむ
[やぶちゃん注:「メヂアム」“medium”なら、伝達・通信・表現などに関わる「手段・媒体・機関・媒介物・媒質・中間物」の意。“Median”なら「中央値」(有限個のデータを小さい順に並べたとき中央に位置する値)であるが、芥川龍之介は後者の「メジアン」を「メヂアム」とは表記しないように私は思う。
「line」文字列・行・短詩。]
家中が水になつた
床にはつてゐる男を見る
收容所の俘虜(支那人)日本軍人の死を見る
足のかかとでものを見る★
[やぶちゃん注:★の部分に足先を上にした小さな上記の手書き図が入る。]
外を通る 實在せざる stone-balustrade を見る 後數日實在する
[やぶちゃん注:「stone-balustrade」「石製欄干」。
これらは――あたかも――アンドレイ・タルコフスキイの映像のようではないか!!!――]
« 芥川龍之介 手帳12 《12―22~12-24》 / 手帳12~了 | トップページ | 子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十六年 「はてしらずの記」旅行 »