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2018/02/03

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十五年 十二カ月、せり吟

 

     十二カ月、せり吟

 

 二十五年になって居士の句を作る分量が著しく増加したということについては、何よりも句を作る機会が多くなったことを挙げなければなるまい。その一は「燈火十二カ月」を振出しとする何々十二カ月の続出である。この発端については『墨汁一滴』の中に次のように記されている。

[やぶちゃん注:以下は底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。「墨汁一滴」の六月十六日の記載から。以前と同じく国立国会図書館デジタルコレクションの初出切抜きで校訂した。踊り字「〱」は正字化した。「とうとう」はママ(底本では後半は踊り字「〱」)である。]

 

それで試驗があると前二日位に準備にかゝるので其時は机の近邊にある俳書でも何でも盡く片付けてしまふ。さうして机の上には試驗に必要なるノートばかり置いてある。そこへ靜かに坐をしめて見ると、平生亂雜の上にも亂雜を重ねていた机邊が淸潔になつて居るので、何となく心持が善い。心持が善くて浮き浮きすると思ふと、何だか俳句がのこのこと浮んで來る。ノートを開いて一枚も讀まぬ中に十七字が一句出來た。何に書かうもそらに句帳も半紙も出してないからラムプの笠に書きつけた。又一句出來た。又た一句。餘り面白さに試驗なんどの事は打ち捨てゝしまふて、とうとうラムプの笠を書きふさげた。これが燈火十二ケ月といふので何々十二ケ月といふ事はこれから流行り出したのである。

 

 十二カ月の形による句作は、駒込にはじまって根岸まで続いた。但(ただし)この事は居士も「明治二十五年の始には何やら俳句を呑み込んだような心持がして、何々十二カ月というようなものをむやみに作って見た。今見ると勿論句にはなって居らぬ」といっている通り、直接にはさのみ効果を齎(もたら)さなかったかも知れぬが、これがために多作の傾向を生じ、練磨の上に功のあったことは争うべからざるところであろう。露伴氏が『国会新聞』に出した「男女句合(くあわせ)」の如きも、この十二カ月の中の一であった。

[やぶちゃん注:「露伴氏が『国会新聞』に出した」幸田露伴(慶応三(一八六七)年~昭和二二(一九四七)年:江戸下谷三枚橋横町(現在の東京都台東区生まれ。本名は幸田成行(しげゆき)幸田家は旧幕府表坊主の家柄)彼が「露団々」や子規を驚愕させた「風流仏」を発表したのは明治二二(一八八九)年であったが、同年十二月には読売新聞客員となり、翌年には「対髑髏」「一口剣」を発表、その年の十一月に国会新聞社に入社、六年間在籍して代表作となる「いさなとり」「五重塔」「風流微塵蔵」などを『国会』紙上に発表して、尾崎紅葉と並ぶ小説家として評判になった。

「男女句合(くあわせ)」不詳。しかし、松本島春(とうしゅん)主宰の俳誌『春星』のサイト内の中川みえ氏の「子規の俳句のこちらの『子規の俳句(九)』に粟津則雄著「正岡子規」から転載された「男女句合十二ケ月」というのが載るのであるが、それを見るに、この「男女句合」は露伴のものではなく、子規のものである。中川氏もその後で子規の『試験勉強中の燈火十二ケ月を嚆矢として、男女句合十二ヶ月、風十二ケ月、煙草十二ケ月、十二支十二ケ月、鳥十二ケ月、夢十二ケ月などと、十二ケ月形式で俳句を作ることをしばらく続けた』とある後に、『子規から十二ケ月形式の句作の話を聞いた幸田露伴もこの趣向に興味をいだいて、僧十二ケ月を作った』として、それを明治二五(一八九二)年三月のこととクレジットまで記しておられる(下線太字やぶちゃん)。粟津・中川対柴田では宵曲の方が分が悪そうではあるが、子規全集も露伴全集も持たぬ故、孰れが正しいとも言えぬ。識者の御教授を乞うばかりである。]

 居士が俳譜趣味の上に眼を開いたのは、「俳句分類」の業を進めて来て、元禄に至った時であるという。殊に『猿蓑』の分類をする時は、何となく胸の躍るのを覚え、極めて短い時間で済んでしまった、「今までの事を考えるとまるで夢のようで、今僅に眠から覚めた眼に外界の物がはっきりと写る、しかも何もかも活気を帯びて来たように見えた」というのである。この開眼(かいげん)の気持は、去来が「猿蓑は新風の始なり」といったのと同じだと居士は述べている。「俳句分類」の仕事が連歌時代から『猿蓑』へ来るまで、どの位の時間を要したか明でないが、二十四年の冬から勘定し三十五年春あたりに当るのではないかと思う。新に俳句の趣味を自分に感じたところで、それが直に作句の上に現れて来るというわけには行かない。「燈火十二カ月」以後に生じた多作の傾向は、むしろ過渡期の現象と見るべきであろう。

[やぶちゃん注:「猿蓑」松尾芭蕉監修で向井去来・野沢凡兆編、宝井其角序・内藤丈草跋になる芭蕉の「俳諧七部集」の第五集。全二冊で元禄四(一六九一)年刊。蕉風俳諧の円熟期を示す名撰集とされる。発句三百八十二句・芭蕉一座の連句四巻・芭蕉の「幻住庵記」と、それについての震軒の後文・「几右日記」と題する幻住庵訪問客の発句三十五句から成る。書名は巻頭の芭蕉の名句「初時雨猿も小蓑をほしげなり」に基づく。]

 何々十二カ月と共に居士を駆って多作に赴かしめたものは「せり吟」である。駒込僑居における居士は、客を謝して「月の都」に専心するというのであったけれども、飄亭、非風両氏の如き友人たちは依然として訪問をやめなかった。「せり吟」はこの人々の間に行われたので、碧梧桐氏宛の手紙によれば一月三十日が最初の試(こころみ)であったらしい。題を出して置いて、なるべく迅速に句を作る。句の善悪を見るのではあるが、同時に連吟を競うので、「早きは十秒、遅きも一分を出でず」という勢であった。時間を競い数を争うことになるため、玉石混淆を免れぬが、句作上の練習になったことは非常なものであったに相違ない。「燈火十二カ月」の成ったのは二月十四日とあるから、順序からいうと「せり吟」の方が少し早いわけである。

 居士は駒込における一人住いのことを回顧して「極めて閑静な処で勉強には適して居る。しかも学課の勉強は出来ないで、俳句と小説との勉強になってしもうた」といっている。「月の都」の稿はこの間に成り、「せり吟」や何々十二カ月によって作句の数は激増した。一方に精力を傾注しただけ、学課の方面は下積(したづみ)にならざるを得なかったのである。

 

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