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2018/02/08

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十五年 落第のしじまい

 

    落第のしじまい

 

 居士が根岸に居を転ずるようになったのは陸羯南翁の関係である。羯南翁と加藤恒忠氏とは司法省法律学校以来の友人であったから、居士は明治十六年に上京すると間もなく羯南翁を訪ねている。十八年中の『筆まかせ』には羯南翁を訪うて夜に入り、焼藷(やきいも)を食いながら寒月の下を帰る記事が見える。駒込の家を借りる前に、羯南翁に手紙を出していることは前に記した通りであるが、多分その後であろう、根岸に羯南翁を訪ねている。居士はその時に大学はやめるつもりだといい、俳句の研究にかかって少し面白味が出て来たから、専らこれをやろうと思う、という決心だったそうである。そうして根岸に座敷を貸す家があったら世話してもらいたい、といって帰ったが、その晩「秋さびて神さびて上野あれにけり」の句を端書はがき)に書いてよこした、と『子規言行録』に序した羯南翁の文章に記されている。

[やぶちゃん注:「陸羯南翁」出既注。「駒込の家を借りる前に、羯南翁に手紙を出していることは前に記した通り」も同リンク先を参照。手紙を出したのは、前年明治二四(一八九一)年十二月。

「加藤恒忠氏」既出既注

「明治十六年」一八八三年。当本文内の子規の時制は明治二五(一八九二)年。

「十八年中の『筆まかせ』には羯南翁を訪うて夜に入り、焼藷(やきいも)を食いながら寒月の下を帰る記事が見える」「筆まか勢」の「十年の宰相」。これ(国立国会図書館デジタルコレクションの画像)。

「子規言行録」小谷保太郎編輯明治三五(一九〇二)年吉川弘文館刊で、当該原書は「国文学研究資料館」の「近代書誌・近代画像データベース」のここの「子規言行錄序」で初出が読めるが、後に再編集された河東碧梧桐編「子規言行錄」昭一一(一〇三六)年政教社刊の国立国会図書館デジタルコレクションの句の出る当該箇所(そこでは「一藝に秀でたる人」に河東によって改題されている)をリンクさせておく。]

 はじめて居士の入った家は、現在の子規庵ではない。八十八番地に老婦一人で住んでいる家があり、慥(たしか)な人に貸したいということだったので、その部屋を借りることにして移ったのである。羯南翁の門前にあった家だというから、万事その配慮を得たものであろう。

[やぶちゃん注:ここは当時の上根岸の羯南宅の西隣であった。陸の旧居は現在の台東区二丁目内であった。ここ。なお、後の子規庵も同じ地区である。]

 根岸に移った最初の印象は、河東可全、碧梧桐両氏宛の端書に尽きている。

[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が二字下げ。全体と句の前後を一行空けた。漢字の正字化はいつもの通りであるが、句読点と読みを除去した(読点はなしのままでは読み難いので一字空けとした)。老婆心乍ら、「喧しく」は「かまびすしく」。]

 

小生表記の番地へ転寓 處は名高き鶯橫町

 

  鶯のとなりに細きいほり哉

 

實の處汽車の往復喧しく(レールより一町ばかり)ために腦痛をまし候

 

  鶯の遠のいてなく汽車の音

 

あまつさへ家婦の待遇餘りよからず罪なくして配所の月の感あり(高濱氏へも御報奉願(ねがひたて)候)

 

 閑静な駒込の住居に馴れた居士に取って、最も堪え難かったのは近くを往来する汽車の響であったろうと思う。しかし当年の根岸は現在の根岸のようなものではない。鶯も鳴けば、杜字(ほととぎす)も鳴き、水雞(くいな)も鳴く。或晩羯南翁のところで話をしていると、水雞の声が頻に聞えたので、とりあえず「雨にくち風にはやれし柴の戸町何をちからに叩く水雞ぞ」と詠んだりしたようなこともあった。

[やぶちゃん注:前の地図リンクで判る通り、現在の鴬谷駅の北直近で、山手線(国有化される前の日本鉄道であるから、環状化の前で東(上野―東京間)は繋がっていない)が同地区内の西を通っている(現在は常磐線及び京成本線も通るが、当時は未開業)。

「水雞(くいな)」水鶏。鳥綱ツル目クイナ科クイナ属クイナ Rallus aquaticus であるが、本邦でかく呼ぶ場合は、クイナ科ヒメクイナ属ヒクイナ Porzana fusca を指すことが多い。ウィキの「ヒクイナ」によれば、全長は十九~二十三センチメートル、翼開長は三十七センチメートル、体重百グラムほど。『上面の羽衣は褐色や暗緑褐色』で、『喉の羽衣は白や汚白色』、『胸部や体側面の羽衣は赤褐色』、『腹部の羽衣は汚白色で、淡褐色の縞模様が入る』。『虹彩は濃赤色』、『嘴の色彩は緑褐色で、下嘴先端が黄色』を呈し、『後肢は赤橙色や赤褐色』である。『湿原、河川、水田などに生息』し、『和名は鳴き声(「クヒ」と「な」く)に由来し、古くは本種とクイナが区別されていなかった』とあり、『古くは単に「水鶏」(くひな)と呼ばれ』、『連続して戸を叩くようにも聞こえる独特の鳴き声』『は古くから「水鶏たたく」と言いならわされ』、『古典文学にもたびたび登場している』。『夏の季語』である。]

 「月の都」を脱稿すると共に、出版の野心を抛擲(ほうてき)した居士は、何々十二カ月を作るのと、厭々ながら試験勉強をするのとの外は、「俳句分類」に力を注いでいたのではあるまいかと想像する。時々露伴氏を訪うことがあっても、もう「月の都」の用でなしに、俳諧の附合(つけあい)などを試みるようになった。持寄(もちより)の小説会、合作小説の類は根岸へ来てからも続いてはいるが、「月の都」執筆以前のような熱は失われていたに相違ない。

 四月『城南評論』に「向井去来」を発表した。極めて短いものではあるが、居士の俳句に関する意見が新聞雑誌の上に現れたのは、これを出て最初とする。

[やぶちゃん注:以前にも注で引いた松本島春(とうしゅん)主宰の俳誌『春星』のサイト内の中川みえ氏の「子規の俳句」のこちらに引用(恐らくは大部分)と詳細な解説が載る。必見。]

 五月二十七日に至り、『日本』に「かけはしの記」が出た。「爰に螺子(にしこ)といふ變り者あり」云々という前書があって、木曾旅行の途中からこの紀行を送つて来たようになっているが、実際は一年前のものである。螺子という号はそれまであまり用いられなかったけれども、西子と署したことはしばしばある。「親に肖(に)ぬ子は赤螺(あかにし)の子」ということから思いついたのだという話だから、西子の代りに螺子と書いたのかも知れぬ。「かけはしの記」は六月四日に至って了った。羯南翁としばしば逢うようになったため、何か書くことを慫慂された結果であろうが、これが『日本』に文章を掲げる最初であった。

[やぶちゃん注:「かけはしの記」「青空文庫」のこちらで本文全篇を新字正仮名で読めるが、ここで宵曲が言っている前書はない。但し、『初出時の署名は「螺子」』である旨の注記が最後にある。正字正仮名の本文は国立国会図書館デジタルコレクションの正岡子規没後直後(二ヶ月後)の出版「獺祭書屋俳話(だっさいしょおくはいわ)」(明治三五(一九〇二)年十一月弘文館刊)のここから読める。

「親に肖ぬ子は赤螺の子」「親に似ぬ子は鬼子(おにご)」は知っているが、これは知らぬ。しかし腹足綱吸腔目アッキガイ科チリメンボラ属アカニシ Rapana venosa は貝殼がごつごつしており、最大十五センチメートル超える個体もあって、しかも殻口が有意に赤く染まるから、「鬼子」の代わりとなっても腑には落ちる。]

 「獺祭書屋俳話」が『日本』に連載されはじめたのは、六月二十六日からである。署名は獺祭書屋主人であった。居士は以前から獺祭魚夫の雅号を用い、自分の書斎に名づくるに獺祭書屋を以てした。俳論俳話を草するに当り獺祭書屋主人と称したのは、恐らく偶然だったろうと思われるが、爾来この署名は俳論俳話などに限って用いられることになった。

 居士はこの年の学年試験に失敗した。失敗したというよりも、最初から身を入れていなかたのであろう。『墨汁一滴』にはこう書いてある。

[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。例の国立国会図書館デジタルコレクションの初出切り貼りの当該箇所で校訂した。]

 

明治廿五年の學年試驗には落第した。リース先生の歷史で落第しただらうといふ推測であつた。落第もする筈さ、余は少しも歷史の講義聽きに往かぬ、聽きに往ても獨逸人の英語少しも分らぬ、おまけに余は歷史を少しも知らぬ、その上に試驗にはノート以外の事が出たといふのだから落第せずには居られぬ。これぎり余は學校をやめてしまふた。これが試驗のしゞまひの落第のしゞまひだ。

[やぶちゃん注:「リース先生」ドイツのユダヤ系歴史学者で「お雇い外国人」であったルートヴィヒ・リース(Ludwig Riess 一八六一年~一九二八年)。ウィキの「ルートヴィヒ・リースによれば、『ベルリン大学』『で、厳密な史料批判を援用する科学的歴史学の方法を学』び、明治二〇(一八八七)年、二十六歳の時、『東京帝国大学史学科講師として来日。科学的歴史学の方法を教えるとともに』二年後に創設された「史学会」を指導した。明治三五(一九〇二)年まで『日本に滞在し、慶應義塾大学、陸軍大学でも教えた。妻は来日時に結婚した大塚ふくで、一男四女をもうけ』ている。『帰国後はベルリン大学講師、次いで助教授となり』、『新聞に日本事情を伝える連載をもった。帰国の際には一人息子の応登(オットー)だけを伴った』とある。]

 

 この夏帰省に当って居士は漱石氏と京都まで行った。漱石氏後年の文章に、「始めて京都に來たのは十五六年の昔である。その時は正岡子規と一所であつた」とあるのがこの時のことである。居士の書いたものには格別何も見えぬが、

 

  京東山

 どこ見ても涼し神の灯佛の灯

 

などという句はこの際のものであろう。漱石氏は別れて岡山に行き、居士は例の如く松山に帰った。漱石氏が岡山から居士に寄せた書簡に「近日當主人の案内にて金此羅へ參る都合故其節一寸都合よくば御立寄可申(まうすべく)」とあるが、これはその通り実現されて、故山に居士を訪ねているようである。

[やぶちゃん注:「始めて京都に來たのは十五六年の昔である。その時は正岡子規と一所であつた」夏目漱石の随筆「京に着ける夕(ゆふべ)」(明治四三(一九一〇)年三月に『大阪朝日新聞』に掲載。但し、作品末の執筆クレジットは『明治四〇、四、九―一一』)の一節。岩波旧全集で校訂した。

「どこ見ても涼し神の灯佛の灯」「寒山落木卷一」の「明治二十五年」の「夏」の部に載る。

「近日當主人の案内にて金此羅へ參る都合故其節一寸都合よくば御立寄可申」明治二十五年八月四日に岡山市内片岡方より発信の書簡(岩波旧全集書簡番号二五)の一節。それで校訂した。「まうすべく」は無論、原書簡にはないが、続きから考えて、この読みで正しい。]

 二十五年夏の松山は賑(にぎやか)であった。居士の外に新海非風(にいみひふう)、伊藤可南(いとうかなん)、勝田明庵(しょうだめいあん)(主計(かずえ))というような人たちも帰省しており、碧、虚両氏も加わって頻に「せり吟」を試みている。数回にわたるこの収獲は「松山競吟集」として、碧梧桐氏の編んだ『子規之第一歩』に収められている。居士をはじめ、非風、碧梧桐、虚子の諸氏の手に成った半歌仙などもその中にある。

[やぶちゃん注:「新海非風」既出既注

「伊藤可南」正岡子規の友人。詳細不祥。

「勝田明庵」私の注中で示したが、正岡子規の年下の友人勝田主計(明治二(一八六九)年~昭和二三(一九四八)年)。後に大蔵官僚を経て政治家となった。

「松山競吟集」「子規之第一歩」というのは不詳だが、恐らくは、国立国会図書館デジタルコレクションの河東碧梧桐子規の」(昭和一九一九四四昭南書房刊)で、「松山競吟集」同書から読める。]

 

[やぶちゃん附記:実は今日(二〇一八年二月八日)、原典校訂のために国立国会図書館デジタルコレクションの画像を調べていたところ、この柴田の「子規居士」原本昭和一七一九四二)三省堂刊)画像にあことに気がついた(昨年以降の新しいアップと思われる)。ここで私は思わず、これに基づいて正字正仮名に今までの公開分を改訂しようかとも考えたのだが(未だ十八章であるから、その改訂仕儀は容易ではある)、見ると、原本はルビがごく一部を除いて殆んどなく、正直、若い読者のためには、読みを多量にオリジナルに附さねばならぬことが判ったので、それは残念ながら、諦めることとした。但し、向後、本文に不審のあった場合は、これと校合し、それを注することとはする。]

 

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