北條九代記 卷第十一 後伏見院御讓位
○後伏見院御讓位
正安三年正月に、鎌倉よりの使節として隱岐〔の〕前司時淸(とききよ)、山城前司行貞、上洛して、主上の御位を下(おろ)し奉り、東宮へ讓り奉り給ふ。主上今年未だ十四歳、御在位僅に三年にして、何の御事もおはしまさざりけるを、押下(おしおろ)し奉ること、天道神明(しんめい)の照覽も如何(いかゞ)恐(おそろ)しとぞ、心ある人は申合(まうしあは)れける。太上天皇の尊號、蒙らせ給ひけり。王道、久しく癈れて、政事(せいじ)に付きては、萬(よろづ)、叡慮に任せられず、天下は、是(これ)、天子の天下にもあらず、又、天下の天下にもあらず、關東より計(はから)ひ奉り、武家の天下となりける事よ、と申す人も多かりけり。邦治〔の〕親王、御位に卽(つ)き給ふ。寶算十七歳、二條〔の〕太政大臣兼基公、關白たり。龜山〔の〕法皇、後宇多〔の〕上皇、既に院中にして御政務を聞召(きこしめ)す。伏見、後伏見の御在位の時には參仕(まゐりつか)ふる人も希(まれ)なりけるに、今は又、貴賤共に集參りて賑ひぬる有樣、天下は市道に似て、交態(かうたい)、是、賴難(たのみがた)し。門外、往昔(そのかみ)、雀羅を張るが如くなりしを、忽(たちまち)に引替て、鼎(かなえ)に足あり、柱に礎(いしずゑ)あり。雍熙(ようき)、高く耀きて、門楣(もんぴ)、弘(ひろ)く開け、異類、皆、臣屬となり、朽根(きうこん)、悉く芬芳(ふんぱう)を吐く、誠に移代(うつりかは)るは、世の中の風情なり。
[やぶちゃん注:「正安三年正月」正安三(一三〇一)年一月二十一日年。
「隱岐〔の〕前司時淸(とききよ)」御家人隠岐(佐々木)時清(仁治三(一二四二)年~嘉元三(一三〇五)年)。頼朝以来の名門佐々木氏の子孫。北条時頼が得宗家当主であった頃(寛元四(一二四六)年~弘長三(一二六三)年)に元服をし、その偏諱(「時」の字)を授かったとみられる。「吾妻鏡」によれば、弘長三年正月十日条で左衛門少尉・検非違使として名が見え、翌文永元(一二六四)年十一月に従五位下に叙爵されている。建治元(一二七五)年、引付衆、弘安六(一二八三)年、評定衆。永仁三(一二九五)年に評定衆を辞している。次章の「嘉元の乱」で北条宗宣の率いる追討軍に従軍したが、北条宗方と相討ちになり、死去している(ウィキの「隠岐時清」に拠る)
「山城前司行貞」これは名門二階堂氏の子孫である二階堂行藤(ゆきふじ 寛元四(一二四六)年~乾元元(一三〇二)年)の誤りではないかと思われる。鎌倉後期の幕府の文官で評定衆二階堂行有の子。永仁元(一二九三)年、政所執事となり、越訴奉行や五番引付頭を勤め、永仁三年には評定衆となっている。正応三(一二九〇)年の浅原為頼による伏見天皇殺害未遂事件(「卷第十一 淺原八郎禁中にして狼藉」を参照)やこの後伏見天皇譲位問題に代表される皇位継承をめぐる弐皇統の抗争に対して、幕府の使者として交渉に当った、と平凡社の「世界大百科事典」にあり、一緒に行った佐々木時清とのバランスから考えても、評定衆或いはその経験者でないとおかしいからである。彼はこの時、現役の評定衆である。
「邦治〔の〕親王」第九十四代天皇後二条天皇(弘安八(一二八五)年~徳治三(一三〇八)年/在位:正安三年一月二十一日(一三〇一年三月二日)。後宇多上皇第一皇子。
「天下は、是(これ)、天子の天下にもあらず、又、天下の天下にもあらず、又、天下の天下にもあらず、關東より計(はから)ひ奉り、武家の天下となりける事よ」中国の代表的な兵法書で「六韜(りくとう)」(「韜」は剣や弓などを入れる袋の意)の一巻の「文韜」に、
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天下非一人之天下、乃天下之天下也。同天下之利者、則得天下、擅天下之利者、則失天下。
(天下は一人の天下に非ず、乃(すなは)ち、天下の天下なり。天下の利を同じくする者は、則ち、天下を得、天下の利を擅(ほしいまま)にする者は、則ち、天下を失ふ。)
とあるのに引っ掛けて批判したもの。
「寶算」天子を敬ってその年齢をいう語。聖寿。聖算。
「二條〔の〕太政大臣兼基」関白二条良実の子二条兼基(文永四(一二六七)年~建武元(一三三四)年)。兄師忠の養子となって二条家を継いだ。
「貴賤共に集參りて賑ひぬる有樣、天下は市道に似て」大覚寺統の天下となって、胡散臭い連中までが宮中に入り込んでは、恰も内裏の内も、京の市中の巷間のような有様の如くになって。
「交態(かうたい)」そういった一癖も二癖もある連中が往ったり来たりする様子。
「雀羅を張るが如くなりしを」「門前雀羅を張る」の故事成句に基づく。「雀羅」は「じやくら(じゃくら)」と読む。雀を捕えるための「かすみ網」のこと。訪れる人もなく、門の前には雀が、これ、沢山、群れ飛んでいて、網を張れば容易に捕えられるほどだ、という謂いで、「訪れる者もいなくなってしまい、ひっそり如何にも寂れてしまっている」ことの喩え。これはもと、司馬遷の「史記」汲・鄭(てい)列伝が元であるが(昔、翟(てき)公が官をやめたとたん、誰も来ずなって、「廢門外可設雀羅」(門を廢し、外に雀羅を設くべし)というありさまに成った)、かの白居易の「寓意詩五首」の一節(高位高官が左遷されてしまい、主の居なくなった屋敷は「賓客亦已散、門前雀羅張」(賓客亦(ま)た已(すで)に散じ、門前、雀羅張る。))によって広く知られるようになったものである。持明院統の二代の伏見・後伏見天皇の頃は、すっかり衰微して閑散としていた宮中が、大覚寺統の院政と同統の後二条天皇即位によって。
「鼎(かなえ)に足あり、柱に礎(いしずゑ)あり」脚を持った青銅器の鼎は君主などの権力の象徴であり、建物を支える柱に礎石があるというのは盤石な権勢をシンボルする。
「雍熙(ようき)」「雍」は「和やかに保つ」、「熙」は「恩徳が広く行き渡る」の意。大覚寺統の皇族らが如何にもわが世の春を大いに楽しみ。
「門楣(もんぴ)」具体には「門の上の梁(はり)」であるが、ここは一族の棟梁・首領及びその一門で、大覚寺統の皇族らの前途を指す。
「異類」これまで無関係であった者ども。
「朽根(きうこん)、悉く芬芳(ふんぱう)を吐く」根まで朽ち腐ってしまったはずの木が、再び花を咲かせて、えもいわれぬ香しい香りを放つかのようで。]