子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十五年 家族迎えの旅
家族迎えの旅
神戸に家族を迎うべく西下した居士は、先ず京都に到り柊屋(ひいらぎや)に投じた。京都には高等中学に入ったばかりの虚子氏がいるので、共に三尾(さんび)の紅葉を観、三軒屋に一泊したりした。この時の事は当時『日本』に掲げた「旧都の秋光」よりも、後年の『松蘿玉液(しょうらぎょくえき)』に委しく記されている。
[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。これは「松蘿玉液」(明治二九(一八九六)年四月二十一日から十二月三十一日まで新聞『日本』に連載。題名は最後の章で明かされており、それは中国産の墨の銘である(なお、たまたま、本書が面白いと勧める、とある方のブログ記事を読んだのだが、「松蘿玉液」とは正岡子規が旅で荷物を運んでもらったりして非常に世話になった中国人の号で、その人が亡くなって逢えなくなったのを寂しく思うと書かれてある、とするトンデモ記載があった。面白いと感じて述べておられる記事内容はいいのだけれど、その最後の驚天動地の読み間違いに、私は何だかひどく哀しくなったことを告白しておく。子規もこれには流石に微苦笑されることであろう。いや。確信犯のパロディであることを切に望むものの、それを信じてしまう者がきっといるであろうことを考えると、正直、憂鬱になってしまうのである因みに、松蘿サルオガセ(菌界子嚢菌門チャシブゴケ菌綱チャシブゴケ目ウメノキゴケ科サルオガセ属 Usnea:樹皮に纏わりついて懸垂する糸状の地衣類)の漢名であるが、ここは広義の松の木に絡まる蔓(つる)の意で、名墨から滴るそれはまさに神仙の筆を浸すによい。なお、この「松蘿」はその形状から、「男女の契りの固いこと」の譬えとしてもよく用いるから、私は「玉液」は、これ、また、それによく響き合うな、と昔から秘かに思っていることも言い添えておく)の十二月二十三日の「京都」の章に現われる一節。この少し前に、
手拭に紅葉打ち出す砧(きぬた)かな
の句を示し、引用文の直後には、
木老いて歸り花だに咲かざりき
を置いて、「京都」の条を終えている。以下の引用は、国立国会図書館デジタルコレクションの昭和七(一九三二)年春陽堂刊の「松蘿玉液」の当該箇所で校訂した。
「柊屋(ひいらぎや)」京都府京都市中京区麩屋町姉小路上ル中白山町に現存する老舗旅館。川端康成の定宿でもあったようだ。ここ(グーグル・マップ・データ)。公式サイトはこちら。但し、「松蘿玉液」には『旅籠屋』とあるだけで、固有名詞は出ない。「旧都の秋光」にも出ない。
「高等中学に入ったばかりの虚子」詳しくない年譜では出てこないが、虚子は明治二五(一八六二)年四月に松山の伊予尋常中学校を卒業後、同年九月に京都第三高等中学校に入学して、京都に下宿していた。翌二十六年九月に伊予尋常中学校の級友であった碧梧桐とともに京都の第三高等学校(現在の京都大学総合人間学部)に進学している。
「三尾(さんび)」神護寺のある高雄(高尾と書く)・高山寺の栂尾(とがのお)・西明寺(さいみょうじ)の槙尾(まきお)の総称。京都北山の紅葉の名所。
「三軒屋」現在の京都府亀岡市馬路町三軒屋(うまじちょうさんげんや)。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「旧都の秋光」明治二五(一八九二)年十一月発表。「国文学研究資料館」の「子規言行錄」に載る。]
此時吾れは最も前途多望に感じたりし時なり。吾れに取りては第一の勁敵(けいてき)[やぶちゃん注:強敵。]なる學校の試驗と緣を絶ちたりし時なり。況して[やぶちゃん注:「まして」と読む。]この勝地に遊び此友に逢ふ。喜ばざらんと欲するも能はず、之を抑ふればますます喜びは力を得て逬發(はうはつ)[やぶちゃん注:迸(ほとなし)り出ること。]せんとす。わが顏は喜びの顏なり、吾が聲は喜びの聲なり、吾が擧動は喜びの擧動なり。はては一呼一吸する空氣の中に喜びの小兒は兩腋(りやうわき)の羽を動かして無數に群れたるを見る。この時のわが喜び虛子ならでは知るまじ。この時の虛子が喜びも吾れならでは知るものなし。目前の何が樂しきかと問はば何が樂しきか知らず。前途に如何の望(のぞみ)かあると問はば自ら答ふる能はず。然れども人間の最も樂しき時は何かは知らず只〻樂しき時に在るなり。喜び極まりてしかも些(いささか)の苦痛を感ぜざりしは吾が今日までの經歷にて只〻此時あるのみ。既往かつ然り、今後再びこの喜びあるべしとも覺えず。
旧世界は已に尽きて、新世界はいまだはじまらぬ、居士の生涯にあっては慥に二度とない時期であった。この時の句も多少伝わっているが、居士のこの喜びを盛り得たものは見当らない。
十一月十四日、母堂及令妹を迎えた居士は、その日のうちに京都に引返して再び柊屋に投じた。虚子氏と共に愚庵和尚を訪ねたのは、翌十昔の夜であった。和尚が「順礼日記」の旅に出る前年である。居士と和尚との交渉は、この時にはじまるものと思われる。
紅葉ちる和尚の留守のゐろりかな
凩(こがらし)や自在に釜のきしる音
浄林の釜にむかしを時雨けり
などの句はこの際のものであるが、愚庵訪問の模様は『松蘿玉液』に委しい。携えて行っつ柚味噌を出したら、和尚が手を拍(う)って善哉(ぜんざい)と呼んだということもその中にある。帰京後の日記に「喫柚味噌(ゆずみそをきつす)」とあり、「蓋(ふた)とれば京の匂ひの柚味噌(ゆみそ)かな」という句を記しているのは、この京都の土産であろうと思う。
[やぶちゃん注:「愚庵和尚」天田愚庵(あまだぐあん 嘉永七(一八五四)年~明治三七(一九〇四)年)は福島生まれの禅僧で歌人。漢詩や和歌に優れ、正岡子規にも影響を与えた。一時期、かの侠客清水次郎長(文政三(一八二〇)年~明治二六(一八九三)年:本名・山本長五郎)の養子となったこともある。本名は五郎。鉄眉とも称した。磐城平藩士甘田平太夫の子で、十五歳で戊辰戦争に参加したが、この戦いで父母・妹と生き別れとなり、藩閥政治への恨みと肉親捜しのため、台湾にまで足を延ばした。「西南の役」への参加や岩倉具視暗殺などを画策し、その跳ねっ返り振りに呆れた山岡鉄舟により、明治一四(一八八一)年、清水次郎長に紹介されて養子になる。明治十七年二月に博徒狩りによって次郎長が収檻されるや、四月には助命嘆願書として「東海遊侠伝」を著して出版したが、養父収檻中にも拘わらず、自由民権派の「加波山蜂起」の一カ月前の同年八月、突然、養子縁組を解消、出家して京都清水坂に庵を構え、和歌と維新の内戦で死んだ人々の菩提を弔う行脚の生活に入って、「巡礼日記」を著した(明治二七(一八九四)年日本新聞社より出版)。明治二九(一八九六)年には正岡子規を病床に見舞っている。和歌は万葉調で、正岡子規にも影響を与えた日本のインテリ・ヤクザ第一号。辞世は、
大和田に島もあらなくに梶緒たえ漂ふ船の行方知らずも
であった(概ね、「朝日日本歴史人物事典」に拠ったが、一部でウィキの「天田愚庵」も使用した)。]
途中静岡に一泊して東京に著いたのは十一月十七日の正午であった。京都から通しの汽車で来ると、夜半東京著ということになる。自分の家も留守中の事がわからぬし、親戚へ行くにしても夜半では困るから、静岡に一泊したのだそうである。この帰京に際し中等列車に乗ったこと、京都、神戸あたりを遊覧したことなどについて、居士は大原恒徳氏に対し、「身分不相應との御叱責は固よりさることなれども私は私の妄に二度かゝる機會あるやなきやといふことに付てむしろ無之(これなき)方(はう)に相考へ候故に候」といい、また「贅澤と知りながらことさらに賛澤したる汽車代遊覽費などは前申上候通り母樣に對しての寸志にして前途また花さかぬこの身の上を相考へ候て黯然(あんぜん)たりしこともしばしばに御座候」と繰返して述べている。
[やぶちゃん注:「黯然」悲しみや憂いに心がふさいでいるさま。暗然。闇然。]
東京に著くと共に居士は一家の主人公となった。薦包(もづつみ)で送った荷物はまだ著かず、着京匆々(そうそう)羯南翁の家でいろいろ世話になったが、翌日は居士自身世帯道具を買いととのえに出なければならなかった。はじめて上京したばかりの母堂や令妹では一切勝手がわからぬからである。その品目をここに挙げて置こう。
竈かまど)、七りん、帶、火箸、釘、釣瓶(つるべ)、杓(ひしやく)、杓子(しやくし)、草履(ざうり)
書生生活に慣れた居士に取って、こういう買物は慥に変った経験だったのであろう。当日の日記には次の句が記されている。
買ふてくる釣瓶の底やはつしぐれ
« 子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十五年 退学決行 | トップページ | 芥川龍之介 手帳12 《12―16》 »