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2018/02/12

北條九代記 卷第十一 貞時出家 付 北條宗方誅伐

 

      ○貞時出家  北條宗方(むねかた)誅伐

 

同八月二十三日、相摸守貞時、出家して、法名を宗瑞(そうずゐ)と號し、最勝園寺(さいしようをんじの)入道と稱す。執權をば、師時にぞ讓られける。是は時賴入道の孫として、父は武藏守宗政と號す。又、時村は政村の嫡子なり。新相摸守に任じて、師時に差副(さしそ)へて加判連署せしめらる。京都には、當今(たうぎん)、後二條院御位に卽(つ)き給ひ、正安四年を乾元元年と改め、翌年、又、改元有りて嘉元と號す。同三年の春、北條駿河守宗方と、相摸守師時と、權(けん)を爭うて、中、不和なり。宗方は修理〔の〕大夫宗賴が次男なり。共に是(これ)、最明寺時賴入道には、孫なり。殊更、師時は貞時の婿なり。又、相摸守凞時(ひろとき)は婭(あひむこ)にて侍りければ、時村と師時とは至りて親く睦びけり。宗方、深く妬む心あり、先(まづ)、時村を討(うつ)て後に、師時、凞時を討たばやと思ひ、同四月十一日、宗方が與力同心の軍兵を集め、久明將軍の仰(おほせ)なりと詐(いつは)りて、時村を夜討にして攻殺(せめころ)す。時村、今年六十四歳、思(おもひ)も寄らぬ事にてはあり、家子、郎從、起合(おきあは)せ、暫く防戰(ふせぎたゝか)ふといへども、叶はずして、時村、既に討たれければ、郎從、家子、或は討たれ、或は落失(おちう)せて、宗方が兵ども、勝鬨(かちどき)を揚げて引返す。貞時入道、大に怒(いかつ)て、北條陸奧守宗宣と宇都宮貞綱に四百餘騎を差副へて、宗方を討たせらる。宗方も、豫て用意しける事なれば、軍兵を手分して門を差固めて防戰ふ。内より射出す所の矢に疵を蒙り、[やぶちゃん注:ここ、底本句点であるが、訂した。]射伏(いふせ)らる〻者、五、六十人に及べり。是(これ)にては叶(かな)ふまじ。只、四方より攻入(せめい)れとて、兩隣後(どなりうしろ)の町より、垣(かき)を崩し、壁を倒(たふ)して攻入りしかば、兵共、防兼(ふせぎか)ねて、散々に落行(おちゆ)く所を、打伏せ、切倒(きりたふ)し、館(たち)に火をさしければ、宗方は奧に走入(はしりい)り、腹、搔切(かきき)りて死にたりけり。一門の中、何れか疎(うと)からん、無用の妬(ねたみ)に軍(いくさ)を起し、數多(あまた)の人を損(そん)しけるのみならず、身を亡(ほろぼ)し、家を失ふ淺ましさよと、彈指(つまはじき)をしてぞ惡(にく)みける。一味同類を探出(さがしいだ)し、皆、悉く、殺され、軈(やが)て、宗宣を師時に副へて、執權の加判せしむ。同九月十五日に龜山法皇、崩じ給ふ。去年七月十六日には後深草院、崩御あり。今年、又、打續(うちつゞ)きてこの法皇、隱れさせ給ふ。御年五十七歳とぞ聞えし。御葬送の時には、後宇多院も供奉(ぐぶ)し給ふ。公卿、殿上人、數多、出給ひけり。此法皇は、御在位の初(はじめ)、十三歳より御子(みこ)出來て、御讓位の後までも、年々(としどし)に男女の御子(みこ)、數々(かずかず)おはしましけるとかや。

 

[やぶちゃん注:「貞時出家」第九代執権北条貞時(文永八(一二七二)年~応長元(一三一一)年)の晩年は乱れたものとなった。ウィキの「北条貞時」によれば、『元寇による膨大な軍費の出費などで苦しむ中小御家人を救済するため』、永仁五(一二九七)年に「永仁の徳政令(関東御徳政)」を『発布するが、これは借金をしにくくなるという逆効果を招き、かえって御家人を苦しめた』。正安三(一三〇一)年八月、『鎌倉に彗星が飛来(現在のハレー彗星にあたる)、これを擾乱の凶兆と憂慮した貞時は出家し、執権職を従兄弟の北条師時に譲ったが、出家後も幕府内に隠然と政治力を保った』。嘉元三(一三〇五)年四月二十二日、『貞時は鎌倉の宿館が焼失したため師時の館に移ったが、その翌日に内管領の北条宗方によって貞時の命令として連署の北条時村が殺害される事件が起こった』(後注参照)。貞時は五月二日、『時村殺害は誤りとして』、『五大院高頼らを誅殺』、五月四日には『宗方の陰謀と』断じて、『宗方とその与党を誅殺した(嘉元の乱)』。『この事件に関しては執権の師時と宗方の対立、さらに得宗の貞時と』、『歴代にわたって冷や飯を食わされて』きた北条(大仏(おさらぎ))宗宣(正元元(一二五九)年~正和元(一三一二)年:後の第十一代執権。大仏家は第三代執権北条泰時の叔父に当たる北条時房を始祖とする)『の対立が背景にあったとされている』。徳治三(一三〇八)年八月四日には『将軍の久明親王を廃して子の守邦親王が擁立された』。また、『幼い息子である北条高時の足場固めの布石として長崎円喜・安達時顕を登用し彼ら』二『人を高時を補佐する両翼として備えようとした』延慶二(一三〇九)年一月には未だ満五歳であった『高時の元服式を行っている』。だが、『幕府の内外に問題を抱え、家庭的にも息子』二『人に先立たれた貞時の政治は』、『次第に精彩を欠いて情熱は失われた。貞時は次第に政務をおろそかにし』、『酒宴に耽ることが多くなり、御内人の平政連(中原政連)から素行の改善を願う趣旨の諫状を提出されている』。応長元(一三一一)年九月二十二日には『高時が成長するまでの中継ぎであった執権の師時が死去』、『嘉元の乱で貞時と対立した宗宣が執権に就任するなど』、『最晩年の貞時政権下では世代交代と』『得宗権力の弱体化が進行し、貞時が平頼綱を滅ぼして以降』、『築いてきた得宗による専制的な体制は崩壊していった。一方、最高権力者であるはずの貞時が政務を放棄しても』、『長崎氏らの御内人・外戚の安達氏、北条氏庶家などの寄合衆らが主導する寄合によって幕府は機能しており、得宗も将軍同様装飾的な地位に祭り上げられる結果となった』とある。

「北條宗方(むねかた)」(弘安元(一二七八)年~嘉元三(一三〇五)年)は長門探題で第八代執権北条時宗の異母弟北条宗頼の次男ウィキの「北条宗方」によれば、時宗の甥であるが、その猶子となっている(誕生の翌年に父宗頼が長門国で死去したため)。二十歳で六波羅探題北方となり、正安二(一三〇〇)年に鎌倉へ戻って評定衆に就任している。『五位への叙爵は』十七『歳だが、このときまだ兄兼時は存命であり、それでも兄よりは』二『歳早い。評定衆となった歳は』二十三『歳であり、従兄弟で北条貞時のあと』に『執権となった北条師時(』十九『歳)よりは若干遅いが、それでも』永仁三(一二九五)年に『没した兄兼時の』三十二『歳よりもずっと早い。また』、『北条庶流の名門で貞時執権時の連署大仏北条宣時の嫡子で、嘉元の乱で宗方を討った大仏北条宗宣が評定衆となったのは』二十九『歳、赤橋北条久時は』二十七『歳である。これは兄弟の居ない北条貞時が成人してから、もっとも近い血縁としての従兄弟、かつ父時宗の猶子として義兄弟ともなる師時、兼時、宗方の官位や昇進を早めたものと推測され、貞時には庶流というより』、『得宗家の一員として扱われていたと思われる』。正安三(一三〇一)年には『引付頭人を経て越訴頭人とな』り、更に三年後の嘉元二(一三〇四)年十二月には、『平禅門の乱以降』、『人事が迷走した得宗家執事(内管領ともいわれる)に北条一門として初めて就任』、『同時に幕府侍所所司に』も就いている。この時、二十七歳である。「保暦間記」によれば、『執権職への野心を抱いて挙兵し』、嘉元三(一三〇五)年四月、『貞時の有力重臣で連署を務めていた北条時村を殺害。さらに貞時殺害も目論んだが』、同年五月四日に『貞時の命を受けた北条宗宣率いる追討軍によって殺されたとされる(嘉元の乱)』。但し、「保暦間記」『の記述は、霜月騒動や平禅門の乱の原因についてもあまり信憑性はなく、嘉元の乱についても、京の公家の日記等と突き合わせると如何にも不自然であり疑問視されている。動かしがたいのは以下の範囲である』。四月二十二日、『既に執権職を退きながらも』、『実権を握っていた北条貞時の屋敷で火災があり、貞時は従兄弟で執権であった北条師時の屋敷に移る』。翌二十三日、『貞時の「仰せ」とする得宗被官、御家人が当時連署であった北条時村の屋敷を襲い』、『殺害、屋敷一帯は炎に包まれた』。五月二日、『時村討手の者』十二『人の内、逐電した和田茂明を除く』十一『名が首を切られた』。五月四日、『連署に次ぐ地位にあった一番引付頭人北条宗宣らが貞時の従兄弟で得宗家執事、越訴頭人、幕府侍所所司の北条宗方を討つ。宗方は佐々木時清と相討ちとなり、二階堂大路薬師堂谷口(現在の鎌倉宮の左側あたりか)にあった宗方の屋敷には火』が『かけられ』、『宗方の多くの郎党が戦死した』。『乱の後、幕府に捕らえられた宗方の遺児は、武蔵国六浦の海に籠に入れられて沈められた』という。また、ウィキの「北条宗宣」によれば、歴史学者(日本中世政治史)『細川重男は嘉元の乱の背景に宗宣の蠢動があったことを指摘し、宗宣は貞時に反抗的であったという論陣を展開している。この理由に関しては』、『大仏家の始祖は第』三『代執権である北条泰時の叔父に当たる北条時房にまで遡り、時房は泰時を補佐する連署として幕政に重きを成したが、その後は時頼・時宗・貞時と得宗家』三『代にわたって幕政で軽んじられた存在に甘んじていたので、嘉元の乱を契機として大仏流の巻き返しを目論んで貞時と対立したとしている』。『これに対しては鈴木宏美が反証している』が、そこで『時房の子・朝直は泰時の娘を妻としたことで北条一族のなかで重んじられていたとするが、実際は伊賀氏の変に伴う泰時の意向に屈服して愛妻(前妻の伊賀光宗の娘)との離縁を余儀なくされているようであり(朝直が当初、泰時の意向に反対していたことが史料にみられる』『)、朝直以降の大仏流北条氏の当主も、代々幕府政治の要職に就くことはできた』『ものの、将軍を烏帽子親として一字を与えられる得宗家と赤橋流北条氏の当主に対して、家格的にはそれよりも一段低い、得宗家を烏帽子親とする家と位置づけられていたことが指摘されている』。『宗宣の後も貞宗(のち維貞)―高宣と同じく得宗の偏諱を受けている』『ことから、要職には就ける代わりに得宗への臣従を余儀なくされていた可能性があり、内管領・平頼綱を排除した(平禅門の乱)後』、『貞時が得宗家への権力集中を目指した政治を行った』『ことに宗宣が反感を抱いていた可能性も否定はできない』とある。

「相摸守貞時、出家して、法名を宗瑞(そうずゐ)と號し」法号は「崇演(すうえん)」の誤り

「師時」北条師時(建治元(一二七五)年~応長元(一三一一)年)鎌倉幕府第十代執権(非得宗家)。父は第八代執権北条時宗の同母弟北条宗政。母は第七代執権(非得宗家)北条政村の娘。父の死後に伯父・時宗の猶子となったウィキの「北条師時」によれば、永仁元(一二九三)年、十九歳で評定衆(五月三十日)、直後六月五日に三番引付頭人、同年十月二十日には執奏、十二月二十日に従五位上を叙任されるなど、『鎌倉政権の中枢に抜擢される。従兄弟である執権・北条貞時が平頼綱を永仁の鎌倉大地震に乗じて誅殺して実権を取り戻した平禅門の乱の直後である。引付衆を経ずに評定衆となるのは、得宗家一門と赤橋家の嫡男のみに許される特権とされる。これにより師時は北条氏庶流というより得宗家の一員と見なされていたとされる。またそれが平禅門の乱の直後であり、また父宗政を凌ぐ要職であることから、単に家格だけではなく、兄弟の居ない貞時が、自分にとって一番近い血縁である師時や、もう一人の従兄弟である北条宗方を政権の中枢に引き上げることによって、周りを固めようとしたとも見られている』。『貞時の出家に伴い』、『執権に就任。貞時の嫡男である北条高時(後の』十四『代執権)が成人するまでの中継ぎ役として期待されたが、幕政の実権は貞時に握られていた』。なお、『補佐役の連署には母方の伯父である北条時村が任じられている』とある。

「時村」北条時村(仁治三(一二四二)年~嘉元三(一三〇五)年)は第七代執権北条政村(第二代執権義時の五男)の嫡男。既出既注であるが、大分、前の注なので再掲しておく。ウィキの「北条時村(政村流)」によれば、『父が執権や連署など重職を歴任していたことから、時村も奉行職などをつとめ』、建治三(一二七七)年十二月に(本書では翌建治四年としか読めないが、それが現地への着任実時であるなら、問題あるまい)『六波羅探題北方に任じられた。その後も和泉や美濃、長門、周防の守護職、長門探題職や寄合衆などを歴任した』。弘安七(一二八六)年、第八代『執権北条時宗が死去した際には鎌倉へ向かおうとするが、三河国矢作で得宗家の御内人から戒められて帰洛』。正安三(一三〇一)年、『甥の北条師時が』次期の第十代『執権に代わると』、『連署に任じられて師時を補佐する後見的立場と』なっている。ところが、それから四年後の嘉元三(一三〇五)年四月二十三日の『夕刻、貞時の「仰せ」とする得宗被官』や御家人が、当時、『連署であった北条時村の屋敷を』突如、襲って『殺害、葛西ヶ谷の時村亭一帯は出火により消失』したとある。『京の朝廷、及び六波羅探題への第一報はでは「去二十三日午剋、左京権大夫時村朝臣、僕被誅了」』(権大納言三条実躬(さねみ)の日記「実躬卿記」四月二十七日の条)、『「関東飛脚到著。是左京大夫時村朝臣、去二十三日被誅事」』(大外記(だいげき:朝廷の高級書記官)であった中原師茂の記録)とあって、孰れも「時村が誅された」と記している。この時、『時村を「夜討」した』十二人は、それぞれ、『有力御家人の屋敷などに預けられていたが』、五月二日に『「此事僻事(虚偽)なりければ」として斬首され』ている。五月四日には『一番引付頭人大仏宗宣らが貞時の従兄弟で得宗家執事、越訴頭人、幕府侍所所司北条宗方』(北条時宗の甥)『を追討、二階堂大路薬師堂谷口にあった宗方の屋敷は火をかけられ、宗方の多くの郎党が戦死し』た。「嘉元の乱」と『呼ばれるこの事件は、かつては』「保暦間記」の『記述により、野心を抱いた北条宗方が引き起こしたものとされたが、その解釈は鎌倉時代末期から南北朝時代のもので』、同時代の先に出た「実躬卿記」の同年五月八日条にも『「凡珍事々々」とある通り、北条一門の暗闘の真相は不明である』とする。なお、生き残った時村の『孫の煕時は幕政に加わり』、第十二代『執権に就任し』ている。

「北條駿河守宗方と、相摸守師時と、權(けん)を爭うて、中、不和なり」言葉で見ていると判り難いが、要は宗方も師時も時頼の孫(前者は傍系、後者は直系得宗)に当たるのである。ウィキの「北条の「北条氏系図」(詳細版)を表示させて御覧になられるとよい。

「師時は貞時の婿なり」師時の正室は北条貞時の娘であった。

「相摸守凞時(ひろとき)」後に第十二代執権となる北条煕時(弘安二(一二七九)年~正和四(一三一五)年)父は北条為時で、煕時は第七代執権北条政村の曾孫、時村の孫に当たる。初名は貞泰(さだやす)であった。ウィキの「北条煕時」によれば、『引付衆などを務め』、嘉元三(一三〇五)年に『長門探題となる。同年の』四『月に嘉元の乱が起こり、祖父(政村の子で為時の父)の時村が討たれ、続いて北条宗方らが貞時らに滅ぼされたが』、『煕時は生き残った。この嘉元の乱では煕時も宗方に命を狙われたとされている』、『なお、この頃までには貞時の娘と結婚していたとされている』。延慶二(一三〇九)年三月に『引付再編が行なわれて』一『番頭人となり、直後の四月九日には『金沢貞顕と共に寄合衆に加えられ』、『この頃から煕時は得宗の北条貞時や金沢貞顕らと共に幕政を実質的に主導する立場の』一『人になった』。応長元(一三一一)年九月に第十代執権の『北条師時が死去して連署だった大仏宗宣が第』十一『代執権に就任すると』、十月三日、『煕時は連署に就任した』。正和元(一三一二)年六月二日に『宗宣が出家すると』、第十二代執権に就任したが、この頃には既に『実権は内管領の長崎円喜に握られていた』とある。

「婭(あひむこ)」姉妹の夫同士を謂う。前注で示した通り、北条熙時の室は(「南殿」と称した)、やはり、貞時の娘であった。なお、熙時は師時より四つ下である。

「四月十一日」既に注した通り、二十三日の誤り

「北條陸奧守宗宣」前の方の複数の注を参照されたい。或いはウィキの「北条宗宣をどうぞ。

「宇都宮貞綱」(文永三(一二六六)年~正和五(一三一六)年)は御家人宇都宮氏第八代当主。母は安達義景の娘・名は北条貞時の偏諱を受けたもの。ウィキの「宇都宮貞綱によれば、弘安四(一二八一)年の元寇の「弘安の役」で第八代執権『北条時宗の命を受けて山陽、山陰の』六『万もの御家人を率いて総大将として九州に出陣した』。『その功績により戦後、引付衆の一人に任じられ』ている。『時宗の死後は北条貞時に仕え』た。

「宗方を討たせらる」五月四日。

「疎(うと)からん」疎外されているなどということがあろうか。反語。

「去年」嘉元二(一三〇四)年。

「男女の御子(みこ)、數々(かずかず)おはしましけるとかや」ウィキの「深草天皇で、ざっと数えても十七人いる。]

 

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