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2018/02/02

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里 九

 

     九

 

 日本の長者の話には、往々にして福分の相續とでも謂ふべき思想を含んで居る。卽ち前期の長老は緣盡きてすでに沒落し畢り、その屋敷は草茫々として井戶ぐらゐより殘つて居らぬのに、後日其處へ來て偶然に埋めてあつた財寶を掘出し、又掘出すかも知れぬと思つて永い間人が探したこともあつて、其後半は傳說から現世生活にまで繫がつて居る。中にも黃金の鷄の類に至つては其物自體に靈が有るやうにも傳へられ、これを手に入れ得た者の幸運は申すに及ばず、或は其地底の啼聲を聞いて出世をしたなどゝ云ふ話もある。飜つて思ふに二つ岩の團三郞は貉ながらも昔の長者である。其手元から貸出さうと云ふ膳椀であつたとすれば、之を持傳へて果報にあやかりたいと思ふのは常の情である。飛驒の丹生川の鹽屋村で膳椀を貸した故跡の名を長者の倉と云うひ、或は伊勢の椀久塚其他に於て、長老が家の跡に築いたと云ふ塚に椀貸の話のあるのも、つまりは之を借りて一時の用を足す以外に、あはよくば永久に之を我物としようの下心が、最初から有つての上の占領とも見られぬことは無いのである。

[やぶちゃん注:「飛驒の丹生川の鹽屋村」現在の岐阜県高山市丹生川町(にゅうがわちょう)塩屋。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「伊勢の椀久塚」現在の三重県亀山市阿野田町(ここ(グーグル・マップ・データ))の内。三重県公式サイト内の「椀久塚」に、その伝承譚が書かれてある。]

 

 千葉縣印旛沼周圍の丘陵地方は、昔時右樣の食器貸借が最も盛んに行はれたらしい注意すべき場所である。就中印旛郡八生(はふ)村大竹から豐住村南羽鳥(はとり)へ行く山中の岩穴は、入口に高さ一丈ばかりの石の扉あり、穴の中は疊七八疊の廣さに蠣殻まじりの石を以て積み上げてある。里老の物語に日く、往古此中に盜人の主住みて、村方にて客ある時窟に至りて何人前の膳椀を貸して下されと申し込むときは、望み通りの品を窟の内より人が出て貸したと云ふことである。大竹の隣村福田村には此から借りたと云ふ朱椀が一通り殘つて居る由云々。茨城縣眞壁郡關本町大字船玉の八幡宮は、鬼怒川の岸に近い小さな岡の上にある。石段の右手に當つて口もとは四尺四方の平石で圍み、中は前の穴に數倍する古い窟がある。以前にはこの奧に井戶があつたと云ひ、隱れ人と云ふ者が爰に住んで居て、やはり篤志の椀貸をして居つたと云ふ。それから先は他の地方のと同じ話である。

[やぶちゃん注:「印旛郡八生(はふ)村大竹から豐住村南羽鳥(はとり)へ行く山中」前者は千葉県成田市松崎附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。後者はそこから北へ三キロメートルほど行った成田市南羽鳥。ここ(グーグル・マップ・データ)。航空写真で見ると、一部が今も残るが、この二村の間には非常に多くの丘陵地が入り組んである(あった)ことがよく判る。

「大竹の隣村福田村」松崎の北に接する現在の千葉県成田市の福田地区。柳田先生、あなたは自分の椀貸伝承非古墳説に都合が悪いから言っていないのでしょうけれど、この旧八生村大竹から旧豊住村南羽鳥への直線上の、この地区の上福田には上福田岩屋古墳がありますぜ? 偶然、なんですかねぇ?

「茨城縣眞壁郡關本町大字船玉の八幡宮」思うに、これは現在の茨城県筑西市船玉周辺であろう。鬼怒川左岸にあり、しかも右岸の直近である、現在は茨城県結城市となっている久保田には八幡神社がある。ここ(グーグル・マップ・データ)。これかも知れないし、ここに合祀されたのかも知れぬ(鬼怒川越えて合祀するというのは民俗社会的にはそう簡単には行い得ないが、近代なら、容易にやったろう)。ともかくも左岸の船玉地区には神社を地図上では現認は出来ぬ。しかしだ、実はそんなことはどうでもいいんだ。上の地図をよぅく、御覧な、この八幡神社と鬼怒川を挟んで南東八百メートル弱の対称位置に、ほぅれ、船玉古墳(ここはまた、確かに先生のおっしゃる通り、「鬼怒川の岸に近い小さな岡の上」ですねぇ)ってのがありますぜ、柳田先生? これもまたまた偶然なんですかねぇ?! 因みに、この古墳、先生の嫌いな鳥居龍蔵先生が明治期に既に調査報告されてますぜ! 実に偶然とは面白いことでござんすなぁ筑西市公式サイト内のこちらを参照されたい)。]

 

 盜人と云ひ隱れ人と云ふだけではまだ正體がよく分らぬが、さらに同縣關宿附近の長洲村に於て膳椀を貸したと傳ふる岩窟は、其名を隱れ座頭の穴と稱し、やはり前夜に賴んで置いて翌朝貸出したこと、及び里人の違約に起因して其事の絕えたと云ふ話を、弘賢隨筆には二人まで別々に報告をして居る。隱れ座頭は諺語大辭典によれば茶立蟲の異名とあり、又俗說には一種の妖恠とあつて、夕方迷藏戲(かくれんばう)をして遊ぶと隱れ座頭が出ると云ふ諺のあることを記して居る。菅江眞澄の文化年中の紀行を見ると、北海道渡島の江差に近い海岸に、黑岩と稱する窟あつて圓空上人作の地藏を安置し、眼を病む人は米を持參して祈願をかけ驗あり、此穴の中には又隱れ座頭と云ふ者住み、心直き者には寶を授けたりと童の語り草とせりとある。高田與淸の相馬日記もこの時代に出來た紀行であるが、下總印旛郡松崎村の附近に三つの大洞穴があつて、其中に隱れ座頭と稱する妖恠の住んで居たと云ふ噂を載せて居る。然るにその松崎は前にいふ八生村の大字であるのみならず、洞の外に名木の大松樹があると云ふ點まで似て居るから、疑も無く今日の土地の者が、盜人が椀を貸したと云ふ穴と同じであつて、また他の一二の書には此穴の名を隱里(かくれざと)と唱へて居るを見れば、隱れ座頭と云ふ新種の化物は、其隱里の誤傳であつたことが容易に知り得られる。

[やぶちゃん注:「同縣關宿附近の長洲村」「同縣」とあるが、それでは茨城県となるが、「關宿」は現在、千葉県野田市関宿町(せきやどまち)である(ここ(グーグル・マップ・データ)。但し、東で利根川を境に茨城県と隣接し、茨城県猿島(さしま)郡境町(さかいまち)とともに県境を越えた商業中心地ではあったし、次の注の引用からも県を超えた関宿一帯(埼玉県とも江戸川を隔てて西で接する)にこのような伝承があったことは確かである)。長洲村は不詳。識者の御教授を乞う。

「隱れ座頭」はウィキの「隠れ座頭」によれば、北海道・秋田県・関東地方を中心に、日本各地に伝えられている妖怪の一種で、子供を攫う、夜中に物音を立てる、人に福を授けるなど、地方により様々な性質の伝承がある、とする。『茨城県や埼玉県秩父地方では』、『子供が行方不明になることを「隠れ座頭に連れて行かれた」といい』、『秩父ではヤドウカイ』(夜道怪。「宿かい」「やどうけ」とも称する)『に捕らえられたともいう』。『実在の昆虫であるチャタテムシ』(昆虫綱咀顎目に属するチャタテムシ類。コチャタテ亜目 Trogiomorpha・コナチャタテ亜目 Troctomorpha・チャタテ亜目 Psocomorpha の三目に分かれ、有翅と無翅の種がいる)『の立てる音がモデルとの説もあり』、『かつてはスカシチャタテムシ』(チャタテ亜目ケチャタテ下目ホソチャタテ科Stenopsocus 属スカシチャタテ Stenopsocus pygmaeus のことであろう)『の羽音を耳にした人が「隠れ座頭が子供をさらいに来た」などといって子供を脅していたともいう』。『昭和に入ってからも人をさらうという話があり、昭和』十『年代には、東京の青梅市に疎開していた少女が行方不明となり、隠れ座頭に攫われたと大騒ぎになって一大捜査が行なわれた事例がある。その少女は無事に発見されたものの、その後も何度も行方不明になったという』。『神奈川県津久井郡では、夜中に箕を戸外に出すと、隠れ座頭が箕を借りて行ったり、踏みがら(精穀器具)で物を搗く音を立てるといい、そっと行ってみると隣の家で踏みがらを搗いていたりするという。千葉県印旛郡にも似た伝承があり、米搗きに似た音を立てることから狸の腹鼓ともいわれた』。『相州の津久井(現・神奈川県津久井郡)などでは踏唐臼(ふみからうす)の下に隠れている妖怪ともいわれた』。『隠れ座頭の語源は隠れ里ともいわれるが』、『これは隠れ座頭が広く奥羽・関東に渡って巌窟の奥に住む妖怪と信じられ、常人の目に見えない巌窟などの住民と考えられたことから、そのような地底の国が隠れ里と名づけられたことが由来とされている』。『本来の隠れ里は昔話などで理想郷のように語られることが通例だったが、人々の信仰が変化して怪物と解釈されるようになり、座頭の職業に若干の神秘性を伴って隠れ座頭の伝承になったものと考えられている』。『隠れ里にいった者は裕福になれるが、隠れ座頭の足音を聞いた者も裕福になれるとされる』。『茨城県では、隠れ座頭の餅を拾うと長者になるという』。『秋田県横手市でも福を授けるという伝承があり、隠れ座頭の姿はかかとのない盲人で、市の立つ日にこれを見つけると長者になるといわれた』。『また』、『北海道の熊石町(現・八雲町)の黒岩という集落にあった洞窟には、円空上人の作った地蔵尊が安置されているが、この洞窟に隠れ座頭が住んでおり、正直者が洞窟を訪れると宝物を授けたという』とある。

「弘賢隨筆」(ひろかたずいひつ)は幕府御家人の右筆で国学者であった屋代弘賢(やしろひろかた 宝暦八(一七五八)年~天保一二(一八四一)年)の考証随筆。全六十冊。当該部は所持しないので示せない。

「諺語大辭典」(げんごだいじてん)は既出既注であるが、再掲する。国文学者藤井乙男(おとお 慶応四(一八六八)年~昭和二一(一九四六)年)の編になる明治四三(一九一〇)年有朋堂刊の俗諺の辞典。

「菅江眞澄の文化年中の紀行」多数ある(ウィキの「菅江真澄」を参照)ので比定出来ない。ただ、言えることは、文化年中(一八〇四年~一八一八年)には菅江は蝦夷地に渡航しておらず、これは伝聞或いは以前の蝦夷地探訪(天明八(一七八八)年から寛政四(一七九二)年の間)の際の追想と思われる。

「北海道渡島の江差に近い海岸に、黑岩と稱する窟あつて圓空上人作の地藏を安置」現在の北海道二海郡八雲町熊石黒岩町の「円空上人滞洞跡」。ここ(グーグル・マップ・データ)。「八雲町」公式サイト内のこちらに、寛文五(一六六五)年に『松前に渡った円空上人は約』二十『ヶ月を蝦夷地で過ごし、熊石地区黒岩の洞窟にも滞留し、いくつかの作物を残した。根崎神社のご神体・聖観音立像や北山神社、相沼八幡神社のご神体である二つの来迎観音像が円空仏である。(ただし、円空仏像は公開していない。)』とある。地蔵は現存しないと考えられる。

「高田與淸の相馬日記」国学者、高田(小山田)与清(おやまだともきよ 天明三(一七八三)年~弘化四(一八四七)年:武蔵国多摩郡小山田村生まれ。村田春海らに師事し、故実の考証学を専門とし、平田篤胤・伴信友とともに「国学三大家」と称された。天保二(一八三一)年には史館に出仕し、後期水戸学にも影響を及ぼした)が文化一四(一八一七)年八月十七日、神田川河畔を出発し、千葉まで旅行した際の十一日間の日記。題名は平将門が本拠とした城跡(現在の千葉県相馬郡)を訪ねる事が一応の目的であったことに由来する。「奈良女子大学学術情報センター」のこちらで原本画像全篇を視認出来るが、探すのが面倒。悪しからず。

「隱れ座頭と云ふ新種の化物は、其隱里の誤傳であつたことが容易に知り得られる」柳田先生、そこまで鬼の首捕ったように指摘されるのであれば、序でに古墳もあると、なんで、仰らないかなぁ?

 

 隱里から器具を借りた話は此外にも段々ある。津村氏の譚海卷四に、下總成田に近き龍光寺村とあるのは、印旛郡安食(あじき)町大字龍角寺の誤聞で、卽ち盜人とも隱れ座頭とも言うた同じ穴のことらしい。窟は大なる塚の下にあり、これを築造した石はこの地方には産せぬ石材で、これに色々の貝の殼が附いて居た。「村の者は隱里とてそのかみ人住める所にて、好き調度など數多持ちたり、人の客などありて願ひたるときは器を貸したり、今も其を返さで持ち傳へたるものありと云へり」とある。「相馬日記」より少し前に出た著書である。又同じ郡の和田村大字下勝田から同直彌へ行く路の田圃に面した崖の中腹にも、隱里と稱して道具を村民に貸した窟がある。昔は此穴の中で夜更には米を搗く音がしたと云ふ。明治三十四五年頃土木工事の時、此附近から錆た刀劔と二三の什器と二人分の骸骨とが出た。將門亂の時の落武者だと云ふことに決したさうである。又同郡酒々井(しゆすゐ)の町の北、沼に臨んで辨天を祭つてある丘の背面にも、同じ傳說ある窟があつて之を嚴島山の隱里と謂ふ。一名をカンカンムロとも呼ぶのは、この窟に入つて土の面を打つと、金石のやうな響がした爲である。維新以來この中に盜人も住み狐狸も住んで、今では到頭其址が分らなくなつた。

[やぶちゃん注:「津村氏の譚海卷四に、下總成田に近き龍光寺村とある」「譚海」は津村正恭(まさゆき)淙庵(そうあん)の著わした江戸後期の随筆。寛政七(一七九五)年自序。全十五巻。津村淙庵(元文元(一七三六)年?~文化三(一八〇六)年)は町人で歌人・国学者。名は教定。正恭は字で、号は他に三郎兵衛・藍川など。京都生まれで、後に江戸の伝馬町に移り住んで久保田藩(秋田藩)佐竹侯の御用達を勤めたが、細かい経歴は伝わらない。「譚海」は安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年の凡そ二十年間に亙る彼の見聞奇譚をとり纏めたもので、内容は公家・武家の逸事から政治・文学・名所・地誌・物産・社寺・天災・医学・珍物・衣服・諸道具・民俗・怪異など広範囲に及び,雑纂的に記述されてある。平賀源内・池大雅・石田梅岩・英一蝶・本阿弥光悦・尾形光琳などの人物についての記述も見える。多くの文人と交流のあった彼の本領は雅文和歌であったが、今、彼の名は専らこの「譚海」のみで残る(以上は、ウィキの「津村淙庵」及び平凡社「世界大百科事典」と底本解説を参照した)。私は同書の電子化注も手掛けているが、未だ「卷の二」の為体である。以下に原文(「卷の四」の「下總國成田石の岩屋の事」)を示す。一部に私が歴史的仮名遣で読みを附し、読点も追加してある(底本は一九六九年三一書房刊「日本庶民生活史料集成 第八巻」所収の竹内利美氏校訂版)。

   *

○下總成田不動尊の近きあたりに龍光寺と云(いふ)村有(あり)。夫(それ)に四つの井(ゐ)三つの岩やといふ物あり。此(この)井にて一村、飢渇に及(およぶ)事なし。岩屋は二つならびて大なる塚の裾に有(あり)、一つは別にはなれて、同じ如く塚のすそに有。岩屋の入口の大さ壹間(いつけん)に九尺、厚さも八九寸ばかりなる根府川石(ねぶかはいし)の如きを、二つをもて、扉とせり。岩屋の内、皆、大なる石をあつめて組(くみ)たてたるもの也。其石に、みな、種々の貝のから付(つき)てあり、此石、いづれも壹間に壹尺四五寸の厚さの石ども也。岩屋の内、六、七間に五、六間も有、高さも壹丈四、五尺ほどづつ也。此村邊に、すべて、かやうの石なき所なるを、いづくより運び集めて、かほどまで壯大成(なる)ものを造(つくり)たる事にや、由緖、しれがたし。村の者は隱里とて、そのかみ、人住(すめ)る所にて、よき調度など、あまた持(もち)たり。人の客などありて、ねぎたる時は、うつはなど、かしたり、今もそれをかへさで、もちつたひたるものあり、といへり。

   *

「印旛郡安食(あじき)町大字龍角寺」千葉県印旛郡栄町(さかえまち)龍角寺の内であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。安食は現在はここ(グーグル・マップ・データ)で龍角寺の北西。はい、前のリンクした地図を見ましょう! 国指定史跡の岩屋古墳がありまっせ、柳田先生?! ウィキの「龍角寺岩屋古墳」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、方墳で、これは百十四基もある龍角寺古墳群の百五号古墳を指す、とある。『印旛沼北岸の標高約三十メートルの台地上に位置する。築造年代は古墳時代終末期の世紀前半頃との説と、七世紀中ごろとの説がある。これはこれまで岩屋古墳から検出された出土品が全くなく、主に横穴式石室の構造で築造時期についての論議がなされており、築造時代を推定する材料に欠ける上に、龍角寺古墳群内で岩屋古墳の前に築造されたと考えられる浅間山古墳の造営時期が、七世紀初頭との説と七世紀第二四半期との説があることによる』。『墳丘は三段築成で一辺七十八メートル、高さは十三・二メートル、幅三メートルの周溝と周堤が巡っている。同時期の大方墳である春日向山古墳(用明天皇陵)、山田高塚古墳(推古天皇陵)をもしのぐ規模であり、この時期の方墳としては全国最大級の規模であり、古墳時代を通しても五世紀前半に造営されたと考えられる奈良県橿原市の舛山古墳に次ぐ、第二位の規模の方墳である』。『南面には二基の横穴式石室が十メートル間隔で並ぶ。西側石室は奥行四・二三メートル、奥壁幅一・六八メートル、高さ二・一四メートルを測る。東側の石室は西側よりやや大きいが、現在は崩落している。石材は凝灰質砂岩で、この地方で産出される貝の化石を多量に含んだものである。被葬者は不明』一九七〇年に『墳丘と横穴式石室の測量調査が行われている』。『岩屋古墳は現在百十四基の古墳が確認されている龍角寺古墳群に属している。龍角寺古墳群は印旛沼北東部の下総台地上に、六世紀から古墳の造営が開始されたと見られており、当初は比較的小規模な前方後円墳や円墳が築造されていたと考えられている。その後、七世紀前半には印旛沼周辺地域では最も大きな規模の前方後円墳である浅間山古墳が造営され、岩屋古墳は浅間山古墳の後に造営された』。『浅間山古墳造営までの龍角寺古墳群は、丘陵内の印旛沼に面した場所に造られた古墳が多かったが、浅間山古墳以降は古墳群の北に当時存在した、香取海方面からの谷奥の丘陵上に築造されるようになった。岩屋古墳も香取海方面からの谷の奥に当たる場所に築造されており、これは印旛沼よりも香取海方面を意識した立地と考えられている』。『岩屋古墳以降、龍角寺古墳群ではみそ岩屋古墳など、方墳の築造が七世紀後半にかけて行われたと考えられている』。『岩屋古墳は測量の結果によれば一辺約七八メートル、高さ約十三・二メートルの方墳で、墳丘は三段築成されていて、一段目と二段目が低く三段目が高くなっている。墳丘周囲には南側を除く三方に約三メートルの周溝がめぐり、周溝の外側には外堤が見られる。これらを含めると』、『全体規模は百十メートル四方に達する。また』、『二〇〇八年に行われた測量調査により、墳丘南側の谷側から墳丘に向かって、斜路が作られていたことが判明した』。『埋葬施設である横穴式石室は墳丘の南側の裾部中央に二つあり、ともに羨道をもたない両袖式の玄室だけの構造である。東側の石室は長さ約六・五メートル、幅二メートル強、西側は四・二メートルである。石室は両石室とも木下貝層と呼ばれる印旛沼近郊の狭い範囲に露出する貝の化石を含む砂岩で築造されている。軟らかい石材であることもあって、長さ六十~百センチ、幅三十センチくらいに切った石を煉瓦を積むように互い違いに積み上げている。また』、『石室内で棺を置いたと思われる場所には、浅間山古墳の横穴式石室で用いられた茨城県筑波山近郊で産出される片岩を使用している。龍角寺古墳群で岩屋古墳以降に築造されたみそ岩屋古墳などの方墳では片岩は用いられることがなく、貝の化石を含んだ砂岩のみが用いられることからも、古墳の築造順は浅間山古墳、岩屋古墳、岩屋古墳以外の方墳という順序であったことが推定できる』。『岩屋古墳の横穴式石室は、古文書の内容から一五九一年(天正十九年)にはすでに開口していたと考えられており、開口していた石室をめぐって』「貸し椀伝説」『という伝説が伝えられるなど、民間信仰の対象となっていた。古くから石室が開口していたことと、本格的な発掘がまだ行われていないため、岩屋古墳からはこれまでのところ副葬品は全く発掘されていない』とある。

「同じ郡の和田村大字下勝田から同直彌へ行く路の田圃に面した崖の中腹」現在の千葉県印旛郡栄町和田の南の、千葉県佐倉市下勝田(ここ(グーグル・マップ・データ))から同地区の南西に接する同町の直弥(ここ(グーグル・マップ・データの航空写真)で、下勝田から続く写真の中央附近が今も田園地帯である。この北側であろう。

「明治三十四五年」一九〇一~一九〇二年。

「錆た刀劔と二三の什器と二人分の骸骨とが出た」これってやっぱ「將門亂の時の落武者」なんぞではなくって、古墳の副葬品でしょう?!

「同郡酒々井(しゆすゐ)の町」現在の千葉県印旛郡酒々井町(しすいまち)はここ(グーグル・マップ・データ)だが、沼さえも現認出来ない。しかし、同町の北部には上岩橋大鷲神社古墳(ここ(グーグル・マップ・データ))とかありまっせ! 柳田先生?! そこれにこの直近には印旛沼新田という地名もあって、その西の川は北直近の印旛沼に繋がってる。印旛沼ならはっきり書くだろうから、この「沼」は印旛沼の南のこの印旛沼新田の附近に嘗てあったのではないかとも思ったりしたところが、「カンカンムロ」の方で検索に引っ掛かったぞ! やっぱり、古墳だ! 古墳! 「カンカンムロ横穴群」(グーグル・マップ・データ)だ! ここが「嚴島山の隱里」だと書いてある! 酒々井町教育委員会の『酒々井風土記「28 厳島山のカンカンムロ」』に詳しいぞ! 椀貸伝承も載ってるぞ! そんでもって、そこからの出土品の銅椀(七世紀後半と推定)の写真もそこにはあるぞえ! 柳田先生、「カンカンカムロ」の語源なんぞどうでもいい(というか、リンク先では『ある男が』借りた椀を『蔵に隠して返さずにいた。ところが』、『いつの間にか、蔵に隠したお椀とお膳は消えてしま』い、『それからというもの、いくらお願いしても品物が出てくることは無く、柏手の音が「カンカン」と「ほら穴」にひびくだけでした』。そこから、『そののち』、この『「ほら穴」は「カンカンムロ」と呼ばれるようになりました』とあって椀貸伝承と名称の因果が語られていて、こっちの方が腑に落ちる。柳田の言うように、わざわざこ『の窟に入つて土の面を打つ』何の必要があるというのか。序でに言えば、『金石のやうな響がした』のは、それこそ、その地下に古墳の玄室空間があったからかも知れんぞぅ)! これこそ椀貸の銅椀デッショウが!!

 

 利根川圖志卷二には下總猿島郡五霞村大字川妻の隱里の話を錄して居る。村の名主藤沼太郞兵衞の先祖、下野から來てこの村を拓いた頃、村に隱里あつて饗應の時は此處から膳椀を借りた。故あつて十具を留め返さず、今なおその一二を存す、朱漆古樣頗る奇品だとある。弘賢隨筆の隱れ座頭の穴はこれから近い。あるいは同じ穴の噂かも知れぬ。前に出した常州眞壁郡船玉の隱れ人の穴も、茨城名勝志にはやはりその名を隱里と稱へて居る。同郡上妻村大字尻手(しつて)の文殊院に、ここから借りて返さなかつた椀が大小二つあつた。内朱にして外黑く朱の雲形を描き、さらに金泥をもつて菊花及び四つ目の紋を書いてあつたと云ふ。四つ目の紋は我々にとつて一つの手掛である。越中市井(いちのゐ)の甲塚(よろひづか)、「越の下草」と云ふ書には甲塚の隱里とある。百五十年前既に田の中の僅な塚であつたと言へば、今では痕跡すらも殘つては居るまい。他の多くの例では前日に賴んでおくと翌朝出て居たと云ふに反して、これは一度歸つて來て暫く經つて行けばもう出て居たと言つて居る。この點だけが一つの特色である。

[やぶちゃん注:「利根川圖志卷二には下總猿島郡五霞村大字川妻の隱里の話を錄して居る」「利根川圖志」は下総国相馬郡布川村(現在の茨城県北相馬郡利根町布川)生まれの江戸末期の医師赤松宗旦(義知)(文化三(一八〇六)年~文久二(一八六二)年が著した、非常に優れた利根川の地誌で、私の愛読書でもある。以上は「卷二 利根川上中連合」の中に、「川妻」(現在の茨城県猿島(さしま)郡五霞町(ごかまり)川妻(かわつま)(ここ(グーグル・マップ・データ))附近)の項の後に、詳細な膳椀図とともに記されてある。私の所持する岩波文庫版(柳田國男校訂・昭和一三(一九三八)年刊)を読み込んでみたが、膳椀図の測定値の字が潰れてうまくないので、国立国会図書館デジタルコレクションの画像を取り込み、トリミングして示した。解説部は非常に読み易いので、電子化するまでもない。何より、膳椀図が詳細を極めて素晴らしい

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老婆心乍ら、敢えて注しておくと「畢てヽ」は「はてて」(果てて)で「使い終わって」の意、「置」の下は「けり」、「彈三郞狸」は先に出た団三郎狸と同じ。

「弘賢隨筆の隱れ座頭の穴はこれから近い。あるいは同じ穴の噂かも知れぬ」先に比定した千葉県野田市関宿町は茨城県猿島郡五霞町川妻から南東に七キロメートルほどであり、やや離れている。しかし、実は利根川の分岐点という地形的形状は異様に酷似した場所ではある。それを地図上で見るにつけ、ここは私も柳田の同一推定に賛同したくなる。

「茨城名勝志」小野直喜編で明三三(一九〇〇)年刊。

「同郡上妻村大字尻手(しつて)の文殊院」現在の茨城県下妻(しもつま)市尻手(しって)にある真言宗文殊院。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「越中市井(いちのゐ)の甲塚(よろひづか)」既出既注

「越の下草」越中国砺波郡下川崎村(現在の富山県小矢部市下川崎)生まれの武士で篤農家(農学者)宮永正運(みやながしょううん/まさかず/まさゆき 享保一七(一七三二)年~享和三(一八〇三)年)の著になる地誌三十二歳で五代目の家督を嗣ぎ、四十九歳で加賀藩より砺波・射水両郡の蔭聞横目役(かげききよこめやく:郡内の百姓の監視及び諸事の見分及び新田裁許を兼務した役らしい)・山廻役(やままわりやく:国境警備及び杉・欅・檜など樹木保全の見分役)を命じられ、新川郡を加えた越中三郡の産物裁許役をも兼ねた。著書に「荒年救食誌」「養蚕私記」「私家農業談」といった農学書があり、俳句もよくし、「桃岳句集」がある。「越の下草」は天明六(一七八六)年頃に書かれたもので、正運が加賀藩山廻役という役目柄、領内を広く廻ったことから、その折りの見聞を書き留めたもの。越中各地の地名由来・名所旧跡・神社仏閣の来歴・産物・山川湖池の様子から、伝説・奇談など、多岐多彩に亙る。流布本は三巻であるが、正運が編纂した稿本は六巻から成る。柳田の言うのは流布本で、稿本は東京大学史料編纂所で所蔵のそれ解読されて刊行されたのは一九八〇年のことであった(以上はウィキの「宮永正運」に拠った)。]

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