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2018/02/13

北條九代記 卷第十一 後宇多上皇御出家 付 將軍久明親王歸洛 / 卷第十一~了

 

      ○後宇多上皇御出家 付 將軍久明親王歸洛

 

 嘉元の年號、既に改元有りて、德治とぞ號しける。同二年七月に國母遊義門院、薨じ給ふ。御年三十八。後宇多上皇最愛の御事なれば、殊に悲歎の色深く、龍顏(りうがん)、日夜、御淚の乾く隙なし。世の中の事、今は絶(たえ)て、何をか御心に、露、慰み給ふべき。必ず一度は別離(わかれはな)るべき浮身の習(ならひ)、せめて後の世には、同じ蓮(はちす)の緣を結ばん爲、朝暮(てうぼ)の讀經も、只、此君にと、御囘向ましましけるぞ忝(かたじけな)き。同月二十六日、御落飾有りて、法名金剛性(こんがうしやう)とぞ申しける。睿算(えいさん)未だ四十歳に盈ち給ふ。法皇の尊號、蒙(かうぶ)らせ給ひ、是より、眞言祕密の窓(まど)に籠り、法流を汲(くん)で瑜伽三摩耶(ゆがさんまや)の口訣(くけち)を傳へ、嵯峨の大覺寺を造營し、寛平(くわんぺい)法皇の跡を慕ひ、世を逃れて行なはせ給ふこそ有難けれ。關東には如何なる子細にや、北條貞時入道の計(はからひ)として、將軍久明(ひさあきら)親王を都へ返し奉らんとて、同三年七月に鎌倉を出し參らせ、京都に歸しければ、力なく上洛あり。嘉暦三年十月に五十五歳にして薨ぜらる。摠(そう)じて天下の武將といへども、只、その名計(ばかり)にて、大小の政事は、皆、北條の掌握に落ちて、漸く年紀(ねんき)も久しければ、武職(ぶしよく)を替へて新(あらた)にせん、との事なるべし。其御跡は、前將軍久明親王の御子守邦(もりくにの)親王、今年、僅に七歳になり給ふを、征東大將軍に仰ぎて、鎌倉の主(しゆ)と册(かしづ)き奉る。貞時は剃髮の身なれば、北條相摸守師時と、陸奧守宗宣を執權の代(かはり)とし、連署の判形(はんぎやう)を致されけり。時世のみならず、人も亦、改(あらたま)り、内外に付きて物侘しく愁勝(うれひがち)なる世の中なり。

 

[やぶちゃん注:これが卷第十一の最終章である。「北條九代記」は残す所、一巻。鎌倉幕府の滅亡が遂にやってくる。

「嘉元の年號、既に改元有りて、德治とぞ號しける」嘉元四年十二月十四日(ユリウス暦一三〇七年一月一八日) 天変による災異改元とされている。

「同二年七月に國母遊義門院、薨じ給ふ」後深草天皇の皇女で後宇多天皇妃であった姈子内親王(れいしないしんのう 文永七(一二七〇)年~徳治二年七月二十四日(一三〇七年八月二十二日))。生母は中宮東二条院西園寺(藤原)公子。正応四(一二九一)年八月、院号宣下により、遊義門院となった。急病による。ウィキの「姈子内親王」によれば、「増鏡」によると、『後深草上皇(持明院統)の秘蔵の愛娘であった姈子内親王を後宇多上皇(大覚寺統)が見初め、恋心止みがたくついに盗み出してしまったという。持明院統と大覚寺統は当時朝廷を二分して対立していたため、これは大事件だったようである。事件の詳細は不明だが、その後』、『上皇は数多い寵妃の中でも姈子内親王を別格の存在としてこの上なく大切に遇したといい、後に彼女の急逝を悼んで葬送の日』(ここに出る通り、没後二日後の七月二十六日)『に出家したことから見ても、上皇が姈子内親王を深く寵愛したのは事実であったらしい』とある(下線やぶちゃん)。

「龍顏(りうがん)」天子の顔。「りよう(りょう)がん」とも読む。

「世の中の事」上皇としての院政の政務。但し、後宇多天皇は実際には第一皇子である後二条天皇の治世を翌徳治三(一三〇八)年の後二条天皇崩御まで院政を行っている。その後、天皇の父(治天の君)としての実権と地位を失い、後醍醐天皇即位までの間、政務から離れたが、後、持明院統の花園天皇を挟んで、彼の第二皇子である尊治親王(後醍醐天皇)が文保二(一三一八)年に即位すると、再び、院政を開始している。元亨元(一三二一)年、院政を停止し隠居し、以後は後醍醐天皇の親政が始まった。元亨四(一三二四)年六月、大覚寺御所にて崩御、満五十六歳であった(以上はウィキの「後宇多天皇」に拠った)。

「浮身」浮世の身。「憂き身」を掛ける。

「睿算(えいさん)」以前に出た宝算と同じ。天子の年齢を謂う。

「未だ四十歳に盈ち給ふ」当時、後宇多天皇は数え四十二であるから、ここは「未だ」を外し、「四十歳に盈ち給ふたるばかりなりけり」ぐらいが正しい。底本頭書には『給はずの誤り』とするが、これもまた、誤りである。

「眞言祕密の窓(まど)に籠り、法流を汲(くん)で瑜伽三摩耶(ゆがさんまや)の口訣(くけち)を傳へ」ウィキの「後宇多天皇」によれば、『仁和寺で落飾(得度)を行い、金剛性と称した。そのとき、大覚寺を御所とすると同時に入寺、大覚寺門跡となった。翌徳治』三(一三〇八)年『には後二条天皇が崩御したため、天皇の父(治天の君)としての実権と地位を失い、後醍醐天皇即位までの間、政務から離れる。この頃から、真言密教に関心を深め』、五年後の正和二(一三一三)年、『かねてからの希望であった高野山参詣を行った。参詣の途中、山中にて激しい雷雨に遭い、気を失うほど疲労してしまい、供をしている者が後宇多法皇に輿に乗られるように勧めたが、高野山に到着するまで輿に乗らなかったという。真言密教に関する著作として』「弘法大師伝」や「御手印遺告」などを著わしている。『大覚寺で院政を執った』際、『法印・法眼・法橋などの称号・位階を設け、この称号の授与に関する権限を大覚寺に与える永宣旨』(永代に亙って有効とする宣旨)『を出した』(但し、この「永宣旨」は明治維新を迎えると同時に廃止されている)。『また、仁和寺の御室門跡が法性法親王の没後、寛性法親王が後任に決まるまで、別当を代行していた禅助(中院通成の子)に迫って』、『門跡だけが知り得る秘儀「密要抄」の内容の伝授を受けようとして法性に阻止されている(「密要抄」のような秘儀の相承は門跡の正統性の要件の』一『つであり、師弟関係にない他寺の人間に流出することは』、『門跡の存続に関わる事態であった)。これは後宇多院による御室門跡の事実上の乗っ取り策であったとみられているが、これが失敗に終わったために』、『自らを祖とする「大覚寺法流」と呼ばれる新たな門跡の素地となる法流を作りだした』のであった、とある(下線やぶちゃん)。「瑜伽三摩耶(ゆがさんまや)」「瑜伽」は「ヨーガ」と同義で、意識を完全に制御して、心の神秘的な合一を図る行法を指し、「三摩耶」とは、その論理に基づいて三密加持〈自己の身体的動作によって諸尊の動作を模し(「羯摩(かつま)印」と称する)、口にそれらの真言を誦し(「法印」)、意識の中でそれらを象徴する形象(「三昧耶形(さんまやぎょう)」)を観想(「三昧耶印」)すること〉によって、自己を唯一の実在界であるところの仏世界の一個の象徴(「大印」)と化して即身成仏をするという密教の根本の実現を指す。「口訣(くけち)」は「口伝」と同義で、奥義・秘伝などを口伝えに伝授することを謂い、ここはそれを伝授されたと称している(先の下線部参照)ことを指す。

「嵯峨の大覺寺を造營」「造營」は正確には「再興」とすべきところ。現在の京都府京都市右京区嵯峨大沢町(ここ(グーグル・マップ・データ))にある、時代劇の撮影でお馴染みの大覚寺(だいかくじ)。現行では真言宗大覚寺派大本山で山号を「嵯峨山」と称する。正式には旧嵯峨御所大本山大覚寺。本尊は不動明王を中心とする五大明王で、開基は嵯峨天皇。嵯峨天皇の離宮を寺に改めた皇室所縁の寺。ウィキの「大覚寺」によれば、『嵯峨野の北東に位置するこの地には、平安時代初期に在位した嵯峨天皇が離宮を営んでいた。嵯峨天皇の信任を得ていた空海が、離宮内に五大明王を安置する堂を建て、修法を行ったのが起源とされる。嵯峨天皇が崩御してから』三十数年後の貞観一八(八七六)年、『皇女の正子内親王(淳和天皇皇后)が離宮を寺に改めたのが大覚寺である。淳和天皇の皇子(嵯峨天皇には孫にあたる)恒貞親王(恒寂(ごうじゃく)法親王、仁明天皇の廃太子)を開山(初代住職)とした』。その後のこの時、『後宇多法皇が大覚寺を再興』、『法皇は伽藍の整備に力を尽くしたため、「中興の祖」と称されている。また、ここで院政を行ったため嵯峨御所』『とも呼ばれ、法皇の父である亀山法皇』『から続く系統は当寺にちなんで「大覚寺統」と呼ばれ、後深草天皇の系統の「持明院統」と交代で帝位についた(両統迭立)』。『この両系統が対立したことが、後の南北朝分裂につながったことはよく知られる』。元中九(一三九二)年になってやっと『南北朝の和解が成立し、南朝最後の天皇である後亀山天皇から北朝の後小松天皇に「三種の神器」が引き継がれたのも、ここ大覚寺においてであった』。但し、『南北朝時代を通じて南朝方寺院であったというのは事実ではなく、南北朝分裂後に南朝方の性円法親王(後宇多法皇の皇子)と北朝方の寛尊法親王(亀山法皇の皇子)が相並ぶ分裂状態が続いたものの、南北朝が和解した時期には北朝・室町幕府方の有力寺院となり、後に室町幕府』三『代将軍であった足利義満の子・義昭を門跡に迎える素地となった』とある。

「寛平(くわんぺい)法皇」第五十九代天皇宇多天皇(貞観九(八六七)年~承平元(九三一)年)。彼の在位は仁和三年八月二十六日(八八七年九月十七日)から寛平九年七月三日(八九七年八月四日)までで、寛平(八八九年~八九八年)を主たる治世としたことによる呼称。彼は寛平九(八九七)年七月、皇太子敦仁親王(醍醐天皇)を元服させて即日、譲位している。ウィキの「宇多天皇」によれば、『この宇多の突然の譲位は、かつては仏道に専心するためと考えるのが主流だったが、近年では藤原氏からの政治的自由を確保するためこれを行った、あるいは前の皇統に連なる皇族から皇位継承の要求が出る前に実子に譲位して己の皇統の正統性を示したなどとも考られている』とある。譲位後は『仏道に熱中し始め』、昌泰二(八九九)年十月に『出家し、東寺で受戒した後、仁和寺に入って法皇となった。さらに比叡山や熊野三山にしばしば参詣』する。(この間、「昌泰の変(しょうたいのへん):昌泰四(九〇一)年一月に左大臣藤原時平の讒言によって醍醐天皇が宇多天皇の寵臣であった右大臣菅原道真を大宰員外帥として大宰府へ左遷し、道真の子供や右近衛中将源善らが左遷又は流罪となった事件)が起こっている)。延喜元(九〇一)年十二月、『宇多は東寺で伝法灌頂を受けて、真言宗の阿闍梨となった。これによって宇多は弟子の僧侶を取って灌頂を授ける資格を得た。宇多の弟子になった僧侶は彼の推挙によって朝廷の法会に参加し、天台宗に比べて希薄であった真言宗と朝廷との関係強化や地位の向上に資した。そして真言宗の発言力の高まりは宇多の朝廷への影響力を回復させる足がかりになったとされる』。。延喜二一(九二一)年十月二十七日には『醍醐から真言宗を開いた空海に「弘法大師」の諡号が贈られているが、この件に関する宇多の直接関与の証拠はないものの、醍醐の勅には太上法皇(宇多)が空海を追憶している事を理由にあげている』とある。

「有難けれ」恐れ多い滅多にないことである、であるが、以下の久明更迭を考えると、筆者は「残念なことである」と言っているようにも読める。

「北條貞時入道の計(はからひ)として」既に執権を師時に譲っているが、実権は得宗である彼にあった。

「久明(ひさあきら)親王」「久明親王征夷將軍に任ず」の私の注を参照されたい。

「同三年七月に鎌倉を出し參らせ」京都に歸しければ、力なく上洛あり」京都現着は八月。

「嘉暦三年」一三二八年。

「五十五歳」五十三歳の誤り

「年紀(ねんき)も久しければ」傀儡としての将軍職在位期間も長くなったので。解任時、数え三十三歳。第七代将軍就任・下向は正応二(一二八九)年で十四歳の時であった。

「武職(ぶしよく)」将軍職。

「守邦(もりくにの)親王」(正安三年五月十二日(一三〇一年六月十九日)~元弘三年八月十六日(一三三三年九月二十五日)は鎌倉幕府第九代、最後の征夷大将軍。鎌倉幕府将軍の中で二十四年九ヶ月と在職期間は最長。ウィキの「守邦親王によれば、徳治三(一三〇八)年八月(この年は後の徳治三年十月九日(一三〇八年十一月二十二日)に花園天皇即位のために延慶に改元している)、『父に代わってわずか』八『歳で征夷大将軍に就任した。当時幕府の実権は執権の北条氏(中心は得宗家)が握っており、将軍は名目的な存在に過ぎなかった』。後、『その北条得宗家の当主である北条高時の地位すら』、『形骸化し、真の実権は長崎円喜ら御内人が握ることとなった。そのため、『将軍としての守邦親王の事績もほとんど伝わっておらず』、文保元(一三一七)年四月に『内裏(冷泉富小路殿)造営の功によって二品に昇叙されたことがわかることくらいである』。『また、題目宗』(ここは日蓮宗を指す)『の是非を問う問答対決の命を』、『亡き日蓮の六老僧の一人日朗(武蔵国長栄山池上本門寺住職)に下している。日朗は高齢ゆえに弟子日印を出し』、文保二(一三一八)年十二月二十日から翌元応元(一三一九)年九月十五日にかけて』、『題目宗と日本仏教全宗派と法論を戦わせた(鎌倉殿中問答)。結果、日印は仏教全宗派を論破し、幕府は題目宗の布教を正式に認め』ている。元弘三(一三三三)年、『後醍醐天皇による倒幕運動(元弘の乱)が起きたが、その際』、『後醍醐天皇の皇子護良親王が発した令旨では討伐すべき対象が「伊豆国在庁時政子孫高時法師」とされており、守邦親王は名目上の幕府の長としての地位すら無視されていた』。元弘三年五月二十二日、『足利義詮や新田義貞の攻撃により』、『鎌倉は陥落』、『鎌倉幕府は滅亡した。同日に得宗の高時以下北条一族の大半は東勝寺で自害して果てた(東勝寺合戦)が、その日の守邦親王の行動は何も伝わっておらず、ただ将軍職を辞して出家したという事実のみしかわかっていない。守邦親王は幕府滅亡後の三カ月後に薨去したと伝えられているが、その際の状況も全くわかっていない』とある。死去は鎌倉とされるが、それも不確かで、埼玉県比企郡小川町(おがわまち)の現在の曹洞宗大梅寺(たいばいじ。(グーグル・マップ・データ))で病没し、ここに葬ったという伝承もある。

「册(かしづ)き」大切に養育し。本書では前に用例有り。

「貞時は剃髮の身なれば、北條相摸守師時と、陸奧守宗宣を執權の代(かはり)とし、連署の判形(はんぎやう)を致されけり」これはおかしな謂いである。師時はこの七年も前の正安三(一三〇一)年八月、貞時の出家に伴って執権職に就いているのだから、「代」わりであるはずがない。

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