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2018/03/31

明恵上人夢記 59

 

59

一、同廿九日の夜、夢に云はく、上師の御頸の邊に不快の氣有り。予をして之を探らしむ。卽ち、云はく、「御房、滅に入りぬれば、此の事を止められず。」と云々。不文菩薩戒羯磨文(こんまもん)三□□□□□各七八人許り、其の機根に應じて之を講授すべし。喜悦して覺め了(をは)んぬ。

[やぶちゃん注:「□」は判読不能或いは虫食い。字数は私のいい加減な推定(底本は一つの長方形)であるので信用されないように。

「同廿九日」「58」に続くと考えるなら、建保七(一二一九)年二月二十九日である。

「上師」私は既にほぼ一貫して、これを母方の叔父で出家最初よりの師である上覚房行慈としてきた。ここでも同じ立場を採る。明恵は建仁二(一二〇二)年二十九歳の時、この上覚から伝法灌頂を受けている。上覚は嘉禄二(一二二六)年十月五日以前に八十歳で入寂していると考えられることから、この頃は未だ生きていたと考えてよい。

「御房、滅に入りぬれば、此の事を止められず」これは明恵の台詞ではなく、上師の台詞と採る。何故なら、そうであってこそ最後の「喜悦して覺め了(をは)んぬ」が生きてくると考えたからである。「滅」は煩悩や苦悩の消滅及びその先にある「滅度」、即ち、悟りの境地としての「涅槃」と採る。

「云々」は明恵が夢の続きを忘れてしまった場合に多く用いる。ここで切れて、後の夢とは無縁なケースもあるが、ここはしかし、最後の「喜悦」が利いているから、私は夢の中間部がごっそり忘れられてしまい、その最後がこうだったという形で採りたい。そのつもりで訳も読まれたい。

「不文菩薩戒羯磨文」不詳。頭の「不文」がなければ、「菩薩戒羯磨文」は「瑜伽師地論」から、彌勒菩薩が説いたとされる受戒法を抄出して三藏法師玄奘が訳したものである。解説としては『印度學佛教學研究』(第五十四巻第二号平成一八(二〇〇六)年三月発行)の吉村誠論文玄奘の菩薩戒―『菩薩戒羯磨文』を中心に―(PDF)が詳しい。ウィキの「菩薩によれば、『菩薩戒は菩提心や仏性に基づくものとされ、形式よりも動機や心を重視する傾向がある』とある。明恵好みである。「不文」は取り敢えず、不立文字(文字にすることが出来ない奥義)の意で採った

「之を探らしむ」というのは、素手で、直接に、患部に触れて探るのでは、あるまい、と私は推理した。則ち、ある種の超常的能力によって観想・透視させようとしたのだと思う。そう採って訳を読まれたい。

「機根」仏の教えを聞いて悟りを開くための基盤となる宗教的性質や能力。

「講授すべし」上師から、その特殊な秘儀としての「菩薩戒羯磨文」の講説を受けるのがよい。]

 

□やぶちゃん現代語訳(脱落があるので上手く訳せない。悪しからず)

59

 同年二月二十九日の夜、こんな夢を見た。

 

 上覚上師が、御頸(おくび)の辺りに、何やらん、不快の気配を感じておられる。そこで、私を呼んで、その不快な辺りを探らせなさった。しかし、即座に上師は、

「御房は、今、最早、滅に入っておるので、このような世俗の者の体の痛みなどという瑣末なことに関わることはできぬようになっておる。だから、この私の下らぬ首筋の不快感を止めるなどという馬鹿げたことはやれぬ。」

と仰せられた……。

……不立文字としての「菩薩戒羯磨文(ぼさつかいこんまもん)」を三…………各々、七、八人ばかりで、それぞれの者が、今、達しているところの機根に応じて、その奥義の菩薩戒を講授するのがよい、と私は感じた……そうして……心の底から……喜悦した……

 

……というところで目覚め、夢は終わった。

 

小泉八雲 神國日本 戶川明三譯 附やぶちゃん注(31) 禮拜と淨めの式(Ⅸ) 卜占

 

 凡そ祖先崇拜の永續的の形をもつたものは、一種或は多種の筮卜[やぶちゃん注:「ぜいぼく」。意味は筮竹(ぜいちく)を使って占うことであるが、原文は“divination”であるから、ここは広義の「占術」のこと。平井呈一氏も、同じく、この前後を『筮卜法』と訳しておられるが、ここで、小泉八雲は、洋の東西を問わない多様な占いを述べており、直後には、本邦の例として、筮竹を用いない古式の「鹿卜」(ろくぼく/まにぶと)や「粥占」(かゆうら)、更には、物を用いない聴覚だけの「辻占」(つじうら)の例まで挙げられてもいるのであるから、私には適切な訳とは思われない。「卜占(ぼくせん)」でよいだろうに。の方法をもつて居るが、神道もこの一般の法に洩れない。笙卜が古代の日本に於て、嘗てギリシヤ人及びロオマ人の間にもつて居たやうに、公式上重要なものとなつて居たかはどうか、それは今疑問となつて居る。併し支那の星占ひ、魔法、身上判斷[やぶちゃん注:原文は“fortunetelling”。運勢判断のこと。平井氏は『易』と訳しておられる。]等の傳來したより餘程以前に、日本人はいろいろな種類の筮卜を行つて居た、それは昔の詩歌、記錄、奉祭等に依つて證明される。吾吾[やぶちゃん注:「われわれ」。我々。底本では一字目の「吾」の後が改行になっているために、「々」が用いられていないだけのことである。]はまた大きな祭祀に件なつて、官廰の筮卜者の事の記されたのを見る。筮卜には、骨に依つたのもあり、鳥に依つたのや、米、大麥の粥に依つたの、足跡、地に立てられた棒に依り、また公道で行く人の話を聽く事に依るのもある。これ等の筮卜の古い方法は殆どすべて――恐らくすべててあらうか――なほ人々の間に一般に用ひられて居る。併し一番古い公式の筮卜は、鹿若しくは他の動物の肩胛骨を焦がし、それに依つて生ずる焦げる音を聞き別ける事に依つて【註】なされた[やぶちゃん注:これは戸川明三氏のトンデモ語訳である。原文は“But the earliest form of official divination was performed by scorching the shoulderblade of a deer, or other animal, and observing the cracks produced by the heat.”で、無論、「しかし、最初期の正式な卜占法は、鹿や他の動物の肩甲骨を焦がし、その熱によって生じた骨の表面の亀裂を観察することによって行われた。」である(これは英語の苦手な私でも、普通の中学生でも過たず訳せる)。戸川は“the
cracks
”の部分を、物に罅が入って割れた時の「音」のオノマトペイアと採ってしまったのである。にしても、かの秋骨先生が亀卜も鹿占も知らなかったというのは、ちょっと意外中の意外である。吃驚した。]。後になつては龜の甲良[やぶちゃん注:ママ。]が同じ目的のために用ひられた。筮卜者は特に皇室に附屬して居たらしい。本居(宜長)は十八世紀の後半に、其時代になほ行はれて居た筮卜を以て、皇室の仕事の一部として、それに就いて語つて居る。曰く『時の終りに至るまて、御門は日の女神の子てある。御門の心意は、日の女神と、思考に於ても、感情に於ても全く一致して居る。御門は決して新しい工夫を探さない。併し神代から始まつた先例に從つて治めて行く。そして若し疑はしい事があれば、大なる女神の心意を明らかにしてくれる筮卜にその決定を求める』と。

[やぶちゃん注:以下の註は底本では、ポイント落ちで、全体が四字下げである。]

註 筮卜のこの形に關して、サトウ氏は、ヂンギス汗の時代に、モンゴオル人に依つてそれが行はれ、今日なほ韃靼[やぶちゃん注:「だつたん(だったん)」。原文は“Khirghis Tartan”。戸川氏は地域としての「モンゴル高原のタタール部」として訳しているようである。平井氏は『ギルギス韃靼人の間で』とこの前後を訳しておられる。原文からは平井氏の方が正しい気がする。]のカアギス族に依つて行はれて居ると云つて居る――これは古い日本の種族が孰れにその起原を有するやに關しての非常に興味ある事實である。

 右の公式の筮卜の例については、アストン氏の『日本紀』の譯第一卷、一五七、一八九、二二七、二二九、二二七頁を見よ。

[やぶちゃん注:平井呈一氏はこの原注に先立って、本文の最後にある本居宣長の「直毘靈」(なおびのみたま:宣長四十二歳の時の著。全一巻。明和八(一七七一)年、成稿。当初は「古事記傳」第一巻の総説に収められたが、後の文政八(一八二五年)に単行本として刊行した。表題は「直毘神のみたまによって漢意(からごころ)を祓い清める」の意で、「古事記」の本質を体系的、且つ、簡潔に論述したもの。宣長の「古道論」を代表する著作)の当該箇所が引かれている。漢字を概ね、恣意的に正字化して以下に示す。

   *

千万御代(チヨロヅミコ)の御末(ミスエ)の御代(ミヨ)まで、天皇命(スメラミコト)はしも。大御神(オホミカミ)の御子(ミコ)とましまして。

御世々々(ミヨミヨ)の天皇(スメラギ)は。やがて天照大御神(アマテラスオホミカミ)の御子(ミコ)になも大坐(オホマシ)ます。かれ天津神(アマツカミ)の御子(ミコ)とも。日(ヒ)の御子(ミコ)ともまをすぞ。

天(アマ)つ神(カミ)の御心(ミココロ)を大御心(オホミココロ)として。

  何(ナニ)わざも。己命(オノレミコト)の御心(ミココロ)もてさかしだち賜はずて。ただ神代(カミヨ)の古事(フルコト)のままにおこなひ給ひ治(ヲサ)め給ひつつ。疑(ウタガ)ひおもほす事しあるをりは。御卜事(ミウラゴト)もて天神(アマツカミ)の御心(ミココロ)を問(トハ)して物し給ふ。

   *

「アストン氏」イギリスの外交官で日本学者のウィリアム・ジョージ・アストン(William George Aston 一八四一年~一九一一年)。十九世紀当時、始まったばかりの日本語及び日本の歴史の研究に大きな貢献をした、アーネスト・サトウ、バジル・ホール・チェンバレンと並ぶ初期の著名な日本研究者である。ウィキの「ウィリアム・ジョージ・アストンを参照されたい。 

 

 少くとも有史時代になつては、笙トはあまり戰時に用ひられたとは思はれない――確にそれがギリシヤ及びロオマの軍隊に依つて用ひられたやうには用ひられなかつたらしい。日本の最大なる將軍――秀吉、信長の如き人――は前兆に關しては、全く不信心であつた。恐らく日本人は、その長い戰史の初期に於て、經驗に依り、前兆に從つて兵を動かし將軍は、前兆の如きものを眼中に置かなかつた戰ひに巧みな敵に對する場合、常に甚だしい不利の位置に立つ事を知つたに相違ないのてある。

 人々の間に行はれた筮卜の古い形の內にあつて、今日なほ殘つて居り、家族の間に尤も普通に行はれて居るのは、乾いた米を以てする筮卜である。公式には支那の筮卜がなほ盛んに行はれて居る。併し日本の身上判斷者[やぶちゃん注:原文は“fortune-teller”。前と同じで、これは「占い師」或いは平井氏のように『易者』の方がしっくりくる。]は、支那の書物を參照する前に、必らず神道の神々を呼び起こし、自分の客を迎へる室には、神道の神壇を置いて居るのを見るが、これは頗る興味ある事である。

進化論講話 丘淺次郎 第十三章 古生物學上の事實(4) 三 鳥類の先祖

 

     三 鳥類の先祖

 

Kyouryuu

 

[中生代の蜥蜴類]

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミング・補正して使用した。本図は全く同じものが、同じ丘淺次郎先生の生物學講話」の「第二十章 種族の死(4) 三 歷代の全盛動物で使用されており、そこで私は本種を爬虫綱双弓亜綱主竜形下綱恐竜上目鳥盤目鳥盤目鳥脚亜目ハドロサウルス上科ハドロサウルス科ハドロサウルス亜科エドモントサウルス属 Edmontosaurus の一種と同定した。最大級の所謂、「カモノハシ竜」の一タクソンで、特徴的な長い口腔には筋肉質の頰袋と奥に最大で六十列にも及ぶ密接した多数の歯を持ち、針葉樹食であったと推定されている。なお、図では当時の認識から後肢で屹立しているが、現行では通常は四足歩行していたと考えられている。]

 

 

 現今の動物中で、分類上最も區域の判然した部類は何であるかといへば、恐らく鳥類あらう。身體の表面に羽毛を被り、前肢が翼の形をなして居るものは、鳥の外にはないから、或る動物を捕へて之は鳥であらうか、または鳥以外の動物であらうかといふ疑の起ることは絶えてない。倂し、之は現在の動物だけに就いていうたことで、古い地層から出て來る化石までを勘定に入れると、決して斯くの如くはいはれぬ。中生代は鰐・蜥蜴の類の最も盛な時代であつたことは、前に述ベたが、その頃の蜥蜴類の中には上の圖に掲げた如くに、後足だけで立ち[やぶちゃん注:誤り。キャプションの私の注を参照。]、腰の骨なども餘程鳥類に近い類が澤山にあつて、之を竝べて見ると、恰も蜥蜴から漸々鳥類に變じ行く順路の如くに思はれる。斯く進んで或る處に達すれば、分類上、最早、蜥蜴の類に入れることも出來ず、また明に鳥類の方に編入することも出來ぬやうなものになる筈であるが、次の圖に掲げたのは、實際斯かる有樣の動物で、丁度蜥蜴類と鳥類との性質を半分づゝ具へて居る。この化石を研究した學者の中、或る人は之を鳥類に入れ、或る人は之を蜥蜴類に入れて議論も隨分あつたが、斯く議論の一定せぬのは、つまり、この動物が鳥と蜥蜴との中間に立つからで、今日の所では、之を鳥類の出來始めと見倣して居る。

 

Sisotyou

[最古の鳥]

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミング・補正して使用した。これは所謂、「始祖鳥」と日本で通称される(但し、これは現在では誤りなので廃止すべき呼称であると私は思う。後述)、鳥綱古鳥亜綱アーケオプテリクス目アーケオプテリクス科アーケオプテリクス属 Archaeopteryx の一種。アーケオプテリクス類に比定されている化石は破片を含め、現在まで十一個が発掘されているが、それらは総て後に出る、ドイツのゾルンホーフェン近郊の石灰岩堆積物中から発見されたものである。特にここに掲げられたものは特に知られたもので、最初の発見から三番目に見つかった「ベルリン標本」と名付けられたものである。現在はフンボルト自然史博物館蔵(当該化石(図のもの)発見されたのは一八七六年又は一八七七年と伝えられる)。ウィキの「始祖鳥」によれば、属名 Archaeopteryx の語源は、ギリシア語の「古代の」を意味する「archaios」と、「羽毛・翼」等の意の「pteryx」の合成。『アーケオプテリクスの最初の骨格化石の発見後、初めて鳥類と恐竜類の類縁関係を主張したのは、ダーウィンのブルドッグ(番犬)としても有名な』イギリスの生物学者トマス・ヘンリー・ハクスリー(Thomas Henry Huxley 一八二五年~一八九五年)で、一八六〇年代『後半のことであった』。『しかしその後、多くの恐竜が発見され』、『その多様性が非常に大きいことが明らかになるにつれ』、『ハクスリーが指摘した類似点は曖昧になり、さらに』、『発見された全ての恐竜について』、『鎖骨が退化消失していたことから』、『恐竜という生物の共有形質として「鎖骨の消失」が共有認識となり、鎖骨(叉骨)を持つ鳥類が鎖骨の消失した恐竜類から進化したという説は支持者を失っていった。多くの研究者は鳥類と獣脚類に類似があることを認めつつも、鳥類の祖先は恐竜の祖先でもあるがまだ鎖骨を失っていない槽歯類(Thecodont)であり、類似は収斂進化にすぎないという意見がその後百年近く主流とな』った。『その現状を覆し、鳥類は獣脚類から進化したという説を甦らせたのが』、アメリカの古生物学者ジョン・ハロルド・オストロム(John Harold Ostrom 一九二八年~二〇〇五年:一九六〇年代に於ける恐竜認識大変革を行った人物として有名。一言で言えば、彼の説は、恐竜はそれまで言われていたような爬虫類の大トカゲなのではなく、「大きな飛ばない鳥」であるというものである)『であり』、一九七三年の『ことであった。彼は獣脚類にも鎖骨を持つ者がいること、すなわち』、『恐竜の鎖骨は全て消失していたわけではないことを明らかにし、獣脚類起源説の最大の障害を取り除いただけでなく、鳥類と小型獣脚類のみが共有する特徴を』二十『以上も挙げた。鎖骨の有無という問題が消失した今、鳥類の特徴(叉骨、羽毛、翼、部分的に保存されていた親指)と恐竜類の特徴(長く突き出た距骨、歯間中隔の存在、坐骨の閉鎖孔突起、尾の血道弓)を兼ね備えるアーケオプテリクスは、この主張を裏付ける決定打となった。後の研究では中国遼寧省から羽毛恐竜が発見されるなど、アーケオプテリクスと恐竜をつなぐ更なる証拠が見つかっている』。『ただし、鳥類は恐竜から進化したとする説には、アーケオプテリクスの化石(ジュラ紀後期の』約一億五千万年前年前『)が、当時最古の羽毛を持つ恐竜の化石(白亜紀前後の』一億二千五百万年前頃を『中心に発見されていた)よりも古いという問題が残されていた。それを解決する化石が』二〇〇九年に『発見された。中国東北部のジュラ紀後期』(一億六千百万年から一億五千百万年前)『の地層から、トロオドン類』(竜盤目獣脚亜目テタヌラ下目トロオドン科 Troodontidae)『の化石が発見された。これは、鋭いかぎつめを持ち全長約』五十センチメートルの『トロオドンと呼ばれる肉食恐竜の仲間である。羽毛を持った恐竜前後の脚に風切り羽があるが、鳥類や白亜紀の羽毛恐竜の羽の、先端に向かって細くて左右非対称である羽とは異なり、それは団扇のような左右対称系である。そのため、恐竜は最初に前後の脚に原始的な羽を持ち、やがて前脚の翼が発達して飛翔能力を身につけ、鳥類に進化したと考えられた』。『アーケオプテリクスは現生の鳥類の祖先に近い生物であるものの、直接の祖先では無いと考えられている。アーケオプテリクスが栄えた当時の鳥類にどれほどの多様性があったのかについては、今なお議論の余地がある』とある(下線やぶちゃん)。]

 

 この化石の略々完全なものは現今二つよりない。羽毛一枚位は他の博物館で見たこともあるが、全形の解るものはロンドンベルリンとの博物館に各々一個づゝあるだけで、孰れも鄭重に保存してある。兩方ともに發見せられた處は、ドイツ聯邦の一なるバヴァリア國のソルンホーフェンというて、有名な石版石の出る村であるが、こゝは奇態に完全な化石の出る處で、海月(くらげ)の化石などといふ實に珍しい品もこゝから發見になつた。丁度こゝにヘーベルラインといふ化石の好きな醫者が住んで居て、常に面白い化石を掘り出すことを樂[やぶちゃん注:「たのしみ」。]にして居たが、こゝに述べた化石の一を千八百六十一年に發見し[やぶちゃん注:アーケオプテリクスの化石の最初の発見。図のものではない。]、その後十六年を過ぎて明治十年[やぶちゃん注:一八七七年。]に至り、また他の一を發見した。ロンドンにあるは、その古い方で、頭の處が缺けて居るが、ベルリンにある新しい方は、殆ど完備して、全部明瞭に解る。この動物の形狀をいうて見れば、上圖に示した通りで、上下の顎は鳥の嘴とは全く違つて細かい齒が竝んで生え、前足からは立派な羽毛が生えて居るから、翼と名づけて差支はないが、指が三本もあつて各々末端に爪を具へて居る。特に現今の鳥と著しく違ふ所は尾の骨である。現今の鳥にも孔雀・「やまどり」[やぶちゃん注:キジ目キジ科ヤマドリ属ヤマドリ Syrmaticus soemmerringii。]等の如く尾の長いものは幾らもあるが、之は皆尾の羽毛が長いばかりで、骨骼にして見れば、孰れも尾は極めて短い。然るにこの動物では尾の骨が蜥蜴か鼠の尾の如くに長く、脊椎が二十個以上も連なつて尾の中軸をなし、その兩側から羽毛が竝んで生えて居る。一言でいへば、この動物は骨骼からいへば、この動物は骨骼に於ては、その頃の蜥蜴類の或る種屬と甚だ似たもので、羽毛を被り、翼を有するといふ點では確に鳥類の特徴を具へたものである。

 

Huruitorinokaseki

[やゝ新しき地層から出た鳥の化石]

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミング・補正して使用した。これは間違いなく、中生代白亜紀後期に北アメリカに生息していた海鳥類である鳥綱真鳥亜綱ヘスペロルニス目ヘスペロルニス科ヘスペロルニスHesperornis(タイプ種:Hesperornis regalis)である。ウィキの「ヘスペロルニス」によれば、『長い首・長いクチバシを持つ』、『その体型は現在のアビ類やウ類に似るが、体長は』百八十センチメートルと、かなり、『大型である。翼は小さく』、『痕跡程度に退化しており、現在のペンギン類と同様に、飛ぶことはできない。しかし、ペンギンが翼が変化したフリッパーで海中を泳ぐのに対して、ヘスペロニスは水掻きを持つ後足で泳ぐ。そして現在の鳥類と決定的に異なる点は、クチバシに歯を持つことである。このクチバシを使い、海中で魚類を捕食していたと推定される』。『ヘスペロルニスは、白亜紀に登場した真鳥類(Euornithes)のグループに含まれるが、白亜紀末期に絶滅した。現存鳥類にヘスペロルニス類の子孫はない』とある。リンク先の全骨格図と本図は同じものである。同ウィキの「外部リンク」のある生態想像図(複数有り、本骨格図もある)は見なきゃ! 損!)。]

 

 この化石の出たのは中生代の半過ぎ頃の地層からであるが、その後の層からは幾らも古代の鳥の化石が發見になつた。順を正してこれらの化石を竝べて見ると、こゝに掲げたやうな鳥の出來始まりから、終に現今の鳥類になるまでの道筋が實に明に解る。例へば古い層から出る鳥には、皆齒があつたもので、今日の如き嘴を有するに至つたのは、比較的近い頃からであるが、その他構造上鳥類に固有な點を調べて見ると、孰れも皆漸々に出來たもので、その始に溯ると、次第次第に蜥蜴類に見るやうな形に歸する。解剖上の委しい比較は略するが、總べての點に於て進化の形跡が歷然と現れて居るから、これらの化石を竝べて見て、尚生物の進化を認めぬことは決して出來ぬことである。

 斯くの如く、これらの化石は生物進化の直接の證據であるが、前に述べた化石の中の一個が發見せられたのはダーウィンの「種の起原」の出版になつた翌々年であるから、進化論の評判の高くなるや否や、かやうな直接の證據の現れることは頗る不審(いぶか)しい、恐らく之は僞物であらうというて、信じない人もあつた。倂し素より眞正の化石故、今は大切にして保存してあるが、之に就いて考ふべきことは、天然には分類の境界がないといふことである。現今生存する動物だけの中にも、肺で空氣を呼吸する魚類もあり、卵を生む哺乳類もありなどして、各部類の特徴を定め、その境界を確めることは、決して容易でないが、化石を加へて論ずれば、分類上判然して境界を定めることは決して出來ぬ。こゝに述べた一例だけに就いて考へても、中生代から今日までの蜥蜴類と鳥類とを集めて見れば、その中には鳥類の性質を三分と蜥蜴類の性質を七分と具へたものもあれば、蜥蜴二分に鳥八分のものもあり、或は前に掲げた如き鳥と蜥蜴との性質を五分づゝ合せた如きものもあるから、似たものを合せ、異なつたものを離さうとすれば、何處を境と定めて宣しいか解らず、たゞ便宜上勝手な處に定めるより外には仕方がない。その有樣は恰も山と山との境を定めるに當り、頂上は離れて明に二つあるが、据野が互に連續して何處にも境がないから、據[やぶちゃん注:「よんどころ」。]なく使宜上或る處に定めるのと少しも違はぬ。若し土地が降つて据野が海になつてしまふたならば、初め二つの山であつた處は二つの島となり、その境は極めて判然と見えるやうになるが、鳥類と蜥蜴の類とが、今日判然と相離れて居るのは、全く之と同樣で、中間に立つべき種類が皆死に絶えてしまつたのによることである。「天然は一足飛をなさず」といふ古い諺がある通り、丁寧に調べて見ると、動物の分類にはどこにも一足飛びに離れた處はないやうで、以上と同じ例は他にも澤山あるが、斯く化石までを合せると、分類にはどこにも判然した境がなく、自然に一の部類から他の部類へ移り行くもので、その間の一々の種屬は各々この地球の長い歷史の中の或る一個の時代のみに限つて生存して居たといふことは、生物は總べて共同の先祖から進化して樹枝狀に分かれ降つたものとすれば、素より斯くあるべきであるが、生物種屬が皆萬世不變のものであると假定すれば決して有るべき筈のことでない。

[やぶちゃん注:「肺で空氣を呼吸する魚類」肉鰭綱肺魚亜綱 Dipnoi のハイギョ類。詳しくは第九章 解剖學上の事實(4) 四 血管並に心臟の比較の私の注を参照されたい。

「卵を生む哺乳類」オーストラリアに棲息するカモノハシ(哺乳綱原獣亜綱単孔目カモノハシ科カモノハシ属カモノハシ Ornithorhynchus anatinus。現生種は一科一属一種。第十一章 分類學上の事實(3) 二 幾段にも分類を要することの本文及び私の注を参照)オーストラリア・タスマニア・カンガルー島・バス海峡諸島・ニューギニアの高地に棲息するハリモグラ類(カモノハシ目ハリモグラ亜目ハリモグラ科ハリモグラ属ハリモグラ Tachyglossus aculeatu 及びその五亜種)、ニューギニア島に棲息するミユビハリモグラ類(カモノハシ目ハリモグラ科ミユビハリモグラ属ニシミユビハリモグラ Zaglossus bruijni・ヒガシミユビハリモグラ Zaglossus bartoni・デビッドキョウミユビハリモグラ Zaglossus attenboroughi の三種)の五種五亜種の全十種が現生の卵生哺乳類である。]

 

2018/03/30

和漢三才圖會第四十一 水禽類 䲱(おすめどり)(ミゾゴイ)

Mizogoi

おすめとり 澤虞 方目

みぞごい  護田鳥

同】

      【和名於須

       賣止里

       今云溝

ハン     五位鷺】

 

本綱常在田澤中形似鷗鷺蒼黑色頭有白肉冠赤足

見人鳴喚不去有似主守宮故俗爲護田鳥

△按護田鳥【俗云溝五位一云世々利】狀似鵁鶄而小蒼黑色頭有如

 白肉冠者脚掌黃

 

 

おすめどり 澤虞〔(たくぐ)〕 方目

みぞごい  護田鳥〔(ごたちよう)〕

」も同じ。】

      【和名、

       「於須賣止里〔(おすめどり)〕」。

       今、「溝五位鷺〔(みぞごいさぎ)〕」

ハン     と云ふ。】

 

「本綱」、は常に田澤の中に在り。形、鷗(かもめ)・鷺に似、蒼黑色。頭、白き肉冠、有り。赤き足。人を見れば鳴(な)き喚(さけ)んで、去らず。主〔(あるじ)〕の、宮〔みや)〕を守るに似たること有り。故に俗に「護田鳥」と爲す。

△按ずるに、護田鳥〔(おすめどり)〕【俗に「溝五位」と云ひ、一つに「世々利〔(せせり)〕」とも云ふ。】は、狀〔(かたち)〕、鵁鶄(ごいさぎ)に似て小さく、蒼黑色。頭、白き肉冠のごとき者有り。脚・掌は黃なり。

 

[やぶちゃん注:「ごい」は総てママ。歴史的仮名遣では「五位(鷺)」であるから、「ごゐ」が正しい。鳥綱 Avesペリカン目 Ciconiiformesサギ科 Ardeidaeミゾゴイ属 Gorsachiusミゾゴイ Gorsachius goisagiウィキの「ミゾゴイより引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『中華人民共和国南東部、日本(本州以南)、フィリピン、台湾』に分布する。『主に日本で繁殖し(台湾でも繁殖した例があり)、冬季になるとフィリピンへ南下し』、『越冬するが』、『台湾や日本(九州、南西諸島)でも少数個体が越冬する』。『全長四十九センチメートル。翼長二十五~二十九センチメートル。翼開』長は『八十~九十センチメートル。体重四百九十グラム。頭部の羽衣は濃赤褐色や黒褐色。上面の羽衣は暗赤褐色。体下面の羽衣は淡褐色。喉には細く黒い縦縞が入り、下面中央部には赤褐色の縦縞が入る。風切羽は暗褐色で、先端が赤褐色』。『上嘴は黒や黒褐色、下嘴は黄色。後肢は黒緑色。繁殖期の個体は眼先の裸出部が青くなる』。『平地から低山地にかけての森林に生息する。暗い森林を好む。単独もしくはペアで生活する。渡来直後のオスは夕方から夜間にかけて鳴くため夜行性と考えられていたものの、繁殖期の給餌時間や飼育下での非繁殖期の活動時間の観察例から本種を昼行性とする説もある。危険を感じると頸部を伸ばして上を見上げて外敵に向かって下面を向け、木の枝に擬態する』。『食性は動物食で、魚類、昆虫、サワガニなどの甲殻類、ミミズなどを食べる。森林内の河川、湿原、地表などを徘徊し獲物を捕食する』。『繁殖形態は卵生。太い樹上に木の枝を組み合わせた巣を作り、五~七月に三~四個の卵を産む。抱卵期間は二十=二十七日。雛は三十四~三十七日で巣立つ』。『鳴き声からウシドリ、ウメキドリ、ヤマイボなどの方言名がある』とある。異名の「ヤマイボ」は鳴き声の音写「イボォー、イボォー」に由来する。鳴き声で。納得。と、書いてきたが、「本草綱目」も良安も頭部に白い冠状の肉冠(とさか)があると言っているのが頗る不審で、画像を見てもそのような突起物は見えない。となると、両者は何かを誤認しているのか? 分らぬ。一つ言えることは、異名として出している「護田鳥」を本邦で「おすめどり」と読むときには、ミゾゴイとともにここでも出る(鵁鶄(ごいさぎ))、ゴイサギ属ゴイサギ Nycticorax nycticorax をも含めている点で、ゴイサギが繁殖期には肉冠ではないが、後頭部に著しく長い白い羽毛(冠羽)が三本、伸長して目立つことである。

 

「おすめどり」「護田鳥」読みの語源は不詳。

「主〔(あるじ)〕の、宮〔みや)〕を守る」(田圃の)持ち「主」が自分の住まい「宮」(「宮」は中国古代に於いては身分に関係なく、人の住居を指した)を守るの意か。東洋文庫訳では、『田主がわが田を守る』と訳しているが、これはやり過ぎである。「宮」に「田」の意はない。

「世々利〔(せせり)〕」「せせり」というと現行の「鳥の首回りの部分」を言う語を思い出してしまうが、あれは骨から肉を「せせる」(ほじくる)ように食わねばならないこと、そうしてまで食うほどに美味いことが、その名の由来であるが、ここはそれが非常に細長い首をしたサギ類の異名として逆輸入したか、と思うのは人間さまの浅墓さのように思う。ここは寧ろ、サギ類が餌を嘴で突いて「せせる」ように摂餌するさまを言っているのであろう。]

北條九代記 卷第十二 三位殿局 付 東宮立

 

      〇三位殿局  東宮立(だち)

同年八月三日、後西園寺太政大臣實兼(さねかぬ)公の御娘、中宮となり給ふ。西園寺家は、承久の役より以來(このかた)、相州、代々尊崇して、他に替りて思はれける故に、この家より女御を立てらるる事。既に五代、皆、是、關東より計ひ申しける所なり。其比、安野(あのゝ)中將藤原公廉(きんかど)の娘廉子(かどこ)と聞えしは、三位殿の局とて、中宮の御方に候はれけるを、君、一度御覽ぜられしより、思召(おぼしめし)籠(こ)められ、御寵愛、斜(なゝめ)ならず。しかも此女房は、容色の優(いう)なるのみにあらず、善巧(べんけう)辨佞(べんえい)、總て睿慮(えいりよ)に先立ちて、才智、宮中を蔽ふ。君、愈(いよいよ)愛惑(めでまど)はせ給ひ、雪月花の遊宴、琴酒歌(きんしゅか)の會席にも、御傍(あたり)を立去り給はず。輦(てぐるま)を共にし、床(ゆか)を同じくして、果(はたし)て准后(じゆごう)の宣(せん)を下されしかば、光彩、始(はじめ)て門戸(もんこ)に輝き、権勢、今、宮墻(きうしやう)に開け、偏(ひとへ)に皇后元妃(げんひ)の如くなり。御前の評定、雜訴の御沙汰までも、准后の御口入(ごこうじゆ)とだに申せば、上卿(けい)、奉行も皆恐れて、非を理になして事を行ふ。心ある輩(ともがら)は、是ぞ亂根の萠(きざ)す所と、未然に禍(わざはひ)をぞ量りける。始(はじめ)、後嵯峨院の御遺詔(ごゆゐぜう)として、後深草、龜山兩院の間より、替る替(がは)る御位に卽(つ)き給ふ。是も關東の計(はからひ)なり。當帝(たうてい)後醍醐は、後宇多院御寵愛の皇子なれば、この君の御流(ながれ)こそ、天子の正統をば繼ぎ給ふべき御理運(りうん)なりと、諸卿(しよきやう)一同に思ひ奉り、卽ち、關東へ勅使を立てられ、後醍醐の皇子、恒良(ごうりやう)親王を春宮(とうぐう)に立參(たてまゐ)らせ、御位を讓らるべき由を仰遣(おほせつかは)されしかども、相摸守高時、更に肯(うけが)ひ奉らず、終に後二條院の皇子、邦良(くによしの)親王を太子に定め參らせたり。天下の政道、惣じて睿慮に任せら奉らず。萬事、皆、關東より計ひければ、君、深く逆鱗(げきりん)ましまし、高時が所行を憤(いきどほり)思召(おぼしめ)す。東夷(とうい)、権勢を逞(たくまし)くして、王道、陵廢(りようはい)に及ぶ事、時節を待ちて、變を伺ふ。君德、是、天理に契(かな)はば、神明(しんめい)、何ぞ捨て給はん。内に政理を修め、外に恩澤を布(ほどこ)し給ふには如(しか)じ、と諫言を奉る老臣もあり。あはれ、思召立つ事もあれかし、天下、誰人(たれひと)か帝命に隨はざらんと思ひ奉る者もあり。京都鎌倉、何となく、政道萬端、且吾(そご)する事、少からず。

[やぶちゃん注:「同年八月三日」前章で年が明記されるのは後醍醐天皇の即位であるから、文保二年(二月二十六日(一三一八年三月二十九日))であるから、「同年」は誤りで、元応元(一三一九)年で、しかも日付も「八月三日」ではなく、八月七日の誤りである。

「西園寺太政大臣實兼(さねかぬ)公の御娘」西園寺禧子(きし 嘉元元(一三〇三)年~元弘三(一三三三)年)。父西園寺実兼(建長元(一二四九)年~元亨二(一三二二)年)は関東申次として持明院統と大覚寺統との間の皇位継承問題に関与。内大臣・太政大臣を経て、再び、関東申次となって、幕府の両統迭立の提議にも関わった。従一位。京極派の歌人で琵琶の名手としても知られた。ここで述べている通り、西園寺家は代々、強力な親幕派であった。

「承久の役」一二二一年。九十八年前。

「安野(あのゝ)中將藤原公廉(きんかど)の娘廉子(かどこ)」「安野」は誤りで「阿野」が正しい。阿野廉子(あのれんし/やすこ/かどこ 正安三(一三〇一)年~正平一四/延文四(一三五九)年)は後醍醐天皇の寵妃で、後村上天皇(義良親王)・恒良親王・成良親王・祥子内親王・惟子内親王などの母。院号宣下を受けて、新待賢門院と号し、また三位局とも呼ばれた。ウィキの「阿野廉子によれば、『実家の阿野家は藤原北家閑院流の公家であり、阿野全成の外孫・実直を始祖としている』。この時、『西園寺禧子が後醍醐天皇の中宮に冊立された際』、十九『歳で上臈として入侍したが、間もなく禧子を押しのけて』、『後醍醐の寵愛を一身に集めるようになった』。後の元弘二/元徳四(一三三二)年には、前年の元弘の乱のために隠岐島に配流となった後醍醐に随行している。『建武の新政下においては』、『皇后並みの待遇を受け』、建武二(一三三五)年四月、『准三后の栄誉に与った。内政にも影響力が及んだと考えられ、恒良親王の立太子や、足利尊氏と結託して後醍醐天皇と対立した護良親王の失脚・殺害にも関与したとされる』。『新政瓦解後は吉野遷幸にも同行して後醍醐天皇を助け、その亡き後は後村上天皇の生母として南朝の皇太后とな』った。

「陵廢」この「陵」は「軽んじる」で、「いい加減に扱われ、採り上げられることなく、果ては天皇の政(まつりごと)=意向が事実上、完全に廃されてしまうこと、を意味している。

「時節を待ちて、變を伺ふ」主語は後醍醐天皇。「變」は、倒幕に繋がるような、或はダイレクトにそれに向けた反乱である。

「君德、是、天理に契(かな)はば、神明(しんめい)、何ぞ捨て給はん。内に政理を修め、外に恩澤を布(ほどこ)し給ふには如(しか)じ、と諫言を奉る老臣もあり」「君德、是、天理に契(かな)はば、神明(しんめい)、何ぞ捨て給はん。内に政理を修め、外に恩澤を布(ほどこ)し給ふには如(しか)じ」が、倒幕を考えていることが見え見えの後醍醐天皇へに対し、「老臣」がそれを思い留まらせようとして暗に言った「諫言」。

「あはれ、思召立つ事もあれかし、天下、誰人(たれひと)か帝命に隨はざらんと思ひ奉る者もあり」そうした目先の安寧を願う老臣とは反対に、「ああっ! 倒幕を御自ら声を挙げ遊ばされて欲しいものだ! そうしたら、この天下にその有り難い帝の御命令に従い申し上げぬなどと思う不敬な輩(やから)がいるものか!」と思う者もいた。]

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 餅白鳥に化する話 二

      二

 長者の榮華窮まり福分盡きて、一朝にして沒落したと云ふ物語は、琵琶でも説經でも何度と無く繰り返されたる、いと安々とした題目であるに拘らず、律儀なる昔の人は其空想のよりどころを求めて居た。因幡の湖山(こやま)の池は、砂が造った只の潟湖であるが、是あるが爲に湖山の長者は、昔あの岸の丘に住んだことになり、入日を招き返した天罰によつて、數千町の美田が悉く水の底になつた。飛驒の白川の中流には姫子松の林を取り繞らした大薙があった。大昔の歸雲城(かへりぐものしろ)は、その絶壁の下に埋まつて居ると傳へられる。其他津輕の十三潟、信州靑木の三湖の如き、金碧を以て莊嚴した七堂伽藍が、門前の町屋と共に覆沒し、時あつて大釣鐘の龍頭(りうづ)を、晴れたる浪の底に見ると云ふ類は、何れも自然の風光を力杖として、よろぼひ立つて居る忘却の翁である。荒凉たる田野の千町牟田のまん中へ、曾ては朝日長者の名國内に響き渡り、大野の滿能長者の花聟となつて、凡そ人生の歡喜の限を見極めたほどの大分限者をつれて來たのも、或は此水草の間に靜かに遊んで居た若干の白い鳥ではなかつたか。斯う云ふ風に考へて行くと、稻荷の三つの御山の頂上に近い平地に、最初は稻に似た或種の植物の繁茂する靈地があって、これへ往來する白い鳥の姿を、高い國からの御使いの如くに感じた人々が、やがては餅と鳥との昔話を拾ひ上げて、之を我家文(いへぶみ)の綾に織り込んだのでは無かつたかとも思はれる。

[やぶちゃん注:「因幡の湖山(こやま)の池」鳥取市の北部の海岸近くにある汽水湖の湖山池。ここ(グーグル・マップ・データ)。「池」と名の付く湖沼の中では日本最大の広さを持つ。総面積六・九九平方キロメートル、周囲長十八キロメートル、最大水深は六・五メートル。ウィキの「湖山池」によれば、『広大な水田を有していた長者が、日没までに田植えが終わらなかったため、扇子で夕日を招き返して田植えを終えたが、一夜明けると』、『田は全て池に変わっていた、という「湖山長者」の伝説が知られる(似たような話が岐阜市のゆうべが池に伝わっている)。古くから開けた地域であり』、一部には『縄文時代から弥生時代にかけての遺跡』もある、とある。

「姫子松」裸子植物門マツ亜門マツ綱マツ亜綱マツ目マツ科マツ属ゴヨウマツ Pinus parviflora の異名。

「大薙」山の一部が崩れて、薙刀で横に切り払ったようになっている箇所を指す。

「歸雲城(かへりぐものしろ)」現在の岐阜県大野郡白川村保木脇(ほきわき)辺り(ここ(グーグル・マップ・データ)。但し、城の正確な位置は不明)にあったとされる、当地の有力武将内ヶ島氏の居城で、寛正年間(一四六一年~一四六六年)に内ヶ島為氏によって築城されたという。天正一三(一五八六)年十一月の天正地震で帰雲山の山崩れが起って埋没し、城内と城下を合わせ、推定五百人余りが死んだと伝える。参照したウィキの「帰雲城」によれば、『当日城内で祝宴が行なわれており、難を逃れたのは所用のため』に『不在だったわずか』四『人と言われる』。『城主の内ヶ島氏理ら一族は全て死に絶えてしまい、この瞬間をもって内ヶ島氏は滅亡した。また、内ケ島氏の領内に金山があったことから、そのとき埋まったとされる埋蔵金伝説がある』とある。

「津輕の十三潟」ここ(グーグル・マップ・データ)。ハクチョウの飛来地として知られる。ここには「津軽十三浦伝説」(「十三浦」は「十三湖」の古称)として「白髭水と夫婦梵鐘」が残る。不思議なことに、その伝承をちゃんと記したサイトが見当たらず、それを素材とした「ねぶた」の記事ばかりが目立つ。いくら探しても見当たらない。仕方がないので、個人ブログ「たちねぷたのやかた」の『あらためて「津軽十三浦伝説 白髭水と夫婦梵鐘」』をリンクさせておく。それによれば、その伝承は『古くから伝わる十三浦(とさうら:今の十三湖)にまつわる儚く悲しい恋伝説』で、『今から約250年ほど前の』話とする。『長勝寺と長円寺に納めるために、二つの雌雄の鐘が京都から日本海まわりで津軽へ送られてき』たが、『十三湊へ入ったとき暴風雨になり、鐘は湖底に沈んでしまった』。『雄鐘はすぐみつか』ったものの、『雌鐘はいくら探してもでて』こない。『当時の人たちは』、『たびたび襲ってくる洪水や津波を白い波に乗ってやってくる老人に見立てて「白髭水」と呼んで恐れて』おり、人々はその雌鐘は『白髭水に連れ去られた』のだと言い伝え、『今でも長円寺に納められた雄鐘をつくと、その鐘は十三湖の雌鐘を慕って「十三恋しやゴーン」と響き、それに応えるかのように湖底からは「長円寺恋しやゴーン」という雌鐘の音が響くのだ』という。また、こ『の伝説の一説には、十三湖に住む龍が鐘についている雌龍を我が物にしようと引きずりこんだという説もあ』るとする。「仕方がないので」などと失礼なことを言ったが(しかし、活字で正確に残しておかないと、伝承は都合のいいように変形・美化されてしまう。郷土史研究家はここで一踏ん張りして、最も古いものから是非、同伝承を電子化しておいて貰いたいものである)リンク先はその伝承をモチーフにした「ねぶた」の美しい写真が並ぶ。必見である。

「信州靑木の三湖」仁科三湖のこと。北から青木湖、小さな中綱湖(池)、木崎湖。ここ(グーグル・マップ・データ)。サイト「安曇野のパワースポット癒しのスポット」の「安曇野に伝わる伝説、民話」で三つの湖に纏わる伝説が読める。その中の「中綱湖に伝わる伝説」に沈鐘伝承が含まれている。]

 豐後風土記には田野里(たのゝさと)の口碑の他に、また次のやうな話も採錄せられてある。豐國直(とよのくにのあたへ)の先祖菟名手(うなて)なる者、始めて此國に使して、豐前仲津郡中臣村に往到り、一夜の宿を借りたるに、次の日の曙にたちまち白き鳥の群あり、北より飛來つて此村に集まる。僕[やぶちゃん注:「しもべ」。]を遣りて看せしむるに其鳥化して餅と爲るとある。それが片時にして更に化して芋草千株となる。株葉冬も榮えたりとあって、南國の土民に用だつべき作物が、白鳥の神異に伴なはれて容易に見付かつたことは、成程重要なる語り草であった。併し其中間にほんの少しの間、一旦餅に爲つて居たと云ふ點に不思議がある。事に依ると此時代の人の心持に、白い鳥は至つて餅に化し易いもの、若しくは餅は往々にして飛去ることありと云ふやうな考へが、何と無く挾まつて居たのかも知れぬ。

[やぶちゃん注:「豐國直(とよのくにのあたへ)」豊国の姓(かばね)のこと。

「菟名手(うなて)」古代伝承上の豪族で国前(くにさき)氏・豊国氏の祖とされる。景行天皇が九州遠征の途中,周防の娑麼(さば:山口県防府市か)で敵の煙を見つけた際、菟名手は、他の二名と情勢を探ったとする。後に、天皇から豊国(大分県と福岡県の一部)の支配権と豊国の氏を授けられたという。

「豐前仲津郡中臣村」不詳。福岡県(豊前国)にあった旧仲津郡は現在の行橋市の一部と京都郡みやこ町の大部分に当たる。この中央付近(グーグル・マップ・データ)。]

 私はまじめに右の如く思つて居るのである。近世の子守歌にも、緣があるなら飛んで來い牡丹餅などゝ、笑ひながらだが歌つて居た。手毬唄のしよんがえ婆さまにも、餅にこがれて逐つて[やぶちゃん注:「おつて」追って。]行つたと云ふやうな歌があつた。童話の鼠の淨土などにも、正直爺を團子が導いて隱里(かくれさと)へつれて行くとあつた。鎌倉期の初に成つたと云ふ塵袋の卷九には、餅の白い鳥に化した話を、豐後の玖珠郡の事件として載せている。古風土記を見て書いたらうと謂はれて居るが、果してどうであつたらうか。今有る豐後風土記とは、單に郡の名がちがうて居るのみならず、全體に於て記事が寧ろ後世の言ひ傳への方に近い。然し其中でも、何故に餅が飛去つて長者の運が傾いたかの説明だけは、少なくともあの時代の人の考へ方と見てよいと思ふ。卽ち餅を以て的とするなどは、唯の奢りの沙汰として神の憎しみを受けるのみで無い。餅は元來福の源である故に、これと共に福神が飛び去つたのだと謂つて居る。塵袋の著者の時代には、福引と云ふのは餅を二人で引合ふ事であった。恐らくは今でも若い人たちが戲れに煎餅をもつてするやうに、餅の兩端を把へて引合ひ捻合ひ、結局二つに割れたとき大きい方を得た者を勝とし、勝てば其年は福が多いなどゝ謂つたものだらう。

[やぶちゃん注:「緣があるなら飛んで來い牡丹餅」私は知らない。検索にも掛からない。

「手毬唄のしよんがえ婆さま」不詳。「しよんがえ」は「しょんがえ」で、通常は民謡で一節の終わりにつける囃子詞 。「しょんがい」「しょんがいな」とも使う。江戸初期から明治時代まで歌詞・曲調を変えて、唄われた。

「鼠の淨土」「おむすびころりん」の古形。ネズミに握り飯や餅などの食物をやった礼に、ネズミの国に招かれて宝物をもらう爺の話で、通常は例によって隣の爺が真似をして失敗する形を採る。

「塵袋」鎌倉中後期に成立した事典。全十一巻。著者未詳。文永~弘安年間(一二六四年~一二八八年)の成立。事物の起源を天象以下二十二項に分けて問答体で記したもの。

「豐後の玖珠郡」現在の大分県玖珠(くす)郡。(グーグル・マップ・データ)。]

 餅をフクダと呼んだのは、燒けばふくれるからの名だらうと思ふが、しかも其昔の耳に快きをめでゝ、次第に之を福の物と考へるに至つたのも、中世以來の習はしであつた。それが又新たなる興味を刺戟して、こんなたわいも無い昔話を、ほゞ元の形で今日まで保存し得たのは、殊勝なる事であつた。常に史料の乏少を悲しむ前代生活の研究者たちは、此機會を輕んじてほならぬのである。

[やぶちゃん注:「餅をフクダと呼んだ」知らない。小学館の「日本国語大辞典」には「ふくだ(福田)」として「ふくだもち(福田餅)」の略とし、「福田餅」は「まるく作った餅。そなえ餅」とし、それは「ふくだみもち」の転じたものとする。この「ふくだみ」は「ふくだむ」で「まるくふくらんだようになる」の意とするから、柳田國男の謂いは一つの定説とは言えるようだ。]

御伽百物語卷之三 奈良饅頭

 

    奈良饅頭

 

Namaranjyuu

 

[やぶちゃん注:挿絵は「叢書江戸文庫二 百物語怪談集成」のものを用いた。]

 

 いにしへの都、奈良の京二條村に住みける林淨因(りんじやうゐん)は、もと、宋國(そうこく)の人なり。花洛(くわらく)建仁寺第二世龍山(りうさん)禪師入宋ありける比(ころ)、此(この)林淨因に逢ひたまひけるに、淨因も龍山に歸依して膠漆(かうしつ)の交り、淺からず。元朝にいたりて、順宗皇帝至正元年に及び、龍山禪師、歸朝したまへり。是れ、本朝の人王(にんわう)九十七代光明院の御宇(ぎよう)曆應四年なり。林淨因も此和尚の德をしたひ、同じく龍山の伴侶となりて日本に來たり、今の南都二條村に住居しけりとなん。

[やぶちゃん注:「奈良の京二條村」現在の奈良県奈良市二条町附近か。平城京の北西外郭附近に当たる。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「林淨因」実在した渡来僧。浙江省寧波市奉化区黄賢村生まれで、北宋の名詩人林逋(没後に仁宗にから「和靖先生」の謚を贈られたことから「林和靖」とも呼ばれる)の七代目の末裔に当たる。また、以下に記され得通り、日本に饅頭を伝えた祖とされる。奈良県奈良市漢国町にある漢國(かんごう)神社の境内社の一つに、林(りん)神社があるが、ここは日本唯一の饅頭の神社で、ウィキの「漢國神社」によれば、貞和五(一三四九)年に『中国から来日し、漢国神社社頭に住居して日本初となる饅頭を作ったという、饅頭の祖・林浄因が祀られている』『ことが名前の由来』で、昭和五三(一九七八)年には『菓祖神の田道間守』(たじまもり/たぢまもり:記紀に伝わる人物で、「非時香菓(ときじくのかくのみ)」(橘の実とされる)を求めに常世国に派遣されたとする。現在は菓子の神・菓祖としても信仰されている)『を合祀し、饅頭・菓子の祖神の神社として関係業界の信仰を集める』。『林浄因の命日である』四月十九日には、『菓業界の繁栄を祈願する例祭「饅頭まつり」が行われ、全国各地の菓子業者が神前に自家製の銘菓を献上するほか、一般参拝者向けにも無料で饅頭と抹茶がふるまわれる』。『境内にはその他、巨石を伏せた饅頭塚もある』とある。

「建仁寺第二世龍山(りうさん)禪師」龍山徳見(りゅうさんとくけん 弘安七(一二八四)年~延文三/正平一三(一三五八)年)は下総国出身の臨済僧。俗姓は千葉氏。諱は初め、「利見」であったが、後に「徳見」と称した。龍山は道号。諡号は真源大照禅師。参照したウィキの「龍山徳見」によれば、十三歳で鎌倉の『寿福寺の寂庵上昭に師事して出家し、その後円覚寺の一山一寧に参禅した』。鎌倉末期の二十二歳(正安四・乾元元(一三〇五)年)の時、『中国(元)に渡って天童山の東岩浄日・古林清茂などに参禅している。また黄龍慧南から栄西にいたる臨済宗の法流を受けて兜率寺に住するなど、長期間元に滞在し』、正平四/貞和五(一三四九)年に帰国、『足利尊氏の弟足利直義の招きを受けて京都建仁寺の住持となり、その後は天竜寺・南禅寺にも住した』とある。

「入宋ありける比(ころ)」「元朝にいたりて」宋(南宋)は一二七九年に元に亡ぼされており、龍山が渡る中したのは正安四・乾元元(一三〇五)年であるから、これらの謂いはおかしい。但し、龍山が教えを受けた当時の渡来僧は宋からの亡命者が多かった事実はある。

「膠漆(かうしつ)の交り」「膠漆之交」。極めて親密で堅い交わりのこと。 膠は「にかわ」、漆は「うるし」で、塗り固められると離れないことから。

「順宗皇帝至正元年」至正は元の順帝(恵宗。この「順宗」は誤り。順宗は世祖クビライ時代の皇太子チンキムの次男ダルマバラ(一二六四年~一二九二年)の廟号で、彼は早世し実際の皇帝にはなっていない)トゴン・テムルの治世で用いられた元号(一三四一年~一三七〇年であるが、一三六八年に元が大都(現在の北京)を追われた後も「北元」の元号として使用された)。しかし、「至正元年」では一三四一年で、龍山の帰国は一三四九年であり、八年も開きがあり、おかしい

「九十七代光明院の御宇(ぎよう)曆應四年」「光明院」は光明天皇(在位:一三三六年~一三四八年:彼の即位によって北朝が成立したので、北朝最初の天皇ということになるが、鎌倉時代末期に在位した兄の光厳天皇が後醍醐天皇によって即位を否定され、歴代天皇百二十五代に含まれない北朝初代天皇として扱われているため、光明は北朝第二代とされている)。現行では「九十七代」天皇は南朝の第二代天皇後村上天皇と(在位:一三三九年~一三六八年)される。「暦應四年」暦応は南北朝時代に北朝方で使用された元号で、同四年は一三四一年だから、「至正元年」とは一致する。]

 

 昔は此村を奈良の町としける故、ならの名産といふなる、晒(さらし)・法論味噌(ほらみそ)のたぐひも、猶、こゝにありけるとぞ。

[やぶちゃん注:「晒(さらし)」奈良晒(ならざらし)。奈良地方で産出した麻を用いた、良質の高級麻織物、晒し布。但し、これが奈良を代表する名産品となったのは、江戸初期の慶長年間(一五九六年~一六一五年)以来のことで、この話柄とは整合性がないように思われる。

「法論味噌(ほらみそ)」焼き味噌に胡麻・麻の実・胡桃・山椒などを切り混ぜて乾燥した舐め味噌。名称は南都元興寺の僧侶が法論の際に用いたからという。]

 

 されば、淨因も、『此里に足を止めばや』とおもふ心より、『先づ、家業といふ物なくてはいかゞ』と思ひめぐらしけるに、古(いにしへ)、諸葛孔明が造りひろめしといふなる「まんぢう」を始めて造りひろめけるより、我が朝の人、あまねく、もてはやらかし、吉事(きちじ)にも是れを以てし、凶事にもまた、用ゆる事にぞ、ありける。然れども、此家(このいへ)、林の字をいはず、鹽瀨(しほせ)をもつて名乘る事は、そのかみ、淨因が遠祖は詩人にして林和靖(りんわせい)なりとかや。詩人の後裔たれども、『詩に鳴(な)るにあらず、食類に名を鳴るは、恥を先祖にあたふるなるべし』とおもふより、鹽瀨を以て氏(うぢ)とすとかや。

[やぶちゃん注:「鹽瀨(しほせ)をもつて名乘る」しかし、現在も続く菓子老舗「塩瀬総本家」公式サイトのこちらによれば(現在の本店は東京都中央区明石にある)、『奈良・林家と京都・林家に別れて営業』したが、応仁元(一四六七)年の応仁の乱で京都は焼け野原となり、『戦乱を避けて京都を離れた林家は、親戚関係であった豪族・塩瀬家を頼って三河国設楽郡塩瀬村(現・愛知県新城市)に住み、姓を「塩瀬」に改め』たとある。その後、再び、『京都に移った塩瀬は大繁盛、塩瀬があった烏丸三条通り下ルのあたりは当時、饅頭屋町と呼ばれ』、第八代『室町将軍の足利義政より「日本第一番本饅頭所林氏塩瀬」の看板を授かり、時の帝、後土御門天皇からは「五七の桐」の御紋を拝領し』たとあるから、「林」の名を隠していた事実はない

「鳴る」名を知られる。評判となる。]

 

 扨、この淨因、奈良にありて作業(なりはひ)を勤めし内、いつしか病身となりて、虛火(きよくわ)[やぶちゃん注:漢方で強い陰気や房事過多によって体が衰弱し、そこから生じた焦燥感や発熱の症状を指す。]を煩ひ、年ごろを經て、眩暈(げんうん)の心、はなはだ、おこりもてゆきつゝ、心地、死ぬべく覺えしかば、常に龍山師の惠(めぐみ)をおもひ、心にもつぱら觀じ、念願すらく、

「我、此たびの病を治(ぢ)し、命算を延べたまらはゞ、吾が本朝において儲(まふ)けたる子の内、一人(いちにん)を弟子に參らすべし。」

など、佛にむかひ、かきくどくやうに祈り歎く事、ひたすらなりしに、ある日、淨因が寢たる臥室(ねや)の北にあたる壁のうしろにあたりて、大勢、人のよりて、

「ひた。」

と掘切(ほりき)りつ、毀(こぼ)ちとる音、しける程に、看病のものどもに言ひて窺はしむるに、更に人ある事なし。

 如此(きあくのごとく)する事、七日(なぬか)にいたりて、壁、たちまち、透きとをり、明(あきら)かなる事、星のごとく見ゆるに驚き、また、看病のものに指さして見するに、是れも人[やぶちゃん注:浄因以外の人々。]の目に見ゆる事、なし。

 かくて一日を經て、大きさ盤(ばん)の如し。

 淨因、みづから立ちて窺ひ見るに、壁の北は妻の化粧しける所にまふけたる一間なるに、思ひの外、廣き野となりて、草など、ゑもいはず、生ひ茂りたる中に、農民とおぼしきもの拾人ばかり、手々(てんで)に鋤鍬を取りて、穴のまへに立てり。

 淨因、不思議さ、いふばかりなくて、此ものどもに問へば、みな跪づき、答へて、いふやう、

「是れは、花洛建仁寺の龍山禪師御所分の地として、我々に命じ、こゝをひらかせ給ふなり。鹽瀨淨因の重病を受け給ひつるを聞(きこ)し召して、我々に仰せて、此みちをひらかせ、追付(おつつ)け、この家に渡らせ給ふなり。」

と、いひもはてぬに、さき手の侍、五、六騎、馬鞍、さはやかに出でたち、列を備へて、こなたさまにあゆませ來たれり。

 その次は、みな、一山(いつさん)の僧と見えし法師ども、數百人、兒(ちご)・喝食(かつしき)[やぶちゃん注:禅宗で食事をする際、食事の種別や進め方を僧らに告げながら給仕する役に当たる未得度の修業者。]、花をかざり、圍繞(ゐねう)しける中に、龍山和尚は上輿(あげこし)に座し給ふが、貴(たつと)く有り難く覺えけるほどに、少し、しりぞきて、首をかたぶけ、禮し居(ゐ)たるに、穴を去る事、二、三間[やぶちゃん注:三・七~五・四五メートル。]をへだてゝ、輿をかきすえさせ、龍山のたまひしは、

「公(きみ)が此たびの病、すでに定業(ぢやうごう)なり。殘れる命なしといへども、我れ、公がために、冥官にいたり、再三に歎き乞ひて、十二年の命を、申し請けたり。けふよりして、病を愁ひ給ひそ。」

と宣ふと思ふ内に、壁、なれあひて、もとの如くなりぬ。

[やぶちゃん注:「壁、なれあひて、もとの如くなりぬ」壁に開いていた大きな穴が、生き物のように左右前後から寄り添うようになって、元の壁のように戻った。]

 

 さて、かくありけるより、日にそひて[やぶちゃん注:日を経るに従って。日々、みるみるうちによくなって。]、本復(ほんふく)しける程に、やがて三人ありける子の内、一人(にん)を具して都に登り、龍山の弟子となしぬ。

 則ち、いまの建仁寺の内、兩足院といへるの開祖、無等以倫(むとういりん)なりとかや。

 誠に、龍山の聖(せい)、はるかに幽冥に通じけん。ありがたき僧なりけり。

[やぶちゃん注:「兩足院」京都府京都市東山区小松に現存。(グーグル・マップ・データ)。公式サイトに、龍山から嗣法した無等以倫の名も見える。また、サイト内に、永徳二(一三八二)年に、無等以倫が『龍山徳見の法嗣知足院を守塔』し、『黄龍派の派祖・黄龍慧南から栄西を経て龍山徳見に至る十師』の『語録の集成である「黄龍十世録」二巻を版行』し、八十一で示寂とある。]

 

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十九年 一題十句、十句集 / 明治二十九年~了

 

     一題十句、十句集

 

 二十八年の居士が一年の三分の二を東京以外の地に送ったに反し、二十九年の居士は全く東京を離れることが出来なかった。「寒山落木」巻頭の自記に「五月雨ノ頃板橋、赤羽ニ遊ビ、一宿シテ歸ル」「中山寺(なかやまでら)ニ詣リ船橋ニ一宿シテ歸ル」とあるのが、僅に一歩東京を離れた記録に過ぎない。夏になって知友が相次いで各地に遊ぶに当り、居士はあるいは句を以てこれを送り、あるいは曾遊(そうゆう)[やぶちゃん注:以前に訪れたことのあること。]を追懐し、あるいは空想を馳せたりして、得たところの句を「松蘿玉液」に掲げた。殊に碧梧桐氏が榛名に遊ぶと聞いては、十九年夏の記憶を喚び起し、「胸中一種の感慨に打たれて鳴咽に堪へざらんと」した。「草むらや露あたゝかに溫泉(ゆ)の流れ」「高樓やわれを取り卷く秋の山」「山駕(やまかご)や榛名上れば草の花」などの句は、十九年に成らずしてこの時に成ったのである。

 一題十句ということがはじまったのは、この夏の初からであった。この年居士は蕪村の『新花摘(しんはなつみ)』を読んで、同じの句が同じ日のところに七、八句も記されている、一句を得ても珍重するに足ると思われるものを、蕪村が無造作に七、八句も作っているということにひどく驚歎した。これに刺激されて先ず牡丹十句を作り、「松蘿玉液」に掲げたのを手はじめに、居士も周囲の人も頻に試みるようになった。一題十句は後々まで一種の風をなすに至ったが、その起りは居士が『新花摘』を読んで著手(ちゃくしゅ)したことにあるのである。

[やぶちゃん注:「新花摘」与謝蕪村(享保元(一七一六)年~天明三(一七八三)年)の俳書。月渓画・跋。没後十四年後の寛政九(一七九七)年刊。原型は安永六(一七七七)年の夏に其角の「花摘」に倣って、恐らくは亡き母の追善のため、一日十句を創る夏行(げぎょう)を思い立ち、十六日間百二十八句まで実行したが、後は所労のために七句を追加しただけで中絶したもので、その後、これに京都定住以前の回想談、則ち、其角の「五元集」に関する談話や骨董論、及び、五つの狐狸怪奇談、其角の手紙の話等を加えて一応の完成を見た。蕪村没後の翌天明四年に、冊子であった自筆草稿を巻子本にする際、月渓の挿絵と跋文が加えられ、その十三年後に原本が模刻出版された。発句と俳文とが調和した蕪村の傑作である(ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。これは私の愛読書でもある。]

 

 居士の身辺にはこの夏以来、毎月十人内外の俳句会が催されつつあった。一題十句もこの人々によって試みられたのであるが、在京俳人を中心に回覧の十句集なるものがはじまったのも、この一題十句に関連しているように思う。一題十句は一箇の季題によって十旬を作り、十句集の方は寺とか、女とか、飯とかいう題材によって十句を作るので、いささかその方法を異にするけれども、それは殊更に方法を変えたものとも見られる。二十九年における十句集は、子規庵毎月の小集と相俟って、他日の素地を成すべき重要な意義を有するものであった。

 この秋、紅緑氏は『河北新報』に入るため仙台に去り、露月氏は医者の前期試験に通過して郷里に帰った。紅緑氏の時には送別のためにうつした十二人の写真が通っており、露月氏の時には目黒不動境内の福嶋屋という茶亭(さてい)で送別句会が催された。「寒山落木」の巻首に「秋、諸友ニ伴フテ目黑ニ遊ビ栗飯ヲ喰ヒテ歸ル。快甚(はなはだよろし)」と特記してあるところを見ると、この目黒行は二十九年における愉快な事柄だったのであろう。「花芒(はなすすき)品川の人家隱見す」「芒わけて甘藷先生の墓を得たり」などという句はこの時の所見であった。

[やぶちゃん注:「甘藷先生」江戸中期の幕臣・御家人・書物奉行で蘭学者であった青木昆陽(元禄一一(一六九八)年~明和六(一七六九)年)。サツマイモの普及を図ったことから、かく呼ばれる。彼の墓は東京都目黒区下目黒の瀧泉寺(通称「目黒不動尊」)の飛地境内である目黒不動墓地内にある。珍しく私も大学時分に参ったことがある。私は中目黒に下宿していた。]

 

 紅録、露月両氏の東京を去る一方には、阪本四方太(しほうだ)、大谷繞石(おおたにじょうせき)というような人たちが、仙台の高等学校を出て、帝国大学に入るべく上京して来た。居士の身辺は必ずしも寂寞(せきばく)ではなかった。

[やぶちゃん注:「阪本四方太」(明治六(一八七三)年~大正六(一九一七)年)は鳥取県出身の俳人。本名は「よもた」と読む。東京帝大助手を経、助教授兼司書官ともなった。正岡子規の門人となり、『ホトトギス』で活躍した。

「大谷繞石」(明治八(一八七五)年~昭和八(一九三三)年)は俳人で教育者。京都の三高在学中に同窓の河東碧梧桐・高浜虚子とともに句作を志し、東京帝大在学中に正岡子規に師事した。金沢の四高教授を経、大正一三(一九二四)年に広島高等学校校長となった。この間、『ホトトギス』『日本』などに作品を発表した。]

 

 十月末から四回にわたって居士は「獺祭書屋俳話正誤」を『日本』に掲げた。前年説いたところの不備を補い、誤謬を正したので、最も多くの言を資したのは嵐雪に関する条と、古人調(こじんちょう)に関する条とである。居士は宗因調以下伊丹(いたみ)調に至る古人の調に擬したものは、悉く削らなければならぬといっている。「余が宗因以下諸俳家の風調を模擬せし當時に在ては、善く其人の風調を究めず、且つ自己の作句は稺氣(ちき)[やぶちゃん注:幼稚さ。若気(わかげ)の至り。]ありて眞の趣味なる者を解せず。既に其人の句を究めず、自己は趣味を解せず、是れ余が大膽にも何調々々と題して容易に數十句を得たる所以なり。今にして稍〻古人の面目を辨別し、自己の技倆の幼稚なるを悟るに及んでは、一句の古人に近き者を求むるも得べからず。況んや幾多の古名家を取り來り、十二句の俳句を以て其人の句調、好尚を現さんとするをや。この何調々々なる者は盡く句を成さず。余は此事を披(ひら)いて此處に到る每に必ず卷を覆ふ、其眼に觸るゝを厭ふなり」というのである。この事は『獺祭書屋俳話』の増補を試みた二十七年中には、まだそれほどに感じなかったものであろう。その後における居士の進境は、眼に触るることをすら厭い、悉く削らんと欲するに至ったのであった。

[やぶちゃん注:「伊丹(いたみ)調」元禄(一六八八年~一七〇四年)頃の俳諧の一派と、その俳風。伊丹の池田宗旦を祖とする。談林派の流れを汲み、口語・俗語を駆使し、新奇な着想による表現が特色で、上島鬼貫(うえじまおにつら)を中心に森本蟻道・上島才人・鹿島後村・森本百丸らが集まったが、鬼貫の没後、衰えた。]

 

 「松蘿玉液」は十二月三十日に至って終った。翌日「松蘿玉液を祭る」の一文を掲げ、「詩百篇君去つて歳(とし)行かんとす」の右を以てこれを結んだ。十二月以降の「松蘿玉液」は、京都に関する追憶、愚庵十二勝の俳句、菓物の事、病中の事、柚味噌(ゆみそ)の事、開花楼に平家琵琶を聞く事など、悉く居士に親しい材料を以て充された観がある。「碧梧桐の吾をいたはる湯婆(たんぽかな」「小夜時雨(さよしぐれ)上野を虛子の來つゝあらん」などの句は病中の吟であり、「去年と言ひこたびと言ひ二子の恩を受くること多し。わが命二子の手に繫(かか)りて存するものゝ如し。わが病める時二子傍に在れば苦も苦しからず、死も亦賴むところあり」とも記されている。「行く年を母すこやかに吾(われ)病めり」というのは二十九年末における感懐の一であるが、病状は十二月に入ってややおこたり[やぶちゃん注:「怠り」。「快方に向かい」の意。]、十二月三十日には仮に病褥(びょうじゅく)を出るに至ったのである。

[やぶちゃん注:「愚庵十二勝」とは、天田愚庵(既出既注)がこの年、京都清水坂の自身の庵の庭に与えた名数「帰雲巌」「霊石洞」「梅花谿」「紅杏林」「清風関」「碧梧井」「棗子逕」「采菊籬」「錦楓崖」「嘯月壇」「爛柯石」「古松塢」の十二景のこと。愚庵はこの十二勝の漢詩(二年後には和歌を追加)を作って新聞『日本』に掲載し、天下に唱和を求めた。]

 

譚海 卷之二 河州源氏の瀧狂人を治する事

 

河州源氏の瀧狂人を治する事

○河内國かたのの南廿町ばかりにくらぢと云所に、源氏の瀧といふあり。山より五町ばかりに小松多くありて、駿河三保の松原に露たがはずとぞ。瀧の上に不動堂あり、その麓に瀧本坊とてふるき寺あり、常には門さして物靜かなり。その瀧長さ五丈程あり、扨(さて)此瀧に狂人をうたすれば平愈するとて、常にさわがしく、奇景の地却(かへつ)て殺風景となれり。

[やぶちゃん注:これは現在の大阪府交野(かたの)市倉治(グーグル・マップ・データ))にある「源氏の瀧」のこと。名は交野の里の悲話「源氏姫」に由る。同伝承は交野市」公式サイトに詳しい。同瀧は古くは修験場でもあり、今も不動尊がある

「廿町」二キロメートル強。

「山より」「山寄り」か。

「五町」約五百四十五メートル。

「瀧本坊」現存しないが、個人サイトと思しい星のまち交野のページ(ウォーキング報告で、地図と画像が有って非常に分かり易い。必見)には、「河内名所図会」にある同所の絵図を載せ、『小堂と庫裡があってそれを生垣で取り囲み、瀧本坊と記している』とあり、地図(グーグル・マップ・データクロース・アッで見ると、現在の「源氏の滝不動尊」(不動像は滝周辺にもある)の祀られている位置と一致することが判るから、かつてここにあった寺と読める。本文から見ると、既に本記事の頃(安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年)には、既に住持も堂守もいなかったらしいことが判る。

「五丈」約十五メートル。但し、ネットで調べると、現行の落差は十八メートルとする。ヒロ兄(ひろにい)氏のブログ「気まぐれファミリー弾丸旅物語」の源氏の滝【アクセス】~源氏滝の清涼~【心霊スポット】が、アプローチ認識や画像的にもよいので必見。なお、同ブログ記事は妖しい心霊記事ではないので、ご安心あれ

「此瀧に狂人をうたすれば平愈するとて、常にさわがしく、奇景の地却(かへつ)て殺風景となれり」この謂いには津村の批判的視点が見え、当時、既に修験道の道場としても流行らなくなり、こうした手法で人寄せをしていたことが強く疑われる。]

 

甲子夜話卷之四 28 星野久務が事

 

4-28 星野久務が事

星野久務と云し坊主衆あり。質朴にして、常におかしきこと言ふ男なりき。その家は、御入國前よりの者なりと聞ゆゑ、予、或時、久務に久しき家なり迚賞しければ、久務手をふりて、是は御沙汰なしと云ふ。何かにと言へば、御推量も下され候へ。今雁間の御大名は、皆其始めは小身の御人達なり。然を今は城主、又は何萬石など御昇進にて、歷々の御勤なり。僕が家は、神祖の御始より奉仕候へども、今に坊主にて居候。古き次第知れ候ば、外聞宜しからずと云たり。予も一笑して止ぬ。後又人より聞に、參遠の頃より、子孫引續たる六尺多くありとなり。是亦憐れむべし。

■やぶちゃんの呟き

「星野久務」不詳。茶坊主なので「ほしのきゅうむ」(現代仮名遣)と読んでおく。

「坊主衆」茶坊主衆。将軍や大名の周囲で茶の湯の手配や給仕及び来訪者の案内接待等、城中のあらゆる雑用に従事した。しばしば、時代劇で城内を走るシーンが出るが、殿中にあって日常に走ることが許されていたのは、彼らと奥医師のみであった。なお、刀を帯びず、剃髪していたために「坊主」と呼ばれたが、僧ではなく、武士階級に属する。因みに、芥川龍之介の養家芥川家は、この末裔であった。

「御入國前よりの者」神祖家康公が江戸の入府なされる以前からお仕えしていた者。

「聞ゆゑ」「きく故」。

「迚」「とて」。

「是は御沙汰なし」この場合の「沙汰」は「話題として取り上げること・噂にすること」の意で、「いえいえ! このことは少しもどなたもお取り上げになって語られることは、ないので御座います」の意。

「何かに」「いかに」。「どうしてじゃ?」。

「雁間」「かりのま」。江戸城に登城した大名や旗本が将軍に拝謁する順番を待つ伺候席(しこうせき:控の間。)の一つで、『幕府成立後に新規に取立てられた大名のうち、城主の格式をもった者が詰める席。老中や所司代の世子も』、『この席に詰めた。ここに詰める大名は「詰衆」と呼ばれ、他の席の大名とは異なり』、『毎日』、『登城するため、幕閣の目に留まり』易く、『役職に就く機会が多かった』とある(ウィキの「伺候席」に拠る)。

「小身」「せうしん(しょうしん)」。身分が低いこと。俸禄の少ない下級武士。

「僕」古式に「やつがれ」と訓じたい。相手に対して遜った気持ちで用いられた謙遜の一人称。

「知れ候ば」「しれさふらへば」。知ってしまっておりますので。

「外聞宜しからず」ここはやや特殊な用法である。星野家が歴々の大名衆の祖のかつての有様を知っている故に、久務のことを悪しく言う者は恐らくあまりいない代わりに、何か家祖の情けない話を存じているかも知れぬと疑心暗鬼になり、煙たがる御仁が多く、結果的に彼の評判は悪くはないが、宜しくもないと言うのであろう。

「止ぬ」「やみぬ」。ここより後は一般の伝聞話で星野個人の話ではない

「參遠の頃より」遠江より江戸へ家康公とともに江戸へ従って参った頃から。

「六尺」「ろくしやく」は「陸尺」とも書き、武家に於いて、駕籠舁(か)き・掃除夫・賄(まかな)い方などの雑役に従った人夫の総称。江戸城内に於いても「六尺」の名で呼ばれ、奥六尺・表六尺・御膳所六尺・御風呂屋六尺など、実にその総勢は数百人に及び、彼らに支給するために天領から徴集した米を特に「六尺給米」と呼んだ(以上は平凡社「マイペディア」に拠った)。

2018/03/29

栗本丹洲 単品軸装「斑車魚」(マンボウ)

 

Moramora

 

[やぶちゃん注:図版は国立国会図書館デジタルコレクションの栗本丹洲自筆の軸装一点画「鳥獣魚写生図 斑車魚」の画像をトリミングしたものである。腹鰭の先が切れているのは原画のママ。]

 

□翻刻1(原画のママ。但し、冒頭部(右上方)のように下方に書かれていても、改行した箇所もある。約物の「ドモ」相当の「ト」と「モ」の合字は正字化した。但し、「ブリブリ」の後半の踊り字「〱」は正字化した。《 》は私の位置附記、【 】は二行割注、■は判読不能字)

《左下添付付箋標題》

斑車魚【一種大者

 沖マンザイ【佐州■■】

 

《右上方》

沖マンザイ

 佐渡洋中ノ産 其土ノ漁人云

 マンボウノ類乄此ハ別一種

 ト云ルヨシ

 

《右下方》

口ヨリ尾端至ル壹丈 此内尾ノ幅壹尺五寸

胴中徑リ五尺

脊ヒレ長三尺五寸横ノ徑中程テ壹尺二寸余

下ノ鬐長サ三尺五寸横中程テ壹尺二寸余

   口開キタル処下唇ヨリ上唇マテ徑五寸五分

          眼ノ徑四寸

 

《上部中央から左へ》

寛政九年年七月九日

佐州姫津村ノ沖

漁人圖ノ如キ物浮死シ

タルヲ見ツケ綱ヲ付引

來ル同所浦方ヨリ其地

ノ奉行朝比奈氏ノ役所

注進アルニヨリ相川御役所

差出スベキヨシ申渡サル

海府番所ト云処迠海上ヲ

牽來レトモ御役所ヘハ陸𢌞シ

ユヘ人歩弐三十人カヽリテモ陸

成難ヨリ海府ノ濵辺

テ皮ヲ剥キ肉ハ漁人等

   肝ヨリ

切取リ油ヲ絞ルヨシ油凡壱石

四五升モ取レタルヨシ浦方テハ

甚益アル物ナリト云

全体鮫膚テ肉ハアハビノ如ク白ク

腸ハ至テ少シ血モ少シ肉ヲ煮テ見レハ

璚脂(トコロテン[やぶちゃん注:左ルビ。])ノ如クブリブリスルモノ土人食ヒ

試ミタルニ味ヒ淡ク是亦璚脂ノ如クナリ

ト云ヘリ薩州産ノシキリト云ル魚ハマン

ボウ同物ナラン歟其口中ヨリ小判魚

出ルヿアルヨシ朝比奈氏モ其心得

若出ルヿアリヤトト尋ネラルヽニミヘズナン

荅フ

 

□翻刻2(句読点を打ち、概ね、カタカナをひらがなに直し、約物は正字化、記号等を加えて一連の記載として訓読(「如し」は漢文では助動詞であるので平仮名とした)整序して、一部を連結して示した。追記添え字(『肝ヨリ』の部分)は本文へ組み入れた。読み易さを考え、一部に送り仮名や読みを推定で附し、更に〔 〕で助詞を補助した)

《左下添付付箋標題》

「斑車魚(はんしやぎよ)」【一種〔にして〕大なる者〔なり〕。】

 「沖マンザイ」【佐州■■。】

 

《右上方》

「沖マンザイ」

 佐渡〔の〕洋中の産。其の土(ど)の漁人、云はく、「マンボウの類ひにして、此れは別〔の〕一種の物。」と云へるよし。

 

《右下方》

口より尾〔の〕端に至る、壹丈。此の内、尾の幅、壹尺五寸。

胴の中徑(なかわた)り、五尺。

脊びれ、長さ、三尺五寸。横の徑り、中程にて、壹尺二寸余(よ)。

下の鬐(ひれ)、長さ、三尺五寸。横、中程にて、壹尺二寸余。

口、開(ひら)きたる処、下唇(したくちびる)より上唇まで、徑り、五寸五分。

眼の徑り、四寸。

 

《上部中央から左へ》

寛政九年巳年七月九日、佐州姫津村の沖にて、漁人、圖のごとき物、浮き死(じ)にしたるを見つけ、綱を付け引き來たる。同所、浦方より、其の地の奉行朝比奈氏の役所に注進あるにより、相川御役所に差し出だすべきよし、申し渡さる。海府番所と云ふ処まで、海上を牽き來れども、御役所へは、陸𢌞(りくまは)しゆへ、人歩(にんぷ)、弐、三十人、かかりても、陸上げ成(な)り難(がた)きにより、海府の濵辺にて、皮を剥ぎ、肉は漁人等(ら)、切り取り、肝(きも)より、油を絞るよし。油、凡(およ)そ壱石(いつこく)〔と〕、四、五升も取れたるよし。浦方にては、甚だ益ある物なり、と云ふ。

全体、鮫膚にて、肉は、「アハビ」のごとく白く、腸(はらわた)は至つて少なし。血も少なし。肉を煮て見れば、「璚脂(トコロテン)」のごとく、ブリブリするもの、土人、食ひ試みたるに、味はひ、淡く、是れ亦、璚脂(トコロテン)のごとくなり、と云へり。

薩州産の「シキリ」と云へる魚は、「マンボウ」と同物ならんか。

其の口中(こうちゆう)より、小判魚(こばんうを)、出づることあるよし、朝比奈氏も其の心得にて、

「若(も)し、出づることありや。」

と尋ねらるるに、

「みへず。」

となん、荅(こた)ふ〔となり〕。

 

[やぶちゃん注:佐渡の漁師は本個体を「マンボウの類ひにして、此れは別〔の〕一種の物」であると言っているが、つい最近まで、本邦産のマンボウは概ね、条鰭綱フグ目フグ亜目マンボウ科マンボウ属以下はマンボウ Mola mola とされていたから、それで挙げておく。まず、二〇一〇年にマンボウ属ウシマンボウ Mola alexandrini が別種として提唱されているが、これは東日本の太平洋岸で捕獲される全長三メートル前後の大型個体を中心とした集団から遺伝子解析によって区別されて別種とされたものであり、本個体が揚がった佐渡ではウシマンボウ Mola alexandrini を比定候補とするには無理がある。加えて、形態学的には、ウシマンボウはマンボウと比較すると、頭部上方(人の顔にシミュラクラすると「おでこ」の位置)が有意に腫れたように突き出ること・舵鰭(かじびれ:マンボウの体の後端にある尾鰭のような鰭。実はマンボウには尾鰭がなく、この背鰭と臀鰭の要素が組み合わさって出来た特異な鰭が代わりにあって、これで左右に舵を切る。但し、舵機能としては極めて性能が低い)の縁辺部がマンボウのように波型の形状を持たず、つるんとしていること・舵鰭の軟条数がマンボウより多いこと・鱗がマンボウは円錐形でその先端部分が棘状を呈するのに対して、ウシマンボウは長方形の浅い出っ張りでしかない点で区別されるのであるが、下線部の二点が、図のマンボウとまったく一致しないので、棲息域以外の点でも本種はウシマンボウではないと言ってよい。ところが、近年、世界中のマンボウ属の標本百二十二頭のミトコンドリアDNAD-loop領域の分子系統解析から、マンボウ属は少なくとも三種(group A/B/C)に分かれるという解析結果が得られており、日本近海で主に見られるものはgroup BMola sp. B)に含まれ、日本近海で主に見られるgroup Bの形態はMola molaと一致するとされる。しかし、一方で、これらの分子系統解析の結果と、用いられた標本の形態比較が並行して行われておらず、二〇〇九年現在でも group B に対応する学名は不明なままであり、更なる研究や比較検討が必要とされている。また、二〇一〇年には Mola sp. B の標準和名を「マンボウ」とすることが提唱されたと、ウィキの「マンボウ」にはあった。しかし正直、Mola mola(ギリシャ語の「碾き臼」(mylos)由来)が Mola sp. B という無風流な名となるのは極めて悲しい気がするモラ・モラ・フリークの私であった以下、ウィキより引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『最大全長三百三十三センチメートル。体重二・三トン。現在生息している世界最大級の硬骨魚のひとつである。ただし、後述のとおり、大型の個体はウシマンボウである可能性がある』。『体は側面から見ると円盤型、正面から見ると紡錘形をしている。背びれと尻びれは長く発達し、体の後部から上下に突き出しているが、多くの魚が持つ尾びれと腹びれは持たない。体の後端にある尾びれのような部分は、背びれと尻びれの一部が変形したもので、舵びれあるいは橋尾とも呼ばれる。泳ぐときは背びれと尻びれの動きを同調させて羽ばたくように対称に動かすことで推進力を生み、舵びれあるいは橋尾で舵をとる』。『フグ目に属し、同目に特徴的な丸い目、小さな口、鳥のくちばしのような板状の歯、小さな穴状のエラ穴を持つ。腹びれと肋骨を持たないのも同目の特徴である』。『皮膚は厚く粘液で覆われるとともに、おびただしい量の寄生虫が付着している。なお、皮膚は非常に弱く、飼育下では水槽壁面への衝突などでも』、傷付きやすいとされる。『岸辺や近海に生息するフグが外洋に進出して適応進化したものであり、全世界の熱帯・温帯の海に広く分布する。外洋の表層で浮遊生活をしていると考えられてきたが』、実際には、『生息の場は深海にまで及んでおり、海上で見せる姿は生態の一部にすぎないことがわかってきた。発信機をつけた追跡調査で、生息水深を一定させず、表層から水深八百メートル程度までの間を往復していることが明らかにされている。二十五%程度の時間を表層で過ごす個体がいる一方、別の個体は水深二百メートル以深の深海にいる時間が長かった。水温の変化に影響を受けている可能性が考えられているが、外洋に生息する魚だけに生態はまだ謎が多く、詳しい調査が待たれる』。『クラゲや動物プランクトンを食べるということは知られているが、胃内容物からは深海性のイカやエビなどの残骸も発見されている。これまで海中を受動的に漂っているだけと考えられることが多かったが、これらの餌を捕食するにはある程度の遊泳力が必要となる』が、『音響遠隔測定による調査で、海流に逆らって移動し得るだけの遊泳力を持つことが』確認されているという。『時折』、『海面にからだを横たえた姿が観察されることがあり、丸い体が浮かんでいる様が太陽のようであることから sunfish という英名がついた。この行動は、小型の魚やカモメなどの海鳥に寄生虫を取ってもらうため、深海に潜ることによって冷えた体を暖めるため、あるいは日光浴による殺菌が目的ではないかと考えられている。マンボウは勢いをつけて海面からジャンプすることもあり、これも寄生虫を振り落とすためである可能性がある』とされる。『メスが一度に産む卵の数は三億個に達するともいわれ、最も多く卵を産む脊椎動物とされる。卵は親に保護されることもなく海中を浮遊しながら発生するため、ほとんどが他の動物に食べられてしまい、成長できるのはごくわずかである。孵化した稚魚は全身にとげがあり、成魚とは似つかない金平糖のような姿をしている。一時的にとげが長くなりハリセンボンのようにもなるが、成長するにつれとげは短くなり、独特の姿に変わってゆく』。『また、全長四十センチメートル程度の若い個体が群れを作ることも報告されている』。『刺し網・流し網・トロール漁などによる混獲により』、『生息数が減少している。特にアイルランドやポルトガルでは網にかかる個体の減少が著しい』。『大きな体に愛嬌のある風貌で』『人気が高い。水族館での飼育は一般的に困難であるが、日本では海遊館・鴨川シーワールド・名古屋港水族館などいくつかの水族館で飼育展示が行われている。飼育が難しい主な理由は泳ぎが下手なため』、『自ら水槽の壁に体をぶつけて弱ってしまうこと、寄生虫が多いことなどである。餌は、水面に顔を出したときにエビのミンチなどを直接口に入れてやる方式がよい結果を残しており、さらに水槽内にビニールやネットの壁をめぐらせてマンボウを守るなどの対策が取られるようになった。ただし、飼育に適した小型の個体は手で触るだけで手の跡がそのまま付くほど皮膚が弱く、飼育が難しい事は変わらない。また飼育下で大きく成長した個体は施設に限界があるため、標識をつけて大洋に再び放される事が多い。国内での飼育記録としてはマリンピア松島水族館で飼育されていた「ユーユー」が千三百七十九日の記録を残している』とある。私は江ノ島水族館の飼育個体を遠い昔に見たが、その表情は孤独で淋しそうだった。なお、栗本丹洲にはマンボウを考証した「翻車考」(文政八(一八二五)年に書かれた自筆本)がある。近い将来、国立国会図書館デジタルコレクションの画像のそれも電子化したいと考えているのであるが、漢文で訓読注するとなるとかなりの難物の大物にはなると思う。でも、やりたい。

「斑車魚(はんしやぎよ)」丹洲はその「翻車考」などで、中国本草書等に出る「翻(飜)車魚」(現代中国語でもマンボウをこう書く)をマンボウに比定同定しているのであるが、その「翻車考」の冒頭の考証部の最後の部分で、実にこの佐渡のマンボウを採り上げて語った中に、『全身堅硬如鯊、脊有斑文、此卽萬寶一種、大而灰白、而稱澳萬歳』(下線は私)と出るのである。「翻(飜)車魚」の「翻車」(ホンシャ)とは「龍骨車」とも呼び、中国の代表的な揚水具の一つで、細長い箱に数珠のように連結された多数の木の方板を嵌め込み、箱の上部の輪軸に結合させて人力で輪軸を回転させ、揚水するものである。水車を平たく潰したような形状になり、それが、本邦では水車と同義的になったと考えれば、マンボウの形をそれに模したものとも言えようが、どうもそんなに似ているとは私には思われないし、丹洲も「翻(飜)車魚」には今一つ、しっくりこなかったではなかったか? 寧ろ、同じ音なら「ハンシャギョ」で「斑」紋を有した「車」の車輪のように丸々ずんぐりして大きな「魚」で、「斑車魚」としたのではあるまいか?

「沖マンザイ」「ぼうずコンニャクの市場魚介図鑑」の「マンボウ」の「由来・語源」の項には、「まんぼう」の「まん」は「丸い」、「ぼう」は「魚」を表わすとあり、だから『「円坊鮫」の訛』りともし、更に形状が『方形であるため、「萬方」の意味』とあった。ここで「萬」から予祝風俗としてのゲン担ぎの「萬歳」にスライドしたと考えても、私は何らおかしくないと思う。マンボウの動きの如何にもな鈍さや剽軽な顔つきは、春を呼ぶ万歳の芸人を連想させもする。なお、「ぼうずコンニャクの市場魚介図鑑」では他に、富山県氷見市の「クイサメ」(棒杭の鮫か)、東北地方の「ウキキ(浮木魚)」「ウキギ(浮木魚)」の他、キナンボウ」「マンブ」「クイザメ」「ユキナメ」「バラバア」「シキリ」「ウオノタユウ」「タユウサン」と異名が並ぶ。これらの語源を考えてみるだけでも楽しい。

「佐州■■」細々とあって、汚れであって、字でないようにも見えるのだが、或いは「之産」・「之者」かも知れない。拡大しても不明である。

「洋中」沖中の意。

「口より尾〔の〕端に至る、壹丈」口吻尖端から舵鰭(前に述べた通り、マンボウには尾鰭はないので注意)の後端までが、三メートル三センチメートル。

「尾の幅、壹尺五寸」体幹末から出た、舵鰭の一番長い部分(蓮の葉のように突出したその先の部分まで)の長さが、三十センチメートル五ミリ弱。

「胴の中徑(なかわた)り、五尺」胴の最も中ほどの左右幅の謂いか。一メートル五十一センチメートル。

「脊びれ、長さ、三尺五寸」背鰭の長さが、九十一センチメートル。

「横の徑り、中程にて、壹尺二寸余(よ)」これが体幹の横幅で、最も厚い中ほどで、約三十六センチメートル。異様に体幅が薄い。

「下の鬐(ひれ)」「横、中程にて、壹尺二寸余」腹鰭の中央分の幅が、三十六センチメートル強。

「口、開(ひら)きたる処、下唇(したくちびる)より上唇まで、徑り、五寸五分」口吻の下顎の吻の皮の上部から、上顎の吻の皮の下部まで(歯ではなく、その上下部分と読む)が、十六センチメートル六ミリメートル。

「眼の徑り、四寸」眼球の直径が、約十二センチメートル。

「寛政九年巳年七月九日」グレゴリオ暦一七九七年七月三十一日。

「佐州姫津村」現在の新潟県佐渡市姫津(ひめづ)。(グーグル・マップ・データ)。私の好きな、外海府海岸と尖閣湾の間に当たる。

「浦方」浦方役人。主に金山保守のための、佐渡海岸域の沿岸警備(島抜けや外部からの侵入)に当たった下級役人。

「奉行朝比奈氏」当時の佐渡奉行の一人、朝比奈次左衛門昌始(まさもと)。寛政六(一七九四)年閏十一月に目付より佐渡奉行となり、寛政十年五月に長崎奉行へ転出している。

「相川御役所」現在の佐渡市相川広間町にあった佐渡奉行所。(グーグル・マップ・データ)。

「海府番所と云ふ処まで、海上を牽き來れども、御役所へは、陸𢌞(りくまは)しゆへ」海府番所の正確な位置が判らないが、現在の村落のある達者地区から相川までを陸路で実実測すると、五キロメートル以上ある。当時のこの辺りの地形から見ても、これは怖ろしく大変なことが容易に想像出来る。

「人歩(にんぷ)」人夫であろう。

「壱石(いつこく)〔と〕、四、五升」百八十八~百八十九リットル。一般家庭の浴槽が約二百リットルというから、想像されたい。

「甚だ益ある物なり」魚油は非常に臭いが強いが、灯油として用いられた。

「アハビ」鮑(あわび)。

「璚脂(トコロテン)」誤記。「瓊脂」が正しい。テングサ(:アーケプラスチダ界 Archaeplastida 紅色植物門紅藻綱テングサ目テングサ科 Gelidiaceae に属する海藻類。最も一般的な種はテングサ属マクサ Gelidium elegans)やオゴノリ(紅藻綱オゴノリ目オゴノリ科オゴノリ属オゴノリ Gracilaria vermiculophylla)などを煮溶かして型に流し、冷却して固めた例の「心太(ところてん)」である。

「ブリブリする」「トコロテン」のようなものというのは、これは恐らくは肉ではなく、マンボウの表皮の下層に厚く存在するゼラチン層のことを指しているように思われる。なお、ウィキの「マンボウ」には、マンボウは『商業的に食用とされることは少ない』としつつも、『一方でアジア、特に日本の一部と台湾で食用とされる』。『日本では主に定置網で混獲され、専門的に狙う漁師は少ない』。『美味とされるが』、『鮮度が落ちやすく』、『冷蔵冷凍技術の普及以前は市場流通は限られていた。鮮度が落ちると特有臭を放ち、水っぽくなる』、『現在』、『特に宮城県から千葉県にかけてと東伊豆、三重県紀北町や尾鷲市などは比較的流通が多い。紀北町には道の駅があり、フライ定食を提供している』。『肉は白身で』『非常に柔らかく、調理法は刺身や湯引きして肝臓(キモ)と和えて、あるいはから揚げ、天ぷらなどで利用される。味はあっさりとしており、食感は鶏肉のささみに似ている』、『腸はマン腸またはクジラと同様に百尋と呼ばれる。紀北町ではコワタと呼ばれる』。『食感はミノに似て、他の部位より』も『日持ちすることもあり、流通量が多い』。『皮や目も食用となるが、ほとんど流通していない』。『台湾では』五『月ごろ』、『海流に乗って東海岸に現れるため、定置網で捕り、食用にすることが盛んである。台湾のほとんどの水揚げが集中する花蓮市では日本語からの借用語で曼波魚(中国語 マンボーユー、台湾語 マンボーヒー)と呼び』、五『月に「花蓮曼波季」という食のイベントを行い、観光客に紹介している。この時期は台北の高級店でも料理を出す例がある。肉、軟骨、皮などをセロリなどの野菜と炒めたり、フライやスープにしたり、腸を「龍腸」と称して炒め物にしたりすることが多い』とある。因みに、私は土肥でマンボウの肉の刺身を食したことがある。とても美味であった。

『薩州産の「シキリ」と云へる魚は、「マンボウ」と同物ならんか』マンボウの記載の地方名に『シキリ(鹿児島)』とある。

「其の口中(こうちゆう)より、小判魚(こばんうを)、出づることある」条鰭綱スズキ目コバンザメ科コバンザメ属コバンザメ Echeneis naucrates のこと。が、当然、ある。私は動画で、驚くほど、多数のコバンザメが大型のサメ類の口腔内(総排泄腔から腸にさえも潜り込んで吸着する)にいる映像を見たことがある。]
 

栗本丹洲 単品軸装「ウチハ魚」(ウチワフグ)

 

Utiwahugu_2

 

[やぶちゃん注:図版は国立国会図書館デジタルコレクションの栗本自筆軸装画「鳥獣魚写生図 ウチハ魚の画像をトリミングしたものである。]

 

□翻刻1(原画のママ。但し、「ハラハラ」の後半の踊り字「〱」は正字化した)

寛政六寅冬志州浪切浦

漂水之處て獲之脊圓ク平ク

目ノ上高し鬣小ナリ腹一杯ニテ

廣ク團扇之如シ因テウチハ魚と云

又袋ブかと云口鳥ノ喙似タリ

遍身沙アリ鮫皮ノ如シ腹ハ竪

ハラハラトアリ手ニテ点撫レハ

小刀ノ刄ノ如クナルモノアリ甚異物

ナリ色形ハ図ノ如シ肉白ク味中品

脂アリテ軽ク温ナリ無毒ナルモノ也

 

 

□翻刻2(句読点を打ち、概ね、カタカナをひらがなに直し(「袋ブか」の「か」は特異的にカタカナにした)、記号等を加えて一連の記載として訓読(「如し」は漢文では助動詞であるので平仮名とした)整序して、全体を連結した。読み易さを考え、一部に送り仮名や読みを推定で附し、更に〔 〕で助詞を補助した)

寛政六寅〔の〕冬、志州、浪切浦に漂水の處にて、之れを獲る。脊、圓(まる)く、平く、目の上、高し。鬣(たてがみ)、小なり。腹一杯にて廣く、團扇(うちは)のごとし。因りて、「ウチハ魚(うを)」と云ふ。又、「袋(ふくろ)ブカ」と云ふ。口、鳥の喙(くちばし)に似たり。遍身(へんしん)、沙(すな)あり、鮫皮のごとし。腹は竪(たて)に、点、パラパラとあり。手にて点の上を撫(な)づれば、小刀の刄(は)のごとくなるもの、あり。甚だ異物なり。色・形は図のごとし。肉、白く、味、中品(ちゆうひん)。脂(あぶら)ありて、軽く、温(おん)なり。無毒なるものなり。

 

[やぶちゃん注:条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目フグ目フグ亜目ウチワフグ科ウチワフグ属ウチワフグ(団扇河豚)Triodon macropterus である。一科一属一種。インド洋と太平洋の熱帯域(アフリカ東岸からオーストラリア・フィリピン・日本近海まで)に広く分布する深海性(百メートル以深)の種。体が側扁し、腹部が団扇のように下方に拡張している。両顎の歯は癒合して嘴状になっており、上顎に二枚、下顎に一枚ある(属名(-odon は、ギリシア語(イオニア方言)で「歯」)や英名の Three-toothed puffer はそれに由来する。“puffer”は「プッ!」と吹く人や物の意から「フグ」をも指す語)。体色は黄色で、腹部に黒色の眼状斑(周囲は淡色)を有し、尾鰭は二又に分かれる。全長は三十センチメートルにも達する。本種はフグ目 Tetraodontiformes の中でも、その下のフグ亜目 Tetraodontoideiとモンガラカワハギ亜目 Balistoidei のタクソンを結ぶ中間的特徴を備えている。支持骨格である腰骨のみが存在するのはフグ目の主な共通点であるが、腹鰭を持たない(これはフグ科Tetraodontidae以降の特色)。しかし腰骨が左右の対構造を持っていて、これは、完全に単一構造を呈するモンガラカワハギ上科 Balistoidea よりも原始的な特徴であることから、目内での分類学上の位置づけに問題を残しているグループと言える(一部でウィキの「フグを参照した)。一本釣りで漁獲され、九州や沖繩などの島嶼では食用にする。無毒(後注参照)。

「寛政六寅」一七九四年。

「志州」志摩国。

「浪切浦」現在の三重県志摩市大王町波切附近。(グーグル・マップ・データ)。志摩半島の南の西端である大王崎の直近。

「漂水の處にて」水面を漂って流れていたことを言っているものと思われる。深海性の種であるから、内臓疾患か何かで弱って浮き上がってきたものであろう。

「鬣(たてがみ)」背鰭。

「袋(ふくろ)ブカ」「袋」は下垂した腹部の弛(たる)み由来で、「ブカ」は「鱶」、「鮫」のこと。後で丹洲が述べている通り、皮革表面に強いザラザラした棘状突起(本文の「沙(すな)」「小刀の刄(は)のごとくなるもの」はその形容・比喩)が偏在するのが、鮫肌(鮫皮)と同じだからであろう。

「温(おん)」漢方で言う人体を暖める性質を指す。

「無毒なるものなり」テトロドトキシンを持つ種が多いフグ科 Tetraodontidae(二亜科十九属百三十種)とは科レベルで異なる(ウチワフグ科 Triodontidae)本種は無毒である。ある意味、見間違えることもなく、安心して食べられる「フグ」でない「フグ」ということにもなろうか。私は残念なことに食したことがないが、食した記載では、蛋白質に富んでいて白身で味がよい、とある。]

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 餅白鳥に化する話 一

 

 餅白鳥に化する話

 

     一

 

 正月が來るたびに、いつも思ひ出すばかりでまだ根原は知らぬのだが、伏見の稻荷樣の一番古い記錄に、餅が鳥になつて飛び去つたといふ話がある。

 都が山城國に遷された以前、今の稻荷山の麓の里に秦中家忌寸(はたのなかついえのいみき)の一族が住んで居た。その家の先祖秦公伊呂具(はたのきみいろぐ)の時に、有つた事として其話は傳へられる。伊呂具富裕にして粟米充ち溢るゝままに、餅を用ひて的としたところ、其餅白き鳥に化して飛び翔りて山の峰に居り、そこに稻が成生した。社の名も之に由つて起り、更に山を隔てゝ北の方、島部野島部山の鳥部と云ふ地名も、其餅の鳥が飛んで來て、とまつた森の跡だからと謂ふのであつた。

[やぶちゃん注:ウィキの「伏見稲荷大社」によれば、『京都府京都市伏見区深草にある』、同社(旧称・稲荷神社)は『稲荷山の麓に本殿があり、稲荷山全体を神域とする』とし、「歴史」の項に『「秦氏の祖霊として創建」の縁起』として、本社の本来の神名「イナリ」の縁起としては、「山城国風土記」に『あったとされるものが有名である』とあって引用される。ここでは所持する岩波文庫「風土記」武田祐吉編の逸文にある「山城國風土記」で独自に示す。私が添えた「-」は二字熟語で以下の読みであることを示す。

   *

  伊奈利(いなり)の社

山城風土記に曰はく、伊奈利社、いなりと稱(い)へるは、秦中家忌寸(はたのなかつへのいみき)等(ら)が遠祖(とほつおや)、伊侶具(いろぐ)の秦公(はたのきみ)、稻-粱(いね)を積みて富-裕(とみ)を有(たも)ちき。すなはち、餅を的と爲ししかば、白鳥と化-成(な)りて飛び翔(かけ)りて山の峰に居り、稻(いね)なり生(お)ひき。遂に社の名と爲しき。その苗-裔(はつこ)に至り、先の過(あやまち)を悔いて、社の木を抜(ねこじ)にして、家に殖ゑて禱(の)み祭りき。今、その木を殖ゑて蘇(い)きば福(さきはひ)を得、その木を殖ゑて枯れば福あらじとす。

   *

『この秦氏について』は、「日本書紀」の「欽明紀」に『秦大津父』として、『もともと』、『山城国紀伊郡深草近辺に在住していたことが見え』、また、「稲荷社神主家大西(秦)氏系図」にも、

   *

秦公、賀茂建角身命二十四世賀茂縣主、久治良ノ末子和銅四年[やぶちゃん注:七一一年。]二月壬午、稻荷明神鎭座ノ時、禰宜トナル、天平神護元年[やぶちゃん注:七六五年。]八月八日卒。

   *

『とあり、秦氏と賀茂神社との関連や、秦氏が和銅年間に稲荷社の社家となったことを伝えている。社伝には、当時に全国的な天候不順で作物の不順が続いたが、勅使を名山大川に遣し』、『祈請すると加護があって』、『山背国の稲荷山に大神を祀ると、五穀が稔って国が富んだ』、『とも伝えている』とある。以上の「山城国風土記」に『見られるように、「イナリ」の表記は』、本来は「伊奈利」の字が当てられていたが』、「類聚国史」にある淳和天皇による天長四(八二七)年『正月辛巳の詔で初めて「稲荷」の表記が用いられた』。以降、「延喜式神名帳」では、

   *

山城國紀伊郡 稻荷神社三座

   *

『と記載され』るようになったという。『なお、この木を植える伝承は験(しるし)の杉として現代にも伝わっている』とする。なお、戸原氏の個人サイト内の「稲荷信仰/稲荷神顕現伝承」には、この『その創建に関する伝承には大きく』見て、『秦氏系と荷田氏系のふたつの流れがある。ここでは、前者を「伊奈利伝承」後者を「稲荷伝承」と区別して記す。なお、どちらもイナリと読む』として、以上の縁起と、今一つの「稲荷伝承」(イナリ神の顕現を「稲を荷なう老翁」に求める伝承で、伏見稲荷で秦氏とともに神官を勤めた荷田氏系の伝承とされるものという)を併記するので参照されたい(但し、そちらでは白鳥への変異は語られていない)。

「都が山城國に遷された以前」桓武天皇が延暦三(七八四)年に乙訓郡長岡に長岡京を造営する以前。

「秦中家忌寸(はたのなかついえのいみき)」「伏見稲荷大社」公式サイト内のこちらによれば、秦中家忌寸は次に示される伊呂具から数えて九代目に相当する人物で、『賜姓秦忌寸、禰宜、嘉祥三年[やぶちゃん注:八五〇年。]三月從六位上』と記録されているという。この中家に至るまで、稲荷社祠官は代々禰宜一名であったが、彼の代にその弟の「森主」が『祝(はふり)、嘉祥三年三月從六位下』と記録されていることから、この頃から、禰宜・祝の二員制に移行したことが判るとある。

「秦公伊呂具(はたのきみいろぐ)」秦中家忌寸らの祖先。秦氏は半島から渡来して山城国を本拠にした一族である。]

 

 此話の永く世に傳はつた理由、卽ち此物語が古代の人々に供した繪樣[やぶちゃん注:「ゑやう(えよう)」。イメージされた映像。]は、今我々が之に由つて感受するものと、大分の相異があつたので無いかと思ふ。所謂白い鳥の何鳥であつたか、何故に不思議が其鳥の形を假りて、能く人間の驚歎を深くし得たかといふことは、既に日本武尊の御墓作りの一條に於ても、決しかねた問題であつたが、此場合はことに其點がはつきりせぬと、昔の心持を辿りにくいやうな感じがする。

 

 宮城縣[やぶちゃん注:底本は『福島縣』であるが、誤りであるので、ちくま文庫版全集で特異的に訂した。]の苅田嶺神社は、近世の學者によつて、日本武尊を祀ると説明せられて居るが、土地の口碑を聽けば明白に滿能長者同系の物語で、天子の御寵愛を受けた玉世姫と、その王子の尊靈とを神に仰いだものである。さうして此神の御使はしめの白い鳥は、ハクテウ卽ち Swan であつた。豐後の田野(たの)長者の、故跡と稱する山間の草原には、以前は年每に二羽の鶴來たり遊び、それを長者が飼つて居た鶴だと謂うた爲に、或は豐後風土記の中にもある同じ話、卽ち餅が化して成つたと云ふ白い鳥を、鶴では無いかと思ふ人も有るかも知れぬが、勿論之に由つて卽斷をすることは出來ぬのである。

[やぶちゃん注:「苅田嶺神社」刈田嶺神社(かったみねじんじゃ)と称する知られた神社は現在、三つあるが、孰れも宮城県内にある。一つは、宮城県刈田郡蔵王町宮字馬場にある刈田嶺神社(蔵王町宮)で、別に宮城県刈田郡蔵王町遠刈田温泉仲町にある里宮の刈田嶺神社と、その奥宮である宮城県刈田郡七ヶ宿町の刈田岳(標高千七百五十八メートル)山頂にある刈田嶺神社である。後者の二者は修験道系で、ここで柳田國男が言っているのは、最初に挙げた、別名を「白鳥大明神」と称する宮城県刈田郡蔵王町宮字馬場にある刈田嶺神社(蔵王町宮)で、現在、同神社は祭神を日本武尊とする同神社のウィキによれば、『当社がある刈田郡や隣接する柴田郡では「白鳥信仰」があり、当社には奉納された白鳥の絵馬がいくつも伝えられて』おり、『また、境内に「白鳥古碑群」がある』とある。

「滿能長者」各地に伝わる長者伝説で、他に「真名野(まなのの)長者」「万の長者」などとも称する。特に豊後(大分県)の「まんのう長者」伝説が名高い。以下、小学館の「日本大百科全書」から引く。『前半は、炭焼きから身をおこして長者になったという炭焼き長者譚(たん)として語られている。京に玉津姫といって顔に黒痣(あざ)のある姫がいたが、神のお告げによって豊後の炭焼き小五郎と夫婦になる。小五郎は、妻にもらった小判を鴨(かも)に投げつけて失うが、驚く妻に』、「あのようなものならば、炭焼き竈(がま)のそばにいくらでもある」『と話す。そのことばどおりに黄金を発見し、のちに真名野長者になったという話で、すこしずつ』、『変化して各地に分布している。後半は、この長者には子がなかったので』、『観音様に祈願して美しい女児を授かり玉依姫(たまよりひめ)と名づける。姫の評判を時の用明(ようめい)天皇が聞き、勅使を遣わすが』、『意に従わない。怒った帝は「芥子(けし)を万石差し出せ」「両界の曼荼羅(まんだら)を織れ」といった難題を出すが、ことごとく解決してしまう。帝は自ら身をやつし、山路と名のって長者の牛飼いとして働いて姫を迎える。大分県竹田(たけた)市蓮城寺(れんじょうじ)は真名野長者の跡と伝え、長者堂のほか、用明天皇の腰掛け石などが残っている』。中世の舞の本である「烏帽子折(えぼしおり)」に『みえる山路の牛飼いの挿話は、この伝説のもっとも古い記録として知られ、以前に「流され王」の中で注した近松の「用明天皇職人鑑」の成立にも『大きな影響を及ぼしている。長者の名については、富を表現しているとする説のほか、これらの説話を持ち歩いた巫女(みこ)の名に由来するとの説がある』とある。

「豐後の田野(たの)長者」は「まんのう長者」伝説の変形譚の一つ。個人のページと思われる「大分の伝説」の「朝日長者伝説」の「夕日を呼び戻す」を参照されたい。他の記事も同系列譚なので、全文を読まれることを強くお薦めする。

「豐後の田野(たの)長者の、故跡と稱する山間」恐らくは大分県玖珠(くす)郡九重町田野千町無田(せんちょうむた)附近と思われる。ここ(グーグル・マップ・データ)であるが、直近の西北に「白鳥神社」があるのが判る。

「豐後風土記の中にもある同じ話」以下(【 】は二行割注)。引用底本は前に同じ。

   *

田野【郡の西南に在り。】

この野は廣く大きに、土地(つち)沃-腴(こ)えたり。開墾(あらき)の便(たより)、この土(くに)に比(たぐ)ふものなし。昔-者(むかし)、郡内(くぬち)の百姓(おほみたから)、この野に居りて多く水田を開き、糧(かて)に餘(あま)して畝(うね)に宿(とゞ)め、已(はなは)だ富みて大(いた)く奢り、餅(もちひ)を作りて的(まと)と爲しき。時に餅(もちひ)、白鳥と化(な)りて發(た)ちて南に飛びき。當年(そのとし)の間に、百姓(おほみたから)死に絶えて、水田を造らず、遂に荒れ廢(う)てたりき。時(それ)より以降(このかた)、水田に宜からず。今、田野(たの)といへるはその緣(ことのもと)なり。

   *]

 

 豐後風土記の餅白鳥に化する物語は、之を繰り返す必要も無いほど、最初に擧げた山城風土記の逸文とよく似ている。この二つの風土記は文體から判斷しても、出來た年代に若干の差が有るらしいから、一方の話が弘く世に行はれて、後に九州の方でも之を説くに至つたのかも知れぬが、それにしてはあまりに根強く、新しい風土に適應し、且つ年を追うて成長して居る。或は今一つ古い時代から、此民族に持ち傳へた空想が、何ぞの折には斯うしてそちこちに、芽を吹き花を咲かせる習はしであったのではないか。

 二國の物語の最も著しい差別は、山城の方では秦氏の子孫再び神に宥されて[やぶちゃん注:「ゆるされて」。許されて。]故の地に繁榮し、自ら家の奇瑞を述べて居るに反して、豐後に於ては田野は永く荒廢し、偶〻其地を過ぐる者が、色々に聞き傳へ語り繼いだ昔だけが遺つて居る點である。田野(たの)とは田に似たる荒野と云ふ意味で、附けられた地名であつた。今の玖珠郡飯田村の中に、千町牟田[やぶちゃん注:前の段落の私の「豐後の田野(たの)長者の、故跡と稱する山間」の注とリンク先を参照。]と稱する廣いムタがあるのを、所謂田野長者の耕地の跡としてあるが、果して風土記以來の田野は是なりや、また[やぶちゃん注:ちくま文庫版全集では『まだ』。]少しばかりの疑ひは有る。風土記には速見郡田野里とあるのに、右の千町牟田は分水嶺を越えて更に西、筑後川の水系に屬する玖珠郡の地であり、且つ速見郡の方面にも、南北由布村の如く、田野とも名づくべきムタ卽ち水濕の地はいくらもあるからである。

[やぶちゃん注:「ムタ」小学館の「日本国語大辞典」によれば、「草の生い茂った沼」の意で、方言としては「湿地・沼地」(大分等の九州地方)、「沼田・泥田」(長崎・鹿児島)の意があるとある。

「速見郡田野里」「田野里」は不詳であるが、旧速見郡郡域で「南北由布村」=北由布村・南由布村となると、大分県由布市湯布院町のこの中心(グーグル・マップ・データ)附近と思われる。先の千町無田より十一キロメートル以上、東北に当たる。]

 

 ムタは關東・東北でヤチといい、中部ではクゴともフケとも稱して、排水の六かしい[やぶちゃん注:「むつかしい」。難しい。]平衍[やぶちゃん注:「へいえん」。平らな所で水があふれて広がっていること。]なる濕地のことである。海川に近い低地であるならば、何としてなりとも水田に開くが、山中に在つては温度其他の條件が具備せず、打棄てゝ置かれて禾本科[やぶちゃん注:「くわほん(かほん)」。単子葉植物綱イネ目イネ科 Poaceae の種群。]の雜草が野生する故に、地面を大切に思ふ農民たちは、之を見る每に心を動かし、神の田又は天狗の田などゝ名づけて、色々の奇異を附會した例が多い。豐後の田野でも其に近い事情の下に、有りもしない大昔の長者を想像する樣になつたのであらう。千町牟田なども豐日誌の記事に由れば、今も畦畝儼として存し、春夏は草離々[やぶちゃん注:「りり」。草が繁茂しているさま。]として畝每に色を異にす、或は蒼く或は赤く、禾苗早晩の狀を爲すとあるのである。餅が白い鳥になつて飛ん往つたと云ふ昔話に、似つかはしい舞臺であつた。

[やぶちゃん注:「ヤチ」谷地。沼沢・湿地などの草生ひ茂るところを指し、また、アイヌ語では「沼沢」と女性の生殖器とは同一語であって、やはり「やち」と呼ぶ。後、「女陰」の隠語として無頼漢の間の隠語となった。

「クゴ」所持する増補改訂版の松永美吉「民俗地名語彙事典」(一九九四年三一書房刊の「日本民俗文化資料集成第十三・十四巻)を見るに、これは「クボ」の転訛で「窪」と思われる。関東では「クボ」は「谷合」、信州南部では「山の窪んだところ」を指し、そこは概ね湿地であるからである。また、アイヌ語では「ク」は「クッ」ならば「(水の)流れ」で、「ホ」は「末端」や「端」を意味するから、水源地で、これも「谷合」などと極めて親和性が強いと私は感じる。

「フケ」小学館の「日本国語大辞典」を見るに、これは「深」ではないか? 方言では「沼沢地・沼地・湿地」(静岡・和歌山)、「大きな沼」(福島)、「泥深い田・深田」(東京都南多摩郡・佐渡・三重・和歌山・徳島・愛媛・大分)などとある。

「豐日誌」不詳。古代氏姓制度研究家大田亮の著作か。ちくま文庫版全集では『ほうにっし』とルビする。識者の御教授を乞う。

「禾苗早晩」イネ科の植物類の苗の出始めたものやかなり伸びたものの意。]

 

2018/03/28

栗本丹洲 魚譜 〔無題〕(「銀ザメ」(ギンザメ或いはアカギンザメの♀)の同一個体再登場) / 栗本丹洲 巻子本「魚譜」~了

 

Saigonoginza

 

[やぶちゃん注:図版は国立国会図書館デジタルコレクションの「魚譜」から。これが掉尾の図である。なお、本図にはキャプションはない。本図は既に出た「銀ザメ」と同一種で(図はこちら)、そこで私は、額部の突起物ないからは決まり。また、側線が前半から中央にかけて小刻みに波打っているところからは

軟骨魚綱全頭亜綱ギンザメ目ギンザメ上科ギンザメ科ギンザメ属ギンザメ Chimaera phantasma

が同定候補となるのだが、尾鰭と区別可能な尻鰭がないという点と、棘の後ろが鋸状になっており、尾鰭の後端が糸状に著しく伸びるという点では

ギンザメ科アカギンザメ属アカギンザメHydrolagus mitsukurii

かとも思われ、後者の可能性が高いかも知れぬとした。先の無キャプションの図(そちらの注の最後も必ず参照されたい)と同じく、鞭状に細くなった尾部の「つ」の字みたような曲がりっぷりまで全く同じで、同一個体と考えてよい。但し、こちらは色がより濃いめで、多くのギンザメ類『「つ」の字』を並べてきた巻子本の最後の一枚として実に相応しいと私は思う

 以上を以って巻子本栗本洲「魚譜」の電子化注を終わる。実に楽しい電子化注であった。ツイッターではアメリカ人のギンザメ研究の専門家からも「いいね!」された。実に「いいね!」――

栗本丹洲 魚譜 〔無題〕(「銀ザメ」(アカギンザメ)の♀の同一個体再登場)

 

Gizame4

 

[やぶちゃん注:図版は国立国会図書館デジタルコレクションの「魚譜」から。なお、本図にはキャプションはない。本図は既に出たザメと同一種で()、そこで私は、尾鰭と区別可能な尻鰭がないという点と、棘の後ろが鋸状になっており、尾鰭の後端が糸状に著しく伸びるという点で

ギンザメ科アカギンザメ属アカギンザメ Hydrolagus mitsukurii 

とした。先の無キャプションの図(そちらの注の最後も必ず参照されたい)と同じく、鰭もボソつき方も細部まで同じで、同一個体と考えてよかろう(但し、こちらは前のような巻子本化による尾部欠損がないのが非常に嬉しい。或いはこの一枚はそういう意味でもここに丹洲が添えたかったものなのかも知れない)。]

栗本丹洲 魚譜 アカエイの卵【誤り】(正しくはガンギエイの卵鞘)

 

Akaeiransyou

 

[やぶちゃん注:図版は国立国会図書館デジタルコレクションの「魚譜」から。]

 

□翻刻1(原文のママ)

此一對者 アカエイノ卵

 

□翻刻2

此の一對は「アカエイ」の卵。

 

[やぶちゃん注:このキャプションは誤り。軟骨魚綱板鰓亜綱トビエイ目アカエイ科アカエイ属アカエイ Dasyatis akajei は卵胎生で、こうした卵鞘を持たず、幼体をが自身の体から出産からである。これは恐らく、

軟骨魚綱ガンギエイ目ガンギエイ科Rajinae 亜科ガンギエイ属ガンギエイDipturus kwangtungensis 或いはその近縁種の卵生の種の卵鞘(卵殻)

と推定する。成体のガンギエイそのものは、以前に先行するンギ」二枚(背部腹部)をそれに比定した。ここに掲げて、

 

Gangiei

Gaigiekihara

 

親子一緒にしてあげようね。]

栗本丹洲 魚譜 〔無題〕(「銀ハエ」(文字欠損を推定)(ギンザメ)の♀の同一個体再登場)

 

Ginza2

 

[やぶちゃん注:図版は国立国会図書館デジタルコレクションの「魚譜」から。上の棘端及び下の鰭の切れは原画のママ。なお、本図にはキャプションはない。しかし、その独特の形状から、本図は既に出た■■エ」(欠損字を「銀ハエ」と推定)と同一種で(図はこちら)、そこで私は、尻鰭がないように描かれている点と頭額部形状(特有の反り返った突出部を持たない)から

軟骨魚綱全頭亜綱ギンザメ目ギンザメ上科ギンザメ科ギンザメ属ギンザメ Chimaera phantasma

に同定した。先の無キャプションの図(そちらの注の最後も必ず参照されたい)と同じく、同一個体と思われるほど酷似している(但し、これもと同じく、全体の色調が先のものよりも明らかに濃いめに彩色されていることが判る)。]

栗本丹洲 魚譜 〔無題〕(「天狗鯊」(アカギンザメ)の♂の同一個体再登場)

 

Ginza1

 

[やぶちゃん注:図版は国立国会図書館デジタルコレクションの「魚譜」から。画像は体幹前部と後部が二分されているため、合成した。上の棘端及び下の鰭の切れは原画のママ。なお、本図にはキャプションはない。しかし、その独特の形状から、本図は既に出た天狗と同一種で()、そこで私は、

アカギンザメ属アカギンザメ Hydrolagus mitsukurii

ではなかろうかと思われるとした。先の無キャプションの図(そちらの注の最後も必ず参照されたい)と同じく、同一個体と思われるほど酷似している(但し、全体の色調が先のものよりも明らかに濃いめに彩色されていることが判る)。]

栗本丹洲 魚譜 〔無題〕(「銀ザメ」(ニジギンザメ?)の♀の同一個体再登場)

 

Ginzameao

 

[やぶちゃん注:図版は国立国会図書館デジタルコレクションの「魚譜」から。画像は頭部が胸部以降と二分されているため、合成した。上下の鰭及び棘端の切れは原画のママ。なお、本図にはキャプションはない。しかし、その独特の形状から、本図は既に出た銀ザメと同一種で()、そこで私は、全体に体色が不審であるが、先の『異魚「ツノジ」の類』と同じ手法で考えると、額部の突起物ないからは決まり。また、側線が前半から中央にかけて小刻みに波打っているところからは

軟骨魚綱全頭亜綱ギンザメ目ギンザメ上科ギンザメ科ギンザメ属ギンザメ Chimaera phantasma

しかし、尾鰭と区別可能な尻鰭がないという点と、棘の後ろが鋸状になっておらず、円滑であるという点では

ギンザメ科アカギンザメ属ニジギンザメ Hydrolagus eidolon

も挙げておく必要があろうかとも思われる。しかし、乾燥標本(この体色は経年劣化かも知れぬ)にした結果、鰭などが毀損したとも考えられぬでもないとした。先の無キャプションの図(そちらの注の最後も必ず参照されたい)と同じく、同一個体と思われるほど酷似している(但し、背鰭や尾鰭の一部及び眼の色彩などに明らかな異同はある)。]

栗本丹洲 魚譜 〔無題〕(「キンザンジ」(アカギンザメ?)の♀の同一個体再登場)

 

Kizanji2

 

[やぶちゃん注:図版は国立国会図書館デジタルコレクションの「魚譜」から。画像は体幹前中部・尾部とに二分されているため、合成した。上下の鰭及び棘端の切れは原画のママ。なお、本図にはキャプションはない。しかし、その独特の形状から、本図は既に出たキンザンジと同一種で()、そこで私は、尻鰭が独立して確認出来ないような描き方がなされているところから、

アカギンザメ属アカギンザメ Hydrolagus mitsukurii

ではなかろうかと推定比定した。先の無キャプションの図(そちらの注の最後も必ず参照されたい)と同じく、同一個体と思われるほど酷似している(但し、体側後部の側線の波打ち方などに明らかな異同がある)。]

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 物言ふ魚 七 / 物言ふ魚~了

 

     七

 

 宮古郡伊良部島の下地には、現在は既に又村が出來て居る。さうしてこの仲宗根氏の宮古島舊史 の存在を、まつたく知らぬ人が多いのである。彼等の耳で傳へて居る大昔のシガリナミは、之を如何なる原因に基づくものと傳へて居るだらうか。必ずしも此一部落で無くても、小さな島々にはどこにも此話は遺つて居るやうである。それを何と無く聽き集めて見ることが、恐らくはこの一節の説話の、巧まざる註釋を供與することゝ思ふ。

 一つの觀點は物をいふ魚の名を、この島ではヨナタマと謂つて居たことである。ヨナはイナともウナともなつて、今も國内の各地に存する海を意味する古語、多分はウミといふ語の子音轉換であらうといふことは、前に風位考資料のイナサの條に於て説いたことがある。それがもし誤りで無いならばヨナタマは海靈、卽ち國魂郡魂[やぶちゃん注:「くにたまこほりたま」。本来の土着の原初的な土地神。]と同樣に海の神といふことになるのである。知らずして海の神を燒いて食はうとしたものが、村を擧げて海嘯の罰を受けたといふ語り事だとすれば、單なる昔話といふ以上に、もとは神聖なる神話であつたらう。それが信仰の零落に伴うて、豐後では「背の甲をあぶりに行く」といふ話にまでなつて居たのであつた。もし其中間の過程を示す伊良部の記錄が傳はらなかつたならば、是はたゞ農民空想の奇異なる一例としか考へられなかつたであらう。

 次に幼兒の無意識の擧動によつて、母と子の只二人が命を全うしたといふことも、何か又信仰上の意味が含まれて居たのかも知れぬ。といふわけは我邦の海の神は、夙に少童[やぶちゃん注:「せうどう」。文字としての意味は「少年」「子供」であるが、「日本書紀」では「少童命」で「わたつみのみこと」(海神)と呼んでいる。]の文字を以て示されて居た如く、しばしば人間の世に向つて叡智なる君子を送つて居たからである。しかし此點を深く説かうとするのには、今はまだ材料が足りない。單に後年さういふ發見をする學者の出づべきことを、爰では試みに豫言して置くまでゝある。

 それから最後に日本以外の民族の傳承が、將來どういふ風な光をこの問題の上に投げるであらうかを考へて見ると、我々がまだ多くを知つて居らぬといふのみで、魚が物言つた話は追々に出て來るらしいのである。近頃讀んでみたジエデオン・ユエの民間説話論にグリム童話集の第五十五篇A、「ハンスの馬鹿」といふ話の各國の類型を比較して、その最も古い形といふものを復原して居るが、この愚か者が海に行つて異魚を釣り、其魚が物を言つてわが命を宥してもらふ代りに、願ひごとの常に叶ふ力を此男に授けたことになつて居る。出處は示して無いが何れかの國に、さういふ話し方をする實例があつたのである。私の想像では我邦の説話に於けるヨナタマも、一方に燒いて食はうとする侵犯者を嚴罰したと同時に、他方彼に對して敬虔であり從順であつた者に、巨大なる福德を附與するといつた明るい方面があつた爲に、斯様に弘く東北の山の中まで、「物言ふ魚」の破片を散布することになつたのでは無かつたか。もしさうであつたならば、今に何處からかその證跡は出て來る。さういつ迄も私の假定説を、空しく遊ばせて置くやうなことはあるまいかと思ふ。

        (昭和七年一月。方言と國文學)

[やぶちゃん注:「ジエデオン・ユエの民間説話論」フランスの文献学者で民俗学者でもあったジェデオン・バスケン・ユエ(Gédéon Busken Huet 一八六〇年~一九二一年)の作品らしいが、原題を探し得なかった。石川登志夫訳・関敬吾監修「民間説話論」として同朋舎出版から一九八一年に翻訳が出ているのが、最も新訳のもののようではある。

『グリム童話集の第五十五篇A、「ハンスの馬鹿」』個人ブログ「ふろむ京都山麓」の物言う魚 第3回<馬鹿のハンスの霊魚>によれば(一部に句点を打った)、

   《引用開始》

 柳田國男は「物言ふ魚」で、ジェデオン・ユエ著『民間説話論』を取りあげている。グリム童話「ハンスのばか」は構造に欠陥がある不完全な童話であるという。その原型は、ユエが紹介している完成形の昔話であるとしている。

 霊魚を助けた人間は、願い事、望むことが何でもかなうという不思議な力を与えられる。この伝説昔話は西欧、南欧さらにはロシアに広がっている。またシベリアや蒙古にも痕跡がある。そのようにジェデオン・ユエはいう。以下、グリムが採集した話をユエが補正し、完成させた物語である。

   [やぶちゃん注:ブログ主の現代語訳梗概開始。]

 昔、貧しくまた醜く、大馬鹿の若者がいた。彼は釣りに出かけ、不思議な魚をとった。この魚は話ができ、「もしわたしを水にかえしてくれれば、あらゆる願い事がかなう才能を授けてあげましょう」。若者は魚を水に投げかえした。

 帰路、王城の前を行く若者の醜さと間抜けた様子に、王女が窓から馬鹿にして哄笑した。腹をたてた若者は、口のなかで「お前は妊娠すればよい!」。すると魚との約束にしたがって、彼の願いはかない、姫は身ごもってしまった。

 父の王は訳がわからず怒り、娘を牢に入れてしまった。そして赤ん坊の王子が少し大きくなるのを待って、赤子の父親探しの計画を立てたのである。乳母に抱かれた子を宮殿の広場に置き、町のすべての青年を行列させて進ませるというテストである。子どもは惨めな様子をした醜い若者、この馬鹿な男をだけ指差した。そう、父はこの若者である。

 父親はまたも怒り、王女と青年と幼児を、樽に詰めて海に投げ捨てさせた。狭い樽のなかで王女はハンスに聞いた。「どうして知りあいでもないあなたが、わたしの子どもの父親なのですか」。若者は魚の話を語り、かつて窓辺の姫に怒り、はらめと口にしたばかりにこの子が産まれたと言った。

 「では、あなたの願いは何でもかなうの?」。「樽が近くの海岸に早く着くようにお願いしてよ」。岸に辿りつくと今度は「樽が開くように頼んでちょうだい」。

 「立派な宮殿がここに建つようにお願いしてよ」。そして「あなたが美しくなるように、あなたが利口になるようにお願いして」。すべて実現するのであった。

 国王も王女の智恵で、自らの過ちに気づき和解がもたらされた。そして美しく才気あるようになった若者は、国王の婿となり、その後王位の継承者となった。

   [やぶちゃん注:ブログ主の現代語訳梗概終了。]

 グリムの「ハンスのばか」はこの話にそっくりだ。ところが大切なポイントである霊魚が出て来ない。なぜ青年が特殊な能力を得たのか、その説明が欠落している。

 また不思議なことに「ハンスのばか」はほとんどのグリム童話集から除外されている。ドイツ文学者の吉原素子、吉原高志両氏によると、この話はグリム童話集の初版にのみ掲載されている。1812年にグリムがカッセルで、ハッセンプフルーク家の姉妹から聞き取った。しかしグリムは「ハンスのばか」を、フランスの話でありドイツの昔話ではないと推測し、第2版以降は省いたと吉原はいう。

 ハンスはなぜ不思議な能力を手にすることができたのか? グリムには謎だったのではなかろうか。グリムは、霊魚がハンスに力を与えたことを知らず、この話の決定的な弱点、完成度の低さから第2版以降は削除したのではないか。そのようにわたしは思っている。

   《引用終了》

とある。

 

 最後に一言、言っておこう。戦後まで生きた柳田國男は、日本が南方の島々の伝承の採集どころか、方言札を渡して沖繩方言を駆逐しようとし、皇民化教育を押し進めてニライカナイを撲滅しようとし、遂には大日本帝国の最後の防波堤として沖繩の民を見殺しにした事実を、どう思っていたのか聴きたいもんだ! そうして、限られた「ヨナタマ」ジュゴンの棲息地さえもアメリカ軍の基地建設で破壊しようとするのに加担している日本という国家が、戦中と何ら変わらぬという事実を、柳田國男よ、さても、どう思うかね? あなたの最後の一文はインキ臭い御用学者の空しい夢物語としてしか私には響いてこないが? どうかね?

 

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 物言ふ魚 六

 

     六

 

 それから今度はずつと土地をかへて、是が沖繩縣の方ではどうなつて居るかと見ると、前年故佐喜眞興英君の集めた南島説話の中に、中頭郡美里村大字古謝(こじや)の出來事として、次のやうな口碑が採錄せられて居る。昔此村に一人の鹽燒男があつて、海水を汲みに出て一尾の魚を捕り、それを籠に入れて我家の軒につるして置いた。するとやがて其籠の中から「一波寄するか二波寄するか三波寄するか」といふ聲がする。不思議に思つて覗いて見ても、魚より他には何物も居ない。斯んな魚は放す方がよいと思つて家を出ると、途中に知合ひの無賴漢に出逢つた。放すよりは私にくれと言つて、持つて行つて料理をして食べようとして居ると、ちやうど其時に大海嘯で、満潮の際に、潮流の前面が垂直の壁となって砕けながら、川の上流へ溯る現象を指すが、昭和期までは地震による大津波の意で用いられた。ここは後者。]がやつて來て、近隣の人畜悉く押し流してしまつたといふのである。

[やぶちゃん注:「佐喜眞興英」(さきま こうえい 明治二六(一八九三)年~大正一四(一九二五)年)は沖縄県宜野湾市出身の民俗学者。大正元(一九一二)年に沖縄県立第一中学校(現在の沖縄県立首里高等学校)を首席で卒業、その後、上京して大正四(一九一五)年に第一高等学校独法科を卒業して、東京帝国大学独法科に入学した。在学中から柳田國男に目をかけられた。大正一〇(一九二一)年に帝大を卒業すると、裁判官になり、福岡市・東京市・大阪市・岡山県津山市など各地に赴任、最後の任地の津山で肺結核のために三十一歳で亡くなった(以上はウィキの「佐喜眞興英」に拠った)。

「南島説話」佐喜眞興英が大正一一(一九二二)年に郷土研究社から「炉辺双書」の一冊として刊行した宜野湾村地方の口碑採集集。

「中頭郡」(なかがみぐん)「美里村」(みさとそん)「大字古謝(こじや)」現在の沖縄県沖縄市古謝(こじゃ)。

「大海嘯」「だいかいせう(だいかいしょう)」。現行、狭義には、通常の自然現象としての「潮(しお)津波」を指し、満潮の際に、潮流の前面が垂直の壁となって砕けながら、川の上流へ溯る現象を言う語であるが、本邦では、昭和初期までは、地震による大津波の意でも用いられた。ここは巨大な台風の襲来と満潮がシンクロした前者とも、或いは、実際の地震のそれとも採れる。次段落では『大津波』と言っているが、これは地震ではないケースのそれも意味していると思われるからである。]

 

 此話も傳承者の幾階段を重ねて、よほど破損したらしい形跡はあるが、それでも若干は原[やぶちゃん注:「もと」。]の姿を髣髴することが出來る。卽ち物をいふ靈魚を害しようとした者が、大津波によつて罰せられたということは、同時に一方の之を放さうとした者の助命を意味し、この鹽燒男が生き殘つた故に、怖ろしい誡めの話は後に傳はつたことになつて居るのである。話が是まで來れば類型は決して乏しくない。奧州でよくいふ黃金坑埋沒の話、もしくは木曾川流域に數多い「やろか水」の洪水などの如く、小賢しく且つ不注意なる者は災を受けて死に、愚直にして靈異を畏るゝ者が助かつて其見聞を述べたといふのは、昔話の最も普通の、しかも由緒ある一つの樣式であつた。

[やぶちゃん注:「奧州でよくいふ黃金坑埋沒の話」平泉や奥州藤原氏を支えてきた黄金文化(事実、平泉のある岩手の県南地方や岩手と秋田の県境の山脈には良質な金山があった)に纏わる恣意的に、或いは歴史的自然的に忘れ去られて埋没した黄金鉱脈(に掘った坑道跡)や埋蔵「金」伝説の類い。

『木曾川流域に數多い「やろか水」の洪水』ウィキの「ヤロカ水」より引く。『ヤロカ水(やろかみず)とは、江戸時代、尾張国、美濃国に出現した妖怪。遣ろか水、ヤロカの水、ヤロカの大水ともいう』『柳田國男の「妖怪談義」に記述されている』。『愛知県、岐阜県の木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)流域一帯、特に木曽川流域で伝承される』。『激しい雨の夜、川が増水するとやがて、「ヤロカヤロカ」(欲しいか欲しいか)という声が川の上流から聞こえてくる。この声に答えて「ヨコサバヨコセ」(貰えるのなら頂戴)と叫ぶと、瞬く間に川の水が増し、その答えた村人のいる村は一瞬のうちに水に飲み込まれるという。また、川面に赤い目や口が見えることもあるという』。『推定できる現象として、河川の洪水の初期段階は浸食が主体であるため、川岸や川底が濁流に洗われ』、『大きな石が流れ転がる際の音を「ヤロカヤロカ」と表現し、終盤には上流で発生した土石流に伴う土砂が堆積し、水が溢れる際の状況を「ヨコサバヨコセ」と表現したものと考えられる。あるいは暴風雨の夜、暴風による風の音が、「ヤロカヤロカ」と聞こえた為とも推測される。木曽三川流域は、常に洪水の危険性があり、洪水に対する人々の不安から、若しくは後世への注意喚起のため創られたともいう。鉄砲水がその正体である、という説もある』。『このヤロカ水に該当する洪水は、実際に発生している』江戸前期慶安三(一六五〇)年九月に、『尾張国、美濃国で発生した大洪水である。この時、堤防は殆どが決壊し、木曽三川流域は海のようになったという。記録によれば、大垣藩及びその周辺での死者は』三千『人以上だと伝えられている。この洪水で、木曽川沿いの尾張国丹羽郡上般若村が完全に流出し、村民は全滅に近い被害を出したと伝えられている。ヤロカ水で「ヨコサバヨコセ」と叫んだ村民は、この村の村民と伝えられている』(『なお、尾張国丹羽郡上般若村とは現在の愛知県江南市の一部である。現在も、中般若町(旧:中般若村)、般若町(旧:下般若村)は存在するが、上般若の地名は無くなっている』)。貞享四(一六八七)年八月二十六日、『木曽川が雨で増水した際には』、『淵から「ヤロカヤロカ」と声が聞こえ、川を警戒していた者が「ヨコサバヨコセ」と叫ぶと川はさらに増水し、大洪水が発生したとい』い、近代に至っても、明治六(一八七三)年、『愛知県犬山町(現・犬山市)で洪水が起きたときも、実際に「ヤロカヤロカ」と声が聞こえたといわれる』とある。柳田國男のそれは「妖怪談義」(初出は昭和一一(一九三六)年三月発行の『日本評論』。本「物言ふ魚」はその四年前の昭和七年一月発行の『方言と國文學』初出)の「七」の後半に出る。その部分を引く(ちくま文庫版全集第六巻を底本とした)。

   *

……薩摩の阿久根近くの山の中に、半助がオツと称するが崖がある。地名の起りは明治十年頃の出来事だというそうだが、四助と三助という二人の友だちがあった。ある日四助は山に入って雨に遭い、土手の陰みたような処に休んでいると、どこからともなく「崩(く)ゆ崩ゆ」という声が聞え、あたりを見まわしても人はいない。四助はこの声に応じて「崩ゆなら崩ゆてみよ」というと、たちまちその土手がくずれて、たくさんの山の薯(いも)が手もかけずに取れた。三助はこの話を聴いて大いに羨み、やはり同じ山に往(い)って松の木の下を通ると、またどこからともなく「流る流る」という声がする。「流るるなら流れてみよ」と答えたところが、今度は松脂がどっと流れて来て、三助がからだを引き包んで動けなくなった。三助の父の半助、炬火(たいまつ)を持って山へ捜しに来て、おーいと喚(よ)ばわるとおーいと答えるので、近寄って松の火をさしつけたら、たちまち松脂に火が移って三助は焼けてしまい、父の半助は驚いて足を踏みはずして落ちた。それが半助がオツと称するというのは歴史のように見えるが、疑いなく改造せられたる昔話である。これと下半分だけ似通うた話は、濃尾の境には伝説となって多く残っている。いずれも木曽の川筋にあるから、源流はすなわち一つであろう。尾張の犬山でもヤロカ水、美濃の太田でもヤロカ水といって、大洪水のあったという年代は別々でも、この名の起こりは全く同じであった。大雨の降り続いていた頃の真夜中に、対岸の何とか淵のあたりから、しきりに「遣(や)ろうか遣ろうか」という声がする。土地の者は一同に気味を悪がって黙っていたのに、たった一人が何と思ったか、「いこさばいこせ」と返事をしたところが、流れは急に増してきて、見る間に一帯の低地を海にしたというのである。これと同様の不思議は明治初年に、入鹿池(いるかいけ)の堤の切れた時にもあったというが、それも一種の感染としか思えない。木曽の与川(よがわ)の川上では古い頃に、百人もの杣(そま)が入って小屋を掛けて泊まっていると、この杉林だけは残しておいてくれという、山姫様の夢の告(つげ)があった。それにもかかわらず伐採に取り掛かると、やがて大雨が降って山が荒れ出した。そうしてこれも闇の夜中に水上の方から、「行くぞ行くぞ」としきりに声をかけた。小屋の者一同が負けぬ気で声を合せ、「来いよー」とやり返すとたちまち山は崩れ、残らず押し流されてたった一人、この顚末(てんまつ)を話し得る者が生き残った。話はこういう風にだんだんと怖ろしくなって来るのである。

   *]

 

 南の島々の古くからの災害として、所謂シガリナミ(海嘯)の記憶の最も印象強く殘つて居るのは自然であるが、是がたゞ僅か一尾の魚を尊敬するかせぬかによつて、さういふ怖ろしい結果を生じた如く傳へるのは、考えて見れば不思議なことである。尋ねたら必ず他の多くの離れ[やぶちゃん注:ここは後の表現から古謝から離れた本島の地域ではなく、本島の「離れ」としての島嶼群の意。]にもあることゝ思ふが、この沖繩本島の珍しい例なども、早くから決して孤立のものでは無かつた。寛延元年(西曆一七四八)に出來た宮古島舊史という記錄は、當時この群島の稗田阿禮[やぶちゃん注:「古事記」の編者の一人で口承伝授者であった人物と同じような人々という比喩。]たちによつて、口で傳へて居たアヤゴを國文にしたものらしく、中にも魚が物言うた一つの話が、今少し具體的に記されている。見ぬ人が多かろうと思つて是れだけは原文のまゝ轉載すると、

[やぶちゃん注:底本では、以下は全体が一字下げ。前後を一行空けた。]

 

むかし伊良部(いらぶ)島の内、下地(しもぢ)といふ村ありけり。ある男漁に出でゝヨナタマといふ魚を釣る。この魚は人面魚體にして能くものいふ魚となり。漁師思ふやう、かゝる珍しきものなれば、明日いづれも參會して賞翫せんとて、炭を起してあぶりこにのせて乾かしけり。其夜人靜まりて後、隣家にある童子俄かに啼きをらび、伊良部村へいなんといふ。夜中なれば其母いろいろこれをすかせども止まず。泣き叫ぶこと愈〻切なり。母もすべきやうなく、子を抱きて外へ出でたれば、母にひしと抱きつきわなゝきふるふ。母も恠異の思ひをなす所に、遙かに聲を揚げて[やぶちゃん注:ちくま文庫版全集ではここに柳田國男によると思われる『(沖の方より?)』という注らしきものが追記されている。]

    ヨナタマヨナタマ、何とて遲く歸るぞ

といふ。隣家に乾かされしヨナタマの曰く、

[やぶちゃん注:以下のヨナタマの応答は底本では連続した一文であるが、ブログ・ブラウザ上の不具合を考えて、三つに分かち書きした。]

    われ今あら炭の上に載せられ

    灸り乾かさるゝこと半夜に及べり、

    早く犀をやりて迎へさせよ

と。こゝに母子は身の毛よだつて、急ぎ伊良部村にかへる。人々あやしみて、何とて夜深く來ると問ふ。母しかしかと答へて、翌朝下地村へ立ちかえりしに、村中殘らず洗ひ盡されて失せたり。今に至りて其村の跡形はあれども村立はなくなりにけり。かの母子いかなる隱德ありけるにや。かゝる急難を奇特にのがれしこそめずらしけれ。

 

[やぶちゃん注:「シガリナミ(海嘯)」首里・那覇方言で、「津波」或いは「高潮」を指す語。現在は「シガラナミ」という。

「宮古島舊史」「宮古島舊記」の誤り。広義には「御嶽由来記」「雍正旧記」「乾隆旧記」という編纂年の異なる古資料群を総称するものである。これらは、宮古島平良(ひら)を拠点とした、宮古随一の豪族仲宗根豊見親(なかそね とぅゆみゃ 一四五七年から一四六四年の間の生まれ~十六世紀初期の死去)が宮古島の歴史を纏めたもので、仲宗根家文書として伝わるもの及びその写本に当たる。

「アヤゴ」沖縄県宮古列島に於ける歌謡の総称名。当地の方言では「アヤグ」「アーグ」などと発音し、その文章語表記が「あやご」である。小学館の「日本大百科全書」の記載によれば、「綾言(あやごと)」の意というが、よく判らないとする。『伝統的なアヤゴは、対句形式を基調にした詞章で、大別して、節一つで歌意を完結させる詠嘆的な短詩形式と、節を重ねて叙述を展開させる長詩形式とがある。前者は叙情的な小歌(こうた)で、即興的に謡われることも多い。同じ小歌でも、琉歌(りゅうか)が対句を用いないのと』、『対照的である』。『アヤゴの特色は、後者のような神伝、史伝、世間話などを詠み込んだ叙述的な詞章が発達していることにある。珍しい様式の詩で、今日なお、現代の事件、感懐を歌い上げる力を失っていない。宮古列島では説話を』「ユガタリ」『(「世語り」か)と総称し、神話、伝説、昔話、世間話などが豊富に語られているが、叙述的なアヤゴは、ユガタリと表裏をなしている場合もある。古く』「宮古島旧記」に九首の『叙述的アヤゴがみえるが、これも史伝の本文に添えて記されている』。八重山列島の古記録(一七〇五年(宝永二年))にも、『叙述的な長詩形式のアヤゴがある。この種の歌謡をアヤゴと称したのが古意かもしれない』とある。

「伊良部(いらぶ)島の内、下地」伊良部島は宮古列島の島の一つで、現在は全島が沖縄県宮古島市に属する。二〇〇五年に宮古島の周辺自治体と合併して宮古島市になるまでは、西側に隣接する下地島とともに宮古郡伊良部町を形成し、同島は、その中心であった。下地島との間は幅四十メートルから百メートルほどの入江(水路)で隔てられているが、幅が狭いため、航空写真などではあたかも間に川が流れる一つの島のように見える。この入江にはマングローブがある。また、南東直近の宮古島との間には二〇一五年一月に伊良部大橋(本橋部分三千五百四十メートル)が開通して、繋がっている。(以上はウィキの「伊良部島」に拠る)。グーグル・マップ・データを参照。

「ヨナタマ」海の霊或いは魚の霊又は海の妖怪の名。「人面魚體にして能くものいふ魚」という特徴から直ちに想起されるのは、しばしば人魚のモデルともされる儒艮(じゅごん)、哺乳綱カイギュウ目ジュゴン科ジュゴン属ジュゴン Dugong dugon である(一属一種。なお、ジュゴンは小鳥のように「ピヨピヨ」「ピョーピョー」「ピーピー」と鳴き、現在の研究では「チャープ(chirp)音」と「トリル(trill)音」の二種類があることが比較的最近になって判明している。但し、これらをどのように使い分けているのかは、未だよく分かっていない)。喜山荘一氏のブログ「与論島クオリア」の「ヨナタマ伝承」では、柳田國男の以上の引用部分を引いた上で、

   《引用開始》

 ヨナタマとは何だろうか。後藤明は、南太平洋の伝承も引いたうえで、書いている。

   [やぶちゃん注:喜山氏の引用開始。]

 南太平洋では、捕まえた鰻や蛇を食べた人は皆、毒にあたるか洪水で死んでしまうが、壺の仲から鰻の頭が話しかけるのを聞いて、その肉を食べなかったり、頭を水に返した母子は助かる、という展開になっている。そしてこれらの事例はたいてい、人類、氏族あるいは村などの始祖伝承となっている。そして日本の南島や、中国そして東南アジア各地で見られるような、必ずしも「物言う魚」を立寝たのが原因ではないが、洪水が起こり、生き残った兄妹間の近親婚から始祖が生まれるという兄妹始祖型創世神話と通ずるのである。

 これをみれば、「人面漁体」といっても、すぐにジュゴンと結びつくとは限らず、蛇や鰻も同位相にあることが分かる。実際、本土の昔話でも魚が僧侶に姿を変えるという伝承では、人間に化けるのは鰻や岩魚であることが多いと後藤は指摘している。柳田は、大鰻は耳があるからという説に言及している。また、後藤は上記では触れていないが、鰐でも同様の伝承があるから、ヨナタマは蛇、鰻、鰐であり得ることになる。

   [やぶちゃん注:喜山氏の引用終了。]

 ただ、石垣島では、ザンと呼ばれるジュゴンが、ザンの名前で同様の伝承に登場することからすると、ヨナタマをジュゴンと見なしていいのかもしれない。

 また、東南アジア大陸部やインドネシアには、ジュゴンは人間の化身だという考えが見られ、東南アジアやオセアニアでは、鰐が人間の化身だと見られている。しかし、琉球弧ではザンは、ザンが人間になることはあっても、人間がザンにはならならいから、ジュゴンは、鰐ではなく、蛇や鰻に近い存在として捉えられていることになる。

 ここでヨナタマの伝承に戻ると、ヨナタマを食べることが禁忌であることに触れていることや、ヨナタマと子を近い存在と見なしていることから、ヨナタマを祖先とする観念に行き着きそうに見える。しかし、ヨナタマ伝承は、それが創世神話に結びついていない。ザンの伝承でも、ある家の始まりにはなっても、島や村の始祖伝承とのつながりは消えている。ということは、ヨナタマを祖先とすることは、個別的にはあえりえても、普遍的ではないことを示していると思える。

   《引用終了》

とある。しかし、ウィキの「ジュゴン」によれば、『日本では南西諸島で、「ざん」「ざんのいお」「ざんのいよ」「ざんのいゆ」「あかんがいゆ」などの方言名があ』り、『宮古列島では「よなたま」「よないたま」、西表島で「ざの」、新城島で「ざぬ」といった方言名がある』とし、『有史以前から狩猟の対象とされた』。『聖櫃を包んでいたのは本種の皮だったと考えられて』おり、『肉が不老不死や媚薬になると信じられたこともあり、骨で作った装飾品も刃物や鉄砲に対するお守りになると信じられていた』。ジュゴンの流した涙を『相手に付けることで恋愛成就の効能があると信じられていた』。『日本では琉球王朝時代に新城島では年貢として本種の肉を納めていた』とある。また、『西洋における人魚のモチーフとなったとする説もあるが、初めに上半身が人間・下半身が魚や海獣といった人魚のイメージができあがり、後になって本種と結びつけられたと推定されている』。『本種と結びつけられた理由としては本種は胸鰭の基部に』一『個ずつ乳頭があり、これが隆起し』、『乳房のように見えるためとする説もある』。『日本の琉球地方ではニライカナイの神の現世への乗り物とされたり』、『助けたジュゴンに津波の襲来を教えられ』、『恩返しされるといった伝承やジュゴン漁に関する民謡などがある』とあるから、ジュゴン・フリークの私はジュゴンが「ヨナタマ」の主要な核心的モデルであると考えるものである。]

 

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 物言ふ魚 五

 

     五

 

 さうして同時に又魚が人語したといふ傳説の、日本では相應弘い區域に亙り、又是よりもずつと複雜な形を以て、曾て行はれて居た時代のあつたことを、窺ひ得るやうな氣もする。實際この話は只の一つの傳説として、或地に根を生やし永く殘る爲にも、少しばかり簡單に失して居る。ましてや是が次から次へと、屢〻何人かによつて持ち運ばれたものにしては、餘りにも荷造りが不完全である。もとは恐らくは今一段と纏まつた説話であつたのが、世の流行におくれて廢れてしまひ、最も印象の深かつた此部分だけが、ちやうど又傳説のやうに消え殘つたものであらう。さうでなかつたならば單に是だけの話が、斯樣に數多く分布して居る筈は無いのである。

 この私の想像が當つて居るか否かは、今後の採集が追々に之を決してくれると思ふから、今はたゞ心づいて居る事實だけを列擧するにとゞめて置くが、寶曆二年(西曆一七五二)の序文のある裏見寒話の末の卷にも、既に又一つの同じ例を載錄して居る。甲州は奧逸見(おくへんみ)の山間の古池で、ある夏の日の午後に土地の者が釣をすると、其日に限つて夕方まで一尾も竿にかゝらず、もう歸らうとして居る頃になつて、色の白い眼のきらきらと光つた見なれぬ魚を釣り上げた。それをびくに入れて早々還つて來ると、一町半も離れて後の池の方から、頻りに其名を喚ぶ者があつたというのは、釣人の名を呼んだといふのであらう。何と無く物凄く覺えて家に來て其魚を大盥[やぶちゃん注:「おほだらひ(おおだらい)」。]に入れ、上からよく蓋をして寢に就いたが、其夜夢の中に人來たつて憤怒の相を現はし、我は池の神なり、汝何が故に我眷屬を捕へ苦しむるぞと謂つて怒つた。さうして翌朝起きて盥を見ると、あれ程嚴重に蓋をして大石を載せて置いたのに、どうして出たものか其魚の姿は見えなかつたと誌して居る。是なども説話としては首尾の照應も無く、何か或一つの話の忘れ殘りの如き感あることは同じだが、それでも「一ぴき魚」と云ひ神の使はしめと云ふ所に、多少の結構の痕を存して居る。斯ういふ言ひ傳へが次々今幾つか出て來れば、以前どういふ形を以て是が流布して居たかの、見當だけは付くことゝ思ふ。

[やぶちゃん注:「裏見寒話」「うらみのかんわ」と読む。甲府勤番士野田市左衛門成方(しげかた)が記した甲斐国(山梨県)の地誌・伝承集。宝暦二(一七五二)年序。享保九(一七二四)年に幕府から甲府城勤務を命ぜられて赴任し、以来三十年近くかけて同地で見聞したものを書き残しておいたが、これを三男吉川正芳の助けにより、宝暦二年に一冊の書に纏めたもの。国立国会図書館デジタルコレクションの「甲斐志料集成 三」の画像ので視認出来る。

「奧逸見(おくへんみ)」これでは不詳であるが、「裏見寒話」原典では『逸見比志村』となっており、これなら、現在の山梨県北杜市須玉町比志である(グーグル・マップ・データ)。]

 

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 物言ふ魚 四

 

     四

 

 それからまたずつとかけ離れて、宮城縣登米郡錦織村大字嵯峨立の、昌坊瀧(まさばうだき)の例は登米郡史にも見えている。ちやうど岩手縣の東磐井郡黃海(きのみ)村と接した境の山で、瀧壺は一反步ほどの湖水になつていた。昔此水中に大なる鰻がいて、時々現はれて人を驚かした。

    昌坊來るか來んかと聲すれど

    來るも來ざるも嵯峨のまさ坊

という歌のやうな文句があつて、それ故に瀧の名を昌坊瀧といふ口碑はあるが、是だけでは何のことかわからない。ところが幸ひなことには郷土研究の一卷十二號に、鳥畑隆治君の岩手縣側の報告が出て居る。昔この黃海村の農夫が、この瀧壺に來て大きな鰻を捕へ、それを籠の中に入れて還つて來ようとすると

    まさ坊まさ坊いつ歸るか

といふ聲があり、其返答としてはやゝ不明であるが、

    來るか來ぬかのまさ坊だ

と言つたとかで、怖れて魚を棄てゝ遁げて戾つた。それよりして瀧の名を來不來瀧と書いて、まさばう瀧といふやうになつたとある。大分記憶が損じて居るやうだが、兎に角同じ話の分布であつたとだけは言へる。

[やぶちゃん注:「宮城縣登米郡錦織村大字嵯峨立」宮城県登米市東和町錦織(にしこり)嵯峨立。(グーグル・マップ・データ)。

「昌坊瀧(まさばうだき)」嵯峨立地区の北の岩手県との県境に位置する相川ダム((グーグル・マップ・データ)。ダムは宮城県側で登米市東和町錦織)によって消失していることが、登米市東和町錦織字岩ノ沢にあった登米市立嵯峨立小学校サイト内昌坊滝の伝説を読まれたい。同校は東和町錦織山居沢に於いて登米市立錦織小学校となった(合併か)模様である。

   《引用開始》[やぶちゃん注:アラビア数字を漢数字に代えさせて貰い、一部の記号を変更した。]

   昌坊滝の伝説

 相川(嵯峨立の北を流れている)の上流に滝があり、その滝壷は広く沼のようであった。むかしその滝壷には大きなうなぎが住み、時々人を驚かしたと言う。

 ある時、昌坊という農夫が、朝この滝のほとりに草刈りに出かけた。草を刈り集め、背負って帰りかけ、二、三歩歩くと背中から声がした。

 「昌坊や 昌坊や 来不来の昌坊だぞ」

 昌坊は大変驚いて、背負っていた草を投げ捨てて後ろも見ずに家に帰って、寝こんでしまった。

 これは滝の主のうなぎのしわざであったと言われる。

 「昌坊来るや 来んか声すれど

           来るも来ざるも 嵯峨の昌坊」

 という歌のような文句があって、それでこの滝の名が出たとも言われています。

また、この滝には別のお話もあります。

 むかしひとりの坊さまが、中山(岩手県藤沢町)へ行こうと思い相川に沿って上がっていくと、高さ一丈(三メートル)ほどの滝があり、滝壷は小沼のように広がっていた。坊さまがそのほとりに行くと、二匹の大うなぎが遊んでいた。そこで一匹を捕まえて袋に入れたが、もう一匹には逃げられてしまった。

 さて、ここから去ろうとすると滝壷の中から

    「昌坊や 昌坊 いつ来るか昌坊や」

 という声がした。すると袋の中のうなぎが

    「来るや来らずの昌坊」

 と返事をした。これを聞いた坊さまは驚いて袋の中のうなぎを放してやった。

 そして、これからこの滝を「来不来滝」と書いて昌坊滝と読むようになったと伝えられている。

昌坊滝:現在の相川ダムの付近にあった滝で、現在はありません。

   《引用終了》

「登米郡史」「とめぐんし」。藤原相之助等編。大正一二(一九二三)年登米郡刊。

「岩手縣の東磐井郡黃海(きのみ)村」現在の一関市藤沢町黄海。(グーグル・マップ・データ)。「境の山」とは現在の相川ダムの北方に聳える岩手県側の一関市藤沢町黄海にある館ケ森山のことであろう。

「一反步」「いちたんぽ」。三百坪。九百九十一・七三六平方メートル。約一千平方メートルとすれば、テニス・コート約四面分ほどに相当する。

「鳥畑隆治」明治末期の東磐井郡黄海小学校教員で郷土史研究家。]

 

 實際たゞ是ばかりの話では、永く覺えて居られなかつたのも尤もである。早川孝太郎君が「民族」三卷五號に報告した靜岡縣の例などは、幾分か話が込入つて居るけれども、それだけに解説がいよいよ困難で、二つ以上を比べて見ないと、何のことやら一寸把捉[やぶちゃん注:「はそく」。ちゃんと理解すること。]しかねる。遠州周智郡水窪(みさくぼ)町大字草木桐山といふ部落には「おとぼう淵」といふ淵があつた。昔この崖の上に一軒の物持があつて、淵の主と懇親を結んで水中から膳椀を借り、又金錢の融通をも受けて、それで富裕な暮しをたてゝ居た。此家へは度々淵の主の處から使者が來たが、蓼汁だけは嫌ひだと常に言つて居るにも拘らず、ある時家人がつい忘れて、振舞の膳に蓼を添へて出したところが、一口喰つて是はしまつたと叫んで、其まゝ前の淵に轉がり込んで行つた。其姿を見ると今までの人間の形とは變つて、赤い腹をした大きな魚になつて居た。さうして段々に川下へ流れて行つたが、流れながら頻りに「おとぼうや、おとぼうや」と喚はつた[やぶちゃん注:「よばはつた(よばわった)」。呼ばわった。]という。其以來此長者は淵の主との緣も切れて、忽ち家運は傾いてしまひ、今はしくおとぼう淵の名を止むるばかりになつたが、幽かながらも魚には何坊という子供見たやうな名をもつ者もあつたことが、爰でも我々には推測し得られるのである。

[やぶちゃん注:「早川孝太郎」(明治二二(一八八九)年~昭和三一(一九五六)年)は民俗学者で画家。ウィキの「早川孝太郎」によれば、愛知県出身で、『画家を志して松岡映丘に師事、映丘の兄柳田國男を知り、民俗学者となる。愛知県奥三河の花祭と呼ばれる神楽を調査し』、昭和一九三〇五年には「花祭」を『刊行。農山村民俗の実地調査を行った』とある。

「靜岡縣」「遠州周智郡水窪(みさくぼ)町大字草木桐山」静岡県浜松市天竜区水窪町(みさくぼちょう)奥領家(おくりょうけ)の、トンネル(グーグル・マップ・データ)が「草木(くさぎ)トンネル」であるから、この周辺であろう。

「赤い腹をした大きな魚」春三月上旬から五月中旬になると雌雄ともに鮮やかな三本の朱色の条線を持つ独特の婚姻色を有することから、「アカウオ」や「サクラウグイ」と呼ばれる、条鰭綱骨鰾上目コイ目コイ科ウグイ亜科ウグイ属ウグイ Tribolodon hakonensis が想起される。]

 

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 物言ふ魚 三

 

     三

 

 それから今一つも同じ郡の隣村、勝田村大字余野での出來事で、是は尚一段と實話らしく誌されて居る。享保年中に此村に道善といふ者があつて、大鯰の背に負うて尾が土の上を引きずるほどのを釣り上げた。是も途中で背の上から道善道善と我名を呼び立てるので、怖ろしくなつて路傍の古井戸の中に投げ込んだと稱して、其の井戸がつい近頃までも有つた。二つも同じ話が有るのが變だと言つたところで、山一つ彼方の伯州のハンザケ、もしくは是から列記しようとする島々の話なども、引比べてみた上で無ければ、本家爭ひは實は出來なかつたのである。私は寧ろ三休だの道善だのと、特殊な固有名詞の伴のうて居るのを將來注意すべきことのやうに思つて居る。

[やぶちゃん注:最後の柳田國男の注意喚起には非常に共感する。

「勝田村大字余野」現在の岡山県美作市余野。ここ(グーグル・マップ・データ)。先の古吉野から四キロメートルほど東北東の直近である。

「享保年中」一七一六年から一七三六年まで。]

 

 但し三休が背の鯰にたゞ驚かされたといふだけで、其名が三休淵の名になるのは少しをかしい。是は事によると淵の主であつた恠魚の名であるのを、後に傳へる者が釣人の名の如く解したのかも知れない。鯰に名があるのも稀有なことに相異ないが、問答でもしようといふには名が無くては濟まなかつたらう。さうして九州には其樣な例もあるのである。大分縣直入郡柏原村の話は、さきに 「民俗學」の一卷五號に、長山源雄氏がこれを報告した。此村嶋田部落の小字網掛の下に、黑太郎淵といふ淵があつた。ある時ヒロトといふ處の者が、爰で網を打つて大きな魚を得た。それを携へて網掛の坂まで上つて來ると、不意に下の淵から、

    黑太郎公、貴公はどけえ行くんか

と、豐後方言で喚びかけた聲がした。すると網の主の魚は之に應へて

    ヒロトさに背の甲あぶりに行く

と言つたさうで、その人も肝をつぶして、網のまゝ其魚を松の木の枝の間に置いて遁げ還つたとある。網掛といふ坂の名は其時からといふらしいが、黑太郎淵の名も當然に其以前には人が知らう筈は無かつた。

[やぶちゃん注:「大分縣直入郡柏原村」「の嶋田」「小字網掛」現在の大分県竹田市荻町柏原附近であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「長山源雄」「ながやまもとお」と読む。明治一九(一八八六)年~昭和二六(一九五一年)。愛媛の郷土史研究家。「愛媛県立宇和島東高等学校近畿同窓会」公式サイト内のこちらによれば、北宇和郡吉田町本町生まれで、東京錦城中学校卒業後、松山第二十二連隊で軍曹に進んだ後、『自らの出身地域南予の古代史に関心を示し、ことに考古学方面で県内の貝塚はじめ、弥生・古墳・歴史時代にわたりよく渉猟』し、大正五(一九一六)年に『「南伊予の古墳」を中央の「人類学雑誌」に寄稿した。その後も「南予にて発見の銅鉾」「松山市及付近出土の弥生式土器」「南伊予における石器と土器」「伊予国越智郡乃萬村阿方貝塚」などを同誌に寄せ、「古代伊予の青銅文化」「伊予出土の漢式鏡の研究」「伊予出土の古瓦と当時の文化」などの研究を「伊予史談」に連載して考古学界に広く貢献した』。『さらに文献学的にも深く研究し、橘氏・日振島・宇和郡棟札などから歴史地理的条理制・荘園分布・守護職・郡司の再確認にまでも及んだ。古代・中世のみならず,「伊予に於ける小早川隆景」その他』六十余篇を発表、『またこれらの総括ともいえる『伊予古代文化の研究』の稿本が、県図書館にあったが逸失して見られず、僅かに部分的な『伊予古代文化』、吉田町刊の『南予史概説』などの謄写本に、その片鱗と氏の適確な研究態度を窺うことができる』。『晩年は、大分県に入植した。直入郡柏原村寓居で、同地方関係の考古論文を「考古学雑誌」に寄稿した』とある。]

 

2018/03/27

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 物言ふ魚 二

 

       二

 

 私がこの山海里の記文を選擇した理由は、竹籠を背にした村の老夫が、池を見つめて驚いて立つて居る繪樣[やぶちゃん注:「ゑやう(えよう)」。仮に絵に描いたとしての影像。]が、特に兒童の幻に鮮かであらうと思つたからで、此話は決して是がただ一つでも無く、又代表的なものでもなかつた。大もとは寧ろ魚も稀には物言ふといふ古い信仰で、泥鼈はたゞ其印象を新たにしたに過ぎなかつた。同じ形の昔話は日本群島以外にも、遺つているか否かはまだ詳くは知らぬが、兎に角に今は我々の間の目錄を作つて置く必要があるやうである。

 この例の一つは鳥取縣の日野郡誌に、多里村大字新屋の山奧の出來事として傳へられるもの、是もたゞの魚では無くて蜥蜴の方に近い大山椒魚、土地の方言でハンザケといふものゝことになつて居る。昔この谷川に長さ一間餘のハンザケが居たのを、村の者數人がゝりで捕へて擔つて[やぶちゃん注:「になつて(になって)」。担って。]來た。それが境の峠の上まで來ると、不意に大きな聲を出して

    行つて來るけになア

といつたので、喫驚[やぶちゃん注:「びつくり(びっくり)」。]して擔ひ棒と共に投げ棄てゝ、遁げて還つたといふ話であるが、此恠魚もやはり大垣の泥鼈と同樣に、土地の方言で叫んで居るのが面白いと思ふ。

[やぶちゃん注:「日野郡誌」「日野郡史」が正しい。初版は大正一五(一九二六)年日野郡史編纂委員編・日野郡自治協会刊。当該項は「下卷」の「第十二章 名称及天然記念物」の「第四節 珍奇動物」の冒頭に出る「山椒魚」の「傳説」の部分にある。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここで当該項を視認出来る。

「多里村大字新屋」鳥取県日野郡日南町(にちなんちょう)新屋(にいや)。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「大山椒魚」「ハンザケ」両生綱有尾目サンショウウオ亜目オオサンショウウオ科オオサンショウウオ属オオサンショウウオ Andrias japonicus。別名をハンザキという。イモリと同様に強い生命力と再生能力を持つことから「半裂き」にしても死なない、生きているという意味からとも言うが、古文献には出ないので、この語源説は実は怪しい。なお、柳田國男は生物学は苦手だったか、「たゞの魚では無くて蜥蜴の方に近い」というのは大間違いである。サンショウウオ類は魚類から進化して初めて両生類になった生物群であって、寧ろ、トカゲと並べるなら相対的には魚に近い。トカゲ類は基本的にはその両生類から進化して陸に上がった生物群であるからである。

「村の者數人がゝりで捕へて擔つて來た」何のために? 無論、食べるために売りに行くのである。私の先輩教師で島根県のとある山間出身の方(数学教師)がいたが、「小さな頃に食べた。美味かった・お湯で煮るんだが、その時に強烈な山椒のような臭いがするんだけど、それで水に晒して皮を剝いで、さらに数時間煮ると、柔らかな白身となるんだ」と言っておられた。無論、特別天然記念物となった今では味わうことは出来ない。しかし、この先輩の話が嘘でない証拠にウィキの「オオサンショウウオ」には、『特別天然記念物の指定を受けるまでは、貴重な蛋白源として食用としていた地方も多い。北大路魯山人の著作『魯山人味道』によると、さばいた際に強い山椒の香りが家中に立ち込めたといい、魯山人はこれが山椒魚の語源ではないかと推測している。最初は堅かったが、数時間煮続けると柔らかくなり、香りも抜けて非常に美味であったという』とある。私は北大路魯山人が嫌いだが、この話は信ずる。]

 

 それよりも尚珍しいのは、海から入つて來た一つの昔話が、斯ういふ深山に土著するまでの經過である。中國の奧在所には此例が多かつたと見えて、嶺一重を隔てた岡山縣にも似たる口碑があつた。たとへば東作誌の卷三に、鯰が物を言つたといふ話を二つまで載せて居る。その一つは今の勝田郡古吉野(こよしの)村大字河原の三休淵、梶竝川筋の堂ノ口といふ所の淵で、昔三休といふ人が六尺ばかりもある大鯰を釣り上げたことがあつた。手に下げることも出來ぬので背に負うて歸つて來ると、途中で其鯰が大聲を出して、おれは三休の家へ背を炙りに行くのだと人語したので、びつくりして元の淵へ持ち戾つて放したと傳へて居る。多分はもつと面白い顚末であつたのを、地誌の著者が省略して載せたのであろう。

[やぶちゃん注:「東作誌」(とうさくし」)は津山藩軍学師正木輝雄(まさきてるお ?~文政六(一八二四)年)が個人的に調査・著述・編集を行った、先行する森家津山藩の公的地誌「作陽誌」が扱わなかった美作国の東部六郡(東南条郡・東北条郡・勝南(しょうなん)郡・勝北(しょうぼく)郡(この二郡は後の明治三三(一九〇〇)年の郡制の施行で勝田郡となった)・英田(あいだ)郡・吉野郡)を対象とした地誌。ウィキの「東作誌」によれば、原型は文化一二(一八一五)年に出来たが、文政六(一八二三)年の死の直前まで編著を行っていたと推定される。正木の死後、『津山藩に献上されたが、複写・活用されることなく死蔵されてしまう』。嘉永四(一八五一)年、『江戸藩邸で儒官昌谷精渓(さかやせいけい)が死蔵されていた『東作誌』を発見。欠本散佚があったため修復して編集し直し、これが現在伝わる『東作誌』の元となっている』。『当時の津山藩は正木の活動に御内用として補助金を支給していたが、あくまで『東作誌』は正木の個人事業であり、費用の多くは自弁で公的許可もなかった。その為、正木は廻村時の他領調査を「潜行」と称している』とある。

「勝田郡古吉野(こよしの)村大字河原の三休淵、梶竝川筋の堂ノ口といふ所の淵」現在の岡山県勝田郡勝央町((グーグル・マップ・データ))附近を貫く滝川の川筋であろう。同地区内に「古吉野保育園」の名を見出せる。]

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 物言ふ魚 一

 

   物言ふ魚

 

     一

 

 兒童文庫本の日本昔話集(上)に、私の採錄した泥鼈[やぶちゃん注:後に出る通り、二字で「すつぽん(すっぽん)」と読む。]の親方といふ一話は、今から百年餘り前に、美濃國のある淨土宗の僧の著はした、山海里[やぶちゃん注:「さんかいり」。]といふ書物に出て居るものであつた。大垣の城下から一里東の中津村で、古池を替へ乾して大きな泥鼈(すつぽん)を捕り、それを籠に入れ肩に負うて、町の魚屋へ賣りに行く途中、他の一つの池の塘[やぶちゃん注:「つつみ」。]を通ると、其池の中から大きな聲で

   いずこへ行くぞ

という者がある。そうすると背中の籠の中から、

   けふは大垣へ行くわい

と又大きな聲で答へる。

   何時歸るぞ

と池の中から問へば、

   何時迄居るものぞ、あしたはぢきに歸るわい

と背中の泥鼈は答へた。籠を負うた男は肝を消して、是は池の主だつたと見える。しかしひけ目を見せてはならぬと、殊更に籠の葢[やぶちゃん注:「ふた」。]に氣をつけ繩を強くかけて、明日は還るといふからには殺されるのでは無からう。金を取つて寺へ施物とし、我も魚屋も罪滅しをして、是を限りに殺生を止めようと思案して、だまつて其泥鼈を魚屋に持つて行つて賣つた。其次に[やぶちゃん注:「日本昔話集」では『其翌日』とある。]町へ出た時に魚屋に行って見ると、魚屋の亭主の曰く、あれは誠に怖ろしい泥鼈であつた。刄物が無くては人にも切り破れないやうな生洲[やぶちゃん注:「いけす」。生簀。]に入れて置いたのに、いつの聞にか見えなくなつて居たと談つた(以上)。斯ういふ風に實際あつた事として記して居る。説教の種本には古くから、斯ういふ話し方が普通であつたのである。

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。

「兒童文庫本の日本昔話集(上)」昭和五(一九三〇)年アルス刊の「日本日本昔話集 上」の「泥鼈(すつぽん)の親方」。国立国会図書館デジタルコレクションの画像ので視認出来る。後に「日本の昔話」と改題されて、全集に所収されている。

「泥鼈」爬虫綱カメ目潜頸亜目スッポン上科スッポン科スッポン亜科キョクトウスッポン属ニホンスッポン Pelodiscus sinensis

「美濃國のある淨土宗の僧の著はした、山海里といふ書物」浄土宗ではなく、浄土真宗の学僧で勅許上人位権少僧都正定閣の称号を得た佛光寺教団学頭であった信暁(安永三(一七七四)年~安政五(一八五八)年)の著した全三十六巻から成る仏教説話集。

「中津村」不詳。]

 

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十九年 『日本人』の筆陣

 

    『日本人』の筆陣

 

 二十九年後半は『日本』に文を草する傍(かたわら)、しばしば他の紙上にも筆を揮った。『東西南北』の序とか、「俳句返却届」とかいうような短いものもあり、『世界の日本』に掲げた「我が俳句」(美の客観的観察、美の主観的観察)のように二回にわたるものもあったが、最もめざましかったのは『日本人』誌上における活動である。その一は「文学」という文芸時評で、これには越智処之助(おちところのすけ)の名を用いた。当時の文芸時評なるものは、一般に小説戯曲に重きを置き、韻文は全く顧みられぬ状態であったのを、居士は漢詩、和歌、俳句、新体詩等の作品にも詳評を下し、「小説を評して韻文を評せざる者多きに對して權衡(けんこう)を保たん」とした。その二は竹(たけ)の里人(さとびと)の名を用いた新体詩で、闌更(らんこう)の句にヒントを得た「鹿笛」一篇にはじまる。『日本人』は毎月五日、二十日の二回発行であったが、居士は殆ど毎号欠かさずに両種の原稿を掲げて行った。

[やぶちゃん注:「『東西南北』の序」この部分の宵曲の書き方というか、底本の表記の仕方は頗るよろしくない。「しばしば他の紙上にも筆を揮った」とした直後に「『東西南北』の序とか」と記しているが、これでは、若い読者の多くは『東西南北』とはどんな新聞・雑誌だろうと思うこと必定である。「東西南北」は新聞でも雑誌でもない。明治二九(一八九六)年七月十日明治書院刊の與謝野鐵幹著の「虎剣流」と呼ばれた国家主義的悲憤慷慨調の詩歌集「東西南北」である。子規の序文は「青空文庫」ので正字正仮名で読める。知らない方が悪いって? 私は若き日にこの詩集を読み、数ページにして吐酒噴飯して投げ放ち、今は書庫の下敷きとなって紙魚に食われている。というより、彼の詩を読もうという若者は今や、殆んどいないし、本屋の店頭には売られていないよ

「權衡(けんこう)」均衡。吊り合い。これで「からばかり」と読んで「柄秤」「唐秤」、秤(はかり)の意味もある。元々が、秤の錘(おもり)と竿のことだからである。

『新体詩』『闌更(らんこう)の句にヒントを得た「鹿笛」一篇にはじまる』「闌更」は江戸中後期の俳人高桑闌更(享保一一(一七二六)年~寛政一〇(一七九八)年)。生家は加賀金沢の商家。名は正保或いは忠保。蕉風復古を唱え、京で芭蕉堂を営んだ。寛政五年には二条家より「花の本」宗匠の号を免許された。正岡子規の明治二九()年八月五日『日本人』発表の新体詩「鹿笛」は高桑闌更の一句、

 

 鹿笛に谷川渡る音せわし

 

に深く打たれた子規が、それを句の詩想を換骨奪胎・敷衍拡張した、七五調を基調としつつも字余り・字足らず多用した、実に百二行にも及ぶ長詩である。国立国会図書館デジタルコレクションの「子規全集第六巻」(アルス刊)の画像のから視認出来る。]

 

 居士は「文学」において鳴雪、飄亭、碧梧桐、虚子四家の評論を試みた。後年「俳諧叢書」の一として刊行された『俳句界四年間』の附録についているのがそれである。居士が自家の陣営を検討し、個人的に俳句を論じたのはこれを以て最初とする。文芸批評家は韻文を問題にせず、たまたま問題にする者があったにしても、俳句などを取上げることは絶対にない。居士が鳴雪翁以下の作品について詳論を試みたのは、当時としては正に破天荒の出来事で、これらの作家を世に紹介すると同時に、いわゆる新派俳句発達の径路を明にしたものでもあった。古白は已に逝き、非風は文学の天地を離れている。当時の居士の身辺から最も有力なる作家を挙げるとすれば、公平に見てこの四家を推すより外はなかったろうと思う。

 和歌における新派の勢力もいまだ微々として振わなかった。『日本』紙上における歌論なるものが、概ね海上(うながみ)派と御歌所(おんうたどころ)派との応酬に限られていたのを見ても、その一斑を知るべきであろう。この間において居士が『東西南北』を挙げ、「今の世に歌ありやと言ふ者あらば心ならずも『東西南北』を示さん。今の世に新体詩ありやと言ふ者あらば心ならずも『東西南北』を示さん。著者鉄幹は自ら文学者を以て居らざる者、その者の著を以て韻文界の啓明と目することむしろ文学の恥辱なり。然れども吾人(ごじん)はこれに勝る者を見ざる間は『東西南北』を以て好となさゞるを得ず。著者は言語音調の上に一種の妙処を有せり。殊に豪壮なる感を起さしむるに適当なる調子を善くせり」といったのは、新に興るものの価値をよく認め、その特色を十分に理解していたのである。しかし居士は単純なる『東西南北』の讃美着ではなかった。『東西南北』を非難する者の多い中に、衆口一斉に賞揚する「乞食(こじき)らが著(き)すてし野邊の朽ちむしろくち目よりさへ咲くすみれかな」の歌の如きは全く悪歌だとしていた。この歌の趣向において見るべきものは、朽筵(くちむしろ)に董(すみれ)の咲いている光景にあるので、それが誰のものであったかを穿鑿する必要はない、「乞食らが著すてし」ということは蛇足である、朽筵のあたりに董が咲くとか、董が咲いている中に筵が朽ちているとかいうだけでいいのに、朽目といったのは殊更で面白くない、「さへ」の表は殊に拙なるもので、この表のためにこの歌は虚なる理窟となり、従って無味なものとなっている、というのである。この種の解剖的批評に至っては、後年の歌論に用いた筆法と全く変りがない。「文学」の中にはこういう議論も含まれているのである。

 新体詩に用いられた材料にも、自ら世間流行の作品と趣を異(こと)にするものがあった。「父の墓」「園の秋」「金州雑詩」「病の窓」などの諸篇は、居士の世界が取入れられている点で興味があるが、大体において人事的曲折に乏しく、自然の空気に富んでいるのは、俳諧趣味の延長というよりも、「人間よりは花鳥風月がすき也」といった居士の性格の現れであろう。

 「文学」は十方二十日号限りで、後が出なくなった。この月初以来、胃痙(いけい)[やぶちゃん注:胃痙攣。]を病んで「松蘿玉液」その他の筆をも全く抛っているから、多分そのためであろう。「病の窓」という新体詩は、この病が漸くきたった後に成ったのである。

 

栗本丹洲 魚譜 〔無題〕(アズマギンザメの♂の同一個体の再登場!)

 

Tenguginzame2_2

 

[やぶちゃん注:図版は国立国会図書館デジタルコレクションの「魚譜」から。画像は頭部・体幹中心部・吻尖端と三つに分断されているため、合成した。なお、本図にはキャプションはない。しかし、その独特の形状から、本図は既に出た「天狗鯊」と同一種で、そちらで述べた通り、魚類学者の阿部宗明の同定によって、

テングギンザメ科アズマギンザメ属アズマギンザメ Harriotta raleighana 

ということになる。しかも! である! これ、それとは別個体ではないのだ! 細部を見ても、同一個体を別に描いたものとしか思えないのである! 参考までにそちらの図も下に並べて出す。

 

Tenguzame

 

 無論、彩色画であり、同一画(日本画の場合、描いた後に和紙を薄く剥がすことで、真筆画が二枚あることは例外に事実としてある)であろうはずはないのであるが、側線部分の内側や鰭の極微な形状や模写対象に当たった光の微妙な違いが纔かに感じられるだけで、現代なら、機械的な複写物(カラー・コピー)だろうと言われそうなほどに、酷似している実は、残る六個体のギンザメ類(途中に一枚だけエイの卵鞘が出、そこにはキャプションがある)も、どうも前に出たものと同一個体の模写のように思われるものばかりであり、或いは、そうした確信犯(ギンザメ・フリークである自身のメモリーとして、お気に入りのエやサメのコレクションとして集成した巻子本)で、キャプションなしと丹洲はした可能性が濃厚な気がしてくるのである。]

栗本丹洲 魚譜 剣尾魚 (ギンザメの♀或いはニジギンザメの♀)

 

Kenbiuotunoji

 

[やぶちゃん注:図版は国立国会図書館デジタルコレクションの「魚譜」から。画像は頭部と胴以下が分断されているため、合成した。]

 

□翻刻1(原則、原典のママであるが、約物のカタカナの「ト」と「モ」の合成(読みはドモ)は正字化した)

剣尾鯊 ツノジ ギンザメ 白色多ク光澤ノモノ ハクザメト云 此物半身以下

漸〻細長ナリ然レトモ直ナラス乄下ノ方ヘ曲ルヿつノ字ノ如シ

ツノジノ名アリ味淡毒ナシハンヘン或シンジヨシテヨシ

 

□翻刻2(今まで通り、読み易く約物を正字化し、推定訓読して整序した。一部に読解の用に〔 〕で添え字をした)

「剣尾鯊」。「ツノジ」「ギンザメ」〔とも〕。

白色多く、光澤のもの。「ハクザメ」と〔も〕云ふ。此の物、半身以下、漸〻(ぜんぜん)〔に〕細長なり。然れども、直(ちよく)ならずして、下の方へ曲ること、「つ」の字の如し。故に「ツノジ」ノ名あり。味、淡(あは)し。毒、なし。「はんぺん」或いは「しんじよ」にして、よし。

 

[やぶちゃん注:やはり同前の同定。額部の突起物ないからは決まり。また、側線が前半から中央にかけて小刻みに波打っているところからは

軟骨魚綱全頭亜綱ギンザメ目ギンザメ上科ギンザメ科ギンザメ属ギンザメ Chimaera phantasma

が同定候補となるのだが、尾鰭と区別可能な尻鰭がないという点と、棘の後ろが鋸状になっており、尾鰭の後端が糸状に著しく伸びるという点では

 

ギンザメ科アカギンザメ属アカギンザメ Hydrolagus mitsukurii も挙げておく必要があろうかとも思われる。後者の可能性が高いかも知れぬ。

「剣尾鯊」ギンザメの異名として複数回、既出。

「ツノジ」同前。しかし、ここでは驚くべき異名解明がなされている。則ち、『此の物、半身以下、漸〻(ぜんぜん)〔に〕細長なり。然れども、直(ちよく)ならずして、下の方へ曲ること、「つ」の字の如し。故に「ツノジ」ノ名あり。』で、

   *

 この魚の類は、魚体の半分から後方以下の部分が、だんだんに有意に細長くなっている。ところが、それがどの個体も、体幹に対して真っ直ぐにはならず、下の方へ有意に曲がっていて、その様子は、あたかも平仮名文字の「つ」の字のようである。従って「ツノジ」(「つ」の字)という名がある。

   *

というのである。現行、ギンザメの異名の「ツノジ」は由来不詳とされている。私は前の最初にこの「ツノジ」の名が出る「銀ザメ (ギンザメ)」の注で、

   *

この異名は確認は出来なかったが、感覚的には先に出た「キンザン」とも親和性を感じる。この「ツノ」は背鰭前縁にある危険な棘を「角」と言ったものと私には思われる。『博物学古記録翻刻訳注 17 「蒹葭堂雑録」に表われたるギンザメの記載』で既に述べたが、ギンザメ類のの頭額部には交尾の際にを押さえつけるのに用いられる鉤状突起があるから、それを「ツノ」と言った可能性もあるかも知れぬが、本図には、そもそも、それがない。当時の漁民はを区別して同一種とするよりも、違った魚としてそれを捉えた可能性の方が私は高いと思うのである。

   *

などと安易に推理したが、そこでは私が都合よく「ジ」を誤魔化していた。この説姪の方が腑に落ちた。リンク先にも、この公開後に追記をする。但し、ギンザメ類の数少ない生体画像や動画を見ても、体幹は残念ながら、真っ直ぐに、伸びている。深海から釣り上げた際の圧力影響によって、そのように曲がってしまったものとは思われる。

「ハクザメ」「箔鮫」。ギンザメの異名として複数回、既出。

「味、淡(あは)し」「ぼうずコンニャクの市場魚介図鑑」の「ギンザメ」の「味わい」の項によれば、『旬は不明』。『鱗はなく』、『薄いアルミ箔のような皮をしている。骨は柔らかく歯のみが硬い。背鰭棘は非常に強いので要注意』。『白濁した白身で繊維を感じない。水分が多くスポンジを思わせる。火を通すと締まるが、ほぐすと』、『ぼろぼろする』。『肝はクセがなく美味』とあって、「食べ方・料理法・作り方」の項には、『ソテー(ムニエル)、揚げる(フライ、唐揚げ)、煮る(煮つけ)、汁(潮汁)、生食(焼霜造り、肝さし、刺身)、焼く(干もの)』を掲げ、調理した写真も並び、かなり美味そうである。

「毒、なし」肉は無毒である。なお、既に書いたが、ギンザメ類は背鰭前縁に一本の毒腺のある棘を持ち、刺されると痛むが、人に対する毒性は弱いとされている。

「はんぺん」「半片」「半平」。形状を言ったのであろう「はんぺい(半平)」の転とされる。擂り潰した魚肉に山芋や澱粉を加え、調味して蒸し固めた白くふんわりした食品。そのままで、また、焼いたり、吸い物の実にしたりして食す。

「しんじよ」「糝薯」(しんじょ)。「はんぺん」に同じい。魚・鳥・海老などの擂り身に、擂った山芋を加えて調味し、蒸すか或いは茹でた食品。同じく、そのまま或いは吸い物の実などにする。]

栗本丹洲 魚譜 銀ザメ (ギンザメの♀或いはニジギンザメの♀)

 

Ginzame

 

[やぶちゃん注:図版は国立国会図書館デジタルコレクションの「魚譜」から。画像は尾部が分断されているため合成した。]

 

□翻刻1(原典のママ)

銀ザメ

 栘氏魚譜

 中ヨリ抄出

 是田村家藏

 ノ一ナリ

 

□翻刻2(今まで通り、読み易く約物を正字化し、推定訓読して整序した)

「銀ザメ」

「栘氏(りつし)魚譜」中より抄出す。是れ、田村家藏の一つなり。

 

[やぶちゃん注:全体に体色が不審であるが、先の異魚「ツノジ」の類と同じ手法で考えると、額部の突起物ないからは決まり。また、側線が前半から中央にかけて小刻みに波打っているところからは

軟骨魚綱全頭亜綱ギンザメ目ギンザメ上科ギンザメ科ギンザメ属ギンザメ Chimaera phantasma

が同定候補となるのだが、尾鰭と区別可能な尻鰭がないという点と、棘の後ろが鋸状になっておらず、円滑であるという点では

ギンザメ科アカギンザメ属ニジギンザメ Hydrolagus eidolon も挙げておく必要があろうかとも思われるしかし、乾燥標本(この体色は経年劣化かも知れぬ)にした結果、鰭などが毀損したとも考えられぬでもない。

「栘氏(りつし)魚譜」「栘」と判読するのに少し手間取った。これは「栗」の異体字。則ち、これは栗本丹洲の労作として知られる「栗氏魚譜」のことであると判断した。当初は、他人の魚譜と思い、いろいろ探して見たが、ピンとくるものが見当たらず、或いはと思い、「栗」の異体字を探したところ、この字に辿り着いた。考えて見れば、「抄出」した、というそっけない謂いは自分の著作からだからこそ自然であり、また、もと、自分が書写したものであるからこそ、その対象の原標本或いは原本が「田村家藏の一つなり」と断定出来るのだと腑に落ちた。但し、立国会図書館デジタルコレクション蔵本譜」には相当する図ないようである(同図書館本は五巻分が欠けている)。

「田村家」不詳。]

栗本丹洲 魚譜 カスカメの胎子 (カスザメの胎児)

 

Kasuzamtaiji

 

[やぶちゃん注:図版は国立国会図書館デジタルコレクションの「魚譜」からトリミングした。]

 

□翻刻1(原則、原文のママであるが、約物のカタカナの「ト」と「モ」の合字は表記出来ないので、正字で示し、ブログのブラウザの不具合が生ずるので二行目の位置は上げてある)

カスカメノ胎子 コレヨロイザメナリ 袖ザメトモ云モノ

                 亦此類ナリ

 

□翻刻2(読み易く整序した。なお、後で述べるように標題の「カスカメ」は誤字の可能性が高いが、正表記が二様に考えられるため、敢えてそのままで出した。後注を参照されたい)

「カスカメ」の胎子(はららご)

これ、「ヨロイザメ」なり。「袖ザメ」とも云ふもの、亦、此の類ひなり。

 

[やぶちゃん注:先に「カスカメ」という魚名に限って問題にする。これは私は「カスブカ」或いは「カスザメ」の誤記と判断する。而して成魚巻子本冒頭登場る「カスブカ」(そこでははっきりと「カスブカ」と書かれてある)、

軟骨魚綱カスザメ目カスザメ科カスザメ属カスザメ Squatina japonica の胎児(本種は卵胎生)

である。再掲すると、魚体が扁平でエイのように見えるが、立派な鮫で(鰓孔が体の側面にあることでサメ類と判る。エイ類は体の腹面に鰓孔を有する)、名に「ブカ(フカ)」がつくのは古名ながら、正しい。「かすざめ」とは「糟鮫」で、「ぼうずコンニャクの市場魚介図鑑」の「カスザメ」の「由来・語源」によれば、『東京での呼び名。価値のないカス(糟、粕)のようなサメの意味』とある。にしても、この画、丹洲にしては雑な感じがする。

「ヨロイザメ」当時のカスザメの地方異名と採る。カスザメの皮は非常に硬く除去し難い。ウィキの「カスザメによれば、同種の『背面は中程度の大きさの皮歯に覆われ、頭部から尾までの正中線上には大きな棘の列が走』っており、『皮は鮫皮として、おろし金や刀剣の鞘としても用いられる』から「ヨロイ」(鎧)はまさにしっくりくるのである。実は標準和名で同名の軟骨魚綱ツノザメ目ヨロイザメ科ヨロイザメ属ヨロイザメ Dalatias licha がいるが、これは形状が全く異なる。

「袖ザメ」これも当時のカスザメの地方異名と採りたいカスザメは体は細いが、胸鰭・腹鰭は大きく広がっており、まさに「袖」のように見えるからである。]

栗本丹洲 魚譜 ネコザメの子 (ネコザメの幼魚)

 

Nekozame

 

[やぶちゃん注:図版は国立国会図書館デジタルコレクションの「魚譜」から。頭部下に突き出ているのは、前の「ドチザメ」の背鰭で本図とは無関係。]

 

□翻刻1(原則、原典のママ)

猫サメ

 サヾヘワリノ子ナリ

 頭四角ニ乄桔梗

 花ノツホミニ似タリ

 因テキヽヤウサメ

 

 

□翻刻2(今まで通り、読み易く約物を正字化し、推定訓読して整序した)

「猫ザメ」

 「サザヱワリ」の子なり。頭、四角にして桔梗(ききやう)の花のつぼみに似たり。因りて「キキヤウザメ」と云ふ。

 

[やぶちゃん注:軟骨魚綱板鰓亜綱ネコザメ目ネコザメ科ネコザメ属ネコザメ Heterodontus japonicus の幼魚個体の図。但し、本文を曲解されると困るので言っておくと、「サザヱワリ」(榮螺割(さざえわ)り)はネコザメの異名であって、「ネコザメ」は同種の標準和名であり、幼魚の呼称ではないただ、丹洲の気持ちも判らないではない。成魚の大きさになって初めて、大きなサザエも噛み砕いて食うようになるので「サザエワリ」であり、幼魚の頃は文字通り、子猫のように可愛らしい「ねこざめ」ちゃんだからね!

 今まで、胎児や卵鞘(卵殻)の図は出て来たが、そこではネコザメ自体の解説をしていないので、ウィキの「ネコザメを以下に引いておく(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。分布は『太平洋北西部。日本では北海道以南の沿岸で見られる他、朝鮮半島、東シナ海の沿岸海域に分布する。水深六~三十七メートルの浅海の海底付近に生息し、岩場や海中林などを好む』。『最大全長百二十センチメートル。背鰭は二基で、いずれにも前端に鋭い棘を備える。これは』、『とくに幼魚が大型魚の捕食から逃れるのに役立っている。臀鰭をもつ。体型は円筒形。薄褐色の体色に、縁が不明瞭な十一~十四本の濃褐色横帯が入る。吻は尖らず、眼の上に皮膚の隆起がある。この眼上隆起を和名ではネコの耳に、英名』(Japanese bullhead shark)『ではウシの角に見立てている。歯は他のネコザメと同様、前歯が棘状で、後歯が臼歯状である。循鱗は大きく、頑丈である』。『底生性で岩場や海藻類の群生地帯に住み、硬い殻を持つサザエなどの貝類やウニ、甲殻類などを好んで食べる。臼歯状の後歯で殻を噛み砕いて食べるため、サザエワリ(栄螺割)とも呼ばれる。日中は海藻や岩の陰に隠れ、夜間に餌を求めて動き回る夜行性である。遊泳力は弱いが、胸鰭を使って海底を歩くように移動することもある』。『卵生。日本では三月から九月にかけて産卵が行われ(三~四月が最盛期)、雌は卵を一度に二個ずつ、合計六~十二個産む。卵は螺旋状の』襞『が取り巻き、岩の隙間や海藻の間に産み落とされた卵を固定する役割がある。仔魚は卵の中で約一年かけて成長し、約十八センチメートルで孵化する。雄は六十九センチメートルで成熟する』(先行する「波マクラ(ネコザメの卵鞘と胎児)を参照)。『刺し網などで混獲されるが、水産上重要でない。日本の和歌山など地方によっては湯引きなどで賞味される。酢味噌をあえる場合もある』。本邦では『水族館などでよく飼育、展示される。下田海中水族館(静岡県下田市)はネコザメの繁殖賞を受賞している。一般家庭での水槽飼育も可能で、小さな個体は観賞用に売買されることもある』。『人には危害を加えない』。]

栗本丹洲 魚譜 ドチザメ

 

Dotizamesaisyu

 

[やぶちゃん注:図版は国立国会図書館デジタルコレクションの「魚譜」から。画像は尻鰭附近で切れているため、接続合成したが、上部に次に示すネコザメが描かれ(上部から突き出ているのは、その右胸鰭で本図とは無関係)、尾部の上部には前のコバンザメが画かれているという、本巻子本の中では異様に前後上下が狭苦しくなっている。そのため、合成用カットの切り出し方を誤り、全体が不定形となってしまったことは、お許し戴きたい。]

 

□翻刻1(原則、原典のママ)

ドチサメ

 臺灣志烏翅鯊

 身圓翅尾黒色

 モシ此烏翅鯊魚乎

 

 

□翻刻2(今まで通り、読み易く推定訓読して整序した)

「ドチザメ」

 「臺灣志」に『烏翅鯊(うしさ)、身、圓く、翅・尾、黒色。』と。もし、此れ、「烏翅鯊-魚(うしさざめ)」か。

 

[やぶちゃん注:軟骨魚綱メジロザメ目ドチザメ科ドチザメ属ドチザメ Triakis scylliumウィキの「ドチザメ」より引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。ドチザメ(奴智鮫(語源不詳)/英名:Banded houndshark)は、『日本近海から東シナ海にかけての沿岸に生息する。最大全長は百五十センチメートル。卵黄依存型の胎生。五~七年で成熟し、十~二十四尾の子供を産む。漁業の対象にはならない。飼育しやすいため、全国の水族館で見ることができる。おとなしく、人間を襲うことはない』。『太平洋北西部沿岸、日本の南北海道以南、朝鮮半島、台湾、東シナ海まで分布する。また、未確認だがフィリピン近海にも進出する。比較的水深の浅いところを好み、岩礁域や藻場にも現れる。海底近くを泳ぎ、遊泳力は強くない。しばしば海底で休んでいる姿が見られる。河口など比較的低塩分の環境にも耐える』。『体型は細長い流線型。吻はやや長く扁平で丸い。背側の体色は黒色から灰色で、オリーブや褐色がかることもある。体側に複数の暗色横帯や斑模様が見えることもある。腹側は白色。背鰭はやや後方に位置し、尾鰭は上葉が長く伸びて面積が広い。頭部には短い二本の鼻弁を備え、口の周りには唇のような皺がある』。『小魚や甲殻類、その他の底生生物を捕食する。ほとんど単独で行動し、群れることはないが、山形県飛島では五月から七月にかけて』、『多くのドチザメが集まる』。『胎生。胎盤を形成しない卵黄依存型。産仔数は十~二十四尾。伊豆半島近海では雄は全長九十三~百三センチメートル』で五~六歳で成熟し、『雌は百六~百十七センチメートル』で、『六~七歳で成熟する。出生時の全長は十八~二十センチメートル。寿命は雄』で十五年、雌で十八年ほどである。『二〇一六年には、富山県の魚津水族館の雌しかいなかった水槽内で幼魚が二匹生まれるという珍事が起きた(二〇〇九年と二〇一三年に続き』、『三度目)。このことから、単性生殖を行う可能性が示唆されている』。『日本では食用に漁獲されることはなく、各地で他の魚類に混じって混獲される程度である。食用にすることは可能であり、淡白な白身で癖がなく美味だという』とある。

「臺灣志」清の李元春が撰した台湾の地方地誌「臺灣志略」。道光期(一八二一年~一八五〇年)年成立。

「烏翅鯊(うしさ)」同書の鮫を列挙した箇所に(太字下線やぶちゃん)、

   *

鯊。龍文鯊爲最、其翅特美。烏鯊、大者數百筋、能食人。虎鯊・圓頭鯊、皆噬人。乞食鯊、皮可飾刀鞘。白鯊・雙髻鯊・烏翅鯊・鋸仔鯊・鼠𧋋鯊・蛤婆鯊・油鯊・泥鰍鯊・靑鯊・扁鯊・狗鯊。皆。鯊屬。

   *

と出る。但し、以下の「身、圓く、翅・尾、黒色」という解説はない。更に中文原文サイトを調べた結果、同じ清の黃叔璥(しゅくけい 一六八二年~一七五八年)の撰になる、先行する台湾地誌「臺海使槎錄」(一七二二年執筆開始)の「卷三」の鯊類について解説した中に(太字やぶちゃん)

   *

外此有烏翅鯊身圓翅尾黑色

   *

とあるのを発見したので、丹洲は引用した方の書名と前者を混同していることが判る。「臺海使槎錄」の方が百年も前のものであるから、或いは丹洲は注釈附きの「臺灣志略」を読み、そこに「臺海使槎錄」の「烏翅鯊」の記事注記を見出し、そのまま安易に引いたものかも知れない。

『もし、此れ、「烏翅鯊-魚(うしさざめ)」か。』「或いは、この本邦の「ドチザメ」がその「烏翅鯊(うしさ)」=「烏翅鯊-魚(うしさざめ)」なのではなかろうか?」。しかし、調べてみると、現行のドチザメの繁体字漢名表記は正漢字で「皺唇鯊」である。それに対し、メジロザメ目 Carcharhiniformes のメジロザメ科メジロザメ属ツマグロ Carcharhinus melanopterus の現行漢名は、正漢字で「烏翅眞鯊」で、しかも異名として「黑翼鯊」「伯爵鯊」「黑鰭鯊」「黑鰭礁鯊」(参照した中文同種ウィキには、時に形状が類似することから、メジロザメ属カマストガリザメ Carcharhinus limbatus。正漢字表記「黑邊鰭眞鯊」と誤認されやすい旨の記載が有る)。以上から、「烏翅鯊」は私はツマグロのことを指していると考える。]

2018/03/26

栗本丹洲 魚譜 白のコバンザメ

 

 

Kobanzametaiji

 

[やぶちゃん注:図版は国立国会図書館デジタルコレクションの「魚譜」から。画像は胴部後部で切れているため、接続合成した。 

□翻刻1(原則、原典のママ)

白ノコバンザメ

按ニ印魚ノ

胎子ナルヘ

キ乎 

 

□翻刻2(今まで通り、読み易く推定訓読して整序した)

白の「コバンザメ」。按ずるに、印-魚(こばんざめ)の胎子(はららご)なるべきか。

 

[やぶちゃん注:本巻子本では珍しい、軟骨魚類でない、「サメ」とつくが「鮫」とは全く無縁な、条鰭綱スズキ目コバンザメ科コバンザメ属コバンザメ Echeneis naucrates。丹洲はここまでの流れの中で、卵胎生のサメ類を知っているために、思わず、「印-魚(こばんざめ)の胎子(はららご)なるべきか」と言い添えてしまっているが、コバンザメは卵生であり、こんな総てが完備した個体になったものは、卵から孵化した幼魚と考えざるを得ない。しかし、どうもこの色合いや、雰囲気は幼魚のそれではない。アルビノ個体としてもヘンだ。そもそもが、コバンザメはかなり白いが、こんな半透明に肉色が見えることの方が何だか気持ちよくない。眼も胡乱(ウロン)にドロンとしてる。タダモノではない気配が充満してる。これは実は特殊な腐敗が短時間に進んだものではないか? 例えば、彼らは大型のサメ類等の口腔内にも吸着して寄生生活を送るのであるが、そうした大型魚と一緒に捕獲されてしまい、口腔内で一緒に死んでしまい、サメが腐敗を始め、尿素がアンモニアに変化し、コバンザメの体表面全体が爛(タダ)れて侵されたしまった死体変相の個体なのではあるまいか?【二〇二一年四月二十六日追記】真っ白なコバンザメがいた。コバンザメ科ナガコバン属シロコバン Remora albescens である。「WEB魚図鑑」のこちらで見られる。遠州灘で採取された個体。こちらの方が、比定としては正しいか。

 一応、ウィキの「コバンザメを引いておく(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『サメの名がついているがスズキ目に属し、軟骨魚類のサメ類ではなく近縁でもない、全く無関係な種である』。『コバンザメ属 Echeneis は、全世界の熱帯・亜熱帯域に分布し、最もよく見られるコバンザメ類である Echeneis naucrates と、メキシコ湾から南米北岸にかけて分布する Echeneis neucratoides(英名:Whitefin sharksucker)の二種から構成される』。『最大で百十 センチメートル・二千三百グラムに』もなる個体もいる『が、通常は七十 センチメートル程度。体長は体高の八~十四倍程度。背鰭は三十二~四十二軟条、臀鰭は二十九~四十一軟条。頭部の背面に小判型の吸盤があり、これで大型のサメ類やカジキ類、ウミガメ、クジラなどに吸い付き、えさのおこぼれや寄生虫、排泄物を食べて暮らす(片利共生)。吸盤には横(背骨と垂直方向)に十八~二十八枚の隔壁がある。この隔壁はふだんは後ろ向きに倒れており、動いている大きな魚の体表などの面に吸盤が接触するとこれらは垂直に立ちあがる。このとき隔壁と隔壁の間の水圧が周囲の海水の圧力より小さくなり、これによって吸盤は面に吸いつく。吸いついたコバンザメを後ろに引くと隔壁の間の水圧はさらに小さくなるので』、『吸盤はさらに強く吸いつく。反対にコバンザメを前に押すと』、『隔壁がもとの位置に倒れるとともに』、『吸盤内の水圧が上がり、吸盤は面からはずれる。このしくみによって、彼らは自分がくっついた大きな魚などが速く泳いでもふりはらわれずにすみ、また離れたいときは』、『大きな魚などより』、『少し速く泳ぐだけで簡単に離れることができる』。『体側には太い黒線と、その上下を走る細い白線がある』。『生息深度は二十~五十メートル。大型の海洋生物・船などに付着して生活するが、サンゴ礁の沿岸では単独で見られることも多い』。『幼魚はサンゴ礁域で掃除魚として生活することもある』とある。

「印-魚(こばんざめ)」中文ウィキコバンザメを見て戴くと判る通り、現在も同種の漢名は「」また、「長印魚」とも称する旨の記載がある。思うに、吸盤部分が印章の刻みの似ているからであろう。]

栗本丹洲 魚譜 鮫魚ノ子 (サメの胎児)

 

Samenoko

 

[やぶちゃん注:図版は国立国会図書館デジタルコレクションの「魚譜」から。]

 

□翻刻1(原則、原典のママ)

鮫魚ノ子 何サメナルヤ未詳

     日本橋魚肆ニテ

     貰ヨシ  雞卵ノ如

      色モチヤボノ卵

      似タリ

      大サ図

      但シ口ナシ

 

 

□翻刻2(今まで通り、読み易く約物を正字化し、推定訓読して整序した)

「鮫-魚(サメ)」の子 何ザメなるや、未だ詳らかならず。日本橋、魚-肆(さかなや)にて、貰ひ来(きた)る、よし。雞卵の如にして、和(やはら)かなり。色も「チヤボ」の卵に似たり。大いさ、図の如し。但し、口、なし。

 

[やぶちゃん注:同定は私も不能。入手状況が不詳であるから、範囲を狭めることも難しいが、魚屋が入手したとなると、前に示されたような、所謂、卵生種の鞘に入った胎児ではなく、それなりに大きなサメが入手され、それを解体した際に、で、その体内から発見された未成熟胎児であった(口吻部も未だ癒着していて開口していない)可能性が高いようには思われる縦縞模様が特徴だから、これが決め手になるのかも知れぬが、幼体なので私にはお手上げ例えば、卵胎生で、日本橋の魚河岸に持ち込まれてもおかしくない、背中に白い縦方向への斑点(星)模様を有意に持つ(或いは胎児はこんな縞々かも知れんという全くの想像)、軟骨魚綱ネズミザメ上目メジロザメ目ドチザメ科ホシザメ属Mustelus manazo を試みに挙げておく。

「チヤボ」「矮鷄」。ニワトリの一品種であるチャボ。現在、天然記念物。普通の鶏卵の黄身よりも赤味(橙味)が薄く、より黄色に見える。但し、江戸時代の鶏卵と現行のそれはまた、異なるであろうから、これは現行のニワトリの一般的な鶏卵とチャボの違いを述べておいた。]

栗本丹洲 魚譜 波マクラ (ネコザメの卵鞘と胎児)

 

Nekozameransyou

 

[やぶちゃん注:図版は国立国会図書館デジタルコレクションの「魚譜」から。]

 

□翻刻1(原則、原典のママ)

波マクラ鯊魚腹中ヨリ

螺ノ如ク巻ク内ハ平ニシテ黒色ナリ

此中ヨリサメノ子出臍蔕アリ

胞衣付ケリ乾枯スレハ堅シ其ヤ

ハラカナルトキハ雞蛋ノキミノ如シ

志村愛輔親シク目擊シテ手写ス

ル処ナリ

 

 

□翻刻2(今まで通り、読み易く約物を正字化し、推定訓読して整序した)

「波マクラ」

-魚(さめ)の腹中より出づ。螺(にな)の如く巻く。内は平(たひら)にして、黒色なり。此の中より、「サメ」の子、出づ。臍蔕(さいたい)あり。胞衣(えな)、付きけり。乾枯(かんこ)すれば堅(かた)し。其のやはらかなるときは、「雞蛋(けいたん)のきみ」の如し。志村愛輔、親しく目擊して、手写(しゆしや)する処なり。

 

[やぶちゃん注:卵生である軟骨魚綱板鰓亜綱ネコザメ目ネコザメ科ネコザメ属ネコザメ Heterodontus japonicus の卵(卵鞘)及び、その中の卵黄に繋がった胎児個体二尾。ウィキの「ネコザメによれば、本邦では三月から九月にかけて産卵が行われ(三~四月が最盛期)、は卵を一度に二個ずつ、合計六個から十二個産む。卵は螺旋状の襞が取り巻いた独特の形状を成す。これは『岩の隙間や海藻の間に産み落とされた卵を固定する役割がある。仔魚は卵の中で約』一『年かけて成長し』、約十八センチメートルに達すると孵化する。は六十九センチメートルで成熟する、とある。先行するウミヅル (卵生サメ・エイ類の卵鞘の付属器と同定)の私の注及びリンク先の画像・動画なども是非参照されたい。板鰓亜綱テンジクザメ目テンジクザメ科テンジクザメ属イヌザメ Chiloscyllium punctatum のものであるので卵鞘の形状が異なるが、癒乃さえりサメの卵を買って来たよ!そして産まれる日までまとめたよ!という動画が非常によい。卵鞘の中での胎児の動きから、孵化までの様子が見られる。必見!

「波マクラ」「波枕」。何と、風雅な名であることか。

「螺(にな)」広義の巻貝(腹足類)のこと。

「内は平(たひら)にして」スクリューやドリル状に見えるが、鞘の中央内部は管を巻いているのではなく、平らな一つの空間になっていることを言っている。

「臍蔕(さいたい)」「臍蔕」の二字で「へそ」と読んでいる可能性もあるが、後の「胞衣(えな)」(胎児が生み出た後に排出される胎盤・卵膜などの付属物)の表現から「臍帯」と同じ音で読んでおいた。

「乾枯(かんこ)すれば堅(かた)し」主語は卵鞘。

「雞蛋(けいたん)」「鷄卵」に同じい。鶏の卵。

「きみ」黄身。卵黄。

「志村愛輔」不詳。呼び捨てにしているから、栗本丹洲の弟子であろう。

「手写(しゆしや)」現場で即席にスケッチしたものという謂いであろう。或いは、それをそのままここに張り込んだ、則ち、丹洲が再描せずに、或いは、墨の単色スケッチ画に丹洲が志村愛輔に訊ねながら彩色を加えたものかも知れぬ。]

 

栗本丹洲 魚譜 異魚「ツノジ」の類 (ギンザメ或いはニジギンザメ)

 

Tunojinorui

 

[やぶちゃん注:図版は国立国会図書館デジタルコレクションの「魚譜」から。元画像は、魚体が頭部及び胴前方・胴部後方及び尾部根元・尾部尖端に痛ましく分解されているので、三枚の画像をソフトで合成して一体の完品像として見られるように加工した。]

 

□翻刻1(原則、原典のママ)

此鮫水府海中ヨリ獲タリ

漁子モ其名ヲ不知但ツノジノ

類ナラン寛政初年ノヿナリ

 

 

□翻刻2(今まで通り、読み易く約物を正字化し、推定訓読して整序した)

此の鮫、水府(すいふ)海中より獲りたり。漁子(れふし)も其の名を知らず。但し、「ツノジ」の類ひならん。寛政初年のことなり。

 

[やぶちゃん注:全体に体色が真っ黒なのは不審であるが、額部の突起物からは決まり。また、側線が前半から中央にかけて小刻みに波打っているところからは

軟骨魚綱全頭亜綱ギンザメ目ギンザメ上科ギンザメ科ギンザメ属ギンザメ Chimaera phantasma

が同定候補となるのだが、尾鰭と区別可能な尻鰭がないという点と、棘の後ろが鋸状になっておらず、円滑であるという点では

ギンザメ科アカギンザメ属ニジギンザメ Hydrolagus eidolon も挙げておく必要があろうかとも思われるしかし、乾燥標本(この黒い色は経年劣化かも知れぬ。後注参照)にした結果、鰭などが毀損したとも考えられぬでもない。

「水府(すいふ)」水戸の異称。

「漁子(れふし)」漁師。

「ツノジ」既にギンザメ類の異名として多数既出。

「寛政初年」寛政元年は一七八九年。例えば、前の図は文化一四(一八一七)年の図であるから、単にそこと比較しても二十八年も隔たりがある。但し、本巻子本は新旧の図譜のランダム(少なくとも編年的構成要素は全くない)張り混ぜの魚譜であるから、この図が描かれたのはもっと前で、期間はずっと短くなる可能性も無論、有意にあるとは言える。]

栗本丹洲 魚譜 天狗鯊 (アズマギンザメの♂)

 

Tenguzame

 

[やぶちゃん注:図版は国立国会図書館デジタルコレクションの「魚譜」から。元画像は、魚体が頭部・胴部・尾部に傷ましくも分解されているので、三枚の画像をソフトで合成して一体の完品像として見られるように加工した。]

 

□翻刻1(原則、原典のママ。【 】は二行割注)

劍尾鯊【閩書】 一名劍鯊【福州府志】

和名

天狗ザメ 此物ツノジ箔ザメノ別種ナリ

     其乾枯スルモノヲ観テ写

     眞色ヲ不詳文化丁丑中夏念五

     摂州堀田矦ヨリ借写ス其産処

     詳ナラズ
 
 

□翻刻2(今まで通り、読み易く推定訓読して整序した)

「劍尾鯊(けんびざめ)」【「閩書」】 一名、「劍鯊(つるぎざめ)」【「福州府志」。】

和名

「天狗ザメ」

此の物、「ツノジ」・「箔ザメ」の別種なり。其の乾枯(かんこ)するものを観て写す。因りて眞(まこと)の色を詳らかにせず。文化丁丑(きのとうし)中夏(ちゆうか)念五(ねんご)、摂州堀田矦より借り、写す。其の産処(さんしよ)、詳らかならず。

 

[やぶちゃん注:尾鰭の上葉が発達しておらず、辺縁に小さな突起があるように見えること、吻部の突出が著しいことから、私は

テングギンザメ科テングギンザメ属テングギンザメ Rhinochimaera pacifica

ではないかと思ったが、ツイッターの「博物月報@hakubutu」氏の二〇一六年十一月五日附ツイートで、本図を掲げられて、『魚類学者の阿部宗明(故人)の同定によれば、「アズマギンザメのオス」という』とある。プロの同定であるから、

テングギンザメ科アズマギンザメ属アズマギンザメ Harriotta raleighana

で採ることとする。但し、丹洲も「乾枯(かんこ)するもの」(乾燥標本で水分が完全に抜け切ってた、時間のかなり経ったもの)を「観て写」したので、「眞(まこと)の色」(生体時の色)が判らぬと注しているのは、その乾燥標本の色が、どうもひどく変色した怪しいもののようにしか見えなかったことを指しており、しかも本個体が捕獲された時期も場所も判らぬというのでは、標本としては資料足り得ないことになり、図からのみの絶対同定比定は難しいようにも私には思われる

「劍尾鯊(けんびざめ)」尾部の形状から腑に落ちる。但し、現行の中文の魚類分類表を調べたところ、酷似する「劍尾魚」は熱帯魚でよく見かける条鰭綱カダヤシ目カダヤシ科 Xiphophorus 属ソードテールXiphophorus hellerii に当てられている。また、「劍鯊」は古代サメの特徴を有しており、しばしば「生きている化石」とも呼ばれる、大きく突出した扁平な吻(頭部先端の尖った部分)が特徴的な軟骨魚綱板鰓亜綱ネズミザメ目ミツクリザメ科ミツクリザメ属ミツクリザメ Mitsukurina owstoni の異名漢名に「劍吻鯊」という相似した名がある。ミツクリザメはテングギンザメとは縁が遠いが、形状はやや似ているようには見え、こうした似た漢名が古くから与えられ、或いは混同して認識されていた可能性はないとは言えない。

「閩書」「閩書南産志」。明の何喬遠(かきょうえん)撰になる福建省の地誌。

「福州府志」清の乾隆帝の代に刊行された福建省の地誌。

「天狗ザメ」見かけによらず、非攻撃性のサメで、古くから食材として獲られていた軟骨魚綱板鰓亜綱ネズミザメ目ウバザメ科ウバザメ属ウバザメ Cetorhinus maximus は鋭い口吻を持つことで知られているが、若い個体では明確に曲がって尖って見えることから一部ではそうした若い個体を「テングザメ」と呼称している。また、付け加えておくとなら、先のミツクリザメが「天狗ザメ」と呼ばれていても私は至極納得するものである。

「ツノジ」既出。ギンザメの別称。

「箔ザメ」ギンザメの異名総称であろう。

「文化丁丑(きのとうし)」文化十四年。一八一七年。冒頭注で記した通り、磯野直秀氏の底本の解題によれば、丹洲は文化一四(一八一七)年四月十九日に開催された幕府医学館の薬品会に「垢鯊図纂」(こうさずさん:「垢」はエイ、「鯊」はサメの意)五十品を出品しているが、品数もほぼ同じであることから、これが本資料と推定されることから、本図については、執筆はそれ以前であったことが明白になる一枚である。

「中夏(ちゆうか)」旧暦五月。

「念五(ねんご)」「念」は「廿」の代用字であるから、文化十四年五月二十五日となり、これがグレゴリオ暦で六月十六日である(この年は閏五月が次いである)。

「摂州」摂津国であるが、ここは「攝津守」のことで場所は関係がない。次注参照。

「堀田矦」既出の若年寄堀田正敦(宝暦五(一七五五)年~天保三(一八三二)年)である。彼は五位下・摂津守である。当時は堅田藩藩主。]

 

栗本丹洲 魚譜 天狗鯊 (ギンザメ或いはアカギンザメの♂)

 

Akaginzameosu

 

[やぶちゃん注:図版は国立国会図書館デジタルコレクションの「魚譜」から。上部で背鰭前縁の棘状突起の先が切れているのと、左胸鰭の端が下部で切れてしまっているのは、原巻子本のママ。]

 

□翻刻1(原典のママ。下部のキャプションは有意にポイントが落ちるが、同ポイントで示した)

天狗鯊 俗名ナリ 委細見于神田玄泉日東魚譜

 

□翻刻2(今まで通り、読み易く推定訓読して整序した)

「天狗鯊」

俗名なり。委細は神田玄泉「日東魚譜」を見よ。

 

[やぶちゃん注:軟骨魚綱全頭亜綱ギンザメ目ギンザメ上科ギンザメ科ギンザメ属ギンザメ Chimaera 類の(頭部形状に拠る)に同定出来る。体色及び尾鰭が独立して確認出来ないような描き方がなされているところ、及び第一背鰭の棘の後縁が鋸状にギザギザになっているところからは、本邦のギンザメ類の代表種であるギンザメ属ギンザメ Chimaera phantasma ではなく、アカギンザメ属アカギンザメ Hydrolagus mitsukurii ではなかろうかとも思われる。

「天狗鯊」前にも述べた通り、「鯊」は「ハゼ」ではなく「サメ」と読む。「俗名なり」とわざわざ断って呉れているのは嬉しい。の注で私が述べた通り、現在の分類ではギンザメ目 Chimaeriformes にはギンザメ上科 Chimaeroideaギンザメ科 Chimaeridae 以外に、著しく伸長した吻を有する、遙かに異形でより「天狗」っぽく見える、全くの別種ギンザメ上科テングギンザメ科 Rhinochimaeridae が三属八種もおり、その中には文字通り、まんまの「天狗銀鮫」(標準和名もテングギンザメ科テングギンザメ属テングギンザメ Rhinochimaera pacifica)いるが、この図と全く似ても似つかぬ別種だからである。くどいが、

現在のテングギンザメ=真正のテングギンザメ科のテングギンザメ類「天狗ザメ」

であるので注意されたい。現在の真正のテングキンザメ類は遂に次の図で出る。

「神田玄泉」(生没年不詳)は江戸の町医。出身地不詳。玄仙とも。他の著作として「本草考」「霊枢経註」「痘疹口訣」などの医書がある。既出既注であるが、再掲しておく。

「日東魚譜」全八巻。本邦(「日東」とは日本の別称)最古の魚譜とされるもので、魚介類の形状・方言・気味・良毒・主治・効能などを解説する。序文には「享保丙辰歳二月上旬」とある(享保二一(一七三六)年。この年に元文に改元)但し、幾つかの版や写本があって内容も若干、異なっており、最古は享保九(一七一九)年で、一般に知られる版は享保一六(一七三一)年に書かれたものである。丹洲の言っているのは、のキャプションで指示しているのと同じ、国立国会図書館デジタルコレクションのこれであるした(左頁)。そこでは図に『ギンザメ』とキャプションがある。]

栗本丹洲 魚譜 【銀ハ】エ (ギンザメ♀)

 

Gizame3

 

[やぶちゃん注:図版は国立国会図書館デジタルコレクションの「魚譜」から。上辺でキャプションの上部が切れてしまっているのと、下部の左胸鰭の先端が切れているのは、原巻子本のママ。標題を除くキャプションは文意が通じるので、更に上部に完全にカットされた字はないと推理出来るが、頭に配された本魚の名は最後がカタカナの「エ」であること以外は視覚上は判らない。後で述べるが、私はこの標題魚名は「銀ハエ」とあったのではないか最終推定した。]

 

□翻刻1(原典のママ。■は巻子本化するに際して、カットされてしまったと推定される字)

■■エ

 雌者腹大ニ色

 ウスシ雌雄俱

 總身銀箔

 似タリ因テ名ヲ

 得 此類ニテ

 ノ長キモノアリ上ヘ

 反張ス天狗ザメ

 ト云モノヽヨシ日東

 魚譜ニ略図アリ

 

□翻刻2(今まで通り、読み易く整序変更した。切除されたものは「銀」と「ハ」と推定してそれを〔 〕で補った。推定根拠は後注を参照されたい)

銀ハエ。

 雌の者。腹、大に、色、うすし。雌雄俱に、總身、銀箔を押すに似たり。因りて名を得(う)。

 此の類(たぐ)ひにて、鼻の長きもの、あり。上へ反張(はんちやう)す。「天狗ザメ」と云ふものの、よし、「日東魚譜」に略図あり。

 

[やぶちゃん注:尻鰭がないように描かれている点と頭額部形状(特有の反り返った突出部を持たない)から、軟骨魚綱全頭亜綱ギンザメ目ギンザメ上科ギンザメ科ギンザメ属ギンザメ Chimaera phantasma に同定する。

 なお、本図の魚名標題を「銀ハエ」とした理由を述べる。

 丹洲はキャプションの最後で、「此の」図に描かれた魚と同じような種「類」のもので「鼻」が「長」いものがおり、その「鼻」は「反張す」、則ち、その器官(部位)は、その魚の鼻とシミュラクラする位置に反り返った形で張り出して着いている、だから「天狗ザメ」と呼ぶのだとあることがら、その反鼻(へんび)した鼻のような部位(器官)とは、ギンザメのの頭部にのみ認められる鈎状突起を指している(これは交尾の際にを押さえつけるための器官と言われている。但し、深海魚であるギンザメ類自体の生体画像が撮られたのはごく最近のことであり、さらにその交尾行動を詳しく現認した観察記録があるとは、どうも私には思えない。とすると、これが確かに交尾時の補助器官であるかどうかは、私は少し疑問な気がするのである。親しい生物の教師も同様に本当にそのような器官として昨日するかどうかというのはちょっと怪しいと言っていたことを言い添えておく)から、それはまず、ギンザメ Chimaera phantasma と考えるのが自然であり、それに非常によく似ているが、突起がないというのだから、同種のとすることに異論はないものと思う。

 次に丹洲は神田玄泉「日東魚譜」に略図があると言っているのであるが、それはこの突起を持ったそれを指していると思われ、当該画像は国立国会図書館デジタルコレクションのこれではないかと私は推察した(左頁)。そしてそこには図に『ギンザメ』とキャプションがあるのである。さらに、上部の神田玄泉解説文では冒頭に、

 銀鮠魚

とあるのである。鮠(はや)は現行も昔も通常は淡水魚の条鰭綱コイ目コイ科 Cyprinidae のうちで、中型で細長い体型を持つ種群(コイ科ウグイ亜科ウグイ属ウグイ Tribolodon hakonensis・コイ科ウグイ亜科アブラハヤ属アムールミノー亜種アブラハヤ Rhynchocypris logowskii steindachneri・アブラハヤ属チャイニーズミノー亜種タカハヤ Rhynchocypris oxycephalus jouyi・コイ科 Oxygastrinae 亜科ハス属オイカワ Opsariichthys platypusOxygastrinae 亜科カワムツ属ヌマムツ Nipponocypris sieboldiiOxygastrinae 亜科カワムツ属カワムツ Nipponocypris temminckii 等)の総称である(ハエ或はハヨとも呼ぶ)のであるが、実は「鮠」は、それ以外に或いは「鮠魚」と書いて「サメ・フカ」の類をも古くは指したことがあったのである(不審を持たれる方は、Mitsuru Nakajima 氏の魚類サイト内の「真名真魚字典」のこちらの「鮠」の項を参照されたい)。とすれば、この「鮠」は「ハエ」と読んで「サメ」の意をも併せ持っていると考えてよい。

 残存した文字は「エ」だけである。だとすれば、ここは丹洲が「日東魚譜」に描かれた「ギンザメ」それと、同じ仲間であると判断したと考えるのは自然であり、丹洲はそこで、この魚の名として、「銀鮠」=「ギンザメ」という名(種群名)を与えたのだと考えて私はよいと思う

 ただ、丹洲は或いは、『此の類(たぐ)ひにて、鼻の長きもの、あり。上へ反張す(はんちやう)。「天狗ザメ」と云ふものの」由、『「日東魚譜」に略図あり』と記しているところから見ると、これを現在の魚類学的事実としての同種の♀♂ではなく、反り返った「鼻」を持つ、ギンザメ類の別種と捉えていた可能性も否定は出来ない。卵を持っていればとは判るから、図を描いた後に剖検して卵を見出したから「雌」と冒頭に断定しているのだと考えれば、現行のように反鼻様の突起物があるからとしたのではないと考えた方が、寧ろ、自然であって、やはり、形態は「鼻」を除いて完全に相同でありながら、丹洲は「鼻」のあるギンザメと「鼻」のないギンザメの二種がいると考えていたのではないか。形状分類のみが分類の鉄則であった当時から考えると、そう腑に落ちるのである。以上、大方の御叱正を俟つものではある。

「天狗ザメ」現行では、ギンザメ目 Chimaeriformes にはギンザメ上科 Chimaeroideaギンザメ科 Chimaeridae 以外に、著しく伸長した吻を有する、遙かに異形でより「天狗」っぽく見える、全くの別種ギンザメ上科テングギンザメ科 Rhinochimaeridae が三属八種もおり、日本近海にもアズマギンザメ(テングギンザメ科アズマギンザメ属アズマギンザメ Harriotta raleighana・クロテングギンザメ(テングギンザメ科テングギンザメ属クロテングギンザメ Rhinochimaera africana・テングギンザメ(テングギンザメ科テングギンザメ属テングギンザメ Rhinochimaera pacifica)の三種が棲息するが、この「テングギンザメ」と、この「天狗ザメ」は同名異物であることになるので、注意されたい。なお、現行の真正のテングギンザメ科のテングギンザメ類は、後の図に出る。

「反張(はんちやう)す」初見時は「そりはり」と訓読みしたかったが、「す」との繋がりが悪いので音読みした。]

2018/03/24

我が中国を愛する友へ――

 

歸去來辭 陶淵明
 
   
余家貧 耕植不足以自給 幼稚盈室 缾無儲粟 生生所資 未見其術 親故多勸余爲長吏 脱然有懷 求之靡途 會有四方之事 諸侯以惠愛爲德 家叔以余貧苦 逐見用于小邑 于時風波未靜 心憚遠役 彭澤去家百里 公田之利 足以爲酒 故便求之 及少日 眷然有歸歟之情 何則 質性自然 非矯勵所得 饑凍雖切 違己交病 嘗從人事 皆口腹自役 於是悵然慷慨 深愧平生之志 猶望一稔 當斂裳宵逝 尋程氏妹喪于武昌 情在駿奔 自免去職 仲秋至冬 在官八十餘日 因事順心 命篇曰 歸去來兮 乙巳歳十一月也
 
歸去來兮
田園將蕪胡不歸
既自以心爲形役
奚惆悵而獨悲
悟已往之不諫
知來者之可追
實迷途其未遠
覺今是而昨非
 
舟遙遙以輕颺
風飄飄而吹衣
問征夫以前路
恨晨光之熹微
 
乃瞻衡宇
載欣載奔
僮僕歡迎
稚子候門
三逕就荒
松菊猶存
攜幼入室
有酒盈樽
 
引壺觴以自酌
眄庭柯以怡顏
倚南窗以寄傲
審容膝之易安
園日涉以成趣
門雖設而常關
策扶老以流憩
時矯首而游觀
雲無心以出岫
鳥倦飛而知還
景翳翳以將入
撫孤松而盤桓
 
歸去來兮
請息交以絶遊
世與我而相遺
復駕言兮焉求
悅親戚之情話
樂琴書以消憂
 
農人告余以春及
將有事於西疇
或命巾車
或棹孤舟
既窈窕以尋壑
亦崎嶇而經丘
木欣欣以向榮
泉涓涓而始流
善萬物之得時
感吾生之行休
 
已矣乎
寓形宇内復幾時
曷不委心任去留
胡爲乎遑遑欲何之
 
富貴非吾願
帝鄕不可期
 
懷良辰以孤往
或植杖而耘耔
登東皋以舒嘯
臨淸流而賦詩
 
聊乘化以歸盡
樂夫天命復奚疑
 
 

2018/03/23

明日より佐渡へ

明日より、四度目の佐渡へ――随分、御機嫌よう――

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 魚王行乞譚 七 / 魚王行乞譚~了

 

     七 

 

 話が長くなり過ぎたから議論の方を省略する。私の說いて見たかつた一事は一國民の文藝技術が、終始書卷の外に於て成育しつゝあつたといふことである。本は只單なる記錄者に過ぎなかつたといふことである。是より以上に昔を問ふ途のなかつた場合に限つて、始めて助力を之に求むべしといふことである。ハナシといふ日本語は古い字引の中には見付からない。是は語りごとの樣式方法の、今は昔と大いに異なつて居ることを意味するかと思ふ。さうして軍陣羈旅の殊に盛んであつた時代になつて、咄の衆なる者は世に現れて活躍したのである。咄又は噺といふ文字が新案せられ、此語の頻りに用ゐられたのが、ハナシの技術の急に進化した時代と見てよかろう。技術は進んでも内容ほもと外部からの、自然の供給に仰がなければならなかつた。卽ち話は上手になつても話の種は乏しかつた。そこで近代の話し家同樣の、いとも熱心なる搜索と、稍無理なる變形とが始まつたのである。所謂武邊咄(ぶへんばなし)の流行が略下火(したび)になると、御伽這子(おとぎはうこ)一流の新渡[やぶちゃん注:「しんと」。新しく外国から渡来したこと。]小說の燒直しが始まつて居る。ウソにも亦一種の社會需要があつた。世間話の種の常に缺乏して、目先を變へる爲に傳說緣起の境まで、あさり步かなければならなかつたのは、驚くべく幸福なる太平無事ではあつたが、聽く者の側からいふと、自分等の生活慣習とは打合はない、翻案の痕の生々しいものよりは遙かによかつた。昔の讀者は少なくとも自主であつた。少なくとも今よりはナシヨナルであつた。作者は努めて此要求に追隨して居たことは、曾我が三百年もの間、每年初春の芝居であつたのを見てもわかる。

[やぶちゃん注:「曾我が三百年もの間、每年初春の芝居であつた」特に延宝四(一六七六)年正月、初代市川團十郎が「壽曾我對面(ことぶきそがのたいめん)」を初演(彼が演じたのは曽我五郎)が大当りした後は、この演目が正月興行には欠かせない出し物となり、初春を言祝ぐ祝祭劇として一番目の大詰に必ず演じられるようになった。江戸歌舞伎の正月興行に曽我兄弟の仇討を素材にした曽我狂言を行う仕来たりは享保年間(一七一六年から一七三六年)には出来ていたようである。また、それ以降も更にさまざまな演出や改作が行われるようになり、遂には一千種ともされる派生型の曾我物が生まれたのであった。本論文は昭和五(一九三〇)年一月の『改造』初出であるから、延宝四(一六七六)年は二百五十四年前になる。] 

 

 以前京都の地に今日の東京の如く、話の問屋のあつたことは大よそ疑ひの無い證據がある。自分等のゆかしく思ふのは、彼處[やぶちゃん注:「かしこ」。]の番頭等の見本鑑定眼、それを全國的に捌いて行く品柄見立ての腕前であつた。那津(なのつ)堺津の貿易の頃から、外國の文藝の次々に舶載せられたことは、事情も之を推測せしめ、痕跡も顯著に殘つて居る。それを我々國民が手傳つて遣つて、今では立派な國產品にしたのである。私は魚が僧になつて來て飯を食つた話の、必ずもと輸入であることを信じて、今でも色々の方面を搜して居る。法苑珠林[やぶちゃん注:「はうをんじゆりん(ほうおんじゅりん)」、後注参照。]などは索引が無い爲に、有りさうに見えてまだ資料を見付けない。南方熊楠氏のような記憶のよい人に助けて貰ふの他は無いと思つて居る。しかし太平廣記の中には少なくとも二つの例があつた。次に引いて置くものが卽ちそれである。其一つは同書卷四百六十九に、廣古今五行記を引いて斯う記して居る。但し私の持つ本は新刻の惡本であるが、大要だけは多分ちがふまい。曰く晉安郡の民、溪を斷じて魚を取る。忽ち一人の白[やぶちゃん注:底本は「白恰」であるが、おかしい。ちくま文庫版全集で見ると『白袷(しろあわせ)』で意味は通るが、しかしこれもどうも違和感がある。原本(後掲)を見たところ、「白」が、中国で、「男性が髪を纏めた絹製の白い帽子」のことであった。原典によって訂した。]靑練の單衣を着て來たり詣る有り。卽ち飮饌[やぶちゃん注:「いんせん」。饗応のための飲食物。]を同じくす。供し畢りて語りて曰ふ。明日魚を取るに、まさに大魚の甚だ異なるが最も前に在るを見ん。愼みて殺す勿れと。明日果して大魚あり。長七八丈(尺?)、逕ちに[やぶちゃん注:「ただちに」。]來たりて網を衝く。その人すなわちこれを刻(?[やぶちゃん注:私の見た原文では「賴」だから「まうけとして」(利益・幸いとして)の意であろうか。])殺す。腹を破きて見るに、食ふところの飯悉くあり。其人の家死亡して略盡くとある。その二も同書同卷に朝野僉載[やぶちゃん注:「てうやせんさい(ちょうやせんさい)」。]を引いて、唐の齋州に萬頃陂[やぶちゃん注:「ばんけいは」。無論、固有地名であるが、「陂」は堤(つつみ)である。]という處あり。魚鼈水族有らざる所無し。咸亨[やぶちゃん注:底本は「感享」であるが、孰れも誤植と見て文庫本全集及び原典(後掲)で特異的に訂した。咸亨(かんこう)は唐の高宗の治世に使用された元号。六七〇年から六七四年まで。]中忽ち一僧の鉢を持して村人に乞食するあり。長者施すに蔬供[やぶちゃん注:「そく」。蔬菜(青物)の供物。]を以てす。食し訖つて[やぶちゃん注:「おはつて」。終わって。]去る。時に漁網して一魚を得たり。長六七尺。緝鱗[やぶちゃん注:「しうりん(しゅうりん)」。意味は後注参照。]鏤甲[やぶちゃん注:「らうこう(ろうこう)」。同前。]錦質[やぶちゃん注:「きんしつ」。同前。]寶章[やぶちゃん注:「ほうしやう(ほうしょう)」。同前。]あつて、特に常の魚に異なれり。齋して[やぶちゃん注:「もたらして」。]州に赴きて餉遺[やぶちゃん注:「しようい」。食べ物を贈ること。ここは州の太守に、であろう。]せんと欲するに村に至りて死す。共に剖いて[やぶちゃん注:「さいて」。割(さ)いて。]之を分つに、腹中に於て長者施すところの蔬食を得たり。儼然として[やぶちゃん注:「げんぜん」。厳(おごそ)かで動かしがたい事実に。]竝びに在り。村人ついに陂中において齋を設け[やぶちゃん注:「齋」は「とき」。「齋を設ける」というのは「神として祀る」ことを指す。]過度(?[やぶちゃん注:「過度なりとして齋を設く」で、「あまりに節度を欠いた所業であったとして祭祀した」の謂いではあるまいか?])す。これより陂中に水族なし。今に至つて猶然りとある。

[やぶちゃん注:ここで柳田國男が引いている原文は以下。前の話は「水族六 水族爲人」の「晉安民」、後のそれは同じ「水族六 水族爲人」の「萬頃陂」。私は既に『柴田宵曲 續妖異博物館 「鰻」 附 小泉八雲“ A Matter of Custom 原文及び田部隆次訳』で電子化しているが、新ためて示す。

   *

晉安郡民斷溪取魚、忽有一人著白、黃練單衣、來詣之、卽同飮饌。饌畢、語之曰、「明日取魚、當有大魚甚異、最在前、愼勿殺。」。明日、果有大魚、長七八丈。逕來衝網。其人卽賴殺之。破腹、見所食飯悉有。其人家死亡略盡。出「廣古今五行記」。

   *

唐齊州有萬頃陂。魚鼈水族。無所不有。咸亨中。忽一僧持鉢乞食。村人長者施以蔬供、食訖而去。於時漁人網得一魚。長六七尺、緝鱗鏤甲、錦質寶章、特異常魚。欲齎赴州餉遺、至村而死、遂共剖而分之。於腹中得長者所施蔬食、儼然並在。村人遂於陂中設齋過度、自是陂中無水族、至今猶然絕。出「朝野僉載」。明鈔本作出「五行記」。

   *

前話の「晋安郡」は、晋代から隋初にかけて置かれた旧郡名。現在の福建省東部の福建省福州市晋安区。ここ(グーグル・マップ・データ)。後者の「緝鱗」は「びっしりと集まった」「光り輝く」(「緝」には以上の二義がある)鱗(うろこ)のこと。「鏤甲」飾られたような煌びやかな背甲部(亀なら甲羅であるが、魚形であるから、超巨大個体も珍しくないチョウザメのような魚で、硬い背面(硬化して突き出た鱗)を有していたのかも知れぬ)を有していたらしい。「錦質」全体がくすんだ部分がなく、錦を織りなしたような極彩色であったようだ。「寶章」は、目出度い宝を表わすような文様をも、皮膚に有してものらしい

「法苑珠林」唐代に道世が著した仏教典籍・類書。全百巻。六六八年成立。引用する典籍は仏教のみならず、儒家・道教・雑書など四百種を超え、また現在は散逸してしまった「仏本行経」「菩薩本行経」「観仏三昧経」「西域誌」「中天竺行記」などを引用しており、インドの歴史地理研究の上で重要な史料となっている。

「廣古今五行記」唐の竇維(とうい)の撰になる志怪小説集。

「長七八丈(尺?)」唐代のスケールは一丈は三・一一メートルであるから、二十二~二十五メートル弱となり、余りにも巨体過ぎる。柳田國男の「?」も腑に落ちる。

「朝野僉載」「遊仙窟」の作者として知られる唐の文人張鷟(ちょうさく)の伝奇小説集。] 

 

 此話が直接に日本へ移植せられた元の種で無いことは想像し得られる。さうして現に又二國以外の民族の間にも行はれて居るのである。何か總論の書で頭を養はれた人は、必ず待ち兼ねて居たやうにして、源は印度と言はんとすることであろう。勿論それも亦決して不自然なる推量では無かつた。何にしても斯ういふ現實に遠い話は、非常に古く始まり且つ弘く旅行をして居たものと見なければ、第一に人の信じたことを說明し得ないのである。しかも果して天竺の雲の彼方より、漂泊して爰に到つたものと假定すれば、更に日本以外の古い一國に於ても、人に說話を傳說化せしめんとする傾向あり、珍聞を我地に固著させ、努めて之を信じ易い形にして信じようとする無意識の希望があつたことを、明瞭にした結果になつて面白いのである。我々の昔話は信じ得ないのを一つの特徴にして居る。ウソの最も奔放なるものならんことを、寧ろ要求さへしたのである。それが流傳の間に何度と無く、傳說を欲する人々、卽ち鄕土を由緒あるものにしたい念慮ある者に執らへられて、恰かも歷史の一部を構成するかの如く、取扱はれようとして居たのは奇異であるまいか。是をしも旅の藝術家の說話の妙に歸して、土人はたゞ均しく之に欺かれ了り[やぶちゃん注:「おはり(おわり)」。終り。]たるものと解する說には、自分一人は斷乎として與[やぶちゃん注:「くみ」。]しない。發育する者には食物の自然の要求がある。さうして敎へられずして養分の何れに在るかを知つて居る。國土山川は廣く連なり、浮說は數限りも無く其上を去來して居た中に、獨りその或一つが斯うして或一處と結合したといふのには、もつと特別な原因が無くてはならぬ。古人は之を察してしかも名くるの途を知らず、たゞ漫然として因緣と稱して居た。我々の新たなる學問は是非とも其因緣を精確にすべきである。魚の人間に化けて飯を食つた話は、又サンチーヴの聖母論(Les Vierges Mères kes Naissances Miraculeuses ; P. 116)にも一つ出て居ることを、近頃松本信廣君によつて注意せられた。ランドの安南傳說集(一八八六年)に、昔一人あり兒無し。或大川の落合に棲む鰻魚を捕りて食はんとす。そこに來合せたる僧あつて、切に助命を乞ふも肯ぜず。去るに臨んで佛法の式によつて調理せられた無鹽の蔬食を供した。後に愈〻此流れに毒揉みをして其大魚を捕殺し、腹を割いて見たところが、前に法師に供したる食物が其儘にあつたので、僧は卽ち鰻の假形[やぶちゃん注:「げぎやう(げぎょう)」と読んでおく。]なることを知つたと云ふ。しかも此男が鰻を食うて程無く、妻身ごもりて男兒を産み、それが彼の家の沒落の原因となつたことは、下總銚子の垣根長者と同じであつて、人は是を鰻の亡靈の報讎に出でたものと認めたと言つて居る。鰻の精分と生誕との關係、殊に此魚の形態が男子の或生理機關を聯想せしめることが、果して最初からの此話の本意であつたかどうか。此問題を外國の學者と共に論ぜんことは、到底私などの趣味では無い。爰には單に我々の搜索が、まだまだ進んでより古き民族に及び得ること、さうして必ずしも一つの大陸の間には限らず、或は猶遠く洋海の地平の外まで、分布して居ないとは極められぬことを說きたいのである。日本だけでさへもこゝにははや十に近い變化が算へ得られた。今後さらに頻々たる類例の發見に逢うても、猶最初の一定說を固守するまでに、西洋の學者は普通には頑陋ではない。それ故にその學說の早期の受賣は日本の爲に有害である。我々は其前に先づ十分に、自分の中の事實を知るべきである。

        (昭和五年一月、改造)

[やぶちゃん注:「サンチーヴ」民俗学者で、その系列の出版社も経営していたエーミール・ヌリー(Émile Nourry 一八七〇年~一九三五年のペン・ネーム、ピエール・サンティーヴ(Pierre Saintyves)。

「聖母論(Les Vierges Mères kes Naissances Miraculeuses ; P. 116)」一九〇八年刊行。「聖母の奇跡の誕生」。

「松本信廣」(明治三〇(一八九七)年~昭和五六(一九八一)年)は民俗学者・神話学者。沖縄・東南アジア研究の先覚者としても知られ、伊波普猷・柳田國男・上田万年・新村出・折口信夫・金田一京助らと共に「南島懇話会」を組織した。戦後は日本民族学協会理事長・日本歴史学協会委員長・東南アジア史学会会長・日本学術会議会員などを歴任した。参照したウィキの「松本信廣によれば、『日本人の東洋学者として最初の文学博士の国家学位を受けた人物である』とある。

「ランド」フランスの民俗学者・中国学者(インドシナを専門とした)アントニー・ランズ(Antony Landes 一八五〇年~一八九三年)。

「安南傳說集(一八八六年)」恐らくは原題は“ Contes et légendes annamites (「安南(現在のベトナム)のコント(昔の小話)と伝説」) である。

「昭和五年」一九三〇年。]

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 魚王行乞譚 六

 

       六

 

 江戸の二つの話では、簡單に麥飯と片付けられて居るが、是はもと必ずしも魚とその化けた人との合致を、立證する材料として借りられたものでは無かつた。團子や小豆飯等の變つた食物を調製し、集まつてそれを食ふ式日、卽ち古く節供と稱する改まつた日で無ければ、斯ういふ大切な事件は起ることが無いやうに、昔の人が考へて居た名殘でもあれば、同時に又其日の晴の膳に向ふ度每に、一年に一度は想ひ起す機會があつたことを意味するのでもあるが、其事を説かうとすると餘りに長くなる。たゞ一點だけ之に伴のうて述べたいことは、過去の記念物に對する我々の祖先の、敬虔なる態度である。彼等がウソを構へ出すに巧みであり、且つ又之を守持するに頑強であつたやうな誤解は、不幸にして主として是に基いて居るのであつた。古人は性靈の大いなる刺衝[やぶちゃん注:「ししよう」。突き刺すことから転じて、刺激すること。]に遭ふ每に、文士を傭うて之を金石に勒[やぶちゃん注:「ろく」。刻み彫ること。]せしむるが如き技術は知らなかつた。だから一家一郷の間に於ても、永く保存し得る場處又は地物[やぶちゃん注:「ぢ・ぶつ」と読みたい。土地や対象物の意である。]を指定して、日を期し相會して當時を追念し、更に感激を新たにしたのであつた。是が祭と名くる公けの行爲の、根源を爲すものと私などは信じて居る。少なくとも我々の靈地はそれぞれの傳説を持ち、又傳説のあるといふことが靈地の條件であつた。然るに人生は決して平和なる親子孫曾孫の引續きでなかつた。飢饉や動亂の間には記憶は屢〻絶え、獨り外形の最も貴とげなる遺蹟のみが、累々として空しく里閭[やぶちゃん注:「「りりよ」。村里。村落。]に滿ちたのであつた。新たなる傳説の來つて之に據らんとすることは自然である。しかも世上には職業として之を運ぶ者が、昔ほ今よりも遙かに多かつたのである。巫覡[やぶちゃん注:「ふげき」。神に仕えて祈禱や神降ろしをする者。「巫」は女性に(巫女(みこ))、「覡」は男性に使う。]遊行僧の妄談は必ずしもすべて信ぜられはしない。土地に住む人たちが周圍の事情、殊に内心の表示し得ない感覺によつて、受持し又信賴すべしとするもののみが、再び根を下し蔓をからみ、花咲き茂ることになつたのである。我々の語り物の沿革は、文字に現われた部分だけは、所謂國文學の先生も知つて居る。以前は此資料が概して單純であり、土地で養はれた知識經驗が、たゞ無意識に組合はされて出たゞけであつたが、後次第に其供給の源が複雜となつて、其大部分は是を昔通りの傳説として、乾いた海綿の水を吸ふように、受取ることが出來なくなつた。併し根本の需要はもと缺乏の補充に在つたが故に、永い間には比較的殘り易いものが殘つたのである。一旦京を通つて來た外國の文學が、假に一隅に於いて再び傳説となつて信ぜられて居ようとも、其を以て直ちに上古諸種族の親近を證明することが出來ぬのは勿論だが、さりとて唯偶然の誤謬とばかりも解することは許されぬ。恐らくは是も亦磁石と鐵との關係であつて、種は外から來ても牽く力は兼て内に潛んで居たのである。さうで無いか否かを檢する爲に、少なくとも話を日本人にわかり易く、又覺え易くした手順を究めて見る必要がある。所謂要點の比較だけによつて、無造作に説話の一致を説くことの、徒らに大きな混迷の渦卷を起すに過ぎなかつたことは、我々は既に例の羽衣式、又三輪式傳説などの研究と稱するものに由つて、經驗させられて居るのである。

[やぶちゃん注:「羽衣式、又三輪式傳説などの研究」羽衣伝説が視覚的外形の類似から白鳥伝説と結び付けられ、汎世界的な異類婚姻譚の一種である白鳥処女説話として安易な包括的拡大解釈が出ていること、三輪山伝説の活玉依姫に通う男が龍蛇の体を成す神であったことから、やはり広汎な異類婚姻譚の中に取り込まれ、比較神話学者の格好の餌食となっていったことを指すのであろう。次に出る「蠶神」「名馬と美姫」といった「おしらさま」伝承も同じく異類婚姻譚である。]

 

 中古以來の輸入説話にして、まだ最初の衣裳を脱ぎ盡して居ない爲に、この國へ來てからの變化の痕の、幾分か尋ね易いものも段々ある。東北地方に行はれて居る蠶神の由來、名馬と美姫とが婚姻して天に昇つたというのもそれかと思つて居るが、この大魚の飯を食つたといふ話などもそれと近い。之を土地に適用して居る昔からの約束と繋ぎ合せ、幽かに遺つた住民の感覺と、相反撥せぬものに引直して行くことは、隨分と面倒な仕事であつたらうと思ふが、幸ひに聽衆の多數が大まかであつたために、初期の歐羅巴の耶蘇教徒はそれに成功し、日本でも田舍巡りの布教僧たちは、古くは曼荼羅や三十番神の思想に據り、近くは又物々しい緣起の漢文などを以て、どうにか斯うにか目的を達していた。今の人の目から見るとをかしな事も多い。本地物(ほんぢもの)などゝ謂つたのは、途方もない外國風の奇談を述べたて、末に只一句此人後に何々明神となる、實は何如來の化身であつて、衆生に物の哀れ世の理[やぶちゃん注:「ことわり」。]を示したまふべく、假の姿を見せられたなどと謂つて居る。そんな事でも一應はまず濟んだのである。その代りには永くは榮えなかつた。やがて忘れられ又は只の昔話に化し、或はえせ文人の小説の趣向になつた。併し斯うして居るうちにも、少しづゝ沈澱して此島の土に混じ、分つべからざるに至つたものもあつた筈で、私が是れから尚色々の諸國の例を集めて見ようとして居るのも、目的は結局何が殘り、何が國風と調和せずして、消え去るべき運命を有つて[やぶちゃん注:「もつて」持って。]居たかを知りたいからである。

[やぶちゃん注:「三十番神」(さんじゅうばんしん:現代仮名遣)国土を一ヶ月三十日の間、交替して守護するとされる三十の神。神仏習合に基づいた法華経守護の三十神が著名。初め天台宗で後に日蓮宗で信仰された。見られたことない方にはイメージしにくいと思われるので、グーグル画像検索「三十番神」をリンクさせておく。]

 

 例へば三河の寶飯郡長澤村の泉龍院の鰻塚、昔大鰻が僧に化けて來て、田村將軍に射殺された。其屍を埋めたといふ言ひ傳へになつて居る。腹から飯が出て來たといふ話はもう落ちて居るが、其後此沼の水を汲む者が、皆疫病になつたとも稱して、鰻を殺したのが悔ゆべき所業であつたことだけは察せられる。毒蛇退治の他の多くの物語と同じく、それが追々と英雄及び靈佛の功績の方に移つて來たのである。實際飯を魚腹に探るの一條などは、後の耽奇派には何でも無いことだが、昔の常の人の想像力には、稍荷が勝ち過ぎて居たのである。次には下總銚子の白紙明神の由來譚にある鮭と蕎麥、是は同僚鈴木文四郎君などが詳しく知つて居るが、單に一個の長者沒落物語の、前景を作る爲に利用せられて居た。今の松岸の煙花卷に近く、昔は垣根の長者という宏大なる富豪が住んで居た。利根の流れに簗(やな)を打つて、鮭を漁して此樣な長老にはなつたのである。或日一人の旅僧來たつて、殺生の業報を説いて諫めたけれども、それを聽かずして蕎麥を食はせて歸した。是も後に大いなる鮭の魚を獲て、腹を開けば卽ち蕎麥が出たといふのである。長者最愛の一人娘延命姫、其祟を受けて生れながらにして白髮であつた。折ふし此土地に流寓していた安倍晴明を戀ひ慕ふとあつて、日高川と同系の話が傳はつて居る。晴明は姫を欺いて、帶掛の松に帶を解きかけ、何とかの濱に下駄を脱ぎ置き、身を投げた如く裝うて遠く遁れた。姫はその跡を逐ひ歎き悲しんで海に入り、其亡骸が漂うてこの磯邊に上つたといふのである。是だけの細かな又美しい哀話が、曾て一たび遊女の扇拍子に乘つたもので無いといふことは、恐らくは一人も之を斷言し得る者はあるまい。しかも其結構には右の如く、彼等の與かり知らざる由緒があつたのである。だから私どもは記錄を超脱して居る民間口承の文藝にも、やはり後遂に尋ね究め得べき興味深き沿革あることを信じて居るのである。もつと率直にいふならば、今日殘つて居るだけの僅かなテキストに基いて、一國の文學史を説こうとする人の迂拙[やぶちゃん注:「うせつ」。うかつで世渡りの下手なこと。愚かで拙(つたな)いこと。]を嘲けるのである。

[やぶちゃん注:「寶飯郡長澤村の泉龍院の鰻塚」「寶飯」は「ほい」ろ読む。「長澤村」は現在の愛知県豊川市長沢町であるが、「泉龍院」という寺は現認出来ない。「鰻塚」は成田三河守氏のサイト「城郭写真記録」の中の「三河 鰻塚城」に、鰻塚城跡として愛知県豊川市長沢町西千束を指示おられ、その解説で鰻塚城は標高百十メートルの『丘陵斜面に築かれ、長沢本城の西の砦として造ったものと思われる。坂上田村麻呂が巨大鰻を退治し、里人が祟りを恐れて鰻塚を築いたという伝説があることから、鰻塚城と称されたと云われる。現在は宅地、道路に変わり、遺構は無い』とあることから、この附近(グーグル・マップ・データ)であることが判明した。また、この附近のを流れる音羽川下って見たところ、約四・七キロメートル下流の豊川市赤坂町東裏に, 真言宗の「龍泉院」という寺を見出せた(グーグル・マップ・データ))。しかし、同寺の創建年代や「鰻塚」がここにあるかどうかはネット上では捜し得なかった。郷土史研究家の御教授を乞うものである。

「下總銚子の白紙明神」現在の千葉県銚子市川口町にある川口(かわぐち)神社のこと。ウィキの「川口神社によれば、寛和二(九八六)年の『創建と伝えられる。この神社には陰陽師安倍晴明と地元の長者の娘との言い伝えが残り、長者の娘が晴明と結ばれないことを苦に入水し、その歯と櫛を祀ったことから歯櫛明神(はくしみょうじん)とよばれ、白紙明神とも書かれるようになった。明治に入り』、『現在の川口神社と改められた』とある。同外部リンクにある、コミュニティ・サイト「きらっせネット歴史館」の「川口神社」には、『銚子市川口町の松に囲まれた丘の上にあるこの神社は銚子大漁節にも出てくる漁師の守り神』で、『速秋津姫(はやあきつひめ)を祀ってい』るとし、『この白紙という名前は悲しい物語に由来するようで』、『銚子近在の娘に延命姫という娘がいた。非常に醜いむすめだったそうな。陰陽師の安部清明と夫婦になったが』、『清明は姫を嫌って』、『長者の家を逃げ出し、飯岡上永井村の向後主水宅の大仏壇の中に隠れた。追いかけてきた姫は主水に「清明はいない」と断られた。屏風ヶ浦西端近い通連洞(銚子市、飯岡町)に行ってみると』、『清明の脱ぎ捨てた衣類などがあったため、姫も間違えて』、『身を投げて死んだ。川口に流れ着いた姫の歯や櫛をこの岡に埋め祠を建てた。だから白紙(歯櫛)神社なのだという。川口神社←白神明神←白紙神社←歯櫛明神と』四『度の名前換えがあったよう』であるとする(この名前の変遷を見ると、当初は「齒櫛」で「はぐし」で、それが「はくし」となり、白紙を「しらがみ」と読み換えて「白神」となったように読めるが、柳田國男の謂いからすれば、川漁殺生(主体たる御霊は鮭)の祟りのために「白髮」(しらがみ)となって生まれた姫所縁ということなら、「齒櫛」とは異なる命名ルーツ説があることになる。面白い)。『現在で』も『漁業者の信仰が厚』いとされ、『安部清明の伝説に関して言えば、この御話しの信憑性は非常に高い。これは晴明が銚子にやってきた際に宿泊したとされる家が分かっている』からであるともある。それは『初めは下総国小南村(香取郡東庄町小南)の笹本太夫三、次に笹本の紹介で海上郡三宅郷垣根村(銚子市垣根)の長者・根本右兵衛義貞に匿われていたと言う。上記の延命姫はその子供である。清明ゆかりの場所はほかに』も『銚子市陣屋町』に『清明稲荷大明神、清明堂(銚子市親田町)があ』るとある。そういやぁ、鎌倉にも安倍清明の屋敷跡と称する怪しいものも実はある(現在の北鎌倉駅から建長寺に向かって横須賀線の踏切を渡った右手)。

「鈴木文四郎」(明治二三(一八九〇)年~昭和二六(一九五一)年)はジャーナリスト。ペン・ネームは文史朗。千葉県銚子生まれ。東京外国語学校(現在の東京外国語大学)英語科卒業。大正六(一九一七)年、東京朝日新聞に入社し、外報部に勤務、翌年、シベリア出兵従軍を皮切りに、パリ講和会議やロンドン・ワシントン両軍縮会議に特派員として活躍、国際記者として名を馳せた。社会部長・整理部長などを歴任した後、昭和一五(一九四〇)年には取締役となって社の経営に参画した。第二次世界大戦後、重役一斉退陣により、昭和二〇(一九四五)年十一月に退社。翌年には『リーダーズ・ダイジェスト』日本語版編集長に就任している。昭和二四(一九四九)年NHK理事。翌年六月の参議院議員に当選し、「緑風会」で講和問題に取り組もうとした矢先、癌で倒れた。名文家として世に知られ、「米欧変転記」「文史朗随筆」など著書も多い(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。]

 

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 魚王行乞譚 五

 

     五

 

 但し國民としてそれをどの程度までに意識して居たかは、又別箇の問題に屬する。自分等だけでは全く新しい出來事かと思ひ、或は極端な場合にはウソをつく積りで話された話でも、それが偶然に國民の兼て信ぜんと欲した條件に合致すれば、意外な力を以て保存せられ、傳承せられる例はいつの世にもある。誰がしたとも知れぬ傳説の部分的改訂、風土と歷史に調和させようとする新らしい衣裳附け、それから又アタビズム[やぶちゃん注:atavism。先祖返り。生物学上の進化や遺伝の用語から、比喩的に一度は廃(すた)れた思想や現象(ここでは広義の信仰形態や風俗習慣)が再び取り上げられることを意味する。]に類した各地方の分布狀態なども、何れもこの隱れたる我々の趣味傾向、もしくは鑑別標準とも名くべきものを認めなければ、之を解説することが恐らくは出來なかつたのである。殊に物語を昔々の其昔の、物蔭多き曉闇の中に留め置かずして、強ひて暴露の危險ある我々の眼前まで、持つて出て樂しまうとした態度に至つては、是を國柄とまでは言ふことが出來ずとも、少なくとも近世日本の一つの時代風であつた。支那はどうあるか知らぬが、他の多くの文明民族には、さういふ例は有りさうにも思はれない。前に引用した木曾と惠那との岩魚なども、現にたゞ一人を仲に置いて、共に山で働いて居た者の集まり見た話になつて居るが、次に述べようと思ふ山口縣豐浦郡瀧部村の一例の如きも亦、つい近頃の事件のやうに傳へられて居るのである。瀧部では一夏非常な大旱魃があつて、村を流れる栗野川の骨(こつ)ケ淵(ふち)の水を、いよいよしやくつて田に入れるということに評議一決し、村民總掛りになつて汲み上げて居ると、やはり中食の時に一人の見知らぬ坊主が遣つて來て、どうか賴むから淵の水をかへ出すのを止めてくれと言つた。必死の場合だから一同はうんと言はなかつたが、其中の一人が辨當の小豆飯を分けて與へると、僧は默つてそれを食べてしまふと、突如として骨ケ淵の水中に飛び込んで見えなくなつた。不思議に思いつつも尚水を汲んで行くと、追々に澤山の川魚が捕れたが、坊主の姿はどうしても見付からず、後に其魚類を片端から料理して行くうちに、いちばん大きな怖ろしい鰻があつて、その腹を割いてみると先刻の小豆飯が現れた。此鰻もまた淵の主が化けて出て來たのであつたことが、是で明らかになつたと謂つて居る。

[やぶちゃん注:以上の収録元は不明。民俗学関連雑誌の民話・噂話の採録集に載るものか。

「山口縣豐浦郡瀧部村」「瀧部村」は滝部村(たきべそん)。現在の下関市豊北町滝部。ここ(グーグル・マップ・データ)。この滝部地区を通って、東北方へ流れる川があり、これが東で「栗野川」(水源は下関市豊田町金道の勇山から南へ伸びる丘陵部)に合流し、日本海に注いでいる。この場合、この支流が旱魃で干上がってしまい、東隣りの村(現在の下関市豊北町)の許可を得て、実測で村から三キロメートルほど離れた粟野川の水を汲み取ったものであろう。「骨(こつ)ケ淵(ふち)」は不詳であるが、私の以上の推理が正しいとすれば、現在の下関市豊北町のこの附近(グーグル・マップ・データ航空写真)ではなかろうか?]

 

 鰻は他の民族にも氣味惡がつて之を食はぬ習はしが多い。最近耳にした例は臺灣紅頭嶼の島民であるが、單にその形のぬらぬらと長い爲ばかりで無く、別に其習性に對する精微なる觀察が、何か容易ならぬ俗信を發生せしめて居るらしく感ぜられるが、まだ確實で無い限りは、それを説いて蒲燒屋の怨みを買ふにも當らない。日本では盛んに食つて居るにも拘はらず、群の中のすぐれたる只一つだけは、靈物として屢〻其奇瑞を説かれて居た。神が鰻に騎して年に一度來往したまふ話なども、豐後の由布院(ふゆゐん)には傳はつて居る。或は年功を經た大鰻のみは、耳を生じて居るといふこともよく聞くが、それは生物學上に説明し得ることであらうかどうか。久しく日本に駐まつて學問をしたニコライ・ネフスキイ君は、曾て南海の諸島を歷遊して後に、斯んな意見を發表した。日く支那では虹を蛇[やぶちゃん注:正確には「龍蛇」である。]の屬に入れて居るが、日本各地の虹の語音は最も鰻に近い。例へば羽後の一部では虹をノギ、琉球の諸島も中央部のヌーヂ、ノージから、端々に向へばノーギ、ノーキ又はモーギ等になつて居て、鰻を意味するウナジ・ウナギと似て居る。蛇も本土の古語にはノロシ、ナフサがあるから、二者はもと差別しなかつたのかも知らぬが、兎に角に水底の靈怪のヌシという語を以て呼ばるゝものが、蛇とよく似た又別種の大動物と想像せられていたのは、少なくとも基づく所は鰻であつたらうと云ふのである。アナゴとウナギの本來は一語であつたことだけは成程もう誰にも承認せられる。宮城縣の上部には鱧(ハモ)をアナゴ、穴子をハモと謂ふ海岸があることは私も知つて居る。何にもせよNGとの子音を用いて、表示しなければならぬ水中の靈物があつたことは、我々がまだ池沼の岸を耕さず、山川の淵の上に家居せざる前から、既に此世には知られて居たので、それが坊主になつて近頃又出て來たのである。

[やぶちゃん注:「臺灣紅頭嶼」「たいわんこうとうしよ(しょ)」は台東県蘭嶼郷に属する、台湾本島の南東沖合にある周囲約四十キロメートルの孤島蘭嶼(らんしょ)の旧称。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「其習性に對する精微なる觀察が、何か容易ならぬ俗信を發生せしめて居るらしく感ぜられるが、まだ確實で無い限りは、それを説いて蒲燒屋の怨みを買ふにも當らない」私が思うに、ここで柳田國男が言葉を濁してその理由を語らないのは、それを語ると、「蒲燒屋の怨みを買ふ」ほどに日本人が皆、鰻を食わなくなるような、おぞましい話であることを意味していると考えてよい。さらに、後で述べている通り、古く本邦でもそうであったならば、周辺の中国・台湾でも同じであったと考えられる、ウナギ(条鰭綱ウナギ目ウナギ亜目ウナギ科ウナギ属 Anguilla に属する種。本邦で元来食されているのはニホンウナギ Anguilla japonica。日本・朝鮮半島からベトナムまで東アジアに広く分布している。なお、近年、中国発で安価なことで本邦でも広がっている(時にニホンウナギとして偽って)のは、中国が日本の市場をターゲットとしてヨーロッパから輸入して養殖している Anguilla Anguilla で別種であり、味は数段劣る)と同じウナギ目Anguilliformes のアナゴ(ウナギ目アナゴ亜目アナゴ科 Congridae のアナゴ類。一般にはアナゴ科クロアナゴ亜科アナゴ属マアナゴ Conger myriaster を指すことが殆んど)やハモ(ウナギ目ハモ科ハモ属ハモ Muraenesox cinereus)の混同が柳田國男も言うように、昔から、そして現在でも日本各地で事実、行われている(例えば、私が羅臼へ行った時に料理屋で食った美味い「ハモ丼」であったが、これは現地では実は「黒アナゴ」と称する大型のアナゴの蒲焼であった。私の「忘れ得ぬ人々22 ウトロの純」を読まれたい)ことを考えると、私は高い確率で水死体を彼ら(アナゴは実際に食うことは知られている)が食うことを指していると考える。

「神が鰻に騎して年に一度來往したまふ話なども、豐後の由布院(ふゆゐん)には傳はつて居る」大分県由布市には宇奈岐日女(うなぐひめ/うなきひめ/うなぎひめ)神社があるが、ウィキの「宇奈岐日女神社」によれば、「延喜式」『神名帳に記される社名は「宇奈岐日女神社」であり、かつ六国史における神階奉叙は「宇奈岐比咩神(宇奈支比咩神)」に対して行なわれていることから、当初の祭神は「ウナグヒメ(ウナギヒメ、ウナキヒメ)」であったと考えられている』(現在は別な六柱を祀る)。『「ウナグヒメ」の名について、「うなぐ」とは勾玉などの首飾りを意味するとし、こういった呪具を身につけた女首長の巫女が神に転じたと推測されている』『一方、「ウナギ(鰻)」に由来するとする説もある』とし、『由布院盆地が古くは湖であったという伝承に基づき、ウナギ(鰻)を精霊として祀ったことに始まって、のちに由布岳の神と習合したという推測もある』とあるので、その古伝承を指しているように私には感じられる。

「年功を經た大鰻のみは、耳を生じて居るといふこともよく聞くが、それは生物學上に説明し得ることであらうかどうか」鰻料理の名所と知られる静岡県三島の三島大社の池には耳のある鰻が神の使いとして住んでいたという伝承があり、東京都練馬区にも同じような話が残る。江戸後期の博物学者高木春山(?~嘉永五(一八五二)年)の名著「本草図説」に載る以下の図がよく知られている(画像は原版不詳のQ&Aサイトに張られたものを使用した。キャプションは『一種』『耳あるもの』)。荒俣宏監修の「本草図説 水産」(一九八八年リブロポート刊)の解説には『阿波の国の母川』(ははがわ:徳島県海部郡海陽町を流れる河川。一部流域では、最大全長二メートル、体重二十キログラムにも達する天然記念物オオウナギ(ウナギ属オオウナギ Anguilla marmorata)がその棲息北限として保護されている)『には大きなウナギが住み、多くは耳が生えていたという』とある。生態学上はオオウナギ Anguilla marmorata や他のウナギ類でも、このような耳状の突出物は観察されない。一部の記載では体外寄生虫の誤認或いは体内寄生虫による異常な腫物とも、また、オオサンショウウオ(両生綱有尾目サンショウウオ亜目オオサンショウウオ科オオサンショウウオ属オオサンショウウオ Andrias japonicus)の誤認とする記載もあった

 

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「ニコライ・ネフスキイ」ロシア・ソ連の東洋言語学者・東洋学者・民俗学者であったニコライ・アレクサンドロヴィッチ・ネフスキー(Николай Александрович Невский/ラテン文字転写:Nikolai Aleksandrovich Nevsky 一八九二年~一九三七年)。ウィキの「ニコライ・ネフスキー」によれば、ロシアの『ヤロスラヴリ出身』で一九一四年、『ペテルブルク大学東洋学部中国・日本学科卒業後、日本に留学するが、ロシア革命によって帰国を断念して小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)・大阪外国語学校(現・大阪大学外国語学部)で教鞭を執る。その間、柳田國男・折口信夫・中山太郎・石浜純太郎らと親交を結び、日本民俗学・アイヌ語・宮古島方言・ツォウ語・西夏語などの研究を行った』大正一四(一九二五)年に北海道出身の萬谷イソと結婚』した。本論文初出(『改造』昭和五(一九三〇)年発表)の前年の昭和四年に、『ソビエト連邦共和国となった祖国に帰国し、レニングラード大学(旧ペテルブルク大学)の教授とな』ったが、一九三七年十月四日、『日本のためにスパイ活動を行ったとして妻とともに逮捕され、翌月』、『レニングラードにおいて夫妻は「国家叛逆罪」により粛清(銃殺刑)された』。『その後のスターリン批判によって』、一九五七年十一月、『夫妻の名誉回復がなされ』、一九六二年には『生前の業績に対してレーニン賞が授与され』ている。]

 

 岩魚は鰻とは違つて必ずしも薄暗い淵の底にのみは居らず、時あつて淺瀨にも姿を現はすであらろうが、其代りには擧動の猛烈さ、殊に老魚の眼の光の凄さを認められて居た。鳥や獸に比べると成長したものゝ形に、非常な大小の差のあることが、恐らく魚の親方の特に畏敬せられた理由かと思ふが、よくよくの場合でないとさういふ偉大なものゝ目に觸れることは無い爲に、是も常には深い淵の底に、一意の龍宮を構へて居るものと考へたのであらう。水の神の信仰の基調をなしたものは怖畏である。人は泉の惠澤を解する前、既に久しく其災害を體驗して居た。水の災の最初のものは奪掠[やぶちゃん注:「だつりやく」。掠奪に同じい。]であつて、就中物の命の失はれた場合に、其事件の場處近く姿を見せた動物を、あらゆる水の威力の當體[やぶちゃん注:「たうたい(とうたい)」仏教用語。ありのままの本性。本体。]と信じたのでは無からうか。兎に角に古く我々が畏れ又拜んだのは、水その物では無く水の中の何物かであり、それが又常に見る一類の動物の、想像し得る限りの大いなるもの、又は強力なるものであつたのである。岩魚とよく似た川魚で怪をなすものを、紀州などではコサメといつて居る。大蛇で知られた日高川の水域にも、コサメが僧になつた話が幾つもあつたが、生憎其參考書を人に借りられて引くことができぬ。紀の川支流の一たる野上川の落合に近く、また同類の話があつてこれは鯉であつた。前の半分は會津只見川の昔語に近くたゞ其期日が一方は盆であり、是は五月の節供であつた。紀州の殿樣が端午の日に大川狩をしようと企てたところ、前の晩の夜更けて、其奉行の宿へ、白衣の一老翁あつて訪ひ來ると言つて居る。私は山崎の淵の主であります。此度の御漁には所詮殿樣の網は免れ難い。願はくば一族の小魚を助けたまへと謂つた。何故に夜の内に遠く遁れて、此厄難を避けぬのかと問ふと、私が遁れると外の小魚が皆捕はれるからと答へたというのは、早くも近世道義律の潤色を見るのである。併し相手の奉行のみは依然として古風に、別れに臨んでボロソ餅といふ團子を食はしめて歸して居る。ボロソは此邊の五月節供の晴の食物で、小麥を粒のまゝに交へた特色ある團子であつた。翌日の川狩には果して一尾の小魚もかからなかつたが、最後に野上川の山崎の淵に於て、長さ六尺にも餘る大鯉を獲て、試みに體内を檢すれば昨夜のボロソ餅が出て來たといふ。是は城龍吉氏の報告によつて知つたのであるが、今でも淵の上の小倉といふ村に、鯉の森と稱する小さな社がある。當時この奇恠に感動した人々が、鯉を葬つて供養した遺跡といふさうで、卽ち是などは明白に一つの傳説となつて保存せられて居るのである。

[やぶちゃん注:「コサメ」ウィキの「コサメ小女郎」によれば、『小女郎(コサメこじょろう)は、紀州日高郡龍神村(現・和歌山県日高郡田辺市)に伝わる妖怪。龍神村小又川の二不思議といわれる怪異の一つで、南方熊楠の著書』「南方閑話」『に記述がある』。『龍神村にあるオエガウラ淵という淵に住む妖怪であり、何百年という歳月を経たコサメ(魚)が妖怪と化したもの。人間の美女に化け、山に入って来たり淵に近づいたりする人間を誘惑し、水中に誘い込んで殺して食らっていたという』。ある時、『小四郎という男に出会ったコサメ小女郎が、薪の灯りのもとで』七『年間飼い続けた鵜には敵わないと漏らしたため、小四郎がそのような鵜に淵を探らせたところ、目を抉られた大きなコサメの死体が浮かび上がった。その腹を割いたところ、中には木こりの鉈が』七『本あったため』、七『人の木こりがすでにコサメ小女郎に食べられ、すでに溶けてしまっていたことがわかったという』。江戸後期の本草学者で紀州藩藩医であった畔田伴存(源伴存 みなもとともあり 寛政四(一七九二)年~安政六(一八五九)年)の「水族志」には、『コサメとは紀州安宅(現・和歌山県西牟婁郡白浜町)でアメノウオ(ビワマス)』(脊椎動物亜門条鰭綱サケ目サケ科サケ亜科タイヘイヨウサケ属サクラマス(ヤマメ) 亜種ビワマス Oncorhynchus masou rhodurus であるが、本種は現在、琵琶湖にのみに棲息する固有種の和名であり、当時の紀州に本種がいた可能性はゼロであるから、この部分は問題がある)『を指す方言とあることから、熊楠はコサメ小女郎のコサメもアメノウオのことと推測しているが』、『近年の文献ではコサメ小女郎の正体をヤマメ』(タイヘイヨウサケ属サクラマス亜種ヤマメ(サクラマス)Oncorhynchus masou masou)『としているものもある』(この方が正しいと私は思う)『類話として和歌山県熊野川町(現・新宮市)で、淵に住む大きなアメノウオが人間に化け、村人たちに毒入りの酒や食べ物をすすめて人々を困らせていたが、ある者が長年飼いならされた鵜に淵を探らせて退治したという話がある』とある。以上の話は大体、大正一五(一九二六)年二月坂本書店刊の「南方閑話」の「巨樹の翁の話」(原論文は大正一二(一九二三)年二月発行の『土の鈴』十七輯に纏められたもので、初出時の当該箇所は『土の鈴』十三輯であり、そこでは「巨樹の叟」の題で初出している)の冒頭の「一」の部分に出るもの。「南方閑話」は電子化されていないようなので、その「一」パートだけ(後半は関係のない伝承だが、面白いので電子化しておく)を平凡社の選集を底本として、以下に示す。

   *

 紀州旦高郡上山路村大字丹生川の西面導氏より大正九年に聞いたは、同郡竜神村小又川の二不思議なることあり。その地に西のコウ、東のコウとて谷二つあり。西のコウに滝あり、その下にオエガウラ淵あり。むかしこの淵にコサメ小女郎という怪あり。何百年経しとも知れぬ大きな小サメあって美女に化け、ホタ(薪)山へ往く者、淵辺へ来るを見れば、オエゴウラ(一所に泳ぐべし)と勧め水中で殺して食う。ある時小四郎なる男に逢って、運の尽きにや、七年通(とお)スの鵜をマキの手ダイをもって入れたらわれも叶(かな)わぬと泄(もら)した。小四郎その通りして淵を探るに、魚大きなゆえ鵜の口で噉(くわ)ゆるあたわず、嘴もてその眼を抉る。翌日大きなコサメが死んで浮き上がる。その腹を剖くとキザミナタ七本あり。樵夫が腰に挿したまま呑まれ、その身溶けて鉈のみ残ったと知れた、と。

 畔田伴存の『水族志』に、紀州安宅(あたぎ)の方言アメノ魚をコサメと言う、と見ゆ。ここに言うところもアメノ魚であろう。七年通スの鵜とは七年通しの鵜で、すべてこの鳥陽暦の六月初より九月末まで使い、已後は飼い餌困難ゆえ放ち飛ばす。されど絶好の逸物は放たず飼い続く。しかし、七年も続けて飼う例はきわめて少なし。マキの手ダイはマキの手炬(てだいまつ)で、マキを炬に用ゆれば煙少なくはなはだ明るし。キザミナタは樵夫が樹をハツルに用ゆる鉈である。

 第二の不思議というは、東のコウ(谷)のセキ(谷奥で行き尽きるところ)に大ジャという地に、古え数千年の大欅(けやき)あり。性根のある木ゆえ切られぬと言うたが、ある時やむをえずこれを伐るに決し、一人の組親(くみおや)に命ずると八人して伐ることに定めた。カシキ(炊夫)と合して九人その辺に小屋がけして伐ると、樹まさに倒れんとする前に一同たちまち空腹で疲れ忍ぶべからず。切り果たさずに帰り、翌日往き見れば切疵もとのごとく合いあり。二日ほど続いてかくのごとし。夜往き見ると、坊主一人来たり、木の切屑を一々拾うて、これはここ、それはそこと継ぎ合わす。よって夜通し伐らんと謀れど事協(かな)わず。一人発議して屑片を焼き尽すに、坊主もその上は継ぎ合わすことならず、翌日往き見るに樹は倒れかかりてあり。ついに倒しおわり、その夜山小屋で大酒宴の末酔い臥す。

 夜中に炊夫寤(さ)めて見れば、坊主一人戸を開いて入り来たり、臥したる人々の蒲団を一々まくり、コイツは組親か、コイツは次の奴かと言うて手を突き出す。さてコイツはカシキ(炊夫)か、置いてやれと言うて失せ去る。翌朝、炊夫朝飯を調え呼べど応ぜず、一同死しおったので、かの怪憎が捻(ひね)り殺しただろうという。今に伝えてかの欅は山の大神様の立て木または遊び木であったろうという。(以上、西面氏直話)

   *

「大蛇で知られた日高川の水域にも、コサメが僧になつた話が幾つもあつたが、生憎其參考書を人に借りられて引くことができぬ」柳田國男にしては不親切で書名が記されていないので、当該書が何であるかも判らぬ。識者の御教授を乞う。

「野上川の落合」「野上」は「のかみ」と清音で読み、和歌山県北部の旧海草(かいそう)郡にあった旧町名でもある(野上町(のかみちょう)で、現在は紀美野(きみの)町の西部を占める地域)。この地域は紀ノ川の支流野上川(貴志(きし)川)上流域を占め、旧町名はこれに由る。生石ヶ峰(おいしがみね)北麓から貴志川北岸にわたる山間地であり、中世の頃は石清水八幡宮領であり、その別宮である野上八幡神社がある。「落合」は海草郡紀美野町のバス停として残る。(マピオン・データ)であろう。

「ボロソ餅」語源は不詳。紀州以外では、奈良県葛城市太田の海積(わだつみ)神社の記載に見られる程度(「葛城市」公式サイト内の海積神社のボロソを参照されたい。そこには『小麦餅を酢で練ったもの』とある)であるが、葛城のそこは怪猿人身御供伝承のあった地であり、この「ボロソ餅」は紀州で「五月節供の晴の食物」であったように、何らかの神聖なもの、神人共食の食物であると推察出来る。

「山崎の淵」不詳。先の「落合」周辺には見当たらない。

「城龍吉」不詳。

「淵の上の小倉」不詳。]

 

2018/03/22

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 魚王行乞譚 四

 

     四

 

 美濃惠那郡の川上付知(つけち)加子母(かしも)の三ケ村、又武儀郡板取川の谷などでも、岩魚(いはな)は坊主に化けて來るものだと謂つて居たさうである。さうして現に化けて來た實例が每度あつた。惠那の山村では山稼ぎの若者ども、あたりの谷川に魚多きを見て、今日は一つ晝休みに毒揉みをして、晩の肴の魚を捕つてやろうと、朝から其支度をして居た。其邊でも辛皮と稱して山椒の樹の皮を使ふが、是に石灰と木灰とを混じて煎じつめ、小さな團子に丸めて水底に投ずる。僅か二粒か三粒もあれば、淵に居る魚の限りは皆死ぬといふ。但し小便をしこむと其毒が一時に消えてしまふなどゝも謂つて居る。さて愈〻用意も整うて、一同が集まつて中食をして居ると、何處からとも無く一人の僧が遣つて來た。御前たちは毒揉みをするらしいが、是は無體な事だ。他のことで魚を捕るのはともあれ、毒もみだけはするもので無いと言つた。いかにも仰せの通りよくない事かも知れません、以來は止めましようと挨拶をするとかの坊主、毒揉みばかりは魚としては遁れやうもなく、まことに根絶やしとなる罪の深い所業ぢや。もうふつゝりと止めたがよいと、尚念を入れて教訓をするので、連中も少しは薄氣味惡くなり、もう愼みましようと言ひながら食事をして居たが、其僧は直ぐにも立去らず、側にたゝずんで居るので、折から人々團子を食つて居たのを、これ參らぬかと進めると旨さうに食べた。それから飯も出し汁も澤山にあるので、汁掛飯にして與へると少し食べにくい樣子であつたが、殘らず食べてしまつて其うちに出て行つた。跡で一同顏を見合せ、あれはどういう人であらう。此山奧は出家の來べき處で無い。山の神の御諫めか、又は弘法大師では無からうか。どうだ、もう毒操みは止めようでは無いかと言ふ者もあつた。併し氣の強い人々は承知せず、山の神や天狗が怖ろしくば、始から山稼ぎなどはせぬがよいのだ。心の臆した者はどうともせよ。おれたちばかりで遣つてのけると、屈強の二三名が先に立つて、たうとう其日も毒揉みをした。果して獲物の多かつた中に、岩魚の大いさ六尺餘もあるのがまじつて居た。坊主の意見を聽いて居たら、此樣な魚ほ得られまいなどゝ、悦んで村へ持還つて多くの見物の前で、其大魚の料理に取かゝると、こは如何に晝間旅僧に與へた團子を始め、飯なども其儘岩魚の腹の中から現れた。是には最前の元氣な男どもゝ、流石に氣おくれがして其魚は食はずにしまつたさうである。

 尾張の旅行家の三好想山は、久しく惠那の山村に在勤していた友人の、中川某から此話を聞いた。さうして兼々岩魚は僧に化けて來るといふ言ひ傳へのあるのも、偶然ならざるを知つたと言つて居る。それから他國をあるいて居る際には、常に注意して同じ例の、有り無しを尋ねて見たとも記して居る。ところが文政三年の夏の頃に、信州木曾の奈良井藪原のあたりで、人足の中に岩魚の坊主になつて來た咄を、知つて居る者を二人見つけたさうである。是も同じ御嶽山(おんたけさん)の麓ではあるが、美濃とはちやうど裏表になつた此近くの山川で、やはり毒流しをして大岩魚を捕つたことがあつた。一尾は五尺以上、他の一尾は今少し小さくて五尺ほどあつたが、腹の中から團子が出て來たそうである。それが其日山中に於て、見知らぬ坊主に與へた覺えのある團子なので、大いなる不思議に打たれたといふことであつた。皆々甚だ恐れ候との咄は慥に承候共、我々は少し處ちがひ候故、其魚は得見申候と謂つたさうである。

[やぶちゃん注:以上も既に私は原典を電子化注している「想山著聞奇集 卷の參」「イハナ坊主に化たる事 幷、鰻同斷の事」を参照されたい。]

 

 勿論是は魚の腹に團子の殘つて居るのを、見たとか見なかつたとかの問題では無いのである。我々に取つては三好想山を始とし、斯ういふ話を聽いてさも有りなんと、信じ得た者がどれ位、又どの時代まであつたかゞ興味ある問題となるのである。今日の生物學を出發點とすれば、人は唯訛言[やぶちゃん注:「くわげん(かげん)」。誤って伝えられた評判。]造説が世上を走る速力、若くは之を移植繁茂せしむべき要件を問うて止むかも知れぬが、我々の自然知識には當初今一つ、別に濃厚緻密にして系統立ち且つ頗る誤つて居たものがあつて、過去の文化は之に導かれて、終に今見る如き形態にまで成長して居たのであつた。それが斯ういふ稍奇なる説話の殘片に由つて、少しづゝ元の力の働きを理解させてくれるとすれば、たゞ笑つてばかりも聽いて居るわけには行かない。殊に巨大なる鰻又は岩魚が、時々は人に化けて來るといふ信仰が前からあつて、それが腹中に小豆飯團子を見出したという珍聞を、他のいろいろの不思議話よりもより多く信じ易いものとしたといふことは、日本人に取つては好箇[やぶちゃん注:「かうこ(こうこ)」。近年は「好個」と書くことが多い。丁度よいこと。適当なこと。]の記念である。異魚の奇瑞を實驗したやうに考へる老は、必ず始め洋海のほとりに住み、または大湖の岸に往來していた種族でなければならぬが、それが山深く分け入つて細谷川の水源に近く、所謂壺中の天地に安居して後までも、尚六尺の岩魚や一丈有半の鰻を、夢幻の中に記憶して居たということは、意味の深い現象といつてよいのである。佛教が公式に輸入せられ、その几上の研究が是ほど迄進んで居ても、尚日本の島には此島らしい佛教のみが發達した。あらゆる經典のどの個條でも、説明することの出來なかつた地藏や閻魔や馬頭觀音、さては弘法大師の村巡りといふ類の特殊なる言ひ傳へが、實は多數民衆の信仰の根を固めて居た。だから私などは世の所謂傳播論者のやうに、單なる二種族の接觸に因つて、直ちに一方の持つものを他の一方に持運び得たと、解することを躊躇するのである。此點に關しては、説話と傳説との分界を、明かにすることが殊に必要である。説話は文藝だから面白ければ學びもし眞似もしよう。傳説に至つては兎に角に信仰である。萬人が悉く欺かれ又は強ひられて、古きを棄てゝ新しきに移つたとは思へぬ。外國の教法が此土に根づく爲に、多くの養分日光を爰で攝取した如く、傳説も亦之を受容れて支持する力が、最初から内に在つたが故に、是だけの發展を遂げることが可能であつたかも知れぬのである。

 

2018/03/21

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 魚王行乞譚 三

 

      三

 

 江戸で此話をし始めたよりずつと以前、寛保二年の序文ある老媼茶話といふ書に、昔蒲生(がまふ)飛驒守秀行會津を領する頃、是とよく似て今少しく公けなる事實があつたといふことを話して居る。時は慶長十六年辛亥の七月、殿樣只見川の毒流しを試みたまはんとて、領内の百姓に命じて、柿澁薤[やぶちゃん注:「にら」。]山椒の皮を舂[やぶちゃん注:「つ」。]きはたいて家々より差出させた。其折節に藤といふ山里へ、旅の僧夕暮に來り宿かり、主を喚んで此度の毒流しの事を語り出し、有情非情に及ぶまで、命を惜しまざる者は無い。承はれば當大守、明日この川に毒流しをなされる由。是何の益ぞや。果して業報を得たまふべし。何とぞ貴殿其筋へ申し上げて止めたまへかし。これ莫大の善根なるべし。魚鼈の死骨を見たまふとて、太守の御慰みにもなるまいに、誠に入らぬことをなされると深く歎き語つた。主人も旅僧の志に感じ、御僧の善根至極ことわりながら、もはや毒流しも明日の事である。其上に我々しきの賤しい者が申上げたとて御取上げもありますまい。此事は先だつて御家老たちも諫言せられたれども、御承引が無かつたと聞いて居りますと言つた。それから私方は御覽の通りの貧乏で、何も差上げるべき物とても有りませぬ、侘びしくとも是を御上り下さいと言つて、柏の葉に粟の飯を盛つて其旅僧にもてなしたが、夜明けて僧は深く愁ひたる風情にて立去り、村では愈〻用意の毒類を家々より運んで來て、それを川上の方から流し込む。さうすると無數の魚鼈、死にもやらずふらふらとして浮び出る中に、長さ一丈四五尺の大鰻が一匹出て取られる。其腹が餘りに太いので恠しんで割いて見ると、中には粟の飯がある。昨夜の亭主進み出でゝ仔細を語り、さては坊主に化けたのは此大鰻であつたかということに歸著したのである。

[やぶちゃん注:三坂春編(みさかはるよし 元禄一七・宝永元(一七〇四)年?~明和二(一七六五)年)が記録した会津地方を中心とする奇譚(実録物も含む)を蒐集したとされる寛保二(一七四二)年の序(そこでの署名は「松風庵寒流」)を持つ「老媼茶話(らうあうさわ(ろうおうさわ))」も実は私は既にブログ・カテゴリ「怪奇談集」で全篇の電子化注を終えている。ここと次の段に示されたものは「老媼茶話卷之弐 只見川毒流」である。そちらの本文及び私の詳細注を参照されたい。]

 さうして此話には更に若干の後日談があつた。同じ秋八月二十一日、大地震山山崩れがあつて會津川の下流を塞ぎ、洪水は忽ち四郡の田園を浸さうとしたのを、蒲生家の長臣町野岡野等、多くの役夫を集めて辛うじて是を切り開いたが、山崎の湖水は此時に出來、柳津虛空藏の舞臺も此地震に崩れて落ち、其他塔寺の觀音堂も新宮の拜殿も皆倒れ、それから次の年の五月には太守秀行は早死をしてしまつた。是併しながら河伯龍神の祟なるべしと、諸人をのゝき怖れたと記してあるのである。此大事件があつてから、話が書物になる迄に百三十年ほど經つて居る。けれども柳津の御堂は人もよく知る如く、數多の遊魚を放生した淸き淵に臨んで居る。この寺に參詣して舞臺の上から、只見川の流れを見下して居た人々には、この昔話は思ひ出す場合が多かつた筈である。さうして又それが物哀れに成長して行く機會も、決して乏しくはなかつたのである。藤といふ山里も爰からは遠くない。話は恐らくはこの虛空藏菩薩の信仰圈内に於て發生したものなのである。

[やぶちゃん注:「藤」私は先の「老媼茶話卷之弐 只見川毒流」で、福島県河沼郡柳津町藤ではないかと推定比定した。(グーグル・マップ・データ)。福満虚空藏菩薩圓藏寺の北直近で柳田國男の謂いがすこぶる腑に落ちる。]

 東北は一帶に神佛の使令として、氏子が生物を尊信して居る例が多い。八幡の鳩とか辨天の蛇とかいうのは、他の地方でも屢〻言ふことであるが、奧州には其以外にも、色々の魚の忌がある。虛空藏を社に祀つて居る二三の村に就いて聞いて見ると、信者が一生の間決して食はぬ魚、若し捕へたら必ず境内の他に放す魚は、何れも鰻であつたのは偶然で無い樣である。江戸で麥飯を振舞はれたといふ大鰻などは、二つとも何でも無い男に化けて來て居るのだが、或は是が僧であつたといふ方が、形は一つ古いのではあるまいか。最近佐々木喜善君が採集した岩手縣の一例は、聽耳草紙といふ題で昨年九月の三田評論に載つて居るが、是も亦旅僧になつて居る。盛岡の町から近い瀧澤といふ村で、是も七月盆の頃に、若い者が集まつて臼で辛皮[やぶちゃん注:原著では「カラカ」。「からかは(からかわ)」。山椒の若い小枝の皮。香辛料や薬用にするが、ここは毒揉(どくも)み用。]を舂いて居る處へ、一人の汚ない旅僧が來てそれを何にするかと訊いた。細谷地の沼さ持つて行つて打つてみると言ふと、悲しさうな顏をして、さうか、其粉で揉まれたら大きな魚も小さいのも、あれなかれみな死ぬべ。小魚などは膳の物にもなるまいし、思ひ止まりもせといつた。若者等は口を揃へて、なに此乞食坊主が小言をぬかせや。けふは盆の十三日だ。赤飯をけるからそれでも食らつて早く行けと言ふと、旅僧は何も言はずに、其小豆飯を食つて立去つた。それから沼へ辛皮を入れて揉むと、やがて多くの魚が浮いて來て、その中の大きな鰻の、體はごまぼろになつて居るのが出た。それを捕つてづぶ切りに切つて煮ようとすると、腹の中から赤飯が出たので、先刻の旅僧は池の主であつたことを知つた。といふばかりで後の祟りの話の無いのは、多分跡を弔うたことを意味するのであらう。是なども結末の方から振り返つてみると、僧寶を敬ふべしといふ教訓が、若者等の反語の中に含まれて居るやうな氣がする。東北の説話の主要なる運搬者は、ボサマと稱する遊行の盲法師であつたが、彼等の遺した昔話には、ボサマを輕蔑し又は虐待して、損をしたといふ類のものが多かつた。彼等は笑つてもそんな話をしやべり、又眞面目にも色々の因緣話をしたかと思はれる。それから類推して鰻の旅僧の話も、やはり亦さういふきたない旅僧が、折々此あたりをあるいて居たことを、暗示するものでないかと私は思つて居る。

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。

以上の佐々木喜善氏の「聽耳草紙」(ききみにざうし(ききみみぞうし))の話も、私は既に柴田宵曲 續妖異博物館 「鰻」 附 小泉八雲A Matter
of Custom
原文及び田部隆次訳
で電子化している。宵曲の「ナマズ」はまさに本「魚王行乞譚」をベースにして書かれた一篇なので、是非、読まれたい。]

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 魚王行乞譚 二

 

     二

 

 卽ち二つの話の少なくとも一方だけは、誰かゞ所謂換骨奪胎したことが、もう聽く人々にも認められて居たのである。江戸には此頃風説の流布といふことを、殆ど商賣にして居たかと思ふやうな人が何人もいた。たとへば兎園小説其他の隨筆に、盛んに書いて居る常陸國藤代(ふじしろ)村の少女、八歳にして男の兒を生んだという話もウソであつた。其地の領主が特に家臣をやつて確めた所が、さういふ名前の家すらもなかつたと、鈴木桃野の「反古の裏書」には書いてある。同じ書物には、ある夜二十騎町の通りを、鳶職體の暑が二人提灯を下げて、女の生首の話をしながら、通つて行くのに逢つたといふ記事がある。今市ケ谷の燒餅坂の上で、首を前垂に包んで棄てに來た者がある。番人に咎められて何れへか持ち去つたが、門先に棄首があつては迷惑なので、はや方々の屋敷でも見張りの者を出して居ると言つた。辻番所の者も之を聽いて、それは油斷がならぬと夜明しをして騷いだが、翌朝尋ねてみると丸ウソであつた。さうして小石川巢鴨本郷から、淺草千住王子在までも、一晩のうちに其噂が傳はつて居たといふことである。板谷桂意といふ御繪師などは、どうかして一度此ウソを流布させてみたいと思つて、永い間心がけて居たさうである。彼が或人から梅の鉢植を貰ひ、それを二三年も過ぎて後に栽ゑ換えようとすると、其根の下から五寸ばかりの眞黑な土のかたまりの如きものが現れた。其形が魚に似て居るので、よく見て居ると少しづゝ動き、眼口髭なども段々にわかり、水へ入れてみると全くの鯉であつた。之を櫻田あたりの濠内に放したと言つて、御手のものゝ見取圖が、方々に寫し傳へられたさうな。是などは大よそ成功の部であつたといふが、しかも其思ひ付きたるや、少しばかり有りふれて居たのである。盆栽の土の底に珍とすべき一物あるを知つて、わざと植木が氣に入つた樣な顏をして値(ね)をつける。さうして明日また來ると言つて還つて行く。持主はなんにも知らないから、御化粧をさせた積りで別の立派な鉢へ栽え換へておく。あの鉢の土はどうした。もう何處へかぶちまけてしまつた。實は欲しかつたのは此木の根に在つたこれこれの品物なのである。あつたら稀世の珍寶を種無しにしたと、足摺りをして殘念がる。これがわが邦では長崎の魚石の話として弘く行はれ、又最近には胡商求寶譚の名の下に、石田幹之助氏などが徹底的に研究しておられる、途法もなく古い昔話の系統に屬するものであつた。江戸の落語の天才が精々苦心をして、是に新たなる衣裳を着せようとしたのが、猿と南蠻鐵との話などであつたかと思ふ。海道の、とある掛茶屋の柱に、きたない小猿が二匹繋いである。その鏈[やぶちゃん注:「くさり」。]の三四尺ほどのものが、南蠻鐵であることを知つた男、一計を案じてこれを猿ぐるみ安く買い取ろうとする。或は母親が此猿に生まれかはつて居るといふ夢を見たとも謂いひ、若くは死んだ我兒に似て居ると稱して泣いて見せるなどの、可笑味を添へても話すのである。結局賣り渡す段になつて茶屋の亭主が、新しい紐を持つて來て結はへ直すので、これこれどうして其鏈を附けて置かぬかといふと、いや是は又次の猿を繋いで、賣らなければなりませんといふのが下げになつて居る。しかも是などもまだ人によつては、曾て其頃藤澤小田原あたりの松並木の蔭に於て、實際あつたことの樣にも考へて居た人があるのである。

[やぶちゃん注:「兎園小説其他の隨筆に、盛んに書いて居る常陸國藤代(ふじしろ)村の少女、八歳にして男の兒を生んだという話」「其他の隨筆」は例えば、前に出た「耳囊」。私の「耳囊 卷之十 幼女子を産し事」を参照されたい。地名にやや齟齬があるが、完全に同一の話である。「常陸國藤代村」は現在の牛久沼の南方、茨城県取手市藤代周辺。ここ(グーグル・マップ・データ)。ここに語られているのは、滝沢馬琴の編に成るアンソロジー随筆「兎園小説」(文政八(一八二五)年成立。同年、滝沢解・山崎美成を主導者として屋代弘賢・関思亮・西原好和ら計十二名の好事家によって、江戸や諸国の奇事異聞を持ち寄る「兎園会」と称する月一回の寄合いが持たれ、その文稿が回覧されたが、その集大成が本書。三百話に近い怪談奇談が語られ、当時の人々の風俗史を語る上でも貴重な資料と言える)の第二集(文政八年二月八日開催の兎園会での報告集)の中の海棠庵(書家関其寧の孫の関思亮(せき しりょう 寛政八(一七九六)年~文政一三(一八三〇)年)の号)の発表の一篇であるが、実はその「耳囊 卷之十 幼女子を産し事」の注で、当該部分を電子化し、私の上申書の書き下し文と詳細な語注も添えてあるので、ここでは繰り返さない。そちらを参照されたい。

『鈴木桃野の「反古の裏書」には書いてある』儒者鈴木桃野(寛政一二(一八〇〇)年~嘉永五(一八五二)年:名は成虁(せいき)。幕府書物奉行であった鈴木白藤(はくとう)の子。天保一〇(一八三九)年には昌平坂学問所教授となった。射術を好み、画にも優れた)の書いた随筆「反古(ほご)のうらがき」の「卷之一」の三番目に載る「〇八歳の女子(こ)を産む」である。所持する森銑三・鈴木棠三編「日本庶民生活史料集成 第十六巻』(一九七〇年三一書房刊)の朝倉治彦氏校訂のそれを用いた。一部に〔 〕で推定で歴史的仮名遣で読みを足した。

   *

 松平冠山老公の采地〔さいち〕は常州とか聞〔きき〕し、百姓何某が娘、八歳にて子を産みたるよし、江戸にての評判甚し、板木〔はんぎ〕となして市〔いち〕に責るものも有〔あり〕けり。老公家臣を召して尋〔たづね〕給ひしに、さだかに此事あるよし、知行のもの語りたれば、疑ふべくもなしといひけり、老公獨り信じ給はず、或日駿足を命じ、一騎乘りにて家を出〔いで〕、三十里計〔ばかり〕の路程を一日に馳付〔はせつけ〕、名(な)所(ところ)の如く尋行〔たづねゆき〕て、家を求めしに、絶〔たえ〕て其人なし、況や其事をや。世の風説は大體ケ樣〔かやう〕なるものなるべし、幸に三十里の所なれば、卽時に實否をしることを得たり、若〔もし〕數百里の外の事ならば、疑を解くに緣(よし)なく、終生疑ひおもふべし、人々多く疑ひて、後に實〔げ〕に恠〔あや〕しきことも有者也〔なり〕といはれしよし、老公は予が翁と同〔おなじく〕甲子生〔うまれ〕にて、同庚會(どうこうくわい)に合(がう)せし人也、其後も余が祖母八十の賀詩を惠まれし也。

   *

「松平冠山老公」は因幡国鳥取藩の支藩若桜(わかさ)藩第五代藩主池田定常(明和四(一七六七)年~天保四(一八三三)年)。この場合の「采地」とは若桜藩の現地の藩領とは別に飛び地として拝領している領地を指す。「甲子」ここは干支の意。「同庚會」は底本の朝倉氏の注に『父白藤と同年齢を以てした集会』とあり、全部で六名からなるものであった旨の記載がある。

 また、後に続く同書からの話は、やはり「卷之一」に載る「○訛言」(くわげん(かげん):「誤って伝えられた評判」の意)。前と同じ仕儀で以下に示す。

   *

 文政の中年、さる屋敷より病人を釣臺にのせて持出〔もちいだ〕し事ありしに、何者か申出〔まうしいだ〕しけん、此へんに死人を釣臺にのせて、人なき所に捨〔すつ〕る者あり、人々用心し給へといゝけること、市谷柳町へんより初〔はじま〕りしよし。江戸中大體一面に行渡り、本所・濱町・麻布・靑山へん迄、皆屋敷々々に番人を出〔いだ〕し、高張り挑燈にて守りしに、二三日にして止〔やみ〕けるとなん。其後一二年過〔すぎ〕て秋の末つかた、月殊に明らかなりし夜、予門外に出で、舍弟と供に月を賞し居〔をり〕しに、四つ頃と思ふ頃、向ふより高聲に語りて來〔きた〕る人あり、音羽と書〔かき〕たる永挑燈〔ながぢやうちん〕をともし、とびの者體(てい)なる人二人也。其(その)語(かたる)に、世には殘忍なる人も有る者かな、あの女の首はいづこにて切〔きり〕たるか、前だれに包みたれば、親しきものゝ妻にてもあるべし、切たるは定〔さだめ〕て其夫なるべし、間男などの出入と覺へたり、今捨〔すて〕んとして咎められ、又持去〔もちさ〕りしが、何〔いづ〕れへか捨つべし、其所〔そのところ〕は迷惑なる者なりといふ語〔かたり〕なり。予是を聞て呼留〔よびと〕め、何(いづ)こにての事と問へば、扨は未だ知り玉はずや、こゝより遠からず、市ケ谷燒餅坂上なり、夜深〔よふけ〕て門外に立(たち)玉ふは、定て其捨首の番人かと思ひしに、左〔さ〕にはあらざりけり、こゝより先は皆家々に門外に出で番をするぞかしといゝて、打連〔うちつれ〕てさりけり。予もおどろきて前なる辻番所に右の趣〔おもむき〕申付〔まうしつけ〕、よく番をさせ置〔おき〕、入〔いり〕て眠りたりしが、兎角心にかゝる上に、辻番所に高聲に右の物語りなどするが耳に入て寢られず、立出〔たちい〕で見れば、最早九つ今の拍子木を打〔うち〕、番所の話を聞けば、組合より申付られたれば眠る事能はず、左ればとていつはつべき番とも覺へず、もし油漸して捨首にてもある時は、申分に辭〔ことば〕なし、如何にせましといひあへり、予も餘りにはてし無き事なれば、最早程も久し、捨首あらば是非なし、先〔まづ〕休むべしと申渡し、入て寢けり。明〔あく〕る日あたりを聞〔きく〕に、其事絶〔たえ〕てなし、口惜哉〔きちをしや〕あざむかれぬといゝてやみけり。此訛音も小石川・巢鴨へん、本郷より淺草・千住・王子在などの方に廣がりて、北の方いづこ迄かしらねども、大〔おほい〕におどろきさわぎたるよし、予親しく聞〔きき〕たれども、誰〔たkれ〕にも告〔つげ〕されば[やぶちゃん注:「告げざれば」であろう。]、此あたりは却〔かへつ〕てしる人なし、音羽といへる挑燈なれば、是水へかへりかへり申觸たるか、其先迄申傳へたるなるべし。

   *

「文政の中年」文政は一八一八年から一八三一年までだから、中頃は文政六(一八二三)年前後となる。しかし、これ、或いは「申年」かも知れぬ。とすれば、文政七年に特定出来るのだが。「釣臺」台になる板の両端を吊(つ)り上げて、二人で担いでゆく運搬具。「市谷柳町」現在の東京都新宿区市谷柳町附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。「濱町」東京都中央区日本橋浜町附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。底本の朝倉氏の注に『武家地で藩の中・下屋敷が多く』あった、とある。「市ケ谷燒餅坂」底本の朝倉氏の注に『いまの新宿区市ヶ谷甲良町のうち。幅四間』(七メートル強)『ほど、高さ四〇間』(七十二・七二メートル)で、『山伏町から柳町へ下る坂で、甲良町との境。附近は武家地』とある。この附近(グーグル・マップ・データ)。「九つ今」だいたい午前一時丁度。「音羽」東京都文京区音羽町か。ここ(グーグル・マップ・データ)。「是水」不詳。識者の御教授を乞う。

「板谷桂意といふ御繪師などは、どうかして一度此ウソを流布させてみたいと思つて、永い間心がけて居たさうである。彼が或人から梅の鉢植を貰ひ、それを二三年も過ぎて後に栽ゑ換えようとすると、其根の下から五寸ばかりの眞黑な土のかたまりの如きものが現れた。其形が魚に似て居るので、よく見て居ると少しづゝ動き、眼口髭なども段々にわかり、水へ入れてみると全くの鯉であつた。之を櫻田あたりの濠内に放したと言つて、御手のものゝ見取圖が、方々に寫し傳へられたさうな」この「板谷桂意」(板谷広長(宝暦一〇(一七六〇)年~文化一一(一八一四)年:江戸中・後期の大和絵住吉派の幕府御用絵師。同じ御用絵師板谷慶舟の次男であったが、住吉派板谷家第二代を継いだ)の大嘘にマンマと騙された人物がいる。江戸後期の尾張名古屋藩士で右筆を勤めた大師流書家で随筆家としても知られた三好想山(みよししょうざん ?~嘉永三(一八五〇)年)である。彼の代表作で動植物奇談・神仏霊異・天変地異など五十七話の奇談を蒐集した、全五巻から成る「想山著聞奇集」(没年の嘉永三(一八五〇)年に板行。私はブログ・カテゴリ「怪奇談集」で全篇の電子化注を終えている)の「卷の壹」の「菖蒲の根、魚と化する事」に、ご丁寧に板谷の絵を忠実に模写した絵も添えて出る。ちょっと誠実な想山が可哀想だが、参照されたい。

「長崎の魚石の話として弘く行はれ」私の「耳囊 卷之三 玉石の事」(注で木内石亭の奇石書「雲石志」の「生魚石(せいぎよいし) 九」も電子化してある)、或いは、『柴田宵曲 妖異博物館 「魚石」』を参照されたい。

「胡商求寶譚」かの「石田幹之助」(明治二四(一八九一)年~昭和四九(一九七四):東京帝国大学文科大学史学研究室の後身である財団法人「東洋文庫」の発展に尽力、その後も歴史学者・東洋学者として國學院大學や大正大学・日本大学などで教授を勤めた。因みに彼は芥川龍之介とは一高時代の同級生である)が「徹底的に研究して」いる「途法」(ママ)「もなく古い昔話の系統に屬するもの」とすれば、「胡商」とは中国人にとっての西方のシルク・ロードの彼方の西洋の商人という意味になり、「今まで見たこともない異国の商人が宝を求めてやって来る話群」としての胡商求宝譚(こしょうぐほうたん)の原型は当然、中国が濫觴と考えてよい。柴田宵曲も『妖異博物館 「魚石」』では最後に、『「長崎の魚石」の原産地は支那であらう。話の中の登場人物に、唐人や紅毛人が出て來るのでも、その消息は推せられる。石を四方から磨り減らし、赤魚の遊ぶのを見て、養心延壽を樂しむなども、支那人の理想にぴつたり當て駿まるやうな氣がするが、さういふ原話はまだ見付からない。「金華子雜編」に徐彦なる者、海を渡るに先立つて、淺瀨の中で小さな琉璃瓶を發見した。大きさは赤子の掌ぐらゐ、長さ一寸ばかりの龜の子がゐて、瓶の中を往來旋轉し、暫時もぢつとして居らぬ。瓶の口は極めて小さいので、その龜がどうして入つたものかわからぬが、とにかく珍しいと思つて、拾つて自分のものにした。然るにその夕方から、何かの重みが船にかかるやうなので、起きて見たら、幾百とも知れぬ龜が、船に上つて來る。徐彦は恐ろしくなつて、これから大海を渡らうとするのに、どんな事が起らぬでもないと、例の瓶を取り上げて、海の中へ拗り込んだ。龜はそれを見て、皆どこへか行つてしまつた。後にこの話を多年航海を續けてゐる胡人に話したところ、それは龜寶といふもので、まことに稀世の靈物である、たまたまこれにめぐり合つても、福分の薄い者は仕方がない、もしこの寶を家に藏し得たら、無限の富を有するところであつたのに、と頻りに殘念がつた。魚でなしに龜であり、外からその動くのが見えるあたり、魚石とは趣を異にするけれど、一たびこれを手に入れれば無限の富に住し得るといふのだから、似たところがないでもない。魚石譚の特色は、まさにこれを所有しようとして失ふ點に在る。徐彦の龜寶もそこに此較對照すべきものがあるやうに思はれる』と述べている。

「猿と南蠻鐵との話」個人の落語のページの『古今亭志ん生の噺、「猫の皿」(ねこのさら)』の注で、この話を元ネタとし、元話は意外に古く、文化年間(一八〇四年~一八一七年)刊行の『滝亭鯉丈「大山道中膝栗毛」に「猿と南蛮鎖」として出てくる』とある。「大山道中膝栗毛」は弥次喜多ならぬ徳郎兵衛と福七の二人旅を描いた滑稽道中記で、イネガル氏のブログ「芸の不思議、人の不思議」の「猫の皿」の原話などに詳細な記載と原文(画像)があるので是非、参照されたい。]

 

 世間話の新作といふことも愉快な事實だが、それよりも自分たちの興味を抱くのは、隱れて絲を引いて居つた傳統なるものゝ力である。ウソをつく氣ならば思ひ切つて、新機軸を出した方が自由であつたらうに、何故に斯く際限なく前代の滑稽に纏綿[やぶちゃん注:「てんめん」。絡みついて離れないでいること。]し、忠實に唯一つの話の種を守らうとしたのであらうか。古人の根氣は幾らでも新たに創造するに足り、後人の技能は僅かに追隨踏襲を限度として居たのであらうか。或は西洋で謂ふインデイヤニストのように、根源を求めて或一團の種族の、特殊の才分に感謝して居ればよいのであらうか。乃至は又ウソにも法則があり眞理があつて、嚴重にそれに遵據したものだけが斯うして末永く我々を欺き得たのであらうか。此疑問を一通り解決してからで無いと、我々は到底明日の文學を豫言することが出來ぬのである。奇妙なことではあるが我々の大事にして保存して居た話、時々取出して人を驚かして居た話には、魚に關したものがどういうものか多い。前に掲げた長崎の魚石もそれであるが、別に尚一つ有名なる物を言ふ魚の話がある。是がグベルナチスなどの夙に注意した笑ふ魚の系統に屬することは比較を進めて行くうちには判つて來るやうに思ふが、餘り長くなるから他の機會まで殘して置く。差當り自分の集めて見たいと思ふのは、飯を食つて歸つたといふ魚の話の、内外の多くの例である。現在私はまだほんの僅かしか聽いて居ない。併し斯うして話して居ると、それならば今少し搜して見ようといふ人が、追々出て來るだらうといふことだけは信ずるのである。

[やぶちゃん注:「世間話の新作といふことも愉快な事實だが、それよりも自分たちの興味を抱くのは、隱れて絲を引いて居つた傳統なるものゝ力である。ウソをつく氣ならば思ひ切つて、新機軸を出した方が自由であつたらうに、何故に斯く際限なく前代の滑稽に纏綿し、忠實に唯一つの話の種を守らうとしたのであらうか」「ウソにも法則があり眞理があつて、嚴重にそれに遵據したものだけが斯うして末永く我々を欺き得たのであらうか」私はここに非常な興味を惹かれる。柳田國男が定義した「噂話」――比較的新しい近過去に起こったとされること、或いは近未来に起こるであろうされることで、内容の一部或は大部分に事実らしさが感じられる話――が、何故、ある種、周期性を持って、核心に於いては全く同一の話柄内容(それは当然、事実らしさをプラスするために、今現在前後の新しい風俗的或は学術的科学的知見や技術によって粉飾・武装されてはいるが)として、長い歴史のサイクルの中で繰り返し再発生するのかという問題である。これは今現在の「噂話」である「都市伝説(アーバン・レジェンド)」の属性としても、全く本質的には変化していないからである。ここで柳田の言う「ウソにも法則があり眞理があつて、嚴重にそれに遵據したものだけが斯うして末永く我々を欺き得たのであらうか」というところに秘鑰(ひやく)はある。ユングが「集団的無意識」と仮称した冥い深層にこそ、私はその真意があると考えている人間である。

「インデイヤニスト」不詳。“Indianist”か。所謂、本来の南アメリカの原住民であるアメリカ・インディアンの文化復興運動支持者の謂いか。

「グベルナチス」イタリアの詩人で民族学者であったアンジェロ・デ・グベルナーティス(Angelo de Gubernatis 一八四〇年~一九一三年)。「笑ふ魚」というのはよく判らぬが、南方熊楠がよく彼の作品として引用する一八七二年の著Zoological Mythology(「動物学的神話」)か。なお、本章「魚王行乞譚」の終わった次は「物言ふ魚」であるが、少なくとも柳田國男は、そこでは、グベルナーティスの話を全く挙げていない。

 

御伽百物語卷之三 七尾の妖女

 

    七尾の妖女

 

Nanaonoyoujyo

 

[やぶちゃん注:挿絵は「叢書江戸文庫二 百物語怪談集成」のものを用いた。以下、和歌は前後を一行空けた。和歌の上句と下句の一マス空けは底本による。原典では総て上句と下句が分かち書きとなっている。]

 

 能州七尾といふ所にちかき片在所に住みける、杉岡の團助とかやいひけるは、そのかみ、名ある武士の果(はて)なりしが、今ほどは農家に業(わざ)なれて瑣細(ささい)なる菜園に身をくるしめ、濱路(はまぢ)に魚を乞ひて渡世のたすけとなし、幽(かす)かなるくらしなりけれども、さすがに取り傳へし弓矢のかた氣(ぎ)は失はず。万(よろづ)に心を付け、仁義正しく、すなほなるものから、郷民(ごうみん)も心をき、情をかはしける程に、何事につけても、さのみ不自由なる事なくて暮しけりとぞ。

[やぶちゃん注:「能州」能登国。

「弓矢のかた氣(ぎ)」「武士氣質(ぶしかたぎ)」。如何にも武士らしい本来の気風。

「心をき」「心置(こころお)き」(歴史的仮名遣は誤り)。何くれとなく気遣いしてやり。]

 

 ある日、彼(かれ)が家に井を掘りかゆる事ありしに、底より一つの木の根を掘り出だせり。そのかたち、臂(ひぢ)のごとくにして、節の所などのあら皮を見るに、茯苓(ぶくれう)などの類(たぐひ)に見えて、香氣、また白朮(びやくじゆつ)に似たり。

[やぶちゃん注:「井を掘りかゆる」井戸を浚って、さらに底を掘り、井戸替えをする。

「茯苓(ぶくれう)」歴史的仮名遣「ぶくりやう」が正しい(現代仮名遣は「ぶくりょう」)。アカマツ・クロマツなどのマツ属の植物の根に寄生する菌界担子菌門菌蕈(きんじん)綱ヒダナシタケ目サルノコシカケ科ウォルフィポリア属マツホド(松塊)Wolfiporia extensa の菌核の外層をほぼ取り除いた生薬名。利尿・鎮静作用がある。

「また白朮(びやくじゆつ)」キク目キク科オケラ属オケラ Atractylodes japonica の根茎。生薬。健胃・利尿効果がある。]

 

 團助夫婦、是れを見て、

「如何さま、故ある木にてこそあるらめ。」

とはおもひながら、何に遺ふべしとも辨(わきま)へ得ず、只うち捨てても置きがたくて、佛壇のうへなる棚にあげて、人にもかたらず、あやしとも思ひたらねば、また尋ね見る事もなかりけり。

 其家、殊更に佛法を信じけるほどに、ひとりありける娘に、持佛堂の世話を任せ、花を折り、香をもらせけるに、此むすめ、いまだ十六、七なりしが、親の心ざしをつぎて、是れも佛法に信(しん)ふかく、朝も疾く起きて香花(かうげ)をとり、暮るれば御灯(みあかし)をかゝげて、念誦、おこたらず。

 器量、人に超え、容顏、花をあざぶくほどの生れなるに、身をえうなきものにおもひとり、世をはかなきならひに見なしつゝ、ゆくゆくは尼にもと迄、つねづねにいひもし、心にもかけゝるほどに、父母も時おりふしはとかく教訓し、云ひなだめなどして、尼になさん事をぞ、悲しみあひけるほどまで、つよかりし心のむすめなりしが、ある日、佛壇に入りて香をとらんとせしに、佛壇の間(ま)に、人あり。

「こはいかに。」

と、さしのぞきて見れば、年のほど廿ばかりなる男の、器量、世にすぐれたるが、折(をり)えぼし・直垂(ひたゝれ)して、いとなれがほに、此むすめを見て、さしまねくなりけり。

 娘も見馴れざる姿に、

「はつ。」

と氣(き)をのぼらせ、むなさはぎしけれど、又、さありとて、此やんごとなきさましたる人を、つれなくあらゝかに恥かしめんも、かたはらいたくて、

『よしよし、何人にもあれ、かゝる方に忍び入りたらん人の、よもや、盜みなどいふ事する程には、あらじ。とかくすかしたてゝ歸しこそせめ。』

など、さまざまにおもひさだめて、やをら、さしよれば、此おのこ、彼のむすめの袖をひかへて、

 

 むさし野の草葉なりともしらすなよ かゝるしのぶのみだれありとは

                                                  

とかや、なれなれしげなり。

 娘は、いとおもはずなる事に顏うちあかめ、

「こはいつの程いかなる風(かぜ)の傳(つて)にか。花すゝき、ほの見えし色は思ひしみ給ひし。そも御身はたぐひなき御事と見まいらせしうへ人の、かくあまざかるひなの我しも、かくおぼしよりけるにか。いと心えずこそ。」

といへば、彼のおのこ、いふやう、

「いやとよ、かゝる戀路には高き賤しきのへだといなきを。さのみ、ないひおとしめ給ひそ。五條わたりのかいまみに何がしの院までさそひし人もあるものを。木の丸殿(まるどの)ならずとも、いさや、ゆくゆくは名乘りこそせめ。」

とて、

 

 あさからぬこゝろのほどをへだつなと かずならぬ身ぞおもひそめぬる

 

といひつゞくるに、むすめも、

 

 かねてより人のこゝろもしらぬ世に ちぎればとてもいかゞたのまん

 

と、やうやうにつらね出でて、いとはづかしげなり。

[やぶちゃん注:「へだとい」不詳。「隔て」の意ではあろう。或いは「隔てといふはなきを」か。

「五條わたりのかいまみに何がしの院までさそひし人」言わずもがな、光源氏。夕顔を見染めてなにがしの院へ誘ったことを指す。

「木の丸殿」「き(こ)のまる(まろ)どの」。丸太で造った粗末な殿舎の謂いであるが、特にここは歌枕として知られる、現在の福岡県朝倉市の山中に、天智天皇が亡くなった母斉明天皇の喪に服すため、伐り出したままの丸太(黒木)で建造した「黒木の御所」を指すものと思われる。「十訓抄」の「第一」の二番目にある「天智天皇の木の丸殿 朝倉やの御歌」に、

   *

 天智天皇、世につつみ給ふことありて、筑前國上座の上毛郡朝倉といふところに、山中に黑木の屋を造りておはしけるを、「きのまろどの」といふ。まろ木にてつくる故なり。

 今、大嘗會の時、黑木の屋とて小野の斎場所に造る、かの時の例(ためし)也。民を煩はさず、宮つくりも倹約を旨とせられけるなり。唐堯の宮に、土の階(はし)を用ゐ、茅(かや)の軒をきらざりける例なり。

 扨、かの「きのまろ」には、用心をし給ひければ、入り來る人、必ず、名のりをしけり。

 

 朝倉や木のまろどのにわがをれば名のりをしつつ行くは誰(た)が子ぞ

 

これ、天智天皇の御歌なり。これを民ども聞きて、うたひそめたりける也。

  *

という話の「名のり」を掛けたのであろう。]

 

 又、おとこ、

 

  をろかにはわれもちぎらじいときなき 心にたのむいろを見るより

 

などなぐさめて、持佛すへたるかたには屛風を物のけぢめにて、しどけなくそひぶしの夢をぞ見る。

 まだふみも見ぬ戀路なれば、娘も心あはたゞしく、はづかしうおもひて、ふしゐたり。

 おとこは、此ほど、心をつくし、神に祈りなどせしありさま、ゆくすゑ迄のあらまし事、何かといひつゞけつゝ、いとむつましう美しとおもへるさま也。

 かくて逢ふほどに、けふと暮れ、明日とかはりゆく日數(ひかず)の、半年ばかり、人しらぬ逢瀨、うれしく、たがひに心をかよはし、やさしきちなみ、あさからずありけるほどに、今は此むすめも人の目たつる迄、替りたる心いれとなり行きけるを、二人の親も、

「如何にぞや。」

とおもへど、終に人の通ひ來て、かゝるわりなき交りをすべき覺えもなければ、さのみ、心をつけて窺ふべき氣もつかざりしに、いつとなく、身もちにさへ、なりぬ。

 娘も今はしのびはつべき態(わざ)にもあらず思ひかねて、母の親に語りけるにぞ、始めて、忍び妻(つま)[やぶちゃん注:「夫(つま)」。]ありとは、しりける。

 されども、此男、つねに持佛の間にのみありて、行き返る躰(てい)もなし。まして、はかなきく菓物(くだもの)[やぶちゃん注:仏壇の供物のそれ。]をだにくふとも見えねば、母もあやしさの數のみ增さりながら、獨りあるむすめの名をいかにせんなど思ひ煩ひける内、いつも、秋のころは請(しやう)じいれて齋(いつ)き參らする寺より、例の祥月(しやうつき)とて僧の來たりけれども、持佛の間には、さきだちてやごとなき人の入り來たりて、深く隱れたるにや、と見えて、入るべき方の戸を堅くおさへけり、と覺えしかば、先づ、しりぞきて俳諧居(ためらひゐ)たりし隙(ひま)に、娘は母の親とつれて、寺まいりを仕(し)たりける。

 跡にて、父の親、この僧と心をあはせ、持佛の間に立ち入りける時、鴿(はと)壹羽(いちは)ありて、俄に、

「はたはた。」

と翥(はゞたき)して飛び去りぬ。

 其ゆふべより、又、この娘、ふたゝび彼のしのび妻を見ず。

 さびしき閨(ねや)にひとりねの枕ものうく、人しれず、

「戀し。」

と歎きおもひながらも、猶、人めつゝみの高ければ、それとだにゑいひもやらず、あづま路の佐野の船橋(ふなばし)とりはなし、親、さけにけん時、

『いかばかり、我を「うし」とや見たまふらん。』

と、おもへば、いとゞ手枕(たまくら)も、うくばかり、淚、こぼれて、

 

 けふはまたつらさをそへてなげくかな ねたくぞ人にもらしそめぬる

 

など、ひとりどちて、おきふしなやみがちなりしが、七月といふころ、けしからぬなやみおこりて、産のやうす、ありけるまゝに、親ども、あはたゞしく悲しみいたはりて生ませけるに、人にはあらで、彼の井戸よりあがりたる木に、すこしもたがはざるものを、三節まで、産みたり。

「さればよ。怪しかりける事を。」

とて、彼の持佛のうへの棚に上げたりし古木(ふるき)を取りおろして見けるに、はや、さんざん、蟲つゞりて、くだけたりしかば、持たせやりて[やぶちゃん注:下男辺りに、であろう。]捨てつ。

 今、この娘のうみたる木は、廣庭(ひろには)に出だし、芥(あくた)をつみて、燒きつくしけるが、其後(そのゝち)、何の事もなかりけるとかや。

[やぶちゃん注:しかし、この怪談、考えてみると、標題、ヘンくね? 「妖女」ではないべ?! 奇体な腕みたような木片を産んだからって、それじゃ、余りに、この娘が可哀想じゃ! 彼女に憑いた木霊か何だか(鳩に変じて出て行った得体の知れぬ物の怪は何だ? 神鳥の鳩と物の怪は親性がかなり良くないぜ)は何よ? それに信心深い彼女がかくも不幸になるのは杉岡団助の前世の因縁かなんかかい? その辺をまるで語らずに聴いたような尻のムズムズするような和歌を並べておいてカタストロフに持ち込むという構成は、儂は、嫌いだね!!!

「あづま路の佐野の船橋(ふなばし)とりはなし」「万葉集」の「卷第十四」「上野國相聞徃來歌廿二首」の中の一首(三四二〇番歌)、

 

 上野(かみつけ)の佐野の舟橋(ふなはし)とりはなし親は離(さ)くれど吾(あ)は離かるがへ

 

に基づく。「上野の佐野」は現在の群馬県高崎附近。「舟橋」舟を繫いでおいて、その上に板を置き渡して作った橋のことで、その結ばれた綱を「取り放す」から、下句の「離くる」(解き放させる・仲を裂く)を引き出すための序詞。「がへ」は「かは」の訛りで、強い否定を伴った疑問。私はどうしてあなたと離れましょうか、いえ、決して、離れませぬ。

「人めつゝみ」「人目包み」人の見る目を憚って殊更に隠れる、或いはあることを隠すこと。ここは男への激しい恋情。]

 

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 魚王行乞譚 一

 

   魚王行乞譚

 

[やぶちゃん注:「魚王行乞譚」は「ぎよわうぎやうこつたん(ぎょおうぎょうこつたん)」と読む。平凡社の「世界大百科事典」によれば、魚が昔話や伝説の不可欠の構成要素とされているものに、助けた魚が女の姿となって女房になり幸運を与える(「魚女房」)、動物が尾で魚を釣ろうとして氷に閉じられしっぽを失う(「尻尾の釣り」)などがあり、魚を捕らえて帰る途中で怪しいことが起こり、復讐を受ける(「おとぼう淵」「よなたま」)といった「物言う魚」の伝説譚は、魚が水の霊の仮の姿であるという信仰があったことを物語っているとし、淵の魚をとりつくす毒流し漁を準備しているとき、それを戒める旅僧に食物を与えたところ、獲物の大魚の腹からその食物が現れ、漁に参加した者が祟りを受けたという話や、川魚どもの首領が人に姿を変えて現れて毒流しを準備する人々に中止を求めるも住民はそれを聴かず、食物を与えて帰す。いざ、毒流しで多くの魚を捕ってみると、その中の特に巨大な魚の腹から先に与えた食物が出てきたので、人々はこの行為を悔いたという話(毒のあることは知りながら、それを用いることを忌むために発生した説話と考えられる)などを特に「魚王行乞譚」と称し、以上のような水神=魚という古い信仰の流れの末に位置する説話群である、とする。「行乞」とは僧侶が布施として物乞いをして歩くこと、托鉢のことを指すが、本譚ではしばしば長命を経た魚(「魚」の「王」)が「行」脚の僧と変じて、物「乞」いをするとともに、ある懇請(これも「『乞』うこと」である)をすることから、かく(恐らくは柳田國男が)名づけたものであろう。] 

 

     一

 

 江戶は音羽町の邊に、麥飯奈良茶などを商ひする腰掛茶屋の亭主、鰻の穴釣りに妙を得て、それを道樂に日を送つて居る者の店へ、或日一人の客來たつて麥飯を食ひ、彼是と話の序に、漁は誰もする事ながら、穴に潛んで居る鰻などを釣り出すのは罪の深いことだ。見受ける所御亭主も釣が好きと見えて、釣道具が色々置いてあるが、穴釣りだけは是非止めなさいと、意見して歸つて行つた。ところが其日もちやうど雨大いに降り、穴釣りには持つて來いといふ天氣なので、好きの道は是非に及ばず、やがて支度をしてどんどん橋とかへ行つて釣りをすると、いかにも大いなる一尾の鰻を獲た。悦び持ち還つてそれを例の通り料理して見ると、右鰻の腹より、麥飯多く出でけると也といふ話。

 

 根岸肥前守守信著はす所の耳囊卷一に、是が當時の一異聞として錄せられて居る。耳囊は今から百年ばかり前の、江戸の世間話を數多く書き集めた面白い本である。是とよく似た書物はまだ他にも幾つかあるやうだが、あの頃の江戸といふ處は、特に斯ういふ不思議な現象の起り易い土地であつたらうか。但しは又單に筆豆の人が當時多かつたから書き殘されたといふだけで、以前もそれ以後もまた他の町村でも、平均に同じ樣な奇事珍談は絶えず發生して居たのであらうか。兩者何れであらうとも、問題は一考の價値があると私は思ふ。我々の文藝は久しく古傳實錄の制御を受けて、高く翔り遠く夢みることを許されなかつた。それが所謂根無し草の、やや自由な境地に遊ばうとして居たかと思ふと、忽ち引き返して現實生活の、各自の小さな經驗に拘束せられる結果になつたのである。空想は畢竟する所この島國の民に取つて、一種鐵籠中の羽ばたきに過ぎなかつたのか。はた或は大いに養はるべきものが、未だ其機會を得ずして時を經たのであるか。日本の所謂浪漫文學には未來があるか否か。之を決する爲にも今少しく近よつて、自分たちの民間文藝の生ひ立ちを、觀察しておく必要があるやうである。耳囊の同じ條には更に右の話に續いて、それに似たる事ありと謂つて、又次のやうな話も載せて居る。

 

[やぶちゃん注:私は既に旗本根岸肥前守鎭衞(しずもり 元文二(一七三七)年~文化一二(一八一五)年:「守信」は彼の別名。佐渡奉行・勘定奉行・南町奉行を歴任した)の「耳囊」(みみぶくろ:天明(一七八一年~)から文化にかけて三十余年に亙って書き継いだ随筆。同僚や古老から聞き取った珍談奇談などが記録されている。全十巻一千編を収録)を全電子化訳注(二〇〇九年九月開始、二〇一五年四月完遂。一部はサイト版もある)している。以上で柳田國男が挙げたもの及び次段に紹介されている虎の門門前外濠の浚(さら)いでの奇談は、 之八 鱣魚の怪の事である。そちらの私のオリジナル語注と現代語訳を参照されたい。なお、柳田が『耳囊卷一に、是が當時の一異聞として錄せられて居る』と述べているのは、本「耳囊」が幾つかの異なった写本で伝わるものの一つが、これを「卷一」に載せていたものかも知れない(実際、伝本によって巻数・話数が異なり、話の順列にも錯雑がある)。]

 

 

 

 昔虎の御門のお堀浚へがあつた時、其人足方を引受けたる親爺、或日うたゝ寢をして居ると、夢とも無く一人の男が遣つて來た。仲間も多勢あること故其内の者であらうと心得、起き出して四方山の話から、堀浚への事なども話し合つた。やゝあつて其男の言ふには、今度の御堀浚へでは定めて澤山の鰻が出ることであらうが、其中に長さが三尺、丸みも之に準じた大鰻が居たならば、それは決して殺してはいけません。其他の鰻もあまり多くは殺さぬやうにと賴んだ。それを快く受け合つて有合せの麥飯などを食はせ、明日を約して別れたさうである。ところが次の日は此親爺差支へがあつて、漸く晝の頃に場所に出かけ、昨日の賴みを思ひ出して、鰻か何か大きな生き物は出なかつたか。若し出たならばそれを此親爺にくれと言ふと、出たことは確かにすさまじく大きな鰻が出たが、もう人足たちが集まつて打殺してしまつたあとであつた。さうして是も腹を割いて見ると、食はせて歸した麥飯が現れたので、愈〻昨日來て賴んだのが此鰻であつたことがわかり、其後は鰻を食ふことを止めたといふ話である。さうして筆者根岸氏は之に對して、兩談同樣にて何れが實、いずれが虛なることを知らずと記して居る。

 

 

2018/03/20

栗本丹洲 魚譜 銀ザメ (ギンザメ♀)

 

Ginzame

 

[やぶちゃん注:図版は国立国会図書館デジタルコレクションの「魚譜」からトリミングし、合成した。左上辺で尾の一部が切れているのと、キャプションの「銀」の字の頭の一部が切れてしまっているのも、原巻子本のママ。国立国会図書館デジタルコレクションの原画像は頭頂部と本体が切断されて撮られており、しかも二枚の画像の角度が微妙に異なっているために、頭頂部画像を僅かに回転させて接合した。そのようにして出来上がったものをトリミングしたため、左右が狭まってしまい、しかも若干のキャンバスの白さが左右に出てしまったのはお許し戴きたい(私のショボい画像処理ソフトでは、たったこれだけのことをするのにさえ三十分以上かかるのである)。頭の「尾鯊」の上の字などは、完全に切り捨てられてある。後で述べるが、この標題魚名は「劔尾魚」とあったものと推定する。]

 

□翻刻1(原典のママ。■は巻子本化するに際して、カットされてしまったと推定する字。【 】は二行割注)

■尾鯊【九州方言ツノジ】

銀ザメ

  寒月ヨリ春初ヘ

  掛テ出ル味軽ク

  邵陽魚ノ如シ骨

  軟カナリ但カグサキ

  臭氣アリ凡鯊ノ

  類肉ヲキリヨク

  湯煮ヲナシ骨ニ付

  テ竹ノ筋ニテ

  アイノ如キ処ヲ通

  シ新汲水ニテ

  洗浄シテ煮啖

  ヘハ臭氣去リ毒

  ナシト云

  此物總身銀箔ヲ

  ハリタルガ如ク光アリ

  因テ勢州ニテハク

  ザメト云

 

□翻刻2(今まで通り、読み易く整序変更した。切除された「■」は「劔」と推定してそれを〔 〕で補った。推定根拠は後注を参照されたい)

「〔劔〕尾鯊(けんびざめ)」【九州方言、「ツノジ」。】

「銀ザメ」

寒月より春初めへ掛けて出る。味、軽く、邵--魚(えい)の如し。骨、軟かなり。但し、かぐさき臭氣あり。凡そ、鯊(さめ)の類ひ、肉をきり、よく湯-煮(ゆに)をなし、骨に付けて、竹の筋(すぢ)にて、「ちあい」の如き処を通し、新たな汲み水にて能く洗浄して、煮て啖(く)へば、臭氣去り、毒なしと云ふ。此の物、總身(さうしん)、銀箔(ぎんぱく)をはりたるが如く、光りあり。因りて勢州にて、「ハクザメ」と云ふ。

 

[やぶちゃん注:今回は、尾鰭と区別可能な尻鰭がないという点と、棘の後ろが鋸状になっており、尾鰭の後端が糸状に著しく伸びるという点で

ギンザメ科アカギンザメ属アカギンザメ Hydrolagus mitsukurii 

としたい。

「「〔劔〕尾鯊(けんびざめ)」切除されてしまった部分は痕跡もないのであるが、後半でギンザメ上科 Chimaeroidea のテングギンザメ科 Rhinochimaeridae・ギンザメ科 Chimaeridae ギンザメ類に丹洲は「閩書南産志」から「劔尾魚」として名を与えており、何より、本図と酷似した後に出る図(国立国会図書館デジタルコレクションの)に「劍尾魚」と標題しているからである(或いは同一個体を別に描いたものかも知れない。その可能性はそこで再度、考証する)。

『九州方言、「ツノジ」』この異名は確認は出来なかったが、感覚的には「キンザン」とも親和性を感じる。この「ツノ」は背鰭前縁にある危険な棘を「角」と言ったものと私には思われる博物学古記録翻刻訳注 ■17 「蒹葭堂雑録」に表われたるギンザメの記載で既に述べたが、ギンザメ類の♂の頭額部には交尾の際に♀を押さえつけるのに用いられる鉤状突起があるから、それを「ツノ」と言った可能性もあるかも知れぬが、本図には、そもそも、それがない。当時の漁民は♂と♀を区別して同一種とするよりも、違った魚としてそれを捉えた可能性の方が私は高いと思うのである。【2018年3月27日追記:後の剣尾魚 (ギンザメの♀或いはニジギンザメの♀)で丹洲が『此物半身以下漸〻細長ナリ然レトモ直ナラスシテ下ノ方ヘ曲ルコトつノ字ノ如シ故ニツノジノ名アリ』と述べていた。これは目から鱗!】

「寒月」特に旧暦月の特定呼称にはないが、寒さが木々しくなる旧暦十一月十二月と採ってよかろう。

「邵--魚(えい)」ネットを始めた当初からお世話になっているMitsuru Nakajima 氏の魚類サイト内の「真名真魚字典」のに、「邵陽魚(しょうようぎょ)」で『邦名:(1)エイ(「水産俗字集」「水産名彙」)。(2)コメ・オオトビウオ(「水産名彙」)』とあり、そこにあるリンク先の記載を見ても、これは肉の味であるからして、同じ軟骨魚類の「エイ」と採り、かく読んだ。

「かぐさき」この「か」は「香」ではなく(それでは如何にもな畳語表現である)、形容詞について語調を調える接頭語と採る。

「臭氣」不快な臭い、特に生臭い場合に、「かざ」(「氣」だけでも)などと読む場合もあるが、ここはルビがないのでそのまま「しうき(しゅうき)」と読んでおく。

「湯-煮(ゆに)」湯で煮ること。臭み抜きとして正しい第一段階である。正確には湯引きを何度かするのが、効果的である。御存じのように特にサメ・エイの類は浸透圧調整のために体内に多量の尿素を溜め込んでおり、死後はそれが分解してアンモニアとなるからである。

「骨に付けて」骨につけたままで、の謂いであろう。血合い部分を見易くするためと、肉を骨から剝す際に細胞を壊して、肉に血やアンモニア臭が沁み移ってしまうのを防ぐためであろう。

「竹の筋(すぢ)」竹の細い串。

「ちあい」血合い。

「新たな汲み水にて能く洗浄して」非常によろしい適切な第二段階の処理である。

「煮て啖(く)へば」最終処理として完璧。但し、油はすっかり落ちてしまって、淡白過ぎてしまうように思える。少し臭いぐらいが、私は美味いと思うけどなぁ。

「毒なし」ギンザメの肉には毒性はない。

「總身(さうしん)」「さうみ(そうみ)」と読んでも構わぬ。

「勢州」伊勢。

「ハクザメ」箔鯊。箔鮫。]

 

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十九年 三十而立

 

   明治二十九年

 

     三十而立

 

 明治二十九年は居士三十の年である。「孤立すると同時にいよいよ自立の心つよくなれり」 といった居士三十歳の年頭には

 

  三十而立(にしてたつ)と古の人もいはれけん

 今年はと思ふことなきにしもあらず

 

の一句がある。新春劈頭の雑誌『日本人』に「新年二十九度」を寄せて、幼時からの新年の思出を略叙したのも、自ら而立の年を記念するに外ならぬのであった。

[やぶちゃん注:「新年二十九度」は全文ではないが、「土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べもの)」の「子規の正月/新年二十九度」がよい。是非、参照されたい。]

 

 この年の『日本』における活動は、「真率体(しんそつたい)」「即興体」などの俳句を掲げることからはじまる。一体各十二句、四季の順に並べてはあるけれども、何々十二カ月の称は用いてない。前後二十四体に及び、四月に入って漸く了った。最も多く材料に用いられたのは二十八年の句であるが、新に作り足したものも相当あり、一体悉く新作に属するものさえないではない。

 一月中居士は「従軍紀事」を『日本』に掲げて陣中生活を細叙すると共に、新聞記者に対する当局の待遇の一定せざることを論じたりしたが、この年に入って注目すべきものは、「三十棒」をはじめとし、「めさまし草一批評」「桐一葉」「作家評家」など、文芸批評の筆を執りはじめたことである。「戯曲類と四季」などという研究も、人事の葛藤を主とする戯曲について、その背景たる季節に著眼(ちゃくがん)したところに、居士らしい用意の窺われるものであった。

 居士の健康は年を越して思わしからず、一月中は僅に歩行し得て、久松伯凱旋の祝宴にも列している位であったが、二月頃から左の腰が腫れて痛み強く、横臥したまま身動きも出来なくなった。三月十七日医師の診察を受けたら、僂麻質斯(ロイマチス)でないという宜告を受けた。「僂麻質斯にあらぬことは僕も略〻仮定し居たり、今更驚くべきわけもなし。たとひ地裂(ちさけ)山摧(やまくだ)くとも驚かぬ覺悟を極め居たり。今更風聲鶴唳(ふうせいかくれい)に驚くべきわけも無し。然れども余は驚きたり。驚きたりとて心臟の鼓動を感ずるまでに驚きたるにはあらず、醫師に對していふべき言葉の五秒間おくれたるなり」といい、「世間野心多き者多し。然れども余(わ)れほど野心多きはあらじ。世間大望(たいまう)を抱(いだ)きたるまゝにて地下に葬らるゝ者多し、されど余れほどの大望を抱きて地下に逝く者はあらじ。余は俳句に於てのみ多少野心を漏らしたり。されどそれさへも未だ十分ならず。縱(よ)し俳句に於て思ふまゝに望(のぞみ)を遂げたりともそは余の大望の殆んど無窮大(むきゆうだい)なるに比して僅かに零を値するのみ」という感慨を虚子氏宛に洩している。

[やぶちゃん注:「僂麻質斯(ロイマチス)」rheumatism。骨・関節・筋肉などの運動器の疼痛と、硬直(こわばり)と変形を主徴症状とする疾患の総称。代表的な疾患にリウマチ熱・慢性関節リウマチがあるが、現在も多くは原因不明である。

「風聲鶴唳(ふうせいかくれい)」怖じ気づいた人が、僅かのことにも恐れ慄(おのの)くことの譬え。風の音や鶴の鳴き声を聞いた敗残兵が敵兵かと思い、驚き恐れたという「晋書」「謝玄伝」の故事に基づく。]

 

 四月初(はじめ)には僅に立つことが出来るようになったので、杖にすがって庭を徘徊し、「萩桔梗撫子なんど萌えにけり」一八の一輪白し春の暮」というような風物の変化にいうべからざるよろこびを感じた。じつと寝ていると、花時の上野のざわめきが「ごおごお」と聞えて来る。好晴に乗じて車を雇い、上野を一廻りして帰ったりしたこともあった。四月二十日から『日本』に掲げはじめた「松蘿玉液」は庭前徘徊と上野一周の記事からはじまっている。『松蘿玉液』は長期間にわたる居士の随筆の最初で、後の『墨汁一滴』『病牀六尺』と共に三幅対の観をなすものである。

 雨の降る日は庭に出ることも出来ない。訪客もない徒然の時は、臥遊紀行と称して七年前の水戸行のことなどを思い浮べ、「空中の幻華(げんくわ)」を捉えて俳句にする。柱にかけた裏から、過去の旅中の春雨を回想して、それを俳句にする。病牀を天地とする居士の文学は、漸くその特色を発揮せんとするに至った。

 四月十九日、不忍弁天僧房において藤野古白一周忌の追悼句会が催されたが、当日雨天であったのと、気分がすぐれなかったためとで居士は出席しなかった。四月二十日の「松蘿玉液」には古白に関する一条があり、「春雨のわれまぼろしに近き身ぞ」の一句を以て結んである。

 五月に入ってから居士は『日本』に「俳句問答」を掲げ出した。居士を中心とする新派俳句の陣容が整うに伴い、種々の展開を提出する者がある。「われは世の毀譽に關せず。自ら行かんと欲する道を行く者、敢て門戸の見(けん)を張らんとも思はず、敢て俳宗信仰者を增さしめんとも思はず。とはいへ疑問を發する人に向つては答辯を與へ、誤り想へる人に向つては其誤りを正すこと、亦吾等の義務なるべきか」という見地からこれに答えたもので、俳句を作ろうとする人に向って進むべき道を明にすると共に、外聞からの嘲罵に答え、その惑を解こうとしたものであった。「俳句問答」は質問の来るに従って筆を執ったものの如く、爾後九月頃まで断続的に紙上に現れた。

[やぶちゃん注:「門戸の見」自分の主義主張。]

 

御伽百物語卷之三 猿畠山(さるはたやま)の仙

 

   猿畠山(さるはたやま)の仙

Osarubatakenosen

 

[やぶちゃん注:挿絵は「叢書江戸文庫二 百物語怪談集成」のものを用いた。以下、和歌は前後を一行空けた。]

 

 相州鎌倉の地に御猿畠といふ山あり。此うへに六老僧の窟といふ窟あり。いにしへ、日蓮の徒(と)の中(うち)、六老僧といはれて、尤(もつとも)上足(じやうそく)の名を得し僧の住みける岩窟なりとぞ。

[やぶちゃん注:現在の逗子の日蓮宗猿畠山法性寺(えんばくさんほっしょうじ)の裏手及び鎌倉と逗子の間の名越(なごえ)切通しの奥にある「お猿畠の大切岸(おおきりぎし)」と呼ばれるところが本話のロケーションである。ここ(グーグル・マップ・データ)。「新編鎌倉志卷之七」の「御猿畠山」に(リンク先は私の電子化注。〔 〕は二行割注。絵図も添えた)、

   *

 

Osaru

 

○御猿畠山〔附山王堂の跡〕 御猿畠山(ヲサルバタケヤマ)、名越(ナゴヤ)の切り通しの北の山、法性寺の峯(ミネ)也。久野谷村(クノヤムラ)の北なり。昔し此の山に山王堂あり。【東鑑】に、建長四年二月八日の燒亡、北は名越の山王堂とあり。又弘長三年三月十三日、名越(ナゴヤ)の邊燒亡、山王堂其の中にありとあり。相ひ傳ふ、日蓮鎌倉へ始て來る時、此山の岩窟に居す。諸人未だ其人を知事なし。賤(イヤ)しみ憎(ニク)んで一飯をも不送(送(ヲク)らず)。其の時此の山より猿(サル)ども羣(ムラガ)り來て畑(ハタ)に集り、食物(シヨクモツ)を營(イトナ)んで日蓮へ供じける故に名くと云ふ。其 後日蓮、猿(サル)どもの我を養(ヤシナ)ひし事は、山王の御利生なりとて、此山の南に法性寺を建立し猿畠山(エンハクサン)畠中と號す。今は妙本寺の末寺なり。山の中段に堂あり。法華經の題目・釋迦多寶を安ず。日蓮の巖窟(イハヤ)は、堂の後(ウシ)ろにあり。窟中に日蓮の石塔あり。堂の北に巖窟(イハヤ)相並(ナラ)んで六(ムツ)あり。此(コ)れ六老僧の居たる岩窟(イハヤ)也。堂の前に日朗の墓あり。日朗遷化の地は妙本寺なり。墓は此所にあり。寺建立は弘安九年也と云ふ。

   *

とある(太字下線はここでの私の仕儀)。「山王の御利生」とは猿が山王権現(日吉山王)の御使いとされることによる(神仏習合であるから、日蓮を助けるのである)。別に日蓮の「松葉ヶ谷(やつ)の法難」の際に白猿が彼を導き、ここへと逃がしたとも伝える。「六老僧」は日蓮六老僧のこと。日蓮が死を前に後継者として示した直弟子の日昭・日朗・日興・日向・日頂・日持の六人を指す。絵図を見て驚くのは、ここにあるやぐらが有意に六つの形状を示しており、そこに『六老僧巖窟』と記されていることである。ここは日蓮の弟子である彼等の羅漢堂でもあった(少なくともそのようなものとして認識されていた)のである。何故、私が「驚く」と書いたかと言えば、現在の当該地にはこのような六穴は確認出来ないからである。或いは現在、「まんだら堂」と呼ばれる、名越の切通し方向のやぐら群と混同している可能性もないとは言えないが、鎌倉のやぐらは砂岩の鎌倉石をただ掘ったもので容易に風化するから、現在は消滅したと考える方が自然ではある。現況は鎌倉観光サイトの「たのしい鎌倉」の「自然と歴史が交わる散策路[お猿畠の大切岸]」がよい。同ページの『▲崖に沿って散策路が整備されています。崖の下と上部に、ぐるりと道が続いています』というキャプションがある切岸にある痕跡は、この『六老僧巖窟』の跡らしくは見える。因みに、ここで述べた名越の「まんだら堂」には曾て妙行寺という奇体な寺があった(現在はない)。私は二十一の時、まだ今のように整備されていなかった名越切通を四苦八苦で踏破し、辿り着いたその妙行寺の小山白哲老師から伝授された、宇宙創造の真相を語る直筆である文書も「新編鎌倉志卷之七」の「名越切通」に附注してあるが、これ、今読んでみても、なかなかに凄い。私のブログの「小山白哲老師 藪野直史伝授 宇宙創造之仏説 (肉筆)」にも掲げてあるので、是非、御一見あられたい。

「上足」弟子の中でも特に優れた者のこと。高弟。高足。]

 

 其後(そのご)、能州惣持寺(さうぢじ)の沙門、鶯囀司(わうてんす)といひしは、洞家(どうけ)におゐて希有の人なりければ、一山(さん)の崇敬(すうげう)、他(た)に異(こと)に智辯なるゝがごときに愛(め)で、學業のいさぎよきを慕ひ、衆議一同して鶯囀司を舉げ進め、後任せしめんと議(はか)りけるを、此僧、たゞ浮雲流水(ふうんりうすい)の思ひあり、轉蓬(てんはう)の癖(くせ)を具して住職をのぞまず。さまざまと人の勸め擧げもてはやし、

「和尚、和尚。」

と崇(あが)むるに飽きて、夜、ひそかに寺を出で、いづくをそこと、心かくる態(わざ)もなく、身にそゆる物とては、三衣袋(〔さん〕えふくろ)・鉄鉢(てつはち)・錫杖(しやくでう)より外に貯へたる物なければ、朝(あした)に托鉢し、夕(ゆふべ)に打飯(だはん)を乞ひ、かなたこなたと吟(さまよ)ひありき、渇しては水を吞み、疲れて石に枕し、待つ事なく、急ぎもやらぬ道を、一ツの里にだに三宿(みとまり)と逗留せず。ある日は都に出で、市にうそぶき、または難波津(なにはづ)に杖をたて、心に感ある時は詩を賦し、歌を吟じ、諸國にいたらぬ隈なく、尋ねぬ名所もなかりしかども、

『こゝぞ禪定と、膝を屈し、觀念の眼(まなこ)こらすべき地もなし。』

と、撰びありきて、今年、元祿六年の秋は、此猿畠山に分け入り、かの巖窟に、しばらく憩(いこ)ひ、かりそめに立ちやすらひ給ひけるが、何となく心澄み、うき世の外のたのしみをも極めつべく思はれしかば、

『よしや、住みつかばこゝとても、かしがましかるべき所ながら、いづくも假のやどりなるを。』

と、禪衣をときて、襖(ふすま)とし、鐵鉢を枕にあて、そこらの風景、暮れゆく色をながめ出だしておはしけるに、此窟のほとりは、皆、大きなる桐の木はらにて、枝老ひ、梢(こずゑ)たれて、地をはらふかとみゆるばかりなるが、秋來(こ)ぬと目には見えぬものから、風の音づれを、桐の葉の零(お)ちてぞ、折からのあはれも身にしみてしられしかば、彼の西行の、

 

 秋たつと人は告げねどしられけりみやまのすその風のけしきに

 

などながめくらして、その夜は洞の内に蹲(うづくま)り居(ゐ)てあかし給ひなんとするに、十四夜(まつよひ)の月、木(こ)の間(ま)よりほのめきそめて、むしのね、近く遠く、ひらきあひて、松のしらべをもてなしたる、さながら塵外(ぢんぐわい)のたのしび・無何有(むかう)の里・朱陳(しゆちん)の民ともやいはんなど、觀じ居給ふ折から、異(こと)なる蜂どもの、あまた、何ともなく、むらがり來て、此桐の林に飛びかけりて鳴くあり。

[やぶちゃん注:「能州」能登。

「惣持寺(さうぢじ)」現在の石川県輪島市門前町門前にある曹洞宗諸岳山總持寺祖院。曾ては曹洞宗大本山總持寺であったが、明治四四(一九一一)年十一月、本山機能が横浜市鶴見へ移転する際、移転先が大本山總持寺となり、ここはかく改称されて別院扱いとなった。参照したウィキの「總持寺祖院」によれば、『元は諸岳寺(もろおかじ)と呼ばれた行基創建と伝えられる密教系寺院(一説には真言宗』『)』であったが、元亨元(一三二一)年に『当時の住持である定賢が』、『霊夢を見て』、『越中国永光寺にいた瑩山紹瑾に寺を譲った。瑩山紹瑾はこれを禅林として改め、総持寺と命名して開山となった』。『翌年、瑩山紹瑾は後醍醐天皇よりの勅問』十『問に答えた褒賞として、同寺に「日本曹洞賜紫出世之道場」の寺額が授けられたとするが、伝説の域を出ないと言われている』。正中元(一三二四)年、『瑩山紹瑾は「諸岳山十条之亀鏡」を定めて寺制を整えた。その後、寺を継承した峨山韶磧によって整備され、五哲と呼ばれた門人によって』五『ヶ所の子院が設けられた。曹洞宗の多くの寺院が同寺の系統をひき、本山の地位や諸権利を巡って越前国永平寺と論争を行うこともあったものの、「能登国の大本山」すなわち能山として親しまれた』。その後も『室町幕府や地元の能登畠山氏・長谷部氏の庇護を受け』、江戸時代になってからも、明暦三(一六五七)年に寺領四百石が『与えられるなど、加賀藩時代を通じて手厚い保護を受けた』。『また、江戸幕府は』元和元(一六一五)年、『永平寺・總持寺を』、『ともに大本山として認めるとともに』、『徳川家康の意向』によって、一千両が『寄付され』、『幕府祈願所に指定された。住持の地位は』五『つの塔頭(普蔵院、妙高庵、洞川庵、伝法庵、如意庵)による輪番制が採られた』とある。

「鶯囀司(わうてんす)」不詳。実在したとすれば、特定職種を統括する「司」と称していること、「洞家(どうけ)におゐて希有の人」(当時の曹洞宗の僧侶の中でも稀れに見る名僧)とされていた以上、名が残らないのはおかしい。架空の人物であろう。

「他に異(こと)に智辯なるゝがごときに」その知識と弁舌は他に比肩し得る者がいないほどに。

「愛(め)で」称讃され。

「いさぎよき」道に反するところがく、精錬にして潔白である。

「後任」總持寺の後任住持。

「轉蓬(てんはう)の癖(くせ)を具して」「轉蓬」は風に吹かれて飛ぶ蓬(よもぎ)で、漂泊の身の上に譬える語。「癖」はそうした性質・属性。それを「具して」とは、生涯を行雲流水の行脚による悟達の覚悟を具(そな)えて、堅持して、の意。

「和尚」住職以上の僧への敬称。

「三衣袋(〔さん〕えふくろ)」「三衣」は「さんね」とも読む。本来はインドの比丘が身に纏った三種の僧衣で、僧伽梨衣(そうぎゃりえ:九条から二十五条までの布で製した)・大衣(だいえ=鬱多羅僧衣(うったらそうえ):七条の袈裟で上衣とする)・安陀会(あんだえ:五条の下衣)のことを指すが、ここは単に僧衣で、さらにそれ以外の最小限の身の回りのものを入れる袋のことである。

「打飯(だはん)」「打飯料(だはんりやう)」(「たはんりやう」とも読む)で、僧の食事の素材や費用の意。布施の意。

「一の里にだに三宿(みとまり)と逗留せず」一所無住は洋の東西を問わず、本来あるべき宗教者の修業の哲理である。

「市にうそぶき」市井に詩歌を吟じ。

「難波津(なにはづ)」大阪の湊の古名。

「元祿六年」一六九三年。本「御伽百物語」は宝永三(一七〇六)年に江戸で開版されている。

「かしがましかるべき所」人の声や物音が五月蠅く感じられる、騒々しい所。江戸時代の鎌倉は産業地としては僻地の漁村であったが、江戸への魚類の主要な供給地の一つであり、漸く、鎌倉時代の古跡巡りなども流行り始めていたから、必ずしも奇異な表現ではないと私は思う。

「襖(ふすま)」ここは夜具の意。

「桐の木はら」「桐の木原」。桐の林。

「秋來(こ)ぬと目には見えぬものから、風の音づれを、桐の葉の零(お)ちてぞ、折からのあはれも身にしみてしられしかば」次の西行の和歌の枕のこれは、「古今和歌集」の「巻之四 秋歌上」の劈頭を飾る藤原敏行の一首、

 

   秋立つ日、よめる

 秋來ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどかれぬる

 

に基づく。

「秋たつと人は告げねどしられけりみやまのすその風のけしきに」「山家集」の「秋」の二首目、

 

   山居初秋

 秋立つと人は告げねど知られけりみ山のすそ野の風の氣色に

 

である。

「十四夜(まつよひ)の月」「翌日の八月十五夜の月を待つ宵」の意で、陰暦八月十四日の夜。小望月(こもちづき)。これが先に提示された、元禄六年のことであったとすれば、グレゴリオ暦一六九三年九月十三日で、月の出は午後四時五十八分、正中は午後十一時五十二分、月没は翌日の午前四時五十四分である。以上はいつもお世話になっている「暦のページ」での計算に拠った。

「ひらきあひて」「開き合ひて」。一面に広く鳴き合って。或いは、辺り一帯に広く鳴き渡って。

「松のしらべ」松籟。

「もてなしたる」主語は虫の声。

「塵外(ぢんぐわい)のたのしび」穢土としての現世の外の楽しみ。

「無何有(むかう)の里」「何有」は「何か有らむ」と読み、仮象の愚かな対象など「何物もない」の意。自然のままで何の作為もない憂いのない仙境。桃源郷(パラダイス)。

「朱陳(しゆちん)の民」朱陳村(そん)の村人。朱陳村とは白居易の「朱陳村」(八一〇年頃の作)に描かれているユートピアとしての村で、ここは世間とはほぼ関係が絶たれており、人情風俗が純朴で、村中には「朱」と「陳」の二つの姓だけを持った人々が暮し、村人はここの民として生まれ、ここで安らかに死んでゆく。代々、互いに婚姻を結んでその土地に安住して生活を楽しみ、誰もが皆、長命である、と記された桃源郷のような村である。モデルとしては詩に「徐州古豐縣」であるが、「去縣百里」とあり、これは現在の江蘇省の北の境にある豊県(漢の高祖の出生地として知られる)内に当たる。ここ(グーグル・マップ・データ)。現在の同県には「朱陳路」の名は残る(ここ(グーグル・マップ・データ))。

「異(こと)なる蜂ども」見かけない奇体な姿形をした蜂たち。

「鳴くあり」鳴いている。ここでは読者はただの羽音を「鳴く」と採る。しかし――]

 

「こはいかに。折しもこそあれ、日暮(ひぐれ)、雲おさまる山中に、蜂のかく飛びかふは、若(も)し、蜜(みつ)するとかやいふなるもありとは聞けど、それさへ晝のみぞ出づるなる物を。」

と、しばし、ながめいりてきくに、蜂どものこゑは、人の物いふやうに、

「ひた。」

と吟詠するなり。

「何をかいふや。」

と聞けば、

 

 すむ身こそみちはなからめ谷の戸に出で入る雲をぬしとやはみん

 

と、うたふなり。

「誠に彼の京極太政大臣宗輔と申せし人の、蜂をあまた飼はせ給ひ、何丸(なにまる)角丸(かまる)などゝ名を付けて呼び給ひ、召しに隨ひて御まへに參りたるに、『何丸、あの男さして來たれ』と仰せられつれば、いつも仰せにしたがひしとか、十訓(くん)といふものに注されしも、實(げ)にかゝる蜂にこそ。」

と、さしのぞき給へば、やうやう、其たけ、一寸あまりある生身(いきみ)の人にて、然も、翅(つばさ)あり。

[やぶちゃん注:「蜜(みつ)するとかやいふなるもありとは聞けど、それさへ晝のみぞ出づるなる物を」よく意味が判らない。「花の蜜を吸うとかいう蜂があるとは聴くけれども、それも絵にばかり描かれたものしか私は知らぬのに……」の謂いか? 蜜蜂が元禄期に知られていないかった、しかも善知識の彼が知らなかったというのは解せない。識者の御教授を乞う。

「ひた」「無暗に」「頻りに」「一途に」の意か。

「すむ身こそみちはなからめ谷の戸に出で入る雲をぬしとやはみん」不詳。筆者の創った一首か。

「誠に彼の京極太政大臣宗輔と申せし人の、蜂をあまた飼はせ給ひ、何丸(なにまる)角丸(かまる)などゝ名を付けて呼び給ひ、召しに隨ひて御まへに參りたるに、『何丸、あの男さして來たれ』と仰せられつれば、いつも仰せにしたがひしとか、十訓(くん)といふものに注されしも、實(げ)にかゝる蜂にこそ」「十訓」は鎌倉時代の説話集「十訓抄(じっきんしょう)」のこと(全三巻。序は建長四 (一二五二) 年のクレジットを持つ。作者は、写本の一つである妙覚寺本奥書からは「六波羅二臈(ろくはらにろう)左衛門入道」なる者とするのが通説で、彼は鎌倉幕府の御家人湯浅宗業(むねなり)の通称ともされるが、一方では鎌倉初期の公家の学者菅原為長とする説もある。約二百八十の説話を「心操振舞を定むべき事」以下十条の教訓の下に分類配列して、各説話ごとに著者の評言を加えたものであるが、先行する平安期の説話集に拠ったものが多い)。ここに示された「京極太政大臣宗輔」及び「十訓抄」の当該話は、私の『柴田宵曲 續妖異博物館 「蜂」』で注釈し、当該原文を引用してあるので、参照されたい

「其たけ一寸あまりある生身(いきみ)の人にて、然も翅(つばさ)あり」仙人の形象であろうが、蜂に見紛う三センチほどの背丈の生ま身の人間の姿、となると、これはもう、西洋のフェアリー(fairy妖精)みたようなものの方がイメージし易い。]

 

 鶯囀司も、あやしく珍らかなる蟲のさまかなと思ひ、扇をひろげて、柱杖(しゆでう)のさきに括(くゝ)りつけ、此蜂を、ひとつ、うちおとし、房子(もし)の袋にいれ、鉢の子の上にすえ置きぬ。

「桐の木にむれつゝ遊びけるは、もし、露をや愛しけん。」

と桐の葉、露ながら、折(をり)て、其かたはらにうち置き、ながめ居たりしに、しばらくして、此むし、傍(かたはら)にそはみ居て、すこし吁嗟(なげ)くこゑあり。

[やぶちゃん注:「房子(もし)」これは「綟」「綟子」で「もぢ」、麻糸で目を粗く織った布(通常は夏の衣や蚊帳(かや)などに使う)のことではなかろうか。

「鉢の子」仏道修行者の食器及び僧尼が托鉢の際に所持する鉄鉢。ここは後者。「応量器(おうりょうき)」とも呼ぶ。後で「袋の口をほど」くというシーンが出るので、綟子(もじ)で出来た小さな小物入れにそっと包み捕って、袋の中のゆとりを大きくとった上で口を縛り、鉄鉢の中に入れ置いたものであろう。

「傍(かたはら)にそはみ居て」綟子(もじ)の縁の辺りに寄り、横(外)の方を向いて凝っとして。

「吁嗟(なげ)く」「吁嗟」は通常、歎き叫ぶ「ああ!」という感動詞として使われる。]

 

 忽ちに、人かたちなる蜂ども、數(す)十、飛び來たり、彼(か)の袋のあたりに集まりつゝ、そのさま慰(なぐさむ)るに似たり。

 あとより、おしつゞきて、其たぐひ、あまた、あるひは、いとちいさき車に乘り、あるひは輦(てぐるま)して、いり來たり。

 此むしをとぶらひけるを聞くに、ほそく、ちいさきこゑなり。

 鶯囀司、寢たるさまして聞き居たるに、主人と見えつる者の名を、

「伏見の翁。」

といひけるが、此とらはれし蜂にむかひていふやう、

「吾(われ)、君が此(この)不祥(ふしやう)のために筮(めと)をとりて、占ひてまいらすべし。君、よろしく無有(むう)を觀じたまへ。君、既に死籍を除(ぢよ)して命(いのち)のあやぶみなき身ならずや。何のなげく事かあらん。これ、天心造化(てんしんざうくわ)のしばしば移る所也。」

となぐさむ。

[やぶちゃん注:「いとちいさき車に乘り、あるひは輦(てぐるま)して、いり來たり」この「車」と「輦」の違いがイメージ出来ない。前の「車」は独り乗りの指南車のようなもので、誰も牽くことなく、自動的に動いてくる(仙人ならば可能である)もの、後者は所謂、高貴な者が乗用する屋形に車を付けて手で引く牛車様・輿(こし)様のようのものか。後者も、しかし、誰かが牽くのではなく、自ずと動いてくると見たい。

「寢たるさまして」寝たふりをして。

「伏見の翁」「此とらはれし蜂」がその訪ねて来た一人をかく呼んだのであろう。

「不祥(ふしやう)」不運。

「筮(めと)」「めど」で「めどぎ」「めどき」であろう。易で占筮(せんぜい)のために用いる五十本の細い棒のこと。もとは蓍萩(めどはぎ双子葉植物綱バラ亜綱マメ目マメ科ハギ属変種メドハギLespedeza juncea var. subsessilisの茎を使ったが、のちには多く竹で作ったので、現行のように筮竹(ぜいちく)と言うようになった。

「無有(むう)を觀じたまへ」「実在と非実在を観想なされよ。」。

「天心造化(てんしんざうくわ)」天然自然。]

 

 又、

「增翁(ましてのおきな)。」

と、いふあり。

 かれがいふは、

「此ごろ、我、白箸翁(しらはしのおきな)と博奕(ばくえき)して琅玕紙(らうかんし)十幅を勝ち得たり。君、此難をのがれ出でたまはゞ、禮星子(れいせいし)の辭をつくりて給はるべし。」

など、揔(すべ)てみな、人間世(にんげんよ)の知るべき事にあらず。

[やぶちゃん注:「琅玕紙(らうかんし)」「琅玕」(ろうかん)」は暗い緑色をした半透明の宝玉のこと。硬玉の一つで、装飾材や高級硯材とされ、後に、この色から転じて、「美しい竹」を譬える語でもあるが、ここは前者で採る。この世にあり得ない硬玉の宝玉で出来た薄い薄い紙である。

「禮星子(れいせいし)の辭」不詳。「人間世(にんげんよ)の知るべき事にあら」ざれば、私には到底、判らぬ。]

 

 終宵(よもすがら)、かたりあかして、去りぬ。

 鶯囀司、ふしぎの思ひをなし、夜あけしかば、袋の口をほどきて、放ちやりぬ。

 みづからも、其窟(いはや)を出でて、極樂寺の切通しを小坪にと心ざして出でし所に、ふと、人に行きあひたり。

 そのたけ、三尺ばかりなるが、黃なる衣服して、空より、下だり、

「我は三淸(せい)の使者、上仙の伯(はく)といふ官(くわん)にいたりたるもの也。名は民(たみ)の黑人(くろびと)といふもの也。今宵、君が前に來たりあつまりし人々は、皆、「本朝豚史(ほんてうとんし)」などにいひつたへし、日本の仙人たちなり。難にあひしは、彼の遊仙窟の讀みを傳へし賀茂の翁なり。今、君がなさけによりて、二たび、上淸(じやうせい)の天にのぼりし禮のために、我をくだして謝せしめらる。君、また、學業いたりたるゆへ、その身ながら、仙骨を得て、近き内に登天あるべし。」

と、いふかと見えしが、たちまち消えて、行きかたを失ひけるとぞ。

 其後(そのゝち)、鶯囀司も、また、修行して、諸國の名山勝地にあそびけるが、終に此僧もそのゆくかたをしらず、といへり。

[やぶちゃん注:「其窟(いはや)を出でて、極樂寺の切通しを小坪にと心ざして出でし所に、ふと、人に行きあひたり」青木鷺水は鎌倉に行ったことがないと見た。法性寺から、遙か西方、由比ヶ浜の反対の稲村ケ崎の根元にある極楽寺切通しを通って、由比ヶ浜の真反対の東方の小坪へ向かうというのは、物理的に話が通じないからである。

「三淸(せい)」道教の最高神格のこと。ウィキの「より引く。『「太元」を神格化した最高神元始天尊と、「道」を神格化した霊宝天尊(太上道君)、老子を神格化した道徳天尊(太上老君)の三柱』。『それぞれ』、『道教における天上界の最高天「玉清境」「上清境」「太清境」に住し、この三天のことも「三清」と呼ぶ』。

「上仙の伯(はく)」後に出る通り、天界・仙界の「官」名。仙人の最上クラスの「上仙」の、その中でも「伯」と称するからには、最上級官僚であろう。

「本朝豚史(ほんてうとんし)」昨日の公開時には「本朝」を中国と誤釈し、「豚史(とんし)」を不詳として注したところ、以前にも北越奇談」でお世話になったH・T氏から、これは林読耕斎の「本朝遯史」である旨の御教授を戴いたので(昨夜に発信して下さったが、私は近日、夕食後早くに就寝してしまうため、開封は今朝に遅れた)、ここに新たに注することとした。かの林羅山の四男で江戸前期の儒者であった林読耕斎(はやし どく(どっ)こうさい 寛永元(一六二四)年~寛文元(一六六一)年)の主著とされる日本の隠者たちの叢伝である「本朝遯史(ほんちょうとんし)」のこと。「遯」は「遁れる」「隠れる」「ある場(世界)から逃げ出す」の意で「遁」に同じい。「本朝遯史」は寛文四(一六六四)年四月刊で、上下二巻、古代から室町時代までの隠遁者計五十一人の各小伝を漢文で纏めたものである。参照した『放送大学研究年報』(十四・一九九六年刊)の島内裕子論文『本朝遯史』と『扶桑隠逸伝』にみる隠遁像(PDF)によれば、後のリンク先で見て戴いても判るが、『現代でもよく知られている猿丸や蟬丸、西行・長明・兼好などの歌人・文学者もいるが、多くは今ではほとんど無名の人々』である。筆者林読耕斎は「朝日日本歴史人物事典」によれば、初名を守勝、後に靖又は春徳とした。読耕斎は号。京都に生まれ、後に江戸に移った。幼時より兄鵞峰から読書を、又、堀杏庵・那波活所ら羅山門人などに学んだ。博覧強記で、父や水戸家の蔵書を読破し、詩歌連句に勤しみ、「豊臣秀吉譜」「中朝帝王譜」の編選などでは父の代作を務め、朝鮮通信使とも筆談を交わせるほどであったという。しかし、病弱で官事を好まず、叔父方分家の相続を幕閣から、再三勧められるたにも拘わらず、それに従わず、正保三(一六四六)年になって老中らの要請を受けて、已む無く剃髪して幕儒となった。明暦二(一六五六)年には法眼となっているが、三十八歳で没した。本「本朝遯史」は、そうした彼自身の中の隠逸志向がよく現われた作品と言え、「詩仙堂三十六詩仙」の選出をはじめとして、その文事は初期林家の享楽的な一面をも表していると言われる。ここに登場する「民(たみ)の黑人(くろびと)」なる人物はまさに、その「本朝遯史」の劈頭に配された隠者で、幸い、サイトTaiju's Notebookの「本朝遯史の抄電子化で、その目録と冒頭三人(民黑人・藤原麻呂・猿丸)の部分が載り、読めるので参照されたい(これもH・T氏に教えて頂いた)。そこには彼の漢詩が奈良時代に成立した、現存する最古の日本漢詩集「懐風藻」(撰者不明の序文によれば、天平勝宝三年十一月(ユリウス暦七五一年十二月十日から翌年一月八日まで)に完成)に彼の二篇の詩が載ることから、「此書之所錄、自天智之世、至孝謙之時。然則黑人亦其際之人也」(此の書の録する所、天智の世より、孝謙の時に至れり。然らば則ち、黑人も亦、其の際の人ならんや)としつつも(この謂いを額面通りの治世と採るなら、六六八年から七五八年の間となる。なお、訓読は自然流で行った。以下も同じ)、この「民黒人」という名が如何にも不審であり、「未審黑人何自之出乎」(未だ黑人は何れより出ずるか審らかにせず)と言い添えている。島内氏は先の論文の中でも彼を採りあげておられ、そこに『奈良時代に正立した漢詩集『懐風藻』の末尾近くに掲載されている漢詩の作者で、『懐風藻』では「隠士民黒人」となっている。彼は「幽棲」と「独坐山中」という二編の漢詩を残している』として、その漢詩二篇(本朝遯史」でも両篇全詩を引用してある)を訓読したものを掲げられて鑑賞された後、『作者民黒人がどのような経歴の人であるかも、生没年も詳しいことは何もわからない』が、これら二篇の詩を読むと『おのずからなる気韻が、それこそ「松下清風」のように、読む者の心を吹き抜け、彼が感じた心ののびやかさがこちらに伝わってくる。この詩を読む人間の中に、隠遁の別天地が生まれ、息づく。世間の煩わしさをよそにして、自然とともに心豊か暮らすという隠遁の理想の姿が、民黒人の詩から垣間見られる』とされ、本書巻頭に彼が『置かれているのも、編者である読耕斎が、彼の生き方に深く共鳴したからであろう』と述べておられる。最後に、改めて語釈指摘と御教授をして下さったH・T氏に御礼申し上げるものである。

「遊仙窟」知られた、唐代伝奇の一書。作者は張鷟(ちょうさく 生没年未詳)と伝えられる。ウィキの「遊仙窟」によれば、作者と同名の張文成なる『主人公が、黄河の源流を訪れる途中、神仙の家に泊まり、寡婦の十娘、その兄嫁の五嫂たちと、一夜の歓を尽くすというストーリーで』、『文章は当時流行した』四六駢驪体『によって書かれている』。『唐代の伝奇小説の祖ともいわれるが、中国では早くから佚』『書となり、存在したという記録すら残っていない。しかし日本では遣唐使が帰途にあたり、この本を買って帰ることが多く流行し』、『後に魯迅によって日本から中国に』逆輸出されている。

「讀み」話の意で採る。]

 

2018/03/19

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 流され王(9) / 流され王~了

 

 薩摩・大隅の天智天皇にも、豐後の玉世姫とよく似た玉依姫の話が傳つて居る。是と同時に王子の神を主として祭つた場合には、或は牛根郷の居世(こせ)神社には欽明天皇の第一皇子と謂ひ(地理纂考卷二一)、佐多郷の十三所大明神では忍熊王子と傳へて、何れも神船漂著の口碑の存することは、北海岸で半島の國王を説くものに近い(三國神社傳記卷中)。忍熊王子は越前丹生郡にもあるが、十三所と謂ふに至つては略其起源の熊野權現なることを示して居る。而も熊野には限らず越前では氣比白山、東國では香取鹿島、さては西州の阿蘇も宇佐も、王子卽ち苗裔神を以て遠國を經略せられた神々は、指を屈するも猶足たらず、三輪と賀茂とは申す迄も無く、播磨の荒田里、常陸の哺時臥山(くれふしやま)の如き、或は又美濃の伊那波神、上總の玉前神(たまさき)等、神が御子を産ませられて神德を永く傳へたまふと云ふ話は殆ど日本國教の第一の特色と謂つてもよい。それが我國の民心に浸染したことは、後世の佛徒も之を無視することが出來ず、如何に謙遜なる念佛聖の宗旨でも、御一方くらゐは無名の皇族を我本山にかくまひ申さぬは無く、思ひ掛けぬ田舍の寺にも每に流され王の物語は釀成せられつゝあつたのである。自分は古風土記に記された世々の天皇の御遺趾乃至は國史の綾を爲す英邁なる皇子の御事蹟まで、祖先民人が信仰の美しい夢であつたとは言はぬが、少なくとも今日尚我々を迷はしめる國々の平家谷、小松寺や惟盛後裔の舊記の類だけは、斯う云ふ立場から一應精細なる比較研究をして後に、それがどう云ふ意味で、我々も史料なるかを決定してみたいと思ふのである。そつとして置いて次第に忘れさせようとか、又はごく内々で手を振るとか云ふ態度が、之に由つて行く行く改まつたら、それこそ武州の高麗王等が、無意識に世に遺す所の大なる恩惠である。

                     (大正九年七月、史林)

[やぶちゃん注:「玉依姫」例えば、鹿児島県志布志市志布志町安楽(やすら)にある安楽神社の由緒について、「鹿児島県神社庁」公式サイト内の同神社の解説に、『天智天皇の大后倭姫が大津の宮で崩御された後、天皇大后に供奉した臣等が、和銅年間』、『此所に姫の霊を勧請して霊社を創建した』。『また』、『天智天皇が当所より頴娃』(えい:鹿児島県(離島部を除く)の南部にあった地名。現在、南九州市頴娃町(ちょう)。開聞岳の西方)『の里へ行幸され、五ヶ月御滞留の後当安楽へ還御されたが、舟磯の宿主の老翁老婆の世話により』、『ここに仮殿を営み置かれ、御心安楽であったため』、『地名を安楽という。天皇が頴娃へ御滞留中、二の后玉依姫は妊娠され、翌年当所にて女子が御降誕、乙姫と名付けられた。玉依姫は故郷の頴娃へ帰られたが、姫の崩御の後、和銅年間』、『此所に霊社を建立した』とある。

「牛根郷の居世(こせ)神社」鹿児島県垂水(たるみず)市牛根麓(うしねふもと)にある。ここ(グーグル・マップ・データ)。「垂水市観光協会」公式サイト内の「居世神社」によれば、『神社帳には欽明天皇の皇子である敏達天皇が祭神として書かれて』おり、『その関わりを示すとされる金箔で覆われた菊の御紋が、社殿の梁に飾られて』ある。『源氏に敗れた安徳天皇をお祭りしているという説もあ』るとする。『居世(こせ)と読むが』、『伊勢とも読める。平家は伊勢神宮を崇拝し』、『権威を誇ってきたが、都を追われた身ゆえ、公に伊勢とはなのれなかったので』、『隠語を用いたのではないか』とも『言われている。他にも』この辺りには、『都を偲ばせる地名が多く残っている。宮崎大路、東大路、中大路御所の尾,御前,おぜん原いつかは都へ帰れると信じて』、『山深いこの地に名づけたのだろうと言われ』ているとある。

「欽明天皇の第一皇子」実は欽明天皇には渟中倉太珠敷尊(ぬなくらのふとたましきのみこと:後の敏達天皇)の前に第一子として、同母(石姫皇女(いしひめのひめみこ:宣化天皇の皇女))兄の箭田珠勝大兄皇子(やたのたまかつのおおえのみこ:八田王)がいる。欽明天皇一三(五五二)年に薨去している。死因は不詳。柳田國男が言っているのは、欽明天皇皇子敏達天皇ではなくて、この謎の若死にを遂げた「第一皇子」である。

「地理纂考」既出既注であるが、再掲しておく。明治四(一八七一)年に刊行された鹿児島県私立教育会編「薩隅日地理纂考」(さつぐうにちちりさんこう)。本格的な最初の鹿児島県地誌。

「佐多郷の十三所大明神」現在の肝属郡南大隅町佐多辺塚(へっか)にある邊塚神社に合祀されて今は存在しない。参考にしたのは、細谷章夫著(一九九六年)とする「第六章 佐多町の信仰風土」と称するPDF文書で、そこの「第3節 その他の神社」に、この合祀は戦後の昭和二四(一九四九)年に行われたとあり、合祀されたのは、この十三所大明神の他に、枝若宮(若宮)・厳島神社(弁財天)・鹿児島神社(八幡様)・鎮守神社(熊之細家氏神)の五社である。最早、それらの元の由緒縁起は全く不詳となっているらしく、リンク先には『野田千尋氏』、『その著書「佐多岬」で「辺塚川の上流にズゴラ(洞ケ原)というところがある。ここへ行く途中の中腹に高さ』二『メートル以上もある二つの供養石と元禄の年号のある高野山』『真言宗系の僧侶のお墓が二』、『三十基ある。」と記している。そしてこの墓に「小石に経文を一字ずつ書いて(一字一石経)埋めたという」こと』、『その墓は』、『むかし』、『流行病で死んだ平家の落人たちの墓だといわれている』、『と記している。真言宗系の僧侶と平家の落人との関係』、『僧侶の墓地が二』、『三十基もあるとするなら』、『寺があったとみるほうが常識。それらすべて不明である』と擱筆されてある。

「忍熊王子」「おしくまわうじ」。ウィキの「忍熊皇子」によれば、生年不詳で没したのは神功皇后元年三月とする、『記紀に伝わる古代日本の皇族』とする。「日本書紀」では「忍熊皇子」「忍熊王」、「古事記」では「忍熊王」、他文献では「忍熊別皇子」とも表記されるとあり、第十四代『仲哀天皇皇子で』第十五代『応神天皇との間での対立伝承で知られる』とする。「日本書紀」に『よれば、新羅征討(三韓征伐)中に仲哀天皇が崩御し、神功皇后は筑紫で誉田別尊(ほむたわけのみこと、応神天皇)を出産する。それを聞いた麛坂皇子と忍熊皇子は、次の皇位が幼い皇子に決まることを恐れ、共謀して筑紫から凱旋する皇后軍を迎撃しようとした』。『皇子らは仲哀天皇の御陵造営のためと偽って、播磨赤石(現在の兵庫県明石市』『)に陣地を構築し、倉見別(犬上君の祖)と五十狭茅宿禰(いさちのすくね、伊佐比宿禰とも)を将軍として東国兵を起こさせた。ところが』、『菟餓野(とがの、比定地未詳)で反乱の成否を占う狩を行った際に、麛坂皇子が猪に襲われて薨去したため、不吉な前兆に恐れをなした忍熊王は住吉に後退した』。『一方、神功皇后は海路(瀬戸内海)の要所に天照大神・住吉大神を鎮祭し、紀伊に上陸した。皇子軍は更に退いて菟道(うじ:宇治)に陣立てし、武内宿禰と武振熊』(たけふるくま:和珥(わに)臣の祖)『を将軍とする皇后軍に挑んだが、武内宿禰の策略によって弓・刀を失い、逃走した果てに逢坂(現・滋賀県大津市の逢坂)にて敗れた』とする(「古事記」では戦闘場面で武内宿禰は登場せず、全て武振熊の功績としている)。『逃げ場を失った皇子は、五十狭茅宿禰とともに瀬田川に投身した。その遺体は数日後に菟道河から発見されたという』。『以上の反乱伝承は』「日本後紀』「新撰姓氏録」「住吉大社神代記」など『でも言及されている』。『一般には、上記の内乱伝承は神功皇后・応神天皇の集団と麛坂王・忍熊王の集団との政治的な対立抗争といわれる。これに対し』、四『世紀後半のヤマト王権中枢である佐紀(奈良県北部:佐紀古墳群)の正統な後継者が麛坂王・忍熊王であったと見て、実際に反乱を起こしたのは神功皇后・応神天皇の側(元は山城南部の佐紀政権支持勢力か』『)で、勝利後に応神勢力によって佐紀から河内(大阪府東南部:古市古墳群・百舌鳥古墳群)に中枢が移されたとする説がある』。『また』、『忍熊皇子らが播磨赤石(明石)に御陵造営と偽って陣地を構築したという伝承は、五色塚古墳(兵庫県神戸市)に基づくと見られ』、『この五色塚古墳は佐紀陵山古墳(奈良県奈良市)の相似形で佐紀政権とのつながりを示す大型古墳であるが、一帯での古墳築造は』五『世紀代に停止する』四『世紀代勢力の衰退は』、『同じく佐紀陵山古墳相似形の網野銚子山古墳(京都府京丹後市)を含む丹後地方でも見られることから、ヤマト王権の中枢が佐紀から河内に移動する』四『世紀末において、在地首長層の盛衰をも引き起こす内乱が生じていた可能性が考古学的にも示唆されている』とある。『福井県丹生郡越前町の劔神社(式内社論社、伝越前国二宮)では、忍熊皇子が「劔御子神」の神名で同地開拓の祖として祀られている。劔神社に関しては』宝亀二(七七一)年という『全国でも早い段階で神階奉叙の記事が見えるが、これは祟る性質を持つ「敗者の霊」として祭神の忍熊皇子が重要視されたため』、『とする説がある。また、劔神社では早い時期に神宮寺も設置されており(』八『世紀初頭と推定)、やはり仏道の面から忍熊皇子の霊を慰撫する必要があったとも考えられている』とある。御霊扱いの部分に非常に興味が惹かれる。

「三國神社傳記」文化五(一八〇八)年成立。よく判らぬが、一之宮神社・鹿児島神社・川上天満宮の「鹿児島三社」についての書ではないかと推察する。

「越前丹生郡」福井県丹生(にゅう)郡。現在は越前町一町であるが、旧郡域はウィキの「丹生郡」を参照されたい。

「十三所と謂ふに至つては略其起源の熊野權現なることを示して居る」通常、熊野三所権現以外の神々を含めて「熊野十二所権現」と称し、各地の十二所神社の名もそれに由来するが、熊野那智大社では「瀧宮」を第一殿として、以下、一殿ずつ、繰り下げとして、中四社・下四社の八神を第六殿(八社殿)に祀り、合わせて「十三所権現」として祀っている

「氣比」福井県敦賀市曙町にある氣比(けひ)神宮。式内社(名神大社)で越前国一宮。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「氣比神宮」によれば、『敦賀は天然の良港を有するとともに、北陸道諸国(現在の北陸地方)から畿内への入り口であり、対外的にも朝鮮半島や中国東北部への玄関口にあたる要衝である。神宮はそのような立地であることから、「北陸道総鎮守」と称されて朝廷から特に重視された神社であった』とある。

「播磨の荒田里」「あらたのさと」。現在の兵庫県多可町中区及び加美区辺りを指す広域地名だったらしい。この附近(グーグル・マップ・データ)。参照したのは「播磨広域連携協議会」公式サイト内の「はりま風土記紀行」の「古の播磨を訪ねて~多可町 編」で、そこには、「播磨国風土記」には、『「荒田という名がついたのは、ここにいらっしゃる女神・道主日女命(みちぬしひめのみこと)が、父神がいないのに御子をお産みになりました。父親の神が誰かを見分けるために酒を醸造しようとして、田七町(約』七『ヘクタール)を作ったところ、七日七夜ほどで稲が実りました。そこで酒を醸造して、神々を集め、生まれた御子に酒を捧げました。すると、その御子は、天目一命(あめのまひとつのみこと:鍛冶の神)に向かって酒を捧げましたので、その御子の父親と分かりました。後に、その田が荒れてしまい、『荒田』という名前がつきました。」とあります』。「播磨国風土記」には、何故、『田が荒れてしまったかは記載されていません』。『しかし、アメノマヒトツノミコトは「鍛冶の神様」であることから、鉄穴(かんな)流しやタタラ製鉄等の金属精錬が盛んになるにつれ、河川下流域に大量の土砂が流出して農業灌漑用水に悪影響を与えたり、大量の木炭を燃料として用いるために山間部の木がなくなってしまったりして、田が次第に荒れていったと考えられているようです』。『現在、多可町中区には安楽田(あらた)という地名があり』、『また、隣の区の多可町加美区的場には』、『見るからに荘厳な式内社』であった『荒田神社が鎮座していますし、加美区には奥荒田という地名も存在しています』。『したがって、播磨国風土記に出てくる「荒田」という地名は、今の多可町中区・加美区辺りの広範囲をそう呼んでいたと思われます』とある。久々に本単行本のメイン・テーマだった「一つ目」が出てきた

「常陸の哺時臥山(くれふしやま)」底本は実は「ねふしやま」であるが、ちくま文庫版全集は『くれふしやま』となっており、現行でも「くれふしやま」が正しいので誤植と断じて特異的に訂した。ウィキの「晡時臥山より引く。「常陸国風土記」の『那珂郡の条に記された山。この山について』は『いくつかの民話・伝承が残されている。茨城県水戸市、笠間市および、城里町に跨る朝房山』(茨城県笠間市池野辺。ここ(グーグル・マップ・データ))『であるとされる』。『常陸の国学者である中山信名編の』「新編常陸国誌」には『晡時臥山について「茨城郡牛伏村の北ニアリ、(中略)、今アサボウ山ト云フ、牛伏ハ即晡時臥也」と記され』ている。「常陸国風土記」の「晡時臥山伝承」は以下の通り。『茨城の里の北にある高い丘に晡時卧山があり、努賀毗古(ぬかびこ)と努賀毗咩(ぬかびめ)の二人の兄妹が住んでいた。妹の努賀毗咩の元にだれとも分からない求婚者が夜毎に現れた。妹が求婚を受け入れると一晩で身ごもり、やがて小さな蛇を産んだ。この蛇は夕暮れから夜明けの前までは母と会話ができた。努賀毗古も努賀毗咩も神の子ではないかと驚き、清めた坏』(つき:古代の飲食物を盛る器で、椀よりも浅く、皿よりも深いもので蓋を持つものもあった)『に蛇を入れ』、『祭壇に祀るようになった。蛇は一晩で杯いっぱいにまで成長したので、大きな杯に取り換えると、また蛇は杯いっぱいになるまで成長した。これを繰り返すうちに蛇に合う器が無くなってしまった。努賀毗咩は蛇に自分では養いきれないので』、『父の元へ行くよう促した。蛇は悲しんだが、供に童子を一人付けてくれるよう頼んだ。努賀毗咩がここには兄と私しかいないのでつけることができないと告げると、蛇はこれを恨んだ。別れの時、蛇は怒って努賀毗古を殺し、天に上ろうとした。驚いた努賀毗咩が盆を取り蛇に投げつけると、神蛇はこれにより』、『天に上ることができなくなり、この山に留まった。蛇を入れていた器は今でも片岡村に残されている』(以下、リンク先には「常陸国風土記」原文が載る)。『この夜毎に現れて求婚をする正体不明な男や、生まれた子が問題となる伝承は、古事記に伝わる三輪山の伝承や』、「山城国風土記」逸文に『伝えられる賀茂の伝承』(賀茂神社の縁起譚で、山城の賀茂建角身(かもたけつのみ)命には玉依日子(たまよりひこ)・玉依姫の二子があったが、玉依姫のが瀬見(せみ)の小川(賀茂川の異称)の畔りに遊んだ時、丹塗りの矢が川上より流れ下り、これを取って床の辺(べ)に挿し置くうち、遂に孕んで男子を産んだ。長ずるに及び、七日七夜の宴を張り、建角身がこの子に「汝が父と思はむ人に此の酒を飲ましめよ」と言ったところ、酒杯を捧げて天に向かって祭りをなし、屋根を突き破って昇天したというもの。ここは平凡社の「世界大百科事典」に拠った)『など類似するものが多い』。また、「肥前国風土記」の褶振山の伝承でも夜毎に通う蛇の説話が伝えられる』。『水戸市大足では晡時臥山はダイダラボウ伝説とも結びついて』おり、『これは、かつては西南にあったこの山が日陰を作って日暮れが早く、これに困りダイダラボウに山を動かしてもらったというもので、クレフシの名はすなわち、日暮れを防ぐことを意味するというものである』という。

「美濃の伊那波神」岐阜県岐阜市伊奈波通りにある伊奈波(いなば)神社。(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「伊奈波神社によれば、『垂仁天皇の第一皇子で、この地の開拓神である五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)を主祭神とし、妃の淳熨斗媛命(ぬのしひめのみこと)、母の日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)、外祖父の彦多都彦命(ひこたつひこのみこと)、臣下の物部十千根命(もののべのとちねのみこと)を配祀する。これらの神を伊奈波大神と総称する』。『社伝によれば、五十瓊敷入彦命は朝廷の命により奥州を平定したが、五十瓊敷入彦命の成功を妬んだ陸奥守豊益の讒言により、朝敵とされて現在の伊奈波神社の地で討たれたという』とある伝承を、柳田國男は指しているのであろう。

「上總の玉前神(たまさき)」千葉県長生郡一宮町一宮玉前(たまさき)神社。(グーグル・マップ・データ)。同神社公式サイト由来・由緒」神」に、『玉依姫命(たまよりひめのみこと)』とし、「古事記」には『海神・豊玉姫命(とよたまひめのみこと)が夫・日子火火出見命(ひこほほでみのみこと)の故郷の海浜で御子・鵜茅葺不合命(うがやふきあえずのみこと)を出産の後、妹の玉依姫命に』、『その御子の養育を託して海へ去られたことが記されています』。彼女は、

 赤玉は緒さへ光れど白玉の君が裝ひし貴くありけり

という『祝いの歌を添えて』、『御子を玉依姫命に託されました。玉依姫命は陰となり日向となって赤ちゃんを守りお育てになる乳母(老いては姥)神様となられました』とある。因みにここは、ああ、あの芥川龍之介の若き日の思い出の地だ。

「小松寺」不詳。前後から見ると、以下の平維盛が行き着いたとされる伝承を持つ寺のことらしい。

「惟盛」平重盛の嫡子で小松中将を称した平維盛(平治元(一一五九)年~寿永三(一一八四)年?)の別表記。平家一門の嫡流として出世したが、治承四(一一八〇)年の源頼朝挙兵の際、追討大将軍として東国に発向したものの、「富士川の戦い」では、夜、水鳥の羽音に驚いて、戦わずに逃げ帰った情けなさで知られる。翌年三月の「尾張墨俣の戦い」では源氏を撃破し、その功により、右近衛権中将・従三位となったが、翌寿永元(一一八二)年、木曾義仲追討では「倶利伽羅合戦」で大敗、義仲が上京し、平家一門が西国に没落した折りには、一時は都落ちしたらしいが、その後、消息不明となった。物語類では「屋島の戦い」の最中に平家の陣を抜け出し、高野山で出家し、熊野灘へ舟を出して、入水して果てたとされる。享年二十八。

「大正九年」一九二〇年。

「史林」史学研究会会誌。大正五(一九一六)年創刊。]

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 流され王(8)

 

 自分が何かの折に述べてみたいと思つて居たことは、右の類の猶多くの話が、史學者の側から受くべき待遇を受けて居なかつたことである。等しく村に傳はつた無邪氣な舊話なるに、誤つて一步を踏み越えると直ちに荒唐無稽として却けられ、中に立つ者などがあつて僅かの折合ひをすれば、乃ち史書の逸文の如く尊重せられる。しかも故老の心持から言へば、二者の間には是と云ふ差異も無かつたのである。近松門左が用明天皇職人鑑、古くは又舞の本の烏帽子折の中にある、山路が草苅る夜の笛の話は、固より突如として文章の徒の結構に浮び出るやうな事件で無い。併し何が故に儼乎たる正史の文面に背いて、天皇潛幸のおほけ無き物語を傳へたかを尋ねると、やはり亦誤謬にも一定の徑路のあつたことを知るのである。用明天皇を祀り奉ると云ふ傳は、攝州玉造の森之宮にもあつた(葦乃若葉卷二上)。式内の苅田嶺神社に當ると云ふ磐城刈田郡の舊稱白鳥大明神にも、用明天皇の御后宮を齋ふと稱して、その御名は豐後と同じく玉世姫である上に、此地に來たつて皇子を生ませたまふと云ふ話もあり、近世の學者には白鳥に依つて日本武尊の誤傳だと、改訂を試みんとした人もあつたが失敗した(神社覈錄卷三三)。自分の觀る所を以てすれば、用明天皇と申し奉る理由は至つて簡明で、神の第一の王子をやはり太子と喚ぶ慣習がもと有つた爲に、其の御父の神を日本で最も有名なる太子の、御父帝なりと解したものに他ならぬ。殊に豐後の眞野長者の傳奇に於て、長老の姫の玉世姫を、宇佐の申し兒とも謂へば、八幡神の放生會の日の弓の式に、微賤の身に隱れたまふ至尊の御上を神託によつて知つたと謂ひ、一方には亦姫嶽の由來をさへも傳へて居るのを見ると(豐後遺事卷上)、神子神巫の大神氏古傳が姫嶽から宇佐まで一貫して、久しく且つ弘く物語られて居たことも想像せられる。東日本に於ては陸中鹿角郡小豆澤の五宮權現、繼體天皇第五の王子を祀ると云ふ古傳が、長者のまな娘召されて御后となつたと云ふ點まで、豐後の例と偶合して居る上に、金丸兄弟なる者御馬の口を取り、東の嶽に登りたまふと云ふ一條は、最も甲斐の黑駒の話に近く、京近くの寺々で大切にして居る太子の緣起が、古いながらに更に由つて來る所あるを知らしめる。其金丸は又丹後では金麿親王と謂ひ、或は聖德太子の御弟椀子親王の御事だなどゝも傳へるのは、又多くの固有名詞が全然出鱈目ではなかつた證據と謂へば證據である。

[やぶちゃん注:「近松門左が用明天皇職人鑑」近松門左衛門(脚本は竹田出雲)が書いた「用明天皇職人鑑(ようめいてんのうしょくにんかがみ)」は宝永二(一七〇五)年に竹本義太夫による初演の、全五段から成る人形浄瑠璃。ウィキの「用明天皇職人鑑」によれば、『近松門左衛門の代表作として有名な』「曽根崎心中」が『世間に広く知れ渡るようになり、それを機に竹本義太夫が引退するのを竹田出雲が留まらせ』、宝永二(一七〇五)年に『この脚本を担当したのが』、『作品の始まりであ』った。『楽譜が失われていたため』、『上演は長く途絶えていたが、近年になって三段までの楽譜が大阪から発見され、鶴澤清治の復元により』二〇〇九年に『紀尾井ホールで上演され』ている。内容は、花人親王(はなひとしんのう)と『呼ばれる後の用明天皇が、仏教を厚く信仰し、敏達天皇の息子で仏教廃仏派の山彦王子と対立していくあらすじで』、『経緯としては、最終的に仏教を崇める花人親王が、廃仏派の山彦王子を疎外するといった展開である』。『この作品は主人公のモデルとなった用明天皇が、同じく飛鳥時代の皇族である聖徳太子の父であるという逸話から、後代に伝えられた聖徳太子にまつわる伝説を取り入れているのが特徴である』。『具体的には、用明天皇(花人親王)と、玉世姫』(たまよひめ)『のあいだにできた子が聖徳太子になったというのが、この物語の結末である』(このシノプシスはちょっと荒過ぎる。判りにくいと感じられる方は「文化デジタルライブラリー」のこちらを見られたい)。『この玉世姫とは、大分県に伝わる』「真名野長者伝説」(ウィキの「真名野長者伝説」を参照されたい)に『取材したものであり、「般若姫」というのが本名で、その娘・玉絵姫は、父の用明天皇に会えないまま私生児になったとされているが、一方で、この私生児こそ聖徳太子であるという異説も伝わっている』。『近松門左衛門は、この伝承を蘇えらせたものであり、後者の説を採っている』とある。

「舞の本の烏帽子折の中にある、山路が草苅る夜の笛の話」「舞の本」は幸若舞(こうわかまい:主として室町時代に流行した舞曲。桃井(もものい)直詮(幼名・幸若丸)の創始という。語りを主とし、扇拍子・小鼓・笛などの音曲に合わせて舞う)の詞章を記した本。今日では五十曲を数え、「平治物語」「平家物語」「曽我物語」「義経記」「太平記」などの軍記物に取材したものが多いが、他に説話に基づくものもある。古浄瑠璃に大きな影響を与えた。その「烏帽子折」(ゑぼしをり)という曲は、作者・成立年次不詳であるが、題名の初出は天文二〇(一五五一)年(「陰徳太平記」)で、上演記録の初出は永禄六(一五六三)年(「言継卿記」に拠る)。ストーリーは、鞍馬を出た牛若丸が金売吉次一行に加わって東国に下る途中、鏡宿で烏帽子を折らせるが、烏帽子折職人の妻が父義朝の郎等鎌田正清の妹であることを知る。その夜、牛若は独りで元服し、その後、青墓宿に泊まるが、宿の長者は義朝の妾満寿で、牛若の吹いた笛のことから、用明天皇の草刈笛の由来を語り、牛若を義朝を祀る光堂に案内する。牛若はそこでまどろみ、夢中に義朝・兄悪源太義平(義朝の長男)・兄朝長(義朝の次男)の三名が現われ、熊坂長範が率いる盗賊が吉次を襲うことを告げる。夢から醒めた牛若は独りで盗賊を討ち滅ぼす。草刈笛の由来はこの作品では劇中劇のように挿入されているが,内容は真野(まの)長者伝説に拠っている。同材の謡曲に「烏帽子折」「熊坂」「現在熊坂」がある(粗筋は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。後に作られたものであるが、「京都大学電子図書館 貴重資料画像」の「挿絵とあらすじで楽しむお伽草子」の「烏帽子折草子」がよい。「山路」は「さんろ」と読む。

「儼乎」「げんこ」。厳(おごそ)かで厳(いか)めしいさま。厳密な由々しき事実性を属性とすること。

「おほけ無き」畏れ多い。或いは、語り出す話者が「身のほど知らずだ・身分不相応である」の意。

「攝州玉造の森之宮」現在の大阪府大阪市天王寺区玉造元町から大阪市中央区森ノ宮附近。大阪城の東南から東方に当たる地域。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「葦乃若葉」太田南畝の享和元(一八〇一)年の、大坂銅座御用として大坂赴任中の日記。「摂津名所図会」を参考に市中を歩き廻り、当時の大阪の風物を描写した随想風のもの。当該内容は国立国会図書館デジタルコレクションの「蜀山人全集」の画像のこで視認出来る(左上)。

「式内」「延喜式」の巻九及び十の「延喜式神名帳(じんみょうちょう)」に記載された式内神社のこと。

「苅田嶺神社」「かつたみねじんじや」。

「磐城刈田郡の舊稱白鳥大明神」宮城県刈田郡蔵王町宮字馬場の刈田嶺(かったみね)神社。現在も別号を「白鳥大明神」と称する。「宮城県神社庁」公式サイト内の同神社の解説によれば(地図有り)、『当社は往古倭建尊東征の折、在陣された地を尊崇して、日本武尊を祭り、別号を白鳥大明神と称え奉る』。西暦八五二年、第十四代『仲哀天皇元年冬』十一『月、白鳥社を創設したといわれる。第』五十『代桓武天皇』の延暦二〇(八〇一)年に、『田村麿将軍が中興し、延喜式内名神大に列し、古来、皇室よりの御信仰厚く、藩主伊達家、領主片倉家累代の祈願神社である。当初、大刈田山(青麻山)頂上に鎮座していたが』この延暦二十年に『西の宮の若宮に合祀され』、『その後、永正年中』(一五〇四年~一五二一年)『に現在地に遷宮された。その後、数度の兵火に罹るも、享保』三(一七一八)『年、願主片倉小十郎、村休(領主)、白鳥社一宇を造営奉り、現在の社殿』が『これである』とある。

「用明天皇の御后宮を齋ふ」ウィキの上記の神社の記載に、『穴穂部間人皇女(聖徳太子の母)が当地で斃れたという伝承を創建とするものもある』とあるのが、それ。

「神社覈錄」「じんじやかくろく」と読む。「覈」は「調べる・明らかにする」の意。式内社を始めとする古社を考証した書物で、江戸末期の神官・国学者であった鈴鹿連胤(すずかつらたね 寛政七(一七九五)年~明治三(一八七一)年)著(詳細事蹟はウィキの「鈴鹿連胤」を参照)。全七十五巻。天保七(一八三六)年起稿、明治三(一八七〇)年完成。参照したウィキの「神社覈録によれば、『体裁は、式内社や国史見在社、その他著名な神社を、六国史を始めとする諸書から各神社に関係する記述を引用しながら、社名の訓み・祭神・鎮座地等を考証しているが、当時の状況から引用諸書の中に偽書とされるものも混じるなどの問題がある。また、後日を期して空欄とした箇所も見られるものの』、当時、知られていた限りの「国内神名帳」の『全文を参考として掲げるなど、類書中では最も要領を得たものと評価されていた』とある。

「姫嶽」臼杵市東神野(ひがしこうの)にある標高約六百二十メートルの臼杵市で最も高い姫岳。ここ(グーグル・マップ・データ)。「臼杵市」公式サイト内のこちらに、『真野長者伝説によると、長者の一人娘であった般若姫が欽明天皇(第二十九代)の皇子橘豊日尊(たちばなのとよひのみこと・後の用明天皇)の妃となって上洛をするときに、長者夫妻が、この山に登って姫を見送ったので、この山を姫見ヶ岳、後に転訛して姫岳と呼ぶようになったと伝えられてい』るとあり、先にリンクしたウィキの「真名野長者伝説」の伝承の骨子の「22」にも、『長者夫婦は山の上から船を見送り、その山は姫見ヶ岳と呼ばれるようになった。また、姫の一行は、途中豊前国の小さな島に立ち寄り、これが現在の姫島(大分県)である』とある。

「豐後遺事」加藤賢成著になる明治十八(一八八五)年刊の大分地誌。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で視認出来るが、探すのが面倒。悪しからず。

「神子神巫」「みこ・かんなぎ」。

「大神氏古傳」「おほみわしこでん」。ウィキの「大神氏」より引く。基本的には、『大神神社(奈良県桜井市三輪)をまつる大和国磯城地方(のちの大和国城上郡・城下郡。現在の奈良県磯城郡の大部分と天理市南部及び桜井市西北部などを含む一帯)の氏族。三輪氏あるいは大三輪氏とも表記する。氏の名は大和国城上郡大神郷の地名に由来する。古代氏族の研究』によれば、『三輪氏は姓(カバネ)は初め君だったが』、天武天皇一三(六八四)年十一月に『朝臣姓を賜り、改賜姓五十二氏の筆頭となる。飛鳥時代の後半期の朝廷では、氏族として最高位にあったとする。また』、『三輪氏は元海人族の系譜であって、本願は北部九州の博多平野から、大和の三輪山麓への東遷により築かれた氏族であると』もされる(下線やぶちゃん)。「日本書紀」では『神代第八段、一書(異伝)に大三輪神(大物主神)の子は甘茂君・三輪君などと記されており、また巻第五に崇神天皇』八年十二月の条にも『大物主神の子大田田根子は今の三輪君などの祖であると記述されている』。「古事記」でも、『意富多多泥古(おおたたねこ)命は神君(大神)・鴨君(加茂)の祖と記載されているので、大神氏は大物主神の後裔として同神の祭祀をつかさどる有力氏族だったことがわかる』。「新撰姓氏録」の『大和国神別の大神朝臣条によれば、大神氏は素佐能雄命(スサノオ)』六『世孫の大国主の後裔とする』。「日本書紀」によれば、垂仁天皇三年三月、『天日槍が来朝したとき、三輪君の祖の大友主命が遣わされ』、『尋問したという』(以下、後裔の中古の具体的記載が載るが、煩瑣なだけなので省略する)。『中世には大神氏の子孫と称する地下官人の大神氏(おおがし)があり、代々楽人として活躍して、後に家名を山井家(やまのいけ)と称した。南北朝時代に活躍した山井景光(大神景光)は笛の名人として知られ、後醍醐・光明両天皇に笛を伝授し、その功績から雅楽頭を経て従五位上安芸守まで昇った』とある。

「陸中鹿角」(かづの)「郡小豆澤」(あづきさは)「の五宮權現」秋田県鹿角市八幡平にある五の宮嶽(ごのみやたけ)標高千百十五メートルの山頂にある「五の宮権現神社」。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「繼體天皇」(允恭天皇三九(四五〇)年?~継体天皇二五(五三一)年?)は第二十六代天皇。在位は継体天皇元(五〇七)年から没年まで。

「第五の王子」実際の皇子に照らし合わせて見ると、後に似た名が出る、椀子皇子(まろこのみこ)丸高王のことか。三国真人(みくにのまひと)姓の祖とされる人物である。母は倭媛(やまとひめ)で三尾君堅楲の娘である。はたまた、この妃やその「第五の王子」なる人物は養老泉に纏わるだんぶり長者伝説とも関与する(リンク先はウィキ)。当話の主人公である夫婦の間の、一人娘が後に継体天皇に仕え、「吉祥姫」と呼ばれ、父母の夫婦も天皇から「長者」の称号を与えられ、「だんぶり長者」(「だんぶり」は蜻蛉(とんぼ)のこと。理由はリンク先を参照のこと)と呼ばれたという話である。これの変形した別な話柄が盛岡タイムスサイト内記事にあり、そこでは、この「吉祥姫」は敬体天皇の后(きさき)となったが、亡くなったら、『故郷の小豆沢に戻りたいと言い残したため、大日堂を建立し、近くに墓をつくり吉祥院という寺が建てられ』とされる。そして、吉祥姫の産んだ五番目の五の宮の皇子は『母を慕』って、『鹿角までやってきて、大日堂の後ろにそびえる山へ登り、そのまま姿を隠した。そのとき乗った馬は「ばくだ石」、お供の兄、一の皇子が「皇子石」、あとから皇子を捜しにきた乳母夫婦が「夫婦石」に変わったと伝えられている』(下線やぶちゃん)とあるのである。

「金丸兄弟なる者御馬の口を取り、東の嶽に登りたまふ」ここでの馬の口取りの「金丸兄弟」というのは不詳であるが、この話、前の最後の伝承の下線部の後半と非常に強い親和性が強く感じられる。

「甲斐の黑駒の話」古代、甲斐が良馬の産地であったことから成立したと考えられている伝承。甲斐からは朝廷へ駿馬が貢上されたが、それが原話を創り、後に聖徳太子に付会された話となった。詳しくはウィキの「甲斐の黒駒を参照されたい。

「金麿親王と謂ひ、或は聖德太子の御弟椀子親王の御事だ」既出既注であるが、再掲しておく。サイト「丹後の地名」の「筆石(ふでし) 京丹後市丹後町筆石」に、「丹後國竹野郡誌」の「犬ヶ岬」の条に、

   *

「丹後一覽集」、府城の乾方十二里竹野ノ浦にあり、俚俗に曰く、昔金麿親王當國へ下向ありて三鬼退治の時、鏡を掛けたる神化の犬あり、其軍治て後に岩に成りたりとて、犬の蹲りたる形狀をなせる岩あり、此金麿親王は何れの御代の皇子といふことを知らず、用明天皇第三の皇子麿子親王、比地へ下向の事を誤るなるべし。

   *

とあるという。聖徳太子の弟とあるが、私は聴いたこともない。]

 

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 流され王(7)

 

 しかも無謀なる確信家たちは、單に一人の皇族では滿足し得ずに、曾て又高倉天皇の行幸を説いた者もあつたやうであるが、今では到頭讓步し得るだけの讓歩をして、略高倉宮説に統一せられて居る。處が此類の歷史との調和が、したくとも迚も出來ない古傳がなお若干ある。その中の最も甚しい二三を擧げると、甲州の西山卽ち南巨摩郡の奈良田附近には、いつの頃からか孝謙天皇を説いて居る。神の御名の奈良王であつたことの外に、今一つの原因らしいものは、畏(かしこ)いから茲には公表せぬ。若くして御かくれなされた文武天皇も、二三の地にその御遺跡を傳へて居るが、是は簡單に大寶天王と云ふ神の名から誤つたので、其名が今尚現實の信仰に生きて居る大梵天王の轉訛であることは、自分等には殆ど些しの疑も無い。上總君津郡の俵田、及び其附近一帶の村々には、弘文天皇の御跡を傳へ、今では鼻であしらふことも些し憚る程に、御陵と稱する古墳などさへも指示せられて居る。これはバルバロサ實は死せずの傳説などとも少し異なり、正統の天つ日嗣が、さう凡人と同じやうな御最後を遂げたまふ道理が無いと云ふ、一種しをらしい春秋的論理も下に含まれ、甚だ珍重すべき口碑とは思ふが、しかも何が故にかゝる東國の果の一地域に限つて、此迄の發達を見たかということは研究の値がある。又信ぜられぬの一言を以て解決すべき問題でも無い。此地方で注意すべき點は、所謂大友皇子の話には必ず蘇我殿の名が之に伴ひ更に又田の神祭の由來談の存することである。蘇我は上總の古い郷名であるが、俵田などでは皇子の隨從に蘇我大炊と云ふ人物を説き、田植の時に入日を招き返したと言ふ話などもあつて、村に依つては四月十六日又は五月一日、俵田では五月七日を、蘇我殿の田植日と謂つて忌んで居る。卽ち蘇我の方が一段と古い固有名詞で、其から王子の神の名が出たやうでもある。村岡氏などは大伴の族人此地方に蕃衍して、其祖神を天皇に附會したやうに辯じて居られるが、それも亦一説である。日吉神社の創立とともに説かれる近江湖南の大友與多王の如きも、漠然たることに掛けては上總と弟兄するに拘らず、土地が偶然に前朝の宮址にも、又御最後の地にも近かつたばかりに、吉田博士の如きすら略之を信ぜられんとした。併し御諱を忌まなかつたと云ふことが、既に此傳説の新しいことを證して居る。名古屋の市内撞木町とかに、或は大友皇子の古墳かとも謂つたオトモ塚の有つたなども(名古屋市史地理篇六四七頁)、やはり其附會説の古くないことは同じである。而もそのオトモと云ふ語に、何等か信仰又は儀式と關係の有る意味があつて、特に此天子の口碑を發達させる緣となつたのでは無いかと思はせる。四國では伊豫喜多郡の粟津森神社に、王子吉良喜命及び其御妃來たつて牛頭天王を祀り、後に己も祭神の中に列したまふと云ふ傳へがあつて、王子は大友皇子の十世の孫と舊記に見えて居るそうだが(明治神社誌料)、十世とはあまりに謙遜であつた。次に九州でも南端大隅薩摩の數箇所に、大友皇子を祀つた社があるが、是は何れも主神を天智天皇と傳へるために、其王子の神として御名を掲げたこと、八幡の若宮と云ふ所から仁德天皇菟道稚郎子を説くのと同じである。天智天皇は暫く御駐輦なされた筑後川右岸の朝倉の外、土佐の朝倉にも盛んに御遺跡を主張して居るが、鹿兒島縣のは又更に別樣の事情が有るやうで、或は彦火々出見尊の御事を誤り傳へたのだと、斷定した國學者さへもあつた。是も亦一種の妥協である。

[やぶちゃん注:「南巨摩郡の奈良田」山梨県南巨摩郡早川町奈良田。ここ(グーグル・マップ・データ)。珍しく。私が行き、遙か山上の農家に一泊したことがあるところである。「日本一自然人口の少ない町」として知られる。二〇一七年十月現在で推計人口は千四十八人である。そこには非常に背の高い凛々しい老農夫と、その抜けるように肌の白い彼の美しい老婦人、そして生まれたばかりの八匹の子猫がいたのが忘れられない。不思議な一夜であった。

「孝謙天皇」重祚して称徳天皇(養老二(七一八)年~神護景雲四(七七〇)年)は第四十六代及び第四十八代天皇。女帝。『日本経済新聞』の中川内克行氏の記事「山梨・早川町 女帝が愛した秘湯」から引く。『孝謙天皇は聖武天皇の皇女で、史上唯一の女性皇太子を経て』、七四九『年に即位。権謀術数の渦巻く奈良の都の権力闘争を勝ち抜き』、一旦、『退位した後も第』四十八『代称徳天皇として再び即位した』(七六四年)。『生涯独身だったが、側近の僧、道鏡と恋仲になり、皇位を譲ろうとしたとされる古代史最大のスキャンダルの主人公としても知られる』。『そんな古代有数の女帝がなぜ、都から遠く離れた山梨県の奥深い山里に移り住んだ』とする伝承が伝わるのか? 『謎を解くカギは、西山温泉の伝統旅館「慶雲館」にある。慶雲館は』慶雲二(七〇五)年に『創業した日本最古の旅館。この地に流れてきた藤原真人(藤原鎌足の長男)により温泉が発見され、創建されたとい』い、『ギネスブックから「世界最古の旅館・ホテル」に認定され』てもいる。『この慶雲館に』七五八『年、病を得た孝謙天皇が湯治に訪れ』、二十『日間、湯につかって全快したという。伝承によると、退位して吉野で伏せっていた孝謙天皇の夢枕に白ひげのおきなが立ち』、『「甲斐の国、白鳳の深山に、諸病に効ある霊泉あり」と告げた。孝謙天皇は』七十~八十『人のお供を連れて今の山梨県を目指し、慶雲館にたどり着いたという』。『女帝伝説がより色濃く残るのが、さらに奥まったところにある奈良田だ』。『この辺りは「秘境中の秘境」といわれ、山の緑と早川の清流が絶妙な美しさを織りなす。とりわけ新緑の季節は目にしみる。伝承によると、霊泉を求めて険しい山道を進んだ孝謙天皇は、奈良田の集落に差し掛かったところで「おお、奈良の都は七条なるが、この地は七段。ここも真に奈良だ」と驚いた』と伝える。『この地をいたく気に入った女帝は、集落の最上部に御殿を建てて数年遷居』し、『以来、一帯は「奈良田」と呼ばれるようになり、地元の人々は女帝を「奈良王様」と呼んで敬愛したという。御殿跡とされる場所には孝謙天皇を祭神とする「奈良法王神社」が建立されている』。『女帝にまつわる言い伝えも数多く、古来「奈良田の七不思議」として語り継がれている。また』、『奈良田の言葉は甲州弁(山梨方言)とは異なる独特の方言で、「同じ早川町内であっても他の集落の人には通じない」(奈良田在住で郷土史に詳しい深沢実さん)。国語学者の金田一春彦はかつて「奈良田言葉は京言葉」と評し、地元で奈良田温泉「白根館」を営む深沢守社長も「アクセントは確かに関西風で、女帝伝説をしのばせる」と言う』。『慶雲館と奈良田の間は、徒歩で』一『時間弱の距離。早川の瀬音と鳥の鳴き声以外は何も聞こえず、すれ違う人もいない。女帝も行き来したであろう』、『この山深い細道を歩いていると、天平の都の政争から身を潜め、再即位の策と時期を探るのに絶好の地と女帝には映ったのだろうと、ふと思いついた』とある。

「今一つの原因らしいものは、畏(かしこ)いから茲には公表せぬ」恐らくは孝謙天皇が湯治で治したとするのが婦人科系疾患であったこと、更には、そこに湯治を名目に道教と逃避行したとか、或いは、それ以外の男性との放埓な生活をここで送ったというような下世話な話であろう(ネットを探れば容易に出てくるが、私は興味がないので多くを語るつもりはない)。そもそも一旦、太上天皇となった彼女が奈良田に八年も滞在したという話は、道鏡や藤原仲麻呂の乱とに史実の時系列の中で、余りに無理がある。ただ、あそこで出逢ったあの老夫婦は、凡そ、ただ者ではないという強い印象を持った。不思議な思い出である。

「文武天皇」(天武天皇一二(六八三)年~慶雲四(七〇七)年)は第四十二代天皇。在位は文武天皇元(六九七)年~ 慶雲四年)。 諱は珂瑠(かる)、軽(かる)。天武天皇第二皇子の草壁皇子(母は持統天皇)の長男。当時としては異例の十四歳の若さで即位したが、祖母持統太上天皇(史上初の太上天皇)が事実上の政務を執っており、後の院政形式の始まりとなった。藤原不比等の宮子娘 (みやこのいらつめ)を夫人とし、首皇子(おびとのみこ:後の聖武天皇)をもうけた。そのたった十年の治世は外戚たる不比等の勢力が大きかったが、「大宝律令」制定など、律令制度の完備期としては注目される。経史に通じ、射芸もよくしたと伝えられる。陵墓は奈良県明日香村に比定されている。

「大寶天王」これは恐らくは神仏習合に入ってから素盞鳴尊を牛頭天王と別称したこと、後には「大梵天」や「梵天帝釋」を「大寶天王」と書き換えたことなどによるものであろう(後者は柳田國男の後の「日本の祭」(昭和一七(一九三二)年弘文堂刊。内容は前年東京帝大教養部特殊講義の講演)の中の「祭場の標示」の「一二」に出る)。文武天皇はその短い十年の治世に大宝年間(七〇一年~七〇四年)があり、それまで僅かしか残されていない元号の正式な制度化が整ったのもこの元年と思われ、しかも同元年八月三日には「大宝律令」が完成、翌年に公布されていること、都城としての藤原京の成立、遣唐使派遣といった国家制度の整備がこの大宝年中にあったことから、その実質的な初元号を冠して彼を「大宝天皇」と呼んだことはごく自然に腑に落ちる。

「大梵天王の轉訛」前注参照。仏法守護の神で娑婆世界の主「マハーブラフマン」の漢訳(元のバラモン教では万物根源の法である「梵」の神格化されたものとされ、宇宙の造物主として崇拝された)。単に「大梵」「梵天」とも称する。色界四禪天中の初禪天の王で、淫欲を離れていることを「梵」が示す。仏が出世して法を説く時に出現し、帝釈天とともに、仏の左右に列なって仏法を守護するという。

「上總君津郡の俵田」房総半島中央部の現在の千葉県君津市俵田。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「弘文天皇」(大化四(六四八)年~天武天皇元(六七二)年)は第三十九代天皇(在位:天智天皇一〇(六七二)年~天武天皇元(六七二)年)であるが、明治三(一八七〇)年になって諡号が贈られ、天皇として認められたものの、即位したかどうかも定かでなく、「大友(おおとも)皇子」と表記されることが多い。諱は大友又は伊賀(いが)。言わずもがな、天智天皇の第一皇子で、天智の後継者であったが、壬申の乱で叔父大海人皇子(後の天武天皇)に敗北、首を吊って自害した。参照したウィキの「弘文天皇」によれば、『壬申の乱の敗戦後、弘文天皇は妃・子女を伴って密かに東国へ逃れたとする伝説があり、愛知県や神奈川県や千葉県に弘文天皇に関連する史跡が幾つか残っている』とある。

「御陵と稱する古墳などさへも指示せられて居る」『千葉大学教育学部研究紀要』(第五十二巻・二〇〇四年発行)の井上孝夫氏の論文「房総・弘文天皇伝説の研究」(PDF)に詳しい。

「バルバロサ」神聖ローマ皇帝フリードリヒ一世(Friedrich I. 一一二二年~一一九〇年)の別名。歴史上、西ヨーロッパの歴代ローマ皇帝の中で最も有能とされ、後世には英雄とも称された。赤みを帯びたブロンドの髭を蓄えていたことから、「赤髭王」(Barbarossa:バルバロッサ)と呼ばれた。参照した同人のウィキによれば、史実上は、一一八九年の第三回『十字軍の総司令として出征』、『翌年にイコニウムの戦いでアイユーブ朝軍を打ち破るという大戦果を収めた。しかし翌年』六『月、小アジア南東部、キリキアのサレフ河にて溺死するという意外な最期を遂げた』『(これには諸説があり』、『卒中のために溺死したとも、暗殺されたともいわれる)。この意外な最期によって、多くの人はこの皇帝の死を信じられず、そのため』、『中世の民間信仰では、帝国が再び彼を必要とする時まで』、『赤髭王は生き続けている』、『とされている。トリフェルス城内で、キーフホイザーで、ウンタースベルクで、と諸説あるが、帝国が危機に陥ると、カラスがその上を飛び回って知らせ、彼は永い眠りから』目覚めて、『起ち上がり』、『国にふたたび』、『栄華と平和をもたらすのだと言われている』とある。

「天つ日嗣」「あまつひつぎ」。皇位を継承すること或いはその正統な皇位継承保持者。

「春秋的論理」四書五経の「春秋」の思想。「春秋」自体は極めて簡潔な編年形式のストイックな文体で書かれていて、一見、そこには特段の思想の介入はないように見えるが、後世には孔子の思想が本文の様々な所に隠されているとする見方が一般的になった(後には、また、この解釈は否定される)。ここはそうした旧「春秋」学的な君子思想を指しているか。

「蘇我大炊」「そがのおほい」。サイト「和漢百魅缶」の「そがどののたうえ(蘇我殿の田植)」に、「蘇我殿の田植」とは、『上総につたわるもので』、五月六日には『田植えをしてはいけないといわれた』伝承とし、『むかし、大友皇子が上総へのがれて来たときに蘇我大炊[そがおおい]という豪族が美女たちを大量に集めて田植えをする光景を御覧に入れたのですが、植え終わらないうちに日が暮れだしてしまったので扇をつかってお日様を招き戻したところ、お日様が逆にのぼったのですが突然あたりが暗くなり、大きな雷がズドン。蘇我大炊を焼き殺してしまったといいます』。『それが』五月六日のこと『だったので、この日には田植えをしちゃいけないと言われるようになったんだソウナ』とある。「大炊」は大炊頭(おおいのかしら)由来か。大炊寮(律令制で宮内省に属して諸国からの米や雑穀を収納し、また、それを諸官庁に分配することなどを司った役所)の長官。従五位下相当。大化の改新で曽我入鹿が暗殺され、蝦夷が自害して蘇我氏宗本家は滅亡したが、蝦夷の弟蘇我倉麻呂は命脈を保った。しかし、その子蘇我赤兄(あかえ)とその弟蘇我果安(はたやす)は壬申の乱で大友皇子について敗れ、それぞれ流罪・自害となっているから、この「大炊」もその辺りから派生した名前か。赤兄の別な弟蘇我連子(むらじこ)の流れが蘇我系石川朝臣として曽我の血脈を保っている。

「村岡氏」法制学者・地理学者であった村岡良弼 (りょうすけ 弘化二(一八四五)年~大正六(一九一七)年:下総香取郡(千葉県)出身。昌平黌明法(みょうぼう)科に学び、司法省・宮内省などで初期の法制整備を担当。、退官後は地誌・国史を研究した)の全七十二巻の大作「日本地理志料」の記載を指すか。

「蕃衍」「はんえん」。茂り蔓延(はびこ)ること。殖え広がること。

「日吉神社」滋賀県大津市坂本にある日吉大社(ひよしたいしゃ)。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「創立とともに説かれる近江湖南の大友與多王」「大友與多王」は弘文天皇(大友皇子)の皇子与多王(よたのおおきみ 生没年不詳)。日吉神社の南方にある園城寺(三井寺)の開基とされる伝承的人物。ウィキの「与多王に、『三井寺の伝承によれば』朱鳥元(六八六)年、『与多王は父の菩提を弔うため自らの「田園城邑(田畑屋敷)」を投げ打ち寺の建立を発願し、天武天皇は「園城寺」の勅額を与えたとされる』。彼の名は「日本書紀」には見られないが、「本朝皇胤紹運録」に『「大友皇子与多王(大友賜姓)都堵牟麿』(つとむまろ)『黒主」との系図を掲げるほか、大津市内の神社の祭神、寺院の古伝、古墳の被葬者の伝承などにその名が伝わる。大友氏は近江国滋賀郡の渡来系豪族であり、大友皇子の資養氏族と考えられ、与多王の子孫を称するなど伝承に深くかかわったものと思われる』とあり、日吉大社にある中七社の一つである早尾神社を勧請した三井寺関連の神社に同名の早尾神社があり、個人サイト「M. Yagi's Family Home Page」の「早尾神社と山上不動堂」の解説によれば、『本殿の左は、大友皇子の子という大友与多王を祀る児大友社。園城寺は与多王が荘園を献じて建立したという伝承だが、このあたりの渡来系氏族である大友氏の箔付けという感じがする』。『七世紀第四半期・天武・持統・文武朝の頃の寺院建立ブーム時に氏族(多分、大友氏)が建てた寺院が衰退し、そこを智証大師円珍が中興したというのが妥当な推測ではないだろうか』とあるのが、この部分の読解の参考になる。

「弟兄する」「おととえする」或いは「おとといする」で、強い親和性を持つの意。

「前朝の宮址」近江大津宮の旧蹟。天智・弘文天皇二代の都で、天智天皇六(六六七)年に遷都したが、弘文天皇元(六七二)年に壬申の乱で荒廃した。大津市内にあったとされるが、正確な位置は不明である。

「御最後の地」弘文天皇(大友皇子)の、の意。

「吉田博士」歴史学者・地理学者で、「大日本地名辞書」の編纂者として知られる吉田東伍(とうご 元治元(一八六四)年~大正七(一九一八)年:新潟県出身)のことであろう。日本歴史地理学会(日本歴史地理研究会)の創設者の一人で明治四二(一九〇九)年に文学博士となっている。当時、既に早稲田大学で教鞭を執っていたが、彼は新潟学校(後の新潟英語学校)中学部中退で、以後、正規の学校教育を受けておらず、無学歴の博士号であった。

「略之を」「ほぼ、これを」。

「御諱」「おんいみな」。弘文天皇の諱は大友(別に伊賀とも。母の伊賀采女宅子娘(いがのうねめ/やかこのいらつめ)由来)。

「名古屋の市内撞木町」現在の愛知県名古屋市東区橦木町附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「大友皇子の古墳かとも謂つたオトモ塚の有つた」「エリア行く」氏のブログ「愛知限定 歴史レポ」の『壬申の乱(じんしんのらん)と「おとも塚」』に非常に詳しい(写真豊富)。それによれば、この『尾張地方の那古野台地の丘陵の東山口の地、今の東区主税町・撞木町・赤塚町から山口町の一帯』は『壬申の乱の戦場とな』ったが、『このとき、尾張の国、初代の国司であった少子部連錯鉤(ちいさこべむらじさびち)は二千の兵をひきつれて美濃の国に進み、大海人の軍勢に合流』、『美濃地方で戦った』。『尾張地方では那古野台の山口の地域が激戦地となり、大海人の軍勢が、この山口の地を通りかかった大友軍をことごとく切り殺し、丘陵の多い荒野であったが、流血で山野を染めた』。『各地で行われた戦闘は、大海人の皇子軍の勝利となり、大友皇子は近江の国で自害して戦いは終わった』『が、勝ち軍の将、少子部連錯鉤は』、何故か、『山中で自害した』という。『江戸時代名古屋の撞木町の尾張藩士、河原忠三郎・甚三郎という中級の武家の屋敷内に「おとも塚」と呼ばれる塚があり、これが壬申の乱に戦死した大友皇子の将兵を弔った塚と伝えら』れてあり、『河原家では毎月、一日と十五日には神酒を供えるならわしが伝えらていた。江戸時代この塚は小山の様な塚で樹木が多く茂っていたと伝わるが』、昭和五三(一九七八)年当時には『河原宏氏の裏に』『僅かに残存す』だけであった(引用元に当時の写真有り)。『近年は、ネットで探索すると、もっと小さくな』ってしまい、『庭の植え込みの様になり、塀に閉ざされ、表からうかがう事もままならず、付近住民でも存在を知るものは少ない』(リンク先に当該民家の外壁写真があるが、塚の存在は全く見えない)。『また以前、高岳町の高岳院の門前に「少子部塚」という塚が有ったが』、『現在は全く見当たらない。また、杉の町や武平町付近一帯地下からも、宝篋印塔が多く発見され』、『これを「チイサベの塔」と呼んでいたと云う』。『名古屋の市中の一地区が千三百年前の流血の激戦地で』あ『ったことは現在では、すべて、忘却のかたに消えうせ、語り告ぐ人も少なく』、『「おとも塚」だけが千古の歴史を裏庭で、黙して語ら』ぬ、とある。

「名古屋市史地理篇」大正五(一九一六)年刊。当該部は国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここ。そこには、『或記には大友の皇子の古墳にて、おほともの塚の云』(いひ)『ならんか、今はた崩れ、其塚の形もなく、柹の木を植て、跡の印とす』という幕末に書かれた地誌的随筆の引用を載せるから、最早、原型を全く留めていないと考えてよかろう

「そのオトモと云ふ語に、何等か信仰又は儀式と關係の有る意味があつて、特に此天子の口碑を發達させる緣となつたのでは無いかと思はせる」「オトモ」という名称が、「大友」ではない、何らかの、今では全く廃れた土着の古い「信仰又は儀式」と関係のあるものであって、それを大友皇子の名に付会させたに過ぎないのではないか? という謂いで、柳田國男がその古形原型の「オトモ」に強く惹かれていることが判る。私もそれには共感するものである。

「伊豫喜多郡の粟津森神社」現在の愛媛県大洲市八多喜町甲にある祇園神社の旧新称。「愛媛県神社庁」公式サイト内の同神社のページを参照(地図有り)。それによれば、『古書に曰く、朱雀天皇の』天慶二(九三九)年、『伊予の掾藤原純友』、『任満ちて還らず』、『平将門と共に反乱せしとき』、『朝廷は大伴吉良喜を喜多郡の大領に任じ』、『暴徒を追捕せしめたり。吉良喜命、命を受け』、『京都出発に当たり』、『日頃』、『御信仰の祇園神(官幣大社八坂神社)の御分霊を奉持し、当所八多喜村岩津大門河原に上陸せられ』、『此の粟津の森に御殿を建て奉斎し、祇園宮と称へ奉り近郷を治め』、『御神徳を広め』、『薨去せられしにより』、『当社に合祀せられたり』。『爾来』、『大洲藩主代々参勤交代の時、海上安全諸祈願をせられ、又屡々奉幣を受け』、文政一一(一八二八)年、『十一代大洲藩主加藤泰幹公の寄進を賜り、又近郷の崇敬者多数協力奉仕し』、十三年の歳月をかけて天保一一(一八四〇)年、『現在の社殿、桜門等を完成した』。『明治元年』、『太政官布告により』、『粟津森神社と改称し』たが、後、昭和二五(一九五〇)年に『祇園神社に復した』とある。

「王子吉良喜命」前の祇園神社の解説から、「大伴」が「大友」と読み換えられてしまい、それが大友王子(皇子)に付会されたことが見てとれる。この大伴吉良喜というのは、大伴氏が遠祖としていた高皇産霊尊(たかむすびのみこと)から数えて三十二代目の四国大伴初代の人物らしいが、大友皇子とは関係がない。

「明治神社誌料」「府県郷社明治神社誌料」の略称。明治四五・大正元(一九一二)年明治神社誌料編纂所編・刊。全三巻。詳細はウィキの「府県郷社明治神社誌料」に詳しい。

「八幡の若宮と云ふ所から仁德天皇菟道稚郎子を説く」第十六代天皇「仁德天皇」は八幡神応神天皇の御子神である。「菟道稚郎子」「うぢのわきいらつこ」と読む。記紀等に伝わる、第十五代応神天皇皇子(「日本書紀」では皇太子とする)で仁徳天皇の異母弟であるから、やはり「八幡の若宮」に当たる。

「御駐輦」「ごちゆうれん」。「輦」は天子の乗り物。天子が行幸の途中で車を止めること。駐蹕(ちゅうひつ)とも呼ぶ。天智天皇(当時は皇太子)は、斉明天皇六(六六〇)年に百済が唐・新羅に滅ぼされたため、朝廷に滞在していた百済の王子で通好のために来日していた扶余豊璋(ふよ ほうしょう)を送り返して百済復興を図ったが、その際、百済救援を指揮するため、実際に筑紫に滞在している

「筑後川右岸の朝倉」福岡県の中南部の筑後地域に位置する朝倉市。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「土佐の朝倉」現在の高知県高知市朝倉。ここ(グーグル・マップ・データ)。この附近には天智天皇がこの地を通行したという伝承があるらしい。

「彦火々出見尊」「ひこほほでみのみこと」は一般に「山幸彦(やまさちひこ)」の名で知られる、神武天皇の祖父とされる人物である。]

 

母テレジア聖子八回忌

ある人は――「六年すれば悲しみは忘れられる」――などと慰めた。

私は少なくともそんな人種では、ない。

そうして、昨年、母が愛した三女のビーグルのアリスも、私が脳腫瘍のために安楽死させた。

 
私の哀しみは――遙かに続いている――

2018/03/18

御伽百物語卷之三 六條の妖怪

 

 御伽百物語卷之三

 

   六條の妖怪

 

Rokujyouyoukai

 

[やぶちゃん注:挿絵は「叢書江戸文庫二 百物語怪談集成」のものを用いたが、図は左右見開きで分離している。右に侵入している仏壇を上手く合成させることのみを主眼として重ね、他の齟齬する部分はなるべく自然な形で雲形を消し、ズレが生じている上下左右の枠も除去した。かなり自然な一枚に合成出来たと私は考えている。]

 

 西六條の寺内に四本松町といふあり。此所に住みける吹田屋(すいたや)喜六といひしは、もと、信州あげ松といふ村にて、猿太と聞えし杣(そま)の上手といはれたる者の子なり。父の猿太は、代々、勢州、内外宮御造替(ないげくうござうたい)ある每に、かならず、召されて、杣の酋長(しうてう)となる事を得たり。子もあまたありける故、去る元祿二年の御造替遷宮あるべしとて、吉例(きつれい)に任せ、猿太に杣がしらを給はりけるにつきて、木曾山をふみそめ、猶、諸國に渡りて、宮木(みやぎ)引くつゐでに、此喜六をつれて、都にのぼり、しるべの人を賴みて上方の者となさばやの心ざし深く、十七の年より京都に足を留めさせ、下部の奉公をさせ置きけるが、喜六は、元來、したゝかものにて、力も人にこゑ、肝(きも)ふとく生れつきたれば、重きを荷ひても、肌(はだへ)たゆまず、危きにのぼりても、氣を屈せず、彼が一人の働きには、餘(よ)の人、二、三人を替(かゆ)る程なりしかば、主人にも惜しまれ、身もたまかにつとめて、年季つゝがなく、禮奉公をも濟まし、少しの元價(もとで)をも、たくはへ、旦那に仕付(しつ)けられて、今、此所(このところ)に住みつき、似あはしき緣(ゑん)に女房を持ちて、きのふけふと過ぐしけるに、娘さへ二人設(まう)けたるに、しかも生れつき、拙(つたな)からず。ちいさき内より、万(よろづ)にかしこく見えける故、如何なる大名高家へも宮仕へに出だし、ゆくゆくは身こそ賤(いやし)き種(たね)なりとも、子は打ち出だす幸(さいわい)もあれかしと、手書(てかき)・物よみ・糸竹(いとたけ)の道(みち)、心ゆくだけをならはせ、其身は主人に肩入れ奉公し、味噌塩(みそしほ)の世話より、炭薪(すみたきゞ)、万(よろづ)に氣を配り、臺所の見集(みあつ)めを役目にし、夜は宿に歸り、起き臥しをやすくしけるが、此おのこ、生れつきて川狩(かはかり)を好み、仕込みの釣竿・糸・釣(はり)をつねにたしなみ、折ふしは高野河(たかのかは)・桂の流れに鮎やうの物を釣りて、瓢簞の酒にゑひをすゝめ、是れを世の人の色にふけり、女にまよふのたのしみにかゑて、身ひとつの氣ばらしとぞなしける。

[やぶちゃん注:「西六條の寺内に四本松町」現在の京都府京都市下京区四本松町か。ここ(グーグル・マップ・データ)。西本願寺と東本願寺の間にある。

「吹田屋(すいたや)喜六」不詳。

「信州あげ松といふ村」現在の長野県南西部に位置する木曽郡上松町(あげまつまち:ここ(グーグル・マップ・データ))内の旧西筑摩郡上松村。町の東端には中央アルプスの最高峰木曽駒ヶ岳が聳え、町のほぼ中央を木曽川が流れる。この集落は木曽の材木の集産地として古くから知られ、本話に出る二十年一度行われる伊勢神宮の式年遷宮(二〇一三年に行われたので次回は二〇三三年)では、檜の「一等木」という大きな御用材を必要とするが、これは現在でも人の手で伐らなくてはならない。伐採技法は「三つ紐切り」と呼ばれて木曽に伝承されていると、ツイッターの「上松太郎【上松町観光協会公式】」が述べている(伐採法を示す写真)。ツイッターの接続環境にない方は、上松町観光協会のウィンドウ内で見られる。なお、ウィキの「神宮式年遷宮」によれば、『遷宮においては』一『万本以上のヒノキ材が用いられる。その用材を伐りだす山は、御杣山(みそまやま)と呼ばれ』、『御杣山は』十四『世紀に行われた第』三十四『回式年遷宮までは』、三『回ほど』、『周辺地域に移動したことはあるものの、すべて神路山と島路山』と『高倉山』『という内宮・外宮背後の山であった』。『その後、内宮の用材の御杣山は第』三十五『回式年遷宮から三河国に移り、外宮の用材の御杣山は第』三十六『回式年遷宮から美濃国に移り、第』四十一『回式年遷宮から第』四十六『回式年遷宮までは伊勢国・大杉谷を御杣山とした。この伊勢国大杉谷は、徳川御三家の一つ・紀州徳川家の領地である紀州藩にあった』。『しかし、原木の枯渇による伐り出しの困難さから、第』四十七『回式年遷宮から、同じ徳川御三家の一つ・尾張徳川家の領地である尾張藩の木曽谷に御杣山は移された。以後、第』五十一『回式年遷宮のみ大杉谷に戻ったものの』、三百年以上に亙って、『木曽谷を御杣山としている』とあり(下線やぶちゃん)、本話は第四十六回式年遷宮式(後注参照)であって、その時はまだ御杣山は木曽ではなかったが、本文では宮木用材を諸国を巡って猿太が選んだとあるのであって、木曾から伐り出したとは一言も言っていないので誤りではない

「猿太」不詳。

「杣(そま)」木樵(きこ)り。

「酋長(しうてう)」御用材伐り出しの棟梁。

「元祿二年」この年、事実、元禄二(一六八九)年九月十日に内宮の、同月十三日には外宮の第四十六回式年遷宮式が行われている。なお、遷宮の回数が少ないのは、戦国時代、百二十年以上に亙って中断していたためである。なお、本「御伽百物語」は宝永三(一七〇六)年の江戸開版で、本話の主時制は元禄二年よりも明確に後であるから、またしても、直近の京の都のアーバン・レジェンドとなるのである。

「人にこゑ」「人に越え」。歴史的仮名遣は誤り。

「身もたまかにつとめて」「たまかに」は形容動詞で「実直なさま・誠実なさま」或いは「つつましく質素なさま」を意味し、ここは前者。

「仕付(しつ)けられて」後に「肩入れ奉公」とあるから、万事万端の支度を主人に調えられて、暖簾分けして呉れたということを指している。

「子は打ち出だす幸(さいわい)」「さいわい」はママ。子は幸福を打ち出だす打出の小槌である、という譬えと採っておく。

「糸竹(いとたけ)」楽器。

「肩入れ奉公」奉公人が暖簾を分けてもらった後も、恩返しとして元の主人の家の用を何くれとなく手伝うことを指す。

「臺所の見集(みあつ)め」取締役。監督係。

「高野河(たかのかは)」京都府京都市左京区を流れる淀川水系の一級河川。流路延長は十七キロメートル。京都の鴨川を図示する際に北方で修学院離宮方向にY字型に分かれて表されるが、そのYの分岐の右側が高野川である。

「桂」桂川。]

 

 ある日、またよく、手透(てすき)なりければ、例の釣にとおもひたち、けふは槇(まき)の嶋にと、朝まだきより、急ぎ行き、

「瀨田より落ち來る鰻もあらば。」

と、辰の上刻より午のさかり迄、さまざまと手をくだきしに、其日は何とほくれしにや、終に鰻の一すぢもかゝらねば、又、例の蠅(はい)かしらに、入れ子棹、さし延(のば)し、川中におりたち、二時(ふたとき)ばかり窺ひけるに、是れもなを、くふ物なく、今は精つき、腹だゝしくなりて、釣竿を引き取る所に、何とはしらず、喰ひつくもの、あり。

[やぶちゃん注:「槇(まき)の嶋」不詳。但し、後に「瀨田より落ち來る鰻」とあることから、滋賀県内の瀬田川が大阪・京都に入って淀川と名が変わる辺りを探ると、京都府宇治市宇治山王に「槇ノ尾山」を見出せた。ここ(グーグル・マップ・データ)か?

「辰の上刻より午のさかり迄」午前七時頃から午後十二時まで。

「ほくれしにや」不詳。「解(ほぐ)れる」で「しそびれる」の意から、「一匹も餌に食いつかない、釣り上げしそびれる運命であったものか」の意か。いや、しかしその解釈は苦しいな。しかし、原典も所持する三種の版本もすべて「ほくれしにや」で「ほぐれしにや」と濁音化していない。翻刻した編者たちは皆、この部分の意味が判っているのであろう。どうか、この馬鹿に教えて、たもれ。

 「蠅(はい)かしら」「蠅頭(はえがしら)」で蠅の形をした、鈎(はり)とセットになった一疑似鈎(ぎじばり)。

「入れ子棹」「いれこざを」。分離していてジョイントで組み立て式になっている竿。

「二時」四時間。]

 

 手ごたへして、水、はなれ、したゝかなるやうに覺えければ、やおら、心して引きあげ見るに、鰻に似て毛あり、龍に似て鰓(あぎと)あり、何とも心得ず、あやしきまゝに、

『捨てや歸らん、取つてや飼はん。』

と思ひしが、

『よしや。是れは珍しくあやしきものなり。取り歸りて小芝居(こしばゐ)などにも出(だ)さばや、よきまふけして德を付くる事もこそ。』

とおもひ、小畚(こふこ)におし入れて歸り、庭なる泉水に放ち置きけるに、

「むつむつ。」

として底に這入(はいい)りけるを、娘などにも見せて興じあへりしが、ある日、姊(あね)むすめを奉公に出ださんとて、さまざまに繕ひたて、肝煎(きもいり)の人、これかれ、うち寄りて物がたりしたりける中(なか)へ、與風(ふと)、白き餅壹つ、落したり。

[やぶちゃん注:「鰓(あぎと)」鰓。龍は想像上の爬虫類であるから、鰓は、ない。

「小芝居(こしばゐ)」本来は官許の劇場以外の芝居興行を指すが、ここはそれをさらに拡大した怪しげな見世物興行の類いである。

「小畚(こふこ)」「畚」は「もっこ」で繩・竹・蔓(つる)などを網状に編んだ運搬用の道具。ここは魚籠(びく)。

「むつむつ」蠕動して潜り込む動きのオノマトペイア。

「肝煎」世話や斡旋をする仲介者。ここは奉公人を周旋する業者ともとれるが、喜六は精勤で評価も上々であるからして。この場合の「肝煎」はそうした斡旋をした中に入った吹田屋喜六の住む四本松町の名主或いは庄屋(「肝煎」は彼らの異名でもあった)とイコールであると考えてよいと思われる。そうした町人でも格の高い連中の前で、しかもよい奉公先を紹介して貰おうという場面で、食いしん坊にも隠し持っていた餅を落としたと見たからこそ、以下で父喜六は激しく叱正したのである。]

 

 喜六は、姊の落したる、と心えて、大きに恥かしめ、叱りけれども、姊も覺えなき事にうたがひをうけ、淚ぐみてさしうつぶき居たるに、何處(いづく)へか行きけん、此餅、搔(か)いくれて、見えずなりぬれども、人とはなしゐたるに紛れて、さのみ氣もつかざりしが、外より來たりし人に、『酒ひとつ、もてなさん』と思ひ、間鍋(かんなべ)を出だし、肴(さかな)をこしらへなどして、釜の下、燒きたて、燗仕(かんし)たりける内に、肴(さかな)・鉢(はち)ども、みなみな失せて、見えず。

「こは、いかに仕(し)けるぞ。誰(たれ)か取りなをせしや。」

と、湯煎銅(ちろり)、したに置きて、女房、こゝかしことたづねありく程に、又、此ちろりも失せたり。

「こはいかにいふ事にか。」

と、驚きさはぐ中へ、熱(にへ)かへりたる茶釜、にはかに、竃(くど)をぬけ出でて、臺所を轉(まろ)びありけば、おのおの、今はたまりかね、身の毛竪(た)ちて、逃げまどふに、或るひは、立臼(たてうす)、ひとり、こけて、門口へゆき、半櫃(はんひつ)、踊り出でて、あがり口に、なをり、最前失せたる酒・肴、その上にあり。

[やぶちゃん注:「間鍋(かんなべ)」「燗鍋」。酒を御燗するための湯を沸かす鍋。

「燗仕(かんし)たりける内に」酒を御燗している間に。

「肴(さかな)・鉢(はち)ども」中黒は私が打った。作っている酒の肴も、それを盛ろうとした小鉢も、みんな、の意と採ったからである。鉢に持った肴でもよいが、カメラ・ワークとしては、分離している方が私は効果があると思う。

「湯煎銅(ちろり)」「ちろり」は前の三字に対するルビ。「銚釐(ちろり)」。酒の御燗をするための金属製の道具。銅・錫(すず)・真鍮製で、下の方がややすぼんだ筒形をしており、取っ手と注ぎ口がついている。『「ちろり」と短時間のうちに暖まる』ところからかく称すると言う。「湯婆(たんぽ)」とも呼ぶ。

「竃(くど)」おくど。かまど。へっつい。

「半櫃」長櫃(ながびつ)の半分ほどの大きさの櫃。衣類・夜具などを入れる整理箱。

「なをり」「直り」。デン! と座を占め。]

 

 持佛堂より、佛、ゆるぎ出でて座敷に居ならべば、木枕(きまくら)、こけゆきて、其前にあり。餅、いくらともなく湧き出でて、おのおの枕の上に乘りなどしける程に、娘も母の親も、みなみな、逃げまどひけるを、喜六は、つねづね、當山(たうざん)の先達(せんだち)にて、山上(さんじやう)したりしかば、金剛杖(こんがうづえ)、おつとり、

「おのれ、妖物め。尋常のものとな思ひそ。定めて、古き狐か狸のなすなるべし。只一打ちに。」

と、庭におりたちける。

[やぶちゃん注:「木枕」木製の箱型の枕。普通は籾殻などを入れた布の枕を上に装着して使うが、挿絵から見ると、それのない長方形の素の木製のそれである。「箱枕」とも呼ぶ。

「當山(たうざん)」は平安から江戸時代にかけて興隆した真言宗系修験道の一派である「当山」派(とうざんは)のこと。金峯山(きんぷせん:奈良の大峰山脈の内で、吉野山から山上ヶ岳(さんじょうがたけ)までの連峰の総称。ここにある吉野山金峯山寺は修験道の中心地の一つ)を拠点とし、京都府京都市伏見区醍醐醍醐東大路町にある醍醐寺にある三宝院が本寺として統括していた。ウィキの「当山派」によれば、九世紀に『聖宝が金峯山を山岳修行の拠点として以降、金峯山及び大峯山での山岳修行は真言宗の修験者によって行われるようになった。鎌倉時代に入ると、畿内周辺にいた、金剛峯寺や興福寺・法隆寺などの真言宗系の修験者が大峯山中の小笹(おざさ』。『現在の奈良県天川村洞川(どろがわ)地区)を拠点に結衆し、「当山方大峯正大先達衆(とうざんがたおおみねしょうだいせんだつしゅう)」と称し、毎年』、『日本各地から集まる修験者たちの先達を務め、様々な行事を行った。室町時代には』三十六も『の寺院がこの組織に属していたことから、「当山三十六正大先達衆」とも称されたが、中世後期になると』、『天台宗系の本山派との確執が深刻化し、聖宝ゆかりの三宝院との関係を強めることにな』った。『慶長年間に袈裟を巡って当山派と本山派が対立を起こすと、当山派は政界にも大きな影響力があった三宝院の義演を頭領に擁して争った。義演から徳川家康への働きかけもあり』慶長一八(一六一三)年に『江戸幕府から三宝院と本山派が本寺と仰ぐ聖護院に対し』、『修験道法度が出され、一派による独占は否定され、両派間のルールが定められた。これは劣勢にあった当山派には有利なものであり、以後』、『同派は三宝院を法頭として擁することになるとともに、組織としての整備を図り、以後、結衆集団であった当山派は宗派として確立されることとなった。江戸時代には』十二『の寺院が当山派に属し、更に』元禄一二(一六九九)年には、『三宝院の意向で大和国鳳閣寺の住職を「諸国総袈裟頭」に任じるとともに、江戸の戒定院を鳳閣寺の別院(青山鳳閣寺)に改めて』、『そこで当山派統制の実務にあたらせた』。『当山派は、明治維新後の神仏分離令』及び明治五(一八七二)年の『修験宗廃止令によって、真言宗に強制的に統合されることになっ』てしまったのである。

「先達(せんだち)」山伏や一般の信者が修行のために山に入る際の熟達した指導者。

「山上(さんじやう)」前注で出した山岳霊場としての金峯山山嶺(吉野山(奈良県吉野郡吉野町)から、その南方二十数キロメートルに及ぶ大峯山系に位置する山上ヶ岳(奈良県吉野郡天川村)周辺まで)を包括した謂い。この中央付近(グーグル・マップ・データ)。

「金剛杖」修験者が持つ八角又は四角の白木の杖。密教法具で元古代インドの投擲武器であった、後にも出る独鈷杵(とっこしょ)から生じたとされている。]

 

 あたまのうへより、大きなる石ひとつ、喜六が鼻筋をこすりて、

「はた。」

と落ちかゝる。

「こは、いかに。」

と、ふりあふぐ所を、緣の下より、何とはしらず、喜六が双脛(もろすね)、なぎたふすものあり。

 さまざまの物怪(もつけ)に、もてあまして、何院とかやいひし山伏をたのみ、祈らせけるに、獨鈷(とつこ)を取れば、錫杖、なし、珠數(じゆず)をとれば、燈明(とうめう)飛びあがり、種子袈裟(しゆじげさ)をとりて引きたふしなどしける程に、終に行力(ぎやうりき)もおよびがたく覺えけるまゝに、やがて祈願の壇をおり、

「みづからの德のいたらぬ故なるべし。」

と、心中に滅罪眞言をとなへ、降魔(かうま)の利劍、まくらがみに橫たへ、しばらく眠(ねふり)を催さんとするに、枕、ひとり、踊りはねて、頭をはづし、もてあぐみたる事なりしかば、

「よしや、何にても慰みを催し、一夜をあかし、替りたる災異をもあらはさば、それをしるべに、一加持(ひとかぢ)せばや。」

などいひいひて、其座に有りあふ者ども、うちより、骨牌(かるた)を打ちなどして、錢をかけ、夜(よ)ふくるまゝに、喜六は、此人々を饗應さんためとて、豆腐やうの物取りよせ、魚板(まないた)に乘せて、既に刃物をあてんとせしに、此豆腐、人のごとく立ちて、ゆらゆらとあゆみつゝ、細き手さへ、出で來て、彼の骨牌(かるた)の場に行きつゝ、からびたる聲を出だし、

「我れに壹錢をあたへよ。」

と罵るにぞ、彼の山ぶしも肝を消し、魂を失ひて、逃げ去りぬ。

[やぶちゃん注:この豆腐様(よう)人形(ひとがた)怪は、ある意味で、この怪談の特異点のクライマックスという感じがする。先のポルターガイスト風のそれは見飽きた感があったが、ここはこれ、なかなかオリジナリティがあってよろしい。

「種子袈裟(しゆじげさ)」梵字の種子(しゅじしゅ じ:密教で、仏・菩薩などの諸尊や事項を象徴的に表す梵字。総てがその一字に含まれ、また、総てがそこから生ずると考えるところからかく漢字を当てる)や真言を縫い込めた袈裟。]

 

 喜六、やがて、此手をとらへ、唾(つばき)はきす。

[やぶちゃん注:怪異や幻覚から身を守るために(生臭い匂いのする自身の)「唾を吐く」という行為は洋の東西を問わず、普遍的に見られる誰にでも出来る最も簡便な防禦呪法の一つである。]

 

 妖怪、またいふやう、

「我は、これ、汝が家の婿なり。何ぞ無禮をしたまふや。一人が名は『九郎』といひ、今ひとりは『四郎』といふ也。」

と、名のるを、喜六、聞きすまし、夜明けしかば、急ぎ、北野のかたへ尋ね行き、智光とかやいひし、其比(そのころ)の眞言者ありけるを、かたらひ來たりて賴みけるに、智光、その家に行き、先づ、あかき繩を以て一間(ひとま)を仕切り、手に印をむすび、口に密咒(みつじゆ)をとなへ、劔(つるぎ)を拔(ぬき)て名を呼(よび)て後(のち)、さまざまの供物をとゝのへ、繩張りより外にそなへ、しばらく行ひ、觀念せられけるに、夜半にも及びなんと思ふ比(ころ)、黑き事、墨のごとく、大きさ、牛の子ほどなる物、はい出でて、彼(か)のそなへたる酒・肴・供物を啖(くら)はんとす。

 智光、やがて、劍を引きそばめ、飛びかゝりて、一かたな、さす。

 刺(さゝ)れて逃げる所を、手燭(てしよく)ともし、つれ跡(あと)をしたひて行きけるに、裏口の緣の下にてとゞまるを、よくよく見るに、何とは知らず、只、黑革の袋に似て、口も目もなき物也。

 やがて、是れを引き出だし、薪(たきゞ)を其うへ積みて、燒き殺しけるより、二たび又、あやしみなかりしが、程なく、妹に物怪(ものゝけ)つきて、いふやう、

「我が兄の九郎は姊とちなみけるを、既に、殺しつ。我(われ)、ひとり、今、此妹をいとおしみて有りといへども、兄、なくなりしは喜六が故也。うらめし。」

と、いひて夜每に鳴きしを、智光、又、劍をぬき、肱(ひぢ)をいからして、聲をはげしうして、大きに叱(しつ)しけるに、妹、大きにおそれ、額に汗をながしけるを見るに、妹が臂(ひぢ)、にはかに腫(はれ)あがりて、大きさ、枕ほどになりけるを、智光、劔(つるぎ)をさしあて、二かたな、さしければ、血を流す事、二升ばかり也しが、妹が病(やまひ)、つゝがなく平生(へいせい)に歸りけるとぞ。

 終に、むかしより、此ためしを聞かず。尤(もつとも)あやしき事也。

[やぶちゃん注:この物の怪の失敗は何より、自分らの名を名乗ってしまったことにある。名指すことが出来るものはその名に於いて縛られるから、ある意味、物の怪の正体の大事な核の部分を相手に与えてしまったことになり、物の怪の調伏は最早、時間の問題となるからである。恐らく、智光が最初に「劔(つるぎ)を拔」いて「呼」んだ名は兄の「九郎」の名だったに違いない。物の怪兄弟の名を二人分呼んで纏めて調伏するなどという、お手軽なことは普通の呪法では考えられない。特に強力な妖術を駆使する強い魔的存在に対し、それは失礼な仕儀であり、却って相手を怒らせ、折伏を失敗させ、行者そのものが直ちに殺戮されることも稀ではない最も危険なことだからである(そのような伝承を私は沢山知っている)。だから、後で「弟」の方がやって来るのである。また、本話は喜六が捕えた、鰻のようで体毛がびっしりと生えており、龍のようで鰓(えら)を持った怪魚がその正体と匂わせながらも、後半、それが二つのモンスターに分裂したかのように見え、それが姉妹を波状的に襲い、しかも遂にその正体はやはり不明のままであり、こんな妖しい話は過去に聞いたことがないという語りで終わるという全体の構成が、真正のホラーとしてよく出来ていると私は思う。正体を妙に推理して示したり、前世の悪行の報いなどとする、本書の前の怪談などよりも、理解不能で、妖しい未確認動物の臭いがプンプンしてくる辺り、非常にいい。

「智光」不詳。

「其比(そのころ)の眞言者」その頃、強い法力を持つと評判だった真言宗の密教僧。

「密咒(みつじゆ)」真言。

「觀念」観想。心静かに内観すること。

「つれ跡(あと)」対象に従って出来た足跡。]

 

栗本丹洲 魚譜 キンザンジ (ギンザメ(アカギンザメか?))

 

Kinzanji

 

[やぶちゃん注:図版は国立国会図書館デジタルコレクションの「魚譜」からトリミングし、合成した。上下で棘尖端や鰭の一部が切れてしまっているのは、原巻子本のママ。実際には前との図との接合も完全には上手くいっておらず、拡大してみると、恐らくは尾部の先端も截ち切られてしまっていると思われる。右上部にちょっと突出しているのは、前の「狂言バカマ」の口吻部で、本図とは全く関係がない。

 

□翻刻1(原典のママ)

キンザンジ

 丹洲案此稱

 ギンザメノ轉訛ナリ

 

□翻刻2(今まで通り、読み易く整序変更した)

「キンザンジ」

 丹洲、案(あん)ずるに、此の稱は「ギンザメ」の轉訛(てんか)なり。

 

[やぶちゃん注:本図は深海魚の、軟骨魚綱全頭亜綱ギンザメ目ギンザメ上科ギンザメ科ギンザメ属ギンザメ Chimaera 類の(頭部形状から推定)に同定出来る尻鰭が独立して確認出来ないような描き方がなされているところからは、本邦のギンザメ類の代表種であるギンザメ属ギンザメ Chimaera phantasma ではなく、アカギンザメ属アカギンザメ Hydrolagus mitsukurii ではなかろうかとも私は考えている。なお、名前は「赤銀鮫」であるが、本種の個体が総て赤いわけではない。成体に近づくと、全身に赤色を帯びて、白点斑が散らばるようになるだが、若年個体は全体に白い。手元に「しんかい2000」が水深五百メートル(通常ギンザメ類はそこら辺りから八百三十メートルの深海域に棲息する)で撮影した弱年個体(全長四十五センチメートル。成体の最大個体は一メートルを超える)の写真があるが、体部は全くギンザメ類と同じく銀白色で、鰭の周辺だけが黒いのみで、少しも赤くない。そもそもが深海から揚げられて、江戸まで持って来られた頃には、本来の原色は既に失われている可能性も高い。

 実は丹洲はこのギンザメ類が、殊の外、お気に入りだったようで、この後、本ギンザメ属だけでも、なんと、本図を含めて十三図のオン・パレードとなる。なお、その内、ずっと後に出る一図は、細部の形状等の酷似した相同性から見て、私の観察する限り、本図と全く同一の個体を別に一枚描いたものと思われるものさえ含まれている。尾部は巻子本なので」をクリックして表示されたい)。その間にも、ギンザメ目テングギンザメ科Rhinochimaeridae のテングギンザメ類が二図ある。他にネコザメやドチザメ及びサメの卵鞘や稚魚及びカスザメの図が途中に挟まっているものの、それらは有意に図が小さく、ギンザメ・パレードでは食傷する鑑賞者がいるかも知れないとでも丹洲が思った思わなかったは判らぬが、添え物的でギンザメ類のパワーに比して画力も格段に劣る。

 私は既に先月、博物学古記録翻刻訳注 ■17 「蒹葭堂雑録」に表われたるギンザメの記載で本ギンザメ類を扱っている(そちらでは図が背鰭と尾鰭の区別が出来るように描かれている点から、ギンザメ属ギンザメ Chimaera phantasma に比定した)ので、ギンザメ類の概説はそちらの注を参照されたい。私のポリシーから言っておくと、背鰭前縁にある図でも目立った一本は毒腺のある棘を持つ。人に対する毒性は弱いものの、刺されれば痛むので危険である。

「キンザンジ」舐め味噌の「金山寺」に掛けたのであろう。丹洲は「銀鮫(ギンザメ)」の発音の訛ったものと如何にもな附言をしているが、験(げん)担ぎをする漁師は、二番手の「銀」より「金」を名に附すのに好むものとも私は思う。]

2018/03/17

御伽百物語卷之二 桶町の讓の井

 

    桶町(おけてう)の讓(ゆづり)の井(ゐ)

Yuzurunoi

[やぶちゃん注:挿絵は「叢書江戸文庫二 百物語怪談集成」のものを用いた。本話は、前世応報譚とは言え、登場人物は現世で総て善人であるが故に。読後、頗る不快で、後味は極めて悪い。覚悟されたい。]

 江戸に名井と名の付きたる所々(しよしよ)あまたあり。牛込の堀かねの井。源介橋(げんすけばし)の油の井。神田の宮の小路町(こうじまち)の井。四谷の策の井。須田町の龜の井。權太原(ごんたはら)の鱏(うなぎ)の井。湯嶋に柳の井。谷中に野中の井。自性院(じしやうゐん)の蜘蛛の井。小石河の極樂の井。龜井戸の藤の井。玉水の井。御福の井。封(ふう)の井。新井(あらゐ)などすべて十八ケ所ありといへども、多くは國守城主諸旗本、軒をならべ、甍をつらね、草より出でて草に入りしと聞く、名にしあふむさし野の月も破風(はふ)より出でて破風にかたぶき、出でさ、入りさも立てこつみたる繁華の比(ころ)は、築地(ついぢ)の内に井の心をすましめ、廣間のさきに名を汲むのみなるも多かりける中(なか)に、桶町の讓の井と聞えしは、そのかみ、此町(まち)をひらきて住みそめける者を桶屋太郞作(たらうさく)といひしとかや、此もの、生得(しやうとく)、情ふかく慈悲にして、他のためよき事といへば身を捨て、家職をとゞめても、是れをとり持つ氣ありて、常に人の事のみ世話をやきけるが、惣じて此地は水の不足したる所ゆへ、多波河(たはがは)の流れに樋(ひ)をふせて、町小路に支(えだ)を分(わか)ち、水道と號(なづけ)けて、朝夕(てうせき)の用水とする。然るに、此太郞作が家の井、ひとり淸潔して、夏はひやゝかに、冬あたゝかにして、鐵氣(かなけ)く、地脈、京都の水にかはらざるを愛し、近邊五町十町が程には家ごとに汲ませ、遠き所には、みづからも汲みはこびて、人の役に立てるを悦びける程、「桶町の冷水(ひやみづ)」とて誰(たれ)しらぬものもなく、殊に夏の日の炎熱に行きかふ人の汗を冷(すゞ)しめ、咽(のど)をうるひさしむるためとて、終日(ひねもす)見せに汲み出だして、攝待(せつたい)をなしなんど、萬(よろづ)、心づきたる心底なり。

[やぶちゃん注:「桶町(おけてう)の讓(ゆづり)の井」桶町は現在の東京都中央区八重洲にあった町名。私は現在の「八重洲ブックセンター」附近と推測する。「讓(ゆづり)の井」とは、以下に見る通り、井戸の持ち主である桶屋太郎作が人に惜しみなく水を譲り分け与えたことに由来する作中の井戸の名であろう。

「牛込の堀かねの井」サイト「てくてく牛込神楽坂」の「逢坂|市谷船河原町」に、新宿区市谷船河原町九番地(ここ(グーグル・マップ・データ))にある東京都新宿区教育委員会の史跡「掘兼の井」の解説の電子化がある。それによれば、『掘兼の井とは、「掘りかねる」の意からきており、掘っても掘ってもなかなか水が出ないため、皆が苦労してやっと掘った井戸という意味である。掘兼の井戸の名は、ほかの土地にもあるが、市谷船河原町の掘兼の井には次のような伝説がある』。『昔、妻に先立たれた男が息子と二人で暮らしていた。男が後妻を迎えると、後妻は息子をひどくいじめた。ところが、しだいにこの男も後妻と一緒に息子をいじめるようになり、いたずらをしないようにと言って庭先に井戸を掘らせた。息子は朝から晩まで素手で井戸を掘ったが水は出ず、とうとう精根つきて死んでしまったという』とあり、次に昭和四四(一九六九)年刊の「新宿と伝説」で新宿区教育委員会は、『「掘兼の井」とは、井戸を掘ろうとしても水が出ない井戸とか、水が出ても掘るのに苦労した井戸という意味である。中でも有名なのは、埼玉県狭山市入曽の「掘兼の井」である。有名な俊成卿の歌に』「むさしには掘かねの井もあるものをうれしく水にちかづきにけり」『とある。「御府内備考」によると船河原町には、“その井戸はない”と書いてある。しかし逢坂下の井戸はそれだとも云い伝えられ、後世そこを掘り下げて井戸にした。それは』昭和一〇(一九三五)年頃までは』旧来の掘り抜き形式の井戸として残っていたらしい。『戦時中はポンプ井戸になり』、昭和二〇(一九四五)年五月二十四日の『空襲のあと、使用しなくなった。今は、わずかにポンプの鉄管の穴がガードレール下に残っている』とある。記事記載者は後に続けて、『なお、船河原町築土神社によれば、「この地には江戸時代より「堀兼(ほりがね)の井」と呼ばれる井戸があり、幼い子どもを酷使して掘らせたと伝えられるが、昭和』二十年、『戦災で焼失し今はない」』とあって、貴重なかつての「堀兼の井戸」の写真が添えられてある(必見)。さらに、『若宮町自治会の『牛込神楽坂若宮町小史』では「逢坂の下(現・東京日仏学院の下)にある「堀兼の井」は、飲料水の乏しい武蔵野での名水として、平安の昔から歌集や紀行に詠まれていたようです。これは、山から出る清水をうけて井戸にした良い水なので遠くからも茶の水として汲みに来たという事です」と書いています。また『紫の一本』には「堀兼の井 牛込逢坂の下の井をいふといへり。此水は山より出る清水を請けて井となす。よき水なるゆへ遠き方よりも茶の水にくむ。よごれたる衣を洗へばあかよく落て白くなるといふ」と書いています』とある。この『飲料水の乏しい武蔵野での名水』というところが肝心で、実は鎌倉も「鎌倉五名水」や「鎌倉十井」などの名数があるが、これは実は如何に鎌倉が飲用に適した水利に乏しかったかという不便さの裏返しなのであり、江戸のこの名数も本質的にはそれと同じだということに気づく必要がある

「源介橋(げんすけばし)の油の井」不詳。

「神田の宮の小路町(こうじまち)の井」東京都千代田区外神田の神田明神の境内周辺に接した町(グーグル・マップ・データ)と考えねばなるまい。「江戸名所図会」や切絵図も調べたが、見当たらない。なお、現在の正式名称は神田神社である。

「四谷の策の井」「策」は「むち」と訓じておく。但し、以下の引用でも全くルビを振らないということは、「サク」と音読みしているという有力な証左にはなるとは思うが、私は意味が判然とするように「むち」と読んでおきたい。「新宿観光振興協会」公式サイト内のこちらに、『もとは、新宿西口の「新宿エルタワービル」付近にありましたが、現在は蓋をされて、同ビル西南隅の植栽にモニュメントが建てられています』。『この井戸が『策の井』といわれるゆえんは、徳川家康が鷹狩りの帰途、汚れた「策」を洗ったという伝承によります(『江戸砂子』より)。家康は、晩年は駿府へと隠退し、「大御所」と称されていましたが、年に何度かは江戸城に滞在して将軍秀忠に進言していました。江戸城にいるときは頻繁に鷹狩りに出ていたため、このような伝承も根拠のある言い伝えといえるでしょう』。『『策の井』は、四谷の松平摂津守の下屋敷の庭内にあり、「名井」・「名湧水」との噂を聞きつけた家康が』、『わざわざ立ち寄ったともいわれています』とある。旧所在地はこの附近(グーグル・マップ・データ)。

「須田町の龜の井」「須田町」は現在、千代田区神田須田町一丁目及び神田須田町二丁目が現存する。秋葉原駅の南西の神田川を挿んだ右岸一帯。ここ(グーグル・マップ・データ)。井戸は不詳。

「權太原(ごんたはら)の鱏(うなぎ)の井」「權太原」は港区元赤坂、赤坂御用地の北西の交差点に名が残る。この附近(グーグル・マップ・データ)。

「湯嶋に柳の井」東京都文京区湯島にある湯島聖天心城院に現存同寺公式サイトの解説に、『当山には、江戸名水「柳の井」があることから、「柳井堂(りゅうせいどう)心城院」と称されて』おり、江戸時代「江戸砂子」「御府内備考」「紫の一本(ひともと)」「江戸志」などの「柳の井 男坂下」の項にも『「この井は名水にして女の髪を洗えば如何やうに結ばれた髪も、はらはらほぐれ垢落ちる。気晴れて、風新柳の髪をけずると云う心にて、柳の井と名付けたり」と記されてい』るとある(表記はママ)。『「柳の井」は古来より水枯れもなく、数滴髪に撫でれば水が垢を落とすが如く、髪も心も清浄になり降りかかる厄難を拂ってくれると伝えられて』おり、『この霊水の美髪・厄除けのご利益を求め』、今も参詣人が多いとある。『また、関東大震災の時には、湯島天神境内に避難した多数の罹災者の生命を守った唯一の水として、当時の東京市長から感謝状を受け』、『文京区防災井戸』に指定されているという。但し、『この水は飲料可能で』ある『が、持ち帰って飲む場合は、なるべく煮沸してから』飲むようにという注意書きがある。

「谷中に野中の井」かつて旧谷中三崎町(恐らくこの附近(グーグル・マップ・データ))にあった法受寺(それ以前は豊島郡下尾久にあった。恵心僧都正暦三(九九二)年開山)の名水として知られたらしい。現在は合併移転して足立区東伊興で普賢山新幡随院法受寺となっている。たまたま、玉林晴朗の「下谷と上野」(昭和七(一九三二)年東台社刊)という本をグーグルブックスで視認したところ、「江戸砂子」には『野中の井、又、柏木の井とも云、三崎の内町屋の裏にあり』とあって、また「江戸惣鹿子名所大全」には、『正保のころかとよ、柏木と云、遊女、つれし夫に離れ、此所に庵を結び、尼に成て、住たり。その跡の井なり、その頃は、あたり近きに人家もなく、野の中なれば、かく云なり、此女、死して後、里人、そのからをいづみてそとはに一首の歌をかく。

 かひなきぞ野中の淸水あさければ消てあとなきいもが俤

墓しるしに櫁(しきみ)を植たりしが、大木となりて、近き頃までありとや、今は石塔のみ殘れり』とあって、この野中の井戸は江戸初期の正保(一六四五年~一六四八年)当時は、野原の中に現存していたと言っている。その所在を訪ねて「江戸砂子」は当地を訊ねて見たものの、既に井戸も墓も見当たらず、ただ土地の古老から、あった当時は『三崎溝口家の屋敷の片側町大溝より半町ほど南の方』にあった清水と伝えられていると記す。また、「遊歴雑記」(文化・文政期に隠居僧十方庵大浄敬順が記した江戸内外の名所旧跡記)には『去し明和年間の頃は野中の淸水にて製したる心太(ところてん)を名産として、野中の心太とて門前に住むもの鬻(ひさぎ)しが、近年は心太を止め、三浦屋安兵衞とかや號して、提灯屋となりにけり』とある、とあった。何か、この話、私にはしんみり、きた。

「自性院(じしやうゐん)の蜘蛛の井」東京都新宿区西落合にある自性院か。

「小石河の極樂の井」小石川伝通院の辺りにあったという名水。「江戸名所図会」には松平播磨侯の屋敷内にあるものとする。小林古径の明治四五(一九一二)年の作に、この井戸の情景を夢想して描いた「極楽井」がある(リンク先は「文化遺産オンライン」)。

「龜井戸の藤の井」江東区亀戸にある亀戸天神社は江戸時代から「亀戸の五尺藤」「亀戸の藤浪」と呼ばれて、藤の花の名所であったから、この井戸も同神社の境内内にあったものであろう。ウィキの「亀戸天神社」によれば、「亀井戸跡」がある。これか。先に「須田町の龜の井」を挙げたから、意識的に名をダブらないように変えたものとも思われる。

「玉水の井」不詳。識者の御教授を乞う。

「御福の井」湯島天神に同名の井戸があったという記載があるが、これは先の「柳の井」の別名であるから、鷺水は別なものとして挙げていると考えねばならない。しかし、彼は京都の人間で江戸には不慣れであったから、或いは「柳の井」異名を別なものと勘違いして数えてしまった可能性もないではない

「封(ふう)の井」不詳。識者の御教授を乞う。

「新井(あらゐ)」東京都中野区新井か。よく判らぬ。

「すべて十八ケ所あり」不審。この「讓(ゆづり)の井」を算入しても、十六井しかない。「柳の井」がダブりで、この「讓の井」を追加した名数外とすると(私はそちらが正しい、則ち、旧来の十八井に加えられるべき、正直者の引いた名水の井戸として鷺水は述べていると思う)、十四になってしまい、四井も足りない

「草より出でて草に入りしと聞く」ただ、人知れず、自然に叢から湧き出し、人知れず(人に使われることなく)叢へとまた、沁み戻っていうのであろうそれは。

「破風(はふ)」切妻造りや入母屋造りの屋根の妻の三角形の部分。また、切妻屋根の棟木や軒桁(のきげた)の先端に取り付けた合掌型の装飾板(破風板)を指す。要は、月が昇りし沈むという自然のサイクルをそれで表象し、前の水の自然の濫觴と流失を譬えている。

「出でさ、入りさ」自然、湧き出す時も、沁み込んで消えてゆく際も。

「立てこつみたる」人が多く住むようになって、民屋や屋敷がすっかり立ち罩めるような。

「築地(ついぢ)の内に井の心をすましめ、廣間のさきに名を汲むのみなるも多かりける中(なか)に」私は以下のように解釈した「大名さま方の御屋敷の築地の中の井戸として、静謐清浄な井戸としてその水の面を鏡のように美しく澄ませ、或いは、豪邸の広間の奥方にあって、そんじょそこらの者はとても汲み掬すことも叶わず、名ばかりの「幻しの井戸」となってしまったものも多かった中でも」

「桶屋太郞作」不詳。

「多波河(たはがは)」多摩川(厳密には、そこから引いた玉川上水道の、そのまた、支流の分岐河川。上水自体は厳しく管理されていたから、私的に本上水から「流れに樋(ひ)をふせて、町小路に支(えだ)を分(わか)」つことなどは到底、許されなかったはずであるからである)の謂いと思われる。但し、このような表記は私は見たことはない。現在の我々の馴染みの玉川上水開削が、幕命によって江戸の飲料水不足を解消するために計画着手されたのは、本「御伽百物語」刊行(宝永三(一七〇六)年)の五十四年前の承応元年(一六五二)年十一月のことである。工事の総奉行には老中で川越藩主の松平信綱、水道奉行に伊奈忠治(没後を嫡男忠克が継いだ)が就き、庄右衛門・清右衛門兄弟(玉川兄弟)が工事を請負っている。資金として公儀からは六千両が拠出されている。幾多の困難を経、翌承応二年十一月、玉川上水は完成、翌承応三年六月から江戸市中への通水が開始されたという。しかし、参照したウィキの「玉川上水」によれば、『工費が嵩んだ結果、高井戸まで掘ったところで』、『ついに幕府から渡された資金が底をつき、兄弟は家を売って費用に充てたという』とある。

「見せ」当初、「店」(「見せ」は同語源)であろうと思ったが、ここは文字通り、通行の人々の目に触れるところに何時も汲み出しておき、金を貰ったりせず、自由に飲ませて「攝待」(接待)に用いた、の謂いと判断した。]

 孝養の事ありて水と茶の攝待をつとめ、追善の心持したりしが、猶、心ゆかずや思ひけん、子二人ありけるを兄は太郎市とて廿一、弟は太郞次郞とて一六になりしを、手わけして冷水を持たせ、攝待をさせける所に、太郞次郞、晝過ぎて宿に還り、父にむかひていふやう、

「けふ、我、數寄屋橋邊(へん)を通りけるに、十六、七の娘、あり。腹をいためてありかれぬ[やぶちゃん注:「步りかれぬ」。]よしにて、我に水を乞ひて、『藥を呑まん』といふ。水にて、藥、呑まば、猶、病の強るべき事を恐れて、こゝまで、つれ歸りたり。」

といふに、太郞作、もとより慈悲ふかき者なれば、

「健氣(けなげ)にも仕(し)たるもの哉(かな)。」

と悦び、彼(かの)娘をよび入れけるに、とりあげ髮にして、下に白むく、上には無地の花色なる小袖を着たり。

 さて、さまざま介抱しつゝ、

「何處より何方へゆき給ふや。」

と問ふに、彼のむすめのいふやう、

「みづからは、元、そだちし所は芝の增上寺前にて菅野(すげの)何がしといひし者の娘なり。去年(こぞ)の冬、神田の臺所町(だいどころまち)に緣をむすび、我を彼の所へ送りて後(のち)、父母、相つゞいて死なせ給ひぬ。重服(ちようふく)、いまだあきさぶらはぬに、夫にさへ死して別れ、子ある身にあらねば、夫の家にも、あられず、今は浮世に住みうかれし身のはて、尼にもならばや、と思ふにつけても、故鄕に行きて兄を賴み、とにもかくにもなしはてんの心ざしにて、けさより、宿を出で侍りしが、頻りに腹のいたく覺しかば、假初(かりそめ)に水を乞ひ侍りしも、不思議の緣となりて、かく迄いたはらせ給ふ御心ざし、露(つゆ)わするべき事かは。報ずべき道をだに知らず侍らふ。」

といひて、さめざめとなきける物いひよりはじめ、爪(つま)はづれ、如何樣(いかさま)、よのつねの人のやうにもあらず。立ちふるまひも、よしありげなる人がらの哀れにいたはしく覺えければ、太郞作夫婦も念比(ねんごろ)にいたはり、

「よしや。さもあらば、いそぐべき道にもあらず。けふは爰(こゝ)に住居(とゞまり)て腹をも療治し、しづかにおはせよ。」

と、町家の習ひ、綴(つゞり)さし、洗濯しなどするを、此娘も、かいかいしく襷(たすき)引きかけ、ともに縫張(ぬひはり)のたすけをなし、紡苧(うみそ)・縡卷(ぬきまき)、さまざまの事に手きゝにて、猶、よみ書きにさへ達者に、しかも人に勝れしかば、太郞作もひたすら大切におもひ、妻も又、

「いとおしと思ひ入りつる上は。」

とて、心見(こころみ)にいふやう、

「何と。さほどまで便りなき身となりても、人を撰(えら)み、夫をえらむ心おはしまさんか。もし、さもなくて何方(いづかた)にもさそふ水さへあらば、夫婦のかたらひをなして、偕(とも)に世を渡らんとは、おぼしめさずや。くるしからず思ひ給はゞ、我がために花新婦(はなよめ)となりて、たびてんや。しからば、幸ひ、兄むすこ、太郞市にあはせ、けふよりすぐに、此世帶ことごとく讓りまいらせん。」

とかたれば、娘すこしも辭退のていなく、

「誠に、かくまでおぼしめし寄られ侍る御心ざし、たとひ、死したりとも報ずべき道なし。ましてや、浮草のよるべさだめぬ身となり侍れば、さそふ水あらばとおもふ我にしも侍るぞかし。もし、さもおぼしめし寄らせ給はゞ、いかやうとも、仰せにしたがひ侍るべし。」

といふに、夫婦も悦びて、太郞市に娶(めあは)せ、祝言(しうげん)の心もち、かたのごとく、とりつくろひ、

「夜もいたく更けにたり、早いりて休み給へ。」

と、太郞作夫婦も心よく醉ひ、ふしぬ。

[やぶちゃん注:「神田の臺所町」神田神社の裏手の旧神田明神下御台所町(だいどころまち)。附近(グーグル・マップ・データ)と思われる。

「重服」相次いで亡くなった実の父母の二人の重なった喪の期間。近世でも孰れも一年が普通。

「綴(つゞり)さし」つづれさし。衣類の傷んだ個所を繕うこと。

「かいかいしく」「甲斐甲斐しく」。

「紡苧(うみそ)」麻を細く裂いて、紡(つむ)いで、糸として縒(よ)って麻糸にすること。

「縡卷(ぬきまき)」染め上げた緯糸(よこいと/ぬきいと)を管(くだ)に巻き取ること。この緯糸を杼(ひ)に装着して経糸に挿入して機で織る。

「たびてんや」「給びてむや」。「なっては下さらぬか?」。]

 娘は太郞市と寢屋(ねや)に入る。

 折しも暑さ堪がたく、窓も障子もあけ放ちて

「臥さん。」

とせしを、娘、いさめて、

「などや、此(この)ほどは盜人(ぬすびと)の愁(うれひ)ありと聞き侍るぞ。門・背戸(せど)をも、よく、さしかため、障子には、尻さし、したまへ。」

などゝ、萬(よろづ)心づかひして、臥しぬ。

[やぶちゃん注:「背戸」家の裏口。

「知りさし」「尻刺(差)ざし」。戸障子・遣戸(やりど)などの戸締まりとするために、その後部に指す掛け金や、外部からの開閉を出来ないようにするための心張り棒。]

 はや、夜も九つ[やぶちゃん注:午前零時。]にや過ぎぬらんとおもふころ、太郞作が妻、けしからず、魘(おそ)はれて[やぶちゃん注:魘(うな)されて。]うめきける程に、太郞作、目をさまし、

「いかにぞや、是(こ)れ、是れ。」

と起こされ[やぶちゃん注:ここは主語が新妻に変換されている。]、しばし、ためらひ、人心(ひとごゝ)ちつきていふやう、

「扨も、我(われ)、しばらく臥したる夢心に太郞市を見侍りしが、髮、おしみたき[やぶちゃん注:「振り乱し」の意か。]、帷子(かたびら)も引きさき、希有(けう)かる[やぶちゃん注:凡そあり得ないような。]體(てい)にて來たりいふやう、『我が父太郞作の親は、そのかみ、無二の狩人にて殺生を業(わざ)とし、禽獸(きんじう)の命を奪ひ、または、山賊追剝の張本なりしが、大きさなる獸の、毛色は火の如く赤きが、その餘殃(よわう)[やぶちゃん注:先祖の行った悪事の報いが災いとなってその子孫に残ることを指す。]、今、なを、ありて父が一生を貧(ひん)に生まれたり。しかれども、生得、慈悲を行ひ、佛道を信ずるが故に、子にいたりて、災をなす事、あたはず。貧を轉じて立身の時いたれり。爰におゐて、今、なを、前世の怨敵、三年の間に報の祟、ありといへども、此福力、すみやかなるが故に、そのむくひを我におほせて、鬼、こよひ、吾をとりてくらふ。我が身を捨つるは、親への孝也。此後(のち)、永く、家に祟をなすもの、あらじ』と、さめざめと泣きて、我に語る、と見て、夢、さめたり。あまり、心にかゝる夢なれば、いざ、心みに太郞市を起こして見ばや。」

といふを、太郞作、さらに、信ぜず。

「夢は五臟のしつらい[やぶちゃん注:古い婚儀の表現。「室禮」「補理」とも書く。平安時代に宴・移転・女御入内などの「晴れ」の日に寝殿の母屋や庇 (ひさし) に調度類を配置して室内の装飾としたことから生じた謂い。]にて、さまざまの事も見る物ぞ。世帶(せたい)を渡す事はじめ[やぶちゃん注:新しい夫婦の初夜相当のこの事始め。]、いまいましき事[やぶちゃん注:不吉極まりない、縁起でもないこと。]、ないひそ。」

と、いさめて臥しけるに、引き繼ぎて、又、同じ夢を見ければ、今は母の親もこらへかねて、夫婦とも、太郞市が寢間に行きけるに、襖(ふすま)も戸も、けしからず堅めて、開かず。

「太郞市。」

と呼べども、答へず。

 婦(よめ)を呼べども、返事なし。

 今は、いよいよ心がゝりになりけるまゝに、戸・建具をこぢはなし、窓の戸、打ちやぶりなどして、寢間にかけいりて見れば、さもおそろしき鬼の兩眼(りやうがん)は日月(じつげつ)とかゞやき、口は耳のきわまできれたるが、振袖のかたひらしどけなく着なし、太郞作夫婦を見て、大きにおどろき、天井を蹴やぶり、失せさりぬ。

 蚊帳(かや)の内には、太郞市が首のほね・手あしなど、やうやう殘りて、あさましきありさまなりけるを、なくなく取りおさめてけるとぞ。 

 

御伽百物語卷之二終 

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 流され王(6)

 

 諸國にひろく分布している王神・王塚の口碑のごときは、すでに其數において後代の紹運錄などを震駭せしめて居る。世を隔てること遠ければ遠い程、信じ易くなることは勿論であるが、しかも單に皇子とばかりでは、固有名詞を卽ち歷史と思ふ人に容れられぬ爲か、但馬においては日下部氏の始祖と傳ふる孝德天皇の御子表米親王と説き、其東隣の丹後に於ては聖德太子の御弟とて金麿親王を稱へて居る上に、猶出來るならばずつと後代の史書に見えて居る貴人を推戴せんとして居るのは、卽ち一般に神を人の靈を祀るものとした時代の説であることを推定せしめる。例へば會津越後の山村に於て、各村往々にして兩立せぬ舊話を傳へて居るのは、高倉宮以仁王の御事蹟である。此の宮は玉葉などを見ても、何年かの間御生死が明白でなかつた故に、田舍人の物語の中に、永く御隱れがを求めたまふことも出來たのである。

[やぶちゃん注:「紹運錄」「本朝皇胤紹運録(ほんちょうこういんじょううんろく)」。天皇・皇族の系図。ウィキの「本朝皇胤紹運録」より引く。『後小松上皇の勅命により、時の内大臣洞院満季が、当時に流布していた『帝王系図』など多くの皇室系図を照合勘案、これに天神七代と地神五代を併せて』応永三三(一四二六)年に『成立した。当初』、『おそらくは称光院までの系譜が編纂され、また』、『本来は満季の祖父の公定編纂』の「尊卑分脈」と『併せて一対とししていたらしい。名の由来は、中国南宋の』「歴代帝王紹運図」である。『内容は神代に始まり、天照大神以下の』五『代を掲げ、神武天皇以下の歴代をそれに続ける。歴代天皇を諡号または院号とともに中心に据え、代数・生母・諱・在位年数や立太子』・『践祚』・『即位』・『譲位』・『崩御の年月日・御陵などの事項を列記する。その他父子 ・兄弟などの皇族も続柄で系線で結び、右から左に綴る横系図の形式を採用し、生母・略歴・極位・極官・薨年などの注記(尻付)を施している』。『後世には』、文亀二(一五〇二)年に『三条西実隆による増補が行われたのをはじめ、書写・刊行されるたびごとに当時の天皇・皇族まで増追補が行われ、写本や刊本の間でも内容に異同が多いが、数ある皇室系図の中で権威があるものとされる。刊本では群書類従本が最も著名で、昭和天皇までの系譜が書き継がれている』。但し、『現在の皇統譜と異なり、神功皇后を天皇に準じた扱いとする一方、廃帝の弘文天皇や仲恭天皇、南朝の後村上院・長慶院・後亀山院を歴代外とするなど、当時の足利政権を頂く政庁下の北朝正統論に依拠している。現在の皇統譜は、明治維新後に再び南北朝正閏論が活発化して以降に、南朝正統論に基づく南朝天皇を歴代に加えている』とある。

「日下部氏」ウィキの「日下部氏」によれば、『起源にはいくつかの説があ』り、「古事記」「大日本史」によれば、『開化天皇の孫・狭穂彦王』(さほひこのみこ)『に始まる、但馬国造の日下部君の後裔』とし、「朝倉始末記」ではここに出る通り、『孝徳天皇の孫・表米親王(日下部表米)』(「表米」は「うわよね」或いは「ひょうまい」と読む。次注参照)『に始まる、日下部宿禰の後裔』が大きな二説であるが、『いずれの説も表米以降の系譜はほぼ同じであるが、部民制度の成立を考えた場合にとくに後者は疑問点が多いとされる』。『また、雄略天皇の皇后であり』、『仁徳天皇の皇女でもある草香幡梭姫』(くさかのはたびひめのひめみこ)『が生活する資用に充てられた料地の管理等に携わった部民が、この皇后の名に因む(いわゆる名代部)とする説がある。そして、この部民は各地に配置されて屯田兵のような軍事集団の性格を持つものでもあったとされる』。『くさかべ(日下部)の表記は、和歌の枕詞、「日の下の草香(ひのもと の くさか)」より生じた表記と言われる。同様の表記には「長谷の泊瀬」、「春日の滓鹿」、「飛ぶ鳥の明日香」などがある』とある。

「表米親王」日下部表米(生没年不詳)はウィキの「日下部表米」によれば、『飛鳥時代の日下部宿禰あるいは表米宿禰』または、『孝徳天皇の後裔とする系図では表米親王』『とも記される。日下部氏の始祖とされる人物。官職は養父郡大領』『あるいは朝来郡大領』。『開化天皇の皇子である彦坐王』(ひこいますのみこ)『を出自とする但馬国造家の一族とする』。「続群書類従」所収の『系図等一般に流布されている系図では、孝徳天皇の皇子・有間皇子の子』『または弟』『とするが、これは信頼できないとされる』。『また、日下部表米を孝徳天皇と結びつける説は、日下部氏が大化の改新前後に従来の但馬国造家であった但馬君氏に代わって国造の地位に就いたことを示していると考えられている』。『兵庫県朝来市の赤淵神社』(兵庫県朝来市和田山町枚田。(グーグル・マップ・データ))『には以下の伝説が伝わっている』。大化三(六四七)年、表米は『但馬国に攻めよせた新羅の軍船を丹後国与佐郡白糸浜で迎え撃って勝利する。逃げる敵を海上で追撃した際、嵐に遭い船が沈没しそうになるが、海底から無数の鮑が浮き上がり、危機を救った』。『その後、表米は敵を隠岐国まで追い払』い、『凱旋途中に逆風が吹くが、再び無数の鮑が船を持ち上げ、さらに美しい船が現れ、その船の先導で丹後国与佐郡浦島港に入った。表米が大船に行くと』、『誰もおらず、竜宮に住むといわれる大鮑が光っていた』。『表米は危機を逃れ』、『勝利したことを海神の加護と悟り、鮑を丁寧に衣服で包んで鎧箱に納め、持ち帰り』、『赤淵神社を建てて篤く祀った』。『以後、日下部氏の子孫は鮑を大事にし、決して食べないといわれる』。『赤淵神社には、同社の裏の久世田加納丘に墓所があるとの伝承がある』。『また、兵庫県朝来市の表米神社や赤淵神社に祭神として祀られている』とある。この表米なる男に興味はないが、この鮑伝承と禁忌には非常に興味がある。ちゃサイト赤淵神社も参照されたい。

「金麿親王」ちくま文庫版全集にもルビがないので「かなまろしんのう」と読んでおく。サイト「丹後の地名」の筆石(ふでし) 京丹後市丹後町筆石に、「丹後國竹野郡誌」の「犬ヶ岬」の条に、

   *

「丹後一覽集」、府城の乾方十二里竹野ノ浦にあり、俚俗に曰く、昔金麿親王當國へ下向ありて三鬼退治の時、鏡を掛けたる神化の犬あり、其軍治て後に岩に成りたりとて、犬の蹲りたる形狀をなせる岩あり、此金麿親王は何れの御代の皇子といふことを知らず、用明天皇第三の皇子麿子親王、比地へ下向の事を誤るなるべし。

   *

とあるという。聖徳太子の弟とあるが、私は聴いたこともない。

「高倉宮以仁王」(もちひとおう 仁平元(一一五一)年~治承四(一一八〇)年)は後白河天皇の第三皇子。治承四(一一八〇)年四月に「以仁王の令旨」を出して源氏に平氏打倒の挙兵を促したことで知られる。邸宅が三条高倉にあったことからかく呼ばれた。ウィキの「以仁王によれば、『自らも「最勝親王」と称して挙兵を試みたが、準備が整わないうちに計画が平氏方に漏れ』、五月十五日、『平氏の圧力による勅命と院宣で以仁王は皇族籍を剥奪され、源姓を下賜され』、『「源以光」となり、土佐国への配流が決まった。その日の夜、検非違使の土岐光長と源兼綱(頼政の子)が以仁王の館を襲撃したが、以仁王はすでに物詣を装って脱出していた』。16日になると、『以仁王が園城寺に逃れていることが判明』、二十一日に『平氏は園城寺への攻撃を決定する。その中の大将には頼政も入っており、この時点では平氏は以仁王単独の謀反と考えていたと思われる』。『頼政は』、『その日のうちに子息たちを率いて園城寺に入り』、『以仁王と合流した。しかし園城寺と対立していた延暦寺の協力を得ることができず、また』、『園城寺内でも親平氏派が少なくなく、このままでは勝ち目が薄いと判断した以仁王と頼政は』、『南都の寺院勢力を頼ることに決めた』。治承四(一一八〇)年五月二十六日、『頼政が宇治で防戦して時間を稼いでいる間に』、『以仁王は興福寺へ向かったが、同日中に南山城の加幡河原で平氏家人の藤原景高・伊藤忠綱らが率いる追討軍に追いつかれて討たれた』。「平家物語」では、『飛騨守景家に軍勢によって光明山鳥居の前で戦死したとする』。『しかし王の顔を知るものは少なく、東国生存説が巷に流れた。以仁王自身の平氏追討計画は失敗に終わったが、彼の令旨を受けて源頼朝や木曾義仲など各地の源氏が挙兵し、これが平氏滅亡の糸口となった。なお朝廷は当初この令旨を偽物と考えていたが、後にこれが事実の疑いが出てきたこと、加えて以仁王が高倉天皇(以仁王の弟)及び安徳天皇(以仁王の甥)に替わって即位することを仄めかす文章が含まれていたことに強く反発した。後白河法皇にとって高倉天皇は治天の権威によって自らが選んだ後継者であり、その子孫に皇位を継承させることは京都の公家社会では共通の認識であったためである。このため、京都では以仁王の行動は次第に皇位簒奪を謀ったものと受け取られるようになっていった』。平家が滅び、乱から十六年が経過した建久七(一一九六)年に『なっても』、『以仁王は「刑人」と呼称されて』、『謀反人としての扱いを受けている』(「玉葉」の建久七年正月十五日の条)。『第一王子の北陸宮は義仲のもとに逃れてその旗頭に奉じられ、また』、『第二王子の若宮は平氏に捕まり、道尊と名乗って仏門に入った。八条院三位局(高階盛章の娘)が産んだ王女である三条宮姫宮は』、建久七(一一九六)年に『八条院より安楽寿院・歓喜光院などを一期分として譲与されている』とある。なお、『新潟県長岡市(旧小国町)には、以仁王が平氏から逃れる際に越後国小国郷に辿り着き、そこで生活したという言い伝えがあ』り、『福島県南会津郡下郷町の大内宿にも潜行伝説があ』って『以仁王を祀る高倉神社が存在する』。『長野県木曽郡上松町の小川一帯には、以仁王の姫宮に関する伝承がある。姫宮は以仁王が木曽谷に潜伏していると聞いて密かに木曽谷を目指すが、上松で平家に見つかってしまう。姫宮は小川の上流へ逃げるが、持っていた麝香袋の匂いで見つかってしまい、深い淵に身を投げて果てる。小川には「麝香沢」「姫渕」などの地名が残されているほか、麝香沢近くには姫宮神社(高倉八幡社)が祀られている』とある(下線やぶちゃん)。

「玉葉」平安末期から鎌倉前期の公卿九条兼実の日記。 現存する部分は長寛二(一一六四)年から建仁二(一二〇二)年まで。]

 

栗本丹洲 魚譜 狂言バカマ (キスジゲンロクダイ)

 

Kyougenbakama

 

[やぶちゃん注:図版は国立国会図書館デジタルコレクションの「魚譜」からトリミングした。]

 

□翻刻

小魚異品

狂言バカマ

 

[やぶちゃん注:これは困った。独特の色を帯びた横縞模様に第二背鰭にある、白円周枠を持つ円紋に加えて、ツンと尖がった吻、平べったい体幹、第二尻鰭のある辺りが上下に張り出している点、尾鰭の形から見ても、これはまず、条鰭綱スズキ目スズキ亜目チョウチョウウオ科チョウチョウウオ属 Chaetodon だろうと踏んだ。横縞の色(暗褐色と黒)にやや戸惑ったが、丹洲は『小魚異品』としており、これは成魚ではなくて、幼魚・稚魚・若年の成長過程のごく若い時期の魚だと言っていると考えた。多くの魚類で、成魚と幼魚や稚魚を含む若年個体では著しく見た目が異なるケースがあり、極端な場合は同一種にさえ見えないこともあることは釣り人なら誰もが知っていることであるが、これもそうした個体なのではないかと踏んだ。さらに、丹洲が「異品」と書く以上は、まず他では見たことがない、今まで沢山の魚の図を描いてきたが、こんなもの(恐らくは色と目玉模様)は見たことがない、小さいくせに、極めて変わった形状と色・文様である、と感じたからこそ、丹洲は、わざわざ『異品』と記したのだと考えた。図鑑類と幼魚の写真を載せる複数記事やサイトを彷徨した結果、最終的には私は、

条鰭綱スズキ目チョウチョウウオ科タキゲンロクダイ属キスジゲンロクダイ(黄筋元禄鯛)Coradion chrysozonus

と比定した。最初に目を留めたのは個人ブログのんべぃの水中写真生活2012-5 ボホール5(ボホール島(Bohol Island)はフィリピン中部ビサヤ諸島の島)『キスジゲンロクダイ(幼魚~若魚)』で、そこには『幼魚ではなく』、『中学生くらいかな?』 『数は少なかったですが、じっとして何枚も撮らせてくれました』。『ヒレ全開でキャッチ』・『ライトも入っていい感じです。チュ~~って感じの口がカワイイ!』とある写真(掲載は残念ながら一枚のみ。)が、まさに本図によく似ているからであった。そこでWEB魚図鑑の「キスジゲンロクダイを見る。これはかなり似ていると言える。本種の特徴の一つである、『背鰭軟条部には成魚・幼魚ともに目玉模様があるが、臀鰭にはな』いとあるのとも一致する(下線太字やぶちゃん)。体長は十七センチメートルで、東部インド洋から西部太平洋の熱帯域珊瑚礁域に生棲息するとあるが、小笠原諸島の名を見出せる。『日本では少ない』とあるのは、逆に黒潮に乗ってやって来ることがある(死滅回遊)ことを意味しており、私の所持する日本での発行の魚類図鑑にも掲載されている(但し、その写真もフィリピンでの撮影ではある)。さすれば、まさに丹洲がこれまでに見たことがなかったそうしたレアな北上死滅回遊個体の「異品」であったと言ってよいのではなかろうか? なお、本来の赤黄色と白の横縞が黒と赤褐色になっているのは死体変容をも私は疑ってはいる。

 問題は、異名の「狂言バカマ」(赤黒縞の歌舞伎狂言の派手な衣装という由来であろう)の方で、これから入り込んでいたら、恐らく私は上記で比定したキスジゲンロクダイに凡そ辿り着けなかったとさえ思う。何故なら、驚いたことに、これ、出るわ、出るわ、この異名、多様な種につけられているのである。まずは、サイト「Private Aquarium」のこちらで、

スズキ目スズキ亜目チョウチョウウオ科ハタタテダイ属ハタタテダイ(旗立鯛)Heniochus acuminatus

和歌山での異名に「キョウゲンバカマ」があった。同種は島根県浜田ではサンバソウ(三番叟)とも呼ぶとある。しかし、こんな白旗は背鰭には立ってないし、魚体も全く違うし、そもそもが幾ら幼魚を見ても、旗が既に立っていて、本図とはちっとも似てないのである。次に、同じサイトのゴカキダイ駕篭担鯛に、

スズキ亜目カゴカキダイ科カゴカキダイ属カゴカイキダイ Microcanthus strigatus

にも異名の「キョウゲンバカマ」がある。ところがこれは横縞じゃなくて、斜体ストライプの縦縞。しかも幼魚を検索しても、縦縞は縦のまんまだから違う実は、最初にこの図を見た際に私は

スズキ亜目イシダイ科イシダイ属イシダイ Oplegnathus fasciatus

の幼魚を疑った。御存じのように、イシダイの幼魚は白地に七本の太い横縞を持つからである(成長過程や個体によっては白色部が金色や灰色を帯びたり、横縞が隣と繋がったりもするが、大体に於いて幼魚・若年魚ではこの横縞が明瞭であり、この時期は「シマダイ」(縞鯛)とさえ呼ばれる。その後、成長につれて白・黒が互いに灰色に近くなってゆき、縞は不鮮明となり、老成したでは全身が鈍い銀色光沢を残した灰黒色になってしまう)。しかも、彼らはやはりこの目立つ縞から、やかり「サンバソウ」とも各地で呼ばれることから、これはハタタテダイの同名呼称から敷衍すれば、「イシダイ」或いはその弱年個体が「キョウゲンバカマ」と呼ばれてもおかしくないことになるのである。しかし、横縞の数が違うし、魚体も似てなくはないが、どうも違う。そもそもイシダイやその幼魚のシマダイなら丹洲が、そして、彼のところに持ち込む魚問屋がそれを知らないはずがないのである。そうしたサイドの状況からも、これはイシダイではない

最後にくっきりとした横縞という観点から、私が今一つ考えたのは、

スズキ亜目マハタ属マハタEpinephelus septemfasciatus

であった。実はマハタにも「キョウゲンバカマ」の異名があるからである(「ぼうずコンニャクの市場魚介図鑑」のマハタの「地方名・市場名」を参照されたい)。しかし、魚体が著しく違い、円紋も存在しないから外した

 或いは、もっとぴったりした同定種がいるとされる方もおられるかも知れない。その時は、是非、御教授戴きたい。]

栗本丹洲 魚譜 ウミヅル (卵生サメ・エイ類の卵鞘の付属器と同定)

 

Umizuru

 

[やぶちゃん注:図版は国立国会図書館デジタルコレクションの「魚譜」からトリミングし、合成した。右上の物体は、前の前に公開したチョウザメの鱗の一部分で、本図とは全く関係がない。]

 

□翻刻

ウミヅル漢名不詳

 

[やぶちゃん注:まず、この巻子本「魚譜」には魚でない生物を載せていない(先のチョウザメの鱗だって魚の鱗として違和感がない)。魚でないものを栗本丹洲たる者が、この旧画を編集した巻子本の中に誤まって紛れ込ませることは、あり得ない(膨大な「栗氏魚譜」には貝類・頭足類・甲殻類・刺胞動物が含まれるが、本巻子本「魚譜」とは自ずとコンセプトが異なる)。とすれば、これは藻(藻類)や水草(水生顕花植物)ではあり得ない。この色と形状では、私自身、海藻ではピンとくるものがない。私はかなりの海藻フリークを自認している。現在、最も信頼出来る所持する複数の海藻図鑑を、今一度、念のために検証して見たが、この図にあるような種は、少なくとも本邦産の海藻・海草・淡水産藻類及び淡水産顕花植物類には存在しないと私は思う。そこでつくづく見つめてみた。その結果閃いた。これは、英名“Mermaid Purse”(「人魚の財布」)で知られる、

サメ類(軟骨魚綱板鰓亜綱 Elasmobranchiiに属する魚類の中で鰓裂が体の側面に開く種群の総称)及びエイ類(鰓亜綱に属する魚類の中で鰓裂が体の下面に開く種群の総称)の中で、卵生性のサメのかなりの卵に見られる、硬い皮革様の鞘になった竪琴状(ネコザメ類などでは円錐形のドリル状・スクリュー状を呈するものもある。この場合は、その卵鞘自体の形が海藻類に絡みつかせる目的を持っているが、やはりそれでもその端の部分からここにあるのと同じような発条状付属器が伸びる卵鞘個体画像が海外サイトで幾らも確認出来る。邦語版では「カラパイア」のエイリアンがらみにしかみえねぇ! 海岸に落ちていた螺旋状の黒い物体の正体は?がよかろう。また、本邦産ではないが、ウィキの「オデコネコザメ(オーストラリア東部の沿岸のみで見られる稀種オデコネコザメ Heterodontus galeatus画像も参照されたい。やはり発条状付属器がはっきりと判る)の卵鞘の、その上下から卵鞘そのものを海藻や岩場に固定させるために発条(バネ)上に伸びた巻き髭のような付属器を切り離したもの、或いは、流れついたそれだけを描いたものではないだろうか?

トラザメ(本邦産タイプ種は軟骨魚綱板鰓亜綱メジロザメ目トラザメ科トラザメ属トラザメ Scyliorhinus torazame)類・ナヌカザメ(本邦産タイプ種はトラザメ科ナヌカザメ属ナヌカザメ Cephaloscyllium umbratile)が竪琴状、本邦産の板鰓亜綱ネコザメ目ネコザメ科ネコザメ属ネコザメ Heterodontus japonicus のそれは螺旋状の襞を持った円錐ドリル状を成す。卵鞘本体の大きさはサメの種類によって異なるが、トラザメ類で五センチメートル前後、ナヌカザメ類で十センチメートル前後、ネコザメ類で約十~十五センチメートルほど。孰れも卵鞘の中の卵黄を使いながら、概ね一年をかけて子鮫になり、後に鞘を突き破って孵化する。画像は「カラパイア」の「人魚の財布」と呼ばれる巾着のようなサメの卵が最もよい。リンク先を見て貰うと判るが、海中の生体卵鞘の場合は昆布のような海藻によく似た褐色(擬態であろう)、或いはくすんだ白色・灰白色(岩礁帯ではこの方が擬態し易いであろう)を呈しているものの、乾燥品は暗褐色から黒色系へと偏差していしまい、特に発条上の部分は、乾いた海藻の茎、この図のような感じの色になってしまうのが、リンク先の最後の、人が掌に八個体を載せている画像(写真)でよく判る。また、浪人710氏のブログ「茨城県化石工房」のサメ&エイの卵殻には『トラザメの卵殻(現生標本)』として『茨城県』『北茨城市の海岸で採取』したもの写真があり、そこではこの発条上付属器が半端なくモシャモシャに絡み合っている様態が見てとれる。また、ここまで問題にしなかったエイ類の『千葉県』『銚子市の海岸で採取』された『ガンギエイ』(軟骨魚綱板鰓亜綱ガンギエイ目 Rajiformes の広義のガンギエイ類としておく。私自身は卵鞘から種を同定する能力はないからである)『の卵殻(現生標本)』が載り(但し、付属器は見えない)、その卵鞘はサメ類と殆んど同形状であるから、同じような付属器があると考えるのが自然であると言えると思う。「ウミヅル」は高い確率で「海蔓」であろう。

――私は正直、この対象同定にはかなりの自信を持っている

【2018年4月27日:追記】たまたま国立博物館の丹洲の「千蟲譜」(原本からの別人による写本。丹洲自筆本は、最早、どこにも存在しない)の画像を見ていたところ、こちらの画像(上の画像をクリックすると大画面のこちらになる。但し、画像はやや粗い)の中に、本図と、一見、非常によく似た図を見つけた。所持する丹洲の「千蟲譜」(国立国会図書館蔵の曲直瀬愛旧蔵写本「栗氏千蟲譜」を底本とした、昭和五七(一九八二)年恒和出版刊『江戸科学古典叢書』題四十一巻)と並べて見ても(第七巻。同じものを国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここで視認出来る。以下に参考画像として掲げてもおく)、その相似性はかなり際立っているようには見える


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ところが、この上図の黒い螺旋形個体はキャプションで「水蠱虫」(「すいこちゅう」と読んでおく)とし、二種いる「足纏」(下の別図では「
アシマトヒ」とキャプションする)の、黒色型と赭色(しゃしょく/そほいろ:赤褐色。赤土色)型のうちの〈黒いアシマトイ〉であると読める(ここから、「博物館図譜」も国立国会図書館蔵本も孰れも下図の螺旋を巻かない個体は白くしか見えないが、実は赭色が本来の原色なのである)。さらに上部の「水蠱虫」の解説には、俗に「ハリガネムシ」と呼ぶ「線虫」であるとし、左上の続きには「カマキリ」または「キリギリス」の腹の中より、この虫が出てくることがあり、これはそれらの体内に寄生する(人にもいる)蛔虫の類なのであろうか、として、大抵は筧(かけい:水を送る樋(とい))の中の水中にいる、としている。さらに下図のキャプション(こちらは漢文白文)には、この奇虫は水中にありながら、声を発するとし、ミミズ状で、近くで見た人が「これは人体寄生虫でヒトの胃腸を食い破る」と説明した風なことが書いてある(この知ったぶりの人物の話ははヒト寄生性の回虫とハリガネムシ(後述)の誤認である。ハリガネムシはヒトには寄生出来ない)。

 これらを総合的に見れば、この「千蟲譜」の上下に描かれた生物が、脱皮動物上門 Ecdysozoa  類線形動物門 Nematomorpha 線形虫(リガネムシ)綱 Gordioidea に属するハリガネムシ類であることは素人でも判然とする。リガネムシ類(針金虫・鉄線虫等と漢字表記する)の体色は白・黄・黒褐色などさまざまであるから、色も問題ない。彼らの体長は通常は十~四十センチメートルで、細長い針金状を成す(伸びた状態で観察されることも多いが、寄生主の体内から出る際には強く螺旋状に巻き込んで、ゴチャゴチャになることがある。昆虫嫌いの私でさえ、それを見たことがあるくらいだ)。湿地や小川などの水中に棲むが、幼生はカマキリやバッタなどの昆虫類の体腔に寄生し、成長すると、寄生主の体外に出る(なお、その際、寄生主は概ね、衰弱して死亡する。しない場合でも、ハリガネムシに寄生されると、その寄生主は生殖能力を喪失するから、まっとうな生涯は送れない)。
 
 しかし、翻って考えると、やはり、上の丹洲の巻子本「魚譜」には海産生物(及びその関連附属物)しか載せていないことキャプションは「ウミヅル」でどう考えても形状から「海蔓」しか浮かばないこと、そして何よりも、両図を拡大してよく見てみて頂きたいのであるが、「千蟲譜」版のそれは上下二個体ともに表面が滑らかで突起物が一切描かれていないのに対し、「魚譜」の「ウミヅル」は細かい小突起が夥しく描かれている点で実は有意に異なるのである。されば、私は先に「
卵生サメ・エイ類の卵鞘の付属器」と同定したことを変える気は一切ない、ということをここに明言してするものである

 

2018/03/16

ブログ1070000アクセス突破記念 梅崎春生 益友

 

[やぶちゃん注:昭和三五(一九六〇)年十月号『小説新潮』に発表された。

 底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集」第四巻を用いた。

 本テクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが本日、1070000アクセスを突破するであろう記念として公開した。【2018年3月16日 藪野直史】] 

 

 益友 

 

「やはり犬を飼うんですな、犬を」

 私の邸内、というと大げさになるが、つまり家のまわりを一巡して、縁側にゆっくり腰をおろし、山名君は仔細らしい顔つきでそう言った。

「家なんてものは、どんなに厳重に鍵をかけても、ダメですな。その道の専門家にかかれば、ころりとあけられてしまう」

「へえ。その道の専門家というと、泥棒や強盗のことかね?」

「まあその見当でしょう。もっとも僕は泥棒に知合いがあるわけじゃないけれど」

 そして山名君は猟犬みたいな眼付きになって、庭先のサンショウの木の下をじっと見つめた。

「足跡があったというのは、あの木の下ですね」

 私の返事を待たず、山名君は立ち上って、つかつかとサンショウの木に歩み寄った。彼は背は高くないが、肩幅がやけに広くて、うしろから見ると渋団扇(うちわ)が歩いているように見える。そこにしゃがむと、ポケットから天眼鏡を取り出して、足跡をしらべ始めた。熱が入って、顔を近づけ過ぎて、額をサンショウのトゲに突き刺され、きゃつという悲鳴を上げて尻餅をついた。重心が肩の辺にあるので、彼は何かというと、すぐ転んだり尻餅をついたりして、威厳を損じる偵向がある。

「ちぇっ。いてえなあ」

 舌打ちをしながら、体を立て直し、ごそごそと巻尺を取り出した。いっぱしの探偵気取りで、巻尺なんかを持って来るんだから、いやになっちまう。今度はおずおずと、足跡の長さや幅をはかって、ついでに臭いもかいでみたい風情だったが、また威厳を損じるのをおそれたのだろう、そのまま道具をポケットにしまって、肩を振りながら縁側に戻って来た。

「なるほど。あれはたしかに、人間の足跡ですな」

 天眼鏡で見なくたって、人間の足跡であることは判っている。犬や猫が靴を穿いて歩き回るわけがない。

「あたりまえだよ」

「巻尺ではかったところによると、十文半の靴です。つまり十文半の靴を穿いた男が、昨晩お宅の庭に忍び入った、というわけですね」

「十文半ね。ふうん」

 家人の話によると、昨夜庭のあたりをごそごそと歩き回る足音がしたと言う。私は寝つきはいい方だし、音には鈍感なたちだから、深夜の足音などに眼をさましたりはしない。しかし、夜中に他人の庭に入り込んで歩き回るなんて、ただごとではないから、それは犬じゃないのか、と確かめたら、いえ、たしかに人間の足音です、犬は足が四本あるから、歩き方が違う、との答えであった。でも、足音だけで、二本足と四本足を、聞き分けられるものかどうか。

「十文半というと、大して大男でもないな。やはり泥棒に入るつもりだったんだろうか」

「そう考えていいでしょうねえ。他人の庭を散歩するなんてことは、常識では考えられないから」

「でもね、靴を穿いている泥棒って、あるかしら。ふつう泥棒というのは、地下足袋とかワラジとか、または裸足で」

「何を言ってんですか。ミサイル時代の世の中だと言うのに」

 山名君は煙草の煙をはき出して失笑した。

「そんな泥棒々々とした恰好(かっこう)じゃ、すぐ交番で不審訊問に引っかかりますよ。今の泥棒はね、大体においてサラリーマン風。これなら怪しまれないですからねえ。重役タイプなどというのもあるそうです」

「ほんとかね、それは。どこで聞いて来た?」

「ど、どこで聞いたというわけじゃないけれど、近頃大体そうなってるんですよ」

 山名君はどもった。彼はいつも何でも知っているような顔をしているが、その根拠を問いただすと、すぐにどもったりもつれたりして、ごまかしてしまう習癖がある。

「これは十文半だから、おそらくスマートな紳士風ですね。こういうのがかえっておそろしい。やはり、犬を飼うんですな。いい犬の出物がありますよ。血統書つきの」

「どうしても、犬か」

 私は嘆息した。犬はあまり好きではないが、夜中に怪漢がうろうろしているとあれば、仕方がない。それに私は犬運が悪いのだ。

「その血統書つきってのは、高いんじゃないだろうね。高いのはイヤだよ。ラックみたいなのは、御免だよ」

「ええ。ええ。手頃ですよ。決して高くはありませんよ」

 さっきトゲから刺された額を、ハンカチでごしごしこすりながら、山名君は早口で答えた。ラックの名を出されるのが、彼にはつらいのである。

「ラックと違って、先代のエスみたいな実用的な犬です。悪い奴にはよくほえるし、よく嚙みつくし、多少恰好(かっこう)はよくないですけれどね。首輪も鎖もサービスしますよ」 

 

 山名君は犬屋ではない。他に職業はあるのだけれども、時々私の家にあらわれて、私が欲しがっているもの、私の家に欠けているもの、必要なものを、どこからか都合して用立てて呉れる。呉れるといっても、もちろんタダではない。しかるべき金額を、しかるべきといっても彼にとってしかるべき金額で、私の側からすると、どうも市価の二倍にあたるような金額を捲き上げて行く何でも屋さんだが、向うでは好意と善意をもってやっているらしいので、むげに断るわけにも行かない。便利なこともあるから、ついつい頼むことになるのだ。

 今年のタケノコの季節に、山名君と食卓を囲みながら、うまいタケノコが食いたいなあと嘆息したら(丁度(ちょうど)その時食べていたのがタケノコ飯だった)その翌日彼は見事なタケノコを七八本、リュックサックに詰め、えっさえっさと持って来た。山名君は戦争中現役兵で、重砲部隊に属していたと言うから、矮軀(わいく)ながら腕力はなかなか強い。猿蟹(さるかに)合戦の蟹がにぎり飯を背負っている、そんな感じでかつぎ込んで来た。

「これはいいタケノコです。東京随一です」

 山名君は汗をぬぐいながら、もったいをつけた。タケノコの本場は関西だそうだけれども、東京に持って来ると日数が経つから、うまくない。タケノコは鮮度を生命とする。だから地元の掘り立てが最高だというのが彼の自慢で、見ると皆掘り立てらしく、切り口があざやかで、黒い土があちこちにくっついていた。

「地元って、どこだね?」

「東京では、世田谷ですね。世田谷の奥」

 世田谷が関東のタケノコの本場とは知らなかった。なんでも山名君の奥さんの実家が世田谷の蘆花公園の近くにあって、またその近くに絶好の竹やぶがあって、そこから買い込んで来たんだという。竹やぶをほったらかしにしていては、いくら絶好でもいいタケノコは出て来ないそうで、やはり肥料をやったり水をやったり、丹精をこめねばならない。その肥料の配分は云々と、山名君は情熱をこめて、長々と私にタケノコ談義をした。十何歳年下の男から、嚙んで含めるように講義されて、その度に面白くないような気分にこちらはなるのだけれども、それが彼の癖なのだから仕方がない。彼は絵描きで、夜学の図画の先生をしているから、すぐにそんな講義癖が出て来るのである。習慣とはおそるべきものだ。

 七八本の中、我が家に少しわけて、あとはどこに持って行くのかと思ったら、皆私のために持って来たのだそうである。

「では、とにかく、賞味してみるか」

 すぐに煮つけたり、味噌汁に仕立てたり、タケノコ飯をつくったりして、タケノコずくめの食事をつくって、一同で食べた。なるほど自慢するだけあって、香りもよくやわらかく、八百屋なんかではお目にかかれない絶品だった。うちの子供たちは、剝(む)いたタケノコの皮を指にはめて、

「悪魔だ。悪魔大王だ」

 などと喜んで、家中を走り回っていた。

 食事のあと一服しながら、

「まだたくさん残っているんだから、木の芽あえにして食いてえな」

 てなことを、私がうっかり口を辷(すべ)らせたらしい。それから四、五日経って、しとしとと雨の降る夕方、彼はずぶ濡れになって高さ六尺ばかりのサンショウの木を、えっさえっさとかつぎ込んで来た。

「へえ。ごめんください。お待遠さまでした。あちこち探し回ってねえ、やっと気に入ったのを持って来ましたよ」

「へえ。サンショウが欲しいなんて、そんなこと、おれ、言ったかな」

「言ったじゃないですか。タケノコの木の芽あえが食べたいと、あんなに繰り返し言って、僕に眠くばせしたくせに」

 眠くばせなんかした覚えは毛頭ないけれども、向うがそう言い張るんだから、仕方がないのである。とりあえず庭の隅に植えて貰ったが、ずぶ濡れになってがたがた慄えているのを見ると、そのまま放って置くわけには行かない。着換えを提供して、それでもまだがたがたしているから、そんなに寒いのか、と訊(たず)ねたら、

「皮膚は若干あたたかくなったけど、身体の芯(しん)がまだつめたい」

 とのことで、結局身体の芯をあたためてやるために、お酒とさかなを出す羽目になってしまった。軍隊できたえたと称するだけあって、彼は酒にも非常に強いのである。一合や二合では顔色も変らない。よりによってこんな雨の日に、運んで来なくてもよさそうなものだと思うが、とうとうその日は相当量を飲まれてしまった。身体の芯があたたまって来ると、山名君はれいの講義癖を出して、サンショウにもいろいろの種類があって、一番下等品をイヌザンショウ、トゲのないのをアサクラザンショウ、その他ミヤマサンショウ、何とかサンショウと、いろいろ種類があり、今日持って来たのは黄金(こがね)サンショウという最高級のサンショウで、やはり世田谷の奥に生えていたのを引っこ抜いて来たんだと言う。世田谷の奥はいろんなものを産すると見える。

「持主に黙って引っこ抜いて来たんじゃあるまいね」

「冗談じゃないですよ。ちゃんと持主に交渉して、しかるべき代金を払って――」

 それに運び賃を加えて、二千三百円ぐらいをふんだくられた。雨の日にわざわざ運んで来たのだから、要らないよ、とは言い切れなかった。

 タケノコだって、八本を全部引受けたおかげで、家のものたちはすっかり食い倦(あ)きて、残りは捨てるわけにも行かず、私が全部を食べなければならぬことになってしまった。朝、昼、晩とタケノコを食う。タケノコなんて時々食うからうまいので、のべつまくなしに食わされては、いくら木の芽などで変化をつけても、うんざりしてしまうものだ。それに八本のタケノコ代だって、安くはなかった。山名君は相当儲(もう)けたらしい。

 でも山名君は、私に食傷させようとの目的で、八本もタケノコを持ち込んだのではなかろう。十四年前、彼は復員して上京、ある画塾に通いながら、片や生活のためにヤミ屋をやっていたそうだ。ヤミ屋であるからには、何か欲しいとか足りないとか聞くと、すぐ衝動的にあちこちかけ回って、物資を探し出して来る。そんな商売を三四年も続けたものだから、すっかりその習性が身について、ヤミ商売をやめた今でも、私が何か欲しいと言うと、いても立ってもいられなくなる。そこら中をかけ回り、ムリをしてでも品物を持って来て呉れるのだ。そのムリに対して、表面的にでも、私は感謝せざるを得ない。それで彼がいくらか儲けても、それはヤミ屋の本能みたいなものだから、とがめる筋合いのものでなかろう。

「あの人はいい人だけれど、若いくせにもったいぶっていて、説教癖があるし、品物を持って来ても、儲け方がひど過ぎるようよ。夜学の先生だというけど、あれで生徒に人気があるのかしら」

 と、うちの者は嘆くけれども、その度に私は弁解してやる。庭にへんな足跡があると電話すれば、すぐに巻尺と天眼鏡を持ってかけつけて呉れるような奇特な仁は、そうそう世間にいるものではない。

「素直だから、そうなるんだよ。ヤミ屋をやれば、やめたあとでもヤミ屋の習癖が抜けないし、教師になれば、とたんに教師根性が身についてしまう。ふつうの人なら、さっさと切り換えるところを、いつまでもそれから抜け切れない。よほど人物が素直な証拠だよ。紙にたとえれば、吸取紙みたいな人間だ。清濁あわせ飲むといったタイプで、きっと将来大をなすね。それにすべて、うちのことを思ってやって呉れるんだから、あんまり文句は言えないよ」

「でも、あのラックのことじゃ、大迷惑だったわ」

「うん。ラックについては、少々手違いがあったようだな。しかし、蜂事件じゃ、彼はすっかり手弁当で働いて呉れたよ。あれは気の毒だった」

 昨年の夏、私が旅行から戻って来ると、私の部屋の戸袋に、蜂が巣をつくり始めていた。蜂だの蝶だの蟻だの、私は虫の生態を観察するのは大好きなので、取りはらいもせずそのままに放置した。毎日々々幾匹かのハタラキ蜂が、巣をつくる材料をたずさえて、どこからか飛来してくる。最初見つけた時は、垂れ下った房の孔が、四つしかなかったのに、それが六つとなり、七つとなり、八つとなり、次第にふえて行く。孔の数が十を越す頃から、番兵というか衛兵というか、そんなのが巣の入口に立ち始めた。いつでも飛び立てるように羽根をひろげて、ぎろぎろと周囲を見回している。その番兵が、初めは一匹だったが、孔の数の増加につれて、二匹、三匹とふえて行く。少々物騒なことになって来た。

 私の部屋の戸袋というのは、つくりがお粗末で、すき間なんかがあって、外にも自由に出られるが、部屋の中にも自由に出入り出来るようになっている。だから哨戒(しょうかい)か偵察のつもりだろう、時折番兵蜂が部屋に入って来て、ブンブンとそこらを飛び回り、私の頭にとまったりする。私がじっとしているから、刺しはしないけれども。

 いくら蜂の生態を観察すると言って、観察にも限度がある。どうにか処置しなければ、と考えている中に、蜂の世界にも突貫工事というのがあるらしく、ある日、妙に蜂の出入りがはげしいと思ったら、その日の夕方までに、巣はいっぺんに三倍ぐらいふくれ上って、衛兵も十匹ぐらいに増員されたのにはびっくりした。蜂の世界のことはよく知らないが、女王蜂か王様蜂かの命令で、何々の花の咲く頃までに巣を完成せよということで、かくてこのような突貫工事になったのではないかと思う。衛兵も十匹ぐらいになると、衛兵にも衛兵長というのが出来て、比較的大柄の体格のいい蜂が一匹、悠々とそこらを飛んだりとまったりして、時には部下の蜂たちに何か訓示を与えたり、偵察を命じたりしている風である。もう放っては置けないと、私は山名君に電話した。山名君は早速やって来た。

「一体どうしたんです?」

「蜂がね、戸袋に巣をつくって、困っているんだよ。雨戸の出し入れも、蜂に遠慮をして、そっとやってるくらいなんだ。君の力で取り払って呉れないか」

「そうですか。では早速、現場を見せていただきましょう」

 戸袋のところに案内したら、あまり巣が大きいので、ぎょっとした様子である。

「取り払うって、これをですか?」

「そうだよ」

「そうだよ、じゃありませんよ。こんなに大きくなる前に、どうして電話して呉れなかったのですか」

 山名君は恨めしげな声を出した。

「あれ、番兵蜂が僕をにらんでるよ。気持が悪いなあ」

「これねえ、ひょっとすると、蜜蜂じゃないかと思って――」

 と、僕は弁解した。

「だから蜜がとれるのがたのしみに、今まで放って置いたんだよ」

「蜜蜂? 冗談じゃありませんよ」

 山名君は小脇にかかえた本を、ぱらばらとめくった。見ると昆虫図鑑で、なるほど絵描きだけあって、用意周到なものだ。

「そら。蜜蜂というのは、これですよ。恰好が全然違うでしょ。これはね、コアシナガバチといってね、垣根や窓、下見板などに巣をつくる駄蜂です。蜜蜂がそんなところに巣をつくるもんですか。タダで蜜を採取しようなんて、図図しいにも程がある」

「図々しいのは、お互いさまだよ」

「え? 図々しいって、僕のことですか?」

「いや。このコアシナガバチのことだ」

 私はうまくごまかした。

「どうやったら、この蜂どもは、退散して呉れるかなあ」

「そうですな。信州なんかでは――」

 信州の蜂の子取りの要領を、彼は一席述べたてた後、

「しかし、今回のは蜂の子取りが目的じゃないんですからな、さて――」

 腕組みをして、しばらく蜂の巣をにらみつけていたが、

「蚊帳(かや)がありませんか。ええ。古蚊帳でけっこうです」

「蚊帳をどうするんだい?」

「刺されないように、かぶるんですよ。それに、巣をたたき落すのに、何か棒切れをひとつ。かんたんなもんですよ」

「へえ。ずいぶん原始的な方法でやるんだなあ。棒切れって、スリコギでいいかい」

「ええ。けっこうです」

 というわけで、古蚊帳とスリコギを出してやったら、山名君は蚊帳をすっぽりかぶり、スリコギを宙に振って具合をためしたりした。まるで西洋の幽霊みたいな恰好(かっこう)である。

「いいですか。ではあなた方は、他の部屋に行って、じっとしてて下さい。障子もきちんとしめるんですよ。血迷った蜂が、そちらに飛んで行かないとも限らないから」

 蚊帳の中だから、声がくぐもって聞える。

「僕が、よし、というまで、絶対にこの部屋に来ちゃダメですよ。判りましたね」

 そこで私たちは他の部屋にうつり、障子や窓を固くしめて、聞き耳を立てていたら、やがて蜂の部屋から、ばたんばたんと何ものかが格闘しているような音がおこり、絹を裂くような悲鳴が聞えた。それっ、とばかり私が腰を浮かせかけると、山名君は悲鳴のかたまりになって蜂の部屋を飛出し、廊下をどたどたと走って、私たちのいる部屋にどすんところがり込んで来た。私はあわてて障子をぴしゃりとしめた。

「どうしたんだ。しつかりせえ」

 私は山名君を抱き起した。

「蜂は退散したか?」

「退散もくそもありませんよ。アンモニヤ。早く、アンモニヤを!」

 うなりながら、身体から蚊帳をむしり取った。

「ああ、痛い。何というむちゃくちゃな悪性蜂だろう。蚊帳の中に飛び込んで、僕を刺すなんて!」

 見ると顔や頭や手などに、数箇所刺されたもようである。だから蜂なんかと、バカにしなければよかったのだ。

「アンモニヤ。アンモニヤはないねえ。オシッコではだめか?」

「オシッコで間に合いますか。それ。薬を、薬を!」

 と騒ぎ立てるので、そこらにあった富山の薬袋から、塗り薬を出してつけてやったら、やっと悲鳴がおさまった。それから山名君の語るところによれば、スリコギで力まかせに巣をはたき落したら、衛兵蜂がワッとむらがって襲撃して来たので、あわてて逃げ出そうとしたとたん、蚊帳の裾が足にからんですとんと転倒した。転倒したはずみに、なにしろ古蚊帳だから、縫い目が勢いよくほころびたらしい。蜂たちはたちまちそこからなだれ入って、山名君の身体の露出部をチクチク刺して回ったのである。これでは彼が悲鳴を上げるのもムリはない。

 追っかけて来た蜂は、まだ山名君を刺そうと、障子の向うをブンブンと遊弋(ゆうよく)していたが、やがてあきらめたと見え、羽音も聞えなくなってしまった。だから我々は抜き足さし足、廊下を通って蜂の部屋をのぞいて見たら、唐紙に穴はあき、机上の灰皿が飛び散り、さんたんたる光景である。仰天してスリコギを振り回したから、こんなことになってしまったのだ。[やぶちゃん注:「遊弋」「弋」は「獲物を獲る」の意で、本来は艦船が敵艦船に備えて索敵するために海上を頻りに航行することを指し、後にあちこち動き回ることの意となった。]

「すみませんでしたねえ。こんなへマをやらかして」

 さすがに山名君は恐縮して、首に手を当ててあやまった。

「この次退治する時は、もっとうまくやります」

「もう蜂退治は君に頼まないよ」

 戸袋をおそるおそるのぞき込んだら、巣はごろんと敷居にころがっている。部屋の隅にはね飛んだスリコギを拾って、および腰でつついて見たが、もう孔の中に蜂はいないようであった。あきらめて他の場所に巣をつくりに出かけたのだろう。蜂がいないことを確かめると、山名君は急に元気になって、巣をわしつかみにしてにらみつけた。

「畜生め! 蜂の分際で、こんなところに巣をつくったりしやがって!」

 巣を自分のポケットにつっ込んだ。

「この巣、要らないんでしょ。記念に僕が貰って置きますよ」

「うん、いいだろう」

 それから山名君は、蜂の退治代と刺され代を請求したいらしく、口をもごもごさせていたが、私が不機嫌にせきばらいをして、さんたんたる室内を見回したりしたものだから、とうとう何も切り出せなくなって、その日はしょんぼり帰って行った。

 あとでの述懐によると、その晩彼は蜂毒のため発熱、七転八倒したという。コアシナガバチにそんな猛毒があるかどうか、私は知らないけれども、常識として七転八倒はちょいと大げさ過ぎるように思う。記念に持って帰った蜂の巣は、見れば見るほどいまいましいので、漢方薬屋に持って行って売り払ったとのことで、蜂の巣は漢方薬の原料になるものらしい。

「いくらで売れた?」

 と訊ねたら、えへへ、と笑って答えなかった。 

 

 山名君が名探偵気取りで、庭の足跡を調査してから一週間になるが、まだ何にも彼から連絡がない。血統書つきの犬は、もうこの前で一度こりているから、電話で催促する気持にもなれない。

 あれはいつだったか、蜂事件に前後して、私の家にいたエスという犬が死んだ。八年前私の家に迷い込んで来て、何となく飼う気になったのだが、犬の八年とは人間の数十年に当るのだそうで、やはり寄る年波で寿命がつきたのだろう。ある朝、私が歯をみがきに井戸端に出たら、犬小屋の前のコンクリートの上に、エスが寝そべっていた。その寝そべり方がちょっと不自然で、四肢をぐつと突き出すようにして、近づいて見たが微動だもしない。

「エス!」

 と呼んでも、動かない。すなわち死んでいたのである。エスの形はしていても、それはもうエスでなくなっていた。

 飼っている動物に死なれるのは、哀しいと同時に、何かやり切れない感じがするものである。手厚く埋葬したいと思うが、うちの庭は狭くて、その余地がない。また自分で鍬(くわ)をふるうのも、気が進まない。こういう時ふっと頭に浮んで来るのが山名君で、その点彼は実に重宝な友達である。

 早速、電話をかけた。

「え? エスが死にましたか。それは御愁傷さまのことで。すぐにうかがいます」

 二時間ぐらいして、彼は自転車でやって来た。ひとりではなく、白い上っ張りを着た中年の男をうしろに乗せてだ。山名君はその男を紹介した。

「こちらはね、山田さんと言って、犬のお医者さんです」

「初めまして。山田です」

 獣医はきんきん声で頭を下げた。

「御遺体はどちらですか?」

 仕方がないから子供を呼んで、山田獣医を犬小屋に案内させた。獣医の姿が見えなくなると、私は山名君をなじった。

「いいかい。エスはもう死んだんだよ。死んだのに、獣医を連れて来るなんて、一体どういうつもりだい?」

「いえね、その――」

 山名君は眼をぱちくりさせた。

「あんなに可愛がっていらっしやつたんだから、どんな原因でエスが死んだのか、お知りになりたいと思いましてね。それに、死亡診断書のこともあるし――」

「バカな。犬に死亡診断書もくそもあるか」

 怒ったって、もう遅い。やがて山田獣医はのそのそと戻って来た。話を聞くと、寄生虫が心臓まで這(は)い上って来たのが死因だとのこと。あとで子供の話を開くと、獣医はエスの死体に全然手を触れず、じろじろと眺めていただけだと言う。眺めただけで死因が判るなんて、よほどの天才医者か、あるいはインチキに違いない。

「なるほどねえ」

 山名君は嘆声を上げた。

「虫が心臓に食いついちゃ、いくらエスでも死ぬのがあたりまえだ」

「おいおい。感心している場合じゃないよ」

 私はたしなめた。

「埋葬の方は一体どうして呉れるんだい?」

「ええ。そのつもりで来たんですよ。お宅に蜜柑箱か何かありませんか」

 そこで物置を探して、蜜柑箱を出してやったら、山名君と獣医が二人がかりで、エスをその中にぎゅうぎゅうと詰め込んだ。

「あんまり手荒に詰め込むなよ」

 私は注意をした。

「これでも八年間、僕が可愛がっていた犬だよ。僕の寂しい気持も察したらどうだ」

 詰め込みが終ったので、私は死体の上に花などを乗せてやり、蓋をして釘を打ち込んだ。釘の音は私の胸に、ぎんぎんと書いた。山名君の話によると、都内の某所に犬猫専門の火葬場があり、そこへ持って行くのだという。

「何なら御位牌もつくって貰って来ましょうか」

「位牌なんか要らない」

 犬の位牌なんかかざったって仕方がない。また自転車に乗り込んだ。一つの自転車に、二人の人間と一つの蜜柑箱が乗るのだから、窮屈を極める。獣医が言った。

「では、のちほど請求書を」

 自転車はふらふらと揺れながら、やがて道の彼方に見えなくなった。ろくに仕事もしないくせに何が請求書だと、面白くない気持で私は家に引っ込んだ。

 山名君が再訪したのは、それから一週間後である。書斎に通すと、彼は二枚の紙片を私に突きつけた。

「こちらが山田さんの請求書で、こちらが火葬場の領収書です」

 ひろげて見ると、火葬場の代金は大体妥当なものに思われたが、獣医の請求書は意外に高い。

『初診料。一金五百円也』

むと書いてある。私は眼を剝(む)いた。

「初診料って、死んだものを診察するなんて、初耳だぞ。それに子供の話によると、あの獣医、ろくにエスに手も触れなかったそうじゃないか」

「いえ。あの人は城西随一の名獣医でね、一目でぴたりと死因をあてるんです。あんな名人にかかって、エスもしあわせ者ですよ」

 言い争っても果てしがないから、相当する金を渋々彼に渡した。

「それで、君の死体運搬賃はどうなるんだね?」

「いいですよ。そんなもの。僕のささやかな勤労奉仕です」

 彼は手をひらひらと振って、しおらしげな返事をした。

「実はね、今日かわりの犬を連れて来たんですよ」

「え? どこに?」

「今玄関につないであるんです。血統書つきの、実にいい犬です」

「僕がいつかわりの犬が欲しいと言った?」

「言ったじゃないですか。エスが死んで、とても淋しい。この淋しい気持を察して呉れとか何とかおっしゃるから――」

 山名君は口をとがらした。

「あちこち探して、やっとこちらに合うような犬を見つけて買い取って、連れて来たんですよ」

「なに? もう買い取ったのか?」

「そうですよ。買い取らなきゃ、あんないい犬だから、よそに回っちまいます。だから僕が身銭を切ったんじゃないですか」

 山名君は慨嘆にたえぬという顔付きをした。

「七千円です。立て替えるのは、僕もつらかった」

「七千円?」

 私はがっくりとなった。犬如きに七千円も出すのは、私の趣味に合わないけれども、事態がかくなったからには致し方ない。玄関に行くべく腰を持ち上げようとすると、山名君は掌をひろげて押しとどめた。

「いや。こちらに連れて来ますよ」

「犬を、この書斎にか?」

「そうですよ。これは戸外で飼う犬でなく、うちで飼う犬です。つまり愛玩用ですな」

 彼は玄関に行き、その名犬なるものを連れて来た。犬は私の顔を見て、くしゃつとした顔をゆがめて、キャンキャンと啼(な)き立てた。私は犬についてはあまり知識はないけれども、見れば見るほど妙な形の犬である。胴体がものすごく長くて、四肢が申し訳みたいにちょんちょんとついている。その上尻尾がぼたっと大きく垂れ下っているのだ。

「なんだか相撲の琴ケ浜みたいな犬だなあ。その胴体が長いのが取り柄なのか」[やぶちゃん注:「琴ケ浜」当時、大関であった香川県三豊郡(現在の同県観音寺市)出身(出生地は宮崎県)の琴ヶ濵貞雄(昭和二(一九二七)年~昭和五六(一九八一)年)。本名は宇草貞雄(うくささだお)。二所ノ関部屋に入門し、昭和二〇(一九四五)年十一月場所で本名の「宇草」で初土俵を踏んだ。昭和二四(一九四九)年十月場所で十両に昇進、翌年年五月場所で新入幕した。昭和三三(一九五八)年に、その三年前に元兄弟子佐渡ヶ嶽親方(元小結琴錦)が二所ノ関部屋から独立して創設した佐渡ヶ嶽部屋へ移籍。最高位は東大関。現役時代の体格は百七十七センチメートル、百十七キログラム。昭和三七(一九六二)年十一月場所後に現役を引退、年寄尾車を襲名した(以上はウィキの「琴ヶ濱貞雄」に拠った)。]

「そうですよ。実に可愛らしいでしょう」

 彼はいとおしげに犬の背中を撫でさすった。

「それにこの尻尾の見事なこと。実にうまそうじゃないですか」

「犬の尻尾、食えるのか?」

「食えますよ。チョンチョンと輪切りにしてね、四、五時間ぐっすりと煮込みます。ソースや酒を加えてね。あとタマネギや小蕪(こかぶ)、人参なども入れてよろしい。つまりシチュウですな」

「ふん。ふん」

「香料なんかを加えると、ぐっと味が引き立ちますよ。お皿に尻尾と野菜を盛り合わせて、熱いうちにいただきます」

 口調がまるでテレビの料理解説者みたいになって来た。

「ことわって置くけれど、僕は犬の尻尾なんかを食う趣味はないよ。君はしょっちゅう食ってるのか?」

「とんでもない。復員後は一度も食べたことはありませんよ」

 あわてて手を振った。察するところ、戦地では盛んに食っていたらしい。

「それで名前は、ラックでどうでしょう?」

「うん。ラックか」

「そうです。幸福、幸運という意味ですな。この犬を飼えば、きっとあなたにも運が向いて来るでしょう」

 それで犬の名はラックと言うことにきまってしまった。

 その日から我が家では、ラックを大切に飼い始めた。七千円も出したのだから、大切にせざるを得ない。下にも置かぬもてなしである。それでラックも少々増長したらしい。

 所かまわずウンチをするのである。ちゃんと犬の便所をつくってあるのに、そこではしないで、部崖や廊下を汚す。便所を覚える能力がないのかも知れない。

 うちのものは言う。

「まんまと駄犬をつかまされたんじゃないの?」

「いや。駄犬の筈はない。恰好(かっこう)が面白いし、それに七千円も出したんだから」

 ジステンパーというおそろしい犬の病気があるという話を、うちの子供が学校で聞いて来たのは、その二三日後である。この病気は雑種だの野良犬はあまりかからないが、純粋種、大切にされている犬にとかく取りついて、殺してしまう難病だそうである。私は気になったから、また山名君に電話をかけて見た。

「ちょっと訊ねるけど、ラックは純粋種かね?」

「もちろんですよ。純粋中の純粋。血統書を差し上げたじゃないですか」

「うん。血統書はいただいたがね」

 なんだかよごれた紙片に横文字がずらずら記入してあって、あまり読む気がしないから、机の引出しに放り込んである。

「実はジステンパーにかかりやしないかと思ってね。予防薬か何かないのかい?」

「そうですな。山田さんに問い合わせて上げましょう」

 翌日彼の方から電話がかかって来た。

「もしもし、ジステンパーの予防薬があるそうですよ。これを注射すれば、絶対にかからないという――」

「そうか」

「オランダ製でね、値段もちょっと張って、一本三千円」

「三千円?」

「ええ。その薬を持って、もうそろそろ山田さんがそちらに着く頃ですよ」

 電話がそれで切れ、人間の私ですら一本千円以上の注射をしたことがないと言うのに、犬に三千円の注射とは何ごとかと、慨嘆これ久しゅうしている中に、玄関のブザーが鳴って、山田獣医が到着した。この前と同じく、白い上っ張りを着用している。有無を言わさず押し上って、三千円の注射をしてしまった。人間の医者は、ろくにあいさつをせず、他人の家に上り込む習慣があるが、獣医にもその傾向があるようである。

 注射の済んだあと、ラックの悪い尻癖について質問したら、れいのきんきん声で、

「その時は叱ればいいんですよ。ただし愛情をもって叱ること」

 とのことで、その日から部屋や廊下を汚したら、愛情をもって叱ったり、時には愛情をもって叩いたり蹴ったりしている中に、ラックは妙に元気がなくなり、便がやわらかくなって来た。つまり下痢便になったのである。ふつうの便でも困るのに、下痢便で廊下などを汚されてはたまったものではない。つくづく困じ果て、また愛想も何もつき果てて、また電話で山名君を呼び出した。山名君は早速やって来た。事情を話すと、彼ははたと膝をたたいて、

「そりや精神的圧迫にたえかねて、消化不良をおこしたんですな。いや、それにきまっています。直ぐ山田病院に入院させましょう。いえ、入院代は、僕の責任だから、僕に出させて下さい」

 強引にラックを連れ去って行った。下痢便から解放されて、こちらもほっとしている中に、それから十日ほど経って、山名君は小さな壺をたずさえ、悄然と我が家を訪れた。

「まことに申し訳ありません」

書斎に通ると、彼はふかぶかと頭を下げた。

「とうとう、薬石効なく、ラックはこんな姿になりました」

「え? 死んだのか?」

「そうです。今日火葬を済ませて、骨壺を持って参りました」

 壺を私の机上に差し出した。

「骨をごらんになりますか?」

「いや。もういいよ」

 うんざりした気持で、私は骨壺を押し返した。

「思えば実に運が悪かったなあ。ラックも、この僕も!」

「はあ。ほんとに、あなたの益友である僕としたことが――」

「エキユウ?」

 私は反問した。すると山名君の説明では、友達にもたくさんの種類があり、たとえば善友、悪友、益友、損友、その他棋友、釣友などいろいろあって、山名君は私の益友をもって任じているのだそうである。純粋の益友かどうか、ちょっと怪しいところもあるが、いや、ラックの件では完全に損友だったような気もするが、とにかく彼がそういう心がまえで、あちこち飛び回っているらしいことが、ほぼ了解出来た。

 もっとも家人の主張によれば、あの骨壺の中の骨も、どこの馬の骨、いや、どこの犬の骨であるか判らない、と言うのだが―― 

 

 庭の足跡事件以来、まだ山名君は我が家に姿をあらわさない。今度はどんな血統書つきの、どんな立派な番犬を持って来て呉れるのか、なかばワクワク、なかばビクビク、なかばどころか四分の三ぐらいビクビクしながら、私は待っている。

 益友を持つ身も、またつらいのである。

[やぶちゃん注:本文中、山名は山椒の薀蓄で「一番下等品をイヌザンショウ、トゲのないのをアサクラザンショウ、その他ミヤマサンショウ、何とかサンショウと、いろいろ種類があり、今日持って来たのは黄金(こがね)サンショウという最高級のサンショウ」と弁じ立てているが、事実、山椒(被子植物門双子葉植物綱ムクロジ目ミカン科サンショウ属 Zanthoxylum のサンショウ類は多数の種がある(世界の熱帯・亜熱帯及び温帯地方に分布し、約二百五十種あまりを数える)。ウィキの「サンショウ」によれば、「イヌザンショウ」(犬山椒)はサンショウ属イヌザンショウ Zanthoxylum schinifolium で、我々が知っている最も知られたサンショウ Zanthoxylum piperitum が芳香を持ち、棘が対生するのに対し、イヌザンショウは芳香がなく、棘が互生する。イヌザンショウの果実は「青椒」と呼ばれて、精油を持ち、煎じて、咳止めの民間薬に用いられる。「アサクラザンショウ」(朝倉山椒)はサンショウ属アサクラザンショウ Zanthoxylum piperitum f. inerme で、上記タイプ種のサンショウの棘のない栽培品種を指す。江戸時代から珍重されていた。実生では雌雄不定で、且つ棘が生じて来てしまうので、主に雌株を接ぎ木で栽培したものを「朝倉山椒」として販売しているという。「ミヤマサンショウ」山朝倉山椒のことか。それならば、同じくタイプ種の自然品種(変種)ヤマアサクラザンショウZanthoxylum piperitum f. brevispinosum で、棘が短く、普通のサンショウと前のアサクラザンショウの中間型。山野に自生するとある。「黄金(こがね)サンショウ」不詳。最後に一番怪しげな形(「黄金(こがね)」「最高級」)で出た。まあ、これぞ、実は、普通の、当り前の、サンショウ Zanthoxylum piperitum なのであろう。私の家の斜面にもしっかり自生している。 他の品種はリンク先を見られたい。

コアシナガバチ」膜翅(ハチ)目細腰(ハチ)亜目スズメバチ上科スズメバチ科アシナガバチ亜科アシナガバチ亜科アシナガバチ族アシナガバチ属コアシナガバチ(小脚長蜂)Polistes snelleni 体長は十一~十七センチメートルと小ぶりで、本来の体色は濃い茶色に黄紋を持つが、飛んでいる姿は寧ろ、黒っぽく見え、蜂に見えない場合も多い。日本全国に分布するが、元来は林の低木の枝先や大きな葉の裏などにかなり特徴的な反り返った大きな巣を作る(巣の柄の部分を基点として一方の方向に伸長し、大型の巣では大きく上向きに反り返る。スズメバチの巣のように巣の内部を覆う蓋のようなものはなく、中が丸見えになっているのも特徴の一つである。営巣は五月頃には開始される)が、近年は自然開発の進捗から、人家の庭木、民家の板壁や軒或いはコンクリートの建造物の周辺の壁面などにも営巣するようになった。時期によっては巣に近寄ると、容赦なく幾度も刺してくる場合があり、アシナガバチ類(アシナガバチ亜科 Polistinae)の中では本コアシナガバチが最も攻撃性があるとする説もある。私が小学校二年生の時にカブトムシを採りに行って林の中を歩いていて、足の長い蜂に突然、刺されたのも、或いは彼らだったのかも知れない。

このペースでいけば

毎日のペースなら、今日の午後には本ブログは1070000アクセスを突破する。フライングして記念テクストの公開作業に入る。

譚海 卷之二 吧𠺕哆國駒の事

 

吧𠺕哆國駒の事

○同七年夏紅毛人吧𠺕哆國(ハルタこく)の駒(こま)二疋を獻上せり。前年(さきのとし)享保中獻ぜし事有(あり)、その時はケイツルと云ふおらんだ人に乘(のせ)こゝろみさせ、時々御濱御殿などにても調馬あり。此たびも御尋(おたづね)ありし故、二三年の島にて當年牽來(ひききた)ると云(いふ)、駒は二歳なりとかや。長(たけ)甚だ高く道中問屋場の軒につかゆる程也。足の大(おほい)さをたとふるに沓(くつ)の大さ丸盆(まるぼん)程(ほど)ありとぞ。水を怯(おそ)れず息を切る事なし、異形(いぎやう)のものゆゑ、晝は驛に泊り夜陰(やいん)計(ばかり)り牽來るとぞ。ハルタ國我邦より壹萬五千里程ありといへり。

[やぶちゃん注:本文の「二三年の島にて當年牽來(ひききた)ると云(いふ)」はママ。頭の部分をそのまま強引に解釈しようとすると、「二、三年出島に於いて飼育した馬で」辺りとなるが、無理がある。思うに、これは「馬」の誤記ではなかろうか? 但し、そうなると後の「駒は二歳なりとかや」ダブりはちょっと気にはなる(但し、こうした書き方は江戸期の随筆ではしばしば見受けられる)。

「同年」前の「豪猪の事」を受けるから、安永四(一七七五)年となる。異形の獣類の連発記載である。当時の将軍は第十代徳川家治である。

「紅毛人」ここはオランダ人に限定された用法。ポルトガル人・スペイン人は南蛮人と呼ばれたのに対する。

「吧𠺕哆國」底本の竹内利美氏の補註に、『ハルシヤ国。ペルシヤ国の訛で、アラビア馬をオランダ人が献上したのである』とある。現在のイランを表わす古名であるが、漢名は「波斯(はし)」「波斯国(はしこく)」と書くことが多い。本文の後半の読みに従ってルビした。なお、現行では「波斯」に「ペルシヤ(ペルシャ)」とルビするケースもある。

「駒」アラブ種(ArabArabian)である。ウィキの「アラブ種」によれば、現存する馬の改良種の中で最初に確立した品種とされ、標準体高は約百五十センチメートル、体重約四百キログラム。『サラブレッドよりは小柄で華奢な体躯で、速力もサラブレッドには劣る』ものの、『耐候性、耐久性に優れる』。『その成立ははっきりしないが、アラビア半島の遊牧民、ベドウィンにより、厳格な血統管理の元に改良が進められ、品種として確立した。伝承によるとケヒレット・エル・アジュズ(「老婦人の牝馬」の意)という牝馬がアラブ種の根幹牝馬である』とある。

「前年享保中獻ぜし事有」「享保」は一七一六年から一七三六年までで、言わずもがな、家治の祖父第八代将軍徳川吉宗の治世で、年号で七つ、三十年以上前であるから、「さきのとし」と訓じておいた。次の注の引用も参照されたい。吉宗は動物好きで、彼の要望で安南(現在のベトナム)から象も献上されている。私の電子化訳注「耳囊 卷之十 文化十酉年六月廿八日阿蘭陀一番舟渡來象正寫の事」のことを参照されたい。

「ケイツル」個人ブログ「紀行歴史遊学」の「馬を輸入した暴れん坊将軍」に、『吉宗の騎馬像は実に絵になる。なぜ馬に乗っているのか。ちなみに、白馬で浜辺を疾駆する暴れん坊将軍をイメージしているのではない。享保年間に吉宗が西洋より馬を輸入したとの史実に基づいている。徳富蘇峰の大著『近世日本国民史』には、次のような記述がある』として(漢字を概ね恣意的に正字化させて貰った。一部に歴史的仮名遣で私の推定読みを挿入した)、

    *

吉宗は亦(また)和蘭舶(オランダせん)よりして、アラビヤ馬種をも輸入せしめた。

一 地より鞍下迄四尺五寸より六寸迄之(の)男馬(おすうま) 三疋

  右同尺之女馬 二疋

右御用に候間(あひだ)、可牽渡(ひきわたすべく)候。左(さ)あるに於ては、爲御褒美(ごほうびのため)御定銀高(ごじやうぎん)之(の)外に、八百貫目分之(の)臨時商賣可差免(さしまかるべく)候間、其積りを以(もつて)荷物可積來(つみきたるべく)候。尤(もつとも)御定船數(ごじやうせんのかず)之(の)外に、馬船一艘可乘渡(のりわたすべく)候。右寸尺より大長成(おほだけなる)馬程は宜(よろしく)候。小長成(こだけなる)馬は御用に無之(これなく)候。且又馬數之儀も、餘計牽渡候分は不苦(くるしからず)候間、才覺相調(あひととのへ)候はゞ、五六疋より十匹迄は可乘渡候。右之趣ぜねらるへ申達(まうしたつし)、來年入津(にふしん)之時分必(かならず)可牽渡候。卯(享保八年癸卯)九月

斯くてケイツルは、享保十乙巳年六月十三日、馬と共に長崎に來つた。

   *

(以下、リンク先のブログ主の書状(下し文)の訳)『一 体高四尺五寸から六寸(』百三十八センチメートル『前後)の牡馬』三『頭と同じ大きさの牝馬』二『頭』『上記の馬が必要ですので注文します。取引後に褒賞として、所定の代金のほか』、八百『貫目分の商売を許可するので、そのつもりで輸入してください。ただし、定められた数の船のほかに、馬を乗せる船を一艘用意してください。注文の体格より大きな馬はよろしいが、小さな馬は無用です。また、馬の数も多いのはかまわないので、工面できるなら』、五、六頭から十頭までは輸入可能です。以上、長官に伝えますので、来年の入港の際には、必ず引き渡してください。享保八年九月』(訳はここで終り、以下はブログ主の解説)。『戦国時代の馬の体高が四尺程度と小さかったので、吉宗には大きな馬に改良しようというねらいがあったようだ。そこで』享保一〇(一七二五)年、『アラブ種を輸入するとともに、オランダの調馬師ハンス・ユンゲル・ケイゼルを招いて、飼育法や馬術の指導に当たらせた』とある。なお、平凡社の「世界大百科事典」の「蹄鉄」の項では(コンマを読点に代えた)、『吉宗は馬政改革にきわめて熱心で』享保一四(一七二九)年、『オランダ商館を通して洋馬を輸入するとともに、西洋の新しい装蹄技術の導入に努めた。このとき』、『技術指導にあたったのがハンス・ユンゲル・ケイゼルというオランダ人で、彼は馬の飼育法のみならず、通常および特殊蹄鉄の装着法まで教授した。しかし、吉宗の努力にもかかわらず、洋式蹄鉄は日本に定着しなかった』とある。徳富蘇峰の謂いに従うなら、本条の時制の五十年前、「世界大百科事典」に従うなら、四十九年前のこととなる。なお、先の個人ブログ「紀行歴史遊学」には「天皇に拝謁した従四位の象」もある。必見。因みに、「日高振興局」公式サイト内の「馬文化ひだか:馬を知る:馬と人間の歴史:室町・戦国時代から江戸末期」によれば、これ以前、『室町時代には明との貿易が盛んになるが、このとき』、『馬の輸出入も若干おこなわれて』おり、吉宗以前では、『たとえば、薩摩の島津貴久は天文年間』(十六世紀中頃)にペルシャ馬を輸入したと伝えられている』し、『享徳年間』(一五三〇年頃)にも『奥州田名部の領主・蠣崎氏がロシア・モンゴルから数百頭の馬を輸入したという伝説もある』とある。

「御濱御殿」現在の浜離宮。

「水を怯(おそ)れず」大井川などを平気で渡ったことを指すのであろう。

「息を切る事なし」いくら走っても息が切れる(呼吸が荒くなる)こともない。

「壹萬五千里」五千八百九十一キロメートル。但し、直線でも日本とイランは七千キロメートル以上は隔たっている。]

 

治安維持法みたようなトンデモない都の迷惑防止条例改正案が四日後に採決されるって知ってた?

公共の場でのデモもチラシ蒔きも犯罪、SNSでの集会呼び掛けどころか政権批判を書き込んだだけで逮捕さえるかも知れないって知ってた? 「小池百合子も伏魔殿とかした国会と同じ穴の貉だ」――と――僕がここにこうつぶやいただけで拘束される――かもってことなんだけど?

譚海 卷之二 豪猪の事

 

豪猪の事

○安永四年薩摩より獻上ありし豪猪(やまあらし)といふ獸を、御醫師田村玄雄に御預けに成(なり)、居宅神田紺屋町屋敷にさし置(おき)、人々見物せし事あり。猪の大さにて、脊に長き骨數百本毛の際に生じ、さゝらの如く也。怒るときは此骨さか立鳴(だちな)りて、甚(はなはだ)おそろしき響をなす。此骨楊枝に用れば齒をかたくするとて、取來(とりきた)る人多し、誠に鐡のひばしの如し。後(のち)淺草觀音地内にて見せ、丸藥(ぐわんやく)をうりて此藥を求(もとむ)る者には、豪猪見する事にてありし。後何方(いづかた)へ行(ゆく)事にや沙汰聞えず。

[やぶちゃん注:「安永四年」一七七五年。

「豪猪(やまあらし)」「やまあらし」のルビは私が附加したものであるが、事実、かの体の背面と側面の一部に鋭い針毛(トゲ:体毛の変形したもの)を有するネズミの仲間であるヤマアラシ(「山荒」とも書く)、哺乳綱齧歯目ヤマアラシ上科ヤマアラシ科 Hystricidae(別に今一つ、アメリカヤマアラシ科 Erethizontidae があるが、ここに出るものが真正のヤマアラシの類であるとすれば、新世界ヤマアラシである後者である可能性は極めて低と考えるので外しておく)の正式な漢名由来の表記である(現代中国語でも「豪豬」と書く。中文ウィキの「豪豬」を参照されたい)。ヤマアラシ科は東南アジア・インドにも棲息しており(同科の全属レベルではアジアとアフリカ及びヨーロッパのごく一部に分布していて三属十一種)、それらなら、鎖国下の日本であっても、琉球を不当に支配していた薩摩ならば、琉球を介して旧大陸ヤマアラシを東南アジア或いは中国を経由して入手し得たに違いないからである。また、本邦の妖怪には「ヤマアラシ」或いは「ヤマオロシ」がいる前者は旧熊本八代城主松井家に伝えられた「百鬼夜行図巻」(作者は八代の絵師尾田淑太郎(郷澄)で天保三(一八三二)年製作)に載るもので(以下ウィキの画像)、江戸後期に描かれた作者不詳(北斎季親とも)「化物尽絵巻」には同形状の妖怪が「のぶすま」という名で描かれている(但し、同絵巻には解説文がなく、如何なる妖怪を意図して描いたものかは不明)。参照したウィキの「ヤマアラシによれば(下線やぶちゃん)、『妖怪ではなく』、『実在の動物であるヤマアラシを描いたもの』、『ヤマアラシが全身の棘によって相手を威嚇するという断片的な情報が妖怪視されたもの』『などの説もある』。『上記の絵巻物に描かれた山あらしとの関係は不明であるが、やまあらしという名の妖怪は日本各地の民間伝承に見られ』、例えば、『和歌山県有田郡廣村(現・広川町)や広島県山県郡では、別名を「シイ」といい、毛を逆立てる姿を牛がたいへん恐れるので、牛を飼う者は牛に前進させる際に「後ろにシイがいるぞ」という意味で「シイシイ」と命令するのだという』また、『奈良県吉野郡大塔村(現・五條市)では、山で木を伐る音をたてる怪物であるといわれる』とある。また、後者の「ヤマオロシ」は、著名な鳥山石燕の、妖怪画集「百器徒然袋」に出るもので、ウィキの「ヤマオロシによれば、『おろし器のような頭部をした人型の妖怪として描かれ、頭にはおろし金のようなの無数の突起が並んでいる』。同画集の『解説文には』――『豪猪といへる獣あり 山おやじと云ひてそう身の毛はりめぐらし 此妖怪も名とかたちの似たるゆへにかく言ふならんと 夢心におもひぬ』――『とあり、豪猪(ごうちょ)という全身にとげのような針の生えた動物(ヤマアラシ)』『についての文を引用し、豪豬の異名である「山おやじ」と「山おろし」の名は似ているので、この山颪もとげが生えているのであるとしている。画面内には大根のほか、貝杓子、すり鉢など、台所道具が描かれている』。『おろし器の表面にあるとげ状の突起を豪豬(ヤマアラシ)のとげに例え、「おろし」と「おやじ」の音の似ていることから、石燕がこの妖怪を創作したと考えられている』。室町時代の「百鬼夜行絵巻」に『描かれている浅沓を載せたヤマアラシ状の妖怪がヒントになった、あるいはトゲの生えた妖怪』(ウィキの画像)『をモデルとして山颪が描かれたなどの説がある』とあり、これらを考えると、まず少なくとも、江戸後期には庶民の目に触れる形で、国外から生物としてのヤマアラシが生体個体で伝来していたことが確実となり、溯るなら、江戸時代以前に既にヤマアラシが日本へ連れて来られていた可能性さえも仮定出来るとも言えるのかも知れぬ

「田村玄雄」田村藍水(享保三(一七一八)年~安永五(一七七六)年)は江戸中期の医師で本草学者。本姓は坂上、名は登。通称は元雄。藍水は号。私が電子化注している博物学者栗本丹洲は彼の子である(後に奥医師田村昌友の養子となった)。平賀源内(享保一三(一七二八)年~安永八(一七八〇)年)の若き日の師でもあった(個人的に平賀源内とかのヤマアラシはすこぶる親和性があるような気がする。この頃、彼が旧師の家に出入りしていたかどうかは不明であるが、私はヤマアラシを観察してニヤリと笑う源内が見えるような気がするのである)ウィキの「田村藍水」によれば、『江戸・神田の出身』で、十五『歳の時に医師である父親について医学を学び始め、後に阿部将翁から本草学を学んだ。早くから朝鮮人参に関心をもっており』元文二(一七三七)年、『江戸幕府から朝鮮人参の種』二十『粒を下付されて、人参国産化の研究を命じられる。朝鮮人参の栽培の研究と合わせて諸国を巡って産物について調査を行い』、宝暦七(一七五七)年には『弟子の平賀源内らとともに湯島で薬品会を開き、日本の本草学発展の基礎を築いた』。宝暦一三(一七六三)年、『人参栽培や諸国物産調査の功績が評価され、一介の町医から幕府医官に任じられて禄』二百『石を与えられる。実地調査の重要性を唱えて諸国を巡り、学者のみならず、島津重豪や細川重賢ら大名とも交際を持った。朝鮮人参のみならず、甘藷や木綿の研究にも務め、栽培技術の普及にも努めた。門人に平賀源内や中川淳庵などが』いる。「人参譜」「人参耕作記」「中山伝信録物産考」「琉球物産誌」など、『多くの著作を著した。江戸で病死』した。

「神田紺屋町」現在の東京都千代田区神田紺屋町。(グーグル・マップ・データ)。南北に分かれているが、これは当時、既にこうなっていたウィキの「神田紺屋町によれば、『それまで神田北乗物町の南部のみであった神田紺屋町の住民に対し』、享保四(一七一九)年に『町の防火のため』、『江戸幕府の命令で』、『一部分の住民が神田北乗物町の北部に移されたことに由来する』とある。

「猪の大さにて」最大のヤマアラシ科ヤマアラシ属インドタテガミヤマアラシ Hystrix indica では頭胴長九十センチメートル、尾長十七センチメートル、体重三十キログラムにも達し、背面に生える刺毛は太く、長さも三十五センチメートルにも及び、威嚇する際には体を震わせて、刺毛をぶつけ合わせてガタガタと威嚇音を立てるから、まさにこの描写にはピッタリである(但し、だからといって本種に同定する訳ではない)。

「さゝら」簓(ささら)。竹や細い木などを束ねて作った道具。洗浄器具及び楽器や日本の伝統的な大衆舞踊の際の装身具の一部としても用いられる。

「怒るときは此骨さか立鳴(だちな)りて、甚(はなはだ)おそろしき響をなす」彼らの剛棘は決して消極的防衛器官ではない。ウィキの「ヤマアラシによれば、『通常、針をもつ哺乳類は外敵から身を守るために針を用いるが、ヤマアラシは、むしろ積極的に外敵に攻撃をしかける攻撃的な性質をもつ。肉食獣などに出会うと、尾を振り、後ろ足を踏み鳴らすことで相手を威嚇するだけでなく、頻繁に背中の針を逆立てて、相手に対し後ろ向きに突進する。本種の針毛は硬く、その強度はゴム製長靴を貫く程であり、また捕食された場合でも針が相手の柔らかい口内や内臓を突き破り感染症や疾患を引き起こさせ、場合によっては死亡させることが知られている。この為、クマやトラといった大型の捕食動物でも本種を襲うケースは少ない。前述の攻撃的な性質はここに要因するとみられている』。ヤマアラシ科ヤマアラシ属『ケープタテガミヤマアラシ Hystrix africaeaustralisなどの針は白黒まだらの目だつ模様をしている。これはスズメバチの腹の黄黒まだらの模様と同じく、警告色の役割をしていると考えられる』とある。なお、そこにも書かれているが、ショーペンハウアーの寓話に由来し、後にフロイトが論じて精神分析学者ベラックが名づけた、「自己自立」と「相手との一体感」という二つのアンビバレントな欲求によるジレンマを指す「ヤマアラシのジレンマ」(英語:Hedgehog's dilemma:原義は「ハリネズミのジレンマ」。“Hedgehog”は哺乳綱 Eulipotyphla 目ハリネズミ科ハリネズミ亜科 Erinaceinae で本ハリネズミとは別種)は大嘘で、実際のヤマアラシは針のない頭部を仲良く寄せ合って、体温を保ったり、睡眠をとったりしている

「ひばし」「火箸」。

「後(のち)淺草觀音地内にて見せ、丸藥(ぐわんやく)をうりて此藥を求(もとむ)る者には、豪猪見する事にてありし。後何方(いづかた)へ行(ゆく)事にや沙汰聞えず」このエンディングはヤマアラシが如何にも可哀想である。]

 

2018/03/15

僕は

 
 
 

僕はもう君を愛さない――僕が僕を愛さないように――

 
 

甲子夜話卷之四 27 政宗御茶水の堀をほる事

 

4-27 政宗御茶水の堀をほる事

御茶の水の堀は、伊達政宗助役して鑿たり。これは猷廟に政宗對棋し奉りしとき、政宗常の癖にて、棋子を下さんとしては、いつも獨言を云けるが、城の後から這入るぞ々々と度々言ける。この言よりして、彼堀の助役を政宗に命ぜられしと云。

■やぶちゃんの呟き

囲碁も将棋も出来ない(後者は未だに金と銀の駒の可動範囲を知らない)私が語るよりも、本条を美事に解説されてある、囲碁・将棋販売の大石天狗堂公式サイト内将棋の豆知識15~16 光風社 将棋101話 転用の「16 お茶の水の助役」を読まれるに若くはない。これ以上の名注釈はない。

 

甲子夜話卷之四 26 穴中地震することなき話

 

4-26 穴中地震することなき話

佐渡の金堀穴の深きことは前に云たり。其後に聞く。此穴の奧く地震することなしと。然に彼國は、餘國と同く地震するなり。俗情を以て考れば、地底ほど地震すべきやうなれども、地は厚きもの故、下ほど實する理なれば、地震せざるか。洋説ますます當れり。又地上も、地震のときは空氣震するものと見へて、強き地震のときは、飛鳥自由に翔りかぬるものなりと云。

■やぶちゃんの呟き

「佐渡の金堀穴の深きことは前に云たり」「甲子夜話卷之四 8 佐州金山の奇事」のこと。また、佐渡の地震と「洋説」についても、既に甲子夜話卷之三 30 佐渡の潮幷象潟の勝景變ずる事ででも扱っている。

「金堀穴」「きんほるあな」と読んでおく。

「奧く」「おく」。

「然に」「しかるに」。

「同く」「おなじく」。

「地震するなり」「甲子夜話卷之三 30 佐渡の潮幷象潟の勝景變ずる事」を参照。

「實する理なれば」「じつすることわりなれば」。地下に行けば行くほど、その上部の緻密な実質の圧が加わってより堅固なものとなるのが理窟であるから。「甲子夜話卷之三 30 佐渡の潮幷象潟の勝景變ずる事」でも『地は實したるものゆへ』と述べている。う~ん、断層とか地下水脈とかあるし、必ずしもそうでは、ないけどな。

「洋説ますます當れり」「甲子夜話卷之三 30 佐渡の潮幷象潟の勝景變ずる事」を参照。そこでは『地は實したるものゆへ、橫へ震することは無く、唯上下へゆることに言しは宜なり』とある。

「翔りかぬる」「かけりかぬる」。

 

甲子夜話卷之四 25 火を燃せし狐を捕へし始末


4-25 
火を燃せし狐を捕へし始末

狐は靈妙なる者なり。予が平戶城下、櫻馬場と云處の士、屋鋪にて狐の火を燃を見る。若士どもとり圍て逐ければ、其人を飛越て逃去たり。然るに物のおちたる音あり。これを見れば人骨の如き物あり。皆言ふ、これ火を燃せしものなるべし。取置かば燃すこと能はじと。持歸て屋内に置き、定て取りに來らん、そのとき擒にすべしと云合せて、障子を少し明て待居たり。果て狐來て窺見る體にして、障子の明たる所より面を入れては引くこと度々なり。人々今や入ると構居たるに、遂に屋内にかけ入る。待設たる者、障子をしむれどもしまらず。其間に狐は走出けり。皆疑て閾を見るに、細き竹を溝に入れ置たり。夫故障子たゝず。いつの間にか枯骨も取り返されたり。さきに窺たる體のとき、此細竹を入置しなるべし。

■やぶちゃんの呟き

「櫻馬場」不詳。拡大して精査出来る古地図を探し得なかった。

「火を燃」は底本のルビによれば、「火を燃(もす)」。とする標題は「燃(も)せし」であろうか。本文のここはいいとしても標題や後の部分は「燃(もや)せし」でいいようの思うのだが。

「若士」「わかきし」或いは「わかいし」と読んでおく。

「圍て逐ければ」「かこみておひければ」。

「其人を」「そのひとを」ではなく、「其(それ)」(=狐火)、「人を」と読む。

「人骨」妖狐が人の髑髏を用いて人に化けたり、妖術を使うというのはオーソドックスな話で、狐火(きつねび)は妖怪としての狐の十八番(おはこ)でもあるウィキの「狐火には、『各地の俗信や江戸時代の古書では、キツネの吐息が光っている』、『キツネが尾を打ち合わせて火を起こしている』、『キツネの持つ「狐火玉」と呼ばれる玉が光っているなど』、『様々にいわれている』。寛保年間(一七四一年から一七四三年)に書かれた菊岡沾涼(きくおかせんりょう)の随筆「諸国里人談」には、『元禄の初め頃、漁師が網で狐火を捕らえたところ、網には狐火玉がかかっており、昼には光らず夜には明く光るので照明として重宝したとある』。また、医師で本草学者であった人見必大(ひとみひつだい 寛永一九(一六四二)年頃?~元禄一四(一七〇一)年:本姓は小野、名は正竹、字(あざな)は千里、通称を伝左衛門といい、平野必大・野必大とも称した。父は四代将軍徳川家綱の幼少期の侍医を務めた人見元徳(玄徳)、兄友元も著名な儒学者であった)の元禄一〇(一六九七)年刊の本邦最初の本格的食物本草書「本朝食鑑」には、『キツネが地中の朽ちた木を取って火を作るという記述がある』。因みに、『英語の「fox fire」が日本語で「狐火」と直訳され、この「fox」はキツネではなく』、『「朽ちる」「腐って変色する」を意味し、「fox fire」は朽ちた木の火、朽木に付着している菌糸、キノコの根の光を意味していることから』、或いはこの「本朝食鑑」の『記述は、地中の朽ち木の菌糸から光を起こすと』した記述と読むことも可能である。また、同「本朝食鑑」では、『キツネが人間の頭蓋骨やウマの骨で光を作るという記述もあり、読本作者・高井蘭山による』「訓蒙天地弁」や江戸後期の三好想山(しょうざん)「想山著聞奇集」(全電子化注済み)にも『同じく、キツネがウマの骨を咥えて火を灯すとの記述がある』(私の「想山著聞奇集 卷の壹 狐の行列、幷に)讎をなしたる事 附 火を燈す事」を参照)。長野県の奇談を集めた「信州百物語」に『よれば、ある者が狐火に近づくと、人骨を咥えているキツネがおり、キツネが去った後には人骨が青く光っていたとある』。こういった『ことから後に、骨の中に含まれるリンの発光を狐火と結び付ける説が、井上円了らにより唱えられた』(亡き私の母もそう信じていたし、実際に夜の墓地でそのように地面が光るのを見たと言っていた。私の父(存命)も敗戦直後に考古学発掘の手伝いで赴いた山奥の村で見、村人らはよく起こることだと平然としていたと言う)。『リンが』摂氏六十『度で自然発火することも、狐の正体とリンの発光とを結びつける一因となっている』が、『伝承上の狐火はキロメートル単位の距離を経ても見えるといわれているため、菌糸やリンの弱々しい光が狐火の正体とは考えにくい』とある。一九七七年には、『日本民俗学会会員・角田義治の詳細な研究により、山間部から平野部にかけての扇状地などに現れやすい光の異常屈折によって狐火がほぼ説明できるとされた』。『ほかにも』、『天然の石油の発火、球電現象などをその正体とする説もあるが、現在なお』、『正体不明の部分が多い』とある。

「これ火を燃せしものなるべし」「これこそ、まさにあの妖しい狐火を燃やし出す呪法の奇物であるに違いない!」。

「定て」「さだめて」。きっと。

「擒」「とりこ」。虜。

「明て」「あけて」。開(あ)けて。

「果て」「はたして」。

「窺見る體」「うかがひみるてい」。

「明たる」「あきたる」。開(あ)いている。

「面」「つら」と読んでおく。別に「おもて」と読みたくば、それでよいが、この方が怪異としては利くと私は思う。

「構居たるに」「かまへゐたるに」。

「待設たる」「まちまふけたる」。手ぐすね引いて待ち構えていた。

「障子をしむれどもしまらず」後を読めば判るが、「障子を閉めんとすれども、閉まらず」とあるべきところである。

「閾」「しきゐ」又は「しきみ」。

「夫故」「それゆゑ」。 

栗本丹洲 魚譜 ヒツウオ (考証迷走の果てにアカザとした)

 

Gigi

 

[やぶちゃん注:図版は国立国会図書館デジタルコレクションの「魚譜」からトリミングした。本巻子本「魚譜」の中では特異点の単色素描図である。実際には前のチョウザメの鱗三種の図の後、後にある『ウミヅル漢名不詳』とするものの右半分の真上の空隙に記されてある。]

 

□翻刻1(一行字数を合わせたママのもの)

丹波亀山保津川産

 ヒツウオ ナマヅノ子ノ如シ

 上唇ヒゲ四本アリハラノヒレ

 尖刺アリテ人ヲサス

 

□翻刻2(総て同ポイントにし、概ね、カタカナをひらがなに、句読点・記号を打ち、一部に推定で読みを添えて、二行名以下を連結させた)

丹波亀山保津川産。

 「ヒツウオ」 「ナマヅ」の子の如し。上唇(うはくちびる)に、ひげ四本あり。はらのひれに、尖(と)き刺(とげ)ありて、人を、さす。

 

[やぶちゃん注:以下で同定経緯を示すが、思ったより、困難を極めた。最終的に辿りついた最有力同定候補は、

条鰭綱ナマズ目アカザ科アカザ属アカザ Liobagrus reini

である。

 当初は、産地「丹波亀山保津川」(京都府を流れる淀川水系の桂川の内、亀岡市保津町請田から京都市嵐山までの流域呼称)、ナマズの子に似ている、棘があって人を刺す、という三点から直ちに、

ナマズ目ギギ科ギバチ属ギギ Pelteobagrus nudiceps

を想起したのであるが、本種はギギ科 Bagridae の中でも、最も尾鰭が深く切れ込むことで有意に区別されるのであるが、本図の尾鰭は中央に全く切れ込みがないことから、ギギではない

 次に尾部の形状がより図に近い同ギギ科の他の三種を検証してみたが、まず同属の、

ギバチ Pseudobagrus tokiensis

は、分布域が神奈川県・富山県以北の本州であって、産地が外れ、同属の、

アリアケギバチ Pseudobagrus aurantiacus

九州各県の一部に限定されるのでアウトとなり、同じく、ギギ科では最小種である、

ギギ科 Pseudobagrus 属ネコギギ Coreobagrus ichikawai

も、東海地方(かつては広く東海地方に分布していたが、現在は愛知県・岐阜県・三重県の伊勢湾・三河湾流入河川とされる)の固有種なので、同定候補足り得ないことが判った。

 因みに困ったところで、苦し紛れに思い出したのは、汽水域にも入り込む海水魚ナマズ目ゴンズイ科ゴンズイ属ゴンズイ Plotosus japonicus であるが、保津川は完全な内陸の桂川中流域しか指さないからゴンズイでは絶対にあり得ない。言う必要もないが、そもそも海水魚のゴンズイを山間の淡水魚と仮に誤認したのだとしても、ゴンズイに特徴的な両体側に尾部に向けて入る二本の黄色線を丹洲が見逃す(キャプションで語らない)はずもないのである。

 そこではたと思い当ったのが、冒頭のアカザ(赤佐)である。ウィキの「アカザ」によれば(下線太字やぶちゃん)、『胸鰭と背鰭に鋭く毒のある棘条があり、その棘条に刺されると痛いことからつけられたアカザスが転訛してこの名になったとされている。他には、アカネコ、アカナマズの名がある。日本固有種で、秋田県、宮城県以南の本州と四国、九州に分布する』。『ナマズの仲間としては小型で、体長は最大』でも十センチメートル前後で、『ドジョウのように円筒形の細長い体型をしており、英名でもLoach catfish(ドジョウナマズ)と呼ばれる。体色は、やや赤色がかるが』、『地域変異が大きい。生息域の重複や頭部の形状などの特徴からギギやギバチに若干似るが、以上のような特徴から識別は容易である。また、他種と比べて頭部が小さく』、『側線が胸鰭の後ろ近辺までしかないという違いがある』(これは一見、本図に齟齬するように見えるが、反証を後で示す)。『口ひげは上顎に』二『対、下顎に』二『対の計』八『本である』(これもキャプションの「四本」と齟齬するわけだが、実は丹洲は「上唇」に四本と言っているので、あまり問題はないと私は考えている。そもそもが上に考証候補として出したギギ類やゴンズイも八本の鬚を有する。そしてその鬚は口吻上部(「上唇」である)に四本、下顎下部に四本(或いは丹洲のもとに本種がもたらされた時には腐敗或いは乾燥が進み、下部の鬚が脱落していたか、乾燥して腹部に張り着いて癒着してしまっていた可能性もある)。『胸鰭に』一『本ずつ、背鰭に』一『本の刺条を持つ。刺条には毒腺があり、刺されると痛む。背鰭の後部には脂鰭があるが』、『その基底は長く、後端で尾鰭と連結する。尾鰭の後縁は丸く扇形になる』。『水温の低い河川の上流域下部〜中流域、渓流部の清澄な水底に生息する。高温に弱く、水温が』摂氏二十五『度以上になると』、『死亡個体が出始める』。『夜行性』で、『日中は水底の浮き石の下、岩の隙間などに隠れており、夜間や水の濁った時に活動する。形態と同様、動作もドジョウに似ており、水底の石の間を伝いぬうように動き回る。肉食性で、主に水生昆虫を捕食する』。『卵はゼリー状の物質に守られ、ひとかたまりに産み付けられる』とある。

 以上の記載から、丹洲の図とキャプション、特に本図の魚の産地(棲息域)と「アカザ」の分布は合致する

 問題は『側線が胸鰭の後ろ近辺までしかない』とする記載と図との不一致に見える点であるが、アカザについての恐らく最も詳しい解説と複数生体個体のカラー画像がある、サイト「雑魚の水辺」の「アカザ Liobagrus reiniをご覧戴きたいそこにある豊富な画像を見て戴くと、実際には側線染みたものが、尾部まであるように見える個体がかなりあるのである。さらに言うなら、丹洲の図は側線というよりも、本種独特の側線相当部分から体幹の上下方向に走る線上の模様或いは皺(彼はナマズであるから、鱗はない)を描いたのではないかと思われてくるし、また、この如何にも側線染みたものは実は死亡後の乾燥による体表面の収縮による体側面に出来た皺とも考えられるように私には思われる。

「ヒツウオ」不詳。「ウオ」はママ。当初、ギギを同定候補として考えていた時には、よく知られるように、彼らが音を出す(腹鰭の棘と基底骨を擦り合わせて「ギーギー」と低い音を出す。和名はそのオノマトペイアである)から、「ヒツ」は「しつ」で楽器の「瑟」ではないかと考えた(瑟は中国古代の弦楽器の一つで、箏(そう)の大きなもの。柱(じ)で調弦し,弦を抓んで奏する。二十五弦・二十三弦・十九弦などがあり、琴とともに奏されたが、現在は廃れた)。則ち、琴「瑟」(きんしつ)の弦を引っ掻くような音を出す「魚」である。ただ、アカザがギギ同様に鳴くかどうかは、確認出来なかった。ギギの発音行動から考えると、アカザも鳴いてもおかしくはないが、アカザが鳴くとする明確な記載を発見出来なかった。鳴くのであれば、これで注は終りとしてよいと思うが、もし鳴かないとなれば、最後に私の最終推理を示しておこう。「ヒツ」はやはり「シツ」で「瑟」のままである。但し、形、である。瑟は琴と読み換えてよい。そうして、再度、サイト「雑魚の水辺」の「アカザ Liobagrus reiniの画像をご覧戴きたいのだ。どうです、飴色に古色蒼然とした古い時代の琴(瑟)のような形をしているじゃあ、ありませんか!

 

2018/03/14

栗本丹洲 魚譜 潛龍鯊テフザメ皮甲 (チョウザメの鱗)

 

Tyouzamekaw1

Tyouzamekawa2

 

[やぶちゃん注:図版は国立国会図書館デジタルコレクションの「魚譜」からトリミングした。二枚目の下部の発条(バネ)状の左からの突出物は、後にある『ウミヅル漢名不詳』とするものの端の一部で、本チョウザメ類の鱗とは関係がない。]

 

□翻刻

潛龍鯊テフザメ皮甲   長尾蔵

 

[やぶちゃん注:後の二枚の図はキャプションがない。同一物として扱った。これは、条鰭綱軟質亜綱チョウザメ目チョウザメ科チョウザメ亜科チョウザメ属チョウザメ(ミカドチョウザメ)Acipenser medirostris mikadoi ととっておく。ウィキの「チョウザメ科等によれば、アリューシャン列島及びアラスカ湾からメキシコのエンセナーダまで分布し、かつては日本にも分布していた。『国際自然保護連合(IUCN)のレッドリストでは準絶滅危惧と評価されている』ものの、二〇一七年に『公表された環境省のレッドリストでは絶滅(環境省レッドリスト)と評価され』ている。大きな鱗の形が蝶の形に似、魚体がサメ(軟骨魚綱板鰓亜綱 Elasmobranchiiに属する魚類の中で鰓裂が体の側面に開く種群の総称)のように見えることから、この蝶鮫の和名を持つが、サメとは全く類縁関係はない。通常個体の体長は一・三メートルほどで、体はやや円筒形を成し、吻がやや延長して頭部の前に出る。口は下面にある。二対の口鬚(くちひげ)があり、それを用いて砂泥中を探りながら、ベントス(Benthos:底生生物)である甲殻類・蠕虫類・昆虫の幼虫等を摂餌する。体の背面は灰青色で、腹面は淡白色。群れを作って川を遡上し、夏に砂礫底や水草などに産卵後、海に下る。卵は一週間内外で孵化し、稚魚は秋に海へ下る。肉は美味で、卵は高級食品であるキャビアとして珍重される。百科事典類の諸記載では、本来は東北地方以北の北太平洋に分布しており、日本でもかつて北海道の天塩川・石狩川を遡上していたことが確認されている(但し、上記の通り現在は絶滅したと考えられている)。北海道沿岸では時に本種やダウリアチョウザメ(チョウザメ亜科ダウリアチョウザメ属ダウリアチョウザメ HusoHuso dauricus:アムール川の淡水 汽水域に多いが、オホーツク海・日本海・太平洋の北海道周辺海域にも稀れに来遊することがあり、定置網などに掛かることがある。この種は、吻(ふん)が尖ること、口が大きく、頭部の側面まで開いていること、左右の鰓膜(さいまく)は結合していて腹部の前端から離れていること、吻の下面にあるひげが扁平であることなどの特徴によってチョウザメ属Acipenserの種群とは区別が出来る)が捕獲されることがあるが、孰れもロシア由来と考えられている。私は寺島良安和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚で、かなり本邦や中国でのチョウザメについて考証した。同ページで「チョウザメ」で検索を掛けて戴くと嬉しい。特に「釜石キャビア株式会社」というところでチョウザメに係わるお仕事に従事しておられたY氏から、同「和漢三才圖會」に載る「かじとうし」の絵が長江に生息するハシナガチョウザメ(チョウザメ目ヘラチョウザメ科ハシナガチョウザメ属の異形種であるハシナガチョウザメ(古くはシナヘラチョウザメと呼称)Psephurus gladius)であると考えらる、というメールを頂戴した時は、大変、嬉しく思ったものだった。氏からは中国切手の同種の画像や、この丹洲の絵に出るチョウザメ(ミカドチョウザメ)Acipenser medirostris mikadoiの鱗は、江戸時代、「菊登知(きくとじ)」と称し(菊の花弁にも似ていることから)、刀剣の鞘の意匠に利用されもしたのであるが、その画像も送って下さった。しかし、かの二〇一一年三月十一日の津波で、施設が破壊され、商業ベースに乗って大きく羽ばたこうとしていた、Y氏の養殖チョウザメの夢は無残にも消え去ってしまった。このことを私はどうしてもここに言い添えておきたいのである。なお、石橋孝夫論文北海道チョウザメの博物誌1遺跡,地名,絵図,民具からみた北海道のチョウザメの記録(PDF)の中で、本図の一枚目が紹介され、そこでは(ピリオド・コンマを句読点に代えさせて戴いた)、『この図はチョウザメ類の乾燥皮の図で、栗本丹州の『魚譜』(栗本、成立年不明)に収められているものである』。『「チョウザメ皮甲」とあることから』、『蝦夷地からもたらされたものと考えられる。添え書きに「潜龍鯊テフザメ皮甲  長尾蔵」とあることから、長尾氏所蔵の乾燥皮を描いたものであろう。』『部位ははっきりしないが、おそらく背中の硬鱗の部分と思われる。どのようにして長尾氏が入手したかは不明であるが、鮫屋などから買い求めたものだろう。』『チョウザメ皮に関する記録は北海道東部に多く』、文化六(一八〇九)年の『『東行漫筆』(荒井、』一八〇六』『)に白糠や厚岸でチョウザメ皮が生産されていることが記録されている.しかしこの他の地域での記録はほとんど見当たらず、今後調査すべき課題である』とある。是非、参照されたい。なお、実は、この論文には私の『「Blog鬼火~日々の迷走」(藪野,2008)に「チョウザメのこと」という記事』のことが記されてあり(現記事)、以上の「Y氏」のことも出るのである。恐らく、私の記事が学術論文に引用された最初のものと思われる。

「潛龍鯊」幸田露伴の釣の随筆にも登場するこの名は、実にチョウザメの生態や形状を捉えた、いい名だと私は思う。因みに、既に述べているが、「鯊」(音「サ」「シャ」)はサメ(鮫)を指す。現代中国語でも「ハゼ」ではなく(その意味もあるが)、圧倒的に鮫の意で用いられている。魚類学でも、例えば、メジロザメ目 Carcharhiniformes は「目白鮫」ではなく、「真鯊」である

「長尾」不詳。]

 

栗本丹洲 魚譜 ヨコサ (ツバクロエイ)



Yokosahaibu



Yokosahukubu

 

[やぶちゃん注:一個体の背部と腹部。図版は国立国会図書館デジタルコレクションの「魚譜」からトリミングした。]

 

□翻刻1(原図の一行字数と合わせたもの)

海鷂魚異形者漁人呼ヨコサ

此種類頗多味属下品

壬午盛夏初三新見君

手自所寫贈者

 

 

此物横濶ク長シ尾短小

ニ乄刺ナシ仙臺ニテカラヱイ

モノアリ背黒クハラ白シ黄色

ノ処ナシ尾刺ナシ冬春ノ際

アリ其地ニテ風乾スルモノ

揉テ食フ大口魚(タラ)ヨリ色白シト

無毒ノモノナリ亦一種加州

コツポウ呼フモノ背緑色

腹下白シ味下品只賤民コレ

食フノミ是皆同種ニ乄形ハ

各小異アリ皆コレ狗ノ類

ナルベシ寧波府志所謂腹

下色白者曰地白ゟ

類トアルモ是等ノモノヲ

指テ云歟

 

□翻刻2(総て同ポイントにし、漢文読みの箇所は訓読し、概ね、カタカナをひらがなに、約物を正字に代え、句読点・濁点及び熟語を示すための連結記号や諸記号を打ち、一部に推定で読みと送り仮名を添えた。内容から、今回は完全な連続はさせず、あった方が読み易いと判断した箇所で改行した)

--魚(えい)の異形の者。漁人、「ヨコサ」と呼ぶ。此の種類、頗(すこぶ)る多し。味、下品に属す。壬午(みづのえうま)盛夏初三(しよさん)、新見君、手-自(てづ)ら寫す所を贈れる者なり。

此の物、横に濶く、長し。尾、短く、小にして、刺(とげ)なし。

仙臺にて「からゑい」と呼ぶものあり。背、黒く、はら、白し。黄色の処、なし。尾に刺(とげ)なし。冬と春の際にあり。其の地にて風乾(かざぼし)するもの、炙(あぶ)り揉みて、食ふ。大--魚(タラ)より、色、白し、と。無毒のものなり。

亦、一種、加州に「コツポウ」と呼ぶもの、背、緑色に、腹下、白し。味、下品、只(ただ)、賤民、これを食ふのみ。

是、皆、同種にして、形は各々(おのおの)小異あり。皆、これ、狗-(えい)の類(たぐひ)なるべし。「寧波府志」に謂ふ所の、『腹下色白の者、「地白」と曰ふより、(えい)の相(あ)ひ類(たぐひ)なり』とあるも、是等のものを指して云ふか。

 

[やぶちゃん注:図の形状及び「ヨコサ」という名から、以前に注した、軟骨魚綱板鰓亜綱トビエイ目ツバクロエイ科ツバクロエイ属ツバクロエイGymnura japonica と同定してよい。「ぼうずコンニャクの市場魚介図鑑」の「ツバクロエイ」によれば、和名は『ツバクロ(ツバメ)が羽をひろげたような形、色合いだから』とあり、また「地方名・市場名」に『ヨコサエイ』とある。本記載では「味、下品に属す」とか、「味、下品、只(ただ)、賤民、これを食ふのみ」とあるのであるが、同記載を読むと、『尾に棘があり、危険なので嫌われている』。『味は悪くはないが』、『一般的に食用とはしない』としつつも、料理してみると、実際には味はかなりいいとあり、味噌汁が絶品らしい。『エイ類のみそ汁は実に味がいい。なかでも本種のものは屈指の味だと思われる。昆布も鰹節も不要。ニラが合う』とあるから、相当に美味いようだ。なお、丹洲の記載には重大な誤りがあるので注意しないといけない。本種には刺がある。「ぼうずコンニャクの市場魚介図鑑」の記載にも本種は『尾に棘があり、危険なので嫌われている』とあり、「デジタルお魚図鑑」も『尾部の中央より前に小さな毒針がある』と記してあって、極めつけは「ブリタニカ国際大百科事典」で、尾部は非常に短く、鞭(むち)状を呈し、毒棘(どくきょく)を備えると明記されている。さらに気になるのは、丹洲の記載で漁獲される地域として、仙台や加賀が挙げられている点である。本種は暖海性のエイで、南日本からシナ海にかけて分布するからである。或いは、この仙台産・金沢産とするものは、ツバクロエイではない可能性がかなり出てくる気がする(後注でも考証する)

「此の種類、頗(すこぶ)る多し」本邦のツバクロエイ属は他にオナガツバクロエイGymnura poecilura ぐらいで、そんなに多くない。ただ、サイト「WEBお魚図鑑」の「ツバクロエイ」の画像を見ると、同一のツバクロエイでも体表の色彩及び斑点の変異が多く、印象もかなり異なり、同記載にも、『体盤背面には小さな黒色斑があるが、これがないものもいる。また』、『噴水孔後側方に』一『対の白色斑がある個体も知られている』とあり、これが混淆して、しかも体盤幅が最大一・八メートルにも及ぶ巨大個体から、ちんまい幼魚をなどをも並べてしまえば、種が「頗る多」いと勘違いはするであろう。

「壬午(みづのえうま)」文政五(一八二二)年。

「盛夏初三(しよさん)」旧暦の狭義の盛夏の候は「初夏」が終わった次の日の旧暦六月六日頃から始まる。しかし通常、「初三」という語は月の初めの第三日目を指すので、ここは盛夏に入った文政五年七月の三日と、とるべきであろう。だとすると、グレゴリオ暦一八二二年八月十九日に相当する。

「新見君」不詳。

「刺(とげ)なし」前に注した通り、重大な誤り

『仙臺にて「からゑい」と呼ぶもの』不詳。しかし、以前に何度も述べた通り、エイ類の鰭(実は単独の種を素材とせず、広くエイ類のそれを用いる)を干したものを、広く、東北地方で「からかい」と称する。山形県では「からがえ」「からげ」「からかい」と呼ぶ。「からかい」は狭義にはエイの干物を指すから、「から」は「乾(から)」で、「かい」は「かえ」「がえ」「がエイ」、「乾かしたエイ」の短縮形かも知れぬと私は前に推理したのであるが、まさにこの仙台の「からえい」とは「乾(か)ら鱏(えい)」なのではあるまいか?

「尾に刺(とげ)なし」くどいが、重大な誤り。私は多少なりと危険性のある海産生物については絶対明記をすべきと考える人間であるからである。

「冬と春の際」晩冬から初春の意でとっておく。温度がある程度下がって空気が乾燥し、東風も強くなる時期で天日乾燥には相応しい。

「其の地にて風乾(かざぼし)するもの」これは仙台と読める。としか読めない。さすれば、この「からゑい」はやはり、広くエイ類を指し、本暖海性のツバクロエイではないと考えるのが理に適っていると思う。思うに、丹洲先生には非常に失礼なのであるが、ツバクロエイのずんぐりむっくり形が、広義のエイ類の鰭だけを切り取って、干物に加工されて江戸へ回って来た「えいひれ」と、これ、すこぶる同じ形に見えたことによる、初歩的な誤認なのではあるまいか?

「大--魚(タラ)」条鰭綱タラ目タラ科タラ亜科 Gadinae のタラ類。日本近海では北日本沿岸にマダラ(マダラ属マダラ Gadus macrocephalus・スケトウダラ(スケトウダラ属スケトウダラ Theragra chalcogramma)・コマイ(コマイ属コマイ Eleginus gracilis)の三属三種が分布するが、単に「タラ」と呼んだ場合はマダラを指すことが多い。

「無毒のものなり」ここは肉は無毒の意であるから、正しい。

『加州に「コツポウ」と呼ぶもの』不詳。しかし、背部が「緑色」というのは、どうもツバクロエイらしくないぞ! というより、石川県沖の海域に緑色のエイというのは不審だぞ! これは何か、エイではない、全く別の魚類なのではあるまいか?

「狗-(えい)」私が勝手に当て訓したもの。

「寧波府志」明の張時徹らの撰になる浙江省寧波府(現在の寧波市。(グーグル・マップ・データ))の地誌。しかし、中文サイトの同書の電子化データを検索してみても、この文字列は出て来ない。今暫く、探索を続けるつもりではある。]

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十八年 書かんと欲すれば紙尽く / 明治二十八年~了

 

     書かんと欲すれば紙尽く

 

 「須磨に故郷に思はぬ日を費し」て帰京した居士は、自己の健康の旧の如くならざるを知った。そうでなくても生命の長からざることは夙(つと)に覚悟していたから、折角やりかけた文学的事業の中途に挫折することを憂慮し、後継者によってこれを大成せしめようという気持があった。而してその後継者として当時の居士の胸中にあったのは、已に日本新聞社に入り、『日本』の俳句の選などに当っていた碧梧桐氏でなくて、虚子氏の方だったのである。

 居士は須磨において虚子氏に別れるに先ち、胸中を披瀝してひそかに委嘱するところがあった。虚子氏も寄託に負(そむ)かざらんとして、帰京後早稲田専門学校に入ったりしたが、その結果は八ヵ月ぶりで帰った居士を満足せしむるものでなかった。居士が虚子氏を道灌山の茶店に伴ってその意志を問い、帰来広嶋の飄亭氏宛に長文の一書をしたためたのは、十二月の幾日であるかわからない。要するに居士は文学者たらんとするために学問すべきことを切言し、虚子氏は文学者になりたいとは思うけれども、厭で堪らぬ学問までしてなろうとは思わぬという、ここに大きな分岐点があるのである。冷静に考えれば、この分岐点は両者の立場なり、性格なりからいってむしろ無理のないところであろうと思われるが、病余の居士はために多大の失望と興奮とを感ぜずにはいられなかった。飄亭氏宛の手紙は非常な長文で、ここに引用するに堪えぬけれども、

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。]

 

非風去り碧梧去り虛子亦去る。小生の共に心を談ずべき者唯貴兄あるのみ。前途は多望なり、文學界は混亂せり。『源語』は讀了せしや如何、俳句は出來しや如何、小説は如何、過去は如何、現在は如何、未來は如何。一滴の酒も咽(のど)を下らず、一點の靨(よう)もこれを惜(おし)む、今迄でも必死なり、されども小生は孤立すると同時にいよいよ自立の心つよくなれり。死はますます近(ちかづ)きぬ、文學はやうやく佳境に入りぬ。書かんと欲すれば紙盡く、喝ツ。

[やぶちゃん注:「源語」源氏物語。

「靨」えくぼ。愛想笑いのことか。]

 

という最後の一節を読んだだけでも、居士の興奮の異常であり、胸中に火の如きものの渦巻いているのが感ぜられる。如何なる事柄に達者しても平静を失わぬのは達人の事であろう。しかしそれは二十九歳の居士の到底能くするところではない。この興奮と熱情とは、居士が無数の文学を産む要素でなければならぬ。

 十二月に入って居士は地風升(ちふうのぼる)の名の下に「棒三昧」なるものを『日本』に掲げた。随筆の形による文芸時評である。その『国文』という雑誌の歌を評した一節には、後の歌論の先駆と認むべきものがある。

[やぶちゃん注:「棒三昧」「その『国文』という雑誌の歌を評した一節」「棒三昧」は抄録であるが、国立国会図書館デジタルコレクションの「竹里歌話 正岡子規歌論集」(大正一一(一九二二)年アルス刊)の画像で、ここから視認出来、そこにある「○歌人」が宵曲の言うそれらしい。]

 二十八年は居士に取って徹頭徹尾多事であった。帰京後の居士の一面は道灌山に現れているが、固よりそれは居士の面目を尽すものではない。他の一面は次のような詩によって窺うことが出来る。

[やぶちゃん注:「道灌山に現れている」「道灌山」での虚子への懇請と失望「に現れている」の意。

 以下の漢詩群は総て原典「子規居士」で校訂した。原典は全句が句点で繋がり、底本は二句ずつで改行されているが、全部を分かち斯きに直した。]

 

  訪種竹君聽講詩而還

 訪君古寺北

 山暗雨肅肅

 辭君三更近

 天寒星淸寥

 竹籬吠野犬

 林樹響怪梟

 唔咿誰氏子

 一燈細不消

 丁丁圍碁客

 暗窗明光搖

 細路幾屈曲

 極處枯木喬

 柴門吾廬是

 小妹點燭邀

 病心睡不得

 思量長夜遙

 擁爐腮平膝

 俳句點芭蕉

   種竹君を訪ね、話詩を聽きて還る

  君を訪(たづ)ぬ 古寺の北

  山暗く 雨 肅肅たり

  君を辭す 三更近く

  天 寒く 星 淸寥たり

  竹の籬(まがき)に 野犬 吠え

  林の樹(き)に 怪梟(くわいけう) 響く

  唔咿(ごい)するは誰氏(すいし)の子

  一燈細くして消えず

  丁丁(たうたう)するは 圍碁の客

  暗窗(あんさう)に 明光(めいくわう) 搖るゝ

  細き路の 幾たびか 屈曲し

  極まる處 枯木(こぼく) 喬(たか)し

  柴門(さいもん)は 吾が廬(いほり) 是(これ)なり

  小妹 燭(しよく)を點(とも)し邀(むか)ふ

  病みし心の睡(ねむ)り得ず

  思量して 長夜 遙(はるか)なり

  爐を擁(かこ)みて 腮(あご) 膝(ひざ)に平らかに

  俳句し 芭蕉を點ず

[やぶちゃん注:「種竹」本田種竹(文久二(一八六二)年~明治四〇(一九〇七)年:子規より五歳年上)阿波徳島生まれ。名は秀。初め、徳島藩儒の岡本午橋から漢籍を教わり、後に京に出て谷太湖・江馬天江・頼支峰について、詩を学んだ。明治一七(一八八四)年、東京に出て、駅逓局御用掛となり、以来、東京府御用掛・東京府属・農商務省属を経て、明治二五(一八九二)年東京美校教授、同二十九年、文部大臣官房秘書となった。明治三十二年には中国を漫遊し、明治三十七年に退官、後は詩文に没頭した。明治三九(一九〇六)年、「自然吟社」を創立して主宰した。晩年は清代の詩の研究に力を入れた。著書に「戊戍遊草」懐古田舎詩存」がある(以上は日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠った)。「茗橋老隠(国分青厓)」の私の引用注にも既に出た。

「三更」現在の午後十一時又は午前零時からの二時間。

「唔咿(ごい)」音読して書を読んでいる、その声。

「丁丁(たうたう)」物を続けて強く打つ音を表わすオノマトペイア。

「邀(むか)ふ」迎える。

「芭蕉を點ず」芭蕉の句を調べる。]

 

  寒園

 寒園日不渉

 任他風雨荒

 椎櫟薄簷角

 後門接林間

 汲水常自是

 屐跡廻圊房

 襁衣亦於此

 桁竿倒影長

 秋草已枯盡

 空地微低昂

 稚稔與嫩竹

 晴㬢映翠光

 薔薇瘦含蕾

 一花帶霜黃

 水仙三寸短

 殘菊無餘香

 孤蜂從何到

 低飛退南陽

 翩翩褐色蝶

 不肯向花狂

 僅是十弓地

 爲吾足徜徉

 身似凍蠅動

 負暄得小康

 醫藥固無效

 病根入膏肓

 今日偸餘命

 明朝且茫茫

 

   寒園

  寒園に 日 渉(わた)らず

  任他(さもあらばあ)れ 風雨 荒し

  椎櫟(すいれき) 蔭簷(いんえん)の角(かど)

  後門は林間に接す

  水を汲むは常に是(ここ)よりし

  屐跡(げきせき)は圊房(せいばう)を廻(めぐ)る

  襁衣(きようい)も亦た此(ここ)に於てし

  桁竿(かうかん) 影を倒(さかしま)にして 長し

  秋草 已に枯れ盡き

  空地(くうち) 微(わづ)かに低昂(ていかう)たり

  稚松(ちしやう)と嫩竹(どんちく)と

  晴㬢(せいぎ) 翠光(すいくわう)を映(うつ)す

  薔薇(しやうび)は瘦せて蕾を含み

  一花は霜を帶びて黃(き)なり

  水仙 三寸の短(たん)

  殘菊 餘香 無し

  孤蜂の何(いづ)れよりか到り

  低く飛びて南の陽(ひ)を追ふ

  翩翩(へんぺん)たる褐色の蝶(てふ)

  花に向ひて狂ふを肯(うべな)はず

  僅かに是れ 十弓(じつきゆう)の地

  吾が爲に徜徉(しやうやう)するに足る

  身は凍蠅(とうよう)の動くに似て

  暄(くゑん)を負(お)ひて小康を得たり

  醫藥は固より效(かう)無く

  病根は膏肓(かうくわう)に入る

  今日 餘命を偸(ぬす)み

  明朝(みやうてう) 且(まさ)に 茫茫

[やぶちゃん注:「椎櫟(すいれき)」椎(しい)と櫟(くぬぎ)。

「蔭簷(いんえん)」深くさした簷(ひさし)。

「屐跡(げきせき)」下駄の歯の跡。

「圊房」便所。

「襁衣(きようい)」洗濯したものを干すことらしい。

「桁竿(かうかん)」物干しの柱と棹。

「低昂(ていかう)」低くなったり、高くなったりすること。

「嫩竹(どんちく)」なよたけ。細くしなやかな若竹。

「晴㬢(せいぎ)」太陽の(キラキラと光る)光。

「翩翩(へんぺん)」軽快に、ひらひらと舞うこと。

「花に向ひて狂ふを肯(うべな)はず」蝶が主語。

「十弓(じつきゆう)の地」中国古代の単位で、一つは的までの距離を測るのに用いたもので、一弓は六尺。今一つは田地を測るのに用いたもので、これは一弓が八尺。ここは子規庵の広さであるが、前者なら約十八メートル四方、後者なら約二十四四方。現在の史跡に指定されている子規庵の土地面積は四百五・六平方メートルであるから、両方の中間点で腑に落ちる。

「徜徉(しやうやう)」名]「逍遙」に同じい。気儘に歩き回ること。

「暄(くゑん)」温もり。暖かさ。

「茫茫」ぼんやりと霞んではっきりしないさまから転じて、将来の見通しが立たないの意。]

 

 「種竹君」とあるのは本田種竹氏である。根岸に住する故を以て、来往して詩を談ずる機会が多かった。これらの詩が表現の奇を求めず、自然の趣に富んでいるのは、俳句において悟入(ごにゅう)したところを詩に及ぼしたものであろう。淡々たる措辞の裡に自ら居士の境涯がにじみ出ているように思われる。

 

  十二月三十一日夏目漱石來

 忙裏年光速

 冬來病勢增

 窮陰天欲雪

 寒日見居t生水

 廬與山相接

 吾將世互憎

 柴門聞剝啄

 倒屐迓良朋

   十二月三十一日、夏目漱石、來たる

  忙裏(ばうり) 年光(ねんくわう) 速く

  冬來(とうらい) 病勢 增す

  窮陰(きゆういん) 天 雪ふらんと欲し

  寒日 道 氷を生ず

  廬と山と 相ひ接し

  吾と世と 互ひに憎む

  柴門に剝啄(はくたく)を聞き

  屐(げき)を倒(さかしま)にして良朋を迓(むか)ふ

[やぶちゃん注:「忙裏(ばうり)」忙しくしていること。多忙を極めているうちに。

「窮陰」冬の末であるが、ここは標題の通り、大晦日で十二月の異称である。

「剝啄(はくたく)」来訪者が門戸を叩く音。一種のオノマトペイアであろう。

「屐(げき)を倒(さかしま)にして良朋を迓(むか)ふ」朋友の来訪を喜ぶ余りの慌てたさまを指すか。]

 

 漱石氏が松山から出て来て、大晦日に居士を訪ねているのは、この年最後の出来事であった。「寒山落木」にも「梅活(い)けて君待つ菴(あん)の大三十日(おほみそか)」「何はなくとこたつ一つを參らせん」その他数句が散見する。

 『獺祭書屋俳話』の増補再版が刊行されたのは、この年の九月五日であった。初版の六十九頁に対して二百十三頁を増補したのだから、三倍以上の増加を見たわけである。はじめは『獺祭書屋俳話』第二編として出すつもりだったらしく、序文や目次まで前年中に出来上っていながら、戦争のために出版延期になっていた。それを別冊とせず、第一版と合せて刊行されたのであった。この再版には「芭蕉雑談」以下の俳話と「かけはしの記」以下の紀行の末に、類題別にした俳句が添えてある。居士を中心としたいわゆる『日本』派の俳句が、ともかくも句集の形に編まれたのは、『獺祭書屋俳話』の附録を以て最初とするのである。

変生女子(へんじょうじょし)夢

昨夜見た、不思議な二つの夢――自分が女性で――しかも別々な二話でそうなのだ――。

   *

第一話――唐代伝奇風

 

 時は唐代。私は十代か二十代の女である。

 邸宅の奥まった部屋で、若い夫と、ある遊びをしている。

 大きな唐三彩の盆皿に、私が小さな革製の入れ物で白砂を一杯入れる。

 夫は同じような入れ物から黒い粘性のある土の塊を入れる。

 それを交互に繰り返す。

 夫の入れたその塊りは、自然に龍の形象へと変容する。

 龍は昇天しようと蠢くが、私の入れる白砂に邪魔されている。

 龍が昇天すれば、夫の勝ち。

 龍が白砂に阻まれて、最早、動けなくなれば、妻である私の勝ち、である。

 遂に、龍は白砂に半ば埋もれて、首と胴の一部を白砂からちょっと覗かせた状態で、固まって動かなくなってしまう。

 「私の勝ち!」――と笑って夫を見上げる。

 夫も微笑している。

 ところが――目を戻すと――龍は白砂を崩すことなく――そのまま穴の開いたままに――昇天して消えている。

 吃驚して夫の方を見ると――夫の姿は消えている…………

 

   *

 

第二話――B級SF映画風

 

 時は遙か未来。

 場所は太陽系外の惑星。

 空気はないから、宇宙服に身を包んでいる。

 私は二十代の白人の女性である。

 小型の宇宙艇の操縦室に夫がいる。

 私は昇降機で惑星の地表に降りる。

 五十メートルほど先に無人の宇宙コンビニエンス・ストアが見える[やぶちゃん注:シチュエーション、ショボ過ぎ。]。

 そこに人間の姿に化けたエイリアンが来るという情報を受けて、夫とともにそこに来たのである。

 私は女狙撃兵である。

 岩蔭から銃を指し出し、スコープを覗くと、ストアから不法に物品を略奪した、よれよれの茶のコート姿の中年男が出てくる[やぶちゃん注:宇宙服を着ていないから、間抜けなエイリアンである。]。

 通常弾で、二度、撃つ。

 二発とも命中するが、男はあろうことか、そのまま平然と歩いている。

 そこで大きさが倍はある徹甲弾を銃に装塡し、撃つ。

 コートがスローモーションで翻って、男は仆れる。

 「任務完了。」

 と夫に連絡し、宇宙艇の真下の昇降機に入る。

 しかし、磨りガラスの外にモンスターの影が近づくのが見えた![やぶちゃん注:ここは二重太陽のある星系であった。ここではエイリアンは本来の姿に戻っているのだが、磨りガラスであるためにはっきりした様態は見えない。]

 「あいつ! 死んでなかったんだわ!」

 と叫ぶ。

 夫が

 「エレベーターが故障してる!」

 と叫んでいる。

 ドアの向うから影が近づいてくる…………

   *
 
女性になる夢は恐らく生まれてから一度も見たことがない上に、時制の恐ろしく隔たったアンソロジー形式の二話連続というのも異様だ。

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 流され王(5) 長慶天皇の伝承

 

 吾妻昔物語は江戸時代の初期に、僧徒などの手に成つたかと思ふ南部領の舊傳集である。其一節に次のやうな話がある。昔いつの頃か、流され王と申す御方、稗貫郡鳥谷ケ崎の瑞興寺に入らせられ、佛壇の上に登つて本尊と竝んでおいでなされた。朕は元四海の主なり凡夫と居を同じうすべからざる故に爰に坐すと仰せられた。寺の住持之を制止すると更に御言葉は無くて、此寺を出て寺林村の光林寺へ向はせたまふ。北野の君ケ澤と云ふ邊で南の方を指したまへば、見る見る其瑞興寺は燒けた。寺林から不來方(こじかた)の福士が館に入らせられ、津輕一見の御望みあり、急ぎ送り申せと仰せられたのを、福士は物六つかしく思つたか、道をたがへて比爪(ひつめ)の方へ送り參らすと、道祖神(さへのかみ)の傍の大槻木のあるを御覽じて、是は朕が不來方の道である。福士朕を誑かしてあらぬ方へ送る。必ず末よかるまじと仰せられたが、果して子孫に至つて福士の家は衰え且つ亡びた。流された王は恐らくは吉野のみかど、長慶院の御事であらうとある。此書の中には天和年間の事までは書いてある。當時既に津輕浪岡城の舊史は完成して居たか否か、是れ未だ自分の究めざる所であるが、とにかく一方は西海の果にも、御遺跡の參考地が有ると云ふ此大君の御德が、東北邊土の人々の仰ぎ慕ふ所となつたのも相應に古くからであつたことを知るのである。併し單に此類の御通過の物語のみならば、如何樣にも折合の道はある。之に反して確信を切望する地方人士に取つては、第三第四の御墓の發見を傳へ聞いては、さぞ驚きもすれば嘲りもするであらうが、靜かに物を考へると、日本海に面して三韓國王の漂著談があると同じく、中世以後の天子樣で、行方無き旅に御出ましになつたのは、長慶院御一方のみであつたことが、或は終に右の如き紛糾を解くべきものではなかろうか。

[やぶちゃん注:「吾妻昔物語」京都の医師松井道圓著になる、南部藩領内の古民譚・逸事を蒐集したもの。「吾妻むかし物語」と「東昔物語」と題する構成の有意に異なる二系統の本が存在する。松井は画もよくし、元禄(一六八八年~一七〇四年)の初めに南部藩に漫遊、当時の藩主南部重信の一門であった南部直政の命を受けて花巻城内の襖絵を写して名声を挙げたとされる。歴史や地方の伝承を聴き取ることが好きで、文筆にも長じていたことから、南部の異聞をも蒐集、それに兼ねてより諸国を旅した際の他国のそれらも併書、一種、「今昔物語集」の体(てい)を模したものと言われる。但し、一方では、本書は「古咄傳記」(一名「東奥古傳記」)の異名であって、筆者は南部藩士藤根吉品、筆録は元禄一一(一六九八)年九月であるという全くの異説もあるという。(以上は国立国会図書館デジタルコレクションの「南部叢書 第九冊」(昭和三(一九二八)年刊)中の「吾妻むかし物語」の「解題」を画像で視認して纏めた)。孰れにせよ、「江戸時代の初期」の成立であるとか、「僧徒などの手に成つたかと思ふ」という柳田國男の謂いは、全く外れていると言わざるを得ない。ここに示された「流され王」の伝承は同書の巻頭、「上之巻」の「第一 ながされ王の事」で、同コレクションのここから全文二ページに亙って視認出来る

「昔いつの頃か」「南部叢書」版ではここに割注があり『昔永德年中の事にや』とある。永徳は南北朝期に北朝方で使用された年号で、一三八一年から一三八三年まで。

「稗貫郡鳥谷ケ崎」「稗貫郡」(ひえぬきぐん)は現在の岩手県花巻市の一部に当たる旧郡名。「鳥谷ケ崎」は現在の地名にはないが、ここ(グーグル・マップ・データ)に鳥谷ケ崎(とやがさき)神社を現認出来る。現地名は岩手県花巻市城内であるが、次の瑞興寺とは七百五十メートルほどしか離れていないから、この花巻城南西部一帯を古くは「鳥谷ケ崎」と呼んでいたものかも知れない。

「瑞興寺」現在の岩手県花巻市坂本町に現存する。ここ(グーグル・マップ・データ)。曹洞宗。

「元四海の主なり」「もと、四海(しかい)の主(あるじ)なり」もとは天下の王(天皇)である。

「坐す」「います」。自敬語。

「寺林村」稗貫郡に明治初年に存在した村名に中寺林村・北寺林村・南寺林村を認める。次の光林寺の現存位置から中寺林村、後の旧八幡村(はちまんむら)に相当する。

「光林寺」岩手県花巻市石鳥谷町(いしどりやちょう)中寺林に現存する時宗の林長山光林寺。瑞興寺の北九キロメートル強

「北野の君ケ澤」「北野」は原本に一般名詞の北の野原の意である旨の割注がある。「君ケ澤」は不詳であるが、瑞興寺と光林寺の間の何処かである。或いは「」(君子=天皇)はこの伝承から出た異名かも知れない。そういう目で見ると「宮野目」というこの区間にある地名などもそれらしく見えてくる。

「不來方(こじかた)」ウィキの「不来方」(こずかた)によれば、現在の岩手県盛岡市(花巻の北方に位置する)を指す言葉で、『「盛岡」が都市名として使われ始めた時期については諸説あるが、「不来方」は、少なくとも』五百七十年もの間、『存在する由緒ある名であることから、現在、盛岡の雅称として使われることがある』とあり、『南部氏による開府当時、居城名も「不来方城」であり、この時、都市名として「盛岡」という地名は存在しなかった』とある。『伝承によれば、かつてこの地には「羅刹」と呼ばれる鬼がいて、人里を荒らしまわっていた。このことに困っていた里人たちが、三ツ石(盛岡市に現存する「三ツ石神社」)の神に祈願したところ、鬼は神によって捕らえられた。この時、鬼が二度とこの地に来ない証として、岩に手形を残した。これが「岩手郡」、のちに岩手へと連なる地名の由来である。また、「二度と来ない方向」の意味で、一帯に「不来方」の名が付されたと伝えられている』とする。

「福士」福士氏。ウィキの「福士氏」によれば、『鎌倉時代から戦国時代に活動していた氏族。南部氏の家臣であり、三上、安芸、桜庭の三氏と並んで譜代の家柄で、「南部四天王」と称された』。河内源氏二代目棟梁源頼義の三男で、兄に源八幡太郎義家がいる、『新羅三郎義光の四男・実光を祖とする。 室町時代には南部氏に命じられて不来方城(慶善館・淡路館)を置いた』。明徳二(一三九一)年八月、『福士政長は将軍足利義満に不来方を賜り下向し、不来方城初代城主となった。政長は隠居後慶善に改名、これが現在の盛岡城跡の慶善舘の由来になっている。また、東顕寺は福士氏が開基の寺院であると伝えられる』。『南部氏は福士氏を目代として不来方の支配を図った』。『福士氏は九戸』(くのへ)『氏と親戚関係にあり、このため九戸政実の乱』(天正一九(一五九一)年に南部氏一族の有力者であった九戸政実が南部家当主の南部信直及び奥州仕置を行う豊臣政権に対して起こした反乱)『の後は不来方城主の地位を失っている。不来方城は』、『その後』、『改築され』、『盛岡城になっていった。 その後、福士氏は八戸藩士となり』、『八戸の大慈寺の建設に携わっている』とある(下線やぶちゃん)。福士氏は滅亡したわけではないが、「流され王」「必ず末よかるまじ」という予言は的中しているとは言える。

「物六つかしく」「ものむつかしく」。何となく嫌、鬱陶(うっとう)しく。

「比爪(ひつめ)」岩手県紫波郡紫波町には旧城として樋爪館(比爪館)(ひづめだて/ひづめのたち)があったから、その方面であろう。比爪館跡は岩手県紫波郡紫波町南日詰箱清水でここ(グーグル・マップ・データ)。

「大槻木」欅(けやき)の古名。

「是は朕が不來方の道である」これは思うに「二度とは通らぬはずの道」、一度、通った道、則ち、津軽方面ではなく、逆戻りしていることを既に見た大欅で見破り、「誑」(たぶら)「かしてあらぬ方へ送」ろうとしていることを批難した言葉のように見受けられる。

「吉野のみかど、長慶院」南北朝時代の第九十八代天皇で南朝第三代天皇長慶天皇(興国/康永二(一三四三)年~応永元(一三九四)年/在位:正平二三年/応安元(一三六八)年~弘和三/永徳三(一三八三)年)。諱は寛成(ゆたなり)。ウィキの「長慶天皇によれば、『生い立ちは不明な点が多く、親王宣下の後に陸奥太守に任じられたらしいが』、『立太子に関しては確証を得ない』。二十六歳で『摂津の住吉行宮(大阪市住吉区)で践祚し』、『間もなく』、『弟の熙成親王を東宮とし』ている。『南朝は北畠親房らの重鎮を失って弱体化が著しく、天皇の事績に関しても明らかでないことが多い。また、天皇は北朝に対して強硬派の人物であったと考えられ、先代まで何度となく持ち上がった和睦交渉がこの代に入ってから全く途絶したことも、史料の少なさと無関係ではなかろう』とする。『践祚後間もなく』、『和平派の楠木正儀』(まさのり:南朝の有力武将であった楠木正成の三男)『が北朝へ降ったため』、同年(一三六八年)十二月、『吉野(奈良県吉野町)に後退し』、翌年四月には『河内天野の金剛寺(大阪府河内長野市)に移った』が、文中二/応安六(一三七三)年八月、『正儀らの先導で細川氏春・赤松光範の軍から総攻撃を受けて、四条隆俊ら』七十『人余りが討ち取られたため、再び吉野へ還幸することとなった』。翌年の『冬、伯父の宗良親王が信濃から吉野入りし、以後は歌合が盛んに催されている』。天授五/康暦元(一三七九)年九月までには『大和栄山寺(奈良県五條市)に移り、弘和元/永徳元(一三八一)年)十月には『宗良親王の私撰和歌集を准勅撰集』「新葉和歌集」とした。また、同年には「源氏物語」の注釈書「仙源抄」をも『著している』。『譲位の時期は判然としないが、朝要分の免除に関して利生護国寺に下した』弘和三(一三八三)年十月二十七日付の『綸旨が在位を確認できる最後の史料と目され』、『この後』、『程なく弟の東宮(後亀山天皇)に譲位したと考えられている。譲位に至った背景には、弘和二/永徳二(一三八二)年)閏一月に『正儀が南朝に帰参したことを受けて』、『和平派が台頭し、その勢力によって穏健な後亀山を擁立する動きがあったとみられる』。『譲位後』二『年程は院政を敷いていた証拠があり』、元中二/至徳二(一三八五)年九月に『「太上天皇寛成」の名で高野山丹生社に宸筆願文を納め』ているが、翌年四月、『二見越後守宛に下した院宣を最後に史料の上から姿を消している。その後は落飾して金剛理(覚理とも)と号し、禅宗に帰依した模様である』。元中九/明徳三(一三九二)年閏十月に『南北朝合一が成った際にも』、『後亀山天皇に同行して京都に入った形跡は見られない』。「大乗院日記目録」では、応永元(一三九四)年八月一日崩御で享年五十二であった、としている。『晩年の地については、吉野に留まったとする説の他、紀伊玉川里(和歌山県九度山町)とする説、和泉大雄寺塔頭の長慶院(大阪府高石市)とする説』、『あるいは京都に還幸したとみて、天竜寺塔頭の慶寿院(京都市右京区)とする説など諸説がある』。『若年から和歌に優れ、天授元(一三七五)年の「五百番歌合」、同二年の「千首和歌」(三百二十二首が現存)があり、「新葉和歌集」には「御製」として五十三首が『入集している。その歌風は平明で、大覚寺統伝統の二条派に属する』。他に「孟子集註」「雲州往来」「台記」などの研究も行っている。『なお、天皇は譲位後に南朝勢の協力を求めて、各地を潜幸したという伝説があり、全国に御陵伝説地が点在する。南部煎餅の祖とする伝承もある』(下線やぶちゃん。以下同じ)とある。御陵は『京都府京都市右京区嵯峨天竜寺角倉町にある嵯峨東陵(さがのひがしのみささぎ)に治定されている』が、『天皇の晩年の動向を伝える史料がないため、宮内省(当時)が近畿各地の寺社旧家や有力な伝説地などの調査を行った』ものの、『陵墓関係の資料は発見に至らなかった。しかし、皇子などの近親者が晩年は地方を引き上げて入洛していることから、天皇も晩年は入洛したことが推定される。また、別称の慶寿院は皇子の海門承朝(相国寺』三十『世)が止住した天竜寺の塔頭慶寿院に因むものであるから、天皇は晩年を当院で過ごし(当時天皇はその在所によって呼ばれた)、崩後はその供養所であったと思われる。したがって、慶寿院の跡地が天皇にとって最も由緒深い所と考えられ』て『治定された』。『一方、慶寿院は海門承朝が父天皇の崩後にその菩提を弔うために創建したもので、生前の居所ではないとする見解もある』。『その他、長慶天皇の御陵と称する墳墓は全国各地に点在しており、青森県青森市・弘前市、岩手県二戸市、群馬県太田市、山梨県富士吉田市、富山県砺波市、富山県南砺市、奈良県川上村、和歌山県九度山町、鳥取県鳥取市、愛媛県東温市など』、二十『箇所以上に及ぶとも言われている』(このバラエティに富んだ墳墓伝承は、まさに「流され王」に相応しい)。

「天和年間」一六八一年~一六八四年。

「津輕浪岡城」青森県青森市浪岡にあった城。(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「によれば、文中二(一三七三)年に『平安京を模して』、『敷地の四隅に祇園(現・北中野広峰神社)、八幡(現・浪岡八幡宮)、加茂(現・五本松加茂神社)、春日(現在は廃社)の各神社が配置されていた。その後、北畠家の支族である浪岡北畠氏の居城として長禄年間、応仁年間、または文明年間のいずれかに北畠氏』第四『代北畠顕義によって建造された。中で応仁期が有力とされる』。天正六(一五七八)年、『浪岡北畠氏』第九『代北畠顕村の代に』、『大浦為信(後の津軽為信)によって攻められ』、『落城した』とある。]

2018/03/13

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十八年 八カ月ぶりの帰京

 

     八カ月ぶりの帰京

 

 神戸病院に入院中、九月中には帰京するつもりだといっていた居士は、十月になってもまだ松山を去らなかった。松風会の人々との間には、運座の外に連俳なども試みられたらしく、「養痾雑記」の「俳諧連歌」の中に歌仙が一つ採録してある。居士の連句非文学説は「芭蕉雑談」の中にあり、後々までよく引合に出されるが、連句を否定する意味の説でないことは、居士自身にも連句の作品が遺っているのみならず、「俳諧大要」の中に特に「俳語連歌」の項目を設けている一事に見ても自(おのづか)ら明(あきらか)であろう。

 松山滞在中、居士は逆上のために鼻血を出して、一週間ばかり寝たことがある。これは毎日運座で夜を更すからだという話であったが、居士は連座ばかりでなく、時に郊外写生を試むべく石手寺(いしでじ)あたりへ行ったり、村上霽月(せいげつ)氏を訪(と)うて、共に今出の海岸を歩いたりもした。十月十日鳴雪翁宛の手紙には「當地俳士少しは眼あき候へども何分にも速成教授故不完全至極にて殘念に存候。しかし近日法華涅槃を説て出立のつもりに御座候(あるいは恐る今日の説法は華嚴となりて法華涅槃はなほ数年の後にある事を)」とあり、「每日つめかける熱心の連中は祿堂、愛松、三鼠、梅屋、叟柳(そうりゅう)の徒に有之候」ともいっている。禄堂というのが柳原極堂(きょくどう)氏のことである。居士が『日本』に連載した「俳諧大要」は、はじめ「養痾雑記」の一部であったのを、中途から独立の読物にしたのであるが、大体は松風会の人々に説いたところが基礎になっているのであろう。

[やぶちゃん注:「石手寺」愛媛県松山市石手にある真言宗熊野山(くまのさん)虚空蔵院石手寺と号す。(グーグル・マップ・データ)。

「村上霽月」(明治二(一八六九)年~昭和二一(一九四六)年:子規より二歳歳下)実業家で俳人。愛媛県松山生まれ。名は半太郎。一高に学び、後、郷里で銀行頭取・信用組合連合会長などを務めた。正岡子規・内藤鳴雪に師事し、子規の『日本』、柳原極堂の『ホトトギス』に投句、後に古今和漢の漢詩に唱和した「転和吟」を創始し、独自の俳句道を歩んだ(思文閣「美術人名辞典」に拠る)。

「華嚴」仏になるための修行を華に譬え、その華で仏の位を飾る意で、多くの修行・功徳(くどく)を積んで徳果が円満にそなわって行く過程の意、真の仏となる(「法華涅槃」)条件を備えるプレの意で持ちいているようだ。

「祿堂」「柳原極堂」(慶応三(一八六七)年~昭和三二(一九五七)年)は伊予国温泉郡北京町(現在の松山市二番町)生まれの俳人。ウィキの「柳原極堂によれば、本名は正之。明治七(一八七四)年に藩学明教館に入り、大学の素読を受けた。明治一四(一八八一)年に松山中学(現在の愛媛県立松山東高等学校)に入学したが、この時、在学していた同い年の正岡子規と親交を深め、後、明治一六(一八八三)年に正岡と謀って、松山中学を中退、上京、『共立学校(現在の開成中学校)を卒業し』、明治二二(一八八九)年に『松山へ戻り』、『海南新聞社に入社した。 新聞記者の傍ら』、明治二七(一八九四)年には『松風会を結成し、「碌堂」と号する』。翌年、『日清戦争から帰還療養中の正岡を夏目漱石の愚陀仏庵に訪ね』、『松風会員とともに俳句の指導を受けた』。明治二十九年には『正岡に勧められ』、『号を「極堂」に変え』、明治三〇(一八九七)年には、かの月刊俳誌『ほとゝぎす』を創刊した(二十一号以降は『高浜虚子に有償譲渡』)。後に『鶏頭』を創刊した。明治三二(一八九九)年)に『松山市議会議員に当選し、以後』、四『回市議を務め』た。明治三九(一九〇六)年には、『再創刊した伊予日々新聞の社長と』なり、昭和二(一九二七)年の『廃刊まで新聞の発行にも力を注いだ』。『晩年は子規研究およびその顕彰に捧げられ』た。句集に「草雲雀」がある。

「愛松」松山市立高等小学校校長中村一義の俳号。

「三鼠」岡村恒元の号。正岡子規の母八重の弟、子規の叔父に当たる。子規の母方は大原姓であるが、三鼠は親戚岡村家に養嗣子として入ったため、姓が違う。ブログ「伊予歴史文化探訪」の三鼠の句に拠った。

「梅屋」「ばいおく」と読む。大島嘉泰(明治二(一八六九)年~?)松山市生まれ。松山高等小学校教員。夏目漱石の下宿先であった愚陀仏庵の南隣りが彼の家であった。ネットの複数の記載を参照にした。

「叟柳」松山高等小学校教員野間門三郎(元治元(一八六四)年~昭和七(一九三二)年)。以下は愛媛句碑り」に拠った。松山藩士の家に生まれた。三歳年下の子規とは家も近く、末広学校・勝山学校と同窓で、竹馬の友であった。明治一四(一八八一)年、『愛媛師範学校入学』、明治十七年からは『教員生活に入』った。『父が奥平鶯居門の宗匠で「一雲」と号す人であったため、早くから発句に親しむ。やがて』、『下村為山に師事。松山高等小学校在職中の明治』二七(一八九四)『年、同校校長であった中村愛松・伴狸伴・叟柳の』三『人が発起・主唱者となって開いた句会が“松風会”の発端である。以来、同校教員を中心として、週』一『回の句会を重ね』た。翌年(本文の、この時)、『日清戦争従軍記者となった正岡子規の歓送会を機に、この松風会と子規の交流が始まる』。『子規が帰国後、夏目漱石の下宿愚蛇仏庵で療養生活を送った』五十二『日間は、松風会の無上の勉強の場となった。やがて帰郷する子規の送別会の席上、叟柳は』、「行く秋を君歸りけり歸けり」『と詠んだ』『松山第三小学校』『校長・第一小学校校長を経て、晩年は松山市の私学第一課長の職にあったこの人の、松風会への思いは並々ならぬものがあり、晩年に及んでもその重鎮として地方俳壇に尽くした功績は大きい』とある。]

 

 十月十九日、居士は魅山を出発して帰京の途についた。広嶋から須磨まで来たところ、左の腰骨が痛んで歩行困難に陥り、やや癒ゆるのを待って大阪、奈良などに遊んだ。有名な

 

   法隆寺の茶店に憩ひて

 柹くへば鐘が鳴るなり法隆寺

 

の句はこの際のものである。居士は奈良に三日ほど滞在して多くの句を得、かつ奈良と柿という新しい配合を発見して非常に興味を感じた。奈良の宿屋では錦手(にしきで)の大丼に盛った御所柿を食いながら、寂しい月夜に鳴る東大寺の初夜の鐘を聞いた。

[やぶちゃん注:「錦手」赤・緑・黄・青・紫などで上絵(うわえ)をつけた陶磁器。「五彩」「色絵」「赤絵」などとほぼ同義で、古伊万里などで多く用いられる呼称である。]

 

 居士が東京へ帰ったのは十月三十日である。神戸病院を出て直ぐ購ったというヘルメット帽を被った居士は、新橋駅に鳴雪、碧梧桐、虚子の諸氏の出迎を受けたが、腰痛はなお去らず、顔色もよくないようであった。八カ月ぶりで根岸の草蘆(そうろ)に入った感懐は次の詩がほぼこれを尽している。

 

  從軍得病稍癒而歸京

 從軍期死別

 寧計得餘生

 收淚兒侍母

 擎杯妹慶兄

 夜山當牖黑

 白菊映燈明

 三徑就寥落

 猶能不世情

   從軍して病を得、稍(やや)癒えて京に歸る

  從軍して死別を期(き)し

  寧(あ)に計(はか)らんや 餘生を得

  淚を收め 兒(こ)は母に侍(じ)し

  杯を舉擎(ささ)げて 妹は兄を慶(いは)ふ

  夜の山は牖(まど)に當りて黑く

  白き菊は燈明に映(は)ゆ

  三徑 寥落(れうらく)に就いて

  猶ほ能く世情ならざるがごとし

[やぶちゃん注:「三徑」庭の小道。

「寥落」荒れ果てて凄まじいこと。荒廃すること。

「猶ほ能く世情ならざるがごとし」蜂屋邦夫氏の訓読は『猶ほ能く世情ならず』と訓じておられるが、私はこれでは意味が採れない。私はかく訓じて、「荒れ果てて、しかもなお、私の身の回りの自然は世情のように薄情ではないようだ」の意で採る。以下の後の「小園の記」の感懐でも述べている通り、これは陶淵明の「歸去來辭」のインスパイアだからである。]

 

 後に「小園の記」の中で「一年軍に從ひて金州に渡りしが、その歸途病を得て須磨に故郷に思はぬ日を費し、半年を經て家に歸り著きし時は秋まさに暮れんとする頃なり。庭の面(おもて)去年(こぞ)よりは遙にさびまさりて白菊の一もと二もとねぢくれて咲き亂れたる、この景に對して靜かにきのふを思へば萬感そゞろに胸に塞(ふさ)がり、からき命を助かりて歸りし身の衰へはたゞこのうれしさに勝たれて思はず三逕就荒(さんけいしゆうこう)と口ずさむも淚がちなり。ありふれたるこの花、狹くるしきこの庭がかくまで人を感ぜしめんとはかつて思ひよらざりき」と記したのも、この詩に詠じたところを更に委しく述べたものである。「三逕就荒。聽菊猶存。(三遷荒に就いて、松菊猶ほ存せり)」という「帰去来辞」の句を、この時ほど身にしみて感じたことはかつてなかったのであろう。

 帰京後の居士は臥褥(がじょく)がちではあったけれども、筆硯(ひっけん)を廃するほどではなかった。『日本』には依然「俳諧大要」を掲げ、帰京の挨拶を兼ねた手紙を各方面に送っている。その手紙は短いものが多く、須磨時代のような悠々たる趣を見出しがたいのは、健康の加減もあるに相違ないが、帰来匇忙(そうぼう)、気分が落着かなかったためであろうと思う。

[やぶちゃん注:「帰来匇忙」孵り来るや否や俄かに忙しくなることの漢文表現。]

栗本丹洲 魚譜 ワクヱイ (ヒメイトマキエイかイトマキエイの小型個体)

 

Wakuei

 

[やぶちゃん注:図版は国立国会図書館デジタルコレクションの「魚譜」からトリミングした。これも可愛らしい。これが先行ケヱの「此の魚、別に全圖を藏す」の注で紹介した図である。]

 

□翻刻

ワクヱイ

 越中方言

 

[やぶちゃん注:これは先行ケヱでの順序を逆転させて、軟骨魚綱板鰓亜綱トビエイ目トビエイ科イトマキエイ属ヒメイトマキエイ Mobula thurstoni を先に挙げ、よく似た近縁種のイトマキエイ Mobula japonica の若年個体或いは小振りな個体か、としておきたい。

・「ワクヱイ」の「わく」は「籰・篗」であろう。これは「枠(わく)」と同源で、紡いだ糸を巻き取る道具を指す。方言ではない。二本又は四本の木を対にして横木で支え、中央に軸を設けて回転するようにしたもの。苧環(おだまき)のこと。二本(対)の突き出たそれは、イトマキエイ類の頭鰭(とうひ)に確かに似ている。歌舞伎役者市川猿三郎氏が御自身のブログ「二輪草紙」の記事「おき」にアップされておられる、小道具の実物の環」をご覧あれ。]

御伽百物語卷之二 龜嶋七郞が奇病

 

   龜嶋(かめしま)七郞が奇病

Kamesimakibyou[やぶちゃん注:挿絵は「叢書江戸文庫二 百物語怪談集成」のものを用いた。]

 泉州境の津(つ)に名高き大寺(おほでら)は、徃昔(そのかみ)、聖武帝(せいむてい)の勅によりて佛寺となり、大念佛寺(だいねんぶつじ)と號す。

[やぶちゃん注:「大念佛寺」住吉神社の別当寺であったと思われるが、明治の神仏分離で廃寺となり、存在しない。現在の大阪府堺市堺区甲斐町(ここ(グーグル・マップ・データ))にある古い神社である開口(あぐち)神社後に出る「開口(あくち)村」という村名と表記一致がその跡地の一部で、現在、この神社は実際、通称「大寺(おおてら)」と呼ばれている。「もとは住吉の別宮」とある通り、住吉神社はここから北北東に四キロメートルしか離れていないので、腑に落ちる。だから、後の本文で「南の莊(しやう)」とあるのである。また、ウィキの「開口神社」の記載も、住吉との因縁や以下の叙述を分かり易く説明している形になっているので引用する(下線やぶちゃん)。この開口神社は『塩土老翁神(しおつちのおじのかみ)、素盞嗚神(すさのおのかみ)、生国魂神(いくくにたまのかみ)を祀る。塩土老翁神は住吉大社の住吉三神を一つにして神徳を現した神とされ、「住吉の奥の院」と呼ばれる』。『社伝には、神功皇后の三韓征伐の帰途、この地に塩土老翁神を祀るべしとの勅願により創建されたと伝える』。『延喜式神名帳に和泉国大鳥郡』二十四『座のうちの一社として記載されていて、この延喜式神名帳では「開口」を「アキクチ」と読ませている。この「アキクチ」が訛って「アグチ」となって現在に至る。摂津の住吉神社と古くから関係が深く』、天平三(七三一)年の『記録では「開口水門姫(あきぐちみなとひめ)神社」と書かれている』。承平二(九三二)年には『神階が正五位上まで昇った。古代から中世にかけて、当社付近は開口村と呼ばれていた』。天永四(一一一三)年、『原村の素盞嗚命、木戸村の生国魂命を合祀し、「開口三村大明神」と呼ばれ、崇敬されるようになった』十二世紀になって『境内に念仏寺が創建され、両者とも津守氏』(つもりうじ:住吉大社の歴代宮司の一族で、古代以来の系譜を持つ)『の支配下にあったが、堺が商業港として発展し、商人勢力が台頭してくると、商人たちの自治に支えられるようになった。南北朝内乱時代の』康応元/元中六(一三八九)年に『豪商野遠屋周阿弥が田地を寄付して以来、田地の寄進が相次いだ』。天文四(一五三五)年には『念仏寺の築地修理料として堺南荘の豪商』百十『余名が一人当て一貫文ずつの銭を寄進しているが、このなかには茶人の』『千利休(「せん与四郎」名義)、奈良春日神社の石灯籠にも名を残す魚屋弥次郎といった有名人の名も記されている。これら豪商から選ばれた』十『数人が納屋衆、会合衆となって堺の自治組織の運営に当たり、開口神社の祭礼で重職を勤めたのであ』あった。さて、ずっと後の太平洋戦争中のこと、昭和二〇(一九四五)年七月十日未明の堺大空襲により、本殿と、ここまで大念仏寺の縁(よすが)として残っていた寛文三(一六六三)年建立の三重塔を含め、悉く焼失しでしまった。が、『貴重な記録類は被害を免れた』。『南側には宿院があり、住吉大祭の神輿の旅所となっている』。『通称の「大寺」は』、『かつて存在した神宮寺の念仏寺(真言宗)に由来し』、神仏習合の本地垂迹『思想に依っている』。念仏寺開山は行基で天平一六(七四四)年、山号を密乗山と称した。『平安期には空海や空也とゆかりがあり、密教や浄土教の道場にもなって活況を呈したことから、大寺の通称が定着するに至った』とある。また、写真家堀野満夫氏のブログ「カメラとビデオを棒にくっつけて」の「初詣:開口神社の歴史は堺の歴史なんですね(堺市2014年1月3日)」によれば、『奈良時代中期に仏教が盛んになると、当時ご在位していた聖武天皇が行基上人に勅して、この地(三村大明神)に道場を建立し、蜜乗山大念仏寺(俗呼んで大寺)と号した』とあり、『創建当時は、金堂、三重宝塔(本尊大日如来・聖徳太子御作の四天王)、鐘楼、食堂(じきどう)、などのある堂々たるもので、その後も長い歴史をもつお寺として信仰を集めていた』という。『ところが、戦国時代の大阪の陣で全焼してしま』ったが、『その後』、『江戸時代の四代将軍の家綱の治世』の明暦元(一六五五)年、『社殿を復興』、寛文二(一六六二)年に『三重塔が竣工され、多聞院、五大院、遍照院、虚空蔵院、明王院、宝生院などの諸院が存在してい』た。『江戸後期になると、大寺と三村明神は一体であり、三村明神を含めて大寺であったことがわかる絵図が存在』するとある。『明治時代になると、維新の神仏分離によって、蜜乗山大念仏寺(俗呼んで大寺)は廃寺とな』ったが、三重塔は『破壊を免れ、健在で』あったが、以上に記されたように、太平洋戦争中末期の空襲で焼失してしまったとある。さらに、私の「新編鎌倉志卷之一」でお世話になったs_minaga
氏の「がらくた置場」の「和泉大寺(念仏寺・大念仏寺・開口大明神・三村大明神)三重塔」に同寺の沿革(廃仏毀釈の惨状に至る部分も含む)が非常に細かく記載されてあり、必見であるが、そこには堀野氏の言う同寺の盛んだった江戸期の絵図(「住吉名勝圖會」巻之五。『聖武天皇代、行基上人に勅して、この地(三村大明神)に道場を建立したまひ、蜜乗山大念仏寺と号す。俗呼んで大寺と称す。金堂、三重宝塔(本尊大日如来・聖徳太子御作の四天王)、鐘楼、食堂』、『薬師堂衆徒』六坊云々の引用有り)もある。こちら。是非、一見されたい。第四五代天皇聖武天皇(大宝元(七〇一)年~天平勝宝八(七五六)年)の在位は神亀元(七二四)年~天平勝宝元(七四九)年である。]

 もとは住吉の別宮(べつぐう)にして、南の莊(しやう)におゐては木戸村・原村・開口村(あくちむら)、この三ケ村の氏神なるが故、三村大明神(みむらだいみやうじん)と號し、鹽筒(しほつつ)の翁を勸請の地なり。

[やぶちゃん注:「鹽筒(しほつつ)の翁」ウィキの「シオツチノオジ」によれば(一部の記号を変更した)、『シオツチノオジ(シホツチノヲヂ)は、日本神話に登場する神であり塩竈明神とも言う。「古事記」では塩椎神(しおつちのかみ)、「日本書紀」では塩土老翁・塩筒老翁、「先代旧事本紀」では塩土老翁と表記する。別名、事勝国勝長狭神(ことかつくにかつながさ)』。『名前の「シホツチ」は「潮つ霊」「潮つ路」であり、潮流を司る神、航海の神と解釈する説もある。「記紀」神話におけるシオツチノオジは、登場人物に情報を提供し、とるべき行動を示すという重要な役割を持っている。海辺に現れた神が知恵を授けるという説話には、ギリシア神話などに登場する「海の老人」との類似が見られる。また、シオツチノオジは製塩の神としても信仰されている。シオツチノオジを祀る神社の総本宮である鹽竈神社(宮城県塩竈市)の社伝では、武甕槌神と経津主神は、塩土老翁の先導で諸国を平定した後に塩竈にやってきたとする。武甕槌神と経津主神はすぐに去って行くが塩土老翁はこの地にとどまり、人々に漁業や製塩法を教えたという。白鬚神社の祭神とされていることもある』。『「日本書紀」の天孫降臨の説話において、日向の高千穂の峰に天降ったニニギが笠狭崎に至った時に事勝国勝長狭神が登場し、ニニギに自分の国を奉っている。一書では、事勝因勝長狭神の別名が塩土老翁で、イザナギの子であるとしている』。『海幸山幸の説話においては、ホデリ(海幸彦)の釣針を失くして悲嘆にくれるホオリ(山幸彦)の前に現れる。ホオリから事情を聞くと小舟(または目の詰まった竹籠)を出してホオリを乗せ、そのまま進めば良い潮路に乗って海神の宮に着くから、宮の前の木の上で待っていれば、あとは海神が良いようにしてくれると告げる』。『「日本書紀」本文の神武東征の記述では、塩筒老翁が東に良い土地があると言ったことから』、『神武天皇は東征を決意したとある』とある。]

 此寺の住僧たりし人を契宗(けいしう)とぞいひける。此法師はもと龜嶋の住人にて親族、なを、此所にありしが、ある時、此僧の兄七郞といひし人、かりそめに、

「風(かぜ)の心地。」

とて、うちふしけるが、傷寒(しやうかん)・鬼崇(きさう)のたぐひともしれず、只、發熱・煩燥(はんさう)して譫言(たはごと)つき、ひとへに狂氣の性(しやう)となりける故、彼(か)の契宗をよびむかへて、持念護持せしむ。

[やぶちゃん注:「契宗(けいしう)」不詳。

「龜嶋」恐らくは堺近辺の旧村名らしいが、不詳。識者の御教授を乞う

「傷寒(しやうかん)」漢方では、広義には、体外の環境変化によって経絡が侵された状態を、狭義には現在の腸チフスの類を指す、とされる。

「鬼崇(きさう)」妖異を記した諸書では「もののたたり」「おにのたたり」と訓じているものがある。しかし「崇」であって、「祟」ではない。或いは原著者の誤記かとも思われる。広義の物の怪の憑き物を指す語のようである。

「煩燥(はんさう)」いらいらして凝っとしていられない状態を指す。

「譫言(たはごと)」前の諸症状から見るなら、高熱による激しい「譫言」(うわごと)ともとれるが、直後に「ひとへに狂氣の性(しやう)となりける」とあるから、これはわけの分からない囈言(たわごと)を叫んでは騒ぎ立てているという意味でとるべきであろう。]

 契宗、兄にむかつて香を燒(た)き、印をむすびなどして、眞言陀羅尼を誦(じゆ)し、理趣分(りしゆぶん)を繰(くり)かけなどし、事々(ことごと)しくつとめけるに、彼(か)の兄、

「からから。」

と笑ひ、大(だい)の眼(まなこ)に、角(つの)をたて、

「汝は、是れ、三村の堂僧の身として、いらざる己(おの)が加持(かぢ)たて。早々、寺に歸り、勤(つとむ)べき寺務(じむ)をつとめよ。何ぞや、猥(みだ)りに神咒(しんじゆ)たてを行なひ、後(のち)に我をばし恨(うらむ)るな。吾がつねに住(すむ)所は小林寺(しやうりんじ)邊(へん)にあり。一年(ひととせ)、北の庄(せう)、祖父(おほぢ)が上(うへ)にあそびて、地藏の首をきらせたるも、我(われ)なり。あるひは目口町(めくちまち)にありける比(ころ)は鼠樓栗新左衞門(そろりしんざゑもん)に本走(ほんさう)せられ、其(その)恩を見たる事、あげてかぞへがたし。此ゆへに、鼠樓栗を引きたてゝ太閤秀吉の御(おん)まへに出だし、鞘細工(さやざいく)の名譽と辯口(べんかう)の利たるを御意(ぎよい)にいれ、一生、活計(かつけい)にくらさせしも、我がちから也。それのみならず、狂言師にて名高かりける今春座(こんぱるざ)大藏彌太郞(おほくらやたらう)といひしは、伊賀の國靑野(あをの)の城主嶋岡彈正(しまおかだんじやう)が一子(いつし)にて、北畠殿(きたばたけどの)の旗本なりけるが、此家、沒落已後、大倉かたへ養(やしなひ)ひとり、四郞次郞が子とす。此(この)彌太郞、宇治に居住(きよぢう)しける比(ころ)、不圖(ふと)、我を見初(みそ)め、信をおこしけるより、彼(かれ)が家の祕事とする「釣狐(つりぎつね)」・「こんくわい」の狂言に妙を得させ、大倉派にて宇治の彌太郞といはせしも、我(われ)なるぞかし。今、汝が家(いへ)、宿善の催す所にして繁昌にむかふがゆへに、此(この)富貴(ふつき)を愛して、吾(われ)、しばらく、足をとゞむるぞ。よくつとめて、吾を信ぜば、いよいよ大きなる富貴(ふうき[やぶちゃん注:読みの違いはママ。])を得べし。あしくもてなさば、却(かへつ)て、われ、大きなる妨げを、なさんずるぞ。」

と、罵りけるにつきて、契宗も、

「扨は。年經(としへ)たる狐歟(か)、古狸(ふるたぬき)の所爲(しよい)ぞ。」

と知り、桃符(たうふ)を造り、桃の枝を禁(きん)じて、口には神咒(しんじゆ)を唱へ、しきりに擊ちければ、病人は、いよいよ嘲笑(あざわら)ひて、いふやう、

「汝、兄を打つ事、道に違(たが)へり。神明(しんめい)、まさに汝を罪におとさんとし給ふ。たとひ、力を加ふとも、止(とゞま)る事、あるべからず。見よ見よ。」

といはれ、空(そら)おそろしくなりて、そろそろと、尻ごみの體(てい)に見えける時、病者は勝(かつ)に乘じ、俄(にはか)に立ちあがり、其母の手をとりて引き立(たつ)ると見えしが、忽ち、中惡(ちうあく)の性(しやう)を病み出だし、卒(にはか)に倒れ、氣をとりうしなひ、散々に煩(わづら)ひける中(うち)に、又、妻の手を取りて援(ひ)くとぞ見えし、卒(にはか)に、その妻、頓死して失せぬ。又、はしりかゝりて、猶、その弟をひかんとす。弟媛(おとうとよめ)、あはてゝ取りさゆるとて、目を見あはせしが、眼つぶれて、物を見る事、あたはず。

[やぶちゃん注:「眞言陀羅尼」密教の、短い呪文を「真言」と称し、長い呪文の方を「陀羅尼」と呼ぶ。梵語(サンスクリット語)そのままに音写したもの。

「理趣分(りしゆぶん)」理趣分は「大般若経」六百巻の中でも、読誦の功徳を強調した「般若波羅蜜多理趣百五十頌(はんにゃはらみったりしゅひゃくごじゅうじゅ)」のことで、真言密教では毎日の読誦として重用される経典である。通常の「大般若経」全体は厖大なので、所謂、「転読」(衆僧が大勢でバラバラとめくって読んだことにする方式)するのであるが、この「理趣経」日常の勤行でも真読される程度の分量のものであり、「繰(くり)かけなどし」(「繰り懸く」は「繰り返してかける・何度もかける」の意)という謂いから、何度も繰り返し読誦したことを意味していると読む。

「事々(ことごと)しく」大袈裟に・ものものしく・仰々しく・威厳や威力を感じさせるように、の意。

「神咒(しんじゆ)たて」「だて」と濁ってもよかろう。これで一語の名詞である。「神咒」は摩訶不思議な呪文の意であり、この場合は陀羅尼を指し、それを声高らかに荘重に権威を持って「立て」ること、朗誦することを指す。

「我をばし恨(うらむ)るな」「ばし」は中世に発生した副助詞。係助詞「は」+副助詞「し」が「ばし」と変化して一語となったもので、会話文に多い。体言・格助詞「に」「を」「と」・接続助詞「て」に付いて強調を表わす。

「少林寺」現在の大阪府堺市堺区少林寺町東にある臨済宗萬年山少林寺。ウィキの「少林寺」によれば、南北朝の弘和元/永徳元(一三八一)年に『塔頭耕雲庵の住持白蔵主が、鎮守稲荷明神に參籠して「霊狐」を得る。そして狂言大蔵流の始祖・霊狐の所作を狂言に作り』「釣狐」(後注参照)として上演し、『それ以後、狂言や歌舞伎関係者は』「釣狐」を『上演する際は少林寺に參詣し、技芸の上達上演の成功を祈願』し、『寺内の逆芽竹を』一『本』、『祈祷してもらった上で持ち帰り、上演の時の杖に使用する慣習になっている』とある。

「北の庄(せう)」不詳。これを漠然とした少林寺の北の方の地とすれば、そこにはこの物の怪の「祖父(おほぢ)」が住んでいるというのだから、後で物の怪があたかも妖狐(事実そうかどうかは私は微妙に留保したい。それは後で考証する)であるかのように語り出すところから、これは堺の北に当たる「伏見稲荷大社」であるように読める。さらに、そこで「地藏の首」が斬られてあった(私は不詳。但し、鎌倉の「百八やぐら」にある地蔵像は首を掻き斬られたものが多い。これは江戸時代、地蔵の首を懐に忍ばせて賭場に行くと大勝ちできるというジンクスがあったためであるから、地蔵首切事件は私には少しも猟奇的事件ではないと言っておく)ということが、少なくとも、京阪の読者には「ああ! 伏見稲荷や!」とか「あの事件やろ!」と思わせるものであったことが窺われることが推理出来る

「目口町(めくちまち)」不詳。識者の御教授を乞う。

「鼠樓栗新左衞門(そろりしんざゑもん)」和泉生まれとされる安土・桃山時代の諧謔家「曾呂利新左衞門」(?~慶長八(一六〇三)年?)の妖しいモデルを誤魔化すための表記のズラし。実在は疑われている。伝承では堺で刀の鞘師を生業(なりわい)としていたとされ、彼の作った鞘は、刀を小口に差入れると、抵抗なくそのまま「そろり」っと入ったことから、この名を称したという。のこと。豊臣秀吉に御伽衆として仕えたとされ、落語家の始祖ともされる。ウィキの「曽呂利新左衛門によれば、『架空の人物と言う説や、実在したが』、『逸話は後世の創作という説がある。また、茶人で落語家の祖とされる安楽庵策伝と同一人物とも言われる』。『茶道を武野紹鴎に学び、香道や和歌にも通じていたという』。「時慶卿記」には『曽呂利が豊臣秀次の茶会に出席した記述がみられるなど』「雨窓閑話」「半日閑話」等の江戸期の随筆には実在したように記録が載る。『本名は杉森彦右衛門で、坂内宗拾と名乗ったともいう』。『大阪府堺市堺区市之町東には新左衛門の屋敷跡の碑が建てられており、堺市内の長栄山妙法寺には墓がある。没年は』他に慶長二(一五九七)年・寛永一九(一六四二)年とする説がある。彼に仮託した「曾呂利物語」(寛文三(一六六三)年開板で、近世初期の怪談集の代表的な一冊として、当時からよく読まれた。謂わば、筆者鷺水にしてみれば、先行する怪談集の大先生というわけで、ここにかく登場させたのも、そうした受けを確信犯で狙ったものと考えられる。

「本走(ほんさう)せられ」「奔走」であるが、ここでは「大切にすること・かわいがること」の意で、曽呂利がたいそう私を可愛がって大事に世話してくれた、というのである。彼の御伽話のネタを提供したり、或いは、彼がデッチアゲた法螺話を立証するような仕儀を、その妖術を用いて、会衆にして見せたりしたものかも知れない。面白い関係性である

「其(その)恩を見たる事」曽呂利から恩を受けたこと。

「御意(ぎよい)にいれ」太閤さまの気に入らせ。

「活計(かつけい)」裕福。

「今春座(こんぱるざ)大藏彌太郞(おほくらやたらう)」狂言の流派の一つである大蔵流(現在、猿楽の本流である大和猿楽系の狂言を伝える唯一の流派とされる)。ウィキの「大蔵流」によれば、『代々』、『金春座で狂言を務めた大蔵彌右衛門家が室町後期に創流した。江戸時代には鷺流とともに幕府御用を務めたが、狂言方としての序列は』二『位と、鷺流の後塵を拝した。宗家は大蔵彌右衛門家。分家に大蔵八右衛門家(分家筆頭。幕府序列』三『位)、大蔵彌太夫家、大蔵彌惣右衛門家があった。大蔵長太夫家や京都の茂山千五郎家、茂山忠三郎家をはじめとして弟子家も多く、観世座以外の諸座の狂言のほとんどは大蔵流が務めていた』とある。「大蔵彌右衛門家」の項。『家伝によれば、大蔵流は』十四『世紀に後醍醐天皇の侍講を務めていた比叡山の学僧・玄恵法印を流祖とする。玄恵は戦争の打ち続く不安定な時代において、立派な人格の養成と人としての生きる道を説くために狂言を創始したという。その狂言は坂本在住で近江猿楽の猿楽師であった二世・日吉彌兵衛に伝えられ、三世・彌太郎、四世・彌次兵衛、五世・彌右衛門と受け継がれた』。『六世・彌太郎の代には大和猿楽金春座に属し、七世・彌右衛門の後に世阿彌の外孫にあたる八世・金春四郎次郎が芸系を受け継いだ。四郎次郎の死後、吉野猿楽出身の日吉万五郎が一時家を継いだが、最終的には養子の宇治彌太郎が』九『世を継ぎ、十世・彌右衛門の代に「大蔵」と姓を改めた。十一世・彌右衛門は織田信長より虎の字を拝領し虎政と名乗り、その子』十二『世・彌右衛門は虎清と名乗り』、『豊臣秀吉・徳川家康に仕えた。十三世・彌右衛門虎明(とらあきら)は』、万治三(一六六〇)年、『大蔵流最古の狂言伝書』「わらんべ草」を著わし、元禄七(一六九四)年になると、『五代将軍徳川綱吉の上意により』、『江戸屋敷を拝領し、それまでの奈良住まいから江戸住まいとなった』とある。本「御伽百物語」は宝永三(一七〇六)年に江戸で開版であるから、この頃、大蔵流はこの世の春を謳歌しており、読者もよく知った狂言一派であった。鷺水の人物の使い方の上手さが判る。『その後も二十二世・彌太郎虎年まで代々幕府の俸禄を受け、最古の伝統を持つ大蔵流の宗家として狂言を着々と守り続け』たとある。明治維新後の苦難の道のりはリンク先で読まれたい。

「伊賀の國靑野(あをの)の城主嶋岡彈正(しまおかだんじやう)」不詳。伊賀上野城なら知っているが、「城主」に「嶋岡」はいない。識者の御教授を乞う。これも物の怪の語りであるから、表現(表記)に特異なズラシがある(物の怪が人間の言葉とは異なる言語を用い、表記もわざと変えることは、この手の物の怪譚・妖狐譚では非常によく見られる現象である)のかも知れぬが、私は近世史に疎く、不詳である。

「北畠殿(きたばたけどの)」村上源氏中院家庶流の公家で、南北朝時代の南朝の忠臣として重きをなし、伊勢国に進出して南北朝合一後も国司として勢力を保ち、公家大名・戦国大名として戦国時代まで命脈を保った北畠氏で、関係性とロケーション(伊賀)としては腑に落ちる。

「釣狐(つりぎつね)」狂言の妖狐物の演目。「こんくわい」は「吼噦(こんかい)」で「釣狐」の鷺流で名称(「吼噦」とは狐の鳴き声を表すオノマトペイア。「こんこん」。転じて狐のことをも指す)。ウィキの「釣狐」より引く。『大蔵流では極重習、和泉流では大習と重んじられている』。『「猿に始まり、狐に終わる」という言葉があり、これは』「靭猿(うつぼざる)」の『猿役で初舞台を踏んだ狂言師が』、「釣狐」の『狐役を演じて初めて』、『一人前として認められるという意味である』『白蔵主』(はくそうず:前の「少林寺」の注を参照)『の伝説を元に作られたとされて』いる。シテは「老狐」で、アドは「猟師」である。「あらすじ」の項。『猟師に一族を』、皆、『釣り取られた老狐が、猟師の伯父の白蔵主という僧に化けて猟師のもとへ行く。白蔵主は妖狐玉藻の前の伝説を用いて狐の祟りの恐ろしさを説き、猟師に狐釣りをやめさせる。その帰路、猟師が捨てた狐釣りの罠の餌である鼠の油揚げを見つけ、遂にその誘惑に負けてしまい、化け衣装を脱ぎ』、『身軽になって出直そうとする。それに気付いた猟師は』、『罠を仕掛けて待ち受ける。本性を現して戻って来た狐が罠にかかるが、最後はなんとか罠を外して逃げていく』というストーリーである。

「大倉派にて宇治の彌太郞」大蔵流第九代に宇治彌太郎政信なる人物が実在する。時制がずっと溯るけれども、それはそれ、物の怪は驚くべき長命だからね。

「桃符(たうふ)」中国で陰暦の元旦に門に掲げる魔除けの札。神仙の果樹である桃の木の板に、百鬼を食べるとされる二神の像や吉祥の文字を書いたもの。

「桃の枝を禁(きん)じて」前注でも判る通り、古くから桃は邪気を払うと信じられた聖樹であり、ここはその枝で作って呪噤(じゅごん)を掛けて神聖化した枝である。それを持って物の怪の憑いた兄を「しきりに擊」ったのである。

「そろそろと」「尻ごみ」、後じさりする様子。これは調伏者としては、非常にマズい。

「勝(かつ)に乘じ」勝に乗じて。兄の内部の憑き物が「勝った!」と勢い込んで。

「中惡(ちうあく)の性(しやう)」中風(ちゅうふう/ちゅうぶう)の症状を呈したのであろう。一般には脳卒中の発作の後遺症で主に半身不随となる状態を指すが、ここは激しい痙攣や震えを指していよう。

「妻」病者の兄の連れ合いである妻。

「頓死して失せぬ」失神して意識を失ってしまった。

「その弟」病者の兄の弟であるが、ここは。契宗の次兄か。

「取りさゆるとて」兄を取り押さえようとして。

「目を見あはせしが」兄とである。]

 日を經て、何(いづ)れも元のごとくに平癒して、常に、かはる所、なし。

 又、契宗にむかひて、いふやう、

「吾が此(この)神變(しんぺん)あるを見ながら、汝、なを、寺に歸らず。よしよし。今は我が眷屬共(ども)を呼びよせて、汝が加持の妨げをなさんずるぞ。」

とて、ひたと、招くやうにしければ、常の鼠より大きなる鼠ども、幾等ともなく、かけ出でて、馳せめぐる音、おびたゞし。人、杖を以(もつ)て追へども、恐れず。夜一夜(よひとよ)、さはがしく驅けありき、夜明けて見るに、さらに一疋も見えず。

[やぶちゃん注:「ひたと」頻りに。無暗に。そこらじゅうに向かって一途に。]

 契宗も隨分と加持しけれども、大かた、此比(このごろ)は、心疲れ、氣力倦(う)みて、おそろしさも、いや、まさり、吾も、終には此ものにとられつべう、おぼへけるまゝに、

『よしや、兄を殺す罪は、さもあらば、あれ。今は我が命さへあやうきなれば、鬼魅(きみ)や退(しりぞ)く、吾や、とらるゝ。』

と、むねを定めて、身命(しんめう)をおしまずし、不動の慈救咒(じくじゆ)・大悲咒(だいひじゆ)、くりかけ、くりかけ、九字を切りなどして、油斷もなく祈りければ、病者、又、いふやう、

「いらぬ精氣を盡し、手足をもがき、事々しく祈りまはれども、吾は曾て恐るゝ氣、なし。我、その證據に大兄(おほあに)を呼び寄せ、二、三日も遊ばしめんと思ふ也。」

と、大きなる聲を出だし、

「寒月、寒月。」

と三聲(こへ)、呼びければ、病人の裾より、狸の大きさなる獸の、毛色は火の如く赤きが、眼(まなこ)の光(ひかり)、日月(じつげつ)のごとくにて、這ひ出でたり。

[やぶちゃん注:「むねを定めて」「胸を定めて」胸中に覚悟を決めて。

「不動の慈救咒(じくじゆ)・大悲咒(だいひじゆ)」「慈救咒」は「中咒」とも呼ばれる不動明王の真言の一つで、中間の長さのもの。ウィキの「不道明王」から引く。「ノウマク サンマンダ バサラダン センダンマカロシャダヤ ソハタヤ ウンタラタ カンマン」。「大悲咒」は不動明王の長い真言である「大咒(たいしゅ)」或いは「火界咒(かかいしゅ)」と呼ばれる真言であろう。「ノウマク サラバタタギャテイビャク サラバボッケイビャク サラバタタラタ センダマカロシャダ ケンギャキギャキ サラバビギナン ウンタラタ カンマン」。一般に知られ、「不動真言」と呼ばれる短いものは「小咒」「一字咒(いちじしゅ)」で、「ノウマク サンマンダ バザラダン カン」である。孰れも意味は「激しい大いなる怒りの相(すがた)を示される不動明王よ! 迷いを打ち砕き給え! 障りを除き給え! 所願を成就せしめたまえ! カンマン!」の謂いらしい(「カンマン」は不動明王を象徴する一音節の呪文(「種子(しゅじ)」と呼ぶ))。図でも、契宗が壇を構えて祀っているのは不動明王の尊像である。因みに、私の守護尊は生年月日からは不動明王だそうである。

「九字」九字護身法(くじごしんぼう)。「臨・兵・鬪・者・皆・陣・烈・在・前」の九字の呪文と九種類の印によって、除災・戦勝などを祈る作法。但し、本来は仏教(特に密教)で正当に伝えられた作法ではなく、道教の「六甲秘呪」という九字の呪法が修験道などに混入・集合し、そ例外の周辺的なさまざまな呪法が混在して生じた日本独自の作法である(ここはウィキの「九字護身法」を参照した)。

を切りなどして、油斷もなく祈りければ、病者、又、いふやう、

「大兄(おほあに)」この物の怪の兄貴分に当たるモンスター。「寒月」はその名。

「寒月、寒月」繰り返しが二回なのはママ。というより、「三聲(こへ)」であったからといって、三度、馬鹿正直に書かれていると、怪奇は薄れる。「カンゲツ……カンゲツ……」の響きは、七十年後の(本「御伽百物語」は宝永三(一七〇六)年開版)上田秋成の「雨月物語」(安永五(一七七六)年刊)の「白峯」の「圓位、圓位」(ヱンヰ……ヱンヰ……)に響き合う、聴覚的な不気味さを持つ。

「病人の裾より、狸の大きさなる獸の、毛色は火の如く赤きが、眼(まなこ)の光(ひかり)、日月(じつげつ)のごとくにて、這ひ出でたり」裾から出現するということは、実は出現する前のそ奴は細く小さいことが判る。さらに、挿絵を見ても判るが、これは狐ではなく、まさに年経た大狸(おおだぬき)以外の何ものでもない私がこの兄にとり憑いた「物の怪」を安易に妖狐とすることに躊躇するのは、ここにあるのである。狐は間抜けな狸を人を馬鹿すに際して手下として使役することがないことはないが、まず、極めて珍しい。寧ろ、どこか愚鈍で抜けたところがあり、化け損なって失敗したり、死んだりすることが非常に多い「化け狸」は、狡猾で人を騙すことにかけては剃刀の如く、死に至らしめるのも躊躇しない妖狐とは、相性が頗るよくないとさえ言えるのである。されば、私には、このナマケモノ見たような怪物が、この「物の怪」の兄貴分には到底思えないのである。では何か?――この「物の怪」を養えば裕福になるというのは本人が言っているのが一つのポイント(無論、狐・稲荷信仰でもそうではあるが)――さらに――私は「裾」から出てきたところに着目する――それは普段は細い細い管のような形(なり)をしているのではないか? だから袖から出られるのだ!――そうだ! キツネはキツネでもこれは実は狐ではない「クダギツネ」なのではなかろうか? 「管狐(くだぎつね)」だ! ウィキの「管狐から引いておく。こ奴は『日本の伝承上における憑き物の一種で』、『長野県をはじめとする中部地方』を中心に、主に西日本に『伝わっており、東海地方、関東地方南部、東北地方などの一部にも伝承がある』。『関東では千葉県や神奈川県を除いて』、『管狐の伝承は無いが、これは関東がオサキ』(オサキギツネ。伝承の多くは遙かに妖狐性(キツネ性)が強い)『の勢力圏だからといわれる』。『名前の通りに竹筒の中に入ってしまうほどの大きさ』、『またはマッチ箱くらいの大きさで』七十五『匹に増える動物などと、様々な伝承がある』。『別名、飯綱(いづな)、飯縄権現とも言い、新潟、中部地方、東北地方の霊能者や信州の飯綱使い(いづなつかい)などが持っていて、通力を具え、占術などに使用される。飯綱使いは、飯綱を操作して、予言など善なる宗教活動を行うのと同時に、依頼者の憎むべき人間に飯綱を飛ばして憑け、病気にさせるなどの悪なる活動をすると信じられている』。『狐憑きの一種として語られることもあり、地方によって管狐を有するとされる家は』「くだ持ち」・「くだ屋」「くだ使い」・「くだしょう」『と呼ばれて忌み嫌われた。管狐は個人ではなく』、『家に憑くものとの伝承が多いが』、オサキキツネなどが、『家の主人が意図しなくても』、『勝手に行動するのに対し、管狐の場合は主人の「使う」という意図のもとに管狐が行動することが特徴と考えられている』。『管狐は主人の意思に応じて』、『他家から品物を調達するため、管狐を飼う家は次第に裕福になるといわれるが』、『初めのうちは家が裕福になるものの、管狐は』七十五『匹にも増えるので、やがては食いつぶされ』、『家が衰えるともいわれている』とある。私は管狐フリークで、いろいろな場面で解説している。だから、ある意味、私は管狐の同類なのだ。だからこそ、どうもこ奴、それらしいと「臭う」のである。]

 契宗、やがて、壇上に立てたりし利劒を以(もつ)て飛びかゝり、

「はた。」

と、切る。

 きられて、終にかけ出だし、表をさして逃げるを、契宗、續きて追つかけけるが、彼のひかり物は、むかふへ逃げのびたれども、何やらん、黑きもの壹(ひと)つ、そばなる壺の中へはしり入りしを見とがめ、契宗、やがて、此つぼの口を堅く封じ、三日三夜、おこなひすまして後(のち)、ひらき見るに、そのかたちは、かはらず。そのまゝの獸(けもの)にて、鉄(くろがね)のやうなる、すさまじき毛ありて、動かず。

 あまり、おそろしさに、油をつぎかけ、壺のふたを堅く封じて、火をもつて、煎り殺しぬ。

 是れより、彼(か)の病人、ほどなく病愈(やまひい)ゑて、また、平生(へいせい)にかはらずとかや。

[やぶちゃん注:一ヶ所、「契宗、やがて、壇上に立てたりし利劒を以(もつ)て飛びかゝり、」「はた。」「と、切る。」「きられて、終にかけ出だし、……」の箇所であるが、底本では、

   *

契宗やがて壇上に立(たち)たりし利劒を以て飛びかゝり。はたと切られて終にかけ出(いだ)し。

   *

となっている。原典(「早稲田大学古典総合データベース」の同当該部の画像)を確認すると、

   *

契宗やかて壇上に立たりし利劒を以て飛かゝりはたと切きられて終にかけ出し

   *

と読める。「切きられて」は不審だが、事実、昭和六〇(一九八五)年ゆまに書房刊・小川武彦編「国文学資料文庫三十四 青木鷺水集 第四巻」では、かく翻刻されているから、私の判読は誤りではない。しかし、これではせっかくのクライマックスがギクシャクして、ダイナシとなってしまう。そこで、昭和六二(一九八七)年国書刊行会刊・太刀川清校訂「叢書江戸文庫二 百物語怪談集成」を見ると(本書は私と同じ帝国文庫版を底本としつつも、長野県短期大学付属図書館蔵本と校合してある

   *

契宗やがて壇上に立てたりし利劒を以て飛びかゝり、はたと切る。きられて、終にかけ出だし、

   *

となっていて、動的シチュエーションが実にスムースで、映像的に全く問題がない。そこで、特異的に以上の剣を揮ってシーンに化け物を切り、化け物が逃げるシーンに関してのみは「叢書江戸文庫二 百物語怪談集成」版本文を加工底本に採用した

「彼のひかり物は、むかふへ逃げのびたれども」ここで一気に大狸野郎は光球化する。ここは妖狐玉藻前っぽくはあるね。

「そのまゝの獸(けもの)にて、鉄(くろがね)のやうなる、すさまじき毛ありて、動かず」ここは妖狐らしくなく、壺の底に固まるほどに小さくなっているところは寧ろ、管狐っぽいのである。]

原民喜 曲者 ―― 六十八回忌の祥月命日に

 

[やぶちゃん注:初出は底本(以下)の「編註」には『世界評論』に初出とあるが、掲載原資料は『未確認』としており、発行年月日も未詳である。底本は芳賀書店版「原民喜全集」第二巻(昭和四一(一九六六)年刊)を元にしている。この初出誌とされる『世界評論』はよく判らないのだが、国立国会図書館の書誌データによれば、東京の世界評論社発行で、昭和二一(一九四六)年二月に創刊しており、昭和二五(一九五〇)年五月に第五巻第四号で休刊していることが判った。因みに、原民喜は昭和二六(一九五一)年三月十三日の午後十一時三十一分、吉祥寺・荻窪間の鉄路に身を横たえて自死した

 底本は一九七八年青土社刊原民喜全集「Ⅰ」を用いたが(底本では「夏の花」の後の「拾遺作品集Ⅱ」のパートに配してある)、以上の書誌データ及び底本の配置から、本作の発表は明らかに敗戦後であることが判るが、歴史的仮名遣表記で拗音・促音表記がないという事実、及び、原民喜の幾つかの自筆原稿を独自に電子化してきた私の経験に照らして(彼は戦後の作品でも原稿では歴史的仮名遣と正字体を概ね用いている)、漢字を概ね恣意的に正字化することが原民喜自身の原稿原型に総体としてより近づくと考え、今まで通り、かく処理した。本文中の段落の頭にある『☆』印は底本のママである。

 なお、本篇はその内容から見て、戦前の原民喜の作品のシュールレアリスティクな幻想的雰囲気が、ある意味、濃厚に感じられ、また、作中に「燈火管制」「戰鬪帽」「疎開荷造」と出るから、或いはもしかすると、戦中又は戦後すぐに書かれたもの(特に最終条はその臭いを漂わせてはいる)の可能性がかなりある、と私は秘かに感じてはいる

 本篇を、私は、原民喜の六十八回忌の祥月命日に公開することとする。【二〇一八年三月十三日 藪野直史】

 

 

 曲者

 

☆その男が私の前に坐つて何か話してゐるのだが、私は妙に脇腹のあたりが生溫かくなつて、だんだん視野が呆けてゆくのを覺える。例によつて例の如く、これは相手の術策が働いてゐるのだなと思ふ。私は内心非常に恥しく、まる裸にされて竦んでゐる哀れな女を頭に描いてゐた。そのまる裸の女を前にして、彼は小氣味よさうに笑つてゐるのである。急に私は憎惡がたぎり、石のやうに頑なものが身裡に隱されてゐるのを知る。しかし、眼の前にゐる相手は、相變らず何か喋りつづけてゐる。見ると彼の眼もかすかに淚がうるんでゐる。ところで、漸くこの時になつて私は相手が何を話してゐたかを了解した。ながながと彼が喋りつづけてゐるのは自慢話であつた。

☆わはつと笑つて、その男が面白げに振舞へば振舞ふほど、後に滑り殘される空虛の淵が私を困らせた。その淵にはどうやら彼の祕密が隱されてゐることに私は氣づいてゐたが、そこは彼も見せたくない筈だし、私も見たくない筈であつた。それにしても彼は絶えず私の注意を動搖させておかないといけないのだらうか、まるで狐の振る尻尾のやうに、その攪亂の技巧で以て私を疲勞させた。生暖かいものが疼くに隨つて、その淵に滑り墜ちさうになると、私ははつとして頓馬なことを口にしてゐた。すると、餌ものを覘ふ川獺の眼差がちらりと水槽の硝子の向に閃いてゐるのだつた。

☆私はその男と談話してゐる時、相手があんまり無感覺なので、どうやら心のうちで揉み手をしながら、相手の團子鼻など眺めてゐる。私を喜ばす機智の閃きもなく、私を寛がす感情のほつれも示さず、ただ單にいつもやつて來てはここに坐る退屈な相手だ。どうしたらこの空氣を轉換さすことが出來るかと、私は頻りに氣を揉んでゐるのだが、そんな時きまつて私は私の母親を思ひ出し、すると、私のなかに直かに母親の氣質が目覺め、ついつまらないことを喋つたりするのだ。待つてゐた、とこの時相手はぶつきら棒に私の腦天に痛擊を加へる。すると、私はひどく狼狽しながら、むつとして、何か奇妙に情なくなるのだつた。

☆私はそこの教室へ這入つて行くと、默りこくつて着席するのだが、這入つてゆく時の表情が、もうどうにもならぬ型に固定してしまつたらしい。はじめて、その教室に飛込んだ時、私は私といふ人間がもしかするとほかの人間達との接觸によつて何か新しい變化を生むかと期待してゐたのだが、どうも私といふ人間は何か冷やかな人を寄せつけない空氣を身につけてゐるのか、どんな宿命によつてかうまでギコチない非社交性を背負はされたのか、兎に角ひどく陰氣くさい顏をしてゐる證據に、誰も今では私を相手にしようとしないのである。皆はそつと私を私の席にとり殘しておいてくれるだけである。そこで私は机に俯向いた儘、自分の周圍に流れる空氣に背を向けてゐる。私は目には見えない貝殼で包まれた一つの頑な牡蠣であらうか。すぐそのまはりを流れてゐる靜かな會話や娯しげな笑聲や、つまり友情といふものの溫氣さへ――まるで、ここへはてんで寄りつくことを拒まれてゐるやうに、凝と無性に何か我慢してゐるらしいのである。

☆その男は私の部屋にやつて來て、長い脚を伸して橫になつてゐる。時々、鼻でボコボコといふ大きな息をしたり、あーいと、湯上りのやうな曖昧な欠伸をしてゐる。さうかと思ふと、間の拔けた聲で流行歌を歌ひ出す。私は大きな棒が一本ここに轉がり込んだやうに面喰らひながら、だんだん不機嫌にされる。何時になつたら腰をあげるつもりなのだらうと焦々する。この男と暮してゐたのでは、こちらまで氣持が墮れてしまふし、私は私の時間が浪費されるのをじつと恨みながら、我慢しなきやならないのか。こんな相手は御免だと思ひながら、いつもいつもこんな目に遇はされてゐるので、さうすると、私はもう一生を空費してしまつたもののやうに、茫として、とりかへしのつかぬ思ひに身は痛くなるのだ。そして、今、彼の方を見れば、相手は牛のやうに部屋の隅で假睡してゐるのだつた。

☆その人に久振りに過つた私は、すぐ暇を乞ふつもりでゐたところ、その人はじつに私をうまうまと把へてしまつたのである。日は暮れ燈火管制の街は暗く、歸りを急ぐ心は頻りなのに、「まあもう一寸」とその人はゆるやかなオーバーを着込んだまま娯しさうな顏をしてゐるのである。電車やバスに搖られて、混み合ふ中だから、話もとぎれとぎれしか出來ないのに、さうして、廣い會場に連れて行かれると、ここではなほさら人が騷いでゐて話も碌に出來ないのに、その人はどの人とも巧みに二こと三こと冗談を云ひ合つたり、私が置てけぼりになりさうなのをちやんと心得てゐて一寸側に戾つて來たりする。そして、だらだらと粘強いこの人の親和的な辯舌を聞いてゐると、私は例の曲者を私のうちに意識する。一體この人のどこからああ果てしない糸のあやは流れ出、その綾に私はつつまれてゐるのだらうか。隨分昔からの交際ではあるが、今更ふしぎになつてもくるのだ。「もう遲いから失禮しますよ」と電車の中で私が時計を取出すと、「なあにまだ早いさ」と云つて、その人も懷中時計を出したが、その時計は停つてゐた。「この時計も、古いのだなあ、君も知つてゐるだらう」とその人は時計を見つめながら何か昔のことを喋り出したが、あたりの雜音にかき消されてしまつた。――翌日、私は勤め先でどうも私のものごしに、人に對して親和的な調子が溢れさうになるのを、どうすることもできなかつた。あの人の調子がずるずるとまだ私に働いてゐるのであつた。

☆私はその女を雇つてゐたため、食ひ辛棒の切ない氣持にされてしまつた。はじめ、その若い女が私の家へやつて來た時、眼玉がギロリと光つて暗黑な魂を覗かせてゐたが、居つくにつれて、だんだん手に負へない存在となつた。いつでも唾液を口の中に貯へてゐて、眼は貪欲でギラギラ輝く。臺所の隅で何かゴソゴソやつてゐるかとおもふと、ドタバタと疊を蹈んで表に飛出す。だらりと半分開いた唇から洩れて來る溜息は、いつも烈しい食欲のいきれに滿ちてゐた。そして、何かものを云はうとする時、眼玉をギヨロリとさせて、纏らない觀念を追ふやうに唇をゆがめ、舌足らずの發音で半分ほど文句を云つておき、さて突然烈しい罵倒的表現に移るのであつた。いつもその女は私の氣質を嘲弄するのであつたが、私も相手に生理的嫌惡を抱きつづけた。が、悲しいかなしかも、どうしたことであらう、凡そ、今日世間一般が飢餓狀態に陷つてしまつたお蔭で、私も四六時中空腹に惱まされてゐるのだが、どうかすると、私の眼はあの女の眼のやうにキロリとたべものの方へ光り、私の溜息は食慾のために促され勝ちで、私の魂はあの女のやうに昏迷し、食つても食つても食ひ盡せないものを食ひきらうとするやうに、悲憤の焰を腸に感じるのである。

☆私はその男に賴みごとがあつて行くと、相手は大きな木の箱へ釘を打込んでゐた。ワンピース(?)の作業服を着て戰鬪帽を橫ちよに被り、彼ほもつぱら金槌の音に堪能してゐるらしい。私の言はうとすることなんか、まるで金槌の音で抹殺されるのだし、相手は社長さんでありながら、好んで人夫のやうなことをしてゐながら、人足だ人足だ、今や日本は人足の時代だ、と云はんばかりの權幕で疎開荷造に餘念なく、靑く剃りあげた顎をくるりと𢌞して、こちらを睥んだりする。愈々私はとりつきかねるのだが、何だか忌々しく阿呆らしいので相手をじろじろ眺めてやると、向もこちらを忌々しげに睥み返し、用事がなければさつさと歸れ、と金槌の音を自棄につけ加へるのであつた。

☆私はその男の親切な顏をどういふ風に眺めたらいいのだらうかと、いつも微妙な惱みに惱まされるのだ。柔和な表情はしてゐるが、どこか底知れないものを湛へてゐるし、どうかした拍子に顳顬(こめかみ)に浮かぶギラリとしたものが、やはり、複雜な過去を潛めてをり、さう單純に親切ではあり得ないことを暗示してゐるやうでもある。どうにもならない戰災者の棄鉢で、やたらにその男にものごとを賴みに行けば、その男は萬事快く肯いてくれるのではあるが、それでゐてやはり私は薄暗い翳にうなされてゐるやうだつた。

☆私は家を燒かれ書齋を喪ひ、隨つて外部から侵略されて來る場所を殆ど持てなくなつた。むしろ、今では荷厄介なこの己の存在が、他所樣の安寧を妨げるのを、そつと靜かにおそれてゐるのである。どうしても、他所の家の臺所の片隅で乏しい食事を頒けてもらはねばならぬし、縮こまつて箸をとつてゐる己の姿は自分ながら情ないのである。私は知人から知人の間を乞食のやうな氣持で訪ねて行く。昔ながらの雰圍氣のいささかも失はれてゐないもの靜かな田舍の廣い座敷に泊めてもらつて、冬の朝そこの家の玄關をとぼとぼと立去つてゆく私の後姿には、後光が射してゐるのであつた。後光が?……おお、何といふ痛ましい幻想だらう。しかし、私はその幻想をじつと背後に背負ひながら、この新たなる曲者に對つて面喰つてゐるのであつた。

 
 

2018/03/12

進化論講話 丘淺次郎 第十三章 古生物學上の事實(3) 二 地層每に化石の種類の異なること

 

     二 地層每に化石の種類の異なること

 

 化石は生物の歷史の天然の記錄ともいふべきものであるが、斯くの如く極めて不完全な記錄であるから、到底之に據つて生物の系統の全部を細かい點まで殘らず知ることは出來ぬ。化石として出て來ぬ動物は、實際世の中に居なかつたかの如くに考へ、今日知れて居る化石の種類だけを組み上げて動物の系圖を造らうとするのは、素より大間違であるが、最も古い地層から最も新しい地層までの間の化石を、時の順序に列べて比較して見ると、生物の進化し來つた大體の有樣だけは略々察することが出來る。また近頃は研究の方法が丁寧になり、同一の場所を十分精密に調べるやうになつた故、古い層から新しい層までの化石が餘程完全に揃つたものも出來て、今日では最早若干の動物種屬に就いては、先祖から子孫までの化石を竝べて、その進化の往路を目前に示すことが出來るやうになつた。尤も斯かる動物は現今の所ではまだ甚だ少數であるが、極めて不完全なるべき古生物學の材料の中に、たとひ少數なりともかやうな例のあることは、生物進化の動かすべからざる證據といはねばならぬ。

 先づ化石全體に就いて論ずるに、化石を含む水成岩の起源は既に前にも略述した通り、水の底に沈澱して出來たもの故、必ず層をなして居て、每層その出來た時が違ふものであるが、その中なる化石を調べると、一層每に多少の相違があつて、全く同じものは一つもない。それ故、地質學者は一層每にある固有の化石を手掛りとし、今日知れてある總べての水成岩をその出來た時の順序に隨つて重ね、水成岩の出來始から今日に到るまでの間を各層に相當する時代に分けて論ずるが、先づ全體を大別して始原代・古生代・中生代・新生代の四とし、更に各代を若干の紀に分ける。これらの各時代に如何なる動植物が生存して居たかを詳しく調べるのは、所謂歷史的地質學の範圍内で、之だけでも立派な一科であるから、ここには素より一々述べることは出來ぬが、その大體をいへば、始原代の層からは化石の出ることが極めて少い。古生代からは主として魚の化石が出る。尤も魚といふても、今日の魚とは全く違ふ。また植物では主として羊齒(しだ)の類が出る。中生代からは主として蛙・蜥蜴の類の化石が出るが、之も今日のものとは非常な相違である。而して植物は全く松柏の如き裸子類ばかりである。新生代に至つて初めて鳥獸や被子植物の化石が澤山に出るが、之も大部分は今日のものとは全く別種である。またかやうに四代に分けるが、その長さは決して相均しいといふ譯ではない。假に水成岩の各層の厚さは、その層の出來た時の長さに比例するものと見倣して計算しても、始原代は殆ど全體の六割程を占めるに反し、古生代は三割弱、中生代は一割強、新生代は僅に四十分の一に過ぎぬ。而して石器の碎片などがあつて、人間の居たといふ證據の確にあるのは、新生代の中でも最近の極めて薄い層だけである。

[やぶちゃん注:「始原代・古生代・中生代・新生代」基本、現代でもこの区分に変化はないが、「始原代」はあまり使われず、「始生代」とそれに続く「原生代」を纏めて「先カンブリア時代」(Precambrian (age))と呼ぶのが一般的である(「始生代」の前に「冥王代」を置く考え方もあるが、これは化石は勿論、岩石自体が非常に稀で、地質学的証拠が殆んどないので無視して構わない)。名称は「古生代」の最も初期の、海中で爆発的に生物が多様に発生した「カンブリア紀(Cambrian period)」に先行する長い時代の謂いである。古生代のカンブリア紀の始まる五億四千二百万年前以前の約四十億年に及ぶ期間を指す。]

 さて以上の各地層から出た化石を見るに、現今のものと同種類の動物は、僅に新生代に幾らかあるだけで、中古以前には殆ど一種もない。若し生物種屬が萬世不變のものとしたならば、古生代からも現今と同種類なものが幾つか發見せられさうなものであるが、實際一つもないのは何故であらうか。始原代からは一體に化石が餘り出ないのであるから、今と同じ種類の動物の化石が出ないからというても別に不審はないが、次の古生代からは魚類の化石だけでも隨分澤山に出で、既に何百種も知れて居るに拘らず、一として今日の種類はない。今日生きて居る魚類は一萬種以上もあるが、之が皆天地開闢の初から別々に造られたものとしたならば、古生代から何百種も出た魚の化石の中に少しも混じて出ぬといふことは、何とも解すべからざることである。魚類に限らず、總べて他の動物もこの通りであるが、現今の動物の中で、骨骼や介殼を具へて最も化石になり易さうなものだけを數へても、確に五萬以上はあるに拘らず、現今の動物と同種の化石が出て來るのは、僅に水成岩全體の厚さの四十分の一に相當する新生代だけで、古生代からも中生代からも全く一種も出ぬことは、實に不思議といはねばならぬ。

 現今生きて居る動物と化石とを比べると、右の通りであるが、各地層から出る化石を互に比較しても、やはり同樣で、新生代から出る化石は、中生代からも古生代からも出ず、また中生代から出る化石は、古生代からは出ぬ。尚古生・中生・新生の各代を若干の紀に小分して見ても、二紀に亙つて同種の化石の出ることは甚だ少い。數紀に通じて同種の化石の出ることは殆ど皆無である。尤も同屬・同科に屬する生物の化石は、數紀或は數代から續いて居ることもあるが、種は總べて異なつて居る。

 また動物種屬の斷絶することを考へて見るに、新生代から化石となつて出て來る種類には、現今尚生存して居るものが幾らかあるが、その大部分は既に死に絶えてしまつて、今日はなくなつた。中生代・古生代の動物に至つては、一種として今日まで殘つて生存して居るものはない。前にも述べた通り、我々の目に觸れる化石は實際に過去に生存して居た種類總體から見ると、比較にもならぬ程少いものであるが、これらを想像して加へて見ると、一度世の中に生存して、後に死に絶えてなくなつた動物の種類の數は何百萬あるか解らぬ。若し天地開闢の時に若干の動物が造られ、そのまゝ變化せずに代々降つたものとすれば、かやうな動物も今日尚生きて居る動物とともにその際造られたと考へねばならず、その後一種が斷絶する每に世界の動物が一種づゝ減じて、終に今日の有樣になつた譯に當るが、後の地層から出る種類の化石が決してそれより前の地層から出ぬといふ事實は、全くこの想像と衝突する。

 

Koseidainouo

[古生代の魚類の化石]

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミング補正した。脊椎動物亜門条鰭綱軟質亜綱Chondrosteiのパレオニスクス目†Palaeonisciformes の一種か?]

 

Goryuu

[中生代の海産蜥蜴]

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミング補正した。爬虫綱双弓亜綱魚竜目ステノプテリギウス科ステノプテリギウス属Stenopterygius であろう。]

 

Aparutozaurus

[中生代の大蜥蜴]

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミング補正した。爬虫綱双弓亜綱主竜形下綱恐竜上目竜盤目竜脚形亜目竜脚下目ディプロドクス科アパトサウルス亜科アパトサウルス属アパトサウルス・エクスケルススApatosaurus excelsus か。]

 

Megaterium

[新生代の化石「大なまけもの」]

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミング補正した。脊椎動物亜門哺乳綱異節上目有毛目ナマケモノ亜目メガテリウム科メガテリウム属の模式種Megatherium americanumこれウィキの「メガテイリウム」の画像)である。]

 

 斯くの如く化石の種類は地層每に異なり、各々或る時代の地層に限られて前にも後にもないから、時の順序に隨つて古生代の下の層から新生代の上の層までを表に造り、その中に化石の種類を各々その時代の處に書き込んで、然る後に之を通覽すると、恰も甲の種類の消える頃には乙の種類が現れ、丙が衰えれば丁が榮えるといふやうに、常に新陳代謝して今日に至つた如くに感ずる。尚之を屬・科・目・綱等に分類して、似たものを繋ぎ合せると、各綱・各目等にも盛衰のあつた事が明に解る。例へば古生代の地層からは種々の化石が出るが、その中最も高等なものは魚類で、種類も極めて多くあつたらしい。魚類以上の身體を有する動物の化石が一つも出ぬ所から推察すると、その頃魚類の敵となるべきものは、殆どない位で、魚類全盛の世であつたと思はれる。魚類は尚今日も澤山に生活して居ること故、魚類といふ綱は古生代から今日まで續いて居るが、更にこれを小分して、如何なる目の魚類が居たかと調べると、古生代の魚類と今日の魚類とでは、實に大きな相違があり、古生代の魚に似たものは今では僅に石狩川に産する蝶鮫位で、今日盛に棲息する鯉・鮒・鯛・鰹などの如き種類は太古には全く無かつた。また中生代の地層から出た化石で著しいものは、兩棲類・爬蟲類であるが、これも今日の蛙・蜥蜴とは種屬が全く違ひ、いづれも大きなもので、鯨の如くに海中を泳ぐ類もあれば、鳥の如くに空中を飛ぶものもあり、四足で陸上を步くものもあれば、袋鼠の如くに後足だけで立つものもあり、まだ鳥類・獸類ともに出て來ぬ時故、陸でも、海でも、森でも、野でも、向う所敵なしといふ有樣で、その盛であつたことは眞に豫想外である。分類上は單に爬蟲類・兩棲類といふが、斯く種類の多かつたこと故、一々調べて見ると、種々に性質の異なつたものがあり、海中を泳ぐ類では身體の形も殆ど魚類のようで、四足ともに鰭の形をなし、骨骼にも幾分か魚に近い性質が現れて居るが、後足ばかりで立つ種類では皆頸が長く、嘴も稍々突出し、腰の骨もよほど鳥類に似た形狀を呈して、全體が頗る鳥らしくあるなど、今日のものに比べると、形狀・構造ともに遙に變化が多かつた。今日でも蜥蜴・龜・蛙の類は相應に居るから、兩棲類・爬蟲類の二綱は、共に中生代から引續いて居るには違ひないが、その盛な時代は中生代と共に過ぎ去つて、今日では到底その當時の面影はない。次に新生代の化石は如何と見るに、この時代から出る化石は主として鳥類・獸類で、中にも獸類の方は種類も甚だ多く、非常に大きな形のものなどが居て、頗る盛であつたらしい。今日と違ひ、まだ人間の居ない頃故、陸上では獸類に敵するものなく、空中では鳥類に敵するものはないから、兩方とも十分に發達して、頭數も餘程多く、何處にも澤山に居たものと見え、狹い處から隨分夥しく化石が掘り出された例が珍しくない。或る人がギリシヤ國のピケルミといふ處で、幅六十步、長さ三百步に足らぬ處から、古代の象の類を二種、犀の類を二種、非常に大きな猪の類を一種、今のよりは更に大きな駱駝を一種、麒麟を一種、猿を數種、獅子の類、鼬の類、羚羊の類などを二十種許と、他に名の附けられぬ古代の怪獸を澤山に採集したことがあるが、之だけの獸類が一箇所に集まつて居るやうなことは、今日は決してない。その頃の猛獸には短刀程の牙を持つた虎の類を始め、實に恐しいものが多數にあつた。また今日では象が陸上動物の中の最大なものであるが、西洋の博物館に列べてある化石の獸類には、象より大きなものが幾らもある。前にも述べた通り、獸類に攻められぬ處では近代まで非常に大きな鳥が住んで居た。これらから考へると、先づ鳥類・獸類の全盛時代は人間の出て來るまでの新生代であつたと見倣さねばならぬ。斯くの如く每時代に盛な動物の種類が違ひ、恰も我が國の歷史中に平家・源氏・北條・足利などが起つては倒れた如くに、動物界に於ても新しい類が出來れば、古い方が衰へ、常に變遷して止む時はないが、生物が進化するものならば、素より斯くあるべき筈である。之に反して生物を萬世不變のものと見倣すときは、ここに述べた如き事實は、少しも了解することが出來ぬ。

 

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 流され王(4)

  異國神渡來の說は、古くからあつてもやはり歷史と認めがたいことは、『長寬勘文』にもある熊野の王子神、播州廣峰から出たらしい牛頭天王の王子神の事、或は大隅正八幡の古緣起と傳へた七歳の王子とその御母の話の如き、何れも其證據である。是は單に靈威の最も旺盛なる神が突如として顯れ祟る場合に、之を遠い國から移り臨みたまふものと考へる傾向が大昔から我々の中に在つたと云ふことを示す迄で、決して元を辿り乃至今風の考證をして後に、言ひ傳へたものでは無い。殊に之を何の某の靈とまで斷定することは、後作に非ざれば僞作である。陸前千貫松山の東平王の故跡談の如きは、話の古いだけに取止めも無いのが却つて大なる興味である。この附近の街道の傍に、昔旅の空で死んだ唐人の塚があつて、其唐人の名はトウヘイワイ[やぶちゃん注:ママ。つくま文庫版全集では「トウヘイオウ」とあるから、或いは「トウヘイワウ」の誤植の可能性が極めて高い。]であつたと云ふことが五百數十年前の著という宗久紀行にあるので、今に學者だけが之を忘れることが出來ない。處が此は一種の謎みたやうなもので、單に故鄕を思慕した旅人の墓の松が、悉く西に向つて靡いて居るのを見て、文選卷四十三の中の名句に、東平の樹咸陽を望みて西に靡くとあるを聯想し、誰かゞ之を言つたのが其人の墓のやうに傳へられた元であつた。而も後には塚の跡も不明になり、千貫松山の千貫松が、これも多分は同じ原因、卽ち東の風が多い爲に、著しく西の方へ靡いて居るのを見て、東平王の墓處を此處に在る如く推測し、しかも日本の東平王とは、大野東人(おほのあづまびと)のことだとか又は惠美朝獦(えみのあさかり)だとか云ふ類の、一種の古墳攷證をした人もあつたのである(地名辭書四〇七五頁)。此なども前代の好事家が、容易に來由の知れるやうな名を附けて置いた爲に、幸にして所謂史蹟の中に網羅せられる事も無かつたが、塚の神を遠來の靈として祀つて居れば、程も無く貴人流寓の口碑となつて行くのは、至つて自然の變化であつたので、塚の上の古木が元來た都の方に片靡きをすると云ふのも、かの西行法師の見返り松の如く、東西には數多い說明傳說の例であつた。

[やぶちゃん注:「長寬勘文」平安康熙の長寛年間(一一六三年~一一六四年)に編纂された勘文(かんもん:朝廷から諮問された学者などが由来・先例等の必要な情報を調査して報告(勘申)を行った文章のこと。主に外記・神祇官・検非違使などの官人及び大学寮・陰陽寮に属する諸道の学者などが行い上奏した)。勘文中に「熊野権現垂迹縁起(くまのごんげんすいじゃくえんぎ)」が引用されていることでも知られる。熊野社領である甲斐国八代荘で発生した八代荘停廃事件を機にまとめられたもので、平安後期に於ける国衙と荘園の対立を物語ると同時に、熊野と伊勢との祭神が異なることが公式に確認された文書でもある(詳しくは参照したウィキの「長寛勘文」を見られたい)。

「熊野の王子神」ここに出た「王子」や後の「天王」が、内外の皇族や王の子の意などではないことは既に注した。

「播州廣峰」現在の兵庫県姫路市の広峰山山頂にある廣峯神社(ここ(グーグル・マップ・データ))。全国にある牛頭天王の総本宮(但し、京都の八坂神社も牛頭天王総本宮を主張している)。別称も「廣峯牛頭天王」と名乗る。天平の昔から名の見える古社。

「大隅正八幡」鹿児島県霧島市隼人町内(はやとちょううち)にある大隅国一宮である鹿児島神宮。(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「鹿児島神宮」によれば、『欽明天皇の代に八幡神が垂迹したのもこの場所とされる。当社を正八幡と呼ぶのは』、「八幡愚童訓」の中に、『「震旦国(インドから見た中国)の大王の娘の大比留女は七歳の時に朝日の光が胸を突き、懐妊して王子を生んだ。王臣達はこれを怪しんで空船に乗せて、船のついた所を所領としたまうように』、『と大海に浮かべた。船はやがて日本国鎮西大隅の磯に着き、その太子を八幡と名付けたと言う。継体天皇の代のことであると言う」との記載』に基づき、柳田國男はここでこの「流され王」伝承を指して言っているのである。『八幡神は大隅国に現れ、次に宇佐に遷り、ついに石清水に跡を垂れたと』「今昔物語集」巻十二の「於石淸水行放生會語第十」(石淸水にて放生會(はうじやうゑ)を行ふ語(こと)第十)にも『記載されている』。最後のその原文は「やたがらすナビ」のこちらを参照されたい。

「是は單に靈威の最も旺盛なる神が突如として顯れ祟る場合」所謂、御霊(ごりょう)である。

「陸前千貫松山の東平王」個人サイト「武隈の里」の「東平王塚古墳」がよい。上部にグーグル・マップ・データへのリンクもあり、解説の中に、『往古、古墳時代』に『この地方に来たのは卑弥呼に通じる鮮卑系新羅の人達だった』かも知れぬとある。

「トウヘイワイ[やぶちゃん注:ママ。つくま文庫版全集では「トウヘイオウ」とあるから、或いは「トウヘイワウ」の誤植の可能性が極めて高い。]」「故鄕を思慕した旅人の墓の松」「東平王松」「大野東人(おほのあづまびと)」前に出した「東平王塚古墳」に、『名跡志 いわく』、『千貫待峰より東、山の下に古い塚あり。青松』十二『株』、『相伝』、『異邦人東平王が山の下で客死、郷里を偲び上に植える草木は西にたなびく』。『宗久紀行もまた異邦人とする』。『東平王は按察使の尊称なりや?』 「続日本記」に、『大野東人、神亀元』(七二四)『年、東国節度使』、同三年、『東海東山節度使兼鎮守府将軍』。『国分式しだいいわく』、『東平王はこれなり、あるいは記いわく、大野東人』。『恵美朝』? 『東平王と称す。橘諸兄が葛城王というように』、『按察使』、『この地で亡くなり墓を作る。郷俗これを知らず』、『異邦人という』。『宗久』、また、『古書を知らず』、『郷俗の説を踏まえた』とある(失礼ながら、少し読み難いが、サイト主の言わんとするところはだいたい伝わってはくるので、なるべく、そのまま引用した)。ここに出る、柳田も言う「宗久紀行」(そうきゅうきこう)は南北朝時代の僧で歌人の宗久の紀行「都のつと」の異名。宗久は俗名を大友頼資と言い、豊後(現在の大分県)大友氏の一族かとも考えられている。貞治っじょうじ)五/正平二一(一三六六)年の「年中行事歌合」に参加しており、応安四/建徳二(一三七一)年には、九州探題となった今川貞世を周防に訪ね、以後は貞世の使僧を勤めた。「新拾遺和歌集」「新後拾遺和歌集」などに四首所載する。Takeo Wakatsuki 氏のサイト「蝦夷 陸奥 歌枕」の「東平王墓」も必見。その解説には宗久の

 故郷はげにいかなれば夢となる後さへなほも忘れざるらん

一首が掲げられ、『この墓は朝鮮か唐の帰化人らしい』。『東山道が名取の里岩沼で浜街道と交わる驛玉前(現南長谷玉崎)柵にある』。現在の県道三十八号線が『東北本線を横切った所にある前方後円墳と言う(千貫神社宮司)』。『大和朝廷の支配が未だ及ばぬ時代に』、『外国人がこの地に住み着くとは信じ難い。火のない所に煙は立たないから』、『きっと朝鮮半島からの帰化人なのかも知れない。そう言えば』、『ここより山を西北に越えた川崎町に新羅の郷の地名がある』。『支倉六右衛門常長の生まれた所だが、ここは後三年の役で新羅三郎義光が新羅の帰化人』三十七『人を連れて来て』、その内の二十人を『槻木の入間田に』、十七人『を川崎町に住まわせたと言う』とあり、何と!昭和四五(一九七〇)年十月には、突然、『韓国からその末裔が祖先を訪ねて来て』、『地元の人を驚かせたという。堺の商人・茶人宗久がその紀行文の中で』、[やぶちゃん注:以下、宗久の「都のつと」の原文引用であるが、一部の漢字を正字化し、表記を改めさせて貰った。]

   *

……逢隈川の舟より下りて行く道の邊りに、一つの塚あり。往來の人の所爲と覺えて、あたりの木に詩歌など多數書き付けたり。昔、「とうへいわう」と云ひける唐人の墓なり。故鄕を戀ひつつ、此處にて身まかりけるが、その思ひの末にや、塚の上の草木も皆、西へかたむく、と申しならはせり、と語る人ありしかば いと哀れに覺えて……

   *

『と記して上の歌を詠んでいる。どんな事情でここにあるのか知る由もないが』、『一人の悲しい運命がこの藪の中に眠っている』とある(但し、これは幾つかの書からの引用らしい)。

「文選卷四十三の中の名句に、東平の樹咸陽を望みて西に靡くとある」「重答劉秣陵沼書」の「冀東平之樹、望咸陽而西靡。蓋山之泉、聞絃歌而赴節」を指す。

「惠美朝獦(えみのあさかり)」奈良時代の公卿藤原朝狩(?~天平宝字八(七六四)年)のこと。ウィキの「藤原朝狩」によれば、『氏姓は藤原朝臣』、後、『藤原恵美朝臣。藤原南家、大師・藤原仲麻呂の四男。母は新田部親王の娘・陽候女王(一説では藤原宇比良古)。官位は従四位下・参議』。『父の仲麻呂は孝謙天皇の信任厚く、天平宝字元年』、『仲麻呂の推す大炊王が皇太子になり、紫微内相(大臣に准じる)に任ぜられると、朝狩は従五位下・陸奥守に叙任され』た。『その後は、父の立身とともに朝狩ら兄弟も昇進してい』き、天平宝字二年に『孝謙天皇が譲位して、大炊王が即位(淳仁天皇)すると、仲麻呂は太保(右大臣)に任ぜられ』、『恵美押勝の名を与えられ、朝狩ら兄弟も同様に藤原恵美朝臣姓に改姓する。天平宝字』三年、『朝狩は二階昇進して正五位下へ進み、陸奥鎮守将軍も兼ねる』。天平宝字四年、『仲麻呂が太師(太政大臣)に任ぜられると、朝狩も陸奥国において、荒蝦夷を導いて天皇に順化させ、無血で雄勝城を完成させた功績が認められ』、『従四位下に叙され、同年には仁部卿・東海道節度使に任ぜられる。そして、天平宝字』六年、『仲麻呂が正一位に昇叙されると、朝狩は兄の真先・訓儒麻呂とともに参議に任じられ、親子』四『人が同時に公卿に列する異例の事態になった』。『栄耀栄華を誇った仲麻呂一族だが、孝謙上皇が道鏡を寵愛するようにな』り、『仲麻呂が淳仁天皇を通じてこれを諌めたところ、上皇が激怒して天皇から政権を奪い、孝謙上皇・道鏡派と淳仁天皇・仲麻呂派の対立が起きる』。天平宝字八年九月、『仲麻呂は反乱を計画』したが、『密告により発覚』、『孝謙上皇側に先手を打たれたために仲麻呂一族は平城京を脱出し、朝狩もこれに従う。仲麻呂が長年国司を務めた勢力地盤である近江国の国衙に入って再起を図ろうとするが、官軍に先回りされ』、『これを阻まれた。やむなく』、『仲麻呂一族は八男・辛加知』(しかち)『が国司を務める越前国を目指すが、官軍が越前国衙へ急行して、まだ事変を知らぬ辛加知を斬り、国境の関を固めてしまう。やむなく』、『仲麻呂一族は近江国高島郡に退き、三尾の古城に拠って官軍に抵抗』したが、『敗れ、朝狩を含む仲麻呂一族はことごとく殺された(藤原仲麻呂の乱)』とある。

「千貫松山の千貫松」附近(グーグル・マップ・データの航空写真)の尾根にあった松群らしいが、現在は枯れてしまったらしい。

「地名辭書」「大日本地名辭書」明治後期に出版された地名辞典。日本初の全国的地誌として在野の歴史家吉田東伍個人によって十三年をかけて編纂された。]

和漢三才圖會第四十一 水禽類 旋目鳥(ほしごい)(ゴイサギの幼鳥)

Hosigoi

ほしごい 鷃

旋目鳥

     【俗云星

      五位鷺】

 

本綱旋目鳥大如鷺而短尾紅白色深目目旁毛皆長而

旋故名之一名鷃

△按旋目鳥狀似鵁鶄而項長毛如冠背頭灰黑腹灰白

 斑翅灰色而有白圓紋如星故名之深目目旁毛長而

 旋嘴蒼脚青掌黃也【蓋鷃者鶉鷃之名與此同名異物乎】

 

 

ほしごい 鷃〔(あん)〕

旋目鳥

     【俗に「星五位鷺」と云ふ。】

 

「本綱」、旋目鳥は大いさ、鷺のごとくして、短〔(たん)〕の尾〔なり〕。紅白色。深目〔(ふかめ)〕。目の旁〔(かたはら)〕に毛あり、皆、長くして旋〔(めぐ)〕る。故に之れを名づく。一名、「鷃」。

△按ずるに、旋目鳥、狀〔(かたち)〕、鵁鶄(ごいさぎ)に似て、項〔(うなじ)〕の長毛、冠〔かんむり)〕のごとし。背・頭、灰黑〔の〕、腹、灰白の斑〔(まだら)〕なり。翅、灰色にして白き圓紋(まる〔もん)〕有り、星のごとし。故に之れを名づく。深目にして、目の旁〔(かたはら)〕の毛、長くして旋〔(めぐ)〕る。嘴、蒼く、脚、青く、掌、黃なり。【蓋し、「鷃」とは鶉鷃〔(ふなしうづら)〕の名〔なり〕。此れと同名異物か。】

 

[やぶちゃん注:「ほしごい」はママ。正しい歴史的仮名遣は「星五位」であるから、「ほしごゐ」である。これは前掲の鵁鶄、鳥綱 Aves ペリカン目 Pelecaniformes サギ科 Ardeidae サギ亜科 Ardeinae ゴイサギ属ゴイサギ Nycticorax nycticorax の幼鳥である。ウィキの「ゴイサギに、『幼鳥は上面が褐色の羽毛で被われ、黄褐色の斑点が入る。この斑点が星のように見える事からホシゴイの別名がある。下面は汚白色の羽毛で被われる。虹彩は黄色がかったオレンジ色。眼先は、黄緑色の皮膚が露出する』(下線やぶちゃん)とある。ウィキ幼鳥写真を参照されたい。

 

「深目〔(ふかめ)〕」目の周囲が深く窪んでいるの意味であろうが、前掲のリンク先の写真を見てもそうした窪みはない。或いは、光彩の黄色と白と周囲の白い肌、更にその周囲の茶褐色の毛の色から、そのように錯覚した見えたものであろう。

「目の旁〔(かたはら)〕に毛あり、皆、長くして旋〔(めぐ)〕る」これは確かに写真でもそのうねりがよく現認出来る。

「鷃」この漢字は現代中国ではチドリ目 Charadriiformes ミフウズラ(三斑鶉)科 Turnicidae ミフウズラ属チョウセンミフウズラ Turnix tanki に与えられており、良安の最後の割注での不審と類似した一致を示してしている。なお、注意しなくてはならないのは、このミフウズラ類はウズラと体形等がよく似ているが、ウズラ類はキジ目 Galliformes キジ科 Phasianidae ウズラ属Coturnixであって、我々の知っているウズラ Coturnix japonica とは縁遠い種である点である。

「鶉鷃〔(みふうづら)〕」読みは前注に従って、仮に附した。東洋文庫訳では『ふなしうづら』と附されてある。これは「斑無し鶉」であろうが、調べたが、実はこういう和名のウズラの種はいない。しかし、ウィキの「ウズラ」に、『希に全体が白色羽毛で散在的に野性型羽毛をもつ個体が生じるが、劣性遺伝により発現するとされている』とあり、或いは、これを指しているのかも知れないし、東洋文庫訳者は前注の「ミフウヅラ類」を指してルビしたのかも知れない。]

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十八年 「藤式部」「日蓮」

 

     「藤式部」「日蓮」

 

 九月になってから居士は「養痾雑記」の続稿として「藤式部」「日蓮」「制裁」の諸篇を『日本』に掲げた。須磨滞留中『源氏物語』を読んだことは、八月十日鳴雪翁宛の手紙に「此頃ひまにまかせて『源氏』須磨の卷などくり返し申候。殊にあはれ深く覺えて興に入り申候。ことし程初秋のゆかしき事は無之候。名所にすめる故にやと存候」とある。「藤式部」は『源氏物語』に関する感想を述べたもので、「須磨の浦風足もとに吹き入れて燈火靑く夜更けにし頃、寢ころんで靜かに『源氏物語』須磨明石の卷をひろげ見れば、我も其の人の心地して獨りほゝゑまるゝ事も多かり。物語のつくりざま筆のはこびなどさへ總て其頃の例にはなぞらへ難きを、今のえせ人のものせし小説などの及びかねたるは如何なる鬼神の作にかあらん。藤式部とは我が若き時よりの戀人なり」という冒頭からして、微妙な須磨の空氣を紙表に漂わせている。

 日本の小説は『源氏物語』以後、不思議に睡眠状態に陥ったのだというのが、「文学漫言」における居士の観であった。「寫實派など稱へ出だせる此頃の小説も寫實の上にて云はゞ『源語』に劣れるすぢの多きはいぶかしきことなりかし」という批評も、後年の写生文の主張から見て当然の話である。居士は最後に「我友不折曰ふ。覺猷(かくいう)僧正の畫ける動物は形正しくして卑しからず。しかも其代はもとより後にも前にも似よりたるものだになし。今の世の西洋畫學ぶ人だに斯うは得(え)畫(ゑが)かじと。世には其時の勢にもつれず、夙にも染まで獨り秀でたる人のあるものなめり」と論断し、

 

  かう思び續くるにふと窓に映る松の影もをかしくて

   讀みさして月が出るなり須磨の卷

 

という須磨気分を以て筆を擱(お)いた。この文章は須磨滞留中に書いたものか、松山へ行ってから須磨にいた時の事を思出して書いたものか、その辺はわからない。

[やぶちゃん注:「覺猷(かくいう)僧正」(かくゆう 天喜元(一〇五三)年~保延六(一一四〇)年)は平安後期の天台僧で、高山寺の「鳥獣人物戯画」の筆者に擬せられる、所謂、「鳥羽僧正」のこと。源隆国の子。覚円に師事し、四天王寺別当となり、同寺の復興に尽力した。その後、三井法輪院を建立、密教の研究に努めた。その間に収集・書写した図像は法輪院本として重きを成した。後、天台座主にも補され、鳥羽上皇に信任されて鳥羽離宮に住んだことから、「鳥羽僧正」と呼ばれた。風刺画が巧みであったと伝えられる。]

 「日蓮」もその文末に「余須磨の海樓に痾(やまひ)を養ふこと一月、体力衰耗して勇氣無し。たまたま日蓮記を讀んで壮快措(お)く能はず。覺えず手舞ひ足躍るに至る。日蓮を作る」とあるから、須磨において草したものの如くであるが、恐らくは松山に来てからの執筆であろう。居士の日蓮観は前年の「間遊半日」の中にちょっと出て来る。その時も豊太閤に比してあったが、今度も同じ筆法で「滿身の野心を有する者、前に日蓮あり、後に豐太閤あり、以て一國の人意を強うするに足る」と論じ、日蓮を以て「最後の大宗教家なり」としている。居士はいう。

[やぶちゃん注:以下は底本では全体が二字下げ。]

 

彼日蓮が時勢に造られずして時勢を造りしことを知らんと欲せば、その修学の苦辛を見るベし。十六、七にして志を立てしより十五、六年の間は眞面目に各宗派を研究せり。この年月は渠(かれ)が時勢を造り出だすための材料を蒐輯(しうしふ)せしものにして、此の間時勢は一度も僥倖(ぎやうこう)を渠に與へたる事なく、却(かへつ)て渠に逆らつて走りたり。利刀(りたう)は盤根錯節(ばんこんさくせつ)を喜ぶ。日蓮一たび決心せし後は順勢も逆流も與にその事業を助くるの機とせられざるはなかりき。

[やぶちゃん注:「盤根錯節」曲がりくねった根っこと入り組んだ節(ふし)を持った半端ない八重葎の意から転じて、複雑で処理や解決の困難な事柄の譬えとなった。]

 

 この言葉は日蓮の面目を伝えているのみならず、居士の面目をも伝えているように思う。居士の日蓮論は端的である。何ら特別な材料や研究によらず、直にその面目を打出し来るところに、人としての契合(けいごう)の深いものがあるような気がする。

[やぶちゃん注:「契合」合わせた割り符のようにぴったりと一致すること。ここはここぞと思う評価対象者との間に於いて、子規のそれが、直截的であり、互いの精神とのダイレクトな結合の度合いが異様に強いことを指す。]

 日蓮は居士が晩年までしばしば口にした人名の一であった。烈々たる日蓮の性格が海楼の涼風と相俟って、居士の脈管に無限の活気を吹込んだことは想像に難くない。殊に面白いのは「藤式部」を談じた筆を以て、また「日蓮」を論じていることである。居士に日蓮的な一面のあったことは何人もこれを認めるであろう。その日蓮の讃美者が同時に『源氏物語』を評して「神わざにかあるらん」という。一見相容れぬようなものを、悠々と左右の手に提げ得るのは、居士の多面的な所以(ゆえん)でなければならぬ。

 

原民喜 鶯

 

[やぶちゃん注:昭和一五(一九四〇)年四月号『文藝汎論』初出。

 底本は一九七八年青土社刊原民喜全集「Ⅰ」を用いたが、今まで通り、戦前の作品であること、歴史的仮名遣表記で拗音・促音表記がないという事実、及び、原民喜の幾つかの自筆原稿を独自に電子化してきた私の経験に照らして、漢字を概ね恣意的に正字化することが原民喜自身の原稿原型に総体としてより近づくと考え、かく処理した。傍点「ヽ」は太字に代えた。

 本篇はネット上では電子化されていないと思われる。

 明日は原民喜の命日である。【二〇一八年三月十二日 藪野直史】]

 

 

 

 

 その友達は私の部屋に這入つて來るなり、机の上にドカンと腰を下した。ポケツトから煙草を出してマツチを擦つた。

 ところが非常にあわてて擦つたものとみえて、マツチ箱に火が移つて、しゆつと燃え上つた。チエ! といまいましさうに舌打して、友達は燃えてゐる箱を窓から道路の方へ捨ててしまつた。

 なほ、何だかいまいましさうな容子で、眉の邊をもずもずさせてゐる。むにやむにや! 今日は大變面白くなくて立腹だぞ! とその顏には書いてある。

 それで、私は何だか濟まないやうな氣持になり、ぐつたり草臥れてしまふ。すると、友達はひよいと私に對つて憐むやうな視線を投げつけると、また何か腹が立つらしく、顏をそむける。それから、また一寸私の顏を睥み、顏をそむけては煙草を一服吸ふ。五六度そんな痙撃的な動作を續けてゐるうちに、自分でもをかしくなつたのか、破顏一笑して机から離れた。それから友達は五六囘部屋の中をぐるぐる𢌞つてゐたが、ひよいと私に對つて「表へ出ようぜ」と云ひ殘すと、どかどかと廊下へ步き出した。

 私は友達が投げつけた鈎のやういな合圖に引懸つて、そのまま彼の後について行く。友達は玄關のところで、二三足の下駄を忌々しさうに蹴散らかすと、道路へ出た。

 何時の間にか外は夜になつてゐて、露次にはさつき友達が投捨てたマツチの箱がまだ美しく燃えてゐた。すると、友達はその側を通りかかつて、非常に怒つて、私の方を振返つた。そして靴のさきをくるくる𢌞しながら、その火を消すと、なほぶつぶつ何か不平さうに呟いて步く。

 その露次には貧相な侘しげな家ばかり並んでゐて、路が凸凹なので、友達はその惡口を云つてゐるらしい。かういふ貧相なところへ私が下宿して不景氣な顏して學問するなんて、以ての外であると云つてゐる。第一、お前なんか、ぐにやぐにやのべらべらの腦味噌しかない、と、その友達は肩でさう云ふことを私に暗示しながら步いてゐる。

 私は次第に情なくなつたが、恰度左手に支那料理屋があるので、其處で一杯のそばでも食べたら、その、べらべらのぐにやぐにやの腦味噌が少しは肥えるかと思へたので友達の肩をそつと叩いた。すると友達は「何!」と振返つて物凄い眼つきで私を睥みつけたが、ふと合點して微笑むと、亂暴に支那料理屋の扉を蹴つて開けた。

 そこには普通の女の三倍もありさうな大女が、ぺつたりと後の壁に凭掛つた儘腰掛けてゐた。大變あてやかな茫とした顏で、時々彼女は思ひ出したやうに小さなあくびをした。すると、透きとほつたあくびの輪がふわふわと浮いて友達の鼻さきに漾つて來る。そのふんわりしたあくびの輪のために友達の氣持も少しは鎭まつたのか、妙に子供らしい顏つきになつた。

 ところが間もなく友達はすぐ隣りのテーブルに鳥籠が置いてあるのに眼をつけた。その烏籠のなかには玩具の鶯がゐて、五錢白銅貨を入れると囀り出す仕掛になつてゐた。友達はポケツトから大きな蟇口を出して、五錢白銅貨を投じたが、鶯は一向に啼かない。で、友達は籠を手許に引寄せて、さかさまに搖すぶつてみたり、橫にしてみたり、不器用な手つきで修繕しようとし出した。どうしてもうまく行かないので、チエ、チエ、と一度に二囘の舌打をしながら一生懸命工夫した。友達の頰は焦れて靑ざめ、眼球は乾いて光り出した。

 そのうちに鶯はホーホと一聲啼いたが、それはまるで彼を調弄つてでもゐるのか、後はもう絶對に續けなかつた。到頭、友達は引込みのつかない程、憤然とした。そして、輪を吹く女と私を交互に睥んで、今にも兩方へ喰つてかからうとした。

 その時、女は靜かに懶さうな顏をして、壁の隅の方を指差した。友達も私も何事かとその方角を眺めると、そこには鉢植ゑの酸漿があつた。奇妙なことに、その眞紅に熟してゐる酸漿の實は時々、枝が自然に土の方へ吸ひ寄せられ酸漿が土に接する度に、じゆつ、じゆつと鳴る。鳴つてはまた上の方へ釣上げられ、暫くするとまた土に近づいて來る。何だかその袋は女の眉のやうに思へて、私には段々氣味惡くなつた。酸漿の上には雨が降つて來て、あたりはまつ暗になり、ただ赤い塊りだけが、じゆつ、じゆつと緩い運動を續けてゐた。

 

栗本丹洲 魚譜 正体不明の人食い魚 (オニイトマキエイか?)

 

Itomakiei

 

[やぶちゃん注:可愛らしさとは真逆に、児童を無数に喰らったとする不詳の怪魚一個体の複写図。図版は国立国会図書館デジタルコレクションの「魚譜」からトリミングした。一見、漫画的に可愛くさえ見えるのは、丹洲がキャプション後半部(ポイント落ち)で述べている通り、丹洲が模写した原画自体が稚拙なため。]

 

□翻刻1(一行字数を一致させたそのままのもの)

文政五午歳八月豫州宇和郡吉田伊達紀伊矦

邸外海濵ニテ獲之小兒取食フヿ數ヲ知ラズ浦人

其名ヲ不知 口ヨリ尾ノ傍ノ小鰭マテ二間余横幅

三間半両ノ小ヒレ 二尺余尾ノ長一間五六寸

           口大俵三四個モ

           入ベシ口ノ徑七尺

 

         丹洲按ヨリ見タル圖乎

         イカニモ廉拙ナル写ナリ然

         後攷ノ便モナラント姑ク

         コヽニ収入ス

 

□翻刻2(総て同ポイントにし、漢文読みの箇所は訓読し、カタカナをひらがなに、約物を正字に代え、句読点・濁点を打ち、一部に推定で読みと送り仮名を添えた。前後二文章として、それぞれ連続させた)

文政五壬午(みづのえうま)の歳(とし)八月、豫州宇和郡(うわのこほり)、吉田伊達紀伊(だて)矦(こう)邸外海濵にて、之れを獲(と)る。小兒を取り食らふこと、數を知らず。浦人、其の名を知らず。口より尾の傍(かたはら)の小鰭(こびれ)まで二間余り。横幅、三間半。両の小びれ、二尺余り。尾の長さ、一間五、六寸。口、大きに濶(ひろ)く、俵、三、四個も入るべし。口の徑(わた)り、七尺。

 

丹洲、按ずるに、腹より見たる圖か。いかにも廉拙(れんせつ)なる写(うつし)なり。然(しか)れ共(ども)、後攷(こうかう)の便(たより)にもならんと、姑(しばら)く、ここに収入(しうにふ)す。

 

[やぶちゃん注:出現した場所、図頭部先端の両側にある箆(へら)状になった一対の「頭鰭」(胸鰭由来)から総合するなら、既出既注軟骨魚綱板鰓亜綱トビエイ目トビエイ科イトマキエイ属イトマキエイ Mobula japonica が真っ先に想起される。しかし、キャプションに記された各部のサイズがあまりに大き過ぎる嫌いがある。このサイズは最早、オニイトマキエイのそれではなく、近縁種のトビエイ科オニイトマキエイ属オニイトマキエイ Manta birostris(平均個体で三~五メートル、最大で八メートルにも達するともされ、体重は三トンにも及ぶ)である。或いは、南西諸島から黒潮に載って北上し、迷走してきた個体であった可能性をこそ考えるべきか

「文政五壬午(みづのえうま)の歳(とし)八月」一八二二年。この年の旧暦八月は一日が九月十五日(この年は一月が閏で二回ある)。

「豫州宇和郡(うわのこほり)」伊予国の現在の愛媛県西南部の旧宇和郡(うわぐん)。伊予灘、速吸(はやすい)瀬戸を介して宇和海及び豊後水道に面した地域。

「吉田伊達(だて)紀伊矦(こう)」伊予国宇和島(現在の愛媛県宇和島市)周辺を治めた宇和島藩。藩庁は現在の愛媛県宇和島市丸之内の宇和島城にあった。当時の藩主は第六代藩主伊達村寿(むらなが 宝暦一三(一七六三)年?~天保七(一八三六)年:仙台藩主伊達重村が義父。正室順子が彼の娘であった)であった。但し、文化一四(一八一七)年からは病気を理由に、長男宗紀に藩の実権を預けている(文政七(一八二四)年九月に正式に彼に家督を譲って隠居している)。しかし、この「紀伊」守というのは不審で、村寿も宗紀も遠江守であって、紀伊守ではない。先々代の第四代藩主で紀伊守であった伊達村信(むらのぶ)辺りと誤認しているものと思われる

「邸外海濵」現在の宇和島城はやや内陸にある(ここ(グーグル・マップ・データ))が、西方の港は新たに干拓された感じがするので、もっと城に近い位置まで海は入り込んでいたものと考えられはする。或いは藩主の私邸は城とは少し離れた海浜にあったものかも知れない。

「小兒を取り食らふこと、數を知らず」所謂、それこそ奇体な頭部と大きさから「尾鰭」のついた噂話である。イトマキエイ類はプランクトン食であり、人を襲って食うことは、絶対に、あり得ない

「浦人、其の名を知らず」古老の漁師やらが、イトマキエイを見知らないというのは、おかしい気がする。余りの巨大さに、見知っているイトマキエイのギガなもの(則ち、オニイトマキエイとなるのだが)という認識さえも、恐ろしさのあまり生じなかったのかも知れぬ

「口より尾の傍(かたはら)の小鰭(こびれ)まで、二間」三メートル六十四センチメートル弱。イトマキエイの全長は成体で約三メートルほどであるから、台盤だけとすると、これは異様に大きい。否、大き過ぎる。しかし噂話としてなら、異形の怪魚として、それがかく誇大に表現されたものという推理も除外は出来ない。ただ、後で尾の長さをはっきりと別に示しているから、やっぱり実際に大きかったことになる。だとすると、やはりオニイトマキエイの迷走個体か、或いは弱ったそれが漂着したものだったのかも知れない

「横幅、三間半」六メートル三十六センチメートル。体盤長に比して、これは異様な幅に見えるが、イトマキエイの体盤は寸詰りの幅広であって、左右の三角形に張り出したそれは実際、体幹(前頭部頭鰭の内側の口の上辺から尾の付け根まで)の長さの二倍は優にあるから、比率はイトマキエイ類として自然で、ごく腑に落ちる数値である

「両の小びれ、二尺余り」「二尺」は六十一センチメートルほどで、これは頭部左右に突き出た頭鰭の長さを言っている。

「尾の長さ、一間五、六寸」一メートル九十七センチメートルから二メートルほど。

「口の徑(わた)り、七尺」楕円形の口の長径(左右幅)は二メートル十二センチメートル。こうなると、ますますオニイトマキエイっぽい

「廉拙(れんせつ)」安っぽくて下手であること。

「後攷(こうかう)」「後考」に同じい。]

2018/03/11

御伽百物語卷之二 淀屋の屛風

 

   淀屋の屛風

Yodoyanobyoubu

[やぶちゃん注:挿絵は「叢書江戸文庫二 百物語怪談集成」のものを用いた。]

 

 淀屋(よどや)の何某(なにがし)と聞えしは、難波津(なにはづ)にて第一といはるゝ富貴を極め、萬(よろづ)事(こと)かけざるの餘りに、財寶を輕んじ、事を好み、何によらず、一藝ある人は、かならず招き、尋ね行ききして、ちなみをなしける程に、ある名人・堪能(かんのう)のともがら、我さきと媚(こび)をなし、諂(へつら)ひよりて、身をよせ、德あらそふ事にぞありける。

[やぶちゃん注:この「難波津にて第一といはるゝ富貴を極め」た「淀屋の何某(なにがし)」というのは、江戸初期大坂で繁栄を極めた豪商で、全国の米相場の基準となる米市を設立し、大坂が「天下の台所」と呼ばれる商都へ発展するのに大きく寄与した存在として知られる(初代は淀屋常安(永禄三(一五六〇)年?~元和八(一六二二)年))。米市以外にも様々な事業を手掛け、莫大な財産を築いたが、その財力が武家社会にも影響するようになったことから、最も知られた五代目淀屋廣當三郎右衛門(淀屋辰五郎)は幕府から闕所(けっしょ:財産没収処分)を受けている。幕末には討幕運動に加担して、殆どの財産を自ら朝廷に献上して幕を閉じた。本話の時制の当代の淀屋当主は四代目淀屋重當(じゅうとう/しげまさ 寛永一一(一六三四)年~元禄一〇(一六九七)年)である。彼は幕府の闕所を予期して、暖簾分けでそれをかわしている。これも直近のアーバン・レジェンドの体裁をガッチリとそなえたものである

「ちなみ」「因み」。親しい関係を結ぶこと。

「堪能(かんのう)」技能・学芸などに優れ、しかもそれに熟達していること。現行の「たんのう」は慣用読みで本来は誤りである。

「德」ここは有意な経済的援助を指す。]

 爰(こゝ)に元祿二年二月より、天王寺開帳ありて、都鄙(とひ)の貴賤、あしを空にし、心を爰にはこび、日夜にいく萬の人を群集(ぐんじゆ)せしに、何の等叔(とうしゆく)かや聞えしは、狩野永衲(かのゑいのふ)の筆妙(ひつめう)を得たるよし、都におゐて、名を高うせしよし、みづから、難波津にのゝしり、此度(このたび)天王寺かいちやうをつゐでに、彼(か)の名人どもをあつめて、藝くらべさすといふ淀屋にも尋ねばやの心ざし、ふかく思ひたちて、此地にくだり、かなたこなたとしるべをもとめ、彼(か)の家に取(とり)いりけるに、ある日、此等叔が墨跡をのぞまれ、竹林の七賢を六枚屛風に書きける。

 

[やぶちゃん注:「元祿二年」一六八九年。

「天王寺」大阪市天王寺区四天王寺にある荒陵山(あらはかさん)四天王寺。ここ(グーグル・マップ・データ)。聖徳太子建立七大寺の一つとされている。真言宗に属していた時期もあるが、本質的には特定宗派に偏しない八宗兼学の寺であったし、現在も既存仏教の諸宗派には属さない、「和宗」の総本山として独立している。公式サイトなども見たが、江戸時代の歴史記載が殆んどなく、この「開帳ありて、都鄙(とひ)の貴賤、あしを空にし」(足が地に着かないほど、慌てて急ぐさま)、「心を爰にはこび、日夜にいく萬の人を群集(ぐんじゆ)せし」の具体的な「開帳」の内容はよく判らない。但し、ここまで参集する以上は本尊(救世(ぐぜ)観世音菩薩)であろう。

「何の等叔(とうしゆく)」不詳。雪舟十二代を名乗る雲谷派に長谷川等叔という絵師はいる。江戸初期の知られた名匠長谷川等伯の名を捩っている感じがするが、等伯も狩野派の筆法を学んでいるから、必ずしもおかしな謂いではない。

「狩野永衲(かのゑいのふ)」江戸前期の狩野派の絵師狩野永納(かのうえいのう 寛永八(一六三一)年~元禄一〇(一六九七)年)のことと思うが、ルビが「かの」で名の漢字が「納」でなく「衲」であるところで、ここも捩っているのであろう。ウィキの「狩野永納」によれば、狩野永納は『狩野山雪の長子として京都に生まれ、幼少より父から狩野派の画法を学んだ』。慶安四(一六五一)年、二十一歳の時、『父山雪が亡くなると、直ちに家督を継いで、父と同じ「縫殿助」を称すようになる。「縫殿助」は百官名であるが、山雪の代から京狩野歴代当主が名乗るようになった。「永納」の名も家督相続時には明らかに用いており、頭の「永」字は家系の曽祖父木村永光、或いは画系の曽祖父にあたる狩野永徳、更に遡れば』、『狩野元信が剃髪後に称した「永仙」の一字である。狩野山楽・山雪の「山」字ではなく、狩野派にとって由緒ある「永」字を冠することで、家系と画系への帰属意識を標榜し、以後京狩野は名前に「永」字を冠することになった。ただし、「山」字も捨てたわけではなく、永納が「山静」の別号を名乗ったように、後の画人も号に山の字を付けるのを慣わしとしている』承応二(一六五三)年六月、『禁裏が炎上してしまったため、翌年から』明暦元(一六五五)年に『かけての再建工事では、狩野探幽、海北友雪、土佐光起らに混じり参加、「外様番所十二条敷」に「竹図」、「長橋上段之次」に「軍鳩図」を描いている』。次の寛文三(一六六三)年の造営の際にも、『内侍所「南御座敷」に「松鷹図」を描』き、延宝三(一六七五)年の『造営でも、中心となった狩野安信らと共に加わっている。しかし、これらの作品は現在全く遺されていない』。『学究肌で絵を描く傍ら』、『古画の研究にも励み』、『鑑定に精通した』とある。

「みづから、難波津にのゝしり」自身で出張って行って、自ら噂を立てて、評判を喧伝し。]

 

 そのさまといひ、その風景、まことに常々荒言(こうげん)せしにもおとらず、

「さながら、阮箴(げんかん)・向秀(かうしう)も生(いけ)るが如く語るがごとし。」

と、誰々も肝をつぶし、感にたへけるに、其座にあり合ひける客の中に、山本隨桂(ずいけい)といひけるは、是れも、近き比(ころ)より洞蕭(しやくはち)に妙を得たるよしにて、此(この)家に來り、一管(くわん)の筒音(つゝね)に駿馬(しゆんめ)の魂(たましひ)を奪ひ、獅子踊(しゝおどり)の祕曲に、飛ぶ鳥を落(おと)しけるより、無二の出頭(しゆつとう)となりて、けふも一列の人數(にんじゆ)なりしが、此(この)等叔が墨繪を、つらつらと見ていふやう、

「誠に此繪は、よく形勢を書き得たる所あり。しかしながら、今少し不足なる事は、その意(こゝろ)ばへを書きおほへぬ所ありて、その所と、その所作とは、かなひたれども、その時の人のおもしろしと思ひこみたる體(てい)を書き給はず。あたら、繪の疵(きず)かな。我、旦那のために、此繪をなをして參らすべし。なをせばとて、此屛風を書き汚(け)がすにてもなし。只、このまゝにて各別に、なをし申さん。」

といへば、亭主をはじめ、一座の衆中(しゆちう)、

「是れは。希有(けふ)かる、いひぶん。縱令(たとひ)、まことにもせよ、餘りなる事なり。其方や我々が間(あひだ)は、何をいひたりとても、苦しからず。始(はじめ)ての客といひ、等叔の事まへ、氣のどくなり。」

といはるれども、猶、きゝもいれず。

[やぶちゃん注:「阮箴(げんかん)」阮咸(げんかん 生卒年不詳)は、「竹林の七賢」(三世紀の三国時代の末期の魏にあって、俗世から超越した清談をこことして交遊した、彼と、阮籍・嵆康(けいこう)・山濤(さんとう)・劉伶(りゅうれい)・向秀(しょうしゅう)・王戎(おうじゅう)・阮籍(彼が指導的立場にあった))の一人。琵琶を善くし、音律に精通していた音楽家であった。

「向秀(かうしう)」(生没年未詳)は「竹林の七賢」の一人。通常、現行では「しょうしゅう」と読む。

「山本隨桂(ずいけい)」不詳。

「洞蕭(しやくはち)」「尺八」。

「獅子踊(しゝおどり)の祕曲」不詳。関東地方を中心に起こった獅子舞に「獅子踊」があるが、これは獅子頭(ししがしら)を被って胸に太鼓をつけ、一人が雌獅子、二人が雄獅子に扮し、花笠を被った四人が四隅で簓(ささら)を摺(す)る芸能で、尺八とは無縁である。

「出頭(しゆつとう)」他から抜きん出た名手。

「希有(けふ)かる、いひぶん」あり得ない、身分(彼は絵師ではなく尺八の楽士であるから)不相応な言い分。

「其方や我々が間は」その方や我らだけのおる場にあっては。

「事まへ」手前。身分不相応を指す。]

 

 隨桂は、いよいよ此事をいひつのりける程に、等叔も今はこらへ兼ね、しからば貴殿の御手際を見申したき由、頻りに望みかけられ、既に事やすらかならねば、亭主も何とぞして留(と)めたく、

「しからば、先づ、我々は此(この)事、請合(うけあ)はれざる衆の内なりといへども、其方には、よくよく覺えあれば社(こそ)、かく、いひつのり給ふなれば、定めて、人しれぬ術もこそおはすらめ、さりながら、是れほどの事、そのまゝにせんも、いかゞ也。若しのたまふ所、實(まこと)に妙(めう)あらば、吾、金百枚を出だして其方に參らせん。又、もし、のたまふ事、僞りとならば、金十兩を以て、われわれに禮物(れいもつ)とし給へ。」

と、いひかけしかば、等叔も、かつにのりて、

「なるほど、御亭主の了簡の通り、此事、誠にのたまふやうに御なをしあらば、吾も金子百兩は參らすべし。はやはや。」

とのぞまれ、隨桂は、德づきたる顏(かほ)やうして、やがて屛風にむかひ、飛びあがると見えしが、其まゝ、形(かたち)、消へて、見えず。

 人々、

「是れは。」

と、立ちさはぎ、そのあたり、殘るくまなく尋ねもとめけれども、隨桂が行衞(ゆくゑ[やぶちゃん注:ママ。] )、なくなりぬ。

[やぶちゃん注:「貴殿」批判的批評をした隨桂を指す。

「事やすらかならねば」状況が座興の戯れ言の域を越えてしまい、穏便に計らい兼ねる事態となってしまったので。

「何とぞして留(と)めたく」場が白け、随桂に対して不興の極みとなってしまったことから、いい加減に止められなくなってしまい。

「請合(うけあ)はれざる衆の内なり」とてものことに貴殿(随桂)の批評は、とてものことに受け入れ難い者らが総てである。

「社(こそ)」限定の強意の係助詞。

「定めて、人しれぬ術もこそおはすらめ、」後が「さりながら」と続く以上、「こそ」已然形の逆説用法である。されば、私は読点とした。

「妙(めう)あらば」不可思議な妙法の修正の手段があるというのであるなら。

「禮物(れいもつ)」その履行出来なかった罰金としての慰謝料。

「かつにのりて」「勝つに乘りて」。図に乗って。

「德づきたる顏」得心した顔つき。但し、ここではその金を得られるというような「德」を表面上は掛けている。実際には彼はその金を得ない訳であるが。]

 

 いづれも、奇異のおもひをなしける時、屛風の繪の中に、隨桂が聲、ありて、いふやう、

「何と、おのおの。僞りならぬ事と知り給へりや。たゞいま繪のもやうをなをし侍るぞ。」

といひしが、しばらくありて、屛風の繪の中より、隨桂が姿、あらはれ出で、もとの座に歸り、一座の人におしへていふやう、

「今こそ、此繪のたましゐは、そなはり侍れ。これほどよき景にむかひ、かくまでたのしび遊ぶ體(てい)なるに、人形(にんぎやう)どものたましゐを見るに、さらに此景をたのしぶさま、ならず。さるによりて、此七人の内、阮籍が顏を、なをして、『につこ』と笑ふさまに書きなをしたり。よく寄りて見たまへ。」

といふほどに、人々、うち寄りて、よく見るに、いかさま、等叔が筆のおよぶ所にあらず、阮籍が像ひとりは、口もと、餘(よ)の人に似ず、眞實より此景にたのしみ、實(まこと)に咲(ゑ)みをふくみたる體(てい)、言語(ごんご)のおよぶ所にあらず。等叔も、今はあきれて詞(ことば)なく、賭(かけもの)をつぐのひ、猶その上に、彼(か)の隨桂が妙を傳へん事を望みけるに、何(いつ)の程にか、逐電してその行衞を失ひけるとぞ。

[やぶちゃん注:「人形(にんぎやう)どものたましゐ」人の姿や表情に現われた、真の心。

 思うに、これは絵の中に入るシークエンスからして、例の果心居士のインスパイアであろう。私の柴田宵曲 妖異博物館「果心居士」を参照されたい。] 

栗本丹洲 魚譜 ガンギ (コモンカスベの♂一個体の背部と腹部)

 

Ganigihaibu

Gangihukubu

 

[やぶちゃん注:「ガンギ」と称する同一個体の背部と腹部の左右対称図。図版は国立国会図書館デジタルコレクションの「魚譜」からトリミングした。頭部の突出した尖端が切れているのが実に惜しいが、同一個体をこうした正対称形で並べたのは画期的である背部。]

 

□翻刻1(一行字数を一致させたそのまま。【伸】は「見せケチ」と思われるものをかく示した。この「剛」の左部分には濁点のような記号も附されている(再現し難いので、再現していない)。これを私は「見せケチ」の符号と見た

ガンギ 癸未四月十一日に一魚肆ヨリ肉至薄ク下品ノモノナリ尾ニ傍テ

長キ棒ノ如キモノ二 本出直尾ヲ挾ミテアリコヽニ尾ヲ屈テ図タル

ヨリ傍ノ兩尾モ開キ   テ図シヌ全ク生物ハ剛【伸】直ナルモノナリ

 

 

同右 腹一靣白シ但鼠色ニ乄白点アリ漁人云

雄ナルモノ三尾雌ナルモノ一尾アリトコヽニ図スルモノハ其雄

ナルモノナリ此モノ肉ナリ  味至テ美ナラズ

賤民コレヲ食トス

[やぶちゃん注:以下の右体盤下方に書かれた二行は、墨色が有意に薄いところから見て、後から加筆・添書きされたものと私は推定する。但し、意味は「賤民コレヲ食トス」に追加したものとして捉えておく。]

          前圖比スレハ

            至下品ナリ

 

魚肆云ガンギヱイ相州

町家邉ヨリ多ク來ル

マガンギ背灰イロ

又鼠色ナリ

黒ガンギアリ

背ノ色

黒シ

 

□翻刻2(字を同ポイントとし、約物を正字化し、一部のカタカナをひらがなに代え、句読点・記号を打ち、推定で送り仮名等を送って、一部を連続させた。一部に推定で読みを( )で附した。「1」で「見せケチ」と判断した箇所は「剛」の代わりに「伸」とした)

 

「ガンギ」 癸未(みづのとひつじ)四月十一日に、一魚肆(うをみせ)より出だす。肉、至つて薄く、下品のものなり。尾に傍(そ)ふて別に長き棒の如きもの、二本、出で、直(ただち)に尾を挾みて、あり。ここに尾を屈(かが)めて図(ず)したりより、傍(かたがら)の兩尾も開きて図しぬ。全く、生物(いきもの)は伸直(しんちよく)なるものなり。

 

 

同右 腹、一靣(いちめん)に白し。但し、鼠色にして白点あり。漁人、云(いは)く、「雄なるもの、三尾、雌なるもの、一尾あり。」と。ここに図するものは、其の雄なるものなり。此のもの、肉なり、味、至つて美ならず。賤民、これを食とす。前圖に比すれば、至つて下品なり。

魚肆(うをみせ)云(いは)く、「『ガンギヱイ』は相州二タ町家(ふたまちや)邉りより、多く來たる。『マガンギ』は、背、灰いろ、又、鼠色なり。『黒ガンギ』あり、背ノ色、黒し。」と。

 

[やぶちゃん注:切れているが、吻の軟骨が有意に突出していること、背面全体に細かい茶褐色の斑が服の「小紋」のように描かれていること、背面体盤の後部の左右に特徴的な白い円紋があること、そして極めつけは、尾部に三列の肥大した棘が描かれていることから、

軟骨魚綱板鰓亜綱ガンギエイ目ガンギエイ科Rajinae 亜科コモンカスベ属コモンカスベ Okamejei kenojei

としてよい(肥大棘はでは五列もある「岩手県水産技術センターWeb」のこちらを参照されたい。これは本種の大きな特徴なのである)。「デジタルお魚図鑑」の「コモンカスベ」によれば、体は黒褐色で、左右に一対の眼よりも大きい白色の斑紋がある。頭部の先端部は半透明で、は孵化してから三年二ヶ月から五ヶ月ほどで性成熟する。一年に産卵する数は成熟してから三年までが六十個ほど、四年以降は二倍の百二十個ほどとされる。水深三十から百メートルの砂泥底に棲息する。主に魚類(ネズッポ・マハゼ・イカナゴなど)や甲殻類を食べるが、稀にイカ類を食べることもあるとある。

 しかし、ここまでくると、丹洲は恐らく独自の驚くべき精緻な種識別能力を持っていたのではないかという感じがしてくる。背面模様や形状からは、ガンギエイ・カスベの類いは全体に似通ったところが多い一方で、同種内でも模様や細部形態に個体差が激しかったりするのに、本巻子本では先行している諸エイ類で、同じような名前をタイトルに附しながらも、私のショボい同定力を以って成したしょうもない同定でも、同一種がダブることが殆んどないからである。

・「ガンギ」くどいが、ガンギエイ目 Rajiformes なのだから、この名は全く問題ない。いや、何より、和名「雁木鱏」は既に述べた通り、これらの類の尾にある短い棘の列が「雁木」(渡り鳥の雁(ガン)の飛ぶその列のようにギザギザの形をしたもの)をしていることに因むことから言うなら、その列をで三列、で五列も持っているコモンカスベは、まさに名にし負う「雁木鱏」とこそ言えるのである。

・「癸未(みづのとひつじ)四月十一日」文政六年四月十一日で、グレゴリオ暦一八二三年五月二十一日。

・「魚肆(うをみせ)」魚屋。「肆」は現在も本屋を書肆と称するように、物を並べて売る「店」を指す。

・「尾に傍(そ)ふて別に長き棒の如きもの」腹鰭。 

・「伸直(しんちよく)なるものなり」「思う以上によく伸び縮みし、思い通りに曲げることが出来るものである」の意。でもね、丹洲先生、切れてる頭部尖端の軟骨、これはね、手ではとてものことに曲げることも折ることも出来ないほど硬いんですぜ!

・「靣」「面」の異体字。

・「雄なるもの、三尾、雌なるもの、一尾あり」大噓

・「其の雄なるものなり」瓢箪から駒、噓から出た誠でというのは正解です!

・「肉なり」漢字表記では「肉形」「肉態」で、肉の性質・味わいの意で採る。

・「前圖に比すれば、至つて下品なり」老婆心乍ら、この「前圖」とは背部を指すのでは当然ない(だって同一個体だもの)。これはこの一つ前で紹介した、ガンギ「真正のガンギエイ一個体の背部と腹部」同定を指しているのである。そこで丹洲はキャプションでこのエイは『「ヨコサ」より、よろし』(板鰓亜綱トビエイ目ツバクロエイ科ツバクロエイ属ツバクロエイGymnura japonica より美味い)と述べている。それに比して、遙かに下級品で、不味いというのである。哀れ、コモンカスベちゃん!

「ガンギヱイ」これは広義のガンギエイ目 Rajiformes に属するエイの仲間を指していると考えてよい。狭義には、一つ前で紹介したガンギ「真正のガンギエイ一個体の背部と腹部」同定、軟骨魚綱エイ目ガンギエイ科Rajinae 亜科ガンギエイ属ガンギエイDipturus kwangtungensis となる。分布的にも問題ない。但し、直後に出る「マガンギ」というのは「眞雁木」で、しかし「背、灰」色、或いは「鼠色」とするところを見ると、或いは広義の「カスベ」類を包含してしまっている可能性があり、「眞雁木」を「マカスベ」と読み換えるならば、近海性でよく獲れ、古くから食用に供されてきた、ガンギエイ科メガネカスベ属メガネカスベRaja pulchra を限定的に指す可能性も考える必要が出てはくる。但し、同種は現在、太平洋沿岸の東日本では銚子附近までしか分布していないから、当時の三崎の漁師が知っているというのはやや微妙ではある

・「相州二タ町家」これは「二町谷」で、狭義には現在の神奈川県三浦市白石町の、この附近(グーグル・マップ・データ。バス停名に「二町谷」が残る)の地区名である。しかもこの図を見て戴ければ判る通り、ここは則ち、現在の三崎港なのである。されば、ここから揚がるという謂いも腑に落ちるのである。

・「黒ガンギ」不詳。背部がより暗い色を呈するというところは、ガンギエイ科ソコガンギエイ属ドブカスベ Bathyraja smirnovi が浮かぶが、彼らは北方種であるから、三崎の漁師は知らない。さすれば、ガンギエイDipturus kwangtungensis 或いはガンギエイ目 Rajiformes に属するものの中で背部の色が黒い個体の通称総称ということになる。]

 

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十八年 生きて相見る汝と我

 

     生きて相見る汝と我

 

 七月半(なかば)あたりから八月へかけて、居士は実に頻繁に手紙を書いた。それも長文のものが多く、鳴雪、飄亭、碧梧桐、虚子の諸氏に宛てたものが大部分を占めている。健康が漸く回復に向ったのと、東京を離れて談敵がないため、居士をして如上(じょじょう)の人々に多く書を寄せしめることになったのであろう。居士の「陣中日記」を見ると、神戸から広嶋へ向う途中のところに「月明須磨を過ぎて春夢婆娑(ばさ)たり」とあって、

 

 兩三漁戸渺春波

 山下斷碑涕淚多

 一去芳魂招不返

 靑松烟月古須磨

  兩三の漁戸 春波 渺(びやう)たり

  山下(さんか)の斷碑 涕淚 多し

  一たび去らば 芳魂(はうこん) 招けども返らず

  靑松 烟月 古への須磨

 

の詩及(および)

 

 立ち出でて蕎麥屋の門の朧月

 

の句を録し、「たゞ思ひやるばかりになん」と附加えている。陣中の無理が遼東海の喀血となり、神戸病院に九死に一生を得て、思いやったばかりの須磨に保養生活を送るということは、往路の居士の全く予期しなかったところに相違ない。今や須磨は居士の朝夕散歩する舞台になった。小説「月見草」及「叙事文(じょじぶん)」の中の引例に出て来る須磨の描写は、この時の見聞によるものである。七月二十七日鳴雪翁宛の手紙には「當地景色はよろしけれど何處へ行ても變化なき處なれば發句にも成不申候」と書いてあるが、

 

 曉や白帆過ぎ行く蚊帳の外

 入口に麥ほす家や古簾

 すゞしさや須磨の夕波橫うねり

 夏山の病院高し松の中

 人もなし木蔭の椅子の散松葉(ちりまつば)

  鹽谷

 夏館(なつやかた)異人住むかや赤い花

 

など、須磨滞在中の作は決して少くなかった。

[やぶちゃん注:「婆娑(ばさ)」「婆娑」は当て字で、一種のオノマトペイア。元来は「舞人の衣の袖の翻るさま」で、そこから「影などの対象物が乱れ動くさま」となり、聴覚的にも「物に風や雨などが当たって、がさがさと音を立てるさま」となった。ここは歌枕としての須磨、そして月明に仄かに見える侘しい漁村の景が、厭がおうにも、心を刺激して穏やかでなくさせるさまを言っているのであろう。

「兩三の漁戸」二つ、三つ、僅かに寄り添うように侘しく建っている貧しい漁師の家々。

「渺(びやう)たり」月明のうち乍らも遠く遙かで果てしない。底本の蜂屋邦夫氏の訓読は『渺(はるか)なり』。

「山下の斷碑」従軍へ向かう筆者という事実、ロケーションの史実、及び「山下の」崩折れた碑となると、私は須磨の手前の一の谷から西一帯の海岸、源平の戦いに於いて「一の谷の戦い」の舞台となった「戦(いくさ)の濱」(知られた「鵯越えの坂落とし」はこの裏手の断崖)にでもあった旧蹟を示した毀ちた碑の謂いか。敦盛の死など、「涕淚多し」は腑に落ちる。

「月見草」明治三〇(一八九七)年作か。未完と思われる。前に出した国立国会図書館デジタルコレクションの「子規小説集」の画像でから視認出来る。

「叙事文」『日本』の明治三三(一九〇〇)年一月二十九日・二月五日・三月十二日発行分に分載。

「鹽谷」現在の兵庫県神戸市垂水区塩屋町(しおやちょう)。須磨地区の西に接する。(グーグル・マップ・データ)。明治末から大正期の垂水地区は須磨の一部として別荘地・避暑地として人気となり、後には外国人住宅街も出来た。]

 居士が須磨の地を去ったのは八月二十日であったが、八月二十五日の『日本』に「養痾雑記(ようあざっき)」を掲げた。第一回は「疾病」及「須磨」の二篇である。居士は外人の住宅と旅館、下宿屋の多くなった須磨の変化を叙し、「髮は風に吹かせ袂にもしほたれ桶(をけ)荷(にな)ひ來て汐汲(しほく)みしくはし少女はいつしかかき消えて、束髮に薔薇の插頭(かざし)をさし天然の曲線を現して海水浴するは見馴れぬ令孃なり。文明の利器は後添(のちぞへ)の妻にして、さきの少女のためには繼母にやなりぬらん。あはれまゝ母はやさしき少女を無殘に打ち殺したることよ」という譬喩的筆法を用いている。「異人住むかや赤い花」の句もまたその文中にある。

[やぶちゃん注:「養痾雑記」「国文学研究資料館所」の山梨大学附属図書館・近代文学文庫所蔵「子規随筆  続編(子規没後直後の出版)の画像で読める(それで校訂した)。該当箇所は「須磨」の末尾、原書の百六十六頁である。「痾」は「こじれて長引く病気」の意。この警喩文、私はすこぶる好きだ。

「くはし」「細し」「美し」で形容詞シク活用。麗(うるわ)しい。細やかで美しい。]

 須磨を去った居士は途中岡山に一泊、広嶋に飄亭氏を訪れた。飄亭氏の帰国は七月未だったらしいが、予備病院付として引続き広場にあったのである。この会見の顛末を「夢か」と題して『日本』に送ったのは、居士でなしに飄亭氏であった。相見ざること一年余に過ぎぬが、居士はこの間に危く一命を失わんとし、飄亭氏は硝煙弾雨を潜って各地に転戦した。居士が先ず筆を執って「秋風や生きてあひ見る汝と我」と書し、飄亭氏が「計らざりき君この秋を生きんとは」と和したのも決して誇張の言ではない。

 広嶋滞在二日の後、八月二十五日居士は松山に入った。二番町の漱石氏の寓居に同宿するようになったのは、著松(ちゃくしょう)後(ご)幾日かたってからであろう。従軍前松山に立寄った時にも、松風会なるものが已に存在しており、送別の句などがあったことは「陣中日記」にも見えているが、再度の居士の来松を得て、故山の俳句熱は俄に盛になった。九月七日碧梧桐氏に宛てた手紙に「夏目も近來連座連中の一人に相成候。訪問者多きと多少の体溫の昇降あるとの二原因にてまだ道後へも三津へも高濱へも參らず」とある。この訪問者の大多数は松風会の連中だったのであろう。同じ手紙に「歸郷後手紙を書くことうるさく相成」とあるのも、訪問者が多いため、須磨時代のような閑暇を見出しにくくなったに相違ない。

[やぶちゃん注:「松風会」(しょうふうかい)は子規直系の『日本』派の俳句結社で、全国に先駆けて、明治二七(一八九四)年三月二十七日に発足していた。参照した現在同会公式サイト「愚陀佛庵解説によれば、当初の『会員は、松山市立高等小学校校長・中村一義(号 愛松)、教員・野間門三郎(号 叟柳)ら、同校の教員だけで構成されて』いたが、翌、明治』二十八『年夏から秋にかけて、病身の正岡子規が夏目漱石の下宿・愚陀佛庵に』五十二日も『の間、同居し』『たが、松風会の面々は連日、愚陀佛庵で子規の熱心な指導を受け』、『いつの間にか』、『夏目漱石も句会に加わり、夏目漱石も多くの秀句を残す俳人とな』った。『松風会は大正初期まで続』いた。『「松風会」の「松」は「松山」の「松」。「芭蕉」の「蕉」にも通じるもの』である、とある。]

 漱石氏の俳句はこの時にはじまったわけではない。二十二年の最初の喀血当時、居士に宛てた手紙の中に已に時鳥の句が二句記されているから、年代からいうと鳴雪、諷亭、碧梧桐、虚子の諸子よりもかえって古いことになるかも知れぬ。その後も居士宛の手紙には時折俳句が記してあり、『小日本』には何句か掲げられてもいる。居士が「明治二十九年の俳句界」の中で、「漱石は明治二十八年始めて俳句を作る」といったのは、従来よりも力を用いるようになったことを指すのである。前に引いた神戸病院宛の手紙に「小子近頃俳門に入らんと存候、御閑暇の節は御高示を仰ぎ度候」とあるのを見れば、居士の来松以前から作句の心は動いていたので、松風会の人々によってそれが促進されたに外ならぬのであった。

[やぶちゃん注:「二十二年の最初の喀血当時、居士に宛てた手紙の中に已に時鳥の句が二句記されている」岩波旧全集の書簡の書簡番号一。明治二二(一八八九)年五月十三日附正岡常規(本郷区真砂町常盤会寄宿舎)宛書簡(牛込区喜久井町発信・署名「金之助」)の末尾に載る二句。大喀血直後の見舞い状である。因みに、この折りの医師の診断によって肺結核と極まった。

 歸ろふと泣かずに笑へ時鳥

 聞かふとて誰も待たぬに時鳥

後の追伸文に『僕の家兄も今日吐血して病床にあり斯く時鳥が多くてはさすが風流の某も閉口の外なし呵々』とある。]

 

2018/03/10

芥川龍之介メモランダ――軍艦「金剛」乗艦時のノート――

 

[やぶちゃん注:本資料は岩波新全集第二十三巻(一九九八年一月刊)で初めて翻刻されたもので、原資料(メモ四枚)は山梨県立文学館編「芥川龍之介資料集・図版2」(一九九三年同館刊)の画像から起したもので、同全集では「ノート」パートに入れ、『「軍艦金剛航海記」ノート』という仮題がつけられてある。確かに内容から海軍機関学校の英語科教授嘱託であった折りの大正六(一九一七)年六月二十日(本文に従えば午後一時半前後)、当時の日本帝国海軍の誇る超弩級新鋭巡洋艦「金剛」(排水量二万六千三百三十トンで全長は二百十四メートル。イギリスに発注された最後の戦艦であった。大正二(一九一三)年八月十六日に竣工、回航は日本海軍の乗員によって行なわれたが、大艦であったためにスエズ運河を通れず、喜望峰回りで同年十一月五日に横須賀に到着している)に同校生徒の航海見学実習に付添として乗艦、横須賀を発して翌々日の六月二十二日の午後に山口県由宇(ゆう)に到着するまで、稀有の軍艦乗船体験をした。これは後、「軍艦金剛航海記」(「青空文庫」で正字正仮名の正統な形で全文が読める。以下リンクは同じ)として同年七月二十五日から二十九日までの『時事新報』に連載されることとなる。本メモはその時のことを記したものである。但し、後に記すように、別に手帳にも詳細なメモがあることから、これは或いは後日、時系列で記憶をメモランダしたものかも知れないし、或いは別に共時的に記した日記風のものなのかも知れないが、記載内容とその順序が一ヶ月後に発表された「軍艦金剛航海記」との構成一致が顕著であるから、新全集が仮題するように、「軍艦金剛航海記」を書くための構想メモの可能性が大ではある。

 しかも、その新全集の「後記」によれば、これら四枚とは別に、『他に艦の部所の名称を記した五枚もあ』る、とあるのである。私はそれが何故、ここで一緒に電子化されていないのか、大いに不審であり、不満である。ただの名前の羅列だから外したというのであれば、芥川龍之介の手帳類の個人住所も同等であり、寧ろ、個人情報保護の観点から見れば、それをだらだらと住所と名前まで活字化しているのは、遙かに問題の大きい翻刻であるとさえ言い得るからである。

 そうして底本が翻刻しなかった部署の羅列や艦内の図を想起して以下のメモと合わせて考えると、それはもう、私が既にブログ・カテゴリ「芥川龍之介 手帳」で電子化注した芥川龍之介 手帳 1―15から芥川龍之介 手帳 1-18の内容を髣髴させるものと考えてよかろう(「1-16」等では、まさに以下に出てくる司令塔や砲塔の手書きの模式図・構造図も添えてある)。とすれば、本メモは私の完結したブログ・カテゴリ「芥川龍之介 手帳」に添えるに、これほど相応しいものはないと考えた。

 底本は無論、岩波新全集第二十三巻に基づいたが、今までの仕儀通り、漢字は概ね、正字化した。用紙の仕様が「後記」には書かれていないのでよく判らないが、罫線(或いは原稿用紙かも知れぬ。その場合は、四百字詰)の引かれたもので、欄外への書き込みが認められる。【欄外】としたものがそれである。用紙ごとに翻刻し、それぞれでオリジナルに注した。なお、本文内のアラビア数字は総て縦書正立(二桁は二桁そのままで)である。【2018年3月10日 藪野直史】]

 

 

□1枚目

【欄外】ブイ赤し 山靑し 空高し

 

午後一時三十分あまり ランチにて金剛に至る 途上 岩邊大佐を榛名におくる

金剛へつく途中 艦長のランチ(はるな)の爲に 舷梯につくをまてり ランチ大にゆる

上れば 右舷砲塔下に四五人の士官 副長と共にあり 白衣 日に光る 帽をとらんとしてとれず 副長の顏 趨雲に似たり[やぶちゃん注:上の「副長の顏 趨雲に似たり」の箇所は改行の可能性もあるが、私はそのようには判断しなかった。]

田中先任部長に導かれ ウアドルームに至る 飛行機を見 艦長をとひ 小憩後 艦内旅行をなす

14吋砲口に 人あるを見る 八田氏にあふ

 

【欄外】ウアドルームは白し 丸窓 バア臺に鏡 銀の花瓶 黑きゴム布をかけし卓 電氣扇 電燈(二つ(1)は 砲の發射の爲やぶると云ふ)

 

部屋定まる 中甲板の一室 机 寢臺 輪旋椅子 白き周圍に眞鍮の金具 赤毛布

機關少尉三人と共に語る 艦は二隻の小蒸氣によりて 方向を轉ぜんとしつつあり 出航準備のラツパなる 少尉一人來る 航海準備のラツパと共に直去る 颯爽たり ドラなる 夕食なり 鮭とさつま汁

 

【欄外】蝶(蛇の目蝶)とぶ さびし

 

[やぶちゃん注:「ランチ」launch。小型の蒸気船。汽艇。

「岩邊大佐」後に海軍中将となる岩辺季貴(いわべすえたか 明治五(一八七二)年~昭和三〇(一九五五)年)であろう。熊本県下益城郡小川町(現在の宇城市)生まれ。明治二七(一八九四)年に海軍機関学校卒業後、機関士候補生として防護巡洋艦「高千穂」に乗組み、日清戦争に従軍する。装甲巡洋艦「八雲」回航委員となり、明治三七(一九〇四)年二月には戦艦「八島」分隊長として日露戦争に出征、翌年一月、海軍機関少監に進み、通報艦「八重山」機関長に転じた。明治三九(一九〇六)年、海軍機関少佐に進級、翌年、元小川町長岩辺知言の養子となった。本記載の二年後の大正八(一九一九)年六月(この年の二月に芥川龍之介は既に機関学校を退職している)、海軍機関少将に昇進し、聯合艦隊機関長と第一艦隊機関長を兼任、同年十二月、横須賀鎮守府機関長に就任している。大正一二(一九二三)年十二月、海軍機関中将に進み、大正一三(一九二四)年、予備役。二年後に退役した。以上はウィキの「岩辺季貴」に拠った。本時制は、この下線太字の間となり、当時は大佐になっているわけで、既に当時の横須賀鎮守府の機関長の上層部の一人であったことが判る。この時は伴走した「榛名」に乗船臨検したものか

「榛名」「金剛」型戦艦の三番艦。排水量二万六千三百三十トン・全長二百十四メートル。太平洋戦争では、ガダルカナル島の戦い・レイテ沖海戦を経て、呉に帰港したが、昭和二〇(一九四五)年七月二十四日と二十八日の呉軍港空襲の爆撃によって、大破浸水し、着底してしまった。敗戦後の翌年、解体された。参照したウィキの「榛名(戦艦)」によれば、『榛名は』太平洋戦争『開戦時』で既に艦齢二十六年の『老朽艦で』あった『にも拘らず』、『最前線にあって主要海戦の多くに参加しており、しばしば損害を受けた。その姿は開戦直前に完成して最前線での主要海戦でもほとんど損害を負うことがなく「幸運の空母」とも賞される空母』「瑞鶴」『と対照的であるが、この』二『艦は駆逐艦』「雪風」『などとともに「日本海軍の武勲艦」と評されることが多い。また』、『日本戦艦で最も多くの海戦を生き延び、その終末を解体という形で迎えたことから、諸書には「戦艦榛名は戦後復興のための資材となった」旨の記述が多くみられる』とある。この当時の「榛名」艦長は上田吉次大佐(?~昭和三八(一九六三)年:山形出身海軍兵学校を明治三一(一八九八)年第二十六期卒)である。

「艦長のランチ(はるな)の爲に」伴走する「榛名」艦長の上田吉次大佐の乗ったランチが「榛名」の舷梯に到着するのを洋上で待ったというのである。

「趨雲」(?~二二九年)後漢末から三国時代の蜀漢にかけての将軍で、劉備に仕えたことで知られる名雄。「三国志演義」で「五虎大将軍」(彼と関羽・張飛・馬超・黄忠)の一人として、『非常に勇猛かつ義に篤い、また冷静沈着な武芸の達人として描かれている。「生得身長八尺、濃眉大眼、闊面重頤、威風凜凜」(身長八尺の恵まれた体格、眉が濃く目が大きく、広々とした顔であごが重なっている、威風堂々)と体躯堂々たる偉丈夫として描写されている』とウィキの「趙雲」にある。

「田中先任部長」不詳。「先任部長」は「ハンモック・ナンバー」と呼ばれる、兵学校同期生間での当該職への先任順位を指す(本来の海事用語の「ハンモック・ナンバー(釣床番号)」は兵員が使用するハンモック(釣床)に記された番号を指す。例えば、兵員に割り当てられたそれに「三一八四」と記入されている場合、その兵員が「第三分隊第十八班第四部員」であることを意味し、その番号によって艦内での戦闘配置などが自動的に決まった)。海軍ではその差がはっきりしており、同時に同階級に任ぜられて、しかも同じ軍艦等で勤務する同期生の間にあっても「先任」か「後任」の区別は厳然としてあり、軍令承行令による指揮系統の序列は勿論、式典での整列の際などでも、このハンモック・ナンバー(序列)の順に並んだ。以上はウィキの「ハンモックナンバー」に拠った。

「ウアドルーム」wardroom。軍艦内の士官室。

「艦長」当時の「金剛」艦長吉岡範策(はんさく 明治二(一八六九)年~昭和五(一九三〇)年:当時は大佐かと思われる)。肥後国(現在の熊本県宇城市小川地区)に肥後藩士の長男として生まれた。済々黌高等学校を経て、明治二四(一八九一)年に海軍兵学校第十八期として卒業、海軍少尉となった。日清戦争では防護巡洋艦「浪速」の分隊士として東郷平八郎艦長の下に従軍、日露戦争では第二艦隊旗艦「出雲」の砲術長として日本海海戦に参戦している。防護巡洋艦「橋立」艦長から、装甲巡洋艦「浅間」艦長に補せられ、まさにその日に始まった第一次世界大戦に於いて、ドイツ艦隊の捜索や南洋群島の占領作戦に従事、大正四(一九一五)年、巡洋戦艦「筑波」艦長、本巡洋戦艦「金剛」の艦長を経て、大正六年、海軍少将に昇進して教育本部第二部長となった。その後、第一艦隊参謀長・連合艦隊参謀長を歴任、大正十年に海軍中将・海軍砲術学校長となり、大正十三年、五十五歳で予備役となった。「砲術の神様」と称された。以上はウィキの「吉岡範策」に拠った。

14吋砲口」三十五・五六センチメートルであるから、「金剛」が四基装備していた四十五口径三十五・五センチ連装砲のこと。他に五十口径十五・二センチ単装砲が十六基、五十三センチメートル魚雷の発射管が八門、装備されていた。ここはウィキの「金剛(戦艦)」に拠る。砲塔内の掃除をしていた兵が砲塔から頭を出していたのであろう。

「八田氏」「軍艦金剛航海記」の「一」と「三」に「八田機關長」という名が出る。

「夕食」海軍の夕食は早い。午後四時半には食べる

「蛇の目蝶」「じやのめてふ」。鱗翅目アゲハチョウ上科タテハチョウ科ジャノメチョウ亜科ジャノメチョウ属 Minois に属するジャノメチョウ、或いは、狭義の和名ジャノメチョウ Minois dryas。翅は表裏ともに一様に茶褐色で、前翅に二つ、後翅に一つの眼状紋を有するが、他のジャノメチョウ亜科亜科 Satyrinaeに多く見られる金色の輪郭がないために、あまり目立たない。「軍艦金剛航海記」では登場しない代わりに、エンデイング(「五」)に『やがて、何氣なく眼を上げると、眼の前にある十四吋砲の砲身に、黃いろい褄黑蝶が一つとまつてゐる。僕は文字通りはつと思つた。驚いたやうな、嬉しいやうな妙な心もちではつと思つた。が、それが人に通じる筈はない。機關長は相變らずしきりにむづかしい經義の話をした。僕は――唯だ、蝶を見てゐたと云つたのでは、云ひ足りない。陸を、畠を、人間を、町を、さうして又それらの上にある初夏を蝶と共に懷しく、思ひやつてゐたのである』と出る。『褄黑蝶』とは狭義には鱗翅目アゲハチョウ上科タテハチョウ科ドクチョウ亜科ヒョウモンチョウ族ツマグロヒョウモン属ツマグロヒョウモン Argyreus hyperbius であるが、本土では現認されることは非常に珍しい。芥川龍之介がジャノメチョウをかく呼んだのかも知れる。「蛇の目蝶」では如何にも暗い。或いは、龍之介の小説としての俳諧的諧謔季節表示の手法であったのかも知れぬ。しかし、いいコーダではある。]

 

 

□2枚目

前部艦橋に至る speed mark, revolution mark 等の説明をきく(あみ笠狀のもの) 黑の洋傘の連なるもの二つあるは標的をひける所なりと云ふ 一兵あり サウンディングプラットフォームにて 測鉛をふる 古のくさり鎌つかひの如し 十五 十七とさけぶ 尋の義なり 海靑く 夕日滿艦なり 榛名遠し

司令塔 海圖室 無線電信室等を見 艦尾に至る 艦の行く 飛ぶが如きを知る

ウァードルームにかへり 少時にして又 八田機關長と共に前部艦橋に至る 航海長以下 皆海圖を檢して 針路を定めつつあり 天水共に蒼茫 一點 觀音崎の燈臺を右舷に見る 更に一點 慧星に水にある如きは榛名のサアチライトならむ 風涼し

[やぶちゃん注:「艦橋」「かんけう(かんきょう)」は軍艦中央部の高い構築物で、展望が利き、将校が常駐して艦の指揮を執る中枢。所謂、「ブリッジ」である。

speed mark」速力標。マストのヤード(左右に張り出した支柱)から下がっている信号旗を掲げるためのロープの内、マストから見て一番外側にある赤い網状のもの出来た速力標。編隊航行中や洋上給油に於いて、相手に自艦の速力を知らせたり、諸条件下での所定のスクリュー回転数の増減を知らせるための「赤黒マーク」と言われる信号旗。Old Sailor 氏のブログ「Old Sailors never die; they just」の「護衛艦マストの両端に掲げられる速力標と赤黒マークの意味」を参考にさせて戴いた。

revolution mark」不詳。当初、戦闘態勢にあることを示す戦旗標かと思ったが、英語でこのようには言わない。寧ろ、芥川龍之介が直後に『(あみ笠狀のもの)』と言っているのは、前の速力標のことであるから、ここはスクリューの「回転数・旋回のレベル・回転運動・運動周期」のことを言っているのではないかと推理した。

「サウンディングプラットフォーム」sounding platform。測深台(そくしんだい)。主に対象との距離の測定(測程)と水深の測定(測深)に用いるためのもので、古い艦船では上甲板艦尾に突き出すした板状の台であったらしい。個人ブログ「軍艦三笠 考証の記録」の「測深台:Sounding platformを参照されたい。写真有り。但し、ここは艦橋からの眺めなので、測深台は少なくとも船尾ではない。スクリューへの巻きこみの虞れを考えるなら、艦首附近か。

「測鉛」繩の先に錘(おもり)の紡錘型の鉛を附けた測深索条。「古」(いにしへ(いにしえ))の武具である「鎖鎌(くさりがま)使い」のそれのように扱う、という表現が戯作好みの芥川龍之介らしくて楽しい。

「尋」水深の一尋(ひろ)は六尺で、百八十一・六メートル。

の義なり 海靑く 夕日滿艦なり 榛名遠し

「ウァードルーム」前の「ウアドルーム」wardroomのこと。士官室。

「天水」大空と海原。

「蒼茫」見渡す限り、青々として広いさま。

「觀音崎の燈臺を右舷に見る 更に一點 慧星に水にある如きは榛名のサアチライトならむ」大正六(一九一七)年六月二十日当日の神奈川県横浜日没は午後六時五十九分。ここは浦賀水道を抜けて、三浦岬の沖を相模湾に入った辺りである。]

 

□3枚目[やぶちゃん注:「※」の箇所に最初に掲げた手書き図が入る。「□□」は原資料自体の二字分の芥川龍之介自身による欠字。メモであり、内容的に伏字にする必要のあるものとも思かれないから、本メモが後になってから纏めて記されたとすれば、ただ姓を忘れただけかも知れぬ。]

Hammock

かへりて ハムモックの※の如くつれる下をくぐり くぐり 機關長室に至り 雜談す 黃笠の電氣 妻子の寫眞 造花の菊 日蓮上人 法華經等あり 籐倚子及輪轉倚子 丸窓は蓋ありと思ふ程くらし 手を出して 外の空しきを知る

バスに入りて(齋藤君の褌)後 夜食す

 

【欄外】さうめん 酒 ビール

 

醉ひて面白し いつまでもねると云ふ好男兒は 航空隊の□□大尉なり 十二時近く 就寢す

廿一日

砲塔

 

【欄外】下部發令所 彈庫 火藥庫

 

水電室

無線電信室

主機關部

汽罐部 ミルトン

夕方 軍歌をうたふ(勇敢なる水兵) ケープス

[やぶちゃん注:「ハムモック」hammock。ハンモック(麻布製の吊り床)のこと。

「外の空しきを知る」余りに暗黒なので、外にカバーする別な遮蔽蓋があると思って手を突き出して調べてみたが、空しく外気に触れたばかりであった、というのである。

「齋藤君」不詳。付添に同行した海軍機関学校の同僚であろう。

「夜食す」士官室で出た夜食。「軍艦金剛航海記」の「四」の後半の段落に出る。

「さうめん」「素麺(そうめん)」。

「下部發令所」私の「芥川龍之介手帳 1―16」の図を参照されたい。

水電室」不詳。当時、イオン交換法によって有意な電力供給が行われたとは思われない。これは「水雷室」(魚雷室)の誤りではなかろうか?

「ミルトン」不詳。

「軍歌をうたふ」ここは
「軍艦金剛航海記」の「四」の終りのシークエンスに完全に生かされている。

「勇敢なる水兵」日清戦争の逸話に基づく軍歌。佐佐木信綱作詞・奥好義(よしいさ)作曲。明治二八(一八九五)年発表。ウィキの「勇敢なる水兵」によれば、明治二七(一八九四)年九月十七日、『日本海軍の連合艦隊は黄海の鴨緑江河口付近で清国の北洋艦隊を捕捉、激戦の末にこれを破った。この海戦が黄海海戦であり、この「勇敢なる水兵」はその時の逸話に基づくものである』。『日本艦隊の旗艦「松島」は清国艦隊の戦艦「鎮遠」の巨弾により大きな被害を受けたが、その激戦の中、重傷を負った三浦虎次郎三等水兵は副長の向山慎吉少佐に「まだ定遠は沈みませんか」と訊ね、敵戦艦の「定遠』(ていえん)『」が戦闘不能に陥ったという副長の答えを聞いて微笑んで死んだ』。『この逸話は新聞で報道されるや』、『国民的な感動を呼び起こし』、『佐佐木信綱も感動して』全十『節からなるこの詞を一夜で作り上げたという。この曲は翌』『年の「大捷軍歌」(第三編)に発表された』(後、昭和四(一九二九)年に全八節に改詞されている)とある。You Tube こちらでダーク・ダックスの歌で聴ける。そこには歌詞(全八節版)も載る。

「ケープス」4枚目に続いている語で「ケープスタン」。後注する。

 

 

□4枚目

タンの上にて甲板士官 軍艦旗 落日光

夜 機關長の話

廿二日

朝 主計長の話 干物倉庫及俵倉庫に入る 十呎あまり?

 

【欄外】檣樓へ上る 室戸崎

 

軍醫部 治療室 病室及隔離室 戰時治療所

午 ひるね 句をつくる 柔道 相撲 機關長の氣合 i)腰 ii)喉 iii)背 iv)金丸

探照燈の光(本艦) 標的をてらす

ガンルーム 大導寺中尉

 

【欄外】寫眞 佐多崎 波石崎

[やぶちゃん注:「ケープスタン」capstan。キャプスタン。船舶に於いて碇(いかり)の鎖やロープを巻き上げるための、水平に回転するキノコ型の装置。車地(しゃち)・絞盤などとも呼ぶ。

「十呎」十フィート。約三メートル。四方ということであろう。そこにぎっしりと干物と米俵が詰まっているのである。

「檣樓」艦船のマストの上部にある物見台。「軍艦金剛航海記」の「五」でも、この快挙を語っている。芥川龍之介は木登りが特異で、泳ぎも達者であった。

「金丸」金玉のことか。「氣合」いの名の下に行われた、「精神棒」的な軍隊内の「シゴキ」が窺われる。「精神棒」とは日本海軍及び陸軍に於いて、古参兵・下士官が新兵を「教育」するという名目の「しごき」、体罰に用いられた硬い樫の木で出来た太い棒のこと。鞭や、その場にあった竹刀・木刀・バット・箒の柄・杓文字等で代用することもあった。孰れも兵士の尻目がけてフルスィングで叩きつけた。元は日本海軍に於いて、入隊者から人間性を奪いとり、命令には絶対服従する兵隊に仕立てることを目的で行われた虐待行為の際に使用する木の棒で、起源は英国海軍にあり、日本海軍でも通常英語で「バッター」と呼ばれ、敵性語を廃した当時は「軍人精神注入棒」と書かれていたらしい。私の梅崎春生「桜島」附やぶちゃん注(4)を参照されたい。

「ガンルーム」gunroom。元来は大邸宅の狩猟用銃器室を指すが、海軍では、軍艦の下級将校室、士官次室を指す。

「大導寺中尉」不詳。私ならずとも、後の大正一四(一九二五)年一月に『中央公論』にて発表された自伝的小説「大導寺信輔の半生」を思い出されるかも知れぬ。或いはその名の秘かなモデルなのかも、知れない。

「佐多崎」不詳。表記誤認が疑われる。

「波石崎」不詳。同前。]
 

芥川龍之介 保吉の手帳(「保吉の手帳から」初出形+草稿) 増補校訂

十一年前に作成した、芥川龍之介の「保吉の手帳」(「保吉の手帳から」初出形+草稿)を増補校訂した。

2018/03/09

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十八年 須磨保養院

 

     須磨保養院

 

 居士が須磨に移った七月二十三日の『日本』に「陣中日記」の四が出た。「陣中日記」は四月末に一回、五月中に二回出たまま、中絶の形になっていたのを、この時稿を継いで五月一日以後の経過を略叙し、全体のつづまりをつけたのである。日記は五月二十三日、和田岬検疫所を放免されるところまでで了っているが、最後に附記した文章の中で、居士は門出の装い勇しかりしに引替え、帰路はほうほうの体で船を上ったといい、左の数行を以て結んでいる。

[やぶちゃん注:「須磨保養院」現在の兵庫県神戸市須磨区一ノ谷町及び須磨区西須磨に渡ってある須磨浦公園(。グーグル・マップ・データ)の一部にあった。本邦の結核療養所の草分け的存在であった。

 以下は底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。「子規居士」原本で校訂した。]

 

まして廻り合せの惡きを思うへばわれのみにもあらざりけり。一年間の連勝と四千萬人の尻押(しりおし)とありてだに談判は終に金州半嶋を失ひしと。さるためしに比ぶれば旅順見物を冥途の土産にして蜉蝣(かげろう)に似たる命一匹こゝに棄てたりとも悼むに足ることかは。その惜しからぬ命幸に助かりて何がうれしきと疑ふものあらば去つて遼東の豕(ゐのこ)に問へ。

[やぶちゃん注:「金州半嶋を失ひし」「金州半嶋」は遼東半島のこと。日本と清の間で一八九五年四月十七日(発効は五月八日)に結ばれた日清講和条約(下関条約)で遼東半島は日本に割譲されたが、フランス・ドイツ帝国・ロシア帝国による三国干渉によって僅か六日後の四月二三日に清に返還することを求める勧告があり、清に返還された。

「豕(ゐのこ)」豚であるが、どうも差別語の臭いがする。]

 

 「陣中日記」の結末は発病後における最初の原稿であったが、居士はこれに次いで「五大画家盲評」を八月一日の『日本』に掲げた。当時京都には内国博覧会が開催されており、閉会期日も迫ったけれども、居士の健康はいまだ京都に赴いてこれを見るほどになっていない。博覧会に出品された六大画家の六枚屏風を、写真によって評したので、実物を見ない批評だから、自ら盲評と称した。雅邦(がほう)、玉章(ぎょくしょう)、小蘋(しょうひん)、楓湖(ふうこ)、和亭(かてい)、幽谷(ゆうこく)の六人のうち、幽谷氏の分は写真が手に入らぬので、一人省いて五大画家にしたのである。朋友なく書物なき僻地にぼんやり暮すことは困難だという居士は、先ず自己の手に合う範囲において『日本』の原稿を草しはじめた。満洲の美術、建築、演劇などについて記憶に存するところを記した「思出(おもいいず)るまゝ」という文章も次いで『日本』に現れた。

[やぶちゃん注:「雅邦」日本画家で東京美術学校絵画科主任橋本雅邦(天保六(一八三五)年~明治四一(一九〇八)年)。本名は長郷。

「玉章」日本画家で東京美術学校教授であった川端玉章(天保一三(一八四二)年~大正二(一九一三)年)。本名は滝之助。東京美術学校の同僚であった橋本雅邦とは並び称された。

「小蘋」女流南画家野口小蘋(弘化四(一八四七)年~大正六(一九一七)年)。本名は親子(ちかこ)。次の奥原晴湖(おくはらせいこ)とともに明治の女流南画家の双璧と称された。

「楓湖」女流南画家奥原晴湖(天保八(一八三七)年~大正二(一九一三年)。本名は池田節(せつ)。通称を「せい子」と称した。

「和亭」南画家滝和亭(文政一三(一八三〇)年~明治三四(一九〇一)年)。本姓は田中、名は邦之助、後に謙。

「幽谷」南画家野口幽谷(文政八(一八二五)年~明治三一(一八九八)年)。名は續(ぞく)。]

 居士が意を決して従軍を断行した時、『日本』の俳句の選は、鳴雪、碧梧桐、虚子の三氏の手に託されたらしい。出発以前広嶋に滞在していた間も、『日本』の選句について鳴雪翁、碧、虚両氏宛にしばしば注意の手紙をよこしていたが、神戸、須磨時代にも同じような手紙が何通もある。居士は如何なる場合にも、こういう注意を怠らぬ人であった。

 『日本』の俳句ばかりではない。居士の手紙は諸種の問題にわたって、後進誘掖(ゆうえき)のために費されている。森鷗外氏訳の『埋木(うもれぎ)』を居士が読了したのは七月十三日であったが、八月九日虚子氏宛の手紙にはこの小説に対する批評がある。『埋木』の主人公たるゲザが後年ステルニーの胡弓弾(こきゅうひき)にまぎれ込むことを以て、居士は大欠点としている。ゲザのような急性の人ならば、ステルニーに対して堂々と決闘を申込むか、あるいはステルニーの名を聴いて避けるのが普通の人情である、然るにこの両途に出でずして、胡弓弾となって動静を窺うというのは、後のステルニーに打ってかかるところと両立せぬ性格のように思う、もしゲザが失望の極)きわみ)、こういう妙な性格に変じたのだというならば、その変化についての弁解なり、順序なりがなければならぬ、というのである。これなどは居士の小説に対する批評眼を見るべきものであろう。

[やぶちゃん注:「誘掖(ゆうえき)」力を貸して導いてやること。強い動機づけをして駆り立てさせること。

「森鷗外氏訳の『埋木(うもれぎ)』」ボヘミア系ドイツ人女性作家オシップ・シュービン(Ossip Schubin:本名アロイジア・キルシュナー:Aloisia Kirschner 一八五四年~一九三四年)が一八八四年に発表した小説Die Geschichte eines Genies(「或る天才の物語」)。国立国会図書館デジタルコレクションの「水沫集」の画像でから読める。これは明治二一(一八八八)年九月にドイツから帰国した鷗外がすぐに翻訳に取り掛かった作品の一つ。明治二三(一八九〇)年四月から明治二五(一八九二)年四月までに十回に分けて『しがらみ草紙』に断続的に発表した。以上はベアーテ・ヴォンデ氏の津市立三重短期大学における公演原稿「『舞姫』120年を記念して 森鷗外と忘れられた女性作家 : ボヘミア系ドイツ人女性作家 Ossip Schubin オシップ・シュービン 本名 Aloisia Kirschner アロイジナ・キルシュナー(1854.6.171934.2.10)」(『三重大学日本語学文学』所収。JAIROからPDFでダウン・ロード出来る)を一部、参照させて戴いた。

「胡弓弾(こきゅうひき)」ヴァイオリニストのこと。]

 居士は須磨に移ってから、「俳家全集」を手許に取寄せた。「俳家全集」は「俳句分類」と共に進められた居士の編纂事業の一で、「俳句分類」が季題により、また一句の内容によって分類を続けて行ったのに対し、これは作者別に句を輯録したものである。居士が虚子氏に依頼して東京から送らせたのは、手許に俳句の参考書が乏しかったためであろうが、居士はこれによって古人の作品を点検し、自己の標準に照して好句を算えて見た。その結果を鳴雪翁に報告したところによると、百以上あるのが蕪村、六十以上が白雄、四十以上が几董、三十以上が去来というような順序で、一句も採り得ぬ者も十人以上に及んでいる。居士はこの研究を別に何にも発表しなかったけれども、古人の作品を改めて点検し、現在の標準を以て価値批判を試みるということは、決して徒爾(とじ)には了らなかったに相違ない。

[やぶちゃん注:「徒爾(とじ)」無益であること。無駄。「爾」は限定・断定の助字であろう。]

 『埋木』を評した虚子氏宛の手紙には、また次のようなことが記されている。

[やぶちゃん注:以下は底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。「子規居士」原本で校訂した。]

 

根岸草庵御叩(おたた)き被下(くだされ)菜畑の短册御目にとまり候よしの御消息に接し小生も異樣の快感起り申候。類題全集數十卷は如何(いかが)致し居候ひしか、定めて無恙(ぶやう)蟄居して病主人を相待ち居候事と存候。机上の塵埃深さ幾寸許りつもり居候ひしかこれも伺度候。

 

 異郷にあって家を憶うの情は、この数行の文字から十分に窺うことが出来る。「類題全集數十卷」とあるのは「俳句分類」のことである。寂然と留守に置かれた「俳句分類」を念頭に浮べた時、居士は従軍以来半歳、全くこの事業から離れていることに想到(おもいいた)し、「俳家全集」を手許に取寄せたことによって、せめてもの慰安としたのではないかと思われる。

 

雪夜   三好達治  (三篇)

 
 
   雪夜 一 
 
雪はふる 雪はふる 聲もなくふる雪は 私の窗の半ばを埋める
私の胸を波だてた それらの希望はどこへ行つたか ――また今宵
それらの思出もとび去りゆく 夜空のかぎり 雪はふる 雪はふる
雪は思出のやうにふる 雪は思出のやうにふる また忘却のやうにもふる
 
 
   雪夜 二
 
思出 思出 いつまでも心に住むと 誓ひをたてた思出
その思出も年をふれば 塵となる 煙となる ああその
かの裏切りの片見なら 捉へがたない思出の 性も是非ない
行くがいい 行くがいい 私を殘して 歸る日もなく行くがいい 思出よ
 
 
   雪夜 三
 
 
夜更けて 油の盡きた暗いランプ 低い焔 煤けた笠
既に私の生涯も 剩すところはもうわづか ああ今しばし
ものを思はう 今しばし 私の仕事に精を出さう
やがて睡りの時がくる 悲しみもなく 私の眠る時がくる
 
 
 
 
[やぶちゃん注:本日、「青空文庫」で各篇分立で示されたものをカップリングした。ネット上の「三好達治全集」の第一巻目次によって『「山果集」拾遺』に三篇で纏まって収録されていることが判ったので、以上のように示した。因みに「山果集」は昭和一〇(一九三五)年十一月四季社刊で、梶井基次郎の墓前に捧げられた詩集である。]

栗本丹洲 魚譜 ガンギ (真正のガンギエイ一個体の背部と腹部)

 

Gangiei

Gaigiekihara

 

[やぶちゃん注:図版は国立国会図書館デジタルコレクションの「魚譜」からトリミングした。台盤の左右端が切れているのが気に入らない。同一個体の背部・腹部の二枚続きはよい。]

 

□翻刻1

ガンギ 一種有斑紋者

    其味ヨコサヨリ

    ヨロシ

 

仝 裏 此圖甲申夏月参政堀田矦所惠贈

 

□翻刻2(訓読し、一部のカタカナをひらがなに代え、句読点・記号を打ち、推定で送り仮名を送って、連続させた)

「ガンギ」の一種。斑紋有る者。其の味、「ヨコサ」より、よろし。

 

仝(どう) 裏 此の圖、甲申(きのえさる)夏月、参政堀田矦(こう)、惠贈せらるる所のもの。

 

[やぶちゃん注:これは頭部の軟骨の吻状の突起及び前面の左右の曲線と、背部の特徴的斑紋から、真正の軟骨魚綱エイ目ガンギエイ科Rajinae 亜科ガンギエイ属ガンギエイDipturus kwangtungensisRaja kenojei とする記載も見かけたが、辞書類が概ね前者であること、私が最も信頼している「国立研究開発法人海洋研究開発機構(JAMSTEC)」の「BISMaL: Biological Information System for Marine Life」に従った。これに比定してよい。全長六十五センチメートル。背面は暗褐色の地に、不規則な淡色斑紋があり、胸鰭基部に眼状紋を有する。腹面は一様に暗灰色。背部中央に一~三本、尾部正中線にでは一列、では三列の鋭い肥大棘がある(従って本図はであることが判明する)。水深 二十~八十メートルの砂泥底に棲む。北海道から東シナ海・黄海に広く分布する。卵生(以上の種記載は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。前にも出した椎名氏の「魚のブログ」の「ガンギエイ」も必読。

・「ヨコサ」軟骨魚綱板鰓亜綱トビエイ目ツバクロエイ科ツバクロエイ属ツバクロエイGymnura japonica の異名。「ぼうずコンニャクの市場魚介図鑑」の「ツバクロエイ」の「地方名・市場名」に『ヨコサエイ』とある。なお、同記載を読むと、『尾に棘があり、危険なので嫌われている』。『味は悪くはないが』、『一般的に食用とはしない』としつつも、料理してみると、実際には味はかなりいいとある(味噌汁が絶品らしい。『エイ類のみそ汁は実に味がいい。なかでも本種のものは屈指の味だと思われる。昆布も鰹節も不要。ニラが合う』とあるから、相当美味いようだ)。土台、エイ食の主体たるガンギエイ類と比べられたのが災いしているようだ。

・「仝(どう)」「同」。

・「甲申(きのえさる)」文政七年甲申。一八二四年。繰り返さないが、やはり、本「魚譜」の原資料以降の加筆分であることが判る。

・「参政」執政(老中)の次位にあって政治に参与する職。若年寄。或いは大名の用人(ようにん)も指す。

・「堀田矦(こう)」この文政七(一八二四)年当時の幕府若年寄で、丹洲に捕獲物された成体のガンギエイを贈って呉れる奇特な人物は……いた! いた! この時は近江堅田藩(後に下野佐野藩へ移封)藩主で若年寄の堀田正敦(ほったまさあつ 宝暦五(一七五五)年~天保三(一八三二)年)である。彼が若年寄であったのは、寛政二(一七九〇)年から天保三年一月末(致仕。その五ヶ月半後に逝去した)である。彼は老中松平定信の「寛政の改革」を助け、そこでは和歌を中心とした文教新興策を採ったり、文化四(一八〇七)年には蝦夷地へのロシア人侵入を視察するために松前藩へ出向くなど、政務に精力的であったが、参照したウィキの「堀田正敦によれば、『同時に和漢の学識に富み』、「寛政重修諸家譜」『編纂の総裁を務め』、また、『蘭学者を保護するなど』、『学者を厚遇し、自らも鳥類図鑑』「禽譜(きんぷ)」及び解説書「観文禽譜(かんぶんきんぷ)」を『編纂するとともに』、「観文獣譜」「観文介譜」(貝類の博物書)も『執筆している』。特に、この「禽譜」「観文禽譜」は『鳥類分類図鑑で、鳥類の生物学的記載のみならず、関係する和歌や漢詩などの考証も記載した総合学術辞典としての性格を有する』優れた博物書である。詳しくはリンク先を参照されたい。

 

2018/03/08

栗本丹洲 魚譜 ガンギ 異品 (メガネカスベの背部か?)

 

Ganigibetusyu

 

[やぶちゃん注:図版は国立国会図書館デジタルコレクションの「魚譜」からトリミングした。頭部の先端が切れているのが最悪である。右下で尾の先端でも切れているように見える。巻子本に仕立てた際、継ぎ目で切れて再現していないようにも思われるが、或いは、ぎりぎりの線でカットし、これで切れていないと丹洲は判断したものかも知れない。しかし左の台盤の前部の端及び右の後部尖端がともにカットされていて、再現もされていない。それなりに、この巻子本に仕立てたかった一枚なのであろうが、如何せん、図が大き過ぎた。]

 

□翻刻1(そのままの表記で一行字数を一致させたもの)

ガンギ同物ニテ異品ナリ

奥州岩城方言 カスペイ

又 カラカイ レンテン等

言アリ 少シツヽノ見分アリ

漁夫ノ俗呼ナリ

 

□翻刻2(同ポイントにし、概ね、カタカナをひらがなに代え、句読点・濁点・記号及び一部に読みを添え、続けたもの)

「ガンギ」同物にて、異品なり。奥州岩城方言「カスペイ」、又、「カラカイ」、「レンテン」等の方言あり。少しづゝの見分(みわけ)あり。漁夫の俗呼(ぞくこ)なり。

 

[やぶちゃん注:キャプションの冒頭で『「ガンギ」同物にて、異品なり』というのは、本「魚譜」の図目の「タウボコヱ」に、逆さまに貼り付けられ付箋に「ガンキ」とあったのを受けると考えざるを得ない(濁音がないが、それ以外の文字列の一致はここだけである)。何故なら、そこ意外に本巻子本「魚譜」の前の部分には禁じする文字列が存在しないからである。そこで私は迷いつつも、「タウボコヱ」=「ガンキ」とはガンギエイ科 Rajinae 亜科コモンカスベ属モヨウカスベ Okamejei acutispina 或いは同じコモンカスベ属ツマリカスベ Okamejei schmidti の二種を比定候補とした。しかし、丹洲はそれらとは「同」じ仲間ではあるが、「異品」だという言うのであるから、これらに比定することは比定することは控えるべきかもしれない。しかし、二種の候補を出したのだから、その孰れかを本図の種と分け合えばよいとも言える。一方で、頭部の前方が有意に釣鐘状に細くなっていること、尖端は残念なことに描かれていないが、両眼の間から伸びる背部の梁が異様なまでに目立って細く明確に描かれているところからは、吻の軟骨が有意に硬いことを示しているように見える。そうすると形状的には、

ガンギエイ科Rajinae 亜科メガネカスベ属メガネカスベRaja pulchra

ガンギエイ科Arhynchobatinae 亜科ソコガンギエイ属ドブカスベ Bathyraja smirnovi

が挙げたくなり、また、腹鰭の様子からは、

ソコガンギエイ属リボンカスベ Bathyraja diplotaenia

も添えないと不十分なように感ぜられてくるのである。「ぼうずコンニャクの市場魚介図鑑」の『「カスベ」と呼ばれるもの一覧」』の画像を比較されると、私の欲求は納得されるものと思われる。個人的には、前の腹が描かれた、

メガネカスベRaja pulchra

と同一種の別個体の背面としたくなる(何度も言っているように「メガネカスベ」は「眼鏡」模様は全くない個体も多いのである)。そうすると、前の「カツベ」の図と合わせて、ここが、同一種の腹面と背面のスムースな二枚対称博物画として鑑賞出来るからでもある。

「奥州岩城」現在の福島県浜通りの南部に位置するいわき市。ここ(グーグル・マップ・データ)。

『方言「カスペイ」』「カラカイ」「レンテン」前に述べたが、再掲する。私はこの「からかい」というエイ類の鰭(実は単独の種を素材とせず、広くエイ類のそれを用いる)を干したものを甘辛く煮たものが大好物である。山形県では「からがえ」「からげ」「からかい」と呼び、私はそちらにいた古い教え子に何度もこれを送って貰ったものである(「からかい」は狭義にはエイの干物を指すから「から」は「乾(から)」で、「かい」は「かえ」「がえ」「がエイ」、「乾かしたエイ」の短縮形かも知れぬ)。「カスペイ」は広く「カスベ」の方言としてあり、青森県では「エイひれ」(生・加工品とも)のことも指す。「レンテン」は岩手県大船渡市や仙台で生きたエイのことを呼ぶ語としても存在する(語源は不詳)。

「少しづゝの見分(みわけ)あり」これは興味深い。これらの方言名は漁師たちの間、或いは当時の流通に於いて、全く同一の個体群や種を指すのではなく、それなりに少しずつ区別されて用いられているというのである。それは或いは、同一種であっても、大きさや厚さや細さや体色によって呼び分けられていたのかも知れぬし、全くの生物学的別種として既に区別されていたのかも知れぬのである。この識別内容が判っていたらなぁと私は思う。

「俗呼(ぞくこ)」俗称。]

栗本丹洲 魚譜 カツベ (メガネカスベの腹部か?)

 

Katube

 

[やぶちゃん注:図版は国立国会図書館デジタルコレクションの「魚譜」からトリミングした。右下には本図種の右鰭の下にはみ出してしまった一部が大きく添書きして図示されてある。それでも左右の鰭(体盤)の先端が切れているのは博物画としては頗る痛い。右の尾の先端及び解説文は前の「麻木(シビレ)ヱイ」(図はメガネカスベで名は誤り)の尾部と、そのキャプションの一部であって(電子化翻刻済み)、本図とは全く関係がない。]

 

□翻刻1(そのままの表記で一行字数を一致させたもの)

カツベ

鮊ノ字ヲ用ユ

味淡至テ下品ニ乄求食スルモノナシ

因テ東都スヿナシ濵邊近

貧民コレヲ食フト云

 

四角翻刻2(字を同サイズにし、約物を正字に直し、概ね、カタカナをひらがなに改め、句読点・記号を施して、一部を連続させ、一部の読みと送り仮名を推定して添えた)

「カツベ」

「鮊」の字を用ゆ。味、淡(あは)く、至つて下品にして、求め食するもの、なし。因りて東都に出すこと、なし。濵邊近き貧民、これを食ふと云ふ。

 

[やぶちゃん注:「カツベ」は「カスベ」の訛りで、「鮊」と書いて「かすべ」は「魚の粕」(滓(カス))のような雑魚(だから「至つて下品にして」好んで「求め食する」者は全くおらず、ただ、「濵邊近き貧民」のみが「これを食ふ」という謂いである)の意味であろうから、たびたび同定候補として挙げてきた、所謂、「カスベ」の類、軟骨魚綱板鰓亜綱ガンギエイ目 Rajiformes の、ガンギエイ科 Rajidae Rajinae 亜科及びArhynchobatinae 亜科に属する一種の腹部側の絵図である。しかし、既に述べた通り、同科は二亜科二十六属二百三十八種を含む、本目中、最大のグループであり、困ったことに、その多くは十把一絡げに「カスベ」と呼ばれているから、背面が同時に描かれていれば、その模様その他から、狭めることは可能だが、このお粗末なキャプションと腹部の図だけからでは、同定が(私には)難しい。吻が特異的に突出していること、頭部前方が鐘状を成していることが形態上の特色として判り、当時は漁民のみが食用に供したとすることから、獲れるところでは、ごく普通に沢山獲れるということを意味すると考えるなら、吻が有意に尖って頭部が有意にスマートな、現在でも最も一般的に捕獲され、現地では食用に供されている「かすべ」の類を同定候補とするのがよいと私は判断する。但し、この図を見て、かなりの方が「これって知ってる! 見たことある!」と感じたところの、乾燥品がキリスト教の悪魔・得体の知れない怪物、或いは未確認人間型生物、ひいては小型宇宙人として喧伝された「ジェニー・ハニヴァー」(後述する)の格好の原材料とされた、軟骨魚綱ガンギエイ目サカタザメ科 Rhinobatidae の類、例えば、サカタザメ属サカタザメ Rhinobatos schlegelii などでは、ない。彼らの吻部・頭部はこの図に酷似するものの、台盤はこんなには広がらず、この図とは似ずに、体幹及び鰭が遙かに超スマートだからである。さて、そうすると、既に前の「麻木(シビレ)ヱイ」でその図をこれの誤りと断定してしまった、

ガンギエイ科メガネカスベ属メガネカスベRaja pulchra

が最も相応しいと私は考えている。二度目の比定登場となるが、寧ろ、前の項のそれは丹洲の同定の誤りであったし、エイの腹側が本巻子本「魚譜」で描かれた最初のものであるからして、却って博物学的には実に興味をそそる配置だと私は考えている。しかも、実は、次でこの図の種の背部側ではないかと、見紛う一図さえも登場する(但し、キャプションでは『ガンギ同物ニシテ異品』と明記して、本図とは関係性がない、少なくとも同一個体の腹(これ)と背(次の図)ではない、ということを丹洲が明記しているキャプションのようには見える)

 さて、この図、右に九十度回して頭部を上にしてみると(底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像で容易に出来るので、是非、やって見られたい。画面上部のバーの水色の回転ボタンを押せばよい)、口の左右から切れ上がったように見える皺褶の窪みの鼻孔が小さな両眼に、口唇から頭部前端へ向かう体幹の盛り上がりが鼻梁に、口吻がそのまま口にと、ヒト型をした生物の顔へのシミュラクラが容易になることが判る。さらにその魔法にかかって目を下へ向かって動かすと、複数の鰓孔(この図では六対。エイ類の鰓孔は五対から六対ある)はヒト型生物の肋骨のように、左右の台盤(体盤・胸鰭)は怪しい悪魔の蝙蝠型の翼或いは不気味なマントを羽織った上肢のように錯覚され、しかし最後には、変形して左右に垂れ下がる腹鰭や異様に長大な尾は見たこともない五本脚の怪獣のそれのようにしか見えなくなってしまう。総排泄腔(丹洲はかなり正確に描いている)の赤味がかったそれは、悪魔の誘惑の猥雑な妖しい器官ではないか!

 これこそが、古くから知られた「海の謎の怪物」である「devilfish」、「ジェニー・ハニヴァー」(英語:Jenny Haniver)である。ウィキの「ジェニー・ハニヴァー」によれば、『「海で捕獲された未確認生物の死体」としてヨーロッパの船乗りと収集家との間で売買されていた、何らかの海洋生物の乾燥標本である。未知の怪物や、あるいは小型の宇宙人を連想させるような姿をしているが、その正体はエイの干物に保存処理等の加工を施したものである』。『一説として、元はフランス語のジュン・ダンヴァ『(jeune d'Anvers:「アントワープの若者」の意)』というフレーズが、イギリスの船員達が話していたコックニー訛り』(Cockney:ロンドンの労働者階級で話される英語の一種を指す。語源的には、十四世紀に「雄鶏(コック)が生んだかのような形の悪い卵」を指す語で、十六世紀初めには「都会育ちで、本当の生活を知らない子」を指した語という)『によって「ジェニー・ハニヴァー」という人名のように呼ばれるようになったとも言われる』。『船員達はアントワープの船渠でこれらの「人魚」を、漁獲されたサカタザメ』(軟骨魚綱ガンギエイ目サカタザメ科サカタザメ属サカタザメ Rhinobatos schlegelii 及び同属種や近縁種)『等のエイを加工し』、『作り出してきた。翼や尾を備えた悪魔や小型のドラゴン、あるいは天使などに見えるように切り込みを入れ、さらにそれを乾燥させ干物とすることで正体を判別し辛くさせ、ニスを塗って標本に仕立て上げた。船員らは完成した「未確認生物の標本」を旅行者らに売ることで家計の補助としていた』。『ジェニー・ハニヴァーの最も早い出典としては、スイスの博物学者』コンラート・ゲスナー(Conrad Gesner 一五一六年~一五六五年)の「動物誌」(Historiae animalium)第四巻(一五五八年)が『挙げられる。ゲスナーはその中で、「これらは単にエイを偽装したものに過ぎず、誤解されているような竜や怪物のミニチュアではない」と』既に人為的なちゃちな偽物であることを『指摘している』。『最も知られた誤解は、ジェニー・ハニヴァーはバジリスク』(英語:basilisk/ラテン語: basiliscus:ヨーロッパの想像上の魔獣。名称はギリシア語で「小さな王」を意味し、本来は、全ての「龍蛇の上に君臨する王」の謂い)『であるというものだった。バジリスクはその姿を一目見ただけで死をもたらす怪物とされていたため、誰もその姿形に言及しようがなく、そのためジェニー・ハニヴァーをそのような怪物であると恐れさせる』ことは一五〇〇『年代には容易なことであった』。『メキシコのベラクルス州では、ジェニー・ハニヴァーは魔力を持ち、地元の呪術師に使役されていると考えられていた』とある。なお、海外で使用される「ジェニー・ハニヴァー」用の種は先のサカタザメ Rhinobatos schlegelii 他、シャベルノーズギターフィッシュ Rhinobatos productus 等が挙げられるようである。

 流石に今時、騙される者も少なくなったが、ネット上の妖しいサイトでは相も変わらず、「正体不明の未確認生物」であるとか、加工された立位で立ち泳ぎをするなどというトンデモ記載があって、思わず、笑った。私は小学校二年生の頃、少年雑誌に「イタリアの牧師が公表した宇宙人の写真」としてまことしやかに載ったのを、級友らが真剣に見て怖がっていたので、「これはただのエイの干物だよ」と正体を暴いたのを思い出す。私の海洋生物フリークは小学校に上がる前から発症しており、その分野に関しては、かなり専門的な知識に致命的に冒されていたのである。

 例えば、昭和四一(一九六六)年十一月六日のこと、「ウルトラマン」の「無限へのパスポート」を見ながら、そこに登場した四次元怪獣ブルトンを指して、「これはマボヤだ」と父母に言ったが、父母はマボヤ(脊索動物門尾索動物亜門ホヤ綱マボヤ目マボヤ亜目マボヤ科マボヤ属 Halocynthia roretzi)なるものが何かも知らなかった。翌日、昨日の「ウルトラマン」の変な形のブルトンが話題になって、「あれはホヤっている生き物がモデルなんだ。ホヤは高等な生物でさ、魚類のすぐ下にいるんだ。生まれた時はオタマジャクシみたいな形をしてて、ちゃんと泳ぐし目だってあるんだ。それに、その時だけは脊索と言って人間の脊髄の元のなるものを持っているんだ。だけど、口は吸盤になってて、それで岩に吸いついちゃうと、そこから根っこみたいなものが生えて、尾っぽが縮んで、丸い赤い、外側は硬い革みたいなものに変わって、不思議な塊りみたいな生き物になっちゃうんだ」と言っても誰も信用しなかったものだ。当時、私は小学四年生だったが、当時の関東では、まず絶対にホヤ自体を魚屋などで見ることはなく、孰れも西日本出身の父母はおろか、友人も誰も、そんな奇体な生物がこの世にいて、東北じゃよく食べるなんて、知らなかった時代の話である。これは大昔の話じゃない。昭和四一(一九六六)年だ。五十二年前の「東都」では「ホヤ」を知っている人は少なかった。今だって、ホヤを貝の仲間だと思っている人は存外、多いのだ。私の住んでいる大船の魚屋さんや割烹の店主でさえも、「ホヤガイ」と平然と呼んでいるから、今から三十年ほど前、試みに聴いて見たところが、孰れも、「貝でしょ」と言った。私が懇切丁寧に図を描いて、その不可思議な生態やライフ・サイクルを説明をしたのだが、彼らは皆、半信半疑であった。「だって、あんた、国語の先生だよね? 生物じゃ、ないでしょ?」ときたもんだ。あの時ほど、国語教師になったことを後悔したことはなかったのである。]

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十八年 神戸病院の二カ月

 

     神戸病院の二カ月

 

 神戸病院の生活は五月二十三日から七月二十三日まで、満二カ月にわたった。はじめて釣台で運ばれて、二階の一室に入った時は、白壁は綺麗だし、天井は二間ほどの高さがあるし、今まで三尺ばかりの高さしかない船室に寝ていた居士に取っては非常に愉快であった。「殊に既往一ケ月餘り、地べたの上へ黍稈(きびわら)を敷いて寢たり、石の上、板の上へ毛布一枚で寢たりといふ境涯であつた者が、俄かに、浦團や藁蒲團の二、三枚も重ねた寢臺の上に寝た時は、丸で極樂へ來たやうな心持で、これなら死んでも善いと思ふた」と居士はいっている。賄(まかない)が悪いので梅干船と呼ばれた佐渡国丸の船室から、神戸病院の寝台に移った時の感懐は正にこの通りだったであろう。居士が遼東の海で喀血するに至ったのも、実は従軍以来の無理な生活の祟(たたり)に外ならぬのである。

[やぶちゃん注:引用は先の「病」から。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここをから次頁を用いて校訂した。

「二間」三メートル六十四センチメートル弱。

「三尺」九十一センチメートルほど。]

 喀血は入院後も容易に止らなかった。二十七日、京都にあった虚子氏が羯南翁からの電報を受取って直に駈付ける。福本日南氏も見舞に来る。日南氏が主治医に尋ねたところによると、談話が最もよくない、喀血はもう二日もたったら止むだろうということであったが、二十八日は喀血数回に及び、主治医は家族親戚に電報を打った方がいいといい出した。この日が恐らく峠だったのであろう。喀血はなお止まぬけれども、病勢はいくらか減退せんとするものの如くであった。

 六月三日に至り居士は

 

 卯の花の里を氷のやけどかな

 露あかしいちご畑の山かつら

 もりあげて病うれしきいちごかな

 

などの句を詠じ、午後には自ら談話を試みるようになった。これらの句は居士の精神が先ず回復し来ったことを示すものであるが、「寒山落木」には採録されていない。「氷のやけど」というのは、喀血を止めんがために胸部を氷で冷したところ、遂に凍傷を生じた、それをいったものらしい。

[やぶちゃん注:「卯の花の里を氷のやけどかな」後で宵曲も言い添えているが、「やけど」は凍傷のこと。前にも引用した松本島春主宰の俳誌『春星』のサイト内の中川みえ氏の「子規の俳句」のこちらの「子規の俳句(三七)」の本句の解説に、虚子が見舞った時、『子規は激しい咳漱と共にコップ半分位の血を一日に数回吐くという症状で、喀血は止まらなかった』。そこで虚子に、自分勝手な療法として肺部を氷嚢で冷してはどうかと提案し、『大量の氷を氷嚢に入れて、カーゼも当てないで直接皮膚に当てて胸部を冷しづめにしたために、夏であるのに』、『凍傷を起すという失敗をしてしまった。一人の若い医師』がそれを見て、「こんな馬鹿をしては凍傷を起こすのは当然だ。いくらあせったって止まる時が来なけりゃ、血はとまりゃしない。出るだけ出して置けば止まる時に止まる」『(高浜虚子「子規居士と余」)と言った言葉が頗る子規の気にかなったようで、自らの発意に基く凍傷に苦笑しながら、病の重さを納得したのであった』。『掲出の句は、このようなエピソードを踏まえて、やや回復してから虚子に書き留めさせた句である』という解説で腑に落ちる。

「露あかしいちご畑の山かつら」中川みえ氏の前掲の文章内に、ここにある通り、『二十八日は喀血が数回に及び、主治医から家族、親戚に電報を打った方かよいだろうとまで言われたが、この日がおそらく峠であったようで、不安な一夜を通り越すことが出来てからは喀血もやや間遠になり、病状も序々に回復に向った』。同時に、宵曲が次の段で述べるように、『子規は栄養物摂取を心がけ、東京から碧梧桐が子規の母を伴って到着した六月四日頃には、血色も次第によくなっていた』。子規は、「『余は非常な衰弱で一杯の牛乳も一杯のソップも飲む事が出来なんだ。そこで医者の許しを得て、少しばかりのいちごを食う事を許されて、毎朝これはかりは闕かした事がなかった』」と述べている。その後、『病人の慰めと栄養摂取のため、虚子と碧梧桐は毎朝共に、あるいは交替に、苺を摘みに行くのが日課となった』(これも宵曲は次で綴っている)として、この句が掲げられている。「山かつら」は「山鬘」で「やまかづら」とも読み、暁方、山の端に懸かる白雲を指す。其角の句に「明星や櫻さだめぬ山かづら」がある。]

 碧梧桐氏が母堂を伴って来著(らいちゃく)したのは六月四日である。苦悩甚しくしばしば悪夢に襲われたりしている一面、牛乳を嫌って粥を求めるようになった。居士の「くだもの」という文章にこの時のことを回顧して「余は非常な衰弱で一杯の牛乳も一杯のソツプも飲む事が出來なんだ。そこで醫者の許しを得て、少しばかりのいちごを食ふ事を許されて、每朝こればかりは闕(か)かした事がなかつた」と書いてあるが、その苺は碧、虚両氏が一日代りに苺畑へ行って取って来たものであった。三日に詠んだ「いちご畑の山かつら」の句は、その苺畑を想いやって詠んだものであろう。七日の日にはまた俳句が二句ある。

[やぶちゃん注:「くだもの」国立国会図書館デジタルコレクションの「子規遺稿 第二編 子規小品文集」(明治三八(一九〇五)年俳書堂刊)の画像のここから全文を視認出来る。引用本文はそれで校訂した。

「ソツプ」スープ。オランダ語「sop」由来。]

 

 杜若(かきつばた)尼寺あれて人もなし

 涼しさや吾ねる上に牛の面

 

 これも「寒山落木」には採録してない。「杜若」の句は碧梧桐氏が花菖蒲を花瓶に挿したのから思いついたのであるが、後の句は苺を食うことによって、「はてしらずの記」旅行の時の経験を思い浮べたのではないかと思う。六郷から湯田へ出るまでの山路で、路傍の棘(いばら)の中でがさがさいうから見ると牛がいる、頭の上の崖の方でもがさがさいう、それも牛である。こういう山路において居士は突然木いちごの林に逢着し、日暮近くなるまで貪り食った。「吾ねる上に牛の面」はこの時の事ではあるまいかという気がするのである。

 六月十日に至って血痰を見ないようになった。二十日あたりは頻に句を作り、医師の許を得て半身を牀上(しょうじょう)に起している。

 二十二日には夏目漱石氏及東京の令妹宛に書状をしたためた。入院以来最初のものであるが、この手紙は二通とも今伝わっていない。漱石氏は居士の従軍よりやや遅れて、居士の郷里松山の中学教師になった。居士が広嶋滞在中松山に赴いた時は、まだ著任していなかったのである。『漱石全集』を見ると五月二十八日附で神戸県立病院内の居士に宛てた手紙があり、「首尾よく大連灣より御歸國は奉賀候へども神戸縣立病院はちと寒心致候。長途の遠征舊患を喚起致候譯にや心元なく存候」と書いてある。また「當地著後直ちに貴君へ書面差上候ところ最早淸國御出發の後にて詮方なく御保養の途次一寸御歸國は出來惡く候や」ということも見える。当時居士は生死の境を彷徨しつつあった。二十二日の書状はこれに対する返事だったのであろう。

[やぶちゃん注:「漱石氏は居士の従軍よりやや遅れて、居士の郷里松山の中学教師になった」漱石の愛媛県立尋常中学校嘱託教員の辞令(着任)は明治二八(一八九五)年四月十日に発令されており、それに合わせて三日前の四月七日に新橋を出発、九日午後二時頃に松山の旅館「城戸屋(きどや)」に到着している。一ヶ月後の五月十日以前には松山一番町にあった松山地方裁判所の裏手の城山の山腹にあった骨董商津田保吉方の愛松亭(後に久松伯爵邸となる)に下宿を決めて移っている。

「居士が広嶋滞在中松山に赴いた」のは同年三月二十五日と推定され、そこから子規が広島に戻って、宇品から海城丸で出航したのは四月十日であるから、すれ違いであった。

「五月二十八日附で神戸県立病院内の居士に宛てた手紙があり」岩波旧全書簡番号四八。松山市一番町愛松亭発信、神戸市神戸縣立病院内正岡常規宛で、本文末尾の日付は五月二十六日。当該書で校訂した。

「寒心」不安。県立の総合病院で、結核の専門病院でなく、当然、療養施設もないと考えての謂いであろう。]

 六月二十五日には羯南翁宛に相当長い手紙をしたためた。羯南翁はこの後における居士の健康問題を憂慮し、いっそ須磨あたりに移住したらどうかという意見を洩し、令妹からこれを居士に手紙でいって来たものと見える。居士はこの問題について「罪なくして配所の月まことに歌人の本懷ながら何分朋友なく書物なくてはそれも無覺束(おぼつかなく)存候。數十日の御暇ハ頂戴致度(いたしたく)存候得共、それ迚も遲し九月には歸京の積りニ御坐候」ということを羯南翁まで申述べている。次いで二十八日鳴雪翁宛の手紙にも「肝心な事書落し候。陸説(くがせつ)の須磨移住案は誠に親切なる事なれども何分小生の如き頭顱(鬼も佛も此中より出申(いでまうし)候)を持ちては半年一年を僻地(へきち)にボンヤリと暮らす事むつかしく候故、九月中には歸京可致旨(いたすべきむね)陸迄申送候」とあるのを見ると、鳴雪翁からも須磨移住案について何事か申送られたのかも知れぬ。

[やぶちゃん注:「頭顱」は底本では傍点「○」。「とうろ」と読み。頭・脳髄の意。]

 事実居士の雄心は已に甦(よみがえ)らんとしていたらしく、二十七日には『珍本全集』(帝国文庫)の上巻などを購(あがな)わしめたりしている。七月五日に他の病室へ移った時は、碧梧桐氏の肩を借りて三十間ほど歩いたけれども、疲労を感ぜぬ位であった。母堂はこの経過を見て、一度松山に赴き、七月六日に虚子氏と共に故山から帰ったが、同九日碧梧桐氏に伴われて帰京した。

[やぶちゃん注:「『珍本全集』(帝国文庫)の上巻」同文庫の第三十一編「珍本全集 上巻」(明治二八(一八九五)年博文館刊)で、内容は井原西鶴の「懐硯」「西鶴名残之友」、北条団水の「一夜船」、八文字屋自笑と江島其磧の「正月揃」「梅若丸一代記」、自笑の「傾城色三味線」「寛濶役者気質」、錦紋流の「熊谷女編笠」、自笑らの「鎌倉諸芸袖日記」、亀友の「大和言葉風俗俳人気質」「諸国武道容気」「赤烏帽子都気質」といったラインナップである。

「三十間」五十四メートル五十四センチ。]

 七月十日以後は多く椅子におり、読書に耽るようになった。足の方も先ず庭前散歩にはじまり、二十日の早朝には虚子氏をその下宿に訪ねて驚かした。入院以来最初の外出で、下山手通から病院の本門を廻って帰ったが、呼吸がやや苦しいに過ぎなかった。この頃雲百句を作っている旨が碧梧桐氏宛の手紙に見える。

 居士が神戸病院を去って須磨保養院に移ったのは七月二十三日である。病院の訪問者は相当多かったが、最も頻繁に見舞ったのは竹村黄塔氏であった。黄塔氏は師範学校の教官として、二十五年以来神戸におったのである。

[やぶちゃん注:「竹村黄塔」古くから親しかった詩文仲間の竹村錬卿(たけむられんきょう)。既出既注。]

 

2018/03/07

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十八年 喀血遼東海

 

     喀血遼東海(りょうとうかい)

 

 五月十四日、大連湾から佐渡国丸という御用船で帰国の途に上った。霧の深く立罩(ちこ)めた中を、船は遅々として進む。「陣中日記」は十七日の条に「朝大なる鱶(ふか)の幾尾となく船に沿ふて飛ぶを見る。この時病起れり」と簡単に記したのみであるが、後年の「病」という文章を読むと、この間の事がよほど委しく叙されている。

[やぶちゃん注:「遼東海(りょうとうかい)」とは狭義には遼東半島の西北の渤海の北の奧の遼東湾を指すが、大連は渤海の入口の北の東側であり、大連から帰国の途にあった彼が孝行するのは、せめても黄海の奥の渤海の入口である東部分、いやさ、実際には黄海海上である。ただ、この標題は後に出る子規の漢詩の一句であるから、作詩上からこう表現したものでもあろう。

「佐渡国丸」田坂汽船の所有であったが、この日清戦争で徴用され、後の日露戦争まで海軍省の御用船として運用された。

「病」明治三二(一八九九)年十二月十日発行の『ホトトギス』に掲載。「青空文庫」のこちらで読めるが、新字新仮名。以下の引用は国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここから視認出来るそれを用いて校訂した。但し、句読点は底本のママとした。前後を一行空けた。]

 

明治廿八年五月大連灣より歸りの船の中で、何だか勞れたやうであつたから下等室で寢て居たらば、鱶が居る、早く來いと我名を呼ぶ者があるので、はね起きて急ぎ甲板へ上つた。甲板に上り著くと同時に痰が出たから、船端の水の流れて居る處へ何心なく吐くと痰ではなかつた、血であつた。それに驚いて、鱶を一目見るや否や楷子を下りて來て、自分の行李から用意の藥を取り出し、それを袋のまゝで着て居る外套のカクシへ押し込んで、さうして自分の座に歸つて靜かに寢て居た。

 

 これが大患のはじまりであった。船には医者が一人いるけれども、コレラの薬以外には何も持っていないということで、病人の手当などはしてくれず、喀血は依然とまらない。上が仮の桟敷になっている、天井の低い自分の座に静臥(せいが)していると、退屈の余り凱旋の七絶が出来た。それを桟敷の板裏ヘ書きつけて見たが、胸は苦しいし、手はだるいし、終に結句だけは書かずじまいであった。

 船が馬関に入ったのは十八日の午後である。五、六十人もいる船室に残っているのは居士一人で、皆甲板へ出てしまった。居士もそろそろ甲板へ出て見ると、甲板の上は人だらけで、九州の青い山が直ぐ前にある。「今迄兀山(はげ)ばつかり見て居た目には、日本の山は綠靑(ろくしやう)で塗つたのかと思はれ」るほどであった。その夜は馬関に碇泊、翌日は彦嶋に上陸して風呂に入ったり、著物(きもの)を消毒してもらったりしたが、船中の軍夫がコレラで死ぬという事件が起ったため、一週間停船の命令が下った。下痢症の者は上陸させるということで、居士のために周旋してくれた人もあったが、下痢症でないという理由の下に許可されぬ。この夜から喀血の度が烈しくなり、「船中の事で血を吐き出す器も無いから、出るだけの血は盡く呑み込んでしまはねばならぬ。これもいやな思ひの一つであつた」と居士はいっている。

[やぶちゃん注:以上の引用も前の「病」からなので、同じ国立国会図書館デジタルコレクションの画像を視認して校訂した。

「軍夫」従軍した下働きの雑役をした軍属か。但し、兵卒のことを「軍夫」と言うこともあるにはある。

「彦嶋」現在の山口県下関市の南端にある彦島(ひこしま)。ここ(グーグル・マップ・データ)。現在、下関の本土とは「関彦橋(かんげんきょう)」・「下関漁港閘門(こうもん/小瀬戸水門/運河であるが、人道・車道があるが、後者は水門が上る時間帯は通行出来ない)」・「彦島大橋」の三ルートで繋がっている。面積九・八平方キロメートルで、最高標高は百十一・八メートル。平家が滅亡した「壇ノ浦の戦い」の際には平家が本陣を置いている(ここはウィキの「彦島」に拠った)。

「船中の事で血を吐き出す器も無いから、出るだけの血は盡く呑み込んでしまはねばならぬ。これもいやな思ひの一つであつた」この直前の部分も引く。

   *

自分の病氣の輕くない事は認めて居るが下痢症で無い者を上陸させろといふ命令が無いから仕方がないといふ事であつた。如何にも不親切な、臨機の處置を知らぬ檢疫官だと思ふて少しは恨んで見た。併し今は平和の時で無いのだから餘り卑怯な事はいふまい位の覺悟は初めからして居る。さう思ふて自分はあきらめた。けれどもつくづくと考へて見ると又思ひ亂れてくる。平生の志の百分の一も仕遂げる事が出來ずに空しく壇の浦のほとりに水葬せられて平家蟹の餌食となるのだと思ふと如何にも殘念でたまらぬ。此夜から咯血の度は一層烈しくなつた。

   *

「平家蟹の餌食」の一語は、終生、失われなかった正岡子規独特の諧謔性を伝える、いい文章である。]

 二十一日の夕方、とにかく和田岬の検疫所まで行くことになって、船は徐(おもむろ)に動き出した。和田岬へは翌日午後著いたけれども、その日は上陸出来ない。二十三日の午後に至って、漸く放免された。居士は直に人力車で神戸病院へ行くつもりであったが、肩に鞄をかけた上、かなり重い行李を右手に提げなければならぬ。左の手に刀をついて、喘ぎ喘ぎ行こうとすると、歩くたびに血を喀(は)く。もう声を揚げて人を呼ぶ気力もない。折よく同行者が来たのに頼んで、釣台(つりだい)を周旋してもらうことにした。二時間ばかり待った後、漸く釣台に載せられて検疫所を出た。油単(ゆたん)をかけた釣台は、土地の祭礼らしい混雑の中を通ったりしながら、灯(ひ)ともしごろ神戸病院に辿り著いたのである。

[やぶちゃん注:「和田岬」現在の兵庫県神戸市兵庫区和田崎町にある岬。神戸港の西の入口に突き出ている。岬の先端近くの三菱重工業敷地内には、今も江戸幕府が幕末に海防のために建造した和田岬砲台跡が残る(勝海舟の設計によって文久三(一八六三)年に着工、元治元(一八六四)年(年)完成したが、実戦には使用されることなく終わった)。

「神戸病院」旧県立神戸病院で、現在の国立神戸大学医学部付属病院の前身。現在の神戸市下山手八丁目三から五の附近に当時はあった。この地図の中央付近に相当する(グーグル・マップ・データ)。

「釣台」台になる板の両端を吊(つ)り上げて、二人で担いでゆく運搬具。

「油単(ゆたん)」単衣(ひとえ)の布、又は、紙に雨を避けるために油をひいた覆い。

「土地の祭礼」これは思うに、「楠公さん」と親しみを込めて呼ばれる、楠木正成を祭る兵庫県神戸市中央区多聞通湊川神社の祭りの前夜祭ではなかろうか? 彼は延元元/建武三(一三三六)年五月二十五日に亡くなっているが、同神社では現在も五月二十四日から二十六日に「楠公祭」が行われているからで、子規が釣台で神戸病院に向かったのは五月二十三日の夕刻である。]

 この年居士の賦した「喀血歌」なるものに

[やぶちゃん注:以下は「子規居士」原本に拠るも、原本では鍵括弧・句点で本文に入っている。これを一句ごとに並べ直した(底本は二句を一字空けて一行に並べる)。]

 

 咯血本鄕臺

 杜鵑花發時

 纈紅染雲牋

 文章燦陸離

 咯血遼東海

 怒濤成五彩

 歸來試賦詩

 悲壯鬼神駭

 咯血又咯血

 咯血竟不輟

 漸覺肺氣衰

 吟腸益皎潔

 只應灑盡萬斛血玄黃

 筆端虹霓覆天長

  本郷臺に咯血す

  杜鵑花(とけんか)の發(ひら)く時

  纈紅(けつこう)は雲牋(うんせん)を染め

  文章は陸離(りくり)として燦(かがや)く

  遼東海に咯血す

  怒濤は五彩を成す

  歸り來て 試みに詩を賦せば

  悲壯 鬼神(きしん)を駭(おどろ)かす

  咯血 又た 咯血

  咯血して 竟(つひ)に輟(や)まず

  漸(やうや)く肺氣の衰ふるを覺ゆるも

  吟腸(ぎんちやう)は益々(ますます)皎潔(かうけつ)なり

  只だ應(まさ)に滿斛(まんごく)の血を玄黃(あめつち)に灑ぎ盡くすべく

  筆端の虹霓(こうげい)は天を覆ひて長し

 

とある。居士のこの時の喀血は、二十二年子規と号する時以来のもので、その量は更に多かったろうと思う。本郷台及遼東海における大喀血がいずれも五月であったのは、後来五月を厄月とする因をなすものと見るべく、この二度の喀血が居士の生涯に太い線を引いていることは、固より贅言(ぜいげん)を俟たぬであろう。

[やぶちゃん注:「杜鵑花(とけんか)」双子葉植物綱ビワモドキ亜綱ツツジ目ツツジ科ツツジ属サツキ Rhododendron indicum。皐月躑躅(サツキツツジ)とも呼ぶ。

「纈紅(けつこう)」「纐」は「纐纈(こうけつ/こうけち)」の意で、奈良時代に盛行した絞り染めの法。布帛(ふはく)を浸染する際に糸で括って文様を染め出したもの。ここは特にその中でも鮮やかな赤い紅色に染め出すことを指し、喀血したその鮮紅色を指している。

「雲牋(うんせん)」他者から送られて来た真っ白な綺麗な手紙の意か。或いは、次の句との絡みを考えるなら、単に詩歌文章を書くための料紙の意味かも知れぬ。

「陸離(りくり)」美しく煌(きら)めくさま。文筆の意気は軒昂なことを指している。この修羅場にあって、正岡子規の強力な意志力と自負が窺える。

「輟(や)まず」「輟」は「止める・中止する」の意。

「吟腸(ぎんちやう)」詩歌を詠む、読まねばならぬという自律的な欲求から作ることを謂う語であろう。詩心(しごころ)・歌心(うたごころ)といった感じか。

「皎潔(かうけつ)」「こうけつ(「きょうけつ」とも読む)」は、白く清らかで汚れのないさまを指す。

「斛」一斛は十斗。約百八十リットル。

「玄黃(あめつち)」ここは底本の蜂屋邦夫氏の読みを採用させて戴いた。音は「ゲンクワウ(ゲンコウ)」で、天の黒い色と大地の黄色とを指し、天と地とを孰れも包括する語である。

「虹霓(こうげい)」「虹蜺」とも書く。古代中国より、自然現象の「虹(にじ)」を竜の一種と考えて雄を「虹」、雌を「霓・蜺」とした。ここはただ鮮やかな色ではなく、目くるめく文彩に富んだ私の詩文文章は長い長い龍となって自由自在に天地へと渡って行くというのである。この詩、ともかくも「凄い」の一言に尽きる!

 

御伽百物語卷之二 宿世の緣

 

    宿世(すくせ)の緣(ゑん)

 

Sukusenoen

 

[やぶちゃん注:挿絵は「叢書江戸文庫二 百物語怪談集成」のものを用いたが、図は左右見開きで分離しており、しかも悩ましいことに、連続していない(どう合成しても、弁天の祠が繋がらない)。そこで、連続性を感じさせる位置まで近づけたものを合成し、ズレを感じさせてしまう上下左右の枠を完全に除去し、加えて、絵図内の汚損と思われる箇所を可能な限り、清拭するという特別な仕儀に打って出た。ご批判もあろうかとは存ずるが、現在見ることの出来る、本図の挿絵としては、最も見易く、綺麗なものに仕上がった、と秘かには思っている。拡大して、ご覧あれ。本文中の和歌の前後は一行空けた。和歌の二行表示は原典に拠った。なお、本作は小泉八雲が明治三三(一九〇〇)年に刊行した作品集Shadowings(「影」)の中でThe Sympathy of Benten(弁天の同情」として英訳している。如何にも優しい小泉八雲好みの作品に仕上がっているる。原典は“Internet archives”こちら(四十一ページより)で、田部隆次の訳(正字正仮名)「辨天の同情」はこちらPDF)で読める。なお、標題は底本では「宿世(すぐせ)」であるが(濁音でもよい)、原典及び別二本の翻刻に従った。「宿世の緣」で、「前世からの因縁・宿縁・宿命」の意である。]

 

 西八条遍昭心院大通寺は、世に尼寺と號して、そのかみ、淸和天皇第五の王子貞純親王の宅地にて、六孫王(ろくそんわう)經基も相つゞいて住み給ひたりけるが、終にこゝに葬りけるよしにて、その墳墓、うづ高く殘り、古き名うづもれずして星霜を經し所に、去る元祿十四の冬、あらたに宮社造營の事あり。神寶社務、めづらかに改(あらたま)り、甍(いらか)、花をかざり、軒は、玉を磨きて、二たび榮(さかふ)るの光り、世に隈(くま)なかりければ、洛中の貴賤、袖をつらね、跟(くびす)をつき、我も我もと、あゆみを運びたりし中(なか)に、京極の西、冷泉(れいぜい)の北、何某(なにがし)の坊とかやいひけるが許(もと)に宿りをしめつる、花垣梅秀(はながきばいしう)といへる書生、かりそめに此地に來たり、かなた此方(こなた)と見めぐりける序(ついで)、

「彼(か)の寺の前にありける湧泉(ゆうせん)はいかゞなりけん。」

と尋ねしに、是れも、今は門内に引き入れて、廻(めぐ)りを四角に堀(ほり)わたし、池の心(こゝろ)に造りかまへて、正しく井の上と思ふ所に、禿倉(ほこら)をたて、

「誕生水」

といふ札をたてたり。社の内をさしのぞけば、辨天の像をおさめたり。

 梅秀、もとより、天女に歸依し、つねに渴仰(かつごう)のかうべをかたぶけしかば、しばらく拜前にかうべをかたぶけ、法施(ほつせ)を參らせける所に、いづくよりふきおちたりともしらず、小さき短册の風にひるがへりて、梅秀がまへに落ちたるを、何となくとり上げて見れば、歌あり、

 

 しるしあれといはひそ初るたまはゝき

 とるてばかりのちぎりなりとも

 

と俊成卿のよみ給ひし初戀のうたを、女の手して、うつくしく書きたり。

「さても、世にはかゝる能書もありけるや。其さま、おさなげなる筆ながら、文字うつり、墨色、心ありける書きやうかな。」

と見しより、しづ心なく身にしみて、

「哀れ、此ぬしのあり家はいづくにか。」

と、しらまほしく思ひそめしより、明暮(あけくれ)の物思ひとなりて、學問の道にも疎く、讀書のひまも、露(つゆ)、わすられねば、かゝる時にやと、うちうそぶきがちにて、日をおくりける。

[やぶちゃん注:「西八条遍昭心院大通寺」現在の京都府京都市南区西九条比永城町にある(旧所在地は別。引用参照)真言宗万祥山遍照心院大通寺。通称「尼寺」。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「大通寺(京都市)」によれば、『鎌倉幕府第』三『代将軍源実朝の未亡人である坊門信子が夫の暗殺後に京都に戻り、真空を招いて出家し、自邸を尼寺としたことに由来する。創建時には現在の南区八条町付近にあり、南隣にはかつて貞純親王・源経基の邸宅があり、経基を祀った六孫王社』(ろくそんのうしゃ:この場所が貞純と経基の八条亭であったとされるようである)『があり、同社を寺の鎮守とした。清和源氏嫡流の祖である源経基と最後の当主である源実朝双方ゆかりの寺院であるということで、鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府の代々の将軍によって保護された。江戸時代には真言宗・律宗・三論宗兼学の寺院として知られ、多くの塔頭と寺領』『を有した。元禄期には能書家・作庭家として知られた南谷が居住し』ている。明治四五(一九一二)年に『東海道本線の移設工事によって現在地に移転した』。絹本著色善女竜王像・「醍醐雑事記」第九巻と第十巻は『重要文化財に指定され、源実朝木像など貴重な寺宝を多く所有している』。また、「十六夜日記」の作者「阿仏尼の墓」とされる『「阿仏塚」も現在地に移転され、境内に現存している』とある。本文では「西八条」とし、以上の引用からも現在の八条町(グーグル・マップ・データ。中央)が当時の位置と推定される。

「淸和天皇」(嘉祥三(八五〇)年~元慶四(八八一)年)は第五十六代天皇。

「第五の王子貞純親王」(貞観一五(八七三)年?~延喜一六(九一六)年)。上総・常陸の太守や中務卿・兵部卿を歴任したが、位階は四品に留まった。経基・経生の両王子が共に源姓を賜与され臣籍降下したことから、清和源氏の祖の一人となっている。但し、先の引用の通り、大通寺=「宅地」だったのではなく、寺の南隣りに彼の邸宅があったのである(以上はウィキの「貞純親王」に拠った)。

「六孫王(ろくそんわう)經基」貞純親王の子源経基(?~応和元(九六一)年)。母は右大臣源能有の娘。皇族であった頃はここに冠されてある「六孫王」を名乗ったとされるが、当時の文献には見られない(清和天王の六人目の孫の皇子(皇子)の意ではあろう)。経基流清和源氏の初代(以上はウィキの「源経基」に拠った)。先の引用に出た、現在の京都府京都市南区壬生川通八条角にある六孫王神社は、源経基を祭神とする(多田神社(兵庫県川西市)・壺井八幡宮(大阪府羽曳野市)とともに「源氏三神社」の一つとされる)が、この地はかつて経基の墓であったとも伝える。ここ(グーグル・マップ・データ)。旧大通寺の位置がより限定される。この北側である。マジ、東海道本線の真下である。「終にこゝに葬りけるよしにて、その墳墓、うづ高く殘り、古き名うづもれずして星霜を經し所」とは今はとても言えない有様ではないか!

「元祿十四」一七〇一年。本「御伽百物語」は宝永三(一七〇六)年開版。またしても、直近のアーバン・レジェンド!(京都だから、真正のアーバン!) なお、「オフィシャルサイト京都観光Navi」の大通寺の解説に、『徳川氏代々も大いに興隆につとめ、元禄年間には今の六孫王神社が造営され、塔頭も多数』、『建立された。東は大宮、西は朱雀を限りとし、南は八条、北は塩小路を境とする広大な境内であったが、江戸幕府の滅亡により衰微し、廃仏毀釈にあ』い、明治四四(一九一一)年には『旧国鉄の用地となり、六孫王神社だけを残して』、『現地に移転し』、『逼塞』『した』とあるから(下線やぶちゃん)、この記載の正確さが判る。しかも、この、それ以後の話を読むに、ウィキの記載などには感じられなかった、近代の国策による激しい過酷な扱いを受けた寺であることが、よく判る

「跟(くびす)」踵(かかと)のこと。

「京極の西、冷泉(れいぜい)の北」この附近か(グーグル・マップ・データ)。

「花垣梅秀(はながきばいしう)」不詳。

「今は門内に引き入れて廻(めぐ)りを四角に堀(ほり)わたし、池の心(こゝろ)に造りかまへて、正しく井の上と思ふ所に禿倉(ほこら)をたて」境内整備が徹底的に成されて、かつては素朴な自然の湧水であったものが、寺の庭に引き込まれて、人工的に池塘化された感じになっており(「心」とは意識的にそのような景観に拵えたことを指す)、湧水源は四角に掘られて井戸状に整備された上、その上を土で盛って塞ぎ、祠(ほこら)を建ててあるのである。正直言うと、こういう仕儀は私は「イヤな感じ」、である。

「誕生水」これは現在の六孫王神社の方に現存する、源経基の嫡男で多田源氏の祖である、源満仲(延喜一二(九一二)年?~長徳三(九九七)年)の産湯に使った「誕生水」の意京子ちゃんのブログ「京都のITベンチャーで働く女の写真日記」の「六孫王誕生水」で知ることが出来た。御礼申し上げる(私はともかく全く以って京には疎いのである)。それによれば、『古くから京都七ツ井の』一つ『に数えられた名水で、源満仲』『の誕生水でもある』とあり、そもそもこの現在の六孫王神社は、『経基が亡くなった際に息子の満仲が霊廟を建てて六孫王神祠(しんし)とした事に始まる』とも言われるらしい。『六孫王誕生水は』『六孫王神社境内末社である誕生水弁財天社』にあり、『経基が息子の満仲が産まれる際』、『無事に誕生するようにと』、『滋賀県の琵琶湖』『北部に浮かぶ竹生島(ちくぶしま)から』、『弘法大師空海の作と伝わる弁財天像を請来』、『満仲誕生産湯の井戸の側に祀った事が始まりと』伝えているようである。『源満仲が産まれる際には産湯に使われたとされ』、『その事から『安産の水』として親しまれている』という。現在の『こちらの井戸は』(リンク先に写真有り)二『代目な』の『だそうで』、『初代の井戸は、新幹線の高架橋の下になり枯渇してしまった』らしい。しかし、『初代のものと水源は同じ』ともある。後の「三ツ矢サイダー」は実は源満仲由来とする話も目から鱗である。一読をお薦めする。

「しるしあれといはひそ初るたまはゝきとるてばかりのちぎりなりとも」藤原俊成の「長秋詠藻」の下の「右大臣家百首」に見出せる。整序すると、

 

 驗(しるし)あれと祝ひぞ初(そ)むる玉箒(たまははき)取る手ばかりの契りなりとも

 

だが、和歌嫌いの私にはよく意味が判らぬのだが、妻の協力を得て、「牽強」付会に解釈してみると、まずは取り敢えず、「玉箒(たまははき)」の「玉」は単なる美称ととっておき、「箒」はまさに「箒(ほうき)」で、幼い子が悪戯に「ははき取る手」、箒を互いにその手に握って引っ張り合うような「ばかり」、だけの、他愛のない無邪気な「契り」(初恋の別な属性としての「はかない縁(えにし)」の意も含むか。いや、だからこそ汚れなき初恋の象徴とも言えよう)であったとしても、「驗あれ」と――私の恋に、どうか相手の方が、答えて呉れますように――と「祝ひぞ初むる」――恐らくは、ここには本来の「玉箒」(たまばはき(たはははき):正月の初子(はつね)の日に大切なお蚕さまのいる蚕室を掃くのに用いた玉の飾りをつけた「祝ひぞ初むる」箒)という年初の祝祭の祭具の意が込められているように私には感じられる――といった意味か? 大方の御叱正を俟つ。

「學問の道にも疎く」学問をするのにも、気が入らなくなって。

「讀書のひまも」読書をしていても、その読んでいる最中にあっても。「読書の合間」などの意では、如何にも、つまらぬ。

「かゝる時にやと、うちうそぶきがちにて」彼は京に上って、書生として出世のために必死に学問を重ねている、いなければならぬ身であるから、前者は、「このような大事な時に、こんな風に切ない恋の思いに心が奪われてしまうなんて、とんでもないことだ。でも、それはとてものことに思いきれぬ確かな事実だ、だから、どうにも、しようがない」というアンビバレントな心理を指すか。後者は、そうした恋い焦がれた思いが募りに募って、学問のため、沈着冷静に平静な読書や考察を成す余裕も全くなく、ただただ、外を徘徊しては、詩歌などを小声に吟じ勝ちになってしまって、の意であろう。]

 中にも、つねづね、信じなれたる業(わざ)とて、「誕生水」の辨天にあゆみを運び、

「哀れ、此筆のぬしに一たび引きあはせ給へ。」

と、ねんごろに祈りつゝ、七日まいりをはじめ、滿ずる夜(よ)ごとに、かならず、こもりて、終夜(よもすがら)、ねんじけるに、ある夜、此(この)尼寺に通夜(つうや)したりけるが、夜ふけ、人しづまりて後(のち)、惣門(そうもん)の外に人音(ひとおと)して、案内をこふもの、あり。内より、

「やゝ。」

と、答へて、門をひらく音、す。

『あやし。』

とおもひて、見やりしれば、其さま、けだかく、あてやかなる翁の、年は七十ばかりにやと見ゆるが、水干に、さしぬき、かしらの雪に烏帽子引きこみ、沓音(くつおと)ゆるく、あゆみ入り給へば、梅秀も宮の前を立ちしりぞき、傍(かたはら)にしのび、事のやうをうかゞひけるに、此雲客(うんかく)、誕生水のまへにひざまづき、敬(うやま)ひて、事を待つてい也、と見る時、やしろの扉、おしひらきて、びんづらゆひたる兒(ちご)一人、玉の翠簾(みす)、なかば捲きて立ち出で、この雲客にのたまひけるは、

「『爰(こゝ)に似氣(にげ)なき戀を祈るものゝさふらふが、不便(ふびん)に候ふ程に、あまり思召(おぼしめし)しなげきて召されつる也。宿世のえにしもあらば、よろしく引きあはせ給(た)び候へ』との仰せ事あり。」

と、高らかにのたまひければ、彼のうへ人、かしこまりたる體(てい)にて、左のたもとより、赤き繩を、一すじ、出だし、梅秀が居たる方にむかりて、しばらく、引きむすぶやうにしたまひて後、その繩をさゝげて、御灯(ごとう)の火に燒き上げ、三たび、手をあげてまねき給へば、本堂の方(かた)より、物音して、しづかにあゆみ來たるもの、あり。ちかづくまゝによく見れば、年の程、十四、五と見えつる女の、容顏、いつくしく、髮のかゝり、額つき、たぐひなき美人なるが、いとはづかしげに、扇、さしかくして、梅秀が左に、少し、そばみて、居よりたり。

[やぶちゃん注:「七日まいり」正確な歴史的仮名遣では「なぬかまゐり」。ある特定の祈願を目的として、七日間、毎日、社寺に参詣すること。本来は毎日七度ずつ、合計四十九度、参詣することを指したが、彼の宿坊などから見て、これは古式の厳密なそれではない。

「雲客」殿上人。風体からかく言った。

「事を待つてい也」何事かを待ち受けている様子だ。

「びんづら」「鬢頰」。少年の髪型の一つ。髪を頭の中央から左右に分けて、それぞれ両耳の辺りで輪の形に束ねたもの。

「似氣(にげ)なき」身分不相応の。

「赤き繩」所謂、「運命の赤い糸」である。ウィキの「運命の赤い糸」によれば、『中国に発し』、『東アジアで広く信じられている、人と人を結ぶ伝説の存在で』、『中国語では「紅線」』『と呼ばれる』。『いつか結ばれる男と女は、足首を赤い糸(赤い縄)で結ばれているとされる。この赤い糸をつかさどるのは月下老人』『(「月老(ユエラオ)」とも)という老人で、結婚や縁結びなどの神だという。「太平広記」(宋代の類書。全五百巻・目録十巻。九七七年に、宋の太宗の命で李昉(りぼう)らが撰を開始し翌年に成立した。漢から北宋初期までの説話を採取し、神仙・道術・異人・異僧など、九十余部に分類したもの)に記された、この神に纏わる奇談「定婚店」から』、『仲人や結婚の仲立ちをする者を指す者を「月下老」というようになった(後述)。日本では、「足首の赤い縄」から、「手の小指の赤い糸」』などの描写があるとする。『赤い糸に力があるという考えは世界各地に見られる。ユダヤ人の間では、邪視のもたらす災いから身を守る為に赤い毛糸を左手首に巻くという習慣(セグラ segula)があり、アメリカなどにも幸運のお守りとして広まっている。トーラー』(ユダヤ教の聖書(タナハ)における最初の「モーセ五書」)やハラーハー(ユダヤ法)・カバラ(ユダヤ教の伝統に基づいた神秘主義思想)にも、『こうした習慣への直接の言及はないが、一般にはカバラに基づいた伝承とされ、ベツレヘム近郊のラケル』(旧約聖書「創世記」に登場するヤコブの妻)『の墓所には今も参拝者が巻いた赤い糸が多数見られる。また仏教国の中には、右手首に赤い糸をお守りとして巻くところもある。日本では千人針に赤い糸が使われた』とも言う。『決して切れることのない「運命の赤い糸」は、現在でも西洋での「双子の炎」(twin flame, 運命で決められた二人のそれぞれの中で燃えている火)や「魂の伴侶」(soulmate, ソウルメイト)などの言い伝えと同じ様に東アジアで言い伝えられている』ともされるが、『「見えない」のに「赤い」のは形容矛盾で』はある。「定婚店」の話は以下。『唐の時代の韋固(いこ)という人物が旅の途中、宋城の南の宿場町で不思議な老人と会う。この老人は月光の下、寺の門の前で大きな袋を置いて冥界の書物(「鴛鴦譜」)を読んでいた。聞くと』、『老人は現世の人々の婚姻を司っており、冥界で婚姻が決まると赤い縄の入った袋を持って現世に向かい、男女の足首に決して切れない縄を結ぶという。この縄が結ばれると、距離や境遇に関わらず』、『必ず二人は結ばれる運命にあるという』。『以前から縁談に失敗し続けている韋固は、目下の縁談がうまくゆくかどうかたずねるが、老人はすでに韋固には別人と結ばれた赤い縄があるため破談すると断言する。では赤い縄の先にいるのは誰かと聞けば、相手は』、『この宿場町で野菜を売る老婆が育てる』三『歳の醜い幼女であった。怒った韋固は召使に幼女を殺すように命令し、召使は幼女の眉間に刀を一突きして逃げたが』、『殺害には失敗』する。縁談が纏まらぬまま、十四年が『過ぎ、相州で役人をしていた韋固は、上司の』十七『歳になる美しい娘を紹介され』、『ついに結婚した。この娘の眉間には傷があり、幼い頃、野菜を売る乳母に市場で背負われていると』、『乱暴者に襲い掛かられて傷つけられたという。韋固は』十四『年前のことを全て打ち明け』、『二人は互いに結ばれ、この話を聞いた宋城県令は宿場町を定婚店と改名した』とある。原典は「中國哲學書電子化計劃」のここで読める(巻第一百五十九の「定数」の「十四(婚姻)」の内)。この他、「開元天宝遺事」(盛唐の遺聞を集めた類書。五代の翰林学士などを歴任した王仁裕 (八八〇年~九五六年) 撰。後唐の荘宗の時に秦州節度判官となった彼が長安にあって民間の故事を採集し,百五十九条を得、本書に纏めたとされるが、南宋の洪邁は本書は王仁裕の名に仮託したものと断じている)には『次のような話がある』。『郭元振は若い時に容姿美しく、才能もあった。宰相の張嘉貞が婿にとろうとしたところ、元振は「公の家には五人の娘がいるそうですが、その美醜を知りません。あわてて間違いがあったらいけないので、実見を待って判断したく思います」と答えた。宰相は、「私の娘はどれも容色に優れています。あなたにふさわしいのが誰か私にはわかりません。あなたの風貌は並の方ではありません。わたしは娘たちに糸を持って幕の前に座らせますから、あなたがどれかの糸を引いてください。その糸を持つ娘を差し上げます」と答えた。元振は喜んでこれに従った。結局一本の「紅絲線」を引くと、三女が当たった。大そう美しい女性で、夫の出世に伴い彼女も尊い地位を得た』。同じく「中國哲學書電子化計劃」のここで読める(巻一の内)。]

 其時、最前の兒(ちご)、梅秀にのたまうやう、

「誠に、汝、此あいだ、心をつくし、及ばぬ戀に身をくるしめ、一筋に歎きぬる心ざしの程も捨てがたくて、月下の老をめしよせ、かくまで、短册のぬしにひきあはするぞ。」

と、のたまひすてゝ、いらせ給へば、客人(まろうど)も御いとま給(たまは)り、門外にいづると見えて、夢のさめたる心ちせしが、はや、寺々の鐘の音(ね)、ひゞきわたり、夜(よ)、ほのぼのとあかねさす、東(ひがし)しらくも過ぎゆけば、神前にかへり申して、立ち歸る心もいさましう、我が宿へと、いそぎける。

[やぶちゃん注:「いらせ給へば」「入らせ給へば」。誕生水の傍に建てられた弁天の祠の中へお入りになられたので。

「客人(まろうど)」かの雲客風の老人、実は月下老人。

「しらくも」「白雲」。東雲(しののめ)の雲。]

 道にては彼の現(うつゝ)に見えつる女、また、朝あけのほのくらきに、むかふより出でむかひ、むつましげに、梅秀を見て、會釋(ゑしやく)しけるを、

『こはいまだ夢か。』

と、あやしくおもひながらも、あひ見る事のうれしく、とかくかたらひよりて、いざなひかへるに、露ばかりもいとふ氣色なく、打ちとけつゝ隨ひ行きぬ。

 梅秀も始(はじめ)のほどは、

『もし、人や見とがむる尋ね求むる人やある。』

と、深く愼みて、しのびあひけれども、又、異人(ことひと)の、いかに、といふもなく、外(ほか)に尋ぬるの噂もなければ、今は心やすくもてなし、馴るにつけて、心ばヘ、やさしく、繪かき、花むすび、織り縫ふわざ迄も人にすぐれ、萬(よろづ)、心のまゝなりければ、いと嬉しくかたらひわたりぬ。

[やぶちゃん注:「もし、人や見とがむる尋ね求むる人やある」或いは、もしかすると、突如添い現れた妻を、誰かが不審に思って見咎めたり、女を知れる者や尋ね人を探して尋ね来る人もあるかも知れない」。

「深く愼みて、しのびあひけれども」宿所の奥に押し隠して、十分に用心し、出来得る限り、こっそりと忍び逢うようにしていたけれども。

「異人(ことひと)の、いかに、といふもなく」別段、誰かが、「何だか変だ、誰だ? あの娘は?」などと言いかけることもなく。

「外に尋ぬるの噂もなければ」特段、外部から訊ねて、言いかけて来る者もなく、また、二人の関係が噂になることも全くなかったので。

「花むすび」「花掬び」。ここで切って読んだ。美しい花弁を左右の掌を合わせて掬(すく)たりする仕草の可愛らしく、の意で採る。「花むすび織り縫ふわざ」(美しい花模様を織物に結び縫う裁縫の業(わざ))と採るには、前の、絵を描いたり、という並列表現とのバランスが悪いからである。]

 或る冬、梅秀は用の事ありて、假初(かりそめ)に出でける序(ついで)、冷泉(れいぜい)を西へ、洞院を南へ、六角のかたへとあゆみけるに、とある家より、人をはしらせ、梅秀を呼ぶものあり。

『いかにぞや。此あたりに、我を知れる人はなきを。』

と思ひつゝ、さし入りて見るに、主(あるじ)とおぼしき人、おもてに出で、梅秀にむかひ、

「近比(ちかごろ)、率爾(そつじ)なる申し事に候へども、是れ、偏(ひとへ)に辨天の御告(おつ)げによりて、たしかに、見とがめ、呼びいるゝなれば、すべなき事に候はず。我にひとりの娘あり。ことし、十五才になり候ふが、かたのごとく、手をも書き、縫針のわざも恥づかしからず。生れつきとても、人なみなりけるゆへ、『あはれ、いかなるかたへも然るべくは、さいわいあれかし』と、明暮、いのり、殊に辨天を信じ候ふゆへ、洛中にあるとある辨天のやしろに、此むすめが書きたる詩歌の短册を祈願のために、おさめさせ候ふ所に、ある夜の夢に辨天の御告げをかうふり候ふやう、『汝がむすめには宿緣の事ありて、早(はや)、引きあはせ置きしぞ。此冬、かならず、こゝに來たるべし』と、のたまひたりしを、心もとなくて、あかしくらし候ふ所に、こよひ、又、ありありと御示現(ごじげん)ありしは、『あすの暮、此(この)すがたして、こゝを通る人、あるべし。それを呼びて、婿にせよ。末は、かならず、立身の人なり』と。すなはち、人相、年のほど迄、細やかにおしへさせ給ひし也。」

と語るに、梅秀も怪しさを忘れ、

「此(この)うへは。」

と、心は落ちつきながら、

『今迄、我がかたにありし人は、いかゞせむ。』

と思ひつゝ、先づ、此人のいふに隨ひて、此家(いへ)の娘にあはん、と、おくに行けば、きのふけふ迄、彼(か)の東寺(とうじ)より、つれ歸りてそひし人なり。

 梅秀も、二度(たび)、肝をつぶしけるが、後(のち)によくきけば、天女の方便にて、此女のたましゐを通(かよ)はせ、夜ごとに逢はせ給ひけりとぞ。

[やぶちゃん注:「假初(かりそめ)に」ちょっと。

「六角のかた」現在の京都府京都市中京区六角町附近か。ここ(グーグル・マップ・データ)。但し、「洞院を南へ」はいいとしても、「冷泉を西へ」ではなく、南である。ともかくも、彼女の実家は実は彼の宿坊のかなり近かったことは判る。

「率爾(そつじ)」突然にして軽率で失礼なこと。

「見とがめ」見とめてそれと知り。目に留めて気づき。

「すべなき事に候はず」あまりいい使い方ではない。「すべなき」は「仕方がない・どうしようもない」の意だからで、ここは意味は呼び止め申し上げたのは「いい加減な仕儀にてが御座いませぬ」の謂いである。「詮無き」、無益な、意味のない、の方が腑には落ちる。

「かたのごとく」世間一般の娘の通りに。

「手をも書き」手筆もそこそこにものし。

「此冬、かならず、こゝに來たるべし」「この冬、必ず、その宿縁の婿はここにやって来るはずじゃ。」。

「心もとなくて」「心許無くて」。待ち遠しく、また、不安で落ち着かず、気がかりで。

「あかしくらし候ふ所に」日々を(そうした気持ちで)過ごしておりましたところに。

「こよひ」昨夜、或いは、今朝未明の意。

「此(この)すがたして」かくかくの風体・顔つきをしている。

「此(この)うへは」かくなる上は。そこまで霊験のあったとなれば。そうした霊異なればこそ、取り敢えずは「心は落ちつ」くのである。しかし無論、かの迎えた妻への内心忸怩たる思いはあればこそ、次の新内語が彼を襲うのである。

「東寺(とうじ)より」これは現在の京都府京都市南区九条町にある東寺((グーグル・マップ・データ))の方からの意で、ロケーション位置から大体の方位を指すために、知られた真言宗八幡山東寺をランドマークに使ったのである(東寺は梅秀の宿坊やこの娘の実家位置からは南西に当たる)。東寺の北西直近に当時の大通寺はあったからである(前の注を参照)。

「此女のたましゐを通(かよ)はせ、夜ごとに逢はせ給ひけりとぞ」とあるからには、娘の魂が夜になって忍び通って来る形で夫婦生活は行われていたと読める。或いは、彼女は既に子ができているかも知れない、などと要らぬ幸せの夢想を添えて私の注の終りとしよう。]

 

2018/03/06

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十八年 筆の花散る処まで

 

     筆の花散る処まで

 

 広嶋滞在が長引いたのは、李鴻章が馬関で狙撃され、講和説が一変して休戦になったためであろう。居士が海城丸に乗込んだ四月十日も無論休戦中であった。福本日南、桜田大我、浅水南八の諸氏が宇品(うじな)までこれを送った。

[やぶちゃん注:「李鴻章が馬関で狙撃され、講和説が一変して休戦になった」前章の私の参照。

「福本日南」既出既注

「桜田大我」既出既注

「浅水南八」浅水又次郎(明治三(一八七〇)年~明治四一(一九〇八)年)。『日本』の記者で青森八戸出身。]

 

 行かば我れ筆の花散る處まで

 出陣や櫻見ながら宇品まで

 

の二句が出発に臨んでの感懐である。中村不折氏も従軍が許可されて広嶋へ来ていたが、居士は近衛師団附(つき)、不折氏は第四師団附だったから、出発したのは別の船であった。

 従軍記者としての居士が最初に筆を執ったのは「羽林一枝」一篇で、四月二十一日の『日本』に掲げられた。正岡台南(たいなん)という前後に例のない署名が用いられている。

[やぶちゃん注:「羽林一枝」国立国会図書館デジタルコレクションの「獺祭書屋俳話」のここから視認出来る。「羽林」(うりん)というのは前漢に設立された皇帝直属精鋭部隊の名で、明代まで置かれていた。]

 十三日大連湾に入り、十四日はなお船にあったが、十五日柳樹屯に上り、金州に向った。

[やぶちゃん注:「柳樹屯」個人ブログ『BIN★の「この記なんの記」』の「柳樹屯の位置」によって、ほぼこの中央辺りであろうと思われる(グーグル・マップ・データ)。

「金州」現在の遼寧省大連市金州区。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 

 大國の山皆低き霞かな

 

 戦後の風物、異郷の山河は居士に取って珍しからぬものはなかったが、「軍に從ふて未だ戰を見ず、空しく昨日の戰況を聞く。雄心勃々禁ずる能はず、却て今後の事を思へば仲々として樂まざる者あり」という心境を如何ともすることが出来なかった。

 十六日海城丸に帰り、十九日再び柳樹屯に上った。この時は錦川丸に乗じて旅順に赴いている。船を上ると日南、南八両氏があたかも上陸するところだったので、共に大総督府附新聞記者の宿所に到り、船中の話などをした。旅順には都合三泊、港湾、砲台、魚雷営などを一見、集仙茶園という劇場に支那芝居を見たりしている。二十二日加古川丸に乗って大連へ帰ろうとしたが、風が強くて船が出ぬため、一夜を船に明した。日南、南八両氏も前日から別の船に乗込んでいると聞いて、船から船へ訪ねなどしている。

[やぶちゃん注:各船の注を附してもよいが、労多く益少なければ、やらない。]

 二十三日金州に帰り、翌日四師団附舎営に中村不折、河東可全両氏を訪ねた。古白の訃を伝えた碧梧桐氏の手紙が届いたのはこの日であった。居士が古白に関して記した「陣中日記」の一節にはこうある。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。「子規居士」原本で校訂した。]

 

四歳の兄なる吾が讀書文章の上に一步を進めし時は、彼は且つ羨み且つ妬み怒りつ笑ひつ嘲りつ、終には吾より一步を進めぬ。吾一步彼一步共に浮世の海原に分け入らんとする瞬間、古白は怒濤の舟を覆すを待たずして自ら舟を覆し了んぬ。我の未だ古白に負かざるに早く己に古白のわれに負くを見る。とは言へ古白或は白雲に乘じて我の艱難(かんなん)を嘲罵せんとの意なるかも知るべからず。見よ見よ我未だ斃れざる間は古白の靈豈四大に歸し去らんや。

 

 春や昔古白と云へる男あり

 

 居士の金州における生活はそれから五月十日まで続いた。講和成るとの報を聞いて、近衛師団附の新聞記者七、八人は一斉に金州を去った。この間の事は居士が『日本』に寄せた「陣中日記」二十九年になって改めて筆を執った「従軍紀事」及小説「我が病」の中に記されている。風雨に閉じこめられて

 

 旌旗十萬捲天來

 一戰國亡枯骨堆

 犬吠空垣人不住

 滿城風雨杏花開

  旌旗(せいき)十万 天を捲(ま)きて來たり

  一戰して 國亡び 枯骨 堆(うづたか)し

  犬は空垣(くうゑん)に吠え 人 住まず

  滿城の風雨 杏花(きやうくわ) 開く

 

と口吟したこともあった。宝興園という金州第一の割烹店に、久松伯の宴に列したこともあった。この金州における見聞は直に

 

 古城や菫(すみれ)花咲く石の間

 城門を出て遠近の柳かな

 梨老いて花まばらなり韮畑(にらばたけ)

 戰のあとにすくなき燕かな

 

など、多くの俳句となったのみならず、後に至っても漢詩、和歌、新体詩などにいろいろ用いられている。剣を按じて軍に従いながら、一発の砲声も聞かずに立帰ったのは、居士としては不本意千万であったに相違ないが、文学的な立場からいえば、必ずしも無意義な業ではなかった。出発に臨んで「いづれかその一を得んことは僕これを期す」と述べた抱負は、酬いられるところがなかったわけではない。

[やぶちゃん注:何故だかよく判らぬが、この金州滞在中に子規は森林太郎(鷗外)と始めて会っている。当時、鷗外は第二軍兵站部軍医部長であったが、彼の「徂征日記」によれば、五月四日のこと、この金州の軍医部に子規は初めて鷗外を訪ねている。『東洋大学大学院紀要』(二〇一六年刊)の根本文子氏の論文「明治三十年前後に於ける鷗外の俳句作風――子規との交流のなかで――」の「三 子規と鷗外・戦場の出会い」にあるものを、恣意的に正字化して示す。明治二八(一八九五)年五月の条。

   *

五月四日、正岡子規來り訪ふ、俳諧の事を談ず。夜、神保と歌仙一卷を物す。

五月十日、和親成れりと云ふ報に接す、子規、來り、別る。几董等の歌仙一卷を手寫して我に贈る。

   *

以下、同箇所に正岡子規の「病牀日誌」(明治二十八年六月五日の一ヶ月前の追懐記事)が載るが、これは高浜虚子等が記した、その彼らの直筆原本が国立国会図書館デジタルコレクションの画像の視認出来ので(但し、かなり読み辛い)、それで校訂して示す。記号を恣意的に変更・追加し、読みも補った。「余」が看護していた同日誌記者(虚子か)、「患者」が子規である。

   *

………「森に金州にて會ひし話をせしや」。余曰、「未也(いまだしなり)」。患者曰、「金州の兵站部長は森なりと聞き訪問せしに、兵站部長には非ず、軍医部長なりし。これより毎日訪問せり」

   *

これ以後、詩談を交わしたとする。「每日訪問せり」とあるのを正直に受け取るなら、鷗外と子規は一週間に亙って面会・談話を重ねたことになり、先の鷗外の日記にあるように、五月十日に帰国の別れのために挨拶に来訪した際には、餞別として子規が高井几董(たかいきとう)らの巻いた歌仙一巻を自写したものを鷗外に贈っている。また、先の根本氏の論文には以上の二資料に加えて、座談会「俳諧と日本文學」(『俳句研究』第七巻第十二号・昭和十五(一九四〇)年十二月発行に所収)での柳田國男の発言が載る。そのまま引かさせて戴く。

   *

……鷗外さんが支那から帰って来て、非常に褒めてゐましたね。今度の戦争へ行って、非常に仕合せなのは正岡君と懇意になったことだ、と言ってゐました。

…恐らく、あの時分の日記とか手紙をみたら、正岡氏を褒めて居られる物が沢山残ってゐるだらうと思ふんです。野営の中で頻りに文学を論じたらしいね。…鷗外のあの時代までの修養の中で、一番欠けてをつたのは発句でせうね。それを正岡氏がきっと教えてくれたんでしょう…

   *

柴田宵曲が、何故に、この後の三大文豪(鷗外と漱石との接点にも子規はいることになり、子規と鷗外の交流も実際、子規が没するまで続いている)の内の二人の最初の重大な接点をリアル・タイムに描かなかったのか、すこぶる不審である。 

「宝興園という金州第一の割烹店に、久松伯の宴に列したこともあった」何と、現在の「金州副都統衛址」には正岡子規の句碑がある。旅行記事ブログに写真がある。句は、

 

  金州城にて

 行く春の酒をたまわる陣屋哉

 

で、その説明に『子規』が『大連滞在中』、『帰国の一週間前に、金州一の料亭『宝興園』で松山の殿様、久松伯爵から一席設けられた時の句』らしい、とある。正直、こんなつまらん子規も青くなるような句が、中国の地にデンとかくも墓石のように立っていること自体が、私は何か、恥ずかしい気さえしてくるのである。

「久松伯」以前に注で記した伯爵久松定謨(さだこと 慶応三(一八六七)年~昭和一八(一九四三)年)静岡県の元旗本松平勝実三男で旧松山藩主久松家当主。最後の藩主であった松平定昭の養子。]

栗本丹洲 魚譜 麻木(シビレ)ヱイ (図はメガネカスベで誤り)

 

Meganekasube

 

[やぶちゃん注:図版は国立国会図書館デジタルコレクションの「魚譜」からトリミングした。左下方のそれは次の「カツベ」とするエイの鰭の一部(はみ出した部分の添描き)、左上方のそれは「カツベ」本体全体の尾部先端で、本図とは全く関係がない。]

 

□翻刻1(本キャプションは異例に長く、左右に記されてある。一行字数を一致させたもの)

(右キャプション)

麻木(シビレ)ヱイ 此好吹氣其氣有毒人如中其氣欻然而麻木

痠痛故名亦入于罽中則網中小魚觸中其氣 卽皆死

云形方而灰色背上左右有        圏文々中

如汝而渋

(左キャプション)

腹下白活則噴氣毒于物殞則其肉無

毒鄙人食之耳元文中東都市醫神田

玄泉所著日東魚譜中載之今抄寫

于茲 一種勢州方言カヾミヱイ形圓ナリ

大ナルハ五尺許至ル賎民モ食ハズ亦此類乎

             春上巳後一日瑞見誌

 

□翻刻2(一部のカタカナをひらがなに代え、文を繫げ(但し、幾つかのパートで改行はした)、字の大きさは同じにした。読み易さを考え、送り仮名・句読点・記号を追加、読みを歴史的仮名遣で〔 〕で添えたもの。「々」は読みの関係上、正字に戻した。「汝〔か〕くの」は強引に読んだ)

「麻木(シビレ)ヱイ」

 此の〔えい〕、好んで氣を吹く。其の氣、毒、有りて、人、如〔も〕し其の氣に中〔あ〕たらば、欻然〔きぜん〕として麻木〔しび〕れ、痠痛〔さんつう〕す。故に名づく。亦、罽〔うをあみ〕の中に入らば、則ち、網中の小魚〔こうを〕、觸れて其の氣に中たり、卽ち、皆、死すと云ふ。形、方にして灰色、背上左右に、圏文〔けんもん)〕、有り、文〔もん〕の中〔うち〕は汝〔か〕くのごとくにして渋〔しぶ〕し。腹の下、白く活〔かつ〕し、則ち、氣を噴きて、物を毒し、殞〔そん〕ず。則ち、其の肉、無毒、鄙人〔ひなびと〕、之れを食すのみ。

 元文中、東都市の醫神田玄泉の著はす所の「日東魚譜」中に、之れを載す。今、抄寫して茲〔ここ〕に〔かか〕ぐ。

 一種、勢州方言「カガミヱイ」。形、圓〔まどか〕なり。大なるは、五尺許りに至る。賎民も食はず、と。亦、此の類か。

 癸未〔いづのとひつじ〕春・上巳〔じやうし〕の後一日。瑞見、誌す。

 

[やぶちゃん注:描かれたものは、その円状斑紋と形状から、軟骨魚綱板鰓亜綱ガンギエイ目ガンギエイ科メガネカスベ属メガネカスベ Raja pulchra と比定してよい。なお、同種に限らず、カスベの類は雌雄ともに尾の部分に一種の発電器官を持っており、数ボルトの弱い放電をするが、しかし、このキャプションに書かれているような、人間を痺れさせたり、或いは、一緒に網の中にいる小魚を感電死させるような威力はない。雑誌『あきた』(通巻三百十一号・昭和六三(一九八八)年四月一日発行)の水産振興センター所長竹内健氏の「日本海の魚たち」の「懐かしい夏祭りの味覚深海でラブコール放電 カスベのなかま」によれば、この電場発生は、『暗黒の深海で異性を呼び合う"愛のコールサイン"の役割をするらしい。種類によって異なる電波を出すので、異種同士がデートする気遣いはないようである』とある。従って、このキャプション中での「麻木(シビレ)ヱイ」なるものは、自ずと、異なる種の記載となる。そうして、その名及び文中に出る、「カガミヱイ」という名及び『形、圓〔まどか〕なり』という謂いから、この人間にも他の生物にも強力な電気を感じさせるエイというのは、文字通り、多くの種が強い円盤状(鏡状)形状を成す

板鰓亜綱シビレエイ目 Torpediniformes のシビレエイ類

である。シビレエイについては、以下のキャプション注の「カガミエイ」のところで詳述することとし、ここではまず、図のメガネカスベについて記載する。メガネカスベは既に「コンベ」の注で述べた通り、和名の「メガネ」(眼鏡)は体盤の模様によるものだが、実はこの図のように顕著な大型円紋がある個体から、小さな点のような個体或いは全くないものとがあるので注意が必要である。なお、「かすべ」の意味であるが、恐らくは「滓・糟(かす)べ」で食用に流通させるにはあまり向かない「カスのような」魚の意と思われ、いつもお世話になっている「ぼうずコンニャクの市場魚介図鑑」の「メガネカスベ」の解説にも、『「かすべ」とはそのものずばり「かすのような」という意味合い』であり、『たぶん浅い海域でたくさんとれていたために、ガンギエイ科のエイにつけられたもの』と記されてある。但し、「カス」と侮るなかれ、『特にメガネカスベは「真かすべ」と言われるように代表的なもので、味もよいとされて』おり、『主に総菜にな』り、また、『「えいひれ」などの干もの原料にもなる』とあるのである。以下はィキの「メガネカスベ」から引用しておく。本種は『単にカスベ、カスペとも呼ばれる』。『沿岸海域に生息し、日本や韓国、中国沿岸などの北西太平洋に生息する。最大で体盤の幅が』一・一二メートルにまで『達し、幅広の胸鰭が菱形となり、吻は長い。吻の上下にのみ棘があること、両胸鰭に暗い円状の斑点が見られることなどが特徴である』(既に述べた通り、無紋の個体もいる。実際、ネット検索で同種の画像を見ると、この図のように巨大な円紋を持つ個体は実はそう多くはないようにさえ見受けられるのである。但し、ウィキの添付画像の個体は、よく斑紋が出ていて、本図によく似ている)。『エビや頭足類、硬骨魚、カニなどを捕食する肉食魚である。卵生であり、メスはほとんど一年中卵殻に包まれた卵を産む』。一『つの卵殻からは複数の(最大で』五『匹)子が生まれ、これはガンギエイの中でも同属の』Raja binoculata (英名:big skate:「スケート」はガンギエイ類を総称する)『と本種にのみ見られる特徴である。韓国と日本においては食用に価値がある。漁獲量は生息域全域において多く、個体数は』一九八〇『年代から比べるとかなり減っている。そのためIUCN』(国際自然保護連合:International Union for Conservation of Nature and Natural Resources)『は本種の保全状態評価を危急(VN)としている』。本種は一九三二年に『初記載された』ものであるが、『現在ではその時のタイプ標本は失われている』。『系統学的研究によって、本種は北太平洋に生息する同属』五『種とともに』、『現在のメガネカスベ属とは独立した属に分類するべきであることが示されているが、新たな属名はまだつけられていない』。『メガネカスベは北西太平洋の温帯域、具体的にはオホーツク海から日本海、黄海、渤海、そして東シナ海の台湾以北でみられる』。一九八〇『年代の記録によれば、韓国の黒山島や甕津郡の島々、そして日本の北海道では非常に個体数が多かったようである。本種は底棲性で、ふつう沿岸部の浅い海域で生活する。オホーツク海では水深』五~三十『メートルから、黄海では水深』五~十五『メートルから発見されている』。『ただし、最も深くて水深』百二十メートルの『地点からも記録がある』。『日本においても、オホーツク海から東シナ海まで広くみられ、特に水深』五十~百『メートルほどの砂泥海底によく生息する』。『最大で体盤幅』は一・一二『メートルに達した記録がある』。『胸鰭は菱形で盤状になり、先細りしている長い吻まで続いている。両腹鰭の後部縁にはくぼみが』一『箇所ある。尾部には左右両側に起伏が走り、端近くに』二『つの小さな背鰭がある。尾鰭は退化し、尾部側面の起伏よりも小さい程度の起伏としてみられるのみである』。『体盤背面の中央にはよく発達した棘が』一『本ある』。『雄は腹鰭が変化してできた』一『対の棒状の交尾器を持ち、雌雄の判別は容易である』。『吻の背側と腹側は小さな棘に覆われているが』、先に示した同属のRaja binoculata『とは異なり』、『体の後方部には広がっていない。体色は上部は褐色で、下部はそれより明るい色となっている。若い個体では体盤に』一『対の暗い円状の斑点が見られるが、これは成長に伴って色あせたり、明るさを増したりする。加えて、成長に』伴い、『体盤上部表面の網目模様がより暗くなっていく』とある。『本種は主にエビや頭足類、硬骨魚類、カニなどを捕食する』。『尾の両側皮下部には紡錘状の発電器官が』一『対あ』り、『それぞれは円盤状の細胞から構成されており、弱い電場を作り出している。本種はこの電場をコミュニケーションに用いている可能性がある』(先の竹内健氏の引用を参照)。『同科の他種と同様に、本種は卵生である。産卵はほぼ一年中起こるが』、まず、四月~六月、次に十一月~十二月にかけての二回のピークがあり、『真夏には行われない。メスは』一年に九十八個から五百五十六個の卵を産む(平均は二百四十個)。『卵は普通』、『平らな砂地や泥地に産み落とされる。北海道の沖では、ホタテの養殖に使うカゴの中に産みつけられることがよくある』。『卵殻は長方形で、大きさは縦』十四~十八・八センチメートル、横七~九・四『センチメートルである。四隅には角状の突起があるほか、長辺はへこんで』、『糸巻き状の外見をなす。その形状から、日本では本種の卵殻を「たこのまくら」とか「カスベのたばこ入れ」と呼ぶことがある』。『卵殻には』、普通、『複数の胚が入っており、最大で』五『匹入っていることもある。卵殻の中に』普通に『複数の胚が入るのは、ガンギエイの中でも同属の』Raja binoculata『と本種だけである』。『卵殻から出てきた子は全長』九・五『センチメートルほどである。性成熟にはオスで体盤幅四十七・三センチメートルほどに、メスで同幅六十八・五『センチメートルほどまで達する』。『韓国と日本では食用魚として、商業的にも非常に重要な種である。韓国ではガンギエイ(洪魚:홍어:ホンオ)の中でも最もよく消費される種であり、市場でも最も高価な魚のひとつである』。『しばしば結婚を祝う場で食される。本種を対象にした刺し網漁が存在するほか、ヒラメを狙った刺し網漁で混獲されることもある。日本では北海道で』『メガネカスベを専門に狙った「かすべ刺し網漁業」が留萌・宗谷地方の日本海側で行なわれている』。鰭(ひれ)の『部分が食用となり、漁獲された後』、『まず』、『このひれの部分を切り取り』、『皮を剥いでから出荷される』。『煮つけや味噌漬け、から揚げなどで食され、練り製品にも加工されることがある』とある。文中に出た「ホンオ」は私が食べたくて未だ食べていない、ある意味、危険な珍味であるので、ウィキの「ホンオフェ」を引いておく。『ホンオフェ(洪魚膾、こうぎょかい、홍어회)は韓国料理のひとつ。ガンギエイ(洪魚:ホンオ、こうぎょ、홍어)の刺身、あるいは切り身を壷などに入れて発酵を促進させたものである。朝鮮半島南部ではカオリフェとも呼ばれる』。『エイの肉を壺等に入れて冷暗所に置き』、十『日ほど』、『発酵させると』、『エイの持つ尿素などが加水分解されてアンモニアが発生し、ホンオフェが出来上がる』。『韓国全羅南道の港町である木浦地域の郷土料理で、ガンギエイの切り身を壷に入れ』、四『日ほど発酵させたものである。発酵させればさせるほど』、『身が柔らかくなり、美味とされる。プサン、ソウルなどでも食べることはできるが、全羅南道以外で供されるものの多くはエイの切り身(フェ、刺身)であり』、『身に軟骨が付いていてコリコリとした食感を楽しみ、さっぱりとしたものが多い。全羅南道木浦の本場ものは凄まじいアンモニア臭がし、涙を流しながら食べることになる。口に入れた後にマッコリで流し込むのが通の楽しみかたとされる』。『長く口の中に入れておくと』、『アンモニアによって口内粘膜がただれてしまうこともあるので』、『注意が必要である』。『そのアンモニア臭から外国人や初心者には敬遠されるが、韓国では高級食品のひとつであり、朝鮮半島南部のホンオフェの本場では結婚式など冠婚葬祭に欠かせないごちそうである』。『ホンオフェの強烈な臭いは世界有数、アジア最大とされており、口に入れた状態で深呼吸すると失神寸前になるといわれている』。『また、臭いの強さは納豆の』十四『倍、キビヤック』(グリーンランドのカラーリット民族やカナダのイヌイット民族及びアラスカ州のエスキモー民族が作る伝統的な発酵食品。海鳥(チドリ目ウミスズメ科ウミスズメ属 Synthliboramphus のウミスズメ類)を捕獲したアザラシ(哺乳綱食肉(ネコ)目イヌ亜目鰭脚下目アザラシ科 Phocidae のアザラシ類)の死体内に詰め込んだ上、地中に長期間、埋めて作る)の五『倍であるとされる』。

・「麻木(シビレ)ヱイ」「麻木」は特定の植物を指す語ではなく(敢えて言うなら、双子葉植物綱マンサク亜綱イラクサ目イラクサ科イラクサ属イラクサ Urtica thunbergiana が頭に浮かぶ(茎や葉の表面に毛のような棘があり、その基部にはアセチルコリンとヒスタミンを含んだ液体の入った嚢があって、棘に触れて、その嚢が破れ、その液体が皮膚につくと強い痛みがある。但し、同種は食用にも供される)が、同種は「蕁麻」とは書くが、「麻木」とは書かない)、中国語で、長時間に亙る外部からの刺激や疾患によって一部又は全部の知覚が失われて「麻痺する・痺(しび)れる・無感覚になる」の意。

・「〔えい〕」前に注したが、「」は「」と同義で「黄色と白色の二色の体をしており、尾に毒を含む魚」の意とする。ここは鱏・鱝・鰩・海鷂魚に同じい。広義の板鰓亜綱エイ上目 Batoidea に属するエイ類のこと。

・「氣を吹く」目に見えないことを「氣」と言っているのであろう。本種ではないが、後に出すシビレエイなどの出す電気とすれば、以下は腑に落ちる記述である。

・「欻然〔きぜん〕」「欻」は「忽然」「迅速」の意があるから、「急なさま」「忽ち起こるさま」の意である。

・「痠痛〔さんつう〕」「痠」は「だるい・だるくて鈍い痛みがある」の意。電撃の痛みと、それに伴う感電による筋肉や神経の痛みや強い脱力感をよく伝える語である。

・「罽〔うをあみ〕」魚を一網打尽にするような、比較的、大きな漁網を指すようである。

・「則ち、網中の小魚〔こうを〕、觸れて其の氣に中たり、卽ち、皆、死すと云ふ。形、方にして灰色、背上左右に、圏文〔けんもん)〕、有り」この「云ふ」が、一種、問題の箇所、誤認の接続部である。実はこの図は本文の最後にあるように、栗本丹洲が実物を目の前に置いて描いたものではなくて、本邦最古の魚譜である神田玄泉の「日東魚譜」から転写したものなのである。しかもそこには本種名を「シビレエイ」としてあり(元は後の注でリンクで掲げる)、その解説もここに丹洲が掲げたキャプションと殆んど同じといってよいものであることが判るのである。丹洲先生、やっぱり、無批判な孫引きはいけませんよ、お蔭でとんでもない誤りになってしまているじゃありませんか!

・「文〔もん〕の中〔うち〕は汝〔か〕くのごとくにして渋〔しぶ〕し」「汝」を対象物質の指示語として読むのは無理があるが、こう読まないと読めなかった。或いは別な正しい訓読法があるとなれば、御教授戴きたい。円紋の中の部分は、「渋(しぶ)し」、濃く暗い、というのであろう。冒頭の引用中に、若い個体は体盤に一対の暗い円状斑点が見られるが、これは成長に伴って、色褪せたりするともあった。異様に黒くざらざらしている感じを丹洲は黒い多数の点で示そうとしているように見える。

・「活〔かつ〕し」生き生きとした色をしており。背部と対称的であること示している。腹面を一緒に描いていないのが惜しまれる。

・「氣を噴きて、物を毒し、殞〔そん〕ず」「殞」は「死に至らしめるような致命的な傷を与える」の意。人は死なずとも、同じ網中の小魚は悉く死んでしまうというのであるから、「殞」は大袈裟ではない。更に、当時の感覚では、電気ショックではなく、ここにあるように、目に見えない「毒」を吹きかけられて死んだものと考えたのだから、その網の中の死んだ魚は商品にならないとして、廃棄したとも考えられるから、これは実に大損害である。

・「鄙人〔ひなびと〕」田舎の人。里人。漁師内でも貧しい者らの謂いも含んでいよう。

・「元文」一七三六年から一七四一年まで。

・「東都市」江戸市中。

・「神田玄泉」(生没年不詳)は江戸の町医。出身地不詳。玄仙とも。他の著作として「本草考」「霊枢経註」「痘疹口訣」などの医書がある(事蹟は「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。

・「日東魚譜」全八巻。本邦(「日東」とは日本の別称)最古の魚譜とされるもので、魚介類の形状・方言・気味・良毒・主治・効能などを解説する。序文には「享保丙辰歳二月上旬」とある(享保二一(一七三六)年。この年に元文に改元但し、幾つかの版や写本があって内容も若干、異なっており、最古は享保九(一七一九)年で、一般に知られる版は享保一六(一七三一)年に書かれたものである(以上は主に上野益三「日本動物学史」平凡社一九八七年刊に基づく『東京大学農学部創立125周年記念農学部図書館展示企画 農学部図書館所蔵資料から見る「農学教育の流れ」』の谷内透氏のこちらの解説に拠ったが、序を見るに、もっと古い版がある模様である)。実は私はカテゴリ『「神田玄泉「日東魚譜」』も起しているが、ご覧の通り、二記事しか電子化していない。これは、正直、絵が稚拙で、魅力を欠くからであるが、もう三年近く放置している。これもやらずば、なるまい。

・「之れを載す」「日東魚譜」の巻三の「魚  シビレエイ」(「」=「魚」+「英」。リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの当該画像頁。上部の解説を見ると、丹洲が明らかにこれを無批判に写し取り、本種を「シビレヱイ」と名付けてしまったことが判明する)。

・「〔かか〕ぐ」掲げる。挙げる。

・「カガミヱイ」「形、圓〔まどか〕なり。大なるは、五尺許りに至る」日本産シビレエイは五種いるが、「五尺」は一メートル五十一センチメートルほどで大きい。本邦の最大級の、板鰓亜綱シビレエイ目ヤマトシビレエイ科Torpedininae 亜科ヤマトシビレエイ属ヤマトシビレエイ Torpedo tokionis と一応、しておくウィキの「ヤマトシビレエイ」によれば、『東北地方以南の太平洋沿岸から東シナ海にかけての、大陸棚から深海』一千メートル『付近に棲息する』。『濃いピンク色で目立った模様はない。背びれが』二『つあることから、他のシビレエイと見分けることができる』。『頭と胸鰭の間に発電器官があり』、百『ボルト以下程度の発電能力がある』。恐らくは『無胎盤性胎生と考えられる』。で六十七・五センチメートル、は『それより大きいサイズで性成熟する。最大で』百十三・六センチメートルになるが、出生時は二十センチメートル以下である。『底引き網、刺し網によって混獲される。台湾の市場では時折見られるが』、『価値は低く、捨てられるか』、『魚粉に加工される』。漁師は素手で触らないように注意するという。但し、どうも本種は深海性で、同定に躊躇する。最も普通に日本の中部以南の浅海に分布するのは、シビレエイ目タイワンシビレエイ科Narkinae 亜科シビレエイ属シビレエイNarke japonica である。二〇〇三年刊の「学研の大図鑑 危険・有毒生物」では、後者を挙げている。『体は丸形で、腹びれの前半部が胸びれの下に隠れる。背びれは』一つ。『背面は灰褐色から茶褐色で、鱗(うろこ)がなくなめらか。眼が盛り上がっている。胸びれの基部に筋組織の発達した発電器官があり、電圧は』三十~八十『ボルトで、下面から背面に流れる』とある。総説部分には『シビレエイの発電器官は胸びれにあり、発電柱が背側から腹にかけて並んで集まって』おり、一『本の発電柱は、非常に薄い発電小体が数百から数千個積み重なってできている。ここに神経がつながり、刺激を受けると放電する。電圧は』五十『ボルト前後で』、『かなり弱いので、触れても命に別状はないが、遊泳中などには危険である』とする。これはしかし、四十センチメートル程度で、この記載スケールには合わないのが難点である。

・「賎民も食はず」「ぼうずコンニャクの市場魚介図鑑」の「ヤマトシビレエイ」の解説にも、『煮つけにすると、身に水分が多く、また身がぽろぽろと外れてしまう。うまいものではない』とある。

・「癸未〔いづのとひつじ〕」文政六(一八二三)年。文化一四(一八一七)年四月十九日に開催された幕府医学館の薬品会に出した「垢鯊図纂」よりも後であるから、これも描き直されたか、追加されたものであることが判明する(本カテゴリ冒頭注参照)。

・「上巳〔じやうし〕の後一日」「上巳」(「じょうみ」とも読む)とは五節句の一つである三月三日。所謂、「桃の節句」。その「後一日」であるから、三月四日。グレゴリオ暦一八二三年四月二十四日。]

 

2018/03/05

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十八年 広嶋滞在――古白の訃

 

     広嶋滞在――古白の訃

 

 雄心勃々として東京を発した居士は、途中大阪に一泊、六日の正午広嶋に到著した。今残っている従軍願の日附は三月六日になっているから、到著勿々差出したものであろう。願の通り許可されたのは三月二十一目であった。

 この広場滞在中の事は、小説「我が病」の中に箇条書にして挙げてあるから、そのまま引用して置くことにする。

[やぶちゃん注:既に注したが、「我が病」は国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(明治三七(一九〇四)年俳書堂刊「子規遺稿 第三編 子規小説集」)から全篇を視認出来る。それの(第三回の内)を参考に校訂した。底本では全体が二字下げで、二行に亙る場合は「一」の下の読点位置からとなっている(これは原典もそうなっている)。前後を一行空けた。]

 

一、八疊の間に同社の者四、五人詰めこんで常に雜談し時には喧嘩もありし事

一、大野が海軍へ從軍するために呉へ行くを見送りながら呉に遊び一宿して歸りし事

一、從軍する神官たちに招かれて饗應を受け席上にて和歌の議論ありし事

一、練兵場にて神官たちが行ふ軍神祭(?)に參拜せし事

一、大本營に二度行きて一度は憲兵に拒まれて入り得ざりし事

一、某伯のもとにて刀を賜はりし事

一、同宿の一人が夜郊外に路を迷ひて盜に逢ひ盜を川中へ突きころがして一さんに逃げ歸りし事

一、郷里伊豫に行き二泊して歸りし事

一、酒飮みに三度、白魚飯喰ひに二度行きし事

一、鹽原多助の芝居を見に行き美人の多きに驚きし事

一、每夜兩眼鏡を携へてヘラヘラ見物に行きし事

一、馬關にて狙擊せられたる李鴻章に見舞狀を贈りし事

一、某伯の送別會に赴き歸りに新聞記者懇親會に赴きし事

[やぶちゃん注:「白魚飯」「しらうをめし(しらうおめし)」思うに、広島がロケーションであるところから、これは条鰭綱スズキ目ハゼ亜目ハゼ科ゴビオネルス亜科シロウオ属シロウオ Leucopsarion petersii を炊き込んだ白米飯と考える。条鰭綱新鰭亜綱原棘鰭上目キュウリウオ目シラウオ科シラウオ Salangichthys microdon が「シラウオ」であるが、広島では「シロウオ」を「シラウオ」と呼称するからである。両種の違いについては、さんざん、いろいろなところで叙述した。そうさ、変わったところで、例えば、私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅1 行くはるや鳥啼きうをの目は泪 芭蕉の私の注を参照されたい。

「鹽原多助」歌舞伎狂言「鹽原多助一代記」。全六幕の世話物。明治九(一八七六)年から翌々年にかけて三遊亭円朝が口演した同名の人情噺しを三世河竹新七が脚色し、明治二五(一八九二)年に東京歌舞伎座で初演されたもの。江戸本所相生町の炭屋塩原太助(寛保三(一七四三)年~文化一三(一八一六)年)の実話に基づくもので、浪士の子に生れながら、わけあって百姓の養父のもとで育てられた塩原多助が、養父の死後、養母と女房の悪性(あくしょう)のため、愛馬青と別れて、独り、江戸に出て、炭屋で十数年の骨身を惜しまぬ奉公の末に、独立、豪商になったという出世物語。内容は円朝の作に忠実であるが、実直な多助と悪党道連れ小平の善悪二役を五世尾上菊五郎が演じて、評判をとった(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「馬關」山口県の下関の古称。赤間関(あかまがせき)を古く「赤馬関」とも書いたことに由来する。

「狙擊せられたる李鴻章」清の政治家李鴻章(一八二三年~一九〇一年)は『日清戦争の敗北後、講和交渉で全権を任され』、明治二五(一八九五)年より、『下関の引接寺に滞在し、春帆楼へ通って伊藤博文・陸奥宗光と講和会議の交渉を行った』が、同年三月二十四日、『李鴻章が引接寺と春帆楼を結ぶ道』で、国粋主義者の小山豊太郎『に狙撃され、負傷』した。『日本側は列国の干渉をおそれ、まず休戦条約を調印し』、四月十七日に『日清講和条約(下関条約)の調印を行った。この条約で朝鮮・台湾・遼東半島(後に三国干渉で返還)喪失と賠償金支払いが決められ、清は大きく威信が低下した』(以上はウィキの「李鴻章に拠る)とある。ネット上の情報では、しかし、正岡子規が彼に見舞状を出した事実は殆んど語られていない。貴重な一条であろう。]

 

 「大野」とあるのは古嶋一雄氏のことである。居士の「陣中日記」を見ると、「去年より大我を送り素川を送り乾外を送り鐡巌を送り藁村を送り廣嶋に來りてまた一念を送る」と書いてある。古嶋氏を送って呉へ行った時は、蕭々たる春雨の中に分捕(ぶんどり)の軍艦三艘がものうげに浮び、鷗は無心にその檣頭(しょうとう)を飛び廻るというような景色が目についた。

[やぶちゃん注:「古嶋一雄」既注の小島一雄。

「大我」桜田文吾(生没年未詳)はジャーナリスト。「大我」は号。「一寸法師」とも称した。仙台出身。小学校の助教を経て、東京法学院(現在の中央大学)に進み、後に『日本』新聞社に入社。明治二六(一八九三)年に刊行された「貧天地饑寒窟探検記」は、その三年前の『日本』に連載された貧民街探訪記であった。最も早い東京・大阪の貧民ルポで、二葉亭四迷らに影響を与えた。後に「京都通信社」を創設し、京都市会議員にもなった。

「素川」鳥居素川(慶応三(一八六七)年~昭和三(一九二八)年)はジャーナリスト。本名は赫雄(てるお)。肥後(熊本)の生まれ。熊本県立済々黌(せいせいこう)高等学校を卒業後、独逸協会専門学校・日清貿易研究所(病気で中退)・『日本』新聞社などを経て、明治三〇(一八九七)年に大阪朝日新聞社に入社、編集局長に就任した。第一次世界大戦後に自由主義を主張して寺内正毅内閣を攻撃した。大正八(一九一九)年には『大正日日新聞』を創刊した。

「乾外」『日本』新聞社の記者であろうが、不詳。

「鐡巖」末永純一郎(慶応三(一八六七)年~大正二(一九一三)年)は旧福岡藩士。国学者・歌人でもあった末永茂世(しげつぐ)の長男。明治一六(一八八三)年に上京、明治二十年から東京帝国大学法科大学の選科で学んだ。明治二二(一八八九)年に『日本』新聞の記者となり、日清戦争では従軍記者として健筆を振るった。明治三三(一九〇〇)年には「東邦協会」幹事となり、康有為・梁啓超・孫文らと親交を結び、その活動を支援するようになり、東亜同文会・対露同志会でも活動した。明治三十八年四月、満州の大連に渡って、『遼東新報』を創刊。日中両国語の紙面で両国の親善提携を訴えた(以上はウィキの「末永純一郎に拠った)。「国文学研究資料館電子資料館近代文献情報データベース」の子規言行録に「毎夕新聞」「余が見たる正岡子規子」の記事が載る。

「藁村」『日本』新聞社記者井上藁村(亀六)。後に国粋主義団体「政教社」新発足時のメンバーとなった。

 

「一念」冒頭の小島一雄の号。]

 「某伯」が旧藩主の久聴伯であることは註するまでもあるまい。刀の事は四月五日大原恒徳氏宛の手紙に次のように記されている。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。「子規居士」で校訂した。]

 

久松家へ刀一口(ひとふり)御下賜の儀相願置(あひねがひおき)候處、河東(かはひがし)の言によればそれは大方相叶難(あひかないがた)かるべし、先頃(さきごろ)軍人連衆が出發の際に刀をねだり候者多かりしかども刀劍を賜はることは昔ならば餘程面倒なる事故御聞屆(おききとどけ)なかりしと申(まうす)由に御坐候ひし故その積りにて居候處、意外にも私の望御聞屆被下(くだされ)、殿樣御下廣の砌(みぎり)仕込杖一口(ひとふり)下され無上の面目を施し候。

[やぶちゃん注:「下廣」広島に下ることの意であろう。]

 

 居士が広嶋でうつした写真に、羽織袴で左手に刀を握ったものがある。裏面に「明治廿八年三月三十日撮影、正岡常規(つねのり)廿八歳の像なり。常規まさに近衞軍に従ひ渡淸せんとす。故に撮影す」の文字が記されている。颯爽たる英気が眉宇(びう)に溢れているような写真である。

[やぶちゃん注:この写真、ネット上では確認出来なかった。]

 松山に帰ったのは三月十五日らしい。二十五年の夏帰省したきりだから、居士としては三年ぶりのわけである。法竜寺に父君の墓に詣でたところ、鉄道線路が寺中を横切って、菜の花が墓のほとりに乱れ咲くという有様だったので、「滄桑の變心にこたへ胸ふたがりてしばしは立ちも上らず」

 

 畑打(はたうち)よこゝらあたりは打ち殘せ

 

と詠んだのもこの時であった。

[やぶちゃん注:この句は、いい。

「法竜寺」愛媛県松山市柳井町にある曹洞宗佛國山法隆寺。公式サイトは。位置もそちらで確認されたいが、ここで言っている鉄道とは、伊予鉄道横河原線(よこがわらせん)であろう。墓所の東端を通っていることが、同サイトの「アクセス」にある地図を航空写真にすると、よく判る。]

 広嶋滞在中の事で、前の箇条の外に一つ追加しなければならぬのは、藤野古白の自殺である。居士出発の前夜、古白は居士のところへやって来て、行李(こうり)の支度などを手伝ってくれた。古白が意を決して哲学的な冷静な遺書をしたためたのは三月十日であり、ピストルを以て自殺を図ったのは四月七日だから、すべて居士出発後の出来事だったわけである。古白危篤の報はいよいよ明日広嶋を出発するという前夜、突如として居士の手許に届いた。「意外の凶報に驚きたりといへども、孤剣(こけん)飄然去つて山海關の激戰を見んとする余の意氣込はいまだ余をして泣かしむるに至らざりき」というのはけだし実際であったろう。明治俳句界の啓明と目せられた古白の句も、二十七年頃にはかえって月並調に陥り、一躍して俳句の堂に上りながら、苦辛してこれを下るという不思議な径路を辿りつつあった。心血を注いだ脚本「築嶋由来」を世に問うた結果、これを形見として自ら世を去ったのである。古白の霊が空(くう)に帰したのは、居士が海城丸に搭(とう)じて海に浮んだ後であった。

[やぶちゃん注:藤野の自死は精神変調から来る一種のタナトス願望とは言える。しかし、私は、彼の死を聴いて、しかも大陸へ向かった正岡子規を、決して愛さない

「築嶋由来」戯曲。正しくは「人柱築島由來」。『早稲田文学』に発表(私は未読で詳細不祥)。世情の評価は得られず、発表の一ヶ月後、ここにあるように、「現世に生存のインテレストを喪ふに畢りぬ」という遺書を残してピストル自殺した。

「海城丸」進水明六(一八七三)年。二年後にイギリスの会社に売却後されたが、明二八(一八九五)年二月十六日に東京の日本郵船に売却、明三一(一八九八)年に解体されている。以上は非常にお世話になっているFumio Nagasawa サイト「日本しい汽船」データに拠った。]

 

栗本丹洲 魚譜 ケヱ (イトマキエイ或いはヒメイトマキエイ)

 

Itomakiei

 

[やぶちゃん注:図版は国立国会図書館デジタルコレクションの「魚譜」からトリミングした。頭部の左の方の頭鰭(とうき:後注参照)及び台盤(胸鰭)の右の端と尾が切れてしまっているのはママ。原図は先まで描いてあったのだろうが、前のトビエイの台盤が巻子本にするに際して左胸鰭の先が切れている以上、新たな描き添えは不可能であったのであろう。添え右中央に少し見えるのは前の「鳥ヱイ」の頭部の先端で、本図とは全く関係がない。]

 

□翻刻1(一行字数を同一にした表記そのままのもの)

ケヱ

此魚別全圖ヲ藏ス頭端ヨリ尾ノ付際マテ三尺

尾ノ長サ三尺翼尖ヨリ横ノ徑リ三尺餘ナリ其極大者

六七尺其餘ニモ至ルト云遇丈餘至ルモノヲ得ルヿアリ

按ルニケヱノ名怪有(ケウ)異形ノヱイト云ヿノ略語ナルベシ

尾ノモトニ針アリ惣身ノ大ナルニ比スレハ此針 短小ナリ

 

□翻刻2(カタカナをひらがなに代えて、文を繫げ(但し、考証部の後半は改行した)、約物(「ヿ」→「こと」(事))や「〻」を「々」に代え、読み易さを考え、送り仮名・濁点・句読点・記号を追加、読みを歴史的仮名遣で〔 〕で添えたもの。)

ケエ

 

此の魚、別に全圖を藏す。頭端より尾の付際〔つきぎは〕まで、三尺。尾の長さ、三尺。翼尖〔つばさのさき〕より横の徑り、三尺餘りなり。其の極〔ごく〕大なる者、六、七尺、其の餘にも至ると云ふ。遇々〔たまたま〕、丈餘〔ぢやうよ〕に至るものを得ることありと云ふ。

按ずるに、「ケヱ」の名、「怪有(ケウ)異形のヱイ」と云ふことの略語なるべし。尾のもとに針あり。惣身の大なるに比すれば、此の針、短小なり。

 

[やぶちゃん注:軟骨魚綱板鰓亜綱トビエイ目トビエイ科イトマキエイ属イトマキエイ Mobula japonica。但し、以上の記載内容からは、形も生態もよく似ていて、小振りな種であるヒメイトマキエイ Mobula thurstoni を挙げておく必要がある。逆に近縁の大型種(平均個体で三~五メートル、最大で八メートルにも達するともされ、体重は三トンにも及ぶ)であるトビエイ科オニイトマキエイ属オニイトマキエイ Manta birostris は、現在でも南西諸島の石垣島周辺海域で見られる程度であり、そうした分布と、体長のスケールから言っても、ここに掲げる必要はないと判断する。本種及び上記のヒメイトマキエイ・オニイトマキエイの頭部先端の両側には胸鰭由来の「頭鰭」と呼ばれる箆(へら)状になった特殊な鰭が一対ある。これは、伸ばしたり、丸めたり、自由に形を変形することが出来、餌を摂取するのに役立っているものと考えられている。この頭鰭が所謂、「糸巻」の形に似ていることが和名の由来である。また、プランクトン食という摂餌形態に対応し、他のエイと異なり、口は頭の正面に開いている(この部位の解説はウィキの「オニイトマキエイに拠った)。「ブリタニカ国際大百科事典」によれば、体色は黒褐色で、尾部は体盤長の約三倍の長さがある。以下、ウィキの「イトマキエイ」より引く。全長は成体で約三メートルほど。『近似種のオニイトマキエイに比べて、体が幾分小柄で、また、口の脇にある鰭も小さく、全般的にオニイトマキエイよりも体も尾も細く、尾はかなり長い』。『尾の付け根部分にエイ特有の毒針があるが、アカエイ類やトビエイ類ほど大きくなく、毒性もそれほどではない』。『暖海性のエイで、日本では、千葉県以南の太平洋一帯に生息する』。『外洋の表層を単独あるいは群れで遊泳する。主なえさはプランクトンで、口を開けて海水ごと吸い込み、口の中の鰓でこしとって食べる』。『磯や、珊瑚礁の側にも寄ってきて、小魚たちに体表に付いた寄生虫やゴミなどを食べてもらったりもする』。『肉は不味いので、あまり食用にはされず、主に肥料や』『家畜の飼料などに』『乾燥させて使われる』とある。

・「此の魚、別に全圖を藏す」これは本図譜の後の方に載る「ワクヱイ」、或いは栗氏魚譜の第十冊十七に載る「ワクヱイ」とするものかも知れない。そうでなく、別に一図がある(或いは現存せず「あった」)のかも知れない。何故、それと断定出来ないかというと、そこには「ワクヱイ」という名が記されているのに、ここには本魚の名前が「ケヱ」と別名になっているからである。国立国会図書館デジタルコレクションの画像を視認して発見した。以下に、合成した(改ページで台盤の左端が切れてしまっている。但し、今回はあまり合成が上手く出来なかった。悪しからず)写真を掲げておく。但し、この後者の「栗氏魚譜」は栗本丹洲の原本を伊藤圭介が転写させたものらしく、絵のタッチがまるで違う(正直、下手である)。ただ、頭鰭の立体性と眼の位置が正しく描けている本図の頭鰭の部分はやや立体感に欠け、右のそれは根元でめくれて下方に下がって、眼が外側に向いているのだということが判るが、右の頭鰭は図が欠損しているのも手伝って、その辺が今一つであって、ぱっと見では、あたかも内側に眼があるような、印象を与えてしまっている憾みがある)。参考図には『十七ノ八』という模写した際の照応記号が左下方にある。因みに、この図は最初に述べた本「魚譜」の後に出る「ワクヱイ」とよく似ている。

 

Wakuesankou

 

「三尺」九十一センチメートル弱。

「翼尖〔つばさのさき〕より横の徑り」体幅。台盤の左右の胸鰭の最突出部分を結んだ直線距離。

「六、七尺」一メートル八十二センチメートルから二メートル十二センチメートル

「其の餘」それ(二メートル十二センチメートル)以上。

「丈餘〔ぢやうよ〕」三メートル三センチメートル越え。前に掲げた通り、イトマキエイの成体は約三メートルほどに達するから、何ら、問題ない。

「惣身の大なるに比すれば、此の針、短小なり」丹洲先生が本種がどんなにデカくっても、プランクトン濾過食であることを知ったら、もっとびっくりなさるだろうなぁ。]
 

御伽百物語卷之二 岡崎村の相撲

 

御伽百物語卷之二

   岡崎村の相撲(すまふ)

Okazakinosumou

[やぶちゃん注:挿絵は「叢書江戸文庫二 百物語怪談集成」のものを用いた。]

 

 筑前の博多・黑崎などゝ聞へたるあたりは、よき相撲のあまたある所なり。過ぎし元祿十二のとし、京都岡崎の村にて、勸進相撲を取りむすび、諸國に人をつかはし、ぬき手のものどもをゑらみ、かゝゆるの沙汰ありしかば、當國の男どもには兩國梶の介・金碇仁太夫(かないかりじんだゆふ)などいふ者どもをはじめ、さまざまの相撲ども、こゝぞ、と力を挑み譽(ほまれ)をほこりて、我さきと、のぼらん支度をなしけるより、こゝかしこの取手ども、あまた聞き傳へに寄りあつまりける。

[やぶちゃん注:「岡崎村」現在の京都府京都市左京区の南部の「岡崎」を町名に冠する地区。この中央附近(グーグル・マップ・データ)。しかし、この話、岡崎はロケーションにない。その肩すかしも、恐らくは筆者の悪戯っぽい仕掛けなのかも知れぬ。

「筑前の」「黑崎」博多の東北方向、旧福岡県遠賀郡黒崎町(くろさきまち)周辺。現在の北九州市八幡西区北東端及び八幡東区の北西端の鹿児島本線黒崎駅の周辺附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「元祿十二のとし」一六九九年。本「御伽百物語」は宝永三(一七〇六)年の開版であるから七年前。またしても直近のアーバン・レジェンドである。

「勸進相撲」寺社の建築・修繕などの募金を目的とした興行相撲。鎌倉末から室町にかけて発生したとされ、江戸時代に入ってからは職業的に基盤が出来た。但し、後には勧進は名目だけとなり、都会や繁栄地で盛んに興行されるようになった。やがて、この元禄期からの勧進相撲は年中行事として流行った(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「ぬき手」元来は「ぬきで」で「抜き出」「抜出」。平安時代の宮中儀式であった「相撲(すまい)の節会(せちえ)」の翌日、前日の勝負で勝(すぐ)れていた者を選んで取組を行うことを指したが、ここは相撲の名手・達人の意。

「かゝゆる」お抱えにする、の意。

「兩國梶の介」この当時、実在した名力士で、初代の両國梶之助(寛文四(一六六四)年~宝永五(一七〇八)年)。因幡国気多郡宝木村(現在の鳥取県鳥取市気高町(けたかちょう))出身の大相撲力士。本名は澤山彌太郎。現存する最古の勧進相撲の番付である元禄一二(一六九九)年(京都)及び大坂で初めて行われた勧進相撲の番付である元禄一五(一七〇二)年に大関として名を載せている。参照したウィキの「両國梶之助(初代)によれば、『鳥取藩の』お抱え力士で、初め、「浮舟」を名乗ったが、『取り組む相手がいなくなるほど強くなったので「汲む人もなき山の井の水」の古歌から』「山の井」と『名付けられ、さらに因幡国・伯耆国の因伯二州にたてつくものなし』、『と藩主池田光仲から』「両國」の『名が与えられた』という。『上記のように京・大坂の他、江戸の弁天町牛込七軒町の末弁天社に奉納された番付絵馬にも「相関」(大関と同格)として名があり各地で活躍した強豪であったとされる』。身長も高く、一メートル八十六センチメートル、体重は百五十キログラムと伝えられる。『晩年は但馬国(兵庫県)の湯村温泉にて接骨を業とし』、『その術は後世にまで伝えられたという。大変な怪力だったようで、ある時、御用木無次右衛門(同時期に活躍した巨漢・大関)が外で風呂に入っていたところ、馬が通れぬと騒ぎになり、これを聞きつけた両國が御用木が浸かったままの風呂桶ごと抱え上げ』て『移動させたという逸話が残されている』とある。

「金碇仁太夫(かないかりじんだゆふ)」これも実在した名力士。元禄一三(一七〇〇)年の大関の中に見出せる。飯田昭一編「資料集成 江戸時代相撲名鑑」の広告見本PDF)にある「歴代三役一覧」に前の両國梶之助とともに名が出る。本「御伽百物語」刊行のすっと後ではあるが、手柄山仁大夫(てがらやまじんだゆう 生没年不詳)というまさに筑前国(現在の福岡県)出身の大相撲力士(最高位は小結)がおり、ウィキの「手柄山仁大夫」によれば、『彼は大坂相撲で初土俵を踏み』「金碇仁大夫」の初名で宝暦四(一七五四)年五月場所で、いきなり、『関脇に附け出され、以降幕内上位を維持』し、宝暦八(一七五八)年には、『江戸相撲への進出と前後して姫路藩の抱えとなり、改名』した、とある。或いは、この金碇仁太夫というのも、筑前の出身であったかも知れない。青木鷺水のリアリズム風の緻密な仕立て振りが窺われる部分である。]

 中に捻鉄九太夫(ねぢかね〔く〕だゆふ)といひしは、年いまだ卅にたらずして、力、中國にたぐひなく、其比(そのころ)の妙手にて、およそ四十八の習(ならひ)はいふにたらず、さまざまの手どりなりしかば、人みな、師とし、兄ともてなし、あへて是れが上にたゝんとするものなければ、

「此たび、上(かみ)がたのすまふは中絶して、久しく沙汰なかりしを、珍しう取り立てるは、われわれが日比(ひごろ)の大望(たいもう)、都は殊に諸國の重んずる所といひ、文は藝に長じて恥かしき所と聞き、いざ、我もうちまじりて、萬人の目を驚かさばや。」

と心おごりして、是れも關の數に極まりける。

[やぶちゃん注:「捻鉄九太夫(ねぢかね〔く〕だゆふ)」不詳。「鉄」が後で一部、「鐡」となっているのは総てママである。

「上(かみ)がたのすまふは中絶して、久しく沙汰なかりし」ウィキの「大坂相撲」を見ると、事実に反して、やや時制が前倒しされてしまっていることが判る。そこには『江戸時代初期、相撲興行は観客同士の暴力沙汰が絶えず』、『禁止状態が続き、最初は寺社への寄進名目の勧進相撲しか許可されなかった。寺社への寄進を目的としない興行的な勧進相撲は大坂の堀江で』元禄一五(一七〇二)年に解禁となり、以後、『力士らが勧進元となり』、『全国の力士を大坂へ招いて試合を行うようになった』。『公の許可で相撲興行ができることと』、『大坂商人の後援とを背景に』十八『世紀後半までは江戸相撲(のちの東京相撲)をしのぐ隆盛を誇った。しかし、寛政年間に江戸相撲が谷風、雷電らの活躍で盛り返すと、参勤交代制度で江戸詰めを強いられる諸大名が抱え力士を江戸相撲に出場させることを好む様になり、徐々に相撲の本場の座を江戸に奪われることになった』とあるからである。]

 生得、この捻鉄は、肉食(にくじき)、人にこゑて、幼少より獵をこのみ、山野にかけり、海河(うみかは)に渡りて、終日終夜、魚鳥(うをとり)を驅けとり、中にも狗(いぬ)を食ひ、猫を好きて、猥(みだり)に人の祕藏し愛するをも構はず、押し取り奪ひ、殺して喰(くら)ひける程に、其邊(そのへん)、かつて、犬猫を飼はず。たまさかも飼ふ事あるものは、深く繼(つな)ぎ、遠くかくして、聲をだに聞かせじと、侘(わ)びあへりけるゆへ、九太夫が第一の好物を斷(たゝ)れ、あるひは、東國北國の商人にあつらへ、又は、相撲の弟子に乞ひて、食ふ事、あまたなりしが、早、四、五日が程には都へのぼるべければ、

「嬉しや。上がたにのぼらば、おもふさま、先づ、この好物に飽くべし。けふは宗像(むなかた)の山に、人づて、鳥をおとさせて慰めん。」

とおもひ、鷂(はいたか)ひともと、手にすゑ、宗像へと、いそぎける所に、惣髮(さうはつ)のさぶらひ二人、そのさまけだかく引きつくろひ、うらつけの上下(かみしも)おりめ高(だか)に着なし、大小、さはやかに指しこなして、むかふより來たるは、『いかさま、隣國の太守に近習の人か。扨は、聞きふる巡見の上使か、ともいふベき骨骸(こつがら)なるが、供人(ともびと)の纔(わづ)か一兩人なるもいぶかし』と思ひつゝ行くに、程なく、九太夫がそばに立ち寄り、

「汝は、きこふる當國の相撲とり、捻鉄といふものなりや。」

とあれば、九太夫、おもはず地に跪づきて、

「なるほど。それがしが事に候ふ。」

といふ。

[やぶちゃん注:「こゑて」「こ(越)えて」が正しい。

「猫を好きて」ウィキの「猫食文化」(「びょうしょくぶんか」と読む)によれば、『日本では幕末までネコが食されることもあった』。『沖縄県では肋膜炎、気管支炎、肺病、痔に効果があるとされ、汁物仕立てにしたマヤーのウシルなどが食べられていた』。『戦後の食糧難の時期、広島市の闇市ではネコのおでんが売られており』、「はだしのゲン」で知られる漫画家『中沢啓治は「あれは本当においしかった」と記憶している』とある。

「繼(つな)ぎ」「繫ぎ」。

「あつらへ」「誂へ」。人に頼んで、自分の思う通りに注文して作らせる。

「宗像(むなかた)の山」宗像四塚連山(むなかたよつづかれんざん)。現在の福岡県宗像市と同県遠賀郡岡垣町との間に位置する四つの山。現在の福岡教育大学から鐘崎漁港にかけて城山(じょうやま)・金山(かなやま)・孔大寺山(こだいしやま)・湯川山(ゆがわやま)の順番に連なる。ここ(グーグル・マップ・データ)。「好日山荘」公式サイト内のこちらが地図入りで判り易い。

「鷂(はいたか)」猛禽類でオオタカ(鳥綱タカ目タカ科ハイタカ属オオタカ Accipiter gentilis)とともに鷹狩りに用いる、ハイタカ属ハイタカ Accipiter nisusウィキの「ハイタカ」によれば、『日本では、多くは本州以北に留鳥として分布しているが、一部は冬期に暖地に移動する』。全長はオスで約三十二センチメートル、メスで約三十九センチメートル、『オスは背面が灰色で、腹面には栗褐色の横じまがある。メスは背面が灰褐色で、腹面の横じまが細かい』。「疾(はや)き鷹(たか)」が『語源であり、それが転じて「ハイタカ」となった。かつては「はしたか」とも呼ばれていた』元来、『ハイタカとは、ハイタカのメスのことを指す名前で、メスとは体色が異なるオスはコノリと呼ばれた』。「大言海」に『よれば、コノリの語源は「小鳥ニ乗リ懸クル意」であるという』とある。

「ひともと」「一本」鷹狩り鷹を連れて行く際の古い数え方。

「惣髮(さうはつ)」「總髪」とも書く。男子の結髪の一つで、月代(さかやき)を剃らず、伸ばした髪の毛全部を頭頂で束ねて結ったもの。近世、主に儒者・医師・山伏などが結った。しかし、挿絵の二人の武士は月代を剃っているのは不審。

「うらつけの上下(かみしも)」単衣(ひとえ)ではなく、裏地を附けた裃(かみしも)。

「おりめ高(だか)」衣服の折り目が、悉くくっきりと高く現れていること。挿絵は確かに裃の全箇所がそう描かれてある。

「大小」言わずもがな、長刀と脇差。

「さはやかに」すっきりと。くっきりと。見栄えよく。余り奥まで腰に指さず、前に威圧的に突き出すようにしていることを言っていよう。挿絵もそうなっている。

「いかさま」いかにも(以下のように見える)の意。

「隣國」宗像四塚連山の位置からすると、豊前。

「太守」藩主。

「聞きふる」「聞き觸る」よく話には聞いている。

「巡見の上使」巡見使。江戸時代、将軍の代替りに五畿七道の幕領や大名領の民情・政情を視察するために派遣された役人。通常は使番一人に小姓組番・書院番の者二人を差添え、定員は 三五名であった。但し、都合によっては小人数の幾組にも分れても、巡視した。元和元 (一六一五)年に始まったとされ、第五代将軍綱吉の頃から整備された。この話柄の後の享保年間 (一七一六年~一七三六年)辺りまでは効果を上げたが、それ以降は形式化し、第十三代将軍家定の時、以後延期若しくは中止された。寛文年間 (一六六一年~一六七三年)以降は沿海視察に重点が移った(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「骨骸(こつがら)」「骨柄」。人柄・風采だが、ここは所謂、「人品骨柄いやしからぬ人物」で、人としての品格。特に身形(みなり)・顔立ち・態度などを通して感じられる、その人物の高い品位を指している。

「供人(ともびと)の纔(わづ)か一兩人なるもいぶかし」先の巡見使の注を参照されたい。同一の年齢で同一の服装で二名しかいないというのは、噂に聴いている巡見使一行とは合わないのである。

「おもはず地に跪づきて」遜っているのは、巡見使であった場合のことを考慮しているのである。]

 時に彼の武士、

「しからば、是れより、二、三町あなたへ參るべし。密々(みつみつ)に申すべきむね、あり。」

と、のたまふに任せ、心ならず、そゞろに御供(おんとも)し、いづくともなく、行くほどに、晴々(はればれ)しく、見なれざる野に、出でたり。

[やぶちゃん注:「二、三町」二百十八~三百二十七メートルほど。

「晴々(はればれ)しく、見なれざる野に、出でたり」これこそ怪異の装置が起動し、異界が現出したのである。ただ、だとすると、私なら、九太夫の腕にとまっている鷂(はいたか)を暴れさせるシーンを挿みたくなる。]

 こゝにおゐて、兩人のさぶらひ、九太夫にいふやう、

「我々は人間にあらず。誠は當國宗像の神使(しんし)なり。汝、あまたの生類(しやうるい)を殺す。その罪、もつとも輕からず。冥官、いま、『此つみのかはりに、汝が百年の命數を縮め、はやく黃泉(くわうせん)の底にひかへて、彼の殺されし生類の怨みをむくはしめよ』との鐡札(てつさつ)、すでに極〔きはま〕り、われわれは、汝をむかひに來たりたるなり。」

といふを、九太夫、かつて承引せず、

「何ぞや、其(その)幽冥の事、人と鬼(き)と、道、殊(こと)なり。汝らは、正しく人なり。僞るとも、相手によるべし。」

といひて、なかなかに請合(うけあ)はざれば、兩使、ふところより、たて文(ふみ)のやうなる物を出だし、九太夫に渡せば、不思議ながら、ひらき見るに、

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。]

 

天(あめ)、なり、地(つち)、あらはれ、神、その中にあれましてより此かた、山をうみ、川をうみ、木草(きくさ)、もろもろの翅毛(つばさけ)生(お)ひ、角(つの)をいたゞくのたぐひ、種々(くさぐさ)のものを生みまして、廣く遠く大日本(おほやまと)の國の御寶(みたから)と見そなはし、惠みます吾が國のあらふる物は、みな、是れ、天神(あまつかみ)の手支(たなすへ)の物なり。地祇(くにつかみ)のいとおしみ給ふ御子(おんこ)なり。されば、天地(あめつち)も同じき根(ね)さし、萬物一體(ばんもつひとつかたち)の語(ご)なり。宗源(そうげん)の名の起る所、唯一(ゆいいち)の立つる所以(ゆゑん)、神道(しんだう)、みだりに行なはんや。しかるに、此(この)博多の津(つ)の民、九太夫、よこしまの心をもて、所爲(しわざ)、あぢきなく、纔かの食に口を甘くせんと、むさぼり、餘多(あまた)の物の命を傷(そこな)ふ。それが中(なか)にも、犬猫の肉を食はんがために殺す事、四百六十頭(かしら)、魚鳥(うをとり)、數をしらず。悉く載せて鉄札(てつさつ)にあり。しかのみならず、己(おの)が身のちからを賴み、弱きをあなどり、國中(くになか)の百姓神(おほんたからがみ)の御奴(みやつこ)を、いためそこなふ事、不可勝斗(かげてかぞふべからず)。幽冥の簿(ぼ)、すでにきはまり、命算を奪ひ、ちゞめられ、世に交はるの限り、けふにあり。急ぎ冥使に仰せて、速かに九太夫をめし取り、殺生の罪を畜生のうらみに、むくはしむべし。仍而(よつて)命簿くだんのごとし

 

と書きたる、墨色(すみいろ)・朱印などもぬれぬれとして、只今、したゝめたりと見ゆるに、九太夫は、身の毛よだちて恐しく悔(くや)しくなりしかば、鷹をも捨てて、地にひれふし、泣く泣く、兩人にむかひていふやう、

「誠に、かくまで、惡業を積みける事、今さら悔みても甲斐なきながら、報(むくひ)ある事をしらず、『地獄はなき物ぞ、鬼神は心をいましむる假(かり)の的(めあて)ぞ』と思ひこなせし。愚癡(ぐち)よりなせし事なれば、是非もなき事ながら、暫時(しばし)の命を延べて給はるまじや。人をたすくるは、菩薩の行(ぎやう)とかや。せめて一遍の稱名(せうめう)をも唱へばやと存(ぞんず)るなり。先づこなたへ。」

と、兩人を強いて町につれ行き、とある酒屋に請(しやう)じ入れ、さまざまと訴訟し、扨(さて)、酒を買いとゝのへ、天目(てんもく)九つにつぎわけ、我も三盃引きうけて吞み、兩使にも、おのおの三盃づゝのませけるに、兩使の内、壹人がいふやう、

「何(なに)さま、九太夫が心ざしの程も不便なり。殊には、かゝる饗應にあひたる芳志(はうし)もあり。我、今、汝がために命を乞ひて得さすべし。しばらく、こゝに待つべし。」

と、いひて立つと見えしが、瞬(またゝき)の間に歸りていふやう、

「汝、いのち惜しくば、錢四百貫文を認(したゝ)めて出(いだ)すべし。三年の命を假(かし)て延ぶべし。」

といひけるに、九太夫、なのめならず、よろこび、

「明日(あす)の晝まで。」

と、やくそくして、兩使は歸しぬ。

[やぶちゃん注:「當國宗像の神使(しんし)」現在の福岡県宗像市にある宗像大社の神の使者。天照大神と素戔嗚尊の誓約(うけい)の際に生まれたと伝えられている宗像三女神、市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)・湍津姫(たぎつひめ)神・田心姫(たごりひめ)神(三宮はそれぞれ別な場所)を祀る。鎮座地が九州本土から朝鮮に至る海上交通の要衝に位置していたことから、古くから海上交通者や漁業従事者などの信仰を受けていた。

「鐡札(てつさつ)」閻魔の庁に於いて、浄玻璃(じょうはり)の鏡に写して、善人と悪人を見分け、悪人はその名を記して地獄に送るとされた鉄製の札。「金札」とも呼ぶ。宗像大社の使者ではあるが、神仏習合だから問題はない。それよりも、通常は死んで亡者になってより行われる審判が、既に生前に行われて執行役が通告に来るというのは、余程の悪行三昧(ここは殺生戒を犯した肉食(にくじき)の程度が犬猫にまで及ぶという大悪食(あくじき)故であろう)ということになる。

「あれまして」古代語の連語。ラ行下二段動詞「生(あ)る」の連用形に、尊敬の補助動詞「坐(ま)す」(後の「惠みます」の「ます」もこれ)が附いたもの。「お生まれになる」の意。

「もろもろの翅毛(つばさけ)生ひ」鳥類や獣類の一部(次の類を除く)。

「角(つの)をいたゞく」牛や鹿などの角を持つ、残りの獣類。

「見そなはし」ご覧になり。「見る」の尊敬語。

「あらふる」「あらゆる」の意であろう。誤字というよりも、しばしばこうした異界から齎された文書や神言では見受けるのであるが、冥界の語だから、敢えて変えてある可能性もある

「手支(たなすへ)」古代語。「手(たな)末(すへ)」で、「手の先・指の先」の意。

「宗源(そうげん)」本源。万物の濫觴。

「名の起る所」神が名づけることによって現存在が認められる。「唯一(ゆいいち)の立つる所以(ゆゑん)」も同じ意であろう。

「神道(しんだう)、みだりに行なはんや」反語。神のなされる正しき道(行為や禁忌)に、いい加減な部分は一つもない。

「博多の津(つ)の民、九太夫」博多の浦湊(うらみなと)の民である、九太夫。

「百姓神(おほんたからがみ)」田の神の別称。

「御奴(みやつこ)」神の子である民草、農民(だから前の山の神が百姓神となっていると考えてもよい)のことであろう。九太夫が力自慢をいいことに、乱暴狼藉を彼らに加えたり、彼らの可愛がって飼っていた犬猫を奪い取って食ったことなど諸々を指す。

「世に交はるの限り、けふにあり」この世に生きて居られる時間は、今日を限りとしてある。

「仍而(よつて)くだんのごとし」「よつて」二字へのルビ。前記の通りである。証文や公用文書などの末尾に用いる決まり文句であり、本決裁書の正当性や威厳を表わしている。

「地獄はなき物ぞ、鬼神は心をいましむる假の的(めあて)ぞ」地獄なんざ、ありゃしねえもんだぞ! 鬼神なんどというが、それも人の弱い心を仮に戒めることを目的とした、方便も方便! 大嘘だあ!」。

「思ひこなせし」「熟(こな)す」には幾つかの意味があるが、「見下げる・けなす」があり、ここはそれでも意味が通じる。ただ、これを接尾語として考えると、動詞の連用形に付いて、「自分の思いのままにする」「うまく~する」「完全に~する」(現在の「使いこなす」「乗りこなす」等)の用法もあるから、ここは「そういう風に自分に都合のいいように思い込んでき続けてきた」の謂いとも採れ、私はそれが訳としてはいいように感ずる。

「愚癡(ぐち)」これは仏教用語で三毒(人の善心を害する三種の煩悩である貪 (とん:対象を激しく貪(むさぼ)り求めようとすること)・瞋 しん:自分の心に逆らう対象を怒って恨むこと)・痴 (ち)の「痴」。心性が愚かで、一切の道理に冥いこと。

「暫時(しばし)」当て訓。

「菩薩の行(ぎやう)」菩薩行は菩薩(正法(しょうぼう)を求める修行者)として成すべき宗教的実践を指す。特に、他者に対する慈悲を最も重視することによって最高の悟りに到達しようとすることを言う。対語は自分自身の成仏を目的とする対自己に限定した修行を指す「自利行(じりぎょう)」。

「稱名(せうめう)」南無阿弥陀仏を称えること。九太夫は浄土宗か浄土真宗の信徒であったことが判る。

「訴訟」命乞いの哀訴をすること。

「天目(てんもく)」茶の湯で使う、すりばち形の抹茶茶碗。

九つにつぎわけ、我も三盃引きうけて吞み、兩使にも、おのおの三盃づゝのませけるに、兩使の内、壹人がいふやう、

「何(なに)さま、九太夫が心ざしの程も不便なり。」「まあ、本当のところは、この九太夫の哀願する心根の内は、正直、不憫な感じもする。」の意。

「芳志(はうし)」相手の親切な心遣いや気持ちを敬っていう語。

「錢四百貫文」一貫は一千文で、江戸中期の標準的な換算では二万五千円ほどに当たるから、一千万円ほどにはなろう。安いか、高いか、それは、それ。

「なのめならず」「斜めならず」。並一通りでなく。格別に。

「やくそく」約束。]

 酒屋には、且(かつ)て、此兩使を見る事、なし。只、『九太夫ひとり狂氣したり』とぞ思ひけるに、彼(か)のそなへたる六盃の酒はそのまゝにてありながら、悉く、水とぞ成りたりけるとかや。

[やぶちゃん注:第三者を登場させて、映画で言えばマルチ・カメラで描く。怪談手法としては高度なテクニックである。酒が水となっているというのも上手い。酒屋がこれ幸いと、そのまんまの六杯をうまうま飲もうとして、ぱっと吐き出し、「水じゃ?!」と叫ぶのが聴こえるようだ。

 扨、彼(か)のやくそくの如く、錢を才覺するに足らず。家財を沽却(こきやく)し、身を都の岡崎に請けあひて、先銀(さきがね)を取りなどし、漸(やうやう)四百貫文の都合をとゝのへ、午(むま)の時にいたりて、佛前に備へけるを、昨日の兩使、また、來たり、此錢を取つてかへる、とぞ見えし。

[やぶちゃん注:「沽却」「賣却」に同じい。売り払うこと。

「身を都の岡崎に請けあひて、先銀(さきがね)を取りなどし」筑前に京の岡崎からの勧進相撲の興行主の営業担当者が現金を相応に持った状態で、丁度、まだ居たのであろう(そうでなければ、翌日に間に合わない)。そこで出場に際して、自分の向後の身柄をそちらに任す代わりに、その出場報酬や雇われ賃金の前借りを頼んだのである。]

 九太夫、これに少し心なぐさみけるに、程なく、三日過ぎて、例のさむらひ、此家(このいへ)に來たり、

「汝、わすれたりや。今日は冥途へ來るやくそくぞ。三年といひしは、娑婆の三日なりけるぞ。」

と、いひて、引きたつると見えしが、終(つい)に九太夫も死しけるとかや。

[やぶちゃん注:地獄の現世との時間換算は一定しないが、仏教及びそれに基づいた偽経(地獄思想は中国で形成されたもの。ブッダは地獄は永遠の闇の世界とするだけで、具体的な内容を述べていない)は数学的にきっちりと計算された世界ではある。ウィキの「八大地獄」によれば、九太夫のような、食通故に生き物の命を奪う殺生をしたものが墜ちるとされる、八大地獄でも最も程度の軽い「等活地獄」では、そこでの亡者の寿命は五百歳とするものの、これは現世の五百年ではなく、現世の五十年を『第一四天王(四大王衆天)の一日一夜とした場合の』五百年が『等活地獄の一日一夜であり、それが』五百『年にわたって続くので、人間界の時間に換算すると』一兆六千六百五十三億千二百五十万年に『わたって苦しみを受けることになる』(一年を三百六十五日とした場合の計算とある)とあるから、これだと、等活地獄では、たった一時間が、人間世界の二十一年弱に相当することになってしまう。三年が三日の方が判りはいいし、怪談を楽しむ読者にも分かり易く、腑にも落ちる。]

 

栗本丹洲 魚譜 鳥ヱイ (トビエイ)

 

Toriei

 

 

[やぶちゃん注:図版は国立国会図書館デジタルコレクションの「魚譜」からトリミングした。左上部に少し見えるのは次の別種のエイの尾部の一部で、本図とは全く関係がない。]

 

□翻刻1(原典そのまま。但し、下部の解説は標題「島ヱイ」よりも小さく書かれ、実際には「鳥ヱイ」の想定行の右に寄せて書かれているが(一種の割注風である)、そこまでは再現しなかった)

鳥ヱイ 水府ノ産 其地ノ漢人此名ヲ呼フ

 

□翻刻2(カタカナをひらがなに直し、句読点・送り仮名・記号・濁点を加えた)

「鳥ヱイ」 水府の産。其の地の漢人、此の名を呼ぶ。

 

[やぶちゃん注:体盤上部の激しい皺に不審があるが(恐らくは捕獲して死後、相応の時間が経って腐敗が進んだために生じた死体変相であろう。しかし、そのお蔭で、本図は他に比して強い立体感が描出されており、体盤の厚みが他の絵図に比べて格段に感じられる。しかし変相が甚だしいことから、丹洲は先に図した「トビヱ」とは別種と判断したものか)、突出した頭部の独特の形状及び頭鰭の形、「鳥(トリ)ヱイ」という名などから見て、二枚目に出たのと同じ、顎口上綱軟骨魚綱板鰓亜綱エイ上目トビエイ目トビエイ科トビエイ属トビエイ Myliobatis tobijei と同定してよいであろう。惜しいかな、右の胸鰭の先端が欠けてしまっている。これは元は描かれていたが、巻子本に装幀する際に切れてしまったものであろう。

「鳥ヱイ」しかし、丹洲がこの名から先の「トビヱ」と同類と考えなかったのは、ちょっと不審である。

「水府」水戸(みと)の異称。現在の茨城県水戸市周辺。

「其の地の漢人、此の名を呼ぶ」丹洲が生きた時代よりも前になるが、鎖国の本邦ながら、明末清初の時期(清の中国及びモンゴルの統一支配は一六四四年から)には、中国から日本へ多くの文人や僧が渡来し(多くは満洲族の支配を嫌った明代の漢人の亡命)、各大名家では彼らを招聘することが流行していた。特に水戸藩初代藩主徳川光圀(寛永五(一六二八)年~元禄一三(一七〇一)年)は特に熱心で、明の軍人政治家で侵攻してくる清に抵抗運動を続け、台湾に渡って政権を作った鄭成功(ていせいこう)の日本請援使であった明の儒者朱舜水(しゅんすい 一六〇〇年~天和二(一六八二)年)や、日本琴楽の中興の祖・日本篆刻の祖とされ、「金沢八景」の名数の濫觴となる漢詩を作ったことでも知られる(私の「鎌倉攬勝考卷之十一附錄」の「八景詩歌」を御覧あれ。歌川広重の錦絵も添えてある)、禅僧東皐心越(とうこうしんえつ 一六三九年~元禄九(一六九六)年)などが特に知られる。因みに、トビエイは本邦では北海道以南の各地沿岸に普通に見られるが、他に朝鮮半島・台湾・中国渤海沿岸・黄海などの東アジアの温帯から亜熱帯域まで広く分布するので、彼らが知っていて、漢名も持つのは何ら不思議ではない。特に本種は頭部の奇体(私はすこぶる可愛らしいと感ずる)さと、尾棘の危険性、及び、食用に供される点からも、海辺域では非常によく知られていた存在と考えてよかろう。]

 

2018/03/04

私の愛した人へ

 

武ちゃん、俺は、ずっと、好きだったに――

「武ちゃん」とは私が最初に柏陽高校に勤務した時の優しき国語科の後輩である。昨年、癌で亡くなった。まだ、六十前だのに――

これだけは――言っておかねばならぬ――糞のように偉そうなおまえらよりずっとまともに生きた立派な女性であった。

「おまえら」とは?――文字通りの偉そうに教育を語る「おまえら」である。

彼女の名は武田麻佐子という。 

僕は永遠に忘れない「美しき娘」である。 

「おまえら」の記憶の批判など、いらない。

ただ、彼女の死を報知する必要を切に感じた。 

彼女の最期に残した言葉はそうしたものだったからである。

これを語るのは恐らく私だけであろう――

 

「まさこ! 一緒に腕組んで 海へ、行こう!」



 

栗本丹洲 魚譜 ヱブタ (アカエイ)

Ei

[やぶちゃん注:図版は国立国会図書館デジタルコレクションの「魚譜」からトリミングし、合成した。尾が手前(右)上部へ大きく張り出しているため、今回は尾部の下部をカットした。残念なことに、国立国会図書館デジタルコレクションの画像は、本種の全体像を尾部でカットして画像化しているため、私が二枚を合成し、さらに右下部をカットした。右手に中央に少し見えているのは前の前のエイの胎児の乾燥標本の図の頭の部分、中央の尾の下の部分に少し下から突き出しているのは、前の「コンベ」の体盤の右端であり、本図とは孰れも全く関係がない。]

 

□翻刻1(原図の一行字数と合わせたもの)

 海鷂魚

  紀州熊埜浦

  方言 ヱブタ

閩書所載之牛魚

卽是其書云其尾

長如牛味美在肝

呌䱋魚口在腹下

無鱗軟骨紫黒色

尾長於身尾本有刺

毒能螫人

 

□翻刻2(句読点及び推定で一部に歴史的仮名遣で読みを附し、一部を連続させ、読み易くするために一部に推定で補助(記号を含む)を加えたもの

 海鷂魚(かいえうぎよ)

  紀州・熊埜(くまの)浦

  方言「ヱブタ」

「閩書(びんしよ)」に所載するの「牛魚(ぎうぎよ)」は、卽ち、是れなり。其の書に云はく、『其の尾、長く、牛のごとし。味、美(よ)く、肝に在り。俗に「呌䱋魚(けうこうぎよ)」と。口、腹の下に在り。無鱗にして軟骨。紫黒色。尾は身よりも長し。尾の本(もと)に刺毒(しどく)有り、能(よ)く人を螫(さ)す。』と。

 

[やぶちゃん注:名前(以下の下線太字参照)・形状、辺縁部の色及び有意な大きさと有毒な棘の保有(但し、エイ類はこの毒棘を有するものは多い)、食用に供して美味いという、点を総て満たすことから、本邦の沿岸部でごく普通に見られる、エイ類でも大型種の一つである軟骨魚綱板鰓亜綱トビエイ目アカエイ科アカエイ属アカエイ Dasyatis akajei に比定したい。漢字では「赤鱏」「赤鱝」と書くのが一般的。標準的な成体の体部長は一メートルほどであるが、ここに見る通り、尾が非常に長く、尾を含めると、全長は最大二メートルにも達する。ウィキの「アカエイ」より引く。『北海道南部から東南アジアまで、東アジア沿岸域に広く分布』し、『フィジーやツバルでも』棲息報告がある。なお、種小名akajei(アカイェイ)は無論、和名由来である。『日本を含む東アジアの沿岸域に広く分布し、分布域では普通に見られる。食用ではあるが、尾に毒の棘があるので充分注意しなければならない』。『多くのエイに共通するように、体は上から押しつぶされたように平たく、座布団のような形をしている。左右の胸鰭は緩やかな曲線を描くが、吻は尖っている。背面は赤褐色』や『灰褐色で、腹面は白いが、鰭や尾など辺縁部が黄色』或いは『橙色になる点で近縁種と区別できる。背面に目があり、噴水孔が目の後方に近接して開く。腹面には鼻孔、口』、五『対の鰓裂、総排出腔がある』。『体表はほとんど滑らかだが、背中の正中線付近には小さな棘が並び、尾に続く。尾は細長くしなやかな鞭状で、背面に短い棘が列を成して並ぶ。さらに中ほどには』数センチメートルから十センチメートルほどの、『の長い棘が』一、二本、『近接して並ぶ。この長い棘には毒腺があり、刺されると』、『激痛に襲われる。数週間も痛みが続いたり、アレルギー体質の人はアナフィラキシー』・『ショックにより死亡することもある。棘には鋸歯状の「返し」もあり、一度刺さると』、『抜き難い。刺されたら』、『まず』、『毒を絞り、患部を水または湯で洗い流した後、早急に病院で治療を受ける必要がある。生体を扱う際は、尾を鞭のように払って刺そうとするので充分』、『注意しなければならない。生体が死んでも』、『毒は消えないため、死体を扱う際にも尾には注意が必要である』。『浅い海の砂泥底に生息し、分布域では目にする機会が多い。河口などの汽水域に侵入することもある。普段は砂底に浅く潜り、目と噴水孔、尾だけを砂の上に出す。泳ぐ時は左右の胸鰭を波打たせ、海底近くを羽ばたくように泳ぐ。食性は肉食性で、貝類、頭足類、多毛類、甲殻類、魚類など底生生物を幅広く捕食する。アサリなどの漁場では、食害が問題となることもある』。『繁殖形態は多くの軟骨魚類に見られる卵胎生で、メスは交尾後に体内で卵を孵化させる。春から夏にかけて浅海で出産される』五~十『匹の稚魚は体長』十センチメートル『ほどで、背面も腹面も一様に淡褐色だが、体型は親と同じである』。『弱った個体が浜に打ち上げられたり、浅い海で知らずに海水浴で踏んでしまった時には、毒針を受ける危険がある。しかし、触ったりしない限りは』、『人を刺すことはない』。『天敵はサメ類で、特にシュモクザメ類によく狙われる。毒針もシュモクザメには通用しないようで、T字状の頭で押さえつけられ、殴打されて食べられてしまう』。地方名は『アカエ(関西)』、エブタ(和歌山県)、『アカマンタ(沖縄県)、アカヨ、ホンエイなど』がある。『定置網や底引き網などの沿岸漁業で漁獲される。漁業価値は高くないが、エイ類としては多く漁獲され、利用頻度も高い』。『刺身、湯引き、煮付け、煮こごりなどで食用になる。鰭の軟骨を干物にしたり、魚肉練り製品の原料にも使われる。身は脂肪が少なく繊維質が強く、エイの中で最も美味といわれる』。『生の身はピンク色だが、湯引きすると白色になる。肉質はしっかりしていて悪くないが、軟骨魚類の例に漏れず』、『漁獲後に時間が経つと』、『アンモニア臭が発生する。日本では酢味噌やショウガ、酒などを用いて臭みを消す料理が一般的である』。『毒針を切り取って槍先に用いたり、割って毒素を取り出し、矢毒としても使われた』。以下、「民俗」の項。既にエイの胎児の乾燥標本図で述べた。『アカエイの総排出腔はヒトの女性の陰部に似るといい、傾城魚の別名があり、飯島花月』(文久三(一八六三)年~昭和六(一九三一)年:実業家。長野県上田生まれ。生地で商業会議所会頭などを歴任、大正八(一九一九)年に「十九銀行」頭取となり、昭和恐慌に際しては「六十三銀行」との合併による「八十二銀行」の創立に奔走、合併直前に死去した。花月は号で、江戸庶民文学の研究家としても知られ、蔵書一万冊は「花月文庫」として上田市立図書館に寄贈されている。ここは講談社「日本人名大辞典」に拠った)の『「臙脂筆(べにふで)」』(恐らくは死後の戦後に刊行されたもの)『には、「赤えい一名傾城魚といひ、傾城魚の抱心いかに春の海、といへる俳句あり」とある』。『「傾城」とは元来美女または遊女の意であるが、城を傾ける魚ということからのちにアカエイは巨大なものであると信じられ、アカエイの京などという説話が信じられた』とある。

・「海鷂魚(かいえうぎよ)」歴史的仮名遣なら「かいようぎょ」。「鷂」は鳥綱タカ目タカ科ハイタカ属ハイタカ Accipiter nisus を指す(この和名の元は「疾(はや)き鷹(たか)」。古くは「はしたか」とも称した)。腑に落ちる。

・「ヱブタ」語源不詳。しかし今まで見て来たように、「ヱ」は「エイ」のことであるから、後は「ブタ」の解明である。後に「牛」が出るからといって、安易に「豚」とするのはいかがなものか? 実際、ブタとエイは私はそれほど似ているようには思わない(私は豚も鱏も、動物として特に偏愛する人間であるが)。恐らくは体盤が丸く、「蓋(ふた)」のようであることからの呼称ではあるまいか?

・「閩書(びんしよ)」「閩書南産志」。明の何喬遠(かきょうえん)撰になる福建省の地誌。

・「牛魚(ぎうぎよ)」不詳。残念なことに中文サイトでも原書に当ることが出来ない。因みに現代中国語では、全然関係ない、スズキ目南極魚亜目牛魚科 Bovichtidae という極地性の魚類に与えられている。

・「味、美(よ)く、肝に在り」これはアカエイは美味いが、特にその極め付けは肝(肝臓)にあると言っているのであろう。福本タミ子共同論文エイの魚食文化と地域性PDF)にも「閩書南産志」『には「味の美さは肝にあり」と特筆されている』と載る。

呌䱋魚(けうこうぎよ)」不詳。生き残っていない異名である。「」は「叫」の異体字であるが、或いは巨体となって跳ね回るそれをかく言ったか。「」は「」と同義とし、「黄色と白色の二色の体をしており、尾に毒を含む魚」の意とするから、これは確かに「エイ」である。但し、後者は「魚が肥える」の意もある。]

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十八年 従軍志願

 

   明治二十八年

 

     従軍志願

 

 明治二十八年(二十九歳)は日清戦争の二年目である。居士は時局に因(ちな)んで元日から『日本』に「俳諧と武事」を掲げた。第一に蕪村の句に武事を詠じたもの多きを挙げ、第二に延宝天和(てんな)以後における蕉門の連句に武事を含みたるを説き、第三に宝永版の『南無俳諧』にある以呂波武者(いろはむしゃ)四十七句の中から十数句を抄出したものである。

[やぶちゃん注:「明治二十八年」一八九五年。

「日清戦争の二年目」相互の正式な開戦は一八九四(明治二十七)年七月二十五日。

「俳諧と武事」国立国会図書館デジタルコレクションの「獺祭書屋俳話」のこちらで全文が読める。

「延宝天和」一六七三年~一六八四年。

「宝永版の『南無俳諧』」正岡子規によれば、選者は合爪(ごうそう)なる人物とするが、調べたところ、宝永四(一七〇七)年刊行で、東花坊(各務支考の別号)と共選のようである。]

 日本新聞社は従軍者相次いだため、居士は議会掛(がかり)て衆議院に出入し、傍聴記事を紙上に掲げた。露月氏が代りに行ったこともあるそうである。『日本』の議会記事は多くの紙面をこれがために割き、記者が相競(あいきそ)って筆を揮うので有名であったが、この時は華々しい従軍記事に圧(お)され気味であった。飄亭氏が犬骨坊(けんこつぼう)の名を以て寄せた「従軍記」もあとからあとから紙上に現れ、『日本』の名物の一となっていた。『小日本』廃刊以来の不平は次第に鬱勃したものであろう。遂に居士従軍志願の意を表明するに至った。

 一月九日大原恒徳氏宛の手紙を見ると、「扨私今度或は新聞記者として從軍いたし候樣に相成可申(あひなりまうすべし)と樂み居候。方面は未だ何れとも決定致さず候へども大概大阪師團に附隨致すべしと存居候」とあり、また「昨年來雄心勃々として難禁(きんじがたく)候ひしかども第一は寒氣を恐れ第二は他にも望手(のぞみて)有之候ひし故差扣居(さしひかへをり)候。今日になりては最早寒氣も知れたものに相成り且つ從軍着拂底(ふつてい)に相成候故志願致候」と書いてある。同日佐藤肋骨氏に寄せた手紙にも「小生も遊志難禁いよいよ從軍と決心致し候、多分は望ミ相叶(あひかなひ)候事と存居候」とあるから、この時已に大体の方向は定っていたものと思われる。

[やぶちゃん注:「佐藤肋骨」既出既注。]

 居士の従軍志願については羯南翁は固より、豪傑揃の日本新聞社中でも賛成者はなかった。二十七年中は比較的故障がなかったようなものの、居士の健康を以て従軍を決行しようというのを聞いては、何人も危惧の眉を顰(しか)めざるを得まい。大概な事には驚かぬ飄亭氏の如きも、居士が従軍希望の旨を書信中に洩して来た時は、戦地の衛生は到底その渡来を許さぬこと、戦地の恐るべきは砲煙弾雨にあらずして病魔の襲来にあること、一度戦地に病めば所詮十分の療養なりがたきことなどをつぶさに述べた返簡を送り、断じてその企(くわだて)を抛(なげう)たんことを説いたが、居士はこれにも耳を藉(か)さず、一切の反対を押切って一意従軍に邁進しようとした。

 居士が従軍のため、いよいよ東京を出発したのは三月三日であった。これに先(さきだ)ち碧、虚両氏を伴って某所に別離を叙し、別るるに臨んで一封の書を渡した。この事の日附は二月二十五日になっているが、居士の従軍に対する抱負はほぼこの中に尽きている。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。「子規居士」原本で校訂したが、句読点(原典は文中総て読点)及び読み(一部は平仮名本文に変更されている)は底本の方を採用した。]

 

征淸の事起りて天下震駭し、旅順威海衞(いかいゑい)の戰捷は神州をして世界の最強國たらしめたり。兵士克(よ)く勇に民庶(みんしよ)克く順に以てこゝに國光を發揚す。而して戰捷の及ぶ所徒(たゞ)に兵勢振ひ愛國心愈固きのみならず、殖産富み工業起き學問進み美術新ならんとす。吾人文學に志す者亦之に適應し之を發達するの準備なかるべけんや。僕適(たまたま)觚(こ)を新聞に操(と)る。或は以て新聞記者として軍に從ふを得べし。而して若しこの機を徒過するあらんか。懶(らん)に非(あらざ)れば卽ち愚のみ、傲(がう)に非れば則ち怯(けふ)のみ。是に於て意を決し軍に從ふ。

軍に從ふの一事以て雅事に助くるあるか、僕之を知らず、以て俗事に助くるあるか、僕之を知らず。雅事に俗事に共に助くるあるか、僕之を知らず。然りと雖も孰れか其一を得んことは僕之を期す。縷々の理、些々の事、解説を要せず。之を志す所に照し計畫する所に考へば則ち明なるべし。足下之を察せよ。

 

 文は長いけれども、最大眼目ともいうべきものはここにある。居士は恃(たの)みがたき病軀(びょうく)を抱いて千載一遇の好機に際会し、徒に内地にあって光陰を消費するに堪えず、前年来の不平と雄心のはけ場を従軍に求めたのであった。

[やぶちゃん注:「旅順」「の戰捷」一八九四(明治二十七)年十一月二十一日に行われた、日本軍が清の旅順要塞を攻略した陸戦。清国軍の士気は極めて低く、僅か一日で要塞は陥落した。

「威海衞(いかいゑい)の戰捷」日本軍が制海権の完全掌握を目的として、威海衛湾(思うに、現在の山東省最東部の威海市の市街地の東北に展開する楊家湾ではないかと思われる。(グーグル・マップ・データ))に立て籠もる北洋艦隊の残存艦艇の撃滅と海軍基地制圧に成功した戦闘で、一八九五(明治二十八)年一月二十日から二月十二日まで行われた。]

 三月三日の出発に当り、鳴雪翁は「君行かば山海關(さんかいかん)の梅開く」の一句を餞(せん)した。『日本』社中が置酒(ちしゅ)して行を壮にした時、居士は

 

 かへらじとかけてぞちかふ梓弓(あづさゆみ)矢立(やたて)たばさみ首途(かどで)すわれは

 

と詠み、福本日南氏は筆を執って「えびらにも弓にもかへてとる失立賴む心をわれはたのまん」と和した。斯(かく)して四時十分、新橋を発して壮途に上ったのである。

[やぶちゃん注:「山海關(さんかいかん)」は、当時、万里の長城の一番東方とされていた同城の旧拠点の要塞の固有名。ウィキの「山海関によれば、『河北省秦皇島市山海関区に所在。華北と東北の境界である、河北・遼寧省境が渤海に会する位置にある』。二〇〇九年に『中国政府が遼寧省虎山の虎山長城が長城の東端と訂正するまで、山海関から延びた城壁』の、『海岸から突き出た「老龍頭」が長城の東端とされていた。「天下第一関」と称されるが、これは山海関の著名性を表したものではなく、東から数えて最初の関所であったことを示す』。『明代は山海関より西側を「関内」と称し、東側の満洲を「関東」もしくは「関外」といった。かつて日本の租借地であった関東州や、そこに駐留した関東軍の名称もこれに由来する』とある。鳴雪は子規の従軍を、永い戦闘の中国史を象徴する防壁の「東」端拠点の「山海關」の梅花さえも綻ばせる、と戦勝も含めた言祝ぎとして餞別句をものしたのである。

「福本日南」(安政四(一八五七)年~大正一〇(一九二一)年)は筑前(福岡県)出身のジャーナリスト。本名は誠。司法省法学校中退。「政教社」同人をへて明治二二(一八八九)年に新聞『日本』を陸羯南らと起した(子規が同紙の記者となるのは、その三年後の明治二十五年)。アジア問題に関心を持ち。明治二四(一八九一)年七月には白井新太郎とともに発起人となり、アジア諸国及び南洋群島との通商・移民のための研究団体「東邦協会」を設立、その後、孫文の中国革命運動の支援にも情熱を注いだ。後、『九州日報』社長兼主筆や衆議院議員(国民党)となった。著作に「元禄快挙録」などがある。]

 居士が学生時代に草した『筆まかせ』の中に「半生の喜悲」という一条があり、嬉しかった事として、在京の叔父のもとより余に東京に来(きた)れという手紙来りし時、常盤会の給費生になりし時、予備門へ入学せし時の三を挙げているが、二月二十八日瓢亭氏に送った手紙にはこうある。

[やぶちゃん注:「筆まかせ」「半生の喜悲」は「筆まかせ」の第一編の明治二一(一八八八)年の中の一条(上京(明治一六(一八八三)年六月)から五年後)。国立国会図書館デジタルコレクションの画像ので視認出来る。

 以下は底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。「子規居士」原本で校訂した。仕儀は前に同じ。]

 

皆にとめられ侯へども雄飛の心難抑(おさへがたく)終に出發と定まり候。生來希有の快事に候。

小生今までにて最も嬉しきもの

 初めて東京へ出發と定まりし時

 初めて從軍と定まりし時

の二度に候。この上になほ望むべき二事あり候。

 洋行と定まりし時

 意中の人を得し時

の喜びいかならむ、前者あるいは望むべし、後者は全く望みなし。遺憾々々、非風をして聞かしめばこれを何とか云はん呵々。

 

 半生のよろこびは今や二つになった。更に将来の希望を附加して、綽々(しゃくしゃく)たる胸中の余裕を示しているのも、この時よろこびに満ちていたためであろう。居士が従軍の時のような気持の下に新橋を出発したことは、前後を通じて一度もなかったろうと思う。

 

2018/03/03

栗本丹洲 魚譜 コンベ (ソコガンギエイかドブカスベか?)

 

Konbe

 

[やぶちゃん注:図版は国立国会図書館デジタルコレクションの「魚譜」からトリミングした。右上部にあるのは、次に出る非常に大きなエイの尾の一部が本図の上を通って、エイ胎児の上で曲がって、ここにその末端が出ているだけで、本図とは全く関係がない。]

 

□翻刻

コンベ

 

 越中方言

 

[やぶちゃん注:調べてみると、富山方言では「コンベ」(意味は不詳。ネット上の多くは「カスベ」の訛りとする)は広くはエイを指すが、ネット上では狭義にはエイでも「カスベ」類を指すという記載が目立つ。しかし既に栗本丹洲 魚譜 タウボコヱ (モヨウカスベ?)で述べた通り、軟骨魚綱板鰓亜綱ガンギエイ目ガンギエイ科 Rajidaeのガンギエイ類の中で、多くの種が和名に「~カスベ」とつくし、魚体もよく似ていて、同定は至難の業である。寧ろ、広義の「エイ」を指す場合もある以上、現行で「カスベ」とつかないものも候補対象としなくてはおかしいと私は思っている。図を観察してみると、眼の後部の窪みが目立つこと、尾の背部に並ぶ棘がかなり目立つことが図の特徴として指摘出来る。その二点から考えると、一つ、

ガンギエイ目ガンギエイ科ソコガンギエイ属ソコガンギエイ Bathyraja bergi

を挙げていいかなとも思うのだが、同種であれば、体盤の背面が全体にかなり強い鮫肌を示すので、それが描かれていないのは甚だ不審となる。「ぼうずコンニャクの市場魚介図鑑」のソコガンギエイの画像を参照されたい。しかし、本種は富山でも採れ、同記載の「地方名・市場名」にも北海道での「ドブカスベ」「ミズカスベ」の他、「サメカスベ」「テンカカスベ」の異名があるので、候補としては遜色なく、市場でも普通に流通している(但し、同記載によれば、鰭だけを皮を剝いだ加工状態で、でそうである)。

 次に、比較的浅海に棲息し、味が良いこととから、古くから「真(ま)かすべ」の異名を以ってよく知られている

ガンギエイ科メガネカスベ属メガネカスベRaja pulchra

を挙げなくてはいけないだろう。但し、本種の場合は頭部の先端がもっと有意に尖って描かれないとおかしい。「ぼうずコンニャクの市場魚介図鑑」のメガネカスベの画像を参照されたいが、そこに書かれてあるように、和名の「メガネ」は体盤の模様によるものだが、これは『顕著な斑紋があるものと、ないものとがある』とあるので問題ない。

 次に、図の色に着目してみると、体盤の辺縁部がかなり有意に茶褐色に塗られているのが見てとれる。これは、

ガンギエイ科コモンカスベ属コモンカスベ Okamejei kenojei

の和名「小紋」の由来となった細かいベージュの斑紋を想起させはするしかし先端の突起(軟骨)は本種ならば、もっと明確に突き出ていないとおかしい。(「ぼうずコンニャクの市場魚介図鑑」のコモンカスベ」を参照)。

次に「コンベ」の名に拘るなら、

ガンギエイ科ソコガンギエイ属ドブカスベ Bathyraja smirnovi

であろう。「ぼうずコンニャクの市場魚介図鑑」のカスベ」の「地方名・市場名」にはズバリ、新潟県糸魚川市等で「コンベ」の名で呼ばれているからである。しかし、上記の三種に比べると「ドブ」とつくだけに、ちょっと見てくれは地味そのものではある。

 私は個人的には最後に示したドブカスベ、或いは、最初に示したソコガンギエイの孰れかの可能性が高いように感じてはいる。]

栗本丹洲 魚譜 ヱイ 腹中 初生ノ胎子 (エイの胎児の乾燥標本)

 

Einotaiji

 

[やぶちゃん注:図版は国立国会図書館デジタルコレクションの「魚譜」からトリミングした。左上部にあるのは、次の次に出る非常に大きなエイの尾の一部であるが、本図(エイの胎児)とは全く関係がない。]

 

□翻刻1(原図の一行字数と合わせたもの)

ヱイ 腹中 初生ノ胎子

乾腊スルモノ下図ノ如シ

又三四尺ノ母魚肚肥大者

漁人子アルヲ知テ其陰

戸中ヘ手ヲサシ入テ胎子

ヲ探出スニ七八寸ヨリ尺

許子十餘頭アリ

二十餘頭出ルモアリト云

 

□翻刻2(片仮名を平仮名に代え、句読点及び推定で一部に歴史的仮名遣で読みを附し、連続させ、読み易くするために一部に推定で補助を加えたもの。最初の一行は字空けが施されてあり、明らかに図の標題と読めるので、前後を鍵括弧で囲み、中黒を附して独立させた

「ヱイ・腹中・初生の胎子(はららご)」

乾腊(かんせき)するもの、下図の如し。又、三、四尺の母魚(ぼぎよ)、肚(はら)の肥大せる者、漁人(ぎよじん)、子あるを知りて、其の陰戸(ほと)の中へ、手をさし入れて、胎子(はららご)を探り出だすに、七、八寸より尺許(ばか)りの子、十餘頭あり。二十餘頭出づるもあり、と云ふ。

 

[やぶちゃん注:軟骨魚綱板鰓亜綱エイ上目 Batoidea のエイ類の胎児標本エイ類の多くは卵胎生である。流石に、この乾燥標本図から種までは私には同定出来ない。但し、後注で候補の一種は掲げておく

「ヱイ」御覧の通り、ここでは「ヱ」ではなく、はっきり「ヱイ」と表記している。鱏(えい)には二様の表記法が存在したことがあったことがこれで判る

・「初生」卵から生まれたばかりの子。但し、当時の一般人の認識には卵胎生という認識はないから、これは人間と同じ胎児と認識していたであろう。丹洲がどうであったかはよく判らぬが、やはり卵胎生という区別はなかったのではないかと考える。

・「胎子(はららご)」何となく、この絵を見ていると可哀想な気がして、こう訓じたくなっただけである。「たいし」「たいじ」「はらこ」「はらご」でもよい。

・「乾腊(かんせき)」「腊」は干し肉の意がある。別に「重ねる」の意があることから、植物の圧を加えて作製する乾燥標本(押し花)の手法を乾腊法などとも呼ぶが、この胎児標本は圧を加えているようには見えないので、それは採らず、単に乾燥させて作った標本の意で採る。ネット上では学術的な記載でも乾腊を「かんさく」と読んでいるものを多く見かけたが、これは誤りである。そんな読みはこの「腊」の字はない。一言、注意しておく。

「三、四尺」九十一センチメートルから一メートル二十一センチメートルほど。かなり大きい。本邦の近海で漁師が普通に知っていて、これだけ大きくなるとなると、板鰓亜綱トビエイ目アカエイ科アカエイ属アカエイ Dasyatis akajei を同定候補に挙げることは可能である。次の記載からも実は、これは結構、有力な同定ではないかと私は考えている

「陰戸(ほと)」の総排出腔(生殖管・尿管・肛門が一体となったもの)。「ほと」は本来はヒトの女性生殖器のこと。実はアカエイのの総排出腔は人間の女性器に似ており、アカエイのことを別名で「傾城魚(けいせいぎょ)」とも称する。実際、古くは漁師がこれを捕えて毒針を切り落とし、欲求処理の代用品としたことは、かなり知られた話である。

「七、八寸より尺許(ばか)り」二十一~二十四センチメートルから三十・三センチメートル。]

御伽百物語卷之一 宮津の妖

 

   宮津の妖

 

Miyadunoyou

 

[やぶちゃん注:挿絵は「叢書江戸文庫二 百物語怪談集成」のものを用いた。

 なお、本話は実は既に私の『柴田宵曲 續妖異博物館 「猿の妖」』の注で電子化しているが、今回のものは底本が異なり、注も一から改めて附した。なお、ネタバレとなるが、リンク先をお読み戴くと判るが、本話は、元末の一三六六年に書かれた陶宗儀の随筆「輟耕録」の巻六に載る「鬼臓」の翻案である。その辺はこちらを読まれてより、そちらを読まれるが、よろしかろうとは思う。]

 

 丹後の國、宮津といふ所に、須磨屋忠介といひけるは、常に絹をあきなふの家にて、精好(せいかう)の機(はた)をたて並べ、糸繰りの女、肩をつきしろひ、日夜に家業おこたらず、富貴(ふうき)も年々にまさり、眷屬、あまた引きしたがへける中に、其ころ、年久しくつとめて、中老の數に入りたりける、「源(げん)」[やぶちゃん注:女性名。]といひし糸繰(いとくり)は、成相(なりあひ)のわき在所、伊禰(いね)といふ村のものにてありしが、稚(おさな)き程に父にはなれ、母ひとりの介抱にて、三つ四つまでそだちける比(ころ)、此邊は、みな、網をひき、魚とりて、身すぎとする所なりければ、常に彼(かの)母、この源を抱(いだ)きおひて、濱に出で、鰯を干し、鯖を漬けなどして每日を過しけるが、其比(そのころ)しも、いづくともなく、順禮の僧と見えて、年五十四、五ばかりなるが、此さとに來たりて、家々に物を乞(こひ)、袖をひろげて身命(しんめい)をつなぎ、夜(よ)は此後家が方へたよりて、一夜(よ)をあかしけり。されども、内に入りてしたしく寐る事はなく、只、おもての庭にむしろを敷(しき)、門(かど)の敷居を枕として寢たりければ、日暮れては、さらに内より出づる事も、かなはず、まして外(そと)より來たる人は、此寐たる僧にはゞかりて、得(え)入らず。その上、此坊主、ちかごろの朝寐(あさね)し也(なり)[やぶちゃん注:「し」は強意の副助詞。「近頃は朝寝して夜が明けてもなかなか起きさえしない」の意。]。然れども、此孀(やもめ)、すこしもいとふ氣色なく、心よく、もてなしけるに、ある時、此僧、かたりていはく、

「誠に此とし比(ごろ)、爰(こゝ)に起き臥しをゆるし、心よくもてなし給ふ御芳志のほど、忘れがたく、『何をがな』[やぶちゃん注:「何が適当なものがあればよいのだがなぁ」。]と思へど、世をいとひし身なれば、今さら、報ずべき此世の覺えも、しらず。さりながら、此家(いゑ)のやうを見るに、度々、妖怪の事ありと思ふなり。」

といへば、あるじの女のいうやう、

「さればとよ、此家のみにあらず。惣じて此伊禰(いね)の村は、海にさし出でたる嶋さきなれば、むかふの沖に見えたる中の嶋より、あやしきもの、折々、渡り來て、里人をたぶらかし惱(なやま)す也。されば、我が妻(つま)[やぶちゃん注:「夫(つま)」。]の夭(わかじに)したまひしも、此物怪(もつけ)の故なり。」

とかたれば、僧のいふやう、

「さればこそ。其あやしみの兆(きざし)を見とめたるゆへぞかし。日ごろの御おんには、せめて、其難を救ひてまいらすべし。今は吾も故郷のなつかしうなりたれば、近き内におもひたちて、遙(はるか)なる旅に、をもむく也。いでや、先づ、こよひの内に、此家の難をしりぞけて參らせんずるぞ。」

と、火をあらだち[やぶちゃん注:ことさらに掻き立てて燃え上がらせ。火に拠る潔斎。]、水をあびなどして、何やらん、呪(まじなひ)の御札(おふだ)をしたゝめ、圍爐裏(いろり)にむかひて、彼(かの)札どもを燒(やき)あげたれば、しばらくありて、雨風の音はげしく、

『あつ松のかたより、ふり來たるよ。』

と見えしが、伊禰の山も、くづるゝばかり、大きなる神なり、いなづまのひかり、ひまなく、時ならぬ大(おほ)ゆだち[やぶちゃん注:激しい夕立。]して、中の嶋にわたると見えしが、あるじの女は、氣も、たましゐも、身にそはで、ちゞまり居たる内(うち)、やうやう、雲、はれ、星のひかり、さはやかになりける比(ころ)、かの僧のいひけるは、

「今は心やすかれ。長く、此家にあやしき物、來たるまじ。去(さり)ながら、口惜しき事は、今ひとつの惡鬼(あつき)を取りのこしたり。今より廿年を經て、此家に難あるべし。その折ふし、我がせしやうに、是れを火にくべ給へ。是れをさへ燒き給はゞ、永く、妖怪の根(ね)をたちて、子孫も繁昌すべきぞ。」

と、鉄(くろがね)の板に朱にて書きたる札を取りいだして、あるじにとらせ、僧はなくなく、その家を立ち出でしが、終(つゐ)に、いづくにか去(いに)けん、二たび、歸らずなりぬ。

[やぶちゃん注:「丹後の國、宮津」「天の橋立」で知られる現在の京都府宮津市。

「須磨屋忠介」不詳。

「精好(せいかう)」当初、精巧な優れた機織(はたお)り機(き)の意と読み流していたが、これは「精好織(せいごうおり)」のことではないかと思い当たった。中世以降、公家や武家で好んで用いられた絹織物の一種で、縦糸に練り糸又は生糸を密にかけて、横糸には太い生糸を織り入れて固く緻密に織った平絹のことを言う。現在も神主の祭服や袴地(はかまじ)に使われる。ここはその「精好織りの機織り機」の意という意味で採っておく。

「肩をつきしろひ」互いに肩を突(つつ)き合う。励ます意、或いは居眠りを注意することであろう。

「伊禰(いね)」現在の京都府与謝郡伊根町。ここ(グーグル・マップ・データ)。宮津の北方、丹後半島の東端に当たる。

「中の嶋」伊根は現在、重要伝統的建造物群保存地区に選定されている「伊根の舟屋」で知られるが、その伊根の湾の入り口「中」央には「青島」という島があり(西南直近にもう一つの小さな島がある)現在は橋で、その東方には亀山地区の岬が突き出ている。これがここのロケーション(そのモデル)ではあるまいか? 同地区の航空写真(グーグル・マップ・データ)を見られたい。

「あつ松」不詳。「あつちの松」で「向うの松」の謂いか? 或いは、感動詞「あつ」(!)か。又は「壓(圧)松」で打ち圧(お)されて臥せるかのように生えている松の意かも知れない。

「伊禰の山」現行、伊根山という固有の山名はない。「伊禰」をとり巻く山々と採っておく。]

 これより久しうして、彼(かの)女のそだてつる娘が、やうやう、人となり、はや廿三、四になりけるが、田舍にはおしきまで[やぶちゃん注:「惜しきまで」。もったいないほどに。]、心ばへ、やさしく、容顏(ようがん)、いつくしく[やぶちゃん注:「嚴しく」であるが、この場合は「端正で美しい」の意。]、他(た)に勝(すぐ)れるそだちゆへ、其ころの人のもてはやしにて、高き賤しきとなく、誰(たれ)も心をかけ、戀ひわたりけれども、此母の親、心おごりして、尋常(よのつね)の人にあはせんとも思はず、かしづきわたりけるに、此ころ、都より、大内(おほうち)方の何がしとかやいふ、なま上達部(かんたちめ)の雜餉(ざつしやう)なりける男(おのこ)、年五十ばかりなるが、城崎(きのさき)の湯に入りける歸り、

「此丹後に聞えたる切戸(きれと)・成相(なりあひ)の寺々をもおがまばや。」

とて、打ち越え、かなたこなたと珍しき所々見めぐり、江尻より舟に乘りて、枯木(からき)・ねぬなわの浦・水江(みづのえ)のさとなどを心がけてこぎ出でけるが、此いねの磯を通るとて、彼のむすめのありけるをかいまみしより、しづ心なく思ひみだれし躰(てい)にて、暮れかゝるより、此磯に舟をかけさせ、船人にとひ聞き、浦の海士(あま)にたづねて、此やもめの家に幕(まく)うたせ、物の具とりはらはせなどして、宿をかりつゝ、夜ひとよ、哥(うた)をうたひ、舞をかなでゝ、酒をのみ、宿のあるじといふ女をも、ひたすらによび出〔いだ〕し、見にくき姿をもいとはず、そゞろに酒をしゐのませ[やぶちゃん注:「強い吞ませ」。]、扨、かのみそめつる娘の事を尋ねしに、此母、なを、心を高くもちて思ひけるは、

『都の人とこそいへ、大(おほ)やけのまた者(もの)[やぶちゃん注:将軍・大名などに直属していない家来。又家来。陪臣。]なんどに我が娘をあはせては、かねがね、戀(こひ)わたりつる此あたりの人の心ばへも恥(はづ)かし。とても、都へとならば、いかなる卿相(けいしやう)の妾(めかけ)ともとこそ祈りつれ。』

とおもへば、なかなか、よそ事(ごと)に聞きて返事もせず。

[やぶちゃん注:「大内(おほうち)方」南北朝から戦国時代に中国地方に勢力を揮った大内氏であろう。百済聖明(くだらせいめい)王の子孫と称し、聖徳太子より多々良の姓を与えられたと伝える豪族で弘世(ひろよ)の時に足利氏に従って戦功を立て、山口を本拠として勢力を拡大した。その子義弘は長門・石見・周防・豊前・和泉・紀伊六ヶ国の守護となった(後に山名時清らと応永の乱を起して敗死)、政弘も周防・長門・豊前・筑前の守護として勢力を有し,→応仁の乱では西軍の主力として戦った。その子義興は永正五(一五〇八)年に足利義稙を将軍に復帰させて、自らは管領代となった。その子義隆は七ヶ国の守護として勢力を揮い、公家を保護した。また、対明貿易を行い、キリスト教布教も認めるなど、地方文化の発展に寄与したが、家臣陶(すえ)晴賢に襲われて自殺、ここに大内氏は滅亡した。この名が出るということは、本話は時代がかなり溯る話柄ということになる。

「なま上達部(かんたちめ)」「上達部」は公卿の同じ。摂政・関白・太政大臣・左大臣・右大臣・大納言・中納言・参議及び無官でも三位以上の人を含む総称。参議は四位であるが、これに準ぜられた。但し、ここは「なま(生)」と被せてあるから「年若(としわか)の未熟な」上達部となり、この好色爺の主人は参議に成り立てほやほやの人物ということになる。

「雜餉(ざつしやう)」貴族・武家に仕え、雑務に携わった者。ここは正直、「雜掌」の方が良い。この表記は厳密には「人をもてなすための酒食物及び引出物・贈り物」を指す語であるからである。

「城崎(きのさき)の湯」現在の兵庫県豊岡市城崎町(旧国但馬国)にある城崎温泉。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「切戸(きれと)」「天の橋立」の南端の東に接してある、現在の京都府宮津市文珠字切戸にある臨済宗天橋山(てんきょうざん:または「五台山」とも)智恩寺。古くから文殊信仰(本尊は文殊菩薩像で秘仏)の霊場として知られ、謡曲「九世戸(くせのと)」の題材となっている。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「成相(なりあひ)」丹後半島南東部の天橋立の北側にある真言宗成相山成相寺(なりあいじ:住所も京都府宮津市成相寺)。境内から「天の橋立」が一望される景勝地である。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「江尻」京都府宮津市江尻。「天の橋立」の北端地区。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「枯木(からき)」次でも引くKiichi Saito氏のサイト「丹後の地名」ページの「宮津市の枯木浦」(同ページの資料は厖大なので、検索を掛けられたい)の項に、元禄二(一六八九)年に貝原益軒が来遊して著した「天橋記」の挿入図の一部が掲げられてあるが、そこに「枯木浦」とある。以下、「丹後名所詞花集」(嘉永四(一八五一)刊)に、

 枝もなき枯木の浦に風吹けは浪の花こそ散り亂るらん  玄旨法印

 冬見れば梢にくもる夜半もなし枯木の浦にさゆる月かげ 顯朝朝臣

が引かれている。次に、この枯木(からき)という地名は、「天の橋立」の西方の内海である『阿蘇海の一番の奥』で、『野田川(倉椅川』(くらはしがわ)『)の河口部、古代与謝の心臓部にあたる場所で、現在の宮津市須津(すづ)のあたりを呼ぶ』とあって、『須津には現在も枯木、枯木鼻とか枯木一丁目などの小字がある。倉椅川をさかのぼると加悦町がある。この名は加耶国のカヤとも言われる、それなら』、『あるいは枯木は加羅(加耶)来であろうか。江戸期の文献からは枯木浦は現在の阿蘇海の一番の奥一帯を指すようである。しかし古来は阿蘇海の全体をそう指したのかもわからない』とある。則ち、中心部阿蘇全体(国土地理院地図)を指すことになる。危ないところだった。私はこの爺が江尻で舟に乗り、「ねぬなわの浦」を経て、伊根へ向かったとするなら、この「枯木」という地名は当然、その間にあるものと理解していたからである。この地名は地名としては必ずしも順列になっていないのである。観光目的なら、物理的にどうしても順にならねばならないわけではないのであった。というより、この爺は歌枕を巡ったのであった。

「ねぬなわの浦」「ねぬなわ」は多年生の淡水産水生植物での、スイレン目ハゴロモモ科ジュンサイ(蓴菜)属ジュンサイ Brasenia schreberi を指す(一属一種)。京都府与謝郡伊根町日出(ひで)Kiichi Saitoのサイト「丹後の地名」の日出のページに、「丹哥府志」に日出村の別名を「根蓴の浦」(ぬなわのうら)とし、『宮津府志に根蓴の浦は末考の部に出せり。丹後旧事記及名寄に根蓴の浦は日出村なりとあり、又根蓴の浦に』大澤『の池を詠じ合せたるは』當地『にあらずといふ』と載るとあって、そこに、「名寄」(恐らくは「歌枕名寄(うたまくらなよせ)」のこと。中世の歌学書で全国を五畿七道六十八ヶ国に区分し、当該国の歌枕を掲げ、その歌枕を詠みこんだ和歌を「万葉集」・勅撰集・私家集・私撰集から広く引き出して列挙したもの。成立年代は「新後撰和歌集」成立(一三〇三年)の前後。編者は「乞食活計之客澄月」という署名はあるのの、事蹟は全く分らない。中世には歌枕とその証歌を類聚して作歌の便を図った所謂、歌枕撰書が幾つか編纂されているが、本書はその中でも最大(全三十八巻・六千余首)のもの。ここは平凡社「世界大百科事典」に拠った)から無名氏の一首を引いて、

 くる人もなきねぬなわの浦なれば心とけすば見ゆるなるべし

とし、次に「後拾遺和歌集」から、

 ねぬなわのくるしきほどの絶間かとたゆるも知らで思ひける哉    少將内侍

 忘るるも苦しくもあらすずねぬなわのねたくもと思ふことしなければ 伊賀少將

の二首を掲げているのが判る。和歌はリンク先の記載には不審がある(引用原本の誤りかも知れぬ)ので、独自に表記を確認した。伊根の西直近の(グーグル・マップ・データ)である。

「水江(みづのえ)のさと」伊根は現在、与謝(よさ)郡に含まれるが、「日本書紀」の「卷第十四」の「雄略天皇紀」の、かの浦島伝説を伝える条々は、

   *

丹波國餘社郡管川人、瑞江浦嶋子、乘舟而釣、遂得大龜、便化爲女。於是、浦嶋子感以爲婦、相逐入海、到蓬萊山、歷覩仙衆。語在別卷。

(丹波國(たにはのくに)餘社郡(よさのこほり)管川(つつかは)の人、瑞江(みづのえ)の浦嶋の子、舟に乘りて釣し、遂に大龜を得るに、便(たちま)ち化して女と爲(な)る。是に於いて、浦嶋の子、感(たけ)りて以つて婦(め)と爲し、相ひ逐(したが)ひて海に入り、蓬萊山に到り、仙衆を歷(めぐ)り覩(み)る。語(こと)は別卷に在り。)

   *

とあるように、この附近を古くは「水の江」の里と呼んでいたことが判る。]

 彼(かの)都人、いよいよ、こひ佗(わび)て、ひたすらに母が機嫌をとりつゝ、けふ[やぶちゃん注:その母から。]聞きおきし、何かの事を、ひとつ、我(われ)しりがほにいふ内、

「いつぞや、旅の僧のくれたりと聞く守り札は、今にありや。何(なに)やうのものぞ。見せよ。」

と望めば、彼の母、つねに此(この)まもりを大事とおもふ心より、似せ札をこしらへて持ちたりけるを、さし出だす。

 都人、それを取りけるより、いよいよ手(て)づよく、

「彼のむすめを我にくれよ。」

と、乞ふ事、しきりなりしかども、母、また、なをなを、口こはくいひて、うけあはざりしかば、今は、都人(みやこびと)も大(おほき)に怒り、はら立〔だち〕、

「所詮、こよひの内に、下部(しもべ)ばら、殘る隈なく家(や)さがしして、理不盡に、娘を奪ひとれ。都へ、とく具してゆくべし。」

と訇(のゝし)るほどに、母の親、いまはせんかたなく、非道の難にあふ事を歎きしが、ふと、おもひあはせけるまゝに、肌の守(まも)りより、例の札を取りいだし、茶がまの下の火に、さしつけて燒(やき)けるが、ふしぎや、俄(にはか)に、大かみなり・大雨、しきりにして、いなづまのかげより、

「はた。」

と落ちかゝる。かみなり、あやまたず、『此家(いゑ)のむかひなる磯に落ちしよ』と見えしが、雨、はれ、夜あけて見れば、彼の都人と見えしは、いづれも、年へたる古き猿どもの、衣服したるにてぞ、ありける。

[やぶちゃん注:「訇(のゝし)るほどに」ここは少し、描写を簡略化し過ぎている。罵った後、好色爺、実は妖猿一党は家から出て、その脇に設えた仮旅所に一度、引き上げたのであろう。そこに雷が直撃し、妖魔の猿軍団は悉く雷撃死したのである。

「いなづまのかげより」「かげ」は「影」で「光り」の意。ここは光っただけでなく、光ると同時に落雷したことを、この「より」が効果的に示しているのである。]

 さて、彼(かの)家にて、とりちらしたる道具ども、大かた、此世の物にあらず。みな、金銀のたぐひなりしかば、悉く官家(くわんか)に申して、是れを成相(なりあひ)の寶藏(ほうざう)におさめけるとぞ。

[やぶちゃん注:既出既注の成相寺。]

 

 

御伽百物語卷之一終

御伽百物語卷之一 燈火の女

 

   燈火(ともしび)の女 

 

Tomosibinoonnna

[やぶちゃん注:挿絵は「叢書江戸文庫二 百物語怪談集成」のものを用いた。]

 

 甲州靑柳といふ所に小春友三郞といふ者あり。彼が俗性(ぞくしやう)は、もと、太田道灌の家の子にて、小春兵助といひし武士なり。主人道灌は文明のころ、上杉定正のために戰死あり。兵助その時分は病中にて、殊に重かりければ、暫(しばらく)ひき籠り居たりけるを、此騷動に氣を張り、物の具さし堅め、手鑓おつとり、馬上にて、扇が谷(やつ)の舘(たち)へとかけ付ける所に、はや主人は討たれ給へぬと聞きしより、俄に病勢さかんになり、身體(しんたい)もつての外、惱みける故、腰刀(こしかたな)をぬきて、鎧の上帶(うはおび)、きりほどき、腹、一もんじにかき切り、自害して死したりける。

[やぶちゃん注:「甲州靑柳」現在の山梨県南巨摩郡富士川町青柳町か。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「小春友三郞」不詳。

「俗性」「俗姓」に同じい。家柄。素性(すじょう)。

「小春兵助」不詳。

「太田道灌」(永享四(一四三二)年~文明一八(一四八六)年)。室町中期の武将で、扇谷上杉氏家宰。江戸城を建てたことでも知られる。主君上杉定正の疑心暗鬼によって殺害(本文の「戰死」という表現は当たらない。暗殺である)された。私の「耳囊 卷之三 道灌歌の事」の注を参照されたい。

「上杉定正」(嘉吉三(一四四三)年或いは文安三(一四四六)年~明応三(一四九四)年)は相模国守護で扇谷上杉家当主。名臣太田道灌を暗殺した暗愚な主君として永遠に名が残る。私の『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」華光院/上杉定正邸跡」の注を参照されたい。

「扇が谷(やつ)の舘(たち)」現在の英勝寺附近か寿福寺前にあったと推定される。私の「新編鎌倉志卷之四」を参照されたい。]

 

 その子兵吉といひしは、其ころ、いまだ三才になりけるを、乳母(めのと)がふところに搔きおひて、些(すこし)のしるべを賴みに此所(このところ)へおち下り、深く隱して育てしが、時移り、世かはり、何となく住みつきて、地侍の數に立ちならひ、今の友三郞にいたりて、百石ばかりの田畠を支配し、万(よろづ)のどやかなる渡世なり。妻は同國府中より呼びむかへ、二人が中(なか)に女子(ぢよし)一人、まふけ、すでに十才にぞなりける。

[やぶちゃん注:「兵吉」小春兵吉。不詳。

「同國府中」現在の山梨県甲府市。]

 

 ある日、此妻、むねを痛みそめてうちふしけるが、醫療・灸治、さまざまと手を盡せども更にその驗(しるし)なくて、半月に及ばんとする比(ころ)、友三郞は是れをいたはり、晝夜枕もとを立ちはなれず、種々に看病をなしける故、精氣疲れて、しばしが程、うちまどろみける所に、忽ち、燈の光、あかくなりたるを覺ゆるまゝに目を開きて見上げたれば、傍(かたはら)にともし置きたる有明の燈(ひ)の中より、其長(たけ)、三尺ばかりなる女、影の如く湧き出でて、友三郞にむかひ、いふ樣(やう)、

「其方が妻の病は、纔(わづ)かに怠りたる事の罪のために、魔の見入りたる物なり。吾、よく此病(やまひ)を禳(はら)ひて得させん。我を神として祭るべしや。」

といへば、友三郞は元來、心ふとくしたゝか者なりければ、此のあやしき姿にも恐れず、手もとにありける九寸五分を引きよせ、鍔もと、くつろげ、

「はた。」

と白眼(にらめ)ば、彼の女、

「からから。」

と笑ひ、

「我がいふ事を用ひず、却(かへつ)て吾を憎むと見えたり。よしよし。今は其方が妻の命を奪ふべし。」

と、いふよ、と見えしが、姿は消えて跡かたなく、妻の病は頻(しきり)にとりつめ、『今はかくよ』と覺ゆるに堪えかね、友三郞、俄に心を改め、信をおこし、一心に祈りわびければ、病氣も忽ちに平癒し、夢の覺めたる如くになり、彼の女も、又、あらはれ出で、友三郞に向ひていふやう、

「吾、此度(このたび)の難を救ひし替りには、吾にひとりの娘あり、是れがために、よき婿を撰(えら)みて給はるべし。」

といふに、友三郞、聞きて、

「それ、鬼神天地の道と人間の境(けう)と、雲泥の違(たが)ひあり、吾、何を以て鬼(き)のために婿を撰む事を知らんや。」

といふに、女また云ふやう、

「婿を撰むは、いと易(やすき)事也。桐の木を以て、男の形を刻み給へ。吾、其中にて撰みとるべし。」

といふ程に、友三郞、やがて其敎(おしへ)の如く仕立てさせて備へけるに、夜(よ)の間(ま)に失せて見えざりけり。

[やぶちゃん注:「有明の燈(ひ)」有明行灯(ありあけあんどん)。夜通し燈(とも)しておく行灯。事実の有明の時制としても用いるが、怪異の起きる時間としては相応しくないので私は採らない。]

 

 扨(さて)、あけの夜(よ)、また來たりて、いふやう、

「吾がために能き婿を得たるも、ひとへ貴殿の恩なり。ちかき内に貴殿夫婦を呼びむかへ、此のよろこびを申すべし。かならず辭退したまふな。」

といひしを、友三郞、心には是れを深く憎みおもひしかども、爲方(せんかた)なくて、うち過ぎけるに、ある夜、俄に彼のをんな、あらはれ出で、

「いざや、兼ていひし如く、今宵は夜とゝもに、我が方にむかへて遊ばん。」

と、表のかたを招きけるに、結構に拵へたる駕籠のり物二挺(てう)、

「御(お)むかへに。」

と舁(か)きすゆれば、腰もと・かいそえ・端(はした)もの・供まはり、おびたゞしく、早々はやばや)と勸められ、友三郞ふうふ、

『心ならず、怪しさよ。』

とは思ひながら、迎への駕籠に乘りうつれば、供まはりの男女(なんによ)、前後をかこみ、既に大門を出でけるが、折しもそのよは、かき曇り、星の影さへ見えず、只行くさきに墨を摺りながしたるやうにて、おそろしきばかり也しが、行くともなく、飛ぶともなく、少時(しばらく)の程に、空もやうやう晴れたり、と見る比(ころ)、大きなある屋形(やかた)に着(つき)ぬ。

[やぶちゃん注:「表のかたを招きけるに」古語の格助詞「を」は現代語の「~から」の意で用いることがある。

「大門」「だいもん」と読んでおくが、不詳。たかだか百石取りの家格の友三郎の家の門をかくは呼ばない。一応、彼らの住んでいる青柳の村の入口にある門をかく言うのもおかしいから、ここはかなり距離があるが(あってもこの妖女は時空間を自在に操るからなんら問題ない)、甲府府中の外郭の大門と採っておく。]

 

 其さま、國司などの舘(たち)のごとし。内より、あまたの男女むかへ、いざなひて、奧に入る。その綺麗さ、心(こころ)、詞(ことば)にのべがたく、おのおの居ならびたる、あまたの召仕ひの中を見まはすに、あるひは友三郞が親しく語り昵(むつ)びたるもあり、又、『一門のすゑなりしが、死して久しき人よ』と思ひあたるもありて、見る度に驚かるゝもあれど、此のものども、友二郞を見ても、見しらぬ顏にもてなして居れば、心に、いよいよ不審はれがたくて、なを、おくの座敷にゆけば、『彼の桐の人形よ』と覺えし男、衣冠たゞしく引き繕ひ、例のあやしき女と娘と、友三郞夫婦を上座にまねき据へて、さまざまのもてなしをなす事、斜(なのめ)ならず。やうやう、酒、長(ちやう)じ、時うつりて、五更のかねのこゑ、かすかに聞え、『八聲(〔や〕こゑ)の鳥のうたふよ』と覺えしが、忽ち、友三郞夫婦のものは何(いつ)歸りたるともなく、吾が家の内にかへりしこそ、不思議なれ。

[やぶちゃん注:「五更」現在の午前三時から午前五時、又は午前四時から午前六時ころに当たるが、ここは前者の前半、暁の時刻と採る。

「八聲(〔や〕こゑ)の鳥」鶏の鬨の声。明け方に八度鳴くとされることから。]

 

 友三郞も、是れに懲(こり)て、いよいよ、此(この)怪しみをうるさくおもひ、

「いかにもして、此妖怪を、やめばや。」

と心をくだく折しも、又、かの女、あらはれ出で、友三郞が傍ちかく步み寄る所を、友三郞、ねらひよせて、手もとなる木枕を取り、彼の女の眞向に手ごたへして抛(な)げつけしかば、女のかたち、

「わつ。」

といひしが、枕にひゞきて消えうせしが、友三郞が妻、俄に心痛を病みて、一日一夜が程に死(し)しぬ。

 夫、また、是れにうんじて、さまざまと祈り、いろいろに詫びしかども、二たび、彼の女、出でず。

「此(この)上(うへ)は。」

と、おそろしさに、家を外に移さんとする心出で來しかば、道具・家財はいふにたらず、鼻紙ひとつさへ、疊にすいつきて、はなれず。

 あまつさへ、友三郞が妹、また、やみつきしが、程なく、これも死したりしとぞ。

[やぶちゃん注:「是れにうんじて」総ての本文は「うんして」であるが、濁音化した。「倦んじて」。「うみす」の音便であるから「うんして」でもいいのだが、意味が採りにくいと判断した。「がっかりする」の意。

 この話、正体は狐辺りが想起はされるものの、一切、正体を示さないところに、真正正統のホラーの雰囲気が漂う。桐の人形を娘の夫として迎えるところ、妖女の館(やかた)内に友三郎の知人や既に冥界に行った親族の姿が垣間見られるところなども、その意味が解き明かされることがないというところが、はなはだ上手い。また、妻だけでなく、実妹を殺害しながら、友三郎には決定的な危害は加えないところ、彼が遠くへ行くことを阻むこと(鼻紙一枚さえ、畳にベッタリと吸い付いて離れないというのも映像的で美事な附加である)などから、この妖怪の友三郎へのおぞましい一方的な恋情も示されてある。

2018/03/02

栗本丹洲 魚譜 スギヱ/ヱンカウボウ (リボンカスベ?/ウチワザメ)

 

Sugieienkaubou

 

[やぶちゃん注:図版は国立国会図書館デジタルコレクションの「魚譜」からトリミングした。右端上部にあるのは、前のガンギエイ科 Rajinae 亜科コモンカスベ属モヨウカスベ Okamejei acutispina に候補比定した「タウボコヱ」の頭頂部の先端部分。本二種の図とは関係ないものの、丹洲は明らかに「タウボコヱ」と非常によく似た種として、ここで並べていることは確かである(但し、ご覧の通り、「スギヱ」の尾部の本体側の最初の突起の根元部分で前の絵とは貼り合わせてある(国立国会図書館デジタルコレクションの当該にあるスケールによって、糊しろ部分が本図の料紙の方に三センチメートル分あることも判る)。但し、だからと言って、これがモヨウカスベの近縁種であるということには、当然ならないし、私も全く別個に観察し直してはいる。]

 

□翻刻

スギヱ

 

ヱンカウボウ

 

[やぶちゃん注:右上方の一個体の「スギヱ」なるものは、体盤が細身ではあるが、腹鰭の前葉が有意に長くリボン状に見えると感じたところで、私は、

軟骨魚綱板鰓亜綱ガンギエイ目ガンギエイ科Arhynchobatinae 亜科ソコガンギエイ属リボンカスベ Bathyraja diplotaenia

のように思われてならなくなった。「ぼうずコンニャクの市場魚介図鑑」の「リボンカスベの画像と比較されたい。因みに、私はこれを干したものを甘辛く煮たものが大好物である。同リンク先に書かれている山形県の「からがえ」「からげ」「からかい」と呼ばれるもので、私はそちらにいた古い教え子に何度もこれを送って貰ったものである。懐かしい!

 また、左下方に描かれた一個体の「ヱンカウボウ」(エンコウボウ)なるものは、私は、

軟骨魚上綱板鰓綱トビエイ目Platyrhinoidei 亜目ウチワザメ科ウチワザメ属ウチワザメ科Platyrhinidaeのウチワザメ類の一種、或いはその内の、南日本の浅海域でよく見かけるウチワザメ Platyrhina tangi

ではないかと考えている。私が同定候補として比較した画像は、英文の学術サイト“FishBase”Platyrhina tangi Iwatsuki, Zhang & Nakaya, 2011 Yellow-spotted fanray”にある、画像である。一つの同定理由は、本種の眼の上部から背びれの基部にかけて白く描かれたかなり規則正しい点状紋である。上記リンク先の画像を見ても、また、鈴木雅大氏のサイト「生きもの好きの語る自然誌」のウチワザメ Platyrhina tangiでも、そうしてまた、英名“Yellow-spotted fanray”からでも判る通り、これは本種のかなり特徴的な部位だからである。

・「スギヱ」前例に徴して「スギエイ」のこととなるが、この呼称は現存しない。この尖った魚体からすると、或いは「杉鱏(すぎえい)」ではなかろうかと、ふと思いはした。

・「ヱンカウボウ」私の同定が正しいとすれば、これは「団扇鮫」(但し、サメではなく、あくまでエイである)であるとすれば、この異名は魚体から一目瞭然、「坊」主の丸(「円」)い頭で、しかも、例の特徴的な黄色い点(図では白いが、これは死んで時間が経過して脱色してしまったか、剥離してしまったものではないかと踏んでいる)が頭頂部で「光」っているように見えるという意から、「圓光坊(円光坊)」なのではないか? と思わず、直感したのであった。但し、正しい歴史的仮名遣はこの文字列だと「ヱンクワウバウ」となるのではあるが、丹洲は国学者ではない。他の図譜の解説でも歴史的仮名遣はしばしば誤っている。だから、その違いを取沙汰して私の仮説を退けることは、残念乍ら、出来ないのである。]

 

御伽百物語卷之一 石塚のぬす人

 

   石塚(いしつか)のぬす人

 

Isitukanonusubito

 

[やぶちゃん注:挿絵は「叢書江戸文庫二 百物語怪談集成」のものを用いた。視覚的怪異の最たるシークエンスを絵にしている。いいね。]

 

 往昔(いにしへ)、神功皇后(じんぐうくわうごう)を葬り奉りし狹城(さき)の盾列(たけなみ)の陵(みさゝぎ)は、今の和州歌姫(うたひめ)の地にして、上古(そのかみ)、成務天王(せいむてんのう)を治め奉りし池後(いけのうしろ)の陵と相並(ならべ)り。俗、呼(よん)で、皇后の陵を「大宮」と名づけ、成務の陵を石塚とす。猶、そのころの凶官(けうかん)、大連(たいれん)の住みける跡も、土師村(はしむら)・陵村(みさゝぎむら)と名に殘りて、千歳(〔せん〕ざい)の今に及べども、失せず。百王の世々を動きなく遠く見そなはし給ふとの神慮も、いちじるく、成務・神功・孝謙三代の陵墓、親々としてつらなり、雨、土くれを動かさず、風、枝をならさずして、松は年每(としごと)の綠ふかく、雲は石塚より出でて、慶びの色をたなびけりとぞ。

[やぶちゃん注:「神功皇后(じんぐうくわうごう)を葬り奉りし狹城(さき)の盾列(たけなみ)の陵(みさゝぎ)は、今の和州歌姫(うたひめ)の地」第十四代天皇仲哀天皇(父は第十二代天皇景行天皇の子日本武尊とされる)の皇后で三韓征伐を指揮したとする伝承で知られる神功皇后の陵墓は、現在も宮内庁によって奈良県奈良市山陵町(みささぎちょう:「山陵町」三字でかく読む)にある狹城盾列池上陵(さきのたたなみのいけのえのみささぎ)に治定されている(五社神古墳:前方後円墳で墳丘長は二百七十五メートル。ここ(グーグル・マップ・データ))。現在、歌姫の地名はその東直近に奈良市歌姫町として残る。ここ(グーグル・マップ・データ)。因みに、「歌姫」という地名は平城京の時代の女官がこの辺りに住んだことが由来とされる。

「成務天王(せいむてんのう)を治め奉りし池後(いけのうしろ)の陵」第十三代天皇成務天皇(景行天皇の子)。位置は先の神功皇后陵墓の地図画面の南にある。但し、ウィキの「神功皇后」の「陵」によれば、神功皇后の陵について「古事記」では『「御陵は沙紀の盾列池上陵(さきのたたなみのいけがみのみささぎ)に在り」』とし、「日本書紀」では『「狭城盾列陵(さきのたたなみのみささぎ)に葬る」と記している』。しかし、承和一〇(八四三)年に『盾列陵で奇異があり、調査の結果、神功皇后陵と成務天皇陵を混同していたことがわかったという記事が』「続日本後紀」にあるとする。その後、『「御陵山」と呼ばれていた佐紀陵山古墳(現 日葉酢媛陵)が神功皇后陵とみなされるようになり、神功皇后の神話での事績から安産祈願に霊験あり』、『として多くの人が参拝していた』という。『その後、西大寺で「京北班田図」が発見され、これにより』、『神功皇后陵が五社神古墳とされ』、文久三(一八六三)年に『五社神古墳が神功皇后陵に治定され、現在に踏襲されている』とある。本話の舞台は、まさにこちらの成務天皇の陵墓に治定されている石塚で現行では「狹城盾列池後陵(さきのたたなみのいけじりのみささぎ)」と呼んでいる。考古学名は「佐紀石塚山古墳」で前方後円墳、墳丘長は二百十八メートルである。参照したウィキの「成務天皇」の「陵」によれば、「扶桑略記」によれば、康平六(一〇六三)年三月、『興福寺の僧静範らが山陵を発掘して宝器を領得し』たが、二ヶ月後の五月、『山陵使が遣わされて宝器は返納され、事件に座した』十七『人は伊豆国その他に配流された。他にも勾玉などが盗掘される被害を受けている』とする。『平安初期の承和』(八三四年から八四八年)の頃には、『すでに神功皇后陵とされていた。これは陵号のうち』、『後の文字をシリと読むことを忌み、カミといって、神功皇后陵陵号とまぎれたものか』とも言う。『のちに陵の所在を失ったが、元禄以後、多くの説が成務陵に現在の地を推し、幕末の修陵の』際に大々的に『修治が加えられ、竣工に際しては』慶応元(一八六五)年、『広橋右衛門督が遣わされ、奉幣が行なわれた』とある。

「凶官(けうかん)」不詳。原典もこれだが、フラットな意味での、こんな熟語は私は見たことがない。この場合の「凶」は「おそれる」で、畏れ敬うべき高位の官職という意味であろう。

「大連(たいれん)」本来は「おほむらじ」で、大和朝廷における最高執政官の称。連(むらじ:古代の姓(かばね)の一つ。大和朝廷から神別(しんべつ)の氏族の首長に与えられた。臣(おみ)と並ぶ最高の家柄で、「連」姓の内の有力者は「大臣(おおおみ)」とともに大連と称して政権を担当した)の姓(かばね)の最有力者が任ぜられ、大伴・物部の二氏が世襲したが、大伴金村失脚後、物部氏が独占したものの、六世紀末には物部守屋が蘇我馬子に殺されたため、消滅している。ここは単に高位で政治勢力を持った一族の謂いであろう。

「土師村(はしむら)」「土師」は土師(はじ)を氏(うじ)の名とする氏族で、天穂日命(あめのほひのみこと)の末裔と伝わる野見宿禰が殉死者の代用品である埴輪を発明し、第十一代天皇垂仁天皇から「土師職(はじつかさ)」を、曾孫の身臣は仁徳天皇より改めて「土師連(はじのむらじ)」姓を与えられたとされる。その一族の末裔が領した或いは住む村ということであろう。但し、現在の奈良県内には地名としては残らない模様である。

「陵村(みさゝぎむら)」神功皇后の注で示した通り、同陵一帯の町名は現在も山陵町(みささぎちょう)である。

「百王の」「の」は主格の格助詞。

「孝謙」第四十六代天皇孝謙天皇で、重祚して第四十八代天皇称徳天皇(養老二(七一八)年~神護景雲四(七七〇)年)。女帝。陵墓は、現在、宮内庁によって奈良県奈良市山陵町にある高野陵(たかののみささぎ)に治定されている。佐紀高塚古墳(前方後円墳・墳丘長百二十七メートル)。先の神功皇后の注のリンク地図の成務天皇陵の南に接するように存在する。但し、本古墳は佐紀盾列古墳群を構成する前方後円墳の一つであって、『その比定は疑問視されている』とウィキの「孝謙天皇」にある。]

 こゝに「火串(ほくし)の猪七」と云ひしは、吉備中山に隱れ住みて、年久しき盜賊の張本なり。彼がすむ山は備前備中に跨りたれば、兩國の支配たる故、制禁も疎かなるを賴みて、ある時は武藏野の草に臥して江戸の繁榮に欲をおこし、又は北國船(ほくこくぶね)に身をひそめては津々浦々の旅客をなやめ、命を幾度か虎の口に遁れて立ち歸る。春は都の町々に窺ひありき、花の名殘りを大和路にかゝり、故郷の空なつかしく急ぎけるに、此歌姫の宿泊り迄、組下の與力ども二十人ばかりを引き具し、こゝかしことおびやかし、伐り取り強盜に心をくだくといへども、上方の邊(へん)は、人、賢(さか)しく、安きに居れども、危きを忘れず。常にたのしめども、萬(よろづ)に心をくばりて、用心、きびしき所なれば、此程、さまざまと手を盡しつるも、徒(いたづ)らになり、うちつゞきたる不仕合せに、

「いでや、祝ひなをして、道すがら、歸りがけの設(まふけ)せん。」

と、猪七が一黨、酒のみ、あかしける。

 序(ついで)に猪七、いひけるは、

「いざや、者ども、此むらにありといふ陵を掘りかへし、樣子よくば、今よりして東國北國に指しつかはす眷屬どもの宿りにもすべし。且(かつ)は予が出張(でばり)の地にも可然(しかるべ)き所ぞかし。幸ひ、此陵山(みさゝぎやま)は三代帝王の墳墓なり。中にも大宮は神功皇后の陵にて、四方にから堀を構へたるも、要害のたより、すくなからず。與力の者ども、面々に力をはげまし、掘りかへせ。」

といへば、

「我も我も。」

と鋤鍬(すきくわ)をたづさへ、先づ、石塚に取りかゝりぬ。

[やぶちゃん注:「火串(ほくし)の猪七」不詳。「火串」(ほぐし)とは夏山における狩猟の際、鹿などを誘(おび)き寄せるための、燈火(ともし)の松明(たいまつ)を挟んでおく木の名称、或いは、狼煙(のろし)の土台に立てる杭(くい)が原義である。盗賊の通称としてはなかなか、いい。

「吉備中山」岡山市西部にある吉備津神社(現在の岡山市北区吉備津)の後方の山。ここ(グーグル・マップ・データ)。歌枕でもある。また、地図を見て判る通り、この山は石室を持った古墳群がある。火串の猪七がここを根城としていたからには、古墳を暴くなんぞは平気の平左であったろう

「備前備中」「備前」は現在の岡山県東部、「備中」は岡山県の西部に当たる。

「北國船(ほくこくぶね)」一六世紀頃から十七世紀末にかけて、北陸地方を中心に日本海海運の主力となって活躍した廻船のこと。大きさは三百石積みから二千石積み級の大型船まであるが、特に千石(米一千石相当。約百五十トン積み)以上の大型船の船を指し、主として秋田・青森地方の材木輸送に使用された。これは帆走性能は存外に悪く、人力航行を併用するために多数の乗組員を必要としたから、こういった不逞の輩が潜り込むにはもってこいだったわけである。

「組下の與力」盗賊団の配下。

「伐り取り強盜」強殺強盗。

「うちつゞきたる不仕合せ」上方の人間が、余りに用心深いために、強盗が一向に働けない、未遂に終ってまるで金にならないことを言っている。

「いでや、祝ひなをして、道すがら、歸りがけの設(まふけ)せん」「さあ! 野郎ども! 仕事が上手くいかねえから、一つ、道すがら、盗賊の神さまを祝う『晴れ』の祭りをやらかし、故郷の吉備の中山に帰りがけの上手い獲物に遇えるよう、酒宴を張ろうぜ!!」。

「宿り」中継ぎの隠れ家。

「出張(でばり)の地にも可然(しかるべ)き所ぞかし」「吉備の中山の本拠から、東国北国へと盗みの触手を伸ばすにゃあ、格好の場所じゃねえか!」。

「要害のたより、すくなからず」盗賊の一拠点とするに、守るに易く、攻めらるるに難い、格好の結構であるということを言っている。]

 比(ころ)は卯月のはじめの七日、宵月(よひつき)いりてより、胴(どう)の火さし上げ、手每(てごと)にいどみて掘りけるに、始(はじめ)の程は四方ともに石を以て築きこめたるを、漸(やうやう)として此石を掘りすてしかば、何所(いづく)ともなく、鉄(かね)の汁(しる)、湧き出でしを、猪七、下知して、土砂を持ち、かけさせ、泥となして、かへほしたれば、其おくは、大きなる石の門ありて、鉄(くろがね)の鎖(でう)をおろしたるを、胴突(どうつき)をもつて打ちはづし、門をひらいて込みいらんとする所に、何ものゝ射るとはしらず、門の内より矢を射出す事、雨のごとくにみだれかゝれば、いさみすゝみし盜賊ども、七、八人、やにはに、たふれ死する者もありければ、此ふしぎ氣をとられ、しばし、しらけてひかへたるを、猪七は、もとより不敵ものにて、かやうの怪異にあへども、事とせず、餘黨どもを叱りて云ふやう、

「死して久しき人を治め、年、また、いくばくの月日を積みたる、ふる塚(つか)なり。狐狸の臥處(ふしど)にもあらねば、是れ、しばらく、上古(じやうこ)の人の、塚を守らんために仕かけ置きし操(からくり)ぞや。皆、立ち退きて、石を投げよ。」

と、聲をかくれば、手每(てごと)に礫(つぶて)を以て投げいるゝに、石に隨ひて矢を射だす事、數刻(すこく)にして、やがて矢種も盡きぬと見えし時、

「入れや者ども。」

と、一同に、こみ重(かさな)り、胴の火、ふき立てて、第二の門にとりかゝり、石の扉(とびら)をはねあぐれば、又、甲冑(かつちう)を對(たい)せし武者、門の左右に立ちふさがり、打ち物のさやをはづし、眼(まなこ)をいらゝげ、面(おもて)もふらず、無二無三に切りまはるを、猪七、是れにも猶、恐れず、

「鍬の柄・鋤の柄を取りのべ、敲(たゝ)きおとせ。」

と、下知せられ、盜賊ども、かけふさがり、橫ざまに薙ぎたつれば、太刀・長刀、ことぐく持ちもこたへず、落されたり。

[やぶちゃん注:「胴(どう)」強盗提灯(がんどうぢょうちん)のことであろう。銅板やブリキ板などで釣鐘形(胴状)の枠を作り、中に自由に回転する蠟燭立てを取り付けた提灯。光が正面だけを照らすため、持つ人物の顔は相手に見えない。「忍び提灯」「龕灯(がんどう)」とも言うから、「がんどう」の「どう」(本来は「灯」)に、釣鐘状の「胴」体を掛けて、かく表記したものと思われる。

「手每(てごと)にいどみて」各人が競い合って。

「鉄(かね)の汁(しる)」金気(かなっけ)の水。強い金属臭の赤茶けた水。因みに、始皇帝の墳墓には盗掘防止用に水銀が湧き出て、盗掘者を溺れさせるシステムがあったという。

「泥となして、かへほしたれば」水分を吸収させて泥に変えて、通路(古墳の羨道)を乾燥させたところ。

「鎖(でう)」「錠」に同じい。

「胴突(どうつき)」地盤を突き固めたり、杭を打つのに用いる用具。土突き。

「しらけてひかへたるを」配下の連中は、意想外の事態に蒼白となって後じさりしたが。

「治め」納め。納棺し。

「しばらく」「ちょっとの間」で、盗掘防止のためのその装置が機能する時間を指していると読んでおく。

「上古(じやうこ)の人の、塚を守らんために仕かけ置きし操(からくり)」やはり、始皇帝の墳墓には同じく盗掘者防止用に自働的に矢が射出される装置が仕掛けられていたともいう。

「皆、立ち退きて、石を投げよ」自動装置であるからには、人か物体かは判別せずに、動体に対して矢を射出するのであろうと推したのである。火串の猪七、なかなかの策士である。

「數刻(すこく)」一刻は定時単位では三十分相当。]

 よくよりて見るに、悉く、木にて刻(きざみ)たる兵の人形なり。

「時こそ移れ。」

と、みだれ入り、殿上(てんじやう)とおぼしき所に着き、大床(おほゆか)に走りあがり、其あたりを見まはせば、中央の床(ゆか)に臥し給ふは、傳へきく成務帝(せいむてい)と見えて、七寶の襖(ふすま)に珠玉の褥(しとね)、衣冠たゞしくして、東首(とうしゆ)したまふ。四面に、おのおの、卿相雲客(けいしやううんかく)、次第に居ならび、威儀おごそかなるありさま、生ける人に少しも、たがはず。

[やぶちゃん注:「木にて刻(きざみ)たる兵の人形」木ではあるが、後の描写も、これはもう、まさに兵馬俑の雰囲気、充満! 但し、兵馬俑(実物)の発見は現代も現代、一九七四年のことではあるけれど。

「東首」東枕。これは天照大神の太陽神崇拝(再生信仰)の表われか。陰陽五行説では、東は「陽」の方角とされ、「陽」の「気」を受けられ、再生の意味があることにもなるのだが、これが事実、成務天皇の墳墓であるとすれば、仏教の伝来もまだまだであるからして、これは無効な説明とはなる。

「卿相雲客」狭義には公卿と殿上人で、「卿相」は三位以上の公卿、「雲客」は宮中での昇殿を許された殿上人(四位と五位及び、六位の蔵人(くろうど)で殿上の間に昇殿を許された者)。但し、広義に高い身分の人々の意もある。]

 身の毛よだちて覺へたるに、玉(たま)の床の後(うしろ)にあたりて、大きなる黑漆(こくしつ)の棺(くわん)あり。鉄(くろがね)の鎖(くさり)をもつて石の桁(けた)に穴をゑり、八方へ釣りかけたり。其したに、金銀・珠玉・衣服・甲胃、さまざまの寶をつらねて、心も詞(ことば)も及ばれず、見も馴れざる古代の道具什物(じうもつ)、うづ高く積みあげたるに、盜人ら、是れを見て、おもひの外に德つきたる心地して、我よ人よと、あらそひ取らんとする所に、彼の釣りたる棺の内より、白銀(しろがね)にて作りたる鼠壹疋、猪七が懷に落ちかゝりけるが、たちまち、棺の兩角(りやうかど)より吹きいづる風の音、さながら、秋の田面(たのも)に渡る野分(のわき)の風ともいひつべく、吹きしこるにつれて、細かなる砂を吹きおろす事、雲霧(くもきり)か、しぐれの雨かと、袖を拂ひ、頭(かしら)をふるふ程に、松明(たいまつ)を吹き消し、鋤鍬をふりうづみ、見あぐる眼(まなこ)をくらまかし、矢をつくばかりに、風につれて、とやみなく降る砂に、盜人らも途(と)を失ひ、とやかくと身もだへせし内、すでにふりつみて、膝節(ひざふし)も隱るゝ程なりしかば、さしもの猪七も、そらおそろしく、後(うしろ)がみにひかれて逃げ出でしかば、殘る者ども、我さきと命をおしみ、轉び走り、門の外にかけ歸れば、石の扉、おのれと打ちあひ、もとの如くにさし堅まる。

[やぶちゃん注:この後半の変異(インディ・ジョーンズ張り!)が、聴覚的にも視覚的にもすこぶる映像的である。

「桁(けた)」ここは棺の下に複数渡した石製の水平材。

「おもひの外に德つきたる心地して」想像以上の財宝の山に、とんでもない儲けものをしたという狂喜乱舞する気持ちを指す。

「彼の釣りたる棺の内より」ということは、この黒漆で塗られた吊り下げられた正体不明の棺(と言っているが、これは櫃(ひつ)と採るべきものである)には蓋がされていなかったことになる。その櫃の下に財宝がこれ見よがしに山積みされているというのは、怪しい。これもやはり盗掘防止用の装置であると考えるべきだったね、猪七さん。事実、そのように何かが装置が作動するじゃないですか。

「白銀(しろがね)にて作りたる鼠」後の展開を見ると、表面に何らかの毒物が塗られていた可能性が高い。

「吹きしこる」「しきる」ではないかと原典を見たが、ママ。「しこる」は「凝る・痼る」で、動詞の連用形に付いて、「しきりに~する」の意と採っておく。]

 猪七は、彼の鼠の落ちかゝりける跡、その折ふしは何とも思はず、周章(あはて)て、そこを遁れ出でしが、ほどなく癰(よう)といふ物をわづらひ、故郷(こきやう)に歸りて死しけるとぞ。

[やぶちゃん注:「癰(よう)」悪性の腫れ物で「癰」は浅く大きいものとされる(深く狭いそれは「疽(そ)」)るが、医学事典を調べると、「癰」も「疽」も恐らくは、所謂、皮膚感染症の中でも、化膿が進行してしまった重症の皮膚膿瘍(のうよう)のことで、最も一般的な原因菌は黄色ブドウ球菌及び連鎖球菌である。狭義には、応急処置としては最早、切開して排膿するしかない、極度に悪化した状態のものを指すと考えてよい。]

 

2018/03/01

御伽百物語卷之一 貉のたゝり

 

   貉(むじな)のたゝり

Mujinanotatari

[やぶちゃん注:挿絵は「叢書江戸文庫二 百物語怪談集成」のものを用いた。しかし、この絵、女人に変じた妖獣が二疋描かれているが、本文のカタストロフ・シーンには二疋目はいない。絵師が画面上の迫力を欠くと思ったものか、或いは、逃げて行く妖獣の見えない霊体(実際、本文では実は死んでいない)の同一図内描写かも知れない(それは普通に行われた描き方ではある)。]

 豐後の國日田(ひた)といふ所に、智圓(ちゑん)といひける僧は、はなはだ禁呪(きんじゆ)の術にたけたる人にて、およそ病人を加持し妖魅(つきもの)を攘(はら)ふに時をうつさず、目の前に、皆、そのしるしを見せしかば、近郷のものども、我(われ)一〔いち〕と足を運び、金銀をなげうち、晝夜、門前に市をなして和尚の慈悲を乞ふ事、片時(へんじ)も絶ゆる事なかりければ、あるひは衣服米穀の類ひ、又は持經本尊の修理など、おもひおもひの寄進をなしける中(なか)に、其あたり近く住みける春田伴介(はるたはんすけ)とかやいひし者は、家も富貴(ふうき)しける餘り、此僧の恩を請(しよう)し、報謝とて、いさゝかなる庵(あん)を造立(ざうりう)し、打飯料(だはんりやう)とて、少しばかりの田地などをも寄せければ、智圓も、いよいよ、德、あらはれ、弟子の新發意(しんぼち)と承仕(せうし)の法師と、三人、豐かに暮し、十とせあまりも過ごしたりけるに、ある日、行ひの暇(いとま)に智圓は門に出でて、嘯(うそぶ)き居たりけるに、年の程廿〔はたち〕あまりと見へて、容顏美麗にして、いかさま、故ありげなる女の、供人(ともびと)少々めしつれ、此庵(いほり)に尋ね來たり、和尚に對面して云ふやう、

「みづからは、是れより七八里をへだてゝ住み侍る、稻野(いなの)の何がしと申す者の妻にて候ふ。夫の稻野は過ぎし年、病(やまひ)によりて失せ侍りき。忘れ形見(かたみ)の子は、いまだ、十にだに、たらず。女の身ながらも、『父が名跡(めうせき)を絶やさじ』と、家内を治め、田畠(でんはた)の事を苦勞し侍〔はべら〕ふ。外に猶、妻の母、ひとり、ことし七十に餘りて、いませり。行步(ぎやうふ)かなひがたく、齒さへ、ことごとくぬけて、朝夕の食事も心に任せねば、みづから此(この)おさなき者を育つるひまに、傍(かたがた)の乳(ちゝ)をさへ分けて參らせ、二とせあまりも介抱し、『別れつる夫の心ざしをもたすけばや』とおもふに、此ほどは、けしからぬ病に犯され給ひて、醫療も種々(さまざま)と手を盡くし候へども、曾て露ばかりも驗(しるし)なくうち臥し給ふに、あやしき妖怪(つきもの)とかいふ物さへ引きそひて、恐しき事どもをいひのゝしり、くるしくなやみ給へば、此ごろは乳味(にうみ)をだに、ふくみ給はず。みづからが身にかへても此の病を救ひたく、足下(そこ)の御加持(おかぢ)をも賴みまいらせたくて、遙々(はるばる)尋ねまいりし也。かく申すも憚(はばかり)ながら、何とぞ、明日未明より、わらはが許(もと)へ御こし有(あつ)て、暫く加持をもなし給はゞ、いかばかりの御慈悲ともなり侍らめ。」

とて、さめぐと泣きけるに、和尚のいはく、

「尤(もつとも)きく所、哀れに、いとおしき身にあまりて覺ゆるぞや。さりながら、我、もとより齡(よはひ)かたぶき、質(かたち)、頽堕(くづおれ[やぶちゃん注:ママ。])て行步(ぎやうふ)も心に任せがたければ、行きて加持せん事、叶ふべからず。只、其病人を扶(たす)けてこゝに來たられよ。」

とありければ、女、また、申すやう、

「姑(しうとめ)の病、よのつねならず惱ましうし給ひて、然も日を經たれば、人に任せたる起き臥しさへ危く、けふか明日かと心を惑(まどは)すほどなり。哀れ、御慈悲に御出でありて、ひとたびは見させ給へかし。」

と、いひもあへず、さめざめと泣きふせば、智圓もあはれに覺えて、いと易くうけあひ、所のさまをも聞きおきて、女は歸しやりぬ。

[やぶちゃん注:「貉(むじな)」ここは狸の別称。しかし乍ら、挿絵はモロ、狐で、しかも、化けた女は「稻野」と名乗っている。これは稲荷のアナグラム(狐狸は孰れも野の穴には棲むが)であろう。人を莫迦にするのもほどがある! って……化かすのは狐狸の本性では、あるわなぁ……

「豐後の國日田(ひた)」現在の大分県北西部に位置する周囲を山に囲まれた盆地である日田(ひた)市。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「智圓(ちゑん)」不詳。

「禁呪(きんじゆ)」呪(まじな)い。

「妖魅(つきもの)」当て訓。「憑き物」。

「攘(はら)ふ」「攘」(音・ジヤウ(ジョウ))は「払う・払いのける・払い除く・除き取る」の意。

「春田伴介」不詳。

「打飯料(だはんりやう)」「たはんりやう」とも。僧の食事の素材・費用の意。

「新發意(しんぼち)」僧侶になったばかりの僧。

「承仕(せうし)の法師」承仕法師(じようじほふし(じょうじほうし))。堂内の仏具の管理などの用に従事する僧を指す。

「尤(もつとも)きく所、哀れに」この「尤」は副詞で、「なるほど・いかにも」の意。感動詞的用法である。]

 其あけの日は、朝とくより庵を出でて、彦(ひこ)の山のふもと里(さと)と聞きしを便りに、遙々の道を尋ね行き給ふに、其(その)所(ところ)はありて、其(その)人、なし。稻野氏の名さへ知りたる者なければ、智圓も、力なく、日のたくるまゝに歸り給ひぬ。

[やぶちゃん注:「彦(ひこ)の山」福岡県田川郡添田町と大分県中津市山国町に跨る英彦山(ひこさん)。標高千百九十九メートル。山形の羽黒山及び奈良の熊野大峰山(おおみねさん)とともに日本三大修験山に数えられる修験道場のメッカとして曾ては知られた。]

 引きつゞきて、また、其明けの日、彼の女、庵に來たりていふやう、

「昨日は一日(ひとひ)まち暮し侍りしに、御尋ねなかりしは、和尚の大悲にも外(はづ)れ侍(はべら)ふにや。」

と歎けども、智圓は散々に腹を立て、きのふ、細やかに尋ねつれ共(ども)、曾て知れざりし分野(ありさま)を語り、

「老いたる者を誑(あざむ)くか。」

と、なかなか、また立ち出づべき氣色なし。

[やぶちゃん注:「分野(ありさま)」当て訓であるが、普通に様子の意味でよい。但し、本来、「分野」とは、古代中国の占星術に於いて現実世界の全土を天の二十八宿に配当させ、それぞれの地を司る星宿を定めたものを指し、それによって吉凶を占った。これは中国の古代信仰に於いて死んだ祖霊は天に昇り、現世の人を守るという信仰に基づくもので、それが引いては、現在のような「人の置かれている状態・身分・境遇」といった意味に使用されるようになっただけである。]

 女はうち欺きて、

「きのふ、足下(そこ)に[やぶちゃん注:ママ。]尋ねさせ給ひしは、吾が住む所より纔(わづ)か、六、七町[やぶちゃん注:約六百五十五~七百六十四メートル。]の程ぞかし。尤(もつとも)、御いきどほりはさもあるべけれど、人をたすくるは、菩薩の行(ぎやう)とかや。御心(おこゝろ)をなだめられ、今一度(ひとたび)、御尋ねあれかし。」

といへども、智圓、大きに聲をあらゝげ、

「我年老いて、心短かし。二度(ど)誓ひて、此庵を出でじ。」

と、あらゝかにいはれて、彼の女、かほの色、替り、居たけ高(だか)になりて、

「何條(なんでう)、和僧は慈悲を知り給はずや。今、其方の譽(ほまれ)、劣りなば、よも人にむかひて惡口(あくこう)したまはし。いで、和尚の德を貶(おと)し參らせん。」

と、立ちかゝり、智圓が肱(かいな)をとらへて、引き立て行かんとす。

[やぶちゃん注:「よも人にむかひて惡口したまはし。いで、和尚の德を貶し參らせん」(「いで、」は私が濁音化させ、読点を打ったもので底本は『いて』である)この部分、ゆまに書房刊「国文学資料文庫三十四 青木鷺水集 第四巻」及び国書刊行会刊「叢書江戸文庫二 百物語怪談集成」では、『よも人にむかひて悪口したまい』(後者はここに読点)『しいて和尚の徳を貶(おと)し参らせん』私は、孰れも正しいと感じず、原典を視認の上で以上のように翻刻した。大方の御叱正を俟つ。私の場合は、「余も人に向かひて惡口し給ひたし」で「そんなら、私だって人に向かって和尚さまの悪口を言いとうございます! 和尚の似非(えせ)の徳を落としてお見せしましょうぞ!!」という謂いであると読む。]

 其さま、けしからねば、智圓も『只者(ただもの)ならぬ』と知りて。傍(そば)なる小刀を以て、女の乳のしたを二刀(かたな)、刺しけるに、女は、

「あつ。」

と、いひて仆(たふ)れぬ。

 此折しも、智圓が弟子の小僧、ことし十四才になりけるが、周章(あはて)て飛びかゝり、引きのけんとせしが、いかゞしたりけん、是れも二刀、痕(きず)をかうぶりて、死したり。

 智圓は是れに氣を取られ、急ぎ、承仕(せうし)の坊主と二人心をあはせ、居間の下を掘りて、彼(か)の死骸どもを埋(うづ)み、かくしぬ。

 此新發意が親は近邊の百姓にて、庵を去る事、纔かに壹里ばかりなりけるが、その比(ころ)しも、其家、みな、野に出でて田を刈り居たる所へ、旅人と見えて、男二人、うちつれて通る時に、

「智圓の庵の新發意は不便(〔ふ〕びん)の事かな。魔の所爲とおもひながら殺されて非業の死をしたり。」

と云ひすてゝ行くを、彼(か)の母、きゝとがめて、いそぎ、人を走らせて聞くに、疑ひもなき我が身の上と聞きなすより、彼の父、驚き、取る物も取りあへず、智圓が庵(あん)にかけ來たり、先づ新發意をたづねしかば、智圓も承仕の僧も仰天の氣色(けしき)なりしが、今は爭ふに術(てだて)盡きて、ありのまゝを白狀しけれども、一度(ど)、此事を隱さんとせしも、惡(にく)しみの種(たね)なるに、まして、

「法師の身にて、人をあやめしは重罪遁(のが)れ難し。」

と、既に國司の沙汰を請(う)けんとしけるに、智圓も、あまり切なさに、

「今は、我がために三日の命を宥(なだ)めて待ち給へ。我身命(しんめい)を捨てて、此妖怪を祈り出だし、せめて、惡名を雪(すゝ)ぎて死なば、死せん。」

と、丹誠をこらし、祈りける程に、最前の女、あらはれて云ふやう、

「吾、誠は姥嶋(うばがしま)に住みて、千歳(ざい)を經たる貉(むじな)也。吾が子孫、ひろがりて數(す)百に及べり。是れら皆、神通(しんつう)を得て、人を惑はし、家を怪しめて、子孫のために食を求むる所に、此坊主に加持せられ、世をせばめらるゝが故に、吾、爰(こゝ)に來て此災(わざはひ)を、なせり。新發意も誠(まこと)は死せず、我、隱して姫嶋(ひめしま)に放ちをきたり。此後(このご)、堅く誓ひて禁咒(まじな)ふ事を止めば、新發意をも歸し、汝をも、たすくべし。」

といふにより、先づ、人を走(はせ)て尋ねしに、果たして姫嶋にあり。

 智圓も、さまざまと誓ひ重ねて、咒(まじなひ)の道をやめしかば、二たび、此妖、絶たりしとぞ。

[やぶちゃん注:「姥嶋(うばがしま)」以下の「姫嶋(ひめしま)」とともに不詳であるが、山地の盆地にあっては、有意にその地域内にある丘陵などをかく呼ぶことは普通にあるから、これは日田の盆地内の地名と私は考える。しかし、見当たらぬのは残念というほかは、ない。]

 

御伽百物語卷之一 剪刀師 龍宮に入る

 

御伽百物語卷之一

 

   剪刀師(はさみし)龍宮に入る

 

Ryugukunisige
 

[やぶちゃん注:当初、底本の昭和五(一九三〇)年博文刊「帝国文庫 珍本全集後編」から挿絵(一枚合成がされてある)を採る予定であったが、高画素でスキャンして拡大してみると、手におえないほどに白地部分の汚損が多いことが判った。そこで、画質のよい昭和六二(一九八七)年国書刊行会刊「叢書江戸文庫二 百物語怪談集成」の左右に分離した(但し、これが原典の実際である。「早稲田大学古典総合データベース」の同書の原典画像を見られたい)ものをソフトを使用して合成し、さらに、そこにある汚損もある程度まで除去したものを作製した。それは上記画像である。但し、特に左葉下部の枠近くの汚損が激しいので、作画の枠のやや内側からトリミング(上下左右とも)してある。中央の合成部は結果的には「帝国文庫 珍本全集後編」の合成図像よりも自然に仕上がったとは思っている。]

 

 今上の御代の春、堯舜(げうしゆん)のむかしにも超えて、四つの海しづかに、樂しみの聲、ちまたにみち、所々の神社佛閣のいらか迄、絶えたるをおこし廢れたるをつがせ給ひしかば、賀茂のあふひの御祭(おまつり)より、多田(たゞ)六の宮、紫野の御靈(ごれう)、殘るくまなく玉をみがき、金(くがね)を鏤(ちりば)め、つくり出だされける。

[やぶちゃん注:「多田(たゞ)六の宮」不詳。清和源氏発祥の地とされる兵庫県川西市多田院多田所町の多田神社は六所宮とも呼ばれるが、前に「賀茂」神社、後に「紫野の御靈」(現在の京都市北区紫野にある今宮神社であろう)と京の神社に挟むには無理がある。]

 中にも過ぎし元祿の春は、北野の御修理事、ゆへなく功おはり、けふは遷宮の神輿(みこし)ふりとて、法華堂より筵道(ゑんだう)を敷きわたし、別當社僧のめんめん、種々のおこなひあり。

[やぶちゃん注:「剪刀師」職人や日常の家庭で用いる鋏職人。

「元祿」一六八八年~一七〇四年。本怪談集の特徴の一つが早速に現われる本「御伽百物語」は宝永三(一七〇六)年の開版で、まさに直近に起こった噂話、京の都で起こったアーバン・レジェンド(都市伝説)として語られるのである。因みに、当代の幕府将軍は徳川綱吉、天皇は東山天皇。綱吉は皇室を重んじ、両者の関係は概ね良好であった。

「北野の御修理」北野天満宮は元禄一三(一七〇〇)年から翌年にかけて大修理・絵馬所等の増築が行われている。従って、本話のロケーションは元禄一四(一七〇一)年の春ではないかと推定される。とすれば、本書刊行から僅かに五年前の直近の出来事ということになるのである。]

 是れをおがみ奉らんと、洛中の貴賤、袖をつらね、踵をつきて、我も我もと參詣しけるに、一條堀河なる所に國重(くにしげ)云ひしは、隱れもなき糸剪刀(いとはさみ)の鍛冶(かぢ)なりしが、是れも此御せんぐうを心がけ、晝より宿を出でて、眞盛(しんせい)の筋(すぢ)を東の鳥居前にいたりて見わたせば、はや、總門のあたりより、柵(しゝかき)ゆひわたし、神寶の長櫃(ながひつ)、やりつゞけ、御木丁(みきてう)、幌幕(まんまく)、こゝかしこに白張(しらはり)の神人(しんにん)、居ならびたり。いまだ時の鐘もつかぬ程、あまりの群集に心づきて、彼方此方(かなたこなた)と拜みめぐりける所に、年たけたる祝部(はふり)壹人(いちにん)、國重が袖をひかへ、

「其方(そなた)は常々に當社信仰の人と見えて、いつも、會日(ゑにち)にはづるゝ事なく、步みを運ばるゝにより、我も見知りたるぞ。御遷宮の次第、拜ませ申さん。さりながら、猶いまだ待ち遠なるべければ、其あいだ、少時(しばらく)やすみ給へ。」

と、南の鳥居より中門の前にいたりけるに、むかふより、社僧壹人、あはたゞしく走り來たり、此祝部にむかひていひけるは、

「上(かみ)よりの御使(おつかひ)ありて、只今、人を召さるれども、折ふし、誰(たれ)も參り逢はずとて、御氣色(みけしき)あしき也。如何すべき。」

といふを、此祝部、國重を見やりて、

「此人を召されよかし。」

といふ程に、やがて社僧、國重を引きつれて社の方(かた)へ行くに、國重も何事と辨へたる方はなけれど、そゞろに步みつれて、𢌞廊の西の御階(みはし)のもとに跪(ひざまづ)けば、外陣(げぢん)の御簾(みす)、やをら、おしあけ、束帶の上﨟(じやうらう)、しつかに步み出で給ひ、

「やゝ。」

と召されて、みづから、たて文(ふみ)を國重に給はり、

「是れを持ちて、廣澤の池に行き、龍王にわたして參れ。」

と也。

[やぶちゃん注:「國重(くにしげ)」南北朝期の刀工にこの名があり、その流れを汲むと称した鍛屋師なのであろう。

「眞盛(しんせい)の筋(すぢ)」遷宮参詣のための人で、まこと(「眞」)にごった返して「盛」ん賑やかになっている北野天満宮へ向かう道筋の意と採っておく。

「柵(しゝかき)」鹿垣・猪垣。無論、ここは白木の角材や割竹を疎らに建てて、横木で連結した人の流れや神域への立ち入りを制御するための普通の柵である。

「長櫃(ながひつ)、やりつゞけ」で「遣り續け」で「長櫃」の述語であろう。長櫃を押し並べて、それを修理成った宮へ向けて押し並べて向かっているさまを指していよう。

「御木丁(みきてう)」「御几帳」(みきちょう)。但し、その場合は正しい歴史的仮名遣は「みきちやう」である。形状から「木丁」を当てたのであろう。

「白張(しらはり)」糊を強(こわ)く張った白い布の狩衣(かりぎぬ)。ここは神事の際に物品の運搬や雑用に従事する者たちが着たそれを指す。「はくちやう(はくちょう)」とも読み、原文・原典でもそれが混在している

「神人(しんにん)」通常は濁って、「じにん・じんにん」と読むことが多い。平安時代から室町時代にかけて発生した、神社に仕えて神事・社務の周縁的補助やレベルの低い雑事を担当した、ほぼ最下級の神職従事者を指す。

「祝部(はふり)」「はふりべ(ほうりべ)」とも読む。一般には神主・禰宜に従って祭祀を掌る上位神職に従属する副神職的存在であるが、神事の介添えや奉納舞なども手掛けるので、先の神人(じにん)よりは遙かに上位と、ここでは捉えてよい。

「會日(ゑにち)」縁日(えんにち)に同じ。神仏の降誕日・示現日或いは社堂創建の関連日など、神仏のこの世との有縁(うえん)の日。神仏習合に於いては「縁日」は「会日」(えにち)の訛ったもので、恒例的に催される仏会(ぶつえ)の日が元とする説もある。

「はづるゝ事なく」「外るる事なく」。欠礼することなく。

「外陣(げぢん)」神社の本殿や寺院の本堂の内陣の外側にある、それなりに高位の人物の参拝用に設けられた場所。

「たて文(ふみ)」「立文」「竪文」。書状を礼紙で包んだ上を、また別の紙で細長く包み、上下の余った部分を筋交いに折った後、さらに裏側へ折ったもの。]

 國重、謹みて承り、

「おそれがましき申し事ながら、某(それがし)はもと赤丁(せきてい)の、いやしき凡夫の身、いかでか水府の龍神に逢ひたてまつるべき。娑婆と水底(すいてい)と、道、はるかにて、たやすく至るべき道なし。此御使は御ゆるしを蒙(かうむ)らばや。」

と申せば、彼の上﨟、また仰せけるは、

「汝、愁ふる事なかれ、彼の池の邊(ほとり)にいたりなば、大きに茂りたる榊(さかき)あるべし。先づ此木のもとへ寄りて、石を以(もつ)て此木を敲(たゝ)くべし。急ぎて參れ。」

と、仰せ事あれば、心もとなきながら廣澤の方へあゆみけるに、聞きしに違はず、榊の茂りたる大木(たいぼく)、池の表に枝さし覆ひたるあり。

[やぶちゃん注:「赤丁(せきてい)」「丁」は「人に使われて働く男・成人男子」であろうから、これは「赤子(せきし)」と同じで、「何の教養もない民草の一人の男」の意であろう。

「榊(さかき)」ツツジ目モッコク(木斛)科サカキ属サカキ Cleyera japoni。文字通り、本邦で古くから神事に用いられ、「榊」という国字もそこから生まれた(中国語では「紅淡比」と呼ぶ)。先端がとがった枝先は神が降りる依代(よりしろ)とされ、現在では最も身近な本種の枝葉が普通に祭祀用に用いられている。依代となるということは、結界或いは異界との通路のシンボルでもある。まさにここではそうした装置として榊が登場している。]

 心(こゝろ)みに石を拾ひて、此木を、

「ほとほと。」

と敲きしかば、池の内より白張(しらはり)を着したる男(おのこ)壹人、あらはれ出で、

「天滿宮よりの御使(おんつかひ)、こなたへ。」

といはれて、國重は水を恐るゝの色あり。

 彼の男、をしへていふやう、

「只、目をふさぎ給へ。水をおそれ給ふな。」

といふに、國重、やがて目をふさげば、木の葉の風にひるがへる心して、

「ふはふは。」

と上ると覺へしが、只、雨風のおとのみ、さはがしく聞えて、しばし虛空を行くと思ふに、警蹕(けいひつ)の聲するに驚きて目をひらけば、此世にては終に見たる事もなき宮殿樓閣あり。玉の階(きざはし)、瑠璃の軒(のき)ありて、見るに目をくらめかすほど也。

[やぶちゃん注:この龍宮へ向かうシークエンスの聴覚的描写が素晴らしい。青木露鷺水は俳人であり、そうした感性の鋭敏さが、表現として実に冴えて出るところを是非、味わいたい

「警蹕(けいひつ)」貴人などの高貴神聖な存在が通行・移動する際、先立って行く者が立てる、先払いの声のこと。これは戸外だけでなく、室内での着座・起座・出入、及び食膳や供物奉納の場合などにも行われる。元は古代中国の皇帝が外出する際に道行く人を止めて道を清めさせた習俗が本邦に移入されたものである。]

 漸(やゝ)ありて、奧より、

「御返事。」

とて持ち出で、國重に渡し、さて、懷より白銀(しろかね)の弄(かうがい)を壹本、金(こがね)の匙子(さじ)壹本とを出だして、國重に給はりて、仰せけるは、

「汝は、心ざし、すなほにして、よく神明(しんめい)の内證(ないせう)にかなひける故、此御(お)つかひをも承りし也。今、此(この)二色(〔ふた〕いろ)を汝にあたふる事は、汝が家に水難あるべし。其時、この笄を水に投げ、匙子(さじ)は身をはなさず、首にかけよ。命(いのち)を全(まつたく)し、家も恙(つゝが)なかるべし。」

と、こまごまと教へ給ひて、又、目をふさがせ、此度(このたび)は黑糸の鎧(よろひ)着たる武者に仰せありて送らるゝとぞ見えしが、程なく有りし榊の陰に歸りぬ。

[やぶちゃん注:「神明(しんめい)」神が存在という真理。

「内證(ないせう)」当該対象(ここは信仰者としての国重)が、その心の内で真理を悟ること。本来は仏教用語であるが、神仏習合であるから問題はない。

「二色(〔ふた〕いろ)」二種類の物品。]

 ふりかへりて、池を見るに、送り來たりし武者と見へしは、甲(かう)の面(おもて)一丈ばかりの龜となりて失せぬ。

[やぶちゃん注:ここは、前段終りから、視覚上のメタモルフォーゼ(変容)の描写がやはり上手い

 

「黑糸の鎧」黒糸縅(くろいとおどし)の鎧。黒糸で綴り合わせたもの。]

 國重、あまりの不思議さ、感淚をながし、水の面を拜し、いそぎ、北野に歸りければ、はや、先だちて白張(はくてう)の人、出(で)むかひ、御返事を請け取りけるが、

「御遷宮も今ぞ。」

と、人々も立ちさはげば、國重も出でんとするに、道なくて外陣(げぢん)の緣(えん)に這かくれ、儀式、つぶさに拜みおはりて、吾が家に歸りぬ。

[やぶちゃん注:「這かくれ」「這ひ隱れ」。底本・原典ではルビが「はい」なので振らなかった。]

 さるにても、彼(か)の龍宮にて給はりし二色(いろ)の寶(たから)と仰せられし詞(ことば)のすゑ、心がゝりにて、いよいよ信心怠りなく過しけるが、同じ年六月にいたりて、洛中、おびたゞしき雷(かみなり)の災(わざはひ)あり。九十八ケ所に落ちける比(ころ)、賀茂川、かつら河はいふに及ばず、一條堀河の水は、小川の流れ、東より衝(つ)きかけ、白波、岸を穿ち、洪水、民家を漂はすにいたりて、國重が家も押し流されんとする時、彼の白銀(しろがね)の笄(かうがい)を、さかまく波に投げ入れしかば、たちまち笄は大綱(おほつな)と變じ、水に浮き沈みて、引きはゆるとぞ見えしが、其(その)邊(ほとり)四、五町[やぶちゃん注:約四百三十七~五百四十五メートル半。]が程は終に水難の愁(うれへ)なかりけるとぞ。

[やぶちゃん注:わざわざ二品あるんだから、「匙子」もちゃんと首に掛けていて、それが巨大になってその空ろ船のような匙の中で国重は無事だったとかやらかして欲しいというのは、私の贅沢か。しかし、笄(こうがい)が大綱に変じたんだったら、「匙子」も何かに変ずるはずなんだかなぁ。

「引きはゆる」歴史的仮名遣が正しいとすると、意味不詳である。「引き榮(は)ゆ」で、「引き回した上に目に見えて盛んに(水を堰き止めるまでに)太くなった」という訳は、あまりに苦しい。これが「ひきはへる」だと、「引き掽(は)へる」で、ハ行下一段活用の近世の動詞(ワ下二段動詞「延(は)う」の下一段化したものから生じたものか)で「俵や木材などをきれいに形よく積み上げる」の意があるから、「引き回した大綱が積み上がって堰(せき)を成し」となって、このシークエンスにはぴったりな気はするんだがなぁ。

 なお、底本の太刀川清氏の解題によれば、本話は「柳毅伝」の翻案とある。「柳毅伝」は中唐の伝奇小説で、作者は隴西の李朝威(生没年・経歴不詳)。官吏登用試験に落第した柳毅が湘江の畔(ほと)りの故郷に帰る途中、不貞な夫と邪険な姑に追い出された竜女に会う。彼女の伝言を携え、洞庭湖の竜宮に竜女の父洞庭君を訪ね、話を聴いた洞庭君の弟銭塘(せんとう)君が激怒し、竜女のために復讐する。毅は多くの財宝を貰って帰り、楊州で大商人となり、金陵(現在の南京)で范陽の盧氏と結婚するが、実は彼女は竜女の化身であって、後に二人とも、洞庭湖へ行き、神仙となるという筋である。元の尚仲賢の「柳毅伝書」、明の許自昌の「橘浦記(きっぽき)」といった戯曲の題材となって、大いに流行った伝承であった。現在も洞庭の君山(くんざん)には遺跡とされる柳毅井がある(以上は小学館の「日本大百科全書」に拠った。]

 

青木鷺水 御伽百物語 始動 / 序・目録

 本カテゴリ「怪奇談集」で青木白梅園主鷺水「御伽百物語」の電子化注に入る。

 青木鷺水(あおきろすい 万治元(一六五八)年~享保一八(一七三三)年)は江戸前・中期の俳人で浮世草子作家。名は五省、通称は次右衛門、白梅園(はくばいえん)は号。京都に住んだ。俳諧は野々口立圃或いは伊藤信徳門下であったと思われるが、松尾芭蕉を尊崇し、元禄一〇(一六九七)年跋の「誹林良材集」の中では、彼は芭蕉を「日東の杜子美なり、今の世の西行なり」(日本の杜甫であり、今の世の西行である)と述べている(「早稲田大学古典総合データベース」の同書原典の当該頁画像を見よ。但し、彼が芭蕉の俳諧に倣おうとした形跡は殆ど認められない)。「俳諧新式」「誹諧指南大全」などの多くの俳書を刊行したが、元禄後期からは、浮世草子作者として活躍、本書や「諸國因果物語」(六巻)・「古今堪忍記」(七巻)・「新玉櫛笥」(六巻)などを書いた。本「御伽百物語」は宝永三(一七〇六)年に江戸で開版したものである。

 私は同作を以下の三種で所持している。

①昭和五(一九三〇)年博文刊・藤村作校訂「帝國文庫 珍本全集後編」

②昭和六〇(一九八五)年ゆまに書房刊・小川武彦編「国文学資料文庫三十四 青木鷺水集 第四巻」

③昭和六二(一九八七)年国書刊行会刊・太刀川清校訂「叢書江戸文庫二 百物語怪談集成」

本電子化注では漢字を正字表記している①を基礎底本としつつ、校訂の行き届いている②及び③と校合し(①で読み難い箇所で送り仮名を送っているものは②或いは③を採ったりし、明らかに濁音とすべき箇所などは①~③になくても私の判断で打つなどして、読み易さを配慮した。但し、読み仮名は読みが振れると私が判断したもののみとした)、不審箇所は、

「早稲田大学古典総合データベース」の同書の原典画像

で確認するという、これ以上はない贅沢な万全の体勢を採った。また、①~③の本文に振られないが、読みを過つ虞れのある箇所には〔 〕を以つて私が歴史的仮名遣で読みを振った。但し、①~③の句読点や記号については従えない箇所もあり、それらを参考にしつつ、オリジナルに増補・変更している。踊り字「〱」「〲」は正字化した。字配はブログ公開の関係上、ブラウザでの不具合を考え、底本のそれは再現していない。また、やはり読み易さを考慮して、自在に改行を施し、直接話法或いはそれに準ずる箇所は記号を附し、時に改行した

 挿絵は①が抜粋で全部は載らず、②が孰れも汚損が激しく、③が最も綺麗に印刷されている。概ね、③から採る予定であるが、その都度、挿絵は①~③のどれを出典としたかを明らかにする。

 注は私が踏み澱んだ箇所に限り、ストイックに当該部の段落末に附すことにした。

 旧来、目録は全篇を完結した後に附したが、本書は第一巻の冒頭に、百物語形式の本書の登場人物一覧が出るため、最初に総て示すこととした。これは百物語形式を意識した額縁的構造である。但し、実質全二十七話(最終話は本文では連続)である。既にカテゴリ「諸國百物語 附やぶちゃん注」冒頭注で述べた通り、正味百話構成の真正の「百物語」怪談集はその作者未詳の延宝五(一六七七)年四月刊の「諸國百物語」以外にはなく、この後のこうした「百物語」を名打った現存する古典の怪談集には、実は正味百話から成るものは一つもない 

 

   近代 御伽百物語 日本𢌞國行脚如寶

[やぶちゃん注:「𢌞」は底本では「廻」であるが、この字が出現する原典本文を見たところ、明らかに「𢌞」の字を使用しているのでこれに換えた(以後、本文もそうする)。総標題の「近代」及び「日本𢌞國行脚如寶」は底本では二行割注表記(これは「早稲田大学古典総合データベース」の同書の原典画像では認められない)。「如寶」は「によほう(にょほう)」で、以下の目録に出る通り、語り手である不詳の僧(架空人物と思われる)の名である。奈良・平安前期に実在した律宗の渡来僧に同名の如宝(にょほう ?~弘仁六(八一五)年:中央アジアのサマルカンド地方の安国の出身か。優婆塞(俗人)として鑑真に師事し、師に従って天平勝宝六(七五四)年正月に来日、東大寺戒壇で受戒する。一時、下野薬師寺に住したが、鑑真が没するに際し、その委嘱を受け、唐招提寺に帰住、伽藍造営に尽力した。延暦一六(七九七)年に律師、大同元(八〇六)年には少僧都に任命されている。「日本後紀」の卒伝によれば、戒律を厳守し、大国の風格を有していたという。ここは「朝日日本歴史人物事典」に拠った)を或いは遠く幻想的に意識しているのかも知れない。また、本篇の最後の「百ものがたり果てて寶(たから)を得し事」(目次標題のみで、本文では前話の「黃金(わうごん)の精」に続いている)という一座のトンデモ・エンディングを考えると、そこに洒落た「寶のごとし」なのかも知れぬ。] 

 

御伽百物語序 

 

春くらし、九かさねの內も外も、分きてあらしのけふは長閑(のどけ)きと、打ちずして外面(そとも)のかたを詠めやれば、來ぬ人も誘ふ斗(ばかり)、漸(やゝ)綻(ほころび)びそむる梅が香、いとなつかしう、夕日の影ながら、袖に移り、心にしむる夕風はとぞ、先づ思ひ出づる比(ころ)、我が梅園の戶ぼそに、例の二人(ふたり)三人(みたり)ぞ見え來つる。それが中に珍しかりしは、此四(よとせ)五年(いつとせ)が程、あづまの方(かた)に浮かれありきて、名ある山、勝(すぐれ)たる地、跡たれます神の社(やしろ)、行ひすませしといふ佛のみ寺、尊き隈々(くまぎま)、殘りなく修行(すぎやう)し、行ひ步行(ありき)たりとかいふなる聖(ひじり)の、いと老(おい)ぼれて、頭(かしら)白く、眉髭なども黑き筋なしと見ゆるをぞ、友(とも)なひ出できたる。『こは如何なる人にか、思ひの外に』とや、もてなさまし。「そも何人(なにひと)ぞ。」と問はせたるに、此〔この〕將(い)て來(こ)し人のいふやう、「是れは六十六部の御經を治めて、諸國をめぐり、有るとある、うきめ、恐しき事、見もし、聞き盡して、此春はこゝに物し給ふ世捨人にあなり。昨夜より我が方に宿を借し參らせ、夜ひとよ、語りあかし、法文(ほうもん)など承りつるに、また二〔ふたつ〕なき希有の物語も侍(はべら)ふに付きて、よし、我ひとり聞かんも無下(むげ)也と思へば、今宵はこゝに伴ひ侍りつる」といふに、我もやゝ心動きて、「さらばよ、かはるがはる、あど打ち給へ。まろは物忘れの爲方(せんかた)なければ、書き留めても、由あるは殘すべかりけり。」とて、硯ひきよせつゝ一つ一つ書きて見るに、いさや、浮きたる事ともしらねど、咄しも咄しけり。聞きも聞きたる哉(かな)。すゞろに言(こと)の葉(は)の茂りゆく數(かず)の、やがて十(とを)づゝ十(とを)にもやと、おもふばかり、息もつぎあへず、何くれと積りて、果(は)ては手(て)もたゆく、ねぶたき迄なりにたるに、猶やまずぞいふ。聞きまがひたるもあらん、書きもらしたるも有るべし。やがて明(あけ)の日は、彼(か)の友の方へ遣(つかは)すべかりける程に、又あらたむるにも及ばす。是れが名を「御伽(おとぎ)百ものかたり」と書きて、なげやりぬ。

         白梅園主鷲水

                【印】

[やぶちゃん注:【印】は鷺水の号「白梅園」で、「早稲田大学古典総合データベース」の同書原典の当該頁画像を見て戴くと判るように、「梅」が花弁の絵となっている洒落たものである。

「打ちずして」漢詩や和歌俳諧などを口ずさもうとして。

「友(とも)なひ」「伴ひ」。

「六十六部の御經を治めて、諸國をめぐり」「法華経」を六十六部写経したものを、日本全国六十六ヶ国の国々の霊場に一部ずつ奉納して廻った僧を「六十六部(ろくじふろくろくぶ(ろくじゅうろくぶ)」と称した。これは鎌倉時代から流行したが、江戸時代には、諸国の寺社に参詣(さんけい)する巡礼又は遊行(ゆぎょう)聖などを第一に指した。白衣(びゃくえ)に手甲(てっこう)・脚絆(きやはん)・草鞋(わらじ)という姿で、背に阿弥陀像を納めた長方形の笈(おい:「龕(がん)」とも称する)を負い、六部笠を被った姿で諸国を廻ったが、同時にそれと同じ巡礼姿で、米銭を請い歩いた乞食も多くいた。単に「六部」とも呼ぶ。ただ、この如宝は周囲の懇ろなもてなしや語り口から見ても、相応の知見を持った善知識である。

「あど」話し手に調子を合わせる応答。相づち。

「御伽」は原典(上記リンク先)を見ても判る通り、「おとき」と清音ルビとなっている。③に従い、「おとぎ」とした。]

 

 

御伽百物語卷之一目錄

  卷之一

百物語の咄人(はなして) 六十六部の僧如寶

同(おなじく) 發起人  花垣舌耕子(はながきぜつかうし)

同 應對(あど)     四五人

亭の主人         白梅園

[やぶちゃん注:「花垣舌耕子」不詳。「發起人」なら開板の版元を洒落たものかとも思って調べたが、江戸の和泉椽(本元の書肆は京寺町通松原上ル町の菱屋治兵衛)でそれらしくない。或いは如何にもな雅号「花垣」という姓も怪しい。或いはこれも鷺水の雅号「白梅園」と異様に親和的で、そのパロディではなかろうかとも疑える。または、鷺水の親しい俳人仲間にこう称した人物がいたのかも知れない。]

剪刀師(はさみし)龍宮に入る付タリ北野八百五十年忌

むじなの祟(たゝり)付タリ豐後國日田の智圓が事

石塚のぬす人付タリ銕鼠(てつそ)砂をふらせし事

燈火(ともしび)の女付タリ小春友(とも)三郞妖化(ばけもの)に遣(つかは)るゝ事

宮津(みやつ)の化もの付タリ御符の奇特(きとく)ある事

[やぶちゃん注:「銕」は底本は「鉄」。原典で訂した。]

  卷之二

岡崎の相撲(すまひ)付タリ捻鉄(ねぢがね)九太夫(たゆふ)冥使(めいし)にあふ事

[やぶちゃん注:「鉄」は底本も原典もママ。]

宿世の緣付タリ誕生水(たんじやうすい)の辨天奇瑞ありて短册のぬしと契りをこめし事

淀崖の屛風付タリ繪に妙を得たる虛無僧

龜嶋(かめしま)七郞が奇病付タリ堺に隱れもなき白藏主(はくさうず)といふ狐ある事

桶町(おけてう)の讓(ゆづり)の井付タリ鬼女人を惑はす

  卷之三

西六条の妖化(ばけもの)杣(そま)が家の道具ゆへもなきに動きはたらきし事

[やぶちゃん注:「条」は原典もママ。「幷」は「ならびに」と訓ずる。]

猿畠山(さるはたやま)の仙本朝隱逸の輩(ともがら)にあふ僧の事

七尾(なゝを)の妖女古木の株(かぶ)人の娘にかよふ事

奈良饅頭鹽瀨の祖(そ)淨因(じやういん)の事

五道(ごだうの)冥官(めいくわん)太秦(うづまさ)の權左衞門科(とが)を得し事

  卷之四

有馬(ありまの)富士付タリ二本松の隱れ里

雲濱(くものはま)の妖怪付タリ鵜取兵衞(うとりへうゑ)あやしき人に逢ふ事

恨(うらみ)はれて緣をむすぶ付タリ守山の喜內(きない)田地を賣りし事

繪の女(をんな)人に契る付タリ江戶菱川(ひしかは)が事

  卷之五

花形のかゞみ難波(なには)五人男が事

百鬼夜行(やぎやう)靜原山(しづはらやま)にて劒術を得たる人の慢心をいましむる事

人食人肉(ひと、ひとのにくをくらふ)幷癩病を治(ぢ)せんため譜代の女を殺さんとして報(むくひ)ありし事

  卷之六

木偶(もくくう)人と談(かた)る稻荷塚の事

桃井の翁(おきな)半弓を射る沙門の事

勝尾(かちを)の怪女忠五郞娘を鬼女に預けてそだてさせつる事

福びきの糸冥合(めいがう)ふしぎの緣ありし事

黃金(わうごん)の精百ものがたり果てて寶(たから)を得し事

 

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