猿畠山(さるはたやま)の仙
[やぶちゃん注:挿絵は「叢書江戸文庫二 百物語怪談集成」のものを用いた。以下、和歌は前後を一行空けた。]
相州鎌倉の地に御猿畠といふ山あり。此うへに六老僧の窟といふ窟あり。いにしへ、日蓮の徒(と)の中(うち)、六老僧といはれて、尤(もつとも)上足(じやうそく)の名を得し僧の住みける岩窟なりとぞ。
[やぶちゃん注:現在の逗子の日蓮宗猿畠山法性寺(えんばくさんほっしょうじ)の裏手及び鎌倉と逗子の間の名越(なごえ)切通しの奥にある「お猿畠の大切岸(おおきりぎし)」と呼ばれるところが本話のロケーションである。ここ(グーグル・マップ・データ)。「新編鎌倉志卷之七」の「御猿畠山」に(リンク先は私の電子化注。〔 〕は二行割注。絵図も添えた)、
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○御猿畠山〔附山王堂の跡〕 御猿畠山(ヲサルバタケヤマ)、名越(ナゴヤ)の切り通しの北の山、法性寺の峯(ミネ)也。久野谷村(クノヤムラ)の北なり。昔し此の山に山王堂あり。【東鑑】に、建長四年二月八日の燒亡、北は名越の山王堂とあり。又弘長三年三月十三日、名越(ナゴヤ)の邊燒亡、山王堂其の中にありとあり。相ひ傳ふ、日蓮鎌倉へ始て來る時、此山の岩窟に居す。諸人未だ其人を知事なし。賤(イヤ)しみ憎(ニク)んで一飯をも不送(送(ヲク)らず)。其の時此の山より猿(サル)ども羣(ムラガ)り來て畑(ハタ)に集り、食物(シヨクモツ)を營(イトナ)んで日蓮へ供じける故に名くと云ふ。其 後日蓮、猿(サル)どもの我を養(ヤシナ)ひし事は、山王の御利生なりとて、此山の南に法性寺を建立し猿畠山(エンハクサン)畠中と號す。今は妙本寺の末寺なり。山の中段に堂あり。法華經の題目・釋迦多寶を安ず。日蓮の巖窟(イハヤ)は、堂の後(ウシ)ろにあり。窟中に日蓮の石塔あり。堂の北に巖窟(イハヤ)相並(ナラ)んで六(ムツ)あり。此(コ)れ六老僧の居たる岩窟(イハヤ)也。堂の前に日朗の墓あり。日朗遷化の地は妙本寺なり。墓は此所にあり。寺建立は弘安九年也と云ふ。
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とある(太字下線はここでの私の仕儀)。「山王の御利生」とは猿が山王権現(日吉山王)の御使いとされることによる(神仏習合であるから、日蓮を助けるのである)。別に日蓮の「松葉ヶ谷(やつ)の法難」の際に白猿が彼を導き、ここへと逃がしたとも伝える。「六老僧」は日蓮六老僧のこと。日蓮が死を前に後継者として示した直弟子の日昭・日朗・日興・日向・日頂・日持の六人を指す。絵図を見て驚くのは、ここにあるやぐらが有意に六つの形状を示しており、そこに『六老僧巖窟』と記されていることである。ここは日蓮の弟子である彼等の羅漢堂でもあった(少なくともそのようなものとして認識されていた)のである。何故、私が「驚く」と書いたかと言えば、現在の当該地にはこのような六穴は確認出来ないからである。或いは現在、「まんだら堂」と呼ばれる、名越の切通し方向のやぐら群と混同している可能性もないとは言えないが、鎌倉のやぐらは砂岩の鎌倉石をただ掘ったもので容易に風化するから、現在は消滅したと考える方が自然ではある。現況は鎌倉観光サイトの「たのしい鎌倉」の「自然と歴史が交わる散策路[お猿畠の大切岸]」がよい。同ページの『▲崖に沿って散策路が整備されています。崖の下と上部に、ぐるりと道が続いています』というキャプションがある切岸にある痕跡は、この『六老僧巖窟』の跡らしくは見える。因みに、ここで述べた名越の「まんだら堂」には曾て妙行寺という奇体な寺があった(現在はない)。私は二十一の時、まだ今のように整備されていなかった名越切通を四苦八苦で踏破し、辿り着いたその妙行寺の小山白哲老師から伝授された、宇宙創造の真相を語る直筆である文書も「新編鎌倉志卷之七」の「名越切通」に附注してあるが、これ、今読んでみても、なかなかに凄い。私のブログの「小山白哲老師 藪野直史伝授 宇宙創造之仏説 (肉筆)」にも掲げてあるので、是非、御一見あられたい。
「上足」弟子の中でも特に優れた者のこと。高弟。高足。]
其後(そのご)、能州惣持寺(さうぢじ)の沙門、鶯囀司(わうてんす)といひしは、洞家(どうけ)におゐて希有の人なりければ、一山(さん)の崇敬(すうげう)、他(た)に異(こと)に智辯なるゝがごときに愛(め)で、學業のいさぎよきを慕ひ、衆議一同して鶯囀司を舉げ進め、後任せしめんと議(はか)りけるを、此僧、たゞ浮雲流水(ふうんりうすい)の思ひあり、轉蓬(てんはう)の癖(くせ)を具して住職をのぞまず。さまざまと人の勸め擧げもてはやし、
「和尚、和尚。」
と崇(あが)むるに飽きて、夜、ひそかに寺を出で、いづくをそこと、心かくる態(わざ)もなく、身にそゆる物とては、三衣袋(〔さん〕えふくろ)・鉄鉢(てつはち)・錫杖(しやくでう)より外に貯へたる物なければ、朝(あした)に托鉢し、夕(ゆふべ)に打飯(だはん)を乞ひ、かなたこなたと吟(さまよ)ひありき、渇しては水を吞み、疲れて石に枕し、待つ事なく、急ぎもやらぬ道を、一ツの里にだに三宿(みとまり)と逗留せず。ある日は都に出で、市にうそぶき、または難波津(なにはづ)に杖をたて、心に感ある時は詩を賦し、歌を吟じ、諸國にいたらぬ隈なく、尋ねぬ名所もなかりしかども、
『こゝぞ禪定と、膝を屈し、觀念の眼(まなこ)こらすべき地もなし。』
と、撰びありきて、今年、元祿六年の秋は、此猿畠山に分け入り、かの巖窟に、しばらく憩(いこ)ひ、かりそめに立ちやすらひ給ひけるが、何となく心澄み、うき世の外のたのしみをも極めつべく思はれしかば、
『よしや、住みつかばこゝとても、かしがましかるべき所ながら、いづくも假のやどりなるを。』
と、禪衣をときて、襖(ふすま)とし、鐵鉢を枕にあて、そこらの風景、暮れゆく色をながめ出だしておはしけるに、此窟のほとりは、皆、大きなる桐の木はらにて、枝老ひ、梢(こずゑ)たれて、地をはらふかとみゆるばかりなるが、秋來(こ)ぬと目には見えぬものから、風の音づれを、桐の葉の零(お)ちてぞ、折からのあはれも身にしみてしられしかば、彼の西行の、
秋たつと人は告げねどしられけりみやまのすその風のけしきに
などながめくらして、その夜は洞の内に蹲(うづくま)り居(ゐ)てあかし給ひなんとするに、十四夜(まつよひ)の月、木(こ)の間(ま)よりほのめきそめて、むしのね、近く遠く、ひらきあひて、松のしらべをもてなしたる、さながら塵外(ぢんぐわい)のたのしび・無何有(むかう)の里・朱陳(しゆちん)の民ともやいはんなど、觀じ居給ふ折から、異(こと)なる蜂どもの、あまた、何ともなく、むらがり來て、此桐の林に飛びかけりて鳴くあり。
[やぶちゃん注:「能州」能登。
「惣持寺(さうぢじ)」現在の石川県輪島市門前町門前にある曹洞宗諸岳山總持寺祖院。曾ては曹洞宗大本山總持寺であったが、明治四四(一九一一)年十一月、本山機能が横浜市鶴見へ移転する際、移転先が大本山總持寺となり、ここはかく改称されて別院扱いとなった。参照したウィキの「總持寺祖院」によれば、『元は諸岳寺(もろおかじ)と呼ばれた行基創建と伝えられる密教系寺院(一説には真言宗』『)』であったが、元亨元(一三二一)年に『当時の住持である定賢が』、『霊夢を見て』、『越中国永光寺にいた瑩山紹瑾に寺を譲った。瑩山紹瑾はこれを禅林として改め、総持寺と命名して開山となった』。『翌年、瑩山紹瑾は後醍醐天皇よりの勅問』十『問に答えた褒賞として、同寺に「日本曹洞賜紫出世之道場」の寺額が授けられたとするが、伝説の域を出ないと言われている』。正中元(一三二四)年、『瑩山紹瑾は「諸岳山十条之亀鏡」を定めて寺制を整えた。その後、寺を継承した峨山韶磧によって整備され、五哲と呼ばれた門人によって』五『ヶ所の子院が設けられた。曹洞宗の多くの寺院が同寺の系統をひき、本山の地位や諸権利を巡って越前国永平寺と論争を行うこともあったものの、「能登国の大本山」すなわち能山として親しまれた』。その後も『室町幕府や地元の能登畠山氏・長谷部氏の庇護を受け』、江戸時代になってからも、明暦三(一六五七)年に寺領四百石が『与えられるなど、加賀藩時代を通じて手厚い保護を受けた』。『また、江戸幕府は』元和元(一六一五)年、『永平寺・總持寺を』、『ともに大本山として認めるとともに』、『徳川家康の意向』によって、一千両が『寄付され』、『幕府祈願所に指定された。住持の地位は』五『つの塔頭(普蔵院、妙高庵、洞川庵、伝法庵、如意庵)による輪番制が採られた』とある。
「鶯囀司(わうてんす)」不詳。実在したとすれば、特定職種を統括する「司」と称していること、「洞家(どうけ)におゐて希有の人」(当時の曹洞宗の僧侶の中でも稀れに見る名僧)とされていた以上、名が残らないのはおかしい。架空の人物であろう。
「他に異(こと)に智辯なるゝがごときに」その知識と弁舌は他に比肩し得る者がいないほどに。
「愛(め)で」称讃され。
「いさぎよき」道に反するところがく、精錬にして潔白である。
「後任」總持寺の後任住持。
「轉蓬(てんはう)の癖(くせ)を具して」「轉蓬」は風に吹かれて飛ぶ蓬(よもぎ)で、漂泊の身の上に譬える語。「癖」はそうした性質・属性。それを「具して」とは、生涯を行雲流水の行脚による悟達の覚悟を具(そな)えて、堅持して、の意。
「和尚」住職以上の僧への敬称。
「三衣袋(〔さん〕えふくろ)」「三衣」は「さんね」とも読む。本来はインドの比丘が身に纏った三種の僧衣で、僧伽梨衣(そうぎゃりえ:九条から二十五条までの布で製した)・大衣(だいえ=鬱多羅僧衣(うったらそうえ):七条の袈裟で上衣とする)・安陀会(あんだえ:五条の下衣)のことを指すが、ここは単に僧衣で、さらにそれ以外の最小限の身の回りのものを入れる袋のことである。
「打飯(だはん)」「打飯料(だはんりやう)」(「たはんりやう」とも読む)で、僧の食事の素材や費用の意。布施の意。
「一の里にだに三宿(みとまり)と逗留せず」一所無住は洋の東西を問わず、本来あるべき宗教者の修業の哲理である。
「市にうそぶき」市井に詩歌を吟じ。
「難波津(なにはづ)」大阪の湊の古名。
「元祿六年」一六九三年。本「御伽百物語」は宝永三(一七〇六)年に江戸で開版されている。
「かしがましかるべき所」人の声や物音が五月蠅く感じられる、騒々しい所。江戸時代の鎌倉は産業地としては僻地の漁村であったが、江戸への魚類の主要な供給地の一つであり、漸く、鎌倉時代の古跡巡りなども流行り始めていたから、必ずしも奇異な表現ではないと私は思う。
「襖(ふすま)」ここは夜具の意。
「桐の木はら」「桐の木原」。桐の林。
「秋來(こ)ぬと目には見えぬものから、風の音づれを、桐の葉の零(お)ちてぞ、折からのあはれも身にしみてしられしかば」次の西行の和歌の枕のこれは、「古今和歌集」の「巻之四 秋歌上」の劈頭を飾る藤原敏行の一首、
秋立つ日、よめる
秋來ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどかれぬる
に基づく。
「秋たつと人は告げねどしられけりみやまのすその風のけしきに」「山家集」の「秋」の二首目、
山居初秋
秋立つと人は告げねど知られけりみ山のすそ野の風の氣色に
である。
「十四夜(まつよひ)の月」「翌日の八月十五夜の月を待つ宵」の意で、陰暦八月十四日の夜。小望月(こもちづき)。これが先に提示された、元禄六年のことであったとすれば、グレゴリオ暦一六九三年九月十三日で、月の出は午後四時五十八分、正中は午後十一時五十二分、月没は翌日の午前四時五十四分である。以上はいつもお世話になっている「暦のページ」での計算に拠った。
「ひらきあひて」「開き合ひて」。一面に広く鳴き合って。或いは、辺り一帯に広く鳴き渡って。
「松のしらべ」松籟。
「もてなしたる」主語は虫の声。
「塵外(ぢんぐわい)のたのしび」穢土としての現世の外の楽しみ。
「無何有(むかう)の里」「何有」は「何か有らむ」と読み、仮象の愚かな対象など「何物もない」の意。自然のままで何の作為もない憂いのない仙境。桃源郷(パラダイス)。
「朱陳(しゆちん)の民」朱陳村(そん)の村人。朱陳村とは白居易の「朱陳村」(八一〇年頃の作)に描かれているユートピアとしての村で、ここは世間とはほぼ関係が絶たれており、人情風俗が純朴で、村中には「朱」と「陳」の二つの姓だけを持った人々が暮し、村人はここの民として生まれ、ここで安らかに死んでゆく。代々、互いに婚姻を結んでその土地に安住して生活を楽しみ、誰もが皆、長命である、と記された桃源郷のような村である。モデルとしては詩に「徐州古豐縣」であるが、「去縣百餘里」とあり、これは現在の江蘇省の北の境にある豊県(漢の高祖の出生地として知られる)内に当たる。ここ(グーグル・マップ・データ)。現在の同県には「朱陳路」の名は残る(ここ(グーグル・マップ・データ))。
「異(こと)なる蜂ども」見かけない奇体な姿形をした蜂たち。
「鳴くあり」鳴いている。ここでは読者はただの羽音を「鳴く」と採る。しかし――]
「こはいかに。折しもこそあれ、日暮(ひぐれ)、雲おさまる山中に、蜂のかく飛びかふは、若(も)し、蜜(みつ)するとかやいふなるもありとは聞けど、それさへ晝のみぞ出づるなる物を。」
と、しばし、ながめいりてきくに、蜂どものこゑは、人の物いふやうに、
「ひた。」
と吟詠するなり。
「何をかいふや。」
と聞けば、
すむ身こそみちはなからめ谷の戸に出で入る雲をぬしとやはみん
と、うたふなり。
「誠に彼の京極太政大臣宗輔と申せし人の、蜂をあまた飼はせ給ひ、何丸(なにまる)角丸(かまる)などゝ名を付けて呼び給ひ、召しに隨ひて御まへに參りたるに、『何丸、あの男さして來たれ』と仰せられつれば、いつも仰せにしたがひしとか、十訓(くん)といふものに注されしも、實(げ)にかゝる蜂にこそ。」
と、さしのぞき給へば、やうやう、其たけ、一寸あまりある生身(いきみ)の人にて、然も、翅(つばさ)あり。
[やぶちゃん注:「蜜(みつ)するとかやいふなるもありとは聞けど、それさへ晝のみぞ出づるなる物を」よく意味が判らない。「花の蜜を吸うとかいう蜂があるとは聴くけれども、それも絵にばかり描かれたものしか私は知らぬのに……」の謂いか? 蜜蜂が元禄期に知られていないかった、しかも善知識の彼が知らなかったというのは解せない。識者の御教授を乞う。
「ひた」「無暗に」「頻りに」「一途に」の意か。
「すむ身こそみちはなからめ谷の戸に出で入る雲をぬしとやはみん」不詳。筆者の創った一首か。
「誠に彼の京極太政大臣宗輔と申せし人の、蜂をあまた飼はせ給ひ、何丸(なにまる)角丸(かまる)などゝ名を付けて呼び給ひ、召しに隨ひて御まへに參りたるに、『何丸、あの男さして來たれ』と仰せられつれば、いつも仰せにしたがひしとか、十訓(くん)といふものに注されしも、實(げ)にかゝる蜂にこそ」「十訓」は鎌倉時代の説話集「十訓抄(じっきんしょう)」のこと(全三巻。序は建長四
(一二五二) 年のクレジットを持つ。作者は、写本の一つである妙覚寺本奥書からは「六波羅二臈(ろくはらにろう)左衛門入道」なる者とするのが通説で、彼は鎌倉幕府の御家人湯浅宗業(むねなり)の通称ともされるが、一方では鎌倉初期の公家の学者菅原為長とする説もある。約二百八十の説話を「心操振舞を定むべき事」以下十条の教訓の下に分類配列して、各説話ごとに著者の評言を加えたものであるが、先行する平安期の説話集に拠ったものが多い)。ここに示された「京極太政大臣宗輔」及び「十訓抄」の当該話は、私の『柴田宵曲 續妖異博物館 「蜂」』で注釈し、当該原文を引用してあるので、参照されたい。
「其たけ一寸あまりある生身(いきみ)の人にて、然も翅(つばさ)あり」仙人の形象であろうが、蜂に見紛う三センチほどの背丈の生ま身の人間の姿、となると、これはもう、西洋のフェアリー(fairy:妖精)みたようなものの方がイメージし易い。]
鶯囀司も、あやしく珍らかなる蟲のさまかなと思ひ、扇をひろげて、柱杖(しゆでう)のさきに括(くゝ)りつけ、此蜂を、ひとつ、うちおとし、房子(もし)の袋にいれ、鉢の子の上にすえ置きぬ。
「桐の木にむれつゝ遊びけるは、もし、露をや愛しけん。」
と桐の葉、露ながら、折(をり)て、其かたはらにうち置き、ながめ居たりしに、しばらくして、此むし、傍(かたはら)にそはみ居て、すこし吁嗟(なげ)くこゑあり。
[やぶちゃん注:「房子(もし)」これは「綟」「綟子」で「もぢ」、麻糸で目を粗く織った布(通常は夏の衣や蚊帳(かや)などに使う)のことではなかろうか。
「鉢の子」仏道修行者の食器及び僧尼が托鉢の際に所持する鉄鉢。ここは後者。「応量器(おうりょうき)」とも呼ぶ。後で「袋の口をほど」くというシーンが出るので、綟子(もじ)で出来た小さな小物入れにそっと包み捕って、袋の中のゆとりを大きくとった上で口を縛り、鉄鉢の中に入れ置いたものであろう。
「傍(かたはら)にそはみ居て」綟子(もじ)の縁の辺りに寄り、横(外)の方を向いて凝っとして。
「吁嗟(なげ)く」「吁嗟」は通常、歎き叫ぶ「ああ!」という感動詞として使われる。]
忽ちに、人かたちなる蜂ども、數(す)十、飛び來たり、彼(か)の袋のあたりに集まりつゝ、そのさま慰(なぐさむ)るに似たり。
あとより、おしつゞきて、其たぐひ、あまた、あるひは、いとちいさき車に乘り、あるひは輦(てぐるま)して、いり來たり。
此むしをとぶらひけるを聞くに、ほそく、ちいさきこゑなり。
鶯囀司、寢たるさまして聞き居たるに、主人と見えつる者の名を、
「伏見の翁。」
といひけるが、此とらはれし蜂にむかひていふやう、
「吾(われ)、君が此(この)不祥(ふしやう)のために筮(めと)をとりて、占ひてまいらすべし。君、よろしく無有(むう)を觀じたまへ。君、既に死籍を除(ぢよ)して命(いのち)のあやぶみなき身ならずや。何のなげく事かあらん。これ、天心造化(てんしんざうくわ)のしばしば移る所也。」
となぐさむ。
[やぶちゃん注:「いとちいさき車に乘り、あるひは輦(てぐるま)して、いり來たり」この「車」と「輦」の違いがイメージ出来ない。前の「車」は独り乗りの指南車のようなもので、誰も牽くことなく、自動的に動いてくる(仙人ならば可能である)もの、後者は所謂、高貴な者が乗用する屋形に車を付けて手で引く牛車様・輿(こし)様のようのものか。後者も、しかし、誰かが牽くのではなく、自ずと動いてくると見たい。
「寢たるさまして」寝たふりをして。
「伏見の翁」「此とらはれし蜂」がその訪ねて来た一人をかく呼んだのであろう。
「不祥(ふしやう)」不運。
「筮(めと)」「めど」で「めどぎ」「めどき」であろう。易で占筮(せんぜい)のために用いる五十本の細い棒のこと。もとは蓍萩(めどはぎ双子葉植物綱バラ亜綱マメ目マメ科ハギ属変種メドハギLespedeza
juncea var. subsessilis)の茎を使ったが、のちには多く竹で作ったので、現行のように筮竹(ぜいちく)と言うようになった。
「無有(むう)を觀じたまへ」「実在と非実在を観想なされよ。」。
「天心造化(てんしんざうくわ)」天然自然。]
又、
「增翁(ましてのおきな)。」
と、いふあり。
かれがいふは、
「此ごろ、我、白箸翁(しらはしのおきな)と博奕(ばくえき)して琅玕紙(らうかんし)十幅を勝ち得たり。君、此難をのがれ出でたまはゞ、禮星子(れいせいし)の辭をつくりて給はるべし。」
など、揔(すべ)てみな、人間世(にんげんよ)の知るべき事にあらず。
[やぶちゃん注:「琅玕紙(らうかんし)」「琅玕」(ろうかん)」は暗い緑色をした半透明の宝玉のこと。硬玉の一つで、装飾材や高級硯材とされ、後に、この色から転じて、「美しい竹」を譬える語でもあるが、ここは前者で採る。この世にあり得ない硬玉の宝玉で出来た薄い薄い紙である。
「禮星子(れいせいし)の辭」不詳。「人間世(にんげんよ)の知るべき事にあら」ざれば、私には到底、判らぬ。]
終宵(よもすがら)、かたりあかして、去りぬ。
鶯囀司、ふしぎの思ひをなし、夜あけしかば、袋の口をほどきて、放ちやりぬ。
みづからも、其窟(いはや)を出でて、極樂寺の切通しを小坪にと心ざして出でし所に、ふと、人に行きあひたり。
そのたけ、三尺ばかりなるが、黃なる衣服して、空より、下だり、
「我は三淸(せい)の使者、上仙の伯(はく)といふ官(くわん)にいたりたるもの也。名は民(たみ)の黑人(くろびと)といふもの也。今宵、君が前に來たりあつまりし人々は、皆、「本朝豚史(ほんてうとんし)」などにいひつたへし、日本の仙人たちなり。難にあひしは、彼の遊仙窟の讀みを傳へし賀茂の翁なり。今、君がなさけによりて、二たび、上淸(じやうせい)の天にのぼりし禮のために、我をくだして謝せしめらる。君、また、學業いたりたるゆへ、その身ながら、仙骨を得て、近き内に登天あるべし。」
と、いふかと見えしが、たちまち消えて、行きかたを失ひけるとぞ。
其後(そのゝち)、鶯囀司も、また、修行して、諸國の名山勝地にあそびけるが、終に此僧もそのゆくかたをしらず、といへり。
[やぶちゃん注:「其窟(いはや)を出でて、極樂寺の切通しを小坪にと心ざして出でし所に、ふと、人に行きあひたり」青木鷺水は鎌倉に行ったことがないと見た。法性寺から、遙か西方、由比ヶ浜の反対の稲村ケ崎の根元にある極楽寺切通しを通って、由比ヶ浜の真反対の東方の小坪へ向かうというのは、物理的に話が通じないからである。
「三淸(せい)」道教の最高神格のこと。ウィキの「三清」より引く。『「太元」を神格化した最高神元始天尊と、「道」を神格化した霊宝天尊(太上道君)、老子を神格化した道徳天尊(太上老君)の三柱』。『それぞれ』、『道教における天上界の最高天「玉清境」「上清境」「太清境」に住し、この三天のことも「三清」と呼ぶ』。
「上仙の伯(はく)」後に出る通り、天界・仙界の「官」名。仙人の最上クラスの「上仙」の、その中でも「伯」と称するからには、最上級官僚であろう。
「本朝豚史(ほんてうとんし)」昨日の公開時には「本朝」を中国と誤釈し、「豚史(とんし)」を不詳として注したところ、以前にも「北越奇談」でお世話になったH・T氏から、これは林読耕斎の「本朝遯史」である旨の御教授を戴いたので(昨夜に発信して下さったが、私は近日、夕食後早くに就寝してしまうため、開封は今朝に遅れた)、ここに新たに注することとした。かの林羅山の四男で江戸前期の儒者であった林読耕斎(はやし どく(どっ)こうさい 寛永元(一六二四)年~寛文元(一六六一)年)の主著とされる日本の隠者たちの叢伝である「本朝遯史(ほんちょうとんし)」のこと。「遯」は「遁れる」「隠れる」「ある場(世界)から逃げ出す」の意で「遁」に同じい。「本朝遯史」は寛文四(一六六四)年四月刊で、上下二巻、古代から室町時代までの隠遁者計五十一人の各小伝を漢文で纏めたものである。参照した『放送大学研究年報』(十四・一九九六年刊)の島内裕子氏の論文「『本朝遯史』と『扶桑隠逸伝』にみる隠遁像」(PDF)によれば、後のリンク先で見て戴いても判るが、『現代でもよく知られている猿丸や蟬丸、西行・長明・兼好などの歌人・文学者もいるが、多くは今ではほとんど無名の人々』である。筆者林読耕斎は「朝日日本歴史人物事典」によれば、初名を守勝、後に靖又は春徳とした。読耕斎は号。京都に生まれ、後に江戸に移った。幼時より兄鵞峰から読書を、又、堀杏庵・那波活所ら羅山門人などに学んだ。博覧強記で、父や水戸家の蔵書を読破し、詩歌連句に勤しみ、「豊臣秀吉譜」「中朝帝王譜」の編選などでは父の代作を務め、朝鮮通信使とも筆談を交わせるほどであったという。しかし、病弱で官事を好まず、叔父方分家の相続を幕閣から、再三勧められるたにも拘わらず、それに従わず、正保三(一六四六)年になって老中らの要請を受けて、已む無く剃髪して幕儒となった。明暦二(一六五六)年には法眼となっているが、三十八歳で没した。本「本朝遯史」は、そうした彼自身の中の隠逸志向がよく現われた作品と言え、「詩仙堂三十六詩仙」の選出をはじめとして、その文事は初期林家の享楽的な一面をも表していると言われる。ここに登場する「民(たみ)の黑人(くろびと)」なる人物はまさに、その「本朝遯史」の劈頭に配された隠者で、幸い、サイト「Taiju's
Notebook」の「本朝遯史」の抄電子化で、その目録と冒頭三人(民黑人・藤原麻呂・猿丸)の部分が載り、読めるので参照されたい(これもH・T氏に教えて頂いた)。そこには彼の漢詩が奈良時代に成立した、現存する最古の日本漢詩集「懐風藻」(撰者不明の序文によれば、天平勝宝三年十一月(ユリウス暦七五一年十二月十日から翌年一月八日まで)に完成)に彼の二篇の詩が載ることから、「此書之所錄、自天智之世、至孝謙之時。然則黑人亦其際之人也」(此の書の録する所、天智の世より、孝謙の時に至れり。然らば則ち、黑人も亦、其の際の人ならんや)としつつも(この謂いを額面通りの治世と採るなら、六六八年から七五八年の間となる。なお、訓読は自然流で行った。以下も同じ)、この「民黒人」という名が如何にも不審であり、「未審黑人何自之出乎」(未だ黑人は何れより出ずるか審らかにせず)と言い添えている。島内氏は先の論文の中でも彼を採りあげておられ、そこに『奈良時代に正立した漢詩集『懐風藻』の末尾近くに掲載されている漢詩の作者で、『懐風藻』では「隠士民黒人」となっている。彼は「幽棲」と「独坐山中」という二編の漢詩を残している』として、その漢詩二篇(本朝遯史」でも両篇全詩を引用してある)を訓読したものを掲げられて鑑賞された後、『作者民黒人がどのような経歴の人であるかも、生没年も詳しいことは何もわからない』が、これら二篇の詩を読むと『おのずからなる気韻が、それこそ「松下清風」のように、読む者の心を吹き抜け、彼が感じた心ののびやかさがこちらに伝わってくる。この詩を読む人間の中に、隠遁の別天地が生まれ、息づく。世間の煩わしさをよそにして、自然とともに心豊か暮らすという隠遁の理想の姿が、民黒人の詩から垣間見られる』とされ、本書巻頭に彼が『置かれているのも、編者である読耕斎が、彼の生き方に深く共鳴したからであろう』と述べておられる。最後に、改めて語釈指摘と御教授をして下さったH・T氏に御礼申し上げるものである。
「遊仙窟」知られた、唐代伝奇の一書。作者は張鷟(ちょうさく 生没年未詳)と伝えられる。ウィキの「遊仙窟」によれば、作者と同名の張文成なる『主人公が、黄河の源流を訪れる途中、神仙の家に泊まり、寡婦の十娘、その兄嫁の五嫂たちと、一夜の歓を尽くすというストーリーで』、『文章は当時流行した』四六駢驪体『によって書かれている』。『唐代の伝奇小説の祖ともいわれるが、中国では早くから佚』『書となり、存在したという記録すら残っていない。しかし日本では遣唐使が帰途にあたり、この本を買って帰ることが多く流行し』、『後に魯迅によって日本から中国に』逆輸出されている。
「讀み」話の意で採る。]