柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 餅白鳥に化する話 二
二
長者の榮華窮まり福分盡きて、一朝にして沒落したと云ふ物語は、琵琶でも説經でも何度と無く繰り返されたる、いと安々とした題目であるに拘らず、律儀なる昔の人は其空想のよりどころを求めて居た。因幡の湖山(こやま)の池は、砂が造った只の潟湖であるが、是あるが爲に湖山の長者は、昔あの岸の丘に住んだことになり、入日を招き返した天罰によつて、數千町の美田が悉く水の底になつた。飛驒の白川の中流には姫子松の林を取り繞らした大薙があった。大昔の歸雲城(かへりぐものしろ)は、その絶壁の下に埋まつて居ると傳へられる。其他津輕の十三潟、信州靑木の三湖の如き、金碧を以て莊嚴した七堂伽藍が、門前の町屋と共に覆沒し、時あつて大釣鐘の龍頭(りうづ)を、晴れたる浪の底に見ると云ふ類は、何れも自然の風光を力杖として、よろぼひ立つて居る忘却の翁である。荒凉たる田野の千町牟田のまん中へ、曾ては朝日長者の名國内に響き渡り、大野の滿能長者の花聟となつて、凡そ人生の歡喜の限を見極めたほどの大分限者をつれて來たのも、或は此水草の間に靜かに遊んで居た若干の白い鳥ではなかつたか。斯う云ふ風に考へて行くと、稻荷の三つの御山の頂上に近い平地に、最初は稻に似た或種の植物の繁茂する靈地があって、これへ往來する白い鳥の姿を、高い國からの御使いの如くに感じた人々が、やがては餅と鳥との昔話を拾ひ上げて、之を我家文(いへぶみ)の綾に織り込んだのでは無かつたかとも思はれる。
[やぶちゃん注:「因幡の湖山(こやま)の池」鳥取市の北部の海岸近くにある汽水湖の湖山池。ここ(グーグル・マップ・データ)。「池」と名の付く湖沼の中では日本最大の広さを持つ。総面積六・九九平方キロメートル、周囲長十八キロメートル、最大水深は六・五メートル。ウィキの「湖山池」によれば、『広大な水田を有していた長者が、日没までに田植えが終わらなかったため、扇子で夕日を招き返して田植えを終えたが、一夜明けると』、『田は全て池に変わっていた、という「湖山長者」の伝説が知られる(似たような話が岐阜市のゆうべが池に伝わっている)。古くから開けた地域であり』、一部には『縄文時代から弥生時代にかけての遺跡』もある、とある。
「姫子松」裸子植物門マツ亜門マツ綱マツ亜綱マツ目マツ科マツ属ゴヨウマツ Pinus parviflora の異名。
「大薙」山の一部が崩れて、薙刀で横に切り払ったようになっている箇所を指す。
「歸雲城(かへりぐものしろ)」現在の岐阜県大野郡白川村保木脇(ほきわき)辺り(ここ(グーグル・マップ・データ)。但し、城の正確な位置は不明)にあったとされる、当地の有力武将内ヶ島氏の居城で、寛正年間(一四六一年~一四六六年)に内ヶ島為氏によって築城されたという。天正一三(一五八六)年十一月の天正地震で帰雲山の山崩れが起って埋没し、城内と城下を合わせ、推定五百人余りが死んだと伝える。参照したウィキの「帰雲城」によれば、『当日城内で祝宴が行なわれており、難を逃れたのは所用のため』に『不在だったわずか』四『人と言われる』。『城主の内ヶ島氏理ら一族は全て死に絶えてしまい、この瞬間をもって内ヶ島氏は滅亡した。また、内ケ島氏の領内に金山があったことから、そのとき埋まったとされる埋蔵金伝説がある』とある。
「津輕の十三潟」ここ(グーグル・マップ・データ)。ハクチョウの飛来地として知られる。ここには「津軽十三浦伝説」(「十三浦」は「十三湖」の古称)として「白髭水と夫婦梵鐘」が残る。不思議なことに、その伝承をちゃんと記したサイトが見当たらず、それを素材とした「ねぶた」の記事ばかりが目立つ。いくら探しても見当たらない。仕方がないので、個人ブログ「たちねぷたのやかた」の『あらためて「津軽十三浦伝説 白髭水と夫婦梵鐘」』をリンクさせておく。それによれば、その伝承は『古くから伝わる十三浦(とさうら:今の十三湖)にまつわる儚く悲しい恋伝説』で、『今から約250年ほど前の』話とする。『長勝寺と長円寺に納めるために、二つの雌雄の鐘が京都から日本海まわりで津軽へ送られてき』たが、『十三湊へ入ったとき暴風雨になり、鐘は湖底に沈んでしまった』。『雄鐘はすぐみつか』ったものの、『雌鐘はいくら探してもでて』こない。『当時の人たちは』、『たびたび襲ってくる洪水や津波を白い波に乗ってやってくる老人に見立てて「白髭水」と呼んで恐れて』おり、人々はその雌鐘は『白髭水に連れ去られた』のだと言い伝え、『今でも長円寺に納められた雄鐘をつくと、その鐘は十三湖の雌鐘を慕って「十三恋しやゴーン」と響き、それに応えるかのように湖底からは「長円寺恋しやゴーン」という雌鐘の音が響くのだ』という。また、こ『の伝説の一説には、十三湖に住む龍が鐘についている雌龍を我が物にしようと引きずりこんだという説もあ』るとする。「仕方がないので」などと失礼なことを言ったが(しかし、活字で正確に残しておかないと、伝承は都合のいいように変形・美化されてしまう。郷土史研究家はここで一踏ん張りして、最も古いものから是非、同伝承を電子化しておいて貰いたいものである)リンク先はその伝承をモチーフにした「ねぶた」の美しい写真が並ぶ。必見である。
「信州靑木の三湖」仁科三湖のこと。北から青木湖、小さな中綱湖(池)、木崎湖。ここ(グーグル・マップ・データ)。サイト「安曇野のパワースポット•癒しのスポット」の「安曇野に伝わる伝説、民話」で三つの湖に纏わる伝説が読める。その中の「中綱湖に伝わる伝説」に沈鐘伝承が含まれている。]
豐後風土記には田野里(たのゝさと)の口碑の他に、また次のやうな話も採錄せられてある。豐國直(とよのくにのあたへ)の先祖菟名手(うなて)なる者、始めて此國に使して、豐前仲津郡中臣村に往到り、一夜の宿を借りたるに、次の日の曙にたちまち白き鳥の群あり、北より飛來つて此村に集まる。僕[やぶちゃん注:「しもべ」。]を遣りて看せしむるに其鳥化して餅と爲るとある。それが片時にして更に化して芋草千株となる。株葉冬も榮えたりとあって、南國の土民に用だつべき作物が、白鳥の神異に伴なはれて容易に見付かつたことは、成程重要なる語り草であった。併し其中間にほんの少しの間、一旦餅に爲つて居たと云ふ點に不思議がある。事に依ると此時代の人の心持に、白い鳥は至つて餅に化し易いもの、若しくは餅は往々にして飛去ることありと云ふやうな考へが、何と無く挾まつて居たのかも知れぬ。
[やぶちゃん注:「豐國直(とよのくにのあたへ)」豊国の姓(かばね)のこと。
「菟名手(うなて)」古代伝承上の豪族で国前(くにさき)氏・豊国氏の祖とされる。景行天皇が九州遠征の途中,周防の娑麼(さば:山口県防府市か)で敵の煙を見つけた際、菟名手は、他の二名と情勢を探ったとする。後に、天皇から豊国(大分県と福岡県の一部)の支配権と豊国の氏を授けられたという。
「豐前仲津郡中臣村」不詳。福岡県(豊前国)にあった旧仲津郡は現在の行橋市の一部と京都郡みやこ町の大部分に当たる。この中央付近(グーグル・マップ・データ)。]
私はまじめに右の如く思つて居るのである。近世の子守歌にも、緣があるなら飛んで來い牡丹餅などゝ、笑ひながらだが歌つて居た。手毬唄のしよんがえ婆さまにも、餅にこがれて逐つて[やぶちゃん注:「おつて」追って。]行つたと云ふやうな歌があつた。童話の鼠の淨土などにも、正直爺を團子が導いて隱里(かくれさと)へつれて行くとあつた。鎌倉期の初に成つたと云ふ塵袋の卷九には、餅の白い鳥に化した話を、豐後の玖珠郡の事件として載せている。古風土記を見て書いたらうと謂はれて居るが、果してどうであつたらうか。今有る豐後風土記とは、單に郡の名がちがうて居るのみならず、全體に於て記事が寧ろ後世の言ひ傳への方に近い。然し其中でも、何故に餅が飛去つて長者の運が傾いたかの説明だけは、少なくともあの時代の人の考へ方と見てよいと思ふ。卽ち餅を以て的とするなどは、唯の奢りの沙汰として神の憎しみを受けるのみで無い。餅は元來福の源である故に、これと共に福神が飛び去つたのだと謂つて居る。塵袋の著者の時代には、福引と云ふのは餅を二人で引合ふ事であった。恐らくは今でも若い人たちが戲れに煎餅をもつてするやうに、餅の兩端を把へて引合ひ捻合ひ、結局二つに割れたとき大きい方を得た者を勝とし、勝てば其年は福が多いなどゝ謂つたものだらう。
[やぶちゃん注:「緣があるなら飛んで來い牡丹餅」私は知らない。検索にも掛からない。
「手毬唄のしよんがえ婆さま」不詳。「しよんがえ」は「しょんがえ」で、通常は民謡で一節の終わりにつける囃子詞 。「しょんがい」「しょんがいな」とも使う。江戸初期から明治時代まで歌詞・曲調を変えて、唄われた。
「鼠の淨土」「おむすびころりん」の古形。ネズミに握り飯や餅などの食物をやった礼に、ネズミの国に招かれて宝物をもらう爺の話で、通常は例によって隣の爺が真似をして失敗する形を採る。
「塵袋」鎌倉中後期に成立した事典。全十一巻。著者未詳。文永~弘安年間(一二六四年~一二八八年)の成立。事物の起源を天象以下二十二項に分けて問答体で記したもの。
「豐後の玖珠郡」現在の大分県玖珠(くす)郡。ここ(グーグル・マップ・データ)。]
餅をフクダと呼んだのは、燒けばふくれるからの名だらうと思ふが、しかも其昔の耳に快きをめでゝ、次第に之を福の物と考へるに至つたのも、中世以來の習はしであつた。それが又新たなる興味を刺戟して、こんなたわいも無い昔話を、ほゞ元の形で今日まで保存し得たのは、殊勝なる事であつた。常に史料の乏少を悲しむ前代生活の研究者たちは、此機會を輕んじてほならぬのである。
[やぶちゃん注:「餅をフクダと呼んだ」知らない。小学館の「日本国語大辞典」には「ふくだ(福田)」として「ふくだもち(福田餅)」の略とし、「福田餅」は「まるく作った餅。そなえ餅」とし、それは「ふくだみもち」の転じたものとする。この「ふくだみ」は「ふくだむ」で「まるくふくらんだようになる」の意とするから、柳田國男の謂いは一つの定説とは言えるようだ。]

