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2018/03/05

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十八年 広嶋滞在――古白の訃

 

     広嶋滞在――古白の訃

 

 雄心勃々として東京を発した居士は、途中大阪に一泊、六日の正午広嶋に到著した。今残っている従軍願の日附は三月六日になっているから、到著勿々差出したものであろう。願の通り許可されたのは三月二十一目であった。

 この広場滞在中の事は、小説「我が病」の中に箇条書にして挙げてあるから、そのまま引用して置くことにする。

[やぶちゃん注:既に注したが、「我が病」は国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(明治三七(一九〇四)年俳書堂刊「子規遺稿 第三編 子規小説集」)から全篇を視認出来る。それの(第三回の内)を参考に校訂した。底本では全体が二字下げで、二行に亙る場合は「一」の下の読点位置からとなっている(これは原典もそうなっている)。前後を一行空けた。]

 

一、八疊の間に同社の者四、五人詰めこんで常に雜談し時には喧嘩もありし事

一、大野が海軍へ從軍するために呉へ行くを見送りながら呉に遊び一宿して歸りし事

一、從軍する神官たちに招かれて饗應を受け席上にて和歌の議論ありし事

一、練兵場にて神官たちが行ふ軍神祭(?)に參拜せし事

一、大本營に二度行きて一度は憲兵に拒まれて入り得ざりし事

一、某伯のもとにて刀を賜はりし事

一、同宿の一人が夜郊外に路を迷ひて盜に逢ひ盜を川中へ突きころがして一さんに逃げ歸りし事

一、郷里伊豫に行き二泊して歸りし事

一、酒飮みに三度、白魚飯喰ひに二度行きし事

一、鹽原多助の芝居を見に行き美人の多きに驚きし事

一、每夜兩眼鏡を携へてヘラヘラ見物に行きし事

一、馬關にて狙擊せられたる李鴻章に見舞狀を贈りし事

一、某伯の送別會に赴き歸りに新聞記者懇親會に赴きし事

[やぶちゃん注:「白魚飯」「しらうをめし(しらうおめし)」思うに、広島がロケーションであるところから、これは条鰭綱スズキ目ハゼ亜目ハゼ科ゴビオネルス亜科シロウオ属シロウオ Leucopsarion petersii を炊き込んだ白米飯と考える。条鰭綱新鰭亜綱原棘鰭上目キュウリウオ目シラウオ科シラウオ Salangichthys microdon が「シラウオ」であるが、広島では「シロウオ」を「シラウオ」と呼称するからである。両種の違いについては、さんざん、いろいろなところで叙述した。そうさ、変わったところで、例えば、私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅1 行くはるや鳥啼きうをの目は泪 芭蕉の私の注を参照されたい。

「鹽原多助」歌舞伎狂言「鹽原多助一代記」。全六幕の世話物。明治九(一八七六)年から翌々年にかけて三遊亭円朝が口演した同名の人情噺しを三世河竹新七が脚色し、明治二五(一八九二)年に東京歌舞伎座で初演されたもの。江戸本所相生町の炭屋塩原太助(寛保三(一七四三)年~文化一三(一八一六)年)の実話に基づくもので、浪士の子に生れながら、わけあって百姓の養父のもとで育てられた塩原多助が、養父の死後、養母と女房の悪性(あくしょう)のため、愛馬青と別れて、独り、江戸に出て、炭屋で十数年の骨身を惜しまぬ奉公の末に、独立、豪商になったという出世物語。内容は円朝の作に忠実であるが、実直な多助と悪党道連れ小平の善悪二役を五世尾上菊五郎が演じて、評判をとった(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「馬關」山口県の下関の古称。赤間関(あかまがせき)を古く「赤馬関」とも書いたことに由来する。

「狙擊せられたる李鴻章」清の政治家李鴻章(一八二三年~一九〇一年)は『日清戦争の敗北後、講和交渉で全権を任され』、明治二五(一八九五)年より、『下関の引接寺に滞在し、春帆楼へ通って伊藤博文・陸奥宗光と講和会議の交渉を行った』が、同年三月二十四日、『李鴻章が引接寺と春帆楼を結ぶ道』で、国粋主義者の小山豊太郎『に狙撃され、負傷』した。『日本側は列国の干渉をおそれ、まず休戦条約を調印し』、四月十七日に『日清講和条約(下関条約)の調印を行った。この条約で朝鮮・台湾・遼東半島(後に三国干渉で返還)喪失と賠償金支払いが決められ、清は大きく威信が低下した』(以上はウィキの「李鴻章に拠る)とある。ネット上の情報では、しかし、正岡子規が彼に見舞状を出した事実は殆んど語られていない。貴重な一条であろう。]

 

 「大野」とあるのは古嶋一雄氏のことである。居士の「陣中日記」を見ると、「去年より大我を送り素川を送り乾外を送り鐡巌を送り藁村を送り廣嶋に來りてまた一念を送る」と書いてある。古嶋氏を送って呉へ行った時は、蕭々たる春雨の中に分捕(ぶんどり)の軍艦三艘がものうげに浮び、鷗は無心にその檣頭(しょうとう)を飛び廻るというような景色が目についた。

[やぶちゃん注:「古嶋一雄」既注の小島一雄。

「大我」桜田文吾(生没年未詳)はジャーナリスト。「大我」は号。「一寸法師」とも称した。仙台出身。小学校の助教を経て、東京法学院(現在の中央大学)に進み、後に『日本』新聞社に入社。明治二六(一八九三)年に刊行された「貧天地饑寒窟探検記」は、その三年前の『日本』に連載された貧民街探訪記であった。最も早い東京・大阪の貧民ルポで、二葉亭四迷らに影響を与えた。後に「京都通信社」を創設し、京都市会議員にもなった。

「素川」鳥居素川(慶応三(一八六七)年~昭和三(一九二八)年)はジャーナリスト。本名は赫雄(てるお)。肥後(熊本)の生まれ。熊本県立済々黌(せいせいこう)高等学校を卒業後、独逸協会専門学校・日清貿易研究所(病気で中退)・『日本』新聞社などを経て、明治三〇(一八九七)年に大阪朝日新聞社に入社、編集局長に就任した。第一次世界大戦後に自由主義を主張して寺内正毅内閣を攻撃した。大正八(一九一九)年には『大正日日新聞』を創刊した。

「乾外」『日本』新聞社の記者であろうが、不詳。

「鐡巖」末永純一郎(慶応三(一八六七)年~大正二(一九一三)年)は旧福岡藩士。国学者・歌人でもあった末永茂世(しげつぐ)の長男。明治一六(一八八三)年に上京、明治二十年から東京帝国大学法科大学の選科で学んだ。明治二二(一八八九)年に『日本』新聞の記者となり、日清戦争では従軍記者として健筆を振るった。明治三三(一九〇〇)年には「東邦協会」幹事となり、康有為・梁啓超・孫文らと親交を結び、その活動を支援するようになり、東亜同文会・対露同志会でも活動した。明治三十八年四月、満州の大連に渡って、『遼東新報』を創刊。日中両国語の紙面で両国の親善提携を訴えた(以上はウィキの「末永純一郎に拠った)。「国文学研究資料館電子資料館近代文献情報データベース」の子規言行録に「毎夕新聞」「余が見たる正岡子規子」の記事が載る。

「藁村」『日本』新聞社記者井上藁村(亀六)。後に国粋主義団体「政教社」新発足時のメンバーとなった。

 

「一念」冒頭の小島一雄の号。]

 「某伯」が旧藩主の久聴伯であることは註するまでもあるまい。刀の事は四月五日大原恒徳氏宛の手紙に次のように記されている。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。「子規居士」で校訂した。]

 

久松家へ刀一口(ひとふり)御下賜の儀相願置(あひねがひおき)候處、河東(かはひがし)の言によればそれは大方相叶難(あひかないがた)かるべし、先頃(さきごろ)軍人連衆が出發の際に刀をねだり候者多かりしかども刀劍を賜はることは昔ならば餘程面倒なる事故御聞屆(おききとどけ)なかりしと申(まうす)由に御坐候ひし故その積りにて居候處、意外にも私の望御聞屆被下(くだされ)、殿樣御下廣の砌(みぎり)仕込杖一口(ひとふり)下され無上の面目を施し候。

[やぶちゃん注:「下廣」広島に下ることの意であろう。]

 

 居士が広嶋でうつした写真に、羽織袴で左手に刀を握ったものがある。裏面に「明治廿八年三月三十日撮影、正岡常規(つねのり)廿八歳の像なり。常規まさに近衞軍に従ひ渡淸せんとす。故に撮影す」の文字が記されている。颯爽たる英気が眉宇(びう)に溢れているような写真である。

[やぶちゃん注:この写真、ネット上では確認出来なかった。]

 松山に帰ったのは三月十五日らしい。二十五年の夏帰省したきりだから、居士としては三年ぶりのわけである。法竜寺に父君の墓に詣でたところ、鉄道線路が寺中を横切って、菜の花が墓のほとりに乱れ咲くという有様だったので、「滄桑の變心にこたへ胸ふたがりてしばしは立ちも上らず」

 

 畑打(はたうち)よこゝらあたりは打ち殘せ

 

と詠んだのもこの時であった。

[やぶちゃん注:この句は、いい。

「法竜寺」愛媛県松山市柳井町にある曹洞宗佛國山法隆寺。公式サイトは。位置もそちらで確認されたいが、ここで言っている鉄道とは、伊予鉄道横河原線(よこがわらせん)であろう。墓所の東端を通っていることが、同サイトの「アクセス」にある地図を航空写真にすると、よく判る。]

 広嶋滞在中の事で、前の箇条の外に一つ追加しなければならぬのは、藤野古白の自殺である。居士出発の前夜、古白は居士のところへやって来て、行李(こうり)の支度などを手伝ってくれた。古白が意を決して哲学的な冷静な遺書をしたためたのは三月十日であり、ピストルを以て自殺を図ったのは四月七日だから、すべて居士出発後の出来事だったわけである。古白危篤の報はいよいよ明日広嶋を出発するという前夜、突如として居士の手許に届いた。「意外の凶報に驚きたりといへども、孤剣(こけん)飄然去つて山海關の激戰を見んとする余の意氣込はいまだ余をして泣かしむるに至らざりき」というのはけだし実際であったろう。明治俳句界の啓明と目せられた古白の句も、二十七年頃にはかえって月並調に陥り、一躍して俳句の堂に上りながら、苦辛してこれを下るという不思議な径路を辿りつつあった。心血を注いだ脚本「築嶋由来」を世に問うた結果、これを形見として自ら世を去ったのである。古白の霊が空(くう)に帰したのは、居士が海城丸に搭(とう)じて海に浮んだ後であった。

[やぶちゃん注:藤野の自死は精神変調から来る一種のタナトス願望とは言える。しかし、私は、彼の死を聴いて、しかも大陸へ向かった正岡子規を、決して愛さない

「築嶋由来」戯曲。正しくは「人柱築島由來」。『早稲田文学』に発表(私は未読で詳細不祥)。世情の評価は得られず、発表の一ヶ月後、ここにあるように、「現世に生存のインテレストを喪ふに畢りぬ」という遺書を残してピストル自殺した。

「海城丸」進水明六(一八七三)年。二年後にイギリスの会社に売却後されたが、明二八(一八九五)年二月十六日に東京の日本郵船に売却、明三一(一八九八)年に解体されている。以上は非常にお世話になっているFumio Nagasawa サイト「日本しい汽船」データに拠った。]

 

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