子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十九年 三十而立
明治二十九年
三十而立
明治二十九年は居士三十の年である。「孤立すると同時にいよいよ自立の心つよくなれり」 といった居士三十歳の年頭には
三十而立(にしてたつ)と古の人もいはれけん
今年はと思ふことなきにしもあらず
の一句がある。新春劈頭の雑誌『日本人』に「新年二十九度」を寄せて、幼時からの新年の思出を略叙したのも、自ら而立の年を記念するに外ならぬのであった。
[やぶちゃん注:「新年二十九度」は全文ではないが、「土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べもの)」の「子規の正月/新年二十九度」がよい。是非、参照されたい。]
この年の『日本』における活動は、「真率体(しんそつたい)」「即興体」などの俳句を掲げることからはじまる。一体各十二句、四季の順に並べてはあるけれども、何々十二カ月の称は用いてない。前後二十四体に及び、四月に入って漸く了った。最も多く材料に用いられたのは二十八年の句であるが、新に作り足したものも相当あり、一体悉く新作に属するものさえないではない。
一月中居士は「従軍紀事」を『日本』に掲げて陣中生活を細叙すると共に、新聞記者に対する当局の待遇の一定せざることを論じたりしたが、この年に入って注目すべきものは、「三十棒」をはじめとし、「めさまし草一批評」「桐一葉」「作家評家」など、文芸批評の筆を執りはじめたことである。「戯曲類と四季」などという研究も、人事の葛藤を主とする戯曲について、その背景たる季節に著眼(ちゃくがん)したところに、居士らしい用意の窺われるものであった。
居士の健康は年を越して思わしからず、一月中は僅に歩行し得て、久松伯凱旋の祝宴にも列している位であったが、二月頃から左の腰が腫れて痛み強く、横臥したまま身動きも出来なくなった。三月十七日医師の診察を受けたら、僂麻質斯(ロイマチス)でないという宜告を受けた。「僂麻質斯にあらぬことは僕も略〻仮定し居たり、今更驚くべきわけもなし。たとひ地裂(ちさけ)山摧(やまくだ)くとも驚かぬ覺悟を極め居たり。今更風聲鶴唳(ふうせいかくれい)に驚くべきわけも無し。然れども余は驚きたり。驚きたりとて心臟の鼓動を感ずるまでに驚きたるにはあらず、醫師に對していふべき言葉の五秒間おくれたるなり」といい、「世間野心多き者多し。然れども余(わ)れほど野心多きはあらじ。世間大望(たいまう)を抱(いだ)きたるまゝにて地下に葬らるゝ者多し、されど余れほどの大望を抱きて地下に逝く者はあらじ。余は俳句に於てのみ多少野心を漏らしたり。されどそれさへも未だ十分ならず。縱(よ)し俳句に於て思ふまゝに望(のぞみ)を遂げたりともそは余の大望の殆んど無窮大(むきゆうだい)なるに比して僅かに零を値するのみ」という感慨を虚子氏宛に洩している。
[やぶちゃん注:「僂麻質斯(ロイマチス)」rheumatism。骨・関節・筋肉などの運動器の疼痛と、硬直(こわばり)と変形を主徴症状とする疾患の総称。代表的な疾患にリウマチ熱・慢性関節リウマチがあるが、現在も多くは原因不明である。
「風聲鶴唳(ふうせいかくれい)」怖じ気づいた人が、僅かのことにも恐れ慄(おのの)くことの譬え。風の音や鶴の鳴き声を聞いた敗残兵が敵兵かと思い、驚き恐れたという「晋書」「謝玄伝」の故事に基づく。]
四月初(はじめ)には僅に立つことが出来るようになったので、杖にすがって庭を徘徊し、「萩桔梗撫子なんど萌えにけり」一八の一輪白し春の暮」というような風物の変化にいうべからざるよろこびを感じた。じつと寝ていると、花時の上野のざわめきが「ごおごお」と聞えて来る。好晴に乗じて車を雇い、上野を一廻りして帰ったりしたこともあった。四月二十日から『日本』に掲げはじめた「松蘿玉液」は庭前徘徊と上野一周の記事からはじまっている。『松蘿玉液』は長期間にわたる居士の随筆の最初で、後の『墨汁一滴』『病牀六尺』と共に三幅対の観をなすものである。
雨の降る日は庭に出ることも出来ない。訪客もない徒然の時は、臥遊紀行と称して七年前の水戸行のことなどを思い浮べ、「空中の幻華(げんくわ)」を捉えて俳句にする。柱にかけた裏から、過去の旅中の春雨を回想して、それを俳句にする。病牀を天地とする居士の文学は、漸くその特色を発揮せんとするに至った。
四月十九日、不忍弁天僧房において藤野古白一周忌の追悼句会が催されたが、当日雨天であったのと、気分がすぐれなかったためとで居士は出席しなかった。四月二十日の「松蘿玉液」には古白に関する一条があり、「春雨のわれまぼろしに近き身ぞ」の一句を以て結んである。
五月に入ってから居士は『日本』に「俳句問答」を掲げ出した。居士を中心とする新派俳句の陣容が整うに伴い、種々の展開を提出する者がある。「われは世の毀譽に關せず。自ら行かんと欲する道を行く者、敢て門戸の見(けん)を張らんとも思はず、敢て俳宗信仰者を增さしめんとも思はず。とはいへ疑問を發する人に向つては答辯を與へ、誤り想へる人に向つては其誤りを正すこと、亦吾等の義務なるべきか」という見地からこれに答えたもので、俳句を作ろうとする人に向って進むべき道を明にすると共に、外聞からの嘲罵に答え、その惑を解こうとしたものであった。「俳句問答」は質問の来るに従って筆を執ったものの如く、爾後九月頃まで断続的に紙上に現れた。
[やぶちゃん注:「門戸の見」自分の主義主張。]