御伽百物語卷之一 燈火の女
燈火(ともしび)の女
[やぶちゃん注:挿絵は「叢書江戸文庫二 百物語怪談集成」のものを用いた。]
甲州靑柳といふ所に小春友三郞といふ者あり。彼が俗性(ぞくしやう)は、もと、太田道灌の家の子にて、小春兵助といひし武士なり。主人道灌は文明のころ、上杉定正のために戰死あり。兵助その時分は病中にて、殊に重かりければ、暫(しばらく)ひき籠り居たりけるを、此騷動に氣を張り、物の具さし堅め、手鑓おつとり、馬上にて、扇が谷(やつ)の舘(たち)へとかけ付ける所に、はや主人は討たれ給へぬと聞きしより、俄に病勢さかんになり、身體(しんたい)もつての外、惱みける故、腰刀(こしかたな)をぬきて、鎧の上帶(うはおび)、きりほどき、腹、一もんじにかき切り、自害して死したりける。
[やぶちゃん注:「甲州靑柳」現在の山梨県南巨摩郡富士川町青柳町か。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「小春友三郞」不詳。
「俗性」「俗姓」に同じい。家柄。素性(すじょう)。
「小春兵助」不詳。
「太田道灌」(永享四(一四三二)年~文明一八(一四八六)年)。室町中期の武将で、扇谷上杉氏家宰。江戸城を建てたことでも知られる。主君上杉定正の疑心暗鬼によって殺害(本文の「戰死」という表現は当たらない。暗殺である)された。私の「耳囊 卷之三 道灌歌の事」の注を参照されたい。
「上杉定正」(嘉吉三(一四四三)年或いは文安三(一四四六)年~明応三(一四九四)年)は相模国守護で扇谷上杉家当主。名臣太田道灌を暗殺した暗愚な主君として永遠に名が残る。私の「『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」華光院/上杉定正邸跡」の注を参照されたい。
「扇が谷(やつ)の舘(たち)」現在の英勝寺附近か寿福寺前にあったと推定される。私の「新編鎌倉志卷之四」を参照されたい。]
その子兵吉といひしは、其ころ、いまだ三才になりけるを、乳母(めのと)がふところに搔きおひて、些(すこし)のしるべを賴みに此所(このところ)へおち下り、深く隱して育てしが、時移り、世かはり、何となく住みつきて、地侍の數に立ちならひ、今の友三郞にいたりて、百石ばかりの田畠を支配し、万(よろづ)のどやかなる渡世なり。妻は同國府中より呼びむかへ、二人が中(なか)に女子(ぢよし)一人、まふけ、すでに十才にぞなりける。
[やぶちゃん注:「兵吉」小春兵吉。不詳。
「同國府中」現在の山梨県甲府市。]
ある日、此妻、むねを痛みそめてうちふしけるが、醫療・灸治、さまざまと手を盡せども更にその驗(しるし)なくて、半月に及ばんとする比(ころ)、友三郞は是れをいたはり、晝夜枕もとを立ちはなれず、種々に看病をなしける故、精氣疲れて、しばしが程、うちまどろみける所に、忽ち、燈の光、あかくなりたるを覺ゆるまゝに目を開きて見上げたれば、傍(かたはら)にともし置きたる有明の燈(ひ)の中より、其長(たけ)、三尺ばかりなる女、影の如く湧き出でて、友三郞にむかひ、いふ樣(やう)、
「其方が妻の病は、纔(わづ)かに怠りたる事の罪のために、魔の見入りたる物なり。吾、よく此病(やまひ)を禳(はら)ひて得させん。我を神として祭るべしや。」
といへば、友三郞は元來、心ふとくしたゝか者なりければ、此のあやしき姿にも恐れず、手もとにありける九寸五分を引きよせ、鍔もと、くつろげ、
「はた。」
と白眼(にらめ)ば、彼の女、
「からから。」
と笑ひ、
「我がいふ事を用ひず、却(かへつ)て吾を憎むと見えたり。よしよし。今は其方が妻の命を奪ふべし。」
と、いふよ、と見えしが、姿は消えて跡かたなく、妻の病は頻(しきり)にとりつめ、『今はかくよ』と覺ゆるに堪えかね、友三郞、俄に心を改め、信をおこし、一心に祈りわびければ、病氣も忽ちに平癒し、夢の覺めたる如くになり、彼の女も、又、あらはれ出で、友三郞に向ひていふやう、
「吾、此度(このたび)の難を救ひし替りには、吾にひとりの娘あり、是れがために、よき婿を撰(えら)みて給はるべし。」
といふに、友三郞、聞きて、
「それ、鬼神天地の道と人間の境(けう)と、雲泥の違(たが)ひあり、吾、何を以て鬼(き)のために婿を撰む事を知らんや。」
といふに、女また云ふやう、
「婿を撰むは、いと易(やすき)事也。桐の木を以て、男の形を刻み給へ。吾、其中にて撰みとるべし。」
といふ程に、友三郞、やがて其敎(おしへ)の如く仕立てさせて備へけるに、夜(よ)の間(ま)に失せて見えざりけり。
[やぶちゃん注:「有明の燈(ひ)」有明行灯(ありあけあんどん)。夜通し燈(とも)しておく行灯。事実の有明の時制としても用いるが、怪異の起きる時間としては相応しくないので私は採らない。]
扨(さて)、あけの夜(よ)、また來たりて、いふやう、
「吾がために能き婿を得たるも、ひとへ貴殿の恩なり。ちかき内に貴殿夫婦を呼びむかへ、此のよろこびを申すべし。かならず辭退したまふな。」
といひしを、友三郞、心には是れを深く憎みおもひしかども、爲方(せんかた)なくて、うち過ぎけるに、ある夜、俄に彼のをんな、あらはれ出で、
「いざや、兼ていひし如く、今宵は夜とゝもに、我が方にむかへて遊ばん。」
と、表のかたを招きけるに、結構に拵へたる駕籠のり物二挺(てう)、
「御(お)むかへに。」
と舁(か)きすゆれば、腰もと・かいそえ・端(はした)もの・供まはり、おびたゞしく、早々はやばや)と勸められ、友三郞ふうふ、
『心ならず、怪しさよ。』
とは思ひながら、迎への駕籠に乘りうつれば、供まはりの男女(なんによ)、前後をかこみ、既に大門を出でけるが、折しもそのよは、かき曇り、星の影さへ見えず、只行くさきに墨を摺りながしたるやうにて、おそろしきばかり也しが、行くともなく、飛ぶともなく、少時(しばらく)の程に、空もやうやう晴れたり、と見る比(ころ)、大きなある屋形(やかた)に着(つき)ぬ。
[やぶちゃん注:「表のかたを招きけるに」古語の格助詞「を」は現代語の「~から」の意で用いることがある。
「大門」「だいもん」と読んでおくが、不詳。たかだか百石取りの家格の友三郎の家の門をかくは呼ばない。一応、彼らの住んでいる青柳の村の入口にある門をかく言うのもおかしいから、ここはかなり距離があるが(あってもこの妖女は時空間を自在に操るからなんら問題ない)、甲府府中の外郭の大門と採っておく。]
其さま、國司などの舘(たち)のごとし。内より、あまたの男女むかへ、いざなひて、奧に入る。その綺麗さ、心(こころ)、詞(ことば)にのべがたく、おのおの居ならびたる、あまたの召仕ひの中を見まはすに、あるひは友三郞が親しく語り昵(むつ)びたるもあり、又、『一門のすゑなりしが、死して久しき人よ』と思ひあたるもありて、見る度に驚かるゝもあれど、此のものども、友二郞を見ても、見しらぬ顏にもてなして居れば、心に、いよいよ不審はれがたくて、なを、おくの座敷にゆけば、『彼の桐の人形よ』と覺えし男、衣冠たゞしく引き繕ひ、例のあやしき女と娘と、友三郞夫婦を上座にまねき据へて、さまざまのもてなしをなす事、斜(なのめ)ならず。やうやう、酒、長(ちやう)じ、時うつりて、五更のかねのこゑ、かすかに聞え、『八聲(〔や〕こゑ)の鳥のうたふよ』と覺えしが、忽ち、友三郞夫婦のものは何(いつ)歸りたるともなく、吾が家の内にかへりしこそ、不思議なれ。
[やぶちゃん注:「五更」現在の午前三時から午前五時、又は午前四時から午前六時ころに当たるが、ここは前者の前半、暁の時刻と採る。
「八聲(〔や〕こゑ)の鳥」鶏の鬨の声。明け方に八度鳴くとされることから。]
友三郞も、是れに懲(こり)て、いよいよ、此(この)怪しみをうるさくおもひ、
「いかにもして、此妖怪を、やめばや。」
と心をくだく折しも、又、かの女、あらはれ出で、友三郞が傍ちかく步み寄る所を、友三郞、ねらひよせて、手もとなる木枕を取り、彼の女の眞向に手ごたへして抛(な)げつけしかば、女のかたち、
「わつ。」
といひしが、枕にひゞきて消えうせしが、友三郞が妻、俄に心痛を病みて、一日一夜が程に死(し)しぬ。
夫、また、是れにうんじて、さまざまと祈り、いろいろに詫びしかども、二たび、彼の女、出でず。
「此(この)上(うへ)は。」
と、おそろしさに、家を外に移さんとする心出で來しかば、道具・家財はいふにたらず、鼻紙ひとつさへ、疊にすいつきて、はなれず。
あまつさへ、友三郞が妹、また、やみつきしが、程なく、これも死したりしとぞ。
[やぶちゃん注:「是れにうんじて」総ての本文は「うんして」であるが、濁音化した。「倦んじて」。「うみす」の音便であるから「うんして」でもいいのだが、意味が採りにくいと判断した。「がっかりする」の意。
この話、正体は狐辺りが想起はされるものの、一切、正体を示さないところに、真正正統のホラーの雰囲気が漂う。桐の人形を娘の夫として迎えるところ、妖女の館(やかた)内に友三郎の知人や既に冥界に行った親族の姿が垣間見られるところなども、その意味が解き明かされることがないというところが、はなはだ上手い。また、妻だけでなく、実妹を殺害しながら、友三郎には決定的な危害は加えないところ、彼が遠くへ行くことを阻むこと(鼻紙一枚さえ、畳にベッタリと吸い付いて離れないというのも映像的で美事な附加である)などから、この妖怪の友三郎へのおぞましい一方的な恋情も示されてある。]
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