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2018/03/13

御伽百物語卷之二 龜嶋七郞が奇病

 

   龜嶋(かめしま)七郞が奇病

Kamesimakibyou[やぶちゃん注:挿絵は「叢書江戸文庫二 百物語怪談集成」のものを用いた。]

 泉州境の津(つ)に名高き大寺(おほでら)は、徃昔(そのかみ)、聖武帝(せいむてい)の勅によりて佛寺となり、大念佛寺(だいねんぶつじ)と號す。

[やぶちゃん注:「大念佛寺」住吉神社の別当寺であったと思われるが、明治の神仏分離で廃寺となり、存在しない。現在の大阪府堺市堺区甲斐町(ここ(グーグル・マップ・データ))にある古い神社である開口(あぐち)神社後に出る「開口(あくち)村」という村名と表記一致がその跡地の一部で、現在、この神社は実際、通称「大寺(おおてら)」と呼ばれている。「もとは住吉の別宮」とある通り、住吉神社はここから北北東に四キロメートルしか離れていないので、腑に落ちる。だから、後の本文で「南の莊(しやう)」とあるのである。また、ウィキの「開口神社」の記載も、住吉との因縁や以下の叙述を分かり易く説明している形になっているので引用する(下線やぶちゃん)。この開口神社は『塩土老翁神(しおつちのおじのかみ)、素盞嗚神(すさのおのかみ)、生国魂神(いくくにたまのかみ)を祀る。塩土老翁神は住吉大社の住吉三神を一つにして神徳を現した神とされ、「住吉の奥の院」と呼ばれる』。『社伝には、神功皇后の三韓征伐の帰途、この地に塩土老翁神を祀るべしとの勅願により創建されたと伝える』。『延喜式神名帳に和泉国大鳥郡』二十四『座のうちの一社として記載されていて、この延喜式神名帳では「開口」を「アキクチ」と読ませている。この「アキクチ」が訛って「アグチ」となって現在に至る。摂津の住吉神社と古くから関係が深く』、天平三(七三一)年の『記録では「開口水門姫(あきぐちみなとひめ)神社」と書かれている』。承平二(九三二)年には『神階が正五位上まで昇った。古代から中世にかけて、当社付近は開口村と呼ばれていた』。天永四(一一一三)年、『原村の素盞嗚命、木戸村の生国魂命を合祀し、「開口三村大明神」と呼ばれ、崇敬されるようになった』十二世紀になって『境内に念仏寺が創建され、両者とも津守氏』(つもりうじ:住吉大社の歴代宮司の一族で、古代以来の系譜を持つ)『の支配下にあったが、堺が商業港として発展し、商人勢力が台頭してくると、商人たちの自治に支えられるようになった。南北朝内乱時代の』康応元/元中六(一三八九)年に『豪商野遠屋周阿弥が田地を寄付して以来、田地の寄進が相次いだ』。天文四(一五三五)年には『念仏寺の築地修理料として堺南荘の豪商』百十『余名が一人当て一貫文ずつの銭を寄進しているが、このなかには茶人の』『千利休(「せん与四郎」名義)、奈良春日神社の石灯籠にも名を残す魚屋弥次郎といった有名人の名も記されている。これら豪商から選ばれた』十『数人が納屋衆、会合衆となって堺の自治組織の運営に当たり、開口神社の祭礼で重職を勤めたのであ』あった。さて、ずっと後の太平洋戦争中のこと、昭和二〇(一九四五)年七月十日未明の堺大空襲により、本殿と、ここまで大念仏寺の縁(よすが)として残っていた寛文三(一六六三)年建立の三重塔を含め、悉く焼失しでしまった。が、『貴重な記録類は被害を免れた』。『南側には宿院があり、住吉大祭の神輿の旅所となっている』。『通称の「大寺」は』、『かつて存在した神宮寺の念仏寺(真言宗)に由来し』、神仏習合の本地垂迹『思想に依っている』。念仏寺開山は行基で天平一六(七四四)年、山号を密乗山と称した。『平安期には空海や空也とゆかりがあり、密教や浄土教の道場にもなって活況を呈したことから、大寺の通称が定着するに至った』とある。また、写真家堀野満夫氏のブログ「カメラとビデオを棒にくっつけて」の「初詣:開口神社の歴史は堺の歴史なんですね(堺市2014年1月3日)」によれば、『奈良時代中期に仏教が盛んになると、当時ご在位していた聖武天皇が行基上人に勅して、この地(三村大明神)に道場を建立し、蜜乗山大念仏寺(俗呼んで大寺)と号した』とあり、『創建当時は、金堂、三重宝塔(本尊大日如来・聖徳太子御作の四天王)、鐘楼、食堂(じきどう)、などのある堂々たるもので、その後も長い歴史をもつお寺として信仰を集めていた』という。『ところが、戦国時代の大阪の陣で全焼してしま』ったが、『その後』、『江戸時代の四代将軍の家綱の治世』の明暦元(一六五五)年、『社殿を復興』、寛文二(一六六二)年に『三重塔が竣工され、多聞院、五大院、遍照院、虚空蔵院、明王院、宝生院などの諸院が存在してい』た。『江戸後期になると、大寺と三村明神は一体であり、三村明神を含めて大寺であったことがわかる絵図が存在』するとある。『明治時代になると、維新の神仏分離によって、蜜乗山大念仏寺(俗呼んで大寺)は廃寺とな』ったが、三重塔は『破壊を免れ、健在で』あったが、以上に記されたように、太平洋戦争中末期の空襲で焼失してしまったとある。さらに、私の「新編鎌倉志卷之一」でお世話になったs_minaga
氏の「がらくた置場」の「和泉大寺(念仏寺・大念仏寺・開口大明神・三村大明神)三重塔」に同寺の沿革(廃仏毀釈の惨状に至る部分も含む)が非常に細かく記載されてあり、必見であるが、そこには堀野氏の言う同寺の盛んだった江戸期の絵図(「住吉名勝圖會」巻之五。『聖武天皇代、行基上人に勅して、この地(三村大明神)に道場を建立したまひ、蜜乗山大念仏寺と号す。俗呼んで大寺と称す。金堂、三重宝塔(本尊大日如来・聖徳太子御作の四天王)、鐘楼、食堂』、『薬師堂衆徒』六坊云々の引用有り)もある。こちら。是非、一見されたい。第四五代天皇聖武天皇(大宝元(七〇一)年~天平勝宝八(七五六)年)の在位は神亀元(七二四)年~天平勝宝元(七四九)年である。]

 もとは住吉の別宮(べつぐう)にして、南の莊(しやう)におゐては木戸村・原村・開口村(あくちむら)、この三ケ村の氏神なるが故、三村大明神(みむらだいみやうじん)と號し、鹽筒(しほつつ)の翁を勸請の地なり。

[やぶちゃん注:「鹽筒(しほつつ)の翁」ウィキの「シオツチノオジ」によれば(一部の記号を変更した)、『シオツチノオジ(シホツチノヲヂ)は、日本神話に登場する神であり塩竈明神とも言う。「古事記」では塩椎神(しおつちのかみ)、「日本書紀」では塩土老翁・塩筒老翁、「先代旧事本紀」では塩土老翁と表記する。別名、事勝国勝長狭神(ことかつくにかつながさ)』。『名前の「シホツチ」は「潮つ霊」「潮つ路」であり、潮流を司る神、航海の神と解釈する説もある。「記紀」神話におけるシオツチノオジは、登場人物に情報を提供し、とるべき行動を示すという重要な役割を持っている。海辺に現れた神が知恵を授けるという説話には、ギリシア神話などに登場する「海の老人」との類似が見られる。また、シオツチノオジは製塩の神としても信仰されている。シオツチノオジを祀る神社の総本宮である鹽竈神社(宮城県塩竈市)の社伝では、武甕槌神と経津主神は、塩土老翁の先導で諸国を平定した後に塩竈にやってきたとする。武甕槌神と経津主神はすぐに去って行くが塩土老翁はこの地にとどまり、人々に漁業や製塩法を教えたという。白鬚神社の祭神とされていることもある』。『「日本書紀」の天孫降臨の説話において、日向の高千穂の峰に天降ったニニギが笠狭崎に至った時に事勝国勝長狭神が登場し、ニニギに自分の国を奉っている。一書では、事勝因勝長狭神の別名が塩土老翁で、イザナギの子であるとしている』。『海幸山幸の説話においては、ホデリ(海幸彦)の釣針を失くして悲嘆にくれるホオリ(山幸彦)の前に現れる。ホオリから事情を聞くと小舟(または目の詰まった竹籠)を出してホオリを乗せ、そのまま進めば良い潮路に乗って海神の宮に着くから、宮の前の木の上で待っていれば、あとは海神が良いようにしてくれると告げる』。『「日本書紀」本文の神武東征の記述では、塩筒老翁が東に良い土地があると言ったことから』、『神武天皇は東征を決意したとある』とある。]

 此寺の住僧たりし人を契宗(けいしう)とぞいひける。此法師はもと龜嶋の住人にて親族、なを、此所にありしが、ある時、此僧の兄七郞といひし人、かりそめに、

「風(かぜ)の心地。」

とて、うちふしけるが、傷寒(しやうかん)・鬼崇(きさう)のたぐひともしれず、只、發熱・煩燥(はんさう)して譫言(たはごと)つき、ひとへに狂氣の性(しやう)となりける故、彼(か)の契宗をよびむかへて、持念護持せしむ。

[やぶちゃん注:「契宗(けいしう)」不詳。

「龜嶋」恐らくは堺近辺の旧村名らしいが、不詳。識者の御教授を乞う

「傷寒(しやうかん)」漢方では、広義には、体外の環境変化によって経絡が侵された状態を、狭義には現在の腸チフスの類を指す、とされる。

「鬼崇(きさう)」妖異を記した諸書では「もののたたり」「おにのたたり」と訓じているものがある。しかし「崇」であって、「祟」ではない。或いは原著者の誤記かとも思われる。広義の物の怪の憑き物を指す語のようである。

「煩燥(はんさう)」いらいらして凝っとしていられない状態を指す。

「譫言(たはごと)」前の諸症状から見るなら、高熱による激しい「譫言」(うわごと)ともとれるが、直後に「ひとへに狂氣の性(しやう)となりける」とあるから、これはわけの分からない囈言(たわごと)を叫んでは騒ぎ立てているという意味でとるべきであろう。]

 契宗、兄にむかつて香を燒(た)き、印をむすびなどして、眞言陀羅尼を誦(じゆ)し、理趣分(りしゆぶん)を繰(くり)かけなどし、事々(ことごと)しくつとめけるに、彼(か)の兄、

「からから。」

と笑ひ、大(だい)の眼(まなこ)に、角(つの)をたて、

「汝は、是れ、三村の堂僧の身として、いらざる己(おの)が加持(かぢ)たて。早々、寺に歸り、勤(つとむ)べき寺務(じむ)をつとめよ。何ぞや、猥(みだ)りに神咒(しんじゆ)たてを行なひ、後(のち)に我をばし恨(うらむ)るな。吾がつねに住(すむ)所は小林寺(しやうりんじ)邊(へん)にあり。一年(ひととせ)、北の庄(せう)、祖父(おほぢ)が上(うへ)にあそびて、地藏の首をきらせたるも、我(われ)なり。あるひは目口町(めくちまち)にありける比(ころ)は鼠樓栗新左衞門(そろりしんざゑもん)に本走(ほんさう)せられ、其(その)恩を見たる事、あげてかぞへがたし。此ゆへに、鼠樓栗を引きたてゝ太閤秀吉の御(おん)まへに出だし、鞘細工(さやざいく)の名譽と辯口(べんかう)の利たるを御意(ぎよい)にいれ、一生、活計(かつけい)にくらさせしも、我がちから也。それのみならず、狂言師にて名高かりける今春座(こんぱるざ)大藏彌太郞(おほくらやたらう)といひしは、伊賀の國靑野(あをの)の城主嶋岡彈正(しまおかだんじやう)が一子(いつし)にて、北畠殿(きたばたけどの)の旗本なりけるが、此家、沒落已後、大倉かたへ養(やしなひ)ひとり、四郞次郞が子とす。此(この)彌太郞、宇治に居住(きよぢう)しける比(ころ)、不圖(ふと)、我を見初(みそ)め、信をおこしけるより、彼(かれ)が家の祕事とする「釣狐(つりぎつね)」・「こんくわい」の狂言に妙を得させ、大倉派にて宇治の彌太郞といはせしも、我(われ)なるぞかし。今、汝が家(いへ)、宿善の催す所にして繁昌にむかふがゆへに、此(この)富貴(ふつき)を愛して、吾(われ)、しばらく、足をとゞむるぞ。よくつとめて、吾を信ぜば、いよいよ大きなる富貴(ふうき[やぶちゃん注:読みの違いはママ。])を得べし。あしくもてなさば、却(かへつ)て、われ、大きなる妨げを、なさんずるぞ。」

と、罵りけるにつきて、契宗も、

「扨は。年經(としへ)たる狐歟(か)、古狸(ふるたぬき)の所爲(しよい)ぞ。」

と知り、桃符(たうふ)を造り、桃の枝を禁(きん)じて、口には神咒(しんじゆ)を唱へ、しきりに擊ちければ、病人は、いよいよ嘲笑(あざわら)ひて、いふやう、

「汝、兄を打つ事、道に違(たが)へり。神明(しんめい)、まさに汝を罪におとさんとし給ふ。たとひ、力を加ふとも、止(とゞま)る事、あるべからず。見よ見よ。」

といはれ、空(そら)おそろしくなりて、そろそろと、尻ごみの體(てい)に見えける時、病者は勝(かつ)に乘じ、俄(にはか)に立ちあがり、其母の手をとりて引き立(たつ)ると見えしが、忽ち、中惡(ちうあく)の性(しやう)を病み出だし、卒(にはか)に倒れ、氣をとりうしなひ、散々に煩(わづら)ひける中(うち)に、又、妻の手を取りて援(ひ)くとぞ見えし、卒(にはか)に、その妻、頓死して失せぬ。又、はしりかゝりて、猶、その弟をひかんとす。弟媛(おとうとよめ)、あはてゝ取りさゆるとて、目を見あはせしが、眼つぶれて、物を見る事、あたはず。

[やぶちゃん注:「眞言陀羅尼」密教の、短い呪文を「真言」と称し、長い呪文の方を「陀羅尼」と呼ぶ。梵語(サンスクリット語)そのままに音写したもの。

「理趣分(りしゆぶん)」理趣分は「大般若経」六百巻の中でも、読誦の功徳を強調した「般若波羅蜜多理趣百五十頌(はんにゃはらみったりしゅひゃくごじゅうじゅ)」のことで、真言密教では毎日の読誦として重用される経典である。通常の「大般若経」全体は厖大なので、所謂、「転読」(衆僧が大勢でバラバラとめくって読んだことにする方式)するのであるが、この「理趣経」日常の勤行でも真読される程度の分量のものであり、「繰(くり)かけなどし」(「繰り懸く」は「繰り返してかける・何度もかける」の意)という謂いから、何度も繰り返し読誦したことを意味していると読む。

「事々(ことごと)しく」大袈裟に・ものものしく・仰々しく・威厳や威力を感じさせるように、の意。

「神咒(しんじゆ)たて」「だて」と濁ってもよかろう。これで一語の名詞である。「神咒」は摩訶不思議な呪文の意であり、この場合は陀羅尼を指し、それを声高らかに荘重に権威を持って「立て」ること、朗誦することを指す。

「我をばし恨(うらむ)るな」「ばし」は中世に発生した副助詞。係助詞「は」+副助詞「し」が「ばし」と変化して一語となったもので、会話文に多い。体言・格助詞「に」「を」「と」・接続助詞「て」に付いて強調を表わす。

「少林寺」現在の大阪府堺市堺区少林寺町東にある臨済宗萬年山少林寺。ウィキの「少林寺」によれば、南北朝の弘和元/永徳元(一三八一)年に『塔頭耕雲庵の住持白蔵主が、鎮守稲荷明神に參籠して「霊狐」を得る。そして狂言大蔵流の始祖・霊狐の所作を狂言に作り』「釣狐」(後注参照)として上演し、『それ以後、狂言や歌舞伎関係者は』「釣狐」を『上演する際は少林寺に參詣し、技芸の上達上演の成功を祈願』し、『寺内の逆芽竹を』一『本』、『祈祷してもらった上で持ち帰り、上演の時の杖に使用する慣習になっている』とある。

「北の庄(せう)」不詳。これを漠然とした少林寺の北の方の地とすれば、そこにはこの物の怪の「祖父(おほぢ)」が住んでいるというのだから、後で物の怪があたかも妖狐(事実そうかどうかは私は微妙に留保したい。それは後で考証する)であるかのように語り出すところから、これは堺の北に当たる「伏見稲荷大社」であるように読める。さらに、そこで「地藏の首」が斬られてあった(私は不詳。但し、鎌倉の「百八やぐら」にある地蔵像は首を掻き斬られたものが多い。これは江戸時代、地蔵の首を懐に忍ばせて賭場に行くと大勝ちできるというジンクスがあったためであるから、地蔵首切事件は私には少しも猟奇的事件ではないと言っておく)ということが、少なくとも、京阪の読者には「ああ! 伏見稲荷や!」とか「あの事件やろ!」と思わせるものであったことが窺われることが推理出来る

「目口町(めくちまち)」不詳。識者の御教授を乞う。

「鼠樓栗新左衞門(そろりしんざゑもん)」和泉生まれとされる安土・桃山時代の諧謔家「曾呂利新左衞門」(?~慶長八(一六〇三)年?)の妖しいモデルを誤魔化すための表記のズラし。実在は疑われている。伝承では堺で刀の鞘師を生業(なりわい)としていたとされ、彼の作った鞘は、刀を小口に差入れると、抵抗なくそのまま「そろり」っと入ったことから、この名を称したという。のこと。豊臣秀吉に御伽衆として仕えたとされ、落語家の始祖ともされる。ウィキの「曽呂利新左衛門によれば、『架空の人物と言う説や、実在したが』、『逸話は後世の創作という説がある。また、茶人で落語家の祖とされる安楽庵策伝と同一人物とも言われる』。『茶道を武野紹鴎に学び、香道や和歌にも通じていたという』。「時慶卿記」には『曽呂利が豊臣秀次の茶会に出席した記述がみられるなど』「雨窓閑話」「半日閑話」等の江戸期の随筆には実在したように記録が載る。『本名は杉森彦右衛門で、坂内宗拾と名乗ったともいう』。『大阪府堺市堺区市之町東には新左衛門の屋敷跡の碑が建てられており、堺市内の長栄山妙法寺には墓がある。没年は』他に慶長二(一五九七)年・寛永一九(一六四二)年とする説がある。彼に仮託した「曾呂利物語」(寛文三(一六六三)年開板で、近世初期の怪談集の代表的な一冊として、当時からよく読まれた。謂わば、筆者鷺水にしてみれば、先行する怪談集の大先生というわけで、ここにかく登場させたのも、そうした受けを確信犯で狙ったものと考えられる。

「本走(ほんさう)せられ」「奔走」であるが、ここでは「大切にすること・かわいがること」の意で、曽呂利がたいそう私を可愛がって大事に世話してくれた、というのである。彼の御伽話のネタを提供したり、或いは、彼がデッチアゲた法螺話を立証するような仕儀を、その妖術を用いて、会衆にして見せたりしたものかも知れない。面白い関係性である

「其(その)恩を見たる事」曽呂利から恩を受けたこと。

「御意(ぎよい)にいれ」太閤さまの気に入らせ。

「活計(かつけい)」裕福。

「今春座(こんぱるざ)大藏彌太郞(おほくらやたらう)」狂言の流派の一つである大蔵流(現在、猿楽の本流である大和猿楽系の狂言を伝える唯一の流派とされる)。ウィキの「大蔵流」によれば、『代々』、『金春座で狂言を務めた大蔵彌右衛門家が室町後期に創流した。江戸時代には鷺流とともに幕府御用を務めたが、狂言方としての序列は』二『位と、鷺流の後塵を拝した。宗家は大蔵彌右衛門家。分家に大蔵八右衛門家(分家筆頭。幕府序列』三『位)、大蔵彌太夫家、大蔵彌惣右衛門家があった。大蔵長太夫家や京都の茂山千五郎家、茂山忠三郎家をはじめとして弟子家も多く、観世座以外の諸座の狂言のほとんどは大蔵流が務めていた』とある。「大蔵彌右衛門家」の項。『家伝によれば、大蔵流は』十四『世紀に後醍醐天皇の侍講を務めていた比叡山の学僧・玄恵法印を流祖とする。玄恵は戦争の打ち続く不安定な時代において、立派な人格の養成と人としての生きる道を説くために狂言を創始したという。その狂言は坂本在住で近江猿楽の猿楽師であった二世・日吉彌兵衛に伝えられ、三世・彌太郎、四世・彌次兵衛、五世・彌右衛門と受け継がれた』。『六世・彌太郎の代には大和猿楽金春座に属し、七世・彌右衛門の後に世阿彌の外孫にあたる八世・金春四郎次郎が芸系を受け継いだ。四郎次郎の死後、吉野猿楽出身の日吉万五郎が一時家を継いだが、最終的には養子の宇治彌太郎が』九『世を継ぎ、十世・彌右衛門の代に「大蔵」と姓を改めた。十一世・彌右衛門は織田信長より虎の字を拝領し虎政と名乗り、その子』十二『世・彌右衛門は虎清と名乗り』、『豊臣秀吉・徳川家康に仕えた。十三世・彌右衛門虎明(とらあきら)は』、万治三(一六六〇)年、『大蔵流最古の狂言伝書』「わらんべ草」を著わし、元禄七(一六九四)年になると、『五代将軍徳川綱吉の上意により』、『江戸屋敷を拝領し、それまでの奈良住まいから江戸住まいとなった』とある。本「御伽百物語」は宝永三(一七〇六)年に江戸で開版であるから、この頃、大蔵流はこの世の春を謳歌しており、読者もよく知った狂言一派であった。鷺水の人物の使い方の上手さが判る。『その後も二十二世・彌太郎虎年まで代々幕府の俸禄を受け、最古の伝統を持つ大蔵流の宗家として狂言を着々と守り続け』たとある。明治維新後の苦難の道のりはリンク先で読まれたい。

「伊賀の國靑野(あをの)の城主嶋岡彈正(しまおかだんじやう)」不詳。伊賀上野城なら知っているが、「城主」に「嶋岡」はいない。識者の御教授を乞う。これも物の怪の語りであるから、表現(表記)に特異なズラシがある(物の怪が人間の言葉とは異なる言語を用い、表記もわざと変えることは、この手の物の怪譚・妖狐譚では非常によく見られる現象である)のかも知れぬが、私は近世史に疎く、不詳である。

「北畠殿(きたばたけどの)」村上源氏中院家庶流の公家で、南北朝時代の南朝の忠臣として重きをなし、伊勢国に進出して南北朝合一後も国司として勢力を保ち、公家大名・戦国大名として戦国時代まで命脈を保った北畠氏で、関係性とロケーション(伊賀)としては腑に落ちる。

「釣狐(つりぎつね)」狂言の妖狐物の演目。「こんくわい」は「吼噦(こんかい)」で「釣狐」の鷺流で名称(「吼噦」とは狐の鳴き声を表すオノマトペイア。「こんこん」。転じて狐のことをも指す)。ウィキの「釣狐」より引く。『大蔵流では極重習、和泉流では大習と重んじられている』。『「猿に始まり、狐に終わる」という言葉があり、これは』「靭猿(うつぼざる)」の『猿役で初舞台を踏んだ狂言師が』、「釣狐」の『狐役を演じて初めて』、『一人前として認められるという意味である』『白蔵主』(はくそうず:前の「少林寺」の注を参照)『の伝説を元に作られたとされて』いる。シテは「老狐」で、アドは「猟師」である。「あらすじ」の項。『猟師に一族を』、皆、『釣り取られた老狐が、猟師の伯父の白蔵主という僧に化けて猟師のもとへ行く。白蔵主は妖狐玉藻の前の伝説を用いて狐の祟りの恐ろしさを説き、猟師に狐釣りをやめさせる。その帰路、猟師が捨てた狐釣りの罠の餌である鼠の油揚げを見つけ、遂にその誘惑に負けてしまい、化け衣装を脱ぎ』、『身軽になって出直そうとする。それに気付いた猟師は』、『罠を仕掛けて待ち受ける。本性を現して戻って来た狐が罠にかかるが、最後はなんとか罠を外して逃げていく』というストーリーである。

「大倉派にて宇治の彌太郞」大蔵流第九代に宇治彌太郎政信なる人物が実在する。時制がずっと溯るけれども、それはそれ、物の怪は驚くべき長命だからね。

「桃符(たうふ)」中国で陰暦の元旦に門に掲げる魔除けの札。神仙の果樹である桃の木の板に、百鬼を食べるとされる二神の像や吉祥の文字を書いたもの。

「桃の枝を禁(きん)じて」前注でも判る通り、古くから桃は邪気を払うと信じられた聖樹であり、ここはその枝で作って呪噤(じゅごん)を掛けて神聖化した枝である。それを持って物の怪の憑いた兄を「しきりに擊」ったのである。

「そろそろと」「尻ごみ」、後じさりする様子。これは調伏者としては、非常にマズい。

「勝(かつ)に乘じ」勝に乗じて。兄の内部の憑き物が「勝った!」と勢い込んで。

「中惡(ちうあく)の性(しやう)」中風(ちゅうふう/ちゅうぶう)の症状を呈したのであろう。一般には脳卒中の発作の後遺症で主に半身不随となる状態を指すが、ここは激しい痙攣や震えを指していよう。

「妻」病者の兄の連れ合いである妻。

「頓死して失せぬ」失神して意識を失ってしまった。

「その弟」病者の兄の弟であるが、ここは。契宗の次兄か。

「取りさゆるとて」兄を取り押さえようとして。

「目を見あはせしが」兄とである。]

 日を經て、何(いづ)れも元のごとくに平癒して、常に、かはる所、なし。

 又、契宗にむかひて、いふやう、

「吾が此(この)神變(しんぺん)あるを見ながら、汝、なを、寺に歸らず。よしよし。今は我が眷屬共(ども)を呼びよせて、汝が加持の妨げをなさんずるぞ。」

とて、ひたと、招くやうにしければ、常の鼠より大きなる鼠ども、幾等ともなく、かけ出でて、馳せめぐる音、おびたゞし。人、杖を以(もつ)て追へども、恐れず。夜一夜(よひとよ)、さはがしく驅けありき、夜明けて見るに、さらに一疋も見えず。

[やぶちゃん注:「ひたと」頻りに。無暗に。そこらじゅうに向かって一途に。]

 契宗も隨分と加持しけれども、大かた、此比(このごろ)は、心疲れ、氣力倦(う)みて、おそろしさも、いや、まさり、吾も、終には此ものにとられつべう、おぼへけるまゝに、

『よしや、兄を殺す罪は、さもあらば、あれ。今は我が命さへあやうきなれば、鬼魅(きみ)や退(しりぞ)く、吾や、とらるゝ。』

と、むねを定めて、身命(しんめう)をおしまずし、不動の慈救咒(じくじゆ)・大悲咒(だいひじゆ)、くりかけ、くりかけ、九字を切りなどして、油斷もなく祈りければ、病者、又、いふやう、

「いらぬ精氣を盡し、手足をもがき、事々しく祈りまはれども、吾は曾て恐るゝ氣、なし。我、その證據に大兄(おほあに)を呼び寄せ、二、三日も遊ばしめんと思ふ也。」

と、大きなる聲を出だし、

「寒月、寒月。」

と三聲(こへ)、呼びければ、病人の裾より、狸の大きさなる獸の、毛色は火の如く赤きが、眼(まなこ)の光(ひかり)、日月(じつげつ)のごとくにて、這ひ出でたり。

[やぶちゃん注:「むねを定めて」「胸を定めて」胸中に覚悟を決めて。

「不動の慈救咒(じくじゆ)・大悲咒(だいひじゆ)」「慈救咒」は「中咒」とも呼ばれる不動明王の真言の一つで、中間の長さのもの。ウィキの「不道明王」から引く。「ノウマク サンマンダ バサラダン センダンマカロシャダヤ ソハタヤ ウンタラタ カンマン」。「大悲咒」は不動明王の長い真言である「大咒(たいしゅ)」或いは「火界咒(かかいしゅ)」と呼ばれる真言であろう。「ノウマク サラバタタギャテイビャク サラバボッケイビャク サラバタタラタ センダマカロシャダ ケンギャキギャキ サラバビギナン ウンタラタ カンマン」。一般に知られ、「不動真言」と呼ばれる短いものは「小咒」「一字咒(いちじしゅ)」で、「ノウマク サンマンダ バザラダン カン」である。孰れも意味は「激しい大いなる怒りの相(すがた)を示される不動明王よ! 迷いを打ち砕き給え! 障りを除き給え! 所願を成就せしめたまえ! カンマン!」の謂いらしい(「カンマン」は不動明王を象徴する一音節の呪文(「種子(しゅじ)」と呼ぶ))。図でも、契宗が壇を構えて祀っているのは不動明王の尊像である。因みに、私の守護尊は生年月日からは不動明王だそうである。

「九字」九字護身法(くじごしんぼう)。「臨・兵・鬪・者・皆・陣・烈・在・前」の九字の呪文と九種類の印によって、除災・戦勝などを祈る作法。但し、本来は仏教(特に密教)で正当に伝えられた作法ではなく、道教の「六甲秘呪」という九字の呪法が修験道などに混入・集合し、そ例外の周辺的なさまざまな呪法が混在して生じた日本独自の作法である(ここはウィキの「九字護身法」を参照した)。

を切りなどして、油斷もなく祈りければ、病者、又、いふやう、

「大兄(おほあに)」この物の怪の兄貴分に当たるモンスター。「寒月」はその名。

「寒月、寒月」繰り返しが二回なのはママ。というより、「三聲(こへ)」であったからといって、三度、馬鹿正直に書かれていると、怪奇は薄れる。「カンゲツ……カンゲツ……」の響きは、七十年後の(本「御伽百物語」は宝永三(一七〇六)年開版)上田秋成の「雨月物語」(安永五(一七七六)年刊)の「白峯」の「圓位、圓位」(ヱンヰ……ヱンヰ……)に響き合う、聴覚的な不気味さを持つ。

「病人の裾より、狸の大きさなる獸の、毛色は火の如く赤きが、眼(まなこ)の光(ひかり)、日月(じつげつ)のごとくにて、這ひ出でたり」裾から出現するということは、実は出現する前のそ奴は細く小さいことが判る。さらに、挿絵を見ても判るが、これは狐ではなく、まさに年経た大狸(おおだぬき)以外の何ものでもない私がこの兄にとり憑いた「物の怪」を安易に妖狐とすることに躊躇するのは、ここにあるのである。狐は間抜けな狸を人を馬鹿すに際して手下として使役することがないことはないが、まず、極めて珍しい。寧ろ、どこか愚鈍で抜けたところがあり、化け損なって失敗したり、死んだりすることが非常に多い「化け狸」は、狡猾で人を騙すことにかけては剃刀の如く、死に至らしめるのも躊躇しない妖狐とは、相性が頗るよくないとさえ言えるのである。されば、私には、このナマケモノ見たような怪物が、この「物の怪」の兄貴分には到底思えないのである。では何か?――この「物の怪」を養えば裕福になるというのは本人が言っているのが一つのポイント(無論、狐・稲荷信仰でもそうではあるが)――さらに――私は「裾」から出てきたところに着目する――それは普段は細い細い管のような形(なり)をしているのではないか? だから袖から出られるのだ!――そうだ! キツネはキツネでもこれは実は狐ではない「クダギツネ」なのではなかろうか? 「管狐(くだぎつね)」だ! ウィキの「管狐から引いておく。こ奴は『日本の伝承上における憑き物の一種で』、『長野県をはじめとする中部地方』を中心に、主に西日本に『伝わっており、東海地方、関東地方南部、東北地方などの一部にも伝承がある』。『関東では千葉県や神奈川県を除いて』、『管狐の伝承は無いが、これは関東がオサキ』(オサキギツネ。伝承の多くは遙かに妖狐性(キツネ性)が強い)『の勢力圏だからといわれる』。『名前の通りに竹筒の中に入ってしまうほどの大きさ』、『またはマッチ箱くらいの大きさで』七十五『匹に増える動物などと、様々な伝承がある』。『別名、飯綱(いづな)、飯縄権現とも言い、新潟、中部地方、東北地方の霊能者や信州の飯綱使い(いづなつかい)などが持っていて、通力を具え、占術などに使用される。飯綱使いは、飯綱を操作して、予言など善なる宗教活動を行うのと同時に、依頼者の憎むべき人間に飯綱を飛ばして憑け、病気にさせるなどの悪なる活動をすると信じられている』。『狐憑きの一種として語られることもあり、地方によって管狐を有するとされる家は』「くだ持ち」・「くだ屋」「くだ使い」・「くだしょう」『と呼ばれて忌み嫌われた。管狐は個人ではなく』、『家に憑くものとの伝承が多いが』、オサキキツネなどが、『家の主人が意図しなくても』、『勝手に行動するのに対し、管狐の場合は主人の「使う」という意図のもとに管狐が行動することが特徴と考えられている』。『管狐は主人の意思に応じて』、『他家から品物を調達するため、管狐を飼う家は次第に裕福になるといわれるが』、『初めのうちは家が裕福になるものの、管狐は』七十五『匹にも増えるので、やがては食いつぶされ』、『家が衰えるともいわれている』とある。私は管狐フリークで、いろいろな場面で解説している。だから、ある意味、私は管狐の同類なのだ。だからこそ、どうもこ奴、それらしいと「臭う」のである。]

 契宗、やがて、壇上に立てたりし利劒を以(もつ)て飛びかゝり、

「はた。」

と、切る。

 きられて、終にかけ出だし、表をさして逃げるを、契宗、續きて追つかけけるが、彼のひかり物は、むかふへ逃げのびたれども、何やらん、黑きもの壹(ひと)つ、そばなる壺の中へはしり入りしを見とがめ、契宗、やがて、此つぼの口を堅く封じ、三日三夜、おこなひすまして後(のち)、ひらき見るに、そのかたちは、かはらず。そのまゝの獸(けもの)にて、鉄(くろがね)のやうなる、すさまじき毛ありて、動かず。

 あまり、おそろしさに、油をつぎかけ、壺のふたを堅く封じて、火をもつて、煎り殺しぬ。

 是れより、彼(か)の病人、ほどなく病愈(やまひい)ゑて、また、平生(へいせい)にかはらずとかや。

[やぶちゃん注:一ヶ所、「契宗、やがて、壇上に立てたりし利劒を以(もつ)て飛びかゝり、」「はた。」「と、切る。」「きられて、終にかけ出だし、……」の箇所であるが、底本では、

   *

契宗やがて壇上に立(たち)たりし利劒を以て飛びかゝり。はたと切られて終にかけ出(いだ)し。

   *

となっている。原典(「早稲田大学古典総合データベース」の同当該部の画像)を確認すると、

   *

契宗やかて壇上に立たりし利劒を以て飛かゝりはたと切きられて終にかけ出し

   *

と読める。「切きられて」は不審だが、事実、昭和六〇(一九八五)年ゆまに書房刊・小川武彦編「国文学資料文庫三十四 青木鷺水集 第四巻」では、かく翻刻されているから、私の判読は誤りではない。しかし、これではせっかくのクライマックスがギクシャクして、ダイナシとなってしまう。そこで、昭和六二(一九八七)年国書刊行会刊・太刀川清校訂「叢書江戸文庫二 百物語怪談集成」を見ると(本書は私と同じ帝国文庫版を底本としつつも、長野県短期大学付属図書館蔵本と校合してある

   *

契宗やがて壇上に立てたりし利劒を以て飛びかゝり、はたと切る。きられて、終にかけ出だし、

   *

となっていて、動的シチュエーションが実にスムースで、映像的に全く問題がない。そこで、特異的に以上の剣を揮ってシーンに化け物を切り、化け物が逃げるシーンに関してのみは「叢書江戸文庫二 百物語怪談集成」版本文を加工底本に採用した

「彼のひかり物は、むかふへ逃げのびたれども」ここで一気に大狸野郎は光球化する。ここは妖狐玉藻前っぽくはあるね。

「そのまゝの獸(けもの)にて、鉄(くろがね)のやうなる、すさまじき毛ありて、動かず」ここは妖狐らしくなく、壺の底に固まるほどに小さくなっているところは寧ろ、管狐っぽいのである。]

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