子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十九年 『日本人』の筆陣
『日本人』の筆陣
二十九年後半は『日本』に文を草する傍(かたわら)、しばしば他の紙上にも筆を揮った。『東西南北』の序とか、「俳句返却届」とかいうような短いものもあり、『世界の日本』に掲げた「我が俳句」(美の客観的観察、美の主観的観察)のように二回にわたるものもあったが、最もめざましかったのは『日本人』誌上における活動である。その一は「文学」という文芸時評で、これには越智処之助(おちところのすけ)の名を用いた。当時の文芸時評なるものは、一般に小説戯曲に重きを置き、韻文は全く顧みられぬ状態であったのを、居士は漢詩、和歌、俳句、新体詩等の作品にも詳評を下し、「小説を評して韻文を評せざる者多きに對して權衡(けんこう)を保たん」とした。その二は竹(たけ)の里人(さとびと)の名を用いた新体詩で、闌更(らんこう)の句にヒントを得た「鹿笛」一篇にはじまる。『日本人』は毎月五日、二十日の二回発行であったが、居士は殆ど毎号欠かさずに両種の原稿を掲げて行った。
[やぶちゃん注:「『東西南北』の序」この部分の宵曲の書き方というか、底本の表記の仕方は頗るよろしくない。「しばしば他の紙上にも筆を揮った」とした直後に「『東西南北』の序とか」と記しているが、これでは、若い読者の多くは『東西南北』とはどんな新聞・雑誌だろうと思うこと必定である。「東西南北」は新聞でも雑誌でもない。明治二九(一八九六)年七月十日明治書院刊の與謝野鐵幹著の「虎剣流」と呼ばれた国家主義的悲憤慷慨調の詩歌集「東西南北」である。子規の序文は「青空文庫」のこちらで正字正仮名で読める。知らない方が悪いって? 私は若き日にこの詩集を読み、数ページにして吐酒噴飯して投げ放ち、今は書庫の下敷きとなって紙魚に食われている。というより、彼の詩を読もうという若者は今や、殆んどいないし、本屋の店頭には売られていないよ。
「權衡(けんこう)」均衡。吊り合い。これで「からばかり」と読んで「柄秤」「唐秤」、秤(はかり)の意味もある。元々が、秤の錘(おもり)と竿のことだからである。
『新体詩』『闌更(らんこう)の句にヒントを得た「鹿笛」一篇にはじまる』「闌更」は江戸中後期の俳人高桑闌更(享保一一(一七二六)年~寛政一〇(一七九八)年)。生家は加賀金沢の商家。名は正保或いは忠保。蕉風復古を唱え、京で芭蕉堂を営んだ。寛政五年には二条家より「花の本」宗匠の号を免許された。正岡子規の明治二九()年八月五日『日本人』発表の新体詩「鹿笛」は高桑闌更の一句、
鹿笛に谷川渡る音せわし
に深く打たれた子規が、それを句の詩想を換骨奪胎・敷衍拡張した、七五調を基調としつつも字余り・字足らず多用した、実に百二行にも及ぶ長詩である。国立国会図書館デジタルコレクションの「子規全集第六巻」(アルス刊)の画像のここから視認出来る。]
居士は「文学」において鳴雪、飄亭、碧梧桐、虚子四家の評論を試みた。後年「俳諧叢書」の一として刊行された『俳句界四年間』の附録についているのがそれである。居士が自家の陣営を検討し、個人的に俳句を論じたのはこれを以て最初とする。文芸批評家は韻文を問題にせず、たまたま問題にする者があったにしても、俳句などを取上げることは絶対にない。居士が鳴雪翁以下の作品について詳論を試みたのは、当時としては正に破天荒の出来事で、これらの作家を世に紹介すると同時に、いわゆる新派俳句発達の径路を明にしたものでもあった。古白は已に逝き、非風は文学の天地を離れている。当時の居士の身辺から最も有力なる作家を挙げるとすれば、公平に見てこの四家を推すより外はなかったろうと思う。
和歌における新派の勢力もいまだ微々として振わなかった。『日本』紙上における歌論なるものが、概ね海上(うながみ)派と御歌所(おんうたどころ)派との応酬に限られていたのを見ても、その一斑を知るべきであろう。この間において居士が『東西南北』を挙げ、「今の世に歌ありやと言ふ者あらば心ならずも『東西南北』を示さん。今の世に新体詩ありやと言ふ者あらば心ならずも『東西南北』を示さん。著者鉄幹は自ら文学者を以て居らざる者、その者の著を以て韻文界の啓明と目することむしろ文学の恥辱なり。然れども吾人(ごじん)はこれに勝る者を見ざる間は『東西南北』を以て好となさゞるを得ず。著者は言語音調の上に一種の妙処を有せり。殊に豪壮なる感を起さしむるに適当なる調子を善くせり」といったのは、新に興るものの価値をよく認め、その特色を十分に理解していたのである。しかし居士は単純なる『東西南北』の讃美着ではなかった。『東西南北』を非難する者の多い中に、衆口一斉に賞揚する「乞食(こじき)らが著(き)すてし野邊の朽ちむしろくち目よりさへ咲くすみれかな」の歌の如きは全く悪歌だとしていた。この歌の趣向において見るべきものは、朽筵(くちむしろ)に董(すみれ)の咲いている光景にあるので、それが誰のものであったかを穿鑿する必要はない、「乞食らが著すてし」ということは蛇足である、朽筵のあたりに董が咲くとか、董が咲いている中に筵が朽ちているとかいうだけでいいのに、朽目といったのは殊更で面白くない、「さへ」の表は殊に拙なるもので、この表のためにこの歌は虚なる理窟となり、従って無味なものとなっている、というのである。この種の解剖的批評に至っては、後年の歌論に用いた筆法と全く変りがない。「文学」の中にはこういう議論も含まれているのである。
新体詩に用いられた材料にも、自ら世間流行の作品と趣を異(こと)にするものがあった。「父の墓」「園の秋」「金州雑詩」「病の窓」などの諸篇は、居士の世界が取入れられている点で興味があるが、大体において人事的曲折に乏しく、自然の空気に富んでいるのは、俳諧趣味の延長というよりも、「人間よりは花鳥風月がすき也」といった居士の性格の現れであろう。
「文学」は十方二十日号限りで、後が出なくなった。この月初以来、胃痙(いけい)[やぶちゃん注:胃痙攣。]を病んで「松蘿玉液」その他の筆をも全く抛っているから、多分そのためであろう。「病の窓」という新体詩は、この病が漸くきたった後に成ったのである。
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