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2018/03/30

北條九代記 卷第十二 三位殿局 付 東宮立

 

      〇三位殿局  東宮立(だち)

同年八月三日、後西園寺太政大臣實兼(さねかぬ)公の御娘、中宮となり給ふ。西園寺家は、承久の役より以來(このかた)、相州、代々尊崇して、他に替りて思はれける故に、この家より女御を立てらるる事。既に五代、皆、是、關東より計ひ申しける所なり。其比、安野(あのゝ)中將藤原公廉(きんかど)の娘廉子(かどこ)と聞えしは、三位殿の局とて、中宮の御方に候はれけるを、君、一度御覽ぜられしより、思召(おぼしめし)籠(こ)められ、御寵愛、斜(なゝめ)ならず。しかも此女房は、容色の優(いう)なるのみにあらず、善巧(べんけう)辨佞(べんえい)、總て睿慮(えいりよ)に先立ちて、才智、宮中を蔽ふ。君、愈(いよいよ)愛惑(めでまど)はせ給ひ、雪月花の遊宴、琴酒歌(きんしゅか)の會席にも、御傍(あたり)を立去り給はず。輦(てぐるま)を共にし、床(ゆか)を同じくして、果(はたし)て准后(じゆごう)の宣(せん)を下されしかば、光彩、始(はじめ)て門戸(もんこ)に輝き、権勢、今、宮墻(きうしやう)に開け、偏(ひとへ)に皇后元妃(げんひ)の如くなり。御前の評定、雜訴の御沙汰までも、准后の御口入(ごこうじゆ)とだに申せば、上卿(けい)、奉行も皆恐れて、非を理になして事を行ふ。心ある輩(ともがら)は、是ぞ亂根の萠(きざ)す所と、未然に禍(わざはひ)をぞ量りける。始(はじめ)、後嵯峨院の御遺詔(ごゆゐぜう)として、後深草、龜山兩院の間より、替る替(がは)る御位に卽(つ)き給ふ。是も關東の計(はからひ)なり。當帝(たうてい)後醍醐は、後宇多院御寵愛の皇子なれば、この君の御流(ながれ)こそ、天子の正統をば繼ぎ給ふべき御理運(りうん)なりと、諸卿(しよきやう)一同に思ひ奉り、卽ち、關東へ勅使を立てられ、後醍醐の皇子、恒良(ごうりやう)親王を春宮(とうぐう)に立參(たてまゐ)らせ、御位を讓らるべき由を仰遣(おほせつかは)されしかども、相摸守高時、更に肯(うけが)ひ奉らず、終に後二條院の皇子、邦良(くによしの)親王を太子に定め參らせたり。天下の政道、惣じて睿慮に任せら奉らず。萬事、皆、關東より計ひければ、君、深く逆鱗(げきりん)ましまし、高時が所行を憤(いきどほり)思召(おぼしめ)す。東夷(とうい)、権勢を逞(たくまし)くして、王道、陵廢(りようはい)に及ぶ事、時節を待ちて、變を伺ふ。君德、是、天理に契(かな)はば、神明(しんめい)、何ぞ捨て給はん。内に政理を修め、外に恩澤を布(ほどこ)し給ふには如(しか)じ、と諫言を奉る老臣もあり。あはれ、思召立つ事もあれかし、天下、誰人(たれひと)か帝命に隨はざらんと思ひ奉る者もあり。京都鎌倉、何となく、政道萬端、且吾(そご)する事、少からず。

[やぶちゃん注:「同年八月三日」前章で年が明記されるのは後醍醐天皇の即位であるから、文保二年(二月二十六日(一三一八年三月二十九日))であるから、「同年」は誤りで、元応元(一三一九)年で、しかも日付も「八月三日」ではなく、八月七日の誤りである。

「西園寺太政大臣實兼(さねかぬ)公の御娘」西園寺禧子(きし 嘉元元(一三〇三)年~元弘三(一三三三)年)。父西園寺実兼(建長元(一二四九)年~元亨二(一三二二)年)は関東申次として持明院統と大覚寺統との間の皇位継承問題に関与。内大臣・太政大臣を経て、再び、関東申次となって、幕府の両統迭立の提議にも関わった。従一位。京極派の歌人で琵琶の名手としても知られた。ここで述べている通り、西園寺家は代々、強力な親幕派であった。

「承久の役」一二二一年。九十八年前。

「安野(あのゝ)中將藤原公廉(きんかど)の娘廉子(かどこ)」「安野」は誤りで「阿野」が正しい。阿野廉子(あのれんし/やすこ/かどこ 正安三(一三〇一)年~正平一四/延文四(一三五九)年)は後醍醐天皇の寵妃で、後村上天皇(義良親王)・恒良親王・成良親王・祥子内親王・惟子内親王などの母。院号宣下を受けて、新待賢門院と号し、また三位局とも呼ばれた。ウィキの「阿野廉子によれば、『実家の阿野家は藤原北家閑院流の公家であり、阿野全成の外孫・実直を始祖としている』。この時、『西園寺禧子が後醍醐天皇の中宮に冊立された際』、十九『歳で上臈として入侍したが、間もなく禧子を押しのけて』、『後醍醐の寵愛を一身に集めるようになった』。後の元弘二/元徳四(一三三二)年には、前年の元弘の乱のために隠岐島に配流となった後醍醐に随行している。『建武の新政下においては』、『皇后並みの待遇を受け』、建武二(一三三五)年四月、『准三后の栄誉に与った。内政にも影響力が及んだと考えられ、恒良親王の立太子や、足利尊氏と結託して後醍醐天皇と対立した護良親王の失脚・殺害にも関与したとされる』。『新政瓦解後は吉野遷幸にも同行して後醍醐天皇を助け、その亡き後は後村上天皇の生母として南朝の皇太后とな』った。

「陵廢」この「陵」は「軽んじる」で、「いい加減に扱われ、採り上げられることなく、果ては天皇の政(まつりごと)=意向が事実上、完全に廃されてしまうこと、を意味している。

「時節を待ちて、變を伺ふ」主語は後醍醐天皇。「變」は、倒幕に繋がるような、或はダイレクトにそれに向けた反乱である。

「君德、是、天理に契(かな)はば、神明(しんめい)、何ぞ捨て給はん。内に政理を修め、外に恩澤を布(ほどこ)し給ふには如(しか)じ、と諫言を奉る老臣もあり」「君德、是、天理に契(かな)はば、神明(しんめい)、何ぞ捨て給はん。内に政理を修め、外に恩澤を布(ほどこ)し給ふには如(しか)じ」が、倒幕を考えていることが見え見えの後醍醐天皇へに対し、「老臣」がそれを思い留まらせようとして暗に言った「諫言」。

「あはれ、思召立つ事もあれかし、天下、誰人(たれひと)か帝命に隨はざらんと思ひ奉る者もあり」そうした目先の安寧を願う老臣とは反対に、「ああっ! 倒幕を御自ら声を挙げ遊ばされて欲しいものだ! そうしたら、この天下にその有り難い帝の御命令に従い申し上げぬなどと思う不敬な輩(やから)がいるものか!」と思う者もいた。]

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