子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十九年 一題十句、十句集 / 明治二十九年~了
一題十句、十句集
二十八年の居士が一年の三分の二を東京以外の地に送ったに反し、二十九年の居士は全く東京を離れることが出来なかった。「寒山落木」巻頭の自記に「五月雨ノ頃板橋、赤羽ニ遊ビ、一宿シテ歸ル」「中山寺(なかやまでら)ニ詣リ船橋ニ一宿シテ歸ル」とあるのが、僅に一歩東京を離れた記録に過ぎない。夏になって知友が相次いで各地に遊ぶに当り、居士はあるいは句を以てこれを送り、あるいは曾遊(そうゆう)[やぶちゃん注:以前に訪れたことのあること。]を追懐し、あるいは空想を馳せたりして、得たところの句を「松蘿玉液」に掲げた。殊に碧梧桐氏が榛名に遊ぶと聞いては、十九年夏の記憶を喚び起し、「胸中一種の感慨に打たれて鳴咽に堪へざらんと」した。「草むらや露あたゝかに溫泉(ゆ)の流れ」「高樓やわれを取り卷く秋の山」「山駕(やまかご)や榛名上れば草の花」などの句は、十九年に成らずしてこの時に成ったのである。
一題十句ということがはじまったのは、この夏の初からであった。この年居士は蕪村の『新花摘(しんはなつみ)』を読んで、同じ題の句が同じ日のところに七、八句も記されている、一句を得ても珍重するに足ると思われるものを、蕪村が無造作に七、八句も作っているということにひどく驚歎した。これに刺激されて先ず牡丹十句を作り、「松蘿玉液」に掲げたのを手はじめに、居士も周囲の人も頻に試みるようになった。一題十句は後々まで一種の風をなすに至ったが、その起りは居士が『新花摘』を読んで著手(ちゃくしゅ)したことにあるのである。
[やぶちゃん注:「新花摘」与謝蕪村(享保元(一七一六)年~天明三(一七八三)年)の俳書。月渓画・跋。没後十四年後の寛政九(一七九七)年刊。原型は安永六(一七七七)年の夏に其角の「花摘」に倣って、恐らくは亡き母の追善のため、一日十句を創る夏行(げぎょう)を思い立ち、十六日間百二十八句まで実行したが、後は所労のために七句を追加しただけで中絶したもので、その後、これに京都定住以前の回想談、則ち、其角の「五元集」に関する談話や骨董論、及び、五つの狐狸怪奇談、其角の手紙の話等を加えて一応の完成を見た。蕪村没後の翌天明四年に、冊子であった自筆草稿を巻子本にする際、月渓の挿絵と跋文が加えられ、その十三年後に原本が模刻出版された。発句と俳文とが調和した蕪村の傑作である(ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。これは私の愛読書でもある。]
居士の身辺にはこの夏以来、毎月十人内外の俳句会が催されつつあった。一題十句もこの人々によって試みられたのであるが、在京俳人を中心に回覧の十句集なるものがはじまったのも、この一題十句に関連しているように思う。一題十句は一箇の季題によって十旬を作り、十句集の方は寺とか、女とか、飯とかいう題材によって十句を作るので、いささかその方法を異にするけれども、それは殊更に方法を変えたものとも見られる。二十九年における十句集は、子規庵毎月の小集と相俟って、他日の素地を成すべき重要な意義を有するものであった。
この秋、紅緑氏は『河北新報』に入るため仙台に去り、露月氏は医者の前期試験に通過して郷里に帰った。紅緑氏の時には送別のためにうつした十二人の写真が通っており、露月氏の時には目黒不動境内の福嶋屋という茶亭(さてい)で送別句会が催された。「寒山落木」の巻首に「秋、諸友ニ伴フテ目黑ニ遊ビ栗飯ヲ喰ヒテ歸ル。快甚(はなはだよろし)」と特記してあるところを見ると、この目黒行は二十九年における愉快な事柄だったのであろう。「花芒(はなすすき)品川の人家隱見す」「芒わけて甘藷先生の墓を得たり」などという句はこの時の所見であった。
[やぶちゃん注:「甘藷先生」江戸中期の幕臣・御家人・書物奉行で蘭学者であった青木昆陽(元禄一一(一六九八)年~明和六(一七六九)年)。サツマイモの普及を図ったことから、かく呼ばれる。彼の墓は東京都目黒区下目黒の瀧泉寺(通称「目黒不動尊」)の飛地境内である目黒不動墓地内にある。珍しく私も大学時分に参ったことがある。私は中目黒に下宿していた。]
紅録、露月両氏の東京を去る一方には、阪本四方太(しほうだ)、大谷繞石(おおたにじょうせき)というような人たちが、仙台の高等学校を出て、帝国大学に入るべく上京して来た。居士の身辺は必ずしも寂寞(せきばく)ではなかった。
[やぶちゃん注:「阪本四方太」(明治六(一八七三)年~大正六(一九一七)年)は鳥取県出身の俳人。本名は「よもた」と読む。東京帝大助手を経、助教授兼司書官ともなった。正岡子規の門人となり、『ホトトギス』で活躍した。
「大谷繞石」(明治八(一八七五)年~昭和八(一九三三)年)は俳人で教育者。京都の三高在学中に同窓の河東碧梧桐・高浜虚子とともに句作を志し、東京帝大在学中に正岡子規に師事した。金沢の四高教授を経、大正一三(一九二四)年に広島高等学校校長となった。この間、『ホトトギス』『日本』などに作品を発表した。]
十月末から四回にわたって居士は「獺祭書屋俳話正誤」を『日本』に掲げた。前年説いたところの不備を補い、誤謬を正したので、最も多くの言を資したのは嵐雪に関する条と、古人調(こじんちょう)に関する条とである。居士は宗因調以下伊丹(いたみ)調に至る古人の調に擬したものは、悉く削らなければならぬといっている。「余が宗因以下諸俳家の風調を模擬せし當時に在ては、善く其人の風調を究めず、且つ自己の作句は稺氣(ちき)[やぶちゃん注:幼稚さ。若気(わかげ)の至り。]ありて眞の趣味なる者を解せず。既に其人の句を究めず、自己は趣味を解せず、是れ余が大膽にも何調々々と題して容易に數十句を得たる所以なり。今にして稍〻古人の面目を辨別し、自己の技倆の幼稚なるを悟るに及んでは、一句の古人に近き者を求むるも得べからず。況んや幾多の古名家を取り來り、十二句の俳句を以て其人の句調、好尚を現さんとするをや。この何調々々なる者は盡く句を成さず。余は此事を披(ひら)いて此處に到る每に必ず卷を覆ふ、其眼に觸るゝを厭ふなり」というのである。この事は『獺祭書屋俳話』の増補を試みた二十七年中には、まだそれほどに感じなかったものであろう。その後における居士の進境は、眼に触るることをすら厭い、悉く削らんと欲するに至ったのであった。
[やぶちゃん注:「伊丹(いたみ)調」元禄(一六八八年~一七〇四年)頃の俳諧の一派と、その俳風。伊丹の池田宗旦を祖とする。談林派の流れを汲み、口語・俗語を駆使し、新奇な着想による表現が特色で、上島鬼貫(うえじまおにつら)を中心に森本蟻道・上島才人・鹿島後村・森本百丸らが集まったが、鬼貫の没後、衰えた。]
「松蘿玉液」は十二月三十日に至って終った。翌日「松蘿玉液を祭る」の一文を掲げ、「詩百篇君去つて歳(とし)行かんとす」の右を以てこれを結んだ。十二月以降の「松蘿玉液」は、京都に関する追憶、愚庵十二勝の俳句、菓物の事、病中の事、柚味噌(ゆみそ)の事、開花楼に平家琵琶を聞く事など、悉く居士に親しい材料を以て充された観がある。「碧梧桐の吾をいたはる湯婆(たんぽかな」「小夜時雨(さよしぐれ)上野を虛子の來つゝあらん」などの句は病中の吟であり、「去年と言ひこたびと言ひ二子の恩を受くること多し。わが命二子の手に繫(かか)りて存するものゝ如し。わが病める時二子傍に在れば苦も苦しからず、死も亦賴むところあり」とも記されている。「行く年を母すこやかに吾(われ)病めり」というのは二十九年末における感懐の一であるが、病状は十二月に入ってややおこたり[やぶちゃん注:「怠り」。「快方に向かい」の意。]、十二月三十日には仮に病褥(びょうじゅく)を出るに至ったのである。
[やぶちゃん注:「愚庵十二勝」とは、天田愚庵(既出既注)がこの年、京都清水坂の自身の庵の庭に与えた名数「帰雲巌」「霊石洞」「梅花谿」「紅杏林」「清風関」「碧梧井」「棗子逕」「采菊籬」「錦楓崖」「嘯月壇」「爛柯石」「古松塢」の十二景のこと。愚庵はこの十二勝の漢詩(二年後には和歌を追加)を作って新聞『日本』に掲載し、天下に唱和を求めた。]