御伽百物語卷之一 宮津の妖
宮津の妖
[やぶちゃん注:挿絵は「叢書江戸文庫二 百物語怪談集成」のものを用いた。
なお、本話は実は既に私の『柴田宵曲 續妖異博物館 「猿の妖」』の注で電子化しているが、今回のものは底本が異なり、注も一から改めて附した。なお、ネタバレとなるが、リンク先をお読み戴くと判るが、本話は、元末の一三六六年に書かれた陶宗儀の随筆「輟耕録」の巻六に載る「鬼臓」の翻案である。その辺はこちらを読まれてより、そちらを読まれるが、よろしかろうとは思う。]
丹後の國、宮津といふ所に、須磨屋忠介といひけるは、常に絹をあきなふの家にて、精好(せいかう)の機(はた)をたて並べ、糸繰りの女、肩をつきしろひ、日夜に家業おこたらず、富貴(ふうき)も年々にまさり、眷屬、あまた引きしたがへける中に、其ころ、年久しくつとめて、中老の數に入りたりける、「源(げん)」[やぶちゃん注:女性名。]といひし糸繰(いとくり)は、成相(なりあひ)のわき在所、伊禰(いね)といふ村のものにてありしが、稚(おさな)き程に父にはなれ、母ひとりの介抱にて、三つ四つまでそだちける比(ころ)、此邊は、みな、網をひき、魚とりて、身すぎとする所なりければ、常に彼(かの)母、この源を抱(いだ)きおひて、濱に出で、鰯を干し、鯖を漬けなどして每日を過しけるが、其比(そのころ)しも、いづくともなく、順禮の僧と見えて、年五十四、五ばかりなるが、此さとに來たりて、家々に物を乞(こひ)、袖をひろげて身命(しんめい)をつなぎ、夜(よ)は此後家が方へたよりて、一夜(よ)をあかしけり。されども、内に入りてしたしく寐る事はなく、只、おもての庭にむしろを敷(しき)、門(かど)の敷居を枕として寢たりければ、日暮れては、さらに内より出づる事も、かなはず、まして外(そと)より來たる人は、此寐たる僧にはゞかりて、得(え)入らず。その上、此坊主、ちかごろの朝寐(あさね)し也(なり)[やぶちゃん注:「し」は強意の副助詞。「近頃は朝寝して夜が明けてもなかなか起きさえしない」の意。]。然れども、此孀(やもめ)、すこしもいとふ氣色なく、心よく、もてなしけるに、ある時、此僧、かたりていはく、
「誠に此とし比(ごろ)、爰(こゝ)に起き臥しをゆるし、心よくもてなし給ふ御芳志のほど、忘れがたく、『何をがな』[やぶちゃん注:「何が適当なものがあればよいのだがなぁ」。]と思へど、世をいとひし身なれば、今さら、報ずべき此世の覺えも、しらず。さりながら、此家(いゑ)のやうを見るに、度々、妖怪の事ありと思ふなり。」
といへば、あるじの女のいうやう、
「さればとよ、此家のみにあらず。惣じて此伊禰(いね)の村は、海にさし出でたる嶋さきなれば、むかふの沖に見えたる中の嶋より、あやしきもの、折々、渡り來て、里人をたぶらかし惱(なやま)す也。されば、我が妻(つま)[やぶちゃん注:「夫(つま)」。]の夭(わかじに)したまひしも、此物怪(もつけ)の故なり。」
とかたれば、僧のいふやう、
「さればこそ。其あやしみの兆(きざし)を見とめたるゆへぞかし。日ごろの御おんには、せめて、其難を救ひてまいらすべし。今は吾も故郷のなつかしうなりたれば、近き内におもひたちて、遙(はるか)なる旅に、をもむく也。いでや、先づ、こよひの内に、此家の難をしりぞけて參らせんずるぞ。」
と、火をあらだち[やぶちゃん注:ことさらに掻き立てて燃え上がらせ。火に拠る潔斎。]、水をあびなどして、何やらん、呪(まじなひ)の御札(おふだ)をしたゝめ、圍爐裏(いろり)にむかひて、彼(かの)札どもを燒(やき)あげたれば、しばらくありて、雨風の音はげしく、
『あつ松のかたより、ふり來たるよ。』
と見えしが、伊禰の山も、くづるゝばかり、大きなる神なり、いなづまのひかり、ひまなく、時ならぬ大(おほ)ゆだち[やぶちゃん注:激しい夕立。]して、中の嶋にわたると見えしが、あるじの女は、氣も、たましゐも、身にそはで、ちゞまり居たる内(うち)、やうやう、雲、はれ、星のひかり、さはやかになりける比(ころ)、かの僧のいひけるは、
「今は心やすかれ。長く、此家にあやしき物、來たるまじ。去(さり)ながら、口惜しき事は、今ひとつの惡鬼(あつき)を取りのこしたり。今より廿年を經て、此家に難あるべし。その折ふし、我がせしやうに、是れを火にくべ給へ。是れをさへ燒き給はゞ、永く、妖怪の根(ね)をたちて、子孫も繁昌すべきぞ。」
と、鉄(くろがね)の板に朱にて書きたる札を取りいだして、あるじにとらせ、僧はなくなく、その家を立ち出でしが、終(つゐ)に、いづくにか去(いに)けん、二たび、歸らずなりぬ。
[やぶちゃん注:「丹後の國、宮津」「天の橋立」で知られる現在の京都府宮津市。
「須磨屋忠介」不詳。
「精好(せいかう)」当初、精巧な優れた機織(はたお)り機(き)の意と読み流していたが、これは「精好織(せいごうおり)」のことではないかと思い当たった。中世以降、公家や武家で好んで用いられた絹織物の一種で、縦糸に練り糸又は生糸を密にかけて、横糸には太い生糸を織り入れて固く緻密に織った平絹のことを言う。現在も神主の祭服や袴地(はかまじ)に使われる。ここはその「精好織りの機織り機」の意という意味で採っておく。
「肩をつきしろひ」互いに肩を突(つつ)き合う。励ます意、或いは居眠りを注意することであろう。
「伊禰(いね)」現在の京都府与謝郡伊根町。ここ(グーグル・マップ・データ)。宮津の北方、丹後半島の東端に当たる。
「中の嶋」伊根は現在、重要伝統的建造物群保存地区に選定されている「伊根の舟屋」で知られるが、その伊根の湾の入り口「中」央には「青島」という島があり(西南直近にもう一つの小さな島がある)現在は橋で、その東方には亀山地区の岬が突き出ている。これがここのロケーション(そのモデル)ではあるまいか? 同地区の航空写真(グーグル・マップ・データ)を見られたい。
「あつ松」不詳。「あつちの松」で「向うの松」の謂いか? 或いは、感動詞「あつ」(!)か。又は「壓(圧)松」で打ち圧(お)されて臥せるかのように生えている松の意かも知れない。
「伊禰の山」現行、伊根山という固有の山名はない。「伊禰」をとり巻く山々と採っておく。]
これより久しうして、彼(かの)女のそだてつる娘が、やうやう、人となり、はや廿三、四になりけるが、田舍にはおしきまで[やぶちゃん注:「惜しきまで」。もったいないほどに。]、心ばへ、やさしく、容顏(ようがん)、いつくしく[やぶちゃん注:「嚴しく」であるが、この場合は「端正で美しい」の意。]、他(た)に勝(すぐ)れるそだちゆへ、其ころの人のもてはやしにて、高き賤しきとなく、誰(たれ)も心をかけ、戀ひわたりけれども、此母の親、心おごりして、尋常(よのつね)の人にあはせんとも思はず、かしづきわたりけるに、此ころ、都より、大内(おほうち)方の何がしとかやいふ、なま上達部(かんたちめ)の雜餉(ざつしやう)なりける男(おのこ)、年五十ばかりなるが、城崎(きのさき)の湯に入りける歸り、
「此丹後に聞えたる切戸(きれと)・成相(なりあひ)の寺々をもおがまばや。」
とて、打ち越え、かなたこなたと珍しき所々見めぐり、江尻より舟に乘りて、枯木(からき)・ねぬなわの浦・水江(みづのえ)のさとなどを心がけてこぎ出でけるが、此いねの磯を通るとて、彼のむすめのありけるをかいまみしより、しづ心なく思ひみだれし躰(てい)にて、暮れかゝるより、此磯に舟をかけさせ、船人にとひ聞き、浦の海士(あま)にたづねて、此やもめの家に幕(まく)うたせ、物の具とりはらはせなどして、宿をかりつゝ、夜ひとよ、哥(うた)をうたひ、舞をかなでゝ、酒をのみ、宿のあるじといふ女をも、ひたすらによび出〔いだ〕し、見にくき姿をもいとはず、そゞろに酒をしゐのませ[やぶちゃん注:「強い吞ませ」。]、扨、かのみそめつる娘の事を尋ねしに、此母、なを、心を高くもちて思ひけるは、
『都の人とこそいへ、大(おほ)やけのまた者(もの)[やぶちゃん注:将軍・大名などに直属していない家来。又家来。陪臣。]なんどに我が娘をあはせては、かねがね、戀(こひ)わたりつる此あたりの人の心ばへも恥(はづ)かし。とても、都へとならば、いかなる卿相(けいしやう)の妾(めかけ)ともとこそ祈りつれ。』
とおもへば、なかなか、よそ事(ごと)に聞きて返事もせず。
[やぶちゃん注:「大内(おほうち)方」南北朝から戦国時代に中国地方に勢力を揮った大内氏であろう。百済聖明(くだらせいめい)王の子孫と称し、聖徳太子より多々良の姓を与えられたと伝える豪族で弘世(ひろよ)の時に足利氏に従って戦功を立て、山口を本拠として勢力を拡大した。その子義弘は長門・石見・周防・豊前・和泉・紀伊六ヶ国の守護となった(後に山名時清らと応永の乱を起して敗死)、政弘も周防・長門・豊前・筑前の守護として勢力を有し,→応仁の乱では西軍の主力として戦った。その子義興は永正五(一五〇八)年に足利義稙を将軍に復帰させて、自らは管領代となった。その子義隆は七ヶ国の守護として勢力を揮い、公家を保護した。また、対明貿易を行い、キリスト教布教も認めるなど、地方文化の発展に寄与したが、家臣陶(すえ)晴賢に襲われて自殺、ここに大内氏は滅亡した。この名が出るということは、本話は時代がかなり溯る話柄ということになる。
「なま上達部(かんたちめ)」「上達部」は公卿の同じ。摂政・関白・太政大臣・左大臣・右大臣・大納言・中納言・参議及び無官でも三位以上の人を含む総称。参議は四位であるが、これに準ぜられた。但し、ここは「なま(生)」と被せてあるから「年若(としわか)の未熟な」上達部となり、この好色爺の主人は参議に成り立てほやほやの人物ということになる。
「雜餉(ざつしやう)」貴族・武家に仕え、雑務に携わった者。ここは正直、「雜掌」の方が良い。この表記は厳密には「人をもてなすための酒食物及び引出物・贈り物」を指す語であるからである。
「城崎(きのさき)の湯」現在の兵庫県豊岡市城崎町(旧国但馬国)にある城崎温泉。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「切戸(きれと)」「天の橋立」の南端の東に接してある、現在の京都府宮津市文珠字切戸にある臨済宗天橋山(てんきょうざん:または「五台山」とも)智恩寺。古くから文殊信仰(本尊は文殊菩薩像で秘仏)の霊場として知られ、謡曲「九世戸(くせのと)」の題材となっている。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「成相(なりあひ)」丹後半島南東部の天橋立の北側にある真言宗成相山成相寺(なりあいじ:住所も京都府宮津市成相寺)。境内から「天の橋立」が一望される景勝地である。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「江尻」京都府宮津市江尻。「天の橋立」の北端地区。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「枯木(からき)」次でも引くKiichi Saito氏のサイト「丹後の地名」のこちらのページの「宮津市の枯木浦」(同ページの資料は厖大なので、検索を掛けられたい)の項に、元禄二(一六八九)年に貝原益軒が来遊して著した「天橋記」の挿入図の一部が掲げられてあるが、そこに「枯木浦」とある。以下、「丹後名所詞花集」(嘉永四(一八五一)刊)に、
枝もなき枯木の浦に風吹けは浪の花こそ散り亂るらん 玄旨法印
冬見れば梢にくもる夜半もなし枯木の浦にさゆる月かげ 顯朝朝臣
が引かれている。次に、この枯木(からき)という地名は、「天の橋立」の西方の内海である『阿蘇海の一番の奥』で、『野田川(倉椅川』(くらはしがわ)『)の河口部、古代与謝の心臓部にあたる場所で、現在の宮津市須津(すづ)のあたりを呼ぶ』とあって、『須津には現在も枯木、枯木鼻とか枯木一丁目などの小字がある。倉椅川をさかのぼると加悦町がある。この名は加耶国のカヤとも言われる、それなら』、『あるいは枯木は加羅(加耶)来であろうか。江戸期の文献からは枯木浦は現在の阿蘇海の一番の奥一帯を指すようである。しかし古来は阿蘇海の全体をそう指したのかもわからない』とある。則ち、この中心部から阿蘇海全体(国土地理院地図)を指すことになる。危ないところだった。私はこの爺が江尻で舟に乗り、「ねぬなわの浦」を経て、伊根へ向かったとするなら、この「枯木」という地名は当然、その間にあるものと理解していたからである。この地名は地名としては必ずしも順列になっていないのである。観光目的なら、物理的にどうしても順にならねばならないわけではないのであった。というより、この爺は歌枕を巡ったのであった。
「ねぬなわの浦」「ねぬなわ」は多年生の淡水産水生植物での、スイレン目ハゴロモモ科ジュンサイ(蓴菜)属ジュンサイ Brasenia schreberi を指す(一属一種)。京都府与謝郡伊根町日出(ひで)。Kiichi Saito氏のサイト「丹後の地名」の「日出」のページに、「丹哥府志」に日出村の別名を「根蓴の浦」(ぬなわのうら)とし、『宮津府志に根蓴の浦は末考の部に出せり。丹後旧事記及名寄に根蓴の浦は日出村なりとあり、又根蓴の浦に』大澤『の池を詠じ合せたるは』當地『にあらずといふ』と載るとあって、そこに、「名寄」(恐らくは「歌枕名寄(うたまくらなよせ)」のこと。中世の歌学書で全国を五畿七道六十八ヶ国に区分し、当該国の歌枕を掲げ、その歌枕を詠みこんだ和歌を「万葉集」・勅撰集・私家集・私撰集から広く引き出して列挙したもの。成立年代は「新後撰和歌集」成立(一三〇三年)の前後。編者は「乞食活計之客澄月」という署名はあるのの、事蹟は全く分らない。中世には歌枕とその証歌を類聚して作歌の便を図った所謂、歌枕撰書が幾つか編纂されているが、本書はその中でも最大(全三十八巻・六千余首)のもの。ここは平凡社「世界大百科事典」に拠った)から無名氏の一首を引いて、
くる人もなきねぬなわの浦なれば心とけすば見ゆるなるべし
とし、次に「後拾遺和歌集」から、
ねぬなわのくるしきほどの絶間かとたゆるも知らで思ひける哉 少將内侍
忘るるも苦しくもあらすずねぬなわのねたくもと思ふことしなければ 伊賀少將
の二首を掲げているのが判る。和歌はリンク先の記載には不審がある(引用原本の誤りかも知れぬ)ので、独自に表記を確認した。伊根の西直近のここ(グーグル・マップ・データ)である。
「水江(みづのえ)のさと」伊根は現在、与謝(よさ)郡に含まれるが、「日本書紀」の「卷第十四」の「雄略天皇紀」の、かの浦島伝説を伝える条々は、
*
丹波國餘社郡管川人、瑞江浦嶋子、乘舟而釣、遂得大龜、便化爲女。於是、浦嶋子感以爲婦、相逐入海、到蓬萊山、歷覩仙衆。語在別卷。
(丹波國(たにはのくに)餘社郡(よさのこほり)管川(つつかは)の人、瑞江(みづのえ)の浦嶋の子、舟に乘りて釣し、遂に大龜を得るに、便(たちま)ち化して女と爲(な)る。是に於いて、浦嶋の子、感(たけ)りて以つて婦(め)と爲し、相ひ逐(したが)ひて海に入り、蓬萊山に到り、仙衆を歷(めぐ)り覩(み)る。語(こと)は別卷に在り。)
*
とあるように、この附近を古くは「水の江」の里と呼んでいたことが判る。]
彼(かの)都人、いよいよ、こひ佗(わび)て、ひたすらに母が機嫌をとりつゝ、けふ[やぶちゃん注:その母から。]聞きおきし、何かの事を、ひとつ、我(われ)しりがほにいふ内、
「いつぞや、旅の僧のくれたりと聞く守り札は、今にありや。何(なに)やうのものぞ。見せよ。」
と望めば、彼の母、つねに此(この)まもりを大事とおもふ心より、似せ札をこしらへて持ちたりけるを、さし出だす。
都人、それを取りけるより、いよいよ手(て)づよく、
「彼のむすめを我にくれよ。」
と、乞ふ事、しきりなりしかども、母、また、なをなを、口こはくいひて、うけあはざりしかば、今は、都人(みやこびと)も大(おほき)に怒り、はら立〔だち〕、
「所詮、こよひの内に、下部(しもべ)ばら、殘る隈なく家(や)さがしして、理不盡に、娘を奪ひとれ。都へ、とく具してゆくべし。」
と訇(のゝし)るほどに、母の親、いまはせんかたなく、非道の難にあふ事を歎きしが、ふと、おもひあはせけるまゝに、肌の守(まも)りより、例の札を取りいだし、茶がまの下の火に、さしつけて燒(やき)けるが、ふしぎや、俄(にはか)に、大かみなり・大雨、しきりにして、いなづまのかげより、
「はた。」
と落ちかゝる。かみなり、あやまたず、『此家(いゑ)のむかひなる磯に落ちしよ』と見えしが、雨、はれ、夜あけて見れば、彼の都人と見えしは、いづれも、年へたる古き猿どもの、衣服したるにてぞ、ありける。
[やぶちゃん注:「訇(のゝし)るほどに」ここは少し、描写を簡略化し過ぎている。罵った後、好色爺、実は妖猿一党は家から出て、その脇に設えた仮旅所に一度、引き上げたのであろう。そこに雷が直撃し、妖魔の猿軍団は悉く雷撃死したのである。
「いなづまのかげより」「かげ」は「影」で「光り」の意。ここは光っただけでなく、光ると同時に落雷したことを、この「より」が効果的に示しているのである。]
さて、彼(かの)家にて、とりちらしたる道具ども、大かた、此世の物にあらず。みな、金銀のたぐひなりしかば、悉く官家(くわんか)に申して、是れを成相(なりあひ)の寶藏(ほうざう)におさめけるとぞ。
[やぶちゃん注:既出既注の成相寺。]
御伽百物語卷之一終
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