御伽百物語卷之一 貉のたゝり
貉(むじな)のたゝり
[やぶちゃん注:挿絵は「叢書江戸文庫二 百物語怪談集成」のものを用いた。しかし、この絵、女人に変じた妖獣が二疋描かれているが、本文のカタストロフ・シーンには二疋目はいない。絵師が画面上の迫力を欠くと思ったものか、或いは、逃げて行く妖獣の見えない霊体(実際、本文では実は死んでいない)の同一図内描写かも知れない(それは普通に行われた描き方ではある)。]
豐後の國日田(ひた)といふ所に、智圓(ちゑん)といひける僧は、はなはだ禁呪(きんじゆ)の術にたけたる人にて、およそ病人を加持し妖魅(つきもの)を攘(はら)ふに時をうつさず、目の前に、皆、そのしるしを見せしかば、近郷のものども、我(われ)一〔いち〕と足を運び、金銀をなげうち、晝夜、門前に市をなして和尚の慈悲を乞ふ事、片時(へんじ)も絶ゆる事なかりければ、あるひは衣服米穀の類ひ、又は持經本尊の修理など、おもひおもひの寄進をなしける中(なか)に、其あたり近く住みける春田伴介(はるたはんすけ)とかやいひし者は、家も富貴(ふうき)しける餘り、此僧の恩を請(しよう)し、報謝とて、いさゝかなる庵(あん)を造立(ざうりう)し、打飯料(だはんりやう)とて、少しばかりの田地などをも寄せければ、智圓も、いよいよ、德、あらはれ、弟子の新發意(しんぼち)と承仕(せうし)の法師と、三人、豐かに暮し、十とせあまりも過ごしたりけるに、ある日、行ひの暇(いとま)に智圓は門に出でて、嘯(うそぶ)き居たりけるに、年の程廿〔はたち〕あまりと見へて、容顏美麗にして、いかさま、故ありげなる女の、供人(ともびと)少々めしつれ、此庵(いほり)に尋ね來たり、和尚に對面して云ふやう、
「みづからは、是れより七八里をへだてゝ住み侍る、稻野(いなの)の何がしと申す者の妻にて候ふ。夫の稻野は過ぎし年、病(やまひ)によりて失せ侍りき。忘れ形見(かたみ)の子は、いまだ、十にだに、たらず。女の身ながらも、『父が名跡(めうせき)を絶やさじ』と、家内を治め、田畠(でんはた)の事を苦勞し侍〔はべら〕ふ。外に猶、妻の母、ひとり、ことし七十に餘りて、いませり。行步(ぎやうふ)かなひがたく、齒さへ、ことごとくぬけて、朝夕の食事も心に任せねば、みづから此(この)おさなき者を育つるひまに、傍(かたがた)の乳(ちゝ)をさへ分けて參らせ、二とせあまりも介抱し、『別れつる夫の心ざしをもたすけばや』とおもふに、此ほどは、けしからぬ病に犯され給ひて、醫療も種々(さまざま)と手を盡くし候へども、曾て露ばかりも驗(しるし)なくうち臥し給ふに、あやしき妖怪(つきもの)とかいふ物さへ引きそひて、恐しき事どもをいひのゝしり、くるしくなやみ給へば、此ごろは乳味(にうみ)をだに、ふくみ給はず。みづからが身にかへても此の病を救ひたく、足下(そこ)の御加持(おかぢ)をも賴みまいらせたくて、遙々(はるばる)尋ねまいりし也。かく申すも憚(はばかり)ながら、何とぞ、明日未明より、わらはが許(もと)へ御こし有(あつ)て、暫く加持をもなし給はゞ、いかばかりの御慈悲ともなり侍らめ。」
とて、さめぐと泣きけるに、和尚のいはく、
「尤(もつとも)きく所、哀れに、いとおしき身にあまりて覺ゆるぞや。さりながら、我、もとより齡(よはひ)かたぶき、質(かたち)、頽堕(くづおれ[やぶちゃん注:ママ。])て行步(ぎやうふ)も心に任せがたければ、行きて加持せん事、叶ふべからず。只、其病人を扶(たす)けてこゝに來たられよ。」
とありければ、女、また、申すやう、
「姑(しうとめ)の病、よのつねならず惱ましうし給ひて、然も日を經たれば、人に任せたる起き臥しさへ危く、けふか明日かと心を惑(まどは)すほどなり。哀れ、御慈悲に御出でありて、ひとたびは見させ給へかし。」
と、いひもあへず、さめざめと泣きふせば、智圓もあはれに覺えて、いと易くうけあひ、所のさまをも聞きおきて、女は歸しやりぬ。
[やぶちゃん注:「貉(むじな)」ここは狸の別称。しかし乍ら、挿絵はモロ、狐で、しかも、化けた女は「稻野」と名乗っている。これは稲荷のアナグラム(狐狸は孰れも野の穴には棲むが)であろう。人を莫迦にするのもほどがある! って……化かすのは狐狸の本性では、あるわなぁ……
「豐後の國日田(ひた)」現在の大分県北西部に位置する周囲を山に囲まれた盆地である日田(ひた)市。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「智圓(ちゑん)」不詳。
「禁呪(きんじゆ)」呪(まじな)い。
「妖魅(つきもの)」当て訓。「憑き物」。
「攘(はら)ふ」「攘」(音・ジヤウ(ジョウ))は「払う・払いのける・払い除く・除き取る」の意。
「春田伴介」不詳。
「打飯料(だはんりやう)」「たはんりやう」とも。僧の食事の素材・費用の意。
「新發意(しんぼち)」僧侶になったばかりの僧。
「承仕(せうし)の法師」承仕法師(じようじほふし(じょうじほうし))。堂内の仏具の管理などの用に従事する僧を指す。
「尤(もつとも)きく所、哀れに」この「尤」は副詞で、「なるほど・いかにも」の意。感動詞的用法である。]
其あけの日は、朝とくより庵を出でて、彦(ひこ)の山のふもと里(さと)と聞きしを便りに、遙々の道を尋ね行き給ふに、其(その)所(ところ)はありて、其(その)人、なし。稻野氏の名さへ知りたる者なければ、智圓も、力なく、日のたくるまゝに歸り給ひぬ。
[やぶちゃん注:「彦(ひこ)の山」福岡県田川郡添田町と大分県中津市山国町に跨る英彦山(ひこさん)。標高千百九十九メートル。山形の羽黒山及び奈良の熊野大峰山(おおみねさん)とともに日本三大修験山に数えられる修験道場のメッカとして曾ては知られた。]
引きつゞきて、また、其明けの日、彼の女、庵に來たりていふやう、
「昨日は一日(ひとひ)まち暮し侍りしに、御尋ねなかりしは、和尚の大悲にも外(はづ)れ侍(はべら)ふにや。」
と歎けども、智圓は散々に腹を立て、きのふ、細やかに尋ねつれ共(ども)、曾て知れざりし分野(ありさま)を語り、
「老いたる者を誑(あざむ)くか。」
と、なかなか、また立ち出づべき氣色なし。
[やぶちゃん注:「分野(ありさま)」当て訓であるが、普通に様子の意味でよい。但し、本来、「分野」とは、古代中国の占星術に於いて現実世界の全土を天の二十八宿に配当させ、それぞれの地を司る星宿を定めたものを指し、それによって吉凶を占った。これは中国の古代信仰に於いて死んだ祖霊は天に昇り、現世の人を守るという信仰に基づくもので、それが引いては、現在のような「人の置かれている状態・身分・境遇」といった意味に使用されるようになっただけである。]
女はうち欺きて、
「きのふ、足下(そこ)に[やぶちゃん注:ママ。]尋ねさせ給ひしは、吾が住む所より纔(わづ)か、六、七町[やぶちゃん注:約六百五十五~七百六十四メートル。]の程ぞかし。尤(もつとも)、御いきどほりはさもあるべけれど、人をたすくるは、菩薩の行(ぎやう)とかや。御心(おこゝろ)をなだめられ、今一度(ひとたび)、御尋ねあれかし。」
といへども、智圓、大きに聲をあらゝげ、
「我年老いて、心短かし。二度(ど)誓ひて、此庵を出でじ。」
と、あらゝかにいはれて、彼の女、かほの色、替り、居たけ高(だか)になりて、
「何條(なんでう)、和僧は慈悲を知り給はずや。今、其方の譽(ほまれ)、劣りなば、よも人にむかひて惡口(あくこう)したまはし。いで、和尚の德を貶(おと)し參らせん。」
と、立ちかゝり、智圓が肱(かいな)をとらへて、引き立て行かんとす。
[やぶちゃん注:「よも人にむかひて惡口したまはし。いで、和尚の德を貶し參らせん」(「いで、」は私が濁音化させ、読点を打ったもので底本は『いて』である)この部分、ゆまに書房刊「国文学資料文庫三十四 青木鷺水集 第四巻」及び国書刊行会刊「叢書江戸文庫二 百物語怪談集成」では、『よも人にむかひて悪口したまい』(後者はここに読点)『しいて和尚の徳を貶(おと)し参らせん』私は、孰れも正しいと感じず、原典を視認の上で以上のように翻刻した。大方の御叱正を俟つ。私の場合は、「余も人に向かひて惡口し給ひたし」で「そんなら、私だって人に向かって和尚さまの悪口を言いとうございます! 和尚の似非(えせ)の徳を落としてお見せしましょうぞ!!」という謂いであると読む。]
其さま、けしからねば、智圓も『只者(ただもの)ならぬ』と知りて。傍(そば)なる小刀を以て、女の乳のしたを二刀(かたな)、刺しけるに、女は、
「あつ。」
と、いひて仆(たふ)れぬ。
此折しも、智圓が弟子の小僧、ことし十四才になりけるが、周章(あはて)て飛びかゝり、引きのけんとせしが、いかゞしたりけん、是れも二刀、痕(きず)をかうぶりて、死したり。
智圓は是れに氣を取られ、急ぎ、承仕(せうし)の坊主と二人心をあはせ、居間の下を掘りて、彼(か)の死骸どもを埋(うづ)み、かくしぬ。
此新發意が親は近邊の百姓にて、庵を去る事、纔かに壹里ばかりなりけるが、その比(ころ)しも、其家、みな、野に出でて田を刈り居たる所へ、旅人と見えて、男二人、うちつれて通る時に、
「智圓の庵の新發意は不便(〔ふ〕びん)の事かな。魔の所爲とおもひながら殺されて非業の死をしたり。」
と云ひすてゝ行くを、彼(か)の母、きゝとがめて、いそぎ、人を走らせて聞くに、疑ひもなき我が身の上と聞きなすより、彼の父、驚き、取る物も取りあへず、智圓が庵(あん)にかけ來たり、先づ新發意をたづねしかば、智圓も承仕の僧も仰天の氣色(けしき)なりしが、今は爭ふに術(てだて)盡きて、ありのまゝを白狀しけれども、一度(ど)、此事を隱さんとせしも、惡(にく)しみの種(たね)なるに、まして、
「法師の身にて、人をあやめしは重罪遁(のが)れ難し。」
と、既に國司の沙汰を請(う)けんとしけるに、智圓も、あまり切なさに、
「今は、我がために三日の命を宥(なだ)めて待ち給へ。我身命(しんめい)を捨てて、此妖怪を祈り出だし、せめて、惡名を雪(すゝ)ぎて死なば、死せん。」
と、丹誠をこらし、祈りける程に、最前の女、あらはれて云ふやう、
「吾、誠は姥嶋(うばがしま)に住みて、千歳(ざい)を經たる貉(むじな)也。吾が子孫、ひろがりて數(す)百に及べり。是れら皆、神通(しんつう)を得て、人を惑はし、家を怪しめて、子孫のために食を求むる所に、此坊主に加持せられ、世をせばめらるゝが故に、吾、爰(こゝ)に來て此災(わざはひ)を、なせり。新發意も誠(まこと)は死せず、我、隱して姫嶋(ひめしま)に放ちをきたり。此後(このご)、堅く誓ひて禁咒(まじな)ふ事を止めば、新發意をも歸し、汝をも、たすくべし。」
といふにより、先づ、人を走(はせ)て尋ねしに、果たして姫嶋にあり。
智圓も、さまざまと誓ひ重ねて、咒(まじなひ)の道をやめしかば、二たび、此妖、絶たりしとぞ。
[やぶちゃん注:「姥嶋(うばがしま)」以下の「姫嶋(ひめしま)」とともに不詳であるが、山地の盆地にあっては、有意にその地域内にある丘陵などをかく呼ぶことは普通にあるから、これは日田の盆地内の地名と私は考える。しかし、見当たらぬのは残念というほかは、ない。]